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■ 【か、カウ…】牛金【ゴールド…?】

1 名前::2002/11/02(土) 12:45

黒竜    2002年02月18日月曜日 23時00分

最近、中央研究院のサイトで二十五史をザラッと読んでいたのですが、
そこでなんと、あの牛金の隠し子を発見!!
「司馬叡、字は景文。晋将牛金の子なり」とあるじゃございませんか奥さん!

こりゃ大発見か!と思ったら、その隠し子の正体は東晋の元帝。
どうやら西晋→東晋のながれを否定するためのデマのようで…(T T)
それにしても牛金にこんな逸話(デマでも)があるとは今の今まで知りませんでした。
晋の歴史も奥が深いです…

2 名前::2002/11/02(土) 12:45

玉川雄一     2002年02月18日月曜日 23時55分

これ、牛金って同一人物でしょうかね。
晋書には当然(?)載ってないみたいですが。
十八史略には、
「或いは曰く、(司馬)睿の母、実は琅邪(王・司馬覲)の小吏牛金と通じて睿を生めり、と」

曹仁麾下の部隊長・牛金とこの牛金…年代が合わないような。
司馬睿の生年は276年ですし。
でも、「晋将牛金」というのも気になる。

それと、うろ覚えですけど(前者の)牛金って、
司馬懿に殺されたとかいうのをどこかで読んだような記憶も。
出典忘れてしまいましたが。

どなたか増援プリィヅ!

3 名前::2002/11/02(土) 12:45

NOB      2002年02月19日火曜日 00時04分

『晋書』「元帝紀」(司馬睿の紀)の末尾に、このことが書かれています。話の内容は、

「かつて玄石図に「牛継馬後」とあったので、宣帝(司馬懿)は牛氏を嫌い、武将の牛金を鴆殺した。ところが琅邪恭王(司馬覲)の妃の夏侯氏が密かに小吏の牛氏と通じ、元帝を生んだ。玄石図にあったとおりになったのだ。」

といったことです。ここでは牛金じゃなくて牛氏ですが。
十八史略で牛金となっているとは知りませんでした…。晋書の記述がいろいろと混同して、牛氏が牛金になっちゃったんでしょうかね?

4 名前::2002/11/02(土) 12:45

NOB      2002年02月19日火曜日 00時24分

すみません、追加です。
『晋書[冓斗]注』という晋書の注釈本(『三國志集解』の晋書版みたいなもんです)に、しっかり考察が書かれていました。先に調べてから書き込めばよかったですね(^-^;

孫盛『晋陽秋』では「牛欽」、魏收『魏書』では「牛金」になっているそうですね。[冓斗]注は王隠『晋書』が牛金鴆殺が公孫淵を滅ぼした直後のことであると言っているのを手がかりに、牛金と牛欽は別人だろうと言っていました。

なお、司馬睿が牛氏の子だというのは、沈約という歴史家が『宋書』「符瑞志」で言ったのが初出のようです。ちなみにそこでは「小吏の牛という姓の者」となっているようですね。

ところで、私ははじめ、黒龍さんの「司馬叡、字は景文。晋将牛金の子なり」が二十五史のどこにあるのか分からなかったのですが、まさか『魏書』に晋の元帝の伝が立っていたとは…ビックリです。

5 名前::2002/11/02(土) 12:46

黒竜 2002年02月19日火曜日 00時26分

補足です。
中央研究院のサイトで「牛金」で検索したところヒットは8件
うち3件がこのゴシップに関するものでした。
最初はNOBさんがあげていらっしゃるように晋書、
次が宋書の符瑞志で、最後に魏書僭晋司馬叡伝となってます。
で、司馬睿の親を牛金としてるのは魏書だけでした。
おそらく当初は、
「司馬懿は予言を信じて牛金を殺したけれど運命には抗えずしっかり牛氏の血統は残りました」
という話だったのが、より直接的に変わっていったんじゃないでしょうか?
で、十八史略はそのあいだをとって小吏牛氏=牛金としたのでは?

6 名前::2002/11/02(土) 12:46

黒竜 2002年02月19日火曜日 00時28分

うわ、NOBさんと内容が被ってしまった(汗

7 名前::2002/11/02(土) 12:46

玉川雄一     2002年02月19日火曜日 00時59分

やってもーた…

>「『晋書』「元帝紀」(司馬睿の紀)の末尾に、このことが書かれています

しっかりと載っておりました。どこかで見たような気がしていたのですが…
冒頭部分しか読まなかった私の手落ちであります。しかし、ちゃんと考察されているのですね。
ところで、『晋書[冓斗]注』って「解體晉書」の方でもよく出てきますが、これも手に入るものなのでしょうか?
押さえておいた方がいいのでしょうかね。

8 名前::2002/11/02(土) 12:47


ぐっこ 2002年02月19日火曜日 01時33分

え!? 牛金じゃなかったんですか!? がーん!
というか、三国志5あたりの辞書で見たきりだったんですが…そんなにも入り組んだ話だったのですか!
黒竜様、玉さま、NOBさま、情報ありがとうございます!
…「晋書[冓斗]注」!? また新たなアイテムが!(;^_^A ああ、三国志集解もまだ読んでないのに…(T.T)

9 名前::2002/11/02(土) 12:47

NOB      2002年02月19日火曜日 15時39分

黒竜さん、先走ってしまいすみません(^-^;

> 「司馬懿は予言を信じて牛金を殺したけれど運命には抗えずしっかり牛氏の血統は残りました」
> という話だったのが、より直接的に変わっていったんじゃないでしょうか?
私も最初、伝えられる話の内容そのものが意図的に変遷させられたものだと思ったのですが、『晋陽秋』で「牛欽」とあったことを考えると、きっかけは単純に「欽」と「金」をどこかで誤写しただけなのではないかという気もしてきました。

>玉川さん
『[冓斗]注』は台湾の芸文印書館から「注疏本二十四史シリーズ(名称うろ覚え)」として『三國志集解』などと一緒に出ていますので、入手は可能かと思います。私は琳琅閣書店の夏季セールで7700円で購入しました。通常時だと1万2千円くらいでしょうか?
自分が翻訳する場所については注釈の参考にもなりますし、コピーなどしておいた方がいいかもしれません。でも玉川さんはかなり読まれているので、いっそ買ってしまっても損になることはないと思いますよ(^-^)
夏まで待てば、琳琅閣書店は3割引きになりますよ♪

どうでもいいことですが『晋書[冓斗]注』は『三國志集解』に比べると活字が汚い、というか手書きで明朝体(宋朝体)を書いたような感じです(笑)

ところで、晋書って逸話や小説の類も何でも取り込んでしまったため「二十四史中最悪」とも評されたりしていますが、元帝の出自の話などのような志怪逸話みたいなものは全部各伝の末尾に分けて記述されていますよね。(とはいっても、羊[示古]伝・杜預伝で確認しただけですが//爆)
そのように史実と逸話をはっきり区別しているところに編纂者の歴史家としてのポリシーが垣間見られる気がしますし、晋書の読み方のヒントになるような気がしました。って、そんなのは当たり前だって言われそうですが(笑)

10 名前::2002/11/02(土) 12:48

中根東竜     2002年02月20日水曜日 00時43分

『晉書』の話題が出ると登場する、中根です(笑)

>「或いは曰く、(司馬)睿の母、実は琅邪(王・司馬覲)の小吏牛金と通じて睿を生めり、と」

明の庶民向け歴史書、馮夢竜の『智嚢』(ちのう)
にも似た記述があります。

まあ、庶民が読む本ではこういう誤りが流布していたんでしょうね・・
世界ふし○発見でトンデモ本が良く出るようなものなのかなぁ。

>NOBさん

>ところで、晋書って逸話や小説の類も何でも取り込んでしまったため「二十四史中最悪」とも評されたりしていますが、

基本的な評価としては、それはあたらないですね。
『晉書』は『三國志』よりも評判が悪いのですが、
それでも他の本よりはずっといいとされているようですよ。
正史を全部読んで研究ノートを書いた
趙翼先生という清の歴史家の意見はこんな感じです。
「『晉書』はおかしな逸話が多いが、それでも文章も上手いし『魏書』『宋書』よりは遙かに上だ。(中略)『十六國春秋』(五胡十六国の野史)とは比べものにならない」
(趙翼『二十二史剳記』より、意訳)
『晉書辞典』もこれに賛成のようです。ここらへんが妥当な
定説じゃないかな、と思いますが。

>元帝の出自の話などのような志怪逸話みたいなものは全部各伝の末尾に分けて記述されていますよね。

これは確かにそうですねぇ。うーん僕はこれまで気づかなかった・・
やはり、作者たち(『晉書』は18人のスタッフの分担執筆)
の史料に対する見識なのでしょうか?

11 名前::2002/11/02(土) 12:48

NOB      2002年02月20日水曜日 17時30分

中根さんありがとうございます。

実は『廿二史箚記』(の電子テキストの一部?)も『晋書辞典』も持っているのですが、読んでいないことを暴露していますね、自分(爆)
卒論も終わったので、ゆるゆると読んでいこうと思います。『廿二史箚記』はともかく、『晋書辞典』の方は一石数鳥ですし。
#っていうか、読みたいもの多過ぎ…消費量が追いつきません。

どこで刷り込まれたのか忘れてしまいましたが、「正史中最悪」という強いインパクトだけが頭に残っていました(^-^;
まぁ、それならそれで「どういうふうに変なネタが紛れ込んだのか」というのも非常に興味があるところなのですが。


すみません、ネタが牛金からどんどん離れてしまいました。というわけでsage〜(←無い)

12 名前::2002/11/02(土) 12:48

クェン 2002年02月20日水曜日 23時32分

こんばんわ。こちらには初めて書かせていただきます。

牛金って特攻したくせに敵に囲まれ右往左往…三国志で特攻に失敗したのって牛金だけですよね(史書に書かれてる限りでは)。
後で曹仁に怒られなかったのだろうか。

13 名前::2002/11/02(土) 12:48

ぐっこ 2002年02月21日木曜日 20時54分

 >晋書
わたしもどこかで「晋書最悪」の強烈なイメージが刷り込まれてますが…(^-^; どこだろ…大澤教官の三国時代あたりかもしれない…。
ですが、なるほど、史書としての評価は低くなかったんですね!
ああよかった…。
まあ妙な逸話を正史に盛り込む程度なら他のもやってるでしょうし…「文章が優れている」というのも初めて知りました!
それに怪しげな話は後ろの方でコソーリやっているというのも、感心です!
ううむ…本家中国での評価は高い、と。
…晋書辞典!? …おっそろしく奥が深い…史学は広大だわ…(素子風)。

 >牛金
そうそう、最初はこの話だったんですよね(^_^;
クェンさまようこそ〜。
牛金も、あんがい活躍してる人ですのにね〜。後将軍まで上ってるし、馬岱をうち破ってるし、司馬懿に毒を盛られて死ぬという胡散臭い話(^-^;の時は、「父上!あれほどの名将をなぜ!」と司馬師を嘆かせたり…
ちなみに特効失敗のエピソード、よく読んでみると、かなり無茶な話です。「周瑜率いる数千の軍が到着」とあるのに対し、「曹仁は兵300人を集めて曲将・牛金に攻めさせた」と…。
曹仁!
魏随一の猛将・曹仁!
数千人の、しかも周瑜の率いる大部隊に、300人で攻めさせる曹仁!
こりゃあ牛金が可哀想すぎます(^_^; 曹仁もこう思ったことでしょう。
「正直、すまんかった」
と。

14 名前::2002/11/02(土) 12:49

クェン 2002年02月22日金曜日 00時26分

晋書よりも良い歴史書は多いが、より悪い歴史書はもっと多い、といったところでしょうか。三国志と史記くらいしかよく知らない私にとっては、どうしてもこの2冊が基準になってしまうので、今まで晋書に良いイメージを持って無かったです(陳寿のゴシップ満載と聞いていたし)。ろくに知らないのに・・・いかんなあ自分。

>数千人の、しかも周瑜の率いる大部隊に、300人で攻めさせる曹仁!こりゃあ牛金が可哀想すぎます(^_^; 

う、こりゃ確かに可哀そ・・・。そうすると曹仁が数十騎を率いて救出したのも、謝罪の意かもしれませんね。
または牛金だったら、これくらい出来ると期待されていたのかも・・・それは無い!?

15 名前::2002/11/02(土) 12:49

もす     2002年02月22日金曜日 21時55分

>「周瑜率いる数千の軍が到着」

 曹仁のネタが出たので登場(笑)
 これって、周瑜が率いたんでしょうか? ちくまには「周瑜率いる数万人。先発隊数千人が到着した時、300人を募って牛金に対抗させた」(要約)となってまして、ちくまに沿うならば(笑)、おそらくは周瑜は到着していなさそうッス。
 個人的に考えているのは甘寧、呂蒙、リョウ統などですが、まぁ、憶測ですね(爆)

 また、300人で対抗させたのは「足止め」や「威嚇」、及び「鼓舞」が理由だと思いますよ(^^)
「足止め」とは敵の鋭鋒を食い止める事。
そこから派生して、「足止め」によって敵に自分達が油断ならない存在である事を知らせて意気を挫いたり(「威嚇」)、「足止め」の成功で味方の士気を上げる(「鼓舞」)など。 「先発隊」を食い止めても後ろに数万人が控えているワケで、数千人(3000人位?)の江陵城中の兵力からすると「先発隊数千人」に対抗するのは「数百人」になるのは致し方ないでしょう。
 勿論、江陵城中の全兵力を以って先発隊を破ろうとするのも手ではありますが、曹操から「負けない」から認められ、「負けない」が身上である曹仁がそのような危ない橋を渡る事は考え辛いでっす。彼に与えられた使命は「敵を破る事」ではなく「曹操が陣営を立て直す時間稼ぎをする事」なのですから(^^)

16 名前::2002/11/02(土) 12:49

もす     2002年02月22日金曜日 21時58分

>曹操から「負けない」から認められ
あ、すいません。これ、自分の考えでした(^^ゞ 書き終えた後で削るつもりだったんですが。。失礼しました。

17 名前::2002/11/02(土) 12:50

ぐっこ 2002年02月22日金曜日 23時23分

>クェン様
晋書、私も腰を落ち着けてじっくり読みたいです…。陳寿についてチクチク書いているらしいですが、実は私読んでない(^_^; こんど電子文献で読みます〜。
牛金、ゲームでは一時武力80代後半という、曹仁よりも強い男でした(^_^;

 >もす様
うーむ。もす様の言に10000ムネオ!
いま吉川三国志読み直しててたら、当の牛金が「士気高揚のために一当てさせてください」とか申し出てたり…。たしかに守ってるだけだと叩かれ放題ですものね…。
「先鋒隊」あ、ホントだ(^_^;

ところでひとつ疑問が派生したのですが、曹操が烏林・赤壁へ連れて行った兵力というのは、どれくらいのものだったんでしょうか?
「曹操軍十万〜二十万余」というのは荊州留守組を含んだ数字だと思うんですが、コイツらはどこへ? 
もす様の仰るように、江陵の防御に当たってたのは数千規模でしょう。やろうと思えば数万の軍も駐留できる前進基地なのに…。

まさか二十万のほとんどが烏林へゾロゾロ押し掛けたのか、逆に樊・襄陽でマターリとしていたのか…。

18 名前::2002/11/02(土) 12:50

もす     2002年02月26日火曜日 02時40分

一応、当時の諸将の動きを調べてみると、こんなカンジになりました。
ただ、初めに言っておきますが、信頼性は全く保証できません。。(^^;

[後方駐屯組]
 楽進(襄陽)、曹仁(江陵)、徐晃(樊)、呂虔(泰山)、張既(関中)、梁習(并州)、蒋済(九江)、温恢(揚州、寿春?)、蘇則(安定?)、杜畿(河東?)、、、

[烏林出征組]
 曹純、満寵、張喜(→合肥)、、、

[後方駐屯?]
 夏侯淵(泰山、斉、平原?)、張遼(長社?)、張コウ(長社?)、李通(汝南?)、荀(許昌?)、趙儼(扶風?)、、、

[烏林方面出征?]
 文聘(江夏?)、臧覇([白完]?)、曹洪(?)、荀攸(?)、賈[言羽](?)、、、

[全くの不明]
 夏侯惇、韓浩、史渙、程G、于禁、李典、許チョ、、、


さらに説明しようと思ったら長くなってしまったので、結論だけ言うと「10万を切るくらい」だと思います(^^)


P.S.前回のカキコの時に呉主伝の記述を忘れていましたんで、ちと。
「烏林の敗戦の後、夷陵で甘寧が曹仁の包囲を受けていたが、周瑜は呂蒙の案を採用し、“リョウ統”に江陵で曹仁を食い止めさせ、一方で“半分の兵力”を率いて甘寧の救援に赴いた。軍は勝利を収め、(踵を)返した。」
以上から察するに、牛金は夷陵への増援兵だったのかもしれませぬ(^^)

19 名前::2002/11/02(土) 12:50

もす     2002年02月26日火曜日 18時15分

あぅ、答えになってませんでした。。(^^;

「上のように、後方に控えた者、若しくは孫権の合肥進軍と対陣した者も相当数いたようです」というのが、ご質問に対する『オイラのお答え』でした。<(_ _)>

20 名前::2002/11/02(土) 12:50

玉川雄一     2002年02月26日火曜日 22時20分

こいつァ労作! お疲れさまでした。しかし既に大陸レベルですなあ…

でも、おもたんですが、この時温恢はまだ揚州にいなかったのでは?

【温恢伝】
温恢が揚州刺史になったとき、蒋済は丹陽(丹楊)太守だった

【蒋済伝】
蒋済が丹楊太守になったのは209年以降で、それに続いて「大軍が南征して帰還のおり、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を州の別賀に任命した」とあります。
この「南征」は209年秋の合肥出陣か、もしかすると212年冬〜213年春にかけての濡須口攻撃の事かもしれません。
どのみち蒼天航路で描かれたように、劉馥没後にすぐ温恢が後任になったわけではないように思われます。
すると、赤壁の時点では温恢はまだそれ以前の役職(と所在地)にあったのではないでしょうか。つまり、寿春ではないような。
丞相主簿として曹操のもとにいたか、さらにその前任の魯の相、あるいは彭城の相だったか…

以上、もすさんの本論とは関係ありませんが、温恢促進委員会(いつ作った)として考察してみました。

21 名前::2002/11/02(土) 12:51

ぐっこ 2002年02月27日水曜日 00時27分

もすさま、ありがとうございます!
ふーむ、「赤壁では主だった将帥の戦死者がなかった。故に赤壁の戦いは無かった」と主張する一派を見かけましたが、この表を見せてあげたい。
おもだった将帥の戦死者も何も、ほとんど留守番役やん!

 >夷陵
うーむ、言われて見れば…。ええと、位置関係なんですが、この場合、曹仁が江陵を守り、誰か別の魏将が夷陵に派遣されていた、ということですよね。あ、演義でも書いてある(^-^; 夷陵の守将・曹洪を、牛金と曹純が救援した、と。なんだ、赤壁よりもずっと豪華なキャストが出回ってるじゃないか〜。
赤壁・烏林よりも、江陵・夷陵の戦いの方がよほど重要だったみたいですね〜。

 >玉様
いつのまに温恢にハマりましたか(^-^; なるほど、温恢は赤壁前後ではまだ揚州に赴任してない可能性アリ、と。蒼天航路ちょっとミス。

22 名前::2002/11/02(土) 12:51

もす     2002年02月27日水曜日 09時16分

>温恢

確かに・・・(^^;
蒋済の伝とゴチャ混ぜになった挙句、蒋済伝の記述を読み取れていなかったようです・・・あははは・・・ すいません〜〜。<(_ _)>

彼がいた可能性のあるのは、魯か烏林か許都(or[業β])のどれでしょうか。
何はともあれ、「不明」欄に『温恢(魯?丞相主簿?)、』と、こんなカンジで入れてくだされ。。
なお、ほとんど流し読みしただけなので、他にも「違うぞ!」いうのがありましたら、遠慮無くご忠言ください(爆)

>演義

やっぱり演義ってよく出来てはりますなぁ(笑)

23 名前::2002/11/02(土) 16:29

玉川雄一   

改めて牛金。最近なにかとホットなお方ですな(^_^;)

晋書宣帝紀読んでましたら、司馬懿の公孫淵討伐のくだりに
『景初二年、牛金、胡遵等歩騎四万をひきいて京都(洛陽ですか)を発つ』とありました。(違約)

この牛金は誰でしょう? いい加減「小吏牛氏」でもないとは思いますが(^_^;) やっぱ、「司馬懿に粛清された」牛金なんでしょうか。
そして建安年間に曹仁の元で戦った牛金と同一人物? …まあ、年代的にはあり得なくもないですねえ。

24 名前::2002/11/02(土) 16:29

玉川雄一     2002年06月16日日曜日 01時07分

×違約
○意訳

味好漢・牛金の登場を願って。

25 名前::2002/11/02(土) 16:29

むじん     2002年06月16日日曜日 07時07分

おなじ公孫淵叩きのところに陳ケイという人も出てきます。
陳登パパだったら面白いな♪

26 名前::2002/11/02(土) 16:29

玉川雄一     2002年06月16日日曜日 09時35分

>陳珪
さすがにソレは…(^_^;) もはや人外の生物では。
まあ、何百年も生きていたと称する人の出るお国柄(?)ですしねえ。

ちなみに親記事で挙げた引用文、主語はもちろん司馬懿です。
「司馬懿が牛金、胡遵らをひきいて」であって、牛金が胡遵らを率いたんではありませんので念のため。
もっとも曹仁麾下の彼と同一人物なら、この頃には相当の地位に昇っていたのでしょうね。
江陵戦役から30年、血気盛んな一部隊長から堂々たる将軍へ…
う〜ん、サクセスストーリーだねえ。(豪快にはしょられてますが)

…などと妄想してみる。

27 名前::2002/11/02(土) 16:30

ぐっこ 2002年06月16日日曜日 16時31分

やっぱり、「司馬懿の粛正」のほうの牛金ではないかと〜。
晋書読む限り、ことさらに誅殺されるほどの名将に育っていたようですし〜…曹仁の下でみっちりしごかれたのではないでしょうか。
年齢から言うと、一介の部隊長ではなく、中軍の将、もう後将軍になってた頃かも?(魏の官位かなあ)
彼もトピたてたら面白いキャラかも…味好漢!

28 名前::2002/11/02(土) 16:30

もす 2002年06月16日日曜日 18時10分

う〜ん、牛金。やっぱり面白そうな人物ですなぁ。
今度調べてみましょかな・・・

29 名前::2002/11/02(土) 16:30

ぐっこ 2002年06月23日日曜日 14時36分

ハァハァ…期待…もすさま…。
それにしても牛氏って、牛金以外に目立つ連中がいたかどうか…
あ、董卓の女婿にも一人いたか…。
思えば、彼ってば董卓軍団の事実上のナンバー2。反董卓同盟を蹴散らすために派遣されていた軍団のリーダー。
本当にそんな大役が務まるほどのオトコだったの!?

30 名前::2002/11/02(土) 16:30

クェン 2002年06月28日金曜日 00時12分

>牛氏って、牛金以外に目立つ連中がいたかどうか…
張遼伝によると、張遼が張コウ・「牛蓋」らを指揮して陳蘭を討伐したらしいですね。
張コウと並んで名前が登場するなんて、なかなか大物っぽい…
正史で五将軍と名前を並べるほどということは史奐や朱霊クラス!?

牛金の親とかだったら面白いんだけど…

>あ、董卓の女婿にも一人いたか…。
>思えば、彼ってば董卓軍団の事実上のナンバー2。反董卓同盟を蹴散>らすために派遣されていた軍団のリーダー。
>本当にそんな大役が務まるほどのオトコだったの!?
猛将の李カク・郭レ・張済(張繍もいたのかも)らを従え、さらに賈クまで!人材的には悪くない…けどこんな連中を統率するのは大変そう…。とはいえ牛輔が逃げたとたんに、軍が崩壊しかけたのを考えると、それなりに統率力があったのかもしれません。

31 名前::2002/11/02(土) 16:31

ぐっこ 2002年06月29日土曜日 23時32分

おっとお! クェンさま感謝〜!
牛氏…そう言う人物がいたのか〜!確かに名前の釣り合いでは宋謙的なポイントにいる人物かも。
牛輔は、もうちょっと賢く立ち回ったら天下を取れていたかも知れない人物。軍団も人材もあれだけそろっていて…。実際に董卓が婿に選ぶほどの人物、ただのバカではなかったと思います。
しかし死に様がかっこわるい…

32 名前::2002/11/02(土) 16:31

おばら   2002年07月13日土曜日 23時17分

ども。お久しぶりです。
牛氏ねたを一つ。
「新唐書」によりますと、牛氏はもともと子姓(殷王朝の姓)であったそうです。で、殷の後裔であった宋の微子がいまして、微子の後裔に司寇になった牛父という人物がいたそうです。
その牛父の子孫が、後漢初期に活躍した牛邯だそうです。

「後漢書」によりますと、牛邯、字は孺卿で隴西狄道の人。
隗囂に属していましたが、王遵の説得に応じて投降しています。
太中大夫になった後、馬援や杜林らに推薦されて護羌校尉に任じられ、來歙とともに隴右を平定してまわっています。
「新唐書」によりますと、その後牛氏は安定に移ったそうです。

狄道出身ということで、董卓(臨桃出身)の女婿・中郎将牛輔と何か関係があるやもしれませんねー。臨桃と狄道は同じ川ぞいにありますからねぇ。

あ、牛金から離れていく・・・

33 名前::2002/11/02(土) 16:31

ぐっこ 2002年07月15日月曜日 01時19分

うお! おばらさま、ありがとうございます!
なんとまあ、微子の後裔ですか! 牛邯!牛タン…(^_^;)
いや、それはともかく、隴西方面ですと、確かに董卓とつながりがあっても不思議でない位置ですねえ…。牛氏は、涼雍のあたりでなかなかの実力を持つ一族になっていたとか? 董卓が敢えて婿に選んだのも、その辺のバックボーンを期待して…?
考えれば考えるほど面白い!

牛金…あ(^_^;) まあ牛氏スレと言うことで〜!

34 名前::2002/11/02(土) 16:32

左平(仮名) 2002年07月31日水曜日 22時48分

興味あるネタなので、上げておきます。
牛氏も、牛邯の子孫とすれば、なかなかの名門と言えそうなのですね。
と、なると…こんなのはどうなんでしょう?

牛邯……牛輔┬─牛蓋
      └─牛金(江陵の戦いの時30前後という設定)

裏付けは何もありませんが、こういう系図のもと、一編の作品が作れるかも知れませんね。

…董卓が凶刃に斃れ、娘婿の牛輔もまた命を落とす。董卓に連なる者達が次々と殺される中、脱出した兄弟がいた。牛輔の子・牛蓋と牛金である(脱出の際、名を変えたという設定も可)。
乱世の中、頼る者もない流浪の旅を経て、二人は(素性を隠して)曹操に仕える。(直接にではないが)父の仇といえる呂布との戦いでの活躍が認められた二人は武将に抜擢され、兄の牛蓋は張遼達と共に陳蘭討伐で戦功を立てるが、早世する。
一人残された牛金は、名将・曹仁の配下として活躍し、その庇護のもと着実に位階を上げていく。そうして、魏の忠臣として自他共に認める存在となる。
が、武人らしい硬骨漢(さらに、たたき上げの軍人)である彼の存在は、宮廷の実力者達には鬱陶しいものでもあった。やがて彼が牛輔の子である事が知られ(公表はされなかったが)、その為に自殺を強いられる。
その死の真相を知った子孫達により、報復がなされる。それは…

どなたか挑戦されては? 私は、この件については情報不足なので、このくらいしか。

35 名前::2002/11/02(土) 16:33

左平(仮名) 2002年07月31日水曜日 22時53分

↑ありゃ…またずれちゃいましたね。
一応、牛輔の子に牛蓋(兄)、牛金(弟)という設定で考えてみました。
それはそうと、最近はこんなネタしか提供できないのが情けない(完全に空想の産物ですし)…。正史もただの事典となっている状態で、ろくに読んでないんですよね。

36 名前::2002/11/02(土) 16:33

クェン 2002年08月01日木曜日 00時31分

>もす様
牛蓋と牛金が牛輔の子という設定だと…2人は董卓の孫ですか!?
これは強そうだ。

ところで、晋書には牛金が馬岱を散々に撃ち破ったエピソードがあると聞いたのですが…この2人が戦うなんてどんな状況なんですかねえ…。
勝った相手が馬岱というのは凄いのかどうか微妙。

37 名前::2002/11/02(土) 16:33

もす 2002年08月01日木曜日 00時58分

⇒クェンさん

 ん? わしではなく左平さんでしょうか??(;^_^A

 ちなみに、馬岱と牛金が刃を交えたのは、青龍3年(235年)のことですね♪

| 蜀将・馬岱が国境を越えて寇を為したため、帝(司馬懿)は牛金を遣わして
| 之を撃ちて走らし、一千あまりを斬る。

 これに続けて、「武都のテイ族が来降した」と書かれていますので、
おそらく、この時の敗戦で蜀から武都テイが離れたのでしょう(^^)
 また、馬岱が敗れて斬られたのが「一千人あまり」ですから、
率いていたのは、「少なくとも5桁に達していた」と見積もるべきかもしれませんね。
・・・馬岱も結構な権力を有していたのかも。。(^^ゞ

38 名前::2002/11/02(土) 16:34
クェン 2002年08月01日木曜日 01時29分

もす様、情報ありがとうございます。変な書き方で惑わせてしまったようですみません。

馬vs牛は235年ですか。なるほど、この時期であれば、魏延を斬った功績によって馬岱が大軍を動かす権力を得ていてもおかしくないですね。明帝紀にも後主伝にも記されてないのが不思議ですが…

>武都のテイ族が来降した
馬vs牛の翌236年に、テイ族400家を広県に移住させ(後主伝)、その400家が魏に降ったのは251年(張嶷伝)…
馬岱敗戦→この敗戦により異民族が蜀を見限って魏に降らないように移住させた→それが不満で結局は魏に降った、という流れですかね。

39 名前::2002/11/02(土) 16:34

ぐっこ 2002年08月01日木曜日 23時11分

>牛金
おー! 左平(仮名)様、そのシチュかっこいい! 確かに設定としてはムリがありますが、まあ史料残ってない人たちだし(^_^;)
牛輔は…本当に興味のある人物です。死に様の格好悪さがまた萌える…

>馬岱
平北将軍という将軍位が伝わっていますが、別スレで話題になったように蜀のそれは必ずしも高位の将軍ではないということで。
ただ役職名と考えれば、対北国境軍の責任者の一人であったことは疑いないですね〜。
牛金は最終的に司馬氏に殺される、ということになっていますが、そういう伝承抜きで、もう「先代の英雄」扱いの年齢。相当に信任されていたものと思われます。

40 名前::2002/11/02(土) 16:34

むじん     2002年08月20日火曜日 23時23分

今日、徐晃伝を読み返していたら、朱蓋なる人物を発見。あれれ、もしかして牛蓋と同一人物じゃないかな、と思って三国志集解の徐晃伝を開きましたが、とくに記述なし。まさかっ、と、今度は集解張遼伝を開くと「朱蓋(宋本では牛蓋)」となってました。ありゃま〜。
というわけで、残念ながら牛蓋は実在しない模様です。ちゃんちゃん。

41 名前::2002/11/02(土) 16:34

ぐっこ 2002年08月21日水曜日 00時32分

がーんΣ( ̄□ ̄;)!!
朱蓋たん登場…。曹仁とかの部将で、張[合β]の下にもついていた人物っぽいですねえ。
うーむ…隴西の名門・牛氏の活躍に期待したかったのに。

42 名前::2002/11/02(土) 16:35

クェン 2002年08月28日水曜日 01時04分

あ、蓋は牛さんじゃなかったんですね。
そうすると朱蓋は陳蘭討伐と関羽討伐というかなりの大物を相手にして頑張った、なかなかの人物ですなあ。他にも活躍してそう。

43 名前::2002/11/02(土) 16:35

むじん     2002年09月02日月曜日 06時24分

さいきん孫権伝に見え、張遼とともに合肥に駐屯したという「朱横海」が朱蓋のことじゃないかと思うようになってきた…。ちくま訳本の索引では勝手に朱霊だって決めつけてるけど。

ああ…また牛氏から離れてしまった…(>_<)

44 名前::2002/11/02(土) 16:36

ぐっこ 2002年09月02日月曜日 22時42分

朱横海!? …うーむ、確かに出所を見ると朱蓋っぽく感じる…。
でも朱霊も「横海将軍」なんですよ…

45 名前:左平(仮名):2002/11/25(月) 21:43
以前に微子啓の名が出てますので、こちらに。
微子啓と思われる人物の墓が出土したというニュ−スが松竹梅さんの「りゅうぜんず」に書かれてましたが、御覧になりましたか?

46 名前:★ぐっこ:2002/11/27(水) 00:10
微子ネタ…>>32ですねー。
微子の子孫といわれる牛邯…こちらは、どちらかというと狄道の牛氏、つまり
牛輔たんルートの方が近かったわけで…
つまり牛輔のご先祖様かもしれない大人物のお墓が発見されたわけだ! 皆喜べ!

…えー、これもヤフーニュースにでかでか載ってたの見て初めてしりました。
もう殷なんて神話以外の何者でもないような時代なのに…そんな時代の遺跡が、
よりによって商丘で発見されるとは…
中国史は奥が深いですねえ…

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