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■ 後漢末・名士の関係

1 名前::2002/10/30(水) 00:26

MOS   

はぁ〜〜〜、書いていたら手違いで全部消してしもうた。。。
というワケで再度書き直し〜〜♪
ネタは・・・こりゃまたマイナー野郎の袁譚麾下の将軍、郭援です!!

ウチの人物列伝でも賈逵の段で多少紹介していますが、
彼は袁譚・袁尚連合の最中、高幹と共に長安方面に侵攻するものの、
鐘ヨウ率いる馬騰などの軍に撃破され、馬騰配下の部隊長ホウ悳によって首を取られています。
また、対峙した鐘ヨウは彼にとってオジ(嫁の父だったかと)に当たるとか。

いきなりですが、最近オイラは後漢末の情勢に興味があり、
三国志研究要覧を必死で探すほどの熱の入れようです♪
そこでちょっと気付いたのですが、彼、郭援は・・・郭図の一族ではないでしょうか??
郭図の息子とまではいかずとも、可能性は非常に高いと思われます。
なぜなら、郭図は著名な潁川郡人士であり、鐘ヨウも潁川郡人士。
その鐘ヨウと郭姓である郭援が甥−オジ関係にあるのであれば・・・
有り得る話だと思うのですが、どうでしょう?

こういう時、後漢書を持っていない事と漢文を読めない事が物凄く残念でなりませんなぁ(^^ゞ

2 名前::2002/10/30(水) 00:26

ぐっこ     2001年10月11日木曜日 23時01分

なるほど!今まで想像もしていませんでしたが、言われてみればその可能性もありますよね!
で、ちょっと調べてみたのですが…少なくとも手持ちの後漢書には郭援の記載はなく…中林先生の漢文全籍資料庫で検索をかけても、基本的に三国志と同じ内容のみ…。
うう…お役に立てずに申し訳ないです〜。他にも潁川郭氏がいるかな〜、と思ってパラパラと見たら…郭嘉と郭誕しかいない(T_T)

3 名前::2002/10/30(水) 00:27

japan  2001年10月12日金曜日 21時54分

『郭図−郭援−郭嘉同族説』は私も考えた事がありました。

潁川の名士は「相対する勢力の双方に一族の構成員を送り込む」という戦略を取ることがあるので、郭図と郭嘉も袁紹・曹操方に分かれて密かに連携していたのではないかと…

そうなると「出ると負け軍師」の異名を持ち、ことごとく袁氏に不利な進言ばかりしていた郭図の真意も、或いは――などと妄想が尽きません(笑)。

4 名前::2002/10/30(水) 00:27

ぐっこ     2001年10月13日土曜日 01時27分

おお、なるほど!潁川名士って、案外したたか!真田家のようです(;^_^A
確かに彼の進言は悉くが裏目に出、全て曹家の肥やしになってますね。秘本三国志の劉備的役割を!? 妄想が絶えない(;^_^A
郭家の先祖って、誰なんでしょ? 少なくとも漢初の頃にはそれなりの人物がいてそう〜。

5 名前::2002/10/30(水) 00:27

黒竜 2001年10月13日土曜日 02時12分

後漢書をながめたところ
穎川郡陽テキの郭躬という人が見つかりました。

彼の甥の郭鎭が皇帝廃立計画を未然に防いだことが
一族繁栄のきっかけのようです。

一族は郭躬の父、郭弘の代より法律に秀で
子孫は、公者一人、廷尉七人、侯者三人、刺史太守侍中中郎将は二十余人。
とかなり繁栄してるんですが、
残念ながら、嘉、図、援の名前は見つかりませんでした…」

6 名前::2002/10/30(水) 00:27

MOS     2001年10月13日土曜日 02時48分

ふむぅ。
黒竜さんの仰る郭躬が彼らの一族の前代の人物である事は間違い無さそうですね♪
ところで、郭躬が未然に防いだ皇帝廃立計画というと、やはり梁冀の件でしょうか??

>嘉、図、援
彼らの名前が出ないのは致し方ないでしょう。
3人とも確たる地位に上っていないですし、功績もさほどではありませんから(^^ゞ

それにしても、公まで出しているとはビックリですなぁ。。

>郭図
彼はそこまで無能ではないと思いますよ♪
魏志で悪し様に書かれているのは、魏を肯定しようとする書が多く、
陳寿がそれらに則って書いたからではないでしょうか?
ウチの沮授伝でもちょっと触れましたが、
演義小説では、郭図の功績が掻き消されていたり、結果論的に書かれている面も否めなかったりしますから(^^)

7 名前::2002/10/30(水) 00:28

MOS     2001年10月13日土曜日 05時14分

むぉ!!
郭躬さん、三國志杜恕伝に登場してますぞ!!
もちろん杜恕伝ですから、あの異様〜〜に長い上層文の中の1節です(笑)

孔羨が司馬懿のキチガイな弟を招聘した事に対して、
少府の竇嘉が廷尉であった郭躬さんの(マトモな)弟を招聘した時ですら非難されたのに
「孔羨は何をしておる!?」と非難を浴びせた、という事らしいですね。

8 名前::2002/10/30(水) 00:28

黒竜 2001年10月13日土曜日 21時12分

梁冀の一歩前です。それと昨日の時点での自分翻訳に間違いが…

安帝から順帝のあいだに北郷侯劉懿という短命の幼帝がいたのですが
その死後、外戚閻氏と宦官孫程等の間で皇帝擁立争いがあり、
まず孫程が擁立したのが後の順帝なんですが、
機先を制され兵を率いて宮中に向かっていた閻氏の要人、閻景を捕らえたのが
当時、尚書の官にあり病身でもあった郭鎭だったというわけです。
廃立というか擁立というか… つまり後漢らしいゴタゴタです。

9 名前::2002/10/30(水) 00:28

ぐっこ     2001年10月13日土曜日 21時50分

審配はあれだけ格好良く死んでるというのに…。同じ反沮授派でどうして…。それに郭図だって、曹操に先んじて帝擁立を具申してますよねえ…不憫な。
常識的に考えれば、主君の意に阿って弟を擁立した審配らのほうこそ逆心あつかいされるでしょうし、まして袁譚は、手腕はともかく人物的には「蒼天」の像がしっくりするくらいの好男子だった模様。
袁家の跡目争いも、しょせんは冀州閥と潁川閥の戦いだったわけなんですね…。

10 名前::2002/10/30(水) 00:29

ぐっこ     2001年10月13日土曜日 21時56分

あ、それと郭氏の前身!そのあたり(孫程のクーデター)、むか〜し曹騰の小説みたいなのを書いた時にちょっとだけ勉強しました(*^。^*)
そ、そうだったのか! 名前忘れてましたけど、あのとき既に潁川の郭氏が登場していたのですか!?
ううむ、三国志を一通り理解するためには、通史で勉強しなきゃならないことを痛感します…。

11 名前::2002/10/30(水) 00:29

左平(仮名) 2001年10月14日日曜日 00時57分

黒竜さんの仰る事件ですが、、次回あたり、宮城谷三国志で描かれそうです(今回、ようやく安帝が崩じました。で、擁立されたのが北郷侯)。楽しみです。

12 名前::2002/10/30(水) 00:29

ぐっこ     2001年10月14日日曜日 21時57分
おお、今月号読むの忘れてた! もう(まだ?)そのあたりですねー!
しかし想像以上にパースの長い三国志になりそう…。このぶんだと桓帝が崩御するくらいで単行本第一巻ってところ。第二巻で曹操が成人・北部尉・県令・議郎・隠棲くらいでしょうか?

13 名前:中根東竜:2002/11/14(木) 17:17
ぐっこさん、掲示板の整理お疲れさまです。

>郭援

穎川郭氏よりも大きい太原郭氏の可能性もあると
思います。歴代正史(『後漢書』『晋書』)などで
出てくる郭氏は、太原のほうが多いですよ。
というより、穎川郭氏・・この時代以外には
殆ど歴史に登場しないですよ。僕も郭嘉にかんしていろいろ
みてはいるのですが、子孫もいないようですねぇ・・

14 名前:★ぐっこ:2002/11/14(木) 19:38
中根様、お久しぶりです!
郭援…ああ、太原の方がバリューあったんですかー。
確かに西部方面の大将の一人ですから、地元にちかい太原の
方が説得力ありますね…。
ただ、鍾氏と縁続き、となるとどうしても潁川の方へ目が。
ついでに郭図の例もありますし、微妙なラインなのかなあと(^_^;)

でも潁川の郭氏は三国志までですか…。もう没落てしまうのか…
かの『新唐書』宰相世系表にも、その名は見られないんでしょうか?
当時の郭氏はみな太原のほうの子孫を名乗ってたんでしょうねえ…

15 名前:もす:2002/11/16(土) 21:07
 どもども〜。そう、太原郡の方が遥かに格上なんですよね〜。

 さて、『新唐書表』には太原郡の方のみで、潁川陽テキの郭氏は載ってないですねぇ。(^^ゞ
んで、「太原郡の郭氏は(後漢の郭鎮の後裔が)潁川に徙った」とあります。
さらに、『新唐書列伝』には、郭孝恪は陽テキ県の人で陽テキ郡公、宋州刺史を拝したともあります。

 以上から私が言える事は・・・ 郭援については分からない、ってことっす(笑)

16 名前:松竹梅:2002/11/20(水) 21:16
大原郭氏もいいけど、冀州にもでっかい郭氏がいますね。
後漢初代光武帝の最初の皇后・郭皇后を出した真定郭氏もいいですね。
まあ、郭氏自体は光武帝にの皇后を廃されたあとあんまり振るわないんだけど

17 名前:松竹梅:2002/11/20(水) 21:20
河北の郭氏なら、真定の郭氏もおいしいですよ。
なんといっても、光武帝の皇后を出した家柄だから・・・

まあ、その郭皇后ってのがタカビーだったので、
皇太后を廃位されてその後余り郭氏は振るわないんですが・・・

18 名前:★ぐっこ:2002/11/21(木) 21:49
そういえば事の発端は郭援だったんですねえ。
結局結論は見ず…
あーでも、郭孝恪って方はかなりそれっぽそう。潁川郭氏の末裔…?

で、真定の郭氏。なんか、陳瞬作品で酷い描かれ方してた様な気がします。
あー、いちおう王室ゆかりの家門だったのか…

19 名前:中根東竜:2003/03/10(月) 03:03
>で、真定の郭氏。なんか、陳瞬作品で酷い描かれ方してた様な気がします。
あー、いちおう王室ゆかりの家門だったのか…

あ、陳舜臣の郭氏に関する描写は、『後漢書』関係のBBSで
まえに話題に上ったのですが、多分に怪しいようですよ。
陳さんは後漢初期がらみではミスがあるみたいです(奴隷解放云々
の件とか、怪しい描写は他にもあるっすよ)
真定の郭氏は皇后廃位以降も勢力は変わらなかったとか
(爵位が変わらなかったらしい)

20 名前:★ぐっこ:2003/03/13(木) 23:22
やや、随分懐かしいスレが…。中根東竜さま、ありがとうございます。
さて、陳舜作品。後々思いますに、小説十八史略あたりだったかと。
ジェラシった郭氏が、とりあえず「悪女」のお手本みたいな活躍をした
後、一族ごと失脚、という内容だったと思います。

実際は、そうではなかったと(^_^;)
ああ、真定の郭氏の勢力はそれほど揺るがず、ですか。
宮中での権勢はさすがに後退したでしょうけど…
うーん、とりあえずメタ資料が無いので、作家先生が事実と
違った解釈をしていても、私ゃ気づきようが無いなあ…

中根東竜様をはじめ、本格的に史学やってらっしゃる方がうらやますぃ…

21 名前:中根東竜:2003/03/16(日) 00:14
>ああ、真定の郭氏の勢力はそれほど揺るがず、ですか。

『後漢書』光武本紀下では「皇后郭氏を廃して中山太后と為す」
としているだけですね、一族没落の話はどこから陳氏が
持ってきたのかわかんないです。

それ以降の郭氏は洛陽に居住し、
一族も繁栄を続けたと、以下のサイトで教わりました。
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/m-yinleika.htm target=_blank>http://www2.justnet.ne.jp/~kays/m-yinleika.htm

>中根東竜様をはじめ、本格的に史学やってらっしゃる方がうらやますぃ…

あはは、僕は史学を本格的にやったことはないです。史学科も
出ていませんしね(中国文学科を出て現職はエンジニア)。
上の意見も、『後漢書』の拾い読みと他の方のサイトで知ったようなモノですし。

22 名前:★ぐっこ:2003/03/16(日) 00:56
>それ以降の郭氏は洛陽に居住し、
>一族も繁栄を続けた

全くもって陳先生のお話を信じてましたんで調べもしませんでしたが、
確かに郭皇后紀にも家門没落の話なんか無いですね…
というか、郭氏の代々が列挙されてましたが、九卿クラスを歴任する
など、失脚のカケラもなし。「一族も繁栄を続けた」のが事実っぽいですね…

参照先のサイト拝見しました! 後漢初記の人物解説コーナー、かなり詳しそう
ですから、あとからじっくり読み込んできます。

>現職はエンジニア
Σ( ̄□ ̄;)!!そういえば、以前に学部スレ立てたときもありましたか…
「三国志」を調べるのに後漢書や晋書、各集解、他漢籍を読み尽くすタイプ
の方って、理系に進まれてるケースが多いのでした(^_^;)
リンク先のサイト管理人様も、別の分野で本を出版されてるようで…

23 名前:MM2:2003/10/05(日) 14:20
はじめまして。
どこに書いていいか分からなかったので興味のあるところに書き込みます。

桓帝〜霊帝の南陽の出身者って宦官とつるんでる人が多いですね。
宦官の曹節の影響が強かったんだと思います。
でもそんな中で桓帝〜霊帝時代の名士ランキングに名前を連ねてる人が2人もいるわけで
あれはそういう力ある豪族へ配慮してのランキングだと思っているのです。
どこかの本にもありましたが三君なんてまんま外戚・皇族・官僚トップのトリコロールですしね。
ちょっと時代のずれた話でした。では。

24 名前:★ぐっこ:2003/10/06(月) 00:37
あ、MM2様。ようこそお越し下さいました!
まずは三国志辞典の追加、乙です!党錮周辺のボリューム
に圧倒されました…。ていうか、凄い。半ばフィーリングであのあたりの解読してた私にとっては、
非常にありがたいです!また勝手ながら参考にさせて頂きますね〜! 用途は主にイロモノですが(__;)

で、桓霊の頃の清流ランキング。
当時の南陽出身者は、確かに宦官がらみが多そうですね。
宦官で侯に任じられた連中の中でも、鄭衆、王国のあたりから始まって、李建、李元、
楊佗、魏猛、それと曹節と、結構な数が南陽のどこかに封地を貰っているみたいで。
それだけ本貫としている人たちが多かったのでしょうから、そこの出身者が中央で
地位と名声を持続するには、やはり先輩参りとかをしないとダメだったんでしょうか。

ランキング結果も、世に阿るほどのものではないですけど、多少恣意的な得票結果っぽい
ところはありますね…。
基本姿勢は反宦官で一致してるんでしょうけど、清流も色んな派閥があるみたいですし。
三君は…あ、本当だ(^_^;)。見事に三位一体。竇武と陳蕃はいいとして。

ただ、ランキング付けをしていた人々の中でも、特にコアな人々と、太学でやはり人物評
を繰り広げていた党人予備軍の人々は、どちらかといえば清濁の旗幟を曖昧にしてる大物
よりも、わりと身分の低い、そのかわり病的に廉潔な人士を推していた模様。一種の野党層を
形成してたみたいなものでしょうか。

どうにも官僚と宦官の対立というと、絶対悪と絶対善の最終戦争みたいな様相がありますが、
イロイロ複雑みたいですね(^_^;)

25 名前:★玉川雄一:2004/10/03(日) 03:51
ちょっと余所様の所で調べ物していて気付いたのですが。
呂布や張バクがエン州で反乱したとき、豫州刺史の郭貢って人が出張ってきたけど
荀イクの説得で矛を収めた、っつう話がありましたよね。
この郭貢って素性が不明なんですけどどうなんでしょ?

潁川郭氏の関係者で、地元の有力者として出世して
豫州刺史になったりとかそういう推測はできませんかね。
もしくは潁川郭氏に限定せんでもどこかの名族郭氏の一門とか。

あとそれに関して思ったんですけど、自分の本籍地を統治する官に
就いて良かったんでしたっけ?
どこかで、できないって読んだような記憶がなくもないんですが
まるきり思い違いですかね。
魏晋期の中正官についてだったかしら? うろ覚えで申し訳ない。
私ももう一度記憶を頼りに確認してみます。

で、郭貢について何か情報がありましたらご教授よろしくお願いします<(_ _)>

26 名前:★ぐっこ:2004/10/05(火) 01:03
郭貢…ありうるような。
あうー…その本貫を避けるっての、後漢コピー資料の中にある筈
なのに見つからんッ!後で必ず見つけます!少なくとも太守は
NGだったような。掾以下ですやね、現地採用は。

27 名前:MM2:2004/10/06(水) 01:01
ご無沙汰しております。MM2です。

太守の件、記憶にはあるのですがソース見つけられませんでした。
私もぐっこさんに期待します。という事で以下中正・刺史の件。


中正は父老・三老の延長で制度化されたものだったと思うので、
基本的には郷論=地元豪族の意向にある程度沿った形で挙げられるため、
中正となる人も地元の人なのではないでしょうか?
よく調べてないのですが、晋書から例をあげます。
 燕国の劉沈…燕国の大中正
 呉郡の顧衆…揚州の大中正
 丹楊の張[門豈]…本郡の大中正
 呉郡の陸玩…本州の大中正

刺史は監察官なので郡県の非法を監督するのに本籍の者では調子が悪いのではないでしょうか?
ざっと後漢書を調べた感じでは出身州の刺史になった人はいませんでした。

ただ、これは平時の場合の話であって、後漢末のような乱時の場合だと
出身州の刺史に任じた方が説得力があるような気がしますね。
しかしそれだと長官(この頃の刺史を牧と同格とみなした場合)と治所の結びつきが強すぎて
後に切り離す時とか扱いに気を配りそうですけど。


結構大雑把に調べたので間違ってたらすみません。
郭貢についてはあまり調べられなかったのですが、何かわかればまた書き込みます。では。

28 名前:★玉川雄一:2004/10/06(水) 01:44
援護射撃深謝!

で、中正官ですけど。ご指摘の通り私のまるきり勘違いでした。

『魏晋南北朝』を読むと“各郡国の出身者一名をそれぞれの郡国の「中正」という役職に任命し”
とありますから地元の人じゃないといかんのでしたわね。
ちなみに司馬懿が設置した州大中正は実質的に朝廷の高官が兼任することが多く、
そのためこのシステムが結局は権門有利な傾向に流れる要因となったとか。

山川の『中国史』でも二品以上の有力者が中正官への就任や
州大中正の選出に関わることができたとのことで、
ガチガチの地元名士優遇コースだったわけか。そりゃそうやんなあ。

確かに、「本国大中正」とか晋書の伝によく出てきましたわね。
灯台もと暗しだったか…

とすると刺史だの太守だのの方だったのかなあ…
引き続き捜索の幅を広げてみるとします。

29 名前:白崎ゆきと:2004/10/18(月) 22:44
お久しぶりです。白崎です。

窪添慶文『魏晋南北朝における地方官の本籍地任用について』からの孫引きですが、
「かつて浜口重国氏は、後漢時代においては、郡の長官である太守・次官である丞は
 本郡任を、県の長官である令・長、次官にあたる丞・尉は本県任ならびに本郡内の
 諸県への就任を回避せしめる原則が成立しており、それは前漢の武帝中期以降に
 始まったものであること、刺史についても同様のことが言えることを明らかにされ」
「浜口重国氏は、本籍地任用回避が行われたのは後漢末霊帝の頃までであって、
 「霊帝の世に黄巾の大乱が勃発し、引続いて西方に流賊が横行し始めた後は
 大分事情を異にする」と述べておられる」
 だそうですよ。

また、この論文によると、
・後漢末での本籍任用例:7(刺史2、太守5)
・三国時代:3(刺史1、太守2)
・武帝時代の西晋:0
・八王の乱以降の西晋:14(刺史2、太守12)
 なんだとか。

これ以上、丸写しにするのはさすがに良心がとがめますので、
この論文の総論等を知りたい方は実際に手を取ってみてください。
『史学雑誌』の1974年1・2号収録です。

最近はすっかりご無沙汰だったのですが、やっぱり制度関連の話は面白いですね。

30 名前:★玉川雄一:2004/10/21(木) 00:14
わ、実際に調べた人がいるんだ。
白崎さんもよくぞ見つけて下さいました。
『史学雑誌』ですか。現役学生の頃だったら大学図書館で
チョイチョイっと読めたんだろうになあ…

ところでその論文には、任用例は名前まで判明しているんでしょうか。
それとも、おおもとの浜口氏の論考まで遡らないといけないのかしら…

31 名前:★ぐっこ:2004/10/21(木) 00:32
お久しぶりです! そしてありがとうございます!白崎ゆきと様!
うーん…やっぱり見つからないです、資料(^_^;) 当該の記述部分が
その浜口重国先生のものと似ていましたから、出典は同じだったのかも。

なるほど、少なくともナンバー2までは本籍地を回避でしたか。
となると太守や県令なんてのは、本当に中央からの出向って立場が、想像以上に露骨
だったんですねえ…。執政のうえでは、現地採用の叩き上げor癒着型役人の協力が
必要不可欠だったでしょうから、思うほどの手腕を振るえなさそう。
それでもなお、赴任先で霊廟を建立されるくらいに慕われた名太守・名刺史が出る
わけで、彼らの偉大さが余計に分かる気がします。あと、人事の感覚とか。

それにしても、史雑誌ですか…(^_^;) 中央図書館の閉架書庫にバックナンバー一式
あったような…
と、またまた図書館通いケテーイ! 

32 名前:MM2:2004/10/21(木) 22:47
>白崎ゆきとさん
情報ありがとうございます。
私も図書館通って調べることにします。

実際に調べることで証拠としたということは、
はっきりと記載されている当時の書物がなかったんでしょうかね?
地方長官が本籍を避けるのは常識で、書くまでもない事だったのかも。

33 名前:白崎ゆきと:2004/10/21(木) 23:52
手抜きで申し訳ないですが、確認などは一切ナシで論文の記述を抜き出します。

後漢末での本籍任用例:7(刺史2、太守5)
 ・キョウ(「龍」の下に「共」)楊 『華陽国志』
 ・趙敏 『華陽国志』
 ・孫嵩
 ・公孫康
 ・公孫度
 ・樊敏
 ・張既(雍州刺史・馮翊高陵の人 『三国志』巻15)

三国時代:3(刺史1、太守2)
 ・李勝(荊州刺史・南陽の人 『三国志』巻9曹爽伝)
 ・李恢(建寧太守・兪元の人 『三国志』巻43)
 ・范方(雁門太守・雁門の人 『晋書』巻91范隆伝)

八王の乱以降の西晋:14(刺史2、太守12)
 ・永昌郡不韋の人 呂凱の子である呂祥の子および孫が代々永昌太守 『三国志』巻43
 ・劉殷(新興太守 『晋書』巻88)
 ・王遜(魏興太守 『晉書』巻81)
 ・鞠羨(東莱太守 『通鑑』巻86)
 ・鞠彭(東莱太守 『通鑑』巻91)
 ・劉隗(彭城内史 『晋書』巻69)
 《これ以外の記載なし》

実は、この論文は以前に中村威也先生から教えて頂いたものなんですよ。
内容はもちろん、教えて頂いた経緯も印象深かったので
すぐにコピーを持っていることを思い出しました。

34 名前:★玉川雄一:2004/10/22(金) 00:53
うわあ、また迅速な情報提供を!
リストアップされた人物を見ていると、
確かにああ、そういえば、という顔がチラホラ見えますね。

しかしこれ、膨大な人物の本籍と各自が歴任した地位を
把握していないと調べられんぞ…
例えば王遜や劉隗みたいに、それ以外にも色々な地位を
務めている人物などいちいち検証していかないといけないし。
もっとも統計というものはそういう地道な積み重ねが
必須になるわけだけれど。

ともあれ白崎さん、貴重な情報をありがとうございます。

35 名前:★玉川雄一:2004/10/23(土) 18:52
ちなみに王遜ってこんな人。

王遜(?-323)、字は邵伯、魏興の人。

郡に仕えて孝廉に察せられて吏部令史となり、殿中将軍に転じ累遷して上洛太守となる。ついで魏興太守に転じる。

永嘉四年(310)、南夷校尉、寧州刺史として南中地方に赴く。
当時益州は既にテイ族の李雄に征服されており、寧州もその脅威にさらされていた。
着任した王遜は辣腕を振るい始めたのだが、刑罰を濫用して反対者を次々と粛清してゆく。
ともかくも武威による支配で寧州を平定し、
東晋元帝から散騎常侍、安南将軍、仮節を加えられ褒中県公に封じられた。
その後寧州の諸郡を分割して再編を行った。

蜀(成漢)の李雄とはしばしば交戦状態にあったが、323年には越スイ、漢嘉の二郡が李雄に降った。
さらに李雄の叔父の李驤が寧州に侵攻したが、王遜は将軍の姚崇(姚岳か)と爨琛(サンシン)を遣わす。
両軍は堂狼の地で激突したが晋軍が大勝し、姚崇は追撃戦を行ったが、
瀘水まで到達したところで追撃を停止した。
だが王遜はこれを不徹底として麾下の指揮官を捕らえ、姚崇を鞭打った。
髪が逆立ち冠を裂いたというほどの激しい怒り様だったが、
なんとその夜中に王遜は死去してしまったのだった。

王遜には普段より流血を厭わず、寧州の統治も度重なる粛清によって行われていた。
個人的にも嗜虐の性向が強かったようだが、それが昂じたあまりに憤死(?)するというのも凄まじい。

王遜の死後、子の王堅がその地位を嗣いだが、
陶侃は彼では成漢には対抗できないとして尹奉と交替させた。
王堅は建康に帰還して後に病死した。
その兄の王澄が爵位を嗣ぎ、魏興太守、散騎常侍を歴任した。

というわけで、王遜の子の王澄も本籍地に任官していました。
これはカウントに入っているのでしょうかね。

36 名前:★玉川雄一:2004/10/27(水) 01:09
そういや、三国雑談スレの257でぐっこさんが
「上級の地方官吏あたりは、本籍地を避けて任命されるようですが」
って書いてるや。私たぶんこれとかが記憶に引っかかってたんだと思う。

37 名前:むじん:2004/10/29(金) 21:20
どこかのスレで公孫度とか李恢に言及しました。
ぐっこさんの振りに答える形だったと思います。

38 名前:★玉川雄一:2004/11/27(土) 15:33
山川の『中国史2 三国→唐』にも記述がありました。

「州郡官の任用については、漢代、長官にその州郡県出身者を任じない原則があったが、
 魏以後には出身地の州郡県の長官となる例がはなはだ多い」(p.39)

“原則”として任じなかったというとそれに関する規定が
明文化されていたのかそうでなかったのか微妙なところですね。
そして魏以後にはそれが覆された例が“はなはだ多い”というのも気になる表現ではあります。

39 名前:白崎ゆきと:2004/11/28(日) 16:19
先日、窪添慶文先生の論文に引かれていた、
浜口重国『漢代に於ける地方官の任用と本籍地との関係』を読んできました。

■ 玉川さん
> “原則”として任じなかったというとそれに関する規定が
> 明文化されていたのかそうでなかったのか微妙なところですね。

行政機構のなかでこのようなルールを守っていくためには、
どう考えても何らかの形で公布し周知徹底させなければならなかったと思います。
特にこの本籍地回避のルールは武帝のある時期までは行われていなかったことが判明していますから、ある時に詔勅などが出されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

また、山川『中国史2』が「原則」としたのは、浜口先生の論文に
「元来、後漢時代に太守や丞になった人の伝は後漢書を始め相当多く残っており、
 これに碑文のものなどを加えれば、資料に不足しないのである。
 それにも拘わらず、後漢一代を通じて本郡任の太守や丞の実例が指摘し得られないとすれば、
 たとえ資料に現れる除外例の地や特別な場合が有ったにしても、
 一般的には本郡任を回避するのが原則となっていたと断定して誤りないであろう。」
とあるからだと思われます。

ここで原則という表現にとどめているのは、
唐では高宗の時に雍州と洛州の2州に限って本州任を許した事例をもとに、
漢代においても同様の便法が存在しなかったとは断言できないとも論じているからです。
これは本当にすばらしい慧眼だと感服しました。

蛇足になりますが、個人的にはいわゆる羈縻政策との絡みで、
辺境での本籍地任はあったんじゃないかと想像してしまいます。

> そして魏以後にはそれが覆された例が“はなはだ多い”というのも気になる表現ではあります。

以前にも引用した窪添先生の論文によると、
「魏晋南北朝時代においては、本籍任長官の数は極めて多くなるのである。
 筆者の調べたところでは約五百例を知り得る。
 かつそれはこの時代ほぼ全般にわたっている。」


──以下、愚痴
これだけ論文を丸写ししておいて言うのもなんですけど、
諸先生の論をしたり顔で紹介するのは、本当に恥ずかしいことなのでやっていて嫌になります。
学術論文が適正な対価によって、容易に読めるようになってほしいものです。

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