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■ 【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】

1 名前::2002/10/27(日) 22:26

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年07月23日 (月) 20時45分39秒 

リョウ統というのはアレです、字が公績でリョウ操の息子さん。OK?
で、ふと彼についての疑問が湧きました。

彼の年齢については、享年49歳ということがはっきりしているだけです。
ただ、父のリョウ操が江夏攻めで戦死したときに15歳だったと。
これはポイントでは?と呉主伝を見ると、孫権の江夏(黄祖)攻めは202年、207年、208年の3回です。
ただし、リョウ操戦死の回は「孫権が呉軍の総指揮にあたるようになって」とのことですので、一回目の202年と考えて良いでしょう。
すると、202年に(数え)15歳だとすると生年は188年。ちなみに三國志8では189年ですので、ほぼこれを踏襲しているのでしょう。

しかし。駱統伝にふと見かけた怪しげな記述。「(駱統は)リョウ統の死後、その配下の兵の指揮を任された」とあります。
駱統は珍しく生没年がはっきりしており、228年に36歳で死去しています。
さらに言えば、上の記述は駱統が陸遜に従って劉備を破った(夷陵の戦い)という記述より先に登場します。リョウ統の死は意外に早い?
リョウ統伝ほかを読み返してみると、彼について年代のはっきりしている記述は、215年の合肥戦が最後です。その後は地方に出て山越を討伐し、離任する直前に病死したとなっています。
ヘタすると、彼は建安年間中に死去したのでは?

42 名前:japan:2002/11/12(火) 23:45
とても明確に論点を纏めてくださり、ありがとうございます >もす様
それにしても、どちらが正解なのでしょう…
13歳で子どもを作ったり(?)、74歳で子どもを作ったりする連中がいるから
ますます話がややこしくなるんですよね。

>ぐっこ様

>japan様が教えを乞われたという方は、専門家の方なのでしょうか…?

どちらかというと専門家の卵にあたる方だと思います。
WEB上の知人なので、私もそれほど多くをお伺いしているのではないんですが…すみません。


――で、自力でつらつらと考えてみたのですが

・「13歳説」の根拠は、確か「爵位を相続できる年齢から逆算して」ということだったと思います。
これもソースは失念してしまいました。申し訳ありません(涙)

・『郭嘉伝』以外で郭奕君が登場する唯一の列伝である『王昶伝』を読む限り、
郭奕と王昶は友人同士(二人とも太子文学に就任している為?)であるらしい。

肝心の王昶の生年は不明なのですが、
(1)同郷の王リョウ(172年生)と並んで名前を知られていた。
   王リョウの方が年長なので、彼を兄と仰いでいた。
(2)没年は259年で、最終官位は司空
(3)嗣子・王渾の生年は223年(『晋書』王渾伝より)
という三点から考えて、180年前後と見るのが穏当だと思います。

そうすると、王昶の知人兼同僚だったという郭奕も、180〜190年位に生まれたと
考えるのが妥当なのでは…
190年(あるいはそれ以前)に再婚――という記述だけに目を向ければ、
160年前後に生まれたと考える方が納まりが良いのですが、それだと
『王昶伝』の記述がおかしくなってくるんですよね。

まさにあちらを立てればこちらが立たず状態…
何だかますます訳が判らなくなってきました。申し訳ありません(@_@)

43 名前:★ぐっこ:2002/11/13(水) 23:06
ぐわ…またしてもパラドクス(^_^;)
うーん…確かに、どれかがウソをついてます、というだけでは
説明できない矛盾が…

再婚…まさか幼い頃から許嫁としていた娘が早世したため、次の
結婚相手を決めた、とかいうオチじゃ…。誰かいましたよね、そういう
ケース。
私もお手上げだなあ…

44 名前:もす:2002/11/16(土) 21:25
 おゎ、そういえば、郭奕以外唯一の太子文学を調べるのを忘れていました。。
某所で指摘されていたのに、詳しく調べていませんでしたぁ。ありがとうございます〜

 すっごい唐突に思いついたんですが・・・
中国も親族を養子に入れることってありますよね・・・ 郭奕は郭嘉の弟だった!ってのはどうでしょう?
郭嘉が早逝したために跡を継いだ、つまり、系図的には『養子』である、と。。。。

やっぱりメチャですね。すいません・・・(;^_^A

 う〜ん、お手上げですねぇ。
ぐっこさん、japanさん、ホントにありがとうございました♪

45 名前:★ぐっこ:2002/11/21(木) 21:42
いえいえ、こちらこそーm(__)m ていうか、私は何もしてない(^_^;)
うーん、郭嘉と郭奕かー…。お手上げ…

46 名前:★玉川雄一:2004/01/12(月) 10:18
そうそう、昨年もすさんの所で目にした衝撃の新事実(事実じゃあないかも)が。
念のためこちらでも披露しておきましょうか。

もすさんのサイト『四史奮迅』に掲載されている「四史人物列伝」において、
“甘寧215年没説”が提唱されておりました。

なんでも、『建康実録』なる地方志には「甘寧が215年の12月に死去した」とあるそうで、
もすさんも直接は確認されたそうではないですが、なかなか興味深い記事だと思いません?
確かに凌統の時と同じく甘寧もまた、
建安年間末期以降の記述に明確な年代特定がしづらいんですよね。
この辺りは「四史人物列伝」でもすさんも分析してらっしゃいますが。

果たして『建康実録』が史料として信憑性があるものなのか、
もしかしたら他にも面白い記事がありはしないか、などと興味は膨らみます。

47 名前:もす:2004/01/13(火) 03:37
えーっと、それらしく言ってしまうと、
私のネタじゃなくって"松"の付く方から頂いたネタだったりします(笑)
その方に質問などが飛び火しないようコラムでは隠していますが、ここなら大丈夫っすよね。

かくいう私が手に入れればいいんですが、最近はやる気が全く出なくて…(;^_^A
ちなみに、建康実録の件は某所でも「怪しいよね」って話が出てました。

48 名前:★ぐっこ:2004/01/14(水) 00:19
あらら、あの方からのお話でしたか…ご無沙汰ですが…
ちなみに215年は、劉備が蜀とった翌年。荊州問題がこじれて呂蒙・魯粛が
関羽とガチに戦いそうになった年ですやね。
そういうときに甘寧さんが亡くなっていた、という説があると。

うーん、『建康実録』…知らないというか、地方誌(;´Д`)!?
有名なのはけっこう知れ渡ってますけど、いっぱいこういうネタ
埋まってるんだろうなあ。
しかし真偽のほどはどーにも怪しいですか(^_^;) いっぺんこういう
本全部そろえてみたいもの…

そういや、陳宮の故郷が県まで書かれてたのって、何でしたっけ?
むかーしゲーパラで立ち読みしてて「ええなっ」て思ったことが。

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