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■ 「司州」という表記について

1 名前:ばんる:2004/01/15(木) 01:25
初めまして。最近このサイトに入り浸らせていただいている者です。
まだ全部は読み終わっていないけど、「南蛮王呂布」も「学園三国志」も
面白いですね!続き楽しみにしています!

…でも感想はちょっと置いといて。

知識豊富な皆様にちょっとお尋ねしたいことあるので、思い切って書き込みをしてみました。

最近あちこちで「司州」という標記を目にするのですが、これって「司隷」が正しくないですか?

正史『三国志』には郡国志、地理志の類がありませんが、『後漢書』の郡国志には、「司隷」として載っています。
でも正史『三国志』に付いている地図に「司州」って書いてあるんですよね。
これの元ネタになってる『中国歴史地図集』では、第二冊「秦・西漢・東漢時期」で「司隷」、第三冊「三国・西晋時期」で「司州」という表記になっています。
最初は地図作った人が間違えたのかな、と軽く思ってたのですが、なんだかほんとにどこでも「司州」になってるので、もしかして都が東に遷った時に改称でもされてたか!?とかいろいろ考えてみたり…。

でも「司隷」とは「隷を司る」地域であって、税収入が皇帝の私費に当てられる、つまり私有地みたいなものだと記憶しています。(実質州と変わらないわけなんですが。郡と国の関係のような感じで。)
その頭の文字だけ取って州の名前にするのは、なんだかヘンじゃないでしょうか?

いちおうログはチェックさせていただきましたが、この話題はなかったようなので、スレッド立てさせていただきました。
よろしくご教授願います。(他力本願ですいません!!)

2 名前:★ぐっこ:2004/01/15(木) 23:03
はじめまして、ばんる様! 書き込みありがとうございます〜。

さて、お尋ねの件「司州」ですが、ぶっちゃけていうと、ほとんどばんる様が
答えを出してしまっているような…
私も学三がらみでちょろっと司隷校尉部のあたりの地理志読んだだけなので、
上っ面部分しかわからないのですが…

例によって中央研究院で検索してみますと、
それらしい記述のほとんどは、晋書に集中しています。
幸い晋書には志があるのでその地理志「司州」を見てみますと、

司州.案禹貢豫州之地.及漢武帝,初置司隸校尉,所部三輔、三河諸郡.
其界西得雍州之京兆、馮翊、扶風三郡,北得冀州之河東、河內二郡,東得豫州之弘農、
河南二郡,郡凡七.位望隆于牧伯,銀印青綬.
及光武都洛陽,司隸所部與前漢不異.
魏氏受禪,即都漢宮,司隸所部河南、河東、河内、弘農并冀州之平陽,合五郡,置司州.
晉仍居魏都,乃以三輔還屬雍州,分河南立滎陽,分雍州之京兆立上洛,廢東郡立頓丘,
遂定名司州,以司隸校尉統之.州統郡一十二,縣一百,戶四十七萬五千七百.

もう一カ所、

晉武帝太康元年,既平孫氏,凡£u郡國二十有三,滎陽、上洛、頓丘、臨淮、東莞、
襄城、汝陰、長廣、廣戟A昌黎、新野、隨郡、陰平、義陽、毗陵、宣城、南康、晉安、
寧浦、始平、略陽、樂平、南平.省司隸置司州

とまあ、はっきりと「地名を変えた」というカンジですねえ。
ただし、司隷校尉部を「司州」と呼ぶのは結構前からあったはずで、豫州刺史を
「豫州さま」と呼ぶように、司隷校尉を「司州さま」と呼び慣わしている記述を、
どこかで見た気がします。…ちくま和訳だったかもしれませんが。

ついでに後漢書安帝紀には

司隸,領河南、河内、河東、弘農,都於洛陽.魏末因為司州.

とありますので、名称変更のタイミングは微妙ですが…

問題は、なぜそういう名前に変えてしまったか、ですねえ(^_^;)
司隷校尉という官位は厳然として残ってますが、晋以降は司州刺史
なる役職もありますし、そのへんの詳細な経緯については、諸賢の
援護射撃を期待するや切であります、と。

3 名前:★玉川雄一:2004/01/15(木) 23:19
はじめまして。なかなか興味深い話題提起をありがとうございます。

手持ちの晋書地理誌をひもときますと、「司州」と記されています。

●西漢武帝が初めて司隷校尉を置き、京兆、馮翊、扶風、河東、河内、弘農、河南の七郡を属せしむ。
ただし、この時点ではその地域名(「司隷」なり「司州」)は特定していない。

●光武帝が洛陽に都を置いたが、“司隷部所前漢不異”。「司隷の部する所は前漢と異ならず」?

●魏が受禅すると、“司隷部所”河南、河東、河内、弘農、平陽の五郡で“置司州”。「司州」の言葉が登場。

●さらに晋が魏都を継承した際に郡の再編を行い、“遂定名司州”やはり司州…

晋書では一貫して「司州」という表記がなされています。
これが「司隷」という表記と敢えて区別されているのかまではわかりませんし、
上の記事でも漢代にこの地域が「州の単位として」どのように呼ばれていたかはやはり不明ですね。

4 名前:★玉川雄一:2004/01/15(木) 23:22
オフラインで見事に被った……_| ̄|●

5 名前:★玉川雄一:2004/01/15(木) 23:25
あ、私の書き込みちょこっと引用間違えてます。
誤:●魏が受禅すると、“司隷部所”河南〜
正:●魏が受禅すると、“司隷所部”河南〜
要するにぐっこさんの記事の方が確実ですによって。

6 名前:ばんる:2004/01/16(金) 01:01
早速のお返事ありがとうございました!

や、やっぱり晋書か…。実は、むかーし中国で買って、船便で日本に送ったら、事故って行方不明になってしまって…。(汗)
って言い訳がましいですねぇ…。ちゃんと発注しておくことにしますです。

「司隷」が「司州」になってしまうのって、「京都」が「京都府」になるようなもんなんでしょうか?
魏になって変わったというのが真相で間違いないようですが(受禅直後がか末だかは分かりませんが)、都は洛陽のままなハズ。
都が移動するにつれて、「司隷」となる地区が変わり、その結果以前の「司隷」は名称が変わって普通の州になる、とかだと、とっても納得がいくんですが、そうすっきり理屈が通っているものでもないんでしょうね。
私も三国時代ネタで創作をやったりするので(笑)その時代の人たちが普通に「司州」と呼んでいたのか、それとも「司隷」と呼んでいたのか、とぉっても気になります。
「司州さま」という表記はちくま正史のどこにあったのかな?ちょっと探してみることにしますね。

7 名前:★ぐっこ:2004/01/17(土) 01:50
うーん、>>2の地理志部分を読む限りは、「司隷」を廃してしまって
「司州」を置いたということで、次に司隷がドコへ行ったかが記されて無く…
もう地名としての「司隷」は無くなってしまった…という感があります。
それでも司隷校尉の統治州は残ってるからシュールな(^_^;)

三国志内の記述では、「司州之人士也」という紹介がチラホラあるようなので、
やはり日常レベルでは他の州と合わせる意味で「司州」が慣習化されてたかも
しれない…と自信なく言ってみます。

>司州さま
お手数おかけします〜。
学三で李膺さまをそう呼ぼうと決断したのが、その記述だったもので(^_^;)
だから李膺に関する記述かなあ、と思って後漢書検索してもヒットしなかったです。
ひょっとしたら世説のほうかも…。

>創作
わかります! どうしても当時の慣習とか、地名・人名の呼び方とかをこだわりたく
なるというのが!色々文献あさったりしましたねえ(^_^;)
最近になって応劭の「風俗通義」を知ったという間抜けっぷりでしたが…

8 名前:japan:2004/01/17(土) 03:05
ばんる様、初めまして。
既にぐっこ様と玉川様のレスで解決済みの模様ですが、
『後漢書集解』郡国志の冒頭に「司州」と「司隷」についての
解説が載っていました。

私の読解力では詳細は不明なのですが(申し訳ありません)、
後漢〜晋にかけて何度か改変が行われているようです。
・『献帝起居注』によると、建安十八年三月に司隷に属する郡を
 豫・冀・雍の三州に分割した。(司隷は廃止された?)
・魏の黄初元年に司州が再び設置され、後に司隷という名に戻された(?)
・司州が復活したのは曹奐の時代だという説もあるが、これは間違い。
(孫権が蜀と司州分割についての協定を結んでいるため)


で、結論らしき箇所は以下のとおりです。

考司州之名魏時屡見證之晋志通鑑可見魏時司隷但通稱司州
至晋太康始定名耳

魏代の正式名称は「司隷」で、通称として「司州」という名も用いられていた。
晋の太康元年に「司州」という名称が正式なものになった。
ということではないかと思います。
なお、ざっと見た限りでは『後漢書』の記述は「司隷」で統一されているようです。


何故「司隷」→「司州」と名前が変わったかは不明ですが、ばんる様の仰るように

>都が移動するにつれて、「司隷」となる地区が変わり、
>その結果以前の「司隷」は名称が変わって普通の州になる

のだとすれば、建安十八年に司隷が廃止された理由も納得できますね。
(当時の漢の都は、帝のいる許ということになっていたでしょうから)


>司州さま

馬超と鍾ヨウの辺りで見たような…と思って捜したけれど、見つかりませんでした。
何となくどこかで見た気はするのですが…発見されたら是非お教え下さいm(_ _)m

9 名前:中根東竜:2004/01/17(土) 22:53
japanさんのカキコをみて、
思いついて資治通鑑を見たのですが、建安十八年には州の
大改正が行われたようで、司隷だけではなく
涼州・幽州・并州の三州も廃止になって居ます。
胡三省は「則ち司、涼、幽、并を省き而して禹貢の九州を
復す矣。此れ曹操が自領は冀州牧なれば、
其の統べる所を広げんと欲して以て天下に制するのみ。」
と、この改正は曹操の領地を広げるためのものだと
言い切って居ますね。この改正により冀州は司州の河東・河内・
馮翊・扶風と幽州并州を合併、華北ほぼ全域を
占めて居ます。

10 名前:中根東竜:2004/01/17(土) 23:22
追記です。
建安十八年の州改正は、どうやら曹操の魏公就任と
連動しており、洛陽の後漢王室の権威を意図的に
低下させる目的なのではないか?と思われます。
魏書武帝紀によればこの年は曹操の魏の地盤固めを
着々と薦めた年であり、正月に州改正、四月魏公冀州牧
就任、七月魏公の社稷を建立、十一月腹心の荀攸・王粲
らを尚書六卿に任じ魏公国の行政組織が出来る…という
具合に、「漢にかわるものとして魏という国を作る」という
ことを一生懸命薦めています(その障害になったジュンイクは
前年に謎の死を遂げ、後任に荀攸が座っている)。

その過程において、「司隷」は漢王室の所在を示す名称なので
魏建国の邪魔だということから、
故実に詳しい王粲あたりが「古代の夏王朝が定めた禹貢九州を
復活させるという名目で、司隷を消滅させる」という策を
言い出したのではないかと考えられます。(王粲はその直後に
官位を貰っており、どうもクサイ)

…やや飛躍しすぎかとは思いますが、どうも前後の状況を
考えるとこんな感じのような気がしないでもありません。

11 名前:ばんる:2004/01/17(土) 23:40
ぐっこさま、玉川さま、japanさま、中根さま、ありがとうございます!とっても助かりました!

『後漢書』の本紀、建安十八年正月に「禹貢の九州を復す」って記述が確かにあります。
この時に名称が変わったと見て間違いなさそうです。
同じ年の5月に曹操が魏公になっていますね。キリがいいってことだったんでしょうか。

「司州さま」を探し出すのには、もうちょっと時間がかかりそうです。

ぐっこさま、私「風俗通義」って知りません。どんな本ですか?
『晋書』も『後漢書集解』も『三国志集解』も『資治通鑑』も持ってないし。
そこそこマニアなつもりでいたけど、まだまだですねぇ…。

ああそうだ、リンクフリーということなので、近々私のサイトから、ここにリンクさせていただきます。
集客努力をしてないサイトゆえ、私のブックマーク程度の意味しかありませんが、いちおうご報告まで。

12 名前:ばんる:2004/01/17(土) 23:50
あ、かぶってしまいました…。

王粲の話、なんか荀イクの死をめぐったドラマ作れそうですね。(笑)
まあ実際のところ、「司隷」はもう、献帝即位ぐらいからその役目を果たしてなかったろうと思うので、ある種の合理化なのかもしれませんが。
その後「司隷」という言葉はもう、歴史から消えてしまうのでしょうか?

13 名前:japan:2004/01/18(日) 19:17
>中根様
>建安十八年の州改正は、どうやら曹操の魏公就任と
>連動しており、洛陽の後漢王室の権威を意図的に
>低下させる目的なのではないか?

確かに…!
そう言えば曹操の娘三人が献帝に輿入れしたのもこの年でした。
・「魏国公」「九錫授与」「帝の外戚」として漢朝における曹操の権威を高め
・司隷の廃止、荀揩フ死、伏皇后の殺害(翌年)等で漢室の力を削ぎ
・魏国の法制を固めることで禅譲への布石とする
こうした一連の動きが建安十七年〜二十年辺りに集中している訳ですね。

凄い…何というか、ドラマチックですね。
この辺の流れをみっしり書けば面白そうなんですが、小説や漫画でも
各エピソードが細切れになっていて、今ひとつ全容がつかめないような…。

14 名前:japan:2004/01/18(日) 19:46
>ばんる様

>ぐっこさま、私「風俗通義」って知りません。どんな本ですか?
>『晋書』も『後漢書集解』も『三国志集解』も『資治通鑑』も持ってないし。

このスレに色々載っていますよ。
【自薦】オススメの学術三国志書籍・サイトを教えてください【他薦】
http://gukko123.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/12ch/read.cgi?bbs=sangoku&key=1058577112&ls=50 target=_blank>http://gukko123.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/12ch/read.cgi?bbs=sangoku&key=1058577112&ls=50
ただ、資治通鑑の全文検索がある「寒泉」は最近繋がらないみたいです(´・ω・`)

>その後「司隷」という言葉はもう、歴史から消えてしまうのでしょうか?

晋代に「司州」に名前が変わっても「司隷校尉」という官職は残っていたようです。
「中国古代職官大辞典」という本の司隷校尉の項には、
「三国魏と西晋では司州長官(河南・河東・河内・弘農・平陽の五郡を治める)
として設置されていた。東晋では省かれていたが、北魏の初めにまた設置した」
と書いてありました。
少なくとも南北朝の頃までは、司隷校尉という官職が存在したようです。


ところで、建安十六年に曹操が漢中の馬超・韓遂らを討伐した際、
守司隷校尉の鍾ヨウを上奏して前軍師としていますが、後任の司隷校尉は
存在しなかったのでしょうか?(建安十八年の司隷廃止まで空席?)

鍾ヨウは司隷校尉として長安方面の軍事・政治を一手に引き受けていましたが、
その後を継いで漢中守護の任に就いた夏侯淵の官職は征西将軍。
・長安方面の軍事を司る=征西将軍
・  〃  政治 〃 =雍州刺史
という分掌が生まれたのは、この時だったのでしょうか。

15 名前:★ぐっこ:2004/01/20(火) 00:54
ううむ、留守の間にスレが育っている…
japanさま、中根東竜さま、そしてばんる様、追加情報ありがとうございました〜!
うんうん、だいぶハッキリして参りましたが…それにしても建安一八年とはすごい
年だったんですね…。
このテの州の改変って、やはり他の諸国も従うものなんだろうか…? 一応劉備も
孫権も漢王室の臣下なわけですから、皇帝の名で決められた事には、ある程度従う
必要があるでしょうし。
…にしても、新冀州でかっ!曹操の露骨な野心、周囲の思惑…確かにドラマになりそうです!

>リンク
ありがとうございます――!
もし差し支えなければ、こちらからもリンクさせて頂きたいのですが〜。
ばんる様の創作作品、きっとこだわりをいっぱい詰め込んだ力作揃いと推測しますが…。

>風俗通義
ぐぐってみたら、妙にチカチカしたピンク色なサイトがいっぱいヒットしますが(^_^;)
ちなみに書いた人は、曹嵩殺害事件の責任追及されるのが怖くて逃げた、陶謙の部下だったり。
抄訳本でしたら、日本でも古典新書あたりで出ていたと思います〜。上記学術書スレに、電子版の
リンクもありますから、そちらで確認される方が早いと思いますが。

>司隷校尉
そういや後漢書集解、歴代刺史一覧みたいなのありませんでしたっけ(;´Д`)ハァハァ
あれでも鍾ヨウがトリだったとしたら、ホントに誰なのか不明に(^_^;)
あるいは彼みたいな万能の才人は百年に一人であって、後続が無かったとか…

そういえば雍州刺史郭淮、常設かどうかはわかりませんが、隷下の一軍を率いて北伐軍と
対峙してました。刺史としての軍権なのか、将軍の方なのかはわかりませんが…

16 名前:むじん:2004/01/21(水) 02:26
…ん?あれ?呼ばれてる?

いかにも『後漢書集解』には史書に見える司隷校尉が列挙されてますぞ。
他の州とは違う場所に書かれてあって見落としがちですが…。

改行なしで一気に参ります。

馬與龍曰:(略)校尉宣秉・鮑永・鮑昱・牟融・宋均見本傳,傅亢・蘇鄴・李訢見光武紀,水丘岑見董宣傳,郭霸・王康見明帝紀,趙興見郭鎭傳,鄭據見袁安傳,張敏・何煕・徐防・宋意・周紆・王龔・陳忠見本傳,晏稱見張酺傳,劉稱見劉淑傳,公孫松見張霸傳,趙峻見順帝紀,羊侵見羊續傳,陳珍見陳翔傳,陳禪・虞詡・霍諝・劉祐・馮緄・李膺見本傳,馮羨見寇榮傳,祝恬見黄瓊傳,王暢見王龔傳,張彪見梁冀傳,左雄見周景傳,許永見羊陟傳,李暠見蘇不韋傳,應奉見寇榮傳,張忠見徐璆傳,王寓見張奐傳,朱寓見黨錮傳,韓演・史佟・唐珍見五行志,段熲・陽球見本傳,劉猛見曹節傳,郭鴻・趙安世見郭鎭傳,張溫見蓋勳傳,董卓見靈帝紀,樊陵見何進傳,胡种見王允傳,黄琬・袁紹見本傳,宣璠見袁紹傳注,趙謙見趙典傳,諸葛豐見蜀志諸葛亮傳,鍾繇見鍾皓傳,楊厥見沔水注,丁沖見魏志陳思王傳注,曹嵩見武紀.(略)

個人的には丁沖が気になったところ。建安元年に曹操が献帝を奉戴したとき、
曹操が司隷校尉になっていたと思うのですが、彼に譲られたのか、
鍾繇以前に丁沖が司隷校尉になってるようですね。

17 名前:むじん:2004/01/21(水) 04:12
劉囂・胡軫・李傕・曹操・劉備・張飛・諸葛亮が抜けてますね。

18 名前:ばんる:2004/01/22(木) 01:40
ちょっと油断してる間にまたたくさん情報が…。
むじんさま、ありがとうございます。
いろーんな資料があって知恵熱出そうですが、地道にひとつずつ見ていきます。

ぐっこさま、相互リンクのお話、ありがとうございます。
漫画画きゆえサイトにあまり作品を載せてないのですが(データ量が膨大になっちゃうので)よろしければ、リンク確認がてら遊びに来て下さいませ。
http://members4.tsukaeru.net/banr/ target=_blank>http://members4.tsukaeru.net/banr/
中身ごらんになってからリンクするかどうかお決め下さい。大したもの置いてなくて恥ずかしいのですけども。(笑)

19 名前:★ぐっこ:2004/01/23(金) 00:26
>>16-17
( ゚Д゚)グッジョブ! 
いいなあ…後漢書集解いいなあ…刺史歴代いいなあ…
うーん、つらつら見ると、やはり意外な人物が司隷校尉ハシゴ
してること多いですね。結構頻繁に登場する役職だから、他の刺史
に比べてそれだけヒットしやすいのでしょうけど…

丁沖…なるほど、長安時代からの朝臣だったわけで…じゃあ、
やはり彼の方が先っぽいですか。

そういやTOPからはリンク切れで入れませんが↓
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/sisi.html
ではさすがに丁沖スルー。集解万歳〜。

>>18
改めまして、リンクありがとうございまーす!
というわけでお邪魔いたしました!
そして耽読致しましたわ!
いや、凄いですよっ!創作って、三国志の漫画作品でしたか…!
むかし姉の部屋にあった歴史をしっとり描いた綺麗な漫画を
よく読んでましたが(楊貴妃とか)、なんかそれを思い出しました!
モチーフとなっているのも、悲劇の夏侯令女や、戯士才など、かなりな
三国迷向けの作品ばかり!考証もしっかりしてますし!何より話が
美しい。どっかのバカ呂布リプレイとは大違いだ( ゚Д゚)!

もちろん喜んでリンクさせて頂きます〜!
リンクコーナーよりTOPのほうがいいかな〜…次回更新時にて。

20 名前:ばんる:2004/01/24(土) 00:39
なんだかいやにお褒めいただいて、嬉しいです。ありがとうございます。(照れつつ)
マニア度としてはまだまだ…と本人は思うのですが。
あ、でも、何ギョウ出したこととかあります。(笑)

南蛮王呂布おもしろいですよ。文才あるなーと思います。
ギャグものは実はシリアスより難しいんじゃないかなと。

21 名前:japan:2004/01/24(土) 18:05
>むじん様
詳細なデータをありがとうございます。
董卓や曹嵩も司隷校尉の経験があったんですね。知りませんでした。
よく見ると三行目の真ん中辺りに(+д+)マズーな名前の人が紛れているような…

諸葛亮や張飛は蜀漢王朝での官位でしょうか?
蜀には益州刺史とは別に司隷校尉の職が置かれていたそうですが、
どこを統治していたのでしょう。
成都周辺の何郡かを「司隷」と称していたのか、或いは呉と約定した
函谷関より西半分を名目上治めるという、一種の名誉職だったのか…


>ばんる様

月川様とは存じ上げずに失礼いたしました。
三国志の中でも魏、特に曹一族や潁川清流派の人々に興味を持った
きっかけの一つがばんる様の漫画でした。お話ができて光栄です。

後漢の初めの頃は、春秋といえば公羊・穀梁伝だったんですね。
三国志には左伝好きが多いから、左伝の方がメジャーなのかと
思っていました。
学問、地名、官職…まだまだ知らないことだらけです。
もっと勉強しなければ…

22 名前:むじん:2004/01/25(日) 01:35
あいやどもどもです。

丁沖は、史書だと許に遷都した直後のような感じですねえ。
沛国の丁氏といえば丁沖父子のほか、
曹操の丁夫人、丁斐・亭謐父子がいてかなり豪華な顔ぶれ。
丁夫人は卞皇后よりはるか上の正室ですし…外戚ですかね。

>ばんるさん
あとで拙サイトよりリンクを設定させていただきたいと思いますけど。
http://mujin.parfait.ne.jp/ target=_blank>http://mujin.parfait.ne.jp/
http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/ target=_blank>http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/

23 名前:むじん:2004/01/25(日) 01:51
>蜀之司隷校尉
蜀漢の制度から考えると益州刺史あるいは牧は必ずいたはず。
でないと太守を監察する官がなくなってしまいます。
しかし『三国志』に限っていえば、劉備即位後の益州牧は、
劉禅の時代に諸葛亮が益州牧になるまで不明なんですよね。
これだけ重要な官職が記録に残らないのも不自然なので、
やはり司隷校尉が益州を監督したと見るべきでしょうか。

あと、これは仮説以前の段階ですが、
劉備と劉禅とでは漢朝に対する姿勢が違ってきてるように感じます。
劉備の場合は、光武帝のように中興の「祖」になろうと考えていて、
劉禅の場合は後漢第十六代皇帝という意識があったような…。
気のせいかな。

24 名前:★ぐっこ:2004/01/26(月) 01:07
>ばんるさま
イエイエ〜。こちらこそよろしくお願い致します〜。
マニア度…あまりに知らない人たちがゾロゾロ出てくると、今度は見る人が限られ
てしまうので、三国迷としてはばんる様の世界ぐらいが丁度かと! 学三の党錮前
ネタは、やりすぎの典型。
私はシリアスが書けない人なので、素直に尊敬してます…。1話1ネタさえ用意で
きれば、ギャグのが楽ですし(^_^;)

>むじんさま
あー、そうです。前から沛の丁氏について、そのあたりの関係が
微妙だなと(^_^;) 曹操が正妻として丁夫人迎えたのは、風雲前の
話ですが、それ以前から曹氏と丁氏ってつながりあったのかなあ、と。
別れた妻の実家…って立場も微妙ですねえ…

>蜀司隷校尉
意地でも「司隷を預かる職だ」として、益州を「司隷」扱いしていたのかなあ、
という意見に頷きたいです。それに皇太子の舅たる張飛が任じられたのだから、
名誉職ではなく、多少実のある職場の方がいいな、といういい加減な憶測ですが。

>漢王朝
そもそも漢王朝自体が無くなったため、両者のスタンスも相応に変化したのでしょうね…。
諸葛亮は当初台詞の端々で漢家を重んじて大義とし、その復興を劉備の旗印として煽って
ましたが、劉禅の代だと、当然漢家=蜀漢になっちゃってますし。

演義のときから思ってましたが、もし劉備が許陥として献帝の身柄確保しちゃったら、どう
してたでしょうかねえ(^_^;)娘後宮に押し込んで外戚になるにしても、同姓不婚だし…

25 名前:ばんる:2004/01/27(火) 00:59
>japanさま
びっくりしました。(笑)大した冊数も刷っていないのに(しかも随分月日が経ってしまってるのに!)、結構見てくださってる方がいらっしゃるものですね。
私が何らかの影響を与えてるなんて思うとあせりますけど、でも嬉しいです。ありがとうございます。
もはや誰も待ってないかもしれないけど、なんとか新作がつくれるよう今頑張ってるところです。
後漢を通じて、最も研究されていた『春秋』は『公羊』らしいです。
この時代特にシンイ説が盛んで(「この文章は孔子が漢の興るのを予言したものである」とかそーゆーアレです)それがいっぱい載ってるが故に『公羊』なのだそうです。
末ぐらいになるとそーゆーのに対する批判などもあり、個人的に『左伝』を研究する人が増えてきたとか。
狩野直喜氏の受け売りですが。(笑)

>むじんさま
リンクのお申し出ありがとうございます。好きにリンクしていただいてかまいません。
そっか、うちも一応漢文和訳載せてますしね。人様の参考にされることなんかあったらと思うと、ちょっと冷や汗出ますが。(なのに公開する無責任な管理人…)
むじんさまのサイトを見ていると、あまりにいろんな情報があって眩暈がしそうです。(笑)
わたくし結構年季の入った中国史ファンですが、ちょっとブランクがあってですね、最近再燃しはじめたところで、昔はネットなどという手段もなかったので、いきなり入る大量の情報に脳の処理速度がおっつかない感じです。
じっくり見せていただいて、うちからもリンクさせていただきますね。

>ぐっこさま
党錮ネタ、私は楽しいですが。(笑)
今『後漢書』を読むのに、中国語の先生(と言っても大学生のお嬢さん)に協力してもらってるんですが、三国志はマンガでしか読んだことないという北京人の彼女、郭林宗を知っていました。
中国じゃどうも、かなり有名らしいです。ちょっと意外でした。(失礼かな…?)
沛の丁氏…曹操が別れた妻の実家と親密だったりするのも、ありえなくないような気がしてきました。(笑)

26 名前:むじん:2004/01/27(火) 18:54
>丁氏
姻戚になるくらいですから、日ごろの付き合いはあったんでしょう。
とくに出仕以前の少年同士が友誼を結ぶ可能性は高いかと。
うんー、桓範も同郡なんですねえ。

>司隷校尉
諸葛亮が一度司隷校尉になったあと益州牧になっていますので、
左遷とも考えられず、まずそうなんだろうなとは思うんですが…確証はなし。
おそらく劉禅に代替わりしたころ、益州を司隷校尉部から外して
中原へ帰る意志を宣言したのではないかと思います。
みごと中原に復帰したら劉備は霊帝の従弟になります(^^

>ばんるさん
ありがとうございます。よろしくお願いします。

27 名前:★ぐっこ:2004/01/27(火) 21:33
>ばんる様
確かに意外…。まあ、郭泰は折角(でしたっけ)の語源ですから
歴史に果たした役割以上に有名なんでしょうけど…。逆に蔡倫あたり
は紙の方ばかり有名になって、それなりに活躍したことがスルー…

私も昔バイト先の留学生に三国志のことをしつこく聞きまくった事が
ありますが、ウイグルの子と朝鮮族の子は「知らない」とハッキリ言い、
四川生まれの子でさえ「劉備しか知らない」と。男子はみんな知ってる
らしいですが…。キン肉マンみたいなものなのかなあ(^_^;)

>むじん様
なるほど!そのあたり、結構ドラマとかありそうですな〜。
それに宦官とはいえ権門には違いない曹氏が、嫡子の嫁をとるくらい
ですから、沛のあたりで顔だったかもしれませんねえ、丁氏。

司隷校尉…あ、なるほど!中原奪還の意思表示ともとれるわけで!

28 名前:むじん:2004/01/29(木) 22:54
>丁氏
たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの
近所付き合いがあったと思うんですよ。
それが朝廷内では曹氏の身内意識になって、
反司馬氏感情に育っていったのではないかなと思えてきます。

>司隷校尉
そうそう、劉備の場合は、後漢はもうダメだから新しい漢を作っちゃうって意識で、
劉禅になると、やっぱり俺たちの故郷は洛陽だ〜、みたいな感じで。
もう少し歴代の司隷校尉・益州牧がはっきりすればいいんですけどね。

29 名前:★ぐっこ:2004/01/31(土) 01:09
ああ、その辺に曹一族との紐帯が…
>たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの
>近所付き合いがあったと思うんですよ。
なんか絵的に見てみたい光景ですね〜( ´∀`)
任官前の曹操あたりは、わりとブラブラしてそうですので、
蒼天も結構イイカンジに放蕩息子の像を書いてるような。
そこで一つの疑問なのですが、曹操ってやっぱりメインは本籍地で
育ったんですよねえ。父親が洛陽で居を構えてる以上、洛陽に移り
住んでるのかな、とも思うのですが、当時の高官の幼い息子が、どこ
で育ってるのかわからなくて。たまたま読んでた黄琬伝では、洛陽
で親父さんにアドバイスしてましたけど…。

30 名前:むじん:2004/02/01(日) 21:47
任官前の曹操ですか…これがまたよく分からないんですよね。
彼は嫡男なので曹嵩の周辺にいたんでしょうが、
中風を装ったときには叔父の夏侯某さんがいましたし。
あと蔡瑁や何ギョウなど荊州人士との付き合いもあるから、
もしかしたら南陽あたりに遊学してたんじゃないかという気も…。
ちと難しいです。

31 名前:ばんる:2004/02/02(月) 00:55
ちょっと話題が司州から反れますが、丁一族で思い出したこと。
曹操の母親は丁氏だったと友達に聞いたことがあります。その人も典拠までは知らなかったのですが、これって本当なんでしょうか?
(もしかして私が知らないだけ…?)
だとしたら曹操と丁夫人の離婚程度で切れてしまう縁ではないのも当然ですよね。

32 名前:★ぐっこ:2004/02/03(火) 01:24
そういえば南陽の連中と知り合いが多いですねえ…
むしろ彼らが洛陽に遊学でもしてたのかな、とも思いましたが、
可顒はともかくとして、他のメンツは中央の高官に付いていた
わけでもなさそうですし…
このへんは、本当に推測するしかないんですね(^_^;)

>曹操の母親は丁氏
Σ(;´Д`) いや、私も知らないです。
うーん、曹操の母親…どっかでみた気がしますけど、丁氏だったかなあ…
確か曹家の墓に曹嵩と合葬されてた人は…呉氏だったか、そんな名前だった
記憶が…(必ずしも曹操の母親とは限りませんが)

もしも丁氏だったとしたら、そりゃあ、丁家は曹操にとって大事な親戚。
両家の紐帯もわかるというものです。

33 名前:むじん:2004/02/03(火) 03:56
にょわ!それは知らんかった…。
『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。
これですね。
うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは
近親婚ということになるけど…。まずくないかい?

34 名前:japan:2004/02/03(火) 21:56
>『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。
>これですね。
>うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは
>近親婚ということになるけど…。まずくないかい?

武帝紀ばかり見ていました。まさか文帝紀とは…orz
近親婚といえば、集解の武帝紀で
「並云嵩夏侯氏之子夏侯惇之叔父太祖於惇従父兄弟」
という一文の後に面白い説が載っていました。
(斜め読みなので間違っていたら申し訳ありません)

夏侯惇の子・夏侯楙は曹操の娘である清河公主と結婚し、
夏侯淵の子・夏侯衡もまた曹氏の女を娶っている。
『曹瞞伝』や『世語』にあるとおり曹嵩が元々夏侯姓であったとしたら、
(これらの婚姻は)陳家に養子に入ったにもかかわらず生家の劉氏の女と
結婚した陳矯と同様、同姓不婚の禁を犯しているのではないだろうか。
『曹瞞伝』は敵国・呉の人間が著したものであるから、これは曹操を
貶めるための妄言であろう。

曹操と夏侯惇&淵の血縁関係が否定されてしまいました。そんな馬鹿な…
先にも述べましたが、私の読解力では曲解している恐れがあります。
疑問に思う点等がありましたら、お手数ですが原文をご確認下さい。

私としては
「曹操が近親婚のタブーを犯すはずが無い→だから曹嵩は夏侯惇の叔父ではない」
とするよりも、
「曹操自身も近親婚の経験者だから、同姓婚で叩かれていた部下を庇った」
という方がありそうな話かな、と思います。

徐宣「近親婚(・A・)イクナイ! 陳季弼は反省シル!」
曹操「漏れのラブワイフはママンの身内でしたが何か?
   ついでに娘も親戚のdの倅に嫁ぎましたが何か?
   てか前のことをあげつらう香具師uzeeeeee!!!
   建安五年以前の話題は 糸冬 了 」

↑陳矯伝裴注の『魏氏春秋』のエピソードを某所風に表現すると、
こんな感じではなかったのかと…

35 名前:japan:2004/02/03(火) 22:02
先頭に「>むじん様」と書いた部分が抜け落ちていました…申し訳ありません。
あと、スレ違いの長文レスもお詫びします。

36 名前:bannru:2004/02/03(火) 23:33
今『秦漢風俗』っていう中国の本を読んでるんですが、そのなかの記述によると、この時代「表親婚」というのがあって、
おじとめいの親族婚程度のものは珍しくなかったようです。(ある程度身分やら財産やらある人たちに限られますが)
両家の絆を強くするために、ってことでしょうね。
なんぼか例が載ってましたが、それでも自分と同じ姓のヒトと結婚するっていう例はさすがにありませんでした。でも養子に行った場合は、元の姓はそんなに問題に
されないのではないでしょうか。
後世中国は親族関係にとても厳格になるので、簡単には信じられないような、とんでもない話と思われたのでしょう。

こーゆー話が出てくると、やっぱ古代なんだなと思いますよね。

37 名前:ばんる:2004/02/03(火) 23:36
な、なまえが…orz(←マネして使ってみる)

38 名前:むじん:2004/02/05(木) 02:42
なるほどー。時代的にさほどタブーじゃなかったんですかね。
たまたま徐宣が厳しかっただけとか…。
『曹瞞伝』は抜き出してみると案外曹氏への悪意はないみたいです。

39 名前:★ぐっこ:2004/02/06(金) 00:10
おっと、japanさま、bannruばんるさま、またまた情報ありがとうございます!
当然の帰結として、丁氏の嫁ぎ先に丁氏が嫁に入り…と同姓婚どころか近親婚っぽい
香りがぷんぷんと…
しかし>>34ワロタ。 なるほど、ニュアンス的には 糸冬 了 でカタをつけた感も…

>秦漢風俗
あ、読みたい(;´Д`)ハァハァ… なるほど、上の方へいくと、それほど珍しいことでもなし…
皇帝にしたって、けっこう外戚になる一族は限られてますから、搓c后やら竇皇后やら、何代かごとに
同じネーミングの人が現れますしねえ。
戦国やら春秋やらにまでいくと、諸侯どうして頻繁に婚姻がありましたから、それこそ兄妹婚ギリギリの
ぶんとか。
ハイソサエティになるほど、古例を逆手にとって、そういうタブーが気にならないものかもしれませんね…

40 名前:japan:2004/02/07(土) 02:21
近親婚は三国時代にもあったみたいですね。
呉帝孫休は異母姉(孫魯育)の娘である朱夫人を娶っていますし、
魏末の三少帝のうち曹髦と曹奐は、共にベン氏(曹丕・曹植らの生母である
ベン皇后の一族)の娘を皇后に立てています。
ばんる様の仰る「表親婚」の名残なんでしょうか。

ただ荀揩フ従兄弟である荀悦は、漢の惠帝が姪を皇后に立てたことについて
「人倫の大道に悖る」と非難したそうですから、儒教の道徳を厳格に遵守する
(ことになっている)清流派の士人にとっては、近親婚はタブーだったのかもしれません。
陳矯が叩かれたのもそこら辺が原因なのでしょうか。

41 名前:★ぐっこ:2004/02/08(日) 16:09
近親婚はともかくとして、同姓不婚って原則は儒教の考えなんでしょうか…
人倫の規範として、もともとあった風習を原則として固めていったカンジで…
確か陳舜三国志のどれかの話で、曹操に恋していたけど曹氏だったから結婚
を諦めた女性…ってのが出てたような。いくらなんでも同じ氏どうしでの婚姻
は無理ということか…

そういえば、厳密に姫とか姜とかの姓で人を分けていったら、最終的に
数えるほどしかパターンが無くなるんですよね…

42 名前:lotus@部外者闖入失礼します。:2004/02/27(金) 19:25
初めてカキコさせていただきます。
以前何かの本(タイトル失念。多分歴史関係の本ではなかったかと)
で読んだ話によると、昔の中国でも、
例えば働き手が必要な地方の田舎などでは
イトコ婚も、割と大っぴらに行なわれていたとか。
(↑さすがに同姓同士は(・A・)マズーだったでしょうが)

まあ、もしツァオたんが
沛国育ちのイナカッペ大将だったとしたら
何のはばかりもなく行なわれたとしても
不思議ではなかったのかも。
古代の礼教の決まり事なんかは結局タテマエな訳ですし。 


でも萌えますね。イトコ同士って何となく

43 名前:左平(仮名) :2004/02/29(日) 23:40
全くの蛇足ながら。
人類学の世界に「交叉イトコ(クロスカズン)婚」という概念があるそうで。
(私がこの言葉を知ったの、実はマンガでなんですよね。惟新さん、覚えて
おられますか?以前、四方山のスレッドで哲学者・ヴィトゲンシュタインの
話題になったのを。その時紹介した、『現代思想の遭難者たち』です)

え−と…
未開人の結婚では、外部の集団と女性を交換しあう観点から、親同士の性別が
異なるイトコ(交叉イトコ)が望ましい、と。

44 名前:★ぐっこ:2004/03/01(月) 23:43
>>42
lotusさま、はじめまして。レスが死ぬほど遅れて申し訳ありません…
なるほど、働き手が必要な土地柄と、一族が群がって生計を立ててる
地方ならば、イトコだろーが何だろうが、同腹でない限り目をつむって
たのでしょうか…
>でも萌えますね。イトコ同士って何となく
引き千切れんばかりに激しく首肯(;´Д`)ハァハァ

>>43
はー。Cross cousin…文字通りですやね。
それはアレでしょうか、「推奨」されてたのでしょうか?フツウのケコーンよりも。
もし推奨ならば、その国は血が濃そう…

45 名前:素人:2004/03/02(火) 03:14
乱入失礼致します。このスレの本題からそれる気もしま
すが、こちらにしか書き込める知識がなかったので(汗)。
>ぐっこさま
多分「曹操」ではないかと……<陳氏の小説
リンクのところでご一報願えれば、とありましたので、
訳あってこちら様の「趙雲ご先祖探し」を紹介致した
ため、そのご挨拶にと参上仕りました。
それでは。

46 名前:惟新:2004/03/03(水) 00:40
>交叉イトコ
レヴィ=ストロースの有名なヤツですね。
(左平(仮名)様、ちゃんと憶えてますよ〜あのときは面白い本をどうもです!)
折角なので参考までに掻い摘んで解説しますと…

まず、この概念は彼がインセント・タブー(近親相姦の禁忌)の存在理由を
「交換」(贈与)における女性の価値、という観点から説明した際に使ったんですね。
一般には生物学的な問題があるためだ、と考えられている
インセント・タブーですが、実はソッチの方はたいしたことなかったりします。
(参考:http://science2.2ch.net/test/read.cgi/life/1017597505/ target=_blank>http://science2.2ch.net/test/read.cgi/life/1017597505/
さて、インセント・タブーは女性を2種類…つまり、結婚可能な女性(wife)と
結婚不可能な女性(sister)に分けることになります。
wifeは外の集団に出さなくても良く、場合によっては
血を濃くするためにwifeである親族との婚姻だってありえます。
対して、sisterは外の集団に出すことでやっと十分な価値が出ます。
ところで、交換物というのは交換以外に利用価値があるとちょっと困るんです。
交換というシステム自体がスムーズに働きにくくなってしまいますからね。
裏を返せば、sisterであるからこそ「交換物」としてのより確かな価値が出る、ということ。
これで女性の交換による外部集団との交流がすすめられるわけです。
交流の際には「交換すること」自体に価値が成立しますので、これって大事なことなんですね。

以上のことを踏まえますと、インセント・タブーの設定、というのは
wifeとsisterの境界線をどこに置くか、ということになります。
そして、交叉イトコなんていう複雑な考え方もその「交換システム」から生じます。
そうしたものが推奨されたり、禁忌されたりすることによって、
複雑で特有な「交換システム」が社会において構築される、というお話。
ちなみに未開の地だと多いらしいです、交叉イトコ婚。

あれ、なんで司州スレでレヴィ=ストロースの解説をしてるんでしょ?(^_^;)
でもまぁ、歴史学においてもこういう観点は使えると思いますんで、一応。
(うちの大学でも様々な研究室から院生集めてそういう勉強会をやろうとしてたり)

47 名前:★ぐっこ:2004/03/04(木) 23:32
>素人さま
ありがとうございます! そうだ、曹操の一族の話だから、「曹操」で
よかったんですね(^_^;) スッキリした…

>惟新様
む! 交換システムという概念について、ぼんやりとわかったような!
近親婚そのものが主題なのではなく、どちらかといえばワンケースという
ところですか…
それにしても、司州スレからトリビアスレへ移行しつつあり(^_^;)

48 名前: 左平(仮名) :2004/03/05(金) 00:14
>「曹操」
そういえぱ、この作品の副題は「魏の曹一族」です。
何かで聞いたのですが、陳氏が近頃続編を書き始められたとか。

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