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■ 関羽の評価とは?

1 名前:岡本:2005/03/28(月) 02:10
玉川様の、
>関羽の絶対的な武威というものに対してどうも実感が湧かないわけでして。
>いつぞやの関羽vs徐晃スレでも話題に上りましたが、
>水準以上のなにがしかの資質があったことは確かなのでしょうが、
>ではこの北伐に際して魏で遷都論が勃発したほどの「関羽への恐れ」を生じせしめるだけの
>実績・風評・憶測あるいは虚像にせよそういったものが拠って立つ地盤が
>今ひとつ見えてこないのですがスレ違いなのでこの辺りにしておきます。
に関して、ありますが御諸兄の意見を伺いたく存じます。

関羽評価が難しいのは、
1.蜀書での直接的な記載があまりにも少ない
「白馬の戦い」で個人戦闘力が並外れていることは示されたものの、
軍団の統率者としての能力、戦略眼の有無に関しては直接的な情報が少なく
その戦歴が明確でない。しかも魏・呉書では「〜〜の戦闘で関羽を破った、退かせた」系の
否定的な情報が多い。

2.にもかかわらず、他国の反応を見ている限りでは
異常なまでに恐れられている当時有数の、軍団を率いる名将帥であり
軍政家であることが想像されること。
そして、曹操に遷都という非常事態宣言を考慮させた唯一の人物であること。

この2つが噛み合わない点にあるのであるのでしょう。
繰り返しますが、この違和が生じる最大の原因は関羽の具体的な事跡に関する
直接的な情報が決定的に少ない点にあります。

私としては、個々の事跡と背後状況を解析することで、
間接的にではありますが、関羽の器量を考察することは可能であると考えています。
(最初に、「万人敵」という評価ありきという分析になってしまう危険性があることは否定しません。)

個人的には、将帥としてみた場合、周瑜・陸遜といえど及ばないと見ています。

2 名前:岡本:2005/03/28(月) 02:51
具体例をあげますと、

樊・襄陽攻防戦前半
これまで明確に指摘されたことがないと思いますが、于禁を水没させたとされる洪水は関羽軍にも不利に働いています。
むしろ、攻撃されるまで于禁は半分勝ったと思っていたと思います。
理由ですが、于禁が到着するまでに襄陽と樊は関羽によって攻囲されており、しかも城外に遊撃隊である龐悳がいて
しばしば単独で交戦していたことを考えると、関羽は襄陽・樊に対して内外二重の包囲陣を敷いていたことが予想できます。
対徐晃戦を考えると無理な想像ではありません。西陵攻囲戦の陸抗になんら劣ることはありません(西陵では徐晃ほどの野戦の名将は臨場していません)。
さて、洪水が来れば避難のため関羽軍団は一次撤兵せざるを得ないわけです。
于禁としては戦略目標を戦わずして達成できるわけですからこれ以上の公績はないでしょう。
後、恐れるべきは洪水が去った後に関羽が樊への再来襲を目論むことです。
これに対しては、一旦退いた関羽軍は漢水を渡る必要がある以上、
于禁軍団が樊の近くで待機しておれば半渡をおさえることで対応できます。
それゆえ、洪水を避けて尚且つその後の再来襲に備えて于禁は高地に7軍団を分散配置したわけです。

明言しますが、于禁は救援軍の統率者として失策は犯していません。
これまでの相手ならば充分及第点な処置で、格別非難する点はありません。
ただ、相手が上を行っただけです。

関羽は一次撤兵した不利を逆手に取り、
1)洪水を避けるため高地に于禁軍団が分散配置されたことに着目し、
2)多量の軍船を徴用し、(于禁は、洪水が退いた後に、損害覚悟の漢水一斉渡河のために準備したと思った可能性があります。)
3)洪水で隔てられた軍団を大船団で各個包囲殲滅を期した。
やり方としては張飛の張郃撃破と同様です。
こうなると戦えば全滅しかないのは見えますので、
A)7軍団の統率者である于禁は、士卒の以後を考えて降伏。
B)一部将に過ぎない龐悳は逆に全軍団の責任を考える義務がないので己の価値観に準じた。
となったのでしょう。
「于禁<龐悳」という曹操の感慨は関羽に対する恐怖の裏返しである繰言です。
韓信は別格としても、この周辺の時代にこういった戦術発想ができた人物は極々少数と思いますが...。
自身優れた戦術家でもある曹操はこれが分かったので関羽を異常に恐れたことは想像に難くないです。
ですが、蒋済やこの時点ではまだ戦歴が皆無の司馬懿は、戦歴を重ねて初めて見えてくる関羽の
凄さがいい意味で理解できず(恐怖に縛られないため)、「関羽の土俵に乗ることはない」という方針が
立てられたのではないかと思います。

3 名前:★玉川雄一:2005/03/29(火) 19:59
これはこれは! 私の疑問を実に的確にまとめて下さってありがとうございます。
どうしても、徐晃や張コウなどのようにその生涯が軍歴で彩られた人物と比べてしまうと
関羽の評価は何を根拠とすれば良いのか考えてしまうわけで…

私としては、「襄樊以前」までに関羽が武名を築くだけに足る業績をどれだけ挙げていたか、
という点にも興味がありますね…
単に場数の問題だけではないのでしょうが、>>2で分析されたような個々の事例の掘り下げからも
得られる物があれば幸いです。

4 名前:★玉川雄一:2005/03/29(火) 21:26
では少し異なる切り口から…

時代は下って東晋初期のことになりますが、劉遐(正長、?-326)という武将がおりました。
晋書の彼の伝には冒頭にこうあります。

「性果毅、便弓馬、開豁勇壮。値天下大乱、遐為塢主、毎撃賊、率壮士陥堅摧鋒、冀方比之張飛、関羽」

性格は果毅にして弓馬をよくし、開豁勇壮。天下大乱の時にあたって塢主となり、
賊を討つごとに壮士を率いて堅陣を陥とし鋭鋒をくだき、(地元の)冀州では彼を張飛、関羽に比した−

意訳するとこんなところでしょうか。
彼は個人的武勇に優れまた人望があり、衆を率いて多くの戦勝を重ねたそうですが、
地元(彼の本籍は冀州廣平郡易陽県)では彼を張飛や関羽になぞらえた、と記録に残されています。

ここで興味深いのが、ローカルな名声ではあるにせよ武勇に優れた人物に対比される歴史上の人物として
張飛と関羽の名が挙がっているということです。この逸話が事実であるとするのならば、
関羽の生きた時代から一世紀を経た4世紀初頭において武勇自慢のサンプルとして
敢えて彼らが選ばれることに何らかの意味があるとも考えられます。
もっとも晋書が成立したのは唐初であり、そこに至るまでに何か別の要素が働いた可能性も否定できませんが…
また敢えて細かく見てみれば、「張飛、関羽」という順番にも格付けが意識されているのかもしれません。

そして注意すべきは、劉遐と張飛や関羽を結びつける要素として考えられるのが
あくまでも「卓越した武勇」なのであって、一般的に張・関らに対するイメージとして抱かれる
もう一つの柱である「主君への忠義」といったファクターは考慮されていません。
この時点で劉遐は塢主であり、自身がトップの地位にあったわけですから。

当時において張・関が世間でどのような認識を持たれていたのか、
そもそも知名度がどれ程あったのかは即断できませんが、
少なくともローカルレベルで「武勇絶倫」のいち代表者としてノミネートされるだけの一例をここに見ることができたわけです。
「忠義うんぬん」については、単に劉遐の場合に該当していないだけなのか
張・関についてそういうイメージが固まっていなかったのかまでは解りません。
後者についてはさすがにこの事例からは検証のしようがないにしても、
前者については何故あえて張飛、関羽なのか? 他に適切なサンプルは存在しなかったのか?
という点に関しては類例の検証などさらなる調査が必要かと思われます。

ちなみに、劉遐はこの後南渡して東晋王朝に属し、中堅の軍事指揮官として各地を転戦します。
その驍勇が改めてことさら際だって描写されることはなかったようですが、
軍事指揮官としては傑出してはいないまでもまず優秀といってよい成果を残しました。
ただ、勝ちに乗じて略奪を行おうとして温[山喬]にたしなめられ陳謝したというエピソードもあり、
多少アクのある人物ではあったようです。はからずもこの辺りも張・関を彷彿とさせなくもない…?

また彼の妻も武勇に優れていたといい、劉遐が後趙の石虎軍の包囲に遭った際、
彼女は数騎を率いて万余の敵中に突入し夫を救出したという逸話が伝わっています。
夫の死後、その軍団を再編しようとする動きに反発して旧部下が謀叛を企てた際、
それを止めるために隙を見て武器を焼き尽くしました。
そして乱の鎮圧後、子らと共に建康に還ったとのことです。

後世に「勇将」として関羽、張飛の名が持ち出されたというお話でした。

5 名前:岡本:2005/03/29(火) 22:33
>玉川様
かなりの方を引かせてしまうような内容かも知れないと恐れておりましたので、
書き込み支援ありがとうございます。

>私としては、「襄樊以前」までに関羽が武名を築くだけに足る業績をどれだけ挙げていたか、
>という点にも興味がありますね…

そこが一番の問題の本質かつ厄介な内容であるのが悩みの種なのですよね...。
荊州董督になった以降では比較的2で私がやったような分析はしやすいのです。
ですが、それ以前に単に個人的武勇に優れた一部将でなく、軍団統率者や軍政官も
水準以上にこなせる器量人と内外勢力から評価されていないとそもそも荊州董督として
貫目に欠けますんで。

個人的武勇に関しては、私としては
「当時の個人としては最強クラスに強かった。以上、終わり」
でこれ以上の興味はありません。
戦術に長けた部隊長、万単位の士卒を見事に統御する軍司令官、
中原の情勢を読み、またそれに合わせた軍団準備を行える軍政官
としての能力がどのように培われ、評価されていったかの方により興味があります。

取り敢えずのスタートは
1)反董卓同盟軍の最中もしくは直後に劉備に従って公孫瓉の傘下に入る。
2)劉備が別部司馬(遊撃部隊長)から公績で平原の相となると、張飛と共にその別部司馬となる
あたりからでしょうか。

この辺りの、曹操が袁紹の下働きとして、劉備が公孫瓉の下働きとして働いていた頃あたりの競り合いで
そこそこ戦上手としての劉備の評価、引いてはその両翼たる関羽・張飛の個人武勇に留まらない部隊長としての
評価が気づかれていったはずです。...考察しようにも情報少ないんですけどね...。

黄巾ではどのような活躍をしたか不明です。劉備の規模から考えてこの時点では個人武勇の域を
あまり超えないでしょう。華雄や虎牢関は講釈師の与太ですので無視です。

でも、講釈師がわざわざ劉備一党が凄いぞというために反董卓同盟の一件を演義に創作していれているのは
玉川様の疑問を解消するのが正史からでは非常に難しく、またできたとしても一般受けしづらいことの
証左でもあります。

6 名前:ふにゅう:2005/04/01(金) 13:43
当時の関羽の評価が上がったのは、劉備が徐州を有して
袁術あたりと戦うようになってから、というような気がします。
それ以前は指揮官として兵を率いることがなかったのではないでしょうか。

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