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■ 【味好漢】谷利促進週間【名脇役】

1 名前::2002/10/26(土) 23:53

ぐっこ(谷利促進委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年02月19日 (月) 12時00分10秒 

とういうわけで、今日から谷利促進週間が始まりました!
でも始まっただけで何も起こりませんが(^_^;
まあ、あまりメジャーではない彼に日の目をみせたいな〜、と。
彼については、「俺武将能力値」か「あのキャラ」掲示板に
同文でざっと説明が。
彼が少しでも酬われたらな〜、と思っております(^_^;

2 名前::2002/10/26(土) 23:53

TMK[関東] > (2001/02/19(Mon) 18:56:04)

谷利を応援するのですね♪私も何だか谷利は印象に残って
おります。頑張って応援させて頂きます!

3 名前::2002/10/26(土) 23:54

孫ぽこ(谷利促進委員会庶務課係長)[関東] > (2001/02/19(Mon) 19:53:46)

がんばって,谷利をメジャーにしましょう!!←鍾離牧をメジャーにするのより難しいかも^^;

彼は呉の至宝!!呉の良心!!呉の縁の下の力持ち!!
なにせ悪い事はなにもしていない!!そりゃそうだ。基本的には二つしかエピソードがない!!(爆)
頭も切れるぞ!!たぶん武芸も達者だ!!おそらくいい男だ!!←妄想
しかも下積みが長い苦労人だ・・っと言うか下積みで終わってしまったのか( ̄□ ̄;。
最大の長所は孫権のお友達だ!!張紹も呂壱もこわくない!!がんばれ谷利!!負けるな谷利!!

4 名前::2002/10/26(土) 23:54

ぐっこ(谷利促進委員会総帥)[近畿] > (2001/02/20(Tue) 00:33:51)

皆様!早速の御賛同ありがとうございます!
課長の仰るとおり、彼には二つしかエピソードがない!
だがしかし!敢えて言う!「二つで十分だ」と!
勇将でも謀将でもない、いうならば「一般人」が、
あの大帝孫権を感動させ、反省させ、うならせているのだ!
彼の涙ぐましい姿は、21世紀の我々の師表ともなるであろう!

……なんてプロパガンダうっときました(;^_^A

5 名前::2002/10/26(土) 23:54

misemise[近畿] > (2001/02/20(Tue) 03:05:36)

ずいぶんとお久しぶりになります、misemiseです。
谷利・・・私は今日初めてその実態を知りました。
やはり私はまだまだ呉フリーク度が不足のようです。
ということで今日から私も谷利ファンになってよろしいですか?
孫権と谷利・・・
言わば曹操と夏侯恩(演義のみ登場?)みたいなものですね。
谷利のほうが断然格好いいですが。

6 名前::2002/10/26(土) 23:54

玲可[近畿] > (2001/02/20(Tue) 08:33:05)

谷利って時代劇でいうと、孫権のお庭番みたいですね〜!
ぐっこさん、エピソードが二つしかない、とおっしゃってますが三国志においては二つもあれば充分ですね!
頭がいいと言うか、性格がよさそうです。
促進委員会ってその名を広めるだけでも効果あるんじゃないですか?!

7 名前::2002/10/26(土) 23:54

japan[関東] > (2001/02/20(Tue) 19:04:33)

主の命令に叛いても、主の命を護る…
言葉にすれば簡単ですが、中々できることではないです。
もし諡を付けるとすれば「剛侯」もしくは「威侯」といった
ところでしょうか。

8 名前::2002/10/26(土) 23:54

ぐっこ[近畿] > (2001/02/20(Tue) 22:34:18)

やはり船頭に刀突きつけて「戻れ」っていうのは
茶坊主ではできませんよね〜! 谷利さんカッコイイ!

9 名前::2002/10/26(土) 23:55

TMK[関東] > (2001/02/22(Thu) 23:59:08)

私のHPにも谷利さん関連のことをアップしました。
宜しければ見に来てくださいね。

10 名前::2002/11/01(金) 22:13

NOB   2002年01月06日日曜日 22時31分

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします(^-^)

ところでいきなりですが、谷利の推定生没年と最終官職ってご存じないでしょうか?昨年末ですが、九真太守だった呉の谷朗を調べていたら曽祖父・祖父ともに太守で父が郎中(早死らしい)と分かったので、どれかが谷利に該当しないかと、妄想をたくましくしてみたのですが…(笑)

というわけで(←何がだ//爆)、本年もよろしくです!

11 名前::2002/11/01(金) 22:13

ぐっこ 2002年01月07日月曜日 00時21分

谷利関係ッ!?!?!?
喝ッ! そういえば一年ほど前谷利促進委員会総帥であった私にとって、いまのNOBさまは神っ!
あ、あけましておめでとうございます。お体の調子は如何でしょうか?
…もいいけど! 谷利!
うーん、少なくとも三国志の記録の中では「親近監」「都亭侯に任じ」しかないので何とも申しようがないのですが…。
その九真太守谷朗なる人物! 何者!? どのくらいの年度の人物でしょうか!? 
もし早世した父が谷利だとすれば…谷利の父や祖父は代々太守の職にあったということに! どのあたりに地盤がある人物かも判別できるわけですか!?
妄想膨らませましょう! 続報待ち!

12 名前::2002/11/01(金) 22:14

左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 21時51分

NOBさんの「逸聞三國志」に行って参りました。谷朗のプロフィ−ルは、以下の様になっています。
谷朗、字は義先、桂陽郡耒陽県の人、219生〜272没
曽祖父は豫章太守、祖父は「公府君(府君は、太守という意味だとか。任地は不明との事)」、父は郎中で、谷朗が11歳の時に(という事は、NOBさんが算出された谷朗の生年から計算すると、229年、孫権が皇帝に即位したまさにその年に!)亡くなっています。
秦と同じく、エイ姓だといいますから、先祖の履歴からしても、なかなかの名家といえましょう。
一方、谷利は…
・合肥にて、孫権の危機を救う(→215年)
この時点で、既に仕えてから何年かは経っています。この直後、都亭候に任ぜられています。
なお、「亭」とは、「県」と同程度か、さらに下の行政区画。今でいう、村落程度。
【蛇足:宮城谷昌光氏の『鳳凰の冠』に、春秋時代の晋の賢者・叔向の家は、一時零落して、わずか三軒の家しか支配していなかった、との記述があります。】
また、「侯」といっても、「列侯」(いわゆる諸侯)の下に、「関内侯(かんだいこう:爵位だけで領地はなく、都に居住していた)という位があったとの事なので、「都亭侯」といっても、大した位ではないのかも…。
・船を引き返させ、孫権の軽挙妄動を諌める(→226年)
これ以降、孫権は彼の事を呼び捨てにせず、「谷」と呼ぶ様に。きっと、年齢的にもそれなりの貫禄がついていたのでしょう。
ぐっこさんもご存知のとおり、谷利の記述はこれだけです。と、なると…

13 名前::2002/11/01(金) 22:14

左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時13分

谷利と谷朗との関係ですが、私が思いますには、(全くの推測ですが)おじ(伯父なのか叔父なのかは不明ですが、伯父っぽく思います)と甥の関係だったのではないか、と。
理由は、まず第一に、谷利が亡くなった時に郎中というのは考えにくいからです。「郎中」という官は、宮中に宿直し、警護にあたる(実際には、雑用係の様な存在だったらしい)存在です。ですが、孫権が「宮廷」を持ったのは、王位に就いた221年(この時は魏による任命。翌222年に独立)以降の事。谷利が仕えてからはだいぶ経っています。いくら何でも、その時に郎中では、昇進が遅すぎます。
第二に、NOBさんもおっしゃっていますが、谷朗の父の死後(母は既に亡くなっていました)、だれが彼等(弟が一人いたそうです)を援助したか、です。
そう考えると、おじである谷利が、兄弟の死後、その遺児である谷朗兄弟を援助したとするのが最も無難だと思うのです。
…ただ、彼の没年は、272年。ひょっとしたら、『晋書』の方が詳しいのかも…。
【蛇足。ふっと思ったのですが、ひょっとしたら、谷利は宦者だったかも知れません。孫氏が桂陽とどう関わったかにもよるのですが、明の鄭和の様な事も考えられないではありません。「親近監」というのも、ちょっとそれっぽい感じがします。】

14 名前::2002/11/01(金) 22:14

左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時18分

それにしても……↑の様に、えらく知ったかぶりして書きましたが、根拠は全くないんですよね、これが。
そもそも、谷利と谷朗の間に血縁関係があるかどうかもさっぱり(私の方では)分からないわけですし。

15 名前::2002/11/01(金) 22:15

ぐっこ 2002年01月07日月曜日 23時10分

左平(仮名)様、さっそくの調査ありがとうございます!
いま私も遅ればせながら逸聞三國志を拝見!「逍遥雑記」の12月15日からですね〜! 
NOBさまは、なんと「谷朗碑記」という「書」の史料から谷朗を発見されてます!凄いなあ…。

谷朗、字は義先。
桂陽郡耒陽県の人で、その曾祖父は預章の太守、祖父は桂陽(?)の太守。父は谷朗が11歳のとき(230年くらいに)郎中のまま亡くなってる、と。
谷朗は3歳で母を、11歳で父を失い、以後幼い弟と二人で暮らしたとか。もちろん地方豪族の谷氏ですので、後見人がいたのでしょうが…。若くして郡に出仕し、中央、地方、武官職などを歴任。有能で清廉な人物として称えられたが、九真太守の在官中、若くして病死。
この谷朗碑は、彼を悼んだ人々が立てたものだそうです……。

…以上、NOBさまのサイトから勝手に引用! あはは、はやく謝りに行って来よう(;^_^A
で、このなかで触れられてるように、この桂陽谷氏は、秦王室から分かれたほどの名門であり、その地方では相当有名な家だったはず。
これはあくまで妄想ですが、谷利がこの桂陽谷氏の一員であったとすると、とてもではないけど誉められた立場ではなかったでしょう。
孫家のような出来星の武門に仕え、しかも下僕のように「利!」と名前で追い使われてるなんて…。
左平(仮名)様の推察どおり、わたしも谷利を半分くらいの可能性で宦官と思ってます(だから旧味好感列伝の谷利イラストはそれっぽい顔…)。あくまで孫権のプライベートな臣下に徹した姿勢も、なんとなくそれっぽいし…。(昔このこと言ったら、さる女性に「ぐっこさんはヲトメのツボを突くのが上手いと」言われました(*^^*)…)

16 名前::2002/11/01(金) 22:15

左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時20分

先に、私が谷利の境遇をいうのに、「明の鄭和」の例を出しましたので、実際のところはどうなのかなぁと思い、「孫破慮討逆将軍伝」ほかをざっと見てみました(桂陽の帰属の確認:漢文全くダメな私ですから、すべて筑摩の和訳本によります)。
どうやら、孫策の生前は、この辺りは劉表の(緩やかな)支配下にあったものと思われます(その後、官渡の戦いの頃に、張羨という人物が劉表から自立。その後、劉表の支配確立→趙範→…)。
と、なると、鄭和の様に、被征服民が宦官にされ、王侯の奴隷にされたというのとは、事情が異なってきます。

17 名前::2002/11/01(金) 22:15

左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時55分

では、谷利が(宦官として?)孫氏の配下となった事情を(具体的な根拠は全く無しで)物語化してみると…
注:ここでは、谷利と谷朗の父は兄弟として話を進めます。この二人の他にも兄弟はいたのでしょうが…。

その地では名門であった桂陽谷氏だったが、乱世にあい、その家名は衰退しつつあった。家長(谷朗の曽祖父)は年老い、家を支えるはずだった嫡子(谷朗の祖父)は既に亡い。頼みの孫(谷朗の父。あるいは、その兄。谷利は庶子と考えています)はまだ幼い…。
劉表が、いま、荊州の主となっているが、どうも肌が合わない(あるいは、劉表の支配に反発していた)。
そこで、他の有力者・孫策に一族の子弟を差し出し(人質みたいなもの)、その助力を仰ぐ事とした。その子弟こそ、谷利である。
が、孫策にとって、桂陽谷氏の存在価値は低かった。その為、谷利は、孫策ではなく、その弟・孫権の近従にあてがわれた。
さいわい、年が近いという事もあり、二人の関係は割と良く、史書にもそのエピソ−ドが残る事になった。
谷利は、幼くして近従とされた為、深い教養を身につける事はなかったが、基礎的な教育は受けており、また、自らの立場をよくわきまえていた為、孫権の寵愛を受けてもそれに狎れる事はなかった。たとえ身分は低くとも、士大夫の子弟としての矜持を持っていたのである…。
谷利が孫権に仕える様になってから二十年以上の時が経ち、孫権が王となった時、孫権は、彼の忠勤に報いるべく、その弟(谷朗の父)を召し出し、郎中に任じた。
惜しい事に、彼は(恐らく三十そこそこで)若くして亡くなったが、孫権の側近として影の実力者となっていた谷利が、残された谷朗兄弟を支援した。そして、谷朗が無事に成長し、出仕したのを見届けて、谷利は静かにその生涯を閉じた…。
その葬儀は、きわめて質素なものであったが、少なからぬ名士たちが集まった。そこで谷朗は、自らの歩むべき道を悟るのであった…。

一族の危機を救う為、あえて自らの身を貶めた谷利。そんなおじの思いを悟り、名太守となった谷朗。
全編妄想のみで駄文を書き連ねてみましたが、いかがでしょうか?もっと筆力のある方なら、一編の美しい小説ができる事でしょう。

18 名前::2002/11/01(金) 22:15

ぐっこ 2002年01月09日水曜日 21時19分

うおおおう! 左平(仮名)さま! ナイスです!
これもまた一つの説にもつながる! ウオーミングアップがわりに、ひとつ左平(仮名)様が挑戦されてはいかがでしょう!?

宦官の是非はおいといて、谷利が庶子…というのは説得力ある設定ですよね〜。孫策ではなく孫権に下げ渡され、一生の忠誠を尽くすことになる…というのもまたグー!
で、谷朗と繋がってゆく、と…! ああ、時間さえあれば私もなんか書いてみたいです!この作品!

19 名前:孫ぽこ:2003/11/15(土) 05:35
大昔のスレッドを上げて申し訳ない(汗)

呉書外伝で谷利について書くことになりました。で、ここの谷利伝の引用リンクをお許し下さいませ♪

ではではー。

20 名前:★ぐっこ:2003/11/16(日) 00:06
お久しぶりです部長!(←懐かしいなあオイ)
当然ながらOKであります!
ていうかリニューアル乙&おめ!

今ひさびさに味好漢列伝読んで赤面…。うーん。若いっていいですねえ…

21 名前:左平(仮名):2003/11/16(日) 00:32
私の方も、全く問題はありません。
ただ、ほとんど妄想で書いたものなので、呉書外伝に
リンクというのは、ちょっと面映いものがありますね。
えっ?こんなのでいいのですか?って感じで。

ちょっと、読み返すのが恥ずかしいです。
しかし、もう二年近くになるのですね。気がつくと、四作目ですし。
(四作目はいつ完結できるんでしょ)

22 名前:孫ぽこ:2003/11/16(日) 01:52
ご了承サンクスです♪
谷利については、周瑜伝がアップ終了してから、アップする事になりますので一週間後くらいですね。

23 名前:★ぐっこ:2003/11/18(火) 00:59
うい。孫ぽこ様の手による谷利評を楽しみにしております!

24 名前:孫ぽこ:2003/11/19(水) 21:49
いや・・・その部分をここの引用で済ませようという(核爆)

25 名前:左平(仮名):2003/11/19(水) 23:17
>いや・・・その部分をここの引用で済ませようという(核爆)
そ、それはちょっと…。
あれは、あくまでも妄想の類ですから、「こんなだったかも」くらいの
事なのであって…

26 名前:孫ぽこ:2003/11/20(木) 00:05
あっごめんなさい。言葉足らずでした(汗。
左平さんの小説は紹介です。こんなのもありますよって事で。

引用で説明すませようというのはぐっこさんの説明文の方でし(汗。

だって、もーあれで完璧でしょ。

27 名前:★ぐっこ:2003/11/20(木) 00:54
ひいいいいいい。なんか今アレ読み返してたら体のそこかしかがムズムズして
ならんのですが! いや、谷利が好きな気持ちは、促進委員会やってた頃
と変わらないんですが〜。
お手柔らかに(^_^;)

28 名前:孫ぽこ:2003/11/20(木) 22:11
私も谷利が好きな気持ちは変わり在りませんぞー。

いや、実を言うと、自分で書いたら【ぐっこさんと全く同じになった】んで、同じ事を書くのは先人に悪いという事で(汗)。

谷利推進委員会の名を後世に残すためにも、是非ー。

29 名前:★ぐっこ:2003/11/20(木) 23:56
Σ(;´Д`)ワカリマシタ…。
それにしても懐かしいなあ、谷利推進委員会…

30 名前:中根東竜:2003/11/23(日) 17:35
図書館で谷朗碑について載っている本が有ったので、
懐かしくなりちょっと調べてみました。
氏姓の成り立ちに詳しい康熙字典の谷の項目を引いて
みましたが、漢の時代に谷永という人物が居たということしか
記されておらず、秦から分かれたことに関しては全く触れられていませんでした。
漢書の谷永伝(巻85)にも、先祖についての記述は無いようです。
秦からの分家という谷朗碑の記述は、結局裏が取れませんでした。
なお、谷永は長安の人だそうで、谷朗との関係は不明です。

31 名前:孫ぽこ:2003/11/23(日) 21:07
谷利伝アップしました。よろしければどぞ♪

谷利碑の記述についてですが、
http://www.mainichi.co.jp/area/hokkaido/jirin/2002/020327.html target=_blank>http://www.mainichi.co.jp/area/hokkaido/jirin/2002/020327.html
に谷利碑の写真があって、確かに【秦】という字が見えるような???

いかんせん、ド素人なんで、よく分からないとしか言いようがないのがつらいっす(泣)。

32 名前:孫ぽこ:2003/11/23(日) 21:10
って過去ログみたら、そげんことは、議論済みだったんですねf(^ー^;。失礼をば・・・・。

33 名前:★ぐっこ:2003/11/24(月) 00:27
>中根東竜さま
わざわざ調査ありがとうございます!
まず谷永…。以前の話だと、漢の高官だったといいますが、
長安の人でしたか。うーん、当時の本籍だったのか、墓所の所在
なのか…。逆に立地的には、秦に近いと言えなくもなく(^_^;)
谷朗碑は、彼を慕った者たちが建てたのだから、表現に誇張はあっても
おかしくないでしょうけど、いきなり秦王室に触れ、その後をすっ飛ばす
というのは不自然…なのかな? その後の先祖に高官はいなかったのでしょうか。

>孫ぽこ様
アップ乙&宣伝ありがとうございますー! ああ。当時の感覚が蘇る〜。
それに谷朗碑の画像、ありがとうございます!いや、実際「秦」とハッキリ書いて
ありますやん!本当に谷利の関係者だったらいいなあ…と思うのですが!

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