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■ 小説 『牛氏』 第一部

1 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:31
以前から書き込んでましたネタ、まだまだ練られておりませんが、見切り発車致します。
ここ数日、毎日数行ずつ書く様にしておりますが、ネタの貯金をしつつ進むつもりですので、ペ−スは分かりません。
以前の様に、週一ペ−スとはいきそうにありませんので、悪しからず。

予定では、三部構成となっております(それぞれ何回くらいになるかは全く未定です)。

なお、感想などは、雑談スレッドか新規スレッドにてお願いします。
では…

2 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:33
一、

「父上、輔です。お呼びでしょうか」
「輔か。ちと話がある。入れ」
「では、失礼します」
そう言うと、青年は父の居室に入った。季節は、冬から春に変わろうとしており、柔らかな日差しが室内に差し込んでいる。
これより少し前の建寧二【西暦169】年に、中央では「党錮の禁」(第二次)という大事件が発生していたのであるが、この地には、その影響は及んでいない。
(一体何の話だろう?)
彼には、父が話そうとしている事が何であるか、さっぱり分からなかった。


ここは、涼州・隴西郡、狄道。旧都・長安から渭水を遡り、さらに西方にある邑である。中原の人々から見れば、辺境としか言い様のない所だが、彼ら牛氏一族は数代前からこの地に住み続けている。

彼らの遠祖は、殷(商)王朝最後の王にして暴君としての伝説で知られる紂王の兄で、春秋・戦国時代の宋国の祖である微子啓とも言われるが、事実は定かではない。
伝説が事実であるならば、彼らの出自は中原という事になるのであるが、では何故、この地にいるであろうか。それは、数代前の先祖である、牛邯に遡る。

牛邯、字は孺卿。漢が王莽によって簒奪され、天下が乱れた時、彼は、隴西に割拠した隗囂という群雄に仕え、有力な部将として活躍していた。だが、建武八【西暦32】年、光武帝の意を受けた知人・王遵の説得に応じ、光武帝に帰順した。
これがきっかけで、隗囂配下の大将十三人・属県十六、軍士十万余人が光武帝に投降し、形勢は一気に光武帝有利に転じたというのであるから、結果的には、彼の帰趨が両勢力の命運を左右したといえる。牛邯は、それほどの大物であった。
帰順後、班彪(『漢書』の著者・班固の父)の提言により設置された護羌校尉(羌族を統御管轄する官。治所は狄道に置かれた)という官に任ぜられ、対西方の重責を担った。彼が亡くなった途端、羌族が叛乱を起こしたという事からしても、その存在の大きさが伺える。護羌校尉という官職は、その後廃止されていた時期もあるし、牛氏一族が多く任ぜられたというわけでもない。
しかし、牛氏一族は、牛邯を誇りとし、あえて狄道に留まり続けた。

狄道に留まるという選択は、決して楽なものではなかった。漢王朝が羌族に対して移住政策をとった結果、狄道の周辺は漢人よりも羌族が多く、しかも、羌族はしばしば叛乱を起こしたからである。
中でも、安帝の御世に起こった叛乱は凄まじく、数万の漢軍がたびたび敗北を喫したのみならず、諸郡の治所を内地に撤退させたほどである。その時には、隴西郡の治所も狄道から襄武へ移され、牛氏もしばしの流浪を余儀なくされた。それだけに、牛氏一族の、羌族に対する敵対意識は強かったのである。
もっとも、羌族からすると、「叛乱するは我にあり」という気持ちであったろう。なにしろ、彼らは歴史にその名を表してからというもの、その殆どの時期において、中華によって抑圧されてきたのだから。
太古・殷王朝期においては、彼らはしばしば狩りや生贄の対象とされた。儀礼においては、「羌三十人を宜(ころ)す」とか「百羌を箙(ひら)き」という様に、人ではなく獣として扱われていたのである。
一部の者は抑圧に耐えかねて蜂起した。西方において実力を蓄えていた周に呼応して殷王朝を打倒した彼らは、その功によって各地に封ぜられた(斉国の祖である太公望もその一人であるという)。領地を与えられた者達は、広く婚姻関係を結び、徐々に中原の人々に同化していったのである。しかし、その他の少なからぬ者達は、さらに西方に移っていった。
もともと羌族は、羊を飼いならして各地を移動し、山岳を信仰の対象とする穏やかな民であったという。しかし、長きにわたる抑圧と、西方騎馬民族の影響を受けた事で、徐々に、戦闘的な騎馬民族の性質を持つ様になっていった。

3 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:34
この様な事情があった為、牛氏一族と周囲の人々との間には、常に緊張感が漂っていた。牛輔も、幼い時から否応なしにその事を意識させられていた。
周りの子供達と遊ぼうとしても、仲間に入れてもらえなかった。名門・牛氏の嫡男という事もあって、さすがに、いじめられるという事はなかったが、いつも冷めた目で見られている様な気がしてならなかった。その冷たい視線を避けようとすれば、一人、自室にこもるしかなかった。彼の心は、どこか満たされないままであった。
彼の心が満たされない理由は、この他にもう一つあった。物心がついた頃、彼には母親がいなかったのである。いや、いる事はいたのであるが、彼女は、実の母親ではなかった。
「私の母上はどちらにおられるのですか?」
「おまえの母上は、そこにおられるではないか」
父に向かって急にそういう事を話しかけ、父を困らせたりもしたらしい。


「父上。話とは、一体…」
「まぁ、そうせかすな。そこに座れ」
「はい」
父に促され、牛輔は席についた。
「実はな…。おまえに、縁談が来ているのだ」
「縁談、ですか…」


自分の人生の一大事だという割には、落ち着いたものであった。こう言うと、いかにも彼が冷静沈着であるかの様に思われるだろうが、そういうのとはちょっと違う。
古代中国においては、男子は、二十歳で加冠の儀を行い、成人したものとされる(二十歳の事を「弱冠」というのはこれに由来する)。成人したという事は、一人前の男であるから、当然妻帯してもよいものとされるわけである。古礼では、三十で娶るとされている様であるが、実際のところはもっと早かったであろう。
彼は、この時既に加冠の儀を終えていたから、こういう話があっても何の不思議もない。ましてや、嫡男である。もっと早くから話があっても良いくらいであった。

嫡男である自分は、うかつな事をしてはならない。牛輔は、家族内における自分の立場というものをよく理解している。それ故、この数年は、悶々とした日々を過ごしていた。
大族である牛氏の邸宅には、多くの召使たちが働いている。もちろん、その中には妙齢の女性もいる。主人が下女に手を出し、妾にしたり子を産ませたりという事は、古来からままある事である。しかし、彼には、それができなかった。してはならないと、自分を律していたのである。色っぽい下女に手を出したいという欲求に駆られながらも、今までずっとそれを抑えてきている。
(弟は、もう女というものを知っている様だ。なのに、私は…)
縁談については、本音では、大喜びである。これで、堂々と女を抱けるのだから。もちろん、父に向かってそんな態度をとる事はできないのであるが。


「それで…相手の方は、いかなるお方でしょうか」
「知りたいか」
「それはもう」
「相手は…先年の并州での戦いで大功を立てられた、董郎中(董卓。并州での戦いの後、羽林郎から郎中に任ぜられた)殿のご息女だ。名を、姜という。確か、十五、六といったところであったか」
「と、董郎中殿のご息女!?」
牛輔は、仰天した。想像だにしなかった相手である。

4 名前:左平(仮名):2003/01/04(土) 02:18
二、

牛輔が驚いたのも、無理はない。董卓なる人物と牛氏が縁戚になる事など、普通、考えもつかない事だったからである。その理由は、二つある。

一つは、牛氏が牛邯以来の名族であるのに対し、董氏には、そういう背景が全くない事である。董卓の父・董君雅(当時、名に二文字使う事は少ないので、君雅は字ではないかと思われる)は、最終官職でさえ潁川郡綸氏県の尉(県内の警察権を持つ)にすぎないという下級官吏であった。祖父以前の先祖については、全く分からない。漢王朝の、対西方の責任者ともいえる要職・護羌校尉(やや時代は下るが、三国時代においては涼州刺史と兼任であった)を出した牛氏とは、とうていつりあいがとれないのである。
もう一つは、董卓という人物が、当時の価値観とは大きくずれる人物であった事である。その振る舞いは、隴西の、心有る人々の顰蹙を買っていた。なにしろ、漢に対してしばしば叛乱を起こした羌族の族長たちと深い交友関係を持っていたのであるから。
しかし、董卓自身はその事を誇ってさえいた。今の彼があるのは、彼らのおかげなのであるから。彼らとの交友によって、董卓は出世のきっかけをつかんだのである。


董卓は、若い頃から血気盛んであり、郷里で無為に時を過ごす事を潔しとはしなかった。とはいえ、都に出て学問に励もうという気もなかった。史書に「有謀」とある様に、頭が悪いというわけではないのだが、人並み外れた膂力の持ち主である彼にとって、静かに学問に励むというのはどうも性に合わないのである。
その、若い血が騒ぐままに、各地を放浪した事があったのだが、その時に、羌族の族長たちと交友を結んだのである。
漢人として生まれ育ったとはいえ、董卓の気質は、礼教に凝り固まった漢のそれとは合わなかった。羌族との出会いは、そんな彼の心を和ませたのかも知れない。羌族の人々も、そんな彼の事を、好ましく思った様である。彼らは、たちまちに親しくなった。

旅を終えて郷里に戻った董卓は、一応は農耕に励んだものの、余り気乗りがしなかった。そんな頃、羌族の族長たちが、彼のもとを訪れた。董卓は、農作業に使う牛を殺し、その肉を振る舞った。この事が、彼らをいたく感動させた。なにしろ、当時の董卓は貧しく、その牛一頭しか飼っていなかったのである。いくら親しいとはいえ、かくも大事な財産を使ってもてなすというのは、並大抵の事ではない。
羌族は、元来は素朴な遊牧の民である。受けた恩義は必ず返す。彼らは、自らの牛馬を持ち寄り、千頭あまりを董卓に贈ったという。当時、牛馬の価値は非常に高かった(動力源でもあり、乗り物でもあり、食肉になり、皮革製品になり…。その用途は、現代のそれよりもはるかに広く、数頭でも一財産である)。それを千頭となれば、その価値はいかばかりであったろうか。人には、親切にするものである。

人間の社会というものには、少なからず矛盾というものが存在する。この時代も、例外ではない。何より礼教を重んずるとはいいながらも、そうではないところもまた多かったのである。
礼教という観点から見れば、董卓という人物は、お世辞にも立派な人物ではなかった。しかし彼は、父の代からは想像もつかないほど立身した。その背景にあったのは、彼自身の能力もさる事ながら、間違いなく、この時に羌族から贈られた牛馬によってもたらされた富の力によるものであったろう。

やがて、董卓は郡に出仕した。賊の取り締まりに活躍し、三公の掾(属官)に推挙されたともいう。
先代の桓帝の末年(桓帝が崩じたのは、永康元【西暦167】年なので、牛輔と董卓の娘の縁談が進みつつあったこの時より数年前)、董卓は羽林郎に任ぜられた。
羽林郎とは、隴西郡をはじめとする西北の六郡(隴西・漢陽・安定・北地・上郡・西河郡。なお、漢陽=天水)の良家の子弟を選んで任ぜられる郎官である。良家といっても、商人・工人・芸人などの職業を除く家という程度の事であるから、全員が名族の出というわけではないであろうが、れっきとした中央の官位であり、県長級の俸禄を得るという、なかなかの高位である。この当時、名族でない者がなるのは、相当珍しい事であった。

5 名前:左平(仮名):2003/01/04(土) 02:19
(ほう、あの男が羽林郎とはのぅ…)
董卓の立身は、郡内の人々を驚かせた。しかし、彼の活躍はなおも続くのである。

羽林郎に任ぜられてからほどなく、匈奴中郎将の張奐に従い、その軍の司馬として羌族との戦いに加わる事になった。董卓は、羌族の中に多くの知己を持っており、彼らの事を知り尽くしていた。その故の人事であろう。
羌族は、多くの部族に分かれている。彼も、全ての部族と親しくしたわけではない。戦う事については、別段後ろめたい思いをする事もなかった。
董卓の活躍もあって、この戦いは漢軍が勝利した。戦の後、張奐は、恩賞として絹九千匹(一匹=四丈=約9,2m)を彼に与えた。しかし、彼はそれを受け取らず、全て配下の者たちに分け与えたという。
【日本においても、似た様な例がある。平安時代の名将・源(八幡太郎)義家にまつわる話がそれである。彼は、東北で起こった大乱・後三年の役を鎮圧したものの、私的な戦であるとされた為、朝廷からの恩賞は出なかった。すると、彼は、自らの私財を割いて配下の者たちに恩賞を与えたという。義家といえば、雁の列の乱れから伏兵を察知したという逸話もあるから、漢籍の知識も相当あったと思われるが、董卓の、この話はどうであったろうか】
この一事により、ますます董卓の名は高まった。配下を思う心が篤く、また、私欲が薄い。この当時にあっては、彼は、まぎれもない名将であった。
この功績と名声により、彼は郎中に任ぜられた。それとともに、張奐の尽力により、一族と共に、弘農への移住を許されたのである。牛氏との縁談という話が持ち上がってきたのは、ちょうどそんな頃であった。


当時の縁談というものは、その時まで相手の顔も知らないままに進められる事が殆どであった。いや、名前さえも知らされなかったかも知れない。もちろん、当人の意志は全く反映されない事は言うまでもない。牛輔の場合も、そうであった。
相手が自分の意に沿わぬからといって、断る事などできるわけもない。ましてや、相手の父親は、あの董卓である。これからどうなる事やら。

「董郎中殿の方も、この話には乗り気でな」
父は、最後にさらりとそう付け加えた。その口ぶりからすると、父の方からこの縁談をもちかけたという事か。それを聞いた牛輔の心に緊張が走る。どうやら、この話からは逃れられそうにない。
あの董卓の娘。一体、どんな娘なのであろうか。それより何より、董卓が自分の岳父になるという事実をどう捉えればよいのか。
「そうですか」
そう答えるのがやっとであった。
「近く、納采の儀(結婚の六礼の一つ。男子側から結婚を申し込んだ後、礼物を女子の家に贈る)が行われる予定である。これから、何かと忙しくなるぞ」
「はい」
「話は、以上だ」
「はい。では、失礼します」
牛輔は席から立ち、退出した。
(董郎中殿の娘と…。どうしてまたそういう話に…)
彼の頭は、しばらく混乱したままだった。自分の居室に戻り、横になったものの、どうも落ち着かない。

6 名前:左平(仮名):2003/01/05(日) 23:52
三、

夜。天空には、月と星が輝いている。そして、地上には、一人それを見つめる男がいた。人並み外れた巨躯を持つその男の名は、董卓という。
一人夜空を見つめているからといって、別段、何か考えていたというわけではない。ただ、月が美しかったから、それを眺めつつ酒を呑んでいたのである。風は少し冷たいが、なに、大した事ではない。

「お父様。わたしの夫となられる方が決まったそうですね」
後ろから、声をかける者がいる。愛娘の、姜である。愛らしい顔つきといい、小柄な体つきといい、母親の瑠によく似ている。十五、六というと、まだまだ幼いと思われるだろうが、古代中国においては、女子は、十五歳で笄礼を行い、成人したものとされるから、もう結婚の事をいっても不思議はないのである。
【『韓非子』外儲説右下篇に、斉の桓公が「丈夫は二十にして室有り、婦人は十五にして嫁せよ(男子は二十歳で妻を娶れ。女子は、十五歳で嫁に行け)」と布告した、という話がある】
「あぁ、そうだよ」
振り返った董卓が、そう答える。戦場で敵と対峙する時の鬼気迫る姿からは想像もつかないほど、その顔は穏やかであった。平時だからという事もあるが、彼は、家庭愛が強いのである。特に、娘の姜には甘い。
「お相手は、どんな方ですの?」
少し甘えた口調で、父に尋ねる。そんな口ぶりも、母親に似ている。

「牛氏の嫡子で、名を輔、字を伯扶(この作品中での字:実際の字は不明)という。まぁ、隴西の牛氏といえば、なかなかの名門ではあるな」
「家の事ではございませんよ。わたしは、伯扶様の事を知りたいのです」
「あぁ、伯扶殿の事か。…まぁ、実のところを言うと、わしもよく知らぬのだ。真面目で、もの静かな青年という事だがな。まだ会った事はない。容貌は、なかなからしいな」
「もの静かな青年、ですか…」
姜は、少々戸惑いを覚えた。父とは全く性質の異なる人物らしい。どの様に接すれば良いのだろうか。その様子をみた董卓が、さりげなく尋ねる。
「不満か? 不満なら、無理せずとも良い。この話をなかった事にしても良いのだぞ」
もちろん、牛氏との縁談は、董卓にとっても望むところではある。一族と共に弘農に移住したとはいえ、郷里である隴西に影響力を残そうとすれば、その地の名族と結びつくのが最も良い方法なのであるから。しかし、姜の意に沿わぬのであれば、無理をする必要はない。彼は、本気でそう考えていた。
「いえ、不満というのではないのですが…。男の方の事はさっぱり分かりませんから、少し不安なんです」
「不安か。ふふっ、瑠が聞いたら何と言うかな?」
董卓は、少しからかう様に言った。
「お母様と一緒にしないで下さいよ。お母様の場合は、結婚前からお父様の事を知ってたし、好きだったそうじゃありませんか。お爺様に言われて牛馬を届けた際に、そのまま嫁いだって…。わたしは、伯扶様の事は何も分からないし、好きも嫌いもないし…」
「まぁな。わしも、あれには驚いたもんだぞ。羌族の女とは何と大胆なんだってな。どうだ、おまえも、納采の儀の前に伯扶殿の胸に飛び込んでみるか?」
「そんな! そんな事をして伯扶様に嫌われでもしたら、わたしは…」
姜は、声を詰まらせた。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「冗談だよ。わしと瑠は特別だ」
董卓は、そうなだめた。

「まぁ、二人ともどうしたのです? まだ起きてたのですか?」
そう聞いてきたのは、正妻の瑠である。子供達は既に十代に達しているとはいえ、彼女が董卓のもとに嫁いできたのは、まだ十代の時であったから、年は、ようやく三十を少し過ぎたといったところである。
立身した董卓には既に側室がいるが、二人の夫婦仲は至って良い。彼は、膂力もさる事ながら、精力(性的なものばかりではない)にも相当なものがあり、数人の妻女を満足させる事ができたのである。

7 名前:左平(仮名):2003/01/05(日) 23:56
「おぉ、瑠か。どうだ、そなたも飲むか?」
「そう言われれば飲みますけど…。いいのですか?お仕事の方はいかがなさったのです?」
「あぁ、だいたい片付いてるし、明日は休みだ。構わんよ」
「じゃぁ…」
そう言うと、彼女は夫の横に座り、その体にもたれかかった。
「ねぇ…」
彼女は、甘えた声を出し、目を潤ませながら夫を見つめる。董卓の方も、まんざらでもない様である。

「あ…。わ、わたしは、もう寝ますね。おやすみなさ−い」
二人の様子を察したのか、姜は、さっさと自分の居室に入っていった。その動きは、どこかぎこちない。

「あら、あの子ったら。もう男女の事を意識してるのね」
「そりゃそうだよ。あいつも、もうすぐ嫁ぐんだからな」
「早いものですねぇ…。わたしがあなたのもとに嫁いでから、もうそんなに経つんですね。わたしも、年をとるはずです」
「まぁ、あの頃より多少年はとったが…。こっちの方は、まだまだ盛んだな」
そう言いながら、董卓は瑠の胸に手をやった。数人の子を育ててきた乳房は、嫁いできた頃よりも豊かになり、触り心地も良い。
「あんっ。もぅ…あなたったら…」
瑠は、酒もあってか、少し顔を赤くしている。肌は上気し、声には、何ともいえぬつやがある。その姿が、董卓をいたく興奮させるのである。

二人は、互いの帯を緩めた。衣がするりと落ち、二人の裸体があらわになった。二人は、もつれる様にその場に横たわった。董卓の手が、口が、瑠の体をくまなく愛撫すると、瑠の体につやが増し、呼吸が荒くなっていく。やがて二人が交わると、瑠の喜悦の声があがる。それは長々と続いた。

(お父様とお母様は、一体何をやってるのかしら)
床にもぐり込んだ姜ではあったが、聞こえてくる母の嬌声に、興奮を禁じ得なかった。それ自体は小さい頃からしばしば聞いてきたものであるが、自分の結婚が決まったとなると、なおさら意識させられる。
このくらいの年頃になると、そういうものに対する意識が鋭くなるものなのである。
(男女の事って、そんなにいいものなの?)
目がさえて、ちっとも眠れない。する事もないまま、姜は、自分の敏感なところにそっと手をやった。しばらく手をおき、その指先を見ると、かすかに湿っている。いつもと、何かが違う。
(結婚したら、伯扶様がわたしの体を…こういうところも…あぁ…)
眠気と妄想とが交錯する中で、姜は眠りに落ちていった。

8 名前:左平(仮名):2003/01/13(月) 21:06
四、

同じ頃。月を眺めつつ、酒を呑む男がもう一人いた。牛輔の父である。
(輔も、もうそういう年なんだな。月日の経つのは早いもんだ。あれから、もう二十年以上も経つのか…)
そう感慨にふける彼の脳裏に、二十数年前の事が、鮮やかに思い起こされた。


その時−−彼は、一族とともに狩りに出ていた。夏の、暑い日であった。その日は、思ったほどの獲物は得られず、ひたすら野山を駆け回ったので、喉がからからに渇いていた。
(み、水は…)
そう思いつつ野を進むうち、草むらが見えた。まわりより草が育っているところを見ると、近くに泉か川があるらしい。彼は、そちらに足を向けた。
思ったとおり、そこには泉があった。水は十分に清く、これなら飲めそうである。彼は、馬に水をやり草を与えるとともに、自分もその水を飲んだ。渇いた喉にとって、その水は実にうまいものであった。

ひと心地ついてみると、他の者からはぐれている事に気付いた。まぁ、もう子供でもないし、日も高い。慌てるほどの事ではない。
「さて、と…」
顔をあげた彼の目に、人の姿が映った。若い女性である。彼女もこの泉の水を飲んでいたところであった。

「あ…」
互いに初対面である。もう子供ではないが、かといって、異性を熟知するほどにはすれていない。二人は、ほぼ同時に顔を赤らめ、心もち下を向いた。
しばらくそんな状態が続いた。ようやく顔を上げ、勇気を振り絞って声をかけた。
「はっ、はじめまして! …お、お名前は?」
(なっ、何を言ってるんだ、俺は。初めて会う人に対してそう言うか?)
彼の頭の中は、ぐちゃぐちゃになっていた。相手は気を悪くしないだろうか。そんな不安が頭をかすめる。
「わっ、わたしは…。り、琳と申します…」
そう言った彼女は、手で口元を押さえ、うつむいたままである。男を目の前にして、恥じらっているのであろうか。少なくとも、気分を損ねたという事はなさそうである。少しほっとした彼は、気をとりなおして話しかけた。
「琳さんですか。いいお名前ですね。私の名は朗、牛朗と申します」
「朗さん、ですか…あの…」
「いかがなさいました?」
「あなたも…いまこの泉の水を飲まれたのですね?」
「はい…」
「では…あなたと…同じ水を…この唇が…」
そう言ったまま、彼女はなおもうつむいたままである。顔は、ますます赤くなっている。
そんな彼女に目をやったまま、彼も、動けなかった。
(きれいな人だなぁ…こんな人と一緒にいられたら…)
傍から見ると、呆けている様に見えたかも知れない。まさしく、一目惚れであった。

「お−いっ、朗、どこだ−っ」
沈黙は、その呼び声で破られた。ぐずぐずしていると、後で怒られそうだ。
(いけねっ。そう言えば、日も傾いてらぁ)
慌てて、彼は立ち上がった。彼女の姿をもうしばらく見ていたかったが…そうもいかない。

9 名前:左平(仮名):2003/01/13(月) 21:09
「では、琳さん。私は帰らないといけないので」
「あの…。朗さん」
「何でしょうか?」
「また…お会いする事はできませんか?」
「えっ? いや…その…」
意外な言葉であった。彼女の方も、自分に気があるのだろうか?だとすれば、願ってもない。
「そうだ、来月には、またここに来ると思います。その時に、ここで」
「はいっ!」
喜色を全身に表す彼女の顔が、輝いて見えた。その笑顔が、彼の脳裏に鮮やかに焼き付けられた。

それからの一ヶ月は、毎日が異様に長く感じられた。早く狩りの日が来ないものか、そればかりが待ち遠しかった。
「どうした、朗。最近、えらく落ち着きがないが」
そう聞いてくる者もあった。
「いや、次の狩りが楽しみで楽しみでたまらないんです」
「おかしなやつだな。こないだの狩りの時は、ちっとも楽しそうじゃなかったくせに」
「まぁ、あの時はあの時という事で」
彼は、そうとぼけるのであった。

そして、次の狩りの日が来た。その日は、まずまずの収獲であった。が、彼の目指すものは、そういうものではなかったのは言うまでもあるまい。
(琳さんは来てくれるだろうか)
そう思いながら、記憶を辿りつつその泉に向かっていた。一月経っているので、草の生え具合も多少異なっている。が、この泉に間違いあるまい。
しばらく待っていたが、彼女の姿は見えない。
(やっぱり、そんな簡単に来てくれるわけがないか)
そう、諦めかけたその時である。

草をかき分け、人影が現われた。忘れもしない、琳である。その後ろには、羊たちがついて来ている。こないだは気付かなかったが、そういえば、あの時も羊がいた様な…。
(羊を連れている…。琳さんは、ひょっとして羌族の女?)
そんな疑問がわいてきたが、すぐに意識から消えた。何より、想い続けた人の姿が目の前にあるのだから。その姿は、やはり美しかった。彼は、自分の想いが強まっている事を感じた。
「お久しぶりです、琳さん。来てくださったのですね?」
「えぇ。…お会いできて、嬉しゅうございます」
そう言う彼女の瞳が、潤んでいる。そして、ゆっくりとこちらに近づいてきたかと思うと、いつの間にか、彼女の顔が目の前にあった。
「りっ、琳さん…」
体が、思う様に動かない。言葉を発しようとするが、然るべき言葉も出ないし、口も動かない。ただ…両腕を伸ばし、彼女の体をこちらに引き寄せる事を除いては。

二人の体が、密着した。牛朗が、琳を抱きしめたのである。
彼女の温もりが、息遣いが、匂いが、鼓動が伝わってくる。その全てが、彼の心を激しく躍らせる。いや、彼ばかりではない。彼女もまた、彼の全てに心を躍らせているのが分かる。
(このまま…こうしていたい…)
二人とも、同じ事を考えていた。

10 名前:左平(仮名):2003/01/19(日) 21:37
五、

「琳さん…」
「はい」
「私と…ずっとこうして頂けますか」
「それは…夫婦になろう、という事ですか?」
「…そうです…」
「わたしも…そうなりたいです。ですが…」
「ですが?」
「あなたは、隴西の牛氏の方ですよね?」
「えぇ…」
「わたしは、羌族の女です。それも、お分かりですか?」
「羊を連れていたから、何となくはそうかなと思いましたが…」
「あなた方隴西の牛氏と、わたし達羌族との事はご存知ですよね?」
「えぇ。承知しております。でも…この気持ちに嘘偽りはありません。あなたを知った以上、他の女と夫婦となる事は考えられません」
「わたしもです。どうしましょうか…」
「旬日(十日)、待っていただけませんか?」
「一体、どうなさるのですか?」
「何とか、一族の者と話をつけてみます。…旬日の後、またここで」
「はい」

二人にとっては、生涯で長い十日間となった。どちらの一族も、この結婚には大反対であったからである。その説得は、骨が折れるものとなった。
牛朗は、琳が羌族である事を隠しつつ話したのであるが、それでも困難であった。隴西の名門・牛氏としては、然るべき名家から妻を迎えるべきであるというのが当然とされていたからである。野で知り合った女など、どう見ても庶民の娘であろう。家格が合わぬと言われれば、それを論破するのは難しい。
琳の方は、なお困難であったろう。なにしろ、相手は漢人、それも牛氏の男である。羌族の敵と言っても過言ではない一族の男。どうしてそんな男と、と責め立てられたらしい。
しかし、障害が大きい故、想いはますます強くなっていく。そして、その日が来た。

結局、一族の説得はうまくいかなかった。琳の方はどうだったろうか。彼女を待ちながら、彼は、ある決心を固めていた。
琳が姿を見せた。いまひとつ、表情が冴えない。彼女の方も、説得は失敗したという事か。

「琳さん、いかがでしたか?」
「…」
言葉はなかった。
「そうですか…。こうなれば、非常の手段しかありますまい」
「非常の手段?」
「えぇ…。こうするのです!」
牛朗は、そう言うなり、いきなり琳を抱きしめた。そして、彼女が戸惑うのも構わず、強引に唇を押し当てた。初めは戸惑っていた琳であったが、すぐに受け入れた。
二人はしばらく抱き合っていた。

「ねぇ。さっきおっしゃった『非常の手段』っていうのは、一体…?」
「説得して認めてもらえないのなら、強引に認めさせようって事ですよ。私達がいま何をしたかは、分かるよね?」
「えぇ。朗さんったら、強引なんですもの」
そうは言いながらも、嬉しそうである。こうなる事は、彼女も望んでいたのだから。

11 名前:左平(仮名):2003/01/19(日) 21:38
「私達の関係がただならぬものとなれば、双方とも、追認するしかないはずです。あなたは既に男を知ってしまったし、私も、他家の女に手を出してしまった。あなたを私以外の男に嫁がせる事は難しいし、私も、あなた以外の女を妻に迎える事は難しい。そんな事をすれば、双方の家名は落ちてしまうでしょうから…」
「えぇ。そうなりますね」
「もちろん、危険な賭けなんだけど…他に考えつかなかった…」
「ねぇ、朗さん」
「どうしました?」
「行きましょ」
「どちらへ?」
「わたしの集落へ」
「いいですけど…どうなさるのです?」
「二人の仲をみんなに見てもらわないと」
それが何を意味するか。二人ののろけっぷりを見てもらうという様な、ほのぼのしたものではないという事は言うまでもない。
「そうですね」
下手すると、命がけである。だが、彼女とならば悔いる事はない。

二人は、同じ馬に乗って駆けた。
「あれがわたしの生まれ育った集落です」
「琳さん、いきますよ。…覚悟はよろしいですか? もぅ二度とここには戻れないかも知れないんですよ」
「構いません。あなたといられるのでしたら」
「琳さん…」
二人を乗せたまま、馬は集落に突入した。

「あっ、あれは…」
「琳さん! その男は一体…」
二人の姿を目にした人々は、口々にそう叫んだ。男女が同じ馬に乗るなど、漢人のみならず、羌族でも普通有り得ない事である。おまけに、男の方は誰も知らない。何故、琳とその男が同じ馬に?
「琳! おまえ…」
驚き戸惑う人々の中に、ひときわ堂々とした男が立っている。この集落の長であろうか。
「お父さま! わたしはこの方に嫁ぎます!」
(えっ!? 琳さんはここの族長の?)
牛朗は、少し驚いた。族長の娘となれば、彼女にかかった圧力は相当なものであったろう。それだけに、彼女の覚悟のほどがうかがえる。
(琳さん…)
ますます、いとしさが募る。
「何を言っておるか! その男が何者であるか分かっておろう!」
「えぇ! でも…わたしたちは、もうそういう仲になったんです!」
「何と!」
それで、皆黙り込んだ。もう、二人を止める事はできない。
それを見届けると、二人は集落の外に駆けていった。その一部始終をじっと見つめる子供がいた事には、皆気付かなかった様である。

「朗さん、驚かれました?」
「まぁね。…まさか、琳さんが族長の娘さんだったなんてね」
「お気を悪くなさいましたか?」
「いえ。かえって、あなたへの想いが深まりましたよ。私の為にここまでしてくれるのかって」
「嬉しいっ」
琳がぐっと抱きついてくる。彼女の体温が、衣を通じて伝わるのを感じる。
「さぁっ。次は、私の番ですね」

二人は、そのままの勢いで、牛氏の邸宅になだれ込んだ。

12 名前:左平(仮名):2003/01/26(日) 00:43
六、

「あっ…!」
門を守る家人は、驚きを隠せなかった様で、しばらく動かなかった。二人は、馬から降りるとそのまま牛朗の居室に入り、もつれ合う様に倒れ込んだ。

牛朗は、男女の事については初めてである。おおよその事は知っているつもりであるが…。慌しく衣を脱ぐと、互いの体を愛撫し合う。
どうすれば、相手が悦んでくれるだろうか。試行錯誤しながらも興奮は募る。二人の呼吸は早くなり、体からは汗がにじみ出る。
(えっと…この先は…)
琳は、男を受け入れる態勢になりつつある様だ。自分のものも、もう張っている。さて、この先は…

現在では、義務教育の段階で性教育が為されるし、様々な媒体があるので、結婚する男女は、経験の有無にかかわらずその方法を(一応は)了知している。しかし、この当時には、そういうものは殆どない(前漢後期に春宮画【日本でいう春画。男女の性愛の様子を描いた画】の原型ができたらしいが、この当時、一般の豪族の家庭にあったかどうかは不明である)。

「朗さん」
「えっ?」
「これを…ここに…」
琳は、顔を赤らめつつ、朗のものに軽く触れると、自分のところを指し示す。
(そっか…。琳さんは、羌族の女だったな。羊の繁殖の様子を見てるから…)
牛朗は、変に納得した。
「じゃぁ…いくよ…」
「えぇ…うっ」
ついに、二人の体が繋がった。彼女も初めてなのか。琳の顔が、苦悶にゆがむ。
「琳さん、痛いの?」
「うん…ちょっと。でも、朗さんとなら…」
その表情と言葉がいとおしい。二人は肢体を絡め、初めてとは思えぬほどに激しく求め合った。

「はぁ…はぁ…」
事が終わり、けだるさと心地良さがないまぜになる中、二人はゆるゆると立ち上がった。ふと見ると、琳の腰に巻かれていた布に、血痕がついていた。
「これは…」
「これが…証です。わたしにとって、あなたが初めての男の人だという…」
「…」
二人の間にしばしの沈黙が流れる。これで、完全に退路は断たれたのである。

「朗! その女は一体…」
牛朗の父が居室に入って来た。その顔は上気し、今まで見た事もないほどに怒り狂っているのが分かる。普段の牛朗であれば、即座に叩頭して謝罪するところであるが、ここで引く事はできない。ここで引いてしまったら、琳を捨ててしまう事になる。
「父上! 私は…この女(ひと)を抱きました! この女との仲を認めて下さいっ!」
彼女を抱きしめつつ、そう叫んだ。初めて父に逆らったのである。
「何っ!」
「いかがなさいますか。…これを御覧下さい!」
そう言うと、琳の腰を指し示した。そこについている血痕こそ、二人の関係が既にただならぬものになった事を示す、何よりの証拠である。

13 名前:左平(仮名):2003/01/26(日) 00:47
「こっ、これは!」
「私達の仲が認められないとなれば、牛氏の男が他家の女を弄んだという不名誉な事になるのですよ!」
「そなた…本気で言っているのか!?」
「はい」
「勘当しても良いのだぞ!」
「構いません。そうなればなったで、司馬相如【前漢の文人。賦にすぐれた。富豪の娘であった卓文君と恋仲となり、彼女の父親に反対されると、駆け落ち同然の形で結婚した。彼女の邸宅の前で夫婦して屋台を経営した為、ついにその仲を認められたという逸話を持つ】に倣うまでです」
「む…」
そこまで言われると、父も黙り込んだ。この結婚に反対し続けた場合、どちらにしても一族の名折れになりかねないという事が分かったからである。

「ならば…仕方あるまい」
「では! 認めていただけるのですね!」
「だが、一つ条件がある」
「条件、ですか?」
「その娘、おそらく羌族の娘であろう。我が家と羌族との関係は承知しておろう?」
「そっ、それは…」
「その女をそなたの妻と認めるのは良しとしよう。だが、今後一切、羌族の事を考えるな!良いな!」
「そうすれば、わたし達の仲を認めていただけるのですね?」

それまで黙っていた琳が口を開いた。その言葉には、全く迷いがみられなかった。牛朗の方がためらって言い出せない事を、彼女はあっさりと言ってのけたのである。
「りっ、琳さん!」
「いいんです…これで」
「琳さん…」


こうして、二人は晴れて結婚する事ができた。

が、幸せは長くは続かなかった。琳は、長男の輔を産んですぐに亡くなってしまったのである。産後の肥立ちが悪かったのが原因であるが、実家と引き離された形になってしまった事が、彼女の心身を痛めていたのかも知れない。彼女に対しては十分な愛情を注いだつもりではあるが、守り切れなかった事が悔やまれてならない。

生活に追われる心配はないとはいえ、男手一つで乳飲子を育てるのは容易ではない。結局、彼は漢人の女性と再婚した。後妻との仲はまずまずで、子供にも恵まれたのだが、心の空白は残り続けた。

(琳…)
目を閉じると、今でも彼女の姿が浮かぶ。その姿は、色あせるどころか、年を追うごとにむしろ鮮明にさえなっていく様である。
(あいつへの想いが強過ぎたのかな…)
輔の成長を見るにつけ、そう苦笑せざるを得ない。彼は、嫡男である輔に対し、常に厳しく接してきた。それは、最愛の人との間の子であるが故に、必ず傑出した人物に成長して欲しいという気負いの故であったのだが…輔には、そう見えなかった様である。

成長した輔は、どこか神経質に見え、頼りなさげである。このままでは、先が思いやられる。
(新婦に会う前に、輔とじっくり腰を据えて話しておくか…)
そう決めた牛朗は、杯の酒をくっと飲み干した。月は、もう西に傾きつつあった。

14 名前:左平(仮名):2003/02/02(日) 22:44
七、

それからしばらくの時が流れ、季節は夏になろうとしていた。
牛輔の心の中にはなおも戸惑いがあったが、既に決まった話である。
(まぁ、董郎中殿は董郎中殿。娘さんは娘さんだ。性格・容貌ともそっくりという事はなかろう…)
そう、前向きに考えるしかない。

当時の正式な結婚は、六礼と呼ばれる儀礼を踏まえて行う必要があった。もちろん、誰もがそういう手続を踏まえたというわけではないだろうが、これは、豪族同士の正式な縁談である。当然、そういった手続が為された事であろう。
それぞれの儀礼の名と内容は、以下の様になっている。
納采(男子側から結婚を申し込んだ後、礼物を女子の家に贈る)、問名(男の方から使者を送って相手の女の生母の姓名を尋ねる礼)、納吉(婿側で、嫁に迎える女子の良否を占い、吉兆を得れば女子の家に報告する)、納徴(納吉の後、婚約成立の証拠として、女子の家に礼物を贈る)、請期(結婚式の日取りを取り決める事。男の方で占って吉日を選び、その日を女の方に申し込むが、儀礼上、女側に決めてもらうという形式をとる)、親迎(婿が自ら嫁の実家に行って迎えの挨拶をする儀式)。
この時、既に請期までは済んでおり、あとは親迎を行うのみであった。婿となる牛輔は、この時初めて岳父・董卓と妻となる女性・董姜に会う事になる。
その、親迎の日の朝である。牛輔は父の居室に呼ばれた。

「父上、輔です。お呼びでしょうか」
「うむ。まぁ、入れ」
「はい。失礼します」
牛輔と父は、向かい合って座った。こうして二人で話すのは、縁談を聞いた時以来である。何かあったのだろうか。見当もつかない。

「輔よ。今宵、いよいよ親迎だな」
「はい」
「これで、名実ともに牛・董両家は縁続きになる。董郎中殿は、名将である。董家は、今後ますます栄えるであろう。そなたは、その娘婿となるわけだ」
「はい。そうですね」
特に、とりとめのない話なのか。しかし、父ともあろうお人が、そういう話をされるとも思えないが…。
「そなたは、今後、我が家の一員であるのに加え、董家の一員ともみられる事になる。それは、つまり、両家に対し責任を持つという事だ。両家の名に恥じぬ様に振る舞ってもらいたい」
「はい。分かっております」
「それで、というわけではないが…。それに先立ち、そなたに話しておきたい事がある」
「何でしょうか?」
父は、何を言おうとしているのであろうか。彼には、まださっぱり分からない。

「そなた、自分の名をどう思っている?」
「は?」
いきなり、何を言い出すのだろうか。この名は、父がつけたものであるはず。良いも悪いも、もう二十年以上も付き合ってきた名である。今まで意識する事もなかったが…。
「私の名は輔ですね。いえ、別にどうという事もありませんが…。いかがなさったのですか?」
「いやな。なぜわしがそなたに輔という名をつけたか、という事だよ」
「はぁ…」
「この話は、ちと長くなるぞ」

15 名前:左平(仮名):2003/02/02(日) 22:46
そう言うと、父は座り直した。なるほど、長い話になりそうである。
「そなたの名である『輔』という字にどういう意味があるかは分かるか?」
「はい。そもそもの意味は、車輪を補強する為のそえぎ、ですね。で、それ故『たすける』という意味になる、と学んでおります」
「そうだ。では聞こう。そなたは、この家の嫡男である。そのそなたに、何故『輔』という名をつけたと思う?」
「えっ?」
そう言えば、そうだ。嫡男である自分が、一体何を「たすける」というのだろうか?
「私の上に、兄がいた、という事ですか?」
それくらいしか思いつかない。いや、普通はそうであろう。それとも…。今になって、そなたは嫡男にふさわしくないと思っておった、とでも言うのであろうか? だとすれば、どうして今まで嫡男として扱われたのか? 
「いや、そうではないのだ。…そなた、覚えておるか? 昔、『母上はどこにおられるのですか』とわしに聞いた事があったろう」
「はぁ…そう言えばそんな事があった様ですね」
「そなたも分かっておろう。そなたを産んだ母上と、今の母上とは違うという事が」
「はい。はっきりと聞いたというわけではありませんが…。しかし、それとこれと、一体何の関係があるのですか?」
「それが、あるのだよ。まぁ、聞きなさい」
そう言う父の声は、いつもと違って聞こえた。こんなに優しげな声を聞くのは、いつ以来であろうか。

「あれは、もう二十年以上も前になるか…」
父の話は、牛輔にとっては初耳であった。この邸宅内には、当時を知る者も何人かいるが、その様な話は聞いた覚えがない。家内における父の威厳は非常に強く、この様に微妙な話題について口を滑らせる者はいなかったのである。
(私の母上は、羌族の族長の娘だった…? しかも、父上と相思相愛だった…? 羌族と牛氏は、激しく対立しているというのに、そんな事が…!)
あの謹厳な父が、かつてその様な激しい恋をしたとは、どうにも信じ難い。だが、本人の口から語られている以上、事実であろう。

「あの時、わしには琳が全てであった。あいつがいてくれれば、何もいらなんだ。…だがあいつは、そなたを産んですぐに死んでしまった。どんな名前にしようか?って聞く間もなく、あっけなくな。遺されたわしは、全てを失ったと感じた。生きる意味もないとさえ感じた。しかし…後を追うわけにはいかなかった」
「私がいたからですか?」
「そうだ。死んだあいつが、想い出以外にわしに遺してくれた唯一の存在。それが、そなただ」
「では、私の名は…」
「そう、何よりも、わしを『輔(たす)』けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ」
「そうでしたか…」

牛輔の脳裏に、父との日々が思い出された。
父は、いつも厳しかった。何か悪戯をしようものなら、容赦なく叱られたものだ。それは、名族の嫡男であるからとばかり思っていたが、それ以外の意味もこもっていたのか…。
彼も、ただ部屋にこもっていたわけではなく、それなりに学問もしてきている。それによって培われた理性は、父の思いをしっかりと理解した。

「これからは、わしばかりでなく、董郎中殿もそなたの義父(ちち)となるのだ。ふたりの父を、しっかりと『輔』けてくれよ」
「はいっ!」
(父上が厳しかったのは、私の事を大事に思っていたが故なのか…)
親迎を前にして、少し、気が軽くなった気がした。自分は、誰かに必要とされる存在である。それは、妻となる姜にとっても同じであろう。それで良いではないか。その思いが、彼の心を明るくしてくれた。

16 名前:左平(仮名):2003/02/09(日) 21:45
八、

夕刻となった。太陽は地平線に没しつつあり、強烈な陽光も和らいでいる。少し風が吹いてきた。ここ隴西は内陸部であり、湿度は低い。頬に当たる、乾いた風が心地良い。
いよいよ、親迎である。今日、ついに、妻となる女(ひと)と会う事になるのだ。彼女はいま、牛氏の邸宅にほど近い、董氏の別邸で待っている。もちろん、父の董卓も一緒だ。
牛輔の心は、否応なしに高まっていた。

古礼によると、婚儀というものは、祝うべきものではなかったという。
妻を娶るというのは、子がそれだけ成長したという事を示す。それは同時に、親はそれだけ年老いたという事をも意味する。太古の人々は、その負の側面を意識していたのである。未知なるものへの恐れという意識がそれだけ強かったという事であろうか。
また、陰陽においては、男は陽、女は陰とされている(医学的には男性器の事を「陰茎」という。しかし、女性器と対比するとなると「陽物」と言ったりするのがその一例であろう)。妻を娶るという事は、陰を家に納れるという事になる、と考えられたのである。
それ故、婚儀は夜に行われた。陽光のもと、にぎにぎしく執り行うものではなかったのである。
とはいえ、この頃になると、人の有り様も変わっている。いつしか、婚儀は、その正の側面を意識するものに変質していたのである。まぁ、この時代は、儒に基づく礼教がやかましく言われていたから、儀礼の様式自体は、ある程度古礼にのっとっていたであろうが。

牛輔自らが手綱をとる馬車が、ゆっくりと動き始めた。馬車の扱いには慣れていないのであるが、不思議とすんなりと動いた。

太古に用いられた戦車は、ながえ(車につく、かじ棒。横木・くびきなどを介して、車と馬をつなぐ。一本ながえをチュウ【車舟】、二本ながえを轅という)が一本であったが、この頃には、二本のものが普通であった。この形の方が、効率が良く、また、馬の制御もやり易いのだという。もっとも、一本ながえの戦車には二〜四頭の馬をつないでいたのに対し、二本ながえの馬車には一頭の馬しかつながないのであるから、全体の力は下回りそうである。速度も、さほどではあるまい。
戦場を駆け回るのならともかく、妻を迎える分には、これくらいの方が良さそうである。

あたりが暗くなり、天空に星がまたたき始めた。先導する従者が松明に火をつけると、暗がりの中に馬車がぼんやりと浮かび上がった。
(これが正式な儀礼なのは分かっている。とはいえ…)
高まる心とは裏腹に、あたりの空気はしんと静まりかえっている。このまま、闇の中を走り続けるのだろうか。そんな気持ちにさえなってくる。
ふと気付くと、大量の松明がともっているのが見える。間違いない。董氏の別邸である。
(いくら、三日三晩火をともし続けるのが儀礼とはいえ、ちと多過ぎはしないか)
闇の中、董氏の別邸の周囲のみは、まるで昼間の様な明るさである。こういうところにも、董卓という人の性格が表れているという事か。

門が見えた。門前に、巨躯の男が立っている。岳父となる董卓、その人である。
その姿を認めた牛輔は、頃合いを見計らい、車上から拱揖(きょうゆう:両手を胸の前で重ねて会釈する)の礼をとった。董卓も、同じ礼を返した。まだこの時点では、互いに言葉を交わす事はない。ただ、目を合わせ、無言の中に何かを伝えようとするのみである。
(さすがは、歴戦の勇将。ものすごい威厳だ。向こうは、私の事をどう思っただろうか?頼りないやつと思っただろうか?)
彼の娘婿となれば、戦いに加わる事も多かろう。それ相当の力量が必要となるはずである。今の自分がそれにふさわしいかと言えば、自信はない。
(もっと武芸に励むべきだったか…。おっと。今は、親迎の儀礼を滞りなく済ませる事の方が先だったな)

17 名前:左平(仮名):2003/02/09(日) 21:47
これから、妻を迎えようとするところである。落ち込んではいられない。
門が開いた。馬車がゆっくりと中に入っていく。別邸とはいえ、なかなか広い。中庭で、彼は手綱を董氏の家人に預け、車から降りた。

堂(中庭の側が吹き抜けになっている広間)に上がり、祖廟での一連の儀礼が終わると、新妻を車に乗せる
事になる。
姜が、姿を現した。彼女もまた、当時の儀礼に従い、新婦が身につける纓(えい:頭にかける紐飾り)を除いては、わりと地味な衣装をまとっている(古礼によると、この時の衣装は、黒いものを用いるという。これでは喪服と同じではないか、と思うかも知れないが、古代の喪服は白いものを用いたというから、問題はない)。顔は、ここからではまだよく分からない。照れて、顔を合わせるのもままならないのである。それは、向こうも同じらしい。顔を伏せ気味にしてこちらに近付いてくる。
(意外と小柄だな。それに、私に会って照れてる様だ…)
そんな、何気ないしぐさにも、彼の心はときめく。

姜がそばまで来た。牛輔は綏(車の乗降の際につかまるひも)を投げ、彼女を車に導く。綏を通じて感じる彼女は、不思議に軽く感じられた。あの董卓の血を引くとは思えないほどに。
車輪を三回転させると、彼は車から降りた。先に自邸に戻って、新妻を門前で迎えるのである。

すっかり夜も更けた。自邸の門前で、彼は妻の到着を待っていた。時の流れが遅く感じられる。が、それは苦痛ではない。
やがて、松明が見え、姜の乗った馬車が姿を見せた。彼は、揖譲(ゆうじょう:手を組み合わせて挨拶し、へりくだる)し、彼女をいざなった。

目の前に杯が置かれ、酒が注がれる。二人は、それぞれの杯を手にとり、酒を口に含んだ。酒で口をすすいで体を清めるとともに、同じものを口にする事で、礼を明らかにするのである。
これで、親迎の儀礼はなかば終了した。翌朝、妻は早起きして夫の両親に挨拶をする事になる。
(明日の事があるから、あまり変な事はできないが…)
姜の横顔をちらちら眺めながら、牛輔は心を昂ぶらせていた。

18 名前:左平(仮名):2003/02/16(日) 00:28
九、

一通りの儀礼を終えた二人は、ゆっくりと、居室に入った。室内には寝具が整えられており、燭台には火がともっている(当時の照明に用いられたのは、木片か獣脂。木片は松明の形で、獣脂は、灯心をさして蜀台の上で燃やした)。寝具は、もちろん一つしか用意されていない。
別に、寝所に入る際にはゆっくり歩かなければならないというわけではない。しかし、急ぐ事はできなかった。晴れて夫婦になったとはいえ、なにしろ、初対面である。そんな相手と、いきなり男女の交わりを持つのであるから、心は逸るものの、体がいう事を聞かない。二人とも、全身が緊張していた。

ようやく、寝具のところに腰を落ち着けると、二人は向き合った。さっき、車に乗り込む際に顔を合わせたはずなのであるが、あの時は緊張の中にいた為、顔をよく見ていなかった。いま、ようやく互いの顔を見つめあった。
(あぁ、この女(ひと)が…私の妻なのか…)
(わたしの夫は…この人なのね…)
二人は、しばらく無言のまま見つめあっていた。見とれていた、と言っても良い。とはいえ、一言も話さぬままに体だけ重ねるというのも味気ない。第一、こんなに緊張した状態で、うまくできるだろうか。
(何か話して、緊張をほぐさないと…)
傍目には、歯がゆく見えたであろう。もう、衣装を脱ぐだけで良いというのに、何を固まってるんだ、と。

しばらくして、ようやく牛輔の方から口を開いた。
「き、姜さん…」
「はい?」
「何から話しましょうか?」
「何から、とおっしゃられても…」
「う−ん…。ねぇ、姜さんは、どうして『姜』って名前なんですか?」
「えっ?」
「いや、今朝、父に聞かれたのですよ。『そなた、自分の名をどう思っている?』って」
「はい。それで、どうお答えしたのですか?」
「いえ、答える事はできませんでした。そんな事は考えてもいませんでしたから。そうしたら、父が、私の名の意味を話してくれたのです」
「あなたの名は、確か『輔』でしたよね。その意味ですか」
「そうです。父は、こう言いました。『わしを「輔(たす)」けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ』と」
「でも…。あなたはご長男ではないのですか?字も『伯扶』ですし。跡目を継ぐお方が、どうして『輔』なのですか?」
「そうなんですが…これには理由があったそうで…」
そして、父から聞いた事を話した。それまで聞く事はなかったとはいえ、他言を禁じられたわけではない。妻には話しておいても良かろう。
話を聞き終わった姜は、目を見張った。驚きを隠せない様である。そりゃそうであろう。牛氏と羌族との関係は、隴西に住む者であれば周知の事なのだから。
「では、あなたも…羌族の血を引いておられるのですね」
「えっ?じゃ、姜さんも…?」
「えぇ。わたしの母・瑠は、羌族の族長の娘です。何でも、かつて父が集落を訪ねた時に一目惚れして、牛馬を届けた際にそのまま嫁いだって…」
「そうでしたか」
「不思議なものですね」
「えっ?」
「そうでしょ。だって、わたしもあなたも漢人の家に生まれましたが、羌族の血を引いてるんですから。これも、何かの縁ですね」
「そ、そうですね…」

19 名前:左平(仮名):2003/02/16(日) 00:31
体の緊張が、(一箇所を除いて)少しずつほぐれてきた。
言葉を交わす事で、彼女の人となりが、何となくではあるが見えてくる。その表情といい、声といい、変な翳りは感じられない。彼女は、心身ともに健やかに育った事は間違いなかろう。それ故、少なくとも、夫である自分を故なく軽んじる事はなさそうである。
妻、そして母としてはどうであるかはまだ分からないが、一人の女として彼女を見れば、特に文句をつける様なところはない。あとは、自分が彼女にふさわしい男になれるかどうか、である。

「じゃ、そろそろ…」
「えぇ…」
二人は、帯を緩め、ゆっくりと上衣を脱いだ。夏の夜である。昼間よりはだいぶ涼しいとはいえ、緊張と興奮の為か、二人の体にはうっすらと汗がにじんでいる。鼓動もさらに早くなった。
肌着を脱がせる為、彼女の肩に手をかけようとした牛輔は、その体からかすかな匂いがするのに気付いた。

この当時、どの様に体を洗っていたか。古代ロ−マの例もある(有名なカラカラ浴場は、3世紀初めに完成している。これ以外にも、多くの浴場があった)様に、主には蒸し風呂であったと考えられるが、「斎戒沐浴」という言葉もあるから、湯水で体を洗い清める事もあった様である。
ただし、毎日洗ったというわけではなかったろう(だいたい、「斎戒沐浴」という行為自体、天を祀るなど特殊な儀礼の際に行うものというニュアンスが漂っている)。漢代の官吏に「休沐」(体を洗う為の休暇。この当時は、五日に一回)というものがあった事自体、それを示している。
ほぼ毎日入浴して体を洗っている我々に比べると、人間の体臭は、また、そういうものに対する感覚は強かったはずである。

(あぁ…この匂いは…)
彼は、女の匂いには縁が薄かった。実母は、生まれてすぐに亡くなったし、義母との関係も、(彼がそう思っているだけかも知れないが)いささか距離がある。それだけに、その匂いは強烈であった。
初めて嗅ぐその匂いは、なぜかは分からないが、彼の心をさらに興奮させる。

手からは、彼女の肌の感触が伝わってくる。その感触は、絹布の如き、いや、何とも比べられないほど、なめらかで、心地良いものであった。
思わず、我を失いそうになる。が、欲情に溺れっ放しではいられない。相手は、妻なのである。今宵限りの相手ではない。彼は、一瞬目をつむり、自らを戒めた。
(待て待て、少し冷静にならないと。慌てず、ゆっくりと、優しく…)

裸になった二人は、顔を近付け、唇を重ねた。互いの鼓動と息遣いが伝わってくる。そのまま、ゆっくりと横になった。
牛輔が愛撫するたびに、姜の体は反応を示す。しばらくそうしているうちに、汗が吹き出し、初々しい嬌声があがり始めた。
(あぁ…いまわたし、伯扶様に愛されてる…やだ、こんなに乱れちゃって…恥ずかしいっ…)
恥ずかしさと悦びの余り、姜が体を激しくくねらせると、牛輔もそれに合わせて体を動かした。二人とも、今までかしこまっていたのが嘘みたいである。
ついに、二人が交わった。いくら心身の準備ができているとはいえ、初めて男を受け入れた瞬間はさすがに苦痛を伴うらしく、姜の顔が一瞬苦悶にゆがむ。
「い、痛いの?」
「ちょっと…。でも、嬉しいです。これで、本当に夫婦なんですから…」
目を潤ませ、痛いのをこらえているその表情が、さらに男の欲情をそそる。女が痛がっている様子に興奮するのではない(それではただの嗜虐である)。彼女が、その苦痛よりも、自分に抱かれるのを喜んでくれている事、言い換えると、自分をそれだけ深く愛してくれている事に興奮するのである。
「姜さん…」
「姜、と呼んでください」
「あぁ、姜」
二人は、理性を半ばかなぐり捨てて、激しく交わりあった。

20 名前:左平(仮名):2003/02/23(日) 22:21
十、

事が終わり、重なっていた二人の体が離れた。呼吸は荒く、体と寝具は、汗やら何やらで、ぐっしょりと湿っている。
「こんなに…」
「ん?」
「こんなに…いいものだなんて…。お父様とお母様がしょっちょうしてるのも分かるわ…」
「そうだな…」
(董郎中殿は、今も奥方と? まぁ、無理もないか…。俺も、こんなにいいものとは思わなかったしな…)
「ねぇ…。もう一回、いいでしょ?」
姜が、甘えた声を出しながら、そう聞いてくる。それは、牛輔からしても望むところではあるが、明日の事もある。何回も交わって、寝坊させるわけにもいかない。
「俺もそうしたいけど…。明日は、早いだろ?だから、もう寝よう」
「だめぇ?」
ちょっと不機嫌な顔になった。その表情もかわいらしく、欲情をそそるものだから、いよいよこちらとしてもなだめるのが辛い。
(俺だって、したいのはやまやまだよ。もう一回どころじゃないくらいに)
内心はそう思いつつも、懸命になだめた。
「まぁ、こらえてくれよ。明日、儀礼が全部済んだらもっとかわいがってやるからさ」
「ほんと?」
「あぁ」
「約束ねっ」
姜は、裸のまま牛輔に抱きついてきた。牛輔も、彼女の体に腕を回し、二人はそのまま眠りについた。

翌日−。
眠い目をこすりつつ、姜は目を覚ました。夏の朝は早い。空は、既に白みがかっている。
親迎の翌朝は、新婦は早起きしなければならないのであるが、このくらいの時間なら、まぁ問題なかろう。とはいえ、ぐずぐずしてはおられない。身づくろいをしないと、今の格好では、恥ずかしくて部屋から出られない。
(さぁてと。もうひと頑張りしないと)
舅・姑との儀礼がまだ残っている。昨晩の様子からすれば、夫とはうまくやっていけそうであるが、舅・姑との関係がまずければ、台無しである。姜は、自分を励ましつつ、元気良くはね起きた。隣には、夫の牛輔が眠っている。いや、眠ったふりをしている様だ。
「じゃ、あなた。また後でね。昨日の約束、忘れないでよ」
そう言うと、心なしか、夫がうなづいた様に見えた。

まずは、身を清めなければならない。姜は、桶を用意し、水を張ると、その中に体を沈めた。体を沈めたといっても、さして大きくない桶であるから、下半身が水に浸るくらいである。
手で体に水をかけながら、彼女は、自分の変化を感じていた。
もちろん、たった一日で目に見える変化があるわけではない。しかし確かに、夫に抱かれ、自分は娘から女になった。その意識をもって見ると、自分の体でさえ、何か全く別なものになったかの様に思える。
(この胸…。この胸を、伯扶様やわたし達の子供が触る事になるのね…。こんな風に…)
そっと胸に手をやった姜は、これからの事を思い、思わず恍惚となった。
(いっ、いけないっ!わたしったら、こんな時に何考えてるの!)
これから大事な儀礼があるというのに。そう思うと、思わず顔が赤くなった。

沐浴し、体を洗い清めた姜は、堂で舅・姑と向かいあう事になる。
既に六礼は終わったといえるのであるが、この時の儀礼もまた、なかなかに骨の折れるものである。大まかに流れをいうと、まず、礼物のやりとりやまつりごとがあり、それによって新婦の賢明さが確認された後、饗応を受け、退室となって終了するのである。これらがうまくいかなければ、今後、何かと不都合が生じるであろう。最悪の場合は、即離婚ともなりかねない。

21 名前:左平(仮名):2003/02/23(日) 22:24
「婦」という字は、「女」と「帚」から成り、「ほうきを持った女」という意味あいを持つ。そもそもは、神を祀る宗廟を清めるという重要な役割を担っていた様である。この頃には、そういう意味は失われていたものの、婦人が、家庭内においては重要な存在であった事は間違いない。単に、夫の快楽の相手というだけではないというのは、今も昔も同じである。

夫との関係は良いものとなろう。それだけに失敗は許されない。そう、緊張して臨んだ儀礼ではあったが、すんでみれば、そう大したものではなかった。
(良かった。お義父様もお義母様もお優しい方で)
十分に練習はしてきたものの、完璧にできたというわけではない。しかし、真摯に取り組んでいるさまを見て、二人とも大目に見てくれた様である。
自分の顔を見た時、舅がちょっと驚いた様であったが、特に何も言われなかった。あれは、何だったのだろうか?ちょっと気になったが、すぐに頭から消えた。
(さぁ、あとは…うふふ)
この後は、お楽しみの、昨晩の続きである。あの人と、飽きるくらいに…。そう思うと、思わず顔がほころんだ。
「あなたぁ。さ…」
「あぁ。おいで」

「ハネム−ン」(=蜜月)という言葉がある。何でも、英国では、新婦が滋養に富んだ蜂蜜酒(ハニ−ワイン)を作り、それを一月にわたって新夫に飲ませるのだとか。滋養に富んだ酒を飲ませてする事と言えば…
やはり、であろう。
そういう風習の有無は分からないが、この新婚夫婦もまた、そういう状態であったろう事は、想像に難くない。

それからしばらく経った、ある日の事である。

22 名前:左平(仮名):2003/03/02(日) 18:25
十一、

牛氏の邸宅に、数人の男達が訪れた。多くの戦場を踏んできたのであろうか。その顔つき・体つきは、精悍そのものであった。その中でも、ひときわ体格の大きい男が、門番に話しかけてきた。

「ご主人はおられるかな?」
「えっ? 失礼ですが、どちら様でしょうか。今日は、お客様が来られるとは聞いておりませんが…」
「おっと、これは失礼した。あらかじめ連絡しておくべきであったな。すまぬが、おられるのであったら、董卓、字仲潁が参ったと伝えて下さらぬか」
「はい…。しばしお待ちいただけますか?」

「なに、董郎中殿がお見えだと?」
董卓の急な来訪を聞き、牛朗は驚いた。一体何の用件であろうか。
(まぁ、姜殿の様子を見に来られたのであろうが…)
何も聞いてないから、はっきりしたところは分からない。ともあれ、来られたのであれば、無碍に追い返すわけにもいくまい。
「はい。いかがいたしましょうか」
「どうするも何も、董家と我が家とは、今や縁戚であるぞ。すぐにお通ししろ」
「はい」
「それと、酒肴も忘れるなよ」
「はい」


その時、牛輔は自室におり、一人書を読んでいた。読み始めてからだいぶ経つのであるが、まだ終わりそうにない。
(う−む…難しいな…。でも、理解しないと…)
数文字読んでは首をひねり、しばらくしてうなる。その繰り返しであった。なかなか頭に入らない。

この時代を生きた名族の嫡男であれば、基礎的な教養として五経(詩経、書経、易経、春秋、礼記。もともとは六経であったが、楽経は早くに亡失した)を読むのは当然の事であった。当然、彼もそのくらいの教養は積んでいる。その彼をして「難しい」と言わしめたもの。それは、兵書であった。
この当時、いくつかの兵書があった。有名なものに、「孫子」(この頃には「孫武兵法」「孫ピン【月賓】兵法」があった。現在、我々が「孫子」と呼んでいるのは、「孫武兵法」の方である)「呉子」「司馬法」「六韜」「三略」「尉繚子」「李衛公問対」がある。

董卓の娘婿となる以上、戦いに出る事も多かろう。それは、かねてより覚悟していたが、親迎の儀礼の時、彼に会った事で、その確信は深まった。
(戦いに出たとしても、恐らく武勇では役に立てまい。だとすれば、何で役に立てるか。あまり自信はないが…智をもってお役に立つよりほかないな)
そう考えると、五経のみの知識では心もとない。戦場にあって役に立つ知識といえば、何と言っても兵書であろう。そう思って読み始めたのである。
必要に迫られての読書であるだけに、熱が入る。だが、実戦の経験はないだけに、どうしても不安が残るのも、また事実であった。

ところで、姜はどうしているのであろうか。彼女はというと、姑につき従い、婦人のすべき仕事(彼女たちは豪族の妻であるので、自身が炊事・洗濯などの家事をするわけではない。しかし、家人の仕事ぶりを監督したり、家の祭祀を行うという重要な役割がある)について学んでいるところである。
態度・もの覚えは、まずまずの様である。何より、嫌味がなく、素直であるのが良い。この分なら、良い婦人になれるであろう。

父母共に健在で、牛輔自身は無官であるのだから、今のところは何もする事はなさそうなものだが、そうもいかない。新婚夫婦だからといって、四六時中いちゃついているわけではないのである。

23 名前:左平(仮名):2003/03/02(日) 18:27
ふと気付くと、外が騒がしい。きりのいいところだし、ちと休むか。そう思った牛輔が部屋の外に出ると、家人達が忙しく立ち働いている。食事時でもないのに配膳の支度をしているのである。
「随分忙しそうにしてるが、何かあったのか?」
「あ、若様。実は、董郎中様がお見えなのです。で、酒肴の支度をする様に、との事なので」
「えっ!? 義父上が? で、いかがなさっておられる?」
「いや、今は殿とお話されております。どうも、大事なお話をされている様で…」
「そうか」
「また、何かあったらお呼びしますので」
「あぁ。分かったよ」
牛輔は、部屋に戻った。また読書を続けようとしたが、どうも落ち着かない。
(義父上は、何しに来られたのだろうか? 大事な話とは、一体何だろうか?)


牛朗と董卓は、向かい合って座っていた。体格は、董卓の方が大きいが、風格という点では、さしたる差はない様である。いや、この場に限っては、牛朗の方が堂々としているくらいである。
「ところで、いかなるご用件でしょうか?」
「えぇ。実はですな…」
董卓は口ごもった。豪放な彼らしくない態度である。
「はい。何でしょうか?」
「伯扶殿…」
「輔ですか?輔に、何か?」
「その…伯扶殿と姜を…我が別邸に移したいのです」
「はぁっ!? 一体、何をおっしゃっているのですか?」
牛朗は驚きを禁じ得なかった。いかに娘婿であるとはいえ、息子のいる人間が他家の者を手元に引き取りたいとは、一体どういうつもりなのであろうか。
「いや、驚かれるのはごもっともです。こちらの身勝手なお願いですからな」
「いや…その…」
牛朗には、わけが分からない。何と返事すれば良いのか。言葉が出てこない。
「我が家は、先年の戦の功により、弘農に移住する事になりました。それはご存知ですね」
「えぇ。存じております」
「ですが…。今の我が家は、武門です。都を向き、朝廷に仕える一方で、今後も、西で戦う事がありましょう。その時、西の事を委細もらさず把握する為には、この地に我が耳目となる人間が必要なのです」
「輔に、その耳目となってもらいたいという事ですかな?」
「そうです」
「ふむ…」
牛朗は、考え込んだ。董卓が、輔を高く評価しているのは喜ばしい。だが…。輔が、それを承知するであろうか。氏を変えるわけではないものの、この家を出て董卓の別邸に移るという事は、董氏の人間になれと言う様なものである。牛氏の嫡男としての資格を失うのではないか。そんな疑念をも与えかねない。
「こればかりは、私の一存では決めかねます。輔と姜殿に話した上、後日、返事させていただくというわけには参りませんか」
「分かりました。もともと、こちらからのお願いですからな」

「まぁ、堅い話はこのあたりにして。ところで、今日は、いかがなさいますか」
「えぇ。久しぶりに、姜の顔を見ていこうかなと」
「そうですか。お泊りになられますか?」
「よろしいのですか?」
「えぇ。では、さっそく支度させましょう」

24 名前:左平(仮名):2003/03/09(日) 21:48
十二、

その後、牛朗と董卓は、しばし談笑した。董卓にとっては、やはり隴西の方が気楽である様だ。ときおり、弘農の人間に対する愚痴もこぼれる。
「ははは…。まぁ、そうおっしゃられるな。もう一杯、いかがですかな?」
「えぇ。では、頂きます」
「しかし…。それならば、何故に弘農に移られたのですかな?」
「それはまぁ…。やはり、中央で高位を望もうとすれば、都の近くにいる方が何かと好都合ですからな」
「でしょうな」
「我が家は、代々の名族ではありませんからな。そちらと釣り合おうとすれば、多少の無理はやむを得ないのです」
「そういうものですか…」

「あら。父上ではありませんか」
そばを通りかかった姜が、声をかける。
「おっ、姜か。ほぅ…。しばらく見ぬ間に、また随分と女らしくなりよったな。伯扶殿に、たっぷりとかわいがってもらっておる様だな」
「もぅ、父上ったら。お義父様やお義母様もおられる所で、そんな事を言わないで下さい」
「ははは。これはすまんかったな。だが、当たっておろう」
「もぅ…」

姜がその場を離れると、また二人の話が続いた。
「ところで、一つお聞きしたい事があるのですが…」
「何でしょうか?」
「貴殿のご令室についてですが…」
「あぁ、瑠ですか。あれが、どうかしましたかな?」
「確か、羌族の族長の娘、と伺いましたが、間違いございませんね?」
「えぇ。…いかがなさいましたか?まさか、今になってこの婚儀を無かった事に、などとおっしゃるのではありますまいな」
「いやいや。その様な無礼な事はしませんよ。そうではなくて、ご令室のご家族について、お聞きしたいのです。これは、個人的な事です」
「はぁ…。まぁ、わしの知っている範囲でしたら何なりと」
「では…。まず、ご令室には、姉君がおられますかな?」
「いた、と聞いております。何でも、早くに亡くなったとか」
「その姉君は、漢人の男に恋し、子を成した。違いますかな?」
「えっ? 確かにそうですが、なぜその様な事をご存知なのですか?」
「その姉君の名は、琳、ですね?」
「たっ、確かに…」

董卓は、一瞬ぞっとした。別に内緒にしている事ではないが、かと言って、おおっぴらに話しているわけでもない。なぜそんな事まで知っているのであろうか。見当がつかない。

「驚かれましたか」
「あっ、当たり前です!我が家を探られたのですか?」
「そうではありません。こちらも驚きましたよ。姜殿の顔を見た時には」
「えっ?姜の顔を?」
「そうです。やはりそうでしたか…」
「おっしゃる事がよく分からぬのですが、どういう事です?」
「いやね。姜殿の顔を見た時、一瞬、琳と見紛うたのですよ。なるほど、伯母と姪でしたら、似てるわけですね…」
「伯母と姪?と、いう事は…」
「そうです。今は亡き我が妻・琳と貴殿のご令室・瑠殿とは、実の姉妹であろうかと」

25 名前:左平(仮名):2003/03/09(日) 21:50
「確かに、その通りの様ですな…。ここまで話が一致するとなれば、そうとしか考えられません。…と、なると…。伯扶殿と姜とは、従兄妹同士という事ですか」
「恐らく」
「こりゃまた…」
「まぁ、大した事ではありますまい。輔と姜殿は、姓が異なりますからな」
「それはそうですが…。名族・牛氏としてはそれでよろしいのですか?」
「えぇ。構いません」
「まぁ、それならそれでよろしいのですが…」

中国(及び朝鮮半島)には「同姓不婚」という原則がある。同じ姓(朝鮮の場合は、本貫【一族の始祖の出身地】も考慮する必要がある)の男女は結婚してはならないという事である。
一般的には、近親婚の禁止という意味でとらえられており、事実、だいたいの場合はそうなのであるが、時に、この様な事例も発生する。
現在の感覚でいうと、この場合も近親婚といえるのであるが、二人の姓が異なる為、問題にはならないのである。

翌日、董卓は帰っていった。彼が帰るのを見届けた牛朗は、さっそく牛輔・姜夫妻を自室に呼んだ。


父の表情は、いつもにも増して固い。義父との話は、思っていた以上に重要なものであった様だ。牛輔にはそう感じられた。だが、その内容までは、うかがい知る事はできない。
「父上。話とは、一体…」
「まぁ、そうせかせるでない。話は、二つある」
「二つ?」
「そうだ。その前に、姜に聞こう。そなたには、伯母上がおられたな。違うか?」
「はい。母上がまだ小さい頃に亡くなられたと聞いておりますが…」
「うむ。そして、その伯母上の名は、琳、ではないか?」
「はい…。ですが、なぜその事を?」
「実はな。琳は、輔の母なのだよ」
「えっ!? と、いう事は…」
「そうだ。そなた達は、血を分けた従兄妹同士という事になる」

全く予想もつかない話に、二人は茫然とした。では、自分達は近親婚をしたというのか…。

26 名前:左平(仮名):2003/03/16(日) 21:37
十三、

「おいおい。そう驚くなよ」
「おっ、驚かないわけがないでしょ! 従兄妹同士が交わったなどとは…。それでは、私達は禽獣以下という事ですか!」
「わっ、わたし、もぅ…」
二人とも、泣き顔になっている。こんな事が明るみになれば、人から何と言われるだろうか。その事を考えると、前途には絶望しかない。
「だから、驚くなと言っとるだろうが!よく考えろ。輔よ。そなたの姓は何だ?」
「牛です」
「では、姜の姓は?」
「董、ですが…」
「ほれ。二人は、姓が異なるであろうが」
「あっ…。そういえば…」
「孝恵皇帝(劉盈。劉邦の子で、前漢の二代皇帝)は、実の姪である張氏(恵帝の姉・魯元公主の娘)を皇后に迎えられたというし、孝武皇帝(劉徹。前漢の武帝)は、従兄妹である陳氏(陳氏の母・館陶公主は、武帝の父・景帝の姉)を皇后になさったではないか。その事で、何か非難されたか?」
「そっ、そういえばそうですね…」
「帝室においてもそうなのだ。ましてや、臣下たる我らの間でそういう事があっても不思議ではあるまい。姜が取り乱したのはまぁしょうがなかろう。しかしな。輔よ、そなたも一緒に慌ててはいかんな」
「はい…。気をつけます」
(いかんいかん。俺ももう結婚してるのだし、もっとしっかりしないと。…それにしても、父上はどうしてこうも落ち着いておられるのだ?)
ちょっと引っかかるものはあったが、その話はそれっきりであった。まぁ、もう過ぎた事だ。

「で、もう一つの話だが…。こちらの方が本題なのだが…」
「はい」
いきなりあれほどの衝撃的な話を聞かされたのだ。もう、大抵の事には驚かない。
「董郎中殿がな、そなた達を別邸に迎えたいとおっしゃったのだ」
「はぁっ!?」
驚かないつもりであったが、やはり驚かざるを得なかった。董郎中殿は、なぜその様な事をおっしゃったのか? 確かに、先の話ほどの衝撃ではないものの、冷静に考えると、その意味はより重いものがある。
「何でもな。『我が家は、武門である。都を向き、朝廷に仕える一方で、今後も、西で戦う事があろう。その時、西の事を委細もらさず把握する為には、この地に我が耳目となる人間が必要なのだ』という事であった」
「私に、その耳目になれという事ですか?」
「そういう事だ」
「はぁ…」
「この件については、わしからは返事をしておらん。そなたと姜の気持ち次第だ」
「…分かりました。明日には、返事をいたします」
そう言うと、牛輔は席を立とうとした。その顔は、固いままであった。

27 名前:左平(仮名):2003/03/16(日) 21:39
董氏の別邸に移るという事は、何を意味するか。それくらいは、別段深く考えずとも分かる。姓は牛のままであるにしても、事実上、董氏の人間になるという事だ。
父は返事をしなかったと言う。結論を出すのを自分達に任せたという事だが、本心ではどうお考えなのだろうか。私の事をどう思っておられるのか。そのあたりの事を考えると、気持ちがもやもやする。こんな事なら、父から答えてもらい、「こういう事になった」と結果だけ告げらける方が気楽である。
(それなら、義父上がおっしゃる様に董氏の別邸に移った方が良いか…)
移ったなら移ったで、その前途は、決して楽なものではあるまい。しかし、このままもやもやとした日々を過ごすよりはましであろう。
冷静を装ってはいるが、心のどこかで投げやりになっているのが分かる。だが、ひとたび気持ちがそうなってしまった以上、自分ではどうにもならない。
(やはり、輔の心中に疑念が生じているか…。このままでは、いかなる結論を出すにせよ、輔にとってはよろしくないな。なれば…)
父の目は、牛輔の動揺を正しく捉えていた。その上で、とるべき方策を考え、一つの答えを導き出した。

「輔よ」
「はい」
「わしはな、そなたがいかなる結論を出すにせよ、これを機に、隠居する事にしたよ」
「えっ!?なぜですか?」
突然の事に、牛輔は驚いた。父はまだ若く、これといって病に罹っているわけでもない。隠居する理由が見当たらないのである。
「そなたも結婚した。その様子だと、じきに子にも恵まれよう。…わしも、もう古い世代になっておるという事だよ。これは、良い機会だ」
「しっ、しかし…。それでは、私がここを出た場合、いかがなさるのですか?この家は弟が継ぐにせよ、まだ若過ぎますし…」
「おいおい。この家を継ぐのは、嫡男であるそなただぞ」
「えっ?」
「分からぬか。これからは、そなたが牛氏の当主という事だ。よって、そなたのいるところが牛氏の本宅という事になる」
「…」

牛輔は、無言のまま父の居室を後にした。

(父上は、どうして今隠居するなどとおっしゃったのか…)
それが何を意味するのか。よくよく考える必要がありそうだ。

自室に戻った後も、牛輔は黙りこんだままであった。

明日、回答を出すとは言ったが、彼の中では、既に一応の結論は出ていた。董氏の別邸に移る。その事については、迷いはない。その覚悟はできているつもりである。
だが。父の真意を捉えられない事には、どうもすっきりとしない。それが何であるかを考えている間に、いつしか外は暗くなっていた。

28 名前:左平(仮名):2003/03/23(日) 21:59
十四、

「あなた。もう遅いですよ。そろそろお休みにならないと」
既に寝支度を整えた姜が、床の中から心配そうに言う。いつもならば、寝支度が整ったとなると、飛びつく様に床に入り、自分を抱きしめるというのに。父が言い出した事で、夫が悩み苦しんでいるのであろうか。だとすれば、やりきれない。
「やはり、迷われているのですね」
「ん?」
「董氏の別邸に移るという事は、あなたが董氏の一員になる。少なくとも、世間はそうみなす。そういう事なんですよね」
「まぁ、そうであろうな」
「牛氏は、董氏よりも家格が上。その嫡男が、董氏の下風に立つのはいかがなものか。迷われるのも、無理はありません。…父は、いったんこうと決めたら後先考えずに行動するところがあります。難しいと分かれば無理はしませんから、そう気を使われる事はありませんよ」
「いや、その事については、迷ってはおらんよ。私は、董氏の別邸に移ろうと思う」
「えっ?なぜですか?」
「私が董氏の婿であるというのは事実だ。父上も反対していない以上、婿が義父に従うのは当然であろう。それに、そなたにとっても、ここよりも我が家の方が過ごしやすいはず。…我が母は、父上と結婚する為に家族から引き離されたという。母が若くして亡くなったのは、そのせいかも知れぬと父上はおっしゃっていた」
「でも…。わたしは、伯母上…いえ、お義母様と違って家族と引き離されたわけではありませんよ。本当に幸せです。それに体の方も、ほら、こんなに元気ですし」
確かに、姜の顔色は良く、病の気などみじんも感じさせない。
「まぁな。しかし…」

(んっ?)

そう言いかけた牛輔の頭に、ふっとある事が浮かんだ。
(そういえば、私と姜が従兄妹ではないかという時に、なぜ父上はかくも冷静だったのだろうか?)

姓が異なるから世間にとやかく言われるものではないというが、血のつながりがあるかも知れないというのは事実である。にもかかわらず、父は、この事については一切問題視しなかった。問題ないというどころではない。むしろ、望ましいとさえ思っていたのではないか。そんな気がする。
では、なぜ望ましいと思ったのであろうか。

(私も、姜も、ともに母は羌族の娘だ。二人の母が姉妹だったというのは、さすがに意外であったろうが。…つまり、二人は羌族の血を引く者。二人の間に生まれるであろう子もまた、羌族の血を引く者となる…)
(であれば、何にせよ、羌族とのつながりを否定する事はできない。我が牛氏は、代々羌族と対立してきたが、そうもいかなくなっているというわけだ。なにしろ、私自身、羌族の人間でもあるわけだから…)
(そんな私が牛氏の跡目を継ぐ事になれば…。牛氏のあり方が、今までと大きく変わるという事になる。また、そうならざるを得ないだろう。弟が継いだのでは、そうはならないが)
(父上は、そうなる事を見越して、あの様な事をおっしゃったのであろうか。そなたが牛氏のあり方を変えよ、という事なのか。私が董氏の別邸に移るのに反対しないというのも、そうせよという婉曲な意思表示なのか…?)
(だとすれば、私は父と義父から、えらく期待されている事になるな…。そんなに期待されても、応えられるかどうか分からないってのに…)
(まぁ、移る事自体はもう決めたから、返事はできる。その時にでも、父上に聞けばいいか)

自分の中で、一応の結論が出た。そうなると、急に気が軽くなった。

29 名前:左平(仮名):2003/03/23(日) 22:02
「姜。何か分かった様な気がするよ」
「何か、って何ですか?」
「まぁ、それはまたゆっくり話すよ。…明日からは、引越しの支度で何かと忙しくなるぞ」
「では、董氏の別邸に移られるのですね」
「あぁ。この部屋でそなたを抱くのも、もうあと少しだ」
そう言うが早いが、姜に抱きついた。
「もぅ、あなたったら。今度は、わたしの部屋でいっぱい抱いてくださるんでしょ」
「まぁな」
あとは、いつもの二人であった。

翌日−。

「で、輔よ。決まったか?」
「はい」
「ふむ。どうするつもりかな?」
「董氏の別邸に移る事にいたしました」
「そうか。ならば、その様にするがよい」
「はい」
父は、それ以上は何も言わなかった。顔を見ても、不満の色は感じられない。反対はしていない様だ。となれば、自分が推定した通りという事か。

「父上。一つお聞きしたい事がございます」
「何かな?」
「なにゆえ、私と姜が従兄妹かも知れぬという時に、父上はかくも冷静だったのですか?」
「なぜかって?そうさなぁ…」
「わしにも、よく分からぬのだ。ただ、不思議と驚かなかった。それだけだ」
「そうなのですか?私は、何か思われるところがあっての事と考えたのですが…」
「それは考え過ぎというものであろう。ともかく、二人の姓は異なるのだからな。ただな…」
「ただ?何でしょうか?」
「姜の母が羌族の女であるというのは事前に知っておった。そしてその事は、わし個人としては、むしろ望ましいとさえ思った。牛氏の当主としては、変な考えなのかも知れぬが…」
「…」

何となくではあるが、父の思いが分かってきた様な気がした。
父は、かつて羌族の娘を愛し、周囲の反対を押し切ってまで結婚した人だ。その結果として、今こうして自分がいる。
牛氏と羌族との関係がこのままでは、何かと問題になろう。どうして、敵の血を引く者が一族の中にいるのか、と。その事で、どこかから糾弾されるやも知れぬ。そうならない様、両者の関係を良好なものに変えたかったのだ。そしてそれは、かつて愛した人を弔う事でもある。
だが、牛氏の当主である以上、先祖の方針を変える事は難しい。そこで、董氏の婿でもある嫡男の自分に、その意思を託したのであろう…。

「父上。父上の思いが分かった様な気がします」
「そうか」
「父上は、牛氏と羌族との関係を良好なものにしたいとお考えなのではありませんか?そして、それができるのは、ともに羌族の血を引いた我が夫婦である、と」
「うぅむ…。そうかも知れぬな」
「私如き非才の者には重いやも知れませぬが…。父上の思いに応えられる様、精一杯努めます」
「そうか。その気持ちを忘れるなよ」
「はい!」

30 名前:左平(仮名):2003/03/30(日) 21:37
十五、

その日から、引越しの作業が始まった。牛氏にとっては、かつて羌族の叛乱の際に避難した時以来の、大規模な引越しであった。
なにしろ、姜を迎える際に持ち込まれた家財道具に加え、牛輔の身の回りの品、さらに、夫婦と共に移る家人達の持ち物もあるのだ。仕分けをし、車に積み込むだけでも一仕事である。

「これはこっち!それはあっちだ!それは…って、こりゃ持ってくもんじゃねぇだろうが!」
「あ−っ!それ、あたしの−!返してよ−!」
「これは…。こんなところにあったのか…」
「おい、ぐずぐずするな!さっさと運べ!後がつかえてるんだ!」
「へっ、へい!」
「まったく!今時の若いやつらは…」
作業を仕切る年長の家人が愚痴をこぼす。長らく牛輔の世話にあたってきた彼であるが、今回の引越しには同行しない。これが、牛輔の為にする最後の仕事である。

「まぁまぁ、そう怒るなよ。あいつらも、よその屋敷に移るってんで舞い上がってるんだろうからさ」
「若様、そうはおっしゃいますがね。あんなざまじゃ、牛氏の家人として恥ずかしいじゃありませんか。それにしても…。どうして若いのばかり選ばれたんですか?私ら年寄りはお嫌いですか?」

今回、牛輔夫妻に数人の家人が従う事になったが、その殆どは、牛輔と同年代の若者であった。牛氏と董氏とではしきたり等が違うだろうから、適応しやすい若者の方が良いと考えての判断である。また、若い主に年長の家人だと、守り役をつけられている様で、格好悪いという事もある。

「いや、そういうわけじゃないんだ。向こうには、董氏の家人がいるだろ?私は、いずれ牛氏を継ぐにしても、董氏の婿だ。婿がぞろぞろと家人を連れて来て、あまりでかい顔をするわけにはいかんだろ?」
「まぁ、そうなんですが…」
「そなた達の事を、嫌ったりするものか。…今まで、私の為によく働いてくれたな。感謝しておるよ。父上を、母上を、弟達を、よろしく頼むぞ」
「はい…」
「おいおい、泣くなよ。何も永久の別れというわけでもあるまいに。これから移る董氏の別邸というのは、この近くだ。来たくなったら、いつ来ても良いのだぞ」
「よろしいのですか?」
「あぁ」

全ての作業が終わったのは、数日後の事であった。
董氏の別邸には、親迎の儀礼の際に一度来ているものの、じっくりと内部を見たわけではない。あらためて見ると、想像以上に大きいのが分かる。
(別邸でこれだからな…)
特に豪奢なつくりというわけではないが、実用本位に作られたこの邸宅は、なかなか快適である。中でも、姜の居室は、女の寝起きする所らしく、こまやかな気配りが行き届いている。
(こういうところにも、義父上の人となりが表れているという事か…)


こうして、新たな生活が始まった。
牛輔は、まだ牛氏の跡目を継いではいない。さすがに、子が生まれていない段階で跡を継ぐのは時期尚早という事で、父には現段階での隠居を思い留まってもらったのである。

31 名前:左平(仮名):2003/03/30(日) 21:39
とはいえ、ここでは間違いなく、彼は一家の主である。若い家人達の指揮をとり、家内を治めるのは、なかなか大変な仕事である。
(父上には、しばし思い留まって頂いて正解だったな)
ちと情けないが、これで跡目を継いでいた日には、体がもたなかったかも知れない。
(とにかく、早く慣れないと…)
いずれ、自分が跡目を継ぐのである。のんびりしてはいられない。それに、いずれ出仕するとなれば、学問や礼儀、それに武芸も身に付けておかなければならない。

自分も大変ではあるが、姜は、もっと大変であろう。婦人としての修練もそこそこに、主婦になったのであるから。自分はまだ無官であるから、男としての仕事はまだ僅かであるが、彼女は女として一通りの仕事をせねばならないのである。

「無理するなよ。俺は、そなたがいてくれるだけでいいんだから」
夜、彼女を抱きしめながら、そういたわってやるのがせいぜいである。
「そう言っていただけると嬉しいです…」
そう言う声が、どこか弱々しく感じられる。気のせいか?忙しくて疲れているのか?ならいいのだが、やはり心配である。
「そろそろ冷えてくるからな。俺が暖めてやるよ」
「はい…」

数日後の事である。
自室で書を読んでいると、何だか外が騒がしい。ふと見ると、家人達が慌しく走り回っている。
「若様!…いえ、お館様!たっ、大変です!」
「どうした!騒々しいな、何事だ!」
「そっ、それが…。奥方様が、気分が悪いとおっしゃって…」
「なっ、何っ!姜が!」
「いかがいたしましょうか」
「と、とにかく、一刻も早く診てもらえ!」
「はい!」
(やはり具合が悪いのか…)

「ふむふむ、ほぅほぅ…。なるほどな…」
「で、いかがですか」
「なに、心配ご無用。ご懐妊ですよ」
「か、懐妊!それは、間違いないでしょうね!」
「えぇ。間違いないです。ご気分が悪かったのは、つわりのせいですな。ま、奥方様は初産になられるのですから、お体には十分ご注意なさる様にして下さい」
姜が懐妊…。という事は、もう何ヶ月かで、自分は父親になるという事か。いずれこういう日が来るのは分かっていたが、まだ、いま一つ実感はわかない。

「姜、具合はどうだ?」
「あっ、あなた。すみません…心配させてしまって…」
「いいんだよ。ゆっくり養生するといい。そなたの体は、今やそなただけのものではないんだから。無理はするなよ」
「はい」
「しかし…。ここから赤子が出てくるというのが、何とも不思議なもんだなぁ…」
「そうですね…。わたしも、よく分からないです」
「不安か?」
「確かに不安ですが…。でも、嬉しいです。確かに、今、あなたとの子供がここにいるんですから」
「そうだな…」

32 名前:左平(仮名):2003/04/06(日) 21:16
十六、

その知らせは、ほどなく董卓のもとにも届けられた。まぎれもない吉報である。
「なに?姜が懐妊したとな?」
「はい。あと六、七ヶ月ほどでお産まれになるとの事です」
「そうか。来年には孫の顔を見られるか。伯扶め、真面目そうな顔をして、なかなかやりよるな」
そう言う董卓の顔は、ほころんでいた。無理もない。自分自身がまだ十分若いうちに、早々と孫の顔が見られるというのだから。当時に限らず、子孫が増えるのを喜ばぬ者はいない。

だが、一方で、気になる事もあった。娘婿である牛輔の力量については、まだ未確認のままなのである。果たして彼は、将として、また、自分の補佐役として、ふさわしい人物であろうか。
いずれ彼は牛氏の跡目を継ぐであろう。そうなってから万一の事があっては大変である。今のうちに、その力量を見極めておかないと、えらい事になりかねない。
(と、なると…。そろそろ、伯扶にも戦を経験してもらわぬとな。それも、今年のうちに)
董卓の顔から喜色が消え、鋭い表情となった。それは、紛れもなく、将としての顔であった。

董卓が牛輔邸を訪れたのは、それから間もなくの事であった。
「なに?義父上がお見えになったとな?」
「はい。ただ今、堂にてお待ちになっておられます」
「そうか…」
「分かった。すぐに堂に行く。酒肴を支度しておいてくれ。頃合いを見てお出しする様にな」
「はい。直ちに支度します」
(姜の懐妊を祝いに来られたのであろうが…。どうも、今回はそれだけではなさそうな気がする)
よく分からないままではあったが、ともかく、服装を整え、義父の待つ堂に向かった。

堂では、董卓と姜が談笑していた。

「おぉ、伯扶殿か。姜が懐妊したと聞いてな、こうして祝いに参ったよ」
「はい…。それはかたじけないです」
牛輔は、うやうやしく拱揖の礼をとった。董卓からすると、娘婿のそういう態度には多少改まったものを感じないでもないが、まだ何度も会っているわけではないだけに、まぁ、こんなものであろう。
将として牛輔という人物を見ると、多少線の細さを感じないではないが、人としては悪い感じはしない。これなら、鍛えれば何とかなりそうである。
「まぁ、そう堅くならずともよい。…ところで、そなた、わしに何か聞きたい事があるのではないか?」
「は?」
「顔を見れば分かるよ。わしがここに来たのは、単に姜を祝いに来ただけではないと考えておろう?」
「はぁ…」
図星である。言い返し様もない。
「思った事がすぐ顔に出る様ではまだまだだが、まぁ、今はよかろう。そなたの思っている通りだよ」
「えっ!?」
「驚くでない。そなたにも分かっておろう」
「まぁ…。まだおぼろげではありますが…」
「なら、話が早い」
そう言うが、董卓は座り直した。父もそうだが、こういう姿勢をとった時は、だいたい真剣な話である。
さっきまで談笑していた姜も、その言わんとする事を察したのか、顔つきが変わった。さすがは董卓の娘である。その顔には、凛としたものが感じられる。

33 名前:左平(仮名):2003/04/06(日) 21:18
「季節は秋。そろそろ、羌族など遊牧の民が暴れだす頃だ。それは、そなたも知っておろう」
「はい」
羌族については、彼自身もよく分かっているつもりである。収穫の時期を狙って蜂起するという事は十分に考えられる。
「今の羌族には、鮮卑の檀石槐の様な大物はおらぬ。それゆえ、この地では、孝安皇帝や孝順皇帝の御世に起こった様な大乱は、そうそうあるまい。だが、彼らの叛乱は止まぬ」
「…」
その様に言われると、牛輔としては、黙り込むしかなかった。果てなく続く戦いという事か。そんな中で、自分は一体どう振る舞えば良いのだろうか。
もとの護羌校尉・段ケイ【ヒ+火+頁】は、褥で眠る事がないと言われている。辺境に身を置き、異民族との戦いに明け暮れる者の有り様とは、そういうものなのかも知れない。だが…。自分には、そうなる自信はない。義父は、自分にどこまで求めるのであろうか。
その様子に気付いたのか、董卓の口調は穏やかなものに変わった。
「そんなに深刻な顔をするでない。今は、我らがごちゃごちゃ考えててもしょうがない事だ。…近く、羌族の討伐を行う。それに、そなたも従軍してもらおう」
「はい」
否応も無い。既に予想していた事である。姜も、そういう覚悟はしていたのであろう。特に驚く様子は見られない。


邸内が、また慌しくなった。引越し、奥方の懐妊に続き、今度は主人の出征である。加えて、来年には長子の誕生もひかえている。
「やれやれ、忙しい事だな」
家人達は、そう微苦笑した。若者が多く、経験も乏しいだけに、手際は良くない。ただでさえ忙しいというのに、よくもまぁ次々といろんな事が起こるものだ。ただ、そうはぼやきつつも、彼らの表情は明るい。いずれも凶事ではないからだ。これで主人の名が上がれば、より高位に就く事もあるだろう。それは、一家の繁栄につながるのである。

牛氏としては、戦いに赴くのは、久しぶりの事である。年配の家人の中には、自分が従軍するかの様に興奮する者もいる。
「腕が鳴りますなぁ。わしがもう少し若ければ、若…いや、殿の為に手柄を挙げてみせますものを」
そんな周囲の喧騒の中、牛輔もまた、気持ちを昂ぶらせていた。

34 名前:左平(仮名):2003/04/13(日) 20:09
十七、

出立の日が来た。
真新しい戎衣(軍服)に身を包んだ牛輔の姿は、多少のぎこちなさを残してはいたものの、それなりに凛々しいものであった。
「あなた、行ってらっしゃい」
「あぁ。行って来るよ」
ちょっとどこかに外出するかの様な、何の変哲もないやりとりである。聞いただけでは、これから戦場に赴くとは思えない。
(何としても、生きて帰るぞ。子供の顔を見るまでは死ねない。これが永久の別れになってたまるか)
いよいよ、戦いである。「今回の戦の相手は、羌族である。さして大規模なものではない」義父からはそう聞いてはいるものの、何が起こるか分からないのが戦場である。油断はならない。

「うむ。思っていたよりは似合うな」
董卓は、娘婿の姿をそう評した。今回は、さして難しい戦ではない。そんな思いが、こういう軽口になって出てくる。
(とにかく、伯扶に実戦を経験させておかんとな。あれには、いずれ、勝【董卓の嫡子。実際の名は不明】も補佐してもらう事になるのだからな)
今は、牛輔(及び牛氏の保有する兵力)を戦力としては見ていない。だが、羌族との戦はこれからも続く。次の世代を担う者を育てねばならぬのである。

もっとも、董卓がそこまで考えている事などは、牛輔には分かろうはずもない。
「義父上。『思っていたよりは』とはどういう事ですか」
つい、そんな不満が漏れる。
「いや、すまんすまん。細身のそなたの事だから、『衣に勝(た)えざるが如く』見えるのではないかと思ってしまってな。許せよ」
「私とて、少しは鍛えております。お気遣いは無用ですぞ」
「そうか。どうやら、揃った様だな。では、出発するぞ!」
「お−っ!!」
兵達から、喚声があがる。士気は、十分だ。

二人は、馬首を揃えて進んだ。戦場に着くまでは、強いて語る事もない。皆、無駄口をたたく事もなく、無言のまま行軍する。
戎衣を身にまとい、愛馬・赤兎馬にまたがった董卓には、何ともいえない威厳が漂っている。
(果たして、私は義父上の様になれるだろうか)
年齢・経験はともかく、体格・武勇、どれ一つとっても自分は義父には遠く及ばない。その冷厳な現実を、あらためて見せ付けられるのは辛い。
(いや、今は、眼前の戦いに集中する事だ)
さまざまな思いが頭をよぎるが、牛輔もまた、無言のまま進む。

戦場が近付きつつある。董卓は、数騎を偵察に放つ事にした。

偵察に向かう者達が董卓の前に呼ばれた。彼らを見ると、実にさまざまである。
精悍な面構えをした、いかにも強そうな者もいれば、ひょろりとして、自分よりも弱そうな者もいる。騎馬の者もいれば、徒歩の者もいる。経験を積んだ老兵もいれば、若い新兵もいる。
「義父…、いえ、郎中殿」
牛輔は、「義父上」と言いかけて、慌てて言い直した。これから、戦である。私情を挟むのは禁物だ。
「これは一体…?」
「どうした?敵の様子を探るのは、戦いにおいては必須であろう?」
「いえ、偵察する事については全く異存はございませんが…。なぜこの様な者達を集められたのですか?」

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