ロボットによるスパムを排除するため、全板でキャップ必須にしました!

書き込みをされる方は、必ずメール欄に #chronica と入力してください。
sageをする場合は、 sage #chronica としてください(sageのあと半角スペース空ける)。

お手数をお掛けしますが、ご理解ご協力の程、よろしくお願いいたしますm( _ _ )m


■掲示板に戻る■ 全部 1- 101- 201- 最新50 read.htmlに切り替える
■ ★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★

1 名前::2002/10/27(日) 21:56

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時35分01秒 

ということで、どなたかご存じの方、教えてくださいませ!
今のところ松竹梅様の情報で、幽州の「盧家」が!
何でも南北朝時代の北朝で、相当な名家と賞されたとか…。
立地条件から言って、これはあの盧植の子孫・あるいは一門かもしれません!盧植の子・盧毓だって魏王朝の高官でしたし。

そういえば、誰かの子孫が西域記の玄奘になったいたような…。陳羣でしたっけ?

それとは逆に、薛(徐州)の田家の末裔が、三国時代に薛氏を名乗っていたという話もありますね〜。薛綜とかが、あの靖郭君や孟嘗君の子孫だったりする可能性も…

2 名前::2002/10/27(日) 21:57

玉川雄一[関東] > (2001/07/27(Fri) 09:43:02)

まず、元になる三国志キャラにつきましては「当時も今も(我々にも)」メジャーなのか、とりあえず当時だけでもメジャーだったのか。

後者の例としましては、瑯邪の王氏。高官を多数輩出した相当な名家だったようですが、「三国志」での知名度は皆無ですよね。

王祥(180-268)と王覧(206-278)の兄弟は魏〜西晋に仕えまして、王覧の子孫には王導、王敦、王羲之を初めとする晋代の各種著名人が名を連ねています。

また、東晋の名将、陶侃(257-332)の父は陶丹といい、呉の交州刺史だったそうです。それ以外は全く不明ですが(^_^)
時期的に、孫権晩年頃から活躍したでしょうし、陶侃自身も三国末期(というか既に二国)を生きています。

このように、子孫が大ブレイクした三国時代の(マイナー)人物というのも面白そうです。

3 名前::2002/10/27(日) 21:57
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/27(Fri) 21:59:52)

琅邪の王氏も、けっこうしぶとく文化史に登場し続けるんですか!書の正流なんでしょうか?
あ、書と言えば、やはり達人と知られた弘農の張兄弟は、かの熱血爺張奐の息子たちだったんですよねえ。
陶侃…交州刺史、というと呂岱とかの後継でしょうか。この息子さんが、東晋時代に活躍すると…。案外誰の子孫が才幹を持って産れるかわからないものですねー。


japan[関東] > (2001/07/27(Fri) 22:43:23)

>子孫が大ブレイクした三国時代の(マイナー)人物

マイナーと言ってしまうと気の毒ですが、杜預を忘れるわけにはいかないと思います。
彼の子孫こそ「曹植から詩聖の称号を奪った男」杜甫ですから。

でも、杜甫ってご先祖様が魏・晋で高官に就いていたのに、赤壁の周郎を称える詩を詠んだりしているんですよね。
どうせなら魏の英雄たちの詩も詠んでくれれば良かったのになぁ。

4 名前::2002/10/27(日) 21:57

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年07月26日 (木) 08時50分17秒 

さほど出世したかは定かではないですが、『晋書』には甘卓なる人物が立伝されています。
三国志で甘姓といえば、そう、甘寧の子孫らしいのです。

甘卓、字を季思。「曾祖寧、呉○○将軍(詳細失念)」とありますので、まず祖先はあの興覇ドノと考えてよいのでは?

甘卓の父が甘昌、祖父が甘述、曾祖父が甘寧、と遡れますようで。
三國志呉書では甘寧の子は甘カイ一人のみが記述されていますが、
甘述も甘寧の子だったということでしょうか。

で、甘卓さんはなんでだか、322年に(四男の甘蕃と共に?)当時の襄陽太守周慮なる人物に殺害されています。

この322年(永昌元年)という年はイベント盛りだくさんでして、王敦が武昌で叛乱の兵を挙げて、著名な人物が他にも多数落命しています。北からは石勒が南下して[言焦]を囲み!祖約が敗北する等というピンチっぷり。
終いには東晋初代皇帝司馬睿まで没してしまうという波乱の年でありましたとさ。

この甘卓のように、三国時代の人物の子孫がポッと出で晋書に立伝されていることは時たまあるのでした。

5 名前::2002/10/27(日) 21:58
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/26(Thu) 21:19:53)

おお!? 甘寧の子孫が晋書に!? そこまで系譜が残っているのなら、新武将として累代登録も可能!(;^_^A 正史に甘述の名がないということは、庶子だったのか…。東呉は軍団単位で世襲しますから、嫡子以外は分家を許されない限り歴史に埋没してしまうんですよね。

にしても西暦322年…。曹操が生きていたら170歳ってところでしょうか? こうしてみると歴史は止まらないものなんですね…。

あ、そうそう。関羽の子孫って現在でも残っているのですね〜。成都を脱出していた関彝の庶子が、本籍の解県で一家を立てて現在に至るとか。[广龍]会も詰めが甘い甘い(^_^
この関家の血統は、千数百年ものあいだ代々常平村の顔役を勤めてきたとか。ちなみに現在は62代目関家総帥、関新剛氏。
冗談でもこの村で「それ伝説でしょ?」と言ってはならんそうです(;^_^A 

6 名前::2002/10/27(日) 21:58

玉川雄一[関東] > (2001/07/28(Sat) 00:19:46)

>案外誰の子孫が才幹を持って産れるかわからないもの
ま、それを言ったら劉備やら皆さんの親御さんだって… というのはキリのない話ですか(>_<)

>杜甫ってご先祖様が魏・晋で高官に
杜預の爺さんの杜畿とその子の杜恕は魏書に伝がありますものね。結構記述多いですし。

7 名前::2002/10/27(日) 21:59

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 00:43:08)

 >japan様
杜預!征南元帥閣下の子孫に、かの二代目詩聖・杜甫が!? 実は知りませんでした(;^_^A
そういえば、周瑜がどうしたとか、白帝城がどうしたとか、王濬がどうしたとかいう詩はあっても、魏の諸将を讃える詩は詠んでないんですね〜。やはり、このころから魏=悪役なんでしょうか〜?

 >玉川雄一様
ヤハリ才幹というものは、ここぞというときには遺伝しないものですね〜。帝王の子が帝王であるならば歴史はまことにつまらぬ、と仰った作家は、どなただったか…。

8 名前::2002/10/27(日) 21:59

玉川雄一[関東] > (2001/07/29(Sun) 01:21:23)

あ、もしかするとぐっこさんの仰った事って私のとはズレてるかもしれないです。念のため。
劉備の父…劉弘だそうですか、そこからすると、息子が遠い巴蜀の地で皇帝を称することになろうとは思わなかっただろう、ということです。
一応、劉備には何らかの「才幹」があったと前提しての発言でした。
で、劉弘がなんでもない人物だったかというとそうでもないようで、どうも劉備を引き合いに出したのが間違いだったようです。

で、劉備から劉禅については敢えて申し上げるまでもありませんが(^_^)
>帝王の子が帝王であるならば歴史はまことにつまらぬ
名言です。とばっちりを食う人々にはお気の毒ながら、世の中には刺激が必要なのでしょうか。 

9 名前::2002/10/27(日) 22:00

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時27分13秒 

味好漢列伝から出張版。

盧[言甚]の系統は危ういかも、です。というのも、かれの曾孫の盧循(于先、?-411)は「晋末の大賊」だそうでして、大規模な叛乱を起こして終いには斬られたそうなんですよ。

で、大河一族としては楊氏を。楊脩の家系です。
彼は司徒楊彪の子でありまして、親子して曹操に睨まれて踏んだり蹴ったりな目にあっていますが、この家系相当長いらしいんです。

楊彪は太尉・楊震の子孫であることをウリにしていたようですが、その楊震は漢初の赤泉侯・楊喜(項羽の遺骸を手に入れて列侯に封じられた内の一人)の子孫だとか。

また楊脩から下れば、東晋末期に子孫の楊[イ全]期(?-399)なる人物がブイブイいわせています。
この系図を信じるなら、実に秦末〜晋末まで500年も続く名家!
まあ、秦末の殷王司馬コウの子孫を称する司馬懿一家も同じですが。

10 名前::2002/10/27(日) 22:00
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/26(Thu) 00:39:17)

なるほど! 盧植の直系は途絶えた可能性もあるのですか!残念。
楊家は確かに有名ですね! あ、そういえば玄奘の先祖って楊氏だったっけ? かなりうろ覚え(;^_^A 

11 名前::2002/10/27(日) 22:00

玉川雄一[関東] > (2001/07/26(Thu) 01:04:30)

しかし、盧毓自体が盧植の四男ですし、盧毓の子、孫の代と進んで子孫も増えてゆきますから、盧[言甚]の件で族滅されたとも考えにくいですね。

ところで玄奘さんの祖先。「三國志IV事典」には、「玄奘の祖先」として陳羣の顔グラフィックが載っていました(本文に記述無し)。
この陳氏も相当な名族だったそうですし、陳泰とその族弟が結構子孫を残しているようなので、あるいは…? 

12 名前::2002/10/27(日) 22:00

松竹梅[関東] > (2001/07/26(Thu) 06:45:28)

ども、某の話題で盛り上げていただきありがとうございます。
さて、これは「ニセ」子孫なのですが、
隋王朝をたてて二代でつぶれた楊家は楊震の子孫を名乗っていたようですね。
もっとも、研究によってウソだってことがばれてますが。
でも、隋の時代でも名乗って損なしの名族なんでしょうね、楊氏。

13 名前::2002/10/27(日) 22:00

黒竜[関東] > (2001/07/26(Thu) 11:26:00)

どうも、松竹梅さんの掲示板からやって参りました。
玄奘は『大慈恩寺三蔵法師伝』に「漢の太丘の長仲弓の後」とあるそうです。

作家の陳舜臣さんの家も陳寔を祖と称してるらしくてお墓にも潁川
と刻むそうですよ(族譜とかはないみたいですけど)。

14 名前::2002/10/27(日) 22:00

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/26(Thu) 21:20:23)

ややッ! またしても貴重な情報をありがとうございます!!!

 >玉川雄一様
あ、そうですよね。盧植ファミリーが全滅したわけではありませんから、范陽の盧氏ってのは盧植の血統の可能性もあり!
あ、それとそうです!陳羣ですね!玄奘の先祖! 私も確か昔IVの辞典でちらっと見たのですよ。清流陳家は順調に子孫を残していっているようですね。

 >松竹梅様
え!? 煬帝って楊脩たちの子孫を名乗ってたのですか!?楊家は本貫が関中ですから、あのあたりで楊震の末裔を名乗る楊一族は多かったのでしょうねえ。恐るべし清流一派。

 >黒竜様
あ、ようこそ!黒竜様! やっぱり玄奘は陳羣ですか。それに――なんと!! 陳舜臣先生も潁川陳家の末裔を名乗ってらっしゃるのですか!? なんか急に陳羣が身近になった気がします!
あ、全く関係ありませんが、私は陳謙臣(弟さん)教授の授業受けてました(;^_^A 

15 名前::2002/10/27(日) 22:01

黒竜[関東] > (2001/07/27(Fri) 11:52:39)

うらやましいです。兄弟全員「臣」がつくらしいですね。
確か共同で「反旗」を邦訳してたような…

日本でも坂上田村麻呂が霊帝の子孫を称してたらしいですよ。
信憑性はゼロみたいですけど…

16 名前::2002/10/27(日) 22:01

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/27(Fri) 21:59:35)

え!? 坂上田村麻呂=霊帝の子孫!?
この霊帝というのは、あの霊帝でしょうか!?
となると海を隔てて、五百年もの歳月を経た末裔!
平安時代にも三国志って日本で知られてたんですかね〜。

17 名前::2002/10/27(日) 22:01


japan[関東] > (2001/07/27(Fri) 22:31:24)

>陳羣ですね!玄奘の先祖!
玄奘三蔵の俗名は陳イといい、陳太丘(=陳寔)の子孫であるとされていたそうです。
許の陳一族は、陳紀−陳羣−陳泰のラインよりも
陳紀の弟である陳獅フ子孫のほうが繁栄しているので
(陳獅フ曾孫・陳準は、晋代に太尉の位に就いています。)
玄奘=陳羣の直系というのはやや苦しいかもしれませんが…

でも、もし、万が一、玄奘が陳泰の子孫だったとしたら
玄奘三蔵法師には陳羣と荀揩フ血が遠く流れている――ということになるんですよね。浪漫だなあ…
(私の脳内では半分史実と化しています・笑)


>日本でも坂上田村麻呂が霊帝の子孫を称してたらしいですよ。
>信憑性はゼロみたいですけど…

以前、何かのTV番組(「開運なんでも鑑定団」だったかな…)で丹波哲郎が霊帝の子孫、とか自称していた気がするのですが…ということは、彼は坂上田村麻呂の子孫でもあるのでしょうか。 

18 名前::2002/10/27(日) 22:04

松竹梅[関東] > (2001/07/27(Fri) 23:33:48)

玄奘が陳羣の子孫かどうか、調べはついていないのですが…

>陳紀−陳羣−陳泰のラインよりも陳紀の弟である陳獅フ子孫のほうが繁栄しているので

というよりも、陳紀―陳羣―陳泰の一門が没落してしまったからこそ、陳イは仏門に入ることになったのではないでしょうか。中国では日本と違って、あまり身分の高い人が坊主になる話ってあまり聞きませんから。梁の武帝くらい?

19 名前::2002/10/27(日) 22:04

玉川雄一[関東] > (2001/07/28(Sat) 00:22:26)

ところで、「霊帝の子孫」って名乗る価値があるんでしょうか?
どうせならもっとまともな皇帝にすればいいような気もするのですが… 

20 名前::2002/10/27(日) 22:04

黒竜[関東] > (2001/07/28(Sat) 01:04:39)

正確には田村麻呂の先祖の阿知使主が、「霊帝の曾孫の阿知王」
を称していたらしいです。
案外、本人はイヤだったかもしれませんよ。だって阿知王なんていないし…

ちなみに玄奘の曾祖父は陳欽という人で北魏末期の上党太守だったらしいです。
陳覇先も陳寔を祖と称していますし(陳書に歴代の名前が載ってます、怪しいけど…)
現代でも潁川の陳氏を祖と称する人は何百万といるそうです。

21 名前::2002/10/27(日) 22:04

おばら[関東] > (2001/07/28(Sat) 01:42:04)

ちは〜っす。おいらも参戦させてくだされ。
とか言いながら、三国志とは離れてしまうのですが、日本の飛鳥時代に広隆寺を建立した秦河勝(はたのかわかつ)という人物は、秦の始皇帝の子孫を名乗ってます。その後もこの家は長く続き、雅楽を伝える家として現在も残っています。そう!CDを次々と発売し、今を時めくあの東儀秀樹がその子孫なのです!!
また秦氏の分家に、能俊(よしとし)という人物がいて鎌倉期に地頭として土佐国長岡郡曾我部に赴任しました。その直系の子孫に土佐の英雄・長曾我部元親がいるのです。秦の始皇帝の血は日本に残っていたのか〜・・・・・って、信憑性低すぎ^^;
偽三国迷のおばらでした。 

22 名前::2002/10/27(日) 22:04

ふみ[四国] > (2001/07/28(Sat) 15:34:43)

『梁書』(巻50列伝44)に出てくる盧廣は、盧[言甚]の子孫らしいですよ。范陽(涿)の盧氏は、ちょくちょく正史で名前を見かけますね〜。

23 名前::2002/10/27(日) 22:09
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 00:42:27)

おお、さらなる盛り上がりを!

 >japan様
なんと!? 丹波哲朗ですと!?
じゃあ高祖劉邦から始まった漢王朝の血統は、傍系・庶系を交えながら霊皇帝・劉宏を経、阿知王(誰?)、坂上田村麻呂を輩出し、20世紀日本で丹波哲朗を産み出したわけですか〜!!想像以上に壮大なスケールになっております(;^_^A
あと、玄奘系。う〜ん、ヒトクチに陳寔の子孫といっても、幾流かには分岐してしまうんですね…。確か六兄弟でしたっけ(うろ覚え)…?でもやっぱり陳紀−陳羣−陳泰コースを激しく希望! そうか、荀揩フ血も引くわけですね、玄奘。

 >松竹梅様
想像以上に盛り上がっています(^-^ さすがに清流貴族の血統は息が長いようですね。まあ、日本だって公家さんの血脈は千年続いてますが。
玄奘が出家したのは、生家がそれほどの貴門でなかった為なのか、単に信心深かったのか…。何にせよ、シルクロードを踏破するからには、相当に頑健な躯をしていたのでしょう。やはり陳泰の血胤希望! 

 >玉川様
それです! 丹波哲朗にしても坂上田村麻呂にしても、なんでよりによって霊帝なんでしょうか? どうせ遡るなら光武帝にしてもいいだろうし、なんなら中山靖王の末裔(;^_^Aを名乗っても支障はないでしょうに!やっぱり知名度と「霊」の語感の故か!? 

24 名前::2002/10/27(日) 22:09
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 00:42:46)

 >黒竜様
やっぱり陳氏の末裔は山ほどいらっしゃいますか(;^_^A 確か現在の魯国は、孔子の子孫を名乗る方が五人に一人いらっしゃるとか。しかもみんなが持っている家系図がバラバラ(;^_^A でもあまり気にせずに主張し続けるあたり、中国人のスケールの巨きさが伺えます。
ところで霊帝の曾孫…ということは、献帝の孫、ということですか。いま手元に献帝紀が無いので調べよう無いんですが、彼の子孫はその後どうなってるんでしょう? 「阿知王」って、あからさまに日本名っぽいんですけど(;^_^A

 >おばら様
やや、史記の方面の参戦かたじけないです〜!
こんどは始皇帝の末裔!? ――あ、渡来の秦(はた)氏って、始皇帝の「秦」を名乗っていたわけなんですか!? いま初めて気づきましたっ!! そして今は雅楽大家で(;^_^A いや、始皇帝直系かどうかはともかく、秦の遺民の末裔である可能性は結構高いですね!ふええ。
で、さらに秦氏は長曽我部氏の祖でもあるわけで。こりゃあ、意外な事実ばかり! 奥深すぎです!

 >ふみ様
おお、盧[言甚]の子孫も全滅していなかったのですね!? じゃあ盧植の血も途絶えず!意外に北方で幅きかしてたんですね、盧氏…。通史でざっと目を通すだけでも、かなり意外な人間関係というか人脈のあり方が見えてきて、三国志がよりいっそう面白くなります!!

25 名前::2002/10/27(日) 22:09

玉川雄一[関東] > (2001/07/29(Sun) 01:34:35)

献帝には三人のお子さんがいらしゃったようです。
劉熙、劉懿、劉敦。彼らがそれからどうなったかは存じ上げませんが…

晋書には、285年に献帝嫡孫の山陽公劉康が死去したと記されています。
また、289年には同じく山陽公の劉瑾の死が記録されています。

ちなみに、4世紀のどこかで陳留王(曹奐の裔でしょうか)の代替わりをみた記憶もあります。
何やら細々と続いていたようですね。

26 名前::2002/10/27(日) 22:10

黒竜[関東] > (2001/07/29(Sun) 13:58:10)

献帝の子孫は、康→瑾→秋と続き、秋が永嘉の乱で胡(民族名不詳)
に殺されて国も絶えたみたいです。

27 名前::2002/10/27(日) 22:10


ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/29(Sun) 21:19:09)

なるほど、山陽公国というのは意外に長く続いたのですね。永嘉の乱、ということは呉王朝が滅亡してからさらに30年は保っていたわけで…。
それにしても、献帝の子孫で行方の明らかなのは嫡流だけ。ということは次男・三男の血統はまだ絶えずに丹波家を流れ続けているのか〜ッ!? 個人的には、是非そうあって欲しい(;^_^A
それに曹家の裔が地方の封王として残り続けていた事も驚きです〜! まだ縁故血類鏖殺、などという血生臭い風ではなかったのですね…。せいぜい三族どまりなんでしょうか?

28 名前::2002/10/27(日) 22:10

松竹梅[関東] > (2001/07/29(Sun) 23:28:42)

三国時代って平和ですよね…まだ東晋十六国南北朝時代(縮めて言えば六朝時代だってことに今気付いた)は滅亡した王朝の一族はほぼ根絶やしですからね。
こちらも田中芳樹氏の小説より引用「新しい天子さま(梁の武帝)はなんと寛大な御方じゃ。前王朝の皇族を五人しか処刑なさらなかったぞ」(『長江落日賦』)

29 名前::2002/10/27(日) 22:11

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/31(Tue) 00:23:35)

五人しか…(;^_^A そういえば三国時代に、敵の皇族を次々殺した、なんて話は聞かないですね〜。例外と言えば劉禅の息子がドサマギに殺された(要領の悪い…)くらいですか。やっぱり平和というか、ゆったりしてますね〜。あまり将来の禍根になりそうなのが居なかったから、という事もあるでしょうが…。 

30 名前::2002/10/27(日) 22:15

松竹梅[関東] > (2001/07/30(Mon) 00:15:16)

先祖キャラ、ちょっと調べてみました。

潁川荀氏…荀況(いわゆる荀子。荀揩ヘ十六世の子孫)
趙雲…趙佗?(前漢代の南越王。ある学者さんの推定ですが)
金旋…金日テイ(匈奴休屠王の太子から帰化して活躍した名臣)
馬超…馬援(後漢初期の名将、伏波将軍)

こんなもんでしょうか。まだまだ探せばいそうですが。

31 名前::2002/10/27(日) 22:16

おばら[関東] > (2001/07/30(Mon) 02:23:13)

ほののの!趙佗が話題にのぼってますね!
うちのサイトで趙佗伝をやったのですが、レスがまったくなくて・・・。トホホでした。趙佗、個人的にはすきなんですが。マイナーすぎましたか・・・。

趙佗の出身地は真定です。そして趙雲の出身地も真定です。私も史記や漢書を読んでいて、「これは怪しいな〜」と思ったのですが、やはり学者さんがそういう仮説を立てていましたか!うむむ。
前漢の高祖劉邦は趙佗を討伐せず、文帝もさらに趙佗を尊重しました。文帝は、真定に残っていた趙佗の兄弟・親族を高官に任命しています。その後、五代目で南越国は滅ぼされ、直系の子孫が絶えました。しかし、一族の趙光が反乱に加わらず、逆に南越王を諌めていた事実が帝に知れ、趙光は随桃侯に任命されます。
趙雲が、趙佗の一族である可能性は充分あると思うんですが、どうでしょ?
ちなみに宣伝になっちゃいますが、
http://www.din.or.jp/~t-obara/chouta-top.htm target=_blank>http://www.din.or.jp/~t-obara/chouta-top.htm
で趙佗の一生が見れます。私の駄文ですが^^;
ぐっこさん、宣伝行為におゆるしを m(_ _)m

32 名前::2002/10/27(日) 22:16

左平(仮名)[北海道] > (2001/07/30(Mon) 19:49:49)

趙雲の先祖(かも知れない?)の趙佗は常山真定の人、ですか。かつての趙国の辺りらしいですから、ひょっとしたらひょっとして、、。春秋の覇者、晋文公・重耳に仕えた名臣・趙衰の子孫なんて事もいえるかも知れないですね(ついでに言うと、そのまたご先祖は殷紂王に仕えた快足の持ち主・飛廉という事にもなります)。

33 名前::2002/10/27(日) 22:16

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/31(Tue) 00:24:03)

 >松竹梅様
またしても情報ありがとうございます〜! なるほど、潁川荀氏は伊達に清流筆頭を張ってるわけでは無いんですね! あの荀子の子孫でしたか〜。荀子といえば性悪説。荀揩ノせよ荀攸にせよ、おそらくは家学として脈々とその説を受け継いでいたでしょう〜。
人の本性は悪である故に、上を犯さず礼を尊ばねばならない……なんとなく荀揩フ宰相としての姿勢がわかってくるような気がします。
他にも馬超、趙雲……金旋!? 金旋ってそんなエライ人の子孫だったのですか!?――って、そういえば彼の息子が「先祖様が云々」と言って曹操にクーデター起こしたのでした…。

 >おばら様
趙雲の先祖様判明!?
確かに常山真定という限定された地域で、趙氏なのですから、これは同族である可能性は高いですね〜!! 南越王とはまたトロピカルな…。あ、宣伝全然かまいませんよーっ! あとで拝見させて頂きます〜!趙雲の遠いご先祖(かもしれない)の一人の伝記、と思うだけでだいぶ見る目が代るような…。

 >左平様
どうも〜! あ、晋の重耳の幕僚・趙衰ですか〜!彼の子孫というと、刺客・豫譲に付け回されたが為にやたら有名になった趙襄子が! 彼らも趙雲と縁があるかもしれないと思うと、なんとなく色んな興味がわいてきます(;^_^A
で、さらにその先の悪来!? もはや神話の世界に突入の趙雲家…。でも本当だったらいいですね〜

34 名前::2002/10/27(日) 22:16

左平(仮名)[中国] > (2001/07/31(Tue) 20:27:22)

一つ訂正します。私の出身地は中国(地方)です。↑の投降で北海道となっているのは単なる入力ミスですので悪しからず。 ぐっこさん、飛廉と悪来の関係をご存知でしたか。飛廉は悪来の父です。飛廉ことエイ廉には三人の子があり、嫡男は革、次男が来(悪来)、三男が季勝といいます。趙氏は季勝の子孫にあたります。また、革の子、女防(じょぼうという男なのかぼうという娘なのかは私にはよく分かりません)の子孫が秦始皇帝になります。以上、宮城谷昌光氏の『王家の風日』より。

35 名前::2002/10/27(日) 22:16

竹梅[関東] > (2001/08/01(Wed) 00:00:48)

いうことは、左平(仮名)さんの説が正しいとすれば、
東儀秀樹と趙雲は同じく飛廉を先祖とする「遠い遠い親戚」
ということですね!!東儀秀樹のファンになる趙雲ファン激増か?

36 名前::2002/10/27(日) 22:17

japan[関東] > (2001/08/01(Wed) 22:28:15)

潁陰の荀氏が荀子の子孫、というのは出典は何処なのでしょう?
やはり後漢書ですか?
以前そういう記述を読んでから、ずっと探しているのですが…

あ、あとこのスレの冒頭の盧植のご先祖様には、幽霊と結婚して子どもまでもうけた盧充なる人物がいます。(詳細は『捜神記』にて)
陸機が盧植の子孫を「幽霊の子」と罵っているところを見ると、当時から世間に流布していた話だったようです。
先祖が幽霊…ある意味、ご先祖様が孔子や荀子というより凄いかも。

37 名前::2002/10/27(日) 22:17

黒竜[関東] > (2001/08/01(Wed) 22:43:59)

後漢書「荀淑伝」に荀淑は荀卿の十一世の孫とありますよ。

38 名前::2002/10/27(日) 22:17

松竹梅[関東] > (2001/08/01(Wed) 23:53:49)

>黒竜さん
荀卿=荀況=荀子なのです(思い込みだったりして)。
あ、ということは私の記事間違ってる。荀イクは荀淑の孫なので十三世の孫ですね。何で数字間違ったんだろ、私。
>japanさん
なぜに陸機は盧植の子孫を罵ってますか?どんな過失が?

39 名前::2002/10/27(日) 22:17

japan[関東] > (2001/08/02(Thu) 23:56:02)

>黒龍様・松竹梅様
ありがとうございました! やっぱり後漢書ですか…欲しいけれど、全巻セットでないと買えないのがネックです。
(前に神保町の東方書店で後ろのほうだけ購入しようとして恥をかいた思い出が…)

>なぜに陸機は盧植の子孫を罵ってますか?どんな過失が?

出典は『世説新語』です。今手元にないので、細かいところは不正確かもしれませんが、大体以下のような話でした。

陸機・陸雲兄弟が呉の滅亡後、中原にやって来た時のこと。
盧テイなる人物が「あなた方と、陸遜・陸機とかいう人々はどのような間柄なのですか」と尋ねたところ、陸機はすぐさま「あなたと盧植・盧毓の関係と同じですよ」と答えました。

弟の陸雲が「先方も悪気があったわけではないだろうに、どうしてそんな無礼なことを」(※相手の父・祖父の諱を口にしている)と咎めると、「あの鬼子(=幽霊の子)め、わざとに決まっている。わが父祖は江南よりあまねく勇名が光り輝いているのだ。知らない筈がなかろう」と憤ったそうです。
この一件によって、世の論者は陸機・陸雲兄弟の優劣を決定しました。

やたらとレスが長くなってしまいました…すみません。

40 名前::2002/10/27(日) 22:17

japan[関東] > (2001/08/03(Fri) 17:53:19)

×陸遜・陸機とかいう人々
○陸遜・陸抗とかいう人々
   です。重ね重ねスミマセン。

41 名前::2002/10/27(日) 22:18

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年08月02日 (木) 01時28分32秒 

 >左平(仮名)様
あ、悪来ではなくその兄貴の子孫筋でしたか…。で、弟の筋が後の秦室に。
こう考えると凄い家系だったのですね、悪来の血筋は…。そういえば、中国の財神に趙公明というメジャーな神様がいらっしゃいますが、これはどうも殷の紂王の重臣がモデルだったとか。この筋でいくと悪来がそうかもしれませんね〜。

 >松竹梅様
まわりまわって考えると、趙雲ファンはすべて東儀秀樹ファンになるべきです(^_^) 東儀家おそるべし。楽家の家本さんも、秦室はともかく趙雲と先祖を共にする可能性が論じられてるなんて、想像もしてないでしょうね〜。

 >japan様  黒竜様
そうですね〜、後漢書のほうです。黒竜様、情報ありがとうございます〜!
それにしても、後漢書の完訳本、出版されないですかね〜。いや、どこかの大学が出版するというのは聞いた事あるんですが、なんせ高い!できれば図書館で借りたい…。
ところで、盧植のさらに先祖! こんどは幽霊ですか!? 盧植は人間と幽霊の間に産れたひとの子孫なんですか!?そ、捜神記探そうっと…。幽霊と結婚――なんかふた昔前のラブコメみたいな世界だったのでしょうか(;^_^A 

42 名前::2002/10/27(日) 22:19

japan[関東] > (2001/08/03(Fri) 00:14:59)

>それにしても、後漢書の完訳本、出版されないですかね〜。

贅沢を言えば、CD−ROMで出したりしてくれると最高なんですが(三国志も)。
特定の人物に関して調べるとき、巻末の索引をペラペラ捲らなくても一発サーチ! 凄く便利そうです。

>盧植のさらに先祖! こんどは幽霊ですか!? 

もひとつおまけに、盧植の八代後の子孫・盧循は妖術を使う賊の大将だったとか。(張角かい、あんたは…)
ご先祖は幽霊・子孫は妖術使い――ということは、盧植先生にも不思議パワーがあったりするかもしれません。

>中国の財神に趙公明というメジャーな神様がいらっしゃいますが、
>これはどうも殷の紂王の重臣がモデルだったとか。

この人も捜神記に出てきます。「赤い筆」という話に、
『天帝は趙公明・鍾士季など三人の将軍を遣わし、それぞれ幽鬼どもを督励して、下界の人の命を奪わせる』という一節があるのですが…
この「鍾士季」って、やはり鍾会のことなんでしょうか。
事敗れて死した後も、こんな来世が待っていたとは…ある意味彼らしいというか。 

43 名前::2002/10/27(日) 22:19

ふみ[四国] > (2001/08/03(Fri) 07:27:12)

昨日、東方書店のメールマガジンで、このようなお知らせが。

『後漢書』(全10冊・別冊1)
第1冊 本紀 一(巻一から巻五):2001年9月25日刊行予定 9,000円(税別)
第2冊 本紀 二(巻六から巻十):2002年1月25日刊行予定 8,600円(税別)
以後、半年に1冊刊行。
吉川忠夫 訓注 A5判 上製函入 平均500頁 岩波書店

「訓注本」で完訳本ではないようですが、現代語訳も一部つくそうです。別巻は、人名索引と地名索引だとか。ちょっとお値段、高めかな〜

44 名前::2002/10/27(日) 22:20


ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/03(Fri) 22:35:53)

 >japan様
三国志や後漢書のCD-ROM!!10万以下なら買います。たぶん(;^_^A 中央研究院サマの漢文全籍資料庫のCD-ROM版みたいなものでしょうね〜! あ、できれば書き下し文と現代語訳もつけて。
それにしても盧植一門、相当の鬼道一族だったのですね(¨;) 先祖は幽霊のカワイコちゃん(死語)と結婚し、子孫は妖術を使う…なるほど、盧植自身にも何らかのパワーがあっておかしくない! ち、学園三国志の盧植先生、女性にしとけばよかった(先生は魔女)…。あ、下のスレッドのレスになりますが、陸兄弟にそんな無礼を働いたのですか、盧テイなる男は。そりゃあ怒るでしょうねえ〜「鬼子」ですか…。
捜神記、いろいろと三国志キャラが出没してますね〜。災厄の神将鍾士季…なんかあの鍾会っぽいです(;^_^A イメージ的にもしっくり。

 >ふみ様
あ、情報ありがとうございます〜! ふみ様! 岩波書店からですか〜!
……って。ええと、全10冊…で…一冊8〜9千円…てことは……た、高い〜!とてもじゃないけど市の図書館が所蔵できるモノではございません〜!! ああ、どこかの大学図書館に頼み込んで入れて貰うしか…。でも欲しい〜! いま雲台二八将について知りたくて知りたくて。呉班のご先祖様とか…。

あ、そうそう、ご先祖スレらしくちょっとした豆知識ですが、蜀の[登β]芝や呉班は、光武帝を援けて後漢王朝をつくりあげた「雲台二八将」の子孫に当たります。呉班は大司馬・呉漢、[登β]芝にいたっては二八将筆頭の[登β]禹の流れを汲んでいます。
探せば他にも山のように出てくるでしょうね〜。

45 名前::2002/10/27(日) 22:20

松竹梅[北海道] > (2001/08/04(Sat) 07:45:31)

先祖子孫門生故吏スレには合わない話題ですが、

>japan様
鍾会は5世紀頃の道教経典で、疫災をもたらしいけにえを要求する
「大鬼王」とされ、祈祷で追い払うべき悪鬼として扱われていたそうです。
(詳しくはわかりませんが)
鍾会と同様「大鬼王」として扱われたのは、永遠のライバル[登β]艾や、夏侯嬰・蕭何・韓信らなどのほかに、蒋[王宛]がいたりします。

46 名前::2002/10/27(日) 22:20

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/05(Sun) 23:09:48)

な、なぜ!? [登β]艾はともかく、なぜ蒋[王宛]が!? 生け贄を要求する大鬼王の一人に!? それなら孔明や姜維のほうが……おっと。
――あ、そういえばいずれも漢中に影響力のある御仁ばかり。結局漢中の道教徒は魏も蜀も嫌っていた、ということでしょうか〜? それにしても意外ですね〜。

47 名前::2002/10/27(日) 22:20

孫ぽこ[北海道] > (2001/08/06(Mon) 01:46:13)

ちょっと最近噂の後漢書情報を。

ヤフーショッピングによると(無責任)
漢書・後漢書・三国志列伝選  平凡社2,427円  
後漢書1〜3 汲古書院16,000円  
後漢書  明徳出版社2,400円  
和刻本正史後漢書 1〜3 汲古書院6,796円

こんな所みたいですね。とにかく汲古書院のは高すぎて手がでません^^;。ということで私は明徳出版社の後漢書と平凡社の漢書・後漢書・三国志列伝選を買いました^^;。明日届く予定です。が・・・・どうも私が注文したもの完訳じゃなさげなんですわ^^;。うーん。それともう一つ。三国志とつながる時代としてもう一つ晋書がありますよね。これって完訳はないそうなのですが、

晋書  明徳出版社2,233円  
和刻本正史晋書 3  汲古書院6,500円  

というのが見つかりました。例によって明徳出版社の方は完訳ではなさげですが、汲古書院のは完訳じゃないのかな??しかも3があるということは12があると言うことですよね???どうなんでしょう??晋書の完訳があるとかなり呉の滅亡に関する新発見もありそうな感じがします。ということで明徳出版社の方の晋書も買いました^^;。内容はあとで報告しますね(⌒▽⌒)ノ 

48 名前::2002/10/27(日) 22:21

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/06(Mon) 22:38:41)

わ、後漢書情報ありがとうございます〜部長! なるほどお、現在確認できるのはその5シリーズですか〜。平凡社のぶんは、列伝選ですから烈女とか逸民とか清流のあたりですよね〜。明徳出版もぶんも列伝選で、ちょっと薄い本だった記憶が…。
今私が喉から手が出るほど欲しいのは、「和刻本正史後漢書 1〜3 汲古書院6,796円」です!! これが三冊まとめてのお値段でしたら、先祖の墓を売ってでも買うべきです! だって最初から返り点とかが付いていて解読簡単ですもの!
それと晋書! これも欲しいです! とくに和国本正史! これは3だけでこのお値段なんでしょうか〜? 二四史中最悪と言われながらも、貴重な司馬一族の伝や王濬伝・杜預伝などの晋初の名将たちを網羅した垂涎の書! これも欲しい!

49 名前::2002/10/27(日) 22:21

玉川雄一[関東] > (2001/08/06(Mon) 23:18:25)

私が大学の図書館で読んだ(つもりの)「晋書」(房玄齢撰)は、中華書局のバリバリ漢文版でしたが、テキストそのものは「和刻本」と同じなのでしょうか?
二四史とおっしゃられると同じかとも思われますが…

ところで、ぐっこさんは『解体晉書』というサイトをご存じでしょうか?
私は最近ご無沙汰しておりますが、晋書の日本語訳を目指しておられるサイトです。確かYAHOOで検索できたかと。

50 名前::2002/10/27(日) 22:22

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:03:01)

ああ、晋書本文の内容自体は同じだと思いますよ〜。ただ和刻本の方は、返り点や送り仮名が振ってあって読解がかなり楽です。大学図書館で借りたかったのですが、史学科の学徒連が延々と借りっぱなしで一巻しか読めず…。数ある正史のなかで、晋書は最も荒唐無稽で読めたものではないシロモノ、という史家の評価のようです。
あ、それと解体晉書! 三国輔臣賛提供のサイトですね〜!そういえばかなり長い間未チェックでした…。あそこも物凄く本格的なサイトですよねえ〜。全文訳となると、どれくらいの年月がかかるのか…。ふみ様の曹子建集なみに壮大なスケールです…。

51 名前::2002/10/27(日) 22:22

ふみ[四国] > (2001/08/09(Thu) 20:50:47)

岩波の『後漢書』追加情報です。「雲台二八将」は第3巻に収録されるそうです。半年に一冊だから、手に入るのは…一年後!?
それから、現代語訳はあくまで「注」の訳で、本文の訳はつかないようです。ちょっとがっくし…(-_-;)
「解体晉書」はぜひ完成させて欲しいですね〜。自分で訳したいほど『晋書』には思い入れがないので、気長に待っていようと思います。うちのサイトは…まあ…20年後くらいにはなんとか……(むにゃむにゃ)

和刻本、私は買ってませんが、原文がないと不便だから、中華書局の二十四史を持っています。5万400円(送料込)でした。置き場所に困ってます。^^; 

52 名前::2002/10/27(日) 22:22

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:54:04)

うわ〜二四史持ってらっしゃるんですか〜!!
いいなあ〜!通史でわかるわけですよね〜!ああ、私もそれくらいは揃えとかないと〜。
ところで後漢書情報ありがとうございます〜!少なくとも来年ですか…。自分で地道に訳す方が早いかも…。
ああ、曹子建、是非とものんびりと完成させてくださいませ! 

53 名前::2002/10/27(日) 22:43

黒竜[関東] 投稿日:2001年08月19日 (日) 01時04分06秒 

18000番踏みました。
最近は読み専門だったんですが(計算が苦手なモノで)…

それだけだとアレなので手土産代わりに先祖、子孫ネタを一つずつ。
三国時代の呉綱という人が漢初の長沙王呉ゼイの子孫だそうです。
あと、以前玉川さんの話にあった陶侃の曾孫が詩人の陶淵明だとか。

54 名前::2002/10/27(日) 22:43

玉川雄一[関東] > (2001/08/19(Sun) 21:41:36)

>陶侃の曾孫が詩人の陶淵明だとか。
そうらしいんです。ご指摘ありがとうございます。
以前本屋で陶淵明の本を見つけまして、冒頭の彼の系譜についての所だけ立ち読みしました(^_^)
あまりはっきりとはしていないようですが。

ちなみに晋書には、巻九四、列伝第六四の項に「陶潜伝」があります。彼が陶淵明ですよね。そこによると
陶侃−陶茂−(不明)−陶潜(元亮、365-427)
確かに、陶侃の曾孫ですね。んが。
陶侃伝(巻六六、列伝第三六)を見てみますと…
この巻には、最初に劉弘なる人物の伝があり、続いて陶侃、以下彼の子、甥の伝がズラリ。
陶侃(士行、257-332)
以下彼の子の陶洪、陶瞻(道真、?-328)、陶夏、陶キ(劉表の次男と同じ字)、陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱。
そして陶侃の兄の子の陶臻(彦遐)、陶興。

……………あら、陶茂は? そう、思いっきり怪しいのです。
私が立ち読みした本にもこの点がツッコまれていました。やっぱり晋書がいけないんでしょうか。

はっ、そういえば陶侃の父の陶丹は呉の交州刺史だったとか。まさか、ここにまで呉国超時空領域の魔の手が!?

55 名前::2002/10/27(日) 22:43

黒竜[関東] > (2001/08/20(Mon) 00:25:47)

そうなんですよね。
実は自分の手持ちの史料にもそう書かれているモノとそうでないモノがあります。
我が部屋から発見されたアジア歴史事典の一部の陶淵明の項目を見てみると…
 →陶潜 
(しかも陶潜の項は持ってない…) 

今週水曜日に神保町に行く予定なのでその手の本でも探しましょうか… 

56 名前::2002/10/27(日) 22:44
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/20(Mon) 00:27:44)

うお! 黒竜様!キリ番イチハチマルマルマルおめでとうございます〜っ!!キリ番一ポイント!偏将軍閣下です!
ところでまたもや子孫情報ありがとうございます! なんと、以前話題の交州刺史・陶侃のひ孫が、かの詩人・陶淵明! ううむ、案外武門の末裔に文化人がぽこっと出てくる場合があるのですね…。
それと、劉氏外姓の王・呉セイの子孫は、きちんと残っていたのですか〜!呉綱…というと諸葛誕の部下ですね〜。変れば変わるもの…。

>玉川雄一様
そして陶ファミリーにまたしても謎が!?
晋書がズバリ書き忘れているのか、帝の諱でも避けて改名したのか!?陶侃がうまれた年は、だいたい諸葛誕が叛逆した当時ですか〜。

57 名前::2002/10/27(日) 22:44

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/20(Mon) 00:29:05)

うわ、またオフラインの時間差が(;^_^A ↑
神保町いいなあ…。 

58 名前::2002/10/27(日) 22:44

おばら[関東] > (2001/08/20(Mon) 03:30:27)

むははは!またまた登場のおばらです。
呉鋼の祖先はあの謎多き呉ゼイですか・・・。
呉ゼイ(クサかんむりに内)は秦の役人出身です。ハ陽湖のほとりのハ陽県県令でした。彼は百越と呼ばれた異民族を徳を持って従え、大いに慕われました。
その後、各地で反乱が起きだすと、呉ゼイは黥布と協力して反乱を起こしました。呉ゼイは獰猛な百越兵を率いて項羽とともに秦を滅ぼし、項羽から衡山王に任命されました。
呉ゼイの将軍の梅エは、劉邦と意気投合し、劉邦に付き従ったそうです。項羽が敗死したあと、呉ゼイは長沙王に任命されました。越の地の抑えとして長沙王におかれたのでしょう。
このとき列侯の身分になった百越の人は、貰侯・傅胡害、海陽侯・揺母餘、終陵侯・華毋害、シャ棗侯・革朱がいます。呉ゼイと共に戦ったおかげなのでしょうか。それとも越兵は非常に戦争に強かったのでしょうか。
また、呉ゼイの身内で列侯になった人もいます。義陵侯・呉郢、便侯・呉浅(ゼイの庶子)、[シ元]陵侯・呉陽がそうです。
漢書には、「呉ゼイの子孫は王位を失ったものの、傍流にその血は受け継がれ長く栄えた。」とありますから、呉ゼイの子孫はいっぱいいたかもしれませんね。呉鋼もその一人だったのかもしれません。

59 名前::2002/10/27(日) 22:44

おばら[関東] > (2001/08/20(Mon) 03:31:05)

(↑の続きです)また、長沙国の相も列侯に封ぜられました。[車大]侯・利倉がそうです。
利倉の妻は近年、長沙馬王堆から発見されました。死体は今死んだ新鮮?なものと変わらず、皮膚には弾力があったそうです。

魏書で呉鋼が出てくるくだりに、「前漢長沙王呉ゼイの墓を暴いたところ、生けるがごとき死体が出てきた。その現場に立ち会った人が呉鋼に『あなたの顔は呉ゼイにそっくりだ』と言うと、呉鋼は『それは私のご先祖様ですよ。』」といったところがあります。
約2000年の深い眠りから醒めた利倉の夫人でさえ生けるがごとき死体だったのですから、利倉の主人の呉ゼイの死体もそれはそれは新鮮?だったでしょう。
しかし、呉ゼイの墓を暴いたら呉鋼そっくりの死体が出てきたなんて・・・この話、ホントなんでしょうかねぇ。
史記迷のおばらでした。

60 名前::2002/10/27(日) 22:44

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/20(Mon) 23:38:16)

おお、おばら様!呉セイの情報ありがとうございます!
呉綱は、呉セイの16世のようですね〜。それと、思い出しましたよ〜、その死体の話!
嘘なのか本当なのか…。まあ、始皇帝の兵馬俑だって、空気に触れるまでは極彩色に彩られていて、中には水銀の川が流れていたという話ですし…あんがい古代中国の建築技術も凄かったのかも。
呉セイ、なんとなく初期の経歴は趙陀と似ていますね〜。あ、先ほど趙雲の先祖スレをまとめてみました(;^_^A

61 名前::2002/10/27(日) 22:45

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 20:10:56)

はじめまして。三国志の武将の先祖ネタ面白いですね。
(趙雲の先祖の話など特に)
自分の知ってるのも幾つか紹介します。既出だったらすいません。

呂凱(呂不韋)
雍ガイ(雍歯)
管寧(管仲)
荀イク(荀子)
李膺(老子)
張遼(ジョウ壱)

62 名前::2002/10/27(日) 22:45

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 20:14:06)

荀子は思いきり既出でしたね。すまんです。

63 名前::2002/10/27(日) 22:45

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/21(Tue) 21:45:09)

ナナシサソ様(;^_^A 、はじめまして〜! いえ、情報大歓迎です〜!
なるほどお、最初は読み飛ばしていましたが、あらためて正史を読み直すと、先祖の記述がびっしり書いてある武将もいるんですね〜!
特に呂凱には驚きました!…いえ、いま「奇貨おくべし」を読んでいたところなので…。不韋県とは、そのまんま呂不韋からとった地名なんですね。
となると、呂凱は始皇帝の遠縁!? そして東儀家や長曾我部とも血縁!?

64 名前::2002/10/27(日) 22:46

玉川雄一[関東] > (2001/08/21(Tue) 22:10:25)

子孫ネタです。閻圃の子孫が、唐代の画家、閻立本っちゅー人で、『歴代帝王図巻』を描いたそうです。
以上、『三國志IV事典』より。 

65 名前::2002/10/27(日) 22:46

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 22:12:45)

はじめまして、ぐっこ様。関係ないですが自分、某所のあずまんが三国志にもよく投稿してます(^^;

あと陶淵明の母親の祖父は東晋の著名人孟嘉ですが、この孟嘉の祖父が実は呉の孟宗(筍の話の彼です)。以外な所で以外なところにつながってますよね、確かに。

66 名前::2002/10/27(日) 22:46

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 22:18:04)

ありゃ、孫じゃなくて曾孫だった>孟嘉
すいません何度も(^^;

67 名前::2002/10/27(日) 22:46

左平(仮名)[中国] > (2001/08/22(Wed) 19:26:28)

だいぶ以前になりますが、松竹梅さんから、馬超のご先祖として、伏波将軍・馬援の名があがっていました。じつは、この馬援には、ちょっと名の知れた先祖(といっても直系のではなく、曽祖父の兄という事ですが)がいます。その人の名は馬何羅といい、なんと、漢の武帝の暗殺を企み、処刑された人物です。陳舜臣氏の『小説十八史略』に出ていました。なお、彼は『漢書』には莽何羅と書かれており、塚本ヨ史氏の『霍光』にもその名で登場しています。 
ひょっとしたら、、という程度の話ですが、こんな人はいかがでしょうか。、、孫堅が戦死した後、その遺体を請い受けた桓階という人がいます。この人は、長沙郡臨湘の出身との事ですが、桓氏というと、(桓階の子孫という証拠は何もないのですが)東晋王朝の実力者・桓温がいます。北伐を敢行し、王朝簒奪を目論んでいたといいますから、相当なものです。彼はよく、「男子たる者、百世に芳しきを流す事あたわざれば、まさに臭きを万年に遺すべきである!」と言っていたとか、、。結構、さまになる物語が出来そうです。 

68 名前::2002/10/27(日) 22:47

黒竜[関東] > (2001/08/22(Wed) 21:17:19)

馬何羅が漢書などで莽何羅となっているのは明帝の皇后である
馬氏(馬援の娘)が修史官にお願いして変えてもらったらしいです。
そして、馬何羅を投げ飛ばして暗殺を防いだのが金旋、金イの先祖の金日テイですよね。
馬援主役の物語が陳舜臣の「続・中国任侠伝」にありますよ。

11号のおかげで神保町へは行けませんでした…

69 名前::2002/10/27(日) 22:47

ナナシサソ[東海] > (2001/08/22(Wed) 21:53:07)

桓栄は光武帝の時代の人みたいですね。後漢書に伝がありました。
ちらっと見ただけなのですが、どうやら高名な学者さんみたいですね・・・

70 名前::2002/10/27(日) 22:47

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:09:21)

 >玉川雄一様
おお〜! まだ尽きることなくご先祖・子孫ネタが!閻圃、というとあの張魯の軍師の閻圃!おお、閻立本ならよく耳にしますが、そのご先祖様ですか〜!意外な才能を後世に残しましたね…。

 >ナナシサソ様
 …なんだか↑の言い回しが違和感アリアリ…(;^_^A 名無しさん様、という意味になるのでしょうか…。いや、しれはさておき追加情報ありがとうございます〜! 陶淵明の曾祖父の曾祖父が、孟宗になる、という計算ですね〜! 当時の文化人とは、名門どうし、やはりどこかでつながっていのですね〜。確かに意外!

 >左平(仮名)様
はい!今確認いたしました〜!小説十八史略。馬何羅! なんだか異国情緒ある名前ですが、確かに武帝を直接刺殺しようとしてますね〜!それを防いだのが、金旋のご先祖!妙な組み合わせです(;^_^A
それと桓温ですか!「竹馬の友」の語源! 「百世の名声を残せないようなら、万世の汚名を残すべし」とは相当の豪気!彼の友人達も迷惑だったでしょうね〜。
で、桓階のほうは…魏の尚書令にまで昇り、彼の孫は晋で栄達してる様子。かれが桓温と何らかの関係があるかどうか! 出身地でいうならば、文聘の後任である桓禺も怪しいかも。 

71 名前::2002/10/27(日) 22:47

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:15:09)

↑うわあ、またオフラインの間に書き込みが〜!
黒竜様、追加情報ありがとうございます〜! なるほど、馬援の娘が、先祖の罪を隠そうと…いい話なのか悪い話なのか…。
ところで、11号ご愁傷様です〜。でも神保町いつかはいきたいです…。

 >ナナシサソ様
さらに追加ありがとうございます〜! 桓温のはるか先祖様ですか〜!これが著名な学者だとすると、桓階の伝にも書かれるでしょうし…。やはり桓禺のほうが怪しいかも。

72 名前::2002/10/27(日) 22:48
左平(仮名)[中国] > (2001/08/22(Wed) 23:25:38)

趙雲のご先祖についてですが、、いくつか追記します。@趙雲の遠い遠いご先祖様かも知れない飛廉のご先祖についても宮城谷昌光氏の『王家の風日』に書かれていました。商王朝の初期に中衍という人物がおり、車の改善を王より命ぜられ見事に成し遂げた、とか、さらに遡ると、費昌という人物は、商王朝の初代・湯王の御者となり、鳴條の戦いにおいて夏の桀王と戦ったとか。費昌という人は、伯(王の名代として地方の諸侯を統括する権能を持つ)の位にあったといいますから、夏王朝の時代からの血筋という事になります。、、、本当に神話の時代にまで突入しちゃいましたね、これは。A同じく宮城谷昌光氏の『重耳』から。飛廉→季勝……趙衰という流れになるのですが、この……の部分にも、有名人がいました。造父(ぞうほ)といい、周の穆王に仕え、名御者として知られる人です。その功績によって邑を与えられてから「趙」氏を名乗る様になった、との事です。  さらに。『三国志』には何人か士氏・范氏が出てきますが、ひょっとしたらひょっとして、春秋時代一の名将・士会(范武子)の子孫なんて事は、、?中でも、士燮(字は威彦。交州に半独立勢力を築く)などは、まさしく士会の子と同姓同名。  またさらに。公孫サンや公孫度など、幽州方面に何人か公孫氏という人々がいますが、彼等もひょっとしたらひょっとします。というのは、春秋時代の君主の子孫は多くが公孫氏を名乗っているからです(例えば、鄭の名宰相・子産は穆公の孫である事から公孫僑ともいいます。商鞅は衛国の公族であり、公孫鞅ともいいます)。このあたりで公を名乗る程の勢力というと、、戦国七雄の一つ、燕が思い浮かびます。そして、その燕国の創始者の一族には、太公望・周公旦と並ぶ周王朝建国の元勲・召公セキの名が、、。もっとも、漢の時代には、投降した異民族が権威付けの為に公孫氏を名乗る事が多かったそう(塚本青史氏の『霍去病』より)ですから、匈奴の子孫、という可能性も大きいです。公孫サンが騎兵戦に長けていたのも、匈奴の血の影響あり、でしょうか? 

73 名前::2002/10/27(日) 22:48

玉川雄一[関東] > (2001/08/23(Thu) 00:24:06)

桓階ルートは別かな?
桓階伝によれば、彼の祖父は桓超、父は桓勝。桓階の嗣子は桓祐、
恐らくその他にまだ子が三人、その一人が桓嘉。東興で呉と戦い、韓綜とともに戦死した彼です。
桓嘉の子が?桓翊。また、桓階の孫に桓陵(字・元徽)がおり、司馬炎の時代にケイ陽太守になったそうで。
また、桓階の弟に桓纂。以上、魏書桓階伝および裴註からでした。

74 名前::2002/10/27(日) 22:49

玉川雄一[関東] > (2001/08/23(Thu) 00:37:20)

さて、呉書に桓彝なる人物あり。なにィ!と思ってみれば残念ながら桓温のパパとは別人。
しかしこちらの桓彝は、なんとまあ桓階の弟。しかも、呉に使えて尚書になっておりました。しかし、孫亮廃位に反対して孫[糸林]に殺されました。兄と違い、地元に残って呉に仕官したのでしょう。
さて、この桓彝、没年は258年ということになりましょうか。

一方、桓温パパの桓彝さんは字を茂倫、生没年276−328。こりゃ明らかに別人ですな。おまけにこちらの桓彝の父は桓ルなるお方だそうで。

で、望みの綱?の桓禺さん。彼が江夏太守となったという嘉平年間とは249〜254年のこと。桓ルよりも世代は上のようですねえ。

75 名前::2002/10/27(日) 22:50

ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 04:34:56)

桓栄(字:春卿)の出身も[言焦]郡竜亢なので桓階は別系でしょう。
桓禺が桓温の直系の先祖かどうかは晋書に記述が何もないのでわかりませんが、一族であることはほぼ間違いないでしょう。

桓ルについては桓彝が幼少のうちに無くなったみたいで、何もそれらしい記述はありませんでした。

76 名前::2002/10/27(日) 22:50

MOS[外国] > (2001/08/23(Thu) 05:50:22)

ちょっと御堅いカキコが連続して申し訳ありませぬ〜〜(>_<)

まず、「公孫氏が異常に多い」という事ですが・・・単純な理由があるんです。
それは「漢民族全員の祖である黄帝の姓が公孫だから」です。

ちょっとツッコむと、たしか史記の五帝本紀だったと思いますが、
黄帝は姓が公孫で帝鴻氏とも呼ばれ、黄帝の孫に当たる帝センギョクは高陽氏とも。
鴻や高陽を名としている方もいるので断言は出来ませんが、
一節によると、古来では姓と氏は別で、時が経つにつれて同一視されていったそうです。
ちなみに、黄帝以外の五帝(帝センギョク・帝コク・唐帝尭・虞帝舜)は全員黄帝の子孫で、
夏の始祖である王ウもセンギョクの子孫なので、黄帝の子孫。
さらには夏に限らず、商・周・秦も黄帝の子孫を名乗っています。

というように、ある意味「『公孫』を姓に持つ」という事は
漢民族にとっては超自然的な事だったのではないでしょうか?(^^)

つまり、公孫サン・公孫淵・公孫述が皇帝を名乗るのは当然だったのです!!(嘘爆)

77 名前::2002/10/27(日) 22:50

MOS[外国] > (2001/08/23(Thu) 05:52:11)

訂正
「鴻や高陽を名としている方」→「鴻や高陽を名としている研究家」
わかりにくい表現で失礼しました。。(^^ゞ 

78 名前::2002/10/27(日) 22:50

ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 14:32:11)

自分の投稿した陶淵明の先祖の話で誤植が・・・

×陶淵明の母親の祖父
○陶淵明の母方の祖父

でした(汗 

79 名前::2002/10/27(日) 23:23

MOS[外国] 投稿日:2001年08月23日 (木) 06時32分19秒 

秦氏をちょっと調べてみたんですが・・・
http://www4.justnet.ne.jp/~takeuchi_toshinori/tai_1_26.htm target=_blank>http://www4.justnet.ne.jp/~takeuchi_toshinori/tai_1_26.htm
↑を見る限りだと、伊賀の服部家も秦氏の子孫のようですねぇ♪
そういえば、どっかで聞いた覚えが・・・あるような無いような(笑)

ちなみに、エイ氏・趙氏は黄帝の長男玄囂の子孫だそうですよ。
玄囂は位を継げずに、また、一節には継いだけれど後に剥奪されて、
甥(黄帝の次男の子)であるセンギョクが五帝の2番目に来ています。

80 名前::2002/10/27(日) 23:24

黒竜[関東] > (2001/08/23(Thu) 09:25:51)

公孫氏の話なんですが、「中国姓氏考」という本に引用されている
「通史」氏族略には
「春秋の時、諸侯の孫亦以て氏と為すは、公孫氏と曰い、皆貴者の称たり」
とあって別項には、「公孫は爵位を氏としたもの」となってますから
黄帝まで遡らなくてもいいようです。

ちなみに氏(姓は除く)は不変ではなく、宋の系図を例にすると、

桓公→公子目夷(字は子魚)→公孫友→魚石

と世代ごとに変化するなかで、公子、公孫、王子、王孫などの氏が
成立したらしいです。
公孫以外はあまり見かけませんけど…

81 名前::2002/10/27(日) 23:25

ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 13:48:56)

>服部家
服部家は自ら伊賀平氏を名乗っています(汗
平氏物語にも登場する伊賀左衛門尉家長を家祖としているようですね。「三国地誌」という書籍には「服部家が秦氏の末裔というのは誤りである」とあるそうです。

82 名前::2002/10/27(日) 23:25

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/23(Thu) 23:03:22)

■桓温のご先祖は…
ご先祖の諱を避けるハズですから、桓彝を挟む時点で桓階━桓温ルートは無いかもしれませんね〜。同郷で同姓、というだけではありますが、桓禺のほうはそれっぽいですね。…それにしても、これまであまり興味の無かった桓階について、急に詳しくなりました(^_^)

■ご先祖さま
商王朝! 夏王朝! さいごは黄帝!本当に神話ですね〜(;^_^A おお、費昌ですか〜! 伊尹のお話あたりに登場してるかも! さらに趙雲のご先祖を追加せねば!案外すごいぞ、子龍! また陳到に差を開けた!
いま手持ちの正史全人名辞典(ちくま)を確認したところ、「三国志」に登場する士氏は10名。そのうち9名がなんと士燮の一族!(^-^; ちなみにあとひとりは、いわゆる傅士仁です。「沙中の回廊」を読んでいて「あ、士燮がいる〜♪」と思ったものですが、やはり先項の避諱の風習からして、士会と交州の士燮は別ルートかもしれません〜。

83 名前::2002/10/27(日) 23:25

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/23(Thu) 23:03:38)

■公孫!
これですこれ!公孫無知とか公孫なんとかとかが色んな国でゾロゾロ出てくるため、春秋歴史新聞を読んでいても頭が混乱します(;^_^A なんか凄い氏ですよね〜、公孫とか王子とかって。名字の決め方がアバウトすぎ!せめて周公旦、みたいに国名を入れてくれれば…。
でも遼東公孫氏については、公家の後裔よりも異民族タイプの方がしっくりきますね〜。豪族の間でそれと言って人望のない(というより全くない)公孫度が、短期間で北辺を踏み固めたのには、個人の武略以外に理由があるような。
でも、公孫家には燕王…そして召の血がある可能性…。あ、黄帝の姓も公孫ですか!? 
そういえば遼東公孫家、「雷火」で邪馬台に仇なす悪役として登場。

■伊賀!
くわ〜っ!なんというか、忍法にしても医学にしても音楽にしても、大陸渡来を看板にする流派が多い!――いえ、実際そうなんですが、やはり当時としてはハヤリだったのでしょうか!? 
それにしても薬師本家の丹波氏には驚きました。坂上田村麻呂の後裔たる丹波哲朗氏、劉家の北斗神拳の継承者なんですって?

84 名前::2002/10/27(日) 23:26

左平(仮名)[中国] > (2001/08/24(Fri) 21:42:18)

ふっと気になったので、手持ちの宮城谷作品から、士会の血族をチェックしていましたら、、まぁ、子孫の幅の広いこと、広いこと。こんな具合です。 @西周の時代、岐山(長安の北西のあたり)の北方に杜という国があり、その君主を杜伯といいました。杜伯は無実の罪により宣王に殺されるのですが、その子の一人である隰叔(しゅうしゅく)は晋に亡命しました。彼こそが士氏の始祖です。また、杜伯の子は他にもいたでしょうから、杜氏を名乗り続けた者もいるはずです(詩聖・杜甫のご先祖、杜預の祖父・杜畿は京兆郡杜陵の人といいますから、杜伯の子孫という可能性あり)。 A士会は末子(字は季)ですから、当然兄がいます。士会の兄の系統(又は士会の子の一人、士魴)の系統はそのまま士氏を名乗り続けたと考えられます。 B士会はその食邑名から、随会とも范会とも呼ばれます。したがって、随氏・范氏も士会の子孫という可能性があります(なお、遠交近攻策を提唱した秦の宰相、応侯・范雎も士会の子孫を自負しています−『青雲はるかに』より)。士氏は、士会のあと、士燮−士カイ(勹の中に亡)−士鞅−士吉射と続き、趙氏との戦い(范氏・中行氏の乱)に敗れ、晋を追われます。彼等は斉の方へも行ったといいます。 C士会は、一時秦に亡命していました。趙盾・郤缺の策によって晋に呼び戻されたのですが、その時、秦に残留した族人がいます。彼等は劉氏を名乗った(!)そうです。  杜氏・士氏・随氏・范氏、そして劉氏はすべて、士会の遠い遠い一族と言えなくもありません、、。

秦氏の子孫についてですが、、たしか、羽田孜・元首相も確かその一人だったかと。首相になった当時、TVで聞いた覚えがあります。、、どうみても始皇帝とのつながりは見えないんですけどねぇ、この人の場合は。 

85 名前::2002/10/27(日) 23:26

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/25(Sat) 00:27:19)

うお!? かの士会の血縁が、こうも広範に散らばるとは!? 彼や重耳のように、流浪だの亡命だのを繰り返した結果、全土にその胤を残すパターンもあるのですね〜。そしてみんなが別々の氏を名乗るからよけいにわけがわからない! どうして中国人は姓と氏を分けるのですか〜!

羽田元総理も、秦氏ですか…。あ、ハタつながりということで…。でも、結構本当っぽいですね〜。なら羽田さんも趙雲の血縁グループに!

86 名前::2002/10/27(日) 23:28

左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 13:54:09)

ご先祖ネタで趙雲と陳到の差が開く一方なので、陳到のご先祖ネタ(相変わらず根拠は薄弱ですが)も一つ。陳到(字は叔至)、汝南の人。、、陳氏という事から、当然、春秋時代の陳国との縁が考えられます。汝南はかつての陳の地よりだいぶ南にあるのですが、、何と!張コウは(吉川三国志では)三度死ぬ、ではありませんが、陳は三度滅んでいるのです!その一回目は、覇王・(楚の)荘王の時の事(ちなみに、二回目も三回目も楚によって滅ぼされています)。この時、南方に抑留された陳の人々もいるでしょうから、その末裔の一人が陳到という事も。なお、この陳の公室の先祖は、虞の閼父といい、周王室の陶工の長でしたが、その子は周の武王の長女を娶り、陳国を開いています。さらに、そのご先祖は、何と太古の帝王・舜! 

以前の士会の一族ネタで出てきた、杜陵という所ですが、、伴野朗氏の『中国・反骨列伝』の中に、西安(かつての長安)の東南という記述がありました。杜伯と杜預とのつながりはどうなるのでしょうか?、、それはさておき、魏に蘇則という人がいたので、まさか、と思い「三国志全人名事典」(徳間書店)でチェックしましたら、扶風郡武功の人、とあります。扶風郡は長安近郊ですから、上述の杜陵で生まれ育ったらしい、典属国・蘇武(匈奴に十九年もの間抑留されながら、ついに節を曲げる事なく漢に帰還したという傑人。悲運の名将・李陵の友人ともいいます)の名が。蘇武は期間後も二十年あまり生きたといいますから、彼の子孫が一人くらいいても不思議ではありません。 

87 名前::2002/10/27(日) 23:28

竜[関東] > (2001/08/26(Sun) 20:18:34)

杜甫の詩のなかに自分の家系を誇るものがあって、それによると
陶唐氏堯帝の子孫で、杜預が十三代祖先であるとしているそうです。

ちなみに杜預の先祖である杜周(漢書に伝有り)はもともと南陽郡杜衍の人ですが、
子の杜延年が杜陵に移り住んだんだそうです。
杜周は陶唐氏の末裔を称していたそうですから一族発祥の地に戻ったようです…
総合すると、陶唐氏→杜伯→杜延年→杜預→杜甫
という感じでしょうか。

88 名前::2002/10/27(日) 23:28

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/26(Sun) 22:19:47)

おお、今度は陳到が! そうですよね〜、趙氏が黄帝まで遡った以上、陳氏も神話までいってもらいましょう(;^_^A
で、陳公の血筋ですが…なるほど、帝舜の末裔ですか! となると姚姓。すると虞翻あたりと同姓ですね〜。なんで中国人って姓と氏を分けるのでしょうか…。
さておき、杜預!こちらは帝堯!姓は伊祁!……いま私は姓氏一覧を参照していますが、当時の人々は当然、氏を聞くと即座に姓を答えることが出来たのでしょうね〜。同姓不婚とかもあったでしょうし…。で、杜預は帝堯の血を引く杜家に産れ、13世後に杜甫をうむ、と…。
なんだか呆然とする話ですよね〜。
他にも、魏の西方面の押さえである蘇則! これが蘇武の子孫!いま十八史略で確認しましたが、なんでも部下の不始末を償うために、いちど剣で我が胸を刺し通し、死んだとありますね〜。で、匈奴の秘術で蘇った、と。氏に忠実な人物ですね〜。

89 名前::2002/10/27(日) 23:29

左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 23:06:16)

秦氏関係で、もう一つ思い出しました。確か、桓武天皇の母は秦氏の女(むすめ)だったかと。日本史の百科事典でずっと昔に読んだ記憶があります(違ってたらごめんなさい)。ためしに古文の辞典で皇室の系譜を見ましたら、桓武天皇から今上天皇まで、ず〜っと辿る事ができるのです(南北朝などもありますが、それをも乗り越えて)。と、いうことは、、。書いてて、こんなに話が広がっていいものか、と思わず自問してしまいます。

90 名前::2002/10/27(日) 23:30

松竹梅[関東] > (2001/08/27(Mon) 00:52:30)

法正の曽祖父は法雄といって、どうも田斉の襄王の子孫らしいです。ということは、法正には陳無于の血が流れてるのか…と思えばなんとなく納得かも。ということで、法正も先祖は帝舜ということになりました…でいいのかな?

91 名前::2002/10/27(日) 23:30

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/27(Mon) 23:49:06)

こんどは天皇家〜!! 秦氏おそるべし〜! あ、いま趙雲様のご先祖のページを更新しました〜。それ以後に出てきた話題の人物を追加しております〜。

そして法正! こちらは斉の襄王!? …と、松竹梅様、その法雄という人物は三国志には記述されてないです〜。ソースは三国志集解ですか〜!? いいなあ…。

92 名前::2002/10/27(日) 23:30

松竹梅[関東] > (2001/08/28(Tue) 07:53:18)

ソースは『後漢書』38巻法雄伝と、83巻「逸民列伝」ちゅうの法真伝です。
法正の祖父、法真は門下生数百人を抱える「関西の大儒」であり、寡欲にして官に仕えなかったという、法正の祖父だとは到底思えない人物です。ちなみにこの人「玄徳先生」と呼ばれていました。法正と劉備の意外な接点? 

93 名前::2002/10/27(日) 23:31

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/29(Wed) 00:20:38)

うお!? またしても後漢書! あう〜、また県立図書館から借りなきゃ…ええと、38巻ですね〜。
それにしても、「三国志」になくて「後漢書」に伝のある有名人(関係者)、あるいは後漢書の方が詳細な人物って、どれくらいいるのでしょう…? 徐栄の末路なんか、三国志には載っててませんでしたよね〜。

94 名前::2002/10/27(日) 23:31

玉川雄一[関東] > (2001/08/29(Wed) 01:15:25)

えと、羊[示古]のオジーさんの羊続の伝がありますね。巻三十一に。
チョイと前に、羊[示古]の父の羊ドウ(行がまえに首)の同名異人問題を調べていて、参考にしようとしたのですがあまり解決にはなりませんでした。

95 名前::2002/10/27(日) 23:31

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/30(Thu) 22:26:34)

おお、羊[示古]のお祖父さんですと!? う〜む、後漢書は宝箱ですよね〜!
羊ドウですと…なるほど、他にも南陽出身の羊ドウさんがいらっしゃるのですね。しかしまた、羊[示古]の父親の名前って、どこに載って…って晋書ですよね〜。ああ、晋書も欲しい…。

96 名前::2002/10/27(日) 23:57

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月31日 (金) 21時06分27秒 

以前、陶侃の父、陶丹が呉の交州刺史だったと申し上げましたが、私の勘違いだったかもしれませぬ。
先程『解體晉書』さんのサイトで列伝の訳を拝見していましたら、「陶[王黄]伝」の初っぱなに、「陶[王黄]の父の陶基は呉の交州刺史となった」とあったのです。なんか、これと記憶がごっちゃになっているかもしれません。「陶侃伝」で確認できればいいのですが…

陶[王黄]の弟には陶濬がいます。また、陶基、陶[王黄]、その二人の子の陶威、陶淑、陶威の子の陶綏に至るまで、四代五人が交州刺史を歴任するという南方統治のエキスパート?な家系だったようで。

…やっぱ陶丹が交州刺史だったっての、勘違いかもなあ。

97 名前::2002/10/27(日) 23:57

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/31(Fri) 22:44:21)

ちょっと確認してみましょう〜!
まず陶丹というと陶淵明の遠い先祖で、

 >ちなみに晋書には、巻九四、列伝第六四の項に「陶潜伝」があります。
 >彼が陶淵明ですよね。そこによると
 >陶侃−陶茂−(不明)−陶潜(元亮、365-427)
 >確かに、陶侃の曾孫ですね。んが。
 >陶侃伝(巻六六、列伝第三六)を見てみますと…
 >この巻には、最初に劉弘なる人物の伝があり、
 >続いて陶侃、以下彼の子、甥の伝がズラリ。
 >陶侃(士行、257-332)
 >以下彼の子の陶洪、陶瞻(道真、?-328)、陶夏、陶キ(劉表の次男と同じ字)、
 >陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱。
 >そして陶侃の兄の子の陶臻(彦遐)、陶興。

 >……あら、陶茂は? そう、思いっきり怪しいのです。
 >私が立ち読みした本にもこの点がツッコまれていました。
 >やっぱり晋書がいけないんでしょうか。

 >はっ、そういえば陶侃の父の陶丹は呉の交州刺史だったとか。


という家系ですね〜!

で、陶[王黄]のほうはというと、呉の蒼梧太守として呉の最南端を守護し、交州の牧になった人物!なかなかの勇将だったようですね。
弟の陶濬は、呉の最後の荊州牧・鎮南将軍として晋軍を迎え撃ったはいいが、翌日兵士全員に逃亡されたという困ったさん。
彼らは丹陽の出身であったようですが、陶侃のほうはどうなんでしょう?

98 名前::2002/10/27(日) 23:57

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/31(Fri) 22:46:51)

どうも交州って、世襲というか独立勢力っぽいイメージがありますので、同族でないと牧や刺史職をまわしたりできないかも…。
加えて、また時間軸の問題が発生しそうですね〜 

99 名前::2002/10/27(日) 23:57

玉川雄一[関東] > (2001/09/04(Tue) 22:40:30)

えー、「解體晉書」さんで教えていただけました。
やはり私の記憶違いでして、陶丹は呉の交州刺史になったという記録は残っていないそうです。間違いなく、陶基と混同していました。
しかし、陶丹は呉の揚武将軍だったそうです。出身は[番β]陽とのことで、やはり呉に仕えていたそうで。

100 名前::2002/10/27(日) 23:58

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/09/06(Thu) 22:59:20)

なるほど、[番β]陽出身ですかー。じゃあ別口の陶氏ですね〜。
それより陶[王黄]、陶濬兄弟の方が気になる。丹陽の陶氏というからには、かの徐州の梟雄・陶謙と同族なんでしょうね〜。

101 名前::2002/10/29(火) 22:52

玉川雄一   

★ 丁奉の子発見!? ★

晋書の三国志関連人物を洗うべくパラパラとめくっておりますと、思わぬ発見が!?

これまではろくすっぽ目にも通さなかった「志」の部分を読んでいましたら、五行編に怪異現象じみたお話が。こりゃ面白そうと見ていますと、「豕禍」の項に呉の丁奉が登場!

三国志呉書丁奉伝では、彼の死後孫晧によって家族が強制移住されたと書かれていますが、実はそれは「豕禍」が原因だった?
なんでも、丁奉の営に野豕が入ってきたことがあったそうで、遺族の災難もそれが原因だろう、と。

そして、発見! 晋書の例の件には、孫晧によって丁奉の子の丁温が殺されたとあるようなのです!
呉書には載っていない丁奉の子…ただいま、「解體晉書」さんで鑑定を依頼中であります。

うーむ、列伝だけでなく、「志」もあなどれませんな…

102 名前::2002/10/29(火) 22:55


ぐっこ     2001年09月23日日曜日 23時38分

なんとっ! 三国志に名の無い人物! 丁奉の子の丁温! しかも孫晧に誅されてる…。これだから晋書ってやつは〜!
こりゃあ探せばウハウハですな〜!どんな人物がどんなところから飛び出して来るやら…。
正史で馴染の「索引探し」が出来れば随分楽でしょうが…。いいな〜!
あ、私は引き続いて後漢書と格闘中。…漢文、嫌いです。

103 名前::2002/10/29(火) 23:02

左平(仮名) 

「三国志全人名事典」から、姓または氏が同じというだけで「ひょっとしたら?」というご先祖候補の有名人をかたっぱしからピックアップしてみようかと、、。なお、出身地などは省略しておりますので、根拠は全くといっていいほど、ないです。また、韓・魏・趙、王・張・李・劉・曹・孫といったところは人数が多すぎるので省略。
【い】尹〜 尹佚(いんいつ:史佚とも)。周王朝初期の史官。成王がたわむれで弟の唐叔虞(晋国の祖)を「封じる」と言ったのを「そのとおりになさる様に」と諌める。「天子に戯言があってはならないのです」というのがその理由。→『重耳』(上)
・尹黙、尹賞など。
【え】衛〜 衛青(えいせい)。前漢・武帝の衛皇后の弟にして、大将軍。匈奴との戦いで戦功をあげる。彼の死後、巫蠱の乱(ふこのらん)で一族は滅んだはずですが、あるいは、、。→『霍去病』『中国傑物伝』
・衛カン(王に灌の右側)、衛茲など。
【え】閻〜 閻楽(えんらく)。秦の宦官・趙高の親戚。二世皇帝・胡亥を自殺に追い込む。それだけ。→『小説十八史略』
・閻圃など。
【か】華〜 華元(かげん)。春秋時代中期・宋の宰相。出目で太鼓腹という愛嬌あるキャラクタ−。晋・楚二大国の和平を斡旋。→『華栄の丘』
・華キン(音に欠)など。
【か】カイ(萠にリ)〜 カイ通(かいとう)。韓信に「天下三分」を説いた説客。→『史記の風景』
・カイ越・カイ良兄弟。
【か】霍〜 霍光(かくこう)。前漢の昭帝・宣帝を支えた実力者。「関白」の語源でもあります。彼の死後、霍氏は滅ぼされているはずですが、あるいは、、。→『霍光』
・霍峻、霍弋親子など。

104 名前::2002/10/29(火) 23:51

左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 20時00分

【こ】伍〜 伍子胥(ごししょ)。名は員。子胥は字。楚の名臣・伍挙の孫。父と兄を楚王によって殺された為、呉に亡命し、楚王の屍を鞭打って復讐したという。後、讒言を信じた呉王によって自殺させられ、屍は長江に流された。なお、彼の子は斉の鮑氏に託されたという。伍子胥=孫武という説もあるとか。→『小説十八史略』
・伍朝など。
【こ】高〜 高固(こうこ)。春秋時代・斉の名族。斉が晋の大臣・郤克(郤缺の子。容貌が醜悪だった)を辱めた直後に晋が主催する会同(国際会議)に出席せざるを得なくなったが、郤氏の報復を恐れて引き返す。なお、彼にかわって会同に出席した事で、晏弱は一躍有名になり、後に彼の子の晏嬰が宰相の位に登るきっかけとなった。→『晏子』
高柔・高幹など。
【こ】国〜 @子産(しさん)。春秋時代・鄭の名宰相。孔子に敬仰された、当代随一の知識人。一代改革を断行し、初めて成文法を作った人でもある。氏名はふつう公孫僑といわれるが、彼の父の字が子国であった事から、彼の家は国氏ともいわれる。→『子産』
      A国左(こくさ)。春秋時代・斉の名族。なかなかの辣腕家であったが、崔杵の策謀にかかり、粛清される。→『晏子』
・国淵、国泰親子。

105 名前::2002/10/29(火) 23:52
左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 21時00分

【さ】崔〜 崔杵(さいちょ)。春秋時代・斉の人。斉を強国とした名臣であったが、斉公が妻を奪おうとしたのに対して激怒し、ついに斉公を殺害する(この直後、「崔杵弑其君」という記述をめぐって史官と対立)。数年後、彼の一族は滅びるのですが、彼の子の一人は魯へ亡命し、生き残ったそうです。なお、『世説新語』には、晋代にその子孫の崔正熊という人物がいたという記述があるとか。→『晏子』
・崔烈、崔林、崔エン(王に炎)など。
【し】荀〜 荀林父(じゅんりんぽ)。春秋時代・晋の宰相。名将・士会と同時代の人であるが、割と温厚かつ平凡な人。彼の子孫が中行氏を、彼の弟の子孫が知氏を名のる。→『沙中の回廊』
・荀掾A荀攸など。
【し】淳于〜 淳于コン(上は髪の上部、下は几)(じゅんうこん)。奴隷出身。人の心理を読むのに長け、ユ−モアに富んだ人。確か、彼の子孫の一人に、かの鑑真和上が。→『小説十八史略』『反骨列伝』
・淳于瓊など。
【し】上官〜 上官桀(じょうかんけつ)。前漢の武帝の護衛。武帝が崩ずる際、霍光らとともに後事を託される。後、霍光と対立し、一族もろとも滅ぼされる。しかし、あるいは、、。→『霍光』
・上官崇など。
【と】東方〜 東方朔(とうほうさく)。前漢の武帝の時代の人。博学多才のユ−モリスト。塚本ヨ史氏の作品では、体を自由自在に折り曲げる事の出来る長身の美男という設定。→『霍去病』
・東方安世。
【と】董〜 董狐(とうこ)。春秋時代・晋の史官。趙氏が晋公を殺害したのを「趙盾弑其君」と記した(趙盾自身が晋公を殺したわけではないが、一族の者が起こした事件に対し、趙氏の総帥であり、かつ亡命直前とはいえ一国の宰相であった趙盾にはそれを止める責任があったとみなした)事で孔子に賞賛される。→『孟夏の太陽』
・董遇など。
【は】白〜 白起(はくき)。戦国時代・秦の常勝将軍。長平の戦いでは、趙軍45万のうち5万を戦死させ、残る40万をすべて穴埋めにして殺したという。後に自殺を命じられる。→『白起』
・白波など。
【は】樊〜 樊カイ(口に會)。漢の高祖・劉邦の護衛。劉邦の正妻・呂氏の妹の夫でもあります。彼と呂氏との間の子は呂氏が滅ぼされた際に殺されていますが、他はどうなのか、、。→『小説十八史略』
・樊稠など。
【ほ】鮑〜 鮑叔(ほうしゅく)。名は牙。叔は字。春秋時代・斉の人。「管鮑の交わり」で知られる。→『管仲』(現在連載中との事。著者は、もちろん、宮城谷氏です)
・鮑信など

すみません、一つ訂正が。【け】の「ケイ」ですが、「刑」ではなく、「刑の左側に郤の右側」です。
また、ご先祖?の追加を。
【ら】欒〜 欒氏。西周時代に晋の公室から分かれた名家。欒書(らんしょ):春秋時代、晋の宰相。讒言によって郤氏を滅亡させた後、晋公(q公)を殺害。彼自身は普通に亡くなっているが、孫の代に士氏と争い、滅ぼされています。→『子産』
・欒文博。
【よ】羊〜 羊斟(ようしん)。春秋時代、宋の人。戦いの前に、不吉さを感じた華元が羊の肉を与えなかった事を恨み、華元を敵中に放置する。後、華元が宋に帰還すると、魯に亡命する。→『華栄の丘』
・羊コ(示に古)など。、、ただ、死後、住民たちが石碑(祭りの時にはその死を悼んで泣いた為に堕涙の碑と呼ばれたという)を建てたという名将・羊コの先祖としては恥ずかしすぎますが、、。
【ほ】北宮〜 北宮佗(ほくきゅうた)。春秋時代、衛の人。北宮氏は、衛の名家です。楚の霊王の最期を預言。→『子産』
・北宮玉。

106 名前::2002/10/29(火) 23:52

玉川雄一     2001年09月30日日曜日 20時10分

遡りますか! 意外なのが判明すると楽しいですね。
で、ご協力できないのが恐縮ですが…
高柔と高幹どうしも縁続き(ちょっと遠いけど)らしいんですよね。
何となく意外でした。やっぱり高幹もただもんじゃありませんのね。

107 名前::2002/10/29(火) 23:53
ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時26分

うわあ、これはまた膨大なリストアップありがとうござます〜!左平(仮名)さま!
中国の思想として、同姓を遡れば元はひとりと換算するそうですから、上記の人物達はそれぞれ共通の先祖を持っていたと考えられてたでしょうね。
で、比較的近い血族を捜すのにまず見るのが本籍の所在地ですが…。まずピンと来るのが、衛青━衛カンのライン。出身地は隣同士です。襄陽のカイ兄弟については、カイ通の子孫であると明記されてますねー。
郤正も河南の出身ですから、郤氏の血脈であるっぽいです。国淵、国泰も旧斉領の辺境・楽安出身ですので、国左の血を引いてるかも。あと、荀子は潁川荀氏の直系の先祖の様子。

ひとつ気づきましたが、食い物の恨みであの名宰相・華元を敵に売り渡した羊斟と言う人物、これは後世につけられたあだ名のようです。「羊斟」とは、文字通り「羊のスープ」という意味で、これこそが華元が彼に与えなかったメニューです。中国人の命名法って…。
とにかく、羊[示古]は彼の血を引いてなさそうで、彼のファンは一安心。
あ、それと鮑信の本貫は泰山郡。鮑叔の子孫は代々斉の正卿だったようだから、血縁があるかもしれません…。」

……う〜む。ざっと先祖の氏を紐解いただけでも、けっこう春秋以前の歴史と三国志が繋がるものですね!

108 名前::2002/10/29(火) 23:53

ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時29分

あ、高柔は高幹の「従弟」あるいは「叔父」のようです。家系図を見る限り叔父のようですが…。






┃━┳━┓
靖 昌 賜
┃   ┃
柔   躬
    ┃
    幹

ふ、IEで見るとまたズレるんでしょうねえ…。LINUXなら大丈夫なのに…。」

109 名前::2002/10/29(火) 23:54

おばら   2001年10月01日月曜日 04時01分

左平(仮名)さん、はじめまして。おばらと申します。
樊カイの子孫についてですが、
呂シュ(呂后の妹)との間にできた嫡男の樊伉は、呂氏討滅のドサクサに紛れて母と共に殺されてしまいます。
しかし、樊カイには庶子があり、樊市人が家を継ぎました。29年して樊市人は死に、子の樊他広(もしくは樊佗広)が継ぎ、6年して平民におとされました。
その後も細々と家は続いたようで、王莽に毒殺された平帝の時(紀元2年)に、樊カイの玄孫の子の樊章が祖先の舞陽侯の爵位を継いだとか。

その後は、知りませぬ。(^^;;
お騒がせしました〜。

110 名前::2002/10/29(火) 23:55

おばら
 
楊喜



楊毋害



敞 司馬遷
|――+ │
忠 ヲ = ○
| │
譚 ■(酒泉郡に配流)




|―+―+
牧 秉 奉
| │ │
■ 賜 [専文]
| │ │
奇 彪 衆
| │
亮 脩




│――+―+
[山喬] 俊 髦

以前、話題になっていた楊氏を系図にまとめてみました。
きっと稚拙な頭脳で書いたので間違いだらけでしょう。
おおめに見てやってくださいましー。
なお、晋書は参考にしてません(知らないとも言う^^;)ので、
晋書を通読された方なら書き足すことができるでしょう。
玉川さまあたりなら・・・(他力本願)

111 名前::2002/10/29(火) 23:55

おばら   2001年09月28日金曜日 01時57分

んぎゃ〜〜〜〜
ずれちまった!!
楊ヲの妻は、司馬遷の娘です。楊ヲは楊忠の弟です。
あとずれた所は、楊囂以下全てですゥ(泣)。
楊囂は楊脩の子どもです。
ホントにすみませぬ〜。ごめんなさいデス。

112 名前::2002/10/29(火) 23:56
玉川雄一     2001年09月28日金曜日 10時11分

では引き続き。いや、別に苦しくなんてありませんから(^_^)

楊準の子に楊[山喬]、楊髦、楊俊の3人を挙げられていますが、
楊[イ全]期伝によれば彼の祖父は楊林というそうで、
楊林も楊準の子にあたるので4人兄弟ということになりましょうか。

で、楊林の子が楊亮。その子が楊[イ全]期(?-399)。
楊[イ全]期には兄の楊廣(?-399)、弟の楊思平(?-408)がいました。
また、彼らの従弟に楊尚保という人物もいたそうです。
「(兄弟)皆強C粗暴」ってあるので、ワイルドな兄弟だったのでしょうかね。

楊[イ全]期は武勲著しく、一旦官を退いてのち荊州刺史殷仲堪の麾下に属しましたが、
桓玄と戦って兄の楊廣と共に戦死しました。
その首は都(建康でしょうか)にさらされたそうです。

事情がうまくつかめないのですが、当初は殷・楊とも桓玄に従って叛乱を起こしたらしいのですが、
結局桓玄と戦うことになって戦死したようです。仲間割れ?

反乱軍の首魁、桓玄に討たれたとはいえ、楊[イ全]期も当初は桓玄に与したということで、梟首ということなのでしょうかね。
この時楊思平、楊尚保は逃れましたが、「思平、尚保後亦以罪誅、楊氏遂滅。」とあります。楊林の系統はここでジ・エンドの模様。

ちなみに、安帝紀(司馬徳宗)義熙4年11月の項に、「梁州刺史楊思平有罪、棄市。」とあるのはこのことでしょう。
また、同年12月には陳留王曹霊誕薨ずともあります。陳留王家、まだ続いていましたのね。

楊氏の他の系統はまだ続いたのでしょうかね。まさに大河一族!
さらにこの先をご存じの方へバトンタッチ!」

そうそう、義熙4年は西暦408年です。念のため。
5世紀に入っても三国志関連人物のネタがあるとは、
恐るべし中国…

113 名前::2002/10/30(水) 00:00

おばら   2001年09月28日金曜日 15時30分

玉川様、訂正&補足ありがとうございます!!
いやー、さらに続いているとは、恐るべし!

あと、少し訂正。司馬遷の娘は、楊敞の妻でした!
勘違いでした。すいませーん。

114 名前::2002/10/30(水) 00:01

ぐっこ     2001年09月28日金曜日 22時53分

で、手元の史料とおばら様と玉川様の情報を元に、組み直してみました〜!


    楊喜(項羽の死体の一部をゲット)
    ┣━━━━┓
    ■    敷
    :    ┃
    ■    母害
    :    ┃
司馬遷 ■    ■ 
 ┃  ┃    ┃  
 娘==廠    孟嘗 
  ┃ ┣━┓  ┃
  ■ 忠 渾  恢 (←渾のせいで一族流浪中)
    ┃    ┃  
    譚?   譚?  
    :    ┃  
    :    並
    宝
    ┃
    竇
    ┃
    震☆
  ┏━╋━━┳━━┓
  奉 秉  牧  ■
  ┃ ┃  ┣━━┓
  敷 賜  馥  統
  ┃ ┃  ┃
  衆 彪☆ 奇
    ┃  ┃
    脩☆ 亮
    ┃
    囂
    ┃
    準
 ┏━━╋━━┳━━━┓
 髦  林 [山喬]  俊
 :  ┃
 ■  亮
 :  ┣━━┳━━━━┓
尚保? 廣 [イ全]期  思平(A.D.408、全滅)
    :
    :
    :
    楊堅(581〜)
    ┃
    煬帝(;^_^A 



……うわ〜っ!

115 名前::2002/10/30(水) 00:01

おばら   2001年09月30日日曜日 03時23分

おおお!!
なるほど〜。ぐっこさまの系譜で楊敷の家と楊敞の家が別家だったと知りました。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』だけでは資料不足でした^^;;。

お恥ずかしいのですが、上に挙げた史書以外で何を参考になされたか、お教えねがえませんでしょうか。
お願いしますm(_ _)m

116 名前::2002/10/30(水) 00:02

ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時30分

う…、楊家の構成、実はファイリングしてあるコピー史料の一部から作成したものなのです…。
たぶん『後漢国家の支配と儒教(雄山閣出版)』だと思うのですが。ちなみに著者は最近おなじみな渡邊義浩先生だったりします(;^_^A

117 名前::2002/10/30(水) 00:06

bu-show  

ご無沙汰しておりました。
掲示板、変えられたのですね。

晋書やらご先祖ネタで盛り上がっているようですが、私も参加させてください。
何と、諸葛緒の孫娘が『晋書』巻第三十一列傅第一に掲載されているではないですか。やはり、当時は女性ということもあって、伝に記されている文章も短いですが…。

あと、何気なくYahoo! TAIWANで三国志関係のサイトを見ていると、
日本ではまずお目にかかれない情報が沢山ありますね(当たり前ですが…)。
私は中国語の読み書きがまともにできませんが、
只何となく読んで理解するだけなら、
Yahoo! TAIWANはお勧めです(但し、BIG5をDLする必要があります)。

118 名前::2002/10/30(水) 00:06

玉川雄一     2001年10月02日火曜日 00時09分

どうも、初めまして、玉川と申します。
貴方のサイトでは諸葛氏について調べていらっしゃいますよね。
諸葛恢伝にも挑戦されたようで、拝見させていただきました。

で。諸葛緒の系統について注目されたようですが、
晋書には他にも巻第八十五列伝第五十五に「諸葛長民」なる人物の伝がありますね。
彼は4世紀末〜5世紀初頭の人物で三国時代の諸葛氏との繋がりは不明ですが、
琅邪陽都の人だということは…
弟に諸葛黎民、諸葛幼民、従弟に諸葛秀之がいたそうです。
で、なにやらあって413年に劉裕によって全員殺されてしまいましたとさ。
「諸葛長民」伝、いかがですか?

119 名前::2002/10/30(水) 00:07

bu-show    2001年10月02日火曜日 21時01分

玉川さま、はじめまして。
この度は当サイトにお越しいただきありがとうございます。
これから、そちらへ伺わせていただきます。

ところで、諸葛長民伝についてですが、『瀚典 資料庫選單』で読んだことはございますが、更新となるとまだまだ先の話ですね。
諸葛恢伝も一部しか紹介しておりませんし、ちくまの『正史』から拾えるネタも隠し持っているので。

120 名前::2002/10/30(水) 00:07

ぐっこ     2001年10月03日水曜日 00時11分
わ、bu-show様、お久しぶりです〜。うひー! 晋書になると諸葛氏も後へ続くのですね…。諸葛緒というと、攪ァの下僚という程度の記憶しかないのですが、晋では卿にまで昇った様子。彼の本籍はどこでしょうか? やっぱり琅邪でしょうか〜?
そして台湾系サイト!そうか〜! 本場の方が研究も進んでるでしょう!くー、中国語の読解が出来れば〜!今からでも中国語を勉強したいです! いずれ中国に行って古書市周りとかするのが夢。
そして諸葛長民!? し、知らない人だ! 琅邪諸葛氏の一門のようですが、何をした人なんでしょう(;^_^A 一族皆殺しになってるなんて…。

121 名前::2002/10/30(水) 00:07

bu-show    2001年10月04日木曜日 21時56分

諸葛緒についてですが、ぐっこさまの仰る通り、徐州瑯邪郡陽都県出身です。祖先が諸葛豊かどうかは不明ですが…。

>台湾系サイト
幾つか見ましたが、Yahoo!に掲載されている諸葛亮サイトだけでも8つか9つあったと思います。日本では私のサイトを含めて何ヶ所でしか見られない『誡子書』が、当たり前のように紹介されておりました。

122 名前::2002/10/30(水) 00:16

玉川雄一     2001年10月04日木曜日 23時48分

田中芳樹の「中国武将列伝」だと、
諸葛長民は劉裕(南朝宋の創始者ですね)に向かって、
「俺は『諸葛』であんたは『劉』だから手を組めば天下を取れるぞ」
みたいなことを言ったらしいんですね。
劉裕は「なに言ってんだコイツわ?」みたいな対応だったとか。
晋書の諸葛長民伝には見あたらないんですが…
どっちかっつうと野心系の人だったみたい?

で、彼も死の直前に何やら怪異現象に巻き込まれているみたいです(^_^)

…よく考えてみたら、彼が言わんとしたところの諸葛さんと劉さんって、
別に天下取ったワケじゃないじゃん(^-^)」

123 名前::2002/10/30(水) 00:16

ぐっこ     2001年10月05日金曜日 22時22分

>諸葛緒
ああ、やはり琅邪でしたか〜。いずれにしても孔明たちの遠縁にあたるのですね…。晋でそれなりに高位に上がったのですから、晋の諸葛は「猫」でしょうか?

>諸葛長民
それにしても長民だの幼民だの、諱というよりは字っぽいネーミングの兄弟ですね〜。なるほど、それなりに野心家で、しかも歴史認識がちょっとズレてて、最後は怪奇現象で死亡…。う、なにやら余計に解らないキャラになってしまいました(;^_^A

 台湾系サイト、きちんと詣でないと…以前BIG5落としたのに、こないだフォーマットしたときに消えてる…。またやり直し

124 名前::2002/10/30(水) 00:23

MOS     2001年10月06日土曜日 01時02分

>>115何故か後漢紀を持っているもすがお答えしましょう♪
と言っても、あまり遡れないんですが、
項劉の時代に生き、劉邦に進言した事が史記にも載っている袁生という人物が祖のようです。(^^)
その上はちょっと存じないです。

125 名前::2002/10/30(水) 00:23

黒竜 2001年10月06日土曜日 09時25分

同じく、何故か後漢書を持っている黒竜です。
袁術伝の注に「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」
となってました。
さらに遡ると帝舜まで行き着くようです。

ちなみに袁安伝では袁良以前のことには触れられてません。

126 名前::2002/10/30(水) 00:23

左平(仮名) 2001年10月07日日曜日 15時14分

袁氏の先祖について、黒竜さんが「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」と『後漢書』袁術伝の注にある、とおっしゃっているので、もしや、と思い宮城谷氏の『史記の風景』をチェックすると、、ありました!「春秋時代の晩期に、陳という国に轅頗(えんぱ:エンはながえ、パは戦国時代の名将・廉頗のパと同じ字)という大夫がいた。かれは司徒の位にあった。」との事です。ちなみに、この人は、紀元前484年に亡命しており、その6年後に陳は楚によって滅ぼされています。轅氏は陳の公室を累代ささえてきた大柱石の名家という事ですから、公室に連なる→(陳の公室は帝舜に連なるといいますから)帝舜の血脈という事になりそうです。

127 名前::2002/10/30(水) 00:24

ぐっこ     2001年10月07日日曜日 23時47分

おおッ!袁家の血筋!
ええと、私も皆様とおなじソースしか用意できないのですが(後漢書・後漢紀(明徳のアレ)・三国志・後漢国家の支配と儒教)、いちおう推測しました〜。

まずMOS様の仰る袁生なる人物、たしか劉邦本人を囮にして味方を救うよう進言した人物。
この袁生は、どうも袁紹・袁術らの「汝南袁氏」ではなく、袁滂・袁渙らの「陳袁家(曹氏に仕え、晋代に栄達した)」のご先祖のようです。
ただ、この陳袁家の家系図を見ていますと、袁生の8代後に「梁の相」袁良の名が!
この袁良が、袁紹の祖父の祖父の祖父である「太子舎人」袁良と同一人物であるかどうかが不明ですが…(かなり年代がズレてます)。

ここで話は飛びますが、黒竜様、左平(仮名)様の情報のとおり、袁術の先祖は陳国の大夫である轅頗(濤塗)であると見て間違いありません!
つまり、汝南袁家も元々は陳袁家と同門であったとするべきでしょうか。

あくまでも仮定の話として、陳袁家の袁良と汝南袁家の袁良が同一人物であったとして、また系譜をつくってみました(;^_^A 

※どうせズレるでしょうから、メモ帳とかにコピペしてください。正確になります。


帝・舜


胡公満(初代陳主)


轅濤塗


袁生



┣━━━━┓?
璋    ■
┃    ┃
滂    安
┃    ┃
渙☆   京
:    ┃
:    湯
:    ┣━━┳━━┓
:    成  隗  逢
:    ┃     ┣━━┓
:    紹☆    術☆ 基


宏(後漢紀の著者)

うーん。やっぱり袁良=袁良は無理があるかも…。そもそも汝南の袁良は、前漢末の人物ですし…。

128 名前::2002/10/30(水) 00:24

黒竜 2001年10月11日木曜日 20時38分

三国志X事典の一節に
「陳郡陽夏県の袁氏が家系図を作るにあたって
汝南郡汝陽県の袁氏と自分の家系を結びつけた」
とあったんですが、これって袁宏の一族のことなんでしょうか?

だとすれば陳袁氏と汝南袁氏は無関係ってことになりますが…

129 名前::2002/10/30(水) 00:24

ぐっこ     2001年10月11日木曜日 23時00分

がーん! 三国志V辞典!? ううむ、なんで光栄辞典シリーズはたまにこうマニアックなことを記述するのだ…あ、玄奘陳氏情報もこれに書かれてたんでしたっけ?買おうかな〜。
うーむ、いちおう地図の上では、陽夏県と扶楽県(袁渙)に分かれてるけど…同族なんでしょうね〜。
しかし、何で陳の袁家が汝南袁家とつながりを持とうとするのでしょ?陳郡のほうが本家なのに…。

130 名前::2002/10/30(水) 00:45

おばら 

左平(仮名)さんに煽られてまたまた登場(笑
正史『三国志』蜀書をよんでいると、どマイナーな人物、來敏を見つけました。彼は後漢光武帝の姻戚來歙(字は君叔)の後裔とのこと。
そこで來家の調査開始!(←暇人

遡れる限界は、來漢。
前漢武帝の時、光禄大夫に任命され南越と衛氏朝鮮を討伐した楼船将軍楊僕を補佐したとのこと。

次に、來漢の孫の孫、來仲。
前漢末期の哀帝の時、諌大夫になったとのこと。

そして、來仲の子、來歙と來由。
來歙は劉秀(後の光武帝)の一族でもあり、後漢王朝成立に参加。羌を鎮撫し、蜀で最後まで抵抗を続けていた公孫述を攻めるが、公孫述の暗殺部隊に刺されて死去。光武帝は驚愕し落涙。
弟の來由は、光武帝が來歙の忠節を讃えて由をとりたて、宜西侯となる。

來歙の子は來褒。

來褒の子は來稜。
明帝の娘を娶るも、早世。

來稜の子は來歴と來[示止]と來超。
來歴の記述はたくさんあるのでカット。(訳せないだけ^^;)大鴻臚の官についたまま死去。
來[示止]は歩兵校尉に、
來超は黄門侍郎になる。

來歴の子は來定。
彼は安帝の妹を娶り、官は虎賁中郎将になる。

來定の子は來虎と來艷(←は略字。さらに略すと艶)。
來虎は桓帝のとき屯騎校尉になる。
弟の來艷は学者肌で、靈帝のときに司空になる。

ココまでが後漢書の内容です。
以下が三国志の記述です。

來艷の子は來敏。
後漢末の乱を避け、蜀に逃亡。学者として名高く、劉璋、劉備に優遇される。しかし行動・発言が異常だったため、免官・起用を何度も繰り返す。蜀では一番の困り者?? 97歳の高齢で死去。

來敏の子は來忠。
來忠には父の面影があり Σ ̄□ ̄;; 姜維を補佐して参軍になる。

以上が調査結果です。
その後の來家、どうなったのでしょうか?
『晋書』には來家はもう出てこないのでしょうか?
情報求む!!(ナニヲ偉そうに言ってんだか・・^^;;

131 名前::2002/10/30(水) 00:45

左平(仮名) 2001年11月04日日曜日 21時12分

來氏について(といってもたいした足しにはなりませんが)一つ。來歴(だと思うのですが)は、宮城谷三国志に名が出ています。記述が多いとの事ですが、どうやら出番がけっこうありそうな描かれ方でしたよ。

132 名前::2002/10/30(水) 00:46

ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時49分

来敏! …知らないひとだ(;^_^A 調べ調べ…。
ふんふん…父の来艷は霊帝の時に司空…。三公リスト見ると、171年、あの橋玄の後任になってますね〜。
で、都の争乱を逃れて、姉とともに荊州へ…。
え!?
姉の夫・黄[王宛]!? 彼って、王允や呂布と謀って董卓を暗殺したもと三公のひとり。魏書では董卓の命で曹操の潜伏箇所を襲撃したけど(←この話、嘘っぽいなあ。後漢書の黄[王宛]と矛盾するし…)、曹真の父が身代わりになったという…。
とにかく、そんな有名人の義弟なものだから、劉璋が招聘して、後に劉備が引き受ける、と。
でも孔明が呆然とする程の奇人であったため、クビ。ただし劉禅の傅人のひとりであったため、地位は保たれる…と。
……なんだかぱっとしない人ですが、費イ伝では格好いいエピソードが。出撃直前の大将軍・費イの元をふらりと訪れ、のんびりと碁を打ち、「こうしてあなたの心胆を図ったが、なるほど見事じゃ」と太鼓判を押したとか…。
どうもキャラが掴みづらい人ですが、彼の祖を辿ってゆくと來歙伝……うわ、光武帝の雲台二八将よりも伝が前!!そりゃあ名族ですなあ…! 前漢の代から武門で鳴らしてたんですね〜。
これほどの由緒ある名門だったら、司馬氏も放っておかないでしょう〜。いちおう本籍は新野ですが、四川に居着いたのかなあ。

133 名前::2002/10/30(水) 00:46

ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時52分

またオフライン(;^_^A
ええと、宮城谷三国志ですか! あ、また文春読み忘れてた…。
たしか來歙伝には曾孫来歴まで乗ってましたよねえ〜(私はこのへん目次だけ所有(;^_^A)。
あのあたりの政変の場にいたとなれば、かなりの活躍をしたのでしょうか?

134 名前::2002/10/30(水) 00:47

玉川雄一     2001年11月04日日曜日 22時32分

速報。
とりあえず、晋書に立伝はされていないようです。
文中に登場している可能性もなきにしもあらずですが…
「解體晉書」さんで伺ってみようかしら。

あと、来敏は三國志IIにだけ登場していたような記憶が…

135 名前::2002/10/30(水) 00:47

ぐっこ     2001年11月06日火曜日 01時35分

おお、さすがに早い!
玉川様、情報ありがとうございます〜! 立伝が無いということは、来氏もそれほどの権勢を、少なくとも晋代にはふるわなかったわけですね〜!
伝を見る限り、かれは姉とともに身一つで蜀に亡命してますから、かの地の一地方名士として終わったのかも…。
ただし光武帝の一門でもあった名族、中原にとどまった来氏のほうは、ひょっこりとどこかに出てきてたりして…。私も探してみます〜!

三国志U!? …意外な作品に。演義では名前のみの登場なのに…。

136 名前::2002/10/30(水) 00:47

松竹梅     2001年11月07日水曜日 07時22分

そういやこっちの掲示板は初めて…ご無沙汰してます。

宮城谷三国志での来歴は、楊震亡き後宮廷に残った数少ない諫臣として活躍していました。安帝にあっさり罷免されたけど。

三国志2に出てた?記憶にないなあ…三国志2って、何を色気づいたかマイナー人物が多数出ていた作品ですよね。呂覇(呂蒙の子)とか典満(典韋の子)とか。だとすると来敏が出ててもおかしくないですね。

137 名前::2002/10/30(水) 00:47

玉川雄一     2001年11月07日水曜日 19時19分

呂覇! 未だにIIでしか登場してないんですよねえ。ミョ〜に強いし。
典満はこの後もチョコチョコ出てますが、IIのは顔が結構怖かったでしゅ。
一番アレだったのは王双でしたけど(^-^)

っつーか、IIったら尚挙とか出ていたような気もするんですが(^_^)
あれ、来敏じゃなくてこっちでしたかしらん。

138 名前::2002/10/30(水) 00:48
黒竜 2001年11月07日水曜日 21時19分

來氏の子孫、北史と新唐書に登場するみたいです。
詳しいことはわからないんですけど…
來護皃(漢字少し違います)という人です。

139 名前::2002/10/30(水) 00:48

黒竜 2001年11月07日水曜日 22時30分

↑訂正
「來護兒」でした(この年になって漢字がわからないとは…)。
隋で大将軍までなってるみたいです。

140 名前::2002/10/30(水) 00:49

玉川雄一     2001年11月07日水曜日 23時46分

来護児(私の見たのはこういう字でした)、田中芳樹の小説
『風よ、万里を翔けよ』に登場しています。
何やら、煬帝が弑逆された際に一族もろとも殺されたそうですが…
実際の所、どうなのでしょう?

141 名前::2002/10/30(水) 00:49

黒竜 2001年11月08日木曜日 00時44分

來護兒=来護児ですね、意味はおなじですから。
私は兒をジと読めませんでした(ゲイかボウかな?と…)

来護児の一族は確かに宇文化及の反乱で殺されますが
息子が二人、難を逃れて唐に仕えています。
宰相まで出世したとか…(不確かな情報で申し訳ない)

142 名前::2002/10/30(水) 23:19

玉川雄一   

はいはい、しつもーん!

趙氏?スーパー系図拝見しましたが、疑問がありますです。
長宗我部元親の子として挙げられている「足立康豊」とはいかなる人物であらしゃいましょうか?
今まで長宗我部氏の系図を見てきましたが、かような人物は初めて目にします。
長男信親、次男香川親和、三男津野親忠、四男盛親というのが通説で、他に、側室の子に「右近大夫」、さらにもう一人男子がいたとも伝わるそうですが… 盛親の刑死で長宗我部の直系は絶えたものだと思っておりました。
また、女婿の内にも足立康豊なる人物はいないようで。
ぜひ、出典などお教え願えませんでしょうか?

あと、秦重高と信能の間、重宗は私の見た系図では重家となっておりました。
参考にしたのは、山本大著『長宗我部元親』吉川弘文館人物草書であります。

143 名前::2002/10/30(水) 23:19

おばら   2001年11月09日金曜日 01時31分

どひゃ〜
実は資料のコピーが出典だったりして(爆

たぶん、
『系図纂要』(名著出版)か、
『尊卑分脉』(国史大系編修会・吉川弘文館)
のコピーだと思われます。
東京大学の紹介文には(↓で検索可能)
http://contents.lib.u-tokyo.ac.jp/contents/top.html target=_blank>http://contents.lib.u-tokyo.ac.jp/contents/top.html
「尊卑分脉は洞院公定が集成した諸氏の系図で、体系図と称して世に行われ、姓氏家系を考える際に欠くべからざる文献である。書継ぎが多く、諸本に収録された系図に出入があるため、本大系では、前田家所蔵脇坂氏本を底本とし、欠落した箇所は宮内庁書陵部所蔵谷森健男氏旧蔵本を以て底本にあて、他本との校合・校勘を行なった。」
とあります。
確か、黒塗りのどでかい本で、十冊以上の大書だったような・・・。」

そして、足立康豊。
もともと長曾我部民部とかいう人で、「古老噺」とかいう本に出てきたような・・・。酒井備後守忠利に偽名を以て二百石で仕えたそうな。
真偽はまったくもって不明。自称かも。それとも単なる創作かも。
あと、『尊卑分脉』(多分^-^;)には長曾我部盛親の子、盛定については「討死」とか「賜死」とか「〜所殺」とか書かれていないので生死が不明。もちろん足立康豊なんて載ってもいません。^^;

ま、融通王の一族ですから、胡散臭いのもいいかなと思いまして戯れに入れてみた次第です。^-^

ではでは

144 名前::2002/10/30(水) 23:20

おばら   2001年11月09日金曜日 01時56分

ぐあ〜〜

「古老噺」、東京大学でも検索結果0件。Yahoo!でも0件。
ぬぬぬ・・・。
現代語訳が無いということですかね・・・。

145 名前::2002/10/30(水) 23:20

ぐっこ     2001年11月10日土曜日 01時01分

うが〜! なんだか頭の遙か上で高々度の情報がやり取りされてます(;^_^A
もっと勉強しろよ>俺!
おばらさま、お忙しいのに補足説明ありがとうございました〜!

146 名前::2002/10/30(水) 23:21

玉川雄一     2001年11月10日土曜日 08時51分

なるほど! かような資料があるのですか。ありがとうございます。
足立さんの存在は微妙な所ですか(^_^;)

ちなみに、私の読んだ本では、盛親の子について以下のようにありました。
長男盛恒:伏見で捕らえられて斬首
次男盛高:土佐の山野に隠れるが、山内氏に殺される
三男盛信:同上
四男盛定:八幡(ってどこの?)で捕らえられ斬首
五男某:同上

また、盛親の異母弟、右近大夫は伏見で死を命ぜられたそうです。
そういえば、盛親の子供ってみんな「盛○」という名前ですね。
ちょっとセオリー?と違うような。

147 名前::2002/10/30(水) 23:21

ぐっこ     2001年11月11日日曜日 00時37分

ちょっと話はそれますが、今日の「聖徳太子」に秦氏登場!なんか日本史を影で操ってましたな(;^_^A
あの家系図のおかげで、「あ、いまの秦氏って、東儀とか羽田元首相のご先祖やねんで!」と知ったかぶりが出来ました(;^_^A

148 名前::2002/10/30(水) 23:22

黒竜

來氏の続きですが…

先日、新唐書を読む機会があったんですが、表の宰相世系が凄すぎます。
唐の歴代宰相の家系図を並べているようなんですが…
袁氏の項目に袁煕、姜氏の項目に姜維、閻氏の項では閻甫の名前が…
探せばまだいるかもしれません。
凄いというか、凄いあやしいと言うべきか…

149 名前::2002/10/30(水) 23:22

ぐっこ     2001年11月10日土曜日 01時03分

唐代ですか〜!
もうやりたい放題のようですね(;^_^A 何処の国でも家系図偽造は当たり前だったんですね…。
でも絶対嘘とは言い切れない人もいるでしょうし…。そもそも同姓同族の原則で言えば、嘘を付いているわけでも無し。
しかしうさんくさいなあ…(;^_^A

150 名前::2002/10/30(水) 23:22

玉川雄一     2001年11月10日土曜日 08時57分

ある意味そうそうたる?ラインナップでありますね。
閻氏は何やら続いていたそうですが…

これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、
偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。

また、必ずしも直系でもないと考えていいのでしょうか?
いわゆる「○○をもって(祭祀を)継がせる」ってヤツ。
しかし何故袁熙(^_^;)

151 名前::2002/10/30(水) 23:23

ぐっこ     2001年11月11日日曜日 00時37分

うわはは〜!
なんだか大変なことになってますね〜唐代の家系図。
顧氏や鍾氏はまあいいとして、なぜに薛蘭…あえて子孫を名乗りたいとは思わない人物ですが…。
ところで! 崔州平と崔鈞って同一人物なんですか!? ちょっと年代がズレてるような…(いずれも崔烈の息子ではありますが…) 

152 名前::2002/10/30(水) 23:23

黒竜 2001年11月11日日曜日 01時52分

崔州平、原文が
「烈、後漢太尉、城門校尉、生鈞、字州平、西河太守」となってます。
兄貴の名前が崔均なんであっさり信じたんですが… 疑う余地はありそうですね。

それと薛蘭ですが意外にも名家のようです。
薛蘭の父や祖父も国相や太守を務ています。てっきり呂布配下の并州人かと思ってましたが…
薛永は蜀郡太守、その子の薛斉は蜀・巴の太守を務めたらしいのですが蜀書には出てこないですね………(??)

ちなみに一番あやしいのは関羽です。
関竜逢(商)…→関羽→関興(三国)…→関播(唐) アバウトすぎ

153 名前::2002/10/30(水) 23:24

左平(仮名) 2001年11月11日日曜日 10時57分

唐書についての知識は皆無なので入り様がないのですが、、関龍逢の名が出てきたので、ちょっと説明を。
関龍逢とは、商ではなく、夏王朝末期の人です。桀王の暴虐をたびたび諌めましたが、ついに殺されたという名臣です。ちなみに、彼は関氏ではなく、関龍氏だった様です。宮城谷昌光氏の『天空の舟』に、「、、夏の社の神体は、「交龍」である。、、そのおさめるところは河水(黄河)である。、、ここの最高責任者は関龍家であった。、、」という記述があります。
関羽以前で名の知れている関氏といいますと、、
・春秋時代初期の鄭の大夫、関其思(戦略的には正しい事を発言したのだが、武公の意図を読み切れなかった為に処刑される。「韓非子」(説難篇)に登場。鄭というと、河南省のあたりでしたから、河西の人・関羽とのつながりは?です)。 
・老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。確か、関喜とかいった様です。もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。

154 名前::2002/10/30(水) 23:24

中根東竜   2001年11月11日日曜日 17時58分

どうも、ご無沙汰の中根です。

>『新唐書』宰相世系表

なんか懐かしいなぁ。いや、4年ほど前「『三国志』の注釈を
全部読破してやろう」と思って注釈だけまとまった『二十四史補編』
なる中国書を読んでいたことがあったのですが、そこの賈クの
箇所の注に『新唐書』宰相世系表が引用されていたのですよ。
んで、賈クには賈疋なる孫がいた、そうで・・

>玉川さん
>これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、
偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。

価値はあったでしょうね。唐の時代はまだ貴族社会の色が濃い(庶民から科挙を通って朝廷に仕官した官僚と、貴族が派閥争いをやっていた)んで、庶民上がりや元来中国人ではない人でも名門の末を主張した人物は結構居るのではないでしょうか。貴族社会は能力より血筋を
重んじますからね。
それで『三国志』系マイナー武将を子孫と称した人物が多かったのでは?記録がない人物なら文句はいわれませんから。
もしつっこまれても「家に伝わる記録ではこーなのじゃっ!」
と言い返せるので。

まあ、怪しいといえば怪しいのですが。怪しい具体例を挙げると、隋の皇帝の楊家は「楊震の末裔」を称していたのですが、現在の学界では「騎馬民族・鮮卑族の末裔」とするのが定説化しているようです。

>関龍逢

左平(仮名)さんのおっしゃる通り、夏王朝末の人ですね。
結構諸子百家の世界では有名人で、「暴君を諫めて殺された賢臣」
として『韓非子』などに登場します。なお、『韓非子』の有力な
注『韓非子翼毳』(かんぴしよくぜい)に依れば、大本の
出典は『韓詩外伝』だそうです。

なお、宮城谷昌光氏が関龍家とする根拠はよくわかりません。
王雲五氏の『辞源』では「関・龍逢」として区切っています。
関姓という説もあるのでしょうか?まあ、『韓詩外伝』を
見ないとわかりませんが・・

>老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。

これは関尹喜(かんいんき)のことですね。ただ、この人の名は
「尹喜」で「関所役人の尹喜」が「関尹喜」となっているみたいですよ。関姓ではないようです。

>もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。

そういう説を中国の故・郭沫若氏は主張していたようですね。「関尹喜」は「関尹」(関所役人)という普通名詞であり、固有名詞ではないと。

まあどっちにせよこれも調べないとなんともいえませんが。

155 名前::2002/10/30(水) 23:24

黒竜 2001年11月11日日曜日 23時19分

左平さん、中根さん、私の雑な話題に注釈を入れてくださってありがとうございます。

何しろ新唐書のあまりの書きっぷりに興奮冷めやらぬもので…
賈クの親兄弟まで名を連ねてますから(父はキョウ、兄は綵)。

関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました…
殺されたということは湯が子孫を封じたりしたのかな??
姓氏は復姓が単姓に改まることもあるようなので「関姓」全体の始祖という位置づけみたいです。
他の項でも最初は伝説的人物からはじまってます(炎帝や黄帝が…)

156 名前::2002/10/30(水) 23:24

ぐっこ     2001年11月12日月曜日 00時38分

 >崔氏
いまのところ手元の資料は三国志と辞書だけの状態なので、詳しくは判らないんですが…。崔鈞は、「銅臭ェんだよオヤジは」って言った人ですよね(西河太守として反董卓連合にも参戦)。で、崔州平は孔明の友人。崔均はその州平の兄。
…やっぱり三(以上?)兄弟っぽい状況ではありますが…。
あと、薛氏!
ひょっとして本籍、徐州とか豫州のへんですか!? もしそうだったら、孟嘗君と関係あるひとかも…。う〜ん! こりゃあ意外な事実!? 私も李封とかといっしょで、呂布の子飼いかと思ってました(こうなると、李封も案外、エン州李家の一族だったり…じゃあ李乾とは同族?)。
三国志って、どこまで奥が深いんだ〜!!

 >関氏
関羽以前の伝説になりますと、そりゃあうさんくさい話がいっぱい(;^_^A 唐代の人もやりたい放題だったでしょうね〜(たしか馮氏説もあったような…)。
それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか〜(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。

三国志の小説を書かれてる作家(特に宮城谷先生)、どの程度まで「後世の」三国志史料を引用するか見物ではありますよね〜!(;^_^A
賈クの兄弟まで名前が「伝わって」るのか…。

157 名前::2002/10/30(水) 23:25

左平(仮名) 2001年11月12日月曜日 20時43分

宮城谷三国志でどの程度まで「後世の」資料を使うかですが、、一つ、蛇足までに。
第一回で楊震の「四知」という言葉が出てくるのですが、その内容は資料によって若干のずれがあります。元ネタの『後漢書(楊震伝)』では「天知る、神知る、我知る、子(汝)知る」、『資治通鑑』では「天知る、地知る、我知る、子知る」となっているのです。
そして、宮城谷三国志で採用されているのは、後者です。「天、神」よりも「天、地」の組み合わせを好んだというのもあるでしょうが、『資治通鑑』は北宋の司馬光の著作ですから、ひょっとしたらひょっとします。
場合によっては、清の歴史家・趙翼の『二十二史箚記(にじゅうにしさっき)』(二十二史=二十四史【『史記』から『明史』まで】−二史【『旧唐書(くとうじょ)』・『旧五代史』】。箚記=書物を読んで得た感想や考えなどを随時書き記したもの。 )まで出てくるかも、、もうここまで来たら、私にはちんぷんかんぷんなのですが。以上、角川書店の『新字源』から。

158 名前::2002/10/30(水) 23:26

黒竜 2001年11月12日月曜日 20時52分

残念ながら薛蘭は孟嘗君とは無関係なんです。
自分も薛氏と言えば薛綜の子孫とばかり思っていたので度肝を抜かれたんですが、
周初から春秋はじめまで薛侯であった家のようです(信憑性はともかく)桓公に逆らって国替えされ、
その後楚に滅ぼされると博徒などに身を落としていたようですが、漢初に黥布討伐の献策をした薛公がでて再興し、薛蘭へ…
…あやしい……博徒のあたりが限りなくあやしい…

李封は見つかりませんでしたが、今度は広武君李左車が趙郡李氏の系図のなかにいました。趙の名将李牧の孫らしいんですが…これって史記に書いてありましたっけ?

あと崔鈞と州平のことですが、仮に同一人物だとしたら

軽蔑していたとはいえ戦乱に死んだ父の人生に無常を感じ、
荊州に流れて以後仕官せず…

なんて、あまりにも小説的すぎますね…

159 名前::2002/10/30(水) 23:27

ぐっこ     2001年11月13日火曜日 01時23分

 >左平(仮名)様
ふえ…。宮城谷先生がそうである以前に、左平様の史料の幅広さに呆然としておりますが、いかがお過ごしでしょうか(;^_^A
四知…わたしも後者の天地バージョンしか知りませんでした〜(;^_^A そうか、原文は天と神だったわけですね…。当時の様式からいって、そのほうが正解なんでしょうけど…。
しかしまあ、田中芳樹先生が仰ってた「演義さえろくに読まずに三国志モノ書いて、中国小説を書いたと宣伝する勘違いしてる作家(女将軍伝あとがきより)」が雨後の竹の子のように生え揃ってる中、宮城谷先生は目立ちますよね〜。

 >黒竜様
薛蘭、孟嘗君の薛氏とは違いましたか〜。残念なようなホッとしたような…。でも孟嘗君以上に名門なんですね〜! ……本当だろうか(;^_^A 
それに李氏。李左車が李牧の孫…? う〜ん…? なんか、趙の名将の孫かひ孫が、これまた有名な人物だった…という話をどこかで読んでるんですけど…たぶん李ではなかったような…。
後世の家系図は、つなぎ換えも承ってるのか!?(;^_^A
それと崔修平。崔鈞と同一人物だとすると、なるほど……ドラマチック。後漢末の爛熟した空気にうんざりしてたうえに、董卓と真っ向から対立…。疎開先の襄陽アカデミーで、見込みのある若者に政治の要諦を伝える…。崔修平、案外格好いい人かも…

160 名前::2002/10/30(水) 23:27

中根東竜   2001年11月13日火曜日 14時36分

>ぐっこさん
>それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか〜(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。

前の投稿で挙げた史料は神保町に3年ほど足繁く通って(神保町は通勤・通学ルートの途中なので)、かき集めた物です。
ですから、神保町に通えばぐっこさんも入手できますよ。

>関羽

『新唐書』をみてみましたが、関氏系図は唐の徳宗の宰相を
やっていた関播という人物のでっち上げかも。

だって、始祖が伝説の人物・関龍逢で、その後全く記述無く
関羽ー関興と続くのは非常におかしいです。その関興の子孫を
称した人々が住んでいた地域も魏の領土内の信都ですからねぇ。
なんで蜀の武将の子孫が魏に移動しているのでしょう?
しかも、他の系図には最近の人物が複数書かれているのに、関氏
系図のみは関播一人のみ。・・これは妙ですな。

>黒竜さん

>関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました…

これは単純に『新唐書』の誤りと考えて良いと思います。歐陽脩(『新唐書』の筆者)も何でこういうケアレスミスをするかなあ?
もっとも、この系図自体先に述べたように関播の偽作の可能性が
否定できないので、関播が朝廷に提出した系図が既に誤っていた
のかもしれません。

>左平(仮名)さん

『資治通鑑』を使うのは中国史の記述をするときには良くありますので、他の後世の史料とは分けた方が良いかも。

『資治通鑑』は、正史以外の実録・野史の類を司馬光はふんだんに持っていて、それをかなり正確に配置しているので、正史の次に(正史が誤っている時には正史以上に)重んじられる史料ですからね。後世とはいってもこれは別格。宮城谷氏が使うのも良く分かります。

なお、『二十二史剳記』は新しい史料を引用するのではなく、
単に正史の事項を研究した本なのでちょっとこれは用いないでしょう。
四知の話しも載っていないはずです。

161 名前::2002/10/30(水) 23:28

左平(仮名) 2001年11月13日火曜日 22時39分

>ぐっこさん
史料の幅広さ、と言われると、少々気恥ずかしいです。中根東竜さんにくらべると、私の手元には、まったくと言っていいほど資料はないんですよ。
あるのは、宮城谷昌光氏の作品(それも、春秋まで。戦国以降はまだ一部)と陳舜臣氏の作品の一部(ほか、塚本ヨ史氏、伴野朗氏の作品が少し)、『韓非子』(現代語訳付きのもの)、白川静氏の『字統』(普及版)、先述の『新字源』(普通の漢字字典です)、それと『三国志全人名事典』くらいのものなんです。
ですから、先に書いた内容は、すべて手持ちの漢字字典から拾い出したものです。なお、「四知」の内容が「天、神〜」と「天、地、〜」の二種類あるというのは、宮城谷氏自身が『三国志』の第一回で書かれています。
>中根東竜さん
非常に詳しいご説明、ありがとうございました。『資治通鑑』、手頃なものがあれば入手したいものです(私程度の素人には、『十八史略』(現代語訳付き)くらいが現実かな?)。
ただ、神田神保町までは、私もぐっこさんも、なかなか行きにくいのですが、、」

162 名前::2002/10/30(水) 23:32

玉川雄一   

ちょっと発見、というか見落とし。
以前書きました晋書登場の三国志関連人物一覧の中で、李重なる人物。
あの時は忘れていましたが、彼は李通の曾孫です。

李重の父、李秉が晋書だと「李景」になっていたのです。
これは、唐の高祖・李淵の父、李キのヘイに通じるのを避けたそうで。
確認してみれば、李秉の父は李緒、李緒の父が李通と。

李通は周瑜ともども、再開後の蒼天航路での登場が危ぶまれていますが…
彼の子孫は頑張っているですよ!

163 名前::2002/10/30(水) 23:33

ぐっこ     2001年11月23日金曜日 00時55分

なんと! 李通の子孫は晋に残ってるですか!?
いやあ、それはよかった! 彼も名声と武勇のわりにサクッと亡くなってるので寂しいなあと思ってましたが、これで一安心。
やっぱりひい爺さんとは似ても似つかない青瓢箪なんでしょうか…?

164 名前::2002/10/31(木) 00:12

おばら 

補足!
周知ですが薛綜が孟嘗君の子孫だとか。まあ、これも怪しいといえばキリがありませんねぇ。^-^;;
ドマイナ〜薛公ですが、もともと楚の令尹(宰相)だったとのこと。しかし戦国熊氏の楚なのか、項羽の西楚なのか、はっきりしませんねぇ。
黥布を破る献策をして1000戸の大名になっています。でも史記高祖功臣侯者年表には1000戸の薛公の名は無いので、列侯にはなれなかったみたいです。っていうか、たぶん公って名じゃないような・・・。

そして、李牧と李左車。史記にはそういった関係は見当たりませんね。
実際のところ、どうなんでしょうか・・

165 名前::2002/10/31(木) 00:13

黒竜 2001年11月13日火曜日 20時42分

新唐書宰相世系表は読めば読むほどあやしさを増していきます。

試みに漢楚の人物を捜したところ、
鍾離眛…→(中略)→鍾ヨウ。。。などは序の口、
陳余が陳嬰の息子だったり、劉邦の父親の名前はおろか字までのってたり…

これだけあやしいと最早どれだけいかがわしい家系図かを楽しむ世界です…

166 名前::2002/10/31(木) 00:14

ぐっこ     2001年11月14日水曜日 00時37分

 >中根東竜様、左平(仮名)様
いや〜、私は神戸ですから、左平(仮名)様の仰るとおり、聖地巡礼もままなりません(;^_^A 古びた地下古書市で、ごくまれに掘り出し物にぶちあたるくらいで…。神保町いいなぁ…。
左平(仮名)様、それだけあれば充分です〜! 私も最近になって宮城谷作品(文庫のみ)かきあつめてますが、ハードカバーの子産や沙中の回廊は図書館で借りたきり…。あとは三国志文献のコピー少々のみ。こないだ三国志研究要覧を県立図書館から取り寄せたのですが、膨大な数の三国志論文に呆然…。みんなこんなに読んでるの!? プロは凄い、と思いました。
資治通鑑、私も欲しいです! 図書館にあるのは抄訳だから…。

 >関羽
ちょうどいま手元にあった新潮選書の「関羽伝」によると、現在関羽の故郷である常平村には、関羽六二世が存命中とのこと(;^_^A まえNHなんとかいうテレビ局がやってた諸葛村に近いノリですが、その関新剛氏は党委書記として村の世話役のような方だとか。
残念ながら家系図は一部のみしか記されてないんですが、どうも関羽――関興――関彝……関朗――関康之(←日本人みたい(;^_^A)――関播……と続くようです。
うさんくさいなあ…(;^_^A

167 名前::2002/10/31(木) 00:14

ぐっこ     2001年11月14日水曜日 00時37分

 >中根東竜様、左平(仮名)様
いや〜、私は神戸ですから、左平(仮名)様の仰るとおり、聖地巡礼もままなりません(;^_^A 古びた地下古書市で、ごくまれに掘り出し物にぶちあたるくらいで…。神保町いいなぁ…。
左平(仮名)様、それだけあれば充分です〜! 私も最近になって宮城谷作品(文庫のみ)かきあつめてますが、ハードカバーの子産や沙中の回廊は図書館で借りたきり…。あとは三国志文献のコピー少々のみ。こないだ三国志研究要覧を県立図書館から取り寄せたのですが、膨大な数の三国志論文に呆然…。みんなこんなに読んでるの!? プロは凄い、と思いました。
資治通鑑、私も欲しいです! 図書館にあるのは抄訳だから…。

 >関羽
ちょうどいま手元にあった新潮選書の「関羽伝」によると、現在関羽の故郷である常平村には、関羽六二世が存命中とのこと(;^_^A まえNHなんとかいうテレビ局がやってた諸葛村に近いノリですが、その関新剛氏は党委書記として村の世話役のような方だとか。
残念ながら家系図は一部のみしか記されてないんですが、どうも関羽――関興――関彝……関朗――関康之(←日本人みたい(;^_^A)――関播……と続くようです。
うさんくさいなあ…(;^_^A

 >おばら様
薛公…う〜ん、資料的なあやふやさをからいって、戦国時代に想定されてる可能性あり。項羽の下で令尹やってたら、タイミング的に黥布とかぶるような…。あ、そういう「伝説」なんですよね(;^_^A 
李家も史記のラインでは実証できませんか〜。どうも有名人は繋がってしまいがち…。個人的には、楽毅には楽進と繋がって欲しい(;^_^A どこかの宰相列伝で、楽毅…楽叔…楽進…楽○とかがあったら全面的に支持します。

 >黒竜様
鍾離眛…→(中略)→鍾ヨウ!? どこで単姓に!? 鍾離牧ならまだしも…。まあ、鍾の字が付く有名人を捜してたんでしょう(;^_^A 日本でも家系図屋が繁盛したと聞きますが、唐代では相当うさんくさい連中が手掛けてたんでしょうな〜。私のところも遡ったら清和源氏くらいいくかも。奥州の家老の家らしいですけど。一説では桜島の農民だったとも。
劉邦の家系図があると言うことは、やはり劉家の子孫もいるわけですね〜。日本では丹波哲朗。

168 名前::2002/10/31(木) 00:15

左平(仮名) 2001年11月14日水曜日 21時02分

李牧と李左車の関係はさっぱり分かりませんが、、また、煽って(?)みます。
『史記』に出てくるもう一つの李将軍(家)、忘れてはおられませんか?そう、李広・李陵の一族です。彼らの先祖は、始皇帝の頃に活躍した将軍・李信だとの事です。
家系をたどると、、李信…李広−李当戸−李陵−?
              −李椒−?
              −李敢−?
※李陵には、匈奴に降った後に生まれた子がいましたが、呼韓邪単于(王昭君の最初の夫)の時代に叛乱にかかわり、処罰された様です。その後の事は不明。
※李椒・李敢の子孫については、何も伝わっていません。あるいは、李陵が降った際に皆殺しになっているかも。
匈奴や鮮卑といった遊牧騎馬民族は、民族の記録を残していませんから、何とでもいい様があります。あるいは、「李将軍の末裔」と言っていたのが混同された、という事もありそうに思えるのですが、、

169 名前::2002/10/31(木) 00:16

左平(仮名) 2001年11月14日水曜日 23時45分

↑の家系ですが、ちょっとずれてしまいました。李椒・李敢は李広の子で、李当戸の弟です。この三兄弟は、いずれも飛将軍・李広の名に恥じぬ名将だった様です。もっとも、早死にとか、暗殺とかで、李広同様悲劇的な最期なのですが。
家系の偽造についてですが、、たとえば、徳川氏は吉良氏(忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央の吉良氏)から清和天皇の血筋という設定を拝借した(了解は得ている…はずです)という例がありますね。
私自身も、たどりようによっては、藤原氏あたりにたどり着くかも知れません。
蛇足ですが、ウグイスの物まねで知られる江戸家猫八(字、合ってますか?間違ってたらごめんなさい)師匠の先祖は、かの源八幡太郎義家の(実際はその家臣の)子孫という言い伝えがあるそうで、息子さんの小猫師匠(字、合ってますかねぇ。不安です)の本名は八郎です(ちなみに猫八師匠の本名は六郎です)。

170 名前::2002/10/31(木) 00:17

黒竜 2001年11月15日木曜日 01時05分

李陵の血筋もあるにはあるんですが…
李陵から一気に唐まで飛ぶのでアレです(もっとやる気を出せといいたい)。

漢楚の人物も結構見つかりました。
陸賈 張良 王翦 蕭何 韓王信 楊喜などは順当として

あやしいのは
春秋の宋国→宋義→宋昌 とか
信陵君→不詳→魏無知 となってるあたりでしょうか。 
楚漢から漢初にかけて資料が少ないのを良いことにかなり弄ってるような…

意外なのは曹氏、夏侯氏など、曹操達はおろか参や嬰も出てきません。
河南の劉氏や渾氏のように素直に匈奴の末裔を名乗ってるのもいますし(前者は去卑、後者は渾邪王)…

171 名前::2002/10/31(木) 00:18

松竹梅     2001年11月16日金曜日 20時21分

曹操の子孫、どこかのサイトで取り上げられていたはずと思ってちょっと探してみました。
唐代の画家で曹覇という人がいるそうです。
http://www2.nightmare.to/~nobmatsu/ target=_blank>http://www2.nightmare.to/~nobmatsu/
【逸聞三国志】さん(勝手リンク御免)の
「逍遥雑記」2/22・7/25・8/7・8/14日の項に
曹覇関係の記事があります。是非ご覧あれ。

田中芳樹も、彼について取り上げていたことがあったような…

172 名前::2002/10/31(木) 00:19

黒竜 2001年11月16日金曜日 22時23分

唐の皇族の李氏が一応李広の末裔ってことになるらしいですが…
やっぱりこれも「実は鮮卑」説が強いとのこと。

曹操には曹覇のような子孫ではないですが、明末の群盗、羅汝才が自らを「曹操」と號したそうです。
明末には他にも混世王とかいますが、講談や小説の影響らしいです。
タイガーマスクやサンダーライガー(プロレスラー)の世界ですな…

173 名前::2002/10/31(木) 00:19

おばら   2001年11月17日土曜日 04時46分

ぐあ〜〜
まだまだ続く、長大スレっど。

>李陵一族>ぐっこさま
飛将軍李広の子、李敢は霍去病に暗殺されますが、
李敢の娘は戻太子劉拠に寵愛されます。
息子の李禹は虎に向かって行く勇敢な漢でしたが、李陵が匈奴に降ったあと、李禹も匈奴へ逃げようとしていると讒訴され刑死・・・。後、戻太子も非業の死・・・。李敢の娘がもし子を産んでいたとしても、このときに殺されているはず。
李陵の子は、匈奴内乱のときに一勢力を保って自ら単于を立てますが、結局戦で負け死んだ?。詳細不明。

また、飛将軍李広の従弟李蔡は匈奴を討って二千戸の安楽侯になり、武帝期に丞相となりますが、罪を得て自殺・・・。しかし、こちらの一族はどうやら残った模様。(中華書局『漢書』景武昭宣元成功臣表より)
でも、表の最後の段(玄孫の欄)の見方がいまいち解らないので・・・。
皮氏とか武陽と記されているのですが、明らかに土地名ですよね。子孫たちがその土地に住み着いた、ということですかね?
ちなみに李蔡の下には「昌」と書かれています。昌は瑯邪郡に属すらしいです。高不識の下にも「昌」、、んん?
どう見ても侯の名前ではないし。う〜む。わからん。

174 名前::2002/10/31(木) 00:19

ぐっこ     2001年11月17日土曜日 21時32分

 >松竹梅様
拝見して参りました〜!
なんと馬の専門画家!? かの杜甫が大ファンで、賛の詩を贈ったという…。こりゃあ意外だ…。
でも「曹将軍」といわれ、「青門為る」…ということは、かなりの高位にいたということですよね〜。ただの画家というわけではなさそうで。私もこの人物調べてみます〜! 
でも、NOB様も仰ってるように、「曹覊」と「曹霸」のどちらが正しいんだろう…(;^_^A


 >黒竜様
まあ北朝の実力者はたいがいが非漢人だったようですから…。でも「嘘とは言い切れない」範疇でしょうか〜? その旧主たる楊家のほうは、無理があるんでしたっけ(;^_^A
群盗が「曹操」を号する!? 落ちたもんだな曹操! …まあ、「小覇王」とか「小馬超」みたいな、名誉称号だったのでしょうか…。

 >おばら様
当たり前ながら、先祖話は探せば探すほど出てくるようで(;^_^A やはり李家は漢のほうも匈奴のほうも全滅気味ですか…。
あ、従弟の家は残ったのですか!「昌」…はて? 表どころか漢書も史記もないので確認できませんが…封地の名なんでしょうか…?

175 名前::2002/10/31(木) 00:20

NOB    

#ここの掲示板は初めてなのでドキドキです(笑)

ぐっこさん、改めましてはじめまして、御来訪ありがとうございました(^-^)
相互リンクはこちらこそぜひお願いいたします。今晩中に作業しておきますね。

さて、来ていただけるきっかけになった曹霸についてですが、雑記にはうっかり書き忘れたのですが、彼は左武衛将軍まで昇っています。近衛軍の属で四品官、禁旅を司る役職らしいですね。
それから名前の漢字については、すでに【解體晉書】の中根さんから「大漢和の誤植ということでいいと思います」と教えていただきました。なので、多分「曹霸」が正しいと思われます。

初書き込みで長々とすみませんが、もう少し(^^;
これは調査済みかもしれませんが、曹霸は晩年免官になり庶人に落とされ四川に流されています。玄宗の末年に罪を得たとか。
彼の門生には馬の絵でもっと有名になったらしい韓幹という人物がいます。かなり有名らしく、Googleなどで検索するとたくさんヒットしました。

それでは、今後ともよろしくお願いします。掲示板の過去ログは読み応え抜群なので、ゆっくり楽しませていただきますね(^-^)

176 名前::2002/10/31(木) 00:21

ぐっこ     2001年11月18日日曜日 23時13分

ようこそおいでくださいました〜っ、NOB様!
こちらこそ、お願いいたします!いやあ、孫ぽこ様のところでお会いしてましたなあ…。
さて、「曹霸」です! どうも詳しい情報ありがとうございます!
たしか曹髦の末裔ですよね! 四品・武衛将軍…高いと判断すべきか低いと判断すべきか…。でも曹操の一族がこうやって残ってるというだけでも安心します〜。…あ、庶民に落とされたんですか(;^_^A
四川…よりによって蜀に! まあ、当地で画家として隠遁生活を送ったのなら、それはそれでよいのかも…。
四川の曹さんの中に、案外曹操の末裔がまだ残ってるのかも知れないですね…。

177 名前::2002/10/31(木) 00:21

NOB  2001年11月20日火曜日 14時47分

> 四川の曹さんの中に、案外曹操の末裔がまだ残ってるのかも知れないですね…。
これでふと思い出したことがあるのですが。四川ではないですが、韓国のツ(曹の縦棒が一本少ない字)さんは魏の曹氏の末裔を称しているとかいないとか、という話がありました。
魏の滅亡後、滅ぼされるのを避けて落人が朝鮮半島に至り、曹氏の一族だとばれないように姓をツと改めて生き延びたとか…。

証拠などはないのですが、韓国に留学していた知り合いの方から教えてもらった話です。韓国には他にも中国姓と思われる姓が結構あるらしく、かつて中国にいたと思われるものも少なくないのだそうですよ。私は朝鮮氏はさっぱりなのですが、調べてみると三国志の人物との関連もいろいろと見つかるかもしれませんね(^-^)

ではでは♪

178 名前::2002/10/31(木) 00:21

ぐっこ     2001年11月20日火曜日 22時29分

なるほど、韓国ですか……!
たしかに毋丘倹の遠征のあとはあの辺も通行楽だったでしょうから…。
結構な数の逃亡者が朝鮮半島に流れ込んでるかもしれませんね〜。で、当地で先祖の名を名乗ると…。「ツ」ですか…あまりカモフラージュには(;^_^A

ところで、私の知り合いの韓国人に、尹(ゆん)という姓のひとが。なんでも伊尹の末裔だとか言ってましたが、よく考えたらそれって名字じゃないんじゃ…。そもそも尹って官職名だし〜(あ、だからか)。
わたしは尹大目の方をお勧めしたいです(;^_^A

179 名前::2002/10/31(木) 00:23

左平(仮名) 2001年12月10日月曜日 20時18分

急に以前のスレッドを上げますが、ご容赦下さい。
↑で私がちらっと言った江戸家猫八(本名、岡田六郎)師匠が亡くなられたそうです。享年80歳。
まごう事なき清和源氏の棟梁である、名将・源八幡太郎義家の(実際はその家臣の、らしいです)子孫という猫八師匠のご冥福をお祈りします。

180 名前::2002/10/31(木) 00:24

ぐっこ     2001年12月10日月曜日 20時34分

ああ、私もこのスレ上げようと思って帰ってきたところです〜!
いまテレビでさかんに声帯模写とか映ってますよね…。謹んでご冥福をお祈りします。

181 名前::2002/11/01(金) 21:50
おばら   

あ゛〜クッキーが腐ってるぅー。
いつも変にアジテートして去って行くおばら再登場ですわ・・・。
今日は陸家のお話ということで。

陸[門+広]、字は子春。AD25〜AD55のどこかで尚書令になってます。美男子だったようで、越産の布単衣を着て、光武帝に気に入られたそうな。陸賈の子孫かなんかですかね?

その孫が陸續、字は智初。故郷の会稽郡郡守尹興の下で貧民救済してます。そのとき粥を振舞った600人以上の人の名前を覚えていたとか。楚王劉英の謀反に連座し拷問されるも、母の「真四角の肉・一寸の葱」の差し入れで孝行者として赦免される。一生仕官できずに老衰死。

続の長男が広陵郡太守陸稠、次男が楽安郡太守陸逢、末子が陸褒。

陸褒は学を好み孝行者。名誉を捨て、志を貫き一生仕官せず。

褒の子が陸康、字は季寧。義烈を称され臧旻に茂才に推挙され高成県令になる。武陵太守・桂陽太守・楽安太守と、後の孫呉の重要都市の太守に就任。銅人を造ろうとして百姓への増税を図る霊帝を上疏して諌め、大不敬罪を劉岱によって救われる。故郷呉へ強制送還させられ、後廬江が、賊の黄穰ら+江夏異民族連合=10余万人で騒がしくなったので、陸康は廬江太守に任命され悉く賊を降す。その功績で孫の陸尚は郎中に。
その後、袁術が寿春で飢え陸康に食料援助を頼んだときに断った為、袁術配下武将の孫策に攻められる。陸康は2年間篭城するも、70歳で病死。城は落ち、一族百人以上が餓死・病死。朝廷は彼の節義を憐れみ、子の陸儁を郎中に任命しています。末子の陸績は先に城から落ちていたために助かっています。

以上、後漢書の要約でした。誤訳あったらゴメンナサイm(_ _)m

あとは、正史三国志の陸遜陸績陸瑁の伝にある通りです。

誰か「陸家その後」続けてくれないかにゃ〜?晋代とか・・・。(←煽ってマース^-^;;

182 名前::2002/11/01(金) 21:50

ぐっこ     2001年12月23日日曜日 23時25分

うぐお! 陸家のご先祖様たち!情報ありがとうございます!
いま系譜つくろうと思ったんですが、何故かADSLがストップしてしまい、細々とアナログ接続してますので、また後日(;^_^A どなたか書いてくださらないかな…←オイ

たしか玉川様が晋代の陸家にお詳しかったような…(逃げ腰)。
実際、玉屋にある系図等(2ちゃんねるで大活躍中)にあったハズ…。
なるほど〜、呉の名族陸氏も、いろな歴史を経ているわけですね…。
意外に格好いい陸康! 蒼天航路では散々でしたが…。

183 名前::2002/11/01(金) 21:51

玉川雄一     2001年12月25日火曜日 01時00分

…うぐは!
陸機、陸雲は香香さんにお任せして(←責任転嫁)、
せめて陸曄でも調べてみるとしますかにゃ。

…ところで、誰が2ちゃんに紹介したんだろう?
私、松竹梅さんのBBSで見るまで知りませんでした(^_^;)

184 名前::2002/11/01(金) 21:51

おばら     2001年12月25日火曜日 02時03分

2ちゃんですが、初めて2chを恐る恐る覗いたとき、たまたま春秋戦国スレだったのですが、なんとぐっこさまにお贈りした拙系図が紹介されてましたよ・・・。なんだか、私の系図とぐっこさまの考察について色々言われてましたが。(笑
以後、一ヶ月に一回くらいでしか2chは覗きませんねぇ。
私、ああいうの苦手なんですよー。(^-^;;
っつーか、2ch用語もあんまり解らないので(T▽T)

>玉川さま
玉屋が引用されてるスレを今見てきましたよ〜。
うむむ、盛り上がってますな。ホントに一体誰が・・?(笑
それと、『晋書』からの救援、お待ちしておりますm(_ _)m←他力すぎ

あと、陸家をさらに遡れる方いらっしゃったら、是非是非教えてください。結構気になっているので・・・

185 名前::2002/11/01(金) 21:51

NOB      2001年12月25日火曜日 04時53分

こんな時間ですがこんばんは〜(^-^)

つい最近(読んでる暇はないのですが)読んだ論文に、「孫呉政権と陸氏の群像」(松本幸男、「学林」22号1〜30)というのがあり、黄帝(爆)から魏晋まで陸氏をたどっていました。出典として引かれているのは史記陸賈伝索隠に引く『陸氏譜』、『元和姓纂』、おなじみ『新唐書宰相世系表』などです。
長いですが、書いてみますね〜。

黄帝-昌意-センギョク-窮蝉-敬康-句望-橋牛-瞽叟-舜……【陳】胡公-申公-孝公-慎公-幽公-釐公-武公-平公-文公-陳他-田完-稺-ビン-須無-無宇-乞-常-盤-白-【斉】太公-桓公-威王-宣王-達(ここから陸氏らしい)-發-萬-烈(続く)

途中、本筋と関係のない兄弟などは省きました。ちなみに陸烈の従甥が、史記に伝の立てられている陸賈です。陸烈のときに呉に移ったそうです。(ちなみに陸賈は祖父が楚に移っているので、楚人になってますよね)

陸烈-[目于]-鴻-建-曄-恭-[王黄]-文-親-衆-賜-[門+広]

事跡などは一切書きませんでしたが一応[門+広]までたどり着いたので、後は玉川さんにお願いします!(爆)
それではおやすみなさい〜(汗)

186 名前::2002/11/01(金) 21:51

香香 2001年12月25日火曜日 13時16分

うお!陸家ネタですね!
それにしても、NOBさまの系図すごすぎます(汗)。黄帝からスタートしているし(爆)。私が知っているのは三国志の範疇においてだけですので・・・。
お忙しいのに、有難うございます!
って、私が言ってどうする(爆)。
それでは、玉川様、よろしく(~_~;)!
晋書の陸機・陸雲伝をナナメ読みした時、この二人の列伝はヤケに小説めいているというか、よく書かれ過ぎているな〜なんて思ったもんですが(笑)。他の人のも読まないとなぁ。メジャーな人物意外全然読んでませんから(滝汗)。
いや、それ以前に読めません(爆)。「解体晋書」がたよりです(~_~;)

187 名前::2002/11/01(金) 21:52

おばら     2001年12月25日火曜日 16時09分

うを!さすがNOBさま・・・。
っと、史記陸賈伝索隠の引用ということで、触発されて私も中華書局『史記』レキ生陸賈傳第三十七を見てみました。

『陳留風俗傳』はこう伝える。「陸氏、春秋の時の陸渾國の後裔なり。晋侯が陸渾國を討ったために、陸渾子は楚に逃げた。陸賈はその後裔なり。」と。
また『陸氏傳』はこう伝える。「斉の宣王の子、達は陸で食菜す。達は發を生み、發は皋を生む。皋は楚に住みつき、陸賈はその孫なり。」と。

うーわ〜、すんごい適当な訳だ(T▽T)

>NOBさま
卒研どうっすか?こっちは・・・ぐへっ。

188 名前::2002/11/01(金) 21:52

玉川雄一     2001年12月25日火曜日 19時41分

あらら、また回ってきてしまった(^_^;)
えー、では陸康の方は… 陸績の子の会稽南部都尉・陸宏と長水校尉・陸叡、張白に嫁いだ娘の鬱生ですか。これで打ち止め(?)のようです。

陸遜の方は…皆様ご存じでしょうが(笑)
陸延と陸抗。陸抗の子は晏、景、玄、機、雲、耽。
下の三人は揃って303年に死亡。一網打尽ですね。
ちなみに機の子の蔚、夏も同じ年に亡くなっています。

また、陸遜の弟の陸瑁とその子までは呉書に載っていますね。
陸瑁の子は滂、喜、英、偉、顔。喜の子が育。
で、陸英の子の陸曄(士光、261−334)が晋書に立伝されています。
「陸曄字士光、呉郡呉人也。伯父喜、呉吏部尚書。父英、高平相、員外散騎常侍。曄少有雅望、従兄機毎稱之曰、『我家世不乏公矣。』居喪、以孝聞。同郡顧栄與郷人書曰、『士光気息裁屬、慮其性命、言之傷心矣。』」
…で始まるのですが、コレって褒められてますか?
当初は文官ちっくに昇進したようです。散騎常侍、侍中、尚書、州大中正、光禄勲、太常、尚書左僕射、太子少傅、左光禄大夫…
また軍事にも携わったようで、蘇峻の乱を平定して衛将軍になったり開府儀同三司にしてもらったり爵位を勧められたり。
「峻平、加衛将軍、給千兵百騎、以勲進爵為公、封次子暇(の編が古の字)新康子。」ってありますが…
密かに次男が陸暇(の編が古の字)だというのでしょうか。今発見♪

で、後に郷里に帰り、74歳で亡くなったとか。追贈して侍中、車騎大将軍。おくりなは穆。子の[言甚]は散騎常侍になりました。

…陸曄はこないでいかがでしょう?
あと、弟の陸玩の伝もくっついていたりしますが(^_^;)

189 名前::2002/11/01(金) 21:52

ぐっこ     2001年12月25日火曜日 21時34分

うわわわ〜〜! たった一晩で…!
ええと、NOBさまの黄帝〜桓公〜陸[門+広]からスタートして、おばら様の〜陸康〜陸績につづき、玉川様の陸瑁〜陸曄〜陸暇…と。

……うわ〜っ(;^_^A
こりゃあ、系譜にし甲斐がある〜。
なるほどお、「陸氏傳」だと斉の宣王の子・田達が、陸氏の祖だと…。ええと、宣王って孟嘗君の父・靖郭君のお兄さんですよねえ。だから、田(陸)達は孟嘗君にとって従兄。
しかし「陳留風俗傳」だとかすりもしない…。個人的には陸氏傳のほうが嬉しいですけど、たぶんこっちはウソのような気が(;^_^A
でも陸氏傳どおりだと、やっぱり陸遜の血は黄帝まで遡るわけで…。斉の田氏を引いていたとは。

で、アフター陸遜(;^_^A
陸績の一門は案外早く打ち止め…。陸遜一族も曾孫の代でほぼ壊滅…。
陸瑁の一族がいちばん長引いたんですね〜。陸暇…って、何した方なんでしょう…?

190 名前::2002/11/01(金) 21:53

左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時05分

一度ならず二度までも、、書き込みが反映されない〜!!
…というわけで、しつこいですが、もう一度。
『陳留風俗傳』の記述を見て、ひょっとしたら、と思い、チェックしてみました。すると、、
『沙中の回廊』(下巻)に、楚の荘王が、洛水上流域に蟠居する陸渾の戎を討った、という記述がありました。
仮に、陸渾國=陸渾の戎と考えると、陸氏の故地は、華山の辺り(黄河がL字形に屈曲する辺り)という事になります。

191 名前::2002/11/01(金) 21:53

左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時11分

陸渾國の姓が何であるのかまではどう調べればいいのか分かりませんが、斉の王室の系譜を拝借したのだとすると、あるいは陳と同じくキ(女に爲)姓だったのかも知れません。

192 名前::2002/11/01(金) 21:53
おばら     2001年12月26日水曜日 00時22分

はいは〜い(^-^;;
早速、陸家系図を作りましたー。
【玉屋】の玉川雄一さま、【逸聞三國志】のNOBさま、そしてぐっこさま。
ほんとに情報ありがとうございました。m(_ _)m
うーん、この充実感は何??

http://www.our-towns.net/~kanso/riku-ke.htm target=_blank>http://www.our-towns.net/~kanso/riku-ke.htm
にUPしましたんで、よろしかったら見てやってください。

また、ぐっこさまにはめいるにGIFを添付して送りました〜。怪しくないんで開けちゃってくださいな。

玉川さま、これからそちらにご挨拶に参りますです。

193 名前::2002/11/01(金) 21:55

NOB      2001年12月26日水曜日 00時53分

>おばらさま
作業早いですね(^-^;
力作、お疲れさまでした。手元の資料で系図中の「○」を少し補足できそうですので、書かせていただきます。

1.陸賈の父ですが、陸ヨウ(巛邑)だそうです。
2.陸続の父は陸桓(字・叔文)だそうです。桓には卬(ギョウ)・温という兄がいたらしいです。
ともに出典は『新唐書宰相世系表』です。

本来ならおばらさんに直接お知らせするべきでしたが、話題の流れ的にこちらにまとめて書いておく方が便利だと思ったのでぐっこさんのところに書かせていただきました。m(_ _)m

#卒論、焦ってます(笑)

>玉川さま
おぉ、晋書に陸曄がいたのですか!知りませんでした…(オイ〜!)
てっきり前漢の陸曄かと(爆) なるほど、勉強になります。

<陳留風俗伝
この件は、私が引いている論文でも触れられていました。索隠で先に『陳留風俗伝』の記述が引かれ『陸氏譜』のような説も他にある、といった感じで、史記索隠の著者である司馬貞も『陳留風俗伝』のほうを信じていたのだろう、と。しかし論文の著者である松本氏、「陸賈の「詩」「書」に対する豊かな教養を思うと、やはり『陳留風俗伝』には従えない」だそうです(爆) そんなもんなのでしょうかねぇ…?

ちなみに陸賈について、『元和姓纂』は「呉の丞相陸遜は、陸賈の裔孫である」と間違って書いているそうな…ひょっとして、家系をよく見せようと思ったゆえの改竄があったのでしょうか?(^-^;

194 名前::2002/11/01(金) 21:57

おばら     2001年12月26日水曜日 01時35分

むむ、またもや『新唐書宰相世系表』の登場!
大活躍ですな(^-^;;
>左平(仮名)さま。
『史記』匈奴列伝によると、陸渾を攻めた晋侯とは晋の文侯だそうです。そして陸渾には匈奴人もかなり混じっていたとのこと。
『陳留風俗伝』を信じるならば、陸さんは異民族の子孫って可能性もあるんですかね。

>NOBさま
追加情報ありがとうございます。もーお世話になりっぱなしですm(_ _)m さっそく改良しました。

>ぐっこさま
『漢書』地理志だと、春秋の時、陸渾の戎は弘農郡に移されて、その地を陸渾と新たに名付けたとのこと。う〜む、色んな情報がでてくるなぁ・・。

195 名前::2002/11/01(金) 21:57

左平(仮名) 2001年12月26日水曜日 21時19分

陸渾を討ったのは、文侯(重耳ではなく、仇の方)ですか。と、いう事は、紀元前8世紀後期(西周→春秋の境くらい)ですね。楚の荘王よりも先です。陸渾は、晋・楚の両方と戦った事があるというわけですね。なかなか精悍な氏族(?)です。
ただ、この頃から匈奴が存在していたかどうかが、、。「匈奴」という名(民族名か政権名かは不明)が史書に出てくるのは、戦国時代の頃からの様です。
蛇足…確か、匈奴は夏后氏の末裔、と『史記』に書かれていたかと。
あるいは、狄族との関連があるのでは?『沙中の回廊』での描かれ方をみると、狄族は半端でなく強いです。衛を一度は滅ぼし、晋ほどの大国も相当苦しめた相手です。名将・士会でこそ勝てるけど、というくらいに。

196 名前::2002/11/01(金) 21:57

ぐっこ     2001年12月26日水曜日 21時53分

 >おばら様
系譜、修正版ともども拝領しました〜っ! は、はやい…。しかも精巧な…。可及的速やかにアップできるよう頑張ります〜!!
いま趙家の系譜と並べてみてみましたけど、なんだか凄いですねえ…。神話の時代からスタートして、有名人を経由しつつもきちんと繋がってることに畏怖を覚えます! 新唐書色んな意味で恐るべし。

 >NOB様
補足説明ありがとうございました〜! それにしても、陸氏ひとつでここまでの系図が出来上がってしまうとは…。繰り返しますが、新唐書の編纂者の執念に脱帽。
陳留風俗伝…軽く見られてますかな(;^_^A どーも、コチラの方が身も蓋もない書き方なので通っぽいですけど…。ただ、記述がアバウト。史家のツッコミどころも多いんでしょうか。松本先生…。
卒論がんばってください〜(;^_^A

 >左平(仮名)さま
ということは、まず陸渾国の戎たちは、春秋時代、三國志で言うヘイ州あたりから弘農に移り(強制?)、その地に陸渾国をつくる、と。で、晋の文侯に攻撃されて楚に逃亡。で、しばらく後にこんどはまたまた楚の荘王に攻撃される、と。この時点で二派に分かれてたのかなあ…。
陳留風俗伝では、陸賈はこの陸渾国子の子孫。たしかに非漢人の血が濃ゆいですね〜。
宮城谷作品では、北方の民族は化け物みたいに強い場合が多いですよね〜! 三國志の呂布が楽しみです(;^_^A

197 名前::2002/11/01(金) 21:58

玉川雄一     2001年12月27日木曜日 21時17分

えー、では陸曄の弟の陸玩(士瑤、278-341)。彼の方が兄より記述が多めです(^_^)
まあ、かいつまんで言えば兄と似たような地位を歴任したようです。
奮武将軍の地位は病で辞したようですが、蘇峻の乱の鎮圧において兄と共に功を挙げ興平伯になったり。
尚書左僕射だの尚書令だの左光禄大夫だの開府儀同三司で散騎常侍−この時何度も辞退しようとして結局押しつけられた(笑)らしい−だの。
子の陸始が跡を嗣ぎ、侍中、尚書になったそうです。


んで、陸玩の今一人の子が陸納(祖言、?-394)。「少有清操、貞萬絶俗」だそうです(ってどういう意味?)
建威長史、黄門侍郎、本州別賀、尚書吏部郎、呉興太守…
太常、吏部尚書、奉車都尉、衛将軍。

何やら、謝安を迎えるのに「茶果」だけで質素に迎えようとしたら、「其兄子俶」が(謝安に)豪勢な贈り物をあげたとかで陸納がマジ切れしてしまい、四十杖ほどしばいたそうです。
おそらく、陸納の兄の子が陸俶というのでしょうか。またも新発見♪
その後、兄の子の陸禽が罪を犯したために自らも免官を求めるも降格で済んだりして、尚書僕射、(尚書)左僕射、散騎常侍、尚書令に。
最後は会稽王・司馬道子絡みでなにやらあったようですが、まずは天寿を全うしたかと。
で、子の陸長生は先に亡くなっており、弟の子の陸道隆が跡を嗣ぎました。陸道隆は元熙年間(419〜420年!)に廷尉になったそうです。

陸納には「兄の子」として陸俶、陸禽がいるようですが… 陸始の子と考えて良いのでしょうかね。
父の跡を嗣いだのが陸始ということで、陸始が兄で陸納が弟と考えてみました。その他にもいたのかはわかりませんが♪

また、陸納の跡を嗣いだのも…
「(陸納の子)長生先卒、無子、以弟子道隆嗣。」とあったのですが、陸道隆は「陸長生の弟の子」と解釈してみました。
この手の記述って多いんですよね。関係が微妙に分かりにくくて大変です(-_-;)

さすがに、これで打ち止めのようです。
どなたか、これより後の時代の陸氏についてご存じありませんか〜?(^_^)

198 名前::2002/11/01(金) 21:59

ぐっこ     2001年12月28日金曜日 00時00分

「おさなくして清操あり…」までは分りますけどその後が…、俗を絶つ、のようなフィーリングで(;^_^A

それにしても! まだ陸家が続きますか!?
一つ質問ですが、陸道隆の段階でだいたい何年くらいでしょう(;^_^A
すくなくともこれだけの代に渡って人材を輩出し続けろとわ…!

199 名前::2002/11/01(金) 21:59

玉川雄一     2001年12月28日金曜日 01時06分

うに。

>陸道隆は元熙年間(419〜420年)に廷尉になった

420年とはズバリ、東晋最後の皇帝、司馬徳文が劉裕に禅譲して零陵王(すげェ封地ですな)となり、
晋王朝が滅亡した年です♪ ちなみに、翌年徳文さん殺されました(T_T)
まさに大河! ああ、楊さん家の方がもっと凄かったんでしたっけ。

200 名前::2002/11/01(金) 21:59

左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時13分

六朝以降の陸氏(といっても、陸賈や陸遜とのつながりは特に書かれていないので、たぶん赤の他人でしょう)ですが、、漢字字典『新字源』の「陸」のところを見ると、何人か記載されていました。

1,陸羽(りくう) 茶道の開祖。「茶経」を著す。
  字は、、書かれていません。
2,陸九淵(りくきゅうえん) 南宋の学者。
  字は子静、号は象山。朱子のライバル的存在。
3,陸贄(りくし) 唐・徳宗期の政治家。
  字は敬輿、諡は宣。
4,陸元朗(りくげんろう) 唐初の学者。
  字は徳明。
5,陸游(りくゆう) 南宋の詩人。
  字は務観、号は放翁。生涯で数万という詩を詠んだとか。

ほかに陸機・陸雲・陸賈は書かれていましたが、陸遜がない!です。
このうち、割とあやしいのは、陸贄でしょうか、、。
NOBさん、すみませんが、「新唐書宰相世系表」をチェックしていただけませんか。

201 名前::2002/11/01(金) 22:02

左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時35分

続いて、諸橋轍次氏の『中国古典名言事典』の人名索引から、、。

6,陸亀蒙(りくきもう) 唐末期(生没年の記載はないですが、
  皮日休との親交があったという事から)の詩人。字は魯望、
  号は江湖散人、天随子、甫里先生、バイ(さんずいに倍の右側)翁、
  江上丈人。、、号が多い、、。
7,陸秀夫(りくしゅうふ) 南宋末期の人。文天祥・張世傑とともに
  「三傑」といわれる。涯山の戦い(壇ノ浦の合戦を、さらに大規模
  にした感じの戦い。この戦いで南宋は滅亡するが、史書には、戦いの後、
  嵐に遭い、「舟覆る。世傑溺る。宋滅ぶ」と記載)の際、舟中で「大学」
  を講じ、その後、入水した。

202 名前::2002/11/01(金) 22:02

左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 22時58分

こうしてみると、陸という氏は、林などと同様、南方系なのでしょうか。

203 名前::2002/11/01(金) 22:03

NOB      2001年12月29日土曜日 00時15分

左平さまに御指名いただいたので、僭越ながら書かせていただきます(^-^;

陸贄は見事にビンゴでありました!宰相世系表によると

陸瑁―英(長沙太守)―カン(衛伯玉の名前と同名/晉の中書侍郎)―(間に4代)―文盛(齊の散騎常侍)―宣猛(字は觀明/六朝梁の宣威將軍)―潯(六朝陳の吏部侍郎)―(間に8代)―齊望(祕書監)―[シ霸](吏部郎中)―陸贄(字は敬輿/徳宗期の宰相)

となっています。他にも陸元朗が、

陸續―稠(荊州刺史)―粛(丹徒令)―(間に9代)―鎮之(梁の給事中)―(文字化けで1カラム分意味不明)―雍(陳の豫章王の諮議)―元朗(字は徳明/秦王府の學士)

ということで、いずれも既出のご先祖様にたどり着くことができました(^-^)

その他の3名については探した限りヒットしませんでした。と、こんなところです。字はコピー&ペーストなので、旧字体のままで失礼します。

204 名前::2002/11/01(金) 22:03

左平(仮名) 2001年12月29日土曜日 01時22分

唐代の二人が“あたり”でしたか。NOBさん、調べていただいてどうもありがとうございます。陸秀夫もそうだと、悲運の名将(名臣)・陸一族というイメ−ジがより強烈になりますが、、それはさすがに妄想ですね。
それはそうと、唐という時代は、やはり中国史上、重要な時代だという事があらためて確認できます。その衰亡を機に、貴族社会が崩壊していくわけですから(宋以降、“〇〇の子孫”という名乗りをあげる人は少ない様に見受けられます。『水滸伝』に出てくる、大刀・関勝【自称・関羽の子孫。もちろん、架空の人物】くらいでしょうか)。

205 名前::2002/11/01(金) 22:03

NOB      2001年12月29日土曜日 02時30分

>左平さま
すみません、2番目の書き込み、全部調査していませんでした(汗)

陸亀蒙は以下のとおりでした。っていうことは、陸瑁の子孫ですね。

陸玩(字は士瑤/侍中・司空/贈太尉・興平康伯)―始(字は祖興/五兵尚書・侍中)―萬載(臨海太守・祕書監・侍中)―子真(字は同宗/宋の東陽太守)―惠徹(字は監/齊の司徒府左曹掾)―閑(字は遐業/揚州別駕)―完(字は楚卿/梁の琅邪太守)―丘公(字は子岳/黄門侍郎)―[王深](字は潔玉/陳の黄門侍郎)―玄之(字は又玄/豫章尉)―元方(武后の頃の宰相)―景倩(右臺監察御史)―溥(少府少監/平昌縣男)―康(澤州刺史)―正興―賓虞(字は韶卿/侍御史)―龜蒙(字は魯望)

唐よりも後の陸羽・陸九淵・陸游・陸秀夫については、
【陸羽】字は鴻漸。一名として疾、字は季疵ともいう。復州竟陵の人。
【陸游】越州山陰の人。
【陸秀夫】字は君実。楚州鹽城の人。
と言うこと以外は分かりませんでした。それぞれ正史に伝が立てられていたので、先祖が辿れたりすると面白かったのですが…(^-^;

206 名前::2002/11/01(金) 22:04

玉川雄一     2001年12月29日土曜日 02時34分

ひええ、本当に繋がっていらっしゃる…
どうも、ポイントは晋書に載っていない(と思う…)陸英の子孫とゆうワケですね。
陸曄、陸玩の他にも兄弟がいたとは…
そして、陸始の後がちゃんと続いていたとは!
何だかしやわせですわ。

…ということは、おばらさんの系図が更に伸びる?(笑)

207 名前::2002/11/01(金) 22:04

おばら     2001年12月29日土曜日 02時45分

『新唐書宰相世系表』読んでみたのですが、まだまだ陸家系図書き足せそうですねぇ。
褒−紆−駿−瑁−穎−濯−漢公−冽−元之−英−玩−始−萬載−子真−惠徹−閑−完−丘−[王深]−柬之−まだまだ続く・・・・・
って唐の玄宗期だああああ!!!

208 名前::2002/11/01(金) 22:05

おばら     2001年12月29日土曜日 02時55分

系図作ってくださる奇特な方がいらっしゃいましたら
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1102970918&path=/18.3.18 target=_blank>http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1102970918&path=/18.3.18
で陸家その後が詳しくわかりますのでどうぞ(爆爆」
あと、
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1102970918&path=/18.3.18.4 target=_blank>http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1102970918&path=/18.3.18.4
で呉の孫家のことチラッと触れてますね。
探せばでてくるもんだ・・・。

209 名前::2002/11/01(金) 22:05

おばら     2001年12月29日土曜日 20時14分

上のリンクはねられてます・・。すいません。
・・
・・・
・・・・
といいつつ、卒論の合間に結局陸家系図作ってる・・・(T▽T)

210 名前::2002/11/01(金) 22:05

NOB      2001年12月29日土曜日 21時20分

中央研究院の漢籍電子文献、直リンクはできないようになっているんですよね。あと、プロキシを使うと使えないことがあるとか。
『新唐書宰相世系表』は、漢籍電子文献のトップから「二十五史>新唐書>表」で行けます、陸氏については、さらに「宰相世系三下>陸氏」で。

>おばらさん
孫権の祖父・孫鍾が『宰相世系表』に出てきているとは知りませんでした。

余談なのですが、瓜を司命星に恵んだため子孫が高貴になった話が『幽明録』などに載っています(『三國志集解』にもひかれていたような記憶が)。それによると瓜を売って生計を立てていたそうですが、本当に世系表にあるとおり太守の子だったとしたら、わずか数年でそこまで没落した理由って一体…(爆)

211 名前::2002/11/01(金) 22:06

ぐっこ     2001年12月29日土曜日 21時21分

いかん、これではおばらさまの負担が凄いことに…と思ってましたら、更新されるのですか!? あの、あまり無理はなさらずに…。手が空いたら私の方でも何とかしますから…!
たしかに順をおってメモしていきましたが、頭狂います(;^_^A 陸家おそるべし…

それにしても、以前おばらさまがつくってくださった系図と照らし合わせてみますと、見事に何箇所かミッシングリンクが! このへんは新唐書宰相世系表の編纂者と陸家のみなさんの腕の見せ所でしょうか(;^_^A
唐代…隋唐代ですよ!? 三國志が終わって、魏晋南北時代が終わった後の話!凄すぎ…。

ええと、おばらさまのリンク先ですが、
http://www.sinica.edu.tw/ target=_blank>http://www.sinica.edu.tw/
の、「學術資源」→「漢籍電子文献」から。中林先生のサイトからリンクされてる漢文全籍資料庫のオオモトです(;^_^A
中国正史のほぼ総てが閲覧できる仕組みのようです。さあここで新たなる陸家を発掘するか!

212 名前::2002/11/01(金) 22:07

NOB      2001年12月29日土曜日 21時22分

すみません、ちょっと意味不明でしたが、余談のところは孫鍾にまつわる説話です。
すでに過去に出ている話だったらごめんなさい。読み流してくださいm(_ _)m

213 名前::2002/11/01(金) 22:07

ぐっこ     2001年12月29日土曜日 21時24分


同時です(;^_^A NOBさまようこそ〜!
孫家の祖ともいうべき孫鍾のお話ですね! …さすがの新唐書宰相世系表も、孫家に関してはそれ以上の追跡は不可能でしたか…

214 名前::2002/11/01(金) 22:07

左平(仮名) 2002年01月04日金曜日 23時34分

そうそう、おばらさんのHPで陸氏系譜を拝見しましたが、陸康が二人いるんですよね(一人は陸績の父、一人は陸亀蒙の曽祖父→陸瑁の子孫 直系の先祖・子孫ではない)。
避諱(ひき:先祖の諱を避ける)といいますが、数百年も経つと、さすがにそう言ってもおられないのでしょうか。
類似した例として、周の武王と鄭の子産の父・子国が挙げられます(ともに、姓名は姫発)。こちらは、数百年経っていますが、直接の先祖・子孫の関係です。日本では、伊達政宗の例があります。

215 名前::2002/11/01(金) 22:07

左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 00時10分

↑約一週間が「ちょっと(の)間」って、、。
それはそうと、『三国志 きらめく群像』を読んでいて、諸葛氏の血縁関係をどう考えるか、という問題があったので、こういう風に考えてみたのですが、聞いて頂けますか?
上記の書き込みも、これを考える中での副産物なんです。
1,諸葛珪(しょかつけい)、諸葛玄(しょかつげん)
2,諸葛瑾(しょかつきん)、諸葛亮(しょかつりょう)、諸葛均(しょかつきん)、諸葛璋(しょかつしょう)
3,諸葛誕(しょかつたん)
1,2,3,のグル−プが、それぞれ同じ世代(起点となる人物からみて同じ世代という意味)と考える。名の発音が−e−が1,−i−が2,−a−が3,と考えてみました。
渡辺氏がおっしゃる様に、王ヘンがつく人・つかない人という分け方には十分な説得力があるのですが、一つひっかかるのです。諸葛瑾と諸葛亮が実の兄弟ではないのではないか、というのはいいのですが、では、諸葛亮と諸葛均はどうなるのか、なんです。同じ勢力に仕えていて、史書にも弟と書かれているのに実の兄弟ではないとは考えにくいし、かといって、名の字づらには共通性がないし。
私の仮説が合っていれば、諸葛瑾・諸葛亮・諸葛均は実の兄弟として考えても問題ない、となるのですが、、ただ、名へのこだわりをどう見るべきか(この仮説だと、諸葛珪と諸葛瑾は親子で王ヘンを使用している事になるが、親子の名に共通性があって良いのかどうか)というのがまだ完全にはクリアできていない様で。

216 名前::2002/11/01(金) 22:08

玉川雄一     2002年01月05日土曜日 00時38分

日本だと祖先の名を継ぐことありますよね。
伊達政宗しかり。
朝倉孝景しかり。
長宗我部元親しかり。
相良長毎しかり。(マイナーやな)
この辺り、考え方が違うということでしょうか。
といいますか、親子で同名もいますし。
小山田信有(甲斐の豪族、郡内小山田氏)とか。
小場義実(常陸の武将)とか。

ところで、『三国志 きらめく群像』って以前も何度か出ていますが、
イケてる本なのでしょうか。
昨日、書店で偶然見つけたんですが購入は見送ってしまいました。

217 名前::2002/11/01(金) 22:08

黒竜 2002年01月05日土曜日 02時20分

この話題には初参加の黒竜です。
>左平(仮名)さん
親子で名前に共通性がある例ならありますよ。
応[王旬]━応[王易] 応純━応紹 孫綽━孫[糸林] 王渾━王済
ざっと調べてこんなところです。
確かに少ないですが皆無ではないようです。

218 名前::2002/11/01(金) 22:08

左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 02時42分

黒竜さん、わざわざ調べていただいて、どうもありがとうございます。
親子の名に共通性のあるケ−スが三国時代にありましたか!と、なれば、、

219 名前::2002/11/01(金) 22:08

ぐっこ 2002年01月05日土曜日 22時04分

歴代長スレの中でも屈指のロングランとなりました(;^_^A
さておき名前についてですか〜。封地にしても同名の土地は避けると言いますが、基本的にチョクの諱をさける、という以外は、結構ニアミスとかありそうですね…。
>諸葛ニセ兄弟
たまに見かけますよね〜、この説。私は従来の設定を心情的に支持してますが、実際はどうなんでしょ。ニセ三顧の礼と同じく、単なる異説で
あってほしいと思ってます…。
>漢字
たしかに一族で同じ部首の漢字を使う例はあるようですが、確かに親子となると…。

220 名前::2002/11/01(金) 22:08

おばら     2002年01月06日日曜日 01時19分

妄想レスですまんのですが、
「珪」とは「ガラスの原料」であり、
「瑾」とは「純粋で硬い玉」を意味し、
「亮」とは「あきらか。さえる。まこと。高らかによく通る声。」を意味し、
「均」は「ひとしくする。すべて。」と漢和辞典あるんで、
諸葛珪は、自分の名と合わせて、さらに三人の子の名を合わせて理想的な人間像とした?!

「透き通った玉のように、あくまでも純粋で硬骨を保ち、その明徳は高らかに響きわたり、すべての人に余徳が行きわたる。」な〜んてね。(^-^;;
メッチャ妄想ですわ。

かんけーないスレ付けてスマンデスm(_ _)m

221 名前::2002/11/01(金) 22:09

左平(仮名) 2002年01月06日日曜日 02時27分

単なる妄想なのですが、ifものの小説でもつくる際に、諸葛均の“均”を“鈞”にしたらどうかな、とも考えています(彼を産んですぐに母親が亡くなっている、という事実も絡めて)。そうなると、、
・瑾−美しい玉。→玉の持つ輝き→高潔な人格
・亮−あきらか。→あかるさ→智の輝き
(注:「亮」という字は、「京」と共通の字源を持つらしいです。ちなみに、「京」には、「京観(:けいかん。戦いの後、敵兵の屍を塗り込めてつくった凱旋門のこと)」という意味合いがあるとか)
・鈞−ひとしい、の他に、造物主や天の意味もあるとか。→金ヘンもあるから、金属の輝きもある、かな?→人々への恩徳・高貴さ
(注:夏の啓王が、即位後、「鈞台」という所で諸侯をもてなしたという故事もあります)
三人の名には、それぞれ「明るさ」を示す意味合いが加わる事になり、共通性が出ます(ただ、これだと長兄・瑾の名が相対的に地味に…)。

それともう一つ、妄想ですが、、何故、諸葛瑾の字は「子瑜」なのに諸葛亮は「孔明」なのか?ひょっとしたら、元の字は「子明」だったのでは?てな事も考えています。

以上、ちょっとした妄想レスでした。

222 名前:.:2002/11/02(土) 12:11

おばら
   
☆突っ込みどころ曼才!『捜神記』盧氏☆

えーと、三國志ゲーで盛り上がってるところすまんのですが、
『捜神記』を読んでいたらですね、盧植の祖先が載っていたですよ。

盧充さんというらしいのですが、なんと二十歳のときに幽界に迷い込み、幽霊の娘(もちろん娘も幽霊)崔温休と結婚し、初夜で妊娠させております。
で、三日で嫁と別れ(むちゃくちゃですな)この世へ戻ってくるわけなんですが、四年後の三月三日、盧充が川で禊をしていると、突然幽霊嫁タンとの幽霊義父さんが乗っていた二台の牛車が現れて、金椀と三歳になる崔温休と盧充の子を渡して去って行きます。
盧家では皆気味悪がって、この子に唾を吐きかけます(幽霊は唾が苦手だと信じられていたらしぃ)。
しかし、崔温休タンの棺の中に入っていた金椀がもとで、崔家盧家ともにこの子どもを崔温休と盧充の子と認めます。
そしてこの子は成長すると太守を歴任し、子孫は代々高官となり、その子孫のなかの一人が盧植さんだということです。

盧充・・・・盧植−盧毓−● −盧藩
           倔ク欽−盧浮
           倔ク挺−盧皓
              倔ク志−盧氏|●−●−盧循

幽界と現世を結んだ盧家。その子孫に妖術で南方を騒がせた人物がでるとは・・・。

まぁ、史料的には×な『捜神記』なので…どうなんでしょ?(^-^;;
あ、そういえば盧氏ネタ、かなり前のレスであったような…

223 名前:.:2002/11/02(土) 12:11

おばら     2002年02月10日日曜日 07時13分

系図少しずれちゃったよ…。(泣
ワードパッドなんかに貼り付ければちゃんと見える筈。でも系図自体が間違ってるかも。(爆

このスレは「盧綰と盧植って関係あるのかな?」というぐっこさまの書き込み(相当昔のことです^-^;;)に応じて、盧氏を調べているうちに見つけたものです。
中央研究院さんで晋書も漁ったんですが、イマイチ理解できず。
こりゃ買うしかないか?

224 名前:a:2002/11/02(土) 12:13

玉川雄一     2002年02月10日日曜日 19時01分

>盧氏ネタ、かなり前のレスであったような…
発端は多分私です(^_^;)

味好漢の方で、盧遜(演義に出てきた蜀末期の武将)を間違えて「盧氏vと書いてしまい、そのついでで盧獅ノついてネタを振ったのが一連のご先祖ネタの始まりだったかと思います。


ちなみに、ちくま三国志の盧毓伝の裴註の盧獅ノついての部分ですけど。
『妖術を操る賊の大将盧循は盧獅フ曾孫である』とありますよね。
これが原文のニュアンス通りに訳してあるのかは判りませんが、この表現だとミョ〜にリアルに感じられません?
それもそのはず、裴松之(372−451)にとって盧氏i?−411)はまさに同時代人、彼はリアルタイムでこの大叛乱を知っているはずなのです。何とも面白いものですね。

225 名前:a:2002/11/02(土) 12:13

ぐっこ 2002年02月11日月曜日 02時02分

なんと、一族ネタの最初は盧氏でありましたか!? 意外な回帰…。
それはさておき、盧植のご先祖様に意外な人物が!
おばらさま、あの節はどうもです…(;^_^A
幽霊の娘とワンナイトラブ…いいですな…じゃなくて! きちんと子供が産めるのですか!幽霊!幽霊のメリット無いじゃん!
…じゃなくて! そういうエピソード持つ人間を先祖に頂き、後の晋代
でも人材を輩出する…と。ただ、盧植も劉備との絡みがなければ、これほど後生に名を残すことも無かったでしょう〜。歴史は、運だ!

ところでこの妖将(苦笑)・盧循、どんな術を使ったんでしょうか…。

226 名前::2002/11/02(土) 15:44

もす

 えっと、がいしゅつだったらスイマセン…(^^ゞ
牛に続いて『顔』です。

 すっげぇ胡散臭いんですが、顔良って顔回の族孫なんでしょうか?
ちなみに、元ネタは『顔氏家訓』です。
がいしゅつでなかったら、原文を引っ張ってきたいと思いまっす。(^^)

P.S.この掲示板って、ログ検索出来ませんでしたっけ?
  なんか委員会の方は確認してみたんですが…

227 名前::2002/11/02(土) 15:44

ぐっこ 2002年07月22日月曜日 23時08分

顔回っていうと、孔子の弟子の彼ですよねえ…。本貫は曲阜のあたりでしょうか?(よく知らないんですが…)
で、ええと「顔氏家訓」!? んなメジャー気味な書物に、そんなうさんくさい話が載ってるですか!? いや、私は知らないです〜。…うーん、過去ログ検索できないので、こちらの定期バックアップで検索したんですが、少なくとも顔良ネタは無かったです…。
詳細きぼん!

228 名前::2002/11/02(土) 15:45

もす 2002年07月22日月曜日 23時45分

 私もある方に聞かれて調べてみたのですが、
あまり信頼性のある記事には思えない……か?(笑)

-----------------------------------------
顔氏之先,本乎鄒、魯,或分入齊,…(中略)…
春秋世,顔高、顔鳴、顔息、顔羽之徒,
齊 有 顔[シ豕]聚,
趙 有 顔最,
漢末 有 顔良,
宋 有 顔延之,
-----------------------------------------

 既にお分かりかとは思いますが、念の為。
『顔氏家訓』を著した顔之推は、北斉〜隋の時代の人(531?〜604)。
文林館待詔・黄門侍郎などという官職についたこともあるようです。

 んで、おおまかに言うと、上で挙げられた人物には、
魯国の顔氏と認められたり、瑯邪郡臨沂県と記されたり、と
確証らしき情報がある人物もいます。
 いますが… 顔良は、どこにそのようなことが?!(笑)
彼は范書や後漢紀にも登場しますが、そんな記述は。。。。(^-^;

229 名前::2002/11/02(土) 15:45

惟新 2002年07月23日火曜日 21時35分

そんな話があるんですか! 面白いですね〜
顔之推が族孫なら、五代後の子孫の顔真卿も族孫ということに。
…顔良、実はものすごい人だった!?

230 名前::2002/11/02(土) 15:45

ぐっこ 2002年07月25日木曜日 21時41分

うーむ! もす様感謝! ……うー、言われてみれば確かに、どこかでその話を聞いたような来もする…どこだったか…(;^_^A
顔氏家訓は、たしか世説新語と同綴で一通り読んだと思うんですが、綺麗にとばしてました…

漢末の顔氏…ざっと正史人名辞典見ただけですが、顔俊(西平)、顔斐(斉北)、顔連(無錫)だけ…。
本当に顔回の子孫ならそう名乗るでしょうから、彼らに該当は内のかなあ…。
また後世の強引なこじつけなのかしら(;^_^A でもよりによって顔良を選ぶというのも…。文人で誰かいたのかなあ…

231 名前:中根東竜:2002/11/28(木) 01:27
お久しぶりです。

>顔回の子孫が顔良

顔之推の子孫、顔真卿が自分の家の家系を書いた、
『顔勤礼碑』という石碑資料がありますが、
そこにはあっけなく「後漢末三国の顔氏の系図は、
よくわからない」と書かれていた記憶が・・顔良はつゆほども
出てこないんですよ。
というわけで、怪しい説だと個人的には思っています。
・・まぁ、この『顔氏家訓』の説が後に流布したのか、
中国最大級(だと思う)の姓氏事典になる
『古今図書集成』姓氏部では、あっけなく顔回の子孫の分家は
顔良の臨沂顔氏であり、顔之推・顔真卿はその子孫である・・
と書かれてしまうのですが。

232 名前:★ぐっこ:2002/11/30(土) 17:42
お久しぶりでっす。

あ、顔真卿が自分でそう言ってるわけですか…(^_^;)
となると、『顔氏家訓』の「漢末 有 顔良」
って一文は、なぜ紛れ込んだんだろうか…
顔之推の代もだいぶ後なので、状況も資料の保存状況も
だいぶ違うでしょうけど、本人がことさらにそう言うほど、
胡散臭い系図が手元に残されてたということか…

もし、本当に顔良が顔回の子孫だったら、また袁紹軍団の
別の一面が見えてきそうで面白そうだったんですが…残念…

ところで顔良って本当に臨沂の顔氏なんでしょうか…?

233 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 17:09
安定皇甫氏スレ立てようかと思ったんですけど自重して。
何かと紛糾する謎の「皇甫堅壽」について一考。

私は、少なくとも「堅壽」という一人であって、「堅」と「壽」の二人ではないと思います。
そして、この時代からしてやはり「堅壽」は字ではなかろうかと。
避諱処理がかかってるんではないかしら。(このレベルの扱いだと避諱があっても註が付かない場合がある)

原文によれば「堅壽亦顯名,後為侍中,辭不拜,病卒.」(漢籍電子文献の後漢書皇甫嵩伝)とのこと。
もし堅と壽の二人ならば、通例では「堅,壽亦顯名〜」というふうになるはずです。
標点本では、諱にしろ字にしろ別個の人物の名は「,」で区切るのが通例かと思われます。

また、劉表伝では「二子:[王宗],[王奇]〜」あるいは劉焉伝では
「焉四子,範為左中郎將,誕治書御史,璋奉車都尉,並從獻帝在長安,唯別部司馬瑁隨焉在益州〜」
とあるように複数人の子がいる場合には「○人」と最初に挙げている場合もあります。

やはり、「堅壽」は一人と見る方が妥当だったりしませんかね。
ちなみに私の「堅壽&叔献兄弟説」はもう一度世説新語(の註)を確認してみます。

なお、ある書物に載っていなくても別の書物から係累がたどれる場合もありまして、
例えば温恢は魏書温恢伝において子は温生一人しか記されていませんが、
晋書温羨伝によると、温恢の子としてもう一人温恭という人物が存在したことになります。
また同甘卓伝によれば、甘寧の子は呉書甘寧伝に載る甘カイの他に甘述がいたことがわかります。

その世説新語註のソースが信頼に足るものかどうかは、追って調査する必要がありますね。

234 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 17:16
しもた、肝心な所が読みにくくなってる!? カンマが半角じゃ分かりにくいですね。

「堅壽亦顯名」の部分、もし堅と壽が別人なら「堅,壽亦顯名」と表記されるはずだろう、ということです。

235 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 18:36
「『〜とは書いてない』は『〜ではなかった』の証明にはならない」のを承知で敢えて付け足しますと、
人名を並記する場合は「,」で区切る(標点本)の他に「並」などを挟む場合もあります。
「堅並壽亦顯名」のような。

もう一つの方向性としては、こういった表記方法(連続して書く)が
別の個所にも存在するかという検証もありますね。(気の遠くなるような話…)

…ここまで来て思いだしたのですが、中華書局の二十五史シリーズって、
固有名詞(人名、地名、書名など)に傍線を引っ張ってあるんですよ。
で、この部分がどうなっているのかしら。
「堅壽」ひと繋がりで傍線を引いてあるか、「堅」と「壽」と区切って引いてあるか。
どなたか中華書局版をお持ちの方いらっしゃらないかな。

236 名前:名無し:2003/10/18(土) 21:36
繋がってますよ>中華書局版

237 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 23:27
む、やはりそうでありましたか。
一つ繋がりとして解釈するのが妥当なのでしょうね。
名無しの救世主様、情報提供ありがとうございました。

今度は、皇甫叔献の存在のウラを取らねばなりませぬな。
まずはまた世説新語ひっくり返さないといかんのか… 楽しいけどしんどいですな。
やはり図書館借りじゃなくて自前で持たねばならん時が来るのだなあ。

238 名前:japan:2003/11/02(日) 23:34
>玉川様
遅レスですが、文学第四の68の注に引用されている王隠の『晋書』ですね。
>皇甫叔献の存在のウラ

「祖父皇甫叔献はハ(さんずいに覇)陵令、父皇甫叔侯は孝廉に挙げられた」とありますが、
(1)父と子の諱に同じ文字が使われていることは99%ありえない
(2)後漢〜晋代にかけての士大夫は<名が一文字+字が二文字>のパターンが大多数。
という二点から考えると、この「叔献」「叔侯」は字と見てほぼ間違いないでしょう。

「『叔』献」という字は上に兄がいたことを予想させます。
「堅壽&叔献兄弟説」とも矛盾しない考え方ですね。
(弟が『叔』なのに兄が『伯』『仲』でないというのは
荀揩フ息子達にも見られるパターンですし)

残念ながら正史の方の『晋書』皇甫謐伝には、
彼の父&祖父についての記述はありませんでした。
(曽祖父が皇甫嵩である旨は記してありましたが)
後は、張奐を自分の後任に推薦したという皇甫規や、
下辨の丞を務めた皇甫彦、安定太守の皇甫隆あたりも
この一族の出身のようですね。
ヒソーリと活躍してるなぁ、安定の皇甫一族…

239 名前:★玉川雄一:2003/11/03(月) 01:39
japanさんフォロー感謝です。やはり、字なのでしょうね。

しかし、安定皇甫氏は「叔」の字がよほど好きなのでしょうか(^_^;)
晋書に立伝された皇甫重の字も「倫叔」だし…
皇甫重は西晋時代に、また皇甫真なる人物が前燕〜前秦に仕えて活躍したそうですね。
学三のトウ艾スレに書いてあります。
http://gaksan2.s28.xrea.com/x/cgi-bin/12ch/read.cgi?bbs=gakuenn&key=1012041484
やっぱ地道に頑張ってるんですねえ。

240 名前:japan:2003/11/08(土) 12:46
先祖・子孫というほど遠く離れてはいませんが、
西晋の名将・羊コの血統はなかなか凄いものがあります。

母方の祖父が後漢の大儒である蔡ヨウ、
おばは流転の女流詩人・蔡文姫。
義理の兄が司馬師で、義理の父は夏侯覇。
おまけに父の先妻は孔融の娘。
おじである羊耽の妻は賢婦として名高い辛憲英(辛ピの娘)で、
彼女の曾孫が西晋・前趙の二朝で皇后に冊立されるという
数奇な運命を辿った美女・羊獻容。

ちなみに、羊コが夏侯覇の娘を娶ったきっかけは、
夏侯覇の弟である夏侯威が泰山郡に赴任した際に
羊コの人となりを高く評価し、姪と縁付けたというもの。
この夏侯威の後妻は蔡氏(蔡ヨウの一族であるかは未確認)。
夏侯威の次男・夏侯荘は羊耽と辛憲英の間に生まれた娘を妻とし、
その息子が美貌の詩人として名高い夏侯湛である。

……文字だけで書くと何がなにやらという感じですが、とりあえず
・[言焦]の夏侯氏:魏の帝室と累代縁戚関係にある名門。
・泰山の羊氏:晋帝室と縁が深く、軍事・政治双方から司馬氏を支えた名家。
・陳留の蔡氏:漢末の争乱で痛手を負った学者一族。
この三つの家は幾度も婚姻を重ね、優秀な人材を輩出していたようです。
西晋辺りになるとかなり貴族制が進んできたようですが、
羊コの血統表を眺めているだけでもその一端が感じ取れるような…

241 名前:japan:2003/11/08(土) 13:09
※おまけ:夏侯淵伝の疑問について

夏侯淵伝の裴注に引く『世後』に以下のような記述があります。

「夏侯荘は、晋の景陽皇后の姉の夫に当り、そのおかげで、
彼の一門は当時にあって、はぶりをきかせた」

晋の景陽皇后=羊徽瑜は羊コの姉。
しかし、辛ピ伝に引く同じく『世語』では
夏侯湛は辛憲英の外孫とされています。

考えられる可能性としては、
(1)夏侯荘は羊氏から二回妻を迎えている。
・一人目:羊コや羊徽瑜の姉
・二人目:羊耽と辛憲英の娘。彼女が夏侯湛を産んだ。

(2)ちくまの誤訳、もしくは原典から間違っている。
二人の羊皇后(羊徽瑜と羊獻容)を取り違えた、或いは世代を数え間違えたなど、
引っ掛かりそうなポイントがいくつかあるのが気になります。

付け焼刃で調べた知識なので、勘違いや見落としも多いと思います。
詳しい方からフォローをいただければ幸いです。

242 名前:★ぐっこ:2003/11/09(日) 01:49
しっかり清流ネットワークのコアな位置にいる超エリート、羊コさん。
っていうか、改めてその血統を見ると、本当に凄い…(゚Д゚;)
権門にあまり関わって無さそうな蔡氏と縁続きというのがアクセントに
なってますが(^_^;) そういえば、党錮で捕まった名士の中に、泰山の羊氏
が一人いたと思いますが、羊コと同じ一族だったかも。

などと役に立たない事を書き散らして、もうひとつの話題の夏侯氏問題から
逃げてますが(^_^;)、 どなたかフォローをばプリーズ。

243 名前:japan:2003/11/12(水) 23:57
>そういえば、党錮で捕まった名士の中に、泰山の羊氏
>が一人いたと思いますが、羊コと同じ一族だったかも。

『党錮伝』を確認してきました。八顧の一人である羊陟ですね。
羊陟は泰(太)山梁父の出身、羊コは泰山南城の出身なので
直接的な血のつながりは無いかもしれません。
でも『羊コ伝』によれば、彼の家は九世にわたる名族であったそうですから、
泰山郡の全域に同族が住んでいたとしても不思議はないですよね。

豫州・青洲の名士ネットワークに繋がる「泰山の羊氏」という一族の存在を
想定すると、漢末から晋へと続く清流の系譜がまた一つ明らかになった気がします。
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m

244 名前:★ぐっこ:2003/11/30(日) 01:36
激しく遅レスですが…
三国志事典15X-31Xさま→http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/
の事典・羊陟の項で、蔡一族と数代にわたる交友があったことから、
南城羊氏との関連が触れられてます。
ざっと蔡邕傳を見てみると、確かに司徒・劉郃がらみの弾劾騒ぎがあった
おり、隅っこのほうに小さく
「太山黨魁羊陟與邕季父衛尉、質對門九族」とありました。
「泰山の党人の首魁?羊陟と、蔡邕の叔父・衛尉卿の蔡質は〜」という前半に続き、
後半部分の「封門九族」が、なんかソレっぽいのではないかと(^_^;) 亡命中も
羊氏と連絡をとっていたようすし…

245 名前:MM2:2003/12/03(水) 10:50
どうもお久しぶりです。

羊陟の一族と羊コの一族についてですが、誤訳しててわかりにくくなってました。
後漢書集解の蔡ヨウ伝に「欧陽尚書九族妻族二対門九族乃妻族也…」とありまして、
「『欧陽尚書』によると「九族妻族二」とあり、「対門九族」とはすなわち妻族のことである」
という意味ではないかと。

蔡ヨウの一族と羊陟の一族は妻の一族を介して縁続きで、更に蔡ヨウの外孫に羊コがいます。
言及はされていませんが一族の可能性は高いと思います。

246 名前:MM2:2003/12/03(水) 11:00
連続ですみません。

>蔡ヨウの一族と羊陟の一族は妻の一族を介して縁続きで、
妻の一族を介して…ということではなく、蔡氏と羊氏は互いに娘をやって姻戚同士だったという意味かもしれません。

247 名前:japan:2003/12/04(木) 23:55
ぐっこ様、MM2様、羊陟に関する情報をありがとうございました。
三国志事典15X-31X様も拝見してまいりました。
「泰山の党人の首魁」にして蔡ヨウの一族とも姻戚関係がある。
ますます羊コと親戚筋にある可能性が強くなったように思います。
『晋書』羊コ伝の冒頭に「至コ九世、並以清徳聞」とあるのも
累代清流派士大夫の家系であったことを示唆していますし。

248 名前:★ぐっこ:2003/12/04(木) 23:58
あ、ご無沙汰しておりますー!
そしてアドバイスありがとうございます!
あー、集解で注釈されるくらいマイナーな表現でしたか…。
太山黨魁羊陟與邕季父衛尉質對門九族
に限って言えば、羊陟か蔡質のどちらかの妻の一族が、先方と
繋がっている、と限定できるかなあ。…と思えば>>246の考え方
もあるわけで…
ともかく、蔡邕と羊コは縁続きなわけですし、ヤハリ泰山諸県に、
それなりの数の分家が散らばっていた、というところでしょうか?
MM2さま、貴重な情報ありがとうございました!<(_ _)>

249 名前:japan:2003/12/05(金) 00:14
あと>>241の訂正ですが、

>晋の景陽皇后=羊徽瑜は羊コの姉。

すいません、この記述は私の勘違いでした。
というか「晋の景陽皇后」などという人物は存在しませんでした。
……ハイショーシ君、ドウイウコト?

晋景帝=司馬師の皇后として『晋書』に立伝されているのは
 ・景懐夏侯皇后:夏侯徽(夏侯玄の妹)
 ・景獻羊皇后 :羊徽瑜(羊コの姉)
の二人。どちらの諡号も「陽」ではありませんでした。
司馬師はこの二人の他に呉質の娘も妻にしていますが、彼女は子も無いまま離縁されて
皇后が追贈されている様子も見受けられません。

でもって、もう一人の羊皇后――羊獻容の晋書における記述は「惠羊皇后」なんですよ。
「惠羊皇后」と「景陽皇后」。「羊獻容」と「景獻羊皇后」。
……ますます二人の羊皇后の記述が交じり合ってしまったような匂いがします。

250 名前:★玉川雄一:2003/12/05(金) 00:30
>景陽皇后って誰やねん?
私もコレ、不思議でしょうがないのデスが。

ごっちゃになってるのか別人として存在したのか?
皇后クラスの記録が一人分抜け落ちるというのもアレですど。
やはり混同説が怪しい気がしますが…

真実はひとつですし、それがもし仮に実はとんでもなくアホらしい理由だったとしても、
今となっては真相は歴史の闇の中…?
何か別の角度からスパッと解決するような史料はないものでしょうかね。

251 名前:むじん:2003/12/07(日) 02:19
集解に…(^^;

252 名前:★玉川雄一:2003/12/07(日) 09:50
Σ(゚Д゚;)

ま た 集 解 か _| ̄|●

これはもうむじんさんをラチカンキンした上で一日18時間集解漬けにして、
一刻も早く全訳を世に広めて頂くしかないんじゃなかろうか?

自分でも努力しろ

253 名前:★ぐっこ:2003/12/07(日) 13:41
>>251
Σ(゚Д゚;) 詳細を!
集解欲しいよ。


って前の蒼天スレと同じやん…
義兄上、やっちゃおうよ。むじんさま拉致っちゃおうよ。

254 名前:むじん:2003/12/08(月) 04:26
うわぁぁぁ拉致るれろろろ(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
拉致られる前にげろっちゃう。

『夏侯淵伝』荘,晋景陽皇后姉夫也.
(集解)何シャク曰:「陽当作羊.此晋景献皇后也.」
陳景雲曰:「陽・羊古通用.欧陽集古録後漢熊喬跋碑云,碑中言:治欧羊尚書,以陽為羊.」
弼按晋書后妃伝,作景献羊皇后,后父ドウ,后母陳留蔡氏,漢左中郎将ヨウ之女也.
又案晋書羊コ伝,コ父ドウ,コ蔡ヨウ外孫,景献皇后同産弟.
拠此則ドウ有二婿,一為夏侯荘,一為司馬師也.

『夏侯淵伝』夏侯荘は晋の景陽皇后の姉婿である。
(集解)何シャクは言う。「陽は羊と作るべき。これは晋の景献皇后である。」
陳景雲は言う。「陽と羊は古代では通用していた。『欧陽修集』の古い記録では後漢の熊喬の碑文の奥書にいわく、碑文中に(熊喬は)『欧羊尚書』を修めたと言う。陽を羊としているのだ。」
盧弼が『晋書』后妃伝を調べてみると、景献羊皇后と作り、皇后の父は羊ドウといい、皇后の母は陳留の蔡氏で漢の左中郎将蔡ヨウの娘とある。
また『晋書』羊コ伝を調べると、羊コの父は羊ドウといい、羊コは蔡ヨウの外孫で、景献皇后の同腹の弟であるという。
これによれば、羊ドウには二人の娘婿がおり、一人は夏侯荘、一人は司馬師である。

つなみに陽と羊は現代語でも同じ発音(Yang2)ですね。
ああ、それと陽の字は少しあとの東晋時代の諱字になってます。本件とは関係なかったですが。
こんな感じです〜。

255 名前:japan:2003/12/08(月) 20:29
>むじん様
詳しいご解説をありがとうございました。
景陽皇后=羊徽瑜でFAだったんですね。喉の小骨が取れた思いです(^^)

>陽と羊は古代では通用していた。
そう言えば「三陽開泰」を「三羊開泰」と書いたりしますしね。
陽=羊と置き換えられる場合があるんだ…すっかり忘れてますた_| ̄|○

ただ、そうするとやっぱり『辛ピ伝』裴注の「夏侯湛は辛憲英の外孫」という記述が
おかしくなってくるんですよね。
羊コの姉妹が母親なら、祖父は羊ドウではなく羊耽になるはずなのに…
>>241で書いたとおり、夏侯荘が再婚したと解釈するしかないのでしょうか。

>ぐっこ様
>集解欲しいよ。

禿同です。大分前に某書店で在庫が無いか聞いてみたら、
「台湾からのお取り寄せになりますが…」とのことでした。
当時SARSが大流行していたので二の足を踏んでしまったのですが、
ウイルスが怖くて三国迷がやってられるか! と特攻すれば良かったです(´・ω・`)

256 名前:japan:2003/12/08(月) 20:49
すいません、またしても書き間違いです。

×羊コの姉妹が母親なら、祖父は羊ドウではなく羊耽になるはずなのに…
○羊コの姉妹が母親なら、祖父は羊耽ではなく羊ドウになるはずなのに…

ああ、もう紛らわしい…これでは誤記(?)が生じるのも仕方が無いかもしれません。

257 名前:むじん:2003/12/09(火) 15:40
それも集解に触れられてますが、あまり深入りせず、
「夏侯湛は羊ドウの外孫じゃろが」の一言で済ませてる模様です。
夏侯淵伝でも辛毘伝でも『世語』を引いてのことですから、
やはり誤字で片付けるのが正解かも知れないです。

258 名前:★ぐっこ:2003/12/10(水) 23:31
むじん様ありがとうございます! …拉致漏らしたか…
うーん、やはり文中の疑問をサクッと解決する人々がいるのですねえ…
景陽皇后=羊徽瑜…さきほど図で書いてみて、ようやく合点がいきました(^_^;)
一字の違いが、ここまで事態をややこしくさせるとは…
それに、世語関連は誤字多し? うーむ…

>集解欲しい…
欲スィ…
以前お値段的には購買可能と決断したのですが、分量ってば、どのくらい
なもんなんでしょうか? ハードカバー正史1巻分(日本語だけど)=1セイシ
と単位付けると、「三国志集解」は何セイシくらいなんでしょう…

259 名前:むじん:2003/12/11(木) 01:55
中華書局版ですと精装B5判で1150ページほどになります。
厚みは1.8倍、紙面は1.5倍くらいかな。大きさでいえば2.7セイシ。
新聞紙のような紙材を使っているのであまり重くはないです。
26文字で1行、それが20行づつ上下に2段。裴注や集解はもっと小さいポ

文字数でいうと2*3セイシくらい。陳寿本文+裴松之注≒盧弼集解な感じ。
しかーし、これだけ分量あるのに1冊にまとめてしまってるんで、
開きにくいし、背も傷みやすいです。
後漢書集解みたいに上下2冊組みにしてくれたらよかったのにぃ……。

260 名前:★ぐっこ:2003/12/11(木) 23:44
むじんさま、引き続きありがとうございます!

げ、3セイシくらいは覚悟しないとダメなのか!和刻モノ後漢書で1600頁、三国志
でも1000頁くらい…まあ分量はそんなものか…。
うーん、後漢書全コピでキングファイル3冊使ったからなあ…
同じ規模を考えねばならんのか…って、買った方が遙かに安いのか、
この場合。

本は…会社のミニ製本機で無理矢理上下巻にしてしまうとするか(^_^;)
やっぱりナニゲに良いこと書いてあるし、買うべきだろうなあ…

261 名前:MM2:2003/12/12(金) 02:08
またしてもどうも。

>集解
芸文書印館版も中華書局版と殆ど変わりませんね。こっちだと1218ページになってますが、内容は同じだと思います。
ハードカバー正史を知らないのですが、中華書局の三国志と比べると中華書局版1〜4(呉書除く)≒集解くらいの分厚さです。
内容はむじんさんのおっしゃられるとおりで付箋がないと辛いです。

それと三国志集解は後漢書集解に比べて印刷が格段にいいですね。

262 名前:★ぐっこ:2003/12/14(日) 10:49
MM2さまも、情報ありがとうございますー。
ああ、2バージョン出てましたか。内容はそれほど変わらず。
ということは、ページ絞っている中華書局版の方が扱いやすいかな…。
それと、インデックス必須と…φ(..)
2-3セイシで、しかも白文。なかなか読み応えはありそうです。

あ、そうだ、後漢書集解のお話が出ましたが、こちらも似たようなボリュームか、
もうちょっと多いのでしょうね…。まあ、私は三国志関連の調べ物しかしないので、
読むところと言えば限られてますが。

263 名前:むじん:2003/12/14(日) 15:32
おばらさまのサイトで後漢書/三国志集解の写真が掲載されました。
見たところ芸文印書館のも中華書局と同じ底本の影印ですね。
三国志集解では古籍出版社本、後漢書集解では虚受堂刊本を使用しています。
とすると、ページ数の違いはやはり校勘記の差か…?
写真で見た感じでは芸文印書館本のほうが装幀がしっかりしてるような…?中華書局はもろい。
紙質も芸文が上かな。中華書局はもっとひねた感じ。
しかも値段も安いときたもんだから芸文印書館がおすすめですぜー。

後漢書集解も本の大きさは同じくらい。
表紙の分だけ少し厚みがあるだけです。上下2冊組みです。
紀伝:集解の比率は5:5程度ですが、志では集解の比重が高くなっています。
ただでさえ活字が汚いのに、割り注の割り注になっているところもあり死ぬほど見づらいです。

264 名前:★ぐっこ:2003/12/15(月) 01:41
やや、むじんさま、ありがとうございます!
早速確認!
http://www3.to/kanso
の、「本?」のコーナー。
なるほど、芸文印書舘版は「二五史」シリーズの分冊か…。たしかに装丁も
しっかりしてるし、紙も綺麗。それに安い…!?
むう、ゲトするなら間違いなくこちらで揃えた方が良さそうですね…

後漢書集解も…読み応えは相当にあるんでしょうねえ…(;´Д`)

265 名前:むじん:2003/12/19(金) 18:26
王先謙の後漢書集解は、ほとんど盧弼の三国志集解に引用されてますからね。
三国関連の情報を得るためなら三国志集解だけで充分かと。
ただ(続漢書)郡国志の集解は三国迷にとっても貴重な情報ですよ。
馬與龍という人が歴代の太守やら県令やらを拾い上げてくれてます。

266 名前:★ぐっこ:2003/12/20(土) 01:17
なるほど! 三国志集解の方に、かなり後漢書集解中の記述が
引用されてるですか! じゃあ、だいぶ重複するわけで、三国志
集解だけで私の場合事足りるか…

>郡国志の集解
Σ( ̄□ ̄;)!!
こ、これ欲しい! これだけのために後漢書集解買ってもイイくらい!
これまさか全部の郡の歴代太守を網羅してるワケじゃありませんよ…ね…?
もししてたら神!してなくても十分神! ぐわ、欲しくなってきた…

267 名前:むじん:2003/12/20(土) 05:26
どうなんでしょうね〜!(^^;
見た感じでは完全網羅しようとしていることだけは分かりますが、
果たして漏れがないかどうかまではちょっと確認できず。
数え間違いがなければ、光武帝から献帝までの時期の河南尹が66人ほど。
あと河南郡人が16人くらい。県レベルまで分かっている人は各県人に編入。
『後漢書』『三国志』のほか『水経注』からもピックアップしているようです。
馬與龍が数え上げているのは、刺史、牧、別駕以下の州吏、太守、相、郡丞以下の郡吏、
県令、県長、王、侯、郷侯、亭侯、郡人、県人などといったところ。
よかったら河南尹・洛陽県だけでもコピペしますけど目安にどうです?

後漢書集解の下巻は左周黄列伝第五十一から始まっていて、
三国関連の人物はほとんどこちら側に含まれていることはご存じの通りです。
下巻だけでも「買い」かも知れないですねー。

268 名前:MM2:2003/12/20(土) 21:54
後漢書集解の上巻ですが、芸文書印館版だと虞傅蓋臧列伝四十八までですね。
つまり下巻は張衡伝第四十九上(四十九下が蔡ヨウ)から始まりますので本当に下巻だけでも殆ど用が足ります。
上巻で三国志とモロかぶるのは帝紀+皇后紀ですかね。後は各地の皇族諸王侯の列伝くらいですか。

269 名前:★ぐっこ:2003/12/21(日) 01:58
>>267むじん様
(゚∀゚)! 試みとしては完全網羅しようとしてるわけですか!?
えらいヤシだ馬與龍! でも県吏レベルまで掘り下げるとなると、
相当な人数になるでしょうに…。
やはり昔からこういうのに骨惜しみしないマニアがいたということか。
>よかったら河南尹・洛陽県だけでもコピペしますけど目安にどうです?
Σ( ゚Д゚)きぼん…!

>>268 MM2さま
あ、芸文書印館版だと微妙に収録数が違うようで…って、蔡邕でんまでカバーして
くれてるならばより有難い!それでお値段設定も高くないということで、買うならば
間違いなくこちらの下巻ですな(;´Д`)ハァハァ…
皇族諸王…目立たないけど以外にビッグだった皇族にも惹かれてるので、こちらも惜しいなあ…
桓霊のあたりで、それなりに名前の知れてる皇族って何人くらいいたものなんでしょう?

270 名前:むじん:2003/12/21(日) 05:21
それでは改行抜きで一気に参ります。誤字脱字はご容赦。

【河南尹】馬與龍曰:河南太守馬況見馬援傳注,武勃見馮異傳,丁綝見丁鴻傳.河南尹歐陽歙・王梁見本傳,(割注略)張伋見光武紀,宋嵩見宋弘傳,范遷・薛昭見明帝紀,郭賀・袁安・召馴・張酺・郭鎭見本傳,郭唐見任光傳,曹祉見歐陽歙傳,王調見宋意傳,應順見應奉傳,蔡嵩見袁安傳注,龐奮見南匈奴傳,周暢見周嘉傳,鄧豹見鄧后傳,田歆見种暠傳,趙戒見李固傳注,梁冀・梁不疑・梁胤見梁冀傳,霍諝・羊陟・杜密・橋玄見本傳,房植見黨錮傳,鄧萬世見鄧后紀,何豹見寇榮傳,李膺・楊秉・劉祐・馮緄傳見本傳,朱野見朱穆傳,朱瑀・徐灌見靈帝紀,何進・何苗・許相見何進傳,朱儁・袁術・王允見本傳,楊懿見儁傳,駱業見何后紀,陳導見水經河水注,崇隗見穀水注,趙越見清水注,董昭・夏侯惇・司馬芝・裴潛見魏志本傳,龐迪見邴原傳,王肅・王恂見肅傳注,劉靖見劉馥傳,夏侯和見夏侯淵傳,呂粹・阮炳見杜畿傳注,李勝見曹爽傳,傅嘏・王觀見本傳.丞雙福見穀水注.河南都尉公孫仁見公孫述傳.仕郡孫堪見周澤傳.又郡人召夔見周勰傳,呉雄・子訢・孫恭見郭躬傳,尹存見李固傳,趙建章見臧洪傳注,孟彧・張延見靈帝紀,任棠見龐參傳,單超・單安・單匡見宦者單超傳,麹聖卿見方術解奴辜傳,潘勗見魏志衛覬傳,趙達見呉志達傳,徴崇見程秉傳.
【雒陽】馬與龍曰:雒陽令董宣・索盧放・虞延・周紆見本傳,李阜見樂恢傳,楊光見鄭弘傳,王渙・任峻見渙傳,陳歆見張奮傳,种兢見班固傳,祝良見龐參傳,呂放・呂禹見梁冀傳,袁騰見寇榮傳,虞祁見竇武傳,孔昱見本傳,周暉見周景傳,周異見呉志周瑜傳,司馬防見魏志司馬朗傳,江雙見穀水注,徐循見河水注,荀融見荀彧傳注,鄧颺・李勝見曹爽傳注,劉焉見蜀志焉傳.雒陽市令淳于翼見五行志.市丞石脩見耿恭傳.門候郅惲見本傳,何湯見穀水注.又縣人孟彧見靈帝紀,(割注略)慶鴻見廉范傳,韓鴻見呉漢傳,种暠・子岱・拂・拂子邵見本傳,郭賀・祖父堅・伯父游君見本傳,孟光見蜀志光傳.

ここでは河南尹・雒陽に付された馬與龍の集解だけを取り出しています。
さすがに首都だけあって多数の名が挙がっていますが、周辺ともなると十分の一くらいでしょうか。

271 名前:★ぐっこ:2003/12/21(日) 23:59
Σ(;´Д`) うお!? むじん様グッジョブ!
なるほどお、全伝・紀・水経河注から名前を抜き出して、順番に並べるという地道な手順で…!
うーむ、河南尹のポストなんか今まであまり注目してなかったのですが、確かに三国時代の
見知った顔がずらずらと。首都圏長官職なわけで桓〜霊のあたりなんか、政変に関わってる
連中の顔ぶれもよくわかる(^_^;)

うーん、洛陽令職も充実してますねえ…。曹操がなりたかったというだけあって、これまた
有名な顔ぶればかり。あ、周瑜パパに司馬望ハケーン。

272 名前:MM2:2003/12/23(火) 01:38
更新ミスっててブルーなMM2です。


皇族といえば最近読んだ石井仁「曹操」に後漢末の曹操領内に現存していた皇族について(メモ程度ですが)書かれてました。

帝紀を読むと嫡流に近い皇族なんかは薨じた時期が載ってるので列伝と併せると、どのくらいの時期の人か絞るのは簡単ですね。
ビッグな皇族といえば皇帝の兄弟とかになるんでしょうけど、桓帝の場合は名前の残ってる兄弟が結構いる(安平王豹、河間王建、勃海王カイ、長社公主、益陽公主 ※長社公主の夫は雲台二十八将の耿ショウの弟の子孫耿授、益陽公主の夫は同じく雲台二十八将の寇恂の子孫)のでその辺の力が強かったのでしょう。
霊帝は不思議なことに名前の残っている兄弟が見えず、董后(霊帝の生母)紀を見ると董后の兄弟とか縁者の名前が結構挙がってますね。桓帝の梁氏ほどではないにしろ、外戚が強かったんでしょう。

最近雲台二十八将の子孫についても着目してます。二十八将の子孫て後漢末まで結構残ってますよね。本当に前漢と違って子孫の残りやすい環境なんですね、後漢王朝というのは。

273 名前:★ぐっこ:2003/12/24(水) 01:54
激しく同意!
私も彼らの後の世代が気になります…。はっきりと分かってる呉漢や
昶Zらの子孫の他に、どういう人がいたのでしょう?
仰るとおり後漢王朝の性質上、宿将連中がけっこう子孫繁栄していて、
外戚系だとかなり後まで羽振りを利かしてるみたいですし。
後漢書の彼らの伝だと、末期までサーチできる人物ってそんなにいないのが
残念。せいぜい孫の代くらいまで封地引き継いだ人間の名前列挙して終わり。
彼らの子孫が、三国志前後でどういう評価を受けていたのか知りたいですねえ…

>皇族
霊帝は、特に絶対皇帝になれっこなさそうな地方の亭侯クラスの皇族をひっぱって
きたんでしたっけ…? それで親族縁者が乏しかったとか。

274 名前:むじん:2003/12/24(水) 03:15
劉備の養子劉封が羅侯寇氏の出自ってのがどうもなぁ。
むしろ鄧氏じゃないかと…。どう思われます?
三国志集解でもスルーなんですが…もし二十八将の子孫だったら…おいしいね。

275 名前:★ぐっこ:2003/12/25(木) 01:01
>>274
なんだって――――っ!?

どれどれ…って調べようと思ったら、なんで昶Zの子孫ってこんなに
詳しくゾロゾロ列挙されてるんだ(^_^;) ちとじっくり調べられないので
先に質問してしまいますが、誰か子孫が羅侯に封じられてるんでしょうか?
羅っていったら、長沙のあたりですよねえ…

そういえば昶Zも新野の人。搦ナは新野にほど近い義陽だからわかりやすいが…
もし劉封=摯浮セとすれば、かなりハァハァなんですが。

276 名前:むじん:2003/12/25(木) 03:04
いやー、それがよくわかんないんですよね。

鄧禹の孫娘が和熹皇后なんですが、彼女はかなりのお兄ちゃん子だったようで、
鄧隲は史上初の儀同三司になってたりします。兄妹で安帝を擁立しました。
鄧隲は謙虚な人柄で、何度も宮中を去って屋敷に帰りたいと訴えましたが、
太后は一年余りも渋ったのち、ようやく許可します。
鄧隲は弟三人とともに万戸侯に封ぜられますが、兄弟そろって堅く辞退、
とうとう勅使に見つからないよう逃げまどいながら宮中に参内して直訴します。
太后は許可せず、その遣り取りが5〜6回繰り返されてやっと認められたのでした。
鄧隲は倹約を心がけ、苦役を免除してやり、数多くの名士を推挙しました。
母の喪が明けると、また詔勅によって前職に戻れと命じられましたが、これも叩頭して辞退。
太后が逝去し、安帝は長じるとともに暗愚な君主へ…。
鄧氏に怨みを持つ者がいて、鄧隲の弟が平原王擁立を企てたと讒訴、
安帝の怒りを買った鄧氏はみな罷免され、ある者は自殺し、
鄧隲は羅侯へと転封され、そこで絶食して死にました。

その後の羅侯がどうなったのか、後漢書には記されていないようです。
劉封の祖先が鄧隲であるという確かな証拠はないんですが、
それ以上に、寇氏と羅国のあいだに接点を見出せないんです。見落としなのかな。

277 名前:★ぐっこ:2003/12/26(金) 01:04
うい、ありがとうございます、むじんさま!
中央研究院の方で“羅侯”検索かけると、なるほど、寇恂の方は
かすりもせず、晁ォや竇憲のほうでヒットしました…
うーん、劉封自身の伝には長沙劉氏との繋がりも記されていたので、
あのあたりには外戚から派生した一族が勢力を張っていたのかな…?
確かに調べれば調べるほど面白い! 雲台二十八将の誰の子孫にあたる
のか…。(←とも限らないのか)

つうか、晁ォってひとも、よい外戚の鑑みたいな伝ですねえ…。初の儀同三司!?
搗セ后もかなりのやり手だったみたいだし…

278 名前:左平(仮名):2004/05/23(日) 23:27
僭越ながら、サルべ−ジ致します。「オ−ル讀物」の「戦国名臣列伝」に、一つネタがありましたので。
内容は、四方山の「宮城谷センセ総合スレッド(三国志以外)」に書き込みました。

279 名前:MM2:2004/11/15(月) 23:57
図書館行って先日の論文が載ってる本(雑誌)借りて、
ついでに渡邉義浩先生の「後漢国家の支配と儒教」を借りたら腰を抜かすくらいの資料があってびびりまくってしまいました。
こりゃじっくり読むためにも一冊買わねばなと思ったのですが値段が物凄いですね。文庫化は望めないのでしょうか。

ところで今回はご教授願いに参りました。
上のほうで安定皇甫氏について書いているので、知ってる方がいましたらお願いします。

皇甫氏の血縁者を調べてたら晋書の方で出るわ出るわ。
ざっと系図を書き出したのですが、この周辺の人達の横の繋がりなどの情報がありましたらお願い致します。

棱─旗┬節┬嵩┬堅寿
   │ │ └○─○─謐┬童霊
   │ │       └方回
   │ └○─酈
   └規
=================
○┬重─昌(養子)
 └商
=================
○┬○┬典
 │ └真
 ├○─○─奮(真従子)
 └○─○─覆(真従子)


↓上の人たちとの血縁かと疑わしい人たち

安定 皇甫隆
安定功曹 皇甫澹
安定 皇甫
安定長史 皇甫序
安定 皇甫岌

280 名前:★玉川雄一:2004/11/16(火) 01:26
横の繋がりは分からんのですが、
晋書のどこかで皇甫方回の子だか子孫というのを見かけた記憶があります。
どこだったかなあ、確か東晋の咸和年間(330年前後)辺りの誰かの伝の文中だったと思うのですが。

281 名前:MM2:2004/11/19(金) 23:58
情報ありがとうございます。調べてみます。

こういう、(例え遠くても)血族かなーと思ってもそれを事実とできるだけの根拠がない場合って歯がゆいですよね。
段氏や羊氏など、挙げれば数え切れないほどそういう豪族がありますが、家系図作ってるときは特にそういう歯がゆさを感じることがあります。

282 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:13
 ■皇甫方回
あー、ごめんなさい、私の勘違いだったみたいです。
晋書列伝第四十六の王[广異](オウヨク)伝の記事で、

「王[广異]が荊州刺史となった際に、前任者だった陶侃の故将や
徴士の皇甫方回などを大いに誅戮したので人望を失った(意訳)」

という個所のことだったと思います。子孫でなくて当人でしたね。
時期としては、王[广異]は荊州刺史となった際に前任者である陶侃の旧部下が
彼の就任を拒んで叛徒・杜曾と結託したため着任が遅れたようで、
着任が“杜曾の乱”の完全鎮圧後とするならば319年ということになり、
皇甫方回の殺害もその頃ということになるでしょうか。

 ■系図のミッシングリンク
私も自分のサイトで系図を作っているのでよく分かります。
とりあえず本籍の県レベルまで同じならば血族であることは堅いんですけど、
系図を作ろうとするとやはり“繋げて”みたくなるんですよね。
そして文献を読んでいて困るのが、「そこに記載されていない人物の存在の可能性」ですね。

“Aの子にB、(Aの)孫にC”とあった場合でも、BとCが親子とは限らないわけで、
実はAにはBの他にDという子があり、Cはその子だったという可能性もある。

従弟などの関係でも微妙なところで、
“AとBは兄弟、Aの子にC、Cの従弟にD”とあっても、
BとDが親子とは言い切れない。

ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。
そして羊氏は泰山の羊氏?
鮮卑段部においても、段匹テイの従弟とされる段末杯(末波)は、
匹テイの父・務勿塵の弟である渉復辰の子と断定できるのか?

この辺は史書をしらみつぶしにあたるしかないですね。
思わぬところでサラリと触れられていたりする場合もありますし。
系図作成に関して他にも情報を補完し合えたらいいですね。
その際はまたよろしくお願いします。
とりあえず拙作を参考までに。三国〜晋(の途中まで)です。

http://triglav.ld.infoseek.co.jp/keizu000.html

283 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:24
ところで、皇甫姓って安定以外に本籍を持つ系統ってあるのでしょうかね。
本籍不詳の皇甫氏は他にもちらほらと登場しますが…

284 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:55
>>282
失敬、晋書皇甫謐伝の末尾にも皇甫方回の記事はあったのですね。
そちらでも、彼が王[广異]に殺害されたとありました。

ただ、こちら(皇甫方回伝と呼びます)では、
陶侃に替わる王[广異]の着任を阻もうとした勢力は杜弢(トトウ)と結託したとありますが、
杜弢の乱は315年に鎮圧されており、その時点ではまだ陶侃が荊州刺史でした。
陶侃が王敦により廣州刺史へと左遷された時期は特定できないのですが、
315年の時点ではまだ荊州刺史であり、318年には既に廣州刺史となっています。
少なくとも杜弢が反乱している間は陶侃が荊州刺史だったことは確かであり、
皇甫方回伝の記述は矛盾してしまいます。

一方で元帝紀などの記述にもあるように317年に荊州で「杜曾」と第五猗が連合して反乱しており、
これは王[广異]伝にある彼の荊州刺史着任阻止の記述とも一致するので、
皇甫方回伝の「杜弢を迎えて[广異]に叛する」は「杜曾」の誤記ではないかと推測されます。
ちなみに同伝の上記の直前の個所でも、皇甫方回が陶侃を諫めた言葉の中に
「足下は新たに杜弢を破り」とあるのでやはり杜弢の乱が鎮圧された後だと考えられます。

色々と書きましたが、どちらにせよ皇甫方回の没年は310年代後半だろうということで。

285 名前:MM2:2004/11/23(火) 00:37
引き続き皇甫氏についての情報ありがとうございます。

>ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。
>そして羊氏は泰山の羊氏?

紛らわしい書き方してました。すみません。前漢後期の西域都護段会宗を祖先に持つ武威郡の段氏です。
『後漢書』見てると北・西方の異民族討伐に活躍した段氏というのが何人か出てきているんです。
しかしその殆どが本籍不明なので手がかり0な状態です。
その中でも一番気になるのが段[火頃]と段[火畏]の関係で、両者とも武威郡出身という事だけ分かっています。

羊氏は泰山の羊氏です。羊続・[示古]の家系は結構出ているのですが、こちらも陳留蔡氏と姻族であったという、党錮伝に本伝のある羊陟の家系が気になります。
こういった何代にも渡って同じ姓から嫁がせているといった変わった家系には目がいきますね。

286 名前:★玉川雄一:2004/11/23(火) 01:39
>段氏
これは早とちりをばいたしました。
武威の段氏といえば「涼州三明」のひとり、段[火頃]などを出した氏族でしたか。
この辺りはぐっこさんなどが詳しいかと。

泰山羊氏は、世説新語の註を見ていると羊秘の系統が延びてゆきそうなので、
こちらを調べてみたいと思います。
また陳留蔡氏も晋代に何人か登場しており、
史料によって系譜に微妙な食い違いがあったりして調査の必要がありそうです。

186KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50 read.htmlに切り替える

名前: E-mail(省略可)

img0ch(CGI)/3.1