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509:海月 亮2004/12/20(月) 21:49
第一部 >>503>>507

風を継ぐ者」
-第二章 その涙は誰が為に-

「…そう…興覇のヤツ、最後の最後までカッコつけて…もうっ…」
すっかり落ち込んで、何時もの調子がない丁奉を慰めるかのように、凌統はそんな軽口を叩いた。その眼にも、かすかに涙が滲んでいる。
完全な濡れ鼠になって、陸口にある長湖軍の本営に丁奉がたどり着いたのはすっかり日が落ちてからだった。甘寧と沙摩柯の一騎打ちの決着から既に5時間以上が経過し、何とか敗走する本隊をまとめながら、凌統や韓当たちは此処まで退却して来ていた。
凍りつくような河の流れの中で、半ば意識を失いかけていたところを、ライフセーバーの卵である凌統が見つけてくれなければ、丁奉の身もただでは済まなかっただろう。
意識を失いながらも、丁奉は甘寧の階級章と、覇海をずっと離さなかった。
それから丸一日眠りつづけた彼女は、目を覚まして凌統の姿を認めるや否や、大声をあげて泣き出した。
何度も何度も、甘寧の綽名を呼びながら。
その様子から、凌統も甘寧の身に何が起きたかを悟った。かつては恨み骨髄の相手ではあったが、わだかまりを解いた今は、大切な仲間であり、尊敬できる先輩だ。それを思い、彼女も泣いた。
そして今、ようやく落ち着きを取り戻したところだった。揚州学区のはずれにある学生寮の丁奉の部屋には、凌統の連絡を受けた周泰と潘璋もやってきていた。
「さっき荊州学区の病院から連絡があったんだ、峠を越えたってさ。てことは、帰宅部の奴等もその辺のことは、ちゃんとわきまえててくれたんだな」
「まぁ、キミが無事だったのは、不幸中の幸いだったわね。興覇だけじゃなくて、キミまで飛ばされてたらどうしようかって思ったけど」
普段は寡黙な周泰や、口の悪い潘璋も、そう言って励まそうとする。しかし、そのことが責任感の強い丁奉にとっては、かえって耐えられないことだったに違いない。潘璋が甘寧の綽名を言ったあたりで、丁奉の眼には再び涙が溢れる。
「でも…でもっ…あたしは先輩を護ることが出来なかった…っ」
「……承淵」
居合わせた諸将に、返す言葉もない。
甘寧を護る事が出来なかったと言うなら、中軍を無防備に晒した左翼の周泰、先鋒軍の潘璋、そしてその危機を救うことを出来なかった後詰めの凌統にも共通した無念の感情である。
だが危地から上手く逃げおおせたとはいえ、最後の最後で結果的に甘寧を見捨てる形になった丁奉の心痛とは比べるべくもない。
赤壁後の南軍攻略戦以後、ずっと副将として付き従い、妹分として可愛がられた彼女を知る諸将にも、その気持ちは痛いほど伝わってきていた。
「そうね、確かにあなたは、副将としての役目を完遂できなかった」
「!」
沈黙を切り裂いたのは、部屋に入ってきた韓当だった。
総大将・甘寧リタイアの報を受け、最高学年生として臨時に軍の総指揮に当たっていた彼女も、丁奉回復の報告を受け駆けつけてきたのだ。
彼女自身も乱戦の中無数の傷を受け、手足や額に巻いた包帯にはわずかに血が滲んでいる。
「私の副将はね、私を護るため身代わりになって張苞に飛ばされたわ。もうすぐ卒業する私をかばって、これからも長湖部の一員として働かなきゃいけないあの娘が」
そう言って丁奉を見つめる韓当の表情は、一見普段と変わらない様に見えた。
しかし、その瞳はどこまでも深い哀惜を湛えている。
「あの娘は確かに副将の役目を果たしたわ…でも、あたら若い才能を潰してしまった私の気持ちはどうなるのよ…あの娘を目の前で飛ばされてしまった、私の気持ちは!」
「…先輩」
長湖部設立から部を支えつづけてきた、その少女の双眸からは何時しかとめどなく涙が零れていた。流れる涙を拭おうともせず、韓当はなおも続ける。
「あなたも興覇も幸せ者よ…あなたは彼女の意思を、継ぐことが出来た。何時までもめそめそしてるヒマがあるなら、これから何をなすべきか、それを考えなさい…彼女のことを思うなら、尚更のことよ…!」
「…………はい」
何時しか、居合わせた全員の目から、涙が流れ落ちていた。
だが、最初に泣き出した少女の表情に明るさが戻ったのを見ると、韓当も満足そうに頷いた。
その一方で、彼女の心の片隅で、これからの展望への不安は依然渦巻いていた。
(でも…興覇やあたし達総出でも支えきれなかったあの勢いを止めるなんて…せめて、せめて公瑾や子明…あるいは、それに匹敵する将帥がいてくれれば…)
敗戦に沈む少女の涙は晴れても、長湖部にかかる暗雲は、未だ晴れ間を見せる事はなかった…。
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