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■ 小説 『牛氏』 第一部

1 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:31
以前から書き込んでましたネタ、まだまだ練られておりませんが、見切り発車致します。
ここ数日、毎日数行ずつ書く様にしておりますが、ネタの貯金をしつつ進むつもりですので、ペ−スは分かりません。
以前の様に、週一ペ−スとはいきそうにありませんので、悪しからず。

予定では、三部構成となっております(それぞれ何回くらいになるかは全く未定です)。

なお、感想などは、雑談スレッドか新規スレッドにてお願いします。
では…

35 名前:左平(仮名):2003/04/13(日) 20:12
「こいつらは、目が良い。それに、一人で戦うほど無謀ではないし、逃げ出すほどの腰抜けではない。それではいかんか?」
「いえ、そうではなくて…。彼らは、体格といい、経験といい、てんでばらばらではございませんか。それでは、報告にぶれが生じるのではありませんか?」
「ふむ。そなたの言う事にも、一理ある。だが、わしにはわしの理がある」
「そうですね。よろしかったら、教えて下さいませんか?」
「そうだな。後学の為にも、話しておこうか」

「そなた、『孫子』は読んだ事があるか?」
「はい。まだ、十分に理解したとまでは言えませんが…」
「まずは、読んでおれば良い。読んでおるのならば、『彼を知り己を知らば百戦して殆うからず』という言葉は知っておろう?」
「はい。存じております。ですが、その言葉がいかがしたのですか?」
「人とは、不思議なものよ」
董卓は、静かにそう言った。そう言う彼の姿は、普段の豪放な姿とはまた違うものがある。
(義父上に、この様な一面があるのか…)
武勇の人・董卓にこの様な思慮深さがあるとは、正直、意外であった。だが、郎中ともなれば、それ相当の修練を積んでいるもの。別段、不思議な事ではない。

「他人の事については、凡人でもそれなりに批評できるというもの。近頃、汝南の方にそういう輩がいるらしいな。確か、許子将(許劭。子将は字)とかいったか。まだ、ほんの若造だというのにな。…だが、こと自分の事になると、なかなかそうもいかぬ」
「確かに」
「たとえば、こいつをどう見る?」
そう言って董卓が指差したのは、精悍な面構えをした青年である。
「私には、逞しい男だと思われますが…」
「そなたにはそう見えるか。だが、わしには、まだまだひよっ子に見える」
「それはそうでしょう。郎中殿より逞しい男は、そうはおりませぬから」
お世辞ではない。事実、董卓の体格・膂力は、誰から見ても並外れたものであった。
「そこなのだ。同じものを見ても、見る者によってこうも違ってくる。…事実というものは、確かに一つしかない。しかし、一人が見たものは、あくまでも『その者が見た事実』に過ぎぬのだ。…何を言いたいか、分かるか?」
「はい。まだおぼろげにですが、郎中殿のおっしゃる事が分かってきました。様々な視点から物事を見る事で、『本当の』事実に近付こうというわけですね」
「そうだ。わしがこいつらを偵察に遣るのは、そういう意図からだ」
「そして、彼らの知らせを、将たる郎中殿が分析し、判断なさると」
「そういう事だ。もちろん、わしが的確な判断を下せるという前提があってこそなのだがな」
「そうですね」
「恐らく、ここ涼州までは来ぬであろうが…鮮卑にも注意せねばな。我らの兵力では、檀石槐には勝てぬ。まぁ、わしにとって怖いのはそれくらいだ。だが、気をつけぬとな。そなたに万一の事があったりすれば、姜に怒られてしまう」
「それは…」
こんなところで妻の名を出されるとは。何とも気恥ずかしい。

「では、行けっ!」
「はっ!」
董卓の号令のもと、数名が偵察に放たれた。

36 名前:左平(仮名):2003/04/20(日) 20:27
十八、

部隊は、戦いの地に近付きつつあった。既に、吹く風は冷たくなりつつある。冬が近いのである。
果てしなく広がる平原にあるのは、ただ、僅かな灌木と枯草ばかり。いかにも、荒涼とした風景である。
(なにゆえ、羌族の叛乱は止まぬのか)
よくは分からないが、この風景に、その答えがある様に思われる。

董卓のもとに、鮮卑についての知らせが届いた。今のところ、これといった動きはないらしいので、直ちに涼州が脅威にさらされるという事はない。あとは、やがて眼前に見えるであろう、羌族のみである。
やがて、偵察に出ていた者達が帰ってきた。

「千は越えているかと思われます。なにぶん遠くからでしたのでよくは分かりませんが…。砂埃の立ちようからして、そう考えられます」
「いや、せいぜい五、六百といったところです。私は、確かにこの目で敵兵を見ました。間違いございません」
「多くは騎兵でした。かなりの精鋭かと思われます」
「将らしき者は見当たりませんでした。個々の敵は精鋭でも、まとまりは悪いはずです」
「この先には、なだらかな丘がある程度です」
予想通り、彼らの報告は、実に多種多様なものであった。一部、相反するものもある。

「ふむ。そうなると…」
董卓は、顔を上げ、天を仰いだ。天を見つめながら、彼は、報告を分析し、然るべき判断を下すのである。
しばらくその状態が続き、しばし目を閉じた後、かっと目を見開き、大声で叫んだ。
「皆の者! 戦いはすぐそこだぞ!」
兵達に、一斉に緊張が走る。董卓の脇にいた牛輔も、思わず体がびくっとした。
「敵はこの先数里! 数は数百!」
「隊列を整えよ! 小高い丘を目印に進め! 長兵、最前列へ! 弩兵はその後ろにつけ! 騎兵は後列につくのだ!」
ひとたび動き始めたかと思うと、次々と指示が下される。兵達の動きが、慌しくなった。だが、その動きに目立った乱れは見られない。皆、将の指示に従い的確に動いているのである。
その動作の見事さに、牛輔はしばしみとれていた。将たる者は、かくありたいものである。

やがて、小高い丘が見えた。ここを少し過ぎ、丘を背にする形で布陣を進めていく。陣形が整う頃、徐々にではあるが、敵の姿が見え始めた。
ほぼ、報告のとおりである。その数、数百といったところであろうか。こちらは千数百というところであるから、数の上では優勢である。その一方で、個々の武勇という点では羌族の方が上回るであろうから、あとは、戦い方次第である。
幸い、こちらの方が位置的には高みを占めている。突撃するにせよ、陣を構築するにせよ、見上げて戦うよりも見下ろして戦う方が何かとやり易いし、力学的にも有利である(例えばボ−ルを投げ下ろすのと投げ上げるのと、どちらがより速いだろうか?)
平原に、双方が対峙する形となった。双方の距離が百歩(一歩=約1,4m)余りまで詰まったその時、喚声とともに、羌族の騎兵が一斉に突撃を開始した。

37 名前:左平(仮名):2003/04/20(日) 20:30
乾燥したこの地では、少し動いただけでも砂埃が上がる。彼らの突撃を見ていると、なるほど、数百の敵が千以上に見えたのもうなづける。馬術ひとつとっても、遊牧の民である彼らの方が上である。
「長兵! 構え−っ! 弩兵! 矢をつがえよ!」
董卓の号令のもと、各々の兵士が動く。ほどなく、両者が激突した。

前列に並んだ長兵が、突進する敵に向かって一斉に戈を振り下ろした。単純な攻撃ではあるが、首筋に刃が突き刺されば直ちに致命傷となるし、これだけの重量物が頭に直撃したなら、死にはしなくても気絶する。これによって少なからぬ敵が打ち倒された。だが、多くはそれをかいくぐり、兵を蹴散らしていく。
騎兵と歩兵とでは、明らかに歩兵の方が分が悪い。騎兵の方が速いし、何より、練度が違うからである。
当時、鐙はまだ発明されていない。その為、馬を使う騎兵は、必ずそれ相当の訓練を積んでいる。それに対し、歩兵は、一般から集められた戦の素人である。こちらの歩兵が一度戈を振り下ろす間に、敵の騎兵は突撃をかけ何回も戟を振り回せるのである。
「郎中殿!このままでは!」
実戦は初めての牛輔にも、緊迫しているのが分かる。
「分かっておる! 撃て−っ!!」
直ちに、弩から次々に矢が放たれた。それは、単に敵を倒すだけではない。雨あられの様に矢を射掛ける事で敵と長兵との距離を開け、長兵による再度の攻撃を容易にするのである。敵の突進によって一度は乱れた長兵が、これにより、やや落ち着きを取り戻した。
一方で、長兵が最前列に立つ事で、弩兵が矢をつがえる為の時間を稼ぐ。長兵に多少の犠牲を強いるとはいえ、実に理に叶った配置といえる。

(さすがは義父上。これならば、勝利は確実だ…)
少し余裕を覚えた牛輔は、ふとある事に気付いた。風が、こちらから敵方に向かって吹いているのである。
(これは! あたりは平原だし、火をかければ…)
楽勝であろう。それに、こちらの犠牲者も少なくてすむはずである。

「郎中殿! 火を用いましょう! 今なら風向きもよろしいかと!」
「火か…。ならぬ!」
「えっ!? なぜでございますか?」
さっきの話しぶりからして、董卓は十分に兵法を心得ている。今こそ、火計を仕掛けるのに絶好の機会のはずである。
(なぜ、義父上は火計をなさらないのか?)
牛輔は、困惑した。

38 名前:左平(仮名):2003/04/27(日) 20:49
十九、

「郎中殿! いま火を用いればわが方はもっと楽に勝てますぞ! なにゆえ…」
「黙れ! その事は口にするでない!」
「しかし! このまま普通に戦い続けていては、勝利しても犠牲者が多く出ます!」
「分かっておる! だがな、火を用いるわけにはいかんのだ!」
「なっ、なぜ…」
「くどいぞ、伯扶! それについては、後でゆっくり話す!」

董卓は、頑ななまでに火を用いようとはしない。なぜか?今の状況では、火をかけるべきではないというのだろうか?
(いや、そんなはずはない。この時期、急に風向きが変わる事はないし、第一、弩の攻撃によって双方の兵は離れている。まかり間違っても、こちらが火に巻かれる事はないはずだ)
戦術的に見れば、火を用いない理由が見あたらない。となれば、董卓が火計を仕掛けないのには、それとは別の理由があるというのか。
牛輔がそう考えているうち、徐々に勝敗の行方が見えてきた。

長兵と弩兵による複合攻撃に、羌族の騎兵は翻弄された。いかに精鋭であるとはいえ、長時間にわたって駆け回った為、人馬ともに疲れの色は隠せない。その様子を董卓は見逃さなかった。
「今だ! 者ども、行け−っ!」
号令のもと、周りにいた騎兵が一斉に丘を駆け降っていった。個々の武勇という点においては、漢人の兵は羌族のそれに劣るが、組織的に動くという点では優っている。
羌族の騎兵に疲れが見える今なら、彼らと十分に戦えるであろう。先の報告を聞く限りでは、敵に援軍はいないらしい。眼前の敵を撃破すれば、まずはこちらの勝ちだ。
(これで、この戦は終わる…)
牛輔は、心底ほっとした。と、思ったその矢先。

「伯扶、何をしておる!」
董卓の声に、思わずはっとした。見ると、自分以外は皆丘を駆け下り、敵の追撃に入っているではないか。しかも、将の董卓が、いつの間にかその先頭に立っている!
「もっ、申し訳ありません!」
牛輔も、直ちに馬を駆り、追撃に入った。戟を握る手に、力が入る。
(いかん。ぼんやりしてた)
一人出遅れてしまった。後でお目玉を喰らいそうである。懸命に追いつき、彼なりに戦った。結局、一人も討ち取る事はできなかったが。

凄まじい掃討戦となった。董卓の武勇は、既に羌族の間にあまねく知れ渡っており、我こそはという羌族の勇者達が、何人かうちかかって来た。あれほどの激戦を戦ってきたというのに、彼らはまだそれほどの力を残しているというのか。牛輔には、正直信じられなかった。遊牧の民の力を見せつけられる思いがした。
「郎中殿! 危のうございますぞ!」
「なに、心配は無用ぞ!」
董卓は、馬上から巧みに矢を放ち、戟を振りかざしつつ、向かってくる敵を蹴散らしていった。彼の通るところ、次々と敵兵が斃れていく。鐙のないこの時代において、漢人で、これほど騎射に長けた者は、そうはおるまい。
(義父上、凄いな…)
ただただ感心するばかりであった。噂通りの、いや、それ以上の武勇である。

日が暮れる前に、戦は終わった。
数百の敵を討ち取るとともに、敵の所持していた牛馬を押収した。こちらにも少なからぬ犠牲は出たが、死傷者一つ比べてみても、こちらの勝利である事は間違いない。

39 名前:左平(仮名):2003/04/27(日) 20:51
「深追いは無用! 今宵は、この辺りに宿営するぞ!」
その言葉を待っていたかの様に、兵達は得物を手から離し、食事の支度を始めた。表情にはまだ十分に精気があるものの、長時間の激闘を経て、肉体の疲労は相当のものがあろう。確かに、ここらで休ませた方が良さそうである。
数人の兵が、敵の逆襲に備えて偵察に向かうと共に、交替で見張りに立つ。ここは、まだ戦場である。気を緩めきってはならない。

しばらくして、食事の支度が整った。日はもう暮れつつある。
「皆の者、今日はご苦労であった。恩賞については、おって沙汰を致す。身はまだ戦場にある故、存分にとはいかぬが、少しばかり酒を携えておる。飲むが良い」
杯を手にした董卓がそう言うと、わっと喚声があがった。その多くが庶民である兵達にとって、酒などそうそう飲めるものではない。ましてや、生きるか死ぬかの戦いを終えたばかり。喜ぶのも無理は無い。
「郎中殿!」
「ん? 伯扶よ、どうかしたか?」
「ここは戦場ですぞ。いくら戦いに勝利したとはいえ、凱旋もせずに酒を振る舞うというのはいかがなものかと…」
たとえ祝杯であっても、戦場で飲酒とは何たる事か!これが初陣である牛輔にとってみれば、気が気ではない。義父は、歴史を知らないのであろうか。

春秋時代のなかば、晋と楚が、中華の覇権をかけてエン【焉β】陵の地で戦った時の事である。一日の激戦の後、楚の司馬・子反(公子側)は、疲れをおして軍を督励し、懸命に態勢を立て直したが、ひと段落ついたところで、つい酒を口にしてしまったのである。彼は酒好きであった為、一度飲み始めると止まらず、ついに酔っ払ってしまった。たまたまその時、王(共王)からの諮問があったのだが、酔っ払っていた為に答えられないと知った王は激怒し、戦場を離脱してしまったのである。
結局、王が戦場を離れた為、軍は撤退し、楚の覇権は失われた。司馬・子反はその失態を苦にし、遂に自殺して果てた。
また王も、一時の怒りの為に臣下を死に追いやった事を恥じ、自らの諡を悪い意味のものにせよと遺言したという(彼自身は、楚の歴代の王の中でもなかなかの名君だった)。

「あぁ、敵の逆襲が気になるという事か?」
牛輔の苛立ちとは対照的に、董卓の返事は暢気なものであった。その落差が、ますます彼を苛立たせる。いつもなら、目上の者に対して声を荒げる事はないのだが、今回ばかりはそうもいかない。
「当たり前です!」
「心配するな。偵察の者を遣っておるし、きちんと見張りも立てておる。第一、酔っ払うほどの量の酒は携えておらぬわ」
「そうはおっしゃいますが…」
「ふふっ。わしが何も知らぬとでも思ったか。戦場で酒を過ごして失敗した者がいた事くらい、知っておるよ」
「えっ?」
「わしとて、『左伝(春秋左氏伝)』くらいは読んでおるという事よ。そなた、楚の司馬・子反の故事を言いたいのであろう?」
「あっ、はぁ…」

40 名前:左平(仮名):2003/05/04(日) 02:15
二十、

考えてみれば、そうであろう。この時代の人士で、『孫子』を読んでいて『左伝』を読んでいないという様な者はまずおるまい。
そう言われると、自分の知識の浅薄さが、急に恥ずかしくなった。
義父は、経験と学問を積む事で、その人物・思考に確かな厚みを持っている。それに比べ、自分は…。牛輔は、黙りこくったまま、うなだれるしかなかった。

「そんなに気にするな。そなたの諌言が、我らの気の緩みを引き締めてくれたのは確かなのだからな。周りをよく見よ」
確かに、酒が入っているにも関わらず、騒ぐ兵はいない。しかし、その言葉を額面通りに受け取る事はできなかった。
(確かに、私の言葉が少しは役に立ったのかも知れない。だが…)
董卓といい、兵達といい、幾度も戦場を駆け巡り、死線をかいくぐって来た者達である。そんな彼らに、新参の自分如きが口をはさんでも、恥を晒しただけではなかったか。恥ずかしいやら情けないやら。

「おい、どうだ。そなたも一杯」
「はっ、はぁ…。では、頂きます」
杯を渡された牛輔は、一気にその中の酒を飲み干した。ここが戦場である事は承知しているが、あれこれ考えていると、何だか酔っ払ってしまいたくなった。
「おいおい、そんなに急いで飲まずとも良かろうに」
「えぇ。ですが…何だか、飲みたくなってきました」
「そうか。では、もう一杯いくか」
「では」
酔っ払おうかと思ったものの、そんなには飲めなかった。すぐに眠たくなったからである。そのまま横になると、たちまちのうちに眠りに落ちた。


しばらくして目が覚めた。あたりはまだ暗く、兵達も、見張りに立つ者を除いては、皆熟睡している。
やはり、この時期に野外で眠るのは、ちと寒い。眠っている者を見ると、適当な枯草やら中身を出した嚢やらを夜具の代わりにしている。中には、戦死した仲間の上着を頂戴している輩もいる。
(はぁ…。味気ないな。いつもなら、姜を抱いてるところなんだが)
そんな事がすぐに思い浮かぶあたり、やはり新婚である。

朝までには、まだ時間があろう。もう少し眠っておきたいところであるが、このままでは寒い。何か夜具の代わりになるものはないか。牛輔は、半ば寝ぼけつつ、あたりを物色した。
「案外、ないもんだな。かといって、火をおこすわけにもいかないし」
そうつぶやきつつ、陣中をうろうろしていた。

ふと見ると、こんな時間に一人立っている者がいる。暗いので、はっきりとは見えないが、巨躯の男であるらしい。
(あれ? あれは…誰だっけ?)
いつもなら、そんな人影に近付くはずもないのであるが、眠気で頭が鈍っていたせいか、ふらふらとそちらに向かっていった。
「そんな所で何してるんだ?」
そう、何の気なしに声をかけた。

41 名前:左平(仮名):2003/05/04(日) 02:19
「ん? なんだ、伯扶か」
そっ、その声は! 
「ち、義父上ではありませんか! こんな夜更けに何をしておられるのですか!」
「あぁ、ちょっとな」
そういう董卓の顔は、いつもとは少し違って見えた。そこはかとなく厳粛さが感じられるのである。これから凱旋する将には見えない。

「明日も早いではありませんか。もう休みましょう」
「分かっておる。だがな、もう少しこうしておりたいのだ」
何か思うところがあるのか、自分が何か言うくらいでは、動きそうにはない。まぁ、明日は凱旋だ。もう一日くらいは、体ももってくれるであろう。そう思うと、がぜん興味が湧いてきた。
「義父上がおられるのでしたら、私もお付き合い致しましょう。…それにしても、何をしておられたのですか?教えてはいただけないでしょうか」
「そうだな。そなたにも、話しておいた方が良さそうだな。…実はな、こいつらに誄(るい:しのびごと。死を悼む言葉・文章)を読んでやろうと思ってな」
「誄、ですか…」

彼の口からそういう言葉が出るとは、正直、意外ではあった。だが、兵の死に思いをはせ、それを無駄にしないのが良将というものである。
(義父上は、紛れも無く良将であらせられる)
それが分かったというだけでも、この戦いに従軍した意味があった。この方の娘婿になって良かった。心底そう思えた。
「もちろん、そんな大層なものはできん。わしは哀公(孔子が亡くなった当時の魯公)ではないし、こいつらも孔子ではないからな。まとめて、簡単なものを読む程度だが」
「確かに、我が方の勝利とはいえ、少なからぬ戦死者を出しましたからな」
「そうだ。だが、それだけではない」
「えっ?」

牛輔が一瞬きょとんとするのを尻目に、董卓はある塊に近付き、黙祷した。兵の屍である。
だが、何か様子が違う。頭のあたりに付いている飾りなどを見ると、漢人のものではない。まさか!
「義父上、その屍は敵のものではありませんか!」
これには驚いた。義父は、間違って黙祷しているのではないか。だが、その返事は意外なものであった。

「そうだ。分かっておる」
「えっ? では、義父上は敵に対しても誄を読まれるのですか…。しかし、なぜ…」
「なぜかって? そなた、母が羌族の娘であったという割には、羌族の事を知らぬ様だな。…まぁ、仕方あるまい。牛氏と羌族とは、長く敵対しておるゆえ、接触する事自体少ないからな」
「ですが…」
「いい機会だ。そなたに話してやろう。わしが我が義父(琳・瑠姉妹の父)から聞いた事や、羌族の連中から直に聞いた話をな」

42 名前:左平(仮名):2003/05/05(月) 21:21
二十一、

話?一体、どの様な話があるというのだろうか。羌族は文字を持たぬはず。口伝で何かしらの説話があるにせよ、これといった話があるとは考えにくいが…。
「そなた、羌族とはいかなるものだと思う?」
えっ?いかなるものか? 牛輔には、その問いの意味が分からなかった。
「いかなるものと急におっしゃられても…。我ら漢人にとっては、しばしば叛乱を起こす厄介な存在としか思えませんが…」
「そう思うか」
「それ以外、どうとらえればよろしいのでしょうか? 私には分かりかねます」
「分からぬか。ならば聞こう。『羌』という字はどの様な字だ?」
字の事を聞いてどうしようというのだろうか? ますますわけが分からない。

「えぇっと…。確か、『羊』と『人』が組み合わさった感じの字ですね」
「そうだ。では、我が娘にして、そなたの妻の名は何という?」
「『姜』です。しかし、それがどうかしたのですか?」
「何か気付かぬか?」
「えっ?」
「まだ気付かぬか。『羌』と『姜』という字は似ておるであろう」
「そういえば、確かに」
「いや、もともと同じ起源を持つ字かも知れぬな。…『姜』姓といえば、有名な人物がいるであろう」
「太公望、ですね」

太公望呂尚−。多少なりとも経書・史書を読んでいる者であれば、その名は必ず知っているであろう有名人である。周の文王に見出された彼は、殷周革命の立役者の一人として活躍した(あとの二人は、周公旦と召公セキ【大の左右の脇に百】)。兵法にも秀でていたとされ、漢の高祖・劉邦の謀臣として活躍した張良が黄石公なる人物から授かったという兵書の著者に擬せられている。

「そうだ。そして、彼を始祖とする国が斉(西周・春秋期。戦国期の斉は田氏の国)だ。それは、そなたも知っておろう」
「はい。春秋五覇の一人・桓公を生んだ斉ですね」
「そればかりではないぞ」
董卓の話はなおも続く。
「その太公望が仕えた周の始祖の名は后稷というが、その母の名は姜ゲン【女+原】といって、姜姓の女なのだ。また、武王の正婦にして成王の母である邑姜もまた、姜姓の女だ」
「となると…。周をはじめとする姫姓の国と斉には、姜姓の血が流れていると…」
「その姜姓と羌族が、字と同様、もとは同じ起源を持つとしたらどうだ?」
「えっ!」

信じ難い事である。義父は、あの太公望と羌族が同族だというのであろうか。牛輔には、字以外、両者のつながりなどこれっぽっちも見出だせないのであるが。

「驚くのも無理はないな。わしも、聞いた当初は信じられなかったからな」
「では、義父上は、今はこの様な話を信じておられるというのですか!」
「そうだ」
「そんな! その様な戯言を信じられて…」
「なぜ戯言と言える?」
そう言う董卓の顔には、凄みがあった。その顔は、戦いの時とはまた違う様だ。何がどう違うのかはよく分からないのだが。

43 名前:左平(仮名):2003/05/05(月) 21:24
「そなたがこの話を信じぬのは、漢人の文字を重く見て羌族の口伝を軽んじるからであろう。まぁ、それならばそれで良い。しかしな、それならばなぜ『羌』と『姜』の字の類似をも軽んじる?」
「それは…」
そう言われると、何とも言い様がない。
「まぁ、どこまで事実かは分からぬがな。だが…」
董卓の表情が、また変わった。その顔には、紛れもない哀しみの色が浮かんでいた。

「羌族は、古くから我ら中華の民と関わってきた族だ。何しろ、太古の帝王・舜の御世から、既にその名が記されているくらいだからな。もとは中原にもいたらしいが、故地を追われ、西に逃れたという…」
羌族が、もとは中原にいた?牛輔にとっては、初耳である。しかし、「舜」の名が出てきたという事は、経書のどこかにその様な事が書かれているはず。義父が羌族から聞いたというこれらの話は、まんざら嘘でもないという事なのか。
「しかし、今の羌族には、その様な面影はありませんが」
「いや、ない事はない」
「そうですか?」
「彼らは、昔のままに羊を飼って暮らす『穏やかな』民である」
「えっ?あんなに強悍な者達のどこが穏やかだというのですか!」
「嘘ではない。そなたの母上も、我が妻も、羊を飼い、静かに暮らしていたのだ。これは、わしやそなたの父上も見ておる。間違いない」
「では、なぜあの様な精強な騎兵達が…」
「そこなのだ。なぜ、羌族が戦うのか。そこにこそ、わしが誄を読む理由がある」

夜風が頬を撫でる中、董卓の話は続く。話していくうちに、その声が、また一段と哀調を帯びてきた。この人の中に、これほどの感情の動きがあるのか。人間というものの奥深さの一端が垣間見える瞬間である。

「考えてみると、羌族として生きるとは哀しいものである」
「哀しい?なぜですか?」
「そうではないか。あいつらが今生きているのは、いずれにしても異郷。故地を追われ、一族とは引き離され、生まれ落ちたその時から漢人には蔑まれ、苛酷な賦役を課せられ…」
「…そうして、生きる事に何の喜びも見出せぬまま死んでいく…」
「…」
中華に叛く蛮夷の一生とはそういうものではないか。そう言いかけた。しかし、言葉が出なかった。いや、出せなかった。

董卓の妻は羌族の女。当然、その子である姜は羌族の血を引いている。自分もまた、羌族の女を母に持つのであるから、羌族の血を引いている。
(数ヵ月後には生まれるであろう我が子は、間違いなく羌族の血を引く子…)
その事を思うと、羌族を単なる蛮夷と言い切る事はできないのである。

しかし、まだ分からない事がある。
羌族の血を引くわけでもない義父が、なにゆえこうも羌族に思いを馳せるのであろうか。
また、それほど羌族の事を思いながら、なぜあれほど激しく戦いうるのか。

雲が流れ、月が顔を見せた。月光が大地に降り注ぐ中、董卓の目に微かな光が生じ、それが流れ落ちていくのが見える。
(義父上が…涙を流されている?)
世間から勇将と呼ばれる義父が、いかに娘婿の前であるとはいえ、涙を見せるとは…。牛輔は、戸惑いを隠せなかった。

44 名前:左平(仮名):2003/05/11(日) 22:51
二十二、

「義父上…」
「ん?どうかしたか?」
「もしや…泣いておられるのですか?」
「さぁ、どうであろうな…。少なくとも、わしは哭するという事はせぬ」
「…?」
(誄は読むが哭する事はしない…?一体、どういう事なんだろうか?ますます義父上の考えが分からなくなってきた…)
牛輔には、もはや聞き様がなかった。何をどう聞けば良いのかがさっぱり分からないのである。

「そなたには分からぬであろうな。なにゆえに、人一倍羌族に同情するこのわしが羌族と戦うのかが」
「確かに」
「人には理解されぬやも知れぬが…わしの中には、ある思いがある」
「どの様な思いがあるというのですか?」
「羌族は、様々な場面において、漢人に蔑まれておる。だが、わずかではあるが、漢人と対等に扱われる時がある。そういう事だ」
「漢人と対等に扱われる時? そんな時があるのですか?」
「分からぬか。ほれ、つい数刻前の…」
「…あっ!」

確かに、そうだ。戦いの場においては、漢人も羌族も関係ない。ともに死力を尽くして戦うのみである。

「ただ戦いの場においてのみ、羌族は漢人と対等になる。勝者には栄光、敗者には死…。そういう場を持たせてやる為に、わしはあいつらと戦っておるつもりだ」
「では、あの時火を用いなかったのも、その為だと…」
「そうだ」
「ですが、火計というのは、兵書にも載っているれっきとした戦法ですぞ。特に卑劣というものではございません。あえてその手段を封じるというのはどうも分かりません」
「そう、戦法を論ずるのであればその通りだ。だがな、わしにはできぬ」
「なぜですか?」
「わしは、『この手で』あいつらを死なせてやりたいのだ。悲惨な奴僕としてではなく、誇りある戦士としてな」
「…」
「火を用いれば、確かにもっと楽に勝つ事ができよう。しかしそれでは、あいつらを、あたかも草木の如く焼き払ってしまう事になる。それは、奴僕として死ぬよりも、もっと悲惨ではないか?」
「戦いで死なせてやるのが情け…。羌族には、それしか望みがないのですか…」
「今のところはな。誄は読むが哭しないというのも、同じ理由だ。哭すれば、あいつらとは敵同士にならなくなってしまう。今は『敵』としてしか接する事はできぬ」
「…」

牛輔の心の中に、ある危惧の念が生じた。
(義父上は、漢朝に対し良からぬ思いを抱いておられるのであろうか…)
そうであるなら、いつの日か、漢朝に対し叛旗を翻すかも知れない。そうなった時、自分はどうすればいいのだろうか。反逆者となるのはまっぴらだが、義父の人となりを知った以上、見殺しにするなどという事はできない。第一、自分はこの人の娘婿なのである。関わらずに済むわけがない。

45 名前:左平(仮名):2003/05/11(日) 22:53
確かに、今の漢朝は乱れている。数々の怪異現象、相次ぐ天災、中央の政変、地方での叛乱…。この国の事を愁う心有る者ならば、何らかの行動に出たくもなるであろう。
(今上陛下【霊帝】は、まだお若い。成長なさり、光武皇帝の如き英明さを発揮していただければ…)
かすかではあるが、今はそれに希望をつなぐしかあるまい。


そんな事を考えているうちに、あたりが少しずつ明るくなってきた。夜明けである。やがて、東から日が昇るのが見え始めた。
「…!」
牛輔は、ある事に気付いた。

義父の甲冑は、返り血にまみれているのである。あれほどの激戦の後なのだから当たり前なのではあるが、あらためて見ると、その凄まじさが分かる。
「義父上…」
「どうした?」
「その甲冑…返り血にまみれておりますぞ」
「そうだな…」
「…」

普段なら、早く脱いで洗ったらどうかと言うところであるが、そういう気にはならなかった。この血こそ、羌族が戦士として戦い、死んだ証。血に汚されたなどと言う事はできないのである。
「さぁ、帰るぞ。皆が待っておる」
「あっ…はい!」

凱旋である。戦場に赴く時とは違い、兵達の表情も、心なしか柔らかい。勇敢に戦い、そして勝利した者達が持つ、誇りと自信に溢れた姿がそこにはあった。
牛輔も、そんな中にいた。とはいえ、彼の思いは、それだけには留まらなかった。
今後自分が担うであろう重責、漢朝と羌族との関係、義父の真意…。今回の戦いは勝利したものの、いつまでも喜んでばかりもいられないのである。
(何にしても、難しいな)

考え事をしているうち、牛輔は、いつしか屋敷の門前に立っていた。ほんの数日しか経っていないというのに、妙に懐かしく思える。
(ともかく、戻ってきた)
そう思ったとたん、全身から力が抜けた。
「いま戻ったよ」
自分でも分かるくらい、朗らかな声が出た。やはり我が家はいい。
「あなた− お帰りなさ−い」
出迎える姜の声もまた、朗らかなものであった。その声に、安堵する。
「姜。留守中、何事もなかったかい?」
「えぇ。ご心配なく」
「そうか。そりゃ良かった」
心なしか、姜の腹がより膨れている。赤子は順調に育っている様だ。
「元気な赤子を産んでくれよ」
そう言うなり、牛輔は姜に抱きついた。姜の体は暖かく、柔らかい。その心地良さときたら、荒涼とした戦場とは大違いだ。
「もぅ、あなたったら。こんなところで抱きつかないで下さいよ」
「すまんすまん。さぁ、中に入ろう」

46 名前:左平(仮名):2003/05/18(日) 21:19
二十三、

年が明けて、正月。
「あぁ、正月だ。新たな年が始まったんだな」
牛輔は、昇る朝日を眺めながら、そんな事を呟いた。もう二十回以上も経験したはずの正月が、妙に新鮮なものに感じられたのである。
(そぅか…。去年の今頃と今とでは、何もかも違うんだったな。正月も、違ってて当たり前か)
あらためて、結婚の持つ意味の大きさを思う。
「あなた− 早くいらして下さいよ」
姜が呼んでいる。彼女がいるだけで、世の中が明るく見えるのであるから、不思議なものだ。
「あぁ、すぐ行くよ」

現代の我々は、正月とは掛け値なしにめでたいものとして捉えている節があるが、古代の人々にとってはそうとばかりはいかなかった。
数え年という概念もそうであろうし、なにしろ、いろいろ煩雑な儀礼がある。ご馳走を食べつつ、ただただのんびりと過ごすというわけにはいかない。
ここ牛家も例外ではなかった。なにしろ、主人夫婦がまだまだ若いのに加え、家人達も皆不慣れである。年末年始はひどく慌しいものとなった。


そんな騒ぎがひと段落する頃には、姜の腹はますます大きくなっていた。来るべき授乳を控え、胸の膨らみも大きくなっているのであるが、腹の膨らみ具合が余りに大きいので、それが目につかない。
確実に母親になる日が近付いているというのに、胸の膨らみが意識されない為、かえって幼く感じられるというのも、どこか不思議なものである。

「それにしても、こうも大きくなるものかなぁ」
牛輔は、姜の腹を撫でながらそう呟いた。男にとって、妊娠・出産というのは、どうにもよく分からないものである。
「そうですねぇ。何をするにも大変です」
「だろうな。腹で足元が見えないからな。そういえば、もう少しで生まれるんだったよな」
「えぇ。あと数日の様です」
「義父上へは連絡したかい?」
「はい。先ほど」
「姓は異なるとはいえ、初孫だからな。さぞや喜ばれるであろう」
「えぇ」

姜の顔には、愛する夫の子を産む事に対する喜びがある。それは、牛輔にとっても喜ばしい事であるが、彼にはまだ不安があった。
なにしろ、牛輔の母は、彼を産んですぐに亡くなってしまったのである。今もそうであるが、衛生状態・栄養状態が(現代と比べて)劣悪だった当時においては、出産とは大きな危険を伴うものであった。
(どうか、母子ともに健やかである様に)
そう、祈らずにはいられなかった。

47 名前:左平(仮名):2003/05/18(日) 21:22
数日後。董卓とその家族が訪れ、一族が揃った頃、姜は産室に入った。庶民の場合は、産婦が一人で身の回りの処理をする事もあった様だが、地方豪族たる牛氏の妻ともなれば、そういう事はなかったであろう。とはいえ、産みの苦しみ自体は、どうする事もできない。
(無事に産まれてくれよ)
もう、気が気ではない。夫である牛輔は、席が温まる暇もなく、立ったり座ったりを繰り返せば、父の董卓も、落ち着いている様に見せてはいるものの、時々せわしなく体を揺らしている。
こういう時には、男達は何の役にも立たない。その能力とはかかわりなく。
「伯扶殿、その様にそわそわなさっていても何にもなりませんよ」
さすがに何度も出産を経験している義母の瑠は落ち着いている。
「分かっております。分かってはいるのですが…。なにしろ、姜は初産ですし」
「あの子はわたしの娘ですよ。この程度の事で根をあげたりはしません」
「はぁ…」

そんな状態が数刻も続いた。
先の戦いの時もそうだったが、こういう時の時間の進み方は、どこか不思議なものである。
早いと感じる瞬間があれば、遅いと感じる瞬間もある。そして、過ぎ去っても「過ぎてみれば短かったな」とは思えない。
悶々とした時間がこのままずっと続くかの様な、そんな感覚に襲われたその時、産室の方で声があがった。


「産まれた!」
最初に気づいたのは、瑠だった。牛輔はといえば、緊張が続いた事に疲れたのか、心ここにあらずといったふうである。董卓に至っては、席に座ったままうとうとしている。
「あなた、伯扶殿、何をぼんやりなさっているのですか! 産まれましたよ!」
「えっ? あっ、はぁ…」
「んっ? そっ、そうか…」
なかば叩き起こされる様な感じである。勇将・董卓も、愛妻の前では形無しといったところか。
そそくさと産室に向かう瑠に対し、男二人の動きは、ゆっくりとしたものであった。落ち着いているのではない。精神的な疲労のせいで、やけに体が重いのである。
「おい、伯扶」
「何でしょうか」
「もう少し、しゃきっとしたらどうだ。初めて我が子に会うのにそんなくたびれた姿をさらしてどうする」
「義父上こそ。初孫ですぞ」
「まぁな」

そんなやりとりをしている間に、二人は産室の前に立っていた。

48 名前:左平(仮名):2003/05/25(日) 21:25
二十四、

「伯扶よ。どっちが先に入る?」
「えっ?そっ、それは…」
二人とも、早く赤子の顔を見たいのではあるが、どこかためらいがある。

本来の出産儀礼においては、夫といえどもそうそう産室に入れるものではないのである。先の婚礼の時とは異なり、そのあたりの事にはあまりこだわりはないものの、出産という女の領域には、どこか入り難いものがある。

(伯扶よ、そなたが先に入ったらどうだ)
(義父上こそ、お先に入られたらどうですか)
産室の前に突っ立ったまま、そんな状態がしばらく続いた。大の男が二人して戸の前にいる様は、何とも珍妙なものである。
「このままここに立っててもしょうがない。一緒に入るか」
「そうしますか」

初めからそうすれば良さそうなものであるが、こういう場面では、存外気がつかないものである。
「じゃ、いくぞ」
「えぇ」
「では−」
二人は一斉に足を踏み出した。その時。

「お待ちください!!」
「!?」
二人は、足を踏み出しかけたところを急に止められたので、思わず転びそうになった。声の主は、先に産室に入った瑠である。
「いま、産湯を使っているところです。もうしばらくお待ちください」
「でも、もう産まれたのであろう? なにゆえ、我らが入ってはならぬ?」
「あなた、お忘れですか? 姜が産まれた時の事を?」
「あっ!…」
そう言われて何か思い出したのであろうか。董卓は急に向きを変え、室に戻っていった。
あわてて、牛輔もあとを追う。

「義父上、以前に何かあったのですか?」
義父が、一言言われただけでこうもあっさり引き下がるのは珍しい。何かよほどの事があったのだろうか。あまり話したい事ではないだろうが、聞かずにはおれない。
「いやな。あれは、姜が産まれた時の事なのだが…」
董卓にとっては、あまり格好のいい話ではないのであろう。どこか気恥ずかしげに話し始めた。


「姜が産まれた頃は、我が家はまだ富貴ではなかった。当然、この様な産室などはなくてな。瑠は、筵などで仕切りを設けて、そこで出産したのだ。当時は兄夫婦と同居しておったから、何かと手助けはしてもらえたがな」
「はい」
「わしにとっては、初めての子だ。そりゃもう、嬉しくってな。産声があがるや、筵を払いのけて赤子と対面したのだ。だが…」
「だが?一体どうなさったのですか?」

49 名前:左平(仮名):2003/05/25(日) 21:28
「…そなた、赤子がどこから産まれるか知っておるか?」
「えっ?」
「知らぬか」
「はぁ…」
「ここだよ」
そう言って董卓が指し示したのは、自分の股間であった。
「ここ?」
「そうだ。まぁ、男と女とでは付いてるものは違うがな。…赤子が産まれるのだ。そなたも、姜のここを見た事があろう?」
「まぁ…」
「凄いとは思わぬか? そなたの陽物でさえ入るかどうかという陰門から、赤子が出てくるのだぞ」
「…」

「その時、わしは見てしまったのだよ。子を産んだばかりの、瑠の陰部をな。…あれは、男が見るものではない。幾度となく戦場を駆け、血にまみれ、死線をかいくぐってきたわしも、あれには血の気が引いた」
出産とはそんなに凄まじいものか。そんな事を、あの姜が…あの華奢な体にそんな力が…。にわかには信じ難い事であった。だが、事実である。
「瑠が産褥から起き上がっても、わしは、しばらくあいつを抱けなかった。あれが頭から離れなくてな…。子育てやら何やらであいつが忙しかった時に、思う様に慰めてやる事ができなかったのが、今もって悔やまれるのだ」
「そんな事があったのですか…」
「ま、今はそんな事はなくなったがな。実は、昨日も抱いてやったところだ」
それでこそ義父上。思わず笑みがこぼれる。董卓も、つられて笑う。
「わしでさえそういう有様だったからな。ましてや、繊細なそなたではどうなるか。そなたがいかに姜をいとおしく思っていても、そんな光景を目の当たりにしたが最後、二度と抱けなくなるやも知れぬ。瑠はそれを恐れたのであろう」
「そうでしたか…」

妻の出産の場面に耐えられないであろうとみられたとは、いささか情けなくはある。しかし、義父でさえそうであるのだから、さして気にする事ではあるまい。

「どれ、もうよいかな」
話している間に、いくらか時間も経った様だ。そろそろ、産湯も片付けも済んだであろう。
「おぅ−い、瑠。産湯は済んだか−」
「はぁ−い。もぅ入ってもよろしいですよ−」
「では、行くか」
「はい」

いよいよ、我が子との対面である。瑠の声からして、母子ともに無事である事は間違いなかろう。
(いったい、どんな子であろうか)
早く後継ぎが欲しいから、男子である方がいい。とはいえ、二人ともまだ若いのである。女子であっても、いっこうにさしつかえない。

50 名前:左平(仮名):2003/06/01(日) 22:55
二十五、

二人は、産室に向かった。
先ほど、あれほどためらわれたのは何だったのだろうかというほど、今度はすんなりと入れた。
産室は、どこか異質な雰囲気を漂わせている。室そのものには、何も特別な装飾などは施されてはいないのだが、どうもそういう気がしてならない。
(どうしてだろうか?)
ふとそんな事を考えた。もっとも、考えても、男には分かりそうもない。

室内に入った瞬間、血の臭いがした。見ると、何かは分からないが、血に塗れた物体(へその緒とか胎盤とか)がある。あれも、出産に伴って生じたものであろうか。
(それはそうと、姜は? 赤子は?)
一瞬、その物体に気をとられはしたが、今は、そんなものに構っている場合ではない。

目を下に向けると、そこに、子を産んだばかりの姜がいた。相当体力を消耗したのか、顔は、産室に入る前に比べやつれており、また、全身に汗が浮かんでいる。呼吸も荒く、決して安産ではなかった事が伺える。
ただ、その顔は、安らかである。ひと仕事を終えたという充実感がそうさせるのであろう。
「姜…」
「あ…あなた…。子供は…無事に…」
「あぁ、分かってる…。大変だったな。ゆっくり休めよ」
よくやってくれた。そんな姜が、いとおしくてならない。

「まぁ。二人とも、じっと見つめあっちゃって。仲がいいこと」
「そうだな」
「伯扶殿。夫婦仲がいいのも結構ですけど、赤子を忘れちゃいませんか」
「あっ…そうでした」
「ほら。こちらがあなた達の和子ですよ。男の子よ」
瑠は、そう言って、産着にくるまった赤子を手渡した。

「こ…これが我が子ですか…」
牛輔が赤子を見るのは、これが初めてというわけではない。弟達が産まれた時、その様子を見たはずなのである。しかし、もう十数年も前の事であるから、そういう記憶は、もうおぼろげでしかない。
「赤いでしょ? どうして赤子って言うか、分かった?」
瑠は、明るくそう言う。牛輔の緊張をほぐそうとしているのであろう。
「はぁ…」
そうは言われても、緊張はほぐれそうにない。

泣き声をあげる赤子は、彼からみても、小さく、たよりなさげなものである。
(だが、この子は、まぎれもなく我が夫婦の子、そして、義父上の孫)
男であるそうだが、一体、どの様に育つのであろうか。将か、相か。それとも他の何者かか。
「伯扶殿。ぼんやりしている場合ではありませんよ」
瑠の声に、思わずはっとした。
「えっ?」
「この子の名は、いかがなさるのですか?」
「そ、それは…」
一応、考えてはいたのだが、そう言われると、一瞬慌てた。

51 名前:左平(仮名):2003/06/01(日) 22:57
「慌てる事はありませんが、きちんと考えておいてくださいね」
「え、えぇ…」
「それと、あれを片付けてくださいね」
「え? あれってのは?」
「ほら、あれですよ」
そう言って瑠が指差したのは、さっき見た、血に塗れた物体であった。
「えっ? 私がですか?」
「そうですよ。それも夫たる者の務めです」

この間、董卓はほとんど何も言わなかった。産室の中では、女の方が強いという事であろうか。その事が、ちょっと可笑しかった。
「はい、分かりました」
そう答える牛輔の声は、至極明るいものであった。
「義母上。ところで、これは何ですか?」

片付けが終わると、皆、産室から出た。
姜も別室に移った。産後の肥立ちが悪ければ、直ちに命にかかわってしまう為、しばらくは養生しなければならない。
名門の家ともなると、通常、乳母が必要になる。とはいえ、同じ頃に子を産んだ女など、すぐに見つかるものではない。それまでの間は、姜自らが乳を与える事になる。
姜が乳房を出し、子に吸わせる。子は、ひたすらに吸い、乳を飲んでいる。のどかな景色である。


しばらく後、命名の儀礼が行われた。
名は、「諱(いみな)」とも呼ばれる様に、外に向かってはあまり用いられるものではない。主に家族の内で用いられる。
とはいえ、名と字の間には、通常、何らかの関連性があるから、変な名をつけるわけにはいかない。
正式な命名は、家廟に告げる時なのであるが、実際のところはどうであろうか。

「伯扶よ。子の名は決まったかな?」
「えぇ。…それにしましても、名をつけるというのも大変なものですね。字義だの何だのと、いろいろ考えないといけないのですから」
「そうか? わしなどは、余り悩まなかったがな」
「それは…何と言いますか…」
「で、何と名付けるつもりだ?」
「はい。『蓋』と名付けようかと」
「『蓋』?どういう意味があるのだ?」
「はい。『天蓋』からとりました。地を覆う、天の如く大きくなってもらいたいという思いを込めて」
「天蓋、か…。こりゃまた、大きい名であるな」
「お気に障りましたか? 義弟の名との釣り合いが気になるのですが…」
「いやいや、大いに気に入ったよ。そうか、天蓋か…」

董卓は、満足げにうなづいた。

52 名前:左平(仮名):2003/06/08(日) 22:22
二十六、

当時の中国人は、宇宙の構造を「天は円(まる)く地は方形」であると捉えていた。半球状の天が、方形の地に覆い被さる形とみていたのである。この様な考え方を「蓋天説」という。実際、地から天を眺めると、巨大なド−ムの中にいる様な感じがしないではない(そう思えるのは、現代の我々が地球は丸いという事を知っているがゆえの事かも知れないが、実のところはどうであろうか。円屋根の建物もあったらしいので、一概には言えない)。
後には、より精緻な「渾天説」が登場するが、一般的には、なお「蓋天説」が信じられていた。
牛輔が長子につけた「蓋」という名には、その様な大きな意味が込められていたのである。
ただ、董卓が満足げにうなづいたのは、それとはいささか異なるところにあった。彼が反応したのは、「天蓋」の「天」というところに対してである。


「天」−。それは、単に天空のみを示すのではない。
そもそもは、人の頭頂部を示す(『脳天』などがそう)この言葉は、やがて、原義とは全く異なる意味を持つに至った。

「天」に、原義と異なる意味を与えたのは、周王朝であったと考えられている。
国家にしろ、会社にしろ、いかなる組織も、その存立の基となるのは、その組織が存在する理由、即ち「正当性(レジティマシ−)」の存在である。
当時、周が打倒しようとしていた商(殷)王朝には、「帝」という、強力な正当性の根拠があった。商王の権威は、無形の神である「帝」によって正当づけられていた為、他の勢力が打倒しようとしても、できなかったのである(形のないものは破壊できない。その為、たとえ商王を殺したとしても、商王朝の正当性を破壊し否定する事ができず、真の意味で滅ぼす事ができない。そう考えられた)。
そこで周は、「帝」に対抗できる概念として、「天」を持ち出した。

「天」に与えられた新たな意味。それは、多分に唯一神としての性格を持つものであった。ただ、いわゆる一神教と異なるのは、全ての人の為のものではなく、また、人々の運命に対して直接の影響を与えるというわけではないというところである。
それは、帝王一人の為のものであった。
天は、徳のある人に天命を授け、天下に君臨させる。帝王のことを「天子」ともいうのは、その為である。天命は、周にあって商にはない。周は、そう喧伝する事によって、正当性において商を圧倒し、ついに滅ぼすに至ったのである。

ただ、「天」の思想は、いわば諸刃の剣であった。というのも、帝王に徳がなくなった、少なくともそうみなされた場合、とって替わる事が(その成立の経緯上)可能となるからである(「革命」という言葉は、正確には「易姓革命」。「姓を易【か】え天命を革【あらた】める」という意味)。
それゆえ、天を祀る事は、帝王のみがなしうる事とされた。他の人間が「天」についてふれる事は、本来、あってはならない事なのである。

普通の人であれば、「天」についてふれる事は恐れ多いと考え、あえて意識の外に置くところであろう。だが、董卓はそうではない。
この時点では、まだ漢朝に対して叛旗を翻そうという気はないが、尊崇しようという気も薄い。それゆえ、天という概念に対しても、何ら臆する事はなかったのである。


赤子が産まれて三月の後、家廟にこの事を告げる儀礼が行われた。赤子が正式に家族の一員となるのはこの時であるとされる。「蓋」という名も、正式にはここからのものである。

53 名前:左平(仮名):2003/06/08(日) 22:24
子が産まれた事で、牛輔夫婦の生活にも、相当の変化が生じた。
赤子には何もできないし、言う事を聞かせる事もできない。躾をしようにも、ある程度育たない事にはどうにもならない。どうしても子が中心の生活となる。
また、若者が多いこの邸内では、子育てに慣れた者は少ない。実家から、経験豊かな家人達を呼び寄せたりしながら、何とかやりくりしている状態であった。

それゆえ、夫婦の間にも、多少の波風が生じた。
二人とも互いに強く相手を意識しているのではあるが、ともに初めての子育てであるので、どうしても子に目が向きがちであった。その為、しばらく疎遠になっていたのである。

ある日、蓋が寝静まった後の事である。
「ねぇ、あなた…」
姜が、甘えた声を出してきた。母親になって以来、こういう声を聞くのは久しぶりである。
「ん?どうした?」
牛輔は、横になったままそう答えた。何が言いたいかくらいは、よく分かっている。
「もぅ…。分かってらっしゃるでしょ」
「あぁ…。ただ、どうにも眠たくってな…」
「それは分かります。わたしも眠いんですもの。でも…」
「でも…何だい?」
「わたしも、もう産褥から出ました。確かに今は蓋の母ですけど、女でなくなったわけではないのですよ」
「分かってるよ」
「分かってらっしゃるのでしたら…」
「そうか。じゃ…」

そう言うと、牛輔は姜の床にもぐり込み、彼女を抱いた。
子を産んだその体は、以前よりもやや丸みを帯びていた。子育てに忙しかった為、少し疲れの色は見えるものの、抱いた時の心地良さは変わらない。いや、むしろ良くなっているくらいである。
彼自身、多少の疲れはあったが、ひとたび抱くと、猛烈に求めずにはいられなくなった。
二人は、数ヶ月ぶりに、激しく交わった。

「はぁ…。やっぱりいいもんだな」
「でしょ?」
「しかし…。どうしたんだ?そなたから求めてくるなんて」
「だって…。あなたったら、今度来た乳母の事をじっと見てらっしゃるんですもの。わたし、つい嫉妬しちゃって…」
「あれは、蓋がきちんと乳を飲んでるかどうか見てたんだよ」
「そうなのですか?」
「あぁ。私が彼女に劣情を催したとでも思ったのかい?」
「若い女が夫の前で乳房をあらわにしてるんですよ。いくら授乳の為とはいえ。そんなところを見せられると、つい…」
「そうか。そう見られるとは、私もまだまだ人間ができてないって事か」
「いえ、そういうつもりでは…」
「そなたを責めているわけではないよ。…すまなかったな。子育てにかまけていて、そなたに構ってやれなくて」
「あなた…」
「そんな顔をするなよ。何だか、また催してきちゃったよ」
「えぇ。喜んで」

波風といっても、若い二人のそれは、この様なたぐいのものであった。

54 名前:左平(仮名):2003/06/15(日) 21:01
二十七、

忙しくはあったが、子育ての日々は、概ねこの様に平穏なものであった。
蓋は、普通の赤子よりも大柄で、乳もよく飲む。十分に栄養をつけた彼は、すくすくと育っていた。
そんなある日、牛輔邸に一人の来客があった。

「連絡したかと思いますが…。義兄上にお会いしたく、参りました」
「あぁ、若様。これはどうも。殿でしたら、ご在宅でいらっしゃいますので、どうぞこちらへ」
「では、上がらせてもらいましょう」
来客というのは、董卓の嫡子・勝であった。牛輔からみると義弟にあたる彼は、ほどなく志学(十五歳)になろうかという年頃である。

ちょうどその頃、牛輔は姜と一緒に、蓋をあやしているところであった。
「なに? 勝殿が参られたとな?」
「はい。堂にてお待ちしておられます」
「そうか。分かった、すぐに行く。蓋の様子を見に来られたのかな。姜よ」
「はい」
「しばらく勝殿と話をする。頃合いを見て、蓋と一緒に参れ」
「はい」

これが初対面というわけではないが、じっくりと話をするのはほとんど初めてと言ってよい。
(はて、どんな顔だったかな)
少し首をひねりつつ、牛輔は堂に向かう。
堂に入ると、数人の従者とともに、一人の少年 −いや、風貌は既に青年と言ってもよい。それくらい落ち着いて見える− が立っていた。
(これが勝殿か)
牛輔が見る義弟・勝は、義父・董卓ほどではないとはいえ、堂々たる体躯の持ち主であった。

「義兄上、お久しゅうございます」
勝は、うやうやしく拱揖の礼をとった。その仕種は実に自然なものである。これなら、礼に厳しい人にまみえたとしても、失礼であると咎められる事はあるまい。その立ち居振舞いから、彼がいかにきちんと身を修めているかが伺える。
また声は、高くもなく低くもなく、抑揚は滑らかであり、耳に不快感を与えない。心身ともに健やかに育っているという事であろう。
容貌は、義父とは異なり、穏やかな笑顔が印象的である。体格は父親に、顔は母親に似ている。
人からみると、妬ましいくらいによくできた義弟と言えるであろう。もっとも、彼をみると、そういう妬みの類の感情も生じさせない様である。
「おぉ、勝殿か。久しいな。まぁ、ゆっくり座って話そうではないか」
年下という事もあるが、勝には、人を威圧させる様なところはみられない。それゆえ、牛輔も割と気楽に話しかける事ができた。
「はい。では…」
義兄が座るのに呼応する形で、勝は席についた。その間の取り方一つとっても、礼にかなっている。

「今日来るとは伺っていたが、いかがいたしたのかな?」
「いや、大した用件ではないのですが…」
「気にするでない。我らは兄弟ではないか。何なりと申せ」
「はい…。年が明けると、私も志学になります」
「うむ。それで?」
「そろそろ、字をつけようかと思うのですが、どの様な字を用いれば良いか、義兄上に相談に乗って頂こうかと思いまして」

55 名前:左平(仮名):2003/06/15(日) 21:03
「そういう事か。それなら、喜んで相談に乗るよ。しかし、そなたを見ると、私が偉そうに教える事もなさそうだがな」
「まぁ、いくらか書を読んではおりますが…。私一人で決めるのも不安なもので」
「そういうものか。…分かった、ちょっと待てよ。その類の書を持ってくるから、二人でじっくりと考えようではないか」
そう言うと、牛輔は席を立った。

「う−む…。こんなものかな」
自室に戻った牛輔は、書を収めた箱を開け、中身を確認しつつ、数冊選び取った。この当時、字義の解説書としては「爾雅」などがあった(当時、「説文解字」は既に世に出ていたが、どの程度普及していたかは不明)が、それだけを見たわけではなかったであろう。複数の経書も参照したのではなかろうか。

「さて、勝殿。ゆっくりと考えましょう」
牛輔の自室から運ばれた、木簡やら巻物の束が、二人の間に置かれた。汗牛充棟とまではいかないものの、なかなかの蔵書量である。
「えぇ…。しかし義兄上、多いですね。こんなに多くの書を読まれるのですか?」
「いや、それほど読んでいるというわけではないが…。何かの時、役に立つという事もあるだろ?」
「こんな時に、な」
「はは…。そうですね」
「さて、読むか。とはいっても、あてもなく探すと時間ばかりかかってしまうな」
「そうですね。いかがいたしましょうか?」
「まぁ、今回は、勝殿の字を考えるわけだからな。名の『勝』に似た意味の字に絞ろう」
「『勝』というのは、『かつ』という意味がありますね。『かつ』という意味を持つ字となると…」

二人の間にしばしの静寂が訪れた。といっても、深刻なものではない。互いに、書に目をやっているので、話しようがないのである。そうして、ようやく幾つかに絞れてきた。
「『克』か『捷』、それに『戡』といったところですね」
「そうだな」
「このうちのどれかという事になるのでしょうが…。さて、どれにしたものやら」
「もう少し、意味を詳しくみてみようか?」
「そうですね」

「う−ん…。『戡』は勇ましい感じではあるが…」
「いくら『かつ』とはいえ、ちょっと血なまぐさい様な…(『戡』には『ころす』などの意味がある)」
「では『克』は…」
「確かに『かつ』ですが、どこか苦しんでる感じが…(『克』には『たえる』などの意味がある)」
「と、なると…」
「『捷』ですね…」
「『捷』か…。他に『はやい』とかの意味もあるな。ただ、ちょっと軽い感じがしないか?」
「そうですか?でも、悪い意味はないでしょ?」
「そう。悪い意味はない。じゃ、この字にするか」
「はい」

「もぅ、勝ったら。字一つ決めるのにいつまでかかってるのよ」
長いこと待たされた姜は、少し不機嫌そうであった。
「あっ、姉上。こりゃどうも…」
「まぁまぁ、姜よ。そう言うなよ。字といえば一生ものなんだから。じっくり考えさせてやれよ」
「もぅ、あなたまで。待たされてうんざりしてたのはわたしだけじゃないんですからね」
待ちくたびれたのであろうか。蓋は、すうすうと寝息を立てている。気がつくと、外は既に薄暗くなっていた。
「今日はうちに泊まりなさい。蓋と遊んでもらうまでは帰しませんからね」
「えぇ。そうさせてもらいますよ」

56 名前:左平(仮名):2003/06/22(日) 21:34
二十八、

結局、勝は、牛輔邸に一晩泊まる事になった。翌日。
「じゃ、気をつけてな。義父上によろしく伝えておいてくれよ」
「はい、承りました」
義兄達に見送られて、勝は帰っていった。

「父上、ただいま戻りました」
「おぉ、お帰り。勝よ。向こうの様子はどうだったかな?」
「ええ。義兄上も姉上も、お元気でしたよ。蓋殿も」
「そうか。そりゃ何よりだ」
「ほんと、仲の良い夫婦で…」
「なに顔を赤くしてるんだ。ははぁ…。隣で『あの』声でも聞かされたか」
董卓がそう言うと、勝は、ますます顔を赤くした。なりは大きくても、そのあたりはまだ少年である。その様子をみた董卓は、急に威儀を正してみせた。

「勝よ」
「はい、父上」
「年が改まれば、そなたも字を持ち、大人として扱われる事になる」
「はい」
「そなたは、大人になるという事がどういう事だと思っておる?」
「それは…」
そう言われると、どう答えれば良いのであろうか。勝は言葉に詰まった。
「なに、そう難しく考えずともよい。要するに、自分の今ある立場をわきまえ、それにふさわしく振る舞えばよいのだ」
「あっ、なるほど…」
父の一言により、難問はたちまち氷解した。そんな勝は、実に理解力のある少年である。
「もちろん、年が経てばおかれる立場も変わるから、それに合わせて自分も変わる必要があるのだがな」
「『君子は豹変す』ですね。父上のお言葉、しかと留めておきます」

「うむ。…まぁ、厳しい事もあるが、そればかりでもない。…そなたも、そろそろ女というものに興味が出てきた頃であろう。違うか?」
今度は、急にからかう様な口調に変わった。董卓の、このあたりの切り替えは実に素早い。
「…」
勝の顔が、また赤くなった。
「そろそろ、縁談を考えておる、姜の時もそうだったが、そなたの意に沿わぬ相手であれば、無理をする事はないからな」
「はい!」

父と子の、穏やかな日常の一こまであった。


そうして、しばしの時が流れた。そんな、ある日のこと。

「おう、伯扶。元気にしておるか」
牛輔邸に、何の前触れもなく、董卓が姿を見せた。
「ち、義父上!いかがなさったのですか!」
董卓の急な来訪に、牛輔達は驚きを隠せなかった。いつもなら事前に連絡してくるのに、今日は一体、どうしたのであろうか。

57 名前:左平(仮名):2003/06/22(日) 21:36
「どうした?驚いておるのか?」
「驚きますよ!来られるのでしたら連絡くらいしてください!何の支度もできないではありませんか!」
「ほほう。わしが来た事自体は大した驚きではなさそうだな」
「義父上ではありませんか。来られる事には驚きませんよ」
「それを聞いて、ちと安心したよ」
「は?」
「堂へ行こう。実は、そなたに重要な話があるのだ」
「重要な、ですか…」
(はて、何の事だろうか。羌族の叛乱ではないのは確かだが…。まさか鮮卑?しかし、いくら何でも、并州を無視してここ涼州を攻めるとは考えにくいが…)
自分なりに持っている情報を整理するが、思い当たるふしはない。

「まぁ座れ」
「はい」
「わしの言う、重要な話とは何だと思う?」
「う−ん…。羌族も鮮卑も、今のところ目立った動きはありませんから、戦いという事ではなさそうですが…。私にはさっぱり見当がつきません。一体、いかがなさったのですか?」
「ははは…。『重要な話』というのは悪い話ばかりではないのだぞ」
「えっ?」
「そなたも、その様子では気苦労が多いだろうな。だが、その心構えは悪くない」
「おっしゃる事の意味が分かりませんが…」
「実はな、わしはこのほど、并州は広武県の令となったのだ」

董卓、牛輔の出身地が涼州である事は前述したが、并州はその東隣である。その中心地は晋陽といい、春秋時代からその名が知られているが、そのさらに北に、雁門(広武)という邑がある。董卓は、そこの県令になったのである。
広武という県の規模はよく分からないが、中程度の県の令でも六百石の官(大きい県の令だと千石の官)というから、前職の郎中(比三百石の官)よりも俸禄は高い。俸禄が高いという事一つとっても、董卓の地位が上がった事が伺える。

「令という事は…昇任ではございませんか! 義父上、おめでとうございます!」
「うむ。ただ、一つ問題がある」
「何でしょうか?」
「県令になるという事は、その地に赴任せねばならぬという事でもある。広武県は并州の中でも北方に位置するだけに、ここにちょくちょく立ち寄るというわけにはいかぬ」
「そうですね。と、なりますと…」
「そう、我が軍団をどうするかという問題が生じるのだ」
「いったん解散して、義父上の復帰を待つというわけには…」
「そうはいかん。兵というものは、いったんなまってしまうと、なかなか元には戻らんものだからな」
「確かに」
「そこで、だ。しばらくの間、そなたに我が軍団を託そうと思うのだ」
「なんと!」
牛輔は、驚きを禁じ得なかった。

58 名前:左平(仮名):2003/06/29(日) 13:40
二十九、

この軍団は、長年にわたって董卓自らが育ててきたもの。それを、一時的に、娘婿にとはいえ、他人に渡すとは…。自分が信頼されている事は嬉しいが、若干の戸惑いもある。義父の真意はどこにあるのだろうか。
「私でよろしいのですか?第一、勝、いや、伯捷殿がおられるではありませんか」
「確かに。いずれは、勝に継がせるつもりではあるがな。ただ…」
「ただ?」
「勝には、わしとは異なる道を歩んでもらおうと思っておる。ゆえに、いま軍団を預ける事はできぬ」
「異なる道、ですか…。それはいったいどういう事ですか?」
何か考えがあっての事の様だ。ならば、その考えを聞いておこう。

「うむ。わしは軍事には自信があるが、政治の事についてはいま一つよく分からん。出自の事もあるから、よくて地方の太守あたりになれればといったところであろう」
「はぁ…」
「だが、わしが言うのも何だが、勝はよくできた子だ。あれには、もっと上を目指してもらいたい。そうなると、軍事のみに携わるのではなく、政治というものを知っておく必要が出てこよう」
「という事は…。伯捷殿を広武に同行させ、政治の何たるかを学ばせようという事ですか」
「そうだ」
「おっしゃる事は分かりました。ですが、それでしたら、なぜ叔穎(董旻。董卓の弟)殿ではなく、この私なのですか?」
「不満か?」
「いえ、私は構いません。ですが、姓の異なる私が、義父上の弟である叔穎殿をさしおいて軍団を預かるというのは、いささか問題があるのではないかと思うのですが」
「ふむ。そなたはそう思うか」
「はい」
「なかなかよく考えておるな。だが、気遣いは不要だ。旻には旻の務めというものがある」
「叔穎殿には叔穎殿の務め、ですか。それでしたら、私があれこれ言う事もありませんな」
「まぁな。そなたが励んでおる事は姜から聞いておる。そなたであれば、大過なくこの務めを果たしてくれるであろう、とな」
「分かりました。それでしたら、喜んでお引き受けいたしましょう」
「うむ。我が軍団を、頼むぞ」
「はい」

「そうそう、今日は、そなたの配下となる者達を連れて来ておるのだ」
「私の配下、ですか」
「そうだ。いくら何でも、そなたが全てをみるわけにはいかんからな。今から紹介しよう。おい、入れ」
「では、失礼します」
そう言うと、三人の男達が入ってきて、それぞれ席についた。董卓に従って戦場を駆けてきたせいか、皆、堂々たる体躯の持ち主である。だが、年の頃は自分とさほど変わらないであろうと思われる。

「ん?一人足りんな。どうした?」
「あぁ、新入りのあいつですか。まだ来てない様なんですよ」
「何だ、まだか。まぁ、都から帰ったら来いとしか言わんかったからな。まぁ良い。そいつは後だ」
「そうですね。では、私から自己紹介を」
「そうだな。始めるか」
そう言うと、その男は牛輔の方を向いた。

59 名前:左平(仮名):2003/06/29(日) 13:43
「初めてお目にかかります。私は、姓名を李カク【イ+鶴−鳥】、字は稚然と申します。北地郡の出です。どうぞよろしく」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」
字があるという事は、それなりの家の出であろう。その字が稚然という事は、兄弟が多いのだろうか(長幼の序列を示すのに伯仲叔季という字がよく用いられるが、稚というのはそのまた後に用いられる事がある。したがって、彼には四人以上の兄がいた可能性がある。実際、史書にも兄がいた事は記されている)。
挨拶の仕方もきちんとしているし、変に肩肘張ったところはない。頭の方も、まずまずといったところか。なかなか、頼りになりそうである。

続いて、二人目の男が口を開いた。
「わ、私は、郭レと申します。張掖郡の出です」
こちらは、やや緊張している様だ。ただ、悪い感じはしない。ちょっと前の自分をみる様で、微笑ましいくらいである。
「あれ?字はないのかい?」
「それが…。まだ加冠してないもので、字は…」
「そうか…」
「どうだ、伯扶。そなたが字をつけてやったらどうだ」
「えっ?私がですか?」
「そうだ。勝の字もそなたが考えたのだし、これからこいつらの長になるのだからな。ちょうどよかろう」
「急に言われましても…。あの時は、あれこれと書物を引っぱりだしてようやくでしたから…」
「なに、仮のもので良いのだ。今、この場で思いつくものを挙げてみよ」
「う−ん…。しかし、私は彼の事を何も知らないわけですし…」
「ちなみに、こいつは次男だ」
「次男となれば『仲』とつくでしょうが、もう一文字が…」
(名が「し」だからなぁ…「し」の字は、えぇっと…)

この時、牛輔はちょっとした勘違いをしていた。郭レの名は『レ』が正しいのであるが、何がどうしたのか『侈』と聞き間違えたのである。
(『侈』ってのは、『おおい』って意味だから…そうだ!)
「仲多、なんてどうでしょうか」
それを聞いた途端、董卓と李カク【イ+鶴−鳥】は大笑いし始めた。
「『ちゅうた』!? ははは、そりゃいいや。まるで鼠だな、おい」
「ほんとに。いかにも、ちょろちょろしてるこいつらしい字ですね」

「えっ?」
二人の笑い声を聞いて、牛輔は勘違いに気付いた。
「まっ、間違えました!もう一度、考え直します!」
「いやいや、それで決まりだ。レよ、そなたの字は『仲多』だ。いいな」
董卓は、笑いながらそう言った。しばしこの地を離れるとはいえ、この軍団の主の言葉は絶対である。
「はっ、はぁ…」
郭レも、照れ笑いを浮かべながら了解した。

60 名前:左平(仮名):2003/07/06(日) 21:15
三十、

「さて、最後はそなただな」
笑い終わった董卓は、もう一人の男に声をかけた。
「えぇ」
男は、愛想なしに一言そう答えた。先の二人に比べると、いささかもの堅い感じがする。我が強そうだ。悪い男ではなさそうだが、いささか扱いにくそうにも見える。

「私は、張済と申します。武威郡祖q県の出です(彼自身の出身地は不明。ただし、史書には『(張済の族子の)張繍は武威郡祖q県の人』とあるから、同じではないかと考えられる)」
「そなたも、字はないのかい?」
「ええ、ありません」
「年は?」
「二十を少し過ぎました」
「そうか。では、ちょっと待ってくれないか。そなたの為に字を考える事にしよう」
「いえ、その必要はありません」
「えっ?」
虚をつかれた牛輔は、一瞬きょとんとした。

(さっきのがまずかったかな)
確かに、あんな字をつけられてはたまったものではあるまい。とはいえ、張済は既に二十歳を過ぎているという。未成年であった郭レはともかく、成人している張済に字がないというのは、ちょっとまずいのではなかろうか。
「義父上、彼はこう申しておりますが」
「ああ。こいつには字をつける必要はないよ」
「なぜですか?」
「なぜって言われてもなぁ…。こいつは、以前から字をつけようとはしないんだよ。本人が『いらない』と言ってるのを無理につける事はあるまい」
「まぁ、そうなのですが…」

さっきまでとは違い、いささか堅い雰囲気になった感がある。
その、気まずい雰囲気を察したのか、張済は、自ら重い口を開いた。

「不愉快な思いをさせてしまった様ですね。その事については深くお詫びします。ですが、それでも、私は字をつけるつもりはございません。この事はご理解頂きたく存じます」
「いや、詫びる事はないよ。こういうものは、無理強いするものではないし。…ただ、どうして字をつけようとはしないんだい?教えてくれないかな」
「そうですね。お話しいたしましょう」

そう言うと、一呼吸おいてから、彼は自らの事を語り始めた。
それは恐らく、董卓や李カク【イ+鶴−鳥】・郭レにとっても初耳なのであろう。皆、張済の方を向き、その言葉にじっと耳を傾けている。
これから直属の上司となる牛輔が、彼の言葉を一語一句聞き逃すまいとしたのは言うまでもない。

61 名前:左平(仮名):2003/07/06(日) 21:17
「私の生まれ育った武威郡という所は、都からみれは、いよいよもって辺境の地です。それゆえ、周りには羌族が多くおります。いや、羌族の中に漢人が点在しているという具合です」
「ふむ。そうであろうな」
「私も、幼い頃から羌族とよく遊んだものです。我が一族の中には、羌族と姻戚である者も多くおります。彼らには、我が一族が漢人であるという意識が薄いのです」
「そうか。…そういえば、羌族には字という考え方がないな」
「そうです。それゆえ、私が字をつけるのはまずいのです」
「そこが分からないのだが。どうして字をつけるのがまずいんだい?」
「こう言うと自慢になりますが、私は、あの辺りでは少しは知られているのですよ。腕っ節が強いという事で。その私が字を持ったとなれば、我が一族が漢人であるという事を知られてしまいます」
「知られると、一族の身に危難が及ぶ。そういう事か」
「まぁ、直ちにそうなる事はないでしょうが…。何かと気まずい思いをするでしょうね」
「そうか」
「それに、私の出自からすると、とても字を名乗る様なものではありませんからね」
「それなら気にする事はない。これから手柄を立てて立身すれば良い事だ」
「そうですね。立身し、一族を迎えられる様になれば、字をつけても良いでしょう。しかし、それまでは、このままでいたいのです」
「そうか…。それならば、私が無理強いする事はない。そなたの思う様にすると良い。まぁ、字をつけようと思ったら、いつでも相談してくれ。共に考えよう」
「はい。ありがとうございます」
「ただ、何と呼べばいいかな?」
「お気遣いは不要です。ただ名の『済』と呼んでいただければ結構です」
「そうか。分かった」

「どうやら、話は済んだ様だな」
董卓が、おもむろに口を開いた。やはり威厳がある。
「では、稚然、仲多、済!」
「はっ!」
「これより以後、牛伯扶がそなた達の長となる!彼の命を我が命として従え!」
「はっ!」

こうして、牛輔は義父・董卓の軍団を預かる事になった。話が終わった、その直後。
「殿!近くに賊が現われましたぞ!」
家人がそう叫んでいるのが聞こえた。

62 名前:左平(仮名):2003/07/13(日) 19:31
三十一、

(ほほぅ…。さっそく、いい機会が訪れたな)
董卓にとっては、願ってもない状況であった。自分の眼前で、牛輔の、将としての力量をみられる機会が転がり込んできたのである。
いつもなら、「賊が現われた!」となれば真っ先に腰を上げる彼が、今日は動かない。動きたくはあるのだが、ここはこらえた。ここで自分から動いては、牛輔の力量をみる事はできない。
(さて、伯扶はどう反応するかな?)
ほんの少しだけ意地悪い目で、彼は牛輔の方を向いた。

「なにっ!賊だと!」
董卓が動かないのをみた牛輔は、さっと立ち上がった。董卓が動かない以上、ここは、自分から動かなくてはなるまい。それが、軍団を預かった者としての務めである。
不安ではある。しかし、戦うのは全くもって初めてというわけではない。やるしかないのである。
「者ども!」
「はっ!」
「直ちに賊の討伐にかかる!支度にかかれ!」
「はっ!」
李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、新たな長となったばかりの牛輔の命に、すぐさま応じてみせた。彼らからすると、自分などは経験の乏しい、頼りない長であるに違いない。しかし、董卓に仕込まれた彼らにとっては、長の命令は絶対である。
(いま、彼らが私の命令に従うのは、義父上の威厳があってこそ。その事を忘れてはなるまい。…おっと。賊はいかなる相手か。それを探らない事には、戦いようがないな。偵察を出さねば)
そういう事を考えられる牛輔は、自身が思うよりは、将帥としての力量があったと言えよう。

「誰かおるか!」
牛輔は家人を呼んだ。『孫子』には『彼れを知り己れを知らば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知らば、一勝一負す』とある。敵の状況を把握しない事には、いかなる名将であっても勝利は覚束ない。ましてや、自分はほとんど実戦経験がない。敵の事は、知りすぎるほど知っておく必要がある。
「はっ、ここに! 殿、いかがなさいましたか!」
現われたのは、最近雇ったばかりの、盈という青年であった。大柄で力も強いが、その見た目に似ず、実に敏捷で頭も目もいい。その出自を語らないところが少しひっかかるが、偵察という、重要な役目にはうってつけの人材である。
「うむ。盈か。賊が現われたそうだな」
「はい。その様に聞いております」
「他の者数人とともに、賊の状況を急ぎ探ってまいれ」
「はっ!」
そう言うや否や、盈は偵察へと向かっていった。

出撃の支度が始まった。盈達が戻ってくるまでは相手の状況が分からないだけに、できる限りの準備を整える必要がある。邸内は、急に慌しい雰囲気に包まれた。
「おい、今度の相手はどういうやつらだ?」
「よくは分からんが、賊だってよ」
「ほう。ま、賊なら叩き潰すまでよ」
そんな雰囲気の中、蓋はいつもと変わらず元気に動き回っている。乳離れして間もないのであるが、飯もよく食べる。
「こんな中でも動じないとは。こりゃ先が楽しみですな」
家人達は、しばし手を止め、そう言い合ったりもした。

63 名前:左平(仮名):2003/07/13(日) 19:33
しばらくして、盈が戻ってきた。まだ、こちらの支度もできていないというのに、もう偵察を終えたのであろうか。
「ずいぶん早いな」
「そうですか?きちんと賊は探ってまいりましたよ」
「そうか。ならばよい。して、賊の状況は?」
「はい。数は二、三百といったところです。やつら、どうやらテイ【氏+_】族ですね」
「テイ【氏+_】族?」
「はい」

テイ【氏+_】族とは、羌族と同様、このあたりに居住していた異民族である。羌族に比べると農耕化が早かったという事もあってか、漢朝との大規模な戦いなどは殆どなかったという(後には中原に王朝をうち立てる事もあったが、この物語にはあまり関係ない)。
匈奴や羌族に対しては、統御管轄する為の官(護羌校尉などがそう)が設けられていたが、テイ【氏+_】族を対象とする官職は見当たらない事からも、それは伺える。

(なにゆえテイ【氏+_】族が?…いや、そんな事を言ってる場合ではないな)
「他に分かった事は?」
「はい。どうも、都からこちらに向かっていた数十人の漢人が捕らえられた模様です」
「なに!彼らの安否は?」
「そこまでは分かりかねます。しかし、恐らくは…」
「…そうか」
彼らがいかなる理由で賊となったかは分からない。しかし、無辜の人々を殺戮したというのであれば、容赦する事はない。
「殿!支度が整いましたぞ!」
李カク【イ+鶴−鳥】達が牛輔を呼んだ。出撃の時である。
「そうか。よし!者ども!」
「おう!」
「相手はテイ【氏+_】族の賊、約三百!容赦はいらぬ。徹底的に叩き潰せ!」
「おう!!」

戦は二度目であるが、牛輔自身が将として戦うのは、これが初めてである。兵力差からみても、決して難しい戦いではないが、失敗は許されない。ただ、牛輔には前ほどの緊張感はなかった。
(余裕ができたからであろうか。いや、それだけではなさそうだ…)
行軍中、牛輔はそんな事を考えていた。
(…そうか、相手が違うからか。羌族とは違い、テイ【氏+_】族には何の思いもないからな。あるのはただ、漢人を殺戮した者を討伐するという意識のみ…)
義父の様に、敵に思いを持ちつつもなお苛烈に戦うという事は難しそうだ。自分は自分なりの道を歩むしかないという事か。

(さて、伯扶はどう戦うかな)
牛輔の後をゆっくりと進みながら、董卓はそう考えていた。

64 名前:左平(仮名):2003/07/20(日) 20:55
三十二、

(ここは…一体…。俺は、どうしたのだろうか…)
男は、微かな意識の中、その記憶を辿っていた。自分の身に何が起こったのか、まだ把握できていなかったのである。
(頭が…痛い…。腕が…動かない…。足も…。目も…見えない…こ、これは…)
(俺は…死んだのか…。いや、頭が痛むという事は、生きているという事ではないのか…)
(落ち着け、落ち着くのだ…。何があったかまず整理しよう…)
(俺は…。病を理由に官位を捨て、郷里に帰ろうとしていたんだったな…。帰ったら、董氏のもとを訪ねる予定だった…)
(昨晩までは、何事も無かった…。で…)
(ケン【シ+幵】のあたりで、怪しい集団にでくわして…)
(薄汚い、妙なやつらだった…。 !!)

思い出した!思い出したぞ!

(やつら、賊だったんだ!俺達を見ると急に襲い掛かってきて…。俺は…。そうか、頭をぶん殴られて気を失ったのか…)
(と、なると…。この状況は、まずいな…。目隠しされてるから周りが見えないし、第一、手足の自由が利かん。これでは、下手に動くわけにもいかん)
(それに、他のやつらはどうしたのだろうか。どうも気配が感じられんが…。あの状況からして、俺一人捕らえられたという事はないよな…)
(ま、まさか…)
最悪の事態が頭をかすめる。
(財物を奪い、皆殺しか!)
全身に戦慄が走った。血の流れが逆流する様な気がした。しかし、ただ恐怖に怯えるだけでは思考は止まってしまう。つらい事だが、さらに考えを進める。
(しかしだ。それなら、どうして俺はまだ生きているのだ?)
(俺に、まだ利用価値があるとでもいうのだろうか?どうも分からん…。ともかく、しばらく様子をみるしかなさそうだな…)

ひとたび目覚めると、男の頭脳はめまぐるしく動き始めた。ただ一つの目的の為に。
『生き延びる為には、何をすべきか』。
こういった状況においては、誰もが考える事である。しかし、この男ほど、その能力に長けた者はいない。実際、後にはこれ以上の危地をいくたびもくぐり抜けていったのである。もっとも、彼自身、自らのその能力にはまだ気付いていないのであったが。

急に足音が聞こえてきた。どうやらこちらに向かってくる様だ。
(やつら、俺の様子を見に来たのか)
ケン【シ+幵】のあたりで襲われたという事は、ここは、その近くにあるであろう賊の隠れ家に違いない。はっきり言って、漢朝の救援は、期待薄である。
いかに一介の郎官に過ぎなかったとはいえ、彼自身、朝廷の内実はよく知っているつもりである。たかだかもとの孝廉一人が賊に襲われたところで、ここは辺境。皇帝も、高官達の誰も、関心を持つ事はあるまい。
(くそっ!こんな所で俺は…)
賊の手にかかって落命するのか。そう叫びたくなった。しかし、ここで叫んだところで何にもならない。そう思う彼の頭のどこかに、まだ希望が残っている。

65 名前:左平(仮名):2003/07/20(日) 20:58
「おい、こいつ、目を覚ましたらしいぜ」
男の声が聞こえた。どうやら、賊の一味らしい。やや独特の訛りが感じられる。
(そうか、テイ【氏+_】族か)
漢人ではないらしい。この事に、何か意味を見出せないだろうか。もっとも、そんな事を考える間もなかった。
「起きたんなら、こっちに来な」
賊は、男の体をつかみ、軽々と持ち上げると、そのまま仲間のところに向かった。
(はぁ…情けないもんだな)
噂に聞く董氏の様な体躯であったなら。この時ばかりは、自分の痩身が恨めしく思えた。

数十歩ほどで、いきなり地面に投げ出され、目隠しが外された。あたりには、屈強な男達が揃っている。賊の面々である。もはやこれまでなのか。
(もう、腹を据えるしかあるまい。今の俺は俎上の肉【まな板の上の鯉というくらいの意味】だ)
そう思うと、妙に落ち着いてきた。
「おい、おまえ」
賊の頭目とおぼしき人物が口を開いた。
「随分といい身なりをしてるじゃねぇか。え?」
何か聞き出したいのだろうか。
「おっしゃる事がよく分かりませんが…」
「そういうなりだ。さぞかし、家は裕福なんじゃねぇのか?え?」
(ははぁ、そういう事か…。そういえば、俺が一番上物の衣冠をまとっていたな。こいつら、俺を人質にして身代金をせしめようって算段か)
相手の腹が読めてきた。少し落ち着きを取り戻してあたりをうかがったが、仲間の姿は見当たらない。皆、殺されたのか。その事については何も言わないが、連中の様子からすれば、十分考えられる。
(よし、どうせ殺されるんなら、いっちょはったりをかましてみるか)
この様な場面でそんな事を考えるというあたり、彼はただ者ではなかったというべきであろう。

「えぇ、家は裕福ですよ。なにしろ、我が外祖父は段公(前出の段ケイ【ヒ+火+頁】の事。字は紀明。この頃、大尉の要職に就いていた)ですからね」
もちろん、全くのでたらめである。が、その言葉は、凄まじい威力があった。
「な、なに?もう一度、言え」
頭目の顔色が、明らかに変わった。まわりの連中も。『段ケイ【ヒ+火+頁】』という名に対する西方諸民族の怯え様は、これほどのものであったか。思わず、彼の口元がほころんだ。
(この好機を逃してはならぬ!)
「そうだ。わしは段公、すなわち段紀明の外孫だ。おまえたち、わしを殺したなら、必ず他の者とは分けて埋葬しろよ。段公が我が屍を確認できる様にな。我が一族が、そなた達に充分な礼を施すであろう。…おっと。段公がわしの死に気付かぬとでも思うなよ。わしは、毎日書簡を公のもとに送っておる。わしがどこで足取りを断ったかくらい、すぐにお見通しなのだ。隠したところで、無駄だ」
もはや、立場は逆転していた。さっきまで威張り散らしていた賊どもが平身低頭するとは、痛快である。
「めっ、滅相もございません!私共があなた様に危害を加えるなど!どうか、この事は段公にはご内密にしてはいただけませんか」
「そうまで申すのであれば、よかろう、今回に限り許してやろう」
「はっ、ははっ!」

こうして彼は、無事に賊の魔手から脱する事ができたのである。賊は、ご丁寧に盟約まで結んだ。
(ふふっ。こんな盟約など何の意味もないというのに。…ともかく、一刻も早くこの場を離れないと)
そう思い、西に向かって歩く彼の目の前に、突如、騎馬の軍団が現われた。

66 名前:左平(仮名):2003/07/27(日) 21:48
三十三、

(んっ?まさか、また賊か?いや違う。あの旗印は…「牛」?一体どこの軍だ?…あっ、後ろに「董」の旗印も…。そうか、これが董氏の軍団か…)
ともかく、味方には違いない。そう思うと、安心感と、疲労と、空腹とがあいまって、急に目眩がした。
「おい、どうした!しっかりせい!」
男の姿に気付いた兵達が駆け寄り、肩を貸した。
「かたじけない…」
「気にするな。ところでそなた、こんな所で何をしていたんだ?」
「実は…。賊に襲われたのです」
「なにっ!して、賊はいずこに?」
「ここから数里といったところです。私は、辛うじて賊から解放され、ここまで歩いてまいりました」
「そうか…。殿!この者、賊の隠れ家を存じておりますぞ!」
「なに!よし、しばし待て!」
(ん…殿?という事は、董氏が…)
董氏は巨躯の人と聞いていた。だが、彼の前に現われたのは、それとは異なる、中肉中背の青年であった。
「大変でしたな。ゆっくりお休みくだされ。私の名は、牛輔。字を伯扶と申します」
「はっ、はぁ…。私の名は、賈ク【言+羽】。字は文和と申します。…ところで、こちらの方々は董氏、董仲穎殿の軍団ではないのですか?『董』の旗印が見えた様な気がしたのですが」
「あぁ、董氏ですか。私は、董氏の娘婿なのです。義父から、しばしこの軍団を預かる事になりました」
「そうでしたか」
それなら、董氏の旗印があるのも当然か。一安心だ。

「文和!文和ではないか!」
賈ク【言+羽】の姿に気付いた張済がそう叫んだ。
「おお!張殿!お懐かしゅうございますなぁ!」
「なんだ、済よ。二人は知己であったのか」
「えぇ、彼は私と同郷ですからね。…そうそう、今度の新入りってのは、この者ですよ」
「えっ!そうだったのか?賊に捕まってたのなら、遅くなるわけだな」
「私が新入り、ですか?という事は…」
「なんだ、文和。聞いてなかったのか?この伯扶殿が、我らの長なのだぞ」
「そうなのですか?私は、帰郷したら董氏のもとを訪ねる様にとしか聞いていなかったのですが…。いつの間にその様な話に?」
「はははっ…」
「あっ!張殿!まさか!」
どうやら、張済が賈ク【言+羽】に無断で話を進めていたらしい。ただ、賈ク【言+羽】も特に嫌がってはいない様なので、たいした問題ではなさそうである。

同郷の知己の対面であるが、今は再開の喜びに浸っている場合ではない。いささか興を殺ぐ様ではあるが、聞かねばならぬ事がある。
牛輔は、二人の会話の切れ目をみて、口を開いた。
「まぁ、後でゆっくり話そうではないか。それより、そなた、賊の隠れ家を知っておるのだな」
「はい。そこからずっと西に向かって歩きましたから、おおよそは。ここより東に数里のところです」
「そなた以外の者は?」
「分かりません。賊は、私以外の者の安否については何も言いませんでしたし、解放されたのは私一人でしたから」
「そうか。それで、隠れ家の様子は?」
「今の時点では、守る事は考えておりますまい。見た限りでは、特に防備を固めているふうではありませんでした」
「賊の人数は?」
「私が見たのは三十人程度でした。まぁ、あれは主だった連中でしょうから、その数倍はいるかと…」
「そうか」

67 名前:左平(仮名):2003/07/27(日) 21:51
(ふむ。盈の報告はだいたい合っているな。こちらは千程度だから…勝つ事自体は、さほど難しくはない)
「女子供の姿は?」
「見てはおりません。とはいえ、賊がテイ【氏+_】族となると、家族の者もおるやも知れず、いないと断言する事もできません」

(ふむ…。そうなると、いささか考えねばならぬな)
賊に対しては、いささかも容赦するつもりはない。だが、いるかも知れない人質や女子供に危害が及ぶのは避けたいところである。敵の虚を衝き、速攻で片をつけねばならないのである。
(となると…。夜襲しかないか)
「者ども!馬に枚【ばい:声をあげない様にする為に口にくわえる木片】を銜【ふく】ませよ!」
それを聞いた将兵からは、戸惑いの声が挙がった。数でまさるこちらが、なにゆえ夜襲などせねばならぬのか。そういう不満感が見え隠れする。
「賊は、人質をとっておるやも知れぬのだぞ!そなた達は人質の安否が気にならぬのか!それに、敵は何の抵抗もできない者を襲うという卑劣な輩!堂々と戦う必要などない!」
今の牛輔では、義父・董卓の様にその威厳で将兵を押し切る事はできない。となれば、その意図を説明し、納得してもらうしかないのである。
「分かりました!」
李カク【イ+鶴−鳥】達がそう叫んだ事で、一応将兵の不満は納まった。
ただ、そうは言っても、心底ではまだ不満があろう。ここは、完璧な勝利を得る必要がある。
牛輔は、盈達に命じさらに偵察を進めさせ、賊の隠れ家の詳細を探った。

その夜。
かすかな星明りのもと、牛輔は、董卓と向き合っていた。敵に気付かれてはならないので、火は使えない。目の前にいるのに、どこか、幻に向かって語りかけている様な感じがする。
「明日の夜明け前に、奇襲をかけようと思います」
「そうか」
「これでよろしいでしょうか?」
「そなたが良いと思って決断を下したのであろう?わしがとやかく言う事はない」
「はい。ですが…」
「そうか。まだ自信がないのか。で、わしのお墨付きが欲しいと」
「…」
確かに、その通りではある。しかし、はい、そうなんですとはさすがに言いづらい。
「辛いか?だがな、長というものはそういうものだ。…まぁ、いずれ慣れる」
「そういうものでしょうか…」
「そういうものだ」

少し眠ろうとしたが、どうにも寝付けなかった。東の空が白む前に夜襲である。寝過ごすわけにはいかないと思ううち、いつしか、その時が来た。

68 名前:左平(仮名):2003/08/03(日) 21:53
三十四、

牛輔が目を開けた時、空一面に星が瞬いていた。まだ、真夜中である。だが、夜明け前に夜襲をかけるとなれば、決して早すぎるという事はない。
(よし、出撃だ!)
もう賊の隠れ家は近い。昨日から馬に枚を銜ませているくらいであるから、大声を出すわけにはいかない。細かく伝令を発し、小声で命令を発するさまは、傍目には滑稽に見えるが、やってる当人にとっては真剣そのものである。
「どうやら、指示は行き渡った様だな」
頃合いをみて旗幟を掲げると、それに応えて兵達が得物をすっと上げた。大声は出せないから、これが合図となる。いよいよ、攻撃開始の時が来た。

漆黒の中を、千余りの兵が黙々と進んだ。これほど気を遣う行軍も、そうはあるまい。もっとも、その行軍自体はすぐに終わった。賊の隠れ家のそばに着いたからである。
「あれが、賊の隠れ家か」
二、三百人はいるというが、はなから襲撃される事など考えてはいないのであろうか。一応の囲いくらいはあるが、これといった備えはしていない様だ。打ち破るのはたやすかろう。とはいえ、ぐるりと包囲するには、兵が足りない。兵法には「十(倍)なれば即ち之れを囲い、五(倍)なれば即ち之れを攻め〜」とあるから、四、五倍程度では包囲殲滅という手段はとれそうにない。
(さて、どうしたものか)
考える猶予は余りない。夜が明けてしまっては、せっかく夜襲を試みた意味がないからである。

(そうだ。先の戦いでは使えなかった火計、使ってみるか)
前回は義父に止められたが、今度の相手は、羌族ではなく、テイ【氏+_】族の単なる賊に過ぎない。彼らが相手なら、義父も、火計を咎めたりはすまい。また、風についても問題はない。やってみる価値は十分にあると言えよう。
「弩兵は東に回り込み、用意が整ったら、一斉に攻撃を開始せよ。そなた達の攻撃が、他の者達への合図になる。心してかかれ」
弩兵達は、無言でうなづいた。
「やつらに、たんまりと火矢を食らわしてやれ」
「火の手が挙がったら、騎兵は喚声を発しつつ、一気に駆けて敵を蹴散らせ」
「長兵は逃走を図る敵を突き倒し、短兵は人質や女子供がいないか探しつつ敵を斬れ」
軸となる戦術が決まれば、後の流れは決まる。指示を受けた兵達は、一斉に配置についた。
全ての配置が終わったのは、予定通り、夜が白む前の事であった。

「者ども、撃て−っ!」
合図とともに、一斉に火矢が放たれた。乾燥したこの地では、いったん可燃物に火がつくと、実に簡単に燃え広がるのである。火は、瞬く間にあたりを覆っていった。
にもかかわらず、賊の反応は鈍かった。自分達が襲われるとは思いもよらなかったし、東の方から明るくなった為、気付くのが遅れたという事もあった。ともあれ、この遅れが、致命傷となった。
「なっ、何だ?」
「かっ、火事だ!」
「なっ、なんでだ!?」
「うわっ!」
「どうした? ぐえっ!」
火の手が挙がると同時に突入してきた騎兵達により、賊はあっけなく倒されていった。ようやく落ち着きを取り戻し、反撃を試みようとするも、今度は続々と来る長兵に圧倒され、動きがとれない。
戦いとはいえないくらいの、一方的な展開である。
夜が明ける頃には、賊はほぼ壊滅していた。一方、こちらの犠牲は殆どない。文句無しの完勝である。
(ほう。伯扶め、なかなかやるではないか)
いかに兵力差があるとはいえ、この戦果は見事なものである。これには、董卓も十分に満足した。

69 名前:左平(仮名):2003/08/03(日) 21:58
「中の様子はどうなっておる」
「ただいま探っております」
攻撃がまだ続いている中、早くも戦後処理が始まった。むしろ、この方が重要だという雰囲気さえある。
「生存している人質がおれば、丁重に保護せよ。賊の妻子については、よほどの抵抗をする者を除き、なるべく生け捕りにするのだ。くれぐれも、余計な殺傷をするでないぞ。よいな」
「承知いたしました」
賊の妻子を殺さずにおくというのは、何も人道的な見地に立っての事ではない。内燃機関のないこの当時、人間の労働力は実に貴重なものであった。多くの人間を保持しているという事が、そのまま富の源泉となるのである。そう考えると、この指示は、至極当然の事であった。
また、その指示を受ける兵も、利害は一致している。辺境に暮らす男に嫁ぐ女は少ない。それゆえ、彼らは常に女に飢えている。彼らにとっては、ここは格好の嫁探しの場ともなるのである。

蛇足ながら−。この頃、隴西に馬平【字は子碩】という人物がいた。彼は官位を失った後、羌族の娘を娶ったという。家が貧しかったとの事なので、この兵達と似た様な事情があったのかも知れない。となれば、類似した環境にあったこの兵士の態度も当然のものであろう。
なお、彼と羌族の娘との間に産まれたのが、後に群雄の一人となる馬騰【字は寿成】。その子が、馬超【字は孟起】である。この馬氏は、後々董氏やその軍団と関わりを持つ事になる。

日が昇り、火の手が収まるのを待ち、本格的な捜索が行われた。だが、漢人の生存者も、テイ【氏+_】族の女子供も見当たらない。
「ちっ。やつら、ここには女子供は連れて来てなかったのか」
そんな声もあがる。
「まぁ、そんなに遠くではあるまい。こいつらが戻らないのを知れば、いずれ出てくるよ。その時に口説き落とせばよかろう」
「そりゃそうだが…」
「ここでものにしたところで、下手すりゃ一生『夫の仇』にされるかも知れんぞ。前向きに考えろや」
「はは。そうだな。…あっ!」
「どうした。あっ!」
二人が見つけたのは、明らかに漢人と思われる屍であった。それも、一人や二人ではない。賈ク【言+羽】と一緒に捕らえられた者達であろうか。

「殿!大変です!」
「どうした!」
「かっ…、漢人の屍です!それも、かなりの人数です」
「なにっ!…そうだ、文和を呼べ!身元を調べねばならぬ!」

70 名前:左平(仮名):2003/08/10(日) 21:09
三十五、

「お呼びでしょうか?」
食事をとり、一晩ゆっくり休んだ為、賈ク【言+羽】の血色は昨日に比べ格段に良い。だが、表情は固い。
「おお、文和か」
一呼吸おき、牛輔は言葉を続けた。
「実はな、漢人と思われる屍が見つかったのだ」
「えっ!と、いう事は…」
「そうだ。そなたと共に捕らえられた者達やも知れぬ。が、我らは彼らの顔も姓名も知らぬ。身元を確認できるのは、そなたしかおらぬのだ」
「そうなのですか…」
考えてはいたが、そうあって欲しくなかった事が、現実の事として眼前に現われたのである。二人とも、気は重かった。

「殿、こちらです」
「うむ」
牛輔と賈ク【言+羽】が着くと、既に屍は一箇所に集められ、安置されていた。体には目立った虐待の跡はなかったが、殆どの者の顔には、恐怖の色が残っていた。捕らえられた後、殺されたのは間違いない。
「文和、どうだ?」
「間違いございません。皆、私と共にケン【シ+幵】まで旅をした者達です」
「そうか。おい、これで全員か?」
「はい。この中にあった屍は、これが全てです」
「文和。他に、助かった者はおらぬのか?」
「…おりません。襲われた時に死ぬなり逃げるなりした者を除けば、ここにいる者が全てです」
「では、助かったのはそなた一人、か…」
暑いわけではないのに、賈ク【言+羽】の額から、汗が滲む。その後に続く言葉が何であるか、おおよその察しがつくからである。
(なぜ、そなた一人が助かったのか?)
(賊に命乞いでもしたか?)
(まさか、そなた、賊に通じていたのではなかろうな?)
むざむざ賊に捕まった上、その様な疑念にさいなまれるのか。そう思うと、やりきれない。こんな思いをするくらいなら、いっそここで死んだ方が良かったのであろうか。

「この者達の身元は分からぬか?」
「はっ?」
牛輔の言葉は、予想外のものであった。
「屍を丁重に葬ってやろう。それに、家族にこの事を伝えねばならぬしな」
「はぁ…。全員は分かりかねますが、何人かは…」
「よし。後の事はそなたに任せよう。人手が必要であろうから、何人か残しておく。頼むぞ」
「はっ…はい!」
「よし、者ども!引き上げるぞ!」
「おぅ!」
こうして、史書には記載されない一つの戦いが終わった。

「なぁ、伯扶よ」
帰途につこうとしたその時、董卓が不意に問うてきた。
「何でしょうか、義父上」
「なぜ、文和に問わなかったのだ?」
「は?何をですか?」

71 名前:左平(仮名):2003/08/10(日) 21:12
いったい、他に何を聞けというのであろうか。時々義父は、思いがけない問いを発する。
「分からんか。他の者達が全て殺されたというのに、どうして文和一人が助かったのか。そなた、不思議だとは思わんのか?」
「はぁ…」
確かに、そうだ。そう言われると、急に気になってくる。
「…その事には、全く思いが及んでおりませんでした」
ここで嘘をついたところで何にもならない。素直に認め、教えを乞うた方が自分の為である。

「そうか。気がつかなんだか」
「はい…。義父上に指摘されるまで、全く。我ながら、情けない事です」
「そう気にするな」
こうも素直に反省されると、怒る気にはならない。
「いかに万巻の書を読んだところで、最初から全ての物事を理解できるものではない。大切なのは、その成否を問わず、経験からいかに学ぶかという事だ。聖人ですら、初めから何もかも上手くいくものではないのだからな」
「はぁ…。そのお言葉、しかと心に留めます」
「実はな。そなたがその事に気付かなかったという一点を除けば、今回は言う事なしだったよ」
「まことですか!」
「あぁ。こんな事で嘘を言ってどうなる。兵の統制はとれていたし、賊を壊滅させ、なおかつこちらの犠牲は殆どなかった。完勝ではないか。将として十分過ぎるほどの働きだぞ」
「えぇ。ですが…」
「もっと早く攻撃を開始していれば、あの者達は死なずに済んだのではないか。そう考えておるのか?」
「はい」
「ふむ。そういう事も考えておったか。それでこそ我が娘婿よ」
「果たして、私の判断はこれで良かったのでしょうか?」
「良かったに決まっておろう!」
董卓は急に大声を出した。怒声というわけではなかったが、あたりは一瞬びくっとなった。

「将たる者が、自らの下した判断を顧みるのは良い。だがな、ひとたび決断したなら、わずかでも揺らいではならぬのだ。ましてや、今回のそなたの判断は実に見事なものであった。そんな時にまで思い悩んでどうするのだ!それでは身が保たんぞ!」
「…」
「そなたの判断は全く正しかったのだ。もっと自信を持て。…実はな。そなたと文和があの場を離れた後、わしも殺された者達の屍を確認したのだ」
「それで、何か分かったのですか?」
「屍をみたところ、死斑が浮き出ておった」
「死斑?」
「そうだ。死斑があったという事は、殺されてからしばらく経っておるという事だ。それに、屍は硬かったであろう?」
「確かに、関節等は動かせなかったですね」
「なぜかはよく分からんが、生き物は死ぬと硬くなる。その程度から、いつ死んだかという事がある程度分かるのだ。わしの見立てでは…少なくとも、昨日の朝までには殺されていたな」
「昨日の朝…」
「となれば、そなたが攻撃を急いだところで間に合わなかったというわけだ。文和にしても、気がついたのは昨日になってからだというしな。あれも、他の者達を救う事は不可能であったというわけだ」
「では…」
「そうだ。そなたにも文和にも、何もやましいところはない。将としては、何事にも疑いを持ってかかる必要はあるが、変に気を惑わせる様な問いを発する必要もない。ゆえに、そなたが文和に問わなかったというのは、正しかったのだ。よいな」
「はい!」
牛輔は、また一つ、何かを得た様な気がした。

72 名前:左平(仮名):2003/08/18(月) 00:01
三十六、

帰還後、董卓の転任と戦勝祝い、それに賈ク【言+羽】の歓迎を兼ねた宴が催された。

めでたい事が二つも三つも重なったのである。皆、上機嫌であった。ただ一人、歓迎される立場である賈ク【言+羽】を除いては。
(伯扶殿には何も言われなかった。しかし…)
人一倍鋭敏な感覚を持つ彼には、周囲の目というものがひどく気になり、素直に歓待を喜ぶという事はできなかったのである。
この涼州の地では、男は、知識よりも腕力が問われる。若くして孝廉に推挙されたという点は他の面々に比べまさっているものの、ろくに抵抗もできぬまま賊に捕われ、ほうぼうの体で解放されたなど、情けない事この上ない。この事は、生涯の負い目となるであろう。
(これから、俺はどうすれば良いのであろうか…)
漢朝に失望したとはいえ、確たる見通しがあって官を辞したというわけではない。しかし、中央とは縁を切った以上は、否応無く、この地で生きるしかないのである。
とはいえ、体も細く、非力である自分にいったい何ができるのであろうか。
(かつて閻氏【閻忠】は、俺の事を留侯【張良。漢高祖の謀臣】・献侯【陳平。同じく、漢高祖の謀臣】の如き奇才があるなどと言ってくれたが…どうなんだか)
今まで自分を支えてくれたこの言葉さえ、空しく感じられる。

「どうした、文和。酒が進んでおらんが。…そなた、ひょっとして下戸か?」
賈ク【言+羽】の様子に気付いた董卓が、そう尋ねた。
「えっ?文和が下戸? とんでもない。こいつ、飲もうと思えば相当飲めますぜ。…おい、なに遠慮してんだよ。今日の主役はおまえだぜ。しっかり飲めよ」
「あっ、ああ…」
「ささっ。ぐい−っと飲み干せよ」
張済にそう勧められ、賈ク【言+羽】は杯の酒をくっと飲み干した。いつもなら旨いと感じられるのであるが、一杯くらいでは、どうもそういう気にならない。
「おぉ。飲めるではないか。なら、もう一杯いけ」
「はぁ…では…」
勧められるまま、さらに何杯も何杯も酒をあおった。酔っ払って、せめて一時だけでも憂さを晴らしたかったのである。だが、酔いは感じたものの、いつもの様な心地良さは感じられない。
そんな彼の思いにはお構いなしに宴は盛り上がり、そして終わった。殆どの者が酔いつぶれ、ぐうぐういびきをかいて寝てしまった為、自動的にお開きになったのである。
賈ク【言+羽】も酔っ払い、横になった。だが、どうにも眠りが浅い。しばらく、夢うつつの中にいた。

(ん…。朝か…)
ふと薄目を開けると、もう日が昇り始めていた。まだ特に急ぐ用事もないとはいえ、ここは自宅ではない。そろそろ起きた方が良さそうである。
(起きるか…)
そう思い、起きようとして頭を上げると、軽い痛みが走った。まだ酔いが残っている様だ。
(参ったなぁ。ちと飲みすぎた)
心の中でそうぼやきつつ、ふらふらと起き上がった。
あたりを見ると、董卓も、李カク【イ+鶴−鳥】も郭レも、張済も、まだ寝入ったままだ。
(やれやれ。俺が一番早起きか)
董氏はともかく、自宅でもないのに、まったく呑気なもんだ。そう思いはするが、一方で、今の自分はどうかと省みると、偉そうに言う事もできない。
(ま、まだ早いし…もう少し横になるか)
そう思い、腰を下ろしたところで、ふっと気がついた。
(あれっ? 伯扶殿は?)
確かに、自分が横になるまでは董氏の横にいたのであるが、姿が見当たらない。それに、あたりも、昨晩に比べ幾分片付いている様な。

73 名前:左平(仮名):2003/08/18(月) 00:03
「おっ、文和。目が覚めたか」
後ろから、牛輔の声が聞こえた。ふと気付くと、あたりを家人達が忙しく動き回っている。どうやら宴の後片付けをしている様だ。
「こら。物音を立てるな。皆が目覚めてしまうであろう」
「へいっ!」
「大声も出すな」
「あっ、はい…」
「伯扶殿、お早いですね」
「まぁ、ここは我が屋敷だしな。主が客を気遣うのは当然の事だ。気にせずともよい。そなた、まだ寝ていてもいいのだぞ」
「いえ。せっかくですから…私も何か手伝いましょう」
「そうか。では、そちらの指示を頼もうか」
「はい」
他の者を起こしてはならないので、賈ク【言+羽】は小声で返事をした。

彼の指示は、なかなかのものであった。何年もつきあいがあるのかというくらい、家人の体格・性格などを的確に把握し、指図をする。
この事は、戦にも通じるであろう。
(ほう…。この男、他の三人とはちと毛色が違う様だな)
牛輔は、そんな賈ク【言+羽】に興味を覚えた。彼ほど痩せてはいないとはいえ、自分も、姜を娶り董卓の娘婿となるまでは、この様に非力な青年に過ぎなかったのだ。
そう思うと、どこか親近感さえ感じられる。

それは、賈ク【言+羽】も同じだった。自分に似て、非力そうに見えるこの人物が、どうして董氏の信頼を得ているのであろうか。単に娘婿だからというだけではない、何かがある。そう思えてならないのである。
(いい機会だ。このお方の人となりをじっくりと拝見しよう)
牛家の家人に指示を出しながら、そんな事を考えていた。

74 名前:左平(仮名):2003/08/24(日) 21:52
三十七、

もともとさして大規模な宴ではなかったから、しばらくするとあらかた片付いた。

その頃には、もう日もだいぶ高くなっていたから、眠りこけていた董卓、李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、張済も目を覚ましており、あたりの様子に気付いた。
「んっ? 何だ、ずいぶん片付いておるな」
「そうですね」
「俺達が眠っちまった時には、だいぶ散らかってたはずですけど」
「いつの間に?」
四人は、一様に首をかしげた。

「義父上、お目覚めですか」
「おぅ、伯扶。いつの間に片付けたのだ?」
「えっ?いけなかったですか?」
「いや、いかんという事はない。ただ、目が覚めたら片付いておるから不思議に思っただけだ」
「いつの間にって。義父上や皆の者が眠っている間にですよ」
「それは分かる。しかし、気付かなんだぞ。いったいどう片付けたのだ?」
「どうっておっしゃられても…。あぁ、そうそう、実は文和に手伝ってもらったんですよ」
「なに? 文和に?」
「はい。いや、あの者、なかなかやりますな。わが家人を実によくみて使っておりましたよ」
「ほぅ、そうなのか」
「えぇ。いかがなさいましたか?」
「うむ。ちょっとな」

「あれっ?皆様お目覚めですか?」
「おお、文和か。ちょっとこっちに来い」
「はい…」
一体、何であろうか。昨日合流したばかりで、叱責されたり称揚されたりする様な覚えもないが。
「そなた、急ぎの用はないか?」
「は? …昨日帰ったばかりですよ。そんな用事はありませんが…」
「なら話は早い。そなた、しばらくここに留まれ」
「?」
「分からんか。しばらくここに住み込めと言うておるのだ」
「はっ、はぁ…。私は構いませんが…。ただ、伯扶殿は…」
「義父上がそうおっしゃるのだ、私の方は構わんよ」
「…そうですか。分かりました」
軍団の長の命令である。否応のあろうはずもない。

翌日、董卓は任地に向かっていった。それと同時に、李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、それぞれの役目を与えられ、各部所に配置された。
ただ、賈ク【言+羽】のみはまだ無任所のままであった。
(義父上は、文和の配置については何もおっしゃらなかった…。これはどういう事なのであろうか…)
(私が見る限りでは、文和は使える。ただ、あの者の事は何も知らんからなぁ…。どうやってその才智のほどを量ればよいものか…)
自室で書を読みつつも、その事で頭が一杯になっていた。
(とにかく、じっくりと話をせねばな)
そう思っていた、その時である。

75 名前:左平(仮名):2003/08/24(日) 21:59
「殿。お話があるのですが」
気がつくと、賈ク【言+羽】が牛輔の前に座っていた。
「あれっ? そなた、いつの間に?」
「いつの間にって…。何度も咳払いを致しましたよ。それに、目も合ったではありませんか」
「そうだったか?」
さっぱり気付かなかった。考え事にすっかり気を取られていた様だ。
「それはすまんかったな。で、話とは何だ?」
「はい。実は、一つお願いがあるのです。いささか身勝手な願いではあるのですが…」
「構わん。話してくれ。ただし、辞めたいとかいうのは困るぞ」
「辞めるなど…。そんな事、つゆほども考えておりませんよ。実はですね…」
別にやましい話というわけでもないのに、なぜか彼の声は小さくなった。

「なにっ? 私と立ち合いたい?」
「はい」
「それは構わんが…なにゆえ私なのだ?立ち合うなら、他にいるではないか?家人では不満か?」
「いえ、家人の方々に不満がとかいうのではありません。ただ、どうしても殿と立ち合わせていただきたいのです」
「どうしても、か」
「はい」
「ふむ…」
牛輔は、自分の技量のほどはよく承知している。武術の腕前については、自分より上の者は掃いて捨てるほどいるからだ。となれば、家人では物足りないからというわけではない。
(いったい、何のつもりだ?)
少しいぶかしく思うが、賈ク【言+羽】のたっての望みである。彼の事を知る、よい機会ではないか。
「分かった。立ち合おう」
「ありがとうございます」
「で、いつ立ち合う?」
「殿のご都合がよろしければ、今すぐにでも」
「そうか。では、庭に出よう。誰かおるか!」
「はっ!殿、いかがなさいましたか」
「おお、盈か。適当な長さの棒を二本持ってきてくれ。文和と武術の立ち合いをする」
「はい」
「文和。棒を使うぞ。よいな」
「はい」

「殿。こんなものでよろしいでしょうか」
「おぉ、そうだな。それでよかろう」

76 名前:左平(仮名):2003/08/31(日) 20:14
三十八、

二人は、二丈(当時の一丈は約2,3m)ほど離れて向かい合った。
盈が持ってきた棒は、二本とも、おおよそ十尺(当時の一尺は約23p)ほどである。戟・戈など、当時の武器の大きさを考えると、もう少しくらい長くても良いのではあるが、これは実戦ではなく、あくまで立ち合いである。まあこんなものであろう。
実は、二人とも武術には疎い。その構え一つとっても、いっぱしの武人から見れば実に心もとない。傍目には、武術の立ち合いというより、何かの踊りみたいである。
だが、当の二人にとっては、真剣勝負であった。特に、自分から申し出た賈ク【言+羽】にとっては。この立ち合いは、彼には二つの意味があったのである。

一つは、自らの長である、牛輔という人物を知る事である。
(一見したところ、伯扶殿はさして腕が立つ様には見えない。この涼州という地にあっては、それは男としては致命的な欠陥であるはず。しかし、董氏には篤く信頼されている様だ。単に娘婿だからか?いや、それ以外の何かがある。そう思えてならぬ…)
それは、恐らく幾多の言葉を費やしても容易に分かる事ではあるまい。となれば、実際に体ごとぶつかって確かめるしかない。『彼れを知り己を知らば百戦して殆うからず』という。その『知る』という事は、何も敵に対してだけのものではない。
もう一つは、自らの中にあるもやもやを少しでも晴らす事である。
ろくに抵抗もできぬまま賊に捕らえられたというのは、いかにも情けなく、自分の力の無さをつくづく思い知らされる事であった。張済ならば、そういう時、賊を斬り血路を開く事ができたはず。それが、涼州の男というものであろう。
だが、眼前にいる牛輔はどうであろうか。部下の身でありながらこんな事を考えるのは甚だ失礼ではあろうが、『この方になら勝てるのではないか』。そう思える。ならば、この立ち合いで勝ち、少しでも憂さを晴らしておきたい。そうでもしないと、この先ずっと卑屈に生きるしか無い様に思えてならない。
そんな事を考えるほど、彼は、精神的に滅入っていたのである。

もちろん、そんな賈ク【言+羽】の胸中は、牛輔には知りようもない。ただ、受けて立つのみである。
「では!」
「おう、いつでもよいぞ!」
二人の声とともに、立ち合いが開始された。

「やぁ−っ!!」
賈ク【言+羽】は、足を踏み出すと同時に、棒を思いっきり持ち上げ、いわゆる上段の構えをとった。戈を振り下ろす要領である。頭に食らえば、相当の衝撃があるから、一撃で決着がつく。
「それ−っ!!」
全身の力を込めて振り下ろす。これが当たれば、自分の勝ちだ。
「おっとぉ!」
牛輔は、それをさっとかわした。彼の方は、まだ棒を振る態勢にさえ入っていなかった。よけるしかない。
(文和め、なかなか素早いな)
賈ク【言+羽】の攻撃をよけながらも、牛輔は感心していた。長身の割には、彼の動きは敏捷である。それは、他の面々と比べても決して劣ってはおらず、むしろ優っているくらいであろう。単なる文弱の徒というわけでもなさそうだ。さすがに、涼州の男である。
だが、その彼の攻撃を、自分はかわす事ができた。日頃の修練が、少しは効いたのであろうか。
「おりゃ−っ!!」
(おっと、感心してる場合じゃないな。こいつ、もう次の態勢に入っている)
棒を握る手に、思わず力が入る。自分だって、負けたくはない。
(さて、どう攻めたものか。棒を振る速さは、あいつの方が上だし…。ん!)
しばらく攻撃をかわしているうちに、ある事に気付いた。

77 名前:左平(仮名):2003/08/31(日) 20:15
(よし!勝てるぞ!)
しばらく様子を見ているうちに、武術における、賈ク【言+羽】の弱点が見えてきた。それは、彼が非力である事だ。
(棒を構え、振り下ろす態勢に入るまでは実に素早い。だが、非力ゆえ振り下ろすのは遅い。…なるほど、だから私でもよけられたのか)
よく見ると、袖口からちらりと見える彼の腕は細い。力を入れている為に浮き出ている血管等がなければ、女のそれと見紛うほどである。
(あの腕が義父上ほどであれば…。ただの棒でも、私の頭は砕かれていたかな)
まだ攻められっぱなしなのに、そんな事を考える余裕さえ出てきた。
(となれば、だ。あいつが棒を振り上げた時こそ勝機!)
そう思った牛輔は、棒を短く持ち直した。

「やぁ−っ!!」
再び、賈ク【言+羽】が振り下ろす構えに入った。
「今だ!!」
そう叫ぶとともに、牛輔は賈ク【言+羽】の懐に入り、その腕をしたたかに打った。
「ぐっ!!」
短いうめき声とともに、賈ク【言+羽】の手から棒が離れ、地面に落ちた。乾いた音がした。

「殿!お見事ですぞ!」
一部始終を見届けていた盈が声をかける。ともかく、長としての威厳は保たれたというところか。軽くうなづく牛輔の額には、汗が滲んでいた。
一方、賈ク【言+羽】は、うずくまったまま押し黙っていた。

78 名前:左平(仮名):2003/09/07(日) 23:32
三十九、

「…」
賈ク【言+羽】の顔は、心なしか蒼ざめていた。
「文和、どうした。腕を打たれたくらいでそんなに痛いか」
「いえ…痛いのは痛いですが、それは大した事ではございません…」
「ならば、そなたの顔が蒼ざめているのはなぜだ」
「…今は立ち合いでしたから腕が痛む程度で済みました…。しかし、これが戦であったなら…私ごときは、真っ先にやられていたでありましょう…。それを思うと…」
「真っ先にというのは言い過ぎであろう。そなたでそれなら私はどうなる?」
決して冗談ではない。少しでもうっかりしておれば、倒されていたのはこちらであったのだから。
「殿は私よりお強いではございませんか…。それに、将たるお方が真っ先に倒されるなどあり得ません…」
「そなた、何が言いたいのだ?」
「…これでは、お仕えしていても何の役にも立てますまい…。私ごとき…」
そんな、自嘲的な言葉まで出てくる有様である。
(このままではまずいな。こいつ、豊かな才智があるというのに、すっかりくさってしまっている。どうしたものだろうか…)
『この男は使える』。義父にそう言った以上、この有様ではこちらも困るのである。何とかしなければ。

(そうだ。文和には、賊に捕らえられたという負い目があるんだったな)
考えるうち、ふと、その事に気がついた。
(そうか。それで、立ち合いたいなどと言い出したのか。自分は決して弱くはないぞという事を示したいが為に…)
自分になら勝てると思ったのか。そう考えると少し不快ではあるが、まぁ、これは事実であるからおいておこう。それより、何と言えば良いのか。
(弱いはずの私が勝った以上、「そなたは弱くないぞ」とは言いにくいしな…)
いずれにせよ、何とかして励ますしかない。とはいえ、なまじ頭が切れるだけに、下手な励ましは禁物である。客観的な事実を挙げつつ、その才智を褒め上げてやろう。

「文和よ」
牛輔は、できるだけ重々しい声で語りかけた。よく義父が使うやり方である。
「はい」
その声調の変化に気付いたのか、賈ク【言+羽】の姿勢も少し改まった。少しはこちらの話に聞く耳を持った様だ。
「そなた、自分には何のとりえもないと思っておるのか?」
「私に何かあると?」
「そなた、私と立ち合っていて気付いた事はないのか?結果は結果として、そなたの全てが私に劣っていたというわけではないのだぞ」
「はぁ…」
「そなたの動作は実に機敏であった。…それは、勇将たる我が義父上にも劣らぬほどである」
「まことですか!」
信じられぬという様子であった。まぁ、無理もなかろう。だが、事実である。
「あぁ。私は間近で義父上の戦い振りを見たのだ。嘘ではないぞ。…ただし、そなたの腕は女と見紛うほどに細く、非力である。それで重い棒を振り回そうとしても、力負けするのがおちだ」
「確かに…。勝ちにこだわるあまり、いささか逸っておりましたな…」
「私がそなたに勝てたのは、この立ち合いが長く重い棒を使ったものだからだ。それ以外のものであればどうだったか。…そなたの頭であれば、勝つ方法くらいいくらでも考えつくであろう」
「そうでしょうか?」
「まぁ、今日明日にも戦があるというわけではない。ゆっくりと考えるとよかろう」
「はい。そうします」
しばし時間が経ったからであろうか。ようやく落ち着きを取り戻した様である。

79 名前:左平(仮名):2003/09/07(日) 23:32
数日後、賈ク【言+羽】の配属が決まった。
輜重(武器や食糧)の管理及び各種報告の整理作成というのが、彼に与えられた任務である。孝廉ともなれば、小難しい文書の扱いにはうってつけであろう。
「やはり、私はお役に立たんとおっしゃるのですか?」
その事を告げたとたん、賈ク【言+羽】はさっそく不満をもらした。先日の事をまだ引きずっている様だ。
「誰がそんな事を申した?私は、そなたが役に立たんなどとは言ってもないし、思ってもおらんぞ」
役立たずとみなした?牛輔にとっては心外である。自分は、賈ク【言+羽】の事を相当高く評価しているというのに、何が不満なのであろうか。
「誰も申してはおりませんが、そうではないのですか。役に立つ者であれば、どうして後方なぞに配置しましょうか?」
(そういう事か。非力ゆえに前線に出られない事が、かくも不満なのか)
何とかなだめるしかない。

「どうして後方配置が役に立たんなどと申す?そなた、いやしくも孝廉であろう。相国(蕭何。前出の張良と並ぶ漢建国の功臣)の事くらい知っておるであろう?」
「それは、まぁ…」
「相国の功績とはいかなるものであるか。申してみよ」
「相国は…高祖が項羽と戦っていた際、本拠の関中にあり…丞相として全ての政務をこなすと共に、漢の法制を定め…前線への補給を途絶えさせる事無く続け、兵達を飢えさせる事はなく…」
「そうだ。そして、高祖は相国の功を第一とした。輜重とは、かくも重要なものだ。それを任せるというのに、役に立たんなどという事はなかろう」
「はぁ…」
確かに、その通りである。
「それに、時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良いのだぞ」
「好きな様に、ですか?」
「あぁ。わが家人と立ち合いをするのもよいし、遠駆けをしてもよい」
「そっ、その様な…」
相国の故事を持ち出したり、空き時間を好きに使って良いなどとは、新入りの自分には過ぎた厚遇ではないか。そう思った。しかし、かくも自分の事を気遣ってくれるとは。何よりも、その事が嬉しかった。
「私は、そなたの才は相当なものと見ておる。しっかりと務めてくれよ」
「はい!」

こうして、軍団に一人の智嚢(知恵袋)が誕生した。とはいえ、それが明らかになるのは、後の事である。

80 名前:左平(仮名):2003/09/14(日) 22:19
四十、

それから数ヶ月が経った。
さすがに孝廉に推挙されたというだけの事はある。数人の属官を与えられ、輜重の管理及び各種報告の整理作成に励む賈ク【言+羽】の仕事ぶりは、並外れたものがあった。

「ふむふむ…」
しばし木簡に目を通したかと思うと、おもむろに筆をとり、何事かを書き込んでいく。内容を確認した旨の署名と、属官への指示である。
(この当時、印章というものは既に存在していた。ならば、押印一つで決裁となってもよさそうであるが、そうもいかない。印章はあっても、使用方法は現在とは異なるからである。当時、印章は文書の機密性を守る『封泥』を行う為に用いられていた。現在の様に、押印によって目を通した事・決裁した事を示すという性質を持つのは、紙が普及してからの事である)。
「よし!この件はここに記した様にせよ!次!」
「はい!こちらを!」
すぐさま属官が新たな木簡を差し出す。
「うむ。…むっ?ここに間違いが一箇所あるぞ。『二』ではなく『三』であろう。それに、文面にも問題があるぞ。やり直し!」
「は、はいっ!」
確かに書き間違いである。これには、反論のしようもない。
「ぐずぐずするな!明るいうちに全て終わらせるぞ!次!」
「はい!こ、こちらを!」
実にてきぱきとしたものである。遠目にも、山の様に積もった木簡の束が次々と片付いていくのが分かる。身分も時代も全く異なるが、その姿は、かつての始皇帝にも似たものがある(もちろん、属官達がその様な故事を知っているとは思えないが)。
その仕事振りは、何かに憑かれた様でもあった。

属官達も、うかうかとはしておれない。新たな上司である賈ク【言+羽】は、単に文面を見ているだけではなく、そこに書かれた数字の一つ一つに至るまで厳しく確認しているのである。
孝廉に推挙される基準は、その字面のとおり、「孝行」でありかつ「清廉」である事と言える。その基礎となるのは、言うまでもなく儒の教えである。しかし、彼はそれ以外の学問にも深く通じている様で、文言の誤りや細かい数字の矛盾点も的確に指摘する。そこに、ごまかしや馴れ合いの入る余地は一切ない。
「またえらい方が任に就かれたもんだ…」
皆、一様に驚き呆れた。この様な上官は初めてである。

董卓は、この様な事には概して鷹揚に構えていた。露骨な不正があれば厳しい処罰があったが、ささいな誤りについては、特に咎めるという事もなかったのである。今まではそれでよかったし、特に問題があったというわけでもない。
だが、塵も積もれば山となる、という。それらの累積の結果は、こうしてみると、存外ばかにならないものがあった。
(随分と無駄があったもんだな…)
賈ク【言+羽】の報告を聞きつつ、牛輔もまた、驚きを隠せなかった。と同時に、彼の様な優秀な人材を得られた事を大いに喜んだ。
とはいえ、彼もまた、賈ク【言+羽】の事をよく理解しているというわけではなかった。


地位こそあれど、どこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった都に比べ、ここは、雰囲気が良いし、与えられた仕事も悪くない。この環境には、おおむね満足している。
しかし、「あの事」は、今もまだ心に引っかかっている。それを解消するにはどうしたら良いのか。
(とにかく、この非力なのを何とかせねばな)
あの立ち合いから数ヶ月の間、賈ク【言+羽】はよく食べ、また、武術の修練に励んだ。少しでも肉をつけ、力をつけようと思ったのである。しかし、思う様には肉はつかない。
彼が痩身なのは、修練が足りないからではなく、そういう体質だったからなのである。
(これでは、どうやっても強くなれないではないか。俺は、ずっと弱いままなのか)
その事を改めて思い知った彼は、またしばし落ち込んだ。仕事振りは並外れていても、このあたりは、まだまだ二十代の若者である。

81 名前:左平(仮名):2003/09/14(日) 22:20
(あいつ、また落ち込んでるのか?)
牛輔も、その様子には薄々気付いてはいたが、声をかけるのはためらわれた。その原因は、だいたい見当がつくからである。
(もう少し、様子を見ないとな)
ただ、しばらくすると、どうやら落ち着きを取り戻した様に見えた。
落ち着きを取り戻したのであれば、それで良い。それ以上は気にとめる事もなかったのであるが…

「殿。ちょっと気になる事があるのですが」
そう言ってきたのは、今や牛輔の腹心とも言うべき存在になった盈である。
以前の、テイ【氏+_】族との戦いの時もそうであるが、彼は何をどうやっているのか、実に多くの情報を持って来る。しかも、その情報は実に有益なのである。いまだに自身の事を語らないのが少し引っかかるとはいえ、その態度は至ってまじめなものであり、咎めるべき誤りもない。
今回は、一体なんであろうか。気になるところである。
「おお、盈か。そなたが気になる事、とな?一体どういう事だ?」
「はい。実は、文和殿の事なのですが…」
「文和がどうかしたのか?」
「それがですね…」
盈の声が小さくなった。どうも、重要な話の様だ。

82 名前:左平(仮名):2003/09/21(日) 22:51
四十一、

「ん?文和がしょっちゅう遠駆けに出ているというのか?」
「はい。時には、帰りが翌朝になる事もあります」
「そうか」
「そうか、で済む事なのですか、これが。配下の一人が勝手に外出しているのですよ!」
普段は温厚な盈が、少し昂奮している様だ。確かに、監督不行き届きとみられてもおかしくはない事なのであるから、主を思えばこういう態度になるのも無理はない。
「良いのだ。私が『時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良い』と言ったのだからな。それに、文和は仕事をおろそかにしておるわけではなかろう?」
「それはそうなのですが…」
盈にしては、どうも、歯切れが悪い。
「何だ?まだ何かあるのか?」
「それならそれで、なぜ朝帰りなどなさるのかが引っかかるのですが…」
「そうか?外に惚れた女の一人でもいるのではないか?あいつも、私とは同年代だ。時に、女を抱きたくてならぬ事があるのだろう。そう気にするものでも…」
そう言いかけると、盈は、急に語気を強めた。
「衣服に異様な乱れがあってもですか!」

これには、少々驚いた。どうしたんだ、一体。
「異様な乱れ?一日中着続ければ衣服はおのずと乱れるではないか。それに、いったん脱いだりしてもやはり乱れるもの。何が異様だというのだ?」
「あれは、単に一日着続けたとか一度脱いだという程度の乱れではございません。そういう時の文和殿の衣服は、どう考えても、屋外で一晩を過ごしたとしか考え様のないほどに汚れておるのです」
「ふむ…」
なるほど、確かに異様ではある。女に逢うというのであれば、屋外に一晩中いるとは考えにくい。
(しかし、なにゆえに?)
そのあたりが、どうも分からない。ただ、放置しておけば、自分にとっても、周りにとっても、よろしからぬ影響を与えてしまいそうではある。
(ともかく、調べてみねばな…)
「分かった。今度文和が遠駆けに出た時には知らせてくれ。後をつけてみよう。…よいか、この事は、くれぐれも内密にな。よいな」
「はっ!」


数日後−。
「盈よ。文和の様子はどうだ?」
「はい。この何日かは、あまり出られませんし、出られても日没までには帰ってきておられます。朝帰りをなさるのは、だいたい旬日(十日間)に一回程度ですから…今日、明日にもそうなさるのではないかと思われます」
「そうか。では盈よ。馬を用意しておいてくれ。私も遠駆けするとしよう」
「はっ」
そう言い渡すと、牛輔は外出の支度を始めた。ここのところ、賈ク【言+羽】と共にずっと文書の処理に追われていたから、久しぶりの外出である。

83 名前:左平(仮名):2003/09/21(日) 22:54
「姜。ちょっと出かけてくるよ」
「はい。どちらへお出かけですか?」
「どことも言えんのだ。私にもよく分からんのだから」
さらりとそう言ったのが、かえって彼女の癇に障った様である。
「分からないって、あなたご自身の事ですよ。…まさか!わたしに言えない様な所じゃないでしょうね!」
蓋を産んでからというもの、姜もそれなりに母親らしい落ち着きを持ちつつある。とはいえ、こういうところは、まだまだ嫁いできた当時のままだ。普段はそれが愛嬌なのであるが、この時ばかりはちょっとやりにくい。
「違うって。ぶらりと出てくるだけだからどこに行くか分からないって事だよ。日没までには帰るし、そなたが勘繰る様な所へは行かぬ。誓ってもよい」
「本当ですね?」
「ああ」
「約束ですよっ」
「ああ。分かったからそんなにうらめしい顔をしないでくれよ」
(まさか、文和の様子を探ってくるなんて言えんしなぁ…)
いくら妻とはいえ、話せない事もある。
幸い、姜はそのあたりのわきまえは持っている様なので、その点は一安心なのではあるが…。変にやきもちを焼かれるとちょっと後が怖いので、事後処理はきちんとしておかねばならない。
(文和の様子はどうあれ、今日は日没までには帰らんとな…。あと、今夜はたっぷりと相手してやらんと…)
そんな事を考えると、妙に気恥ずかしくなる。何を考えてるんだ、一体。これは遊びではないというのに。

「殿。文和殿が出られましたぞ」
盈が密かに報告してくる。盈の真剣な様子を見ると、ふっと気が引き締まった。
「うむ。で、どちらに向かった?」
「西の方に」
「西の方か…。ここより西となると…。どこぞの邑に寄るというわけでもなさそうだな…」
「そうなのです。邑に寄るというのでしたら、誰かに会うとも考えられるのですが…」
「ふむ。確かに気になるな。これは、私一人では難しいやも知れぬな。盈よ。そなた、ついて来てはくれぬか?」
「えっ?私がですか?」
「そうだ。そなたとなら、文和を見失ったり道に迷ったり事もあるまい。それに、武術の腕もありそうだしな」
「まぁ…できるだけの事はいたしますが…」
「なら、話は早い。そなたも馬を用意しろ」
「はい」
盈も、外出の支度を始めた。彼の支度はすぐに終わり、二人はそれぞれの馬に乗った。

84 名前:左平(仮名):2003/09/28(日) 22:12
四十二、

門が開いた。ほぼ同時に、全速で二騎が駆け抜けていった。牛輔と盈である。
「殿!どちらへ!」
あまりの急ぎ様をみた門番が、思わずそう呼びかける。何か重大な事があったのだろうか。そう思うのも無理はない。
「どことは言えんが、日没までには帰る!私が帰るのを待っておれよ!」
「はっ、はいっ!」

砂塵を立てつつ、二騎は平原を駆ける。
「文和は西に向かったのであったな!」
「はいっ!まだ出られたばかりですから、十分に追いつけるはずです!」
「うむ!向こうに気づかれてはならぬのであるが、何か手はないか!」
「ございません!」
ともに馬上にあるせいか、二人ともやけに声が大きくなる。それにしても、「(手が)ございません!」とこうもあっさりと言い切る事もなかろうに。
「…おい、それはまずいだろうが」
思わず興奮から醒めた牛輔は、そう言うと馬を停めた。慌てて盈も馬を停める。
「まぁ、そうなのですが…このだだっ広い平原を行くのですよ。隠れ様もありませんよ」
「うぅむ…そこなんだよな…」
先ほどまでの全力疾走から一変、二人はしばしその場にたたずんでいた。

「…まぁ、何だ」
しばらくの沈黙の後、牛輔はおもむろに口を開いた。
「何も今日でなくてはならんというものでもないのだしな…。盈よ」
「はい」
「文和が何をしているのかは探らねばならぬが、焦る事はなかろう?」
「そうですね。私も、何ら確証をつかんでおりませんし…」
「それに、余りぴりぴりしてると、文和に見つかった際に、かえって怪しまれてしまう」
「確かに」
「…そうだ。今日は、私が自身の気晴らしの為に遠駆けをしているという事にしよう。それで文和に会ったら会ったでよし。会わないなら会わない時だ。盈よ。そなたも、今日一日は務めを忘れて楽しむがよい」
「はい。では、お言葉に甘えて」
「よし、決まりだ。思いっきり駆けようではないか」
「はい!」
「よ−し、いくぞ−」
二騎は、再び猛烈に駆け始めた。馬術自体は盈の方が上回っているが、競争しているわけではないので、ほぼ併走の状態である。

(こんな風に、何も考えずにただ駆ける事って、そんなにないな…)
ふっとそんな事を思った。牛氏の嫡男として、また董氏の軍団の幹部として、常に責任ある立場にいる彼にとっては、珍しいひとときであるには違いない。
心身とも、すこぶる爽快であった。体にあたる風が、滑らかで心地よい。
しばらく駆けていると、林が見えてきた。このあたりに林があるという事は、地下水が湧き出ているのであろう。となれば、泉の一つもあるのではないか。少し喉の渇きを覚えたところである。ちょうど良い。
「盈よ。あの林で一休みしようではないか」
「そうですね。そうしましょう」

85 名前:左平(仮名):2003/09/28(日) 22:13
さして大きな林ではなかったが、思ったとおり、泉があった。泉には、清澄な水がたたえられている。
(そういえば、こういう所で父上と母上が会われたんだったな…)
前述のとおり、牛輔には母の記憶はない。しかし、緑と静寂に包まれたこの場所に、どこか懐かしいものを感じずにはいられなかった。
「盈よ。私は、ここで産まれたのかも知れぬな」
何の気なしにではあるが、そんな言葉が出てきた。別段深い意味はないのだが、盈には甚だ意外な言葉である。
「えっ?殿は牛氏のご嫡子ではないのですか?なにゆえ、この林で産まれたなどと…」
「なに、言葉のあやというものよ。実はな。昔、この様な場所で父上と母上が会われ、そして結ばれたそうなんだよ。ひょっとしたら、ここかも知れぬなぁ…と思ってな」
「その様な事があったのですか」
「あぁ。そして、母上は羌族の族長の娘であったという」
「…」
盈は黙ってしまった。別に禁句というわけではないのだが、この話は、周囲の者にとってはまだまだ衝撃的なものの様だ。
「ちょっと横になるか。日没までにはまだ間があるしな」
さして疲れていたわけではないが、牛輔は、そう言って話をやり過ごした。
「でしたら、このあたりがよろしいでしょうね」
盈も、あまり深く立ち入りたくはない様子である。意識的に、主と目を合わせない様にしていた。

二人は、草の上にごろりと横になった。空を見上げると、雲が流れてゆくのが見える。空を飛ぶ鳥の姿も、はっきりと分かる。穏やかな、夏の一日であった。
しばらくそうしていると、不思議と眠たくなってくるものである。いつしか、うとうとと夢うつつの中に入っていく。

そんな中、不意に何かの気配を感じた。獣のそれとはちと違うし…いったい、何だろうか。

86 名前:左平(仮名):2003/10/05(日) 23:01
四十三、

「殿。何か物音がしませんでしたか?」
盈が半身を起こし、小声でそう聞いてきた。大型の獣だとすれば、横になったままでは危険である。
「あぁ、聞こえた。だが、そう大きい音ではなかったな。我々の身が危ないというわけでもなさそうだ」
眠気のせいもあったが、牛輔は割と冷静にそう判断した。
「えぇ。ですが、妙に気になるのです」
「うむ。そなたが気になるというのであれば、私も気になるな。焦る事はなかろうが、ちょっと様子を探るか」
二人はゆっくりと立ち上がった。
周囲には草が生い茂っているので、余り急に動くと目立ってしまう。二人は慎重に、草をかき分けつつ進んだ。
「盈。何か見えたか?こちらには何もいないぞ」
「いえ、何も…。いや、ちょっと待ってください」
「なにっ?どうした!」
「お静かに!聞こえてはまずいですよ!」
盈は小声でそう制した。こういう場面では、主といえども言うべき事は言わねばならない。
「あっ、あぁ…。で、何か見えたのか?」
「はい。あちらを…」
盈が指さしたその方向にいたのは…

「!」「!」
声は出さなかったが、二人とも、驚きを禁じ得なかった。あれは、賈ク【言+羽】ではないか!
こんな所で、一体何をしているのであろうか。
「あいつ、ここに来ていたのか…」
「どうも、ここには何度も来ている様ですねぇ…」
「そなたにはそう見えるか」
「はい」
「なぜそう思う?」
「いや、何となくとしか」
「そうか。まぁ良い。何をしようとしているのか探るのが先だ」
「そうですね」
二人は賈ク【言+羽】の様子を凝視した。ここから伺う限りでは、誰かと待ち合わせているというのではなさそうだ。しかし、何かを探している様にも見える。二人は首をひねった。その意図が全く見えないのである。
「あいつの意図するところが、どうも分からんな…」
「殿。孝廉という方々は、ああいうものなのですか?」
「私に聞かれてもなぁ。なってもいないものの事は分からんよ。どうしてそう思うんだ?」
「あの、腰にぶら下げた袋は一体…」
ふと気づくと、空に数羽の鳥が飛んでいるのが見えた。賈ク【言+羽】は、しばしその鳥を見つめていた。
二人も、つられて鳥の方を見つめた。

「シュッ!」
不意に、何かを切り裂く様な音がした。と思うと、次の瞬間、一羽の鳥が地面に落ちていくのが見えた。
「ん?何が起こったんだ?」
「いえ、私にもさっぱり」
一瞬の出来事に、二人ともわけが分からぬまま呆然としていた。しかし、次の瞬間、先ほどと同じ音がしたかと思うと、また一羽、鳥が落ちていった。
「一体何が…」
一羽なら、急な発作とか一陣の突風とでも説明できるだろうが、二羽続いてとなると、偶然とは考えにくい。しかし、一体何が起こったのであろうか?まるで見当がつかない。

87 名前:左平(仮名):2003/10/05(日) 23:04
二人は、賈ク【言+羽】と鳥の、どちらを見れば良いのかと一瞬迷った。しかし、迷う必要はなかった。
「殿!あれを!」
「あ!あれは!」
二人とも、思わず声をあげていた。後で考えると、よく気づかれなかったものである。
賈ク【言+羽】は、片手を腰の袋に入れ、中から二、三個の石ころを取り出していたのである。
しばらくその感触を確かめ、じっくりと鳥の行方を見定めたかと思うと、腕を巧みに折り曲げ、手首に捻りをかけて、その石ころを鳥に向かって投げた。
手から離れた石ころは目にも留まらぬ速さで飛び、鳥の体に命中した。鳥は、さっきの二羽と同様、まっさかさまに地面に落ちていった。
表情が変わらないところを見ると、あれはまぐれではない。いや、確実に撃ち落とせるという自信さえ感じられる。

「盈よ。見たか、今のを」
「はい。しかと」
「文和がしょっちゅう遠駆けに出ていたのはこの為であったか…」
牛輔にはおおよその見当がついた。肉がつかず、腕力では他の者達にかなわぬと思い知ったがゆえ、自分に褒められた俊敏さを生かそうと鍛錬を積んでいたというわけか。そして、いつの間にかこれほどの腕前に…。
「たいしたやつだな」
そう、関心せずにはいられなかった。
「まったくです」
盈も、同感とばかりにうなづいた。
「おっ、夕焼けか…。あっ!しまった!」
「殿!大声を出してはならないと…」
「すまんすまん。姜と約束してたんだ。今日は日没までには必ず戻るって。…急がんと間に合わんぞ」
「ですが、文和殿の様子を探るにはまだ不十分かと」
「それはそうなのだが…。すまん、盈よ。そなた、ここに残って様子を探ってはくれんか?」
「えっ?それは、まぁ、構いませんが…」
「では、頼むぞ」
そう言うやいなや、牛輔は馬の方に走り出していた。
(妻を怖がっていると思われるかな…)
ちょっと情けなくはある。が、姜の怒った顔を見たくないという思いは、その情けなさにまさっていた。

「頼むぞ。全速で走り切ってくれ」
戦場においても、これほど馬をせき立てる事はない。そう思うほどに駆け続け、ようやく自邸の門にたどり着いた時、日はまさに地平線の下に消える寸前であった。
「ま、間に合った…」
なかば倒れこむ様にして、牛輔は邸内に着いた。
「お帰りなさいませ」
「あぁ。結局、盈と一緒に遠駆けしただけだから、何もなかったが…」
「いいんですよ。その様な事は」
そう言って出迎える姜は、笑みを浮かべていた。自分との約束をきちんと守ってくれた事が、何より嬉しかった様である。その笑顔を見た事で、ほっと人心地ついた。
「さ、今晩は…」
甘えた声を出したかと思うと、姜は牛輔にもたれかかってきた。いつの間にか、帯も緩んでおり、艶っぽい素肌が垣間見える。
「分かってるよ。たっぷりと…」
牛輔も微笑を浮かべた。もう慣れてはいるが、惚れた女の媚態である。悪い気はしない。

88 名前:左平(仮名):2003/10/12(日) 23:33
四十四、

翌日、賈ク【言+羽】と盈が戻ってきた。幸い、二人であの様子を見ていた事は気づかれなかった様だ。
「盈よ。どうであった?」
「はい。あれからずっと見ていたのですが、他には妙なところはございませんでした」
「そうか…。ともあれ、一安心だな」
「そうですね。…しかし殿、ああいうところで大声を出さないでくださいよ。文和殿に気づかれない様にするのにえらく苦労したんですから」
「はは…。すまんかったな」
(配下に注意されるあたり、威厳という点では私もまだまだだな)
牛輔は、そう思い、苦笑した。


−数年が過ぎた。
皇帝の愚昧、宦官の跳梁跋扈、そして、それらを批判し正すべき士大夫層の無力化…。様々な理由により、中央政府はろくに機能していない状態にあった。
それを嘲笑うかの様に、北方においては、檀石槐率いる鮮卑族による寇掠が繰り返されていた。
幸い、鮮卑の脅威に晒され続ける幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏ではある。
(しかし、それはとりあえずの幸運に過ぎぬ。ひとたび檀石槐の如き傑物が現れたなら、今はおとなしくしている羌族やテイ【氏+_】族もまた…)
羌族による、かつての大乱を知る人々はまだ多い。それだけに、いつ来るか分からない脅威に対する危機感は強かった。その危機感の故、董氏や牛氏がその勢力を蓄える事をよしとする雰囲気がある。まだ父の後を継いだわけでもないというのに、牛輔の家産と家人が増えつつあるのが、その証と言えよう。
穏やかな秋の陽気の中、一人中庭に立った牛輔は、静かに彼方の空を見上げた。


「羌族なくして、今のわしはなかった…」
秋の澄み渡った空を仰ぎ見ながら、牛輔はふっと、義父・董卓がある時しみじみとそう話していたのを、思い起こしていた。

「そうではないか。わしの父は、数十年にわたって漢朝に忠勤を励み、数々の功を為したというに、県の尉にしかなれなかった。我が兄もまた、豊かな才を持ちながらも、その地位は上がらず…幼子を残して夭逝してしまった…」
「…」
「わしは、ただ膂力に優れていただけでまとまった学問をする事はなかった。普通ならば、到底立身など適うまい。しかるに今、かつて夢想だにしなかった高位にある…。不思議だとは思わんか?」
「しかし…。義父上は、漢朝の為に大いに働かれたのですから、高位に就くのも当然では…」
「そうか?ならば、なにゆえ我が父、そして兄は高位に就けなかったのか?二人には功がなかったのか?」
「それは…」
「理由は一つしかない。父や兄には、富がなかったからだ」
「富?では、義父上はいかにして富を得られたというのですか?」
「それよ。あれは、もう二十年以上も前の事になるかな…。羌族の集落で世話になった礼に、耕牛を殺して少しばかりの酒肉を振る舞った事があったのだ。すると、その答礼に大量の牛馬を頂いてな。それを人に貸したり売り払ったりして、相当の財を得たのだ」
「その様な事があったのですか」
「そうだ。あの財によって、わしは立身の足がかりを得たのだ」
「なるほど…」
「そればかりではなく、かわいい女もついてきた、と」
「それって、ひょっとして義母上…」
「そうだ」
「なんともまぁ…」
その様な結ばれ方があるのか。何とも微笑ましい話で、思わず顔がほころんでしまう。だが、現実における、自分達と羌族の関係は…。

89 名前:左平(仮名):2003/10/12(日) 23:35
「ですが、義父上も私も、漢朝の人間であり、羌族とはしばしば戦っております」
「そう。その、羌族の血によって、わしの地位はますます上がりつつある…」
董卓の眉間に深い皺が寄った。彼には、明らかに羌族に対する同情がある。にもかかわらず、漢朝に仕えている以上、否応なしにこういう現実に向き合わねばならない。豪壮と言われる董卓の内面にある、この苦悩のほどは、余人にはなかなか理解できまい。
(かく言う私にも、一体どの程度分かっているのであろうか…)
義父に対する敬意があるが故に、何と言えば良いのか迷うところである。
「だが、他に手段がないのだ」
「手段?何のですか?」
「勝ならば、その才知と徳量によって、漢人と羌族の融和を為す事ができるであろう。しかし、その力量があったところで、高位に就かぬ事には、それも適わぬ。いかにきれい事を言ったところで、家柄が伴わない事には、なかなか立身はできぬのだ…。勝を立身させる為には、まずわしが相当の地位に就かねばならぬ。…わしは一介の武人に過ぎぬ。わしにできる事は、たた戦って功をあげる事のみだ。そして、その相手となるのが、羌族…」
「…」
何と皮肉で哀しい事であろうか。想いとは裏腹に、まだまだ羌族の血を流さねばならないのである。
「幸い、わしの想いを勝はよく分かってくれておる様だ。先が、楽しみだよ」
そう言うと、董卓は微笑を浮かべた。


その様な事を思い出したのは、先ほど、勝の妻が懐妊したという知らせを受けたからであった。
一緒に字を考えてから、もう数年が経つ。既に加冠も済ませた彼は、妻を娶り、そろそろ仕官しようかというところである。それに加えて子も授かるとなれば、紛れもなく吉報であろう。
(このまま、何事もうまくいってほしいものだ)
そう、思わずにはいられなかった。

90 名前:左平(仮名):2003/10/19(日) 23:47
四十五、

「あなた」
ふと気づくと、後ろに姜が立っていた。いつも明るい彼女であるが、今日はまた一段と機嫌がいい様である。
「ああ、姜か。どうした?何かいい事でもあったか?」
「分かりますか?」
「そりゃそうだよ。私はそなたの夫だぞ。いつもより表情が明るいのだからな、すぐ分かるよ」
「まぁ」
そう微笑む彼女を見ていると、心の底から安らかになる。その笑顔が、どれほど自分を助けてくれているか。今まで考え事をしていただけに、そう、強く感じる。
「実はですね…また授かったのですよ」
「授かった?何を?」
見当はついているが、わざととぼけてみせると、姜はすねた様に軽く体をよじらせてみせた。その仕草がまた愛らしい。
「分かってらっしゃるくせに。赤子が授かったのですよ」
「おお、そうだったか」
軽く微笑みながら、そう返事をする。先の初産の時とは異なり、二人とも落ち着いたものである。
「はい。産まれるのはもう半年余り先だそうです」
「ともかく、元気で良い子が産まれて欲しいものだな」
既に牛輔夫婦には蓋という男子がいるので、今度の子が男であろうと女であろうとどちらでも良い。現に、蓋の次の子は女であったが、牛輔も、董卓も、相当な喜び様であった。今回も、同じである。
「ええ。ただ、何となくなのですが…今度の子は、きっと男の子です。そうに違いありません」
女の勘というものであろうか。こういうのは、案外当たるものである。
「そうか。そなたがそう思うのであれば、この子は男だな。となると、蓋に劣らぬ名を考えてやらんと」
事実、それからしばらくの間、牛輔は盛んに書を読み漁った。なにしろ、蓋の名の由来は「天蓋」である。いい加減な名をつけるわけにはいかない。


見上げる空が、ひときわ青い。
「今年もまた、羌族が暴れるのであろうか…」
涼州の人々は、憂いを持ってそう語り合っていた。先に『幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏』と書いたが、それはあくまでも相対的に平穏という程度のものである。確かに大規模な叛乱こそないものの、全く何もなかったというわけではない。収穫物を狙った小規模の寇略は時々あったのである。ただ、自分の評価が下がるのを恐れた官僚達はこの事を中央に報告したがらなかった為、よほどのものでない限り史書には記載されず、あたかもなかったかの如くなっているが。
『天高く馬肥ゆる秋』という言葉がある。我々日本人にとっては、酷暑が過ぎてしのぎやすい季節であると共に収穫を祝うという安らかな季節である秋だが、この地の人々にとっては、羌族をはじめとする騎馬遊牧民の寇略が待っているという、呪わしい言葉であった。

「盈よ。羌族に新たな動きは?」
牛輔は偵察から戻ってきた盈にそう問いかけた。名門・牛氏の一人として、いま彼が背負っている責任は重い。この地の安寧の為にも、一度たりとも敗北は許されないのであるから、無理もない。
彼は決して非凡な将帥ではない。自身、その事はよく認識している。それゆえ、決して奇想に走る事はなく、堅実な戦を心がけている。十分に偵察を行い、常に敵を上回る様に兵を配備する。敵が寡兵であろうと侮らず、全力をもって戦う。今までに、もう何度戦ってきたことであろうか。今のところ、それはうまくいっている。
「まだはっきりとはしませんが…近いうちに動くでしょう。ここ数年、羌族は強壮な戦士を多く失っております故、力は弱っているのではあるのでしょうが…」
盈の口調は、どうもはっきりしなかった。何か予感するところがあったのかも知れない。しかし、この時の牛輔は、その予感に気づく事はなかった。そして、その事が思いがけない事態を招く事になった。

91 名前:左平(仮名):2003/10/19(日) 23:49
「殿!羌族が動き始めましたぞ!」
季節が秋から冬に向かいつつあったある日、盈がそう言いながら駆け込んできた。それは間違いなく急報であり、事態が切迫している事を感じさせる。
「そうか、来たか。で、兵力はいかほどだ?」
「完全にはつかめておりませんが…およそ千ほど」
「千か…」
牛氏・董氏の両軍団の兵員を総動員すれば、数の上では十分に上回る。三千も用意すれば十分であろう。もう何度となく戦いを重ねているので、このあたりの計算は慣れたものである。
「よし!出撃するぞ!直ちに支度にかかれ! 盈、さらに敵の様子を探っておけ!」
「はっ!」
家人達に指示が飛び、支度が整えられ、そして、出撃となる。それは、もう見慣れた光景でさえあった。数日後の凱旋を、誰も疑いもしない。確かにきちんと偵察はしているし、兵力も相手を上回っているのであるから、そう考えるのも無理はないのであるが…。


「来たか、牛氏よ」
牛輔の出撃の知らせを受けた羌族の将は、そう言うと不敵な笑みを浮かべた。
知らせによると、敵兵力は約三千との事である。確かに数では劣っているし、兵の質も近頃ではどうかというところであるが、どうにもならないという程の差ではない。
何より心強いのは、敵の出方が全くいつも通りだという事である。となれば、こちらの兵力はともかく、戦法などは考慮しておるまい。
(見ておれよ。いつもいつもやられっ放しではおるものか)
彼は、これまで何度も董卓や牛輔と戦い、そのたびに手痛い敗北を喫してきた。多くの仲間を失いもした。しかし、苦難は確かに人を成長させるし、力で劣る様になれば、おのずと知恵を使おうという気にもなる。
今まで相手が使ってきた知恵−陣形とか伏兵といった戦術−をこちらも使おうというのである。
出撃時の様子から推察するに、相手はまだこちらの考えに気づいていないのであろう。それならば、勝機は十分にある。
「大将!敵が見えてきましたぜ!」
「そうか。分かった、すぐそちらに行く」
そう言うと、その将は口元の笑みを消した。
(死んでいった仲間達の復讐が、これから始まる)
そう言い聞かせていた。

92 名前:左平(仮名):2003/10/26(日) 23:32
四十六、

羌族の兵の動きは、ほどなく牛輔達の知るところとなった。
「殿!あれを!」
「む、あれは…。間違いなく、羌族の兵だな」
「いかがなさいますか?」
「慌てる事はない。数ではこちらがまさっているのだから、じっくりと攻めていくとしよう」
「はっ!では、その様に!」
すぐさま伝令が走る。そうして、牛輔の指示に従い、兵達が隊列を整え陣を組み始めた。これも、いつも通りの手順である。ここまでは何も問題はない。兵達も、自信を持ってはいるが、過信しているというわけでもなさそうだ。
(ここまで、何も問題はない。しかし、どうも何かが気になってならぬ…)
盈の心中には、言い様のない不安感がもやもやとくすぶり続けている。しかし、それが何なのかが分からないので、言い出しかねていた。

同様の感覚を持っていた男が、もう一人いた。賈ク【言+羽】である。
牛輔のもと、輜重の管理及び各種報告の整理作成という後方業務に携わっていたのであるが、その精勤ぶりが認められ、今回は戦場に同行する事が許されたのである。
「この経験は、必ずそなたの為になる。そなたの活躍如何では、義父上に推挙してしかるべき位階に就ける様に計らってみるつもりだ」
戦に赴く前に牛輔からそう言われていたので、本来であれば、心浮き立つところである。彼とて、立身はするに越した事はないと思っているのであるから。しかし、戦場に近づくに連れ、例え様のない不安感が襲い掛かってきた。
(何だ、この感覚は?俺は戦を怖がっているとでもいうのか?…いや、自分で言うのも何だが、今更血を見るのが恐ろしいなどという事もあるまい。そういうのとは少し違う様だ。…しかし、一体何だ?何かひっかかるな…)
彼もまた、それが何であるか分からないままであった。


後で考えると、ここで牛輔が賈ク【言+羽】を連れて来ていたというのは、実に重要な事であった。


「突撃−っ!!」
その掛け声とともに、双方の兵が、一斉に衝突した。その衝撃によって砂塵が舞い上がり、あたりはやや薄暗くなった。
激戦である。ここでは、双方何の工夫もない。ただ力の限り戦い、相手を打ち倒すのみである。
やはり数でまさるせいか、しばらくすると、勢いの差というものが見えてきた。羌族の兵達が、じわじわと後退し始めたのである。
「敵は既に逃げ腰だぞ!追え!追え!」
誰からともなくそういう声があがる。この状況では、そう思うのも当然であろう。
「追う前に、馬蹄の後をしかと確認せよ!」
兵達の逸る気持ちを戒める様に、牛輔は大声でそう叫んだ。この敵の後退は、果たして壊走なのか佯北(ようほく:負けたふりをして逃げる事)なのか。将としては、それを見定めずして追撃を命ずる事はできないからである。
馬蹄の足並みが乱れているのは、統制なく逃げているのであるから壊走である。こういう場合は追撃しても良い。いや、むしろすべきであろう。しかし、足並みがそろっていれば、意図的に逃げているのであるから佯北である。恐らく罠や伏兵が待っているであろうから、そういう場合は追撃はすべきでない。それは、兵法の基本である。
「うぅん…。敵の足並みは乱れております。佯北という事はありますまい」
地面をしばし見つめた何人かが、口をそろえてそう言うのを聞いて、初めて追撃命令が下された。闘志の塊ともいうべき兵団は、一斉に追撃体制に入り、猛然と敵を追い始めた。一方、馬術に長けた羌族の兵達も、懸命に逃げていた。

(ん?何かおかしくはないか?)
牛輔がその事に気付いたのは、追撃命令を出して、しばらく経ってからである。
(敵は算を乱して壊走しているはずだが…個々の兵を見ていると、どうもそういう感じではない。どういう事だ?)
敵兵は、時々思い出した様に反転したかと思うと、二、三回攻撃を仕掛け、そしてまた背中を向けて走り出す。単に逃げるだけであれば、一部を殿軍に残してひたすら走りそうなものであるが、そうはしない。
(何を考えているのだ…?)
答えが出ない中、ひたすら敵を追い続けていたが、もう日が暮れそうな頃になって、ふっとある事に気付いた。そしてそれは、この戦いの帰趨に関する、重大な問題であった。

93 名前::2003/10/26(日) 23:35
(我らは、知らぬ間に窪地に入っているではないか!)
そして、ふと見上げると、羌族の騎兵の姿が映った。それも、一騎、二騎ではない。
(我らは包囲されたのか!)
こうなると、形勢は完全に逆転してしまう。

周囲は、崖とは言わないまでも駆け上るにはやや苦しい坂になっている。ここで包囲されたりしたら、いかに数にまさるとはいえ、勝てるという保証はない。急いで脱出せねばならないが、ここを抜けるには、前進か後退しかない。しかし、もうあたりは薄暗くなっている。このままではまずいが、かといって、前後の状況が分からないのでは手の打ち様がない。
(我らがいるのは囲地【いち:狭隘な道のみで外界とつながっている様な地形】か死地【しち:囲地に加え、大敵がいる様な状況】か…。どうする?どうすればいい?)
初めて立つ苦境に、牛輔は、しばし言葉を失った。

(このままでは…我が方は敗れる。そうなれば、私も含めて多数の死傷者が出る…)
これまで何度も戦ってきたが、自身の事はともかくとして、『敗戦』という言葉が頭をよぎったのはこれが初めてである。しかも、厄介な事に、ひとたびそういう思いが頭をよぎると、どんどん悲観的になっていく。自分でも、それではいけないと分かっているのに、どうしてもそういう方向にしか思考ができなくなってしまうのである。
(多くの兵を失ってしまえば…長年にわたって培ってきた董氏の威勢は損なわれる…義父上の望みも叶わなくなってしまう…)
(私は…牛氏の、また董氏の名誉を損ねてしまうのか…)
父の、義父の、そして姜の顔が、脳裏に浮かんでは消える。自分の僅かな判断の誤りによって、いとしい者達を悲しませてしまうのか。そう思うとやり切れなくなる。
それだけは何としても避けたい。たとえ自分が死んだとしても。しかし、その為の方策はさっぱり思いつかない。
(あれだけ兵書を読んできたというのに、肝心な時に出てこないなんて…)
自分自身の無能が、呪わしく感じられた。そうしているうちに、日は落ち、あたりは次第に暗くなっていった。あたかも、彼の心の中の様に。

「殿」
すっかり日も暮れ、皆その場に座り込んだ中、二人の男が牛輔に近づいてきた。盈と賈ク【言+羽】である。
「おお、盈に文和か。どうした?」
そう言う牛輔の声は、まだ二十代の青年とは思えぬほど張りがなかった。この時、精神的にすっかり参ってしまっていたのである。
「はい。この状況をみて、文和殿が一つ申し上げたい事があるとの事です」
「言いたい事?いったい何だ?」
牛輔には、賈ク【言+羽】が何を考えているかもさっぱり分からなかった。
「一言で申し上げます。いま、我が方は不利に陥っていますね?」
「むっ…。残念ながら、その通りだ。どうやら周囲を羌族に包囲されているらしい。まだ兵達はこの事に気付いていない様ではあるが…」
「明朝になれば、兵達も気付く事でしょう。盈殿の報告には間違いないですから、兵力自体は現在も我が方が上回っているはずです。にしても、この様子では、兵達は恐慌をきたし士気が続かないでしょう。士気が続かなければ…」
「明日には、我が方は敗れる…」
「となれば、一刻も早く手を打たねばなりません。兵書にも『囲地ならば即ち謀り、死地ならば即ち戦う』とあるではございませんか」
「私にも、それは分かっておるのだ。しかし、あたりの様子が分からぬ事にはな。この状況の打開策が思いつかない」
「それなのですが…私に、一つ策がございます」
「策?いかなる策だ?」
「はい。それは…」
賈ク【言+羽】は牛輔の耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。

94 名前:左平(仮名):2003/11/02(日) 21:44
四十七、

「話は分かった。しかし、それだけの兵があれば良いのか?」
「はい。私が率いる部隊は、あくまでも陽動部隊です。ですから、この程度の人数で十分です」
「しかし、それならそれで、どうしてその様な者達を使うのだ?必要ならば、もっと精鋭を引き連れても良いのだぞ?」
「お言葉は嬉しいですが、この策を成功させるのには、この者達こそが最適なのです。少なくとも、私はそう判断しました」
「そういうものか」
よくは分からないが、でまかせというわけでもなさそうだ。それに、このまま手をこまねいていても、状況は好転するはずもない。ここは一つ、賈ク【言+羽】の言う策に賭けてみるしかあるまい。
「分かった。その策を実行してくれ」
「私がお話ししたのは策の概要だけですが…詳しくお聞きにならなくてよろしいのですか?」
「良い。そなたの策だ、きっとうまくいく事であろう。それに、うまくいって生還すれば、詳細などいくらでも聞けるしな」
「確かに。失敗して私が死ぬ様でしたら、所詮その程度の策という事ですしね。それでしたら聞くには値しませんし」
「そうだな」
「では、私からの合図が出ましたら、頭上に注意しつつ一斉に前後に突進して窪地から脱出してください。窪地を出ましたら二手に別れ、左右から敵を挟撃する形をとります。よろしいですか、兵達が上の様子に気付かぬうちに、素早く動くのです」
「分かった」
牛輔は、この作戦の実行を了承した。そして、全軍にその旨の指示が知らされた。

明日の朝、日が昇ろうかという頃には、全てが決まる。
少し眠っておこう。そう思うものの、やはり目がさえて眠れない。地面の上に横になると、微かに星が瞬いているのが見えた。今日は雲が多いので、微かな星明りを除くと、あたりは漆黒の闇の中にある。

双方の兵がすっかり深い眠りにいる中、賈ク【言+羽】の率いる部隊が密やかに動き始めた。
牛輔が不思議に思ったのも無理はない。何騎かの精鋭はいるものの、この部隊の大半は、ろくに武器も持った事のない者達なのである。彼らのほとんどは輜重に携わる人夫であり、賈ク【言+羽】はその一人一人の人相から性格までに至るまで掌握しているというのがせめてもの取り柄といったところではあるのだが。
「おら達、一体何しに集められたんだ?」
「さぁ、分かんね」
「隊長は、あの孝廉様だな。あの方、兵を率いた事があったっけ?」
「いや、ねぇはずだぞ。おらが知ってる限りでは」
「んじゃ、これって脱走か?」
「いや、殿様直々のご命令だってよ」
「どうしようってのかな。分かんねぇな」
「ああ。それに、こりゃ何だ?戦うんだから戟とか戈を持つのは分かるけど」
よく見ると、各々の得物の刃先には、皆袋がかけられている。
「暗闇の中で光ったらまずいって事じゃねぇか?」
多少知恵の回る者がそんな事を言う。
「んじゃ、何でこんなに膨らんでるんだ?」
「さ、さぁ…。そこまでは分かんねぇな」
彼らには、まだ詳細な指示は与えられていない。この様な役目は、隠密行動が鉄則だから。
「皆、揃ったか」
この小部隊の長である賈ク【言+羽】が姿を現した。痩身である為か、初めての指揮である為か、兵達からすると、その甲冑姿はやや心もとなく見える。しかし、その顔には確かに自信のほどがうかがえるのも、また事実である。
「孝廉様。おら達は何をすりゃいいんですか?」
皆、先を争う様にそう問うてきた。
「それを、これから説明するのだ。よいか、私がどの様な指示をしようとも、必ず従うのだぞ。よいな」
「そのくらい分かっておりやすよ。軍律に背いたら斬られても文句は言えないって事でしょ?」
「そうだ。では説明しよう」

95 名前:左平(仮名):2003/11/02(日) 21:46
賈ク【言+羽】の話が進むに連れ、兵達の顔に恐怖の色が浮かんだ。
説明によると、この策の実行にあたっては、夜陰に乗じて敵のすぐ脇をすり抜け、囲みの外に出る必要があるというのである。いくらなんでも、そんな事ができるのであろうか…。
(これだけの軍勢がいるってのに、どうしてまたそんな危険な賭けを…)
皆、不審に思った。正攻法でかかっていけば勝てるはずであるのに、こんな事をする必要があるのかと。
「怖いか。まぁ、無理もないだろうな。私も怖いからな」
「じ、じゃどうして…」
「では、逆に問おう。『今』、そなた達は怖いと思ったが、それはなぜだ?」
「そ、それは…おら達より相手の方が強いし…」
「そなたも仲間達も、昼間は勇敢に戦っていたではないか。なぜ今は怖いと言う?」
「…だって、今は囲まれてるんですよ…」
「だろうな」
「すいません。でも、怖いもんは怖いですよ」
「責めておるわけではない。人とはそういうものだからな」
兵にしろ、政にしろ、『法』というものの対象は、基本的には平凡な者達である。稀にしか現れない非凡な者に頼っていては、常に成功するという目標が達成できないからである。
彼らをいかに動かすか、それが重要なのだ。ここが、自分の才知の見せ所となる。賈ク【言+羽】の心は、静かに高揚していた。
「ただ、もう少し考えてみよ。自分がその有様だ。他の者は、敵に囲まれていると知っても落ち着いていられると思うか?」
「そ、それは…」
「確かに、我らの方が数にはまさっていよう。しかし、浮き足立った状態で敵と戦ったところで、いたずらに犠牲が増えるばかりだ。ならば、たとえ危なっかしくとも、我らでこの策をやってみる価値はあるとは思わぬか?」
「でも、おら達にそんな事ができるんですか?」
「私は、そなた達ならできると思っている。ともかく、だまされたと思って私の指示に従ってみよ」
「分かりやしたよ。やってみましょう」
「よし。では今から出発だ」

あたりは、完全に闇の中にある。かすかに瞬いていた星達も、今は雲に隠されている。風はないので、しばらくはこの状態であろう。
(よし。ちょうどいい具合に曇ってくれたな)
賈ク【言+羽】は、早くもこの策の成功を確信した。

完全な暗闇の中を、松明も掲げずに兵達は進んだ。何も見えないので、当然手探りでゆっくりと進むしかないのであるが、そう長い距離ではない。
(囲まれているとはいっても、敵の兵力はさほどではない。せいぜい五、六列程度であろう。となれば、この状態で行軍するのは二、三里といったところか)
二、三里であれば、明け方までにはまだ十分な時間がある。詳しい説明は、そこからである。
すぐそこに敵兵がいる。そう思うと、かすかな物音にさえ緊張が走る。皆、寿命が縮む思いであった。

96 名前:左平(仮名):2003/11/09(日) 23:58
四十八、

どのくらい経ったであろうか。敵兵の気配が消えた。
(どうやら、囲みの外に出たか)
そう思った賈ク【言+羽】は、隣の兵に、松明に火をつける様指示した。もちろん、敵に見えない様に工夫を凝らしたものを使う。
そうして、さらに進んだ。この策は、単に囲みの外に出るだけではなく、一定の距離をおく必要があるのである。
(よし、ここらあたりでよいか)
「皆の者。ここらで休息するぞ」
その言葉を聞くや否や、兵達は大きく息を吐き、その場に座り込んだ。皆、輜重の重い荷を背負っているので体は鍛えられているが、これほどの疲れを感じる行軍はなかったであろう。
「よくやってくれた。ここまで来られたというだけで、この策は六、七割がた成功だ」
このねぎらいの言葉は、本心からのものである。
「ですが、まだ策は終わっちゃいないんでしょ?」
「そうだ。これから、続きの説明をする。皆疲れているだろうがら、楽な姿勢で聞いてくれ」
「分かりやした。どうすりゃいいんですか?」
このあたりは、さすがに見込んだだけの事はある。皆、実に素直に話を聞く姿勢である。

「まず、持っている戈や戟にかぶせている袋をはずせ。紐で口を縛っているであろう。それをほどくのだ」
「はい。…あれ?袋の中に何か入ってますね」
「それを取り出すのだ。何か分かるか?」
「古い布きれだとか木の枝、それに幟の房…。こんなもの、一体どうするんですか?」
「それはこれから話す。次に、持っている戈や戟を逆にしろ」
「こうですか?」
「そうだ。そして、袋の口を縛っていた紐で、その布きれや木の枝、幟の房をゆわえつけるのだ」
「これって、何か箒みたいですねぇ」
「そうだ。箒の形にするのだ」
「こんな事をしてどうするんですか?」
「簡単な事だ。夜が明けるや否や、私の号令とともに、そなた達はこの箒で地を掃き清めるのだ。全力でな」
はぁ?兵達は、皆驚き呆れた。そんな事をして、一体何になるというのであろうか。しかし、命令は絶対である。
「皆、少し休め。夜明け前には作戦開始だ。…そうそう、水は飲んでも良いが、全部は飲むなよ。明日の朝、必要になるからな」
そう言うと、彼はすぐに横になった。兵達も、それをみて横になった。

そして、夜明けが近づいてきた。

(頃はよし)
賈ク【言+羽】は皆を起こすと、さっそく指示を出した。
「よいか、皆の者!」
「おぉ!」
「徒歩の者は箒を構えよ!」
その指示のとおり、兵達は皆箒を構えた。いくら訳の分からない命令でも、命令である。
「騎馬の者は、目を除いて顔を隠せ!」
こちらは精鋭である。精悍な面構えをした男達は、黙々と顔を布で覆った。鋭い眼光だけがのぞくその顔は、味方にはますます頼もしく映る。
「支度は整ったな。…者ども!かかれ−っ!!」

傍目には、滑稽な風景であったろう。数十人の男達が、必死の形相で地を掃きつつ走るのであるから。その掃き様は凄まじく、たちまちのうちに砂埃が空高く舞い上がった。

97 名前:左平(仮名):2003/11/09(日) 23:58
(あの砂埃は…。間違いない。文和からの合図だ)
不安の中目を覚ました牛輔は、それを見ていささか落ち着きを取り戻した。策はうまくいっている様だ。これなら勝てる。
「者ども!頭上に盾をかざしつつ、全速で進め−っ!!」
その号令とともに、一斉に全軍が動き始めた。

「なっ、何だ?連中、急に動き出しやがったぞ」
眼下の様子に気付いた羌族の兵達が、急いで将に報告する。
「何っ?愚かな。袋の鼠だという事に気付かぬか。者ども、窪地の出口を封鎖し…」
羌族の将がそう言いかけたところで、他の兵の叫び声にかき消された。
「あっ!あれは!!」
「何事だ! …!!」

後ろを振り返ると、もうもうと砂埃が舞い上がっている。そして、その中から数騎の兵が現れてきた。その姿は、まぎれもなく漢人のものである。となれば、あれは敵か!
(敵の援軍か!)
そんなはずはない。あれが董氏・牛氏の手の者としても、その本拠はここから数日のところにあるはず。仮に昨晩この囲みを抜け出た者がいたとしても、こんなに早く援軍が来るはずはない。しかし、ではあの兵は何か。
そう考えるうちに、砂埃の方角から鬨の声があがる。その声も凄まじく、相当な大軍勢である事をうかがわせる。
実際には数十人にすぎないのであるが、賈ク【言+羽】がえりすぐった、特に声の大きい者達である。常人の数倍は声を張り上げたであろう。声だけをとってみれば、なるほど大軍勢と思うのも無理はなかった。
(…)
羌族の将は、しばし思考停止の状態に陥った。兵達も混乱し、眼下の様子には全く目が向かなくなった。
そんな中を、賈ク【言+羽】率いる騎兵達は何度も何度も駆け抜けた。少数なのをごまかす為、繰り返して攻撃をかけていたのである。
そうこうしている間に、牛輔の軍は前後から窪地を脱した。一方は牛輔と李カク【イ+鶴−鳥】が、もう一方は郭レと張済が、それぞれ率いている。
「稚然は左に回って仲多とともに敵を挟撃せよ!私は右に回って済とともに敵を挟撃する!」
「心得ました!」
李カク【イ+鶴−鳥】はうなづくと、猛然と馬を走らせた。それをみて、牛輔もまた駆けた。

一刻もせぬ間に、決着がついた。もともと兵力は牛輔の方がまさっていた上に、あの奇襲の為に士気の差が歴然としていたのであるから、当然といえば当然なのではあるが。
(しかし危なかった)
一時的にではあるが窮地に陥っていた事を知るのは、牛輔、賈ク【言+羽】、盈を除けばほとんどいない。傍目には、またしても完勝と映るであろう。しかし、戦場というものがいかに恐ろしいか、牛輔は思い知った。
(文和を連れてきていて良かった。あれがいなければ、今頃どうなっていたか)
それを思うと、背筋に震えが走る。
実際、賈ク【言+羽】の存在が、後に彼らの命運を分かつ事になるのである。だが、この時それを意識したのは、牛輔一人であった。

いや、正確にはもう一人いた。この戦いを、少し離れて見ていた男がいたのである。
「ふむ。あいつ、もう少しはやると思っていたんだがな」
「まぁ、兵書を読んだわけでもないでしょうからね。ああいう奇策には気付かなかったのでしょう」
「それもそうだな。となると、あの陽動部隊を率いた者が誰か気になるところだな」
「そうですね」
「伯扶自身ではなかろう。今までの戦いぶりを見る限りでは、そういう奇策を思いつく程の奸智はなさそうだしな」
「では誰が?」
「恐らく…文和だな。さぁ、帰るぞ」
そう言ってその場を去ったその男の姿は、どこか盈に似ていた。

98 名前:左平(仮名):2003/11/16(日) 22:20
四十九、

「文和よ、よくぞやってくれた。そなたがいなければ、この勝利はなかったぞ」
戦の後、牛輔が最初にしたのは、賈ク【言+羽】を厚く賞する事であった。あの陽動部隊の活躍にはめざましいものがあったから、彼が賞

される事については、全く異論は出なかった。

「ただ、殿。文和の率いた部隊の活躍ぶりは事実ですが、私の部隊の方が討ち取った敵の数は多いですぞ。なのに賞にこれほどの差がある

のはどういうわけです?」
この戦いにおいて相当活躍したと自負する李カク【イ+鶴−鳥】には、その点が少し不満である様だ。
(そうくるか。まぁ、確かにあげた首級の数でみれば稚然の言う事にも一理あるわけだがな)
二人の功はともに大きい。だが、将としてみれば、この戦いでの功は明らかに賈ク【言+羽】の方が上である。その場にいた者で、かつ、

部隊を率いるほどの者であれば、おのずと分かっても良さそうなものであるが。牛輔にはそう思えた。
(こうしたのには十分な理由があるという事を、私から言わずとも分かってもらいたいところだが、まだそこまではいかんか。まぁ、今後

の事がある。きちんと話をしておかんとな)
牛輔が賈ク【言+羽】を高く評価している事は今までにも何度か触れてきたが、別に賈ク【言+羽】のみを贔屓しているというわけではな

い。賈ク【言+羽】・李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済。彼らは皆、義父・董卓より託された、大事な配下なのである。これから、軍団

を支える人材として成長してもらわなければならない。こんなところで不満を持たれてはならないのだ。説明しておく必要があろう。

「そうだな。確かにそなたの功は大きい。しかし、だ。今回の文和の功は、単に敵を討ち取ったというだけではないのだ」
「では、他に何かあると?」
「そうだ。今だからはっきりと言えるが、あの時我らは窪地に追い込まれ、包囲されていたのだ」
「そうでしたか。そういえば、確かに周囲が坂になっておりましたね」
「そなたほどの豪の者であれば、そのくらい何という事もないであろう。攻め寄せてくる敵を、片っ端からなぎ倒せば済む事だしな。しか

し、我が方の大部分は、本来戦とは縁のない平民達だ。その様な者達にとって、敵に包囲されているという事実は、耐え難いほどの恐怖と

なるであろう」
「それは分かります。私とて、囲まれていたら冷静な判断はできないでしょうから」
「あのまま朝を迎え、包囲されている事が皆に知れたら…どうなっていたか」
「皆までおっしゃらずとも分かります。士気が低下して統制がとれなくなり、我が方の敗北という事態もあり得た、という事でしょう」
「そう、そこなのだ。今回の文和の功は、その最悪の事態を回避させたという点にこそある」
「文和が率いた陽動部隊が敵の目をこちらからそらすと共に、我が方の不利をも覆い隠してくれた、と。それゆえ、文和の功を大とした。

こういうわけですか」
「そうだ。分かってくれたか」
「分かりましたよ。…ふふっ、今回はあいつに手柄を譲っちまいましたね。今度は負けませんよ」
「その意気だ。そうあってもらわんとな」
そう言って、二人は笑みを浮かべた。

凱旋である。今までに何度もしてきた事ではあるが、牛輔にとって、今回のそれはひとしおであった。この様な感慨を抱くのは、初陣の時

以来であろうか。
(そういえば、あの時は蓋がもうすぐ産まれるって頃だったよな。で、今度は次男の誕生間近、か。不思議なものだ)
まだ産まれるのが男子かどうかは分からないのだが、そんな事を思うと、なぜか顔がほころんだ。
いつもの様に、門前には姜が待っている。見慣れたはずのその光景が、また新鮮に映る。
「お帰りなさいませ」
その声は、いつも明るく朗らかであり、これを聞く事で、我が家に帰ったという実感がわいてくる。
「あぁ、ただいま。留守中、何事もなかったかい?」
「はい」
「そうか、それはよかった。…ほぅ、また腹が大きくなっているな。赤子はよく育ってる様だ」
「はい。もうすぐですよ」
「そうだな」

99 名前:左平(仮名):2003/11/16(日) 22:22
それからほどなく、義弟・勝のもとから一通の知らせが届いた。
「で、知らせには何と書かれてるんだい?」
「はい。無事に産まれ、母子共に至って健やかであるとの事です。女の子だそうで」
「それはよかった。で、名前は?」
「白、としたそうです」
「白?」
「何でも、この子が産まれる時雪が降っていて、その様子が大層美しかったのでそれにちなんだとか。父上も良い名だとお喜びだそうで」
「そうか…」

この時牛輔は、『白』という名にどこか引っかかるものを感じた。
(白…色としては白、五行では秋、西、金とかいった意味があるな…。この字自体には、私が知る限り、これといって悪い意味は見当たら

ない。しかし…雪にちなんで名付けたというのはどうなのであろうか…)
雪は、冬に降るもの。春になれば融けて消えてしまうという、儚いものである。その様なものにちなんで子の名をつけるという事には、何

か問題はないのだろうか。そう思えてならなかった。
(勝…いや、伯捷は、そういう事に思いが至らなかったのであろうか。しかし、今更私が何か言うのも何だしな…)
これは、ひょっとすると虫の知らせというものであろうか。そんな思いが頭をよぎる。
(いや、私ごときが人の命運を予測するなど…できるはずもないな。気のせいであろう)
そう思った牛輔は、ほどなくこの事を忘れた。しかし、それはあながち気のせいでもなかったのかも知れない。

100 名前:左平(仮名):2003/11/24(月) 22:52
五十、

そんな中、年が改まった。

室から外を見ると、地には、雪が積もっている。空は、さっきまでの曇り空が嘘の様に晴れ渡り、日の光が燦々と降り注いでいる。日の光が雪に反射され、きらきらと光る様は、何ともいえず美しいものである。
(伯捷が子の名に『白』とつけたのも、分からないではないな…。この、光の織り成す景色の美しさたるや、何物にも代え難い、崇高なものさえ感じさせるのだからな)
雪景色を見ながら、牛輔は、ぼんやりとそんな事を考えていた。

今、彼は、これから産まれて来る我が子につける名を考えているところである。だいぶ以前から考えていたのだが、戦やその後の処理などがあった為、なかなか考えをまとめられずにいた。
長男の名が『天蓋』からとって『蓋』なので、次の子には何か地にちなんだ名を、と考えているのだが、これがなかなか難しいのである。
(単に地を示すというだけでは、兄の名と釣り合わないしな…。ん?『つりあう』か。う−ん…)
(「つりあう」…「均衡」…ん?「きん」?これで何か良い字はないものかな…)
(そうだ、「白」には【五行思想における】金という意味合いもあるんだったな…。義父上からすればともに孫だ。あの娘との釣り合いも考えないと…)
(おっ、そうだ!)
脈絡なく考えているうちに、ようやく、それらしい字が思い浮かんできた。
金扁の字は幾つもあるが、『天蓋』に比べられる様な意味合いを持つ字句は、そう多くない。しかし、一つだけあったのである。

(『鈞』だ!!)
『鈞(きん)』。この字には、「ひとしい」という意味がある。それに加え、重量の単位とかろくろという意味合いも含んでおり、ろくろから転じて、造物主とか天の意をも示すという。
そして何より、この字のついた語句に『天蓋』に比べられる様な意味合いを含むものがある。

『鈞臺【きんだい】』−。それは、古の夏王朝の王・啓が、父の禹より王位を禅譲された益との争いに勝って王として即位した時に、諸后(諸侯)をもてなしたという地の名である。
諸后が鈞臺にいる啓のもとに集まったというその事実によって、夏王朝は成立したとみなす事ができるのだが、それは、中華の歴史に大きな一歩を記す出来事であった。
「左伝(春秋左氏伝)」にも、「夏啓有鈞臺之享。 商湯有景亳之命。周武有孟津之誓」という一文があり、これが、王朝成立にかかわる重大な出来事として考えられていた事がうかがえる。
それゆえ、夏王朝の時代にあっては、そこは一種の聖地であり、また、地の中心であると考えられもしたそうである。
(兄の名が天蓋を表し、弟の名が地の中心を表す…。なかなかうまい具合になるな。うん、これでいこう)
こうして、その子の名は決まった。


子供の名前が決まったのを待っていたかの様に、姜が陣痛を訴え始めた。いよいよ、出産の時である。
産婦である姜に続き、手伝いの者達数名が産室に入っていった。
もう三人目であるから、初産の時の様に慌てる事はない。しかし、そうはいっても、なかなか慣れるものでもないのもまた事実。
牛輔にとって、出産が無事終わるまでの数刻は、またしても長い長いものとなった。そうこうしているうちに、いつしか日も落ちてゆく。

「父上ぇ〜。母上はぁ〜?」
子供達が母親の様子を案じてか、しきりに牛輔に寄りかかってくるのである。
「母上はな。いま、そなた達の弟を産もうとなさっているところなのだよ」
もう夜も遅い。そろそろ寝かしつけないといけないのだが、そう言ってむずがる子供達をなだめるのが精一杯である。いかにいっても、子供達は母親に懐く傾向が強く、父親にはさほど懐くものではない。それゆえ、こういう時の扱いには苦労する。

101 名前:左平(仮名):2003/11/24(月) 22:53
はい。それは知ってます。でもぉ…。どうして、わたし達が母上のところに行ってはいけないのですかぁ?」
「それはな…」
(出産というものがどれほど壮絶なものか、口で話しても分かるのだろうか…。とはいえ、直に見せるのも何だしな…)
なかなか、うまい具合に説明できるものではない。
「ねぇ〜、どうしてぇ〜?」
「と、とにかく、だ。いま、母上は大変なところなのだ。そして、こればかりは、私も、そなた達も、何もしてやれないのだよ」
「そばにいるのもだめなのですかぁ?」
「そうだ。分かったら、おとなしく寝てなさい」
「でもぉ〜」
「そなた達が母上の事を思っているのはよく分かった。それを聞けば、母上もさぞ喜ばれる事であろう。明日の朝には産まれているはずだから、その時、母上をしっかりとねぎらってやるのだ。夜更かししたりすれば、母上も喜ばれないぞ。よいな。さっさと寝なさい」
「はぁ〜い」
やや不承不承ながら、そう言うと、ようやくそれぞれの寝所に入っていった。
「はぁ…。子守りってのも、なかなか大変なもんだ」
慣れない事がひと段落ついたせいか、どっと疲れを感じた。

子供達を寝かしつけたとはいえ、牛輔自身は眠れない。姜の身を最も気遣っているのは、他でもない、夫である彼自身なのだから。母子ともに無事に産まれるまでは、気が気ではない。
一睡もしていないのだから、心身ともにひどく疲れている。しかし、姜の疲れはそんなものではないはずだ。
(男だろうが女だろうが構わないから、とにかく無事に産まれてくれよ)
そう祈るのが精一杯であった。そんな時間が過ぎる中。

「殿!産まれましたぞ!!」
家人達の声が聞こえた。
「そうか!で、姜は!」
家人達の声には、不吉なものは感じられなかったが、念のため、そう聞き返した。
「ご心配なく!奥方様もお子様も、ともに至って健やかですぞ!!」
「そうか!よくやったぞ!!」
その言葉を聞いて、ようやく人心地ついた。ほっと胸をなでおろすと共に、安堵したせいか、ふっと体から力が抜ける。

102 名前:左平(仮名):2003/11/30(日) 22:51
五十一、

「おっと、一刻も早く姜をねぎらってやらんと」
そう思い返した牛輔は、ゆっくりと立ち上がった。自分としては、一家の主らしくすっくと立ち上がりたいところなのであるが、なにせ、眠い。思う様には体が動かないのである。
足元に多少のふらつきを見せつつ、産室に向かう。

近づくにつれ、出産に伴う独特のにおいがする。血やら胎盤やら羊水といった様々なものから生じるそのにおいは、決して良いにおいというわけではないが、妻への想いの故か、母子ともに健やかであるという安堵感のためか、不思議と意識する事もない。
「姜。入るよ」
そう一声かけ、一呼吸おいてから、産室に入った。初めてではないのだが、男が産室に入るのには、多少の覚悟がいる。
そこには、お産を終えたばかりの姜が横たわっていた。難産であったらしく、顔はやつれ、髪もひどく乱れている。呼吸も荒い。その姿を見るにつけ、牛輔は何とも言い難い気持ちになった。そんな気持ちが顔にも表れ、笑顔とも泣き顔ともつかない、不思議な表情になる。
「よくやったぞ。本当に」
そう優しく声をかけ、彼女に寄り添うと、首筋に手を回し、頬をすり合わせた。そんな夫のねぎらいを受け、疲労の極にある姜の顔に、笑みが見えた。まだ意識は朦朧としているものの、その笑顔は心からのものである。
「あぁ、あなた…。ごらんください。ほら、男の子ですよ」
そう言われて振り返ると、産湯につかり、むつきにくるまれた赤子がいるのが見える。赤子は、あの時の蓋に比べるとやや小さい様に思えるが、泣き声は大きく、盛んに手足を動かすその姿は元気いっぱいである。むつきをめくり、股間を見ると、男である事を示す『もの』もついている。なるほど、確かに男の子だ。
「そうか。そなたの言ったとおりになったのだな」
「はい…。名前は…いかがいたしますか…」
「明日、この子の名前を話す。楽しみにしておいてくれ。ゆっくり休もう」
「はい」


翌朝−
牛輔は、嫡男の蓋と向かい合って座っていた。普段は仲の良い親子であるが、この場については、やや改まった雰囲気が漂う。
「蓋よ」
「はい」
「来てもらったのはほかでもない。昨日産まれた、そなたの弟の名を告げるためだ」
「はい」
「この子の名は−『鈞』。牛鈞だ。よいな」
「鈞、ですか…。わたしの名の『蓋』と何らかの関連があるのですね」
「そうだ。そなたの名は天蓋、すなわち天にちなんでおり、この子の名は鈞臺、すなわち夏の御世の人々が考えた地の中心である鈞臺にちなんでいる。どうだ?」
「素晴らしい名です。わたし達兄弟がその様な名をいただいて良いのかと思うくらいに」
「うむ。この何に込めた私の想いを、無駄にせぬ様に努めるのだぞ」
「はい。わかりました」
「それとな。実は、そなた達の字も考えたのだ。実際に字を用いるのは、まだだいぶ先の事だか…」
「字ですか?それは、一体どの様な字なのですか?」
「聞きたいか?」
「それはもう」

103 名前:左平(仮名):2003/11/30(日) 22:53
「では、話しておこう。まず、そなたの字は『伯陽』だ」
「『伯陽』、ですか?それには、一体どの様な意味があるのでしょうか」
「『伯』という字はそなたも承知しておろう。これには、三つの意味を込めている」
「三つの意味、ですか」
「そうだ。まず、『おさ(長)』という意味。そなたはこの家の大事な跡取りだからな。字にもそれを示しているのだ」
「はい。父上の字もそうなんですよね」
「そうだ、よく分かっているな。そして、もう一つは、『伯夷』だ」
「伯夷というと、弟の叔斉とともに、周の粟を食む事を拒み、ついに餓死したというあの義人ですか」
(父上は、わたしに対し、その様な人物をも意識せよと。そうおっしゃるのか…)
まだ幼い蓋ではあるが、『伯夷』のもつ意味の重さは承知しているつもりである。思わず、背筋が伸びる思いがした。

余談であるが、かの水戸黄門こと徳川光圀は、若い頃は素行が悪かったという。しかし、十八歳の時に『史記』の『伯夷列伝第一』を読んで感動して更生し、名君としてその名を残している。傍目には愚者とも見える伯夷・叔斉の兄弟ではあるが、節義に殉じたその姿勢が、人々の心を打つのであろう。

「あれっ?父上、それでは二つの意味ではないのですか?」
「いや、三つだ。『伯夷』に二つの意味があるからな」
「二つの意味?」
「そうだ。一つは、そなたの申した義人・伯夷。もう一つは、そなたもその血をひく羌族の神・伯夷の事を指すのだ」
「伯夷には、その様な意味もあるのですか」
「そうだ。伯夷は帝舜に仕え、典刑をつくったという」
「これはまた…。父上がそこまで考えておられるとは。そうしてみると、わたしはたいへんな字を持つわけですね」
「確かに、容易な事ではないな。しかし、孟子もおっしゃっているではないか。『王の王たらざるは、是れ枝を折ぐるの類なり(王が王者になっていないのは、目上の人に腰を曲げておじぎをする事のたぐいである。つまり、物理的にできないのではなく、単にする気がないのに過ぎない)』と。大抵の事については、要は、自らの有り様次第なのだ。よいな」
「はい、分かりました。伯夷の如くなれる様、努めてまいります」
「そうだな。是非そうなってもらいたい」
「ところで、『陽』は?」
「『陽』は、天の中心たる太陽にちなんでのものだ。名と字にはそれぞれ関連した字を用いる事となっているからな」
「なるほど」

「さて、鈞の字だが。こちらは『仲泰』だ」
「『仲泰』、これにはどの様な意味が?」
「『仲』は、『なか(二番目、または真ん中)』という意味だ。次男だからな」
「では、『泰』はさしずめ『泰山』の事を指すのですか?」
「よいところに気付いたな。その通りだ。そなたは賢いな」
「父上にそう言われると、何か照れますね」
「五岳(中華を代表する五つの山。東の泰山、西の華山、南の衡山、北の恒山、中央の嵩山)の一つである泰山は、古くから羌族の信仰の対象であったというから、羌族の血をひく鈞の字にふさわしい。それに、まことの帝王のみに許される封禅の儀式が行われるという事を考えると、泰山もまた、地の中心であると考えられるからな。名と字に関連がある、とまぁこういうわけだ」
「なるほど…」
「この字、気に入ったかな?」
「気に入るも何も…。名と同様、素晴らしいとしか言い様がございません」
「では、そなた達が志学(十五歳)になったら、この字を使う事としよう。よいな」
「はい!」


−この後この兄弟は、乱世の中、文字通り激動の生涯を歩む事となる。幾多の苦難の中、彼らの最後のよりどころとなったのは、この、父から賜った名と字、そしてその由来であった−

104 名前:左平(仮名):2004/01/01(木) 00:15
五十二、

牛輔にとってみれば、この頃は、おおむね幸せな時期であった。
羌族との戦いがしばしばあったので平穏とは言い難いものの、これまでのところ大きな犠牲もなく済んでいるし、何より、姜をはじめとする家族にも恵まれている。
父も弟達も至って健やかであるし、義父・董卓も順調に位階を進めており、刺史や郡太守といった地位も考えられるところまできていた。
これならば、次代を担うであろう勝は、より高い位に就けるはずである。そう、牛輔の願い通り、全てがうまくいっていたのである。
その『事件』が起きるまでは。


…さて、この当時の時代状況を知るよすがとなるのは、何といっても史書の記録であろう。陵墓などの遺跡から発掘される文物も重要なのだが、時代の全体像を考える上では、史書の記述を無視するわけにはいかない。
牛輔や董卓が生きたこの当時は後漢の霊帝の時代にあたるので、その当時の事を調べる為に『後漢書 孝霊帝紀第八』をひもとくと、作者の様な漢文の素人でも、すぐに目に付く事がある。

やたらに『大赦』が目立つのである。

西暦でいうと、霊帝の在位期間は168年〜189年なので、足かけ二十二年となる。その中で、何と十九回の大赦(うち二回は霊帝が崩じた後なので、霊帝在位中の大赦は十七回)が実施されている。一年ちょっとで一回という頻度である。
『大赦』とは、国家的にめでたい事(帝王の即位、立太子、成婚、瑞祥など)があった際に罪人の刑を減免する事であるので、本来であれば、一人の帝王の在世中にそう何回も出すものではない。第一、霊帝の時代には、さしてめでたい事があったわけでもない(怪異現象ならいくつか記されているが)。
では、何ゆえ、かくも多くの大赦が乱発されたのであろうか。
簡単な事である。当時の政治が、全くもっていい加減なものであったが為に他ならない。

先にもちらりと触れたが、建寧二(169)年にいわゆる『(第二次)党錮の禁』が発生し、宦官勢力に反発した多くの名士達が、処刑されたり投獄されたりしている(『後漢書』には彼らの記録をまとめた『党錮列伝』がある事からも、その凄まじさがうかがえよう)。その死者だけでも百人を超えるといわれ、さらに、その一族や関係者も、禁錮や辺境への移住を強いられているのであるから、その影響は甚大なものがあった。
人々に与えた精神的な衝撃という点もさる事ながら、現実の政治の運営にも大いに影響するところがあったのである。
先帝(桓帝)の御世に、跋扈将軍・梁冀の勢力が滅ぼされるという事があったのだが、その時、その関係者という事で多くの現役閣僚も巻き添えを食った為、朝廷は空になったといわれる。この時も、それに似た事態が発生したものと考えられる。
そう、実際の政治に携わる者がごっそりといなくなってしまったのである。
政治に空白が許されない以上、欠員となった席には誰かが入り、形ばかりでも空席が埋められる。そこに入ったのは、当然、宦官勢力に近い人々であった。
本来ならばその地位にふさわしくない者までも取り立てられたのであるから、当初から彼らの評判は芳しくなかったものと思われる。もちろん、中には、それなりの志というものを持っていた者もいたかも知れないが、基本的には、宦官達の意に沿う事を第一としているのであるから、政治の何たるかという事は顧みられなかった。
この様な状態においては、当然の様に賄賂が横行するなど、政治秩序に著しい乱れが生じる。人間というものの本性を考えると、利益を求めるという姿勢は分からないではないが、政治に関わる者が、賄賂という形で利益を求めるのはどうであろうか。権力というものについての理解があれば、その様な態度はそうそうとれないはずである。『韓非子(外儲説右下篇)』にある、魯の宰相・公儀休の話(彼は魚好きであったが、人から魚を贈られても決して受け取らなかった。魚を受け取って借りを作ると、その借りの為に、後々問題が生じるからというのがその理由)はその一例と言えよう。
凶作、叛乱、外寇…。政治がきちんとしていたとしても、これらの禍は完全に防げるとは限らない。しかし、いい加減に対処していると、その被害はますます大きくなり、しかも、さらなる禍の芽を残す。
その解決には相当な努力が必要なのであるが、この様な有様で、そんな事が出来ようはずもない。結果、その場しのぎの対策に留まる。乱発された大赦は、その様な、当時の状況を知らせる良い例なのである。

そして、そんな中で、まともに政治が行われていれば考えにくいであろうその『事件』が起こった。長い歴史の中では、ごくありふれた事件である。しかし、牛輔達にとっては、それは一族の命運にも関わる、大変な出来事であった。

105 名前:左平(仮名):2004/01/01(木) 00:15
ことの起こりは、劉カイ【小+里】という人物の素行がよろしくなかった事にあると言えるかも知れない。少々長くなるが、その経緯を記しておく。

劉カイ【小+里】は、先帝(桓帝。諱は志)の弟である。兄の志が、質帝の崩御をうけて帝位に就く(本初元【西暦147】年)と、その翌年、蠡吾侯から一躍渤海王に昇格した。
今上帝の弟という事を考えると、この昇格自体は別段不思議な事ではない。しかし、傍系の皇族として、一県程度の食邑しか持たない貧しい侯であった(しかも、兄がいるのだからその嫡子ですらない)のがいきなり郡規模の食邑を持つ富貴な王になったのである。自由に使える財貨も増えるし、配下の人数も後宮の規模も、格段に大きくなる。彼自身にとっては、望外の喜びであったろう。
しかし、そこに落とし穴があった。
桓帝が即位したのが十五歳の時というから、その弟である彼は、当時、まだ十歳そこそこといったところであったろう。人格を練る事もなく、そんな年でいきなり富貴を得たらどうなるかは、我々の身近にもまま見られるところである。
皇弟というのは、大変な地位である。皇帝である兄に万が一の事があれば、直ちに次の帝位に就くかも知れないのであるし、何より、皇族の模範として、最も忠実な藩屏である事が求められる。何事にも慎重に振る舞い、小心翼翼としておらねばならないのである。しかし、彼にはそうする事はできなかった。

「不逞の輩を集め、酒や音楽にうつつを抜かしている」。延熹八(165)年、彼にかけられた嫌疑は、ごくごく簡単に言うとこういったものであった。単に酒や音楽にうつつを抜かしているというだけなら、王朝にとってさしたる実害はない(皇帝とその直系の子孫以外の皇族については、あまりに優秀であってもまた問題になり得るのである)。しかし、皇弟の邸宅に不逞の輩が出入りしているとなれば、話は別である。彼は罰せられる事になり、オウ【疒+嬰】陶王に降格された。この措置により、収入が大幅に減少したのは、言うまでもない。
場合によっては賜死を余儀なくされたかも知れないのであるし、第一、もともとは一諸侯でしかなかったのである。降格されたとはいっても、なお以前の侯より上の王位にある。元に戻ったくらいに捉える事ができていれば、それで話は済んでいたかも知れない。しかし、一度味わった富貴は、容易に手放せないものらしい。彼は、復位するべく、宮廷内部に働きかけた。
その相手となったのが、時の中常侍・王甫である。彼は、前述の(第二次)党錮の禁にも大きく関わっており、当時、宮中でも一、二を争うほどの実力者であった。その王甫を動かす事ができれば、復位も容易であろう。劉カイ【小+里】は、そう考えた。
「(渤海王に)復位した暁には、謝礼として銭五千万を出そう」
彼は、王甫にそう約束した。ちょっとした仲介で銭五千万の報酬。いかにあちこちから利得を得られる地位にあるとはいえ、これはなかなかに魅力的な話である。王甫がこれを受諾したのは、言うまでもない。

その甲斐あってか、降格の二年後、永康元(167)年に、劉カイ【小+里】は渤海王に復する事ができた。
となれば、当然、劉カイ【小+里】から王甫に銭五千万が渡されるところなのであるが…そうはならなかった。そして、それが事の発端となった。

106 名前:左平(仮名):2004/01/12(月) 22:33
五十三、

劉カイ【小+里】は、王甫に銭五千万を渡す必要がないと考えたのである。自分から約束しておきながら、どういう事かと疑問に思うところであるが、彼の中ではそれなりの理由があった。


実は、劉カイ【小+里】が渤海王に復位するのとほぼ同時に、桓帝は崩じたのである(ともに十二月の出来事であった。享年三十六)。先の質帝の様な不審の残る死(梁冀によって毒殺されたとされる)ではなかったから、彼には、自分の命が尽きようとしている事を悟り、遺詔を残すだけの時間があった。この遺詔は、紛れもなく桓帝自身の意思によるものである。
先にかけられた嫌疑については、史弼という剛直な人物が奏上した事であり、かつ裏付けもとれている事であるから、降格は誤りであってその訂正をしたという訳ではない。
この復位は、素行のよろしくない弟の行く末を案じた兄の、最後の思いやりといったところであると考えてよかろう。あるいは、実子が叶わぬなら、せめて自分に近い血縁の者を皇統を狙える位置に残しておきたいという意思表示でもあったかも知れない。
その思いはさておき、もともと、帝王の言葉とは重いものである。「綸言汗の如し」や「王に戯言無し」など、その重さを説く格言は幾つもあるという事からも、その事はうかがえる。ましてや、帝王がまさに崩じようとしている時の言葉である。もう二度と訂正はきかないのであるから、その意味は限りなく重い。
劉カイ【小+里】は、その重みを、自分に都合のいい様に解釈した。
(わしが復位するのは、陛下のご遺志であったのだ。帝王の遺詔は、何人たりとも介入できない聖域。王甫にどれほどの力があろうとも、陛下のご遺志はそれとはかかわりのない事である)
自分は良い兄を持った。そう思いはしたであろうが、彼は、重要な事実を見落としていた。それも、二つも。その事が、一連の事件につながっていくとは、気付くはずもなかった。

一つは、当然受け取れると思っていた報酬を反故にされた、王甫の怒りである。
銭五千万というのが、当時にあってはどの程度の価値であったかについては、現代との比較は難しいところである(良銭・悪銭の差、度重なる改鋳、通貨価値の激変などの理由により、定点がはっきりしない)が、二、三の事例を挙げてみよう。
@梁冀が滅んだ後、没収された財貨の額は、銭三十億余りに達し、それによって、天下の租税を半減させる事ができたという。…銭三十億が国家予算の半額ととれるので、その六十分の一である銭五千万は、国家予算の百二十分の一に相当する。現在の日本にあてはめると…(当時は国債というものはないので税収のみで考えると)…約三千七百億円相当となる。
A『史記』貨殖列伝には「封者食租税、歳率戸二百。千戸之君則二十萬(諸侯の、一戸あたりの税収は【銭】二百。食邑千戸の諸侯であれば、税収は【銭】二十万)」との記載がある。この当時(『史記』が書かれた頃)の一銭は、現在の日本円にして約百八十円くらいとの事なので、それで換算すると…約九十億円となる。もっとも、前漢末から後漢にかけての混乱を経て、貨幣の流通量は(例えば、皇帝から臣下へ賞賜された銭の数量が、後漢は前漢の約三分の一であるという様に)激減しているから、この頃にあってはその数倍の価値があったとみてよい。となれば、三、四百億円くらいになろうか。
B当時の渤海国の人口が約百十万人。当時の漢朝の全人口が約五千万人といったところなので、その約2%にあたる。そこからの税収(全てではない)が渤海王の収入となるわけだが、朝廷−地方王の取り分の比率が現在の日本の国−地方間の取り分の比率くらいと考えると…@と同様に現在の日本にあてはめた場合…約三千二百億円相当となる。
以上、実に粗雑な検証ではあるが、いずれにしても、一般の人間からすると大変な金額である事には相違ない。これほどの大金が絡むとなれば、ただで済むはずもないのは、今も昔も変わりない。
それに、王甫は宦官である。宦官は、性欲を充足させる事ができない分、権勢欲や金銭欲は常人以上に強いといわれる−事実そういう事例は多い−のであるが、その欲望を大いに損ねたのであるから、なおさらである。

107 名前: 左平(仮名):2004/01/12(月) 22:33
もう一つは、彼を復位させたのが「遺詔」だったという事である。最大の庇護者であった兄、桓帝はもはやこの世におらず、そのあとを継いだ今上帝(霊帝)は、桓帝・劉カイ【小+里】兄弟との血縁は薄い(桓帝の祖父と霊帝の曽祖父が同一人物【章帝の子・河間王の開】。二人は【共通の祖先から見ると】おじとおいという関係になるが、ともに帝位に就く前は地方の諸侯に過ぎなかったので、関係は疎遠であったと思われる)。
桓帝の御世においては皇弟であった彼も、霊帝即位後は、単なる一皇族に過ぎないのである。
いや、それだけではない。「先帝の弟」ともなれば、桓帝が男子なく崩じた(実際そうであった)後、そのあとを継ぐという可能性もあったわけだし、それを主張するだけの正当性も充分にある。その様な存在は、新たに皇帝となって間もない霊帝にとっては決して快いものではなく、むしろ疎ましくさえあったろう。劉カイ【小+里】という個人に対しては別段どうという感情はないにしても、彼が、自らが帝位に就く事の正当性を主張したりすれば、国論は分裂し、大変な事になるかも知れないのであるから。

そういった点に思いを馳せておれば、いったん約束しておきながら、王甫に銭五千万を渡さないという事が、どれほど危険であるかというのは分かり得たはずである。王甫が、実際に復位の為に動いたかどうかは関係ない。劉カイ【小+里】が渤海王に復位できたのは事実なのであるから、約束した銭は、渡すだけは渡しておいた方が無難というものであった。


そんな中、劉カイ【小+里】を擁立しようとする動きがあった。当時中常侍の地位にあった鄭颯や中黄門の董騰といった面々が、その為に動いていたのである。
その動きには「先帝の血筋により近い人物をたてるべきである」という一応の正当性はあったが、実のところはそんな奇麗事ではない。彼らは王甫と対立しており、自分達で皇帝を擁立する事で、優位に立とうとしていたのである。その、擁立する候補として挙がったのが、他ならぬ劉カイ【小+里】であった。
数回にわたって(使者が)行き交ったというから、彼自身も乗り気だったのかも知れない。
しかし、である。既に新皇帝(霊帝)が即位している今、その様な動きをし、それが発覚すればどうなるかは、言うまでもなかろう。

熹平元(172)年、ついにその事実が発覚した。王甫は素早く動き、政敵となった鄭颯を獄に下すと、尚書令の廉忠にその事を奏上させた。史書には「誣」の字があり、その点がややすっきりしないものがあるが、何分彼には、以前にも嫌疑をかけられたという前歴がある。
疑われてもおかしくはなかったし、探せば怪しい所の一つもあった。
廷尉が劉カイ【小+里】の前に現れた時、彼は、ようやく自らの軽率さを悔いたかも知れないが、既に手遅れであった。
同年十月、劉カイ【小+里】は自殺して果てた。ただ、謀反の疑いによるものであっただけに、事は彼一人の死では済まなかった。十一人の后妾、七十人の子女、妓女二十四人が投獄され、獄中で命を落とした。さらに、監督不行き届きの故をもって、王国の傅、相もまた誅殺された。
とはいえ、いささか軽率なところはあったにせよ、非道な事はしていなかったらしく、その死を庶民は憐れんだという。

かくして、王甫は銭五千万の怨みを晴らした。しかし、劉カイ【小+里】を死に追いやったところで、反故にされた銭が手に入ったわけではない。それどころか、さらに厄介な事態を招く事になったのである。牛輔達にも関わってくるその一連の『事件』は、まだ始まったばかりであった。

108 名前:左平(仮名) :2004/01/25(日) 23:22
五十四、

厄介な事態になった、というのは、こういう事である。

劉カイ【小+里】の事件が起こる前の年−建寧四(171)年−の七月に、皇帝の元服をうけて皇后が立てられていた。
彼女は、当時執金吾の位にあった宋鄷という人物の娘である。宋氏は、前漢の時代まで遡れるという名家であり、曽祖父の世代では、章帝に寵愛された貴人を出している。(彼女がとある事件により自殺を余儀なくされた為に)その皇子・慶は太子の位を廃されたものの、その子の祜が安帝として即位し、安帝・順帝・沖帝と続いている。
沖帝が幼くして崩じ、質帝・桓帝・今上帝(霊帝)と傍系の皇族が立て続けに擁立された為、当時においては宋氏と今上帝との血のつながりはないが、帝室との関係は浅からずある一族でもある。
先の宋氏が自殺を余儀なくされたとはいえ、その孫が皇帝となっているのであるから、皇后が立てられた時点では宋氏に何の問題もなかった事は言うまでもない。王甫(及び宦官勢力)から見ても、それは同じであった(でなければ宋氏の娘が皇后に立てられるはずもない)。
しかし、劉カイ【小+里】の事件があった為、少なくとも王甫にとってはそうもいかなくなったのである。
なにしろ、獄中で死んだ劉カイ【小+里】の后は、新皇后の姑母(父の妹。日本でいう叔母)なのである。一族を半ば殺された形となる宋皇后が、その悲劇の張本人であるのが王甫と知ったらどうなるか。贅言は不要であろう。

劉カイ【小+里】を滅ぼし、溜飲を下げた後になって、王甫はその事に気付いた。
(まずい事になったな…)
一時の怒りに任せた結果、予期せぬ禍根を作ってしまったのであるから、良かろうはずはない。
なにしろ、相手は皇后陛下である。皇后というのは、単に皇帝の正婦というに留まらない。中常侍の彼にとっては、直接の上司にあたる存在でもあるのだ。これは、自らの地位を保つ上でも大問題である。
(さて、どうしたものか)
しばし悩んだであろう事は、想像にかたくない。この時点では、彼には二つの選択肢があったと言える。
一つは、それこそ皇后の手足として忠実に働き、(姑母の死にかかわりがあると知られても)そうそう容易には排除できない様な重宝される存在になる事。もう一つは、策謀を弄して皇后を失脚させ、自分にとっての危険な芽を摘み取る事である。
もし前者をとる事ができていれば、宮中は、もう少し平穏な日々であったのだろうが…。王甫の、のみならず霊帝の人となりを考えると、それは所詮無理な相談というものなのかも知れない。

というのは、宋皇后の立場は、存外危ういものだったからである。
皇后が立てられた建寧四(171)年時点で、皇帝は数え十五歳。その正婦である宋氏は、おおよそ同年代であったろう。この世代の少年からみると、同年代の少女というのはまだ(性的魅力という点において)物足りなく思う事がままあるもの。ましてや、皇帝ともなると、後宮には全国から選りすぐった美女が溢れかえっているのである。
これで皇后に目を向けようとなると、皇后が絶世の美女(この時点では美少女か)であるとか皇帝に相当の自制心がある事が必要であるが…崩じた後、『霊』という諡号(最悪とまではいかないが、かなり悪い部類の諡号)をつけられる様な人物にそれを望む事は、ほぼ不可能というものであった。
それに、皇帝は、十二歳で即位するまでは貧しい辺境の一諸侯に過ぎなかった。史書に「扶風平陵人」とある事から、少なくとも当時の首都圏の出身であると確認でき、なおかつ名家の出である皇后とは、いま一つそりが合わなかったとしても不思議ではない。
その為、彼女は寵無くして正位(皇后の位)に居るという状態にあった。寵愛されない皇后が、やがて寵姫にとって代わられるという事はままあるから、現時点で、その地位が磐石のものであるとは到底言えないのである。

109 名前:左平(仮名):2004/01/25(日) 23:25
(ただ…皇帝陛下は、皇后にはさして思い入れがなさそうではある…となれば…)
王甫がとる手段は、一つしかなかった。皇后を失脚させる事である。それは、少なからず皇后とその一族の滅亡にもつながる事なので、またも悲劇を引き起こす可能性があるのだが、王甫にはどうでもいい事である。
(いささか気の毒ではあるが…わしが生き延びる為だ。消えていただくしかないな。ただ…寵愛されていないとはいえ、特に過失があるというわけでもないし…どうしたものかな…)
相手はいやしくも皇后陛下である。それを廃位するのは、過去にも幾つか例があるとはいえ、決して容易なことではない。
幸い、今、皇帝には何氏という寵愛を受けている貴人がいる。既に皇子の辯(後の少帝)を産んでいる事からして、宋氏を廃して何氏を皇后に立てる事については、皇帝は黙認するであろうと思われる。
もちろん、宋氏も今後男子を産む可能性がないとは言い切れないし、何氏は、皇后になるには身分的にも性格的にもいささか問題のある女性ではあるのだが、それは何とかなるだろう。問題は、いかにして宋氏を廃するかである。

「現状を考えると…最初から策を弄するのも何だな。まずは、正面からあたってみるか。これを諮るとなれば、さしずめ、太中大夫(光和元【西暦178】年当時は、段ケイ【ヒ+火+頁】がその任にあったと思われる)あたりかな」
そうつぶやくや否や、王甫は立ち上がった。
「車を出せ」
「どちらへ行かれるのですか?」
「段太中大夫のところだ。ちと相談したい事があってな」
「分かりました。すぐに支度いたします」

両者には、政治的に強い結びつきがあった。王甫が宦官であるのに対し、段ケイ【ヒ+火+頁】はれっきとした士大夫であるから、当時の政治情勢を知る人には、いささか意外に思うところではあろう。
だが、これは両者にとって益のある関係であった。段ケイ【ヒ+火+頁】は自らの富貴を維持する為、王甫をはじめとする宦官勢力に接近する必要があったし、王甫は敵対勢力を叩き潰すのに段ケイ【ヒ+火+頁】の勇武を必要としていたからである。
こう書くと、段ケイ【ヒ+火+頁】が権勢に擦り寄る悪党である様に思われるかも知れないが、事はそんな単純な話ではない。

段ケイ【ヒ+火+頁】は、董卓と同じく涼州の出身であるが、同時代に、彼を含めた三人の名士(皇甫規・字威明、張奐・字景明、段ケイ【ヒ+火+頁】・字紀明)がいた。彼らはその字に「明」という字が含まれていたので「涼州三明」と呼ばれていたのだが、段ケイ【ヒ+火+頁】は、三人の中で最も恵まれない立場にいた。というのは、他の二人は父が相当の官位にあったのでその恩恵を多分に受けられたのに対し、彼の父は史書に名が記されておらず(官位に就かずして亡くなったか就いていたにしても微官に留まったと考えられる)、その恩恵を受けられなかった為である。
段ケイ【ヒ+火+頁】は、対羌族戦において三人の中で最も苛烈な戦いを行ったのだが、それは、彼の性格によるというだけでなく、より目立つ功績を挙げる事で、二人との差を詰めたいという意識の現われであったかも知れない。
また、その結果得た富貴にしても、先祖代々の蓄積というわけではない。それを守る為にいささか無理をせざるを得なかったという事情もあったものと考えられる。

ともあれ、王甫にとっては、段ケイ【ヒ+火+頁】は頼れる人物であった。皇后廃位という大事を為そうとするにあたっては、一言相談しておくにこした事はない。
「これはこれは、王中常侍殿。いかがなされたのかな?」
本人は至って気軽に話しているのであろうが、さすがは歴戦の勇将。既に相当の年であるにも関わらず、慣れない人にはかなりの威圧が感じられる。それは、王甫にとっても同じである。政治的には近しいとはいえ、決して気安く話せる相手というわけではないし、何より武人である。長々とした挨拶などせず、手短かに話すのが良い。
「話がある」
「ほほぅ。どの様な話ですかな?」
「実はな…」
王甫の声が、いささか小さくなった。
(何か重大な話なのか)
さすがの段ケイ【ヒ+火+頁】の心にも、緊張が走った。これが、自らの運命にも大きく関わろうとは、気付くはずもなく。

110 名前:左平(仮名):2004/02/09(月) 00:13
五十五、

「皇后の事なのだが…」
段ケイ【ヒ+火+頁】にとっては、いささか予想外の話である。宮中のきな臭い話とはあまり関わりたくないというのが本音ではあるが、他ならぬ王甫の話である。聞くだけは聞かねばなるまい。

「皇后陛下が…いかがなさったのですかな?」
「実はな…位を降りていただこうかと思ってな」
「これは異な事を。何ゆえですかな?」
(陛下は、今の皇后に何かご不満があるのだろうか?聞いた事はないが…)
段ケイ【ヒ+火+頁】には、どうも王甫の意図が掴めない。皇后の廃位となれば、天下の一大事である。皇帝の意思であるのなら異論はないが、何ゆえ今なのか。さっぱり分からないのである。
「皇后は寵無くして正位に居られる。皇后に立てられてもう何年にもなるが、未だ若年とはいえ、この様子では、恐らく男子は望めまい。『母は子を以って貴たり』ともいうし、この際、既に男子を産んでおられる何氏あたりにその座を譲られてはいかがかと思うのだがな」
「ほほぅ…。で、この事について陛下のご意思はいかがなのですかな?陛下がお望みなのでしたら、この段ケイ【ヒ+火+頁】、できる限りの事は致しましょう」
(そう来るか…。まぁ、予想してはおったが…)
段ケイ【ヒ+火+頁】は、どこまでも漢朝に忠実な武人であり、皇帝の意思こそが絶対という固い信念を持っている。彼を動かすには、やはり皇帝を持ち出すしかない様だ。ただ、今回については、事の性質上それはなるべく避けておきたいところ。彼の力を借りるわけにはいかない様である。
(止むを得んな。萌、吉【ともに王甫の養子】に相談してみるか)
王甫は、そう考え直した。このあたりの決断の速さこそ、彼が今まで勝ち残ってきた所以である。幸い、段ケイ【ヒ+火+頁】は口が固いから、一言口止めしておけば、この話が外に漏れる恐れはない。
「まぁまぁ、そう焦らずとも良い。わしとて、陛下のご意思をきちんと確認したわけではないのだからな。この事は忘れられよ。…今日の話はこれだけだ。では、あまり長居するのも何なので、これにて失礼する」
そう言うと、王甫は席を立った。こう書くと、段ケイ【ヒ+火+頁】の返答に不快感を感じた様に思われるかも知れないが、そういう訳ではない。王甫は、段ケイ【ヒ+火+頁】の人となりにはむしろ好感さえ持っている。用件が済んだら長居はせずにさっさと帰るのが、彼への礼儀なのである。

「戻ったぞ」
「お帰りなさいませ」
「さっそくだが、簡と筆を用意しろ。萌と吉に書状をしたためる」
「はい。分かりました。至急」
この頃、王萌は長楽少府、王吉は沛国の相という要職にあった。いかに養子とはいえ、勝手に親元に帰るわけにはいかない。書状には、相談したい事があるので、何か理由を探して急ぎ帰る様したためられていた。

「父上から書状?」
「はい。こちらです」
「ふむ、何用であろうか…」
「なるほどな…分かった。しばし待て。すぐに返事をしたためる」

111 名前: 左平(仮名) :2004/02/09(月) 00:15
しばらく後−王甫邸に、王萌・王吉、二人の姿があった。ともに、王甫が呼んだ理由までは分かっていない。
「二人ともよく来てくれた。実はな、話というのは…」
「何と!」
これには二人とも驚くしかない。とはいえ、この謀の成否は自分達の生存に関わってくる。慎重に考えねばならない。
「中華の歴史は長い。その中では、こういった事もままあったはず。そうだな?」
「はい」
「今話した様に、宋氏が皇后のままでは、我らの身が危うい。位を廃さねばならぬが…どの様にすれば良いかな?」
「そうですね…」
先に口を開いたのは、王吉の方であった。王吉については、史書に伝があり(酷吏列伝)、幼い頃から読書を好んだと記されているから、そういった先例もすぐに思い浮かんだのであろう。
「漢朝に限ってみても、皇后が廃されたというのは何回かあります。その例に倣うのがよろしいでしょう」
「ふむ。で、どの様な経緯でそうなったのかな?申してみよ」
「皆、皇帝おん自らの意思で廃位されているわけですが…さすがに、寵愛しなくなったから、とはしておりません。実際にはそれが理由であったとしても。故あって外戚どもを打倒し、その係累という事で廃するとか、巫蠱【ふこ。巫女にまじないをさせ、人に呪いをかける】・祝詛【しゅうそ。巫祝を用い、人に呪いをかける】を行った故に廃するとか、そういう理由をつけておりますね」
「なるほどな…」
「今、宋氏が外戚になっておりますが…彼らにはさほどの勢力はございませんから、陛下もわざわざ打倒しようとはお考えにならないでしょう。ここは、巫蠱を行ったという事にするのがよろしいかと」
「そうだな。寵愛されない皇后が焦燥の余り巫蠱の術に頼った…有り得ん事も無いしな」
「ただ…皇后は後宮におわしますから…その証拠を、となると…」
「それは、わしが考える。なに、そのあたりの事は、心得ておるわ」

ひとたび結論が出ると、王甫の動きは早かった。

この謀を為すには、少なからぬ協力者が必要である。王甫にとって幸いなのは、後宮には、皇帝の寵愛を受け、自身の、そして一族の立身を図ろうという女達が溢れかえっているという事である。
彼女達にとっては、その頂点に君臨する皇后が失脚した方が望ましい。競争相手は少ない方がいいし、何より、最高位の皇后の座に座れる可能性も出てくるのだから。
「分かりました。で、何をすればよろしいのですか?」
「なに、大した事ではございません。陛下の夜伽をする際に、それとなく皇后陛下の事を謗って頂ければよろしいのです」
「何だ。そんな事、いつもやってるわよ」
涼しい顔をしてそう返事する者までいる。
(これなら、存外容易に事が進むな…しかし、女は恐ろしいものだな)
若くして宦官となり、長年後宮にいる王甫ではあったが、あらためてそう思った。

「陛下に申し上げます」
王甫が太中大夫の程阿(太中大夫の定員は不定につき、彼と段ケイ【ヒ+火+頁】は同時にこの官職にあった可能性がある)と共に、皇后が左道【さどう。邪道】祝詛をしていると上奏したのは、それからしばらくしてからの事であった。
前漢武帝の治世の末期、巫蠱の疑いにより、公主【こうしゅ。天子の娘】・駙馬【ふば。天子の娘婿】とその子供達、さらには皇太子とその子供達までもが命を落とすという悲劇があった。それ自体は全くの冤罪だったのだが、ひとたびその疑いをかけられただけで、皇帝の血縁者であってもその罪は死に値したというのであるから、赤の他人である皇后となれば、その末路は言うまでもなかろう。
光和元(178)年十月、宋皇后は廃位され、一族はことごとく誅殺された。廃された皇后自身は暴室に送られ、ほどなく憂いの為に亡くなったという。隠密裏に殺害されたと考えても良いだろう。
かつて自分の正婦であった宋氏の死に対し、皇帝が何か語ったという記録は残っていない。

こうして、王甫は自らの憂いとなる宋氏を滅ぼした。皇后を廃位させる程の実力を持っているのであるから、もはや王甫に敵なしかというところであったが…そうはいかなかった。

112 名前:左平(仮名) :2004/02/22(日) 21:29
五十六、

今回の皇后廃位は、皇帝は自分の意思によると思っているであろうが、王甫の差し金によるという事は公然の事実であった。それは、王甫の実力を知らしめる事になる一方で、敵を増やす事にもつながった。なにしろ、彼だけではなく、養子の王萌・王吉もまた、要職にあって権勢を振るう一方で、あちこちに敵をつくっていたのであるから。
史書によると、二十歳そこそこで沛国の相となった王吉は、性残忍であり、在任期間五年でおよそ一万余りの人を殺したという。沛は漢高祖・劉邦の故郷にして大国であったから、人口も多くそれだけ犯罪も多かったろうが、この数は異常である。当然、多くの無辜の民が殺戮されたであろうから、それだけ人々の恨みを買っていたはずである。

(党錮といい、皇后廃位といい、萌・吉の振る舞い様といい…どうもわしが矢面に立つ格好になっておるな。備えをしておかんと)
そう考えた王甫は、皇帝に働きかけ、段ケイ【ヒ+火+頁】を太尉にした。段ケイ【ヒ+火+頁】は、前述の様に数年前にも太尉になっていた時期があるのだが、在任期間十ヶ月(熹平二【173】年三月に就任し同年十二月に罷免)で退任しているから、久々の復職であった。
太尉といえば三公の一つにして、軍事を司る官職。歴戦の勇将たる段ケイ【ヒ+火+頁】が三公の高位にいるというだけで、反王甫勢力には相当な威圧をもたらすはずであるし、何より、太尉に無断で軍を動かす事は至難の業。王甫自身は後宮におり、皇帝の近くに侍っているから、そうそう手が出せない。まずは一安心である。
もちろん、段ケイ【ヒ+火+頁】には、そんな王甫の思惑など知った事ではない。自らの任を全うするだけである。
(わしももはや従心【七十歳】を過ぎた。これが最後のご奉公となろうな)
知らせを受けた段ケイ【ヒ+火+頁】は、しみじみとそう思った。今宵の酒は、普段以上に胃に沁みる様な気がする。
(不思議なものだ。「三明」と呼ばれていた中で、最も恵まれなかったわしが最も立身するのだからな…)
「(涼州)三明」と並び称された三名のうち、皇甫規は、これより先、熹平三(174)年に七十一歳で亡くなっていた。また、張奐は未だ存命とはいえ、既に失脚して家に篭もっている。当時七十六歳。政治的にはもはや過去の人となっていた。
(力量をみる限りでは、あの二人よりわしが特にまさっているというわけでもなかろう。となると、運か。分からんものだな…)


段ケイ【ヒ+火+頁】の思いはともかく、この知らせは、董卓達には祝うべきものであった事は言うまでも無い。
彼は、涼州の英雄にして、尊敬すべき先達であるし、何より、董卓にとっては、かつて推挙してもらった恩人でもあった。それに、同郷の人が高位にあるとなれば、自らの立身を図る上でも何かと都合が良い。いい事ずくめなのである。

「義父上、お聞きになりましたか。このたび、段公が太尉になられたとか」
そういう事情を理解しているだけに、牛輔の声も自然に明るくなる。
「あぁ、聞いておるよ。我らにとっては、めでたい事だからな」
「まことにそうですな」
「そうそう、伯扶よ。鈞の様子はどうかな?」
「それでしたら、もう至って健やかでございますよ。もう自分で立ち上がる事もできます」
「ほほう。白ももう自分で立てる様になっておるからな。いや何より。先が楽しみだな」
「はい。必ずや、義父上の様な勇敢な武人に育ててみせますよ」
「そうだな。勝や、いずれ産まれるであろうその子達のよき補佐役になってもらわんとな」
「そうですね」
時に、光和二(179)年三月。うららかな、春の日のひとこまであった。しかし、都・洛陽において、秘密裏にある謀議が為されていたのに気付く者は、まだなかった。謀議に加わっている数名を除いては。

113 名前:左平(仮名):2004/02/22(日) 21:31
「党錮以来、宦官どもの横暴には目に余るものがある。これ以上黙ってみておるわけにはいかん」
とある邸宅の一室で、数人の男達が集まっていた。党錮の禁以来、表立って宦官批判の言論を述べるのは極めて困難になっているが、通常の人付き合いまで完全に排除できるものではない。彼らは、何かに事寄せては会合を持ち、宦官勢力打倒の計画を練っていたのである。
「まことに。最近では、その養子達までもが悪逆な振る舞いを為し、民を苦しめておるというではないか」
「そうだ。孝順皇帝以来、連中は養子をとる事でその爵位・食邑を継承しておる。曹常侍(曹操の養祖父・曹騰の事)は孝順皇帝の擁立並びに多くの人材を推挙したという功の故、まだ良いとしても、王甫・曹節の如き功無き輩までもがその恩典に浴しておるという有様だ。このままでは、漢朝は連中によってぼろぼろにされてしまうぞ」
「うむ。あの連中ならば、簒奪さえもやりかねん。あやつらは、奸智のみは王莽並みだからな」
「君側の奸か。ならば、除くしかない」
「さよう。陛下がその事にお気づきにならぬ以上、我らの手で何とかするしかあるまい」
「その通りだ。しかし…問題は、いかにして連中を討つかという事だ」
「そうだな。なにしろ、あの段紀明が太尉に任ぜられておるから、軍を動かすのは至難の業」
「何より、宦官どもは後宮におり、下手に刃を向けると、逆臣呼ばわりされる」
「いかがいたしたものか…」
威勢は良いものの、いざ実行の手段となると、とんと案が出ないという有様であった。
「そこで、わしの出番というわけだな」
沈んだ雰囲気の中、そう発言したのは、当時司隷校尉【首都圏の警察権を持つ官職】の任にあった陽球であった。

陽球、字は方正。幽州・漁陽郡の名門の家に生まれた彼は、「好申韓之学【申不害・韓非−ともに法家の思想家として知られる−の学問を好んだ】」という。修身・立身の為、儒教思想の経典を学ぶのが常道とされていた当時としては、やや珍しい経歴を持つ人物と言えよう。
士大夫の一人として宦官勢力と戦ったにもかかわらず、その伝が「酷吏列伝」に記されているというのは、若い頃人を殺めたという事・後述するその嗜虐性もさる事ながら、その経歴も影響しているのかも知れない。

「なるほど、司隷校尉殿であれば、罪状を暴き立てて逮捕する事もできますな」
「となれば…あとは、王甫とその一党の罪状が分かれば良いのだが…」
「確かにそれは必要だ。しかし、それだけでは足りぬ」
「足りぬとは?」
「いかに確かな罪状を暴き立てても、王甫が陛下のそばにいては、すぐに握り潰されてしまうであろう。それでは、何にもならぬ」
「確かに」
「王甫が不在の折を狙うしかない」
「不在の折…そうか!あやつの休沐日に奏上すれば…で、その後は…」
「そういう事だ。なに、あやつらの事だ。叩けば埃などいくらでも出てくるわ。わしから直接奏上すると何だから、京兆尹【長安地域の長官】の楊文先(楊彪。『四知』という言葉で知られる楊震の曾孫)殿からの報告という事にしてもらえば良い。最近聞いた話だが、連中、あのあたりで何かやらかしたらしいからな」
「それがよろしいな」
「では、王甫めの休沐日を期して、動くぞ。良いな」
「分かり申した」

114 名前:左平(仮名):2004/03/07(日) 23:16
五十七、

四月。朔に日食があった。 日食は、往々にして不吉な前兆とされるが、もうこの頃になると、少々の怪異などは珍しくもないという感さえある。何しろ、先月も京兆で地震があったばかりなのだから。
ただ、それを、いささか違う思いで見上げる者達がいた。陽球達である。
「あれを見よ。一度は日が消えてしまうが、また再び現れてくる様を。これは吉兆ぞ。我らの働きによって、宦官という闇を除き、漢朝に光を呼び戻すのだ」
先に話し合われた謀を実行する時が、近づきつつあった。

「どうだ?」
「まだ動きはない。…んっ?あの車…。間違いない、王甫のものだ」
「そうか。どちらに向かった?」
「邸宅の方だ」
「そうか…。間違いない。休沐だな」
「と、なれば…」
「あぁ。明日こそが…」
「おっと。それはこれからの話だ。急ぎ、方正殿にお知らせしろ」
「分かってるよ。じゃ、また後でな」

車中の王甫は、そんな事など気付くはずもない。久方ぶりの休沐をどう過ごすか、それで頭が一杯になっていたのである。
「あぁ、全く…。それにしても、四月になったばかりだと言うに、暑くなったものよのぉ。行水でもするかな」
手で顔を扇ぎながら、そんな事を呟いていた。

「そうか、王甫めは休沐に入ったか」
「はい。車が確かに邸宅に向かって行きました。間違いなく、休沐に入ったものと思われます」
機は熟した。今こそ決起の時である。恐れる事はない。大義はこちらにある。
「行くぞ、支度をせよ。上奏するとともに、直ちに王甫どもの捕縛にかかる。遮る者があれば、殺しても構わぬ。良いな」
「はっ!」
(王甫よ。これで貴様も終わりだ。せいぜい今のうちに休沐を楽しむのだな)
そう思うと、思わず陽球の口元が緩んだ。

王甫邸−
「ご主人はご在宅かな?」
「はて、どちら様でしょうか?本日、面会なさる方がおられるとはうかがっておりませんが」
「予定などあるはずもなかろう。…司隷校尉の陽方正である!おとなしく致せ!」
「はっ?一体何事…」
「どけいっ!」
取次ぎの男を荒々しく突き倒すや否や、陽球とその配下はずかずかと王甫邸内に入り込んだ。それは、王甫達の逮捕と同時に、京兆で発覚した、銭七千万にものぼる不正摘発の為の家宅捜索であった。
「なっ、何をなさいますか!それは殿のお気に入りの…」
「やかましいっ!口を挟むな!いい加減にせんと斬るぞ!」
「ひっ!」

115 名前:左平(仮名) :2004/03/07(日) 23:17
「何事だっ!」
あたりの騒々しさを聞いた王甫が姿を現した。いかに宦官とはいえ、さすがに宮中随一の実力者。態度は堂々としたものである。
「あっ、殿!そっ、それが…」
「何がどうしたと言うのだ。落ち着いて説明せい」
「これはこれは、王中常侍殿ではありませんか」
王甫の姿を見つけた陽球は、あえて丁寧な態度をとった。相手の警戒心を緩くする為である。
「何だ、陽球。この騒ぎは」
「それがですね。京兆尹殿から、とある事件の摘発があったのですよ」
「事件?そんなもの、わしは知らんぞ」
「そんなはずはないでしょう。これは、あなたの門生がやった事なのですから。なにしろ七千万という大金が絡んでおりますからねぇ…」
「何が言いたい?」
「者ども!こやつがこの件の首魁である!引っ捕らえろ!」
「なっ!?」
王甫が口を挟む間もなく、彼は屈強な男達によって取り押さえられた。腕力では劣るとはいえ、相当に抵抗したから、髪も衣服もぼろぼろになってしまった。
「ええいっ、放さんかっ!わしをどうするつもりだ!」
「どうもこうもないわっ!官の財物を横領した容疑で取り調べるまでの事!引っ立ていっ!」
王甫はなおも陽球を罵りつつ、引き立てられていった。

「さて、次は…王萌・王吉、それに…」
そう言いかけたところで、陽球は口をつぐんだ。
「それに…誰を捕えるのですか?」
「ちと気が重いが…太尉の段紀明だ」
「段太尉を、ですか?しかし、太尉はこの件には関与しておりませんが…」
「そんな事は承知しておる。だがな、段紀明は王甫との関係が深い。数年前には、宦官どもの意を受けて学生達を弾圧したではないか。放っておいては、我らが危うくなるのだ」
「しかし…」
「しかしも何もない!とっとと行かんか!」
「はっ!」
(なるほど、確かに対羌戦の勇将ではある…むざむざ消し去るには惜しい存在ではある…だが、こうするより他ないのだ。俺は間違ってはおらんぞ!)
びっくりした部下が駆けていくのをみながら、陽球は、自分にそう言い聞かせていた。

116 名前:左平(仮名) :2004/03/21(日) 22:44
五十八、

段ケイ【ヒ+火+頁】邸に陽球とその配下達が姿を見せたのは、それから間もなくの事であった。

「何事かな?この様な大人数で」
表の騒ぎを聞いた段ケイ【ヒ+火+頁】が姿を現した。まだ、何が起こったのかは分かっていない様子である。
「太尉殿でいらっしゃいますね?」
「そうだ」
さすがは、長きにわたって辺境の地で活躍した勇将である。前線に出なくなってから数年が経つとはいえ、王甫とは、まるで貫禄が違う。この威厳を前にした司隷校尉配下の者達の−いや、陽球自身もだが−額に、冷や汗が滲んだ。喉がからからになるのを感じつつ、陽球はようやく声を絞り出した。
「ご同行願います」
「なに故に?」
一瞬の沈黙が周囲を支配する。確かに、今回彼を逮捕する様な容疑はないのである。
「…太尉殿。貴殿は、王中常侍と親しゅうございますね」
「確かに、王中常侍とは親しく付き合っておるが。それがどうかしたのか?」
「このたび、京兆において大きな事件がありましてね。それに、王中常侍、いや、王甫が関与しておったのですよ」
「ほう。しかし、それがわしと何か関係があるのかな?わしは、その様な事には一切関わってはおらんが」
「そういう問題ではございません!貴殿は、王甫の一党を倒す際の障害なのですからな!ここにおられてはこちらが困るのですよ!」
「わしのどこが障害になるというのだ?捜査を妨害するとでも言うのか?」
「その存在自体が!…むっ、ここでぐだぐだ言ってても仕方がないっ!者ども!引っ立ていっ!」
「そう大声を出すでない。何の事か分からんが、わしがおると捜索するのに不都合だというのなら、同行しよう。それで良いのだな?」
「…では、ご同行願おう」
「うむ」
「殿!」
連行される段ケイ【ヒ+火+頁】をみて、邸内の家人達が叫んだ。これからどうなるのか、その顔には不安の色が浮かぶ。もし主人に万一の事があれば…。それは、自分達にとっても死活問題なのである。
「そう心配するでない。そなた達はここで待っておれ」
周囲の者達の声が皆上ずっている中、ひとり彼の声だけは冷静さを保っていた。
(こやつがわしをどうするつもりかは分からんが、この様な事で取り乱す段紀明ではないぞ)
武人たる者、何があっても冷静さを失ってはならない。その矜持が、彼を支えていた。

その時、段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が遠ざかるのをみた家人の数人が、あちこちに走り始めていたのに気付く者は無かった。
(急ぎお知らせしないと…このままでは殿が…!)
主・段ケイ【ヒ+火+頁】の危難を救うには、かつて主が推挙した者達の助力を乞うしかない。誰が命ずるでもなく、彼らはそう考え、行動を起こしたのである。たとえ主がそれを望まぬとしても、主に仕える者として、手を拱いている事はできなかった。
西へ、東へ、北へ、南へ。彼らは、一心不乱に走り続けた。

117 名前: 左平(仮名) :2004/03/21(日) 22:47
「こちらへ」
「うむ。…ほぅ、これはまた随分な扱いだな」
彼がいざなわれたのは、牢獄であった。特別な設備などは何も無く、一般の囚人が入るそれと変わらない。これは、現職の−この時点では罷免する旨の詔勅はまだ出ていない−太尉に対する扱いとは思えない。
(こやつ、王中常侍ばかりでなく、わしをも罪人とするつもりか)
牢獄自体は、かつて戦った辺境の地の過酷な気候を思えば何という事はないが、この扱いには承服し兼ねるものがある。さすがの彼も少しばかり不機嫌な表情になった。
「いかがなされた?」
「なに、蓐【しとね】に入る事がなかった昔の事を思い出したまでの事よ」
「ほぅ…」
(いつまでそう言ってられるかな)
ここまで来ればこちらのものだ。いかに太尉とはいえ、ここでは司隷校尉である自分に絶対の優位がある。長く戦場で鍛えられたとはいえ相手はもう七十過ぎの老人。過酷な尋問の果てに、この男が矜持を失い無様に取り乱す様を見たいものだ。陽球はそんな事まで考えた。そう考えるだけで、心が踊るのである。
「太尉…いや、段紀明殿。しばらくここにおられよ。わしは、王甫の尋問にあたらねばならぬのでな」
そう言い残すと、陽球はさっさと別室に向かっていった。その足取りは、妙に軽やかであった。


「早く吐かんかっ!」「この奸賊めがっ!」
罵声とともに、王甫父子に対し容赦なく杖や鞭が振り下ろされる。まだ尋問が始まってからさほど時間も経っていないというのに、父子の体は既に痣だらけになっていた。肉が破れ、あちこちから血が滲んでいる。
いや、痣や血ばかりではない。時々する鈍い音からみて、何箇所か骨も折られている様である。
「わ、分かった…。話すから…止めてくれ…」
「我ら父子は既に罪に服しておるではないか。せめて父上だけでも大目に見てはもらえぬか」
たまりかねた王甫達はそう哀願した。しかし、それにも構わず、さらに杖が振り下ろされる。
「早く話せ!『全て』話し終わったら止めてやっても良いぞ!」
その様を見つめる陽球の目には、どこか異常な光さえ感じられた。そこにあるのは、敵意などといった生易しいものではない。
(ま、まさかこやつ…)
その目に気付いた王萌の背に、寒気が走った。
(こやつ、京兆での疑獄の解明なぞはどうでも良くて、ただ俺達を殺したいだけなのではないか…)
「方正!そなた、我ら父子に何か怨みでもあるのか!」
「怨み?何の事かな?これは尋問であって私的な怨みをどうのこうのと言うものではないが」
「とぼけるでない!我らが関与したという疑獄の件を解明したいのであれば、話そうとしているのになに故間髪も入れずに杖を振り下ろし続けるのだ!これでは体がもたん!」
「ほう、気付いたか。長く要職にありながら、鈍いやつらだな。まぁ、王甫の養子というだけで官位にありついたのだから当然か」
「気付いただと!?まさか!」
「ふん。なんじらの罪は、たとえ死んだところで免れるものではないわ。この期に及んで、まだ大目に見ろだと?ふざけるのもたいがいにしろ!」
「何だと!なんじは、以前は我ら父子に奴僕の如く仕えていたではないか!奴僕が主に背くとは何事だ!この様な事をすれば、いつか己の身にかえって来るものだぞ!分かっているのか!」
王萌は力の限りを振り絞ってそう叫んだ。しかし、それはかえって陽球の気に障った。というか、彼の中の何かが切れた。

118 名前:左平(仮名) :2004/04/25(日) 21:12
五十九、

陽球の顔から嘲笑の色が消えた。その顔は一見穏やかそうに見えるが、それこそ、酷吏・陽球の本性がむき出しになる瞬間であった。
(あ−あ、やっちまったよ…)
捕えられた時点で、この父子の運命は既に決まっていた。しかし、わざわざ余計に苦しむ事もなかろうに。属吏達は、半ば呆れていた。
「うるさいやつだ。口を塞いでしまえ」
「はっ。しかし、口を塞いでは疑獄の件の自白が得られませんが…」
「構わん、やれ。舌を噛み切ったりしてさっさと楽になられてはつまらんからな」
「では…」
「待て。こやつらの穢れた口をふさぐのに、清浄な布など使ってはもったいない。そこらの泥で十分だ」
「はっ?あっ、はぁ…」
「んじゃ!これでも喰らいなっ!」
「んぐっ!」
王萌の口に、足元の泥がねじ込まれた。吐き出そうとしても、屈強な男達の手で手足を押さえ込まれ、口も完全に塞がれているのでどうにもならない。口中に広がる悪味と息苦しさとで、ばたばたともがいた。王甫と王吉は、ただ呆然とするばかりだった。すっかり気力が萎えていたのである。
その様をみた陽球の口元がかすかに動いた。それは、彼の心からの笑みであった。
「あとの二人にもだ」
「はっ!」
「じっくりと痛めつけてやれ。なに、時間はいくらでもある。既に勅許も得ておるのだからな。おっと、顔だけは傷つけるなよ。せっかく市に晒しても、こやつらだと分からなくては台無しだからな」
「…」
(なに故、この様な事に…。我らが党人を弾圧したのでさえ、もっとましだったというのに…)
王甫父子の顔に、恐怖と絶望の色が浮かんだ。勅許が出た以上、皇帝にすがる事もできない。もはやこれまでである。
「思い知るが良い。これが、なんじらに対する民の怒りだという事をな」

それから、どれくらいの時間が経ったろうか。ただの一瞬も止む事なく、王甫父子に向かって杖や鞭が振り下ろされ続けた。もちろん、手加減などあろうはずもない。陽球の本心は、疑獄の解明などではなく、王甫父子の抹殺に他ならないのだから。
単に殺すだけであれば、頭部を強打するだけでも良い。しかし、それでは足りぬ。
(ただ殺しただけでは飽き足りぬ。なぶり殺しにせねば気が済まぬわ。そうでないと、党錮で死んでいった者達の霊も浮かばれぬからな)
陽球は、そう思う事で、自身の内にある嗜虐性に基づくこの行為を正当化しようとした。
まずは、手足の指先から打たせた。しばらく打つと皮が破れ、肉がむき出しになり、骨が砕けた。骨が完全に砕けたのを確認すると、続いて腕と脛を打たせた。さらに、腿と二の腕。そうして、徐々に体幹部に近づいていく。
泥で口を塞がれながらもなお漏れる呻き声は、辺りに血と汗と糞便の臭いが増していくのと反比例する様に、段々と小さくなっていった。
「そうだ、もっと打て。東海には、何でもくらげとかいう骨のない生き物がいるらしいが、その様になるまで打ち続けるのだ」
属吏達を督励する陽球の姿には、明らかに狂気が宿っていた。そこには、普通の人なら一時もその場にいられないであろう、異様な雰囲気が漂っていた。

119 名前:左平(仮名) :2004/04/25(日) 21:14
腹部に至ろうかというところで、ついに王甫の首がぐったりと倒れた。属吏がいったん打つのをやめ、心拍と呼吸の有無を確認する。
「心臓は止まっております。息もありません。死にました」
「そうか、存外早かったな。まだ手足の形がこれだけ残っておるというのに」
「まぁ、年寄りですからね。むしろ、ここまでよくもったものです」
「そうだな。あとの二人もさっさと片付けろ!」
「はっ!」
それからほどなく、王萌・王吉の二人も死んだ。死んだのを確認した後もなお打ち続けて筋骨をずたずたにした為、三人の遺骸は、顔を除くと手足の所在も不明瞭なただの肉塊と成り果てていた。
「ふふ。汚らしいくらげが三つ出来上がったか。次は、段紀明の番だな」
陽球は、微かに震えていた。それは、一つの宿願を果たしたという、至上の歓喜によるものであった。この様な歓喜の様は、家族にも見せた事がない。


その頃、段ケイ【ヒ+火+頁】は一人獄中に座っていた。その姿勢には全く乱れはないが、心中には、いささかの淀みがあった。
(あやつ、王中常侍をどうしているのであろうか…)
王甫と陽球。両者が政治的に対立しているのは知っている。今回、陽球は王甫の隙を突いて逮捕に踏み切った。このまま、彼を葬り去るであろう事は想像に難くないところである。となれば、自分もその巻き添えを食らうという事か。相手の態度如何によっては、こちらも覚悟を決めねばならぬところである。死ぬ事には何の恐怖もない。しかし、自らの尊厳を傷つけられるのはまっぴらである。
そう思っていると、足音がしてきた。

「紀明殿。獄中におられる御気分はいかがかな?」
「なに。何という事はない。あまりに静かなので、思わず眠気を催したくらいだ」
「ほう。それはまた落ち着いておられますな。…そうそう、先ほど、宮中から知らせがありましたよ。先の日食の責を問い、太尉を罷免の上、廷尉に任ずる、とね」
「さようか」
(すると、陛下はこの件をまだ存じておられないのか。今のところは、わしは必ずしも罪人ではないという事か…)
少しほっとした。しかし、陽球のこと。これで済むわけもない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、次の言葉を待った。
「しかし、廷尉の位もいつまででしょうな。…王甫は尋問中に死にましたよ。これで、あやつの有罪は確定です。となれば…王甫との関係が深かった者どもがどうなるかは…もうお分かりでしょう」
(そうくるか。この際、わしも葬り去ろう、と。そういう事か)
こうなれば、彼に残された選択肢は一つしかなかった。辛うじて自らの名誉が残されているうちに…。
(ただ、こやつの事。何としてでもわしの名誉を奪い取り、その上で殺そうとするであろう。少しでもそれを回避するには…)
段ケイ【ヒ+火+頁】は、懐中のある物に、そっと手をやった。

120 名前:左平(仮名) :2004/05/03(月) 23:31
六十、

「紀明殿。いかがなされた?」
「これから尋問であろう。さぞ長くなるだろうから、一つ家の者に連絡しておかんと、と思ってな」
「そうですか」
(何をたくらんでおる?自らの助命でも嘆願するつもりか?無駄な事を。まぁ、かつての勇将が無様に命乞いをする様というのも、それはそれで見物ではあるがな)
「まぁ、よろしいでしょう。ただし、書面はあらためさせてもらいますよ。ここは『牢獄』ですからね」
憎き王甫の打倒を成し遂げた充足感の故か、陽球の機嫌は良く、存外すんなりとその申し出は認められた。
「承知しておる。簡と筆を用意してはもらえぬか」
「分かりました。おい、用意しろ」
「はっ!」
(墨をするとなれば、当然水が必要になる。水さえあれば…)

直ちに簡と筆、それに水を入れた筒が用意された。段ケイ【ヒ+火+頁】は、無言のまま硯に水を入れ、墨をすり始めた。
すり終わると、筆に墨を含ませ、簡に思いのたけを書き付けていく。これが、遺言となるであろう。自らの事をあけすけに語るのは性に合わないが、もう、自らの意思を示す機会はないのである。
いくつかの著作を残している皇甫規・張奐に対し、生粋の武人である彼にはこれといった著作はない。もちろん、この当時の高官の一人としての十分な教養はあるのだが、慣れないだけに言葉を選びながら書いていくのにはいささか時間がかかった。もっともそれは、この時の彼にとって好都合であったのだが。
並みの人間であれば、気が動転してわけが分からなくなってもおかしくないが、彼の心は、不思議なほど透き通っていた。
(わしは、朝廷に対して何らやましい事を為した覚えはない。そのわしがこの様な事になろうとはな…)
(かの蒙恬ではないが、わしに何の罪があったのだろうか?…ふふ、その答えも似ておるかな。わしは、多くの戦いの中で、数え切れんほどの羌族を殺してきた。いかにやむを得ぬ事とはいえ、な。それを思えば、か…)
心が澄んでいくとともに、筆も進む。ふと気がつくと、そろそろ書き終わろうかというところであった。
(よし、それでは…)
段ケイ【ヒ+火+頁】は、陽球達に気付かれぬ様、懐中からそっと紙包みを取り出した。それは、附子(ぶし)であった。

附子というのは、トリカブトの塊根(子根)を乾燥させてつくられた劇薬である。うまく使えば強心・鎮痛・利尿などに優れた薬効をもたらすが、一方で、ごく少量でも人を死に至らしめるという、いささか扱いにくい代物である。
(蛇足ながら、この附子を毒として盛られた人のもがき苦しむ様の凄まじさから醜女を示す『ブス』という言葉が生まれたという)
段ケイ【ヒ+火+頁】が附子を持っていたのは、もちろん、毒として使う為である。
長く辺境で戦ってきた彼がもっとも恐れたのは、敵の虜となり生き恥を晒す事であった。李陵を見るがよい。その祖父・『飛将軍』李広に劣らぬ将器であっても、そうなったが最後、武人としての名声は失墜してしまうのである。それだけは何としても避けたい。
もし、力戦及ばず敗れる様な事があれば、虜になる前に潔く自裁しよう。そう決めていたのである。
幸いにして、戦場において用いる事はなかったが、武人の心構えとして、今まで肌身離さず持ち歩いていた。
(辺境でなく、この都で使う事になろうとはな…)
そう思うと、何とも不思議な感じがする。思わず、微笑した。もう、二度と微笑む事はなかろう。そう思うと、少しばかり感傷的な気分にもなったが、武人らしくないと思い返し、すぐに冷静さを取り戻した。
「まだですかな」
「もうじき…書き終わる」
そう答えるのとほぼ同時に、彼は附子を口に含んだ。続いて筒を手にとると、附子と水とを一気に飲み下した。口からこぼしても良い様、かなりの量を携えているから、まかり間違っても死に損なう事はない筈だ。

121 名前:左平(仮名) :2004/05/03(月) 23:34
トリカブトの毒は、調合の仕方によって様々な姿を示すといわれている。この時段ケイ【ヒ+火+頁】が求めたのは、言うまでもなく即効性であった。致死量の数倍の附子を飲み下したので、即座にその効果が現れ始める。
「ぐぐぐぐぐ…」
「ん?何だ…?」
陽球達が、牢獄から漏れる呻き声に気付いて振り返ると、段ケイ【ヒ+火+頁】は立ち上がり、凄まじい形相でこちらを睨みつけていた。
「なっ、何だ?」
(まさか、気が狂ったか?…いや、あの足元の粉末は…!!)
「紀明殿!附子を飲まれたのか!」
「そうだ…そなた、王中常侍もろとも、わしを殺すつもりであったろう…違うか?」
「だ、だからといって自ら附子を飲むとは…何を考えておられる…」
「そなたからすれば、わしは憎い敵であろう…それ故、わしを殺そうとするのは分かる…だが…そなたの思い通りにはさせんぞ…」
「…」
「わしは潔白だ…それ故、自らの最期は自ら決めさせてもらった…それぐらい良かろう…」
「見ておくが良い…この段紀明の最期を、な…。その目にしかと刻み込むが良い…」
(何を言っておる!この様な形で死なせてたまるものか!わしの気が済まぬわ!)
「おい!直ちに飲み下した附子を吐かせろ!」
「もう遅い…附子というのは、すみやかに効くからな…」
附子が効いてくると、(神経を冒す為に)普通は飲み込めないほどの唾液が出るとともに、立っている事もできなくなるという。しかし、段ケイ【ヒ+火+頁】は、壁にもたれかかりながらも辛うじて立ち続け、陽球達をじっと睨み続けた。
その気迫に押され、属官達は−陽球自身もだが−しばしの間、冷や汗を出すばかりで動く事ができなかった。
やがて−段ケイ【ヒ+火+頁】の瞳から、光が消えた。
「死んだか」
「恐らく…」
彼らの腰が引けていたのも無理もない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、目を見開き、立ったまま死んでいたのである。

「立往生」という言葉はご存知であろう。この言葉自体は、源義経の配下・武蔵坊弁慶の最期の様から生まれたもので、いささか伝説めいてはいるが、生理現象としては有り得ない話ではない。
激しい筋肉疲労、精神的衝撃などを受けて死に至った場合、死の直後にほぼ全身の筋肉が硬直する事があるという。この時の段ケイ【ヒ+火+頁】の死に様も、まさにそれであった。

「な、何をぼんやりしておるか!とっとと屍をあらためぬかっ!」
「はっ!」
「た、確かに、死んでおります…」
死体は見慣れているはずの属官達が、まだ怯えていた。それほどまでに、その形相は凄まじかったのである。
「そうか…ならばさっさとその旨上奏せねばならぬな」
「どう書けばよろしいのでしょうか」
「獄中にて詰問していたところ、罪を認め鴆毒をあおって死んだ。そう書いておけ」
「えっ?しかしそれでは…」
「いいからそう書け!」
「はっ、はい!」
(まったく…わしとて、士大夫に対する礼儀くらいわきまえておるというに…)
思わぬ抵抗を受けた陽球は、その後しばらく不機嫌であった。

122 名前: 左平(仮名) :2004/05/24(月) 00:01
六十一、

一方、その頃−

(殿!しばしお待ち下され!必ず、必ず…)
家人達は、かつて主の段ケイ【ヒ+火+頁】が推挙した者達のところに、次々と走り込んでいった。言うまでもなく、主を救うべく支援を求める為である。
「お助けください!我が主の段公が、司隷殿の属官に連れて行かれました!どうか!どうかご助力を!」
もうあたりは暗くなりつつあったが、そんな事には構っていられない。彼らは、必死に門前で訴え続けた。

しかし、反応は芳しくなかった。運良く話を聞いてもらえても、殆どの者は、ただ絶句するばかりで動こうとはしなかった。いや、それくらいならまだよい。中には、すげなく家人をつまみ出す者さえあった。
無理もない。対羌戦の英雄が、一転して罪人にされたというのである。下手に庇い立てでもしたら、かえって自分の身が危うくなる。誰もが、我が身がかわいいという事であろうか。
「出て行けっ!わしを巻き添えにするつもりかっ!」
「何と恩知らずなっ!それでもあなたは士大夫ですか!」
「何とでも言え!なんじら如き下人が何をいっても誰も聞かぬわ!」
(これが儒の教えを修めた者の態度か…!)
彼らの忘恩の態度が腹立たしかった。しかし、主を救うには、誰かの助力を仰ぐしかない。
(そうだ…董氏ならば、あるいは…)
こんなところでぐずぐずしていてもしょうがない。ここは、噂に聞く董氏(董卓)の義侠心に頼るほかない。

当時、董卓は西域戊己校尉の任にあった。文字通り、西域に睨みをきかせる要職であるから、政治的影響力という点においても十分な立場であると言えよう。ただ、董卓自身は任地に赴いているから、都から直接そこへ向かうわけにはいかない。事は一刻を争うのである。
幸い、その弟の董旻が都に居を構えている。家人は、その邸宅に向かう事にした。
(叔穎【董旻】殿の事はよく知らんが…あの董氏の弟君だから、まさか段公を見捨てる様な事はあるまい)
果たして、その期待は、裏切られなかった。

「何!段公が!」
それは、董旻にとっても大きな衝撃であり、しばしその場で体を硬直させた。しかし、その衝撃に対して思考停止の状態に陥ったりはしなかった。それだけでも、他の者達の態度とは大きく違っていた。
「して、その時の状況は?そなたが知っている限りの事を聞かせてくれ」
(さすがは董氏だ)
家人は、少し安堵した。これなら、何らかの手を打ってくれるに違いない。
「はい。司隷殿(陽球)は、主と王中常侍との関係のゆえを以って、主を連れて行きました。どういう事なのかは、私にはよく分かりませんが…。ですが、司隷殿と王中常侍とはどうも対立していた様ですので、主が危ういというのは確かです。我らは主を救うべくあちこちにご助力を求めておりますが、未だに芳しい返事を頂いておりません。司隷殿の人となりは苛酷と伺っておりますれば、ご高齢の主の体が心配でなりません」
「そうか。分かった、しばらく休んでおれ。直ちに兄上に使いを出すとともに、わしからも宮廷に問い合わせてみよう」
彼自身は、兄の董卓ほどの卓越した能力は持っていないものの、都において、兄の耳目となるべく確かな働きを見せている。この時も、彼なりに出来うる限りの措置をとろうとした。

123 名前:左平(仮名) :2004/05/24(月) 00:03
「誰かおらぬか!直ちに参内するぞ!」
「はっ!」
大急ぎで車が用意され、董旻は、とるものもとりあえず乗り込んだ。翌日になるのを待ってなどおれない。日没前に宮中に入らなければならないのである。
(この様な状況において、何を為せばよいか…)
宮中に向かう車中にあって、董旻はしばし目を閉じ、考え込んだ。この様な重大事において、兄の意思を待たずに判断を下すのは、ほとんど初めてなのである。
彼自身、段公が捕えられたという知らせに動転している。このまま参内したのではうまくものが言えないであろう。何としても、それまでに心を落ち着かせなければならないのである。
(兄上ならば…どうなさるであろうか…)
兄・董卓の顔が頭に浮かんだ。その立場に立って考えてみると、どうであろうか。
(そなた、何をぐずぐず考えておる。そなたはわしの弟であろう。わしの性分が分からぬのか?考えるまでもないではないか)
そう言っている様な気がした。そうだ、答えは一つしかない。
兄ならば、自分のあらん限りの力を振り絞って段公を救解しようとするであろう。たとえ、その為に身の破滅を招くとしても悔いる事はないはずだ。
(段公なくして、今の我らはなかった。その大恩を思えば…。そうですね、兄上)
心の中でそういう結論が出ると、幾分肚が据わってきた。あとは、全力を尽くして救解に努めるまでである。

宮中に着いた。普段であれば、どこかしら気圧されるところであるが、今日は違う。そんな状況ではない。
「至急、お取り次ぎ願いたい」
そう言う声ひとつとってみても、その違いが分かる。ややせわしない感じはするものの、普段の、おどおどとした感じは微塵もない。
「叔穎殿、いかがなされた。またえらく急いでおられる様だが」
「話は後だ。とにかく、急いでくだされ!」
「はっ?はぁ…まぁ、分かりました…。しばし、お待ちを…」
(段公、しばしのご辛抱を。涼州の者は皆、あなたの味方ですぞ)
この時、既に段ケイ【ヒ+火+頁】が壮絶な最期を遂げていた事を、董旻は知る由もなかった。


一方、董旻が兄に向けて送った使者もまた、精一杯に急いでいた。
董氏に仕える者であれば、いや、涼州に生まれ育った者であれば、たとえ敵対する者であろうとも、段公に対し篤い敬意を持っている。その人の危機を、黙って見過ごす事はできない。使者には、強い使命感があった。
「急げ、急げ!なにをもたもたしておるか!急ぐのだ!」
御するは家中随一の乗り手、馬もまた家中随一の駿馬である。しかし、それでもなお遅く感じられてならなかった。この様な状況におかれてなお斉の景公を哂う者は、まずおるまい。
(ああ、あの鳥の様に翼があれば…いやいや、そんな事を考えている場合ではない!)
気ばかりが先走るのを辛うじてこらえながら、使者はまっすぐに董卓のもとに向かっていった。

124 名前:左平(仮名) :2004/06/13(日) 23:53
六十二、

使者が董卓の在所に着いたのは、出立してからだいぶ経ってからの事であった。いかに急いでも、ここまではやはり遠い。もっとも、公式の第一報が届いたのはそれよりもさらに後だったのだが。
「大事であるっ!至急、殿にお取次ぎ願いたいっ!」
使者の、そして馬の息遣いは荒かった。顔は蒼ざめ、今にも倒れかねないほどである。ただ事ではないのは、事情を知らない者にも一目で分かった。
「しばし待っておれ。すぐに殿に取り次ぐ」
「頼む」
この時、董卓は執務中であったが、使者は直ちに目通りを許された。

「!」
豪気な董卓も、この知らせには一瞬絶句した。無理もない。都にいる董旻は、事件の背景を知っているだけにいくらか心の準備があったのに対し、董卓には全くなかったのだから。
「…直ちに叔穎殿が宮中に赴き、救解に努めておられますが…状況は予断を許しません。なにしろ、司隷殿と王中常侍の対立にまともに巻き込まれた形ですから…。宮廷内の暗闘というものは、我らにははかりかねる代物ですし…」
「そうか」
(旻の動きは、我が想いの通りである。しかし、今のあいつ一人では厳しいな…)
董卓はそう思った。弟の力量を評価していないのではない。ただ、今の董旻はこれといった顕職に就いているわけではない。宮中に対する影響力が殆どないだけに、どんなに懸命に救解に努めても、その効果はあまりないとみなければなるまい。
「わしからも、中央に嘆願の書状を奉る。直ちに書状をしたためるから、そなた、しばし待っておれ」
「はっ!」

出仕以来、一貫して自らを武人と規定してきた董卓にとっては、書状、それも非定型のものは甚だ書き慣れない代物であった。他の用件であれば側近の誰かに全て任せるところであるのだが、こればかりはそうもいかないだろう。
ただ、いい加減な文面では逆効果でさえある。用心するに越した事はない。
「誰か典故に通じた者はおらんか!」
董卓の一声で、直ちに学のあるとおぼしき属官達が呼び集められた。
「いかがなされましたか?」
皆、訝しげな表情をしていた。普段の董卓は至って鷹揚で、細かい仕事は任せきりにしているから、大勢の属官達が呼ばれる事など滅多にないというのに、一体どうしたのであろうか?そういう気持ちがありありとうかがえる。
「今から中央に書状を奉る。内容は、罪状も定かならぬままに捕えられた段公を救解する為の嘆願である。公がいかに漢朝に尽くしてこられたか、そして、その方を失う事がどれほどの損失であるか、条理を尽くして書かねばならぬ」
「はぁ…」
急な事とはいえ、何とも頼りない返答である。皆、ひとかどの教養を持った者達ではあるが、皇帝や高官達の心を動かすほどの文章力があるかとなると、この様子をみる限り、いささか心許なく思える。
「文和がおればあいつ一人で足るのだがな…」
董卓らしくないが、思わずそんなぼやきさえ漏れる。前述のとおり、現在、賈ク【言+羽】は牛輔のもとにいて、その配下である。呼び寄せようかとも思うが、事が事だけに、そういう時間の余裕もない。
「公の功績はわしが今から述べるから、そなた達はそれをもとに書け!わしがそれをまとめる!」
「…?」
「聞こえんのか!さっさと簡と筆、それに墨を用意せんか!」
「はっ、はい!」
董卓の一喝を受け、属官達はばたばたと動いた。

125 名前:左平(仮名) :2004/06/13(日) 23:55
「では話すぞ。よいな、一語一句、書き漏らしてはならぬぞ」
「…はい」
皆、神妙な面持ちである。董卓が「〜してはならぬ」と言った場合、それを守れなかったら後が怖いし、何より、あの董卓自身の神妙さをみると、とてもだらけてなどはおれない。
時は初夏。少し暑いくらいであるが、みな、汗も出ないくらいに緊張していた。

「段公は…鄭の共叔・段(春秋初期の覇者・鄭の荘公の同母弟)を遠祖とし、西域都護・(会)宗の従曾孫であらせられます…」
董卓は、まず段ケイ【ヒ+火+頁】の祖先(とされる人物)の名を挙げた。共叔・段自身は、兄の荘公に叛逆して敗れたというから、歴史上においては、さして傑出した存在というわけではない。しかし、鄭国の初代にあたる桓公・友(荘公、共叔・段の祖父)は周王の子であり、周王室と同じ姫姓という事になるから、それだけでも、どこぞの馬の骨とは違うという証になろう。
この時代にあっては、そういう出自がものをいうのである。強調するに越したことはない。
「段公は…若くして弓馬の道に通じられ、長じては古学を好まれました…」
続いて、その人となりと経歴を語った。実は、若い頃の段ケイ【ヒ+火+頁】は遊侠(任侠の徒)であり、放埓に振る舞っていたが、年を経て学問に目覚め、孝廉に挙げられたという。
その人生はなかなか波乱に富んでおり、最初からおとなしく六経を暗誦していた者とは気構えが違う。
若い頃遊侠であったという履歴は董卓にも重なるものであり、彼は、その経歴を誇りに感じてさえいた。
「段公は…辺境を荒らす鮮卑、羌族をしばしば討ち、伏波将軍(馬援。「矍鑠」という言葉はこの人の故事からきた)もかくやという戦果を挙げられました。…敵は容赦なく殲滅する一方で、兵をいつくしみ、辺境にある間、蓐に入る事もなさらず、ただひたすら漢朝の為に戦ってこられました。…京師(洛陽)に帰還なされた後は、高位を歴任し……」
そう語る中、董卓は胸が詰まる様な思いがした。

段ケイ【ヒ+火+頁】の歩んできた道は、まさに、武人としてのあるべき姿そのもの。自らが理想とするものであった。その人が、今、ゆえなくして投獄されている。
何としても、その人の危難を救いたい。その思いには、一点の偽りもなかった。
董卓の弁舌は、お世辞にも巧みなものではないが、その訥々たる言葉の数々は、その場にいた人々の胸を打つに値するものであった。もし彼が洛陽にあって救解に努める事が出来たならあるいは、とも思われたほどである。

126 名前:左平(仮名) :2004/07/12(月) 00:14
六十三、

董卓の話はかなり長いものとなったが、属官達は、その言葉を漏らさず書き留めた。続いては、その編集である。

「ここの言い方はこれでよいのか?上奏文として問題はないか?」
彼にしては、珍しく文面にこだわりを見せる。普段なら「まぁ、こんなものでよかろう」の一言で終わるところなのに。
(この様な殿のお姿は初めてだ。段公とは、それほどのお方か)
初めはわけも分からずにいた属官達も、徐々に真剣になっていった。
現在では『三人寄れば文殊の知恵』という言葉があるが、仏教がさほど普及しておらず、そういう言い方はなかった当時にあっても、多くの人々が知恵を持ち寄る事の大切さには変わりない。頼りになる賈ク【言+羽】は今ここにはいないが、皆の力を合わせれば何とかなりそうだ。董卓は、そう思い直した。
「修辞上は、他にも言い方があるでしょう。しかし、今回はあまり飾らない方がよろしいかと」
「いや、ここは別の字句を充てた方がよろしいでしょう。飾り過ぎない方がよいというのは同意ですが、やはり荘重さは必要です」
普段は手応えのない連中が、別人の様に雄弁になる。人とは、状況によっていかようにも変わり得るものだ。
「ふむ。他に意見は?」
「殿、ここは意見を求めておられる場合ではございません。殿のお言葉そのままに奏上されるのがよろしいかと…」
「しかし!あまりに生々しい言葉を奉るのはまずいですぞ!これを読まれるのは陛下お一人ではございません。他の高官の心をも動かすには…」
「そもそも殿は羽林郎として出仕なさったお方ですぞ。そのお方が普通の文官達と同じ様に奏上されてもおかしくはないか?」
「うぅむ…それはそうなのだが…」
「他には?皆の意見は?」
「僭越ながら…殿のお言葉は、充分に我々の胸を打つものでした。確かに、修辞上は若干改善すべき点もございましょうが…今は、時間がございません。細かいところは、叔穎殿に任せられてはいかがかと存じます」
「そうだな…。では、直ちにわしの言葉を書状としてまとめるのだ!急げよ!」
「はっ!」

「これを叔穎殿に。大切な上奏文だからな。くれぐれも用心しろよ」
待機していた使者に、上奏文を綴った絹布が託された。実際にはごく軽いものなのだが、やけに重く感じられる。
「承知しておる。ことは一刻を争うのだからな」
「そうだ。…頼むぞ。これには、殿ばかりでなく我らの想いも込められているのだからな」
「それも承知しておる。では、行ってくるぞ」
そう言うと、使者は馬上の人となり、脱兎の如く駆け出していった。

127 名前:左平(仮名) :2004/07/12(月) 00:16
少し気分が落ち着いたせいか、行きに比べると馬の脚が速く感じられた。ふと気がつくと、董旻邸が見える。もう少しだ。
しかし、出立した時と、何か雰囲気が違う。邸の周辺にどこか淀んだ気が纏わりついている様だ。いったい、どういう事だろうか。
(まさか…)
嫌な予感がするが、そう感じるとますます物事が悪い方向に進む様な気がする。彼は、つとめて明るく振る舞おうとした。
「殿の上奏文を持って、ただいま戻りました!門を開けてくだされ!」
くたくたに疲れきってはいたが、あらん限りの力を振り絞って声を発した。
「おぉ…よく戻られたな…」
出迎える者の声がかすれていた。さすがに頬がこけるとまではいかないが、明らかにやつれているのが分かる。邸内にいた者が、ろくに休息もとらずに長々と駆けてきた使者よりも憔悴しているとは…。
「ほれ、殿の上奏文だ!これを早く叔穎殿に渡してくれ!」
「その事だが…」
「どうした!これで段公は助かるかも知れんのだぞ!嬉しくないのか!」
「だ、段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…亡くなられていたのだ…詳しい事は分からんが、自ら毒をあおられたという…」
「!…」

その言葉を聞いた瞬間、使者の膝はがっくりと折れ、その場にへたり込んだ。体中から力が抜けていく様な気がした。自分達の行動は、全て徒労に帰したのか。その絶望感は、何とも形容し難いものであった。
「そうか…道理で、辺りに変な気が纏わりついている様に感じたわけだ…」
「邸内の者は、皆一様に嘆いていて何も手につかぬ有様だ。段公のご家族は、既に都からの退去を命じられ、辺境に流されるとの事だ。殿もこのままでは済みそうにない。よくても官位を召し上げられるだろう…」
「段公のご家族のみならず、殿にまで累が及ぶというのか?」
「そうだ…」
「そんな!殿にいったい何の過ちがあったというのだ!」
「過ちなど、あろうはずもなかろう」
「ではどうして?」
「知れたこと。司隷殿にとって、段公に恩義を受け、しかも兵権を持っている殿が健在でいられると何かと都合が悪いからな…」
「何ということだ!これ幸いと羌族や鮮卑が蠢き出したらいったいどうするつもりなのだ!今の漢朝に、段公や殿にまさる将器はおられないというのに!」

この嘆きは、決して大袈裟なものではない。この数年後に起こった大乱に際して(董卓と同じ涼州の人である)皇甫嵩という名将が出たから、今の我々は、この当時の漢朝に将器がいなかったわけではない事を理解している。しかし、この時点において少なからぬ実戦経験を有しているのは、董卓など、主に辺境にいたごく僅かな将しかいないのである。その彼を失脚させる事の重大さは、健全な危機意識を持つ者には、火を見るよりも明らかな事であった。

「それよりも、自身の地位を保つ事が大事なのであろうよ。あの連中にはな」
そんな憤った感情が、彼らの言葉の端々に現れる。普段ならこんな吐き捨てる様な物言いはしないのだが、そうでもしないと気が治まらない。
「…」
(我ら平民でも分かる事が、高位高官にある方々には分からぬのか…!)
彼らの絶望は、時が経つにつれ、ますます深まっていった。
「とにかく、これからどうするかはまた殿のご指示を仰ぐしかない。中に入ってしばし休もう」
「あぁ…。だが、眠れるかな…」
「いやでも眠っておけ。そなたには、また走ってもらわんといかんからな」
「そうだな…」
二人は、とぼとぼと邸内に入っていった。

128 名前:左平(仮名) :2004/09/05(日) 23:28
六十四、

翌朝−。

「どうだ、眠れたか」
そう聞く者自身、まだ夢うつつの中にいる感がある。あれ以来、邸内の者は皆よく眠れていないのである。
「いや、眠ろうと眼を閉じてはいたのだが…眠りが浅かったな。どうも頭がふらふらする様な感じがする」
「そうか…。じゃ、出立は明日にするか。寝ぼけたままで馬を走らせるのもまずいしな…」
「そうしたいところだが…そうもいくまい。悪い知らせだが…いや、悪い知らせだからこそ、早く伝えねばならないし…」
「そうか…そうだな…。今後の事もあるしな…」
「ところで、王中常侍達の亡骸は晒されていると聞いたが…」
「ああ。なんでも、夏城門のところに磔にされているそうだ」
「それじゃ棄市(斬首後、屍を市に晒す)と変わらんではないか。段公の亡骸は、まさかそんなところにはないだろうな」
「それはなかろう。段公は士大夫だしな。しかし…あの司隷殿だからな。心配なところではあるなぁ…」
「念の為だ。見届けておこう。その後、出立する」
「そうするか」

『賊臣王甫』
磔にされた屍の横に札が掲げられ、大きくそう書かれていた。民衆達がその屍に群がり、叩いたり蹴ったり肉を切り刻んだりする様は、いかに相手が大罪を犯した咎で誅殺された者とはいえ、何とも凄惨なものである。
ここで王甫達に同情的な言葉を吐けば、自分達も直ちにあの様にされるのではなかろうか。そう思わせるほど、王甫達は忌み嫌われていたのである。
しかし、董卓の家人である彼らにとっては、あの段公と付き合いがあったという事があるだけに、そこまで非難する事はできない。
「こ、この屍は…」
「どうだい、驚いたか?」
「そりゃまぁ…。第一、顔以外もう人間の姿じゃないし…。晒されてからまだ何日も経ってないのに、もうこんなになったってんですか?凄いな…」
「まぁな。って言うか…晒された時点でもう顔しか分からない様になってたがね」
「そんなになってたってんですか?」
(司隷殿の事だからただ殺すだけでは済まないとは思ってたが…そこまでするのか)
王甫達への同情はないが、そこまでに至る経過を考えると、思わず背筋に寒気が走った。董卓配下の一人としては、戦場では一歩も引かないという自信があるが、これはまた別ものである。
「ああ。司隷様も、また派手になさったもんよ。おかげで、こっちの楽しみが減っちまったがね」
「…。と、ところで晒されてるのはどういった連中なんです?王甫の他には?」
「ええっとな…。確か、王甫とその養子どもだ。他には…どうだったかな?まぁ、いい意味で名の知られてるやつはいなかったはずだよ」
「そうですか…」
(良かった。段公の亡骸は、どうやらご無事の様だ)
それだけが、彼らにとってのかすかな救いであった。

129 名前:左平(仮名) :2004/09/05(日) 23:30
「では…行ってくるな」
「ああ。あと、これを殿に」
「何だ、これは?」
「先ほど、段公の家人から受け取ったんだ。なんでも、公が毒をあおられる前に書かれたものの一部との事だ」
「そうか…これが、段公の絶筆という事か…」
考えれば考えるほど、気が重いつとめである。だが、行かねばならない。
「…」
乗っている人の心理が分かるのであろうか。馬もまた、驚くほど静かに走った。もっとも、息が切れるほどに走った場合に比べても、思ったほど速さは変わらなかったのだが。


「殿に…お取次ぎを…頼む…」
「ど、どうしたのだ?まるで消え入りそうな声ではないか。具合でも悪いのか?」
「これを…殿にお見せいただければ分かる…」

「なに?使いの者が戻ってきたとな?」
「はい。ただ…やけに憔悴しておる様です。あれはどうも、疲れのせいというわけではなさそうです」
「ふむ…。気になるな」
「こちらを…」
「うむ…な!何と!」
「殿!いかがなさいましたか!」
「これは…段公の遺言ではないか!どういう事だ、これは!」
「はい。段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…ですから、私めがここに着き殿にご報告するよりも前に…亡くなられていたのだそうです…。何でも、自ら毒をあおられたそうで…」
「では我らの努力は烏有に帰したという事ですか…。それでそこには何と書かれているのですか」
「う、うむ…。自裁に至る経緯、ご自身の潔白の主張、身辺の整理のご依頼、それに…」
「それに?」
「かつて推挙なさったこのわしに対し…武人としての訓戒を…遺しておられる…」
董卓の脳裏に、前線で颯爽と指揮を振るう段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が浮かび、そして消えた。その姿が消え去った瞬間、自分の中からも何かが消えていく様な、そんな気がした。

130 名前:左平(仮名) :2004/10/11(月) 01:16
六十五、

その数日後。都から公式の使者がやって来た。
それは、王甫達の失脚、それに巻き込まれる形での段ケイ【ヒ+火+頁】の自死、そして…董卓自身が、段ケイ【ヒ+火+頁】に連座し、西域戊己校尉から罷免される旨を告げるものであった。もちろんと言うべきか、次の官位についての言及はなかった。
自身の罷免自体には、さしたる驚きはなかった。そもそも、公式の使者が着く以前にこの情報を入手していたのだから、一応の覚悟はできている。だが、分かってはいても、董卓の心身への衝撃は大きいものがあった。
あの日以来、どうも体の調子が思わしくない。今までこれといった病になった事のない彼にとっては、あらゆる意味で、どこか重苦しい日々が続いていたのである。

「皆の者。本日をもって、わしはこの地位を去る事になった。後任の方がどなたであるか、その方の方針がいかなるものであるかは、おって沙汰があるからそれを待つ様に。それまで、滞りなく各々の職分を全うするのだ。よいな」
離任する董卓の声には全く張りがなく、その失意のほどがありありとうかがえた。
無理もない。これは、連座による失脚なのである。自身の過ちによるものであればいずれ挽回する機会もあろうが、そういう性質のものではないだけに、彼自身の力では如何ともしがたく、それだけに精神的にこたえるのである。
段ケイ【ヒ+火+頁】を自死に追いやった陽球が高位にある限り、官界への復帰の目処はまずなかろう。いや、陽球が致仕(官職を辞する≒引退)したとしても、その影響力が残っている限りは…。
蓄えは十分にあるし、所有している土地や家畜からの収益があるので、とりあえずの生活には困らないとはいえ、官界に身を置く者としては、これほど惨めな事はない。下手をすると、生涯、その手腕を振るう機会を奪われてしまうのであるから、無理もないところではある。

「はっ!我ら、謹んで自らの職務を全ういたします!」
そう答える属官達の声にも、董卓と同様、冴えがなかった。それもそのはず。彼らにとっても、これは決して望ましい事態ではないのである。いかに連座によるものとはいえ、上司が何らかの咎を受ける形で罷免されたとなると、彼らの将来にも良からぬ影響をもたらすに違いないのだから。
その思惑に多少の違いがあるにせよ、彼らの前途は決して明るいものではない。別れの席は、普段の彼らにはそぐわない、至って湿っぽいものとなった。


かくして、董卓は十数年ぶりに無官の身となった。

このあたりの人士で、彼ほど「謹慎」という言葉が似合わない者はいないであろう。それは、自他共に認めるところである。ましてや、この件について言えば董卓自身には全く非はないのであるから、何らかの形で一暴れしそうなところである。
しかし、自邸から一歩も出ない日々が続いた。いったい、どういう事だろうか。
「分からんな」
周囲の人々は、皆、一様に首を捻った。それもそのはず、本人でさえ、その理由は分からなかったのである。

131 名前: 左平(仮名) :2004/10/11(月) 01:16
「ねぇ、あなた。いったいいかがなさったのですか?ここのところ随分ごぶさたですし、室からもあまりお出にならないし…」
謹慎?し始めてから数日が経ったある日、瑠がそう切り出してきた。もう二十年以上も連れ添ってきた妻でさえ、今回の彼の沈黙に対する戸惑いは隠せないのである。
「瑠か。いや、それがな…。どういうわけか、何もする気が起こらんのだよ」
そう答える董卓の声は、相変わらず張りが乏しい。気のせいか、顔色もすぐれない様に見える。
「何もする気がしない?どういう事ですか?」
「それはわしにもよく分からんのだ。普段なら、こんないい天気だ、狩りにでも出るか、それでもって、鹿の一頭も仕留めてやるか、と張り切るところなのだがなぁ…」
「それは…。あなた、ひょっとして、どこかお悪いのではないですか?ここのところ、気疲れなさっていた様ですし…」
「そうだな…。段公の事があったからなぁ…」
「段公の事は…。お気持ちは分かりますが、いつまでもあなたが気落ちなさっていても…」
「うむ…」
「一度、診ていただいた方がよろしいのではないですか?」
「そうだな。鍼でも打ってもらって楽になるか」
「そうですよ。そうなさってください」

「ふむふむ…」
診察は、思ったよりも長いものとなった。もちろん、診察が済みもしないのに鍼を打つという事はない。
「いかがですか」
「これは…ちょっと難しいですな」
「む、難しいとは?治らないとでも?」
「いや、そういうのとは違います。…ご存知のとおり、私が扱っておりますのは鍼です。お体に何かしらの病巣があるというのでしたら、それが膏肓(こうもう:心臓の下、横隔膜の上。鍼灸では手の打ち様がない所)にでもない限りは、何とか致しましょう。しかし、今の殿様の患いには形を持った病巣はございません。ですので、私にはどうにも出来ないのです」
「病巣は無い、とな…。では、どうして気分がすぐれぬのだ?」
「それは、ご自身がよくご存知でしょう。ほら、『病は気から』という事ですよ。近頃、気落ちする様な出来事はありませんでしたか。ありましたよね。そのせいです」
「気、か…。確かに、覚えはある…」
「ですから、何か気晴らしをなさるのがよろしいかと。今のところ、私からはそれくらいしか申し上げられません」
「分かった」
(気晴らし、か。では、やはり狩りにでも出るか…)
いま一つ気乗りがしないが、今の彼にとっての気晴らしは、それくらいしかない。

「皆の者。明朝、晴天であったら狩りに出るぞ。支度をしておけ」
「はっ、承知致しました」
(これで殿がよくなってくだされば良いのだが…)
家人達にとっても、主君の体調は気がかりなのである。

132 名前:左平(仮名) :2004/11/23(火) 22:33
六十六、

翌朝−。

家人達の願いが叶ったのであろうか、見事な晴天となった。夜明けとともに邸内に陽光がさし込んでくるその様は、一種の神々しささえ感じさせた。
「よい日和だ。これならば…」
家人達も、がぜん張り切っていた。正直言って、彼らにとっては主の官位などはどうでもよい事。ただ、主が気落ちしていると、邸内の全てが暗くなってしまう様な気がするだけに、何としてでも今日の狩りをよいものにしたいところである。

「うむ。よく晴れたなぁ…」
起き上がり、天を見上げてそう言ったところで、董卓はふと軽いめまいを覚えた。
(う、うむ…。どうした事かな。これはいかん。だが…皆が今日の狩りを楽しみにしておるからなぁ…)
相変わらず、どうも気分がすぐれないのだが、今になって自分が行かないと言うわけにもいかない。いくら豪放な彼でも、配下の者達に余計な心配をさせるほど無頓着ではないのである。

「よし。支度は整ったな。では行ってくるぞ!」
「はい!お気をつけて!」
そう言うや否や、董卓と配下達は猛然と門を出て馬を走らせた。戎衣こそ身にまとってはいないものの、その様は、狩りではなく出陣かと見紛うほどに勇壮なものであった。
「おぉ、董氏が狩りに出られたのか。また賑やかな事で」
近隣の人々は、口々にそう言いあった。言葉尻だけ捉えると厭味に聞こえるかも知れないが、彼らには、董卓に対する悪感情は無い。
「やはり、こうでないとな」
ふと誰かがもらしたこの言葉が、彼らの思いを代弁していた。やはり、普段どおりでいてもらうのが一番落ち着くのである。

しばらく駆けたところで、一行の足が止まった。
「ここらあたり、いかがでしょうか」
配下の一人がそう言い出した。彼は、この日の為に何回も足を運んで実地を検分している。その自信からか、その表情はすこぶる明るい。
「うむ…。草木も程よくあり、水もあるな。これなら、獲物も多そうだ」
さすがに血が騒ぐのか、董卓の顔にも幾許かの明るさがみられた。誰もが、この日の狩りの成功を信じて疑わなかった。

「殿!ごらん下され!」
「おっ!これはまた大物だな!よし、皆の者!行くぞ!」
「おぅ!」
「それそれぇ−っ!」
主が邸内に篭もっていた為にしばし無聊をかこっていたとはいえ、さすがに歴戦のつわもの達である。ひとたび獲物を見つけるや、巧みな動きで徐々に徐々に獲物を追い詰めていく。
いつしか、包囲の輪が数丈程度に縮まっていた。頃合は良し。そろそろ、仕留めるか。皆がそう思ったその時、董卓の合図が下った。
(さすがは殿。このあたりの勘はまだまだご健在だ)
家人達の心に、安堵感が広がった。それなら、存分に働くとしよう。
「よっしゃぁ−!行くぞ−っ!!」
「おぉ!!」
そう叫んだかと思うと、皆、一斉に獲物めがけて突進していった。猛烈な砂埃が舞い、血と汗の臭いが辺りに立ち込める。

133 名前:左平(仮名):2004/11/23(火) 22:34
「皆の者、首尾はどうだ?」
一段落ついたところで、董卓は、そう聞いてまわった。長時間駆け回り獲物と格闘した為、さすがに皆の呼吸は荒いものの、総じて機嫌の良さそうな顔をしている。今日の狩りは、成功裏に終わったと言えそうだ。
「殿、ご覧下され。この通りです」
家人の一人が、満面の笑みを浮かべて獲物を差し出した。
「うむ。それは何より…」
そこまで言いかけたところで、董卓の脳裏に、ある記憶が浮かんできた。

(そういえば、いつか、この様な事があったなぁ…)

それは、董卓が段ケイ【ヒ+火+頁】の推挙によって、三公の掾(属官)に任官した頃の事である。
任官の祝いも兼ねて、段ケイ【ヒ+火+頁】とともに狩りに出た事があった。その日も、今日と同様晴天に恵まれ、獲物も多かった。

ともに涼州の出身で、勇将。なおかつ、若き日には遊侠を自任していたという様に、その経歴に共通点が多いという事もあってか、二人はどこか気が合った。
段公は、自分の事を高く評価していた。董卓はそう信じていた。それは、決して妄想ではない。そうでなければ、段公ともあろうお方が、あの様な言葉を口にするはずもないからだ。

「公よ、いかがですか」
「ほほぅ、なかなかやるな。わしの目に狂いは無かった。嬉しいぞ」
「過分なまでのご褒詞を賜りまして、董仲穎、これほど嬉しい事はございません」
「なになに、ちっとも過分ではないぞ。…わしはむやみに人を褒めたりはせん。本心からそなたの力量を買っておるからこそ、こう言っておるのだ」
あの日、段公に褒められた事が心底嬉しかった。あの日の自分は、今のこの男の様に、満面の笑みを浮かべていたのであろうか。
「若い頃のわしと比べてもいささかも劣らん。いや、武芸についてはまさっておるかな」
「ご謙遜を。公はまだまだ壮健にあらせられるかと存じますが」
「わしももう年だからな、さすがに無理はきかん。もう前線に立つ事はなかろう」
「そうなのですか…。しかし、公でしたら、きっと三公の位にまで昇られるかと存じます」
「ふむ、そうかな。まぁ、それはそれだ。仲穎よ」
「はい」
「頼むぞ」
「は?何を…」
「これからの辺境の守りを、だ。わしがいなくなったとなると、また賊どもが暴れるやも知れんからな。その時、漢を守るのはそなただ」
「は、はい!」
「その事を忘れるでないぞ。良いな」
「董仲穎、そのお言葉を決して忘れませぬ」
「うむ」
その時の段公の顔には、何とも言えないほどの笑みが浮かんでいた。

あの日、皆上機嫌だった。あの日…。もう決して戻ってはこないあの日…。

134 名前:左平(仮名):2005/07/19(火) 23:42
六十七、

「殿?いかがなさいましたか?」
「ん?」
「この者の仕留めた獲物はいかがでしょうか?」
「おぉ、なかなかやるではないか。褒めてつかわすぞ。わしも負けてはおられぬな」
「いやいや、殿の仕留められた獲物も大物ばかりではございませんか」
「なになに。このくらい、いつでも仕留めてみせるぞ」

(…おっと、いかんいかん。このわしとしたことが)
この様な楽しむべき場でしんみりとしてしまうとは何事か。わしらしくもない。董卓は、自らにそう言い聞かせた。
しかし、ひとたび段公に想いが向くと、なかなかそこから抜け出せなくなるのもまた事実。
いかに段公の自死が衝撃的な出来事であったとはいえ、こんなにも尾を引く事は今までにはなかっただけに、戸惑いを禁じ得ない。
半ば無理やりに笑みを浮かべ、何とかその場はしのいだ。せっかく家人達が一生懸命に自分を気遣ってくれているのに、それを無駄にはできないのである。しかし、気分はいっこうに良くならない。いや、かえって前より悪くなってしまったかも知れない。
(一体どうしたものか…)
何とか、自力でこの状態から脱しなければならない。しかし…


−この時董卓は、今でいう鬱病にかかっていた様である。それも、気力が著しく減退し、肉体にも具体的な変化が現れるほどの重症であった。
現在では、鬱病の治療法は第一に休養をとる事とされており(投薬等の具体的な治療は休養の後に行う。現在では有効な薬剤もあるというから、適切な診察を受ければ回復は可能)、また、下手な励ましや気晴らしは逆効果になりかねないとして避けるというから、この時周囲がとった行動は、その想いとは裏腹に、最悪のものだったと言えるのである。−


もちろん、その様な事など、誰も知る由もなかった。
この狩りで、いくらかでも気が晴れて心身とも壮健さを取り戻してくださる…。そう信じてやまなかったのである。

「よし、では、そろそろ帰るぞ」
「はっ!」
董卓の合図をうけ、皆、意気揚々と帰途についた。ただ一人、董卓を除いては。
何も慌てる必要はないが、多くの獲物を得たことを早く知らしめたかったのか、その足は、驚くほど速かった。

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