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■ 小説、書いてみました。

1 名前:左平(仮名):2002/12/19(木) 23:18
ここでスレッドたてて連載してもいいとの事でしたので、お言葉に甘えて、掲載してみようと思います。
現在、牛氏を主人公とした作品を考えているのですが、それを考えていると、どうしてもむくむくと湧きあがるものがありましたので…先に、別作品を掲載します。

2 名前:左平(仮名):2002/12/19(木) 23:22
『白き天』

一、

「狭いな」
男は、そう呟いた。年の頃は、二十歳を少し過ぎた程度であろうか。並外れた巨躯と、衣服の上からでも分かる盛り上がった筋肉が、ひときわ人目を引く。
太陽が男の真上で輝く、暑い夏の日であった。
「何が狭いってんだ?」
人がその呟きを聞けば、そう問うた事であろう。そして、答えを聞けば、男の正気を疑った事であろう。いや、あるいは「不敬である」と思うかも知れない。

ここは、洛陽(正確には、当時は【各+隹】陽と書かれた)。漢(後漢、東漢)王朝の都である。今、男が立っているのは、そのど真ん中であり、人々が、忙しく行き交っている。
洛陽は、その周囲三十里余り(当時の一里は、約415m。南北九里、東西七里)に達する。当時においては、漢王朝内はもとより、世界でも屈指の大都市であった。その大路は、幅数十丈(当時の一丈は、約2,3m)にも達する。周囲を囲む城壁は高いが、中心部にいると、それは目につかない。
大路から見上げる天は、実に広々と広がっている。その天が「狭い」と言ったこの男の名は、董卓。字を仲穎という。

「行くか、赤兎」
董卓は、愛馬・赤兎の首をひと撫ですると、ひらりとその背にまたがった。その巨躯には似合わぬ、軽やかな動きである。
「さて、どこへ行こうか…」
何も慌てる事はない。気楽な一人旅である。足の向くまま、気の向くまま。
「赤兎、おまえはどこへ行きたい?」
その言葉の意味が分かるのであろうか。赤兎は、すっと首を挙げ、はるか彼方を見つめた。
「そうか、西か…。よし、西に向かうぞ」

洛陽の城門を出て、西に向かう。空は高く澄み渡り、乾いた夏風が心地良い。
(遠駆けするにはもってこいの日和だな…)
ぼんやりとそんな事を考えながら、董卓は、今は亡き父の事を思った。奔放に生きる事を許された自分に対し、父は、常に重い責務を背負っていた様に思えてならなかった。
(父上。父上は、なぜそういう人生を歩まれたのですか?そして、私はどう生きれば良いのでしょうか?)

3 名前:左平(仮名):2002/12/20(金) 00:11
二、

董卓は、涼州は隴西郡、臨トウ【シ+兆】の人である。もと潁川郡綸氏県の尉・董君雅(君雅は字?)の次男として生まれた。
彼が生まれた時、父は既に初老と言ってよい年で、髪には白いものが多く混じっていた。董卓の記憶の中には穏やかな姿しかないが、若い頃は、相当な切れ者であったらしい。


礼教を重んじるとは言いながら、実際には家柄がものをいう時代である。さしたる名族ではない董氏に生まれた君雅の人生は、その殆どが、下級官吏としてのものであった。
官吏とは言っても、地位が低ければ、権限も低い。実際のところは、使いっ走りの様なものである。若き日の君雅は、そんな環境にあっても、くさらず、仕事に励んだ。若くして役所に出仕したから、きちんと学問をしたわけではない。しかし、六経(詩経、書経、易経、春秋、礼記、楽経)を極めたと称する高級官吏以上に、彼は職務に対して強い責任感を持って勤めていた。それは、誰に強いられたものでもない。
人は、何故、と思うかも知れない。儒学を修めていくら、という時代である。役所の仕事をいくら懸命に勤めたところで、名族の出でもない彼が出世などできるはずもないのに。
だが、彼は、希望を持っていた。身を修め、行いを正し、職分を守って勤めれば、認めてくれる人がいるのではないか、と。
数年勤め続け、ようやく実務にかかわる事ができる様になると、さらに仕事に励んだ。朝早くから夜遅くまで、一心不乱に職務に励む彼の姿は、傍目からすると、異常と思えるほどであった。結婚し、子供(董擢:董卓の兄)が生まれても、それは変わる事がなかった。

こう書くと、彼は仕事一途になるあまり、家族を軽んじた様に見える。だが、彼は、人一倍家庭を大事にする男でもあった。礼教にのっとって生きるなら、仕事と家族は、ともに大切なものである。どちらか片方を軽んじて良いというものではない。
その事務処理能力から考えると、彼の出世は遅かった。だが、彼は幸せだった。今の仕事はやりがいがあるし、周囲の信頼も厚い。家には、いとしい妻子がいて、夫婦仲も良い。子の擢は、頭も良く将来が楽しみである。だが…

彼が初老を迎えようとする頃、妻が亡くなった。何の前触れもない、突然の死であった。
埋葬が終わるまでは、それでも気丈に振る舞っていたが、埋葬が終わり、家に帰ると、急に涙が溢れ出てきた。全身から力が抜ける様な気がした。彼女の存在は、それほど大きかったのである。
「俺は、今まで何をやってきたんだ? 夫として、あいつに何をしてやれたのか?」
妻が生きている時は、それなりの事をしてきたつもりであった。浪費もせず、妾を囲う事もせず、妻一人をいたわってきた。しかし、いざ先立たれると、至らぬ事ばかりが思い起こされる。
できる事なら、このまま死んでしまいたい。そういう思いさえ頭をよぎる。しかし、幼い擢を残すわけにはいかない。自分でなければ処理できない仕事もある。死んでは、自らの責任を果たせない…

結局、彼は再婚した。新しい妻との間には、二人の子が生まれた。卓と旻である。
(こいつには、あいつの様な寂しい思いをさせたくない…)
前の妻が聞けば、「そんな事はありませんよ」と言うであろうが、彼は、前以上に、妻を、子供達をかわいがった。それが、彼にできる、せめてもの事であった。

4 名前:左平(仮名):2002/12/20(金) 00:14
三、

董卓は、自由奔放に育てられた。父にきつく叱られたという事は殆どない。その育てられ方は、兄の董擢とは対照的であった。董擢は、長男として厳しく育てられていたのである。普通なら、その事について、不平の一つも述べるところであろう。だが、そういう事はなかった。彼には、父の思いが分かっていたからである。厳しく育てられたとはいえ、彼もまた、父の愛情を強く感じていたのであった。
董擢の自制もあって、董家には穏やかな月日が流れた。それは、一家の顔を見れば分かる。特に、妻の満ち足りた顔は特筆すべきものであった。夫に愛されているという安らぎがそうさせるのであろう。
董擢が成人し、出仕するのを見届けると、君雅は引退した。惜しまれつつ引退したその姿は、実に清しいものであった。

それからしばらくして、君雅は病に倒れた。一進一退を繰り返しながらも病状は徐々に悪化し、君雅は、自らの寿命を自覚した。
(こんなものか)
人はどう思うかは分からない。だが、自分の一生には悔いるところはない。完璧とはいかぬまでも、なかなかの人生であった。そう思うと、ふっと口元が緩む。
「そろそろ、お迎えが来る様だな」
君雅は、枕頭に家族を呼んだ。家族の者が哀しげに見守る中、長男の董擢に話しかけた。
「擢よ」
その声は弱々しかったが、董擢には不思議なほどはっきりと聞こえた。父の遺言であるという意識がそうさせたのであろうか。
「後の事、よろしく頼むぞ」
「はい…」
「うむ」
その後も、何か話していた様である。だが、それが聞こえたのは、董擢一人であった。

それから間もなく、君雅は息を引き取った。
葬儀が終わると、家族は喪に服した。普段は快活な董卓も、この時期は寡黙であった。本来、堅苦しい事は大嫌いなのだが、喪については、苦にならなかった。彼にとって、父の死は大きな衝撃であった。
葬儀には、役所の元同僚や部下の人々が参列した。彼らは、口々に故人を称えた。父を敬愛する董卓にとっては、その賛辞は喜ばしいものではあったが、一方で、やり切れないものがあった。
(父上は、実に立派に生きられた。これほどの人の子として生まれ育った事は、我が誇りである。だが…。では何故、それほどの人物が県の尉という低い官職に留まったのか?)
董卓は、父の為に憤慨した。

「三年の喪」(二十五ヶ月説と二十七ヶ月説とがある)とは言うが、それを実践する事ができるのは、衣食に全く事欠かない、ごく一部の富裕層のみであった。庶民がそんな事をしていたら、たちまちにして飢えてしまう事であろう。董家も、例外ではない。規定上の服喪期間が終わると、董擢は、直ちに職務に復帰する事になる。

喪が明ける、前の日の夜の事である。董擢が、董卓に話しかけてきた。

5 名前:左平(仮名):2002/12/20(金) 00:15
四、

「卓よ。話がある」
「何でしょうか」
「私は、明日より再び出仕する」
「はい」
「そなたはどうするつもりだ?」
「私は出仕しておりませんから、もう少し父上の喪に服するつもりですが…」
「そうではない。喪が明けてからの事だ」
「喪の後ですか? いや、これといって…」
「そうか。まぁ、それはそれで良い。実はな、父上から、そなたに渡す様、頼まれたものがあるのだ」
「父上から? 私に?」
「そうだ」
「して、その物はどちらに?」
「この家の外にある。ついて来い」
「はい」

二人は、家の外に出た。空には、月と星が輝いている。吹く風にはまだいくらかの冷たさが残るものの、季節は着実に春に近付きつつある。
「これだ」
そういって董擢が見せたのは、一頭の馬であった。董家では、耕作用に何頭かの牛を飼ってはいるが、馬は飼っていないはずである。一体どうしたのであろう。
その馬は、大きさこそ普通であるが、見るからに精力に溢れている。去勢もしていない牡馬であり、どう見ても、農耕や雑用に使う代物ではない。
「兄上。この馬は…」
「驚いたか」
「驚くも何も…。一体どうなさったのですか?」
「どうもしないよ。父上が亡くなる前に、そなたに渡す様言い残しておられたんだ」
「本当に、私がこの馬を頂いてよろしいのですか?」
「もちろんだよ。今からこの馬は、そなたのものだ」
「私の…」
「父上が話しておられた。『卓は、わしやそなたとは違う。一つの県、一つの郡に留まる男ではなかろう』とな」
「まぁ、確かに、じっとしているのは苦手な性分ですが…」
「この馬に乗って旅立つのも良し、留まるのも良し。そなたの好きな様にすると良い」
「私の好きな様にして良いのですか?」
「そうだ。旅立ったからといって、帰ってくるなという事は言わんよ。帰りたくなれば、いつでも帰ってくれば良い」
「し、しかし。私ばかりが好き勝手にするというのは、兄上に申し訳ないですよ」
「いいんだよ。それで」
「しかし…」
「正直言って、私はそなたが羨ましかった。父上にも母上にもかわいがられてな。それにくらべ、私は…。そう思った事もある。しかしな。父上が亡くなられて、分かったよ。父上が、どれほど立派な方であったかが。冷静になって考えると、確かに、私とそなたとは違う。父上は、全く正しかったという事だ」
「…」
「一度、旅をしてみると良い。その後そなたがどう生きるか、それはそなたが決める事だ。父上や私が決める事ではない。この馬が、そなたの助けになれば良い。それだけだ」
「…」
董卓の眼に、涙が滲んでいた。父は、兄は、そこまで自分の事を考えていてくれたのか。良い家族を持った自分は、何と幸せであるか。

「さぁ、この馬に名前をつけてやれよ」
「そ、そうですね。そうだな…。赤兎、赤兎としましょう」
「赤兎?」
「えぇ。肌が赤いし、見るからに、よく走りそうですし。早く駆けるのを「脱兎の如く」って言ったりするでしょ?」
「そうだな。赤兎か。いい名だな」
「じゃ、決まりですね。 赤兎よ。私がそなたの主人だぞ。いいな」

これが、董卓と愛馬・赤兎との出会いであった。その数日後、董卓は旅立ったのである。

6 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:40
五、

董卓は、洛陽を出て、西に向かっていた。左手を向くと、はるか彼方には、急峻な山脈が広がっている。秦嶺山脈である。夏なので、さすがに冠雪は見えない。
「あれを越えるのはしんどいな…」
董卓は、北西に進路を取った。木々が少なくなり、徐々に風景が変わってゆくのが分かる。このまま進み続ければ、どこに着くのであろうか。
「まぁ、ゆっくり行くか…」
少し眠気を覚えた董卓は、軽くあくびをした。まだ旅は長い。一眠りするか。
「赤兎よ。ちょっと休むか」
そう言うと、すっとその背から降りた。赤兎も、疲れていたのだろう。主を背から降ろすと、すぐに伏せ、眼を閉じた。
野に寝転がると、雲が流れていくのが見える。同じ天であるのに、洛陽で見た天とは、どうしてこうも違って見えるのだろう。
(気のせいかな。ま、いいや。俺の頭じゃ、考えたって分かりゃしねぇしな)
董卓は、学問には全くと言っていいほど興味がない。そんな小難しい事に頭を悩ませるつもりなど、さらさらないのである。眼を閉じると、すぐに眠りに落ちた。

一刻ほども眠ったであろうか。空腹感を覚えて目が覚めた。
「いけねっ。今日の晩飯はどうしたもんかな」
そうは言うが、彼にとってはさほど深刻な事ではない。野の獣の一匹もいれば、空腹は満たせるのである。頭をぐるっと回すと、ふっと獲物の気配が感じられた。学問は苦手だが、こういう勘は鋭いのである。
「え−っと…。おっ、あの辺りか。赤兎、おとなしく待ってろよ」
そう言うと、弓矢を携え、静かに獲物に近付いていった。常に風下に立つ様、慎重に進む。少しでも風上に出てしまうと、においで気付かれてしまうからだ。幸い、向こうはこちらに気付いていない様だ。
弓矢を構えると、素早く矢を放った。董卓の膂力は並外れている。その弓から放たれた矢は、放物線を描かずに一直線に飛び、一撃で獲物を仕留めてみせた。
「よし。これで俺の晩飯は確保できた。あとは、赤兎の餌だな」
懐から小刀を取り出すと、今度はあたりの草を刈り始めた。季節は夏。草も勢い良く生えているので、赤兎が食べるだけの草は、容易に得られた。

火打石を用いて火をおこし、仕留めた獲物をさばく。肉と臓物を火で炙り、残った骨で羹をこしらえると、いいにおいがしてきた。たまらず、むしゃぶりつく。旨い。
「これで、酒があれば言う事ないんだが。ま、それはしょうがないか」
食べ終わった頃、日が暮れた。今日は、ここで野宿である。赤兎が食べ残した草を布団がわりにし、眠りについた。

そんな旅が、数ヶ月にわたって続いた。季節が秋になりつつあった、そんなある日の事。

7 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:42
六、

はるか彼方に、煙が立ち昇っているのが見えた。
(国境か? もうすぐ西域に入るのか?)
一瞬、そう思った。…だが、違う様だ。第一、煙が薄い。あの煙では、狼煙にはなりそうもない。
(と、なれば…。近くに、集落があるのか…)
獲物と草を確保しつつ進むので、どうしても町や村からは離れがちになる旅をしている。長らく人の姿を見ていないので、多少、人恋しくもある。恐らく異民族の集落であろうが…まぁ、何とかなるか。董卓は、まっすぐ煙の方向に向かった。

数件の家屋がある。中に入ったわけではないので詳細な造りまでは分からないが、漢人の住居とは異なるという事くらいは分かる。それにしても、やけに静かである。
(誰もいないって事はないだろうが…)
ゆっくりとあたりを見回していると、突然呼び止められた。
「きさま、何者だっ!」
多少の訛りはあるが、漢語である。
(えっ!? 漢人?)
多少の戸惑いを覚えながら、声のする方向を振り向いた。そこに立っているのは、武器を持った一人の青年であった。独特な髪型をしている。話に聞く、羌族だろうか。
「あんた、羌族の人間か?」
そう話しかけてみた。争うつもりはないが、向こうの態度によっては、戦わざるを得まい。
「そうだ。…漢人が何しに来たっ!」
「怪しい者ではない。俺の名は董卓。一介の旅人だ」
「旅人? 信じられんな。…だいたい、漢人にろくな奴はいねぇ」
「信用せんか…ならば」
そう言って弓矢に手をかけようとした、その時である。

「待たんかっ!」

武器を繰り出そうとした青年を、その声が制した。
「ぞっ、族長! どうして止められるのですかっ!」
「分からぬか。その男には戦うつもりがない」
「でっ、ですが…」
「そなたには、この男の力量が分からぬのか。この男が本気を出したなら、そなたは一撃で倒されておったのじゃぞ。…失礼を致した。わしは、この部族の族長である。いかなるご用かな?」
「いや、用という事はないのです。久しぶりに集落を見かけたので、一晩泊めていただこうかと思いまして…」
「ふむ…。だが、泊めるわけにはいかんな」
「何故ですか?」
「なんと。そなた、先年の戦いを知らぬのか?」
その数年前まで、羌族と漢軍とは激戦を繰り広げており、双方に多大な犠牲が生じていたのである。
「は? 戦い、ですか?」
「あの激戦を知らぬとはのぅ…。ならば、くどくどとは言うまい。我らは漢人を嫌っておる。早く立ち去られよ」
「漢人はどうか知りませんが、この董卓は信用していただけませんか?」
「どういう事じゃ?」
「ただで一晩泊めていただくのも気がひけます。どうでしょう。今夜は、私から皆さんに肉を振る舞いましょう。それでいかがですか?」
「肉を? 一体、どうしようと言うのじゃ?」
「私が、獲物を仕留めて来るという事です」
「そなた一人でか?」

8 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:45
七、

「えっ? このあたりには、獲物となる動物がいないのですか?」
「いや、そういう事はないが…。一人で、この集落の全員に振る舞うだけの肉を用意するというのか?」
「えぇ。獲物がいるのでしたら」
「信じられんな」
先の青年がつっかかってくる。
「漢人ごときに、そんな芸当ができるもんか。俺たちだってできねぇってのに」
「できるかどうか、やってみなけりゃ分からんだろ。ところで、この集落の人数はどのくらいですかな?」
「何? そんな事を聞いてどうしようと言うのじゃ?」
「なに、鹿の三頭も仕留めりゃいいかな、と…。それなら、矢五本もあれば十分ですよ」
董卓は、残りの矢を族長に投げ渡した。
「そなた、本気か?」
「えぇ。宴の用意をしていて下さいよ。久しぶりに、酒をいただきたい」
そう言うと、董卓は集落の外に駆け出した。

(獲物の群れさえ見つかりゃ、こっちのもんだ)
長い旅の間、董卓は、しばしば矢で獲物を仕留めていた。群れさえ見つかれば、三頭程度はすぐにでも獲らえられるという自信がある。
(風下に出ないとな…)
このあたりの地形・気候は、まだよく分かっていない。しかし、少しずつではあるが、獲物の気配というものが感じ取れる様に思える。必ず、この近くを獲物が通るはずである。
(このあたりで、しばらく待つか)
いつもとは違い、期限がある。だが、不思議と焦りはなかった。
(きたっ!)

鹿の群れである。数十頭はいそうだ。これなら、三頭くらいは獲られそうだ。草の陰から、狙いを定め、矢を放った。
(よしっ! まずは一頭仕留めたっ)
矢は、鹿の背に当たった。矢は背骨を砕き、一撃で致命傷を与えた。
(あと二頭。…一頭やられたんで、鹿どもが騒ぎ出したな。急がんと)
続けざまに、二の矢を放った。今度は、鹿の首を貫いた。これも、一撃であった。
(もう一頭。まずい。鹿が走り出した。二頭では足りん)
「赤兎っ! 行くぞっ!」
ぐずぐずしてはおられぬ。追いかけねば。董卓が飛び乗るや、赤兎は逃げようとする鹿の群れに向かって一直線に駆け出した。
(さすがに、騎射ではうまくいかんな…)
最初の二矢で二頭仕留めたというのに、次の二本はいずれもはずれてしまった。残り一本。
(当たってくれよ)
そう祈って最後の矢を放った。が、無情にも、矢は鹿の背をかすめただけであった。
(だめか…)
その、次の瞬間である。

(わっ、な、何だ)
かすかに背を揺らしたかと思うと、赤兎がいなないた。普段は滅多に声をあげない赤兎が。と、思うと、みるみる速度を上げていく。たちまちにして、鹿の群れに追いついた。のみならず、追い抜くほどの勢いである。
(すっ、すげぇな、赤兎。 …おっと、感心してる場合じゃねぇぞ。矢がない以上は!)
董卓は赤兎から飛び降りると、鹿の前に立った。鹿が角を向けて突進してくる。それをさっとよけ、角をつかむと、すかさず首を締め上げた。全身の血管が浮き出るほど、ぎりぎりと締め上げると、鹿はぐったりとし、動かなくなった。首の骨を折ったのである。
(ふぅ。これで、三頭仕留めたぞ)
あとは、集落に運ぶだけである。

9 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:46
八、

「いかがですか。これだけあれば、皆さんに肉を振る舞えるかと思いますが」
そう言って、仕留めた獲物を差し出すと、周囲から喚声が起こった。まさか、漢人の青年が、たった一人でこれだけの獲物を仕留めて見せるとは。しかも、たった五本の矢で。
「董卓殿。見事ですな」
族長も、ただただ驚くばかりであった。

その夜。集落では大宴会が催された。今宵の主役は、もちろん董卓である。
(漢人は嫌いだが、この男は気に入った。正直で約束を守るし、何より、強い)
さっきは露骨なまでに敵意を示していた青年も、今は敬意を持って董卓を見つめている。

「さぁさぁ、飲まれよ。今宵は、そなたが主賓じゃ」
「これはこれは。かたじけない」
「しかし、見事な腕前よの。三頭の鹿を、わずか五本の矢で仕留めるとは」
「いやいや。二頭は、草陰から矢を放った仕留めたもの。騎射では、三回放って一本も当たりませなんだ」
「では、この一頭は?」
「それは、首を締め上げたのです」
「首を!? いやはや、なんという膂力じゃ。皆、聞いたか」
「うむ。このお方こそ、まことの勇者よ!」
「全くじゃ!」
皆、ますます董卓の事が気に入った様である。彼も、この集落が気に入った。素朴な羌族のあり様が、彼の性分に合うのである。

「ところで、どうしてこの集落の方々は漢語が分かるのですか?」
「ん? 別に大した事ではない。我らは、久しく漢人に混じって生活しておったからな。少しは漢語も分かるんじゃよ」
「そうですか」
それでその話は終わった。彼には、それが何を意味するのかまでは、さっぱり分からなかった。

ふと気付くと、彼をじっと見つめる少女がいる。
「族長。あの娘さんは?」
「ん? あぁ、あれか。わしの末娘の、瑠(りゅう)じゃよ」
「末娘、ですか…」
なかなかかわいい顔立ちをしているが、ようやく十代なかばといったところか。女は好きだが、彼女はまだ幼い。…待てよ。彼女が末娘という事は、姉がいるのか。彼女の姉なら、さぞかし美しいであろう。
女の事を考えると、久しぶりに、自分のものが起ちあがってくる。
「族長。あの娘さんの姉さんはどうなさったので?」
「姉か。あれは…死んだよ」
「死んだ…。そうでしたか。悪い事を聞いてしまいましたね」
「いや、いいんじゃよ」
そう言った族長は、目を細め、はるか彼方を見つめた。
(瑠のやつ、この男に惚れよったかの。まぁ、この男が瑠の事をどう思うかじゃが…。死んだ琳(りん)といい、瑠といい、やはり、血は争えぬのか…)

彼には、琳という娘がいた。大層美しい上に気立ても良く、自慢の娘だった。羌族の娘として生まれた彼女は、当然ながら漢人を敵視して育ったのだが…。どうした事か、その漢人の男に恋したのである。
男は、牛氏の人間だった。牛氏とは、後漢の初代護羌校尉・牛邯の一族であり、当然、羌族とは最も強い敵対関係にあった。よりによって、そんな相手を愛したのである。
当然、周囲は猛烈に反対した。しかし、禁断の恋であるからこそ、その恋はより激しいものとなった。二人は遂に結ばれてしまったのである。
…そして、二人の間には男の子が生まれた。琳は、その子を産むとすぐに死んでしまった。男の子は、相手の男が引き取っていった。その後の事は、分からない…

族長が、一人物思いに耽る中、宴は盛り上がり、そして、終わった。

10 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:47
九、

朝がきた。朝日がまぶしい。ちと飲みすぎたか。少し頭が痛い。

羌族の生業は、主に遊牧である。夜の間、狼などに襲われない様一箇所に集められていた羊が、一斉に放たれ、思い思いに草を食んでいる。
広い緑の草原に、白い毛に覆われた羊たちが点々と散らばっているその姿は、天をそのまま地上に移した様にも見える。
羊が逃げたりしない様、見守っているのが、男達の主なつとめである。実際にやってみると相当大変な仕事なのだろうが、傍目には、えらくゆったりとして見える。少なくとも、期限に追い立てられるという事はない。空虚な礼教に縛られる事もない。
(羌族って、こんなにゆったりと暮らしているのか…)
董卓の脳裏に、亡き父・君雅の姿が浮かんだ。父は、いつも忙しそうにしていた。人々の為に、誰よりも懸命に仕事に励んでいた父。しかし、それは報いられたであろうか。
そう思うと、自分が生きている漢王朝が、えらくちっほけなものに感じられる。

(あの時、洛陽で見た天は…俺には狭く感じられた。洛陽で見た天も、ここで見る天も、同じ天であるはずなのに…)


董卓は、旅を続けた。各地で、羌族の族長と親交を深めた彼は、羌族の哀しい歴史(彼らは史書を編むという事はしなかったので、それらの話は、殆どが神話や伝説の形であったと考えられる)を知る事となる。
(俺は、一体何をすればいいんだ?)
そういう迷いを得た彼は、一年余りの旅の後、故郷の隴西郡、臨トウ【シ+兆】に帰ってきた。

「兄上。ただいま戻りました」
「おぉ、卓。久しぶりだな。 旅は、どうだった?」
「はぁ。何とも言えないです。まだ、自分の進むべき道がはっきりとしない様なのです」
「そうか…。ま、考えてればいつか分かるさ。それまで、田でも耕すか」
「はい。そうします」 
「たいしたものではないが…うちには幾許かの田と牛がある。私は母上や旻の世話をせねばならぬから、その全部をやるというわけにはいかんが、少し分けてやろう」
「よろしいのですか?」
「あぁ。 そなたの好きな様にしていいぞ」
「あっ、ありがとうございます!」

董卓は、兄から与えられた田を耕した。ひたすら仕事に励む事で、何かが得られそうな気がした。
この当時、田を耕すのに牛を用いるという事が始められていた様である。しかし、彼は余り牛を使わなかった。自分で田を耕し、とにかく、くたくたに疲れたかったのである。

そんな頃、彼を訪ねてくる者があった。

11 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:50
十、

「久しぶりですな、董卓殿。いや、漢の流儀で言えば、仲穎殿か」
「おぉ、あなたは! あの時の族長殿ではありませんか!」
「はは…。 まぁ、お元気で何よりじゃ。いかがお過ごしかな?」
「まぁ、おかげさまで。兄に田と牛を分けてもらいまして、何とか暮らしております」
「何と。そなたほどの勇者が、その程度の暮らしに甘んじておられるのか」
「いやいや、武勇といっても、ここでは何の役にも立たんのですよ。第一、狩りをしようにも、獲物もおりませんし」
「それはまた、物足りんのぅ…」
「そうだ、せっかくお越しいただいたのです。何かご馳走いたしましょう」
「いやいや、たまたま近くを通ったので寄ったまでの事。お気遣いは無用ですぞ」
「いえ、それではこちらの気がすみませぬ」
そう言うと、董卓は家屋に隣接する小屋に足を運んだ。

「兄上」
「ん? どうした?」
「実は、以前世話になった方がお見えなんです」
「うん」
「ご馳走しようと思うのだが、あいにく、何もないのです」
「で、どうしようってんだ?」
「こないだいただきました牛、あれを料理しようかと思いまして」
「牛を!? あの牛を食っちまったら、明日からどうやって田を耕すんだ?」
「それは、何とでもします」
「まぁ、そなたがいいと言うのなら構わんが…。うちにいる牛は少ないからな。もう分けてやるわけにもいかんぞ」
「構いません」

董卓は、自らの牛を殺し、それを調理して族長達をもてなした。

「さぁさぁ。粗末なものですが、紛れもなく牛の肉です。どうぞ、お召し上がり下され」
「よろしいのですかな? この牛は、そなたの田を耕すのに必要なものではないのですか?」
「いいんですよ。田を耕すのは、何とでもなります。幸い、体力は十分にありますしね」
「そうですか。では、いただきますぞ」
「どうぞどうぞ。少しですが、酒も支度いたしましたぞ」
「おぉ、酒まで。いや、これはこれは」

ささやかな宴が催された。それは、臨トウ【シ+兆】の人にとっては、珍しい光景であった。漢人と羌族とが、和やかに談笑しているのだから。
たらふく飲んで食べて、羌族の人々は帰っていった。彼らは、口々に董卓を賞賛した。なにしろ、自らの大事な財産を割いてもてなしてくれたのだから。
(漢人にあれほどの好意を受けるのは初めてじゃ。何とかして、それに報いてやりたいのぅ…)

12 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:50
十一、

「瑠よ。帰ったぞ」
族長は、帰って来るや、末娘の名を呼んだ。
「お帰りなさいませ、父さま」
「うむ。ところで、そなた、以前この集落にやって来た漢人の事を覚えておるか?」
「はい。董卓さまでございますね」
そう答える瑠の口調には、明るさがある。好意を抱いているのは間違いあるまい。
「そうだ。実はな。わしはあの男のところに行って来たのじゃ」
「えっ!? いかがなさったのですか?」
「いや、大した事ではない。近くを通ったので寄ったまでの事じゃ。…実はな、その時に、大層なもてなしを受けたのじゃよ」
「大層なもてなし?」
「うむ。あの男、大変な勇者じゃが、漢人の中では、貧しいらしい。一頭の牛しか飼っておらなかったのじゃよ。我らが来た時、あの男は、そのたった一頭の牛を調理して、もてなしてくれた。先には、三頭の鹿を振る舞ってくれた上に、このもてなし様。これほどの好意に、何とかして報いてやりたいのじゃ」
「はい」
「そこでじゃ。まず、ありったけの牛や馬、羊を集めてもらいたいのじゃ」
「それらを、董卓さまに贈られるのですね?」
「そうだ。そして、そなたに、それを届ける役目をつとめてもらいたい」
「えっ!? この私がですか? 兄さま達ではいけないのですか?」
「分からぬか。我らにとって、最も清らかなのは何かな?それに、董卓殿は、まだ独り身だぞ」
「あっ!…」
父の言わんとする事を悟った瑠は、思わず頬を赤くした。それは、つまり…。


「董卓さま−っ!」
ある朝の事である。外で、自分の名を呼ぶ声がする。
(朝早くから、一体誰だ?)
まだ眠い。体が重い。のろのろと寝床から這い出すと、眠い目をこすりながら外に出た。
「なっ! なっ…」

さすがの董卓も、これには驚いた。なにしろ、目の前には、数え切れないほどの牛馬・羊がいるのである。
「何だ!? 何事だ!?」
「うふふ。驚かれました? 董卓さま」
馬の上に、女が乗っている。どこか、見覚えがある様な…。
「えっ!? 誰だ?」
「え−っ、もぅ忘れちゃったんですかぁ−っ? 私です。あの時の。ほら、族長の末娘の」
「あぁ!思い出した。瑠殿か。見違えましたな」
事実、彼女の姿は、以前よりもずっと大人びていた。もう、りっぱな女の体である。
「これら全て、父からの贈り物です。二度も肉を振る舞っていただいた、そのお礼です」
「二度も、って、あわせてもたった四頭だったんだが…。これって、随分大げさじゃないのか? 一体、何頭連れて来たってんだ?」
「え−っとですね。確か、千頭くらいかな」
「せっ、千頭! そんなにゃいらねぇよ。第一、飼う場所がない」
「あら。これ全部、董卓さまにさしあげるんですよ。董卓さまのものなんですから、どう処分なさっても構いません。ご迷惑をおかけする事はないはずです」
「そ、そうか…。では、ありがたく頂戴いたす」
「はい。どうぞ」
「瑠殿。帰りは、どうなさるのですかな」
「帰り? いやですわ、董卓さま」
「えっ?」
「これら全部、って言いましたでしょ?」
「これらって、牛馬・羊じゃ…他に何か…?」
「もう一つ、あるでしょ?ほら、董卓さまの目の前にいる」
「ま、まさか…」
「えぇ。私もです」

13 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:52
十二、

「そんな、いきなり言われてもなぁ…。婚儀もせにゃならんし…」
豪放な董卓も、この申し出には驚いた。それにしても、羌族の女の大胆なことよ。漢人であれば、こうはいかないであろう。まぁ、悪い気はしないが。
そんな事を考えていると、いつの間にか馬から下りた瑠が、彼の体にしがみついてきた。彼女の胸が当たってくる。ますます驚いた董卓は、動けなくなった。
「あら、鹿を素手で締め上げた勇者さまが、女の私に締め上げられてるなんて」
瑠は、そう言って面白そうに微笑む。その笑顔がまぶしく感じられた。笑顔、体、そして匂い。彼女の全てが、刺激的であった。たまらず欲情をもよおした董卓が、ぐっと彼女の体を抱いた。巨躯の彼からすれば小柄ではあるが、案外豊満な体である。
「きゃっ!?」
「驚いたか?」
「驚きますよ−っ。いきなりなんですもの」
「そっちもいきなりだったろうが。おあいこだよ」
「も−っ。董卓さまったら」
そう言って不機嫌そうにするさまも、また好ましく見える。

「おい、卓。朝から騒がしいが、どうしたんだ?」
おくれて家から出てきた兄が聞いてきた。
「あっ、兄上。実は…」
「うん…んっ!? なっ、何だ、あの牛馬は? 一体、どうしたんだ?」
「じ、実はですね…。以前、私が牛を客人に振る舞った事、覚えておられますか?」
「あぁ。なんせ、たった一頭の牛だったからな。忘れ様もないよ」
「実は、あの客人は羌族の族長でして…。あの時のお礼だって言うんですよ…」
「そうだったのか。それなら、ありがたくいただけばいいじゃないか」
「えぇ…まぁ…」
「おっ、そういえば、この娘さんは?」
「あぁ、彼女ですか。彼女が、この牛馬を持ってきたってんですよ。で…」
「始めまして、義兄上さま。わたし、このたび董卓さまの妻になりました、瑠と申します」
「つ、妻!? 卓、いつの間に?」
「いや、何と言うか…。いきなりこういう事になりまして…」
「そ、そうか。まぁ、いいじゃないか。卓。大事にしてやれよ」
「えぇ」
「他の事については、何も言わぬ。だが、妻を粗略に扱ったりするなよ。それだけは、父上も私も、許さんからな」
「はい」
「ところで、この牛馬を何とかせんとな…」

牛馬を収容する小屋を建てたり、人に貸したりして、ようやく片付いたのだが、大変な作業となった。その間は、さすがの董卓も、新妻に手を触れるどころではなかった。
ひととおり片付いた後、新婚夫婦は、数日にわたって家にこもりっきりだった。若い二人が家の中で何をしていたかは、言うまでもあるまい。


かくして、董卓の名は、隴西郡では知らぬ者がないというほど、有名になった。大量の牛馬によって董家も豊かになり、名門と呼ばれる一族ともつながりを持つ様になったのである。
桓帝の末年、選ばれて羽林郎となった董卓は、数多くの戦いに従軍し、活躍した。史書には、百戦以上にも及んだ、と書かれているから、毎年数回は戦っていた事になる。

14 名前:左平(仮名):2002/12/22(日) 00:59
十三、

光和七(西暦184)年。太平道が蜂起した。世にいう、黄巾の乱である。董卓も、その征討軍の一員として、前線に赴いていた。
既に五十に届こうかという年である。さすがに、自ら武器をとって戦うという事は少なくなっていた。とはいえ、ひとたび武器を手にとれば、そんじょそこらの兵どもには負けはしない。素手で鹿を締めた膂力は、なお健在であった。

眼前に、黄巾の賊の姿が見える。頭に黄色の布を巻いた群衆の姿は、あたかも黄河の奔流を思わせた。
(宮中にいる宦官やら官僚どもであれば、この光景を目の前にしただけでも震え上がるであろうな。いや、気絶してしまうかな?)
歴戦の猛将である董卓には、大敵を前にしてもなお、そんな事を考える余裕がある。
(あやつら、乱を起こすにあたって「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし」などとぬかしておったらしいな…。蒼天とは漢を、黄天とは太平道を指すのだろうが…。漢が、もう長くはないというのはいえるだろう。だが、黄巾の賊がそれにとって代わるほどのものか? 笑わせるな! 安易に妖しげな教えにすがる様な惰弱な輩のつくる政権が、まともなわけがないわ!)
漢の圧政に対して蜂起したという点においては、彼ら黄巾の賊と羌族とは似ている。人は、そう見るかも知れない。だが、董卓には、そうは思えなかった。

彼は、いつしか、煩瑣な礼教というものを敵視する様になっていた。彼にとって、素朴で精悍な羌族は、たとえ敵になったとしても、敬意をもってみる事ができた。しかし、眼前にいる、あの様な漢人には、敬意を払えそうにない。


董卓は、ふと頭を上げた。頭を上げたその先には、曇って白く見える天があった。

(白…。そういえば、白には「西方の色」「金」とかいう意味があるらしいな。そうだ、あっちは、西だ。…待てよ、やつらの説にのっとれば、青の次が黄だが…五行にのっとれば、その次は、白じゃねぇか! ふふ…そうか、そうなるのか…)

剣を抜き、それを天に向かってかざす。いよいよ、攻撃命令か。兵士達に、緊張が走る。
雲が切れ、切れ間から、陽光が差し込んでくる。光が剣先にあたり、輝きを四方に放った。戦場には似つかわしくない様な、汚れのない輝きであった。

「おぉ! 我らの前途を、天が祝福してくださっておるわ!」
兵士達が、喚声をあげる。士気は、十分だ。
(蒼天も、黄天も、このわしがすぐに終わらせてやるわ! 次は、白き天…。新たな世は、このわしが切り開いてくれようぞ!)
董卓は、心の中でそう叫んでいた。
「者ども! 突撃じゃ−っ!!」
「お−っ!!」

その叫びとともに、全軍が突撃していった。彼、董卓の戦いは、まだこれからである。


白き天  完

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