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■ 【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】

1 名前::2002/10/27(日) 22:26

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年07月23日 (月) 20時45分39秒 

リョウ統というのはアレです、字が公績でリョウ操の息子さん。OK?
で、ふと彼についての疑問が湧きました。

彼の年齢については、享年49歳ということがはっきりしているだけです。
ただ、父のリョウ操が江夏攻めで戦死したときに15歳だったと。
これはポイントでは?と呉主伝を見ると、孫権の江夏(黄祖)攻めは202年、207年、208年の3回です。
ただし、リョウ操戦死の回は「孫権が呉軍の総指揮にあたるようになって」とのことですので、一回目の202年と考えて良いでしょう。
すると、202年に(数え)15歳だとすると生年は188年。ちなみに三國志8では189年ですので、ほぼこれを踏襲しているのでしょう。

しかし。駱統伝にふと見かけた怪しげな記述。「(駱統は)リョウ統の死後、その配下の兵の指揮を任された」とあります。
駱統は珍しく生没年がはっきりしており、228年に36歳で死去しています。
さらに言えば、上の記述は駱統が陸遜に従って劉備を破った(夷陵の戦い)という記述より先に登場します。リョウ統の死は意外に早い?
リョウ統伝ほかを読み返してみると、彼について年代のはっきりしている記述は、215年の合肥戦が最後です。その後は地方に出て山越を討伐し、離任する直前に病死したとなっています。
ヘタすると、彼は建安年間中に死去したのでは?

2 名前::2002/10/27(日) 22:27


玉川雄一[関東] > (2001/07/23(Mon) 20:47:22)

上の続きです。

生年を引き上げる(ムリがあるか?)とするならば、彼が若き日の留賛(183-255)に素質を見いだし、推挙したという話があります。
若き日の留賛は「黄巾の賊」の呉桓を斬った際に足に怪我をしましたが、その時の荒療治の様子を伝え聞いたリョウ統が彼と面談して高く評価したとのこと。

読めば読むほど謎が増えるばかり。史料のどこかに何らかの誤りがあるのでしょうが…
さて、ゴッキーの皆さんのご意見やいかに?

3 名前::2002/10/27(日) 22:27

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/24(Tue) 00:03:17)

おおお!? 凌(あて字)統ですか!?
なるほど…?ええと、これは…明らかにパラドックスが発生してます。
つまり

凌操 …━━━━━━
凌統   ━━━━━━━━━━━━━━━
駱統      ━━━━━━━━━━ 
留賛  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……

となっているのですが、
まず凌統より先に死んだはず(第一次北伐あたり)の駱統が、「凌統の死後(孔明の死後五年くらい)」にその兵を受け継いでいる。
しかもそれは夷陵の戦いの前である。
ついでに若かりし頃留賛が、5ツ6ツ「年下」の凌統に武の資質を見出されている。

う〜ん? ……考えるほど頭が…。あ、なんかこういうパズルありますよねえ、「この四人の中で誰かが嘘を付いてます」というパズル。
凌操と凌統を間違えている、にしては年がズレすぎですし…。

もし玉川様のご指摘通りに建安年間に死亡したとして、「享年49」を信じると、父・凌操が戦死したとき三〇代!生年は一七〇年前後で、孫策より五ツ上!
逆に生年(父の死の時十五)を信じると、享年30前後!

うう〜ん、ゴッキー(?)の間では解決されている問題なのでしょうか!?

4 名前::2002/10/27(日) 22:27

松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:31:07)

ええと、こちらのほうは『三国志集解』から。
陳景雲という人が、やはり駱統伝などに注目してこの記事をおかしいとし、四十七歳の四は二の誤りだとしています。ちなみにこの陳景雲さんは凌操の死を第二次江夏征伐の203年としているので、没年は217年、魯粛と同年没です。やはり215年を境に彼の記録がぷっつり切れてるのは、217年前後に死んだということなんでしょうね。

5 名前::2002/10/27(日) 22:28

玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 09:43:05)

こちらも! 47歳と27歳ったら、えらい違いではありますが…
なるほど、正史を頼りにしすぎるのは禁物だということがよくわかりました。
しかし、このように矛盾点があれば疑いようもありますが、自然な形で載っていられると気付かずにいてしまうこともあるのでしょうね。

6 名前::2002/10/27(日) 22:28

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:55:31)

わわ、松竹梅様、救援ありがとうございます〜!
で、ええと凌統! なんと。説によって20年もの差が!?
註や集解は、正史の矛盾点や不足を他の資料などで補う書物ですから、あきらかに元テキストが誤っている場合などはそちらを優先してよいハズ。となると、凌統の死は217年、三十にならずして早世した若武者、ということにしてもよいのでしょうね〜!
正史を鵜呑みにするとこういう事態が起こるわけですね〜…怖い怖い…。

7 名前::2002/10/27(日) 22:29

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月07日 (火) 00時52分08秒 

【恐怖!呉国超時空領域再び】
超時空領域、またの名をディメンジョンスフィアー。(by長瀬室長)
凌(当て字)統の生没年に引き続き、またも呉に時空歪曲が発生しているようです。

呉粲について調べていたとき、顧邵に関する記述を読んでいたのですが…

顧邵は顧雍(178-243)の長子ですが、「若くして死んだ」そうです。27歳で豫章太守になり、郡にあること5年で在官のまま死去、ということは享年32歳。その後任の太守について、呂蒙は孫権から相談を受けています。はて?

呂蒙…彼の没年も、219年の末なんだか220年になってからなのかはっきりしませんが、仮に前者だとすると、顧雍とまったくの同年生まれと言うことになります。(呂蒙は享年42歳)
その呂蒙より早く32歳で亡くなった顧邵…計算によると、彼の生年は一番遅く見積もっても188年。顧雍11歳の時の子供!?

一方目を転じますと、顧邵の子の顧譚、顧承兄弟は「二宮の変」に巻き込まれ、張休とともに交州へ流されています。
顧譚は「流されて2年目に42歳で交趾にて死去」し、顧承も「(交州に強制移住させられ)37歳で死去」しています。
弟はいまいちはっきりしませんが、兄の顧譚が245年かその数年後に死去しているのは確かなようです。すると彼の生まれは200年少し後。
これを基準に顧邵の生きた年代をある程度特定できそうです。
するとますます気になるのが顧邵の父、顧雍の歳。彼は子、孫と違い、唯一生没年がはっきしています。243年に66歳で死去、すなわち生年は178年。
死去した年は彼の伝以外に呉主伝にも書いてあるので確実でしょうが、生年が怪しいのでは…?
どうも顧邵の生年がすでに180年代ぐらいまで遡りかねないようですし。

8 名前::2002/10/27(日) 22:29

玉川雄一[関東] > (2001/08/07(Tue) 00:52:41)

ちなみに顧邵は「孫権のはからい」で孫策の娘と結婚していますが、顧譚、顧承の母が彼女かは怪しいです。といいますのも、父の孫策自身が175年生まれ、その娘が200年を過ぎた頃に子供を産めたものか… 実は、顧邵には(孫策の娘より先に?)陸氏という妻もいたようです。

 整理しますと、
顧譚はどうやら200年少し後に生まれたらしい。
その父の顧邵は、おそらく孫策の死後にその娘と結婚した。
また、呂蒙より早く32歳で死去している。故に生年は遅くとも180年代と推測される。
しかし、顧邵の「父」の顧雍は178年生まれ。

よりによって、生没年がはっきりしているはずの顧雍まで怪しいというのも妙な話です。

やはりどこかのデータが間違っているのか? 私の計算違いというオチだったら恥ずかしいですが(*^_^*)
呉書って面白いですね。(そういうことか?)

9 名前::2002/10/27(日) 22:30

松竹梅[北海道] > (2001/08/07(Tue) 05:51:49)

ここまであからさまにおかしいとなあ。もしかしたら『三国志集解』に何かヒントがあるかもしれないんで、今日大学にいって調べてみますね。あと、『呉書見聞』のほうに、救援を要請してみましょう。陳寿と韋昭、しっかりしてくれよ〜

10 名前::2002/10/27(日) 22:30

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:07:18)

下に埋もれてしまった凌統スレのようにタイムテーブル作ろうとして断念!
このタイムパラドックスは何じゃ〜! いや、パラドックスというより生年の記述の不具合!私的には、生没年と享年が明らかにズレてるとき、享年のほうが正しい気がします(;^_^A 「このとき46才だった」とハッキリ言われると、妙に説得力が…。
しかし顧雍の場合だと没年から逆算して得られる生年と、息子の推定生年の差が近すぎる…。ああ、また「この中の誰か一人が嘘をついてます」状態〜!!
やはり顧雍の生年をあと10年早めれば全てが上手くゆく換算なんですが…。

>松竹梅様
そうですね〜(;^_^A 確かに呉書見聞の御大方にもご出馬頂ければ、だいぶ楽になる、というか公論が出来上がって気が楽に〜。凌統スレも上げときますね〜。
それにしても当時に2ちゃんねるがあれば「先生、>>陳寿は厨房決定です!」とか罵られてたでしょうね〜。この種の矛盾ほどツッコまれるモノはないですし…。あ、そういえば四方山ではあの超超超面白いあずまんが三国志スレをお教え頂きありがとうございました〜(^^) これを機にあずまんが大王、読まれてみては?あんな良スレ見たことないです。

11 名前::2002/10/27(日) 22:30

玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 01:08:39)

 今回はこんなカンジでしょうか。
   
呂蒙 ━━━━━━━━
顧雍 ━━━━━━━━━━━━
顧邵  …━━━━…
顧譚     ━━━━━━━━━━

呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ… 

12 名前::2002/10/27(日) 22:31

孫ぽこ[] > (2001/08/08(Wed) 19:36:05)

はい。その役に立たない大御所がやってきました(;^_^A 

えー、この件についてですが、以前黄蓋の没年の整理をした時にも同じ事が起きました。どうやら呉書では【○○年にこういう役職についた】という記述の場合、あまり信用できないという気がします。が、この場合はたぶん顧雍の生年の方が怪しいですね。まさか顧雍さん年齢詐称していたのか・・・・・ 

それと玉川雄一さん。最近よくお名前を拝見させていただいてます。すごい博識ですねー。今度ホームページにも遊びに行かせてもらいますね。 

13 名前::2002/10/27(日) 22:31

玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 20:32:27)

いえいえ、私の情報源って、結局正史(筑摩の三巻本)がほぼ全てで、後は斜め読み(ですらない)した晋書程度ですから、あまり偉そうなことは言えないのですが…

ホームページでは大歓迎…はもちろんですが、こと三国志ネタにつきましては、最近こちらのぐっこさんのHPに入り浸りなもので私の所の内容はお寒い限りではありますが、追って充実させていく所存です。
私からも、貴方のHPにお邪魔させて頂きたいと思います。

14 名前::2002/10/27(日) 22:31

japan[関東] > (2001/08/08(Wed) 21:56:23)

>呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ…

『呉書』顧雍伝の冒頭に「朔方郡から戻ってきた蔡ヨウが呉に赴いたとき、顧雍に学問と琴を伝授した」という記述があります。

蔡ヨウが朔方郡への流刑に処せられたのが178年の7月。
いつ頃朝廷に戻ったのかは不明でしたが、董卓伝の記述を見ると、董卓が太尉になった189年に招聘されるまでの十年間、呉と太山を行ったり来たりしていたようです。

従って顧雍が蔡ヨウに師事した時期は179〜189年のどこか、というのはほぼ間違いないと思います。
――そう考えると、顧雍の178年生まれという記述は非常に怪しい。

よほどの神童でもない限り、十歳(もしくはそれ以下)にして、あの蔡ヨウから名前の一字を与えられるほど高く評価されるなんてことはないでしょう。
もしそうなら、「その時顧雍は僅か六歳であった」とか誇らしげに書いてあるはず。
やはりぐっこ様や孫ぽこ様の仰るとおり、顧雍は十歳か、下手したらそれ以上サバをよんでいるのでしょうか…?? 

15 名前::2002/10/27(日) 22:31

玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:03:57)

>あの蔡ヨウから名前の一字を与えられる
註でいう、蔡ヨウ(雍に通じる)の雍の字をもらった、というヤツですね。
オマケに、蔡「雍」の賛「歎」で顧「雍」元「歎」って、それじゃ弟の顧徽の字の子「歎」はおこぼれかい!みたいな。

しかし、火を付けたのは他でもない私ではありますが、曲がりなりにも生没年がはっきり記述されているはずの顧雍がここまで疑われるのも可哀想な話ですね(^_^;)

16 名前::2002/10/27(日) 22:32

松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 01:46:13)

やりました!顧雍問題は解決です!原因はズバリちくま正史の誤植!小南せんせ〜;
実はこの問題を調べるために、大学図書館から『三国志集解』を借りてきたのですが、それを見ると、なんと三国志本文の顧雍の享年が76歳に。盧弼の『集解』の「霊帝の建寧元年生まれ」という文を見るまでもなく、ぐっこさんの仰せられたとおりに顧雍の年齢が10歳アップです。いや、ちくま本の落とし穴でした(汗)
 この調子で、凌統(当て字)問題、黄蓋問題も解決するといいなあ…

17 名前::2002/10/27(日) 22:32

松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:04:12)

ちなみに、『集解』のほうには吾粲問題について書いてあり、どうやら吾粲=呉粲で間違いないようです。でもどこから官職の差が出てくるのかは謎でありますが。

18 名前::2002/10/27(日) 22:32

玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 09:38:37)

なんと!ありがとうございます…(T_T)
調べてみれば分かるもので、というか、私もまだまだ知らないことがたくさんあるようです。
ところで、「ちくまの誤訳」だとすると、原文はどうなのでしょう?
大学の図書館に中華書房のヤツがありましたので、今度機会があったら見てみようかしら。
ところで、『三國志集解』とは度々耳にするのですが、どのような本なのでしょうか。
私も以前一度読んでみようと思ったこともあったのですが…手に入るようなものでしたっけ?

19 名前::2002/10/27(日) 22:33

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:04)

「三國志集解」!欲しい!「華陽国志」と並んで! あ、まえ大学図書館で「さんごくししゅうかい」ありますか!――って言って失笑を買いました。「さんごくししっかい」が正解らしいですね(;^_^A
で、顧雍問題にもとうとう解決が〜! ハイ、私も友人に貸してた三國志書籍全部を引き上げて調べましたが、徳間の正史全人物名辞典、潮出の演義大辞典ともに、顧雍の生年を168年としていました。まさに筑摩の落とし穴〜!案外この種の誤植・誤訳が他にもあるかも〜っ!?
それと吾粲=呉粲もほぼ間違いないですか〜ッ!? うわあ、集解欲しい〜!

20 名前::2002/10/27(日) 22:34

孫ぽこ[北海道] 投稿日:2001年08月08日 (水) 22時15分46秒 

それでは、没年・生年詐称疑惑第三弾を^^;。今回の被告は呉の大物・黄蓋ジイその人です。

黄蓋は赤壁後は武陵や長沙の異民族統治を中心にやっていたとあり,そこから考えると,武陵を呉が領有したのは,呂蒙による関羽挟撃以降のことなので,219年の段階では生きています。その後,武陵→長沙の反乱を鎮圧した後,死亡しているので219年から229年の間に死んだと言うことになりますね。

ですから、個人的にはもし黄蓋が夷陵の戦いの頃に生きていたなら,おそらく戦線に参加したはずだと思うので,たぶん219年から222年の間に死去したと思っていました。

と・こ・ろ・が・・です。

孫皎伝に「黄蓋と兄の孫ユとが死去すると、彼らの配下の軍をも併せて孫皎が指揮を執った。」という記述があります。

ここを読んであれれれ??と違和感を感じたのですよ。孫ユが死亡したのが215年であり、関羽挟撃の前で武陵はまだ呉領ではありません。また孫皎が死亡したのは219年です。

となると・・・全ての記述が正しいとすると下記のようになります。

黄蓋は呂蒙の関羽挟撃のあった219年、十月まで生きていた。でその直後に武陵の太守になって数日のうちに武陵の乱を平定してその数日後には長沙の反乱の平定をして偏将軍に任じられた。所がその後すぐ死去。そこで孫コウが軍を引き継いだが、その孫コウも219年のうちに死んだ・・・・

なんと黄蓋も孫コウも没年どころか、死んだ月まで特定できる事になります^^;。こんなアホな事はない^^;。

という事でこれも誰かが嘘をついています^^;。さて犯人は誰だ??

>三国志集解
お、おでもほしいぃぃー、さんごくししっしっかい!!(山田たろー風)

できれば和訳しくくでー、誰がー(爆)

21 名前::2002/10/27(日) 22:35

玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:20:27)

ありがとうございます。アテになるとも思えませんが、参考までに三國志8で見てみますと…
一年刻みのシナリオが思わぬ所で力を発揮(^_^)

注目の219年、この年は7月から開始されますが、黄蓋は登場しません。死亡扱いです。
孫ぽこさんが仰った通り、この時点ではまだ呂蒙の荊州攻略は開始されていません。というか、ゲームでは江陵に武将が多すぎ(^_^)
このままでは、呉軍はうかつに手を出せません。

そうそう、ようやく(なぜか)えぢたー各種が入手できましたので、没年の設定を見てみますと、黄蓋は219年没ということになっています。

このゲームでは、「没年」と設定された前の年まで登場しているようです。
すなわち、諸葛亮の没年は235年に設定されていました。呂蒙は220年。孫策は201年。
面白いのは、220年1月に死去した曹操が、この年のシナリオは1月開始にもかかわらず登場しない(君主は曹丕)こと。
曹操の没年は「220年」になっていました…いや、それは確かに正しいといえば正しいのですが、ゲームシステム上は「221年」没で220年まで登場、にはなっていないのですね。
また、シナリオが存在しない235年以降に死去した人物については、実際の没年が設定されているようです。

話が大分それましたが、「三國志8」においては、黄蓋は218年ないしは219年に死亡したことになっているようです。ちなみに生年は154年。

凌統の生没年は189-237、何かと話題(笑)の顧雍は178-243。

22 名前::2002/10/27(日) 22:35

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:33)

黄蓋まで!?(;^_^A
なるほど、黄蓋は武陵太守任命後に死亡とありますね〜。武陵が呉の領土になったのは関羽の死後だから、当然219年以降。が、黄蓋死後の兵を受け継いだ味好漢・孫皎は、呂蒙と同じく関帝に祟り殺されてます。これまた219年。219年というのは呉にとって転機の年ですね〜。荊州を得た代償として、名将・呂蒙、孫皎、そして黄蓋を喪ったことに…。

しかし、部長の仰るとおり、いかにもセセコマシイというかあわただしいシナリオになってしまいますよね〜。このままでわ。
この場合、年度ではなく状況を考えてみましょう。
本文では、「武陵の蛮夷叛乱し、城邑を攻守す。蓋を以て太守を領せしむ」
「蛮人が叛逆して立て籠もったので、黄蓋を太守として派遣した」という事です。……なんだか、関羽と命を削る攻防のすえ領有!…というカンジがしないような…? 妙にノンビリしている気もします。
ついでにいうと、この記述は「武鋒中郎将を拝す」のすぐ後に続きます。筑摩の正史ではこの就任を赤壁の記述とくっつけてますが(「赤壁の功績によって武鋒中郎将に任じられた」という具合に)、手持ちの和刻本では赤壁のあと註を挟み(トイレのあれ)、一行あけてから「拝武鋒中郎将。武陵蛮夷……」というカンジで続き、赤壁とは段落が異なります。
つまり黄蓋が武鋒中郎将に任じられてすぐに武陵太守になった、と解釈できなくもないです。

23 名前::2002/10/27(日) 22:35

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:48)

となると、いつ孫権は武陵を領有したか、ということになりますね〜。最終的に孫呉が荊西を領有したのは関羽の敗死後ですが、その前に、いちど長沙や武陵あたりを暫定統治した時期はなかったでしょうか?
黄蓋が武陵太守ながら鎮圧した長沙の益陽県というのは、地図で見る限り洞庭湖の西南に位置し、かなり武陵に近く(手持ちの地図では衡陽郡)、湖を挟んですぐ北は周瑜の勢力圏である南郡です(ちなみに関羽軍が魯粛軍と対峙したのもこの益陽県です)。

……以上、記述の章句と地理的環境から類推するに、黄蓋が「武陵太守」であった時期は、必ずしも「関羽の死後」でないかもしれません〜。周瑜が劉備に公安を貸す前、呂蒙の荊南攻撃が始まる前、魯粛との予備交渉がまとまる前…。

ああ、我ながら飛躍した理論だ〜。

24 名前::2002/10/27(日) 22:35

孫ぽこ[北海道] > (2001/08/10(Fri) 04:53:48)

私もそれを考えていました。つまり呉は関羽挟撃以前に武陵全部でなくても一部を支配していなかったかと?

つまり魯粛の荊州東西分割以後です。確かショウ水を境に・・とあったと思うので、そのショウ水というのがどこを流れているのか、武陵の一部が呉側に来ていたのではないか?と。可能性はあるような気がします。ぜひ誰か調べて・・・お願い・・・あう・・・(泣) 

25 名前::2002/10/27(日) 22:35

おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:40:21)

わっかりました。孫ぽこどの!
えっと、漢書地理志をつらつら調べていると、武陵郡の記述がありました。「高祖置く。戸数34177、人口185758、県18。」ふむふむ・・・・
索県は現在の湖南省常徳市東北60里・・・ということは洞庭湖の西岸近くか・・・。孱陵は現在の湖北省公安の南・・・?公安と言えば、劉備が赤壁のあと周瑜が南郡に居座ったため長江の対岸に本拠地を定めた、あの公安ではないですか!ということは、武陵郡は長江と[シ元]水と洞庭湖に挟まれた地域のことなのか〜。なるほど〜。
と、言うことは長江と洞庭湖に挟まれた広大な湿地帯(雲夢沢)は武陵郡に含まれていた・・・。あれ?湘水がスゴイ遠いぞ〜。っていうか武陵郡と関係ないぞ〜。湘水の西側(益陽・湘潭など)はぜんぶ長沙郡だしな〜。
[まとめ]武陵は湘水と関係なし。しかし、黄蓋が鎮圧した武陵蛮夷とは雲夢沢もしくは洞庭湖の賊かもしれず、そこは武陵郡である。長江の南岸は武陵郡で、もしかするとそこら辺一帯は呉が領有していたのかも??黄蓋が赴任したのはそこら辺??

って全くまとまってませんね。三国迷でもない私が慣れない事をすると、こうなってしまう^^;ごめんなさい。これは明らかに間違ってる等ありましたら、教えてくださいまし〜。お願いします。
とりあえず出直してきますm(_ _)m

26 名前::2002/10/27(日) 22:36

おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:53:21)

う〜ん。やっぱ↑のはオカシイ。公安は劉備領ですし。
え〜ん、だれかたすけて〜(泣) 

27 名前::2002/10/27(日) 22:36

MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:54:24)

面白そうなのでROMらせて頂いていたのですが、お助け船をば。。

湘水は、おそらく「長沙のすぐ西を流れ、桂陽に至る長江の支流」ではないでしょうか?
これはちくまの地図にもくっきりと記してあるので確認して頂けると思います。
現在、この支流の名称は「湘江」で、ここから単に『湘水=湘江』を連想しただけですが、
中国の地名は今でも結構残っているので、おそらくは間違い無いかと。

ちなみに、『湘水=湘江』ならば、長沙の西10kmくらいの所を流れているので、、、
湘水で領土を分けたなら、武陵郡は全然入らないでしょうねぇ。。(^^ゞ
ありゃ!? 助け船になってない??(爆)

あと、御承知かと思いますが、まだ領有していない地域の太守に任命される事もありますよね?(^^)
この場合も、同じくである可能性は捨てきれないと思いますよ。
『張飛の司隷校尉任命』などは極端な例でしょう♪

28 名前::2002/10/27(日) 22:36

MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 10:00:54)

あ、、、直前にカキコされちゃいましたね。。。あはははは(^^ゞ 

連続カキコ申し訳ないですが、ちょっと補足〜〜♪

[シ元]水は洞庭湖から武陵を経て舞陽に至る河で、こちらも同じく現在の名称が[シ元]江です。
ちなみに中国語名はユワンコウ。でも日本語読みはシスイ、、、分からん!!(爆)

今、我ながら調べてみますと、極端な仮説を思い浮かんじゃいました。。。(^^ゞ
黄蓋が乱を平定したおかげで蜀から投降してきた巴・醴・由・誕などですが、
これを『巴=巴丘』、『醴=醴陵』とすると、、、黄蓋が赴任した地域は武陵ではなくなってしまいます(笑)

そもそも、『巴』と言われると『益州の巴』を思い浮かべたくなりますが、
いくらなんでも、武陵の異民族の乱を平定しても『益州の巴』から投降してくるのはオカシイでしょう。。6(^_^;
んで、南荊州の近くを見てみると、(どっかの注にもありましたが)『巴丘』は2つありまして、
洞庭湖の辺の『巴丘』と、豫章郡の南西に位置する『巴丘』、となります。
また、『醴』は武陵の近くには無く、長沙郡(長沙の東南)に『醴陵』という地名があります。
そして、『巴丘』と『醴陵』の間(つまり長沙と豫章の間)には標高1000mほどの丘陵地帯がそびえるんです。
(これらの地名は、全てちくまの地図に載っています)
こういう所って、いかにも反体制派の民衆がいそうな気がしません?(笑)
豫章の周辺は常に呉の内患であったワケですし♪

つまり・・・ 陳寿の勘違いか、もしくは勘違いされ易い書き方をしてしまったか、
もしくは、、、またもや、ちくまの訳ミスでは?(笑)


ちなみに、こうすると、黄蓋ジイがもうちょっと先に亡くなっていた可能性も出てきますよね?(^^) 

29 名前::2002/10/27(日) 22:36

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/10(Fri) 23:08:14)

ではこちらは後漢書郡国志から……「城12、戸数46,672、人口250,913」お、少し増えてますね(;^_^A 
それはそうと、まず「湘水」ですね〜。これはMOS様の仰るとおり洞底湖のど真ん中から真南に、武陵と長沙の間を流れています。この湘水を国境としたのならば、215年の魯粛の東西分割案では武陵はどう考えても劉備領です。

で、またまたMOS様がご指摘されたとおり、「蜀から投降した巴・醴・由・誕などの部族」というのは、別に蜀(益州)在住の諸部族というわけではなさそうですね。まあ劉璋の対荊州経営の一環として指嗾されていたのかもしれませんが…とにかく、この諸部族というのは、洞庭湖近辺に散らばっていたと見て間違いないと思います。
……となると、やはり黄蓋は不穏な武陵を踏み固めるため太守として赴任し、ついでに長沙や洞庭湖(当時はたいしたサイズでなかったらしいですが)近辺の部族を平らげて回った、ということになりますね〜。

しかし、215年以降、武陵は劉備の土地。となると、209〜210年の、荊州南部が混沌としていた時期が怪しいかもしれません。あの当時、劉備が正式に領有していたのはあくまで公安などの「長江南岸(以南ではない)の土地」ですし…。実情は孫権領荊州に浮かぶ島国みたいなテリトリーだったかも。
そういえば、周瑜と魯粛が食邑として与えられた劉陽、漢昌、下儁、州陵の四城は、いずれも長沙郡内にありますね〜。
劉備軍が金旋や韓玄を追っ払ったとはいえ、孫権の勢力も荊南全域に張り出していたのでは〜。

30 名前::2002/10/27(日) 22:36

松竹梅[関東] > (2001/08/14(Tue) 00:31:26)

孫権は荊州と一緒に黄蓋も貸していた、とかはダメですね…

マジな話、読んでいてこれは?と思ったのが、
一、黄蓋が武陵太守のはずなのに長沙郡益陽県の反乱を鎮圧している…ただし、この手の越権行為を孫堅もやってるから、その真似事かもしれない。
二、MOSさんの指摘どおり、巴・醴・由・誕のうち巴は巴丘(集解によれば、おそらく洞庭湖のほう)、醴は醴陵のことらしいです。でも、なぜにこの地方の異民族は劉備勢力に心服していたんだろうか。
 さらに疑問を増やしてしまった…役に立てず、申し訳ないです。

31 名前::2002/10/27(日) 22:37

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/15(Wed) 00:32:27)

う〜む。この異民族が謎ですよね〜。黄蓋が定説通り関羽敗亡後に武陵太守となったのならば、劉備の支援を受けていた叛乱なのでしょうが、異説「赤壁直後説」をとると、この異民族を支援していたのは劉璋勢力ということに。
武陵と言えば五谿蛮ですが、彼らの動向も気になります。黄蓋がいた間は大人しかったのでしょうか?

32 名前::2002/10/27(日) 22:37

MOS[外国] > (2001/08/17(Fri) 01:34:58)

全く意味は無いんですが、なんとなく見付けてしまったので。。
『呉の丞相』顧雍は丞相になる前、太常になっているのですが、
同時に醴陵侯に任じられているようです。
「封を進め」と書いてあるので、ある程度大きい県だったんでしょうね♪

33 名前::2002/10/27(日) 22:37

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/17(Fri) 23:42:11)

顧雍が醴陵侯ですか〜。となると県侯ですから、相当に高位ですね!さすが顧雍!
ところで郡国志で見ると醴陵県には、仙人ゆかりの石室があるとかなんとか…。

34 名前::2002/11/02(土) 16:06

もす

【郭嘉の年齢詐称疑惑】

 さて、若々しさをウリにされている郭嘉さんに疑惑登場。
 以前、このカフェでも郭奕と荀爽の娘(荀采)の婚約話が昇っていましたが、
それと郭嘉伝での年齢を対比させると、パラドックスが起きてしまいます。(^^ゞ

 『魏志郭嘉伝』の「38歳で亡くなった」、注の『傅子』での「40に満たなかった」という記述から、
彼の没年は38で間違いないと思います。
また、郭嘉の享年も207年か208年で疑いの余地は無いでしょう。

 そして、『後漢紀』より荀爽が亡くなったのは初平元年(190年)だから、
郭嘉と荀采の婚約は、少なくとも190年以前です。

 しかし、これらを総合すると、190年当時の郭嘉は20歳以下だった事になり、
19歳の荀采が嫁した郭嘉の息子は少なくとも10歳に満たなかったことになってしまうんです。
しかも、その郭奕も再婚とは・・・


 自分だけで考えても煮え切らないので、こちらにカキコさせて頂きます。よろしくぅ。<(_ _)>

35 名前::2002/11/02(土) 16:06

左平(仮名) 2002年08月14日水曜日 20時58分

例によって何の裏付けもありませんが…考えられるのは、以下の3パタ−ンですね。

1,郭嘉・郭奕・荀采の年齢・表記は全て正しい
10歳以上の姉さん女房…はるか後の話ですが、ありました。明の成化帝の貴妃・万氏は皇帝より19歳年上だったそうです(陳舜臣氏の『中国五千年』より)。
また、再婚という表記ですが…婚約段階で相手に死なれた為、新たに荀采を迎えようとした、そしてそれを「再婚」と書いた、という事も考えられるのではないでしょうか。この当時、女性の再婚はかなり難しかった様で、珍しかったという事もありますし。
2,郭嘉の年齢に誤り
顧雍の様に10歳も間違ってれば、初平元(190)年時点での郭奕の年齢は10代半ばとみる事も可能となり、矛盾なく考えられます。
とはいえ、一番可能性は低そうですね。
3,郭「奕」ではない
筆記の際に、他の字を「奕」と書き違えた、という事も考えられます。そして、「郭奕」と伝わった為に、「この人物は、時期的にみて郭嘉の子の郭奕であろう」という憶測がなされ、こういう様に書かれたという事もあり得るのではないでしょうか。

何の史料確認もしておりませんので、根拠はありませんが(1,ならパラドックスはなくなりますが…)。

36 名前::2002/11/02(土) 16:06

japan  2002年08月14日水曜日 22時50分

実は以前、とある方にこの問題に関してご教示頂いたことがありました。
結論から言うと「荀采と再婚した郭奕は、郭嘉の息子とは同姓同名の別人である可能性が高い」ということです。

中華書局版『後漢書』列女伝の注には「奕字は伯益、(壽)嘉の子なり」と記されていますが、『後漢書集解』によると「注の嘉は各本皆な壽に譌(なま)る。魏志に依りて改む」とあるそうです。
要するに、この郭奕君は郭壽(=寿)という人物の子であったにもかかわらず、左平様のカキコにある通り、

>「この人物は、時期的にみて郭嘉の子の郭奕であろう」

と判断されて、パパの名前を変えられてしまった模様です。(^^;)
上記のような次第で、取りあえず郭嘉の年齢は『魏志』の通りで間違いないかと。

ただ、息子の方の年齢も怪しいんですよね…
色々な所で耳にする「郭奕は郭嘉が13歳のときの子」という説は何処が出典なのでしょう?

37 名前::2002/11/02(土) 16:07

もす 2002年08月14日水曜日 23時29分

 左平さん、japanさん、どうも、ありがとうございます。<(__)>

>この郭奕君は郭壽(=寿)という人物の子であったにもかかわらず

 あ、私の版にもありますね。
---------------------------↓-------------------------

(亦)〔奕〕敬憚之 據汲本改。按:殿本訛「弈」。       (※Unicord謝々…
(壽)〔嘉〕之子也 集解本「壽」作「嘉」,校補謂各本皆訛,依魏志改。今據改。

---------------------------↑-------------------------

ですよね。(^^)
残念ながら『後漢書集解』は持っていませんが…

 とはいえ、「郭壽説」は辛いような気がします…
というのは、李賢がその後に「太子文学」と書いていますので、「誰の太子?」となってしまいますから。(^^ゞ

| おそらく霊帝の太子では無いでしょう。
|とすると、諸王の太子か、曹丕か。袁譚や袁尚は"太子"とは呼ばないですよねぇ。。

>「郭奕は郭嘉が13歳のときの子」
 やば、、初めて聞きました…(爆)

38 名前::2002/11/02(土) 16:07

ぐっこ 2002年08月15日木曜日 22時56分

ぐあ…Σ( ̄□ ̄;) ナニゲに凄い会話が!
後漢書も三國志も集解ホスイ…。

ええと、郭嘉の年齢詐称疑惑ですね(^_^;)
確か四志奮迅のほうでも取り上げられていたあの話題…。
手持ちの資料では手が出しようもないのですが、確かにあのあたりですと荀氏と郭氏の婚姻はフツーに行われていたでしょうから、郭嘉とは全く別の郭氏との縁談である可能性は十分にあります。
確か似たような話題が…ああ、鍾ヨウと郭援の関係でしたっけ(^_^;)

とにかく、郭嘉の年齢は変わらないに一票。問題は、本物の郭嘉の子郭奕についてなんですが…13才の子!? とうことは…ええと…12才…?(数えで)(;´Д`)
あのぅ、その説ってどのあたりから出てきたのでしょうか…?

39 名前:★もす:2002/11/09(土) 19:35
ようやく、我輩の列伝でも郭嘉を書き終えまして、
纏まったのは以下の通りデス〜。

[記述通りに換算した生没年]
郭嘉 : 170年生、207年没

["13歳説"に則った郭奕の生年]
郭奕 : 182年生  (曹丕 : 187年生)

肯定派

 『三國志』の研究本の先駆けというべき『三國志集解』では、ストレートに姓名の更訂が為されている。郭奕を郭亦、郭嘉を郭壽。よって、『後漢書』の記述は范曄・李賢の勘違いとするべきである。
 また、年齢については、人間は15歳未満でも子を為すことが十分可能なので、問題にならない。事実、郭奕は郭嘉が13歳の時に生まれた子である、とする説がある。


否定派

 一.傅玄の記述は鵜呑みにできるほど、信頼性が高くない
 二.范・李は、傅・陳の書を手にとって読む事が出来た
 三.『三國志集解』の成立が明代、と大きく時代を経てからである
 四.郭亦や郭壽という人物が他に見当たらない(それぞれ、宋と清にいたようだが本論には関係ない)
 五.郭奕と荀采が結婚したのは190年当時、郭嘉が21歳になってしまう
 六.「13歳説」を肯定すると、郭奕は八歳にして再婚予定だったことになる
   六,一.同様に、荀采から見て、婚約した郭奕よりも郭嘉の方が年齢的に近い
 七.太子文学であった郭奕は、曹丕よりも数歳は年上でなければならない

 以上のような感じです。・・・ねぇ?(笑)

40 名前:★ぐっこ:2002/11/10(日) 16:34
うーむ…
今改めて熟考しておりましたが…(^_^;)
何にせよ残されているピースが限られてるから、二つに一つ
なんですよね…

わたしも、もす様と同じく、否定派のほうです。
この辺のトコロ、本場では結論出てないのだろうか…
japan様が教えを乞われたという方は、専門家の方なのでしょうか…?
いいなあ…

41 名前:もす:2002/11/10(日) 18:51
結局のところ、現状のままだと、どっちも肯定しきれないんですよね(笑)
突撃しちゃ失礼だろうし、メールも・・・う〜ん。。。。。。

[スマソな校正]
「八歳」 → 「九歳」(数え年デス…)
「結婚したのは190年当時」 → 「結婚した190年当時」

42 名前:japan:2002/11/12(火) 23:45
とても明確に論点を纏めてくださり、ありがとうございます >もす様
それにしても、どちらが正解なのでしょう…
13歳で子どもを作ったり(?)、74歳で子どもを作ったりする連中がいるから
ますます話がややこしくなるんですよね。

>ぐっこ様

>japan様が教えを乞われたという方は、専門家の方なのでしょうか…?

どちらかというと専門家の卵にあたる方だと思います。
WEB上の知人なので、私もそれほど多くをお伺いしているのではないんですが…すみません。


――で、自力でつらつらと考えてみたのですが

・「13歳説」の根拠は、確か「爵位を相続できる年齢から逆算して」ということだったと思います。
これもソースは失念してしまいました。申し訳ありません(涙)

・『郭嘉伝』以外で郭奕君が登場する唯一の列伝である『王昶伝』を読む限り、
郭奕と王昶は友人同士(二人とも太子文学に就任している為?)であるらしい。

肝心の王昶の生年は不明なのですが、
(1)同郷の王リョウ(172年生)と並んで名前を知られていた。
   王リョウの方が年長なので、彼を兄と仰いでいた。
(2)没年は259年で、最終官位は司空
(3)嗣子・王渾の生年は223年(『晋書』王渾伝より)
という三点から考えて、180年前後と見るのが穏当だと思います。

そうすると、王昶の知人兼同僚だったという郭奕も、180〜190年位に生まれたと
考えるのが妥当なのでは…
190年(あるいはそれ以前)に再婚――という記述だけに目を向ければ、
160年前後に生まれたと考える方が納まりが良いのですが、それだと
『王昶伝』の記述がおかしくなってくるんですよね。

まさにあちらを立てればこちらが立たず状態…
何だかますます訳が判らなくなってきました。申し訳ありません(@_@)

43 名前:★ぐっこ:2002/11/13(水) 23:06
ぐわ…またしてもパラドクス(^_^;)
うーん…確かに、どれかがウソをついてます、というだけでは
説明できない矛盾が…

再婚…まさか幼い頃から許嫁としていた娘が早世したため、次の
結婚相手を決めた、とかいうオチじゃ…。誰かいましたよね、そういう
ケース。
私もお手上げだなあ…

44 名前:もす:2002/11/16(土) 21:25
 おゎ、そういえば、郭奕以外唯一の太子文学を調べるのを忘れていました。。
某所で指摘されていたのに、詳しく調べていませんでしたぁ。ありがとうございます〜

 すっごい唐突に思いついたんですが・・・
中国も親族を養子に入れることってありますよね・・・ 郭奕は郭嘉の弟だった!ってのはどうでしょう?
郭嘉が早逝したために跡を継いだ、つまり、系図的には『養子』である、と。。。。

やっぱりメチャですね。すいません・・・(;^_^A

 う〜ん、お手上げですねぇ。
ぐっこさん、japanさん、ホントにありがとうございました♪

45 名前:★ぐっこ:2002/11/21(木) 21:42
いえいえ、こちらこそーm(__)m ていうか、私は何もしてない(^_^;)
うーん、郭嘉と郭奕かー…。お手上げ…

46 名前:★玉川雄一:2004/01/12(月) 10:18
そうそう、昨年もすさんの所で目にした衝撃の新事実(事実じゃあないかも)が。
念のためこちらでも披露しておきましょうか。

もすさんのサイト『四史奮迅』に掲載されている「四史人物列伝」において、
“甘寧215年没説”が提唱されておりました。

なんでも、『建康実録』なる地方志には「甘寧が215年の12月に死去した」とあるそうで、
もすさんも直接は確認されたそうではないですが、なかなか興味深い記事だと思いません?
確かに凌統の時と同じく甘寧もまた、
建安年間末期以降の記述に明確な年代特定がしづらいんですよね。
この辺りは「四史人物列伝」でもすさんも分析してらっしゃいますが。

果たして『建康実録』が史料として信憑性があるものなのか、
もしかしたら他にも面白い記事がありはしないか、などと興味は膨らみます。

47 名前:もす:2004/01/13(火) 03:37
えーっと、それらしく言ってしまうと、
私のネタじゃなくって"松"の付く方から頂いたネタだったりします(笑)
その方に質問などが飛び火しないようコラムでは隠していますが、ここなら大丈夫っすよね。

かくいう私が手に入れればいいんですが、最近はやる気が全く出なくて…(;^_^A
ちなみに、建康実録の件は某所でも「怪しいよね」って話が出てました。

48 名前:★ぐっこ:2004/01/14(水) 00:19
あらら、あの方からのお話でしたか…ご無沙汰ですが…
ちなみに215年は、劉備が蜀とった翌年。荊州問題がこじれて呂蒙・魯粛が
関羽とガチに戦いそうになった年ですやね。
そういうときに甘寧さんが亡くなっていた、という説があると。

うーん、『建康実録』…知らないというか、地方誌(;´Д`)!?
有名なのはけっこう知れ渡ってますけど、いっぱいこういうネタ
埋まってるんだろうなあ。
しかし真偽のほどはどーにも怪しいですか(^_^;) いっぺんこういう
本全部そろえてみたいもの…

そういや、陳宮の故郷が県まで書かれてたのって、何でしたっけ?
むかーしゲーパラで立ち読みしてて「ええなっ」て思ったことが。

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