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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

2 名前::2002/10/27(日) 01:03

香香[東海] > (2001/05/17(Thu) 18:35:44)

このあたりからおさらいしてくれると、どうして三国時代のような混乱期がおこったのかわかるかも・・・・。

3 名前::2002/10/27(日) 01:03

松竹梅[関東] > (2001/05/17(Thu) 23:53:31)

いや、すごいですね。なんだか黄巾の乱まで一年くらいかかりそうで。その間に張奐とか陳蕃とか取り上げていただけるのでしょうか。三国志編(タイトルが三国志なのに三国志編というのも変だが)でも重箱の隅をつつくようなマイナー人物の活躍に期待したいですね。

4 名前::2002/10/27(日) 01:04

japan[関東] > (2001/05/18(Fri) 21:54:53)

>重箱の隅をつつくようなマイナー人物の活躍
激しく期待しています。でも、そうすると280年までに何巻かかるのでしょうか?
吉川英治の『徳川家康』が確か文庫で100冊位だったから、それを超えるのは確実ですね。
宮城谷先生には270、いやせめて260年まではお願いしたいところです。
(とか言いつつ、単行本化を待ちつつ未読・汗)

5 名前::2002/10/27(日) 01:04

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/05/18(Fri) 23:39:37)

何ギョウですよ何ギョウ〜〜〜ッ!!
このままのペースだと確実に何ギョウが出る〜!
きゃ〜☆ 伯求様、どんな活躍をされるのでしょうか!?
……でも、あまり深くは触れないで欲しいなあ…私も書きたいから…

6 名前::2002/10/27(日) 01:04

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/05/18(Fri) 23:41:02)

宮城谷先生の本は、いままで最長で文庫5冊というところ…。
でも「三国志は別物」と何かでも書かれてましたし…。
あるいは二桁代の長篇になるのかも〜!

7 名前::2002/10/27(日) 01:17

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年06月10日 (日) 00時35分19秒 

の「三國志」が、まだまだ序章です(^_^;)
いまはちょうど[登β]太后の専横時代…。まだ曹騰が少年という時代ですね〜。
これだけ掘り返してくださると、どうやって三国の戦乱が巻き起こったかがよく分かるデス〜!
嗚呼、はやく単行本化希望!

8 名前::2002/10/27(日) 01:17

松竹梅[関東] > (2001/06/11(Mon) 23:52:16)

今月は霊帝の父親が出てましたね。お気づきですか?
しかし、このペースの遅さ、ではなく書き込みの綿密さをみると、
やはり「来年の4月あたりに何ギョウ大ブレイク」でしょうか。

9 名前::2002/10/27(日) 01:17

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/06/11(Mon) 23:58:12)

げ、全く気付きませんでした〜!
てことは、ええと、なんとかいう亭侯としてですか〜!?
どうも立ち読みだとチェックが〜! 単行本化(できれば
いきなり文庫本化)希望〜!

10 名前::2002/10/31(木) 00:24

ぐっこ    2001年12月10日月曜日 20時38分

いよいよ孫程ら正義派宦官のクーデター成功! 中興の祖、順帝を頂き、後漢王朝は安泰か!? だがここにきて少年順帝は、宦官に世襲と私封を認めるという、取り返しのつかないミスを犯してしまうのだ…。

まだ! 始まってかなり立つというのに! 宮城谷三國志は、いまだ曹騰が少年だったりします(;^_^A まあ、今月の政変で一段落して、来月あたりから話は飛ぶと思いますけど…。
ほんと、全何巻くらいの話になるんでしょう…?

11 名前::2002/10/31(木) 00:25

左平(仮名) 2001年12月10日月曜日 21時06分

私も読みました(コンビニで立ち読みですが)!
孫程たちの武芸のほど、凄いですね。『重耳』に出てくる閹楚(介子推のライバル)を思い出しました。
そういえば、郭鎮(郭嘉や郭図と同族?)とか高舒(高柔・高幹の同族?)とか崔エン(王に爰)(崔エン 王に炎 ・崔州平の同族?)とか、後の有名人の先祖を思わせる人達の名が、、。

12 名前::2002/10/31(木) 21:19

ぐっこ     2001年12月11日火曜日 21時31分

私も立ち読みです(;^_^A
郭氏が以前話題になっていたのでスレ上げときました〜。
どうも尚書・郭鎭については、間違いなく潁川郭氏の関係者でしょうね〜。
問題は崔[王爰]。いまパラパラ〜と後漢書見てみますと、かれは劉備や盧植でおなじみのタク郡出身で、字は子玉。書道家として、息子の崔寔ともども超一流の名声を残したようです。
ちなみにタク出身の崔氏といえば、崔烈、崔州平あたり。たぶん同族でしょう!
で、高舒…う、みつからない(;^_^A 楊震の掾だった人で、後に荊州刺史になってる、と…。まあ楊氏に殉じかけた程の人物だから、政治的にも深い結びつきがあったのでしょうけど…。

13 名前::2002/10/31(木) 21:19

松竹梅     2001年12月13日木曜日 08時18分

文春毎月買ってます。北方センセと小林信彦の連載も読んでるもんで。

確かにこの事件で一気に時間は飛びそうですが、
まだ曹操たちの登場の前には、
「梁冀誅殺」「党錮の禁」という二大イベントが…
この二つの事件にきっと3ヶ月づつくらいは費やすでしょうから、
黄巾の乱勃発は、早くても3ヶ月以上先っぽいなあ

14 名前::2002/10/31(木) 21:20

松竹梅     2001年12月13日木曜日 18時13分

3足す3は6じゃないかと、自分を小一時間問い詰めた

15 名前::2002/10/31(木) 21:20

ぐっこ     2001年12月13日木曜日 22時54分

まあまあマターリとしませう。
それにしても、曹騰、梁冀と一時期ツルんでたから、この辺も時間がかかるでしょうね〜(;^_^A
党錮事件、やっぱり張奐がフル出場!? そういえば彼も曹騰の故吏みたいなものですよね…。これまた長引く予感…。

16 名前::2002/10/31(木) 21:22

松竹梅     2001年12月13日木曜日 23時34分

一応自分には厳しく、です。

そういや、梁冀や張奐の絡みがあったか…
長くなりそうですね…
両方とも興味ある人間だけにねえ…楽しみではあるんですが、
三国志と銘打ったからにはやっぱり早いとこ
曹操・劉備・孫堅を見たいとこですね。

17 名前::2002/10/31(木) 21:22

香香 2001年12月14日金曜日 12時22分

私も文春は立ち読みですが、もともと跋扈将軍〜後漢末期動乱〜三国時代が頭の中で連続した歴史になっていないので(知識不足)、ちょっと話についてゆけなくなってます(~_~;)というわけで、今月から購入しようかと考えています〜。
たしかに、劉備・曹操・孫堅、そして袁術・袁紹の登場が待たれますが、正直このあたりの時代をまったり語って下さるのは有り難いです、個人的に(笑)。
最近、劉虞に興味があるので彼も出て欲しいけど、いかほど活躍するのでしょうか・・・。彼が出れば、田疇も多少は活躍するかな(笑)?

18 名前::2002/10/31(木) 21:22

ぐっこ     2001年12月14日金曜日 21時00分

とりあえず今月で第一章完、の雰囲気がありますね〜。
このあとしばらく順帝やら梁商やらの安定期が続きますから、その間に夏侯嵩…?が登場するかも?
で、魔王・梁冀、宦官天下とつづき(この辺で主役入れ替え)、ついには党錮の禁!当然、何伯求さまが登場するですよ! ああ、楽しみだなあ〜っ!
しかし本当に「三國志」なんですから、早いところ宮城谷劉備や孫堅を見たいような…。
いっそ分ければ良かったんですよねえ〜。後漢の方は短編で。
でも、私も後漢末を長々解説して頂けるのは有り難い!

ところで香香様、劉虞・田疇ですと!? なんかあの辺の歴史論文読んでたらやたら田疇の名前が出てくる(袁紹より多い…)から、たぶんバッチリ解説されるのでは…?

19 名前::2002/11/02(土) 12:15

ぐっこ    2002年02月17日日曜日 01時11分

☆久しぶりに文藝春秋読んでみた!☆

いやあ、最近読んでないなあと思って読みましたよ。
ようやく! ようやく曹嵩登場! まだ10歳くらい!
そして明将軍・梁商の息子にして、「董卓もかすむほどの」魔王・梁冀が登場!宮城谷先生も、イイ表現を使うな〜。
やっと三国志と直接結びつくキャラが出始めた…。

20 名前::2002/11/02(土) 13:35

左平(仮名)

◆果たして、「党錮の禁」は今年中に語られるのか?宮城谷三国志◆
連載が始まってから、はや1年。今回は、結構動いてます。張綱の活躍、羌族の反乱の収束、群発地震、そして、順帝の崩御→冲帝の即位・崩御→質帝の即位・崩御(跋扈将軍・梁冀によって殺害)。

21 名前::2002/11/02(土) 13:35

ジーク     2002年04月12日金曜日 18時38分

今やっと梁翼の旦那ですからね......希望的観測としては秋口に梁翼をサヨナラして、ギリギリ第一次党錮の禁がかたられそうな....気が。

所で宮城谷三国志、いつ頃終わると思います?
ついで(?)に東晉のあたりまで突っ切られるような気が少ししてますが。
何せ一般の三国志ファンがついていけない時代から書き始めておられますし(笑)

22 名前::2002/11/02(土) 13:35

ぐっこ     2002年04月13日土曜日 00時21分

今日確認いたしました! 順帝死んじゃったですね…。
で、梁冀がようやく登場…。
基本配分で行くと梁冀の暴虐に3ヶ月、暗殺計画に1ヶ月、実行に1ヶ月。宦官の横暴に2ヶ月。で、ようやく党錮の禁。
あ、本当にジーク様とぴったり一致した! 素で嬉しい(^-^

それにしても、後漢に多少なりと予備知識のある私でさえうなるほどの「難しい」三国志。単行本として書架に並ぶようになったとして、コレを手にとって「よし買おう!」と思う「三国志」ファンはどれくらいいるでしょう…?

23 名前::2002/11/02(土) 14:27

左平(仮名)

◆賊が跋扈 今回の宮城谷三国志◆
前回、「当塗」の賊が蜂起し、帝国をつくったという事件がありましたが、僅か四ヶ月で鎮圧。その立役者は、もとタク(シ+琢の右側)の県令・滕撫。滕?そういえば、呉に滕胤という人物がいましたが…。それに、タク!?ようやく、三国志なじみの名が。
この当塗の賊にとどめを刺したのが、下ヒ(丕+β)の豪族・謝安。って、晋の謝安(字は安石)と同名!!
…こんなちょこちょことした事が関連づいて見えるくらいですから、まだ、宮城谷「三国志」の全体像は、なかなか見えないです。
「跋扈将軍」梁冀、「(当時八歳の質帝より)精神年齢が低い」とまで言われています。確かに、董卓の方がましです。
…次回、ようやく桓帝即位というところ。「党錮の禁」、ひょっとすると来年かも。

24 名前::2002/11/02(土) 14:27

ぐっこ     2002年05月11日土曜日 01時21分

私も今日確認しました〜!
やっぱりなんだか凄いことになってますね〜! ようやく梁冀が大権を掌握するあたり…。まだ彼の妻やら一族やらの、董卓軍に匹敵するくらいの暴虐が描かれてないですけど(作り話ということで無視?)、皇帝を殺し、もはややりたい放題…
来週、やっと曹騰と梁冀がコンタクト…。仲高も出てきたことだし、そろそろ主役交代かも…
滕胤…最初見たとき、やっぱり考えました(^-^; 

25 名前::2002/11/02(土) 15:08

松竹梅     2002年05月14日火曜日 22時14分

あ、ここにもおんなじ考えの人が・・・
北海劇の人だし、一族ではあるんでしょうね。
滕撫と東莱牟平の劉氏とのかかわりがあればほぼ断定できるんですが・・・今のところ根拠なしです。

そういや、先月からいましたが「無上将軍」徐鳳という盗賊が出てきましたね。
「無上将軍」といえば後漢末にとある高貴なお方も自称なされているのですが、
盗賊と同じ将軍号を名乗るなんてずいぶん大胆な人ですな。

さて、誰でしょう?

26 名前::2002/11/02(土) 15:09

ぐっこ     2002年05月19日日曜日 00時28分

うーむ…今度調べて…ってその時間が無いんでした(T-T)
来週くらいにはもすこしヒマになるかも…

無上将軍! 確かゴッコ遊びがやたら好きな皇帝陛下でしたっけ(^_^;)

27 名前::2002/11/02(土) 15:31

左平(仮名)

◆跋扈将軍にも弱点あり 今回の宮城谷三国志◆
カウンタが61999でした。またもキリ番ならず…。
今日、広島の書店に行くと、今月の『文藝春秋』が!以前の場合は10日が日曜でしたが、今月の10日は月曜。はて?
それはともかく。今回も、梁冀の跋扈ぶりが描かれています(李固を死に追いやるなど)。が、今回目に付いたのは、その妻・孫寿の悪女ぶりでした。美人で、かつ流行の先端を行く一方で、夫の愛人もその家族も(梁冀の子である幼子も)皆殺しにするという凄まじさです。ただし、自分も愛人をつくるのですが。

こんな事があっても夫婦を続けるというのは、常人には理解しがたいのですが、そんな彼でも「玄謀がない」と評されています。「玄謀のある」革命者は悪事も美辞麗句で飾られる…。

28 名前::2002/11/02(土) 15:32

左平(仮名) 2002年06月09日日曜日 22時29分

そうそう、今回の最後の方に、「馬融」という名が出ていました。まさか、大学者として知られるあの馬融なのでしょうか。ちょっと気になります。

29 名前::2002/11/02(土) 15:32

惟新   2002年06月09日日曜日 23時05分

馬融! 鄭玄と盧植の先生ですな!
盧植先生をこよなく慕う私としては、かなり気になります。

それにしても、梁冀夫婦はすさまじいですね…
なんとなく、夫の愛人宅を襲撃させた北条政子を思い出しました。孫寿の比じゃないですけどね。

30 名前::2002/11/02(土) 15:32

ぐっこ 2002年06月10日月曜日 00時49分

孫寿は悪行によって名を残した「稀代の毒婦」という称号を学研から与えられてました(^_^;)
まーよくも夫婦そろってこんな大悪人がそろったモノかと。
むろん曲筆はあるでしょうけど、しかしすごい夫婦…

馬融…まだ文春読んでないですが、時期的に言えば馬融先生のことかと〜。

31 名前::2002/11/02(土) 15:33

松竹梅     2002年06月12日水曜日 00時50分

馬融さん、でも確かあんまり評判はよろしくなかったんでしたっけ。
理由はもちろん梁冀にお近づきになったから。

馬融で検索したら、池田勇人の記事が出てきて面白かったです。
池田の派閥「宏池会」(今の加藤派と堀内派にあたる)の名称の由来が
馬融の「高光の柎(うてな)に休息して宏池に臨む」という
故事にあるそうですが、どんな故事だかさっぱりわかりません

32 名前::2002/11/02(土) 15:33

ぐっこ 2002年06月14日金曜日 00時42分

馬融さんは、世界史事典にも載ってるくらいの大儒ですのに…。
梁冀のシンパだとすれば、世に阿るのたぐいですかい!思ってたほどすごい人じゃないのかな…

「宏池に臨む」…う、私もさっぱりです! 今度調べてみようっと。

33 名前::2002/11/02(土) 15:37

左平(仮名)

◆お祖父さまたち登場 今回の宮城谷三国志◆
跋扈将軍の跋扈ぶりは相変わらず続いてます。その贅沢ぶり・無法ぶりに数ぺ−ジが割かれるほど(無実の罪で全財産を奪われる士孫氏、ま、まさか…)。
李固・杜喬も既に亡く、漢は相変わらず危機の中にいます。よくこんな時代で「桓」帝と諡されたものです。
前出の馬融ですが、この時南郡太守との事でしたから、間違いなくあの馬融です。跋扈将軍ににらまれ、自殺未遂となっています。

さて、上記の通り、今回は、三国志の重要人物二人の祖父の名が出てきました。荀俶(荀揩フ祖父)と陳寔(陳群の祖父)です。

なお、跋扈将軍の滅亡は、次々回以降の様です。

34 名前::2002/11/02(土) 15:37

左平(仮名) 2002年07月11日木曜日 22時35分

蛇足を一つ。李固には三男一女があり、上の息子二人は獄死しましたが、末子の燮は何とか逃げ延びたそうです。
李固・杜喬の死を嘆く事さえも禁じられながら、それでもなお嘆いてみせる気骨のある民もいます。こういう人々の声が全く届かない跋扈将軍、ほんまに子供並みの知能ですな(といったら子供に失礼か)。

35 名前::2002/11/02(土) 15:37

惟新   2002年07月12日金曜日 00時40分

わぁ、荀俶・陳寔登場〜!
特に陳寔は小学生のときに「漫画で読む故事成語事典」を読んで以来、大好きなお方。そういえば高校入って陳羣の祖父だと知ったときは驚いたな…

はぁ、もう少し跋扈将軍は頑張りますか…
存分に最後を飾っておくんなまし。

36 名前::2002/11/02(土) 15:38

ぐっこ 2002年07月12日金曜日 01時25分

とうとう出て参りましたか!じゃあ鍾さんもそろそろ…
文春またチェックしてなかったなあ…。跋扈将軍はまだ生きてますか…。なんだか前たてたプラン通りのペースですねえ。最終的に何巻まで続く三国志になるんだろう…(^_^;)

梁冀を倒す予定の宦官連中、前のメンバーよりはだいぶ質が落ちてしまうんですよねえ…。このあたり、順帝が犯した致命的ミスですが、そのおかげで曹騰の「孫」曹操が世に出るのですから、まあよしとしましょう(^_^;)

37 名前::2002/11/02(土) 16:04

左平(仮名)

◆ついに、あの人が!! 今回の宮城谷三国志◆

今回も、跋扈将軍の跋扈ぶりが描かれています(村上氏のイラストが秀逸です)。それはそうと、あの愚昧な梁冀が茂才を好んで用いた(後漢では茂才より孝廉の方が評価されていた)というのは、ちょっと不思議な感じがします。
さて、「あの人」とは…

1,曹操、誕生す!!
とはいっても、まだ「生まれた」という事が書かれたのみ。今回は、曹騰の没年の方に紙幅が割かれています。「水経注」の記述などから、西暦160年頃ではないか、との事です。年は、五十代の前半といったところ。「蒼天」の設定みたいな可能性は低い…。

2,檀石槐、一大帝国を築く!!
もすさんの『四史奮迅』でも紹介されたあの男が登場しました。今回、李膺と熾烈な戦いを演じています。「あの男が中華の皇帝に嫌われたなら、わがもとで大人としてやろう」ってな感じの余裕のコメントも。

3,(名前だけ)荀爽も登場。

蛇足@:ようやく、ちくまの「正史 三国志」(文庫)の4巻を入手し、全巻揃いました。とはいえ、もすさんや玉川さんの域にはほど遠し、といったところ。
蛇足A:明治書院から、「新釈漢文大系」の廉価版ともいうべき「新書漢文大系」が出ていました(全15巻)ので、うち3冊購入しました。

38 名前::2002/11/02(土) 16:05

ぐっこ 2002年08月12日月曜日 22時19分

あ、もう春秋の発売日…(^_^;)

で!
とうとう曹操が誕生しましたか〜っ! ということは間もなく梁冀夫妻はその罪業にふさわしい死に様を遂げ、宦官天下が始まる、ということに…!
曹騰の死…私も昔「曹騰伝」なるもの書きかけて(^_^;)、挫折したことあるんですが、この没年は悩みましたよ〜。曹騰を弾劾して却って賞揚された仲コウの三公就任期間から割り出してみたり、イロイロ試しましたが(^_^;)

それにしても!檀石槐の活躍とは頼もしい! それに荀爽まで! やっとこさ三国志の連中がチラホラ出て参りましたが…(^_^;)
涼州三明とか董卓もそろそろ出現する頃でしょうけど…。

>茂才・孝廉
うーん、実情はどうなんでしょうねえ…。確かに孝廉の方がよく聞きますよねえ…。手元に史料が無いのでアレなんですが、「州代表」「郡代表」のような単純なモノではなく、確かこの二つの任官先とかって全然別ルートだったはず…。

39 名前::2002/11/02(土) 16:05

もす 2002年08月13日火曜日 04時46分

⇒左平さん
 ご紹介のほど、有難うございます(笑)
左平さんにも何の恩返しも出来ていないで、申し訳ないのですが…(^-^;

 さて、檀石槐。玉様も好きのようで(^^)
ただ、なんとなく「あの男が……」は私のイメージとは違うかも。
「第二の冒頓単于」を目指していたような印象はありますが、漢人を大いに採用したとは・・・
あぁっ、、自分の檀石槐伝を改めて読んで、脱ボーン。。余りにも文体がヘタ過ぎる…書き直したい…(__;)

⇒ぐっこさん
 孝廉は「孝と廉」ですね。って、そのままやんけ。
茂才は元々「秀才」でしたね。って当たり前ですがな。

 と、それだけでは哀スいので、「任官先」等を調べてみました。ソースは『杜佑通典』。

【後漢光武建武十二年詔】---------------------------------------------------

三公は        茂才を各一人,廉吏各一人挙げよ
左右将軍は      年に廉吏各二人を察せよ
光禄は        年に郎、茂才、四行各一人を挙げ,廉吏三人を察せよ
中二千石は      年に廉吏各一人を察せよ
廷尉、大司農は    二人(廉吏を察せよ?)
将兵将軍は      年に廉吏各二人を察せよ
監御史、司隸、州牧は 年に茂才各一人を挙げよ

---------------------------------------------------------------------------

 また、丁鴻と劉方の上言で「郡國は二十萬口につき、年に孝廉一人を挙げる」
となっていますね。凡そ、
●茂才:三公、光禄、州刺史/牧
●孝廉:郡太守
といった形でしょうか。(^^)

40 名前::2002/11/02(土) 16:05

ぐっこ 2002年08月15日木曜日 22時48分

わー、情報ありがとうございます!
私もひさびさに三國志熱が再発したので、史料引っ張り出して確認しました〜。
たぶん「後漢時代の政治と社会」だと思うんですが(コピー史料…)、「孝廉が何故もてはやされたか」みたいな考察がありました。

後漢時代の官吏は、基本200石以上から勅任官に数えられ、それ以下とは地位も権限も懸絶したモノだったらしいです。
さらに600石を越える段階で、こんどは高級官僚、今でいえばキャリアのような扱いを受けるようになり、免税やら徴兵免除やらの特権を与えられるようになったとか。
で、孝廉も茂才も、いきなり郎官(比300石)に任官できるのですが、基本的に茂才が郎官止まりであるのに対し、孝廉はその後も「辟召」の対象としてマークされる名誉に浴していたらしいと。
「辟召」は三公や大将軍クラスの大物が、目を付けた人物を自分の幕府の掾属に推薦し、一挙に昇進させるシステム。
辟召の基準は「孝にすぐれた廉吏」ですから、文字通り孝廉の中から選ばれるのが風習だったらしいです。

というわけで、茂才よりも孝廉が持て囃されたと言うことでした…(^_^;)

41 名前::2002/11/02(土) 16:38

左平(仮名)

◆梁氏、淪没!&孫文台誕生!(+十常侍) 今回の宮城谷三国志◆

いつまで続くかと思われた梁冀の専横ですが、今回であっけなく終了しました。悪逆の限りを尽くしながら、自身はあっさりと服毒自殺とは…何かすっきりしません。
宦官・単超のてきぱきとした動きは、なかなか見事でした。彼が重く賞されたのは当然です。が!「さして働いていない」のに賞を受けた者の中に、趙忠という名が!…後の「十常侍」の原型が垣間見えます。

雑感:
@前回の曹操誕生に続き、今回は孫堅が誕生しました。ただし、「三国志全人名事典」には156年生まれとあるのに対し、ここでは157年生まれとなっており、賊を退治したのも16歳となっています。…『後漢書』ではどうなんでしょうか。
A厠所で梁冀打倒の策を練る桓帝と宦官達…ついつい、「凄まじい形相で便座に腰掛ける桓帝」が思い浮かんでしまいました。シリアスな場面なのに、俺って一体…。
B最愛の女を守りたいが為に梁冀を倒したとさえいえる桓帝。しかし、その女に飽きてしまう…。個人的には、上述の「賞罰を誤った」事以上にがっくりきました。

蛇足:もうすぐ私の誕生日です。隠してても何ですので、近く年齢をカミングアウトします。それと、ネタを一つ発表します。 ヒント:谷利、阪神優勝、干支

42 名前::2002/11/02(土) 16:38

ぐっこ 2002年09月12日木曜日 00時17分

げ! もう梁冀死んじゃったですか!案外あっさり…
この数代クーデター騒ぎが連続して起こってますが、梁冀を倒した連中が最悪だったんですよねー。孫程らとは雲泥の差がある…。

1.あら? 要確認。後漢書には孫堅傳は無いハズなので、ソースが…
2.厠…当時はそこでヱッチができるほど広かったようですね…(^_^;) 服を全部脱いで棗を鼻に詰めてから入るタイプのものもあったとか。そういえばトイレの壺に落ちて溺死した王がいたとか…
3.所詮その程度の人物でしょう…。あんまりパっとしないですよね、桓帝。

むー。干支…? 阪神…1985年…? 谷利…? うーん…28?

43 名前::2002/11/02(土) 16:38

左平(仮名) 2002年09月12日木曜日 21時00分

私の誕生日は今月の15日(敬老の日!)ですので…現在28。ぐっこさん、正解です!今度29になります。数えではもう30ですが。

私の誕生年は、西暦1973年。丑年です。
1973+12=1985(阪神優勝、丑年)
1985−1800(12×150)=185(丑年)

↑お気づきでしょうか。「谷利伝」で、谷利の生年を185年とした理由が。
実は、私と同じ丑年生まれという設定にしていたのです。
理由としては全く適当でしたが、ここから色々な設定が派生してきて、あの様なスト−リ−となりました。
15で旅立ち、孫策・孫権と出会う。鮑立(鮑隆)との旅。弟との年齢差。玲(孫登の生母という設定)の登場。…

実は、現在書いている「サク(竹+乍)融伝」にも一つ私がらみのネタがあります。それは、また後日。

44 名前::2002/11/02(土) 16:39

左平(仮名) 2002年09月12日木曜日 21時13分

雑感、自分で書いといて何ですが。

1,孫堅の生年、「資治通鑑」からですかね?「四知」については「資治通鑑」の記述を使われていましたから。

2,厠でエッチ…漢の武帝と衛子夫ですね。トイレに落ちて死んだ王…(春秋の)晋の景公の死因がそうだったとか。

45 名前::2002/11/02(土) 16:39

ぐっこ 2002年09月16日月曜日 22時27分

当時の風俗とかもじっくり調べたいですねー。
いちおう当時の性風俗については論文書けるくらい精通したのですが(;´Д`)、肝心の生活誌が…。
手持ちは東洋文庫の中国社会風俗史だけですし…

46 名前::2002/11/02(土) 16:39

ジーク     2002年09月18日水曜日 20時21分

今何故か手元に資治通鑑があったりするのですが、今確認したかぎりではそれらしい記述は見られませんでした......。勿論漢字の上っ面をなでただけ(しかもほんの少し)なので問題外ですが。

所で九月の時点で『やっと』梁翼が死んでくれましたが、今の所予定通り......なんでしたっけ?(^_^;) 黄巾があと三回で始まるようには中々思えなかったりするんですが、一回で十年くらい進めば大丈夫......なのか?(←というかそんなに進むのか) ちょっと心配です。

47 名前::2002/11/02(土) 16:39

ぐっこ 2002年09月18日水曜日 21時58分

まだ党錮が残ってます(^_^;) 梁冀の死なんぞその前菜。
むう、となると曹操青年の初任官は来年2月くらいか!?

48 名前::2002/11/02(土) 17:03

左平(仮名)

◆三国の始祖 そろい踏み  今回の宮城谷三国志◆

今日は木曜。「蒼天」が読めます。また、10日。「宮城谷三国志」が読めます。
「蒼天」は玉川さんも読まれるので…先にこちらを書き込みます。

前ヶ回は曹操の誕生。前回は孫堅の誕生。とくれば、今回は劉備の誕生かな?と思いましたら、そうでした。
舎(いえ)の東南にある桑の木、字の「玄徳」…。背後に、老荘的な感覚が?との指摘、やはり宮城谷氏ならではのものです。

また、孫堅の生年問題が発覚。「初平四(193)年正月七日に死亡」と「(享年)三十七であった」という記述を両方信用すると、前回の「永寿三(157)年生まれ」となるのですが、「永寿元(155)年生まれ→中国での有力説」と「永寿ニ(156)年生まれ→日本での有力説」とあるそうで、宮城谷氏も、迷った末に「これからは、永寿ニ年生まれとして話を進める」とされていました。

跋扈将軍は斃死しました。とはいえ、宦官しか信用できない桓帝は、やはり愚昧。宦官達は贅を競い、法を踏みにじる。諌言する者を弾圧するという有様。かつての安帝と同じ過ちを繰り返します。
そういう王朝の衰勢をみた羌族は相次いで蜂起。今回は、羌族と戦う名将達が語られています。
董卓の伝にその名が見える段ケイ【ヒ+火+頁】。そして、皇甫規。皇甫規?安定の人といいますから、あの皇甫嵩の父?どうなんでしょうか。

また、「第五」氏が登場しています。なんでも、斉の田氏が、高祖の陵の近くに集団移住した結果、周りが田氏ばかりとなった為、区別する為に「第一」「第二」氏と呼ぶ様になったのだとか。…初めて知りました。

さらに! 覚えておられますか、あの楊震を。その子・楊秉が再登場しているのです(この回でもう亡くなってますが)。

第一次党錮は、次回か次々回か。さて?

49 名前::2002/11/02(土) 17:03

左平(仮名) 2002年10月10日木曜日 21時05分

前回、孫堅の生年について、調べもせずに「『後漢書』にありましたか?」なんて言いましたが、よく見ると、正史の三国志を丁寧に読むと、そういう事になるのでしたね。
…うっかりしてました。

50 名前::2002/11/02(土) 17:03

むじん     2002年10月10日木曜日 23時23分

おぉ〜。第五氏の由来、初めて聞きました。三国志にも第五伯魚とか第五文休の名前が見えますけど、第一氏から第四氏は見たことないです。

皇甫規は皇甫嵩の叔父さんにあたります。字は威明。段ケイ・張奐とともに「三明」と称されました。

51 名前::2002/11/02(土) 17:04

左平(仮名) 2002年10月10日木曜日 23時46分

むじんさん、情報ありがとうございます。叔父でしたか。

それにしても、皇甫規・段ケイ【ヒ+火+頁】・張奐で「三明」ですか。皆優れた武将ですが、軍事以外にも優れていたという事でしょうか。

52 名前::2002/11/02(土) 17:04

ぐっこ 2002年10月12日土曜日 00時04分

簡単にいえば、皇甫規(威明)・段ケイ(紀明)・張奐(然明)と、揃って明が付いてたんですよ、字に。しかも三者とも涼州出身だったため、涼州三明、と。
皇甫規は奥さんがらみでも割と有名ですが、段ケイは後に悪人道を歩み、張奐は蒼天航路で大活躍、と。張奐なんかは、名文家でもあったみたいですよー。

それよりも、孫堅。あ、やっぱりそちらで落ち着いたんですか〜(^_^;) 確か陳舜臣先生も、向こうとこちらは違うから、みたいなこと仰ってましたけど…。
ようやく劉備も誕生し、文庫本一冊くらい十分に消化してそうな分量を経て、三国志の開始、と。
第一次党錮は、割とまったり終わるみたいですから、ソロソロでしょうか〜。見所は第二次党錮の張奐の空回りと、陳蕃・竇武の格好いいところでしょう!

53 名前::2002/11/02(土) 17:11

左平(仮名)

◆今後の「三国志」の進展は? 宮城谷昌光氏インタビュ−◆

今月の「オ−ル讀物」に、宮城谷氏へのインタビュ−が掲載されていました。いろいろ興味深いものがありました。いくつか、ピックアップしてみます。

1,一日の執筆ペ−ス
現在五つの連載(風は山河より、管仲、書き下ろし、香乱記、三国志)があり、合計で、原稿用紙七枚半/日との事。一見すると少しですが、これが毎日切れ目なし!
自分のペ−スだけで書くわけにはいかない存在、という意味も含んだ「職業作家」という言葉に、その覚悟が感じられます。
2,三国志の進展はドラゴンズ頼み?
三国志を書かれるのは夜だそうです。野球シ−ズン中は、スポ−ツニュ−スを見てからの執筆となるのですが、ドラゴンズが勝ってると、そちらを見る時間が延び、負けてると、すぐに執筆にとりかかられるとか。今年はもうシ−ズンオフに突入してますが、ドラゴンズの調子次第で、来年の三国志の進展状況が変化するかも?あくまで冗談ですが。
3,構図
梁冀(などの悪党。玄謀を知る者は名君。知らない者は、梁冀の如し)と清流派。その間を右往左往する宦官。そういう感じで書いたそうです。
宦官=悪という安易な考えはしていません。『重耳』で出てきた閹楚を例に引き、宦官は、もともと強い者である、という事にも言及しています。
4,今後
近く、曹操24歳の場面が描かれる様です(近く、といっても、いつかは分かりませんが)。そして、董卓も登場します。辺境の視点からも描かれるそうですので、『蒼天』で描かれた様な、強烈な董卓が期待できそうです。

54 名前::2002/11/02(土) 17:11

ぐっこ 2002年10月23日水曜日 23時16分

やや、連載開始1年半にしてようやく曹操や孫堅が「誕生」したという、人類史上でもまれに見るスローペース三国志の続報!
宮城谷先生、五本も…。日に7枚って、けっこうなペースと思います。たしかエッセイの中で「小説は才能よりも持続力、言い換えれば執念で書くもの」と言う類の名言を残されてましたが…

というか、竜党でしたか(^_^;)
なまじ史学色が強いだけに、本格的にアレな人たちから散々叩かれている宮城谷三国志ですが、私はものっ凄く楽しみです! 氏が書く曹操や董卓ら「悪人」がどういうキャラクターになるのやら…。呂不韋みたいな優等生にはなって欲しくないですが〜。
ぼちぼち張奐も登場ですかにゃ( ̄ー ̄☆

55 名前:左平(仮名):2002/11/10(日) 19:25
◆第一次党錮の禁(途中) 今回の宮城谷三国志◆

搓c后失脚の理由…皇帝の寵愛をめぐって、竇氏と言い争いになった為だとは…。
桓帝、皇帝としてもですが、一人の男としても、小さい…あまりにも、小さい…。
(後宮に六千もの美女を集めたといいますが、たった一人の女も満足に愛せないとは)
「桓」という謚が泣くぞ!!

と、もてない男の怒りはさておき、今回の流れですが…。
とにかく、黄巾の乱以前に、こんなにも乱が頻発していたのか、というくらい地方での叛乱が。桂陽など南部荊州・涼州、そして、檀石槐。
暗愚な皇帝・私利私欲に走る宦官達、「前門の虎、後門の狼」という厳しい状況の中、李膺・陳蕃・段ケイ【火+ヒ+頁】・張奐達が活躍します。
が、そんな状況だというのに、ついに、「党錮の禁」が発生!!
今回は、まだ途中経過といったところですので、次回も気になるところです。

56 名前:★ぐっこ:2002/11/11(月) 00:04
>黄巾の乱以前に、こんなにも乱が頻発していたのか
逆に言うと、黄巾の乱がどれだけ凄絶な規模のものだったかが
伺えますよね…。
乱…というより、小規模の乱や寇禍の類は、殆ど日常的に続発し、
それを制圧する西方部隊というのは、後漢後期からやや特殊なポジション
にいたカンジで…。董卓の特異性なんかも、そのあたりから説かれそうで
嬉しい限り!
そしてその前の騒ぎである党錮がいよいよ…。楽しみ〜!

57 名前:左平(仮名):2002/12/10(火) 21:03
◆党錮→党錮、羌と侠  今回の宮城谷三国志◆

まずは、あらすじから。
宦官達による清流士人の弾劾は、結局のところ、なかば失敗に終わります(第一次党錮の禁)。終身禁錮とする事で朝廷から追放したものの、彼らに名を成さしめたわけですからね。追放された方に世間の同情と尊敬が集まり、政府の存在意義をも疑わせる様な状態になったわけですから、結果の如何にかかわらず、王朝の命運は尽きようとしている、と言えるでしょう。そんな中、桓帝は崩じます。「怠惰」の一言で片付けられる「桓」帝。子作りにさえ怠惰だったのか?とツッコミ入れられる「桓」帝…。こりゃ、あきませんわ。名と実が全く合っていませんもの。
で、迎えられたのが霊帝ですが、彼の賢愚のほどは、今回の時点ではまだ判然としません。そもそも、然るべき皇族自体が払底していたというのですから。こんな政権を担当する、大将軍・竇武。お疲れ様です(皇太后となった娘も、ろくな人物ではない様で)。李膺・陳蕃を復帰させるのも当然でしょう。そして、宦官打倒の計画を練りますが、皇太后にはその意味が分からないまま、天文が乱れたその日、ついに!事件が!

話は変わり。今回、三国志を語る上では欠かせないあの男が、ついに登場します。「二つの弓袋を身につけ、馬を疾駆させながら、左右から矢を射る」あの男! 「へそに灯心をさされ火をつけられた」あの男! 「蒼天航路では、髪と鬚が矢印」の、あの男です!
今回の彼を語るキ−ワ−ドは、「羌」と「侠」。後に悪逆非道と呼ばれるその所業は、あるいは、抑圧され続けた羌族への思いの故か?というところが、含みを残します。
俗悪に描かれた演義。とにかく強烈な悪の存在感を示した蒼天。そのいずれでもない描かれ方が為されるのではないか。そんな期待が持たれます。

私事:「牛氏」での設定、要変更ですな…。

58 名前:★ぐっこ:2002/12/12(木) 00:10
何いっ! もう今日でそこまでいくですか!?
第二次党錮が始まるのか…っていうことは!張奐たん主演まで秒読み!
李膺や竇武の子弟の脱出劇もあるでしょうね〜。楽しみ…

で! いよいよ三国志の大物達が続々オンステージ!
なるほど〜。単純な「悪」ではない描き方ですか…明日確認します!

59 名前:左平(仮名):2002/12/16(月) 22:06
実は、今月の文春には、宮城谷氏と白川静氏との対談も収録されています。お二方とも、大変な勉強家です。こんな事が、実にさらりと書かれています。

@宮城谷氏と白川氏が初めて会った時、宮城谷氏は、膨大なノ−トを見せ、白川氏を驚かせたそうです。そのノ−トには、白川氏の研究が細かく記されていました。…ところが、この時見せたノ−トというのは、実は一部。全部積み上げると、腰ほどの高さになるとか。
A以前の宮城谷氏は、結構テレビをよく見ていたそうです。しかし、白川氏の著作に出会うと、「三年、庭も見ず」というほどに読書されたそうです。座って読むのが長かった為、くるぶしに水(?)が溜まったとか。
B1960年代、大学紛争が各地でありました(東大・安田講堂の攻防などが有名です)。白川氏の在籍する立命館も例外ではありませんでした。当然、研究どころではないのですが…。そんな中、S教授の研究室は、いつも夜遅くまで明かりがついていたとか。こんな状況においても、研究を続けていたのです。S教授が誰であるかは、言うまでもありません。

この対談は、三国志とは直接の関係はありません。でも、連載中であるだけに、話の中でちょこちょこと三国志について触れられています。

60 名前:★ぐっこ:2002/12/17(火) 01:04
うーむ…。
さすがというべきか…たとえば自分を省みて、そこまで何かに集中したことが
あるか自問しても、まず思いつきませんねえ…
宮城谷先生本人も仰ってましたが、作家や研究者たる者、やはり超人的な偏執僻
あるいは執念、といったものが必要なんだなあと。
文才も大事ですが、それよりも大事なことが、最後までやり遂げること、だそうで。
その対談も面白そう…

61 名前:左平(仮名):2003/01/11(土) 01:02
◆第二次党錮の禁 逆境の名士達 今回の宮城谷三国志◆

前回から続き、竇武・陳蕃対宦官の対決から始まります。
人望厚い二人であるだけに、偽の詔書によって賊扱いされても、容易には屈しません。しかし、腐っても鯛、偽でも詔書は詔書。兵力差は広がり、ついに力尽きます。
張奐、よりによって竇武に引導を渡す役回りになるとは…。これで、名声も地に落ちてしまいました。出世はしても、これでは甲斐なしです。

二人を血祭りにあげたのみではまだ足りないか、宦官達による弾圧は続き、ついに、第二次党錮の禁、あるいは、宮城谷氏いわく「建寧の大獄」が始まってしまいます。
前回は助かった李膺・范滂達も、次々と獄死します。范滂と子との別れは、切ないものがあります。

こんな時代にあっても、清くあろうとする人々はいます。郭太【または泰】(字は林宗)がそうです。
彼の墓碑銘を書いたのは、あの蔡ヨウ【巛+邑】。劉備の師匠・盧植も登場します。

そして、いよいよ若き曹操について語られ始めます。

62 名前:左平(仮名):2003/01/11(土) 01:19
今日は、ちょっと残業してました。帰ってから食事をとって風呂に入ってたら…「りゅうぜんず」さんの方が、先に紹介なさってました。

63 名前:★ぐっこ:2003/01/13(月) 12:01
とうとう二次党錮がはじまりましたかー!
…って連載始まってどれほどの時間が経過したのか(^_^;) いまだに三国志の
カケラもない…。

「先代の英雄」たちがあらかた舞台を去って、ようやく曹操達にスポットライトが
回ってくる様子。楽しみ〜。

64 名前:左平(仮名):2003/02/10(月) 22:42
◆若き曹操(たち) 今回の宮城谷三国志◆

今回、だいぶ三国志らしい感じになってます。曹操、孫堅、劉備の三英傑は言うに及ばず、袁氏、盧植、公孫サン【王+贊】、さらには司馬懿の名も。といっても、物語はまだ黄巾の乱以前ですが。

少年・曹操は、橋玄に認められます。その上で、許子将に評されて、世に名を知られるわけです。このあたりは有名ですが…。
さすがは宮城谷氏です。意外な盲点を指摘されています。
1,橋玄は、高句麗を討伐したとあるが、『三国史記』(朝鮮三国【高句麗、百済、新羅】時代を記した書物)には記載がない。
2,許子将と曹操の年齢差は小さい。(橋玄と知り合った当時)十代の曹操を評した時、許子将は二十代前半ではなかったか。
そういえば!です。しかし、『三国史記』にまで目を通されているとは…。
その頃、孫堅は自らの勇気と機知により出世の糸口をつかみ、劉備は一族の支援を受けて盧植門下に入ります。遊び歩いた劉備に「哀しさ」をみたというのも、初めてではないでしょうか。
…このあたり、『蒼天』とは明らかに異なる物語になりそうです。

一方、中央はといえば、相変わらず。批判勢力に手を焼いた宦官達は、ついに猛将・段ケイ【ヒ+火+頁】を使い、弾圧にかかります。彼については特に言及していないあたり、個人的には少し気になります。

そして、宋皇后失脚に連座する形で謹慎する曹操に、一つの出会いが!

65 名前:★ぐっこ:2003/02/13(木) 01:37
むう、ようやく三国志(;^_^A
やや…今日はちょっと眠いので寝ますが…許劭と曹操の年齢差なんか
考えたこと無かった! んー…でも、曹操が少年時代の頃から月旦じみた
ことやってるはずだし…案外、当時のアウトローだったのかな?
橋玄も含めて、調査せねば…

あと、劉備も登場か…。宮城谷作品だと、どう描かれるのだろうか…楽しみ。

66 名前:左平(仮名):2003/03/11(火) 00:00
◆怪異・妖異、失脚・失脚、蒼天・黄天 今回の宮城谷三国志◆

今回は、郷里にこもった曹操のつぶやきから始まります。

宮中付近で次々と起こる怪異現象。それは、五行相勝説から見ても五行相生説から見ても、ともに漢の終焉を予感させるにふさわしい代物。蔡ヨウ【巛+邑】の決死の諌言も、愚昧な霊帝の、認識の甘さの前には、効果なしです(密封された上書を読んでるのを宦官に後ろから見られてるってのは…密封した意味がない!)
蔡ヨウ【巛+邑】の亡命生活が十二年にも及んだって事は…彼が中央に復帰したのは、董卓が権力を掌握してからという事ですか。と、なると、董卓の考えはどこにあったか、というのも気になりますが…まぁ、それはまた後の話。

宦官達は、専横の限りを尽くしますが、その一方で、内部抗争みたいな状況もあります。王甫が失脚し(段ケイ【ヒ+火+頁】も巻き添え)、彼を失脚させた陽球も失脚し、悪の巨魁・曹節は天寿を全うする…まるで救いがありません。
そんな中、孔明や孫権が誕生しています(今回は、それ以上の言及はなし)。

宦官にとりいって権力の座に近付く何氏。皇子の誕生という慶事の陰に毒々しい嫉妬。
そして、ついに、あの教祖が登場します!
今回の最後は、光和六(183)年。翌年は…

連載開始から二年。ついに、三国志の原点となる、あの事件が!!

67 名前:★ぐっこ:2003/03/13(木) 23:10
ああもう!はやく文庫本にならないのか!(←ハードカバーは?)
連載始まって二年ちかくなりますが、やっとこさ三国志演義のスタート
地点に…。
楊震にはじまった物語は、さて誰で終結するのやら…

宮城谷氏は存外キャラの最後をサクッと端折ることが多いので、どの人物
が「アンカー」を受け持つにしても、歴史の中の1ページとして流されるのかな…

68 名前:左平(仮名):2003/04/10(木) 23:42
◆黄巾の乱 途中経過? 今回の宮城谷三国志◆

今回、遂に黄巾の乱が勃発します。このあたりの経過は、比較的淡々と書かれています。ただ、最初に「潁川郡は賢者を生む」みたいな事も書かれているのは、後につながるのではないでしょうか。

それはそうと、ちょっと驚く事が。
黄巾の乱の鎮定には劉備も加わっていた様で、曹操や孫堅ほどの目立った活躍はしていないのはまぁ承知しております。しかし、「劉備が関羽・張飛を左右に従える様になったのは黄巾の賊の蜂起から四年ほど後とみるのが無難である」とは!!上記の文章は、立ち読みの流し読みであるだけに多少の誤記はあるにしても、初耳です。宮城谷氏の事ですから、しかるべき資料があるのでしょうが…一体何にそういう記事が…。

最後は、罷免された盧植の後任として戦地に向かう董卓が。盧植を罷免した霊帝を「ばかな皇帝」と蔑む男の腹の内は…。

69 名前:★ぐっこ:2003/04/11(金) 00:45
やや、もう文春の頃ですか〜!

といいますか、劉備が関羽・張飛を左右に従える
様になったのは黄巾の賊の蜂起から四年ほど後
とみるのが無難である

わたしもコレ初耳ですわ! 当然、それなりの根拠ないし考察を経ての
ことなんでしょうけど…。私も読んでみたうえで、考えてみます(^_^;)

そして董卓が黄巾討伐ですか…。どうも董卓が主眼保持キャラになるって
パターンも珍しいですが、彼がどうやって黄巾に敗れるのか、見てみたい
ですな。蒼天みたいに「わざと敗走」ってところでしょうか。

70 名前:左平(仮名):2003/04/11(金) 23:22
いや、董卓の存在が重いというのは、私の見る目の偏りもあるのかと思います。現在、「牛氏」を書いてて多分に意識しているところですので。
とはいえ、「それゆえかれは戦場へはいそがない」ってな書かれ方をするあたり、どうなのでしょうか。

割とさらりと書いてる様でも、よく読むと、やはりしっかりと書かれているのが分かります。張角は天を祀り(事実上)皇帝を自称したとか、波才対皇甫嵩・曹操の戦いにおける猛火を指して「これほど幻想的な戦場はない」という様に表現したり。

そういえば、今週の蒼天で、後姿で描かれた半裸の男って、ひょっとして張角ですか?

71 名前:もす:2003/04/13(日) 04:04
>劉備が関羽・張飛を左右に従え…

えっと、ちょっくら調べたところ、それらしいモノが。
いや、それらしいとしか言えないんですが。(^^;

黄巾が蜂起したのが中平元年、184年のこと。
それから4年というと、当然中平五年、188年のことになりますよね。
で、今泉氏の「関羽伝」に目を向けると、「関羽が涿郡で劉・張と出会ったのは188年のこと」とあるんです。
関羽伝には「劉備が兵を集めたとき、関羽は護衛官となった」とありますから、丁度188年に兵を挙げたことになると思います。

今泉氏の記述には現地で聞いたことをそのまま書いてあることが少なくなさそうなので、
これも民間伝承からだと思うんですが、宮城谷氏もこれを鵜呑みにしないまでも考慮されてるのではないでしょうか。

72 名前:左平(仮名):2003/04/13(日) 19:51
もすさん、ありがとうございます。そういう伝承があったのですか。

しかし、以前の「三国史記」といい、さすがは宮城谷氏といったところですね。そういえば、ちょっと前に引っ越しなさったとか聞きました。なんでも、書庫が手狭になった為だとか。
今回の「週刊新潮」にありましたが、故・司馬遼太郎氏が作品を書こうとする時、トラック一台分の古文書が神田から運ばれたなんて言われたそうです。
プロは凄い…。

73 名前:★ぐっこ:2003/04/13(日) 22:44
>>71
もす様、情報さんくすです!なんと!むかし「関羽伝」図書館で借りたことがありますが、
前の方の伝承は読み飛ばしていたなあ…
黄巾の蜂起から4年後となると、とうぜん黄巾の乱自体は終焉をむかえ、ほとんど残敵掃討
の状況かと。翌年に董卓が政権を乗っ取る時期すから、地方行政はもう分裂しまくって機能
してないような状態だったかも知れませんね…。
そこから推測しますと、まだ乱たけなわの時期のほうが、正規軍が転戦するだけ治安維持も
「まし」だったかもしれず、乱が終決して地方がグチャグチャになった時期こそ、劉備ら
「郷里自衛軍」の出番が多かったかも。
そう考えると、なるほど黄巾終結後の劉備旗揚げもうなずけますな。

>>72
そうなんですよねえ…。司馬遼太郎先生も、一編の小説を書き上げるのに
数年間を史料集めにあてられたそうですが、いちど記者に「史料はご自分で
探されるのですか?」とか質問を受けて愕然としたと聞きます。
「人に集めてもらえる類なら苦労しないよ」みたいな苦笑混じりのコメントが
あったと思いますが、内心、相当呆れられていたようで。

歴史作家は、一にも二にもまず史料。まあ、あまり根詰めて他の作家の作品を
熟読したりすると、池宮氏のようになる罠…。
イロイロ言われてますけど、私ゃ意識して剽窃したとは思えないですなあ…
それもよりによって司馬先生の小説を…。

74 名前:もす:2003/04/15(火) 05:46
どもです。憶測のようなことで恐縮ですが…(^^ゞ

最初は188年の事例を見て、
「もしや、劉焉が蜀に行ったヤツか?!」などと不遜なことも考えてしまいました(笑)が、
何らかの情報があることは確かなようです。
実際に中国に行って、そういった史料を探索してみたいものですけどねぇ。もっと懐を暖めないと…(;^_^A

>池宮氏
「身内の不幸があってドタバタしてたため」なんてコメントしてましたね(笑)
不幸はお気の毒ですが、それとこれとは関係ないんじゃ、と(ry

75 名前:もす:2003/04/15(火) 06:02
そういえば、大事なことを忘れていました。

⇒左平さん
宜しければ、私めの掲示板でご相談にのっていただけないでしょうか?
諡号について話題が出たのですが、恥ずかしながら、今一つ説明できなかったもので。(^^;
ご無理でしたら、書籍名等だけでも教えていただけると助かります。

大変失礼とは思いますが、何卒お願いします。<(_ _)>

76 名前:左平(仮名):2003/04/16(水) 00:18
先ほど、書き込んでおきました。

諡号というのは、なかなか興味深いものです。結構いろいろなニュアンスがありまして…。

77 名前:★ぐっこ:2003/04/17(木) 00:15
むう、鯖落ちで見れぬ…・゚・(ノД`)・゚・ そしてもす様、三国志・後漢書集解ゲットおめ。

ところで、先日文春確認しましたが、皇甫嵩カコイイ! 朱儁も引き立て役とはいえカコイイ!
何よりいまだまともなセリフがない曹操もまた男前に!
奇貨おくべしみたく、このあたりの初陣のドラマに期待していたのですが(^_^;)、
けっこうサラッと流されてましたね…。それだけは残念ですが。

78 名前:もす:2003/04/17(木) 01:45
左平さん、本当にありがとうございました。感謝で言葉もありませぬ(>_<)

⇒ぐっこさん
ようやっと集解げとーです(^^ゞ
これで大分楽になりそうです♪

某所はread.cgiとやらが原因らしいっすね。よく分かりませんが(^^ゞ
で、今、専用ぶらうざを探してたら、OpenJaneとやらが使いやすかったっす♪
宮城谷先生に関係ないカキコなのでsage

79 名前:岡本:2003/04/17(木) 21:59
>黄巾の蜂起から4年後
大分おくれまして、しかも、もす様ほど正確な情報ではありませんが、
わたしも似た状況を示唆する記述をよりによって三国演義で見たことがあります。

立間祥介訳の平凡社のものですが、劉備が例の義勇兵を募る
立て看を見ていた初登場での紹介文が
”歳、28歳”とあるのです。
184年なら24歳のはず。事実、本文の注では立間先生自身が中平元年なら24歳なので記述
ミスだろうと論じています。

もす様の情報のように、旗揚げは民間では188年と伝わっていたようです。

大体、張飛が18歳で参加したこと自体、子供心に”胡散くさ〜”と思ったことがありますので。

80 名前:★ぐっこ:2003/04/19(土) 16:07
コレもうろ覚えですが、なんか陳舜小説のなかに、「張飛はこのとき
ハイティーンであろう」みたいな記述があって、「ん?」と思った記憶が。
それはともかく、確かに演義間に「188年説」が成立していた、と思う方が
正しいようですな。
あ、そうだ、集解ってセットでおいくらぐらいなもんでしょう?
何となく、最近また三国志に凝ってきだして…。また本格的に勉強しようかなと。

>鯖落ち
いえ、もす様のところの討論板です(^_^;)
しかし今三戦板に行ってみると人大杉警告が。専用ブラウザの導入考えるです…。
最近、デザインパクる為にWeb板しか行ってなかったから気づかなかったよ…

81 名前:もす:2003/04/19(土) 17:09
手持ちのカタログだと、集解は三国志で\5390、
後漢書は2冊セットで\6160になってます。
晋書も同じく2冊セットですが、\9620と
かなりお求め難くなっております(^^ゞ

>いえ、もす様のところの討論板です(^_^;)

ありゃ、ウチですたか。(^^;
偶にオチてるんですよねぇ。今は大丈夫だと思うんですけど、
どうでしょう? 環境によって見れないとかあるのかな…

82 名前:★ぐっこ:2003/04/22(火) 21:54
むう、確かにお求めやすい価格帯だ! 考えようかな…。
晋書はいかがか…(;´Д`) いえ、県立図書館の和刻本を全コピしても
7000円弱、というところですが。

>掲示板
もう大丈夫でした(^_^;)

83 名前:左平(仮名):2003/05/10(土) 23:49
◆黄巾の乱 一応の決着 ほか 今回の宮城谷三国志◆

前回のラストで盧植に替わり張角を倒すべく派遣された董卓ですが、まったくやる気なし(見せ掛けだけの攻撃はしますが)。結局、この戦いに決着をつけたのは、またしても皇甫嵩でした。ちらりと盧植の良将ぶりも描くあたり、細かいです。
張三兄弟をことごとく倒した皇甫嵩が英雄視されるのは当然。そこに現われたのが、閻忠なる人物。彼はいにしえのカイ【萠リ】通の如く説くのですが、受け入れられません。閻忠の最期は、王国らにかつがれた為、昂奮の中で死ぬというものでしたが、「不幸にも」というあたり、氏の思いはどこにあるのでしょうか。

一方で、朱儁はなおも苛烈な戦いを続けます。張曼成、趙弘、韓忠。黄巾は、指導者が斃れても斃れてもなお大軍をもって抵抗を続けますが、朱儁は寡兵をもって激しい攻撃を続け、ついにこれを制します。孫堅も活躍します。

こうして、「黄巾の乱」としては一応の終息をみますが、その後も各地で乱が起こったのは周知のとおり。このあたりは、いわゆる「三国志」の世界といえます。

しかし、その一方で、ヘイ【丙β】原の事が詳しく描かれます。今回のラストは、彼が曹操に仕えるところ。公孫度の事にも触れられています。物語のスケ−ルが、やはり今までの三国志とは違う…。

84 名前:左平(仮名):2003/05/11(日) 01:36
あ、そうそう、今回も、名前だけの登場ですが結構有名どころが。
賈ク【言+羽】、太史慈、馬融、鄭玄など。

85 名前:★ぐっこ:2003/06/10(火) 21:41
そして今日久々に文春読んでみると、董卓と孫堅カコイイ。
相変わらず皇甫嵩ぶっちぎりで、同時代で彼を上回る俊傑はいないのでは
と思えるほどに(;´Д`)ハァハァ…

司空の張温の下で知謀を空回りさせつつも、けっこうアフターケアに気遣う
董卓がミョーにツボでした。あと、陶謙もカコイイ。

それにしてもいつ曹操が表に出てくるんだ。

86 名前:左平(仮名):2003/06/11(水) 00:08
おっと、今回はぐっこさんの方がお先に読まれましたか。
残念、今日は遅くなったもので文藝春秋は見てないです。明日以降、確認します。

87 名前:左平(仮名):2003/06/11(水) 21:55
一日遅れで、ようやく確認。確かに、将達がかっこいいです。
とはいえ、今回最も描かれていたのはやはり董卓でしょう(張温は凡将。孫堅は戦力に恵まれず、今回はいまひとつ目立たない【とはいえ、その力量は既に光っています】。陶謙は、武人らしい偏屈さの故に自らの器を縮めている…)。
不思議なもので、負けない戦をする董卓なのに、私にはなお「智謀の人」というイメ−ジはしないのです(いや、良将というイメ−ジはあるのですが)。やはり勝手知ったる羌族との戦いという事もあるのでしょうか。

それにしても、皇甫嵩の将器を活用できない漢朝は、やはりあきません。後々の事を考えると、なおさらです。

で、韓遂に北宮伯玉、馬騰、王国…。韓遂は、昔洛陽に行き、何進に意見した事もある、と…。時期はよく分かりませんが、蒼天で描かれた様なシチュエ−ションもあり得たと…。

88 名前:★ぐっこ:2003/06/11(水) 22:32
やはり萌えたのは張燕の登場でしょうな!飛燕カコイイ!

董卓は、正直猛将というより知将、謀将の印象が最近強い私であります。
洛陽で失政やらかすまでの彼の動きは、非常にクレバーではないかと。
というか、もし彼が李儒あたりの献策で動いていたとすれば、李儒って
郭嘉なみに先見のある軍師な気が。

89 名前:左平(仮名):2003/07/11(金) 00:26
◆その頃各地は 今回の宮城谷三国志◆

今回は、各地の様子とその中で動く群雄候補達が語られています。中央においては、霊帝は相変わらず銭の亡者ですが、各地は激動の中にあります。
西では「戦国の名将・趙奢の、そして伏波将軍・馬援の子孫」馬騰が蜂起。羌族の女を母とする彼にとって、漢朝は二重の意味で憎むべき存在(羌族を虐げ、馬氏を軽んじた)。
北では張純が丘力居と組んで蜂起。その鎮圧に加わるべく、劉備は旗揚げします。時に劉備二十八歳、関羽二十九歳(!)、張飛十六歳(!)。
南では区星が蜂起。それを孫堅が鎮圧。

曹操は、病を理由に官を辞めます。そして、官位を銭で買った父を批判。父とは距離をおくとありますが…そうなると、徐州の件はどうなるのでしょうか。
劉焉は董扶の勧めもあって益州へ。そこで五斗米道や教母と接触します。
公孫サン【王+贊】は張純と激しく戦いますが、手柄は、徳によって乱をおさめた劉虞のものに。

強い劣等意識にさいなまれ、任侠をきどる事で男を上げようとする。感情を表に表さない事の描き方といい、今のところの劉備は、どこか陰鬱とした感じがあります。そして、そんな彼についていく関羽にも同様の感じが。
しかし、そんな彼らが、ともすれば人格を卑しくするこの戦禍の中で、人として成長していく…。
曹操・孫堅と比べると、明らかに出遅れている劉備は、どうやってその差を詰めるのでしょうか。

90 名前:★ぐっこ:2003/07/18(金) 23:27
ようやく読みましたぜ〜!

三国志レギュラーもそろい踏みで、地方の反徒どもも元気良くて。
それにしても、まだ一人称的な視点を持つキャラクターが一人も
登場してないので、誰が主役か解らない物語ですが…

とりあえず今回萌えたのは、劉備と公孫瓉。特に公孫瓉がタク県の県令
やってた時代に言及されてて(;´Д`)ハァハァ。劉備が気兼ねして公孫瓉
に面会を求めなかった、という解釈がカコイイ。公孫瓉も遠慮してるところ
が、なんかツレっぽくていいですな…

しかし劉備の黄巾後しばらくの行動に、人として劣る、と言う評価を
与えながら、これから先の飛躍的な成長に言及する辺り、主人公は
劉備になるのかしらん?

91 名前:左平(仮名):2003/08/11(月) 21:50
今回は、いきなり陰謀から始まります。合肥侯擁立未遂事件です。その一員には、あの陳蕃の子・陳逸の名も。曹操も誘われますが、拒否しています。
…ちくまの和訳では、この合肥侯は劉氏の一人であろうとしているのですが、宮城谷氏は違うと断言しています(後漢建国の功臣の一人の子孫らしいのですが、まだきちんと読んでなくて…)。
はて?後漢書を確認しないと。

西に目を向けると、王国・韓遂の乱が続いています。自らの勢力を涵養せんとする董卓が気乗り薄な中、皇甫嵩は敢然と戦い、みごと勝利。この後、二人の関係は悪化するそうで(まぁ、董卓からすれば面目を潰されたわけですから無理もありません)。
アサハルさんがまた喜びそうな?描かれ方です。

そんな中、霊帝が崩じます。桓帝に(宋皇后を死に追いやった事、桓帝の実弟・渤海王劉カイ【小+里】を自殺に追い込んだ事を)叱責される夢を見た直後に、といいますから、はなはだ格好悪いです。まさしく悪い意味での「霊」に相応しい最期。
後継者問題一つまともに処理してないのですから…。霊帝については、今までの三国志の中でも、最も情けない描かれ方ではないかと思えます。
その前の行動を指して、秦滅亡前夜を思わせる、とも…。
そして、何進と宦官達との暗闘の中、次回へ。いよいよ、風雲急を告げています。

そうそう、味好漢の一人が登場してましたよ。曹操と荀揩高く評価し、袁術にはなぜか憎まれた、あの人です。

92 名前:左平(仮名):2003/08/11(月) 22:14
中央研究院で後漢書をチェックしました。確か「堅」って姓だった様な…で探しましたら、ありました。
後漢書/列傳/卷二十二 朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二/堅鐔というのが。
「(建武)六年,定封合肥侯.二十六年,卒.子鴻嗣.鴻卒,子浮嗣.浮卒,子雅嗣.」とあります。
しかし、そうなると、このク−デタ−未遂って、かなりのものでは…。もし事実なら、えらい事です。

93 名前:★ぐっこ:2003/08/13(水) 20:18
ほう!ようやく劉宏崩御ですか!や――――っとこさ、馴染みのある三国志になった
カンジですな!
実際、皇甫嵩ほか何人かの良将だけが気を吐いていた時代でしたよねえ…。
もうすでに半独立勢力じみていた董卓の兵団しかり、退廃的で自滅したとしか思えない
後漢王朝末期のドロドロした雰囲気が解るような気がします。
そんな中で、袁紹や袁術がどのような役割を果たしてゆくのか、いよいよ楽しみなカンジ。
早く読みたいな…。宮城谷先生って、何進をどう描いてましたっけ?私は「気分だけは竇武」
みたいな、平凡人が一生懸命背伸びしてる姿を想像してるわけですが…

>合肥侯擁立事件
( ̄□ ̄;)!! 私も皇族の誰かを立てる宮廷クーデーター程度と思ってましたわ!
劉氏以外を立てるのだとしたら、本当に大逆に当たる本格的な武力革命。
もし本当に別姓の皇帝を立てる反逆であるとすれば、いかに許攸がいたとはいえ、
よく曹操とか華歆とかに情報を漏らしたな
と呆れるばかり。誰だって逃げ出すような。

94 名前:★ぐっこ:2003/08/29(金) 00:26
ぐあ、書くの忘れてましたが、

何顒先輩カコイイ!

で宜しいか諸兄?

95 名前:左平(仮名):2003/09/10(水) 22:53
今回は、遂に!です。ただし、まだその事件の前半部といったところ。

宦官勢力の殲滅を叫ぶ袁紹、それに反対する家族(といっても血のつながりはない)との間で揺れ動く大将軍・何進。父・真の死後、血縁という意味では孤独の中にいる彼は、博愛精神の持ち主として描かれています。いわゆる「いいひと」ですね。しかし、それと器の大きさとはまた別物。機能していない朝廷に愚直に仕えた皇甫嵩もそうですが、「産まれた時代が悪かった」としか言い様がないです。
一方、袁紹は、危険を承知の上敢えて董卓を招こうとします。圧倒的な軍事力をもって何太后を威圧しようとしたわけです。
しかし、こうしてみると、皇太后の無知と無理解が悲劇を招いているというわけで…。外戚の専横(その結果として王莽による新朝成立)という苦い経験を経て成立したはずの後漢がそれに対しての備えを怠っていたという点で、光武帝の限界が指摘されます。

何進は、そんな危うい状況の中で殺害され、そこからなしくずし的に宮中は大混乱に陥っていきます。宮中の混乱→戦闘が翌々日まで続いたというのは初耳でした。
話とは関係ないですが、呉班の父・呉匡とともに何進の属官として張璋という人の名がちょこちょこ出てきて、まるでコンビみたいです。

96 名前:★ぐっこ:2003/09/11(木) 01:17
おお! いよいよ突入ですか!? 思えば第一話のあたりから
幅を利かしてた外戚組と宦官組が一掃され、一つの時代が終わる
歴史的事件。
党錮以前から清流派士人が命を賭して果たそうとしていた一大事業が、
何進の不注意と袁術の暴発で始まるという…。

たしかに何進は、気分だけは梁商とか竇武のいいところを真似た感が
ありますが、終わりもまた然り。妹はもちろん、義弟のヘタレに足を
引っ張られたという感もありますねえ…。
呉匡と張璋は、ふたりとも何進の親幸が厚かったようで。きっと目を
掛けられてたんでしょうねえ。呉匡は呉漢の末裔だから、張璋も名家
の士人だったのかも。

97 名前:★ぐっこ:2003/09/14(日) 10:24
読んだ! 盛り上がって参りました!
つうか、くそ、今学三でこのあたりやってたら気持ちいいだろうなもう!
何進たんお人よしすぎ! そして何太后バカ(というか凡婦)過ぎ!
たとえば三国志演義だと、いささか唐突に始まるこの事件ですが、宦官による
何進殺害とそのあとの虐殺に至るまで、どのような仮定を経たか、宮城谷作品
でけっこう勉強できます! 未読の方は、とりあえず単行本になれば買うよろし。
今週の文藝春秋だけでも立ち読みするもよし。
それにしても何苗がいかんな…

98 名前:左平(仮名):2003/10/10(金) 23:58
混乱する宮中から逃れた少帝・陳留王と宦官達ですが、やがて盧植・閔貢が追いつきます。張譲達は入水し、さてこれで終わりかと思ったら…
もうご存知の様に、あの男、そう、董卓の登場です。

荒れ果てた宮城をみて、その野心がうずいたのでしょう。西方で自立どころではありません。上洛した彼は、兵力をかき集め、その勢力の増大にこれ努めます。
その中で見出したのが、当時丁原配下の呂布。
剛勇の中にも「才覚をみせる」呂布は、「官位に憧憬を抱き」、「革命家ではなく」、「董卓とは異なる向きにある」人物として描かれています。
乱世であったがゆえ、「倫理という面から過度に指弾されている」とするこの描かれ方をみると、それなりの出世欲を持った、案外近くにもいそうな人物という感じがします。
蒼天の「純粋武人」ほどのインパクトはありませんが、ある意味興味深い描かれ方ではあります。

野心満々の董卓をみて、鮑信は危機感を抱き、袁紹に(董卓を除く様)説きます。しかし、受け入れられません。
せっかく「戦い抜く意思の力」を持ちながらも「状況が急変した時に対応できず、様子をみる事しかできない」のでは、何にもならないと…
当初、袁紹には不良仲間との交友があると聞いた董卓は、名門の御曹司らしからぬその姿勢を気に入りますが、結局両者は対立します。
董卓からみると、(袁紹が宦官を除こうとした際、皇帝は彼らと一緒であった。それを攻め、宦官達を虐殺したのであるから、袁紹は皇帝に背いた事になる。その皇帝を廃そうというのに、何を反対するのか。愚かな)とまぁこう見えたという具合。

こうして、少帝は廃され、陳留王が即位します。新帝の母を殺し、その祖母・董氏を死に追いやったのが何太后と知った董卓は、何氏を皆殺しにします。もちろん、元皇帝も。
その后・唐姫は、後に李カク【イ+鶴−鳥】に強姦され、賈ク【言+羽】に救われたそうです。

現在私が書いている「牛氏」では、賈ク【言+羽】が董卓の配下になったのをかなり早い時点にしてますが、そうでもないのかも知れません。この様な行動をみると。

最後に、曹操の蜂起について触れられます。次回は、反・董卓連合の結成でしょう。
脈絡なく書き連ねましたが、こうしてむみると、董卓の異質さが際立って見える様です。

99 名前:左平(仮名):2003/11/11(火) 00:18
今回、曹操が挙兵します。

彼は、董卓の招聘を拒んで去ります。董卓は立腹しますが、袁紹に対するそれとは
やや異なる様に描かれています(曹操の人となりに立腹したのではなく、単に自分の
招聘を拒んだという事実に対しての立腹)。
史書の中に見られる、逃亡中の記述。陳舜臣氏も語る様に『演義』みたいな事件は
なかった様ですが…。そもそも、その逃亡自体が百二十里ほど=行程四日程度(そして、
董卓からの手配の通達が行き渡るのに数日。役人はまだしも民衆は知り様がない)なの
だから事件自体発生しようがない!という指摘。またしても、意外な指摘です。

衛茲の支援を受け、旗揚げした曹操は、張孟卓(名のバクって出ないんですよね)・
張超、鮑信・鮑韜の各兄弟達とも合流し、徐々に勢力を培っていきます。
曹操の器の大きさが、そろそろ衛茲や鮑信の口から語られています。
曹操の矮躯に失笑が漏れるのに対し、晏子・孟嘗君の例が語られる(二人とも矮躯)
というあたり、宮城谷作品ならではという感じがします。

袁紹・袁術の影は薄い一方、張超のもとにいる臧洪の存在が大きいです。なるほど
正史にも伝があり、記述はそのとおりなのですが…。
やはり、劉備・曹操との絡みがほとんどないせいでしょうか。

100 名前:左平(仮名):2003/11/11(火) 20:56
昨日は、ちょっと流し読みだったので、補足。

その逃亡自体が百二十里ほどというのは、洛陽から、呂伯奢事件のあったとされる
成皋までの距離でした。
なるほど、手配の通達が役所に届くかどうかという段階では、そして曹操がそういう文書の
流れを理解しているのであれば、『演義』でいう様に疑心暗鬼になるはずもありません。

また、この時曹操は「兵は多ければ多いほどよいとは限らない」という様な事を言ってるとか。
と、なると…募兵に苦労したというイメ−ジもちょっと変わる?のかも知れません。

そして、袁紹らが合流する前の段階で、張バク【辶+貌】らは盟約を交わしています。しかし、発起人とも
いうべき曹操は、無位無官を理由にその場にはいません。臧洪伝の記述はその様になっていますし、武帝紀
にはそのあたりの事ははっきりとは書かれていませんから、おおむね事実の様です。

蒼天などの他作品と比べると、宮城谷曹操、やはり異質です。

101 名前:★ぐっこ:2003/11/12(水) 00:30
しまった、先月も今月も読んでなかったΣ( ̄□ ̄;)!!
むう、話はいよいよ曹操の挙兵に! これは読まねばならん…

ていうか私密かに衛茲が漢らしくて好きだったり。楽しみ〜

102 名前:★ぐっこ:2003/12/10(水) 22:42
二巻連続で読んだ!
何故か前巻があったので、併せて立ち読み。

個人的には、もうちょい董卓のキャラクターをネバっと書いて
頂きたいところですが、それでも各地の群雄の思惑カコイイ!
志摩子張邈さまが凡庸扱い…(´Д⊂ いや、実際張邈さまにしても
袁紹さんにしても、平時の「宮廷内政争」レベルでは時代を叱咤する俊英、
乱世になると途端に尻つぼみになるタイプと見たり。
当時なお歴史を変えうる位置に居る皇甫嵩も、あっさりと董卓と和解。
というか、董卓=朝廷となった時点で、皇甫嵩の概念では「従うのは当然」
に近い状況だったんでしょうねえ…。良くも悪くも漢朝に囚われすぎた老将軍
でした…

103 名前:★ぐっこ:2003/12/10(水) 22:44
あと、鮑信と鮑韜兄弟もよかったなあ…。
曹操の初期の盟友。もし二人とも生きていれば、どれほど曹操の
元で活躍したか…。
でも鮑信も武官とは言え、筆より重いモノを持たない純文官タイプだったはずで
よくぞ負傷するまで奮戦したものと。
衛茲の場合は忘れ形見が立派に成長して名声を博しましたが(終わりイクナイ)、
鮑兄弟の子供の事績ってありましたっけ?

104 名前:左平(仮名):2003/12/10(水) 23:37
おっと、先に書かれちゃいましたね。
ちょっと、年末年始に出すハガキを作成してたもので、こちらに
来るのが遅くなっちゃいました。

概要は、まさにぐっこさんの書き込まれたとおりですね。
この時点では、鮑信の方がむしろ冷静なくらいってのがまた。

>鮑兄弟の子供の事績
って、いるではないですか!鮑信の子の鮑kが!というか、正史の三国志では
鮑kの伝にくっついて鮑信の事が載ってるくらい!

それはそうと、お世辞には弱いのに戦略眼はなかなかのものを持つ董卓、結構
絵になる描かれ方ですな。張邈・袁紹が見劣りして映るだけになおさらです。

105 名前:★ぐっこ:2003/12/10(水) 23:56
忘れてた!(;´Д`)スコーンと。
なんか盧植の息子といい衛茲の息子といい、みんな似たような
キャラだなあと。

宮城谷董卓は、能力はともかく、その思考が意外に普通で、かえって
味があるんですよねえ…。そして、自分がそれほど嫌われていると思って
ないあたり。あと、伍瓊たちを斬ったのを後悔してるところとか。

106 名前:左平(仮名) :2004/01/10(土) 23:40
さて、徐栄の前に大敗を喫した曹操は、曹洪に馬を譲られ、悄然とした面持ちで撤退します。
周ウらの協力を得て募兵には成功したものの、叛乱を起こされ、かえって減ってしまう有様です。
しかし、この勇戦が彼の存在感を示す事になります。
それにしても、この周ウ・周グ【日+禺】の兄弟、ここで曹操の器を見出してるのに、その後が冴えないんですよね…。周グ【日+禺】に至っては、『(将としての力量には乏しくないのに)死ぬまで負け続けた』なんて言われてますし。
募兵に携わっていたのに夏侯惇・曹洪・史渙の名が挙がっていますが、曹仁(168生)・夏侯淵の名が出てません。年齢的には、夏侯惇≒曹洪>夏侯淵≒曹仁ってな感じなのでしょうか。

しかし、袁氏の二人はもっと冴えません。いかに董卓に牛耳られているとはいえ、朝廷の命を受けて派遣された名士達(韓融・陰脩・胡母班…)を処刑したりしてます。
(韓融が、陰脩に逃げる様勧める際に、夏姫と巫臣の名を出してるのは、宮城谷作品だからでしょうか)
そして、この有様をみて荀揩ヘ袁紹を見限ります。
袁紹は、進むもならず退くもならず、劉虞を擁立しようとします。ただ、これはいかにいっても弥縫策にすぎません。あの袁術でさえ、これにはまっとうな批判の書状を出してるくらいです。
さて、次回は、精強な董卓の軍団を打ち破る勇将が登場するはずです。楽しみ!

107 名前:★ぐっこ:2004/01/14(水) 00:34
読んだ!( ゚Д゚)

あーーー! なんかいい感じにこじれてきてますねえ、袁紹陣営。
鮑信出っぱなし(;´Д`)ハァハァ…個人的には張邈さまがアレなのがアレですが、
でも曹操裏切る伏線だからしようがないか…
あとは袁紹のキテレツっぷりもいい! 胡母班さま達を殺させる狭量っぷりが
また! 明らかに若い頃の鷹揚さが無くなり、どんどん変になっていっている
ようですやねえ。

108 名前:左平(仮名) :2004/02/11(水) 18:12
さて、遂に「無敵と思われていた」董卓の軍団を打ち破る男−孫堅−の登場ですよ!

当時の彼は長沙太守。数万の兵を集められる立場という事からすると、曹操より恵まれた立場
ではあるのですが、それを差し引いても快挙です。
挙兵に際し、王叡・張咨を殺害してはいますが、彼の履歴を汚すには至りません。
かえって、これによって袁術を恐れさせ、軍糧を得ています。
しかし、袁術自身は動きません。一緒に動いていれば、袁紹を出し抜く事もできたのにねぇ…。

序盤、徐栄に苦杯を喫しますが、祖茂の活躍もあり難を逃れると、胡軫を破り華雄を斬ります。
孫堅を恐れた董卓は懐柔工作を試みますが、これを突っぱねると、直接対決を迎えます。
(徐栄、こうしてみると曹操・孫堅に勝ってるんですね。いまいち無名ながら、実は大変な名将では?)

董卓は騎兵の機動力を活用し、擬兵を以って欺こうとしますが、これを完全に看破。董卓が陣を構築する
間も与えずに総攻撃をかけます。
もっとも、ひとたび劣勢をみてとると、董卓はすかさず撤退します。このあたり、無駄な戦いによる
消耗を避けるという怜悧さが見て取れます。
董卓の撤退後、呂布と孫堅が干戈を交えますが、呂布の武勇を以ってしても、孫堅には届きません。
というか、呂布の武勇が全く目立たない!それほどまでに、孫堅の名将ぶりが際立っています。

洛陽入城後、孫堅はある発見をします。皆さんご存知の、玉璽です。
孫堅が洛陽に入ると玉璽が光(気といってもいい?)を放ったという事は…彼の家が帝室になると
いう事か…。この噂を聞きつけた袁術が孫堅の妻を人質にとり、孫堅が戻ったところで今回は終わり。

…空想ですが、もし、袁術に見る目があったなら…。孫堅を立て、新政権を打ち立てる事もできたの
では…。もっとも、彼が人の下につく事ができれば、の話なのでまぁ実現可能性は0なのですが。

109 名前:★ぐっこ:2004/02/14(土) 00:13
読みますた!
うーん、今回は何というか、堅パパファンデーの如く!
侵攻ルートの実力者を次ぎ次ぎと殺しながら北上する男っぽさ、
徐栄はともかくとして、胡軫、華雄、呂布を連戦でうち破る
戦上手さ! このへん董卓と轡を並べた頃のすごみがあってよい!
所詮その董卓の部下には負けっこないわけですな…

袁術は、このあたりまではまだ兄よりまともだったのにね…

110 名前:左平(仮名) :2004/03/10(水) 23:12
妻を人質にとられた孫堅は、あっさりと玉璽を差し出しました。演義とはちょっと違います。
袁術も、これには上機嫌。孫堅は豫州刺史に任ぜられます。
当時、豫州刺史は孔チュウ【イ+由】でしたが、辞任し、その印綬を袁紹に預けていました。
後任として任ぜられたのは、周昂(周ウの弟)。
印綬を持つという点では周昂、朝廷に対する忠勤という点では孫堅。ともに、十全の正当性を
持たないだけに、決め手を欠き、激烈な争いとなります。

その一方、北では公孫サン【王+賛】と劉虞の争いが。結果は、公孫サン【王+賛】が劉虞を
殺害するというものでしたが、今回、それについてあまり詳しくは語られませんでした。
一方で、劉虞の依頼を受けた田疇が、使者として長安に赴き賞賛された事、そして、それに答
えるべく劉虞の子・劉和が派遣された事(そして、この劉和は孫堅と周昂の争いに少なからず
関与した)事が語られます。
まだ一族の仇・董卓が健在だというのに、袁紹と袁術が相争っています。

安定した勢力圏を渇望した袁紹は、逢紀の進言を容れ、韓馥から冀州を強奪します(その後韓
馥は自殺しますが、袁紹側が相当圧力をかけ、追い込んでいた様です。全く、悪どい事をする
ものです。韓馥には恤民の心がありました。そんな人物を死に追いやるとは。やれやれ。これ
では、荀揩ネらずとも見限りたくもなるか)。
官渡にはまだ数年ありますが、これでは曹操との戦いの結末も、おのずと見えてくる。そんな
感じさえしてきます。

董卓が長安にいた頃、関東の情勢はこんな感じでした。…こうしてみると、三国志に至る全体
像って、案外見えてないものですね。

111 名前:左平(仮名) :2004/03/11(木) 21:23
今回書かれた袁紹と袁術の争い、もう少し詳しく書くと…。

反董卓連合が為すべき事も為さずにいる様をみた劉虞は、朝廷(≠董卓)に対する忠勤を示すべく田疇を派遣。

田疇は、「状のル−トをとり、長安へ(幽州から西に向かい、そこから一気に南下。争乱の中にある中原を避けた)。

皇帝は、劉虞に対し、自分を救い出す様依頼すべく、劉和を使者にたてる。

劉和はV状のル−トをとり、幽州へ向かおうとする(長安から南下し、中原を避ける)。

袁術が劉和を引き留め、別に使者を幽州へ派遣。劉和は留めおかれる。

劉虞、袁術と連携して皇帝を救わんとし、軍勢を派遣。公孫サン【王+賛】は、一族の
公孫越をつけ、隙あらば…と指示

孫堅と周昂の戦いに、幽州軍参戦。公孫越は討死し、孫堅を援護するはずの幽州軍は崩れるも、
孫堅が、優勢になった事で気を緩めた周昂を攻め立て、勝利。

公孫越の討死に怒った公孫サン【王+賛】、袁紹と対立

公孫サン【王+賛】が冀州を攻めるのをみて、袁紹は、逢紀の進言を容れ、韓馥から
冀州を強奪。

韓馥、自殺。

その一方、曹操は、鮑信とともに自らの勢力を徐々に固めつつあります。

112 名前:★ぐっこ:2004/03/12(金) 00:46
文春も読みこぼしたか…早く読まなきゃ…

113 名前: 左平(仮名):2004/04/10(土) 14:07
気がつくと、もう連載開始から三年。それで、今回のタイトルは『界橋』。皆さんなら、このタイトルでどのあたりの時期か見当がつくでしょう。先はまだまだ長い…。

遷都した長安において、董卓は思うがままに振る舞います。名将・皇甫嵩と和解(史書の記述を見る限りでは、不思議なほどこの経緯が穏やかなんですよね。皇甫嵩からすると、董卓は叔父の妻の仇のはずなんですけど…)した事と反董卓連合の分裂もあり、もはや恐れるものはなし。親族を次々と高位につけ、爵位を乱発し、自らを「尚父(太公望)」にしようと画策…。誰も止められないのか、と思いきや、蔡ヨウ【巛+邑】が懸命に諌言し、幾許かでもその暴走を留めております。彼の覚悟のほどについて言及したのって、宮城谷三国志が初めてでは?
正面から董卓を匡すことが出来るのは彼一人ですが、董卓を害せんとする毒は別に…。

一方、北に目を転じると、袁紹と公孫サン【王+贊】とが争っております(きっかけは、前回語られた、公孫越の戦死)。そんな折、異相の男が公孫サン【王+贊】のもとを訪れます。そう、劉備玄徳(←公孫サン【王+贊】のせりふの中で、一回こういう言い方をしてます)の登場です。黄巾との相次ぐ戦いに疲弊した感のある彼でしたが、ここで、名将の器との出会い、華々しい勝利があります。曹操と同様、着実に成長しつつあります。

タイトル通り、今回の山場は袁紹と公孫サン【王+贊】との大会戦です。公孫サン【王+贊】率いる白馬義従VS麹義率いる彊弩部隊との激突!
ビジュアル的にも絵になる戦の結末は…!

114 名前:★ぐっこ:2004/04/15(木) 00:23
見た( ゚Д゚)!
今回は、いよいよ本格的に三国志っ! サリゲに趙雲出てるのも
いいですが、やはり公孫瓉の格好良さが!田楷の地味さが!
宮城谷袁紹は、どうにも救いようのない狭量・狷介な小人ですが、
それでも界橋では漢を見せてたなあ…

麹義と公孫瓉と鄒靖って、多少任官時期は外れますが、度遼将軍
の指揮下で対異民族の校尉をやってたんですねえ。界橋はいわば
僚将どうしの争いでもあったわけで。

115 名前:左平(仮名) :2004/05/10(月) 23:53
今回のタイトルは「兗州」なのですが…実際には、孫氏を襲った悲劇と、その後の試練が主題といった感じです(勿論、兗州の
事もきちんと書かれてますよ)。

前回の最後に記されていた「思いがけない死」とは、孫堅自身のそれでした。袁術に愛想をつかしながらも、その指令をうけて
劉表と戦っている最中の出来事でした。(見方を変えれば)思いがけない殊勲を挙げた黄祖については、「劉表の軍事がまずく
ないのは黄祖の武列による」という記述があり、ん?という感じ。
そう、何だかんだ言っても、彼が孫堅を倒したのは事実。そりゃ孫堅や孫策には将器の点では及ばないにしても、もう少し評価
されてもいい人物ではあるんですよね。卑劣な事をしたわけでもないし(陳舜臣氏の「諸葛孔明」での書かれ方に近いですね)。

父を喪った孫策は、しかし喪に服してばかりはいられません。当時は在野であった張紘に教えを乞い(ここで「墨衰絰【ぼく
さいてつ:喪服・帯を黒く染めること。晋の襄公の故事から】」という言葉が出てきます。そう、当時の士人にとっては春秋
は必須の教養です)、呂範や兪河といった人物の支援を受けます。
一方、叔父の呉景は袁術の配下として前述の周ウと戦いますが、彼我の器量の違いは大きく、孫策は父の手勢の返還を願います。
…しかし、兵を借りるネタの玉璽はもう袁術に渡したのでは…?

孫策の行動を語る中で、陶謙や趙Gにも触れられています。

一方、タイトルの兗州についてはというと、黄巾の蜂起によって劉岱が戦死。その空白を埋める
存在として、曹操の名が浮上します。これを画策したのは、陳宮(能吏とされていますが、その
人物についてはまだはっきりとは描かれていません。こちらは次回待ちでしょうか)。また、この
頃には荀揩熨qの幕下に加わっています。程Gも、ぼちぼちでしょうか。
数十万にも達する敵の大軍に対し、曹操は数千を以って立ち向かいます。一体、どうやって戦うの
でしょうか。

116 名前:★ぐっこ:2004/05/13(木) 00:05
うーん、孫堅死す! 劉表の軍事的な成功の影には、常に勇将・黄祖の
武勇があったわけで。それでも黄祖では孫堅に太刀打ちできなかったあたり、
格の差がありましたやね。

今回はけっこうペース早し。それだけ多くのことが短期間に集中したのかな。
孫策の挙兵もはじまってるし…
それにしても注目したいのは、周ウ。彼も生きてたら、結構面白いポジションに
いただろうなー。曹操にとって、揚州における鮑信になれただろうに、残念。

117 名前:左平(仮名) :2004/06/10(木) 21:52
おっとと…結構下がってますね。

前回が孫堅の死でしたから、今回は…?と思いましたら、タイトルは「鮑信」でした。
そう、兗州における曹操対黄巾の戦いが今回の主題です。
曹操の軍勢+鮑信の軍勢は約一万。これで百万と号する黄巾とどう戦うのか…と思いましたら、
なかなかどうして。見事なものでした。
少数ゆえの機動性を生かして奇襲をかけ、大量の捕虜を得た曹操は、彼等に対し熱弁を振るいます。
「民を虐げたくはなかろう」と(王朝が民を虐げると言って叛旗を翻しても、明確なビジョンのない
黄巾もまた、結局は民を虐げる存在でしかない。また、いくら「平等」と言ったところで、やはり
上下の別はある。ならば、自分のもとで正道に立ち返らないか、とまぁこんな感じ)。
これに感じ入った兵達が曹操に仕えていき、いわゆる「青州兵」に至っていきます。

はじめは別に動いていたものの、行き詰まりを感じて曹操のもとに参じた曹仁は、そんな曹操の姿に
感化され、悍馬から駿馬への変貌を遂げつつあります。また、程G・毛玠も曹操のもとに参じ、その
勢力は確実に充実しつつあります(名前だけですが、曹純・曹休・曹真も登場します。曹休、この頃の
登場となると、蒼天での姿はちょっと若すぎる気がしないでもありません。まぁ、蒼天での登場を四十
手前くらいにみれば何とか、というところでしょうか)。

しかし、多くのものを得た一方で、喪ったものもまた、大きいものがありました。そう、鮑信の死です。
その死に様自体ははっきりしません。なにしろ、その部隊は殆ど全滅に近かったのですから。
捕虜を釈放する際にその遺骸の捜索を依頼したという一事をみても、その衝撃の深さが伺えます。
「『湯王に伊尹あり、文王に太公望あり』という如くに『曹操に鮑信あり』と言われる日を夢見ていた」
「天はわたしに丕業をさせないのか」
「独りでゆけという事か…」
曹操にとっては、恐らく生涯でただ一人の、二度とは得難い真の『友』。その死は、残された者にこそ辛い
ものとなりました。

…さて、何か忘れてはいませんか?そう、董卓はあれからどうなったのか?
彼が死んだ事は、ひとまず触れられました。しかし、その経緯は、次回以降に。
(王允に、既に呂布を味方にしている様な台詞が。一体、どうやって?)

118 名前:左平(仮名) :2004/06/13(日) 00:59
↑鮑信の死に対し曹操が衝撃を受けるくだり、何分立ち読みでしたので、再確認してみると表現は幾分
違ってる(例:文王→正しくは武王でした)のですが…まぁ、こういうニュアンスでした。
曹操もさる事ながら、史書の記述に基づく比較的淡々とした記述なのに、鮑信の清冽さが滲み出てくる
様です。

119 名前:★ぐっこ:2004/06/19(土) 15:32
とうとう鮑信死んじゃいましたねえ…
弟に続き、兄弟そろって曹操に殉じる形に。曹操の身代わりで死んだ、
ってエピソードを採用するかと思ったのに、意外。

とにかく、曹操の前半生を支え抜いた「同志」にして「友」。
生きていれば生きていたで、また別の悲運に巻き込まれそうな忠臣タイプではありましたが…

120 名前:左平(仮名) :2004/07/10(土) 21:42
まだざっとしか読んでないので何ですが…今回、遂に董卓の死が描かれました。

王允と呂布が接近したのは、二人とも并州の人であったという地縁から。まぁ、
それ自体は他の作品でも描かれてましたが、ちょっと違うところがあります。
それは、「董卓は既存の秩序の破壊者であるのに対し、呂布は既存の秩序の尊崇
者」という点。呂布は「飛将軍」と呼ばれますが、李広の如く、漢の将軍として
活躍し、位階を上げたいという意味での野心の持ち主とされています。
そのため、王允が呂布に対し、董卓の殺害を教唆した際の態度は、どこか理知的
でさえありました。
「蒼天」あたりと比べると、えらい違いです。物足りないと思われるかも知れない
というくらいに。

この謀議には士孫瑞らも加わっているのですが、どうも王允・呂布、あと李粛ら
だけでやった様な印象があります。この様な、危険を伴った謀議はあまり派手に
やるものではないというところでしょうか。

一見、骨のない様に見せ、董卓の油断を誘った王允の作戦勝ちといったところ
ではありましたが…董卓の配下にはあの男(蒼天では、頭巾の下は禿だったあの
男)がいるんですよね…。「稀代の謀略家」の活躍は次回、です。

121 名前:左平(仮名) :2004/07/11(日) 22:28
再確認〜。

そもそも、王允と呂布が接近した経緯自体が、従来の三国志とはちょっと異なってるんです。
ここでは、両者が知己になったのは、呂布が丁原を殺害するより以前の事。理由は、↑のとおり。

そうそう、もちろん何顒・荀攸も描かれてますよ。あと、董卓殺害時点での、部将達の配置も。
牛輔の最期に至る経緯、どう考えたものか…(董卓殺害の報が陝に届いたのがどのあたりなのか。
それによって、牛輔が陣営を去る時が大きく変わるし…。あと、易の判断?で董越を殺害すると
いう話をどう絡めるのか…)。

今回は、他の群雄についてのコメントはほとんどなし。それだけ、この事件は重大という事ですね。
次回もそうなりそうです。

122 名前:★ぐっこ:2004/07/18(日) 18:03
読んだ( ゚Д゚)!

確かに新鮮な呂布像でしたわ。
非常に率直に、同郷の名士である王允を尊敬し、心の底から
董卓にビビっている呂布!
権力が欲しいのではなく、名声が欲しい呂布! 皇帝になりたい
のではなく、大将軍くらいになってみたい呂布!
こうしてみると、何か呂布という存在が身近に感じられていいですねえ…
宮城谷版呂布、久々にヒットかも。つうかもう私の中のデフォルト(南蛮王除く)。

123 名前:左平(仮名) :2004/08/11(水) 20:55
今回のタイトルは「賈詡」。
出だしは、彼の奇才をみたはじめての人・閻忠の紹介からでした。もちろん、あのハッタリも描かれています。

陝から長安への進軍、呂布と郭氾の一騎打ち、そして長安市街戦。献帝にとって、はじめての輔弼となるかも
知れなかった王允は、脱出を拒み、ついに殺害されます。
蔡文姫の悲劇も、この頃の事として紹介されています(彼女の経歴もまた、曹操と他の群雄との差を示す論拠
との事)。

かくして、元・董卓配下が実権を掌握しました。皇甫嵩は朝廷にあるものの、もはや覇気を失った老臣。朱儁は
盟友もなく、中牟で孤立。…時代の流れの残酷さが、ひしひしと伝わります。
(皇甫嵩は、この後三公になっています。しかし、天候不順を理由に罷免されるなど、ただの傀儡に成り下がって
しまっています)
こんな中、ひそかに不安を抱く賈詡は、「権力の中枢にありながら、かつ、遠ざかる」という策を実行します。
(尚書となった後、ひそかに良材を推挙するなど、中立的なスタンスに立ちます)
やがて、彼らは内部分裂を起こしましたから、賈詡の危惧は当たるわけですが…それは次回以降の話です。

一方、長安から辛うじて逃れた呂布は、袁術を、続いて袁紹を頼ろうとします。
(この時点で自立を考えていれば…というコメントがあります。呂布の失敗は、情報の不足にあった、と)
しかし、丁原・董卓という二主を殺害したという経歴を持つだけに、露骨なまでに嫌悪感を示されています。
それにしても、今回の呂布の台詞は、前回にもまして従来のイメ−ジを覆しています。
↓こんな感じですからね。
「〜わたしは三公の下、九卿の上の地位にあった。代々三公九卿を出しておられる袁氏の総帥ともあろう
お方が礼儀をご存知ないとは〜」

124 名前:★ぐっこ:2004/08/13(金) 02:31
読みますた!

うーん、今回はイロイロと急変がありましたやねえ…
アサハル様んとこにも書き込もうかと思いましたが。やっぱり皇甫嵩の
最期の記述が…。なんか切なくなりますよねえ、ホント。
何でこうなっちゃったんだろう、みたいな焦燥というか絶望というか、
後悔みたいな気持ちはさすがにあったかもしれませんね、皇甫嵩。もし彼が
動いていれば、こんな事態は避けられたでしょうに…
こうしてみると、かえって閻忠の予言じみた忠告が、逆に皇甫嵩の義挙を足止め
する枷になってたかも…

で、この作品の呂布、いいですねえ(^_^;) なんというか素朴で不器用で。
漢室での忠義を志して流浪し、諸侯が自分を受け入れてくれないのに首を傾げる。
乱世向きでは無いと言う気も。

125 名前:左平(仮名) :2004/09/14(火) 00:05
また結構下がってますね。

さて、今回のタイトルは「謀主」。前回のラストは、呂布を張燕討伐に使えないかと
袁紹達が考えるところでしたが…場面はがらりと変わります。

今回、最初のキ−パ−ソンになるのは、陶謙。朱儁を立てて上洛を試みるのですが、
彼が李カク【イ+鶴−鳥】・郭氾の誘いに乗ってしまったので失敗。都に近づこうと
すると、曹操の領域を侵す形になり、衝突(まだ曹嵩の話は出てません)。
何だか、そう悪いキャラでもない感じになってます。しかし、間が悪い。
また、皇甫嵩・朱儁とも、かつての栄光が完全に色褪せてしまった最期でした。

一方、拠点を得た曹操は、皇帝を迎える事を考え始めます。しかし、都へは遠い。その
為、張楊に通行の許可を得ようとして…何とか許可を得ました。その使者は都にも到達
しています。
(史書の伝をみても、この張楊、なかなかの好漢なんですよね。後に呆気なく殺されて
しまうのが、個人的には惜しまれます。ここでも、「常識は備えている」「計算高い人
間ではない」など、大物ではないにしても、人の良さを思わせる描き方です。)
実は、ここで董昭や鍾繇の名が出てきてます。しかし袁紹、董昭にも逃げられてたのです
か。何とも、勿体無い。

「事件の多かった」初平三年の事件、まだまだ続きます。
この頃の勢力図は、確か、
  中心勢力       近い勢力
1 董卓(及びその残党)
2 袁紹         曹操、劉表
3 袁術         公孫瓚(とその配下【劉備込み】)、陶謙
こんな感じ。で、1は関西、2・3は関東を拠点にしてます。
今回描かれたのは、2と3の争いというところでした。

共に人材の使い方を誤り、潰し合いをしている様な感じ(そんな中で、曹操も賞賛して
いた袁遺はあっさりと死んでしまいます)。
しかし、怠惰な袁術は、気が付くと足元を劉表に侵食されていました。で、東に移動を
開始すると、曹操と…。
既に青州黄巾百万の大軍と渡り合い、将帥としての実績を気付きつつある曹操。次回は、
どうやらまた一度の乾坤一擲の大勝負になりそうです。

126 名前:★ぐっこ:2004/09/15(水) 00:27
読みましたー。

まず朱儁 憤死!
うーん…彼も皇甫嵩と異なった意味で…つうかより具体的に
天下を動かす位置にいたのですけれどねえ…
結局は遙かに格下だった李霪・郭レのともがらに振り回された
だけだったかと…。

曹操が帝を迎え入れる前段階のドタバタが、順を追ってかなり
克明に。このへん、スルーされがちだから興味深い。
一応、李霪を中心とした朝廷というモノがそれなりに機能していて、
でも東国の連中が言うこと聞いてくれないから困ってて…という内情
がなんだか可愛い。板東武者にオロオロしてる京の公家連中みたい。
曹操あたりがちょろっと勤皇の兆しを見せると、心底喜んだり。

それにしても宮城谷センセ、張邈様を責めないで…。・゚・(ノД`)・゚・
張邈さまはイザというときヘタレなだけなのよ…

うーん、そろそろ立ち読みだと追い切れない情報量になってきたなー。
早く単行本化してくれんものか…

127 名前:関龍白:2004/09/16(木) 10:17
はじめまして。関龍白と申します。よろしくお願い致します。
単行本ですが、来月1,2巻発売だそうですよ
e-honの予約でそれぞれ10月上旬、下旬発売になってました。

128 名前:左平(仮名):2004/09/19(日) 00:43
↑遅くなりましたが、貴重な情報、有難うございます。しかし二巻一挙に、とはまた…。
第二巻で梁冀、という事は…一巻で一年分くらいといったところでしょうか。

それにしても、ぐっこさん。
李「錺」
  ↑この字は一体?字典で見ると、国字なんですけど。

129 名前:★ぐっこ:2004/09/19(日) 01:58
何ィィィィィ!!!?( ゚Д゚)

関龍白さま、初めまして! そして情報ありがとうございますッ!

ぐわ…マリみて新刊と宮城谷三国志の双方が出版されるとは!
今年の10月は神なのか!? 神の月なのか!?
二冊がかりでも、どう考えても黄巾ちょっとくらいまでしか進まない
宮城谷ワールドに燃えるしか!

130 名前:左平(仮名):2004/10/11(月) 18:00
今回は、普段の連載に+αがあります。「曹操と劉備 三国志の世界」と題された随筆です。

まず、「三国時代」の定義と参考文献。といっても、ここで挙げられているものの多くは、
三国迷であれば必読レベルかも知れません。「三国志全人名事典」も挙がってます。
続いて、「組織の創立者の与える影響」。光武帝による皇后の廃立は、必然的に皇太子の
廃立も伴ったが、それは王朝を不安定にする遠因であった。また、内朝(後宮、宦官等)が
権力を握った結果…。
さらに、後漢末の諸勢力の概要。「三国漢季方鎮年表」というものがあるそうです。

そして、メインテ−マ。
@西暦190年代前半の状況について言うと、関東においては袁紹と袁術が対立しているという
のは既出ですが、「この時点においては」彼らのスタンスは微妙に違っていたとしています。
「自身が新王朝をたてるという野心をあらわにしている」袁紹に対し、「漢室を尊重する様に
振る舞う(本心は袁紹と同じ)」袁術という図式です。その故、「勤皇の士」であった呂布は、
当初袁術を頼ろうとするが…と。
また、袁紹の限界を示す具体的な事例として、韓馥の悲劇を例示しています。
Aそして、タイトル通り、曹操と劉備の比較です。「曹操は〜不羈の人とみられるが、実は、
妥協を重ね、己を殺してきた人である(彼が多くの敵を許したのは、相手が『社会的に有益な
人物であるから』)」。自身を公的立場に置かざるを得なかったが故、としているあたり、
『蒼天航路』とは全く違う観点で曹操をみている事が分かります。
一方、劉備は、字の『玄徳』が示す様に、道教的な側面を強く持つ人物である、とします。何
よりも「劉備は劉備である」事を重んじ、融通無碍。それ故、儒教的には、呂布の方がよほど
まともであった…と。
一方で、歴史的にみれば、劉備の様に融通無碍である方が、本来戦いには強いものだが…という
あたりの指摘がまた、興味深いものがあります。
この時代の面白さってのは、案外、そういうところにあるのかも知れません。

そして、待望の第一巻の発売日は、10月14日(木)だそうです。

131 名前:左平(仮名):2004/10/11(月) 18:22
そして、今回。タイトルは、確認を忘れました。

まずは、袁術VS曹操の対決です。とはいっても、結果は曹操の圧勝でした。
兵力は袁術の方が大きかったのですが、将帥の差が、否応なしに出てきたのです。
袁術には、いいところ全くなし。(包囲されつつあるのをみて)脱出するべく盛り
土をよじ登れば土を浴び、ようやく降りたら馬に蹴られて草を噛む。逃げ込んだ先
では、堤防を破られて水攻め…。辛うじて脱出はしたものの、逃げ足が速いのだけ
が救いとは、また。

そして、それに続き曹操VS陶謙。互いに嫌悪感を示す両者の、戦いの火蓋が切られ
ようとするその矢先…曹嵩が殺害されます。なお、ここでは、曹嵩殺害は、陶謙の命に
よるものとしています。
先の随筆では、この陶謙はなかなかの人物として書かれていますから、ちょっと不思
議な感じがします。前に孫ぽこさんがおっしゃってた通り、まさしく「謎の人」。
勿論、父を(さらに弟も)殺された曹操が黙っているはずがありません。前もって、
「これはただの復讐戦ではない」という大義を掲げた上で、孟卓に後事を託し、戦いに
赴きます。
この戦いにおいては、曹操は「敵は全て殺せ」ってな指示を出しています。その為、大
量の戦死者が出ています。いわゆる徐州虐殺をどう扱うか…ここらが参考になるので
しょうか。

曹操に敗れた陶謙は、田楷に救援を依頼し、ここで、久々に劉備達の登場と相成ります。
関羽・張飛ともに「徐州に向かうべし」と主張し、劉備もその通りにするのですが、ここ
での関羽の存在感がまた大きいんです(完全に劉備をリ−ドしてます)。ただの猪武者では
ありません。豊富な人生経験に加え、これからのとるべき道を提示してみせるあたりは、
『蒼天』での関さんを思わせます。

132 名前:関龍白:2004/10/12(火) 20:46
ぐっこ様、左平様、皆様こんばんは。
今回のタイトルは「徐州」です。
あと単行本は3巻まで発売されるそうですね。
2巻は28日の予定らしいです。
1巻13話ぐらいになりそうですね。
あと三国志とは違いますが、
今月末に「古城の風景」というのも発売されるらしいです。

133 名前:左平(仮名) :2004/10/14(木) 23:57
本日、宮城谷三国志第一巻が出ました。で、則購入しました。

第一巻は、12の章(第○章という書き方ではなく、それぞれの回
に「○○」というタイトルがついている)から成り、初出は200
1年5月号〜2002年5月号分です。
楊震の出仕から、順帝崩御〜質帝即位までが描かれています。

このぺ−スですと、関龍白さんのおっしゃる様に、1巻で12
〜13回分のボリュ−ムですね。
と、なると…第三巻のラストは、今年の5か6月分のあたり
でしょうか。孫堅か鮑信か。

134 名前:一国志3:2004/10/17(日) 21:24
ご無沙汰しています。
近所の書店に立ち寄ってみたとき、宮城谷三国志を購入していました。
文芸春秋の立ち読みで、大まかなあらすじだけは頭に入っていました。

後漢の歴史の流れや人物像には詳しくないので、よい勉強になりました。
暗愚な安帝の在世が終わり、順帝の在世に入ろうとするあたりまで
読み進めました。連載時には若かりし日の曹騰を書き込んだと記憶しているのですが、
改めて読み直してみたいところです。

135 名前:★ぐっこ:2004/10/17(日) 23:44
Σ(;;゚Д゚) 忘 れ て た !

つうか今週はもう何がなんだか…

明日必ず買おう。HDも買わなきゃだめだし。
確か今月は三国志関連の本が集中してたような。

それにしてもハードカバーの小説買うのって久しぶり…
これまでの宮城谷作品、全部図書館で読んで、文庫版待って
買ってたからなあ…

136 名前:左平(仮名):2004/10/18(月) 21:02
今日、帰りに書店に寄ってみましたら、積んであった宮城谷三国志の横に、何かありました。
何かなと思い手にとりますと…第一巻の表紙と同じ印刷がされている、全8ぺ−ジの小冊子
でした。

文藝春秋から「本の話」という冊子が出ており、その11月号に「後漢という時代」という
タイトルの、宮城谷氏の随筆が載っているそうなのですが、この小冊子には、その「後漢と
いう時代」と後漢帝室の表(これ自体は第一巻にも添付されてます)、そして、第一期となる
一〜三巻の主要登場人物が記載されています。
もちろん、他の本を買うついでに一冊持って帰りました(自由にとってよい性質のものです
ので)。
裏面がハガキになってます。

137 名前:★ぐっこ:2004/10/21(木) 00:40
読み始めた( ゚Д゚)!
うーん、通しで読むと流れが分かる!…でも、まだ半分くらい。
安帝崩御のあたり。マジにこれ三国鼎立まで何巻までかかるんだろう…。
アサハルさまのとこの後漢祭も近いことだし…あ、そういや党錮小説
止まったままだった(;´Д`) リメイクしてたら間に合わないか…

>>136
うらやますぃ…。近所の本屋にあるかしら…

138 名前:左平(仮名):2004/10/21(木) 01:19
>小冊子
これを見つけたのは、広島では最大規模のジュンク堂書店です。
なので、大きい書店でしたらあるかと思われます。

今後の発売日は…先の小冊子によると、第二巻が10月下旬(関龍白さん情報では28日)、
第三巻が11月上旬とのことです。ちなみに、小冊子には、第一巻の発売日は10月中旬
(実際の発売日は10月14日でした)と書かれてました。

139 名前:関龍白:2004/10/21(木) 19:19
小冊子ですが三宮や明石(共にダイエー内)ののジュンク堂で見かけましたよ。

140 名前:関龍白:2004/10/23(土) 00:05
第二巻発売日ですが今日文藝春秋ホームページを
確認すると28日になってました。

141 名前:左平(仮名) :2004/10/28(木) 23:16
関龍白さんの情報通り、今日、第二巻が発売されました!
もちろん、即購入。帰りの電車の中で読み始め、先ほど読了しました。

第二巻収録分の初出は、平成14年6月号〜平成15年5月号。
質帝即位〜黄巾の乱までです。
やはり、単行本になりますと、サクサクと話が進んでいきますから、筋が
よく分かります。
しかしこうしてみると、後漢王朝、桓霊の間はほんまにガタガタですね。
話が進むにつれ、政治がますますひどくなる一方なんです。

142 名前:関龍白:2004/10/29(金) 17:10
私も購入しました。
付録の「三国志」の美将たちというのもついていますね。
すでに11日発売の3巻が待ちどうしいです。

143 名前:左平(仮名) :2004/10/31(日) 23:06
文藝春秋のサイトで、関龍白さん情報を確認しました。
…ただ、先の小冊子などでは「第三巻は11月上旬」と書いてるのに11日では
違うだろ、というツッコミを入れたいところ。

144 名前:張白騎:2004/11/01(月) 18:04
2巻私も購入しました。
三国志の美将たちの裏にある3巻の主要人物を見てますます
買いたくなりました。私の名前の「張白騎」も登場してもら
いたいです。(文藝春秋読んでいないので出るか知りません)

145 名前:★ぐっこ:2004/11/04(木) 01:30
私もようやく先週末ゲト…
でも読むヒマが…。昨日あたりから電車で読み始めましたので、
一段落したら報告を!
それにしても、二巻にしてようやく黄巾か…

>小冊子
ありましたー! ダイエー三宮に!

146 名前:左平(仮名):2004/11/10(水) 23:41
おっと…またもタイトルを見逃してました…それはそうとして。

今回は、曹操の攻撃によって疲弊した陶謙のもとに、劉備が援軍に
赴いたところから始まります。
陶謙とそのパトロン・麋竺に、好感をもって迎えられたところから、
劉備の飛躍が始まる…と言いたいところですが、肝心の劉備の台詞は
ほとんどありません。また、次回以降のお楽しみですね。

一方、他勢力の動向はというと…
まず、公孫瓚が劉虞を捕え殺害します。この事は、先の界橋の戦いでの
敗北とともに、彼の滅亡の一因でしょう。
戦下手とはいえ、皇帝の信頼も篤く、民心を得ている劉虞を殺す事が、
どれほどのマイナスか…劉備が飛躍しつつあるこの頃、公孫瓚は破滅に
向かいつつあります。

そして、曹操は、再度陶謙との戦いに挑もうとします。しかし、鮑信亡きあと、
彼が最も信頼している親友・張邈の様子がどうもおかしいのです。
直接の理由は、ひそかに呂布をかくまっていたことが曹操の怒りを買いはしない
かというところなのですが…この時点においては、曹操と呂布の間に格別の遺恨
があったとも思えないし…。
曹操も気付かなかった張邈の煩悶の理由。それは、勇名を得た曹操に対するひけ
めと、屈託無く「天子のために」と言い切れる呂布に対するある種の憧憬でした。
彼もまた、反董卓連合の時に、曹操・鮑信のように行動できなかったことととも
に、この煩悶の末の決断によって身の破滅を招く事になります。
「自分は、人を信じるという点においても孟徳に劣るか」
そう、自嘲気味に呟く張邈。英雄にはなれなかった人の悲劇です。

それにしても…ここでの張楊は、なかなかの大物です。呂布をして
「ものがちがう」と言わしめてます。

147 名前:★ぐっこ:2004/11/11(木) 00:47
読んだ!( ゚Д゚) …て二巻のほうですけど。

党錮ッ! 二巻終盤にしてやっと党錮! 竇武さま。・゚・(ノД`)・゚・
うーん、やっぱり桓帝を帝に選んだ時点で、後漢もうダメポなうえに、
霊帝が輪をかけて駄目というのが。桓霊の間って、本当に良いこと無い
ですな…

そしてそういうドロドロした宮廷劇からふと目を離して文春の方を見れば、
既に英雄が百出して覇を競う大乱世! このへんの流れがスムーズに実感
できる宮城谷三国志(・∀・)人( ̄ー ̄)人(´_ゝ`)ノワショーイ!
…というわけで明日にでも文春読もう…

148 名前:左平(仮名):2004/11/11(木) 22:30
本日、第三巻を購入しました。これで第一期が出揃いました。
と同時に、プレゼントの応募の開始です。

第三巻は、平成15年6月号〜平成16年5月号…半年前まで収録
されてます。黄巾の乱から界橋の戦いのあたりまで。
前に書き込んだのは、一月ほど勘違いしてたようです。

第一巻が安帝〜沖帝、第二巻が質帝〜霊帝、第三巻が霊帝〜献帝
ということになるわけですが、いよいよ三国志の物語に突入した
ということもあってか、密度が濃くなってまいりました。

なお、第三巻の付録は、先の文藝春秋に掲載された宮城谷氏の随筆
です。

149 名前:左平(仮名):2004/12/10(金) 23:06
今回のタイトルは、「済民」。ちなみに、前回は確か「親友」でした。

今回の、各群雄の状況。
曹操…
再びの徐州攻め。虐殺についても触れていますが、あまりくどくどとは書いていません。ただし、
諸葛兄弟の名が出ているあたりで、この挙が曹操にとってマイナスであった事を示しているのかと。
袁術…
曹操に破れ、南陽を追われる形で揚州に入りました。ここでは、彼の虚名はまだ有効です。孫策は、
その虚名の故に袁術に近づき、まずはその美貌で周囲の心を捉えます。もちろん、彼は見てくれだけの
人物ではありません。既にその器の一端を垣間見せております。
それはそうと、袁術配下の将「喬蕤」…まぁ、橋蕤のことなのですが、あえてこちらの書き方をしたと
いうところに含みがあるというのは深読みでしょうか。
(「呉書見聞」において、孫ぽこさんがここらの考証をされてましたよね。ひょっとしたら、孫策と周
瑜が二喬を娶ったのって、この時に喬氏と何らかのつながりを持ったのと関わってたり、ってことは…)
劉備…
陶謙を助け、曹操と戦います。その人となりを真に理解できるものはおらず(側近の関羽でさえその理解は
不完全。彼は、儒教的な観点ではなく道教的な思考を以って見るべし、と)、その戦いぶりには曹操が首を
ひねります(兵法完全無視!)。

次回は、曹操大ピンチとなりそうです。
陶謙が亡くなり、麋竺・陳登(!)によって徐州を託されますが…受諾するまでに一波乱。

150 名前:関龍白:2005/01/09(日) 21:10
遅ればせながら
あけましておめでとうございます。
今月は8日発売でしたね。
曹操対呂布、前哨戦というところでした。
それにしてもプレゼント、いつ届くんでしょうね。
お茶会来週なのに・・・

151 名前:左平(仮名):2005/01/11(火) 23:15
さて…関龍白さんのおっしゃる通り、今回は曹操対呂布の前哨戦でした。
ただし、前半はこれでもかといわんばかりの曹操の危機でしたが。

タイトルは「三城」。
弟の教唆を受けてもなお曹操への一応の信頼はあった張邈ですが、気持ちは
揺らぎます。そんな彼の煮え切らない姿勢にけりをつけたのは、陳宮でした。
袁氏ではなく、呂布を引き入れるという発想と、曹操の謀士であった陳宮の
寝返りという事態をうけ、ついに、というわけです。

この事態を受けて動いたのは、荀掾E程G、それに夏侯惇でした。途中、夏
侯惇が人質にとられる(ここは韓浩の見せ場)という場面はありましたが、
兗州80城のうち実に77城(約96%!)までが呂布・陳宮の勢力下に落
ちるという絶体絶命の危機を巧みに凌いでいきます。
そして、無事に曹操が帰還。もちろん、このままでいるはずはありません。

今回、他勢力の動きについては特に語られませんでした。

152 名前:左平(仮名) :2005/01/18(火) 22:37
そういえば、もう15日過ぎましたが、何も音沙汰がありません。
文藝春秋のサイトを見てもよく分かりません…。

153 名前:関龍白:2005/02/04(金) 21:32
カラー絵地図、今日来ました。
単行本は三年おきに三巻ずつ刊行予定とか。
次は2007年10月ごろでしょうか。

154 名前:左平(仮名) :2005/02/08(火) 00:03
こちらにも届きました。昨日あたりに届いてたみたいで、今日気付きました。

「後漢末概念図」とあります。第二期以降も何かあるのでしょうか。

155 名前:左平(仮名) :2005/02/09(水) 23:34
休日とのからみでしょうか。今日、コンビニに文藝春秋の今月号がありました。

前回に続き、今回も、曹操の危機が続きます。呂布の篭もる濮陽を包囲するも、
青州兵も打ち破られるわ、内通者を頼りに突破を試みるも、あっさりと返り討ち
に遭うわ…。ここだけ見てると、いつ破滅に至ってもおかしくないくらいです。

そんな中、一大転換点となったのは…蝗でした。

糧秣が尽き、決着がつけられなくなったわけですが…一時は袁紹の下につく事さえ
考えた曹操は、程Gの諌言によって息を吹き返します。
一方で、呂布の方は、糧秣を巡って豪族達と衝突したりして、その勢力が漸減します。
その結果、定陶の戦いにおいて、曹操が勝利。

そして…もはや曹操の友には戻れない事に意気消沈した張邈は、呂布と離れ、袁術の
もとに援護を求めたところで、あえない最期を遂げました。
呂布は、今や徐州の主である劉備のもとへ。波乱はさらに続きます。

156 名前:★ぐっこ:2005/02/10(木) 01:03
_| ̄|○  実はソレ送るの忘れてたんよ…
切手貼ろうと思って引き出しに入れたまま…
三巻とも買ったのに…

157 名前:左平(仮名) :2005/03/10(木) 01:36
今回も、既にコンビニに文藝春秋がありました。はて。

それはそうと、今回のタイトルは「雍丘」。ようやく窮地を脱した曹操に、そろそろ光が見えてきました。
既に兗州の殆どを奪回し、残るは張超の立てこもる雍丘のみ、という時点で今回は進みます。

天子を迎立すべく、関西の情報を収集する曹操。そこに、天子からの使者がやってきます。
(以下、しばらくは関西の情勢について)
李カク【イ+鶴−鳥】、郭レによる主導権争いが激化する中で、天子はないがしろにされます。
そんな中、キ−パ−ソンとして浮上したのは劉焉父子でした。
まず、都にいた末子の劉璋が益州に派遣されました。表向きは、劉焉の奢僭を咎めるということ
でしたが、実際には、この状況を打開すべく工作するようにほのめかしたというわけです。
彼は、涼州の雄・馬騰を使おうとし、実際、そこまではうまくいきました。
馬騰は韓遂も誘って上京。その実力は確かでした。
しかし、李カク【イ+鶴−鳥】、郭レもそうやすやすとは倒されません。この目論見はあえなく
潰え、劉焉は二人の子を失う羽目になりました。

しかし、ここでの韓遂、なかなかの器量です。けっこう楽観的な馬騰に対しそれを戒めるような
ことも言ってますし、こんなふうな事も言ってます。
「腐敗した王朝は毒だ。董卓の死は、いわば毒にあたったのだ。李カク【イ+鶴−鳥】・郭レも
またその毒の中にいる」
「乱」に生きた蒼天での韓遂とはまた違った味の持ち主ですね。

そして、今回の最後に語られたのは、臧洪の最期でした。旧主・張超を助けんがために袁紹と戦い、
捕殺されるのですが、かくの如き壮士を殺すとは…ということで、また袁紹の株が下がった格好。
(ここで陳琳が出てくるのですが、臧洪に「このまま袁紹のところにいても…」と言われてるのが、
その後を暗示してた…のでしょうか)

158 名前:★ぐっこ:2005/03/28(月) 00:31
読んだのはちょっと前ですが…

張超カコイイ( ゚Д゚)!
雍丘に立て籠もる、反曹操連合最後の砦ってカンジで!
張邈様はともかくとして、張超の反骨が遺憾なく発揮されていて
いい話ですた。
宮城谷三国志で男を上げた人物の大なるは、むろん皇甫嵩でしたが、
蒼天以来の存在感を見せた鮑信、そしてこの張超。

あと、ナニゲに梟雄っぷりを発揮してる劉焉もいいなあ…

159 名前:左平(仮名) :2005/04/12(火) 01:00
ちょっと以外な人物にスポットが当たりました。今回のタイトルは、「楊奉」。

樊稠亡き後、李カク【イ+鶴−鳥】・郭レの争いが激化し、愛想を尽かした天子は、
ついに東帰の意思を示します。
張済の仲介などもありつつ、天子一行は徐々に東に向かうのですが…なかなか一筋縄
にはいきません。
董卓死後、ひっそりと暮らしていた段煨を頼ろうとすると、仲間割れみたくなるわ、
李カク【イ+鶴−鳥】・郭レの追撃に遭い、公卿達にも多数の戦死者が出るわ…。

ただ、時に失敗しながらも、ここでの楊奉、なかなか格好いい存在になってます。
この段階では、天子の存在はもはや災いの元みたくなっており、現に、楊奉が昔の
縁で助力を仰いだ白波の賊(とはいっても李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ達との戦い
では彼らが官軍みたくなるという逆転現象も発生)等は、「天子を奉じて東に向かう
のは賢い選択とはいえない」という様な忠告もしています。
しかし楊奉は、敢えて義によって、という立場をとり続けます。もし、彼に政治的な
知見を持ったブレイン(たとえば賈ク【言+羽】とか)がついてれば、また違った展開
もあったのでしょうか。
そんな気にさせられる回でした。

160 名前:左平(仮名):2005/05/11(水) 22:31
前回から場面は変わりまして…今回のタイトルは「孫策」。

前回、天子がなかなか動かなかった理由として、各地にいる実力者のうち、勤皇の志のある
者を頼ろうとした…というのがいわれていました。
今回は、その候補の一人であった袁術のところから始まります。
とはいえ、彼には既に勤皇の志などありません。むしろ、現状をみて覇を唱えようという
具合です。
群臣達にはその無謀さが分かってますから、主簿の閻象は諌言し、名士・張範(三弟の名は
張昭。といっても彼らは河内の人なので呉の張昭とは同名別人)も徳を積む事を勧めます。
でも、もはや聞く耳を持ちません。

そんな中、孫策はそのもとを去ります。袁術のために働きながら報われないのに
嫌気がさしたのです。
袁術は孫策の才略をみず、古参の者【…自分のために働いた者】を重用しました。
それは、自らの王朝をという野心とは裏腹に、新時代を作れる器ではないという
ことを示すものであった、ということですから、何とも皮肉な話です。

一応の了解は得たものの、ろくな手勢もないまま飛び出した孫策でしたが、ここから
奇跡とも言うべき快進撃が始まります。
劉繇との戦いにおける鮮やかな勝利(もちろん、対笮融戦もあり。ここでの笮融は、
いわば小型の李カク【イ+鶴−鳥】と評されています)、ともに美貌を持つ親友・周瑜
との再開(容貌は孫策>周瑜という評価)…。なるほど、いろいろな意味で絵になる回
です。

161 名前:左平(仮名):2005/06/11(土) 01:12
今回のタイトルは「素志」。

張超を滅ぼし、ようやく兗州平定に成功した曹操は、天子を迎えることを考えます。

ただ、当時の情勢は、まだまだ微妙でした。というか、既に公孫瓚を追い詰め、河北の
派遣を握りつつあった袁紹が選択を誤らなければどうなっていたのか、というところ。
(今回の時点では公孫瓚はまだ生きてますが、もう抜け殻みたくなってます)
当時の彼のもとには沮授という偉材がおり、曹操(とその幕僚達)と同じく、天子の
迎立を考えていました。
しかし、袁紹は聞く耳を持ちません。沮授の意見に反対した郭図を派遣し、天子の周囲
を探らせたのですが、その結果、郭図も天子の迎立に賛成の立場になると、それらの意
見を無視します。
軍事に冴えを見せた公孫瓚との戦いという逆境にあってはそれなりの輝きを見せた袁紹
ですが、ひとたび順境に立つと、緩んできた様です。
彼もまた、己の野望の為に乱世を望みながらも、その器は乱世には向かなかったという
悲喜劇を演じることに…。

そして、今回のラストあたりで、ついに曹操は天子を迎えることになります。この時の
キーパーソンは、またしても張楊。呂布とともに篤い勤皇の志を持つ彼ですが、天子の
行く先が見えると、静かに去りました。
…何というか。かなりの大物の雰囲気です。袁氏の二人よりもはるかに大きいのですが
…なぜ、これほどまでに野心を持たないのか。むしろ、ちょっとくらい持った方がいい
のに、といらぬ心配をしたくなるくらいです。

162 名前:★ぐっこ:2005/07/06(水) 01:54
ようやく私も読みましたよー。ちょっと前でしたけど…。
私的に失念してたのは郭図の立ち回りだったり(^_^;)
彼も一廉の男だったという再認識したり。
袁紹は結局、衆議にかけるくせに自分の意見を押し通す癖
があるタイプで、本当に読めば読むほどウチの社長に似てる
と思ったり(^_^;) さだめし私は郭図あたりか。
張楊は行動が爽やかなわりに存在感が地味なんですよねえ…(^_^;)

あと、董承の渋さに萌えた(*´ヮ`) そこまでするか!というくらい
せこくてダーティなところがイイなあ…。コイツ曹操暗殺してどうする
つもりだったんだろ…

163 名前:左平(仮名):2005/07/08(金) 23:44
今回のタイトルは「新都」。まだ8日ですが、10日が日曜日だからか、もう文藝春秋が出てました。
電車の時間があったのでいささか流し読みですが、↓こんな感じの回でした。

ついに曹操が天子を迎えます。この時仲介に入ったのが董昭。袁紹のもとを去ってからいろいろあった
わけですが、本作の董昭、なかなかの大物キャラですね。
董昭もれっきとした勤皇の士ではありますが、志は貴いけれど惜しいかな政治手腕に欠けた楊奉とは違い、
その現状認識は非常にしっかりしています。
現状は、ありていに言えば「周の襄王の御世に似ている(※作品中、そういう言葉があったわけではあり
ませんが、曹操を晋の文公【重耳】にたとえているのを考えると、そんなふうに思いました)」。
曹操もまた、それに近い認識を持っています。なので、曹操は、天子に甘い庇護者ではありません。

それにしても、政治的力量は董承>楊奉(曹操などからみると実に低いレベルですが)に対し、勤皇の
志は楊奉>(越えられない壁)>董承という図式は面白いですね。元白波賊の故、とかく低く扱われがち
だった楊奉ですが、1800年以上の後に、思わぬ栄誉に与った形です。
「三国志]T」の顔グラが格好よくなったり「義理」の数値が上がったりして。

ただ、ともに勤皇の志を抱く者であっても、その想いにはずれがあります。
すっかり荒廃した洛陽の有様をみて、曹操は許への移動を行うわけですが、たとえ廃墟ではあっても
天子は洛陽に想いを残しているというのを知る楊奉は、それを専横とみなして戦い、そして敗れると
いう事態に至ります。
張楊もそうですが、ちょっと切ないものがありますね。

後半は、荀攸、鍾繇、それに郭嘉も登場。曹操のもとに続々と人材が集まってきます。
そんな曹操のもとにやって来た、腕長耳デカの男。次回、この男が波乱を呼ぶ…?

164 名前:★ぐっこ:2005/07/14(木) 01:20
立ち読みしましたー(*´ヮ`)

相変わらず、宮城谷三国志読んでると、自分の不勉強つうか、この
献帝周辺の人物に対する無関心さが恥ずかしくなってきますね…
まさか楊奉や韓暹あたりが、質朴な勤皇主義者だったとは思っても
いなかったわけで。
( ゚д゚)ハッ! それで光栄三国志シリーズの楊奉はやたら格好いい訳か!?
張邈と顔交換してるけど…こっちの楊鋒だっけか。
腹黒くい董承も新たな魅力がプンプン。早く四巻でないかな〜(*´ヮ`)

165 名前:左平(仮名) :2005/08/10(水) 23:13
今回のタイトルは「張繍」。とはいえ、今回は、曹操のもとにやってきた異相の男−劉備から始まります。

「英雄、英雄を知る」と言いますが、曹操の前に立つ劉備の姿は、英雄には遠く見えました。程G・郭嘉がともに
「劉備は英雄である」と評し、曹操自身、現時点の劉備は斉の桓公のもとに身を寄せた晋の文公の立場に似ている
と感じつつも、いまひとつ実感が湧かない様子です。
これって、いわゆる「岡目八目」ということなのでしょうか。曹操が英雄であるが故に、同じく英雄である劉備の
持つ何かに気付かない。英雄でない程Gや郭嘉にはそれか見えた…。

一方、南に目を転ずると、張済が亡くなり甥の張繍がその軍団を引き継ぎました。彼は、曹操と比べるとやや器量
は劣るものの、自らに何が足りないかは自覚しており、それを補う者−賈ク【言+羽】を招きます。
そして、天子を擁した曹操は、周辺のうち、最も弱い部分である宛にいる張繍に狙いを定めるのですが…
ここで、賈ク【言+羽】の知略が発揮されます。まともに戦っては劣勢は明らか。となると、手段は一つ。
そう、奇襲です。
いったん降伏した後、一挙に本陣を衝く。事実、この策はあたり、曹操は嫡男・曹昂を失うという大敗を
喫することに。
…ただ、ここの流れについては、二つの理由により、えらくすっきりしたものになってます。

一つは、典韋が名前すら出てこないこと。
もう一つは、張済未亡人と曹操との××な関係に触れられていないこと。

なせ触れなかったのかはよく分かりませんが…ただ、それだけに、「何故曹操ともあろう人
がここでかくもあっさりと大敗したのか?」という感がよりいっそう強くなります。

そのショックも覚めやらぬ時に、袁紹からの無神経な書状。まさかそれだけのせいでもない
でしょうが、曹操、ついに打倒袁紹の思いを明らかにします。さて、次回の展開は…?

166 名前:左平(仮名):2005/09/18(日) 19:53
今回のタイトルは「僭号」。袁術が帝位を僭称しました。

人の感情を逆撫でするが如き書状を受け取った曹操ですが、客観情勢はかなり不利。曹操自身、打倒袁紹を考えた
ものの、見通しは立たない状態です。
なにしろ、相手は既に河北の四州を制しているのに対し、こちらは二州。天子を擁してはいても、相手はその威光
など屁ほどにも感じていないのですからどうにもなりません(互いに憎みあってはいても、このあたり、袁紹・袁
術は似たもの同士)。
それに加えて徐州には呂布、涼州には諸軍閥。南はまだしも、三方から囲まれはしないかという恐怖があったわけ
です。

それを救ったのは、荀掾E郭嘉、そして鍾繇でした。荀掾E郭嘉は曹操の美点と袁紹の失点とを挙げ勇気付け、鍾
繇は侍中兼司隷校尉として涼州の有力者である韓遂・馬騰を懐柔。さすがの曹操も、この時は、優れた配下達の威
徳に心底感心しております。

一方、徐州に目を転じると、呂布がその支配権を獲得する経緯が描かれます。ここでも、劉備は冴えません。迎え
入れた筈の呂布の気まぐれに翻弄されまくってます(まぁ、呂布に翻弄されまくったのは何も劉備ばかりではない
んですけどね)。
そんな、一見すると何を考えてるのか分からない呂布ですが、曹操はその行動原理を見抜きつつありました。端的
にいうと、「我こそは漢の忠臣。我に逆らう者は皆逆臣」ということです。
…ある意味、ジャイアニズムの側面がありますね。ともかく、その故に、僭称した袁術と戦うことになります。

しかし、袁術、うまくいけば、孫堅(+孫策)・呂布という二大勇将を抱えていただろうに、という指摘は、なか
なか面白いですね。彼の怠惰さが、自身のみならず呂布をも負のスパイラルに巻き込んだ…

167 名前:左平(仮名):2005/10/09(日) 00:03
うわ〜!せっかくの書き込みが消えてしまった〜!!…書き直し。

今回のタイトルは「高山」。今回描かれた具体的な事件のことという
より、建安二〜三年の情勢を概観したタイトルの様です。

まずは、袁術僭号をうけての江南の情勢。
孫策は、袁術と絶縁し、攻める準備を進めます。しかし、こうしてみる
と袁術の認識の甘さが分かりますね。この頃、孫策の勢力は既にかなり
のものになってます。かつては身近におきその器量は把握していたはず。
その彼を敵に回すことがどれだけの損失か。ちょっと考えれば分かろう
ものを。
もとの揚州刺史・陳瑀が孫策の隙を衝くべく厳白虎らとともに攻めようと
しますが、あっさりと返り討ちに。その勢力はさらに広がりました。
孫策の苛烈さをみた曹操は、ひとまず融和策をとることとします。今しばらく
は戦うべき相手ではないというわけです。

そんな中、袁術はまたもやらかしました。陳国に食糧があると聞くと高圧的な
態度でそれを求め、断られると王の劉寵と相の駱俊(駱統の父)とを暗殺した
のです。
劉寵はやや野心家肌ではありましたが、武芸に秀で、国内の治安維持に成功。
駱俊はすぐれた行政手腕を持ち、国内をしっかりと統治。乱世にあって陳国
の平穏を守っていました。二人ともひとかどの人材です。
この頃、曹操はというと許褚や趙儼といった偉材を得ていたというのに袁術
は人材を失い敵を増やす。
あげくに、曹操の攻撃を受けると四将軍を見殺しにして逃走。袁術という人
は、後漢という時代の醜い点を凝集した感があります。

ただ、そんな存在は袁術ばかりではありません。その姻戚である楊彪もまた、
曹操からみると醜類の一人です。今回、直接の理由はよく分かりませんでした
が、投獄されたのです。
宦官の孫の曹操に軽侮の目を向けるくせに董卓の力に屈した楊彪。曹操から
すると、そんな彼に良い感情を持てるはずもなく。
これがあの楊震の曾孫か。こいつは四知という言葉を理解しているのか。血は
受け継がれても志は受け継がれるとは限らない。
彼らの振る舞いは、いわゆる名士の限界を示しているわけでもあるんですよね。

後半は、群雄達の最期が続きます。楊奉と韓暹は呂布に見切りをつけ劉備を利用
しようとしますが、楊奉は劉備に殺され、その死を知って呆然自失した韓暹は白
波に帰ろうとしますが、賊として殺されます。
勤皇の人ではありましたが、単純でもあった二人は、一見茫洋と見えながらも、
実は底知れない複雑な人格を持った劉備には敵わなかったということみたいです。
李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、李楽、胡才。彼らもまたこの頃に姿を消しました。

ここらの情勢を、宮城谷氏は「攢峰(さんぽう)を均す」と表現しておられます。
あまたの群雄達が、曹操、両袁氏、孫策などいくつかの有力勢力に収斂されつつ
あります。

追記:「攢峰」という言葉を字書で引くと、唐初の詩人・駱賓王の名が。駱統と
同じく、今の浙江省の人といいますから、何らかのつながりがあるのかも。

168 名前:左平(仮名):2005/11/11(金) 00:46
今日(日付上はもう昨日ですが)は蒼天の最終回。こちらはおいおい書き込むとして…

今回のタイトルは「下邳」。まずは、曹操vs張繍の第二ラウンドから始まります。
曹操と賈ク【言+羽】。二人の知略がそれぞれ冴えを見せており、なかなか読み応えの
あるところです。
劉表はどう動くか。両者、その様子を見ながら戦いが始まります。このあたりは、中小
勢力たる張繍の側にとってより切実。賈ク【言+羽】は、あえて援軍を頼むことは
せず、自勢力の存在感を示しつつ戦力の損耗を避けます。
この時点では各地に敵のいる曹操は、長期戦は避けたいところ。そこに、田豊が袁紹に
許都攻めを勧めたという話がありましたから、戦況は決して不利ではないものの、撤退
する事になります。
ここからが両者の凄いところ。まず曹操は、前後に敵がいる形になりながらも、通常の
数分の一というスローペースで行軍しつつ、「軍を消す(隠す)」という奇策をとり、
追っ手を大破します。その後は急ぎ帰京。
一方賈ク【言+羽】は、最初の追撃は必ず敗れる事を、次の(敗走後の)追撃は必ず勝
利する事を張繍に告げ、結果はみごとその通りに。
ここで、何ゆえそうなったのかと聞く張繍に対する回答は至って誠実なもの(いくら何
でも、あなたは曹操には劣る、ってはっきり言い切りますか、普通)。
…そういえば、三国志「T」の時の賈ク【言+羽】って、顔グラがけっこう穏やかそう
な感じだったんですよね。

その戦いの後、曹操にとっての主敵は呂布になります。タイトルのとおり、後半は呂布
攻めです。
ここで、高順達が語られます。「陥陳(陣)営」の異名を持つ高順はまさしく名将。戦
えは必ず勝ち、欲は少なく、忠義に篤い。呂布にとってこれほど頼もしい配下はいない
といってもいいでしょう。しかし、呂布は彼をいまいち信用しません。高順自身は呂布
に叛くようなことは何もしていないというのに…。
一方、あの兗州の攻防の後、曹操と呂布・陳宮とでは、その力量にどんどん差がついて
いる様です。それは、前者が学び続けているのに対し、後者が学ぶのをやめてしまった
からに他なりません。
宮城谷三国志においては、最終的に勝者となるのは「学び続け(、その結果成長し続け
た)た者」という視点がある様です。

この戦いの中、呂布は愛する妻の言葉により陳宮の策の実行をためらい、動けなくなり
ます。そんな中、配下の将達は…

169 名前:左平(仮名):2005/12/11(日) 21:59
今回のタイトルは「逐勝(勝ちに乗じて進む)」。

前回ラストからの流れのとおり、ついに呂布の命運が尽きる時が来ました。
…しかし、それは、予想以上に呆気ないものでした。
姻戚でもあった魏続に陳宮を拉致され、高順ともども、もはや為す術もなく
捕えられたのです。
呂布の軍事的才能は曹操にとっても魅力的ではありましたが、劉備の一言に
よって引導を渡されます。そして陳宮は、この時点ではもう呂布に心服して
いないにも関わらず、ただ曹操に対する意地から、自ら死を選びます。
この場面、曹操の方が未練たっぷりです。
この時曹操が得た人材として、袁渙、陳羣、それと復帰組の畢獅フ名が挙がって
います(ここでは張遼には触れられていません)。

これで一つ厄介な敵を片付けた曹操。そんな矢先、河内に異変が。張楊が、
配下によって殺害されたのです。
勤皇の士にして温厚篤実な張楊は、呂布と親しく、陰ながら声援を送って
いたのですが、もはや呂布の命運は尽きており、将来に不安を抱いた楊醜に
よって…という経緯。
もっとも、楊醜もまたすぐに眭固に殺され、河内の情勢は流動的に。曹操、
この状況を逃さず、直ちに攻略にかかります。
ここは董昭の巧みな説得により、無血開城となります。そして、ここの太守
に任ぜられたのは…魏チュウ(禾+中)。
今回、曹操が才を重んじた例として語られる二人が揃い踏みという具合です。
もっとも、魏チュウ(禾+中)については、単に才能のみではない含みも。

一方河北では、ついに公孫瓚が最期を迎えます。…もうズタボロです。痴呆に
なり妻子を手にかけて…というあたり、白馬義従を従えた頃の面影はいずこに
ありや、ってな感じ。
彼に殉じた関靖、最期はきれいだったけど…こちらも酷評されてます。

いよいよ曹操vs袁紹というわけですが…何事につけても動きの鈍い袁紹、既に
後継者問題も絡んできて、課題は多し。
そんな中、突然の袁術からの使者。それは、袁術の破綻を示すものであったのです
が…

170 名前:左平(仮名) :2006/01/02(月) 01:35
日付は変わりましたが…新聞の広告欄に注目。
この9月に、宮城谷三国志の四・五巻が出るみたいです。
今のところ、一年分で一冊というぺースですから…今年の五月号あたりまでは
既に書きあがってるのかも知れませんね。

171 名前:左平(仮名) :2006/01/10(火) 23:29
今回のタイトルは「密詔」。董承による曹操暗殺計画が語られます。

その発端は、意外にも劉備の存在でした。といっても、劉備が反曹操の急先鋒…など
というわけでは全くなく、むしろ曹操が異様なくらいにそば近くにおいていることから
(刺客として使える)と値踏みされた、という次第。
曹操にとっては劉備は全く異質の存在でした。衰亡しつつある劉氏にあって、ひとりしぶ
とく生きながらえる様はひとつの奇跡。それゆえに近づけ、ついには彼を英雄と評するに
至ります。ただ、劉備はというと、曹操に対して別段恩義を感じるというわけでもなく、
その肚はさっぱり読めません。

劉備にとって、この暗殺計画(皇帝の密詔自体はちゃんと出てます)には二つの意味が
ありました。
一つは、中央政界の生臭さを思い知ったこと。袁術討伐を理由に都を離れたのは、単に
曹操に叛旗を翻すためだけではありません。
もう一つは、自分を相対化させる存在−曹操−を知ったことで、自らの位置づけがより
明確になったこと。今上も自分も、もとをたどれば景帝に至る。ゆえに、皇帝とて全く
届き得ない存在ではない。中央を離れ自立するのよし…。

劉備が去った後も、董承は曹操暗殺計画を進めますが、その計画は粗雑。徐他については
許褚の胸騒ぎという予測不能の要因による失敗でしたが、こちらは失敗するべくして失敗
したという書かれ方です(何より、悪政をしていない曹操を殺して、さてどうするのかと
いうビジョンがないのでは…)。
事件が片付いた後、曹操は、皇帝を半ば無視するようになります。
ただ、今回、皇帝の真意というのがどうも読めないんですよね…。

袁術は、今回で滅びました。何とも呆気なかったです(それはそうと、本作では「喀血」
したとあるのですが、三国志も後漢書も「嘔血」とあります。喀血・吐血・嘔血の意味は
それぞれ微妙に異なるはずなのですが…)。

徐州で自立を図った劉備を逐い、曹操は、ついに袁紹との決戦に臨むことになります。


蛇足:挿絵は村上豊氏が書かれてますが、今回は妙に個人的にはまりました。英雄同士の
対面というのに、何だか、いしい御大の「最底人(↓)」みたいで。

 あほ〜〜〜っ!

\    / \    /
 lV:)* lV:)* lV:)* lV:)*

いしいスレで見つけたAAです。

172 名前:左平(仮名) :2006/02/12(日) 19:55
今回のタイトルは「対決」。いよいよ、官渡の戦いに突入します。興味深い記述が多く、
金曜に一度読んだのですが、再度読み直しましたよ。


まずは袁紹側の動き。このような非常時にあっても、この陣営の宿痾とも言うべき派閥
抗争(と言っても郭図が一方的に沮授を嫌っているという感じ)が生じています。
しかし、双方の主張を聞いてみると、実は両方に理があるという不思議な状況でもあり
ます。
この時主戦論を唱えたのは郭図・審配、慎重論を唱えたのは沮授・田豊なのですが…実
のところ、曹操が脅威であるという意味では同じ認識に立っているのです(慎重論者は
公孫瓚との戦いで疲弊した河北の回復を待つべきであると主張。一方、主戦論者は、曹
操がその間に何も手を打たないはずはない【故に機先を制するべし】と主張します。兵
は拙速を聞くも〜ということを考えると、果たして、どちらが良かったのか迷うところ
です)。
結局は、どちらの論をとるにしろ、袁紹は明確な決断を下すべきであった。ぐずぐずと
決断を下すのが遅れたため勝機を逸した…というところです(内心では曹操との決戦を
望んでいたのに行動はちぐはぐになっています)。
これ、職場ではヒラの私にも痛い指摘ですね。ましてや組織の頂点に立つ者であれば、
なおさら堪えるかと。


逡巡の末に出師を決めた袁紹。しかし、それにあたって諌言を呈した田豊を投獄すると
いう愚を犯します。彼らの忠誠心は疑いようのないものなのですから、いざ決戦となれ
ば、慎重派といえども勝つ為に最善を尽くすべく尽力するというのに…。

ともかく、河水を挟んで両者は対峙します。そして、白馬の戦い。
関羽・張遼vs顔良。名だたる勇将同士の夢の競演…というところですが、実はそうは
なりませんでした。しかし、これまでの三国志とはまた違った描かれ方で、そこがまた
何ともたまらない名場面なんです。
呂布の描かれ方もそうですが、ここでの関羽、イメージががらっと変わりますよ。いつ
の間にこのような変貌を遂げてたの、ってな感じで。義に篤い勇将というだけでなく、
少なからぬ知性も感じられます。
あの項羽にも劣るまい、ってな賛辞はちょっとニュアンスが異なる様な感じはあります
(項羽というより…生還した専諸の方が近いかな)けど。

長くなったので、続きます。

173 名前:左平(仮名):2006/02/12(日) 19:56
先の書き込みの続き

もちろん、このために劉備は危うくなるわけですが…そこはそれ、逃げ足の速さが売り
なだけに、何とか切り抜け、いつの間にか曹操の後方に回ってます。
となると…曹仁の活躍も見逃せません。蒼天では、この時点ではまだまだ未熟ですが、
ここではもう堂々たる将帥です(でもビジュアルは蒼天バージョンのまま。ほんとあの
絵は強烈ですわ)。

なお、文醜の方は…何ともそっけない記述でした。ただ、この場面において、恐怖心を
利用して一気に士気を高める曹操の采配は見事の一言です。


一方、荊州の劉表は、と言うと…北の決戦をよそに傍観拱手を決め込みます。ただ、一
見妙手のように見えて、実はこれ、大失策。
『漁夫の利』というのはしょせん詭弁。ここは旗幟を鮮明にした方が良かったのです。
(ここまで書いてて、いしい御大の忍者ネタが思い浮かびました。藩内の醜い派閥抗争
に対し、どちらからも恨まれたくないと中立に立った結果、どちらからも恨まれた…)
韓嵩を使者として派遣しますが、韓嵩が危惧した通りの結末になるあたり、劉表もまた
袁紹と同類でした。でも、その破綻は、ここではまだ顕在化はしていません。


長い戦いはついに全面対決の様相を呈します。兵力に優る袁紹(兵力差については、曹操
の勝利をより鮮明にするための修辞という指摘がある一方、自らの意思をすみずみにまで
ゆきわたらせようとすれば過度の大軍は率いないだろうという指摘もありますので一概に
は言えませんが、それでも倍くらいはあったのではないか、とのこと)が押し気味に進め
ますが…ここで、思いがけない事態が発生します。
許攸の…

174 名前:左平(仮名):2006/03/12(日) 21:38
今回のタイトルは「官渡」。三国志における一大ターニングポイント・官渡の戦いに決着がつく時がきました。

あの白馬義従を打ち破った強烈な弩の一斉掃射が曹操陣営に襲い掛かります。反撃しようとしても、相手の方が
物量・精度において上回るため、劣勢を挽回するには至りません。
(射程距離が半里余りといいますから、200m以上ですね。何かのスレで見たのですが、戦国時代末期の火縄
銃の射程が約120mだったそうですから、その威力のほどがうかがえます)

さすがの曹操も弱気の虫が顔をのぞかせ、許で防御を固めようかとの書簡を荀揩ノ送りますが、荀揩フ叱咤激励
を受け、気を取り直します。
(俗に「岡目八目」と言いますが、ここでの曹操と荀揩みると、その言葉がよく当てはまっている様ですね)
ここで考え出されたのが「発石車」。弩よりも射程距離が長く、かつ、殺傷能力が高い新兵器です。何基くらい
作られたのかは分かりませんが…ともかく、天から岩が次々と降ってくると考えると、敵にとっては一大脅威。
岩の雨を避けようとすると弩の殺傷能力が激減しますから、互いに距離をおいてのにらみ合いとなり、戦いは膠
着状態と相成ります。
地下での攻防はありましたが、袁紹側の策を曹操がはね返すという感じで、決め手とはなりません。

こうなると、どちらかに隙が出来た方が負けとなります。この点、曹操にはツキがありました。背後を衝く恐れの
あった唯一の存在・孫策が急死したのです。
経緯については、このスレを御覧になる方々にはご存知の通りですが、その雄々しさ・苛烈さと一方での呆気なさ
には、どこか織田信長に似た雰囲気を感じました。
なお、劉備については、関羽の件がありますから袁紹の許を離れましたが、こちらは小勢力ですから背後を脅かす
というほどではありません。劉表は中立という名の傍観ですし、その他の勢力は言わずもがな。

一方で、大軍であるだけに兵糧の消耗も大きい袁紹は、その集積地を烏巣に置いていたのですが、ここが隙となり
ました。
ここを守るは淳干(う…「ウ【迂−しんにゅう】」が出ないっ!)瓊。要地を任されている訳ですから決して小さい
将器ではなかったのでしょうが、許攸の情報をもとに攻めてきた曹操の軍勢を見ても軽く蹴散らせると見くびって
いたのです。

こうして、袁紹は、顔良・文醜・淳ウ【迂−しんにゅう】瓊といった将器、大量の兵糧、それに、万を越える兵(烏
巣の救援を提案するも容れられなかった張コウ【合β】・高覧がそのまま降ったため)を一挙に失い、壊走しました。

それにしても、許攸の情報の真贋の見極め方といい、張コウ【合β】を受け入れる時の言葉(微子啓や韓信をたとえに出してます!)といい、大量の書簡を発見した時の対応といい、曹操、見事の一言です。
人並以上に策謀を弄しながらも、一方で、誠心を持って人にあたるという姿勢を取れているからでしょうね。

とはいえ、まだまだ袁紹は健在。荊州にも一瞬目移りしたものの、諌言を受けてこの誘惑を振り切り、次なる戦いに
臨むことになります。

今回のラストに、久しぶりの名前―趙雲が登場しました。正式に劉備配下になったのです。「それ(趙雲がひそかに
募兵した)ゆえ、劉備のもとには数百の冀州人がいる」。…何か含みがあるのでしょうか。

175 名前:左平(仮名) :2006/04/13(木) 22:41
今回のタイトルは「ギョウ【業β】県」。官渡の戦いから、はや数年が経っていますが、
今回は、ギョウ【業β】攻略がメインとなっています。

建安七年。曹操は、郷里であり、若い頃隠棲していたショウ【言焦】を訪れていました。
住民の歓待を受けにこやかな顔を見せつつも、心中にはふと一抹の寂しさがよぎります。
「あの頃描いていた未来とは違うかも知れないが…過去を振り返ることはできない」。
覇業に向けての歩みはおおむね順調ですが、苛烈な生の中にいる自分を、しかと認識して
います。
既に四十の半ばを過ぎました。知命(五十歳)ももうすぐ。おのずと自省に意識が向いた
のでしょう。

しかし、その時は呆気なく敗れます。袁紹が亡くなったのです。
その長子・袁譚は青州の、次子・袁熙は幽州の刺史として出されていましたから、父の許
にいた末子・袁尚がすんなりと跡を継ぐ格好にはなったのですが…とはいってもただでは
済みませんでした。
(袁譚・袁尚とも、器量は父にも劣っている様に描かれていますが、本作においては、袁
譚の方がまし、みたいな感じです。袁譚は自省に甘さがある【それ故、配下の質も低い】
のですが、父の跡を継いだ直後に袁尚がみせた冷酷さ【父の愛妾の家族を皆殺し】はない
ということ)
曹操という共通の敵がいながら、両者は相戦うことになります。まずは、勢力にまさる袁
尚の方から仕掛けました。ギョウ【業β】の堅い守りを頼りに、曹操に攻められるより先
に…というところなのでしょうが、決着はつきません。
袁譚は袁尚に近い逢紀を殺し、袁尚(というか審配)は袁譚に近い辛評を捕え…という具
合で、配下の人材をも消耗する有様。
当然、曹操がこのような好機を逃すはずもありません。ギョウ【業β】の攻略そのものは
けっこう時間がかかりましたが、その間に着々と周囲を攻略し、自身の勢力の涵養に努め
ています。
(程Gの胆の太さ、あの曹操がいったん思考停止して意見をそのまま受け入れる荀攸の頭
の回転の速さ。配下がその手腕を存分に振るえる環境づくりの能力の差は大きいですね)

袁譚が(本心ではないのは明らかながら)曹操に降ると、袁尚はいっそう苦境に立たされ
ます。ギョウ【業β】は孤立無援になり、蘇由、そして審栄が裏切ることで、ついに陥落
しました。
ここでの審配の最期は、どこかやるせないものがあります。前々回での彼は、「所与の条
件下で最善を尽くす」ってな感じでけっこう格好よく思ったのですが、今回は、どこか醜
悪な感じがしてなりませんでした。
審配自身は変わってはいないのでしょう。しかし…落城に際し、囚われている辛評(及び
一族)を殺したら、処刑されるにあたって自らの忠義を誇るついでに人を罵ったりすると
いうあたり、どこか哀しいものがあります。

なお、今回は劉備の動きについての言及はなし。ラストはあの美女の登場でした。

176 名前:左平(仮名):2006/05/14(日) 00:11
今回のタイトルは「袁譚」。全部とはいかないまでも、今回のかなりの部分が彼の最期に至る過程です。

鄴を陥とし、冀州をほぼ制した曹操は、冀州牧となります(兗州牧は返上)。自らかの地を治めることと
したのは、地の利に甘えず、人を治めることこそ肝要と考えたがゆえのこと。
(一方、袁紹は地の利に甘えた感あり。「(山河の天険や玉璧よりも)人こそが宝」というのは、古典を
 読めば分かることですが、実践はなかなか難しいようで…。「袁紹は学問をしたことがあるのかな」と
 いう曹操の呟き、よく考えるとかなり痛烈です)
(袁紹のもとには名士がたくさんいたわけですが、活用していたとは言い難いだけに、名士もただの飾り
 に過ぎぬ、というあたり、虚名に対しても辛いです)
そんな中、曹操に降ったことで一息ついた袁譚は、袁尚との戦いを優勢に進める一方、近隣の郡県を攻略
するのですが…曹操がこれをどう思うか、という認識がなかった(若しくはどうにも甘かった)ようです。
これは、名門に生まれた驕りのゆえなのか、彼に(影響を与えられる)諌臣がいなかったゆえなのか。
戦略においては策を弄するも、人と人との契約については偽りを許さない苛烈さを持つ曹操にとっては、
これは、袁譚を滅ぼす格好の名目でした。

この戦いは、曹純、曹休、曹真といった曹操一門の将器を試す絶好の機会でもありました。(今回名前の
挙がらなかった于禁以外の)いわゆる「魏の五将軍」や李典、それに張繍(猛将との評価!)も登場する
など、曹操配下武人のオールスターキャスト勢揃いといったところ。一方で、参謀達の出番は特にありま
せんでした。小細工無用、ということでしょうか。
袁譚も懸命に抗戦し、血路を開かんと奮闘しますが…最期は存外呆気ないものでした。

ただ、それでも、王修のように、影響は与えられないまでも諫言を呈することのできる配下を持ち、かつ
それを虐げたりしなかっただけ、袁譚は、人としてはまっとうだったと言えるかも知れません。
感情移入まではしませんが、ほんのちょっとのことで、生き残れたかもしれないのにな…というところも
あります。

177 名前:左平(仮名):2006/08/25(金) 20:49
ここ最近、別アドレスに書き込んでるみたいですので…こちらに
書き込みます。

177 : 左平(仮名) 投稿日:2006/06/12(月) 23:32
今回のタイトルは「高幹」。前回に続き、袁氏勢力の減衰過程が描かれる格好です。

壷関攻めに派遣された楽進と李典。自信たっぷりな言動をみせる楽進に疑問を抱く李典ですが、
楽進も、伊達に大口をたたくわけではありません。数多くの戦いに参加し、戦場という場を知悉
しているがゆえの強気です。
実際、いざ戦いになると、奇策等はありませんが、的確に相手の出方をみてとって然るべき対応
をとります。李典にとっては、何となくうまが合わない(理解できない)のですが、しかし、以
降も長くコンビ(あるいは張遼とのトリオ)を組むのですから、不思議なものです。

さて、壷関は関と城から成っている(そういえば、ゲームでもそんな感じだった様な…)のです
が、上記の戦いによって、高幹は城に押し込められる格好になりました。こうなると、身を守る
城が却って枷になります。
袁氏は地を重んじたが、それゆえ地によって死ぬ(思考が退嬰的になるという含みがあります)
ことになる。曹操の認識は確かです。
逆に、それゆえ、一切のものに―地のみならず妻子・部下にも―とらわれない劉備が不気味に感
じられる、と。
高幹も最後の抵抗を試みますが、既に孤立無援に陥っており(匈奴単于に協力を求めるのですが
高幹についたところで得るものはなし。それでは利に聡い彼らを動かせるはずもありません)、
結局、脱出を試みたところで殲滅されました。袁譚の最期とよく似ています。

荒廃した并州をどう治めるか。ここで梁習の名が挙がります。高幹の秕政による荒廃であるだけ
に、優れた行政官が何より必要だったのです。
既に、(同僚の王思の提出した建白書の件で)その気骨を認められていた梁習は、これまでの任
地と同様、目覚しい成果をあげてみせました。
こうして、并州の平定も完了。徐州・青州の海賊も退治し(ここも楽進・李典コンビが活躍)、
さて次は…?

178 名前:左平(仮名):2006/08/25(金) 20:50
1 : 左平(仮名) 投稿日:2006/07/12(水) 23:19

今回のタイトルは「田疇」。前回のラストをうけての烏丸攻めです。

袁氏の息の根を止めるべく烏丸を攻めようとする曹操。しかし、荊州にいる劉備が気にかかります。
夏侯惇・于禁(+李典)を派遣したものの撃退されていますから、劉表ともども本腰を入れて攻め
かかられてはやっかい、というのは確かにありました。
 夏侯惇・于禁がともに奇策を弄しない将というのは分かるのですが、彼らと戦う劉備が、「彼我の
 力量をはかり堅実な戦い方をする」というのが何とも不思議な感じです。
しかし、ここで郭嘉が進言。一応官職には就いてますが実務には関与しない、いわば遊軍的な立場に
いるだけに、幅広い視野でみることができたわけです。

かくして、烏丸攻めに出立。しかし、幽州で夏の長雨に遭います。
 後の司馬懿による遼東攻めの時も長雨に遭ってますね。当時の気候には余り詳しくありませんが、
 この長雨、程度の差はともかく、特定の年に限った話ではないみたいです。中原からするとこの
 あたりは多雨地帯みたいです。
ここで曹操の頭にある人物の名が浮かびます。それが田疇(字は子泰)。以前、劉虞が都に出した
使者として名が挙がっていましたが、その後のことが語られます。彼の進言により、一気に烏丸の
拠点を突き、時の実力者・蹋頓を倒しました。
何と、ここで張遼の名が挙がってません!正確な理由は分かりませんが、この時期に攻めかかった
時点で勝利が約束されていたということで田疇の功績を高く評価した、ということのようです。

頼みにしていた烏丸が破られたことで、公孫氏のもとに逃れた果てに、袁氏の命運はここで尽きる
こととなりました。
かくして、曹操は北の脅威を完全に片付けました。そうなると、次は…というところ。
劉備の進言を容れなかったことを劉表は悔やみますが、当の劉備本人は以外にあっさりとした態度。
 以前、劉備を指して、道教的…という評価がなされていましたが、今回は、まるで高僧のよう、
 というたとえ方がされていました。徹底的に物事を捨てていくという姿勢がみられると。そして、
 それから考えると、世に言う「髀肉之嘆」はどうなのかと、という疑念も。
ただ、さすがに何らかの心境の変化があったのか、劉備はついに名士と言われる人に会うようになり
ます。ここで出てくる伏龍・鳳雛。そろそろ、三顧の礼がみられそうです。

179 名前:左平(仮名):2006/08/25(金) 20:50
5 : 左平(仮名) 投稿日:2006/08/12(土) 21:41
回のタイトルは「三顧」。前回のラストで近いうちに、という感はありましたが、さっそくきました。

ただ、最初に語られるのは、孔明と並び称された士元の方。名士(隠士と言ってもいいんですかね)の司馬
徽に認められたことで世に名が現れます。
司馬徽の姿勢がまた興味深いものがあります。褒める人はことごとく激賞するのです。大いに褒めて世に名
を現すことで、事を成す助けになればいい。褒めて育てるという教育方法の実践者、というところでしょう
かね。

叔父・諸葛玄と共に荊州に来た孔明は、ここで、孟建(公威)・石韜(広元)・崔州平、そして徐庶と知り
合います。
石韜曰く、「あいつ(孔明)は斉人だから」。石韜・徐庶は潁川の人。潁川は、というと、戦国時代の韓。
韓と斉とでは、法に対する考え方が真逆というほど異なる(韓で法というと韓非子が浮かびますが、ここで
念頭にあるのは術の人・申不害。つまり、君主の立場からみている)そうで、これもあってか、元侠客とも
いうべき側面のある徐庶はともかく、孟建・石韜とはやや距離があったようです。
そういえば、孔明が自らをなぞらえたのは管仲・楽毅ですが、二人とも斉と縁のある人ですね。

徐庶の紹介により劉備は孔明のもとを訪ねますが、当初、孔明は劉備に対し、不快感さえ持っていたとさえ
いいます(妻子にも配下にも酷薄・信義も何もない・結局のところ何も為していない…なるほど美質という
べきものがありません)。
しかし、門前払いしたにも関わらず、劉備はまたやって来ます。孔子が陽虎に仕官を求められた時のエピソ
ードにならった断りの文句を徐庶を通じて伝えてもなお、劉備は怒りの色もみせず、再度来るのです。
ここで、孔明は大いに悩みます。郷里の徐州を荒らした曹操にはつきたくない、孫権はどうも癖がある(既
に兄が仕官しているのでその後塵を拝することになるのも…)、そして、劉表は老い、曹操の勢力は急激に
拡大しており、もはやのんびりと世代交代を待っている暇はない…。
そして、ついに決断を下すときがきました。

二人の出会いは互いに感動をもたらすものとなりました。ここでの劉備は、演義における大徳の人でもなけ
れば、蒼天航路における侠気の人でもありません。何というか、仏教でいう「空」の人です。
その空の人に実を植え付けたのが孔明でした。

一方、曹操はというと、玄武池を作り水軍の訓練に入っていました。南方の制圧に取り掛かろうとしていた
のです。曹操vs孔明という図式ができつつあるようです。

180 名前:左平(仮名):2006/09/12(火) 20:45
今回のタイトルは「甘寧」。最近、人名のタイトルが続いてますね。

南征を図る曹操。荊州をまず併呑し、そこから孫呉を…と考える彼としては孫呉の台頭が遅い方が望ましい。
そのため、江夏を守る黄祖の奮闘に期待するところだったのですが…その願望は、あっさりと砕かれました。
その鍵を握る存在だったのが、この甘寧。

巴郡の出である甘寧は、任侠を気取り、放恣な日々を過ごします。侠気に叶うとみれば罪人を匿い私刑を行う
こともしばしば。豪奢を好み…とくると、なるほど、劉備に似ているところがあります。
※年齢的には、劉備とはそんなに離れていないように思えます。彼がなぜ群雄の一人に名乗りをあげなかった
 のか…という考察もできそうですね。
そんな生活を二十年程も続けた後、突然書物を読むようになり、荊州に向かいます。さんざん好き勝手に生き
てきた末に、ふと倫理道徳に思いを馳せたか、何かしら老いを感じたのか。ともあれ、いったんは劉表に仕え
ようとしたものの、儒教道徳に則った君子である劉表は彼を使う術を持たず。となれば、まだ内部が固まって
いない孫権か、と見極めますが、黄祖に止められます(そりゃ、数百人ものド派手な一行が通れば目立ちます
わね)。
ここで暫くの間くすぶりますが、孫権の江夏攻めの際、なりゆき上、黄祖を守って後拒をつとめたことで孫呉
に名が知られます。蘇飛のはからいで孫呉にわたった甘寧は、直ちにその力量を認められ、黄祖攻めに加わり
みごと大功を挙げます。
※黄祖のキャラがなんとも微妙なところですね。「勇将」「荊州で最高(の武将)」「運だけは強い」。どれ
 が本当?まぁ、最後は、「事実上の総司令官は蘇飛」なんですけど。
 陳舜臣氏の諸葛孔明での黄祖が一番まっとうではあったように思います(孫堅を倒した部下の首を差し出せ
 ば孫呉もおとなしくなるのでは、という劉表に対し、自分が責を負う、ってなあたり)が…結構、書きよう
 がありそうです。
 前に、どこかで「黄祖は半独立勢力では?ってな」話も聞きましたが…

後半は、諸葛亮が登場。黄祖亡き後の江夏太守の任についたのは…劉表の嫡子・劉K。その経緯が語られます。
親異常に乱世には不向きな人として描かれてますね。

181 名前:左平(仮名):2006/09/18(月) 00:14
三国志の第四巻が発売されました。早速購入、読了。
しかし、ここらの密度は濃いですな。一巻で四年程度しか経過しておりません。

182 名前:左平(仮名):2006/10/04(水) 22:28
三国志の第五巻が出ましたので、先週、購入しました(第五巻の時に第四巻と
共に広告載せるのなら、一緒に出しても良さそうな気もしますが…)。

土曜に買ったので、即日読了したのですが…あれ?「張繍」の回、典韋の最期
が詳しく描かれてる…。

183 名前:關龍白:2006/10/10(火) 15:43
「張繍」の回は全部で33ページもありますね。
他は28,9なので追加したんじゃないでしょうか?

184 名前:左平(仮名) :2006/10/15(日) 21:15
>追加したんじゃないでしょうか?
恐らく、そうでしょうね。しかし、いしいひさいちキャラの藤原センセならともかく、宮城谷作品で増補改訂
があったというのは、なかなか面白いものです(とは言え、雑誌への連載時から読んでて、かつ、その記憶が
あるのは本作と風は山河よりくらいなんですけど)。

今回のタイトルは「長阪」。

前回のラストでちらりと司馬懿の名が現れましたが、今回、前半部分でそのあたりの経緯が描かれてました。
兄・司馬朗の友人である崔琰(直言が好きですな、この御仁)に高く評価された彼は、この頃に出仕。病と
佯っていたところ刺客に襲われ…といった『晋書』でのエピソード(妻の張春華のことは、今回は書かれて
ません)を書きつつも、周辺の人間関係等からこれを疑問視されています。
この時点では地味な一官僚たる彼ですが、先祖には名将(巴蜀を制した司馬錯等)もいるだけに、文武兼備
を自負しています。

曹操による荊州攻略に先立ち、まずは、涼州の鎮撫がなされます。馬騰・韓遂が相争うのを鍾繇が調停し、
続いて、張既の説得により、馬騰が入朝します。これにより、一応収まります。欲を言うと、曹操にとって
ベストだったのは、馬超をも入朝させて涼州の私兵軍団を解消することでしたが、さすがにこれは酷という
もの。こちらは、しばし後回しとなります。
 張既の若い頃のエピソードが紹介されています。彼の才を見出した功曹・游殷とその子・游楚です。游楚
 の方は、あまり曹操好みという感じではない鷹揚な人物という扱いですが、なかなかの器量を持った親子
 です(游殷を死に追いやった胡軫は、三国志全人名事典では董卓配下の胡軫とは別人という扱いですが…
 どうなんでしょう)。

曹操の圧力が迫る中、劉表は世を去ります。父の危篤を知った劉Kは直ちに駆けつけますが、蔡瑁・張允に
阻まれます。そして、劉Nが跡を継ぎ、曹操に降る決断を下します。
 劉Kを阻むのは演義等と共通しているのですが、ここでの蔡瑁・張允の描かれ方は、かなり異なります。
 蔡瑁は、荊州のため、「政治的判断として」劉Kを阻みます。そこには私心はなく、去り行く劉Kに対し
 「どうかお宥しを…」と詫びてさえいます。蒼天での蔡瑁も善人キャラでしたが、こちらはそれにプラス
 して忠臣キャラも入ってます。
 一方、蒯越は、器量は相当なものですが、さすがに老いたか、乱を好まぬ人物に。
 劉Nは、器量については父には少し劣ると言えますが、下手な妄想は抱かない分、まっとうな人物です。
しかし、この決断により、劉備達は見捨てられた格好になります。ここで荊州を乗っ取っては、という声も
あがりますが、劉備は、ここでも鮮やかなまでに捨ててみせます。
民が付き従うのは、徐州でのことがいまだに荊州では意識されている―劉表の政策の賜物でもある―ため、
ということからすると、必ずしも劉備の魅力によるものではないわけですが…しかし、それでも劉備に何か
魅力を感じるというのはなぜでしょうか。

ラストは、三国志ファンご存知の趙雲の大活躍。曹操をも感嘆させる奮闘振りですが、関羽以外にも「劉備
には過ぎたる臣」がいたことを、曹操は不思議に思います。

185 名前:左平(仮名):2006/11/19(日) 21:46
今回のタイトルは「魯粛」。

タイトル通り、今回の主役(?)は魯粛です。まずは、その来歴から。…「〜の人」というのは
史書にあるわけですから、調べれば分かるとはいえ、徐州の人、ということを強調していたのが
印象的です(反・曹操にして親・劉備というのにはそれなりに理由があったということ。徐州の
主としての劉備の政は、少なくとも悪いものではなかったみたいです)。

ゲームでは孫権配下の参謀の一人ってな感じの扱いですが、ことさら学問に励んだという様子は
なく、人を集めて教練を行う等していますから、家が裕福でなかったら甘寧みたくなってたかも
知れません。
しかし、数百の衆を集めて教練を施し、周瑜の訪問をうけて倉一つぽんと渡すってんですから、
傍目には単なる放蕩息子とみられるのも無理はありませんね。

周瑜とはたちまちにして意気投合。子産・季札にたとえられる程の仲となりますが、魯粛がその
才を存分に輝かすには、それからしばらくの歳月を要します(何だかんだ言っても袁術の虚名が
なお大きかったこと、周瑜に【いくばくかの】中央志向があったこと、孫策がとかく武人偏重に
なりがちであったこと等、理由はいくつかあります)。
魯粛が劉曄の誘いをうけて北へ向かおうとした時、周瑜が懸命に引き止め、孫権に立ち会わせた
ことで、埋もれかけた才が世に現れます。
孫権に語った内容は、現状を踏まえつつ、覇権を得るための策(献帝を義帝、曹操を項羽、孫権
を劉邦に喩えてます)。中央の高位に色気を持たず、思想にいらぬ装いをしていない自由人・魯
粛の面目躍如の場面です。


そんな魯粛にこのたび、荊州の偵察(等)という使命が下ります。劉備という奇才にピンときた
魯粛は、彼に、孫権との盟を勧めます。
諸葛亮のGOサインも出て、ここに、一つの流れが生じました。
最後は、諸葛亮と孫権との対面。若くして一勢力の長となった孫権からすると、親ほど年が違う
というのに未だに領地を保ち得ない劉備の器量に対し、どうしても疑いを持つのですが、そこを
どのように説得するか。


ここで、劉備陣営に一つの動きがあります。劉備に諸葛亮を勧めた徐庶が去ったのです。母が捕
らえられたとはいえ、少し時間が経ってから去ったというところに、彼の複雑な心境が見え隠れ
しています(龍【諸葛亮】を見上げつつ、母とともに地を行く徐庶。千載の後も名を残すことと
なる偉才と自らを比べ、悲観したのでしょうか。幅広く人材を活かすことができない点に劉備陣
営の難しさがありますが、曹操とて、最初は小勢力からのスタートでした。何が違っていたのか
…)

186 名前:左平(仮名):2006/12/10(日) 22:36
今回のタイトルは「水戦」。

もっとも、タイトルにある戦闘自体は、今回はありません。前回のラスト、諸葛亮が孫権と面会する
ところから始まります。
諸葛亮の弁舌そのものに対しては、孫権はやや冷ややかな感想を抱きます。しかし、ここで曹操と戦
わないことには、父・兄の偉業が霞む。
勝算は薄いが、戦わぬわけにもいくまい。しかし、衆議にかけ、群臣達の総意をまとめないことには、
如何ともしがたい。

張昭の説く和睦それ自体は、決して間違いではない。しかし、群臣達が賛同するのは…。孫権が真に
開戦を決意したのはこの時かも知れません。

孫権は、周瑜・魯粛、そして程普に指揮を委ねます。ここは妥当な判断でしょう。敵は大軍なれど…
周瑜には、勝算がありました。劉備勢の力を借りるまでもありません。
ただ、欲をいうと、周瑜はこの戦いに劉備を巻き込んでおいた方が良かったのかも知れません。彼を
完全に外したことで、劉備はこの戦いの後、自由に兵を動かせる状態になったわけですから。


ただ、曹操にとっては、既に戦いは始まっていました。それも、自軍にかなり不利な状態で。そう、
疫病の蔓延です。
郭奉孝があれば…。曹操の嘆きがここで聞かれるとは、正直意外でした。
軍の指揮をとるのは華歆。人格識見ともに優れた人物ですが、兵略には長じていません。ただただ、
数で押すしかない状態。
一体、どのような赤壁の戦いになるのか。

187 名前:左平(仮名) :2007/01/20(土) 22:28
ここのところ仕事の方がバタついてまして書き込みが遅くなりました。…それはともかく。
今回のタイトルは「赤壁」。言うまでもなく、あの戦いが描かれるわけです。

曹操と周瑜の艦隊が接触。いきなりの水上戦から始まります。蒼天では曹操が食中毒でダウンしてました
が、こちらでは健在につき、しっかりと采配を振るってます。
水上では孫呉有利とはいえ、決して一方的ではない、水戦らしい戦いが繰り広げられており、何とも絵に
なる場面でした。
本来の構想であれば、長江を埋めんばかりの大軍で殲滅するところでしたが、疫病により相当数の軍船を
焼いた(それでも数では孫呉を圧倒しているのですが)ため、なかなかに苦戦。下流から攻めてきている
というのに、巧みな操船技術で曹操軍を翻弄する周瑜の力量は確かです。
危うい場面もありましたが、確かな状況判断に基づき死地を回避した曹操。戦いは、水上から陸上に移り
ます。

水上では有利にことを進めた周瑜ですが、陸に上がられてはなかなか手が出せません。攻めあぐねた周瑜
は、やむを得ず、劉備を使うこととします。
といっても、先に劉備の助力を断っているわけですから、いかに感情を面に出さない劉備とはいっても不
快感はあります。さて、どうするか。
…劉備は動きました。諸葛亮の、高度な政治的判断に基づいて。実は、周瑜もまた、劉備が曹操と本気で
戦うなどとは思っていなかったのです(これにより曹操に動きを見せれば隙も生まれるだろう、という判
断。長期戦になれば孫呉不利は明らかでしたからね)。
さて、次の手は…。

ここで黄蓋登場。ビジュアル面の記述は全くないのですが、蒼天のもので想像してもいいような忠魂ある
武人です。風向きのことも書かれてましたが、本作でも、火計の主眼は、偽りの投降をした黄蓋が曹操軍
の奥深くに侵入することでした。
 とはいえ、この策のポイントとして、「曹操は猜疑心が『薄い』」という点が挙げられているのが、他
 の三国志とは違うところ。確かに、本作での曹操は、篤実さとか堅実さというところが強調されてます
 からね。
そして、ついに決行。火計が成功し、水上の軍船はもとより陸上の陣営までも焼き尽くすそのさまは壮絶
の一言ですが、ページの下の方だったからか、ビジュアル面の派手さの割に、以外に地味な印象を受けた
のは私だけでしょうか。
ただし、曹操は、これもまた直前に回避。周瑜は、戦勝に酔う間もなく次の戦いに臨みます。曹操を討た
ないことには、真の勝利とはいえないからです。

188 名前:左平(仮名):2007/02/18(日) 23:44
あー…精神面では幾分落ち着いたのですが、年度末近くでまだバタついてる…個人的な事情はともかく。

今回のタイトルは「江陵」。赤壁後の、荊州をめぐる曹操vs孫権の戦いがいよいよ本格化してきました。

黄蓋の捨て身の策により、陣営を焼失した曹操は、急ぎ華容道をひた走ります。とはいえ、かつての徐栄
との戦いの時もそうでしたが、あまりの負けっぷりに、さすがの曹操も茫然自失とする場面も。
ここで、虎豹騎を率いる曹純の冷静さが光ります。前途が悪路であること・劉備が追跡していることを把
握するや、的確な指示を下し、みごと曹操の退却を成功せしめたのです。
ここで曹操が討死すれば天下の趨勢はまた混沌とするところでしたから、その働きは極めて大きいものが
ありました。

いったん北帰する曹操は、要衝・江陵の守備を、曹仁に託します。彼で駄目なら諦める。曹操をしてそう
言わしめた曹仁、既にしてかなりの将器となっています(反董卓の挙兵の頃は単なる暴れ者だったのが、
見事な成長を遂げている、というように絶賛されてます)。
その彼を補佐するのが、賢臣・陳矯と、猛将・牛金(!)。

曹操を討ち漏らした周瑜は劉備の不実に怒りますが、いつまでも怒る余裕はありません。直ちに次の作戦
に移ります。
ここでは、甘寧、呂蒙らの活躍が光ります(一方で、甘寧と淩統の微妙な関係にも言及あり)。徐々に江
陵包囲網を整えた周瑜は、ついに、江陵の攻略に臨みます。

要衝ながら江陵の兵力は以外に少なく、いかに篭城戦とはいえ、曹仁は劣勢に立たされます。この時、陳
矯はかつての陳登を思い出すのですが、陳登と曹仁とは、その将器の質にやや違いがあります(ともに名
将なのは確かですけどね)。
少数精鋭を以って敵の気勢を削ぐべく、牛金に出撃を命ずる曹仁。臆することなく受諾する牛金。相当の
胆の持ち主である牛金ですが、多勢に無勢。包囲され、このままでは…その時!

189 名前:左平(仮名):2007/04/15(日) 22:52
(2007年03月分)
個人的な話をしますと、このほど、異動になりました。とはいっても、広島通勤が続くのですが。

今回のタイトルは「合肥」。もちろん、劉馥・劉靖父子のことも書かれてます。
まずは、前回からの続き。部下の危機をみた曹仁、何と!ただ一騎で出撃しようとします。陳矯の困惑、
いかばかりか。
何とか数騎をつけたとはいえ、敵勢と比べると余りに小数。しかも、ただの示威行為などではなく、本
気で戦うというのですから、無茶にもほどがあるというもの。
陳矯、あまりの衝撃に、聴覚が失われたかの如き状態に陥りますが…
しかし…突如沸き起こる歓声。続いて、意気揚々と帰還する曹仁達。曹仁は、見事、包囲された牛金達
の救出に成功したのでした。
いかに敵勢が怯んだとはいえ、あれだけの重厚な包囲を突き破るとは、大変なもの。(実は、今回の曹
仁については、ビジュアル的には蒼天バージョンで想像したのですが…)後年の合肥の張遼に優るとも
劣らぬこの場面が蒼天で描かれなかったのが惜しまれますね。

周瑜が江陵で曹仁と戦う中、孫権は合肥を、張昭は当塗を攻めます。しかし、合肥の守りは万端。劉馥
の遺産が実によく機能したのです。
類稀なる行政手腕を持ちつつも、己の徳量を過信せず、しかと合肥の基盤作りを成し遂げていた劉馥。
そして、その父の薫陶を受けていた劉靖(三国志の時代からは少し外れるからか、孫の劉熙までは言及
されてませんけど、三代にわたる活躍ですからね)。
結局、周瑜は江陵を落とすのに一年かかり、孫権・張昭は成果なし。赤壁での鮮やかな勝利があったと
はいえ、思うような結果は得られませんでした。

一方、劉備達も、地味に動き始めます。しっかりとした領土を確保しないことには、結局孫権あたりに
吸収されかねないですからね。
劉Nとともに曹操に降ったと思しき荊州南部の太守達を口説き落とす、ってな口実をつけて、周瑜から
離れることとします。
他の事に手が回らない周瑜、これを了承したのですが…孫呉にとっては、後々悩みの種になるんですよ
ね。孫権がもう少し攻めに長けていたら…というifもありなんでしょうか。

ラスト付近は、武陵の金旋攻めです。じっくりと内通を待ち、約一月の後、趙雲。糜芳という珍しい?
コンビで攻略に挑みます。
ただ兄に従ってきたというだけで、劉備も、関羽・張飛も、さらには諸葛亮をも嫌うという糜芳。そん
なに嫌ならついて来るなよと言わずにはいられない彼も、趙雲は真の将器と認めています。
さて、武陵攻め。いかなる描かれ方をするのか。

190 名前:左平(仮名):2007/04/16(月) 23:06
(2007年04月)
今回のタイトルは「巡靖(立+ヨ)」。諸葛亮の導きもあり、捨てることで名声を得てきた劉備が徐々
に変貌するさまが描かれます。このタイトル、二勢力にとっての、という含みがあるみたいです。

今回の話は、武陵攻めの続きから始まります。趙雲自ら城壁をよじ登り、ついに城内に到達。それと同
時並行で関羽・張飛が突入。かくして、武陵は陥落。太守の金旋は倒されます。
趙雲が徒歩で戦う姿はなかなか見られないだけに、面白い場面です。糜芳をして「趙雲はかすり傷一つ
負わないのではないか」と言わしめるあたり、宮城谷氏も趙雲のイメージを崩すことはなさそうです。
突入時にも「常山の子龍である。かかってくるか」と、台詞に!がつかないあたり、冷静沈着な武人と
して描かれています。
その後の場面においても、趙雲の識見の確かさをうかがわせます(一方、糜芳は、自らの力量の乏しさ
が分かるがゆえに苛立っているように見うけられます)。
さて、戦後処理。関羽が太守代行となったことに不満を示す糜芳を趙雲はたしなめ、一方で、内応者を
探します。その内応者は、城内突入時には死んでいた兵士達かと思われましたが…その首謀者と思しき
人物とは、実は廖立でした。劉備と諸葛亮が武陵を攻めるのに時間をかけたのには、このような側面も
あったというわけです(単なる力攻めでは人心は掴めないし、戦闘の結果、味方になりうる人材を喪う
惧れがあった)。劉備のもとにも、徐々に人材は集まってきつつあります。

そして、続いては長沙。親曹操ながら、その支援が期待できないことは分かっている太守・韓玄は、劉
備からの使者(何と!簡雍がここで登場です!)と対面します。
簡雍は、不思議な使者でした。降れと脅すわけでもなく、利をちらつかせるでもなく。何しに来たのだ
と思いつつも、そんな簡雍の主である劉備の力を認め、抗戦することを諦めた韓玄。「演義」とは全く
異なる結末となりました。その後、韓玄がどうなったかは全く言及されていませんが、以前の黄祖と同
様、なかなかの人物という印象が残ります。
このような結末となったため、ある重要人物の登場場面がありませんでした。約十年後にはかなり重要
な存在となる彼をここで出さないとなると…どういう形で登場させるのでしょうか。もっとも、案外、
次回あたり名前だけポッと出すのかも知れませんが。

続いて、桂陽・霊陵も降し、劉備は確かな足がかりを築きました。真の意味で劉備が一勢力としての道
を歩み始めたのです。
さて、孫権との戦いに気を取られていた曹操も、この頃になると荊州南部の情勢が気にかかる様になっ
てきました。とはいえ、江陵にも十分な兵を与えていないことからも分かるように、余裕はなし。そこ
で曹操が選んだ人材とは…劉巴!
かつて孫堅の遺骸を引き取り、後には張羨を動かして劉表と戦った桓階をして自分以上の人物と言わし
めたあたり、大物感があります。

名士・劉巴が荊州南部の説得に動いていることを知った諸葛亮は、彼の捕捉を考えます。使者として各
地を巡っている以上、大人数ではないはず。とはいえ、扱い方を誤ると…というところがあるだけに、
どのようにして捕らえ、迎え入れるのか。

191 名前:左平(仮名) :2007/05/21(月) 22:50
三国志(2007年05月)

今回のタイトルは「四郡」。名実ともに拠って立つ領土を確保した劉備は、そろそろ、これまでとは違う
自分を探し当てる時期にさしかかっています。

しかし「零陵」を打ち間違えるとは…。ここのところ、本作以外ではやや三国志から離れているとはいえ、
情けない限りです。

まずは、前回の続きから。
荊州南部で反劉備の狼煙をあげるべく動いていた劉巴。危ういところで捕捉の手が伸びていることを知り、
間一髪で諸葛亮の追跡をかわしますが、零陵郡から追われる格好になりました。当然、これでは使命は果
たせません。
半ば失望した劉巴が辿り着いたのは、交州。現在のヴェトナム北部ですから、漢の人々からすると、殆ど
化外の地です。
当然、ここで交州の主・士燮の名が出てきます。とはいえ、劉巴の言葉に耳を傾けないことから、ここで
は小物扱いです(確か、王莽の頃からの半独立勢力…と聞いた覚えが。当時、中央にあっても一級の知識
人でもあったのですから、もう少し良く書いても…とも思いますが、やり場のない鬱憤のあったであろう
劉巴にはそう見えたということでしょうか)。
結局、ここから益州に入った劉巴は、この地に落ち着き、後には…ということになります。人生の皮肉を
感じるところではありますが、この時代、このような人々は多かったのでしょうね。

さて、こちらはしばし措くとして…。今回のメインは、四郡を得た劉備の、今後に向けての動きについて
です。
先の徐州は借り物。しかも袁術やら呂布やらといった敵対勢力に苦しんでおりましたから、半ばどさくさ
紛れに、とはいえ、この四郡は、初めて自力で勝ち得た領土です。
これをいかに保つか。これまで捨てることによって生き延びてきた劉備にとっては、何もかもが初めての
経験です。
幸いなことに、かつての蕭何の如く内政に長じた諸葛亮に加え、関羽にも行政手腕がありました。あとは、
曹操の動きを睨みつつ、孫権と良好な外交関係を築くこと(もっとも諸葛亮は、孫権に気を許すべきでは
ないことを認識しています。孫権にあまりに近付くと四郡の領有権が曖昧になってしまう惧れがあるため
です。事実そうなってしまうわけですが、とはいえ、なかなかこのあたりの機微は難しいところです)。

劉備と孫権の妹との婚儀。こうなると、劉備自身が行かないわけにはいきません。劉備を見送るにあたり、
諸葛亮は、「若君(後の劉禅)とともにお待ちしております」と言いますが、それは一方では、劉備に万
一のことがあった場合には、幼君を立ててでもその勢力を守り支えるという覚悟の表明。単なる儒教的な
忠とはいささか形は異なりますが、後の「出師表」に繋がるところがある…?

192 名前:左平(仮名):2007/06/17(日) 09:57
三国志(2007年06月)

今回のタイトルは「養虎」。ここにきて、益州が注目の対象になってきました(今回、曹操は出番なし)。

劉備が呉に来訪。強運の英雄(好意を持たない者からみれば悪運の強い梟雄)・劉備の扱いを巡り、呉の
内部は喧々諤々の論争が起こります。
 抑留すべしと主張→呂範、周瑜
 活用すべしと主張→魯粛
ともに、劉備がひとかどの器量の持ち主とみているからこその真摯な主張なわけですが…ここでの孫権は、
後者を採ることとしました。兄の後を継いで以来、ここまでこれといった挫折もなくきているだけに、鷹
揚なところを見せたかった…というところもあるのかも知れません。

しかし、この邂逅、(少なくとも劉備にとっては)益あるものではありませんでした。
劉備は、孫権に対し、抜きがたい不快感を抱いたのです。曹操とは異なり、欺瞞が感じられる、と。後年
のことを考えればあり得ないではないのですが、ちょっといきなりのような気も。
孫権の妹が劉備との結婚を心底嫌がっている(確かに、いくら美人でもこれでは冷めますわな…)という
のも、その不快感をさらに強めることに。
結局、用事が済んだら、逃げるように帰っていきました。
劉備が陳登と許レとを評したエピソードからみると、表には出さないけど、結構激しい気性の持ち主でも
あるわけですし、人物鑑識眼もなかなかのもの。その劉備がかくも孫権を嫌ったという時点で、この同盟
なるものは危ういものだった…。

主君が劉備を帰したことを知った周瑜は、自らの大計を急ぎ実行するべく、行動を起こします(曹操・劉
備が大規模な軍事行動を起こせない今のうちに…ということ)。
孫権の承認も得て、意気揚々と帰途についた周瑜でしたが…突如として世を去ります。曹仁との戦いで重
傷を負ったとの記述はありましたが、何とも急な死でした。
歴史を大きく動かした赤壁の勝利。そのために世に現れた、一つの奇跡。孫権の言葉も含め、最大級の賛
辞が並びます。
志半ばにしての夭折。一方で、千載の後までも語られる偉業。無念さと充足感が交錯します。

ともあれ、大器・周瑜の死により、その大計―益州を併呑し馬超と結んで曹操を多方面から撃破―は挫折
します。
しかし、諦めきれない孫権は、益州を攻めるべく孫瑜を動かします。この際、劉備には何らの事前連絡を
していないあたりが、まだまだ甘いところです。
孫瑜を通さず、一戦交えることさえ辞さない劉備。はて、どのように収拾するのか。

193 名前:左平(仮名):2007/07/17(火) 22:26
三国志(2007年07月)
今回のタイトルは「龐統」。孔明とはかなりタイプの異なる偉材の登場です(ちなみに、容貌への言及は
なし)。

益州を獲るべく孫瑜を西に遣わした孫権。これに対し、劉備は関羽・張飛を遣わしたことで、あわや全面
対決の様相を呈します。
が、しかし…。劉備の書状(低姿勢に終始)を受けた孫権は、ここで兵を引くよう命じます。訝しく思う
孫瑜ですが、良将たる孫瑜は、主命に背くことなく引き返します。
かくして、劉備はやすやすと江陵を確保。益州への道は、劉備がおさえることとなりました。孫権も後で
地団駄を踏んだのでしょうが…ここは劉備の勝ちでしょう。
我欲を剥き出しにしたといえる劉備の姿に、魯粛も軽く失望します。しかし成長した呂蒙の言葉をうけ、
思い直します。
人は、変わり得るもの。親・劉備派とみられる魯粛も、そう単純な存在ではありません。

ちなみに、呂蒙と魯粛の話の中で、関羽の人となりが語られています。春秋左氏伝を愛読した関羽は、儒
教的な正義観とはいささか異なるものを持っているようです。その思いは強烈で、漢朝にも、(漢帝を奉
ずる)曹操にも屈しません。いや、王朝的なシステムの構築を図りつつある劉備にさえも、どこか一線を
引いているのでは…とも。
高島氏でしたか、三国志における関羽の存在は巨大であると語っておられましたが、宮城谷氏もその図式
を描いておられるようです。

ここで、龐統が登場します。自己顕示欲が強く、毒舌家でもある彼は、呉の偉材(雇邵、陸積、全N)に
対してもかなりな物言いをしますが、それがかえって好かれるという得なキャラです。
とはいえ、はじめ、劉備は彼のことを気に入らなかったわけですから、人の見方というのは複雑ですね。
潘濬(清廉のみならず情義も併せ持つ、劉備好みの名臣。とはいえ、陳登もそうですが、そんな彼らが劉
備のもとを離れなければならないというのもまた世の習いか)のことも語りつつ、今回はここまで。
次回は、久しぶりに曹操のことが語られるようです。

194 名前:左平(仮名):2007/08/13(月) 23:54
三国志(2007年08月)
今回のタイトルは「潼関」。久しぶりに曹操メインの話です。

建安十五(210)年。「求才令」を出し、銅雀殿を建てたとはいえ、孫権・劉備の動向が掴みきれない
だけに、曹操に目立った動きはありません。
内実は決して連携していない孫権・劉備ですが、二勢力がそれぞれに曹操に牙を剥く「常山の蛇」の状態
とみると、動けないのも無理はないところでしょう。
それにしても…。二年前はただ逃げ回るだけだった劉備がこれほどの存在になろうとは。曹操の目には、
いまだ諸葛亮の姿は見えません。それだけに、劉備軍団の変容の原因が未だに分からない状態です。

南方は、しばらく手を付けられない。と、なると…。そう、西方です。かの地自体が治まっていないのに
加え、益州(この時点では劉璋がいるとはいえ、孫権か劉備に侵食されることは明白)から手を回されて
は一大事。賊・商曜の蜂起の知らせを受け、直ちに護軍・夏侯淵に出陣を命じます。
速攻に長けた夏侯淵ですが、ここで求められるのは、来るべき曹操の出陣に備え将兵の損耗を抑えること。
いや、そればかりではありません。

軍議において、諸将は(大将の気性に合わせて)速戦を唱えますが、ひとり朱霊が異論を唱えます。ひと
たびは朱霊の進言を退けるかと思われた夏侯淵ですが…かつての雷緒征伐のことを思い起こし、その意見
を採用します。結局、それが大正解でした。
 ※征伐された雷緒がどうなったか、を考えると答えが出てきます。
 ※朱霊が曹操に嫌われていたことも触れられています。ただ、最初の頃はそれほどの将器でもなかった
  (晩成した)ように書かれています。何かそういう資料があるのか、曹操が嫌った理由付けをされた
  のか。

そして、ついに馬超達が出てきます。それなりに野心はある馬超達。しかし、なにゆえこの時点で動くの
か。何やら、中央にもきな臭い動きがある…?
しかし、ここでの馬超は実に冷静沈着です。潼関に入った曹仁の将器のほどが知られているということも
あるにしろ、親子ほども年の差がある韓遂と比べてもその落ち着きぶりはなかなかのもの。

ラスト付近、ちらりと曹植の名が。次回あたり、詩の一つも出てくるのでしょうか。

195 名前:左平(仮名) :2007/09/22(土) 23:24
三国志(2007年09月)

今回のタイトルは「雨矢」。対馬超戦の序盤・渡河作戦の顛末などが描かれます。

前回から既に対馬超戦に入ってはいるのですが、曹操自身が臨むのは今回から。まずは、その深謀遠慮が
語られます。
内に外にとにかく忙しい曹操にとって、頼りになるのは名臣のみにあらず。賢婦人・卞氏のことを忘れて
はならないでしょう。(途中までですが)こたびの遠征に連れて行ったのもそのため。彼女は、夫の期待
にみごとに応えます。
それだけではありません。愛子・曹植も同行します。彼が類稀なる文才の持ち主であるということは既に
分かっているだけに、夢想に陥らないよう、現実の戦場を見せておく必要があると判断したからです。

ただ、曹丕はこのことに不快感を示します。またしても留守を任されたことで己が武名をあげる機会を逸
したためです。
それ自体は、曹操から信頼されていることの証といえるのですが…ここではまだ語られないとはいえ、後
のことを思うと、少しばかり影が差しているような。
また、曹丕の正室・甄氏は、義母を気遣う孝婦なのですが、義母には少し劣る(ごく簡単にいうと、大家
族の中で育ったため寂しがり【義母を気遣うのもその故】なところがあり、胆力が弱い)ようです。
本作においては、養祖父・曹騰から書かれていますから、曹操が三代目。『重耳』や『風は山河より』と
比較すると…曹操以降は、さて?
 蛇足ながら、村上氏の挿絵、普段はやや三枚目的な感じのものが多いのですが、今回はまっとうな美女
 (おそらく甄氏)でした。こうしてみると、甄氏の描かれ方って作風が出るようですね。

鍾繇の治績を確認し、潼関に着陣した曹操。もちろん、既に作戦は考えています。徐晃・朱霊もその意図
をしっかりと読み取り、適切な動きを見せます。
ここで馬超側の意見は分かれます。渡河させまいとする馬超と渡河途中を叩くべしとする韓遂。ここでは
馬超の方が正しかったわけですが…韓遂の考えにも一理あるだけに難しいところです。

かくして、渡河作戦が開始されます。それを察知した馬超は手勢を率いて急行。西方の精鋭達がどっと襲
い掛かってきます。
曹操側も精鋭揃いですし、名将・張郃もいるだけにたやすくは崩れませんが、攻撃は激しさを増す一方。
タイトル通り、曹操に向かって雨の如く矢が降り注ぎます。
ついに、曹操の身を気遣った張郃・許褚によって、曹操は後方に引きます(というか、後方に連れて行か
れます)。

ただ、馬超にも抜かりはありました。韓遂達との連携がいまひとつとれていないのです。戦いを仕掛ける
のは馬超側ですが、気がつくとじりじりと押されている状態。和議を持ちかけるなど、焦りの色が見られ
ます。
と、なると…。ここで賈詡の登場。次回は…

196 名前:左平(仮名):2007/10/29(月) 21:23
三国志(2007年10月)

今回のタイトルは「馬超」。対馬超戦の決着がつきます。

兵糧の問題もあり、このまま戦い続けていても埒があかない。とはいえ、利無くして退くこともできない…。
ジレンマに陥った馬超は、ここで韓遂を使うことにしました。韓遂が曹操と面識があることから、曹操との
面会の場を設けることを求めたのです。
2対2。こちらは馬超と韓遂。向こうは曹操と誰か…。さすがに軍閥の長であるだけに、それ相応の思慮も
ある馬超ですが、ここは己が武勇で何とかけりをつけようとしたのです。
しかし、馬超と韓遂の間には、互いを軽んずる、いや〜な雰囲気が。これでは…。

そして、面会の場。向こうは一騎。よし、いける…そう思った馬超ですが、曹操撃殺は成りませんでした。
何故なら、曹操の傍には、徒歩ながら剛勇無双の許褚がついていたからです。韓遂との連携が成らぬ以上、
許褚に気を配りつつ曹操を襲うことは不可能でした。
そんな馬超などいないかの如く、曹操と韓遂の話は弾みました。才略にも機知にも富んだ両者のことです。
もしかしたら…両者は、敵ではなく盟友として、あるいは上官と部下として…と思わされる場面です。

しかし、一点、大きな違いがありました。韓遂にとっては、中原の天は狭いのです。「銅雀台に登れば天
は低くなる。あの男でもそれが分からぬか」…何とも意味深なところです。

結局、この面会を経て、馬超の、韓遂への不信感はさらに高まりました。何も得られなかったのです。続
いて、関中諸軍閥との面会にて、決戦の時が決まりました。

そして、いざ決戦。しかし、韓遂と、その目付的な軍勢は動き(動け)ません。そのため、いかに猛攻と
はいっても、曹操麾下の歴戦の勇者達の軍勢を突破することはできません。
そして…ついに、曹操の軍勢の両翼が、馬超の軍勢の分断にかかります。思うところあって、馬超とは歩
調を合わせなかった楊秋の軍勢が、結果としてこれを食い止め、馬超を助ける形になりました。この楊秋、
後に、説得を受けて帰順します。

一方、その頃、鄴で変事発生の報せが。直ちに出陣しようとする曹丕を(民生に優れた)国淵が諌めます
が、聞く耳を持ちません。ここで、常林が登場します。さて、どう説こうというのか。

197 名前:左平(仮名):2007/11/24(土) 22:02
三国志(2007年11月)

今回のタイトルは「法正」。劉備が益州に入ります。

最初は、前回の続き(曹丕が出陣しようというのを常林が諌めるところ)から。河北の情勢に明るい常林
が理をもって諄々と説き、曹丕の出陣を止めました。
もちろん、鎮定する必要はありますので、「曹丕が派遣した」という形をとり、賈信(袁氏討滅のあたり
で出てきたようです)が出陣します。
さして目立つ存在ではないとはいえ、賈信もひとかどの将軍。すみやかに賊に打撃を与えました(首謀者
は捕まらなかったのでこの時点ではまだ完全に鎮定したわけではありません)。
さて、捕らえた者どもをどうすべきか。

「旧法では〜」「孫子曰く〜」 多くの属僚達がそう言う中、一人沈黙を守る長身痩躯の老人の姿があり
ました。程Gです。
旧法を墨守するだけでは組織は柔軟性を失い硬直していく。戦乱の世を生き延びてきただけに、その弊害
はよく見えます。それに…あの丞相が、何の備えもしていないことがあるでしょうか。

その通りでした。前回、曹操は曹仁を馬超追撃から外し、潼関に残していたのですが…それがここで生き
たのです。直ちにとって返した曹仁は、たちまちにして河北の賊を討滅します。
帰還した曹操は、よく留守をつとめた曹丕をねぎらいました。それこそ、程Gの功績でした。


そんな頃、益州ではある動きがありました。ここで、法正の登場です。
中原の混乱を避け、益州に入った法正ですが、この地の主・劉璋の目には留まらなかったか、低い地位の
まま。不満はあったでしょうが、一人ではどうしようもなく、無為に日々は過ぎていきます。
そんな法正に目をつけ、劉備への使者とさせたのは――張松でした。
本作での張松は、風采も才知も、演義のように強調されることはありません。ただ、益州に生まれ育った
者として、その地と民を愛し守ろうとする男として描かれます。
 「もし、劉備がわたし(法正)の地位を知って軽んじたら〜」
 「その時は、あなたが劉備を蔑めばよい。このままでは、益州は曹操のものになる。わたし(張松)は
  それをみるのは忍びない」
その姿に、法正も心動かされるものがありました。張松自身はなかなかの地位にあり、その待遇自体には
不満はありません。しかし…。

法正の来訪が何を意味するかは、劉備側も十分承知していたようで、法正は手厚いもてなしを受けました
(もちろん、益州における地位など関係ありません)。古の晋文公の如き振る舞いに、法正もおのずと心
動かされていきます。

かくして、劉備は益州に入りました。当然、龐統、張松、法正は、すみやかに劉璋の抑留又は暗殺を薦め
ますが…劉備はここでも迂路を選びます。さて、この判断はどうであったのか。

ところで、最後に気になることが。張松は法正達と再び会うことは〜というように書かれたあと、「劉禅
はあわや劉備に会えなくなるところであった」と書かれているのです。ひょっとして、次回は…。

198 名前:左平(仮名):2008/01/04(金) 23:22
三国志(2007年12月)

今回のタイトルは「劉璋」。とはいえ、序盤に描かれているのは、孫夫人による劉禅拉致事件の顛末です。

最初から政略結婚とは承知していたものの、互いに全く心を許さない、冷え切った夫婦。一応、孫夫人の
方は美貌の持ち主とはなっているのですが…これではどうにもなりません。
この夫婦の仲については多くの作品でいろいろな描かれ方がなされていますが、本作では、互いにとって
不幸以外の何物でもないという感じです。

そんな彼女が、劉備にした最大の嫌がらせ。それが、嗣子・劉禅をさらうことでした。それ以前にもあれ
これと嫌がらせ(放恣な振る舞いなど)をしているのですが、劉備達はそれには反応しません。反応して
夫婦関係に何らかの進展があればツンデレということにもなったのでしょうが…。
ただ、彼女の監視役として趙雲を残したことで、益州攻略作戦に負の影響を与えたというのですから、孫
呉にとっては意味のある婚姻ではあったわけです。

そして、孫夫人が荊州を去ります。あの冷静沈着な趙雲が取り乱す(恐らく、本作で趙雲が取り乱すのは
この一回のみ)という中、諸葛亮は落ち着いています。
なぜなら、劉備は全てを―家族を含めて―ためらいなく捨てられる人物なので、このくらいのことでは堪
えないことを知っているから。三顧の礼から四、五年に過ぎないのですが、諸葛亮は劉備のことをよく理
解しています。
では、なぜ趙雲は取り乱しているか、ですが、それはちょっと違う意味があるようです。

(途中から張飛も加わりますが)趙雲の必死の捜索にも関わらず、劉禅はなかなか見つかりません。もう
だめかと思われたその時!

…ともあれ、何とか劉禅を取り戻すことができました。二度までも自分を救ってくれた趙雲の姿が、幼い
劉禅に強く焼き付けられたことは言うまでもありません。


さて、ところは変わって、益州。張松や法正の勧めにも関わらず、劉備はなかなか動きません。そうこう
しているうちに、曹操の方に動きがあった…ということで、荊州への引き揚げを示唆。
このことがきっかけとなり、張松たちの策謀が露見。張松は処刑されます。
この件については、単に劉備の優柔不断が招いた失策…と思っていたのですが、そうではないのでは、と
いう視点が。張松は、晋文公における里克の如き存在であったのではないか、というのです。
このような存在は、本人の忠心そのものは真であっても、(重んじれば主を裏切った者を厚遇するのかと
みられ、冷遇すると功労者を正しく遇することもできないのかとみられるので)何かと扱いにくいもので
あるのも事実。さすがに張松もそこまで思って…ということはないでしょうし劉備もこの故事を咀嚼した
上でかくの如き行動をした…とは思えませんが、そのような視点を提示されると、策略というものの非情
さを思い知らされるような思いがします。自分には到底できそうにない、と。

そして、ついに益州攻略作戦を実行に移す劉備。龐統からは上中下の策を提示されますが、ここは中の策
をとります。あまりに良い策を用いると、後々、その策にとらわれることに―赤壁で大勝をおさめながら
江陵で苦戦した周瑜の如く―なることを恐れたからです。
さて、次回は…?

199 名前:ぐっこ@管理人 ★:2008/01/16(水) 00:34:07 ID:Vd96Tbmi
記念ageヽ(´∀`)ノ!

左平(仮名)様ありがとうございます(´;ω;`)ブワッ

200 名前:左平(仮名):2008/01/18(金) 22:56:48 ID:PN7pBVAM
三国志(2008年01月)

今回のタイトルは「成都」。今回、成都にはまだ届いていないんですが…?

益州攻略戦は、まずは順調なスタートを切りました。劉備自身も、珍しく(?)羽目を外して龐統に諌め
られるという場面もあります。
しかし、その軍勢はさほど多いわけではないし、また関羽・張飛・趙雲・諸葛亮といった面々は随従して
いません。劉璋が劉備の後方を遮断すれば、袋の鼠になる危険性も大いにあったのです。

先手を打たれた劉璋ですが、まだ戦いは始まったばかり。ここで劉璋は、荊州の人ながら、文武にわたる
優れた実務能力を持ち、今や益州の重臣といえる存在になっていた李厳を派遣します。副将は、劉璋の婿
でもある費観(両者の年齢差は二十歳近く、とあります。費観は三十七で没したとのことですから、この
時点で李厳は四十は過ぎている、のでしょうか)。
人物を見る目が厳しく、また、自らに劣る者を友としないため、親友と言える存在の少ない李厳からみて
も、費観は優れた人物でした。劉璋からの待遇は良いし、副将も文句なし。ならば、あとは全力で敵たる
劉備にあたるだけ…となるところですが、李厳の心中は、そうではありませんでした。そこが読めなかっ
たのが劉璋の限界とは言えるのですが、なかなか難しいところです。

李厳の才を見出したこと一つとってみても、劉璋は決して暗愚な人物ではありません。しかし…。かつて
劉表のもとにあった李厳は、劉表に失望し、劉備に期待していました。その思いが、ここで頭をもたげて
きたのです。
(婿であるからには、費観は劉璋を裏切ることはあるまい。と、なると…惜しい人物ではあるが…)
李厳はそう思いつつ、ついに、一つの決断を下します。そう、劉備への寝返りです。
しかし、ここで思いがけない事態が発生します。何と、費観も劉備に寝返るというのです。
もちろん、互いに示し合わせたわけではありませんから偶然の一致ということになるのですが…しかし、
劉備を討伐すべくさし向けられた軍勢の大将と副将が揃って寝返るというのはまた、何とも珍妙な事態。
当然ながら、劉璋側は混乱。劉備達は、さらに進攻します。

長くなったので、ここで分けます。

201 名前:左平(仮名):2008/01/18(金) 22:57:55 ID:PN7pBVAM
続き。

綿竹を落とし、次は雒。守るは、劉璋の子・劉循。賢愚定かならざる人物ですが、彼の守る雒は容易には
落ちませんでした。それまでの進撃が順調だっただけに、ここでの停滞は想定外。龐統は焦り、それが、
彼の命取りになりました。

龐統の死の直接の誘因は、劉備が諸葛亮を呼ぼうとした(そして、その真意が読めなかった)こと。これ
からも分かるるように、本作における劉備は、ほんと、掴みどころのない人物です。
現時点で、それを最も良く知る人物は諸葛亮。前回の落ち着き払った姿といい、何かこう、独特な雰囲気
をまとっています。
三国志の物語において、しばしば主人公(格)として挙げられるのもうなづけるところです。

さて、ここで馬超の名が。曹操との決戦に敗れた後、なおも反攻を試みるも失敗に終わると、漢中の張魯
を頼ったのですが、ここにも長くはおられず、氐族の中に入り込んで命脈を保つという状態でした。
とはいえ、その武名はなおも健在。ここで劉備は、彼を取り込もうとします。一体、どうやって…?


それはそうと、今回の費観といい、龐統といい、その早逝が惜しまれるところです。病死であろう費観は
まだしも、龐統の討死は、後々のことを考えると、やはり痛かったと言えるでしょう(補給に遅滞を生じ
させなかったということからもその能力がうかがえます)。
いかに、劉備は全てを―家族をも含めて―捨てられるとはいっても、守るべきものを持ったこの頃に至っ
てなお才を失っているのでは、飽くことなく才を求め獲得し続ける曹操との差はなかなか縮まりません。
蜀漢と魏の国力差は、こんなところにも表れている、のでしょうか。

202 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:53:54 ID:LaQXGTav
三国志(2008年02月)

今回のタイトルは「天府」。劉備が、ついに益州を確保しました。

成都を包囲すべく、劉備勢の諸将が続々と集結してきます。中でも、最も活躍したのは張飛。何といって
も、厳顔を賓客として迎えたという事実が彼の成長を物語っています。
 遥か後の文天祥の「正気の歌」に「厳将軍の頭」って出てますから、結構有名な話になってますね。
 こういういい話もあって、まっとうに活躍もしているわけですから、普通に優秀な武将として描か
 れてもいいのに、「平話」や「演義」ではぶっとんだキャラになってるわけですから、面白いもの
 です(やっぱり最期があれだからなのか…)。
趙雲も、てがたい戦いぶりをみせました。もっとも、作戦上、やや遠回りしてますから、彼の到着は最後
だったみたいです。そして、ここから加わってきた馬超。
錚々たるメンツが揃ったわけですから力攻めもできるのですが…ここで劉備は、簡雍を使者に立てます。

先に、韓玄の説得の使者に立てられた時もそうでしたが、「何しに来たんだ?」と言いたくなるくらいに
のんびりとしております。
降伏を促す為の使者が、「まー玄徳とは同郷だから〜なーんも命令されてねぇよ」「このまま守ってた方
がいいんでねーの?」なんてなこと言いますか、普通。
とはいえ、そんな簡雍をもつき従えている劉備と己の器の違いを鑑みると…というわけか、ついに、劉璋
は降りました。
前回までの激戦は何だったのか。そんなことも思わされます。

さて、ここで話は急に変わりまして…

長くなったので、ここで分けます。

203 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:54:30 ID:LaQXGTav
続き。
いきなり荀ケの死が語られます。しかも、拍子抜けするくらい、あっさりと。曹操が公に就任するのに反
対していた、曹操から贈られた箱の中身が空だった、この二点の事実以外をあれこれと語るのは贅言では
ないか、そんな感じの書かれ方です。
董昭を切れ者と書き、曹操の公就任の理由に合理性を認める(朝廷が、皇帝のおわす許昌と曹操がいる鄴
に分かれていては権力が二元化してしまうので鄴に実権をシフトさせて…ってな感じの理由づけ。なので
公位就任については、生臭さはあまり感じません)あたり、なかなか興味深いです。
どうも、後漢という王朝にはあまり思い入れがないようですね。

さらに、今回、伏氏の族滅という事態も発生します。皇后の書状を他人に見せてしまう伏完といい、引き
ずり出される皇后を見殺しにする皇帝といい、何か、人としての器量に疑問符が。
どこか爽快さのある前半に対し、後半は何かすっきりしないものがある、そんな回です。

204 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:21:13 ID:licQjHdd
三国志(2008年03月)

今回のタイトルは「張遼」。この名が出てくるということは、そう、あの戦いですね。

まずは、劉備・孫権の睨み合いから語られます。劉備が益州を獲ったことに対して、孫権は相当な不快感
を抱き、諸葛瑾が遣わされます。
結局、話はまとまらず、ここに荊州を巡る紛争が勃発。益州に兵力の相当部分を割いているだけに、劉備
側の不利は否めません。
長沙・桂陽は早々と降り、零陵もまた、呂蒙の策により陥落します。このまま長期戦となれば孫権の有利
には違いないのですが、果たしてそれが最善なのか(荊州の帰属はかなり曖昧であるし、当然ながら曹操
が気がかり)。
ここで、呂蒙とは別に一軍を率いる魯粛は、単身関羽のもとに赴きました。魯粛の言葉には、劉備・関羽
への思いやりがあることを察した関羽は、反論をやめ、劉備の指図を仰ぎます。
ここらへんのやりとりには、ある種の緊迫感があります。斬るか斬られるかというようなものではなく、
それぞれの、人としての器量が試されているのです。
劉備もまた、一方の主となった以上、今までのようにはいきません。魯粛の意を察しつつ、粘り強く交渉
します。結局、荊州南方の郡の割譲で決着がついたわけですが、このあたりの状態を保っていた方が、劉
備・孫権の双方にとって良かったのでは、と思えてなりません。
決して長々と書かれているわけではありませんが、魯粛の早い死の影響は、後々、かなり響いてますね。

ともかく、この紛争に一区切りついたからか、孫権は、十万という大軍を率いて合肥攻撃に臨みます。赤
壁の時はめいっぱいかき集めても三万がやっとだったことを思うと感慨もひとしおというもの。
対する合肥の兵力は七千。しかも、曹操の司令は、張遼と李典とが出撃せよ(楽進は城に残れ)、という
もの。はて、その意味するものは何か。
魏にとっては伝説の戦い、呉にとっては屈辱の一戦。その戦いの顛末とは…。
長くなったので、ここで分けます。

205 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:22:26 ID:licQjHdd
続き。
かくして、張遼・李典とが八百の決死の士を率いて、夜明けとともに出撃しました。
「ゆくぞ」
宮城谷氏の描く勇将達には、無駄なりきみというものがありません(そういえば、文章中に「!」が使わ
れることが全くといっていいほどありませんね)。ここでの張遼も例外ではありません。
余りにも少数だが脱走兵のように無秩序ではない。「敵将の内通か」そう思う者がいてもおかしくはない
ところではありましょう。
しかし、張遼に「通るぞ」と言われて思わず敬礼する呉兵…。想像すると、何ともおかしいものです。

呉の陣内深く入り込んだところで…!いよいよ攻撃開始です。さすがは決死のつわもの達。油断しきって
いた呉軍は大混乱に陥り、孫権自身も、半ば以上冷静さを失っていました(いつの間にか戟を持っていま
すがそれを振り回すわけでもなく)。
なるほど、これほど劇的な戦いも稀でしょう。「寡をもって衆を制す」とはまさにこのこと。十万の大軍
がわずか八百の小部隊に翻弄され、しかも相手はほとんど無傷。彼我の戦意の差はいかんともしがたく。
しかも、撤退時にもまた張遼に翻弄されましたから、孫権にとっては踏んだり蹴ったりです(谷利はきっ
ちりと登場しました)。

最後は、ところ変わって西方の情勢の説明。曹操の圧倒的な力の前に、三十年ばかり続いた小王国は潰え、
梟雄・韓遂もこの世を去ります。
漢中の張魯に、曹操の手が迫るわけですが…。

206 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:26:58 ID:6n1ZaDHe
三国志(2008年04月)

今回のタイトルは「魏国」。今回は、けっこう時間が経過してます。

最初は、韓遂の死から語られます。韓遂の首に向かって曹操が「白髪も少なくなったではないか」とコメント
…ってことは、韓遂は禿頭?
はて、肉体面の描写ってそうはないはずですが…どのようにイメージされたのか興味深いところではあります。

そして、漢中の張魯攻めとなります。
約三十年にわたって独立王国を保っていた張魯。普通であれば、衆を恃んで一戦しそうなところですが、彼は
随分と現実的な思考をする人物で、曹操来るの知らせを聞くと、すみやかに投降するよう指示を出します(勿
論、弟の張衛のように、それを拒む者も中にはいます)。
張衛に同調する人々も結構多く、曹操も苦戦覚悟だったのですが…何とも意外な形で決着がつきました。

さて、張魯のこの決断には、孔子の玉版なるものが少なからぬ影響を与えたとのこと。王莽や光武帝のあたり
でよく出てくる讖緯の思想がこの頃にもなお相当な影響力を持っていたことが伺えます。
しかし…老荘思想を根底におく道教の原型・五斗米道の教主たる張魯が、(偽りとか裏切りを嫌うという教義
からすれば当然とはいえ)本作においては老荘的な感覚で行動する劉備を嫌っている、というのは面白いもの
です。
思わぬハプニングによるものとはいえ、大した損害もなく漢中を制したことに、曹操が上機嫌だったのは言う
までもないでしょう。
ここで、ここまで目立たぬ存在であった司馬懿が登場します。「隴を得て蜀を望」んではどうか、というわけ
です。
しかし、曹操はその進言を容れませんでした。純軍事的に考えれば利も理もある進言ですが、この時の曹操の
中では、欲望の自制、ということがあったようです。
ただ、それは一方で、冒険を嫌うという、老いの兆候であったのかも知れません。
長くなったので、ここで分けます。

207 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:27:57 ID:6n1ZaDHe
続き。
今回の後半の主題は、曹操の後継者の選定問題です。先にちらりと書き込みましたように、曹操は、嫡子・曹
丕の力量は認めながらも、彼の言動への感動がないことから、むしろ、何かしらの可能性を感じさせる―とは
いえこの時点ではまだ顕在化していないのでリスクが大きい―曹植を立てた方が良いのではないか、という思
いが芽生えているのです。
なかなかの才覚を持つ(歴史上は敗者であることを考えると一廉の人物であったことは確かな)丁兄弟の進言
もあり、ますます迷いは深まります。結局、当初の予定の通り、曹丕が太子に立てられたわけですが…。

おっと、今回、曹操は魏王に就任しております。今回の書き出しは建安二十(西暦215)年時点だったわけ
ですから、この一回で二年ばかり経過してます。

208 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:03:18 ID:pY4qHwSK
三国志(2008年05月)

今回のタイトルは「兄弟」。前回のラストから考えると、あの兄弟のことだな、とは見当がつくのですが…
どうもそれだけではないようです。

初めに語られるのは、邢顒。田疇のもとにいたこともある彼は、厳格かつ実直な人物であることから、曹植
につけられます(ともすれば緩みがちな彼を戒めるために…ということです)。
ただ、曹植にはその意味はいまいち理解できていないようで、そのために劉禎の諫言(さすがは建安七子の
一人。かなりの名文)を受けるのですが…これもいまいち効かず。

前回は丁兄弟が語られましたが、今回は、曹植を支えようとしたもう一人の人物・楊脩が登場します。「慎
ましい〜」と評される一方、救愛にも似た曹植の誘いに応じたように、かなりの情熱家でもあり、また、顕
揚欲もあるというあたり、なかなか複雑な人物です。
彼の父が、以前に、曹操によって失脚したということもありますから、魏国をかき乱すという意図もあった
のかも(彼にとっては、それは匡正の行為なのですが)…。

ともあれ、曹植が、王命を受けた門番を斬る、馳道の無断利用などといった失態をしでかしたこともあり、
魏国の太子―曹操の後継者―は曹丕に決まりました。

さて、曹操と卞氏との間には他にも子がいるわけで…曹丕と曹植の間、曹彰のことも忘れてはなりませんね。
学問が大嫌いで将軍たらんとした曹彰は、田豫たちの助けもあり、みごと烏丸討伐を成し遂げました。
遠征時の田豫の進言や凱旋時の曹丕の助言を素直に聞く、敵を完膚なきまでに叩きのめさないことには住民
の安寧は得られないと的確に判断する、というあたり、将軍としてはなかなかの力量を持つ人物です。
早くから、自分が何者であるか(将才はあるが政治には向かない→将軍向き)を見切っていたのでしょう。
学がない分、ちょっと足りないところもありますが、颯爽とした好漢です。
曹植も、自分が何者であるか(文才はあるが実務には向かない→詩人向き)を見切ることができれば、彼の
ためにも、魏国のためにも良かったのでしょうね。
ただこちらは、なまじ曹操も自分の後継者になり得るやも…と迷っていただけに、事態はよりいっそうこじ
れたわけですが。
長くなったので、ここで分けます。

209 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:06:16 ID:pY4qHwSK
続き。
後半は、漢中攻防戦です。さまざまな手を打つも、めぼしい戦果が挙げられない劉備は、後方の諸葛亮に増
援を求めます。
前線にはいないだけに状況把握が不完全な諸葛亮は、楊洪に意見を求めます。
李厳と激論を交わす(その後その李厳から推挙される)ということのあった楊洪、諸葛亮の諮問に対して出
した回答は…。
増援の派遣、でした。ただし、ただ派遣するというわけではありません。これこそ、蜀の存亡をかけた一戦
である。そういう気迫のこもった回答から、諸葛量は、彼の器を理解するのでした。

とはいえ、ただ人手がいるだけではどうにもなりません。ここで黄権が進言します。これこそ、この戦いの
帰趨を決めるものとなるわけですが…。
さて、この前に気になることが。劉備と関羽との連携がいまいちのようです。関羽からの報告がない(荊州
の情報は公安経由で細々とあるだけ)というのです。
これが、今後の展開にどう影響するのか。

210 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:27:27 ID:a7pA1sHW
三国志(2008年06月)

今回のタイトルは「霖雨」。激動の建安二十四(219)年です。

黄権の進言。それは、火を用いて張郃と夏侯淵とを分断し、各個撃破することでした。軍を分けた劉備は両
陣営を急襲。張郃は冷静に対応できましたが、ここで夏侯淵が、僅かな手勢のみで飛び出してしまいました。
多勢に無勢。と、なると…。
…曹操の旗揚げ以来の将・夏侯淵の最期は、意外なほど呆気ない書かれ方でした。戦いが済んで首実検して
みたら、その中に夏侯淵のものがあった、ってな具合です。

もっとも、魏軍もそうやすやすとは崩れません。張郃と郭淮とが冷静に対応し、さらなる攻撃を阻止したの
です。
とはいえ、魏の西方を司る元帥がいなくなったわけですから、ことは重大。ついに、曹操自身がゆくことに
なり、曹操vs劉備の直接対決と相成ります。
ただ、そうはいっても、双方決め手に欠け、にらみ合いになります。これ以上留まっても、得るものはなし。
ついに曹操は撤退を決めます。

当然(?)、鶏肋の話もあり、楊脩の機智と死とが語られます。ただ、曹植の太子擁立に失敗した時点で、
失望していたようですから…この話にも、少し違った含みがあるのかも知れません。
かの楊震の末裔であるだけに、天地に恥じることはしていなかったのでしょうが、権力に囚われ、人をみる
のが甘かったのか。結果論かも知れませんが、少し切ないものもあります。

そして、劉備は漢中王を名乗ります。これを、「ある意味、後漢王朝からの決別」であると指摘されている
わけですが…これは盲点でした。まさしく、私の「思考の死角を突かれ」ました。
そうです。中国史をみると、王国名をそのまま帝国名にしているという例が多いわけで、漢も、もとをたど
れば、高祖・劉邦が楚の懐王によって漢王に封ぜられて生まれた王国。本来は、漢の皇帝≒漢王なわけです。
 神聖ローマ皇帝≒ローマ王の如し…で合ってましたっけ?
と、なれば、漢帝国内に漢王はただ一人。ところが、劉備はその漢王を名乗ったわけです。
劉備自身は漢の帝室の血を引くと名乗っている(そして敵からも否定はされていない)点から、自らの政権
に正当性を持たせるため、漢の継承者を自認しているには違いないのでしょうが…。
長くなったので、ここで分けます。

211 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:28:00 ID:a7pA1sHW
続き。
劉備が王位に就くにあたり勧進がなされたわけですが、当然、関羽の名もあります(こういうものは現在の
署名等と同様、面と向かってせねばならないというわけではないので、おかしくも何ともないわけですが)。
ただ、本作においては、関羽の想いは劉備のそれとはやや異なっているように描かれているだけに、その時、
どのような心境でいたか…。
ともかく、関羽は、軍を北上させます。

「今年は長雨になる」。関羽はそれを予感していたわけですが、魏においても、温恢がそのことに気付いて
いました。ただ、それが荊州方面の魏軍の共通認識になっていなかったために…。

今回のラスト付近の龐悳の戦いぶりは、悲愴の一言でした。ビジュアル的にも、実に絵になる場面です。
 馬上にあっては決して後れを取らない勇将なれど、折からの豪雨に伴う堤防の決壊のため白兵戦を余儀なく
 される。
 関羽の軍勢は安全な船上から容赦なく矢玉の雨を降らせるのに対し、龐悳たちはわずかに水没を免れた堤上
 でそれをかわしながら戦わねばならない。
 そして、降り続く雨。雨は、将兵の気力も体力も奪い取っていきます。

援軍がいつ来るかは知る由もなく、彼我の圧倒的な差の前に、降ろうとする者が現れます。龐悳は、自らそれ
を討つという苛烈さを示しつつ、兵を鼓舞してなおも戦いを続けます。
関羽が説得を試みますが、龐悳も毅然として言い返します。
それぞれに義があり、理がある。しかし、溺死よりは…と降る者が増え、ついに、なお戦い続ける者が龐悳と
二、三名になり…。

今回でこの場面ということは、建安二十四(219)年も暮れ近く。気が付くと、曹操の命尽きる時も迫って
いるわけですよね…。

212 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:16:32 ID:EIpoYnVD
三国志(2008年07月)

今回のタイトルは「関羽」。荊州を巡る攻防は、新たな段階に突入します。

わずか四人となった龐悳の軍勢。堤上に孤立し、もはや生きることを捨てた彼らの前に、一艘の小舟が流れ
着きます。
あたりは闇夜。物音をたてずに包囲網をかいくぐり、これなら…とわずかに助かる希望が生じたその時…!
龐悳、そして名も記されぬ三名とも、さぞや無念であったことでしょう。
最期まで戦い続けた龐悳。関羽もその将器を評価しますが、両者は決して交わりません。惜しいところでは
ありますが、これが戦というものか。

その直後、関羽が放った偵察網に特大の獲物がかかりました。于禁率いる援軍が、雨中に孤立していたのです。
このままでは全滅は避けられない。于禁は、将としての、一つの決断を示します。
『降る』
この一事をもって、于禁の声望は地に堕ちます。しかし、降るに至った経緯とその後の彼の振る舞いをみると、
それはあまりに酷な話です。
作中では、于禁は、「兵を助けてくれるなら」という条件のもとで降っています。そして彼は、(後の話ですが)
劉備にも孫権にも仕えることなく、魏に復帰しているのです。
何かを救う為に敵に降ったが、節義を損なうことなく帰参した…。これは、関羽と同じです。何が二人を分けた
のか。それは、何とも分かりません。
曹操は于禁の投降を嘆きますが、曹操の心身の衰えが、その判断に影響したということはないのでしょうか…。

援軍が壊滅した、となれば、樊城の曹仁は孤立します。しかし、副将の満寵ともども、降ったり撤退するつもりは
毛頭ありません。その理由は、(曹仁には)二つあります。
 一つは、戦略上の意義。樊城に曹仁ある限り、関羽といえども軽々しく北上はできませんが、いなくなれば後顧
 の憂いなく存分に北上される恐れがあります。
 もう一つは、彼の矜持。いかにやむを得ない事情があったとはいえ、江陵から撤退したことは、彼の中ではトラ
 ウマとなっていました。ここでも撤退したら、二度と立ち直れない。そう、恐れていたのです。
食糧庫も水没し、状況は日々刻々と厳しくなっていきますが、これを乗り越えなければならないのです。

長くなったので、ここで分けます。

213 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:17:29 ID:EIpoYnVD
続き。
ここで、傍目には唐突にですが、孫権が登場します。
実のところ、孫権は、半ば手詰まりの状態になっていました。どうやっても、北上作戦がうまくいかないのです。
 無理もありません。「張遼」の回をみてのとおり、あんなぶさまな敗北があったのでは…。
しかも、魯粛も世を去り、国家戦略を語れる人材がいないのです。劉備が漢中王を名乗った際に諮問しても、たれも
答えられないという有様。

いや、一人いました。「男子三日会わざれば刮目して待つべし」の呂蒙です。北上作戦の不利と荊州奪取の有利とを
比較し、後者の作戦を実行するよう、孫権に勧めたのです。

確かに、北上して徐州を取っても、直ちに魏との一大決戦となれば、勝てる見込みも低い上に大軍を張り付けねば
なりませんから、やりくりがつきません。
一方、呉が長江を生命線とする以上、本拠地の楊州の上流にあたる荊州の確保は喫緊の課題。
魏が、直ちに呉に兵を向けることがないのを確認した上で、その作戦は開始されることとなります。

対関羽で、魏と呉とが手を組んだ。このことを極秘にすべきか公表すべきか。ここらへんの駆け引きは、なかなかに
面白いものがあります(というか、私などには、一回読んだくらいではよく分かりませんでした)。
知らぬは関羽ばかりなり…ということはありません。この知らせは、関羽の耳にもしっかりと入っています。ただ、
自身(とその作戦)に自信があるだけに、それを突かれることになるわけです。

ラストは、関羽vs徐晃。ただ、ここのくだりをみると、春秋時代の君子の如く振る舞おうとする関羽に対し、当代
の将軍として振る舞う徐晃、という感じで、少しおかしくも思えたのは私だけでしょうか。

…とここまで書いてみて、(個人的にですが)蒼天での陸遜が嫌いなわけが少しみえてきました。
関羽は左伝の愛読者として知られます。そして、(本作においては)左伝に描かれる君子の如くあろうとしています。
恐らく、于禁の投降を受け入れたのもそのためでしょう。戦場にも「礼」はあるのです。
蒼天での陸遜は、それを嘲笑していました(直接の理由は輜重の体制の不備なのですが、その原因は于禁とその軍勢
を捕虜として受け入れたためなので、捕虜を保護すること自体を嘲笑っているようにみえた)。
その、敵への敬意のなさが、気に入らなかったのかな、と。

214 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:23:38 ID:tI77SrF2
三国志(2008年08月)

今回のタイトルは「徐晃」。魏から見た、荊州での関羽との戦いに決着がつきます。

「関羽を捕らえた者には〜」のくだりに隠微な意図がある、との指摘には、考えさせられるものがあります。戦場で
関羽と会って話をし、何もしなければあらぬ疑念を招きかねないという危惧がそこにはあるからです(先の、馬超の
ところでの韓遂がまさにそうでした。もっとも、ここで例として挙げられたのは崔琰ですが)。
曹仁・徐晃の力量を信頼しているにもかかわらず、曹操が無理を押して出陣しようかと何度も考えたことを思うと、
そういうのを一笑に付すわけにもいかないんですよね。
もっとも、そんな徐晃の思いはともかく、ここでの関羽は、悠々と引き揚げていきます(豊かな、とかふくよかな声
で〜という書き方をされているのをみると、関羽の存在感の大きさが分かります)。
そう、まだ、関羽の優位が完全に覆されたわけではないのです。

ただ、徐晃の将器も相当なものです。巧みに陣を構築し、じりじりと接近していきます。そして、ついに関羽の陣の
目と鼻の先の所にまで到達するのです(なぜか、【そういう表現はないはずなのですが】双方塹壕を掘ってこもって
いるようなイメージを持ってしまいました)。
関羽は焦ってはいないものの、敵陣を崩す機を見いだせないままにここまでの接近を許したとなれば、不利なのは免
れません。
その後の激戦の末、負傷した関羽は陣を放棄し、再び船上の人となります。しかし、不思議なもので、徐晃の勝利で
あるにもかかわらず、なお関羽にはゆとりがありました(なので、劣勢という感じがちっともしないんですよね)。
ところが、後方の士仁・糜芳が呉に降ったため、それどころではなくなり、ついに撤退を余儀なくされます。
かくして、魏は、何とか樊城・襄陽を守り切りました。
当代一の勇将・関羽との戦いに勝利し、かつ、その軍紀の確かさを以て、徐晃が、前漢の名将・周亜父の如しと称賛
されたのも宜なるかなというところです。
長くなるので続きます。

215 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:24:11 ID:tI77SrF2
続き。
さて、呂蒙の方ですが…全く気取られることなく荊州への進入に成功し、虞翻の巧みな説得により、ほとんど無傷で
その確保に成功します。
他作品では、(私個人の偏見かもしれませんが)どこか奇人というイメージのある虞翻も、ここでは直言を憚らない
まっすぐな人物として描かれます。しかし、孫策はその直言を喜んで聞きいれたのに、孫権は疎ましく思っていたと
いうのも、何か変な感じが(兵を率いることで及ばないのはともかく、人を用いることで負けていては…)。
なすすべなく敵に迫られ、抵抗しても報われるかどうか分からない…と嘆いて士仁が降ったのに対し、糜芳の方は、
何か呆気なくみえました。そういえば、蒼天でもそうでしたね。

士仁の経歴等がいまいちよく分からない(仮にも太守だったわけですから、どこの馬の骨とも知れぬ…ということは
ないですし、ぽっと出の若手というわけでもないはずですが。ただ、彼を配していたことを、後方に対する警戒が薄
い、というように書かれていることからすると、軍事的手腕はもとから乏しい【裏を返せば、行政面での才能を期待
されていた】人物だった?)のに対し、糜芳は、徐州以来の古参。それが、いかに関羽との関係が悪かったとはいえ
…という感があるのは否めません。
その後、呂蒙は、民衆の慰撫に努めます。ささいな罪を犯した同郷の兵を、涙をのんで処刑するあたり、その軍紀の
厳しさがうかがえます(一方で、そこまでしないと民心が得られないというわけですから、関羽の行政手腕も一廉の
ものではあったようです)。

ちなみに、今回のラストは、前述の、徐晃が前漢の名将・周亜父の如しと称賛されたくだりですが、その前に、張遼
もちらりと登場。こちらにも、かなりの賛辞が。

216 名前:画伯:2008/09/08(月) 09:30:20 ID:GAm8i4fg
先日中国南部で地震がありましたが、
雲南省に近い方なので成都や九賽溝の方には全く影響無いようです。
四川省って日本の倍近い広さがありますから。
四川省の北部観光地は、地震の影響でクローズしていたホテルも次々に営業開始し
値段も例年比べれば格安なので
四川省応援のためにもぜひ旅行におすすめです。

217 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:33:30 ID:/lB/9KId
三国志(2008年09月)

今回のタイトルは「曹操」。建安二十五(220)年。ついに、その時がくるわけです。とはいえ、今回の内容は、
そのほとんどが関羽についてのものなのですが。

背後で呉が蠢いているのに気付いた関羽は、状況を把握すべく、偵察を行います。偵察に向かったこの兵士、肚も
据わっているようですし、見るべきところもしっかり見ているところからすると、なかなかの人物と思われます。
ひょっとして、廖化?とも思うのですが、そのあたりについては分からずじまい(彼だけでなく、その父もなかなか
の人物なんですよね、これがまた)。
呂蒙も、そのあたりは心得たもので、見事な対応を見せています。

呉に奪われた各郡は、呂蒙によって治まっている。この事実は、関羽にとっても衝撃でした。というのは、本作では
何度か述べられているように、関羽の行政手腕はかなりのものでしたから、この地の民衆は、新たな支配者に対して
強く反発すると思われていたからです。
それが、目立った混乱もなし。ということは、単に軍事上に留まらない敗北を喫したということでもありました(関
羽の徳が十分に及ばなかったということです)。
関羽が、策を弄し自分を欺いた陸遜に対しては怒りを露わにしたのに対し、呂蒙に対してはそれほどでもないように
見えるのは、そのあたりのこともあるように思われます。
あるいは、この時点で、関羽の中にある種の諦観があったのかも知れません。

麦城に籠った関羽ですが、兵の士気はもはや失われています。戦えないと判断するや、密かに城を脱出し、西に向か
おうとします。もちろん、それは孫権も承知しており、分厚い包囲網が敷かれます。
天命とは何であるのか。何が正しく、何が正しくないのか。その答えは…。
一度は軽々と呉軍の包囲を突破しましたが、二回目(ここの呉軍の将が馬忠)は成らず。ついに、その小集団は殄滅
しました。あたかも、流星が燃え尽き、一筋の光芒を残して闇に溶けるかのように。
長くなったので続きます。

218 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:34:19 ID:/lB/9KId
続き。
関羽は、捕らえられたが呉に降るを潔しとせず、斬られた。史書がそう記すのは、関羽の名誉を守ろうとしたからで
あろうが、それはかえって名誉を損なっているのではないか。言われてみると、頷けるところがあります
関羽は、諸葛亮と出会い(現実との妥協点を求めた結果)自尊を貫けなくなった劉備に代わって自尊を貫いた。で、
あるならば、なおさら、簡単な道は選べません。
それゆえ、魏と戦い呉とも戦った。春秋の義に憧れ、自尊を貫いた英雄はかくして斃れました。

関羽の首級は、曹操のもとに送られました。関羽を殺されたことに対する劉備の怒りを曹操に向かわせるためです。
しかし、曹操もそんなことは百も承知、孫権の慇懃無礼ぶりに不快感を示しながらも、関羽に礼を以て接し、(やや
意地悪く言うと)孫権との、人としての格の違いを見せつけます。

 以下、個人的な感想。
 こうしてみると、三国志では、呉はどうしても脇役にならざるを得ないんですよね。漢から禅譲を受けたという
 正統性を持つ魏、漢の血胤による正統性を持つ蜀漢に対し、呉にはそういったものが全くありませんから。
 孫権が切れ者であるのは間違いないのですが、正統性がないゆえ自由に動ける反面、その言動への彩がどうにも
 難しい…。
 
しかし、なお意気盛んな曹操も、年には勝てず。関羽の首級と対面してから程なく、薨去しました。享年六十六。

曹操に対する、あまたの賛辞が語られた(曹彰のことがちらりと語られた)後、「ここからほんとうの三国時代が
はじまるのである」と締められます。


…そう、そうなんですよね。三国時代というのは、地に三人の帝王が並立するという異常な時代。少なくとも、今
回までは、まだ漢の時代なわけですから、真の意味での三国時代ではないわけです。
しかし…どれだけ齢を重ねても、様々な三国志の物語を読んでも、三国時代に入る以前の方がいろいろな意味でそれ
らしいというのが、また何とも…。

219 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:03:24 ID:LpP4Hk8E
三国志(2008年10月)

今回のタイトルは「新制」。太子の曹丕が跡を継ぎましたから、前回のラストから続けて、今回、漢から魏への禅譲
を描く…と思っていましたが、半ば外れました(明らかに魏帝国成立後のエピソードもありましたが)。

さて、蒼天を読まれた諸氏はお気付きでしょうが、ここまで、描かれていない人物がいましたね。そう、魏諷です。
今回、後漢王朝が斃れる前のわずかな痙攣、という形で、その叛乱について、初めに少し触れられました。ただし、
主眼は、魏諷ではなく、そのために一時失脚した鍾繇です。

鍾繇が、魏諷の台頭に一役買っていた以上、何らかの処罰に服さねばならないわけですが、彼は、曹丕には好かれて
いました。かつて、名玦を献上し、かつその時の態度が良かった(この玦はしかるべきところにおさまった…と、曹
丕を持ち上げている)ためです。
ただ、財を持ちそれにとらわれると禍を招くと悟っていた鍾繇に対し、(いかに美辞麗句で飾っても)人の財を奪っ
た曹丕の、人としての器量に疑問符がついたのは否めません。

続いて、夏侯惇(不臣の礼…)、程c(公への叙任…)、曹洪(かつて借財を断られたのを根に持ち…)など、群臣
達について描かれます。
特に、曹洪については、彼の助命のために賢婦・卞太后が動いたことが触れられています。これまで、一切政治的な
言動をとらなかった彼女が動いたのは、ひとえに、曹洪の比類なき勲功(徐栄に敗れた曹操を生還せしめたこと)と、
功臣を微罪で処刑でもすれば、人心が曹丕から(のみならず魏から)離れる、と判断したためです。
さすがの曹丕も、(郭后を通じて)母の想いを察したか、処刑はしなかったのですが、だからといって無罪放免という
わけでもなかったので、人心はやや離れた、という具合。
父・曹操が薨じてから一年もしないうちに大規模な軍事行動。これを戒めた霍性の諫言を聞かず、彼を死に追いやると
いうこともありました。
長くなったので続きます。

220 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:07:21 ID:LpP4Hk8E
続き。
賊が魏に降った、と喜んだのも束の間、西方では麹演らが叛乱を起こします。これは、蘇則らによってすみやかに鎮圧
された(名将・赫昭が彼の胆力に感服って…!)のですが、今回については、曹丕、いいとこなしです。
この後も、あれこれあるわけですが、よく書かれることがあるのか…なんて、よけいな心配も。

曹丕、とくると(?)、忘れてはならない人物の一人として、陳羣が挙げられますね。そして、陳羣とくると九品官人
法(九品中正法)。
この法の概要はおくとして、その精神は、というと…。

本作の最初の方(もう数年前になるのですね)に、光武帝のことが書かれていましたのを覚えておられますか?その際、
前漢と後漢とでは、人材をみる基準が異なっていた、ということが書かれていました(秀才どもは王莽を止められなか
った…。故に後漢では、才能ではなく人格を重んじた、というようなこと)。
しかし、人格を重んじたはずの後漢では、実務能力に欠ける者が高官に…という具合で、結局腐敗は避けられなかった。
彼ら(曹丕、陳羣)は、それをどこまで分かっていたか…。
後々、いわゆる南北朝時代を語る上で、避けては通れない問題の萌芽があるわけです。

ラストは、孟達の魏への投降(曹丕の厚遇付き)と、劉封の非業の最期。彼の死を聞いた劉備は、一人になると泣いた
…。これは、一体?

221 名前:左平(仮名):2008/11/23(日) 21:56:57 ID:9ZYiSxeo
三国志(2008年11月)

今回のタイトルは「禅譲」。いよいよ、魏帝国が興ります。そして、対抗すべく…。なお前回のラストは、今回の流れ
とは特に関係ないようです。

父の(というか、曹氏の本貫の)譙に立ち寄った曹丕のもとに、皇帝からの使者が来訪します。曹丕に帝位を譲る、と
いうのです。
禅譲。それはかつて、堯が舜に対して、舜が禹に対して為した、とされてはいますが、孔子の言行を記した『論語』に
は触れられていない代物。あるいは、血統によらずして帝王の地位に就こうとした者達によって、戦国時代あたりに作
られた概念ではないか…と。と、なれば、こたびの禅譲は、史上初の…!
正直、目から鱗(が落ちる思い)でした。ここらあたり、自分はこれまで、陳舜臣氏に影響されていたな、という感も
あります(禅譲というものを軽く考えていました)。
※確かに、実権の所在を思うと壮麗な茶番ではあるのですが、伝説的な堯・舜・禹の例しかないものが、まさに『今』
 為されようとしている…となれば、以降のものとはいささか性格が異なってもおかしくありませんね。
 後世からみれば茶番でしかなくても、当時、その時代を生きた人からみれば真剣にやっているわけですから。
 人は、自らの属するもの(時代、国、など)からは、完全に自由では有り得ない。とでも申しましょうか。

ここぞとばかりに、と言っては何でしょうが、群臣は荘重な上奏を次々と行い、曹丕も丁重に固辞する姿勢をみせます。
面白いのは、群臣が熱に浮かされたかのように騒げば騒ぐほど、曹丕は醒めているかのように書かれているところ。
しばし、皇帝と曹丕の、意地の張り合いの様相を呈しましたが…ついに曹丕はこれを受諾。晴れて、禅譲の儀式が執り
行われることと相成りました。
皇帝から山陽公となった劉協は何を思ったか。それは分かりませんが、彼にとって、玉座は決して座り心地の良いもの
ではなかったのは、概ね間違いないでしょうね。
確かに、彼を擁立した董卓は、余りに敵を多く作り過ぎました。その、血塗られた手によって座らされた以上、その座
もまた血塗られたものであり、神聖な皇帝としての正当性に疑義を持たれてもやむを得なかったでしょう。その後の十
四年が、安らかなものであれば救われるのでしょうが…さてどうなのか。
長くなったので続きます。

222 名前:左平(仮名):2008/11/24(月) 19:44:34 ID:oWPH1hn9
続き。
さて、劉協に代わって帝位に就いた曹丕ですが、為さねばならないことは山積しています。気鬱になってもおかしくは
ありません。武芸にも秀でた彼にとって、狩猟は数少ない気晴らしでした。
もともと狩猟は軍事訓練の性質も持ってはいるのですが、遊興としての面もあるわけで…。となると、回数が増えると
これを諌める者が出るのも当然ですね。

やはり、出ました。鮑です。曹操の、おそらく唯一の盟友・鮑信の忘れ形見でもある彼は、その縁故・そして自身の
力量を以て、確固たる地位を築いているわけですが、なぜか(作中では、理由は書かれていないようですが)曹丕には
好かれていませんでした。はっきり言って嫌われてます。
曹丕からすれば、数少ない気晴らしに文句をつけられたように思ったのでしょうね。当然、聞き入れられません。
まあ、鮑も、曹丕に帝位に就くよう勧めた群臣の一人ですから、「汝らが帝位に就けと言っていたから帝位に就いた
というのに、朕のすることに口を挟むか!」てな思いもあったのでしょうが。
…人としては、分かるんですけどね。ただ、帝王たる者がそれではいけません。

酷な言い方ですが、「曹丕は父・曹操には及ばない(それは本人もおそらく承知していた)。ならば、それを自覚して
次代に範を垂れれば良かったものを…」というわけです。
「恐れという感覚をもたぬ者は、真の勇気をもたぬ者である」。重く響きます。


一方その頃、蜀では…。「皇帝が位を追われ、殺害された」という(誤)報がもたらされます。劉備は、これを受け、
自らが帝位に就こうとします。劉氏の血胤たる自分には、帝位に就く正統性がある、というわけです。
これに対し、ひとり醒めている人物がいました。費詩です。
関羽と面識があった彼は、なるほど関羽の志は清いものであった、と感じるのでした。
曹操と対極にあることでここまできた劉備。しかし、益州侵攻以来、それが変質してきている…。生き残ることを考え
るとやむを得なかったのでしょうが…。(後世の美化のゆえ、同一視はされませんが)袁術と同じ僭称者となった劉備。
何か、焦っている…?

223 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:30:20 ID:G2aSbWbi
三国志(2008年12月)

今回のタイトルは「報復」。蜀漢を中心に、動きがみられます。

晴れて?皇帝となった劉備が最初にしたこと。それは…呉を討つことでした(本作では、その動機はあくまで関羽を殺
されたことに対する報復として扱われています。地政学的な意図も考えられるところですが、劉備という人のありよう
を思うと、こういうふうになるということでしょうか)。
趙雲・秦宓の諫言も聞き容れず、着々と準備にとりかかります。

話は変わりますが、ここで許靖の名が再び出てきました。実務面ではこれといった事績は挙げられていませんが、それ
なりに気骨のある清廉な人物という感じで、割に好意的な書かれ方ですね。
所詮結果論…なのかも知れませんが、許劭に比べ、穏やかに天寿を全うできた分、勝っています。
あと、呉皇后(呉懿の妹)のことも。もともと、劉焉の子・劉瑁に嫁していたわけですが、夫が廃人となって早世した
後、寡婦となっていたところを劉備に…というわけで、波乱に富んだ生涯です(個人的には、劉備に嫁した時点で何歳
くらいだったのかが気になりますが。彼女と劉備の間に子は生まれたのか?等…)。

劉備とともに、呉との戦いに意欲的だった張飛(、そしてその死)をみるにつけ、関羽を喪ったことの衝撃は、相当に
大きかったようです。途中、劉備・関羽・張飛の関係が(他作品に比べ)やや希薄にみえたものですが、やはり、「義
は君臣といえども情は父子【兄弟?】の如し」ってなところでしょうか。

一方、呉の方は、というと…。こたびの戦いにおける最大の功労者・呂蒙が亡くなります。周瑜・魯粛に続き、軍事上
の偉材であった呂蒙を喪うわけですから、かなり堪えています(それはそうと、余計な気を使わせたくない、というの
は分かるのですが、病室の壁に小さな穴を開け、そこから呂蒙の病状を覗くというのはどうも…。村上豊氏の挿絵も、
普段のほのぼの【?】調とはやや異質な感じに見えます)。

長くなりますので、続きます。

224 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:32:15 ID:G2aSbWbi
続き。
さて、呂蒙が亡くなり、また、魏・蜀漢の双方を敵にするわけですから、呉にとっては一大事です。孫権は、ここでも
したたかに振る舞います。
蜀漢に対しては、言動に棘のない諸葛瑾を配置し、魏に対しては、(名目だけとはいえ)臣下の礼をとり攻撃される隙
を見せません。ただ、それらが十分な効果を挙げたか、というと…。
客観的に考えると、ここでは蜀漢は呉と戦うべきではないわけです。ですが、相手は劉備。良きにつけ悪しきにつけ、
人の常識に当てはまらない人物です(今回は、『皇帝としては』すべきでないことを敢えてしている…という含みを持
たせています。彼にとって、皇帝位というのは、何かの区切りではあってもそれ以上のものではない)。
また、魏としても、呉と蜀漢とが戦うというのであれば、この機に乗じて一気に呉を滅ぼし(蜀漢は後からゆっくりと
…)という策もあったわけです。
ここでは、劉曄(その智謀は、あの郭嘉に近い!と)がそれを考えています。しかし…帝位について間もない曹丕から
すると、それは受け入れ難いわけで…。

さて、呉が(名目だけとはいえ)臣下の礼をとったことで、于禁が魏に送還されたわけですが…曹操の陵墓に描かれた
己の無残な姿に打ちひしがれ、そのまま亡くなります。
生きて名誉回復を遂げた荀林父や孟明視には及ばなかったとされるわけですが…このあたりもまた、曹丕の器量に疑問
符が付けられるところなんですよね…。

ラスト。呉領内に進攻した蜀漢の軍勢は、補給に不安を感じ、補給路の確保にかかります。こ、これは…。

225 名前:左平(仮名):2009/01/24(土) 00:45:51 ID:ySonixWe
三国志(2009年01月)

今回のタイトルは「白帝」。西暦222年(ラスト付近は223年ですが)の情勢です。

関羽の仇を…という戦いなわけですから、呉の内憂たる異民族(ここでは五谿蛮)の協力は、ないよりあった方がいい
…ってなわけで、馬良がその使者となり、無事成功します。
そうして、軍を進めるわけですが…いま一つ、動きが鈍いようです。「勝つ」戦いではなく、「負けない」戦いをして
いる?ように見える、と。この戦いの、そもそもの始まりを思うと、あり得ないことではあるのですが…。
馮習、張南等の部将の名が見えます。一応、ひとかどの人物ではあるようですが、「他国に名の知られた将ではない」。
なるほど、演義では黄忠を入れたくなるわけです(【漢中攻防あたりの実績があるであろう】呉班、陳式の名もあります
から、それなりの陣容ではあるんですけどね)。

これに対する陸遜は、というと…こちらも、いま一つ目立ちません。劉備が存外手堅く軍を動かしたため、付け入る隙が
見つからなかったのです(陸遜の余裕の台詞も、「この時点では」単なる強がり)。
そのため、戦いはひとまず膠着状態に入ります。

そして数か月が経過。お互い(!)、士気は落ちていました。ただ、蛇の如く長い陣を敷きつつも、各陣営間の連携が
いま一つ機能していない蜀漢の方が、脆いところがあります。
これに気付いた陸遜は、火計を仕掛け、混乱したところを一気に衝きます。
これで、呉の軍事的勝利は確定。しかし、劉備の逃げ足は凄まじく(逃げることについては劉備にまさる天才はいない、
って…)、結局、取り逃がします。
しかし、ここで劉備を倒したとしても呉の危機はまだ終わらない、下手をすれば魏が蜀漢を併呑して事態はいっそう悪化
…ってなことも有り得るわけですから、呉としてはこれで良かったのでしょうけど。

長くなりますので続きます。

226 名前:左平(仮名):2009/01/24(土) 00:48:14 ID:ySonixWe
続き。
(個人的な感想ですけど)確かに鮮やかな勝利ではあるのですが、本作での陸遜は、余りぱっとしないように思えました。
火をもって大軍を壊滅させたわけですが、長社の戦いの時の皇甫嵩や赤壁の戦いの時の周瑜のような鮮やかさがどうも感
じられないのです。
魏が出てくるであろうことは予測しており、迎撃の算段も立ってはいるようですが、さらにその先は、となるとどうなの
でしょうか。
後には丞相にもなっているわけですから、政治的な感覚もあるはずですが…。

さて、劉備はこの戦いで、もう一つの失策を犯していました。臨機応変の才を持つ黄権を自身の側から離していたのです。
劉備が敗れた結果、黄権は孤立。将兵を生かす為には、魏か呉のいずれかに降らざるを得なくなります(漢中攻防を勝利に
導いた名将の認識は、甘くありません。そして、その判断が、彼らを生かしたのです)。
結局、魏に降りますが、その進退はみごとなものでした。
しかし、孟達と黄権。生きるため、心ならずも魏に降り厚遇されたというところまでは同じなのに、その後の運命は相当に
異なるものになりました。降る時の態度をみてもそこまでの差が出るのがどうも解せぬのですが…。

さて、この頃の魏ですが…皇后の甄氏が亡くなります。ただの死ではありません。これ一つとっても、曹丕の行いに不快な
ものがあります(結果、嫡子・曹叡の精神に「ひびが入り」ます。それがどれほどのものだったか。それは、まだたれにも
分かりません)。

そして、魏と呉の戦いが始まります。緒戦は、魏が優勢のようで、曹休・曹真といった将の活躍があります(曹仁・徐晃の
名も出ます)。さて、ここからどう動くか。

227 名前:左平(仮名):2009/02/22(日) 17:41:04 ID:qOqvofCv0
三国志(2009年02月)

今回のタイトルは「劉備」。とはいえ、前半は、魏vs呉の戦いの続きです。

戦いは、やや魏有利に進んでいます。とはいえ、長江をまたいでの戦いということもあってか、戦線が何方面かに分散して
いるためもあってか、そうそう目を見張るような派手な会戦があるというわけではありません。

○張遼あり、ということで、この方面では呉はほとんど動きません。張遼が病身であるにも関わらず、です。たった一人の
 将にここまで怯えるのも何ですが、あの戦いからまだ十年も経っていないんですよね。
○一方、曹仁は、敵兵力(この頃、敵将は周泰から朱桓に交替)が劣るとみるや、兵を四つ(曹仁、曹泰、常雕、王双、諸葛
 虔ら)に分散し、速攻を仕掛けます。
 やや傲慢なところがあるとはいえ、朱桓もなかなかの将。素早く反攻し、常雕らを討ち取り王双を捕らえる働きを見せます。
 名将・曹仁にしては、(戦術的には誤っているわけではないとはいえ)やや焦りがあった、とも。
○前線の将には、手柄ほしさに逸る危惧が。董昭、曹丕に適切な助言をし、十分に備えさせます。

結局、目立った成果はなく、魏は撤退します。防衛に成功したという点では呉の勝利ではあるのですが…。双方、特に得る
ものもなかったようです。

魏…呉への侵攻としては中途半端な感がありますが、とりあえずは、魏の威を知らしめたと言い繕える程度の成果ではあり
  ます。しかし、ともに病によるものとはいえ、曹仁・張遼という名将が亡くなったのは、結構な損失です(曹仁56歳、
  張遼の年齢は不詳ながら50代くらいか。あと十年は活躍してもおかしくないかと)。
  慣れない気候で病状が悪化したのだとしたらなおさら痛いです。張遼の死の知らせを聞いた曹丕はいたく嘆いたといい
  ますが、病身にもかかわらずこの遠征に連れ出したわけで…。
呉…張遼の幻影に怯えた、というのも何ですが、魏撤退後にもやらかしていました。既に武装解除していた文聘と遭遇した
  にもかかわらず、策を(というか文聘の肚の座り具合を)恐れ、さらに、撤退するところを、追撃してきた文聘にして
  やられるという有様です。ここまでくると、孫権の戦下手も筋金入りですね。
  そういえば、今回、陸遜の名を見なかったような…。

長くなるので続きます。

228 名前:左平(仮名):2009/02/22(日) 17:43:48 ID:qOqvofCv0
続き。

さて…場面変わって、永安。一応戦いは済んだのですから、皇帝たる劉備は首都・成都に帰るべきところですが、そう
しないまま、病に臥します。
復讐戦も成らず、もはや、すみやかに冥府に行くことのみを願うという有様。ですが、皇帝として、せねばならぬことが
あります。後事をいかにするか、ということです。
諸葛亮が呼ばれ、後事が託されます。「君の才は曹丕に十倍す…」。禅譲を匂わせる発言がありますが、諸葛亮は、後嗣・
劉禅を全力で支えることを誓うのでした。

…この場面をいかにみるか。本作では、「劉備は、かつて自分が陶謙からされたように、諸葛亮に国を譲るべきだったの
ではないか(それでこそ、捨て続けてきた劉備の生涯の最後にふさわしい)」という指摘があるわけですが、一方で、漢の
正統(※ただし、漢≠後漢であることに注意)が蜀漢にあり、とするためには、皇帝は劉氏でなければならないわけで…。

恐らく、劉備は病で気が弱くなり迷いがあったために、また、諸葛亮は、上記の正統性なくして国が保てないと考えたが故
に、かくの如き結果となったのか、と個人的には思うのですが…。

ともかく、高祖・劉邦を模倣してきたといえる劉備は、ここに世を去ります。

229 名前:左平(仮名):2009/03/22(日) 00:57:07 ID:+yelLx660
三国志(2009年03月)

今回のタイトルは「使者」。主に蜀漢と呉の修交の経緯が描かれます。

劉備が崩じ、嫡子の劉禅が跡を継ぎました。しかし、当年十七の、かつ、実績のない幼弱の新帝を戴く弱小国、となると、
その前途には厳しいものがあります。
さらに、丞相として全権を握ることとなった諸葛亮もまた、(その実績の割には)さほど知られておらず、威に欠けるの
では、と見られています(魏の重臣達から臣従勧告の書状が送られたのもこの頃。劉備の死に動揺している今なら、あわ
よくば…というつもりだったのでしょう)。
並の人物であれば浮足立つところでしょうが、諸葛亮はいっこうに動じません。魏からの書状を黙殺することで、蜀漢の
正統性(蜀漢こそ漢の正統を継ぐ王朝である【厳密には漢≠後漢ですが】)を主張したのです。
それが劉備の本意であったかは、今となっては分かりませんが…少なくとも、この時点で蜀漢が生き残るには、これしか
なかったと思われます。ニュアンスに多少の相違はあるでしょうが、『攻撃こそ最大の防御』ってなところですね(とは
いえ、呉との戦いによる国力の消耗は大きく、しばしの雌伏を余儀なくされるのですが)。

ただ、このままでは、蜀漢は魏・呉の双方を敵に回すことになりかねません。ただでさえ国力にハンデがあるのに二正面
作戦をとるのは愚の骨頂。
となると、呉との関係の修復が必要なわけです。その大役を仰せつかったのは…ケ芝でした。

荊州出身のケ芝は、乱世を避けて益州へ避難したわけですが、ここで「位は大将軍に至る」ってな占いを受けます。自分は
単に乱世を避けているだけなのに…ということで、この占いは特に信じなかったようですが、これが概ね当たったわけです
から、面白いものですね。

呉に至ったケ芝は、呉王となった孫権に同盟による両国の利害を説き、その信頼を勝ち取ることに成功します。演義では、
宮中に大釜を引っ張り出して(釜茹でにしかねない…と脅すことで)ケ芝の度胸を試す…ってな場面もありましたが、その
ような大仰な演出は不要でした。
何より、孫権自身、自国に迫る魏の脅威を痛切に感じているだけに、三国鼎立による力の均衡の重要性を深く認識していた
のです。
しかし、外交においてこれほどのバランス感覚を有する孫権が、戦場では凡庸な将と化すのも不思議なものです(『子産』
での子罕が似たような感じですね)。

長くなるので続きます。

230 名前:左平(仮名):2009/03/22(日) 00:59:15 ID:+yelLx660
続き。

さて、ケ芝には、もう一つの使命がありました。張裔なる人物を探し出し、帰国させることです。
ケ芝の知る限りでは、彼は「益州南部で叛乱を起こした雍闓に捕らえられ、呉に送られた」冴えない人物に過ぎません。
また、孫権の認識も、似たようなものでした(実際、軍事的手腕については実績らしいものはありませんしね)。
彼の帰国は特に支障なく行われると思われたのですが…帰国前の会見で、その才幹の一端が漏れました。そのために、
ケ芝達は危うい思いをすることになり、孫権は、人材を見抜くことの難しさを思い知らされることになります。
 ただ、いかに張裔の才幹を惜しんだとはいえ、君主たる者がひとたび交わした約束を反故にするというのはいかがなもの
 かと…。諌める人はいなかったのでしょうか。
ともあれ無事に帰国した張裔は、以降、諸葛亮の信奉者となります。諸葛亮自身は徒党を組む人ではなかったでしょうが、
協力者がいる方が何かとやりやすいのは確か。その意味では、この修交は、蜀漢にとっては実に有意義なものになりました。

さて、一方の魏では、呉の不誠実に対して曹丕が怒りを募らせ、ついにその討伐を命じます。群臣達の諫言も空しく、また
しても呉との戦いが始まろうとしています。

この頃、郭氏が皇后となっていました。父に深く愛された彼女は、先の皇后の甄氏とは異なり、夫のパートナーたりうる
明朗な女性でした(曹丕のもとに来た時点で三十。となると、美貌だけの女性ではないのは言うまでもないですね)。
曹丕の、二人との出会いがもしも逆であったなら、どうだったのでしょうか…。

231 名前:左平(仮名):2009/04/25(土) 02:53:37 ID:FJO82zTv0
三国志(2009年04月)

今回のタイトルは「南中」。諸葛亮が動き始めます。が…その前に、曹丕の、再度の親征です。

人からすれば思いつきのようでも、曹丕としては、それなりに考えての親征。しかし、君臣の心が一致しているとは
言えない現状では、どれだけの意味があるのか(表立って反対意見を述べたのは劉曄くらいですが…)。
こちらが、皇帝自ら大軍を率いて出てきたのだ。当然、呉も国を挙げて応戦するに違いない。曹丕は(群臣の殆ども)
そう考えたわけですが、劉曄が予見したとおり、そうはならず、肩透かしを食った格好です。
孫権にはまことの礼が無い。ひどい言われようですが、ここまでの外交姿勢をみると、一面の事実ではあります。
敵の総大将が出てこないし、皇帝自身も、前線からは離れている。となると、魏軍の戦意はいま一つ。徐盛の偽城壁
などもありつつ、戦いは膠着状態に入ります。

自身は出ない。とはいえ、魏の大軍(そしてその背後にある国力等の要素)を目の当たりにすると、厚顔な孫権も
さすがに不安になったのか、占術の達人・趙達を呼び、話を聞きます。
趙達は、曹丕が既に去ったことを伝えますが、一方で、庚子の年に呉は衰える、と気になる予言をします。それは、
この時点から五十八年後(実際には、この時から五十六年後なので、これより二年前の記録と混同された?)。
さすがに孫権自身は生きてはいないでしょうが、呉にとっては暗い予言です。趙達の予言の確かさをみると、これも
当たるでしょう。孫権は、あえて遠い未来は無視することにしました。「今のことで精いっぱい」というわけです。


さて、成果なく帰還した曹丕の耳に、悪い噂が入ります。親友でもあり、この当時、荊州を任せていた夏侯尚が、妾を
寵愛し正室(曹氏)を軽んじているというのです。
かつて杜襲に「(曹丕の)益友にあらず」と諌められたとはいえ、文武兼備の名将ということもあり狎れ親しんでいた
人物の醜聞。曹丕にとって衝撃ではあったでしょうが…いきなり部下を遣って妾を殺させるというのもあまりな話です。
最愛の女性を喪った夏侯尚の悲嘆は激しく、後を追うように亡くなりました。

長くなるので続きます。

232 名前:左平(仮名):2009/04/25(土) 02:55:25 ID:FJO82zTv0
続き。

瀕死の夏侯尚を見舞った後、曹丕は、「それだけの男であったのか」と呟きます。不思議と、ここの書かれ方は淡々と
していますが、それだけに、人情というものを解さない曹丕の寒々とした感覚が感じられます。
…どうして、曹丕には、こうも眉をひそめたくなるような話しかないのか。これでどうして『文』帝なのか。建国から
まだ数年。清々しいはずのこの時期において、早くも不快感があります。王朝は、しばしば、初代の帝王の性格に影響
されるものですが、魏の早い衰亡は、既に予定されているのか…。


一方、今回のタイトルの「南中」ですが…。魏vs呉の図式が確定したことで、ようやく、諸葛亮自身が動ける状況が
整いました。
蜀漢にとって、劉備が臥してからの南方での叛乱は、いわば内戦。いずれはけりをつけねばならない問題です。ただし
内戦ということは、叛乱者達を鏖殺するというわけにもいかないわけです。
(軍を動かさねば鎮圧はできませんが、今回は、政治的な対応が求められる性質のもの)
李恢の活躍もあり、朱褒らの叛乱は、無事、鎮圧されました。

え?何人か忘れてないか、って?

えっとですね…。孟獲は出てきました。「漢人にも人望がある」「さほど体躯は大きくないが精悍な顔つきをしている」
という感じで(彼こそが、こたびの事態の収拾の鍵を握る人物、といった感じの扱われ方です)。
ただ、張巍は出ず。李恢の活躍ぶりが目立っていました。

233 名前:左平(仮名):2009/05/24(日) 01:23:54 ID:85J6nSxv0
三国志(2009年05月)

今回のタイトルは「曹丕」。本作において個人名をタイトルにする場合、初登場か何らかの見せ場が、というところなの
ですが、「曹操」「劉備」と続くと、なんというか…。

今回は、まず、鮑について描かれます。前にもあったように、曹丕の不興を買い、しばし遠ざけられていた鮑ですが、
「(宮中の綱紀粛正ができるのは)かの者しかおりません」ってな具合に群臣から推挙されますと、曹丕としても、登用
しないわけにもいきません。
実際、これで宮中が締まったわけですが、裏を返せば、王朝の創業から数年(この時点では西暦225年)で早くも緩み
が生じていたともいえるわけです。
曹丕は再度呉と戦おうとします。鮑達は懸命に諫めますが、聞く耳を持たず、またしても出兵します。しかし、行軍の
鈍さをみると、彼自身、どこまで戦おうとしていたのかよく分かりません。戦略的意義のない戦いをすることに何の意味
があったのか。
そんな中、些細な事件がありました。これが、後で尾を引くことになります。

洛陽に戻った曹丕の耳に、一つの讒言が入りました。先の些細な事件がもとで鮑を憎むようになった者からのものです。
直ちに罪に問いますが、(当然ながら)廷尉達の答えは微罪(罰金等)。これに不満を持った曹丕は、おのが本意を示し
鮑を処刑させます。
しかし…。曹丕ならば「春秋」は知悉しているはず。その中の叔向の逸話を思い起こせば、社稷の柱石たる鮑(曹操の
覇業の影に鮑の父・鮑信の支援あり)は、たとえ死に値する罪ありとしても許すべき存在であるはずです。ましてや、
その罪状があやふやなものであるならばなおのこと。

おのが恣意を通した曹丕。しかし、群臣達を失望させたであろう、このような行いをしたとなれば、いわゆる春秋の筆法
では…。

長くなるので続きます。

234 名前:左平(仮名):2009/05/24(日) 01:25:16 ID:85J6nSxv0
続き。
その事態は、極めて急に起こりました。鮑の処刑からほどなく、曹丕が崩じたのです。
病に臥してから一月足らず。当年齢四十の壮年で、武芸にも長け、持病もない彼の急逝は、当然ながら、波紋を投げかけ
ました(春秋の筆法で言えば、鮑を殺した報い、ということでしょうか)。
幸い、まだ意識がはっきりしている間に立太子は為されましたので、この点は良かったのですが、太子に曹叡が選ばれた
ことには、群臣達に多少の驚きがありました。先の、とつくとはいえ、皇后との間に生まれた嫡長子。なんの問題もなさ
そうですが、実母の死に方(死を賜った)は、尾を引いていたようです。

まあ、太子の過去はともかくとしても、一度は地方王になり、中央からは離れたものと思われただけに、その賢愚は未だ
定かならず。
ひとり新皇帝に呼び出された劉曄は、まる一日語り合い、その力量を概ね把握しました(一方で、曹叡もまた、群臣の中
で最も優れていると判断した劉曄を通じて、群臣達の賢愚や時勢を把握したものと思われます)。
秦始皇・後漢光武に近いがわずかに及ばない。劉曄の見立ては、そのようなものでした。
呉との小競り合いに対しての対応をみると、少なくとも、皇帝としては曹丕より上と思わせるに足るスタートを切ります。

さて、魏・蜀漢とも代替わりをした一方、呉は、引き続き孫権です。
自分とは親子ほども年の離れた魏の新帝。しかも、その器量をみるに、魏に揺るぎはありません。また、(魏に備える為
ではありますが)蜀漢と同盟関係になっていますので、攻めるわけにもいきません。
直ちに呉に危難が及ぶわけではない。しかし国威発揚の機も期待できない。そんな中、呉艦隊期待の大型艦の進水という
イベントがありました。そう、谷利の見せ場です。

大型艦の進水にはしゃいだか、停滞する現状に苛立つあまりの気晴らしか。一国の主としては軽率な言動を見せた孫権に
対し、厳しく、しかし真摯に諌めた谷利。それをしかと受け止めた孫権。
もう一人の皇帝が現れるのは、そう遠い日のことではありません。

235 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:20:53 ID:VtX07A/g0
三国志(2009年06月)

今回のタイトルは「孟達」。この名がまた出てきたということは…。諸葛亮がついに動き始めます。

「これを読んで感涙せざる者は人にあらず」。千古の名文として知られる「出師表」。「危急存亡の秋」という言葉は、
この時点の蜀漢にはややそぐわないところがある(南征に成功したことで国力はまずまず充実している)ものの、その
未来図が決して明るくないことを思うと、あながち過剰な表現というわけでもありません。
かつて、蜀の地において皇帝を名乗り強盛を誇った公孫述は、時勢に乗り損ねて光武帝に敗れ、滅びました。覆車の轍
を踏まない為にも、漢の再興という政権の正統性を維持する為にも、ここで戦う必要があると考えたわけです。
ただ、ことがことだけに、失敗は許されません。そこで諸葛亮は、ある人物に目を付けました。孟達です。

曹丕にいたく気に入られ、要地・上庸を任された孟達ですが、彼にとって、魏は居心地がよい所とは言えませんでした。
裏切り者の常とはいえ、魏の人々からは冷たい目で見られていることを、痛いくらいに感じていたためです。
「武皇帝(曹操)は…」。
かつて曹操は、降った敵将を重く用いました。もとは呂布の配下であった張遼などは、天下に名を轟かせる名将にまで
なりました。魏の人々にとって、張遼は、「旧主を見限った元敵将」ではなく「魏の誇るべき名将」なのです。
しかし…。曹操の生きた非凡な時は既に去り、人々は平凡な道義を振りかざします。そんな中では、孟達のような人物
の居場所はないのです。

 ただ…。曹操の創業の時は終わったのですが、今、帝位にある曹叡もまた、凡庸な人物ではありません。司馬懿を宛
 に配置したのは、呉・蜀漢の双方に目を光らせるための措置。中央から遠ざけるというのとは違うのです。そのこと
 を孟達が気付いていたら、どうだったでしょうか。

孟達を寝返らせる。諸葛亮からその案を聞かされた費詩は、孟達を「小人に過ぎない」と断じました。彼が魏に奔った
経緯を考えるとやや酷な物言いのようですが…結局、それが…。

長くなるので続きます。

236 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:22:24 ID:VtX07A/g0
続き。

諸葛亮と孟達との書簡のやりとりは続きますが、孟達はなかなか動きません。互いに「相手が動いたら連動する」という
発想に陥っていたためです。それに異を唱えたのは、魏延でした。
ここでの魏延はただの武人ではありません。「もし孟達が先に動いたなら、魏との戦いを始めるという栄誉は孟達のもの
となり、我らの大義は損なわれる。丞相は失敗しないよう慎重になる余りに、この戦いの原点をお忘れではないか」。
このようなことをずばり指摘してみせたのです。
先帝・劉備に見出され、蜀漢の柱石たる張飛をおいて要地・漢中を任された名将・魏延。諸葛亮も、彼を軽くみることは
しませんでしたが、武将を用いる力は、劉備には及びませんでした(一方で、蒋琬のエピソードをみると、文官を用いる
力は諸葛亮の方がまさっているのですから不思議なものです)。

このままずるずると年を越しては、自身の威令が利かなくなり、来るべき戦いにおいて支障をきたす恐れがある。魏延の
指摘を聞いた諸葛亮は、ついに決断を下します。
信頼する配下・郭模をあえて魏に奔らせ、孟達が動かざるを得なくなるよう仕向けたのです。郭模(および家族の)身の
安全は保障されるでしょうが、蜀漢のために蜀漢を裏切るという辛い任務です。
この苦肉の策は効きました。もともと孟達を嫌っていた申儀が、これにより、孟達謀反の確かな証言を得たからです。孟
達に対し、朝廷から召喚命令が出ますが…もちろん行くはずもなく。

しかし、その割には孟達の動きは鈍いままです。それもそのはず。彼が戦うであろう司馬懿のいる宛は遠く、また、洛陽
との使者のやり取りを考えると、準備期間は十分あると考えられたからです。
司馬懿もそのことは承知しているので、孟達の動きを鈍らせるよう策を施します。

西暦227年冬。魏・蜀漢の戦いは、水面下では、既に始まっています。

237 名前:左平(仮名):2009/07/25(土) 02:14:54 ID:wQjkGeU20
三国志(2009年07月)

今回のタイトルは「箕谷」。いよいよ、魏vs蜀漢の戦いが始まるわけですが…。

孟達がぐずぐずしているところへ、司馬懿が急襲を仕掛けます。まさに「神速」。完全に虚を突かれた形になったため、
兵の士気の差も歴然たるものがありました。
それでも十日余り持ちこたえたあたり、孟達の将器もそこそこはあったとは言えるのでしょうが…諸葛亮からの援軍も
しっかり防がれると、最早、打つ手はありません。
併せて、(魏から見て最前線で監視の目も緩くなりがちなことから)勝手気ままに振る舞っていた申儀も逮捕。魏の西南
方面がしっかりと平定された格好に。

諸葛亮からすると、思いっきり出ばなをくじかれた形になります。とはいえ、「攻撃は最大の防御」ともいうように、蜀
漢が生き延びるには、魏と戦うしかありません。
しかし、国力差はいかんともし難いものがありますし、何より、曹叡と司馬懿(ら群臣)との連携がしっかりとしている
以上、うかつなことはできません。

 こうしてみると、蜀漢・呉にとっては、もう少し曹丕に生きていてもらった方が良かったのか?ってな感じですね。
 何度も戦場に立ったことがあり、武芸にも秀でていた曹丕より、実戦経験の殆ど無い曹叡の方が軍事的手腕に優れる
 というのも、不思議なものです。

必然的に、諸葛亮達が考える進攻ルートは、慎重なものになります。諸将も概ね賛同しますが、ひとり異見を持つ人物が
いました。そう、魏延です。
漢中太守、ということは、魏との戦いの最前線にいるということ。前線の事情に明るい彼には、この戦いを有利に進める
成算がありました。長安急襲です。
長安は魏でも有数の要地でありますが、守る夏候楙には軍略の才乏しく、ひとたび攻めかかれば脆いもの。兵糧の備蓄も
ありますから、補給の心配もありません。
しかし、敵中に孤立し、殲滅される危険性がある以上、諸葛亮としては、受け入れられない提案でした。

長くなるので続きます。

238 名前:左平(仮名):2009/07/25(土) 02:18:52 ID:wQjkGeU20
続き。
自らの提案が却下されたことに不満を持つ魏延。しかし、諸葛亮の次の言葉に、さらなる衝撃を受けます。
「先鋒は馬稷」
この選択についての宮城谷氏のコメントはかなり辛口です。こと軍事面に関しては、諸葛亮は袁紹と同程度である、と。
行政面についてはまさしく名宰相である彼も、万能ではありませんでした。
もし、この時、黄権のような人物がいれば…。この頃から、蜀漢は人材不足に悩まされていました(魏延の提案を却下
したのも、前哨戦ともいえる段階で蜀漢随一の勇将・魏延を失うようなことがあったら…という危惧があったのかも知
れません)。

ともあれ、こうして、蜀漢の軍勢が動き始めました。

しかし、慎重な行動というのは、一方で、意外性に乏しく驚きをもたらさないものでもあります。蜀漢が仕掛けてきた、
といっても、策に乏しい正攻法での攻撃では、将兵の質量にまさる魏に勝つことは至難の業。
曹叡の反応は、迅速かつ適切。直ちに、曹真や張郃といった大物どころを派遣してきました。こうなると、蜀漢は苦戦
を免れません。

蜀漢の進攻ルートから外れていたことを逆手にとり、逆に漢中目がけて進攻する曹真は、ここで趙雲率いる部隊と接触。
激戦となります。
「常山の子龍はまだ生きていたか」と強敵の出現に喜ぶ曹真。
「(若い頃のようにひとりで百の敵にあたるとまではいかないが)戦場はふしぎな力を与える」と感じる趙雲。
数と兵の練度にまさる魏軍がじりじりと押していく中、自ら後拒を担う趙雲。劣勢は覆せませんが、この危機をどう
切り抜けるか。

…今回の魏延の書かれ方をみると、名将とはいかなる人か、ということを少しばかり考えさせられたような。

239 名前:左平(仮名):2009/08/23(日) 01:37:07 ID:bq1phsVL0
三国志(2009年08月)


またしても迂闊なことを。馬謖の名をを書き間違えてしまうとは。気を取り直して。

今回のタイトルは「街亭」。まあ、第一次北伐とくると、この名前は当然出てくるところですね。
まずは、前回の続きから。兵の数の差は大きく、蜀漢軍は撤退を余儀なくされ、ついに趙雲自らが後拒を担います。
その生涯を決定づけた存在である劉備を、戦場に斃れた関羽を思い、一人佇む趙雲。戦場に、一瞬ですが、静寂が
訪れます。
既に老齢に達してはいますが、長坂の英雄は未だ健在。ただ一騎とはいえ、敵に凄まじい威圧を与えます。
そして、魏兵の目に、ひときわ趙雲の姿が大きく映ったその時―

あっという間に数十の敵兵を屠り、部隊長を叩き落としました。部隊長自身は無事でしたから、趙雲に気圧された、
としか考えられません。地味な撤退戦とはいえ、個の武人の強さがかくも鮮やかに描かれたのは合肥の張遼以来か。

「趙雲には近づくな」。曹真の命をうけて追撃する第二陣の部隊長に、先の部隊長はこう言います。既に日も落ち、
ここは敵地。追撃するには危険なところです。たとえ怯、と罵られても、兵士の命には代えられません。そして、
この危惧は現実のものとなります。

翌朝、再度追撃を開始した魏軍が見たもの。それは、蜀漢―そのうちのかなりの部分は趙雲一人―に屠られた魏兵
で作られた牆でした。その凄惨さをみた魏軍の士気は落ち、曹真は兵を引きます。
準皇族である彼には、派手な武勲を求める必要性はありません。敵将の趙雲・ケ芝の首級は挙げられずとも、一定
の勝利を収めた以上、深追いする必要はないのです。それに何より、兵を労わる曹真には、牆にされた兵士の骸を
放置することはできませんでした。
「蜀の地では寝心地が悪かろう。みな連れ帰って葬ってやりたい」。
将にこういうことを言ってもらえる分、この魏兵にはまだ救いがある、というところでしょうか。

みごとに兵を引いた趙雲は諸葛亮に激賞されますが、報償を出そうとするのに対しては、きっぱりと拒否します。
最も成功した法家、と言われることのある諸葛亮でさえ甘いと思わせるほどに厳しい道を歩み続けてきた趙雲。
彼は、この翌年に逝去します。

長くなるので続きます。

240 名前:左平(仮名):2009/08/23(日) 01:39:56 ID:bq1phsVL0
続き。
同じ敗戦でも、趙雲のそれがそう思わせないほどにみごとなものであったのに対し、馬謖のそれは、甚だ無様な
ものとなりました。
副将の王平がまっとうな行動をとっているだけに、「策士、策に溺れる」を地でいく馬謖の判断ミスが余計に
目立つのです。

相手は「半世紀の武人」張郃。敵将を侮り、のみならず、策の危険性を軽視し、副官の指摘にも耳を貸さない。
兵書に通じているはずの彼が、最も基本的なところを見落としていたのです。
「彼を知らず己を知らざれば、戦うたび即ち殆し」。彼の敗戦は、必然でした。

王平に助けられ、辛うじて撤退した馬謖。しかし、これは単なる敗戦ではありません。その咎は、死をもって
償う他ありませんでした。
馬謖の将来を最も期待していたのは諸葛亮です。ゆくゆくは丞相にも。そんな未来図を描いていたでしょう。
しかし、法を枉げることはできません。辛い決断を下すことになります。

ここで馬謖を斬るべきだったのかどうかは、議論の余地があるところです。しかし、馬謖の失敗は、彼に嘱目
していた諸葛亮にも向けられます。「諸葛亮は万能ではない」。先にも言われてはいましたが、かなり辛口な
評価がされています。
為政者に問われるのは、ただただ結果のみ。事情を知る者には酷に思えるところですが、そういった、不条理
にも思えることをも引き受けなければならないのが為政者の宿命。

全く得るところなく終わった、第一次北伐。しかし、それでも、何もなかったわけではありません。
諸葛亮は、ひとりの偉才を拾いました。姜維です。

241 名前:左平(仮名):2009/09/26(土) 03:04:24 ID:sq1CW+Zq0
三国志(2009年09月)

今回のタイトルは「曹休」。姜維についての記述はないのですが、第一次北伐の余談、とでもいうべき話から
始まります。

かつて張既に託された、游殷の遺児・游楚。立派に成長し、太守となった彼のもとに、蜀漢軍の侵攻の知らせ
が届きます。
天水・南安の太守が早々と逃亡する中、ここが死に場所、とばかりに肚を括ると、きっちりと迎撃態勢を整え、
蜀漢軍に一撃を加えます。
游楚は学問を好まず、遊び好きだったそうですが、郡の官民の心を得たことといい、敵軍の状況を冷静に把握
したことといい、なかなか優秀な人物ですね。
戦力を分散していた蜀漢軍は、長居は無用とばかりに撤退。みごと、援軍の到来まで持ちこたえました。

近隣の太守が醜態を晒す中での、この活躍。宮中に上がった時の天然ぶり(?)もあって曹叡に気に入られた
彼の人生は、比較的穏やかなものだったようです。

さて、タイトルの曹休ですが…。この時、彼は、南の呉に備える立場にありました。
蜀漢と呉は同盟関係となっています。と、いうことは、両者が連携して魏と戦うということが予想されるわけ
です。そして、蜀漢が攻撃を仕掛けてきたということは…。曹休は、呉との戦いの準備に取りかかります。

孫権も、蜀漢が動いたことを知ると、魏との戦いの準備に取りかかります。しかし、過去数年の戦いの結果は、
というと、一進一退。それも、軍事のまずかった曹丕の時で、です。
天性ともいうべき戦略眼を持った曹叡が相手となると、これでは心もとない。孫権は、何らかの策略を用いる
必要に迫られます。

長くなるので続きます。

242 名前:左平(仮名):2009/09/26(土) 03:05:46 ID:sq1CW+Zq0
続き。

ここで白羽の矢が立ったのは、前線にいない鄱陽太守・周魴です(前線の太守が策をめぐらしても警戒されて
いるため難しい、との判断)。山越等の賊との戦いの経験もあり、なかなか優秀な人物ではありますが、これ
はいかに言っても困難な使命です。
何度も策を練っては却下され、ついには問責の使者が来て、剃髪して詫びるということも(演義では、曹休を
欺くための策の一環でしたが、ここでは、本当に策が思いつかないが故の剃髪)。上司の無茶な命令にこたえ
られずに謝罪を強いられる部下…。何か、身につまされます。
ようやく策ができ、孫権の了承が得られました。ここからが、大戦の始まりです。

周魴の内通という機密情報。曹休は、この情報を己の内にしまい込みます。曹叡に報告すると…と思ったので
しょうか。

数に劣る呉軍としては、賈逵の援軍が来る前に曹休の軍を殲滅したいところ。ここは、陸遜や朱桓といった、
呉の最精鋭が当たります。

周魴の内通が偽りであったと悟った曹休は激怒しますが、十万という大軍を率いていることもあり、総攻撃を
掛けます。
軍勢を分断されて苦戦を強いられますが、戦意は高く、劣勢とはいえ軍としての形は崩さないあたり、慎重さ
に欠けるなどと言われはしても、ひとかどの将帥であることは確かです。
とはいえ、敵の術中にはまり敗れたのには違いありません。曹休は、撤退を余儀なくされます。

援軍に向かう途中でこのことを知った賈逵。さて、どうするか。

243 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:42:15 ID:5TLCoJWz0
三国志(2009年10月)

今回のタイトルは「陳倉」。曹操等には及ばぬまでも、諸葛亮の軍事手腕に一定の成長が見られます。

まずは前回の続きから。曹休の敗退を知った賈逵は、彼が向かうであろう夾石に軍を進めることにします。そこ
には、撤退する曹休を待ち構える呉軍がいましたが、賈逵はこれを難なく蹴散らし、無事、曹休と合流すること
ができました。
全体的には魏の敗戦とはいえ、主だった将帥の戦死もなく済んだのは、ひとえに賈逵の功です。しかし…

なぜか、賈逵は曹休には嫌われていました。ともに戦場においては勇将でしたが、二人の勇気の質が違っていた
ため、とのことですが…自分の窮地を救ってくれた賈逵に当たり散らすあたり、第三者からみると、どちらの勇
気が優っているか、は言うまでもないような…。
その後、ともに経過報告を奏上しますが、曹休のそれには、敗戦の責を賈逵に押しつけようとするところがあり
ました。
どちらが正しいかは分かっている曹叡でしたが、皇帝である彼も、帝室の一員たる曹休には強く出られないため、
この件はうやむやのうちに終わります。
曹休はかくも大事にされていたわけですが、彼のプライドは深く傷つき、憤りの余り、間もなく没します。
初めての敗北が、結果として彼を死に追いやったわけです。敗北から学べなかった武将の悲劇、でしょうか。

…曹操が薨じてから十年足らず。しかし、彼とともに戦ってきた曹氏の多くが既に没し、世代交代しています
(曹洪はまだ生きているはずですが、曹丕の時代に一度失脚したためか触れられていません)。
そのため、曹真が一族をとりまとめる立場に立ちます。…ん?この流れは…?

長くなるので続きます。

244 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:45:04 ID:5TLCoJWz0
続き。

一方、勝利した呉ですが、こたびの戦の功労者である陸遜・周魴は篤く賞されます。それはよいのですが…ここに
呉の限界があります(後世の、人気がない原因でもあるような)。
詐術を弄して勝つということは、「敵には何をしてもよい」と考えているわけです。それは、一見正しいようですが、
そこには、人を引き付けるものがありません。人々を引き付けないことには最後の勝利は得られません。
「信なくば立たず」と言います。呉は、君主たる孫権からして、その信が欠けている。それがもたらすものは…。
…ともあれ、赤壁の鮮烈な勝利が、周瑜のみならず、呉という国そのものをも束縛してしまった、という皮肉な見
方もできるわけです。

さて、(遠い東方のこととはいえ)魏が敗れたということは、蜀漢にとっては好機であるわけですから、これ幸い
とばかりに、諸葛亮は兵を進めます。
しかし、彼の進攻ルートは、既に曹真らによって予測されており、戦場は、郝昭が守る陳倉になります。この時点
で蜀漢の苦戦は決まっていました。

小さい城とはいえ、先の游楚の勇戦を考えると、条件は格段に良い(籠城の準備も整っており、何より、早い段階
での援軍が期待できる)わけですから、郝昭達の士気は高く、諸葛亮が大軍を持って攻めかかったにもかかわらず
戦果を挙げられぬままに撤退を余儀なくされます(ここでの王双の追撃が魏には蛇足になります。というのは、王
双を討ち取ることで、蜀漢は劣勢を糊塗できたわけですから)。

まだ続きます。

245 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:47:11 ID:5TLCoJWz0
続き。

文章量からすると、やや少なく感じるくらいの陳倉の戦いですが、その中身はなかなか濃いものがあります。攻城
兵器(雲梯、衝車等)の投入、二重城壁、地下道での攻防…。
ただ、郝昭の勇戦は確かですが、ここでは、戦場における諸葛亮の鈍さが強調されているように見えます。

一度ならず二度までも戦果なく撤退した諸葛亮。しかし、「応変の才に欠ける」と評されたとはいえ、彼は愚物では
ありません。ついに、あることに思い至ったのです。そう、范雎の遠交近攻の応用―領土の面的確保―です。
魏の予想を裏切る速さで再び兵を起こすと、武将・陳式をして陰平・武都を攻めさせ、これの確保(及び保持)に
成功したのです。
…しかし、「水軍を預かったことがある」「山岳戦もまずくない」くらいにしか書かれていませんが、これだけの戦果
を挙げた陳式、なかなかの将ですね。蒼天で、徐晃相手に堂々としていたあの雄姿も伊達ではないといったところ
でしょうか。
しかし、本作での諸葛亮はなかなか扱いづらい存在ですね。私心ない忠臣であり、かつ卓越した行政手腕の持ち主
である一方で、将帥としては意外性に欠け鈍重、皇帝でさえ止められない独裁者でもあるわけですから。

さて、ラスト、ついに孫権が皇帝を称したわけですが…魏・蜀漢両国の反応やいかに。

246 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:52:23 ID:A/4303W/0
三国志(2009年11月)

今回のタイトルは「三帝」。名実ともに、三国の時代となります。

まずは、孫権の皇帝即位を知った蜀漢の反応及び対応が語られます。漢の正統を自任する蜀漢としては、孫権の
皇帝即位は到底是認できないものではあるのですが…ここは、丞相・諸葛亮の現実的判断に従うこととなります。
 まずは、中原をおさえている魏との戦いを優先する、ということです。帝位を僭称した孫権の非を糾弾するの
 は、その後で、と。
 しかし、もし、蜀漢が孫権の皇帝即位を非難し同盟を破棄したなら、孫権はすばやく帝位を降りて魏に詫びを
 入れ、共同して蜀漢を攻めることもありうる、と(諸葛亮が憂慮した、と)いうのは、これまでの孫権の言動
 をみるとありそうなのが何とも。孫権、信用されてませんね。
祝賀の使者として衛尉の陳震が派遣されます。このことは蜀漢の反応を気にしていた孫権を大いに喜ばせました。
諸葛亮の外交には裏がない。それは、一見すると非常に稚拙なようではありますが、実は、最も強固なものでも
あります(ある意味で、敵にも味方にも信用されているわけですからね。信用は大事です)。
名の通り、権謀術数の限りを尽くしてしたたかに生き抜いてきた孫権には、この逆説が分かります。彼が諸葛亮
を絶賛したのも、こういうところを認めたからですね。
 それにしても、諸葛亮の軍事的手腕については総じて辛口に書かれていますが、内政及び外交手腕については
 絶賛といっていい書かれ方です。
 「諸葛亮は信と誠の人である。それがすべてといっていい」。
 政治には巧みだが軍事には疎い。『子産』の子罕などがそうですが、完全な人はなかなかいないものです。

長くなるので続きます。

247 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0
続き。

この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を
受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。
諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。

 孫権の皇帝即位の前年に、呂範が他界します。孫権は、彼を雲台二十八将の一人・呉漢(序列第二位)に例
 えます。この際、既に亡くなっている魯粛をケ禹(同一位)に例えていることから、死してなお、魯粛への
 評価が高いことが分かります。天下平定の計略を示したのは彼一人。その死をもって、孫権の、天下平定の
 計略は潰えたということでしょうか。それ以降の、孫権の魏への対応を考えると、そんなふうに思えます。

さて、魏は無反応だったわけですが…宮城谷氏曰く、この時代は四国時代と言えなくもない、ということで、第
四の勢力―遼東の公孫氏―のことが語られます。
(実は、単行本第八巻の付録にもこのあたりのことが書かれています)
西暦229年時点での公孫氏の主は、公孫淵(字は文懿、というのが知られるようになったのは、ここ数年の皆
様の丹念な文献チェックの賜物ですね)。
初代の公孫度の孫で、四代目にあたります(公孫度―康―恭(康の弟)―淵(康の子))。
魏に服属している形なので名目上は侯に過ぎませんが、領内では王、いえ、内心では帝の如く振る舞っています。

そんな彼に、孫権は使者は派遣したわけですが…帝気取りの公孫淵に向かって「なんじを燕王とする」と言った
ところで何のありがたみもないわけで…。さすがの孫権も、遠い遼東のことまでは、十分に把握していなかった
ということでしょうか。あるいは、衰えの兆候…?
(衰えうんぬんは、あくまで個人的な思いであって、作中でそのような書かれ方をしているわけではありません
ので、念のため)

まだ続きます。

248 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:55:30 ID:A/4303W/0
続き。

そうこうしているうちに、西暦230年。この年、魏は本格的な軍事行動を起こそうとします。蜀漢が対魏戦の
準備を着々と進めていると知った曹真が、機先を制してこれを討つことを考えたのです。

彼我の国力差を考えると、孫資の言うとおり、魏から無理に戦いを仕掛けずともよいのですが、今や魏軍の重鎮
たる曹真の意見をむげに取り下げることもできません(それに、敵に謀られて〜というわけでもありませんし、
蜀漢の攻勢を挫くという意義もある以上、無意味な戦いでもありませんからね)。
結局、秋になって、出撃が決定します。曹真と司馬懿がともに蜀漢に攻め込もうというのですから、大戦になる
ことは必定でした…が、折からの長雨のため、軍は進めず。
呉に備えるため、洛陽を発ち許昌に滞在する曹叡に、華歆・楊阜達が諫言を呈します。

最後は、この楊阜のこれまでの生き様が描かれます。
時を遡ること、約二十年。手痛い敗北を喫したものの、曹操が去った後、勢力を盛り返して涼州を荒らす馬超を
倒すべく、姜叙の母達とともに蜂起する、というところまでです。
文官・武官というくくりでは文官なのでしょうが、なかなかどうして、苛烈な半生です。

249 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:32:42 ID:hGkpiVxC0
三国志(2009年12月)

今回のタイトルは「曹真」。曹真についての記述自体はさほど多くないと思うのですが、この後のことがあります
からね…。

今回は、前回の続き、楊阜vs馬超です。辛うじて馬超のもとを脱出した楊阜は、姜叙達とともに馬超を打倒すべく
動き始めます。この計画が漏れなかったところに彼らの強運が、そして馬超の不運がありました。
蜂起するのは、馬超が拠点とする冀城にほど近い鹵城。ここを修築し、攻撃に備えるのですが、なぜここなのか?
それには、理由がありました。
楊阜達が蜂起!これを知った馬超は激怒し、自ら出撃します。鹵城は小さく攻略にはそう時間はかかるまい。そう
思った馬超は軽装で城を出ました。

…実は、これが狙いでした。冀城から遠く大きな城であれば、馬超も用心していたでしょうが、鹵城が近く、かつ
小さい城であることから、物資等はおおかた冀城に残していたのです。
そして、楊阜の仲間は、冀城内部にもいました。
彼らは、馬超が出撃したのを見届けると、直ちに蜂起。物資を確保するとともに馬超の家族を殺し、迎撃態勢を整
えます。
このことを知った馬超は直ちに取って返し、冀城を落としますが、姜叙の母を殺したことで憎悪の連鎖を生み、楊
阜達の戦意をさらに高めることになりました。
結局、馬超は鹵城を落とすことはできず、南に落ちてゆくことになります。
※後に曹操から賞賛された際、先見の明があったことをたとえるのに楊敞の名が出ましたが、霍光の妻〜となって
 います。「楊敞の妻」が正しいので、誤記だと思うのですが…。単行本待ちですね。

長くなりますので、続きます。

250 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:34:13 ID:hGkpiVxC0
続き。
ともあれ、その後の地方勤務も含めて高く評価された楊阜は、曹叡の代になって、中央に呼ばれます(彼の登用自
体は、曹丕の時代から検討されていたようになっています)。

このような経緯で中央に召された楊阜は、曹叡に対し、時として厳しい諫言を行います。土木建設事業を好む、と
いうのが微妙なところではありますが、為政者としての資質において父・曹丕を上回る曹叡は、楊阜の諫言をよく
聞き入れ、施政に生かしていきます。
制度上は、皇帝の賢愚に関わりなく国政の運営が行われるようになっているとはいえ、やはり皇帝の資質は重要で
あります。名君が現れれば国は活気づき暗君が現れれば国は沈滞する。今も昔も変わらない真理がここにあります。

前述のとおり、軍事的な視点も持ち合わせているであろう楊阜の目には、悪天候が原因とはいえ、こたびの戦いの
戦況が思わしくないことが見て取れました。
曹真の、時勢のみる目に衰えがあるのか?今の蜀漢は、弱くもなく、乱れてもいない。そんな相手を倒すのは容易
ではない。なぜ、今なのか…、と。

結局、長雨が止まぬ中、ついに撤収命令が下され、曹真達は傷心のうちに撤収することになります。この時、曹真
は、重い病の床に臥していました。出師を願い出た自分が、病であるからといって引くことはできない。その意地
が、かえって病状を悪化させたのでしょうか。
皮肉なことに、曹真達が撤収してからは、雨は降りませんでした。天には、まだ蜀漢を滅ぼす意思はない。国力面
では圧倒的な差をつけているとはいえ、相手に天の加護があるのか、という意識は、今後の魏にとっては、厄介な
ものとなりそうです。

まだ続きます。

251 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:42:33 ID:hGkpiVxC0
続き。
撤収から数ヵ月後、曹真は息を引き取ります。不調に終わったとはいえ、先の蜀漢攻めは、呉が大規模な軍事行動
を起こせないうちに…と判断してのもの。彼もまた、楊阜と同様、国を思って行動する忠臣でありました。
とはいえ、ここで曹真をも失ったことは、魏にとっては、不吉な影を投げかけることになります。

さて、呉の方は、といいますと…。
念願の帝位に就いたとはいえ、彼我の国力差に変化があったわけではありません。帝位をより盤石なものにするため
にも、孫権としては、軍事的な成果を挙げる必要があります。
呉にとって、目の上の瘤となっているのは、合肥。この頃、満寵の指揮のもと合肥新城が築かれたことで、ますます
攻め辛くなっています。
が、この頃、満寵も酒に溺れいささか衰えがみられる…という話があったことや、魏の主力が対蜀漢戦に向けられて
いることから、孫権は、合肥攻略を実行に移します。
おおっぴらに合肥攻略を知らしめて魏軍を集めさせ、やがて兵を引いたその時に攻撃を仕掛けるというものです。策
そのものはなかなかのものだったのですが…

…結果は、みごと失敗でした。満寵、酒は飲んでも飲まれてはおらず、孫権の策を看破していたのです。というか、
孫権が自らの策に溺れた感がありますが。
(孫権はきっと策を弄しているに違いない、と思われ警戒されていた)

それでも懲りない孫権。満寵が駄目なら今度は、とばかりに、彼と仲が良くない王淩に策を向けます。こちらはいく
ばくかの成果あり。
王淩、まっすぐな人なだけに、策には弱いみたいです。

252 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:32:51 ID:94F5vzQz0
三国志(2010年01月)

宮城谷氏が、2月1日から読売新聞で連載されるとのニュースが入りました。タイトルは「草原の風」。主人公は、
光武帝・劉秀(挿絵は、宮城谷作品ではお馴染みの原田維夫氏)。本作は楊震の「四知」から始まってますので、
時代的に繋がってくるかも知れません。

さて、今回のタイトルは「天水」。いよいよ、諸葛亮と司馬懿の直接対決です。ただ、両軍内部に対立の芽が…。

曹真が病に倒れ、蜀漢への備えが薄くなることを危惧した曹叡は、後任に司馬懿をあてます。「司馬」の氏を名乗る
からにば文武兼備でなければ、と意気込む彼にとっては、来るべくしてきた任務と言えるでしょう。
それに、彼にとっては、蜀漢は因縁もあります(そのあたりの経緯は「魏国」の回で触れられています)。あの時、
何故、武帝(曹操)は軍を蜀に進めなかったのか。あるいは、「足ることなきを楽しむ」という心境だったのか。
…今となっては、分かりません。ともあれ、その結果として蜀漢が興り、彼は、それを討伐すべく任地に赴くことに
なりました。
 儒学は軍事を軽侮する(孔子が「信なくば立たず」と言った際、真っ先に軍備を諦めている)。兵法を極める者は
 老荘思想的である…。司馬懿は、(それだけではないとはいえ)本質的には儒学の徒のはず。この点は、諸葛亮も
 同様でしょう。と、なると…。

入念な偵察によって諸葛亮の進軍ルートをつかんだ司馬懿は、上邽に武将を派遣し、守らせようとします。しかし、
ここで暦年の勇将・張郃が「雍と郿にも派遣すべき」と主張します。ともに交通の要衝とはいえ、進軍ルートからは
外れているし、軍を分けることは、かつての楚vs黥布の例からも、よろしくない。そう判断した司馬懿は、この進言
を退けました。諸葛亮の進軍ルートは予想通り。ここまでは順調ですが…。

長くなるので、続きます。

253 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:34:13 ID:94F5vzQz0
続き。
しかし、戦場は生き物とでも言うべきか。司馬懿の目算はあっさりと狂います。こともあろうに、上邽に派遣した武
将達が野戦に及び敗れたのです。こうなると、蜀漢軍への抑えが利かなくなり、後手に回ってしまいます。
蜀漢軍が上邽に留まっている(周囲の麦を刈り、挑発及び兵糧確保を行った)との知らせを受けると、相手が待ち構
えていることを承知で、向かわざるを得ません。
司馬懿は昼夜兼行で向かい、諸葛亮の予想よりも早く戦地に着きました。かつての諸葛亮であれば、これで動揺した
でしょうが…。彼は、将帥として、かなりの成長を見せていました。
 かつては(決断の遅さから)袁紹に例えられていたのが、今は(奇策を好まないという点で)関羽に似ている、と
 評されています。この数年での急成長がうかがえます。

戦いは、蜀漢軍優勢で進みます。ただ、慎重になる余り本陣を後方に置きすぎていたため、魏軍の動きの把握が遅れ、
決定的勝利を逸しました(この際、司馬懿は、劣勢をみるとあえて本陣を前に出して崩れを防いでいます)。
司馬懿は、渭水を渡ると壊滅すると分かっているため、高地を利用した陣を築き、蜀漢軍の猛攻をしのぎます。
ただ、こうしているのは、勝算あってのことではありません。司馬懿は窮地に陥ります。

やがて、蜀漢軍が退きます。これは誘い出すための陽動。それが分かっているため、追撃は極めて緩慢なものになり
ますが、ここでまた、張郃が進言します。
しかし司馬懿はまたしてもこれを却下。前回はそれなりに却下する理由がありましたが、今回はさしたる理由もない
ように思われます。張郃は曹操と同じく実戦派。司馬懿は理論派。そのあたりの違いを嫌ったのでしょうか。

まだ続きます。

254 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:36:41 ID:94F5vzQz0
続き。
追撃している、という体裁を整えるためだけの進軍。雍と郿に軍を派遣しておれば、このような事にはならなかった
のでは…。それがまた、司馬懿には癪に障ります。
このような状況に諸将は不満を抱きます。勝算のない司馬懿は、その戦意に賭け、攻勢に出ます。…らしくない戦い
方です。

魏軍が攻勢に出た。これを見つめる将、魏延。
彼は、この戦いに先立ち、諸葛亮とは別行動をとって潼関を目指したいと申し出ますが、却下されました。自尊心の
強い魏延に自由行動を許すと、半独立勢力になりかねない、と危惧したためです(ここで董卓の名が出てくるあたり、
諸葛亮の警戒ぶりがうかがえます)。
魏延には言い分があります。天水郡を取ったところで魏は揺るぎもしない。しかし、長安を取ればどうか。中原に蜀
漢の軍が至れば、漢の御代を懐かしむ人々の心を動かすことができるのではないか、と。
かつて劉備は、どれだけ曹操に敗れても、決して屈しなかったではないか。いま、その志をたれが継いでいるという
のか。皇帝(劉禅)は成都から動かず、諸葛亮は領土拡張に動くのみ。
諸葛亮を「怯(臆病)」と罵りつつも、その心中には哀しみがあります。「われを知ってくれたのは、ただ昭烈皇帝
(劉備)のみか」。

ともあれ、彼にとっては、眼前の魏軍は壊滅させるべき敵。曹仁、張遼、そして関羽なき今、魏延は恐らく中華最強
の将。その兵の強さも半端なものではなく、魏軍はたちまちにして圧倒されます。
劣勢を見た司馬懿はあっさりと退却し、陣にこもります。巻き添えを食って危い目にあった張郃は激怒しますが、司
馬懿はこれを無視。諸葛亮と魏延の対立は路線対立とでも言うべきもの(双方に理がある)ですが、司馬懿と張郃の
それは、どこかすっきりしないものがあります。ここで、長雨。これが、どう影響するか。

255 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:09:07 ID:???0
三国志(2010年02月)

今回のタイトルは「悪風」。この、意味するところは果たして…。

前回のラストで触れられた長雨が、間接的にですが、今回の諸葛亮と司馬懿の対決に決着をつけることになりました。
例年にない長雨。それとあわせてもたらされた、李厳(改名して李平)からの知らせは、諸葛亮に撤退の決断をさせる
には十分すぎました。
長雨で補給路が断たれてしまっては、いかに戦況が有利とはいえ、戦えません。諸将に異存が出なかったのも、無理も
ないところでしょう。
もちろん、将帥として成長した諸葛亮のこと、後拒にも抜かりはありません。

蜀漢軍、撤退開始。
この知らせを受けた司馬懿は直ちに追撃を命じますが、ひとり張郃は異を唱えます。魏にとっては、今回の戦いは防衛
戦。撤退する軍勢をことさら追撃する必要はないのです。しかし、司馬懿はこれを却下。不満を抱きつつも、方針が追
撃と決まった以上、それに従うのが武人の務め。張郃は、猛烈に追撃を開始します。
老練な張郃ですが、罠や伏兵を警戒しつつも、猪突猛進。時に忘我の境地に立ってこそ、無類の強さを発揮することが
ある。この時の張郃がまさにそれで、結果として、蜀漢軍に少なからぬ損害を与えます。
しかし、国境付近の木門まで追撃した、その時…
…蜀漢軍の伏兵の放った矢が、張郃に命中。即死ではなかったようですが、この傷がもとで、張郃は落命します。

将兵は名将の死を大いに嘆き悲しみましたが、司馬懿は、どこか心が軽くなったことを感じます。曹操の戦い方を継承
する唯一の存在であった張郃がいなくなったことで、自分の戦い方への批判者がいなくなった。そういうことでしょう
か。
ともあれ、蜀漢軍が撤退したことで、司馬懿は、勝利したという形を作ることができました。曹操以来の名将・張郃と
引き換えにするにはどうかという気がしますが。

続きます。

256 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:10:57 ID:???0
続き。
凱旋した司馬懿及び諸将には褒詞が授けられ、褒美や昇格といった栄誉が授けられました。このあたりの要領の良さが、
司馬懿が「政治的な人物」であるということでしょうか。
張郃についても、「壮候」と諡され、爵位は子に受け継がれましたし、何より、皇帝がその死を大いに嘆き、それ故に諌
められるくらいですから、それなりに栄誉は与えられてはいます。
しかし、(個人的には、ですが)どこかすっきりとしません。名将・張郃を使いこなせなかった司馬懿。曹操と比べると
スケールダウンしている感は否めません。
…こうなると(「三国志」である以上、無理な話とは思いますが、為政者の堕落した最悪の事例として)王衍の末路まで
描いていただけないものか、と思ったりします。

一方、無事に撤退した諸葛亮ですが、長雨による補給路の遮断が予想ほどではなかったことに疑念を抱き、李平を詰問し
ます。この際の李平の応答が諸葛亮を激怒させ、彼を失脚させるに至らせました。
普通、このあたりの経緯は、李平の怠慢(もしくはサボタージュ)とされていますが、真相はどうであったか。李平が諸
葛亮を敬仰していたことから、違う見方が必要では…という指摘がされています。
「無私の人」「法の人」である諸葛亮も人間。結果として、自身の過ちをなすりつけた形になることもある、と。

一方、呉に目を転じると…。孫権、欲求不満の様子。蜀漢と魏とが死闘を演じる中、漁夫の利を狙えそうなものですが、
目立った成果が挙げられません。
夷州(台湾とされています)・亶州(九州南部の島とされています)の探索も、原住民を連れ帰っただけに留まります。
そんな中、再び、遼東の公孫氏に目を付けるのですが…。

続きます。

257 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0
続き。
夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応
できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の
失態につながっているようです。
そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい
ます。
さて、これをどうしたものか。皇帝の意向は殲滅ですが、魏にしても海上での戦いは未知の領域。と、なると…。

ここで田豫の名が浮上します。かつて劉備や公孫瓚に仕えたこともある歴戦の名将は、山東半島の突端、成山でひたすら
呉の船団を待ち続けます。
利を得るよりも害を除くことを重視する田豫は、諸将の不満の声を聞き流し、暴風雨にさらされ、成山で難破した呉の船
団をやすやすと捕獲・撃破しました。
正使を捕斬したわけですから、一定の成果を挙げたわけです。
しかし…田豫は、青州刺史・程喜の讒言を受けます。詰めが甘かったため船団が積んでいた財宝類の確保ができなかった、
というのです。
(この時点では程喜は清廉な人物とみられていたとはいえ)曹叡がこの讒言を聞き、田豫の功を軽く見たというのは、何
かいやな感じがします。
この「悪風」、単に呉の船団を襲った暴風雨を示すのではないような。そんな感じがあります。

258 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。
と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。

さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、
劉備と縁があった人でもあります。
謹厳実直な人となりで知られる彼は、優れたバランス感覚の持ち主であるとともに、帝王の言動の重さというものをよく
理解している人でもあり、まさに国家の重鎮というべき存在。
(なぜ史書に伝わっているのか、と言ってしまうと野暮ではあるのですが)彼の諫言は、密かに行われていたといいます。
なぜ密かに、という疑問があるわけですが…個人的には、「王に戯言無し」ということを意識していたのではないか、と
思います。
 個人的な話かつ時事ネタで恐縮ですが、現内閣・与党の面々の言動のひどさを見るにつけ、この言葉がしばしば私の脳
 裏をよぎります。彼らは、これまで一体何を学んだのでしょうか。作中では散々な書かれようだった袁紹・袁術でも、
 この連中よりももっとましではなかったか、と。
帝王の言葉は極めて重く、また、誤りがあっては取り返しがきかないものです。誤りがあれば当然に正されるべきですが、
誤りがあったこと自体、帝王の尊厳を傷つけるもの。表立って諫言することは、帝王の誤りを明らかにしてしまいます。
それゆえ、諫言は密かに行うものである…。これは、臣下としての、彼の美学とでも言うべきものでしょう。

続きます。

259 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0
続き。

陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が
経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。
ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。
宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯
な諫言に打たれ、規模縮小という折衷的な結論に至りました。一方、曹叡の愛娘の葬礼については、結局諫言を聞き入れ
ませんでした。

続いて、もう一人、劉曄です。この人は、皇帝には有用でも国家にとってはどうか、と、一筋縄ではいかない人物として
描かれています。
状況によって正反対の意見を言う(例:群臣の前では蜀漢を討つべきではないと言い、曹叡の前では討つべきと言う)と
なれば、確かにそのようにみえます。
彼はその故に、曹叡に翻弄され、ついには精神を病んで失意のうちに没するという哀しい最期を遂げるわけですが、では
なぜ、時に正反対の意見を言ったのか、となると、そこには深謀遠慮がありました。
「事は密を以って成り語は泄を以って敗る」というわけです。帝王たる者が秘密を軽々しく外に漏らすべきではない、と。
分かる人には分かったのですが、どうも劉曄、社交的な人ではなかったようで、その真意が理解されなかったようです。
曹操の時代であれば、切れ者の軍師として働けたのでしょうが…。

このあたりに、曹叡という人物の思考のあり方がうかがえるようです。聡明な曹叡ではありますが、このような癖のある
人材を生かせなかったという点はややマイナスですね。

続きます。

260 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:16:55 ID:???0
続き。

とはいえ、曹叡は決して凡君・暗君の類ではありません。前述の、愛娘への過剰な哀惜も、国政の運営が大きな過失なく
行われているがゆえの余裕ともいえるわけです。

一方、魏人の目の届かない海上では…密かに、南に向かう船団の姿が。それは、呉に向かう、遼東の使節。彼らは、主・
公孫淵が呉へ臣従する旨を伝えに来たのです。
これを聞いた孫権の喜びようは相当なもので、直ちに大規模な使節団の派遣を決めます(先の夷州・亶州探索の時と同様、
「兵一万」。しかも今回は閣僚級の執金吾まで付きます)。
しかし、群臣達は公孫淵の真意を疑い、こぞって諫言を呈します。公孫淵が信用に値するかも分からないのに…と思えば
当然のことでしょう。それに、先の探索には「人狩り」説もあるように、呉は人口不足気味。そんな中で貴重な兵を一万
も付けるのは…。
しかし、孫権はこれを強行します。何故か。それは、呉・蜀漢・遼東の三方から魏を攻め、疲弊を誘うくらいしか、近い
うちに魏に勝つ方策がないではないか、という孫権独自の考えに基づくものでした。
十九歳で兄の跡を継いだ孫権も、既に五十を過ぎました。曹操・劉備はともに六十代で世を去ったことを思えば、残され
た時間は少なく、しかも彼我の力の差は縮まるどころか開く一方。何か起死回生の一手がないか、と模索する中、突如と
して訪れた好機、と捉えるのも無理からぬところでしょう。
しかし、「自分の発想は(周瑜・魯粛の如き)非凡な臣下にしか分からぬし、実行し得ない」と思っているのだとしたら、
それは奢り。非凡な臣下がいないと思うのであれば、そのままの形で(自分の発想を)実現させるのは不可能だという単
純な真理が見えていないのです。

続きます。

261 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:18:12 ID:???0
続き。

ともあれ、呉の使節団は出港しました。時は春。孫権は上機嫌で送り出しました。その末路がいかなるものになるかも
知らずに。
往路は、まずは無難に進み、無事、遼東に到着しました。しかし、どこか様子が変です。呉に臣従するという割には、
遼東側に謙譲の姿勢が見られないのです。
(呉に臣従する以上、呉の使者の下に立つべき、と言われた公孫淵が)「困ったな。われは人をみあげたことがない」。
と言うあたり、使者を派遣した意図が何なのかさえ分からなくなります。
これには、呉側も疑心を抱き、兵の数を恃んで…と思っていると…「これが、彼らのさいごの夜となった」のです。

…呉も、遼東も、互いに相手を利用することしか考えていなかったということでしょうか。
劉曄の最期のところで、「巧詐は拙誠に如かず」という言葉が出てきました。劉曄については、そう言うのはいささか
酷ではないか、と書かれていましたが、彼らはどうなのでしょうか。
以前の回で、孫権は、諸葛亮の誠実さを賞賛していますが、自身はそのようにはできません。難しいものです。

262 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:44:15 ID:???0
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「張昭」。呉の重鎮・張昭の最後の見せ場(?)があります。

まずは、前回の続きから。正使・張弥の命をうけ、津に残る軍勢への連絡を託された健脚の二人。普通なら、何とか目的を
果たすところですが…ここでは、あっけなく討たれました。
張弥達が気付いた時には、時既に遅し。自らを縛って投降した一部の兵士を除き、ことごとく倒され、首をとられます。

…公孫淵は、はなから、呉に臣従する気はありませんでした。呉が送ってきた使節団と軍勢の人数の規模はいささか想定外
だったとはいえ、その殲滅計画には抜かりはありません。
津に残る軍勢も、警戒はしていましたが、馬の買い付けという役目もある以上、馬市が立つと無視することもできません。
同行してきた商人達を下ろすと…やはり、罠でした。
商人達も飛矢に倒され、将の賀達をはじめ、その殆どが戦死します。生き残れたのは、辛くも津を脱出できたごく一部の者
のみ。

孫権のもくろみは、完全に潰えたのです。先の探索でも、一万の兵の多くは病に倒れ亡くなったといいますから、短期間に
約二万もの兵を失ってしまったのです。
孫権の怒りは凄まじく、復讐戦を行うことは確実と思われました。季節は冬。群臣の気も沈みがちです。
ここで、諫言を呈する者が現れます。薛綜です。

続きます。

263 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:46:21 ID:???0
おっと…今回は4月です。コピペの修正を忘れてました。

続き。

宮城谷作品のファンであれば、「薛」という字に覚えがあるはずです。そう、孟嘗君・田文の領地です。田文の死後、後継者
争いがあり国は滅ぼされましたが、その一族まで消滅したわけではありません。
時が下り、高祖・劉邦が天下を取ったとき、その子孫という兄弟に領地を授けるということになったのですが、二人は互いに
譲り合い、やがて逃げ落ちます。二人は、劉邦への批判者となり、田氏あらため薛氏を名乗るようになります。
薛綜はその子孫の一人です。
 「草原の風」では、陰麗華が管仲の子孫と描かれていましたが、こうしてみると、「○○の末裔」というのは、辿ればある
 ものです。
さて、この薛綜、実はこの少し前まで、孫権の二男・孫慮に付けらていました。若年ながらできのよい孫慮は、幕府を開き、
ある程度の独立した権限を与えられるほどになっていましたが、若くして亡くなったため、中央に戻されていたのです。
 即位後の孫権、どうも運に見放されていますね。夷州・亶州の探索、遼東への使節団は自らの失策ですが、できのよい息子
 に先立たれるというのは、掛け値なしに悲運です。
 孫氏一族のうち、ただ彼のみが長寿に恵まれたのは、果たして幸せなのかどうか。
ともあれ、薛綜の理路整然とした諫言を受け、孫権は、無謀な復讐戦を思いとどまります。

続きます。

264 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:47:14 ID:???0
続き。

諫言自体は、薛綜以外にも、陸遜等、数え切れないほど為されましたが、ひとり、肝心な人物の名がありません、張昭です。
自己嫌悪に陥っている孫権、これにかっときたのか、張昭の屋敷の門外に土を盛ります。「出てくるな」というわけです。
これをみた張昭も負けてはいません。「あの愚かな天子は、このように正言を吐く臣下の口を閉じさせたのだ」と、こちら
は門内に土を盛ります。絶対に自らは出ないという意思表示です。
孫権の方が謝り、土を除けますが、内側からの土に阻まれます。意地の張り合いは張昭の方に軍配が上がりました。という
か、ここにきて、孫権は、張昭の存在の大きさを思い知らされたのです。
既に、呉という国の基礎は固まっています。以前であれば常識を超えた臣下が必要でしたが、今や、常識を踏み外さない臣
下こそが必要なのです。張昭は、そのために欠かせない人物でした。
ここは、後難を恐れた息子達が張昭を連れ出したことで和解が成立。内心はともあれ、二人の関係は修復されました。
それを示すのは、彼への諡。「文」という、最高の諡号が授けられたのです。

続きます。

265 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:47:45 ID:???0
続き。

ここで、曹丕の名が。父・曹操に「武」という諡号を付けたわけですが、事績を、そして、生前の曹操の言動を鑑みれば、
「文」と付けるべきではなかったか。この点からも、徳が薄いと言われています。

さて、呉の使節団を殲滅し、正使・副使らの首を魏に差し出した公孫淵ですが、使者の復命に疑心暗鬼を生じ、魏の使者に
対し、過剰な警戒を示しました。
このことが、魏への心証を大いに悪くしたわけですが…さて、どうなることやら。

266 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:52:17 ID:???0
三国志(2010年05月)

今回のタイトルは「流馬」。いよいよ西暦234年。魏と蜀漢との一大決戦の時が近づきつつあります。

…とその前に。この年、山陽公、すなわち後漢最後の皇帝であった献帝・劉協が逝去しました。既に、曹丕の時に、どの
ような礼をもってするか決められていたようで、粛々と葬礼が執り行われました。後嗣は嫡孫。劉協の享年が五十四です
から、成人していたかどうかは分かりませんが…ともあれ、山陽公の家は、この後も続きます。

この何回かは、主に遼東情勢が書かれていましたが、この間、蜀漢はどうしていたかというと…ひたすら力を蓄えること
に専念していたようです。過去の出師は、その多くが兵糧不足のために撤退に追い込まれたことから、三年がかりで充分
な備蓄が為されました。
その一方で、諸葛亮自ら兵の訓練に当たります。第一回の出師の時からすると、将兵とも、見違えるほどの成長を遂げた
のです。
第一回の出師の時点では凡将だった諸葛亮が、今回は、将兵を手足の如く動かせる名将と呼ばれるほどになっています。
そして、その成長は、単に自身の能力だけではありません。人材を使うことにも目が向くようになっているのです。

この頃、劉冑なる人物が叛乱を起こします。これまでなら諸葛亮自ら赴くことも考えられたところですが、このことを
知った諸葛亮は、馬忠を遣わすこととしました。
馬忠、字は徳信。もとの姓名は狐篤(狐は母方の姓)。姓名とも変わったという珍しい経歴を持つ人物です。

267 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:53:32 ID:???0
続き。
馬忠が中央に知られたのは、上司の閻芝の命を受け、兵五千を率いて劉備の救援に赴いた時のこと。この時劉備は、黄
権を失ってしまったが狐篤を得たと喜んだといいます(ところで、閻芝はどうだったんでしょう)。
行政官としては叛乱が鎮定されてほどない郡をみごとに治め、将としてもそつのない馬忠は、まさに文武兼備。諸葛亮
にも気に入られ、文武の職を歴任します。

人材の重要性を感じる諸葛亮。それは、馬忠にも当てはまります。この時、馬忠の配下にいたのが、張嶷。若かりし時
の話から、胆力があり武勇に秀でたことがうかがえますが、その軍事的才能には目を見張るものがあります。
別の叛乱の際には、馬忠をして「われがゆくまでもない」と丸投げされてみごと鎮定に成功します。
こうしてみると、蜀漢にも、それなりに人材が出てきていることがうかがえます。戦う体制が整い、魏に勝てるという
確信がある。物語的には、盛り上がる展開です。

いわば満を持した状態で蜀漢が動き始めたことを知った曹叡は、珍しく不安を覚えます。明らかに、これまでと異なる
動きを見せている蜀漢。こたびの戦いの重要性は、双方とも理解しています。
曹叡は、司馬懿に迎撃を命じますが、「急がずともよい」と付け加えます。

268 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:54:26 ID:???0
続き。
当然、司馬懿もそのあたりのことは承知しています。次は充分な兵糧を準備してから動くだろうから…三年ほど後だな、
という見立てはおおむね的中しました。ただ、この間に魏がしたことは、迎撃体制の構築でした。
蜀漢が動くのに応じて…ですから、どうしても受身の形になります。

戦いに赴く司馬懿の目に、鳥の群れが映ります。「往時、鳥は天帝の使いであったな」。この鳥達は何を意味している
のでしょうか。それは、まだ分かりません。

互いに経験を積んできた諸葛亮と司馬懿は、戦い方もものの考え方もよく似ていますが、一つ異なる点があります。
「同じ将のもとで兵が成長するか」ということです。
諸葛亮の率いる兵は、街停の頃が幼児なら今は成人というほどに成長しています(例として挙げられているのが呉起や
白起。史上有数の名将の名がここで挙げられています)。一方、司馬懿にはそのような意識はありません。
ただ、そのような例があることは理解しています。
呉の兵は、周瑜が生きていた頃より弱い(策に頼りすぎているため策を破られると弱い)のではないか。蜀漢の兵は、
そのようなことはあるまい。司馬懿にとっても、こたびの戦いの持つ意味は重いのです。

269 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:55:06 ID:???0
続き。
蜀漢の軍勢が停止します。これは、野戦で魏との決戦をしようということか。何のひねりもないだけに、かえってその
意図が読めません。
魏の諸将は、打って出ない蜀漢を嘲笑しますが、この沈黙の故、様々な思索が巡らされます。

ついに、魏軍が動きました。郭淮を北に派遣し万一の事態(西方との交通の遮断)に備えたのです。
この時―蜀漢も動きました。北の郭淮に攻撃を仕掛けたかと思うと、返す刀で東に陣取る司馬懿にも攻めかかってきた
のです。
みごとな速攻でしたが、戦況は一進一退となります。ここにきて、魏延がサボタージュをしたためです。
かねがね諸葛亮の指揮に不満を抱いていたとはいえ、なぜ、このような大一番で…。

諸葛亮も一度は激怒しますが、そうはいっても魏延の力なくして勝利はない。というわけかどうかは分かりませんが、
この時、先の天子―献帝―の崩御を諸将に告げます。今や、我らのみが正義の軍である、と。
もちろん、魏延もがぜん張り切ります。
しかし、そんな魏延に露骨な嫌悪感を向ける人物がいました。楊儀です。
諸葛亮の信奉者である彼は、勝手な言動がみられる魏延を罵倒します。一方、諸葛亮は、周公旦の故事から、忠臣の
哀しさを語ります。
大勝負のこの時にこのような話が出るあたり、蜀漢の不安材料なわけですが…。

270 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:35:03 ID:???0
三国志(2010年06月)

今回のタイトルは「満寵」。西で諸葛亮と司馬懿との一大決戦が続く一方、東でも動きがあります。

万全の態勢をもって決戦に臨んだ諸葛亮。魏延のやる気がいまいちなのが気になりますが、将兵の練度、士気、兵糧…
どれをとっても負ける要素は見当たらないと確信を持っています。
司馬懿が防戦態勢に入りましたが、最善ではないとはいえ長期戦も望むところ。必ず、魏の方に破綻が生じると余裕を
みせます。

そんな中、呉が動き出したとの報告が。一応、呉にも魏への攻撃を要請していたのですが、さしたる驚きもありません。
はなから呉の戦果など期待していないのです。人をあてにすると(公孫淵をあてにした呉のように)失敗する。そう思う
諸葛亮は、今は亡き劉備との出会いを振り返ります。
布衣に過ぎなかったおのれを丞相にまでしてくれた劉備。その劉備もまた一平民から興った。無から有を為した奇蹟。
「われは奇蹟の立会人であったのか」
現実主義者である諸葛亮にも、感傷的になることがあるのです。

一方、魏との戦いに臨むことになった孫権ですが、どうも気乗りがしない様子。蜀漢が兵糧の備蓄に努めた三年間、呉は
というと、いたずらに兵力と兵糧を空費(夷州・亶州の探索、公孫淵への使者の派遣は、いずれも一万の軍勢を数ヶ月に
わたって運用し、その大半を喪失)していたため、軍を動かすゆとりがなかったのです。
まさに秕政。孫権もその失敗は自覚しているため、蜀漢からの要請に対しても、すぐに兵を出すと言えませんでした。

続きます。

271 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:35:33 ID:???0
続き。
情けない。そう思う孫権ですが、問題はそれだけではありません。どうしても合肥を落とす策が見当たらないのです。
満寵がいまだに南に睨みをきかせている以上、彼に勝たねばならないわけですが、その満寵、いまだ衰えをみせません。

満寵さえいなければ…。孫権以外にもそう思う者はおり、一度は都に召還されます。佳酒を振る舞われますが、大量に
飲んでもその挙止に乱れはなく、衰え無しと判断され、引き続き任にあたることになります(疲れを覚えた満寵が何度
も転任願を出しても、余人をもって代え難しということで、皇帝直々に慰留されます)。
そのため孫権は、十万と号する大軍をもって、かつ、三方から魏領内に侵攻するという、大がかりな作戦を決行します
(孫権自身が合肥を攻める軍勢を率います)。
この軍の運用自体はなかなかのものでしたが、何せ相手は百戦錬磨の満寵です。読まれている…どころか、これを逆手
にとって孫権を殺せないか、と奇策(兵力の少ない合肥新城をあえて放棄してさらに侵攻させ挟撃する)を考える余裕
さえあります。
さすがにこれは危険すぎるとして却下されましたが、単に孫権を撃退するだけならそんな策を使うまでもない、という
わけですから、戦う前から、呉は劣勢におかれていると言えます。
この時、少なからぬ魏の将兵が休暇中だったので、兵力的な差はかなりのものがあったのですが…。
続きます。

272 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:36:48 ID:???0
続き。
合肥新城、と書きましたが、この城は、満寵自身の献策によって移転したもの。当然、容易には落とせません(だから
こそ、あえてそれを放棄するという奇策に対して、曹叡は危険すぎるという判断をしたわけです)。
それゆえ、孫権は大型の攻城兵器を用意させますが、完成までには時間がかかります。そこを、満寵に付け込まれます。
われは張遼将軍には及ばぬが…などと謙遜しつつも、少数の手勢を用いての夜襲はみごと成功。攻城兵器は焼け落ち、
さらに孫権の甥・孫泰をも倒します。
…正直、皇帝の甥がこんな形で戦死というのは、予想外でした。

孫権の怒りは凄まじく、苛烈な攻撃が続きますが、満寵、そして合肥新城の守将・張頴は冷静にこれに対処。そうこう
しているうちに曹叡自らが親征を行うとの知らせが入り、さらにそれを裏付ける魏兵(実は先遣隊)の登場に、孫権の
戦意はすっかり喪失。結局、戦果を挙げることなく軍を退くこととなりました。
仏教の庇護者でもある孫権には、独特の諦観とでもいうべきものがあるようです。

西部戦線は司馬懿に任せておけば問題ない。孫権の遠征も、曹叡にしばしの休息を与えただけに終わったと言えるよう
です。孫権の軍事的センスのなさも、ここまで来ると相当なもの。満寵は、孫権を殺す機会を失ったのではないか、と
残念がっていますが、案外、これで良かったのかも(ここで孫権が亡くなった場合、孫登がすみやかに帝位を継承した
はずですから、後のごたごたもなかったのかも)知れません。
ただ、陸遜・諸葛瑾の軍は、この時点では孫権の撤退を知りません。さて、どうなる…?

273 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:45:51 ID:???0
三国志(2010年07月)

今回のタイトルは「秋風」。ついに、その時が来ました。

まずは、孫権による合肥攻略が失敗したところの続きから。中軍を率いる孫権がさっさと撤退してしまったため、東軍・
西軍もまた、撤退を余儀なくされます(最も大きい中軍が真っ先に撤退してしまっては戦略も何もありません)。
東軍を率いる孫韶は、齢十七でおじの後を継ぎ、長年にわたって国境地帯を守り抜いてきた名将。彼我の力を正しく把握
し、そつのない戦いのできる人物ですが、ここでは特に見せ場はありません。
一方、西軍は、当代屈指の名将・陸遜が率いているだけあって敵中深く侵入することに成功していましたが、これがあだ
となり、孤立状態に陥ります。
とはいえ、主将の陸遜も、副将の諸葛瑾も、取り乱すことはありません。おのが知略への自信と、学問によって培われた
胆力が、冷静な判断力を保たせているのです。ここで慌てて撤退すれば、それこそ敵の思うつぼになるということは承知
しています。ここは、策をもって粛々と撤退すべし。
陸遜が攻めかかるとみせて魏軍に迎撃態勢をとらせると、諸葛瑾が動かしていた軍船に素早く上船。攻撃がなかったこと
にほっとした魏軍は追撃態勢に入るのが遅れたため、難なく撤退に成功します。
見せ場はなかったとはいえ、大きな損害もなく撤退に成功したわけですが、陸遜には満たされないものが残ります。軍功
が挙げられなかったことに物足りなさを感じること自体は分かるのですが…。

続きます。

274 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:46:52 ID:???0
続き。
長江を下る陸遜は、突如、狩りをしようと言いだします。しかし、まだ呉領内には入っていません。何を狩るというの
でしょうか。
…狩りというのは、魏領である江夏の諸県を襲撃することでした。特に石陽のそれは、城外に市が立って賑わっていた
ため、多くの庶民を巻き込む惨いものとなりました。
結果、少なからぬ数の捕虜を得ましたし、襲撃後の慰撫もあって投降する者も出たことから、一定の戦果を挙げたとは
いえるのですが…後世の史家たる裴松之は、これを悪行であると批判します。
 個人的には、裴松之の批判に同意。天下統一を掲げる勢力が同じ天下に属する非戦闘員を虐殺するのは、非道の行い
 としか言いようがありません。戦略的にもこれといった意義がないだけに、擁護の余地もありません。
 とはいえ、このことと後の悲劇との関連性は、いわゆる春秋の筆法以上のものではないでしょうね。孫権自身、こう
 いう行いに倫理的嫌悪感を覚えるということもなさそうですし。
一方、諸葛亮は、そのようなことはしなかったようです。将帥としての力量は陸遜に劣りますが、為政者としての格は
明らかに諸葛亮が勝ります。

続きます。

275 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:48:02 ID:???0
続き。
諸葛亮と司馬懿の決戦は、完全に膠着状態。互いに負けない自信はありますが、うかつには動けません。蜀漢の全権を
握る諸葛亮はいくらでも待てますが、司馬懿はどうなのでしょうか。
…こちらも、いくらでも待てる状態でした。皇帝・曹叡自身が、決戦を急ぐ必要はないと判断していたからです。また、
使者として派遣された辛毗も、的確な戦略眼を持った人物ですから、ここは動くべきではない、ということを認識して
います。
諸葛亮が司馬懿に巾幗を贈り、司馬懿がこれに激昂したというのも、将兵の士気を保つため以上のものではありません。
そんなこんなで数ヶ月が経過したのですが、秋、八月。諸葛亮が体調を崩します。

食欲不振から始まって粥くらいしか食べられなくなり、やがて病臥。余りにも早い症状の悪化は、スキルス胃癌あたり
を思わせますが、詳細は分かりません。
丞相病む。この急報が成都にもたらされると、宮中は震撼します。特に皇帝・劉禅の取り乱しようは相当なものがあり、
直ちに李福が見舞の使者として遣わされます。
全権を握る丞相・諸葛亮を失ったら、蜀漢はどうなるのか。即位以来、ずっと政務を任せきりにしていた劉禅には為す
すべがありません。曹叡と劉禅。年齢的には近い二人ですが、その力量は天地ほども異なります。

続きます。

276 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:49:11 ID:???0
続き。
丞相が重体に陥るまで、側近どもは何をしていたのか。丞相はまだ五十四歳。まだ二十年は働いていただかねばならぬ
というに…。軽い不快の念を抱く李福と面会した諸葛亮は、つとめて気丈に振る舞います。
体調は悪そうだが…と思いつついったん帰路についた李福ですが、側近たちの暗い表情を思いだし、直ちに取って返し
ました。丞相が再起できない、となると…
「どなたに後を継がせますか」
眼前にいる諸葛亮の死後のことを問わねばなりません。さまざまな職務をそつなくこなしてきた李福ですが、この勤め
は、その生涯で最も重要で、かつ辛いものとなったでしょう。
「公琰(蒋琬)がよい」
「その後は…」
「文偉(費禕)」
後事を託せる偉材が二人もいると喜ぶべきか、二人しかいないと悲しむべきか。ともあれ、諸葛亮に勝る者はいないの
です。

そして…

277 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:44:51 ID:???0
三国志(2010年08月)


今回のタイトルは「孔明」。そのものずばり、の回です。

蜀漢の建興十二(西暦234)年八月。陣中に星が落ち…諸葛亮が薨じました。享年五十四。前回、体調を崩したのが
八月とありましたから、諸葛亮を襲った病魔は、顕在化してから一月足らずで彼を死に至らしめたことになります。
ただ、諸葛亮が何日に亡くなったかは、分からないようです。記録が不十分なこともありますし、全権を掌握する丞相
の死は蜀漢の最高機密でもありますので、それを知る者は、この時蜀漢の陣中にあった数名のみ。

その一人・費禕は、あらためて丞相・諸葛亮の仕事ぶりを振り返ります。常に細やかな目配りを怠らなかったその姿は、
まさに為政者の見本と言うべきもの(ただし、必然的に命を削るような激務が伴います)。
軍事においてもそれは当てはまり、蜀漢の軍紀は厳格そのもの。敵地の住民とも信頼関係を築くなど、王者の軍と言う
べきものにまで鍛え上げました。
ただ、それゆえ、奇策はなく、決定的な勝利も得られなかったというジレンマが。緒戦での失敗がここまで響いたこと
は否めません。
 「細やかな〜」とくると、蒼天での劉馥が想い起こされます。諸葛亮は、どこで、このような政治姿勢を培ったので
 しょうか。何かで「最も成功した法家」と言われていましたが…。

続きます。

278 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:45:51 ID:???0
続き。

遺命により、撤退することは決定しています。楊儀が指揮を執り、費禕・姜維が補佐します。後拒は魏延。能力的には
何の問題もない面々ですが、それ以外のことで問題があります。
「楊儀と仲の悪く、かつ、戦意旺盛な魏延が、楊儀の指揮下で撤退することに同意するか」ということです。
ここは、楊儀・魏延の両者とまずまずの関係を築いている費禕が、魏延に、諸葛亮の遺命を説明することになります。

費禕はかなり有能な人物ですが、寛容な(脇が甘いとも言える)ところがあるため、魏延に対しても、悪感情は持って
いません(緒戦が〜と言っていることから、魏延の策に理があったことを認めていることが伺えます)。
ですが、この使命は、色々な意味で気の重いものとなりました。
丞相・諸葛亮を喪ったとはいえ、ここまでの戦況は、決して悪いものではありません。このような状況下では、楊儀と
の仲が〜という以前に、一戦を望む魏延を説得することは、かなり難しいのです。
 実際、純軍事的な視点からみると、ここで慌てて撤退すると壊滅的な被害を受ける恐れもあります。むしろ、異変を
 悟られないうちに一撃くれてやった方が効果があったかも知れません。
魏延は歴戦の武人。緒戦において長安急襲を提案したように戦術的・戦略的視野もそれなりに持っています。一戦する
ことの意義を説かれると、その威厳とあいまって、説き伏せられる恐れがあるのです。

続きます。

279 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:46:47 ID:???0
続き。

はたして、恐れていた通りの展開に。たとえ魏延の威厳に気圧されたためとはいえ、費禕は、魏延が魏軍と一戦する
ことに同意してしまったのです。
直ちに本陣に戻り、証拠となる文書は破棄したものの、署名したという事実は厳然としてあります。
こうなると、事は急を要します。本来であれば、異変を悟られないよう、粛々と撤退を開始するところですが、諸葛
亮の死を伏せたまま、直ちに撤退を開始せねばならないのです。
本陣の異変に魏延も気付き、楊儀の退路を塞ごうとします。楊儀が指揮する本隊は、前後に敵がいる形になりました。

一方、蜀漢の軍勢が撤退したことに気付いた魏軍は、その本陣跡を検分し、(楊儀が慌てて撤退したために処分でき
なかった)兵糧や文書を発見します。
司馬懿は、それらの文書から垣間見える諸葛亮の行政能力をみて、「天下の奇才」と感嘆するとともに、その死を確
信します。
今、追撃すれば勝てる。司馬懿ならずとも、そう判断することでしょう。

続きます。

280 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:48:00 ID:???0
続き。

魏軍は追撃を開始します(ただし、辛毗は、まだ諸葛亮の死に半信半疑ということもあってか追撃には慎重)。途中、
はまびしを踏んだ将兵が痛がるので簡易な下駄を履いた兵を先頭に立てるという奇観もありますが、このまま蜀の地に
入りそうな勢いを示します。

魏延と魏軍に挟まれた格好になる楊儀は半狂乱。しかし、まずは丞相の棺を守らねばなりません。姜維に叱咤されて我
にかえった楊儀は、魏軍を迎撃。みごと撃退します。
もっとも、狭隘な場所での衝突でしたから、魏軍の損害自体は大したことはありません。最終的に魏軍が撤退したのは、
辛毗の指摘によるものでした。
 陛下が長安まで来ておられるのであれば蜀の地に踏み入ってもよかろうが、いま陛下は南方におられる。陛下に良い
 ことも悪いことも言上できる者は、ここから遠くにいるということよ。
曹叡自身は優秀な部類の帝王ですが、無謬の存在ではあり得ません。その近くに、司馬懿に悪意を持つ者がいれば…。
こういうことも考えながら身を処する必要がある、ということです。
このような指摘をしてみせるあたり、辛毗は、司馬懿に悪意は持っていないようです。

これで、後ろの敵は心配しなくてもよくなりました。後は、魏延をどうするか、です。

続きます。

281 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:48:51 ID:???0
続き。

無論、魏延とて蜀漢への忠誠は持ち合わせています。我が討たんとするは楊儀のみ。これは謀反にあらず。そのような
文言の文書を都へ送り、自身の正当性を訴えます。
しかし…軍事的観点からはともかく、政治的観点においては、丞相の後継人事という問題もある以上、戦闘続行はあり
えないことから、都にいる蒋琬達は、楊儀側が正しい(諸葛亮の遺命に従っている)と判断します。
よって、楊儀側に、王平率いる援軍が送られることとなります。
王平の一喝により、魏延の軍勢は崩壊。楊儀はともかく、蜀漢において諸葛亮に背くということはできないのです。
再起を図った魏延ですが、追撃してきた馬岱に斬られ、あえない最期を遂げます。

諸葛亮は魏延を持てあました。そこに諸葛亮の限界があったといえるのですが、前述の姜維や王平達の奮闘にみられる
ように、諸葛亮に見出され評価された恩義に報いようとする者達がいたこともまた事実。
その芳名は、時代を超え、国を超え、はては海を越え…。

さて、無事撤退に成功した楊儀ですが、どうやら重大な勘違いをしている模様。はて…。

蛇足:「三国志」の方はまだまだ続くとはいえ、一つの山場が過ぎた感がありますが、「湖底の城」は、そろそろ新展開
   がありそうな終わり方でした。

282 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:18:31 ID:???0
三国志(2010年09月)


今回のタイトルは「増築」。星落秋風五丈原の次の回にしては…と思うタイトルですが、ちゃんと意味があります。

まずは、諸葛亮の死後の蜀漢の情勢が語られます。
職務怠慢を咎められて失脚した李平(李厳)は、これで自らの復権が無くなったと悟り、悲嘆の余り昏倒し、ほどなく
世を去ります。
暴言が咎められて失脚した廖立は、蜀漢の衰亡が遠くないことを思いつつ、配所で亡くなります。
彼らは、非常に癖が強いとはいえ、優秀な人材です。その彼らが、一度は対立した人物の死に対して、これほどまでに
嘆き悲しんだところに、諸葛亮という人物の器量が垣間見えます。

また、宮中においては、悲嘆とともに言い知れぬ不安が漂います。諸葛亮の存命中は、蜀漢の全権が彼の下に集中して
いたため、政務全般が一元的に、かつ円滑に動いていたわけですが、その根幹が崩れたわけですから、不安を抱くのも
当然でしょう。
何より、皇帝・劉禅自身がその不安の中に居ました。彼は、政務全般を諸葛亮に丸投げしていたわけですから、即位後
十年以上経過しているのも関わらず、政治は全くの素人。一歩間違えば、たちまち亡国の危機です。
ただ、救いは、諸葛亮の遺命が明確であったこと。蒋琬が尚書令となり、事実上の後継者として、以降の蜀漢の政務を
総攬することとなりました。遺命通りの人事なので、本来であれば全く問題ないはずなのですが…

続きます。

283 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:19:56 ID:???0
続き。
この人事に不満を抱く者がいました。楊儀です。

先の撤退戦の指揮をとり、我こそは…と自負していたのですが、ポスト諸葛亮体制における彼の地位は、いわば閑職。
占いの卦は、「今はしばし雌伏の時」といった感じなのですが、この現実を受け入れられず、不満の塊となります。
(一応軍師という肩書なので、平時にあっては〜ということだと思うのですが…)
その憤懣が、費禕が慰問に訪れた際、爆発します。

あの時…

これを聞いた費禕に戦慄が走ります。それは、謀反を疑われても仕方がない、というくらいの暴言。直ちに経緯が上表
されます(しかし、費禕はよくトラブルに巻き込まれますね)。
上表を読んだ劉禅は困惑します。喜怒哀楽の感情のうち怒が欠落しているとまで言われている劉禅ですから、怒声こそ
出しませんが、快いものではありませんし、何より、かような暴言を放置しては国家が成り立ちません。
結局、楊儀は解任され、配流されます。
ますます怒り狂った楊儀は、火を吐くような暴言を撒き散らし、ついに罪に問われることとなり、自害して果てます。

続きます。

284 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:21:49 ID:???0
続き。

楊儀の自滅は、実は、彼が嫌った魏延と同種のものでした。有能ではあれど、己の狭量のため、他者と協調できなかった
ことが、破滅につながったのです。
ともあれ、彼らのような人材を生かしきれなかった蜀漢には、衰退の兆しが…という具合です。

一方、魏の方ですが…諸葛亮の死に対して安堵感が漂います。
魏からみた蜀漢は、存亡にかかわるほどではないとはいえ、うっとうしい存在でした。ひとたび戦いとなると、数万の
大軍を数ヶ月にわたって貼り付けなければならず、しかも、目立った成果が上がらないのです。
諸葛亮の死によって、ひとまずそれがなくなったわけですから、安堵するのも無理からぬところ。
…そのせいかどうか分かりませんが、この頃、魏では重臣の他界が相次ぎます。結果として、司馬懿の存在感が増して
いくことになります。

蜀漢・呉とも、じり貧状態。聡明な曹叡にはそのことが手に取るように分かります。それに安心したか、宮殿の増築が
相次いで行われるようになります。楊阜などの諫言がありますが、こればかりは止まりません。
魏の国力を見せつける等の意味はあるとはいえ、ここまで増築に熱を挙げたのはなぜか。そこには、ある喪失からきた
所有欲があるのではないか、と。

続きます。

285 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:25:49 ID:???0
続き。

曹叡が喪失したもの。それは、母でした。そんな中、実母・甄氏の死について上奏する者が現れます(これが事実で
あれば、何者かの策謀があったということになります)。
「この皇帝は、男には優しいが女には厳しい」。甄氏の死によって皇后となり、あわせて曹叡の義母となった郭氏は、
曹叡をそう見ました。
その聡明さをもって曹丕に深く信頼された郭氏の見立ては正しかったのですが、それは、自身にも向けられることに
なろうとは…。

郭氏と曹叡の関係は、おおむね良好でした。しかし、この上奏があってから、曹叡が郭氏を見る目が変わってきます。
「我が母を殺したのはあなただ」
たとえ最終的な判断は曹丕が行ったとはいえ、郭氏がそう仕向けたのではないか。曹叡の、郭氏に対する言動から、
そんな黒い情念が漂ってくるようになりました。曹叡の憎悪に慄いた郭氏は倒れ、ほどなく亡くなります。

ただ、いざ郭氏が亡くなると、その憎悪もきれいさっぱりと無くなりました(追悼もきちんとしているし、郭氏の
一族は引き続き厚遇されている)。それが帝王の資質と言えばそうなのかも知れませんが…。

ともあれ、聡明な曹叡がみせた影の部分。これが魏にいかなる影響をもたらすのか。文章表現以上に含みが感じられる
ように思えます。

286 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:07:40 ID:???0
三国志(2010年10月)

今回のタイトルは「燕王」。遼東情勢が一気に緊迫してきました。

魏の元号は、青龍から景初に変わりました。この間、蜀漢・呉とも大きな動きはなく、曹叡は、宮殿の造営に専念…と
いう具合です。
まだ統一も為されていない(民の軍役等の負担は続いている)のに宮殿を壮麗にするのはいかがなものか、という諫言
はいくつも出ているのですが、曹叡はこれに対し、処罰はしないものの聞き入れもしません。
諫言に対し処罰することもあった曹丕に比べると、処罰がないだけましではあるのですが、やや独善の傾向が。

とりあえず、国境を脅かす勢力がないと見極めた曹叡は、ここで、遼東に目を向けます。先に、呉の使者を斬って首を
送ることで魏への忠誠を見せたとはいえ、その後の対応には問題があったし、何より、領内の半独立政権の存在は、魏
としては好ましいものではありません。いずれは滅ぼすべき存在である、とみます。

しかし、遼東は、魏にとって脅威というほどの存在ではありません。今は動きがないとはいえ、魏にとっては、蜀漢・
呉こそが脅威と考える諸臣にとっては、曹叡の判断は、いわば本末転倒。
またしても、多くの諫言があがってきます。

ここで、衛臻の名が。かつて曹操にいち早く協力の手を差し伸べた衛茲の子である彼は、曹氏三代に渡って貴臣として
遇された特別な人物です。その彼の諫言も、結局は受け入れられず、ついに、毌丘倹に(事実上の)公孫淵討伐の命が
下ります。

続きます。

287 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:08:33 ID:???0
続き。

毌丘倹は、この時点では幽州刺史。長く中央の官位を歴任した後でのこの人事は、一見左遷のように見えますが、実は
曹叡の信任は揺らいでいません。幽州刺史になったのは、いわば、公孫淵討伐の殊勲を挙げさせようとした配慮。
そのことが分かっているだけに、毌丘倹はがぜん張り切ります。

魏軍迫る。この知らせを聞いた公孫淵は煩悶します。この時点での遼東は、外交的にも孤立しており、勝ち目はまるで
ありません。しかし、ここで降ると、たとえ貴族として遇されるとしても、遼東の地から去らねばなりません。
父祖が守り抜いてきたこの地で斃れるか、この地を捨てて富貴を保つか…。
そして、ついに、戦うことを決断します。

魏の使者を取り逃がしたため、奇襲という手は使えません。魏軍と遼東軍は、真っ向から激突します。魏軍の弩の威力
は凄まじく、遼東の騎兵は次々に斃れますが、公孫淵は無心に戦い続け、戦況は膠着状態となりました。
ここは長期戦に持ち込むべし、とみた毌丘倹は、いったん退きます。しかし、ここから状況は好転することなく、つい
に撤退命令が出されます。
ここは、遼東が守り切りました。毌丘倹と公孫淵。今回の描かれ方をみると、ともにひとかどの将帥であると言えるの
ですが、どこか決め手に欠けるように見受けられます。

続きます。

288 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:09:10 ID:???0
続き。

何とか守り切った公孫淵。しかし、これで安心というわけにはいきません。遠からず、次の出兵があることは間違い
ないからです。兵力も増えるだろうし、将帥も、さらに上級の人物が充てられることは確実。勝てる要素は皆無なの
です。
ここで、公孫淵は、必死の外交攻勢に出ます。その使者は、呉にも派遣されました。

呉に派遣された使者の名は伝わっていませんが、その勇気は讃えられて然るべきでしょう。なにしろ遼東は、ほんの
数年前に、呉の使者(及びその軍勢)を殺害したという前科があります。行けば殺されることは必至(それもかなり
残虐に殺される可能性大)。かといって、行かなければ、そして、行っても成果がない場合は、やはり殺されます。
とんでもない無茶振りですが…この使者は、この困難な使命をやり遂げました。
ただ、呉も、遼東を許したわけではありません。遼東は、もはや呉を欺く余裕もない。そう、見極められたがゆえの
対応でした。
兵を出すと言ったものの、それは、あわよくば遼東を征する為の兵。いずれにしても、遼東の命運は、風前の灯なの
です。

そして、曹叡は、翌年の再出兵を決めます。


追記。

実は、今回、呉は動いています。朱然に兵を授け、荊州を攻めさせたのです。叔父の朱治の養子となり、孫権の学友
でもあった朱然は、呉の貴臣。ここまで多くの手柄を挙げてきた彼に、孫権は、大手柄を挙げさせたいと思ったので
しょうが…ここでは、大敗を喫します(※ただし、朱然伝では勝ったように書かれている)。
関羽や曹真、張郃といった大物相手に、寡兵でよく戦ってきた朱然が、胡質(荊州刺史だし伝もあるので決して無名
ではないのですが、先に名の挙がった諸将に比べると地味)に敗れるというのも、不思議なものです。

289 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:34:35 ID:???0
今回のタイトルは「長雨」。この長雨が止んだ時、それが…。

今回は、魏の皇后達の話から始まります。曹操の正室・卞氏は大皇太后として天寿を全うしましたが、以降の皇后に
ついては、というと、悲劇的な末路を辿るケースが相次いでいます。
曹丕の皇后であった甄氏は死を賜り、その後皇后となった郭氏は、曹叡(からの心理的な圧力)によって崩じます。
多くの面において父に勝る曹叡ですが、こと皇后達への扱いについては、さらに性質が悪いようです。

曹叡は、まだ王だった頃に、虞氏という女性を娶りました。本来であれば、彼女がそのまま皇后になるはずでしたが、
そうなりませんでした。曹叡の寵愛は毛氏に移り、彼女が皇后に立てられたためです。
激怒した虞氏は、卞氏に罵詈雑言を投げつけ、宮中を去ります。夫の祖母であり、国母ともいうべき女性にそのよう
な暴言を吐くあたり、曹叡が嫌ったのも分かるのですが、彼女の言葉がまんざら的外れでもなかった、という結末に
なろうとは…。

皇后となった毛氏は、男子を産むことはありませんでしたが、その日々は概ね穏やかなものでした。一族も立身し、
栄華を享受していたのですが…ある頃から、急激に状況が変わってきました。
その原因は、やはり、他の女性でした。曹叡の寵愛は、郭氏に移っていたのです。毛氏は、必死に情報を集めようと
します。後宮の管理者でもある皇后には相当の権限があります。ですが、その権限は皇帝のそれには及びません。
毛氏の動きに不快感を感じた曹叡は、ある事件をきっかけに、毛氏を賜死させます。

続きます。

290 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:35:22 ID:???0
続き。

内においてはそのようなことがあり、また、築山を築くために大臣達に土を運ばせる(このことは董尋という人物に
強諌された)ということもありました。徐々にですが、曹叡という人物のマイナス面が顕在化しつつあります。

そんな中、ついに、遼東攻略が開始されます。将帥は司馬懿。地位といい、過去の戦歴といい、魏としてはこれ以上
ない人選です。このあたり、曹叡が本気であることがうかがえます。
出発にあたっての曹叡と司馬懿のやりとり一つみても、遼東攻略は、既に確実なものといえます(往還、戦闘、休息
を併せて一年と明言)。
既に絶体絶命の公孫淵。取り得る最善の策は「城を捨てて逃げる(その後、野にあって遊撃戦を展開する)」こと。
しかし、先に呉の使者を騙し討ちにした手口をみると、「損して得を取る」ことはできないであろう、と看破されて
います。次善の策は「遼水を挟み総力を挙げて迎撃する」こと。恐らくこの策を取ってくるだろうから…それを封じ
れば、下策「籠城すること」しか選択肢がなくなる、と司馬懿はみます。
遠征軍の司令官たる者はこうでなくてはならぬ。曹叡は、司馬懿の説明を満足げに聞きます。

いざ出発。戦地に赴く司馬懿は、ふと己のことを思います。今や軍の最高位たる大尉の任に就き、皇帝からは絶対の
信任を得ている。敵は弱小だが、その討滅は皇帝の宿願であり、それを為した暁にはこの上ない栄誉を得るであろう
…。今こそ至福のときではないか、と。
とはいえ、禍福はあざなえる縄の如しともいいます。将帥たる者は、最悪の事態をも常に考える必要があるのです。

続きます。

291 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:36:17 ID:???0
続き。

そんな予感のせいばかりでもないでしょうが、司馬懿は、途中(郷里の温県)まで弟と息子を同道させます。温県に
おいては、ひとときの休息をとり、旧交を温めます。この時、彼の胸裏には何が去来したのか。
再び司令官の顔に戻ると、軍は北に進みます。幽州に入ると、もうすぐ戦地です。

遼水の対岸には、予想通り、遼東の防衛ラインが構築されていました。守るは、公孫淵配下の将、楊祚と卑衍。もち
ろん、この程度のことは想定内です。
司馬懿は、胡遵に兵を授け、南から渡河させます。これに敵が釣られたところで、自身は北から渡河。時間差を利用
した、見事な運用です。

まず、敵に一撃くれてやりました。遼東の兵力は、その殆どがここに集まっているはず。なれば…。司馬懿に迷いは
ありません。堅固な防衛ラインには目もくれず、一路襄平を目指します。
楊祚と卑衍は、司馬懿の用兵に翻弄されます。二人には、ここで敵を防ぐという意識が強すぎたため、守るべきもの
の優先順位を誤ったのです。
楊祚が追撃を試みますが、これこそが司馬懿の狙い。あっけなく打ち破られます。二人が襄平に帰還した時には、既
に魏軍が迫っていました。

公孫淵は、この迎撃を卑衍に命じます。

292 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:37:00 ID:???0
続き。

もはや打つ手なし。今はただ戦うのみ。卑衍の決死の覚悟が兵にも伝わったか、この戦いは激戦となります。互いに
策もなく、ただただ死力を尽くした攻防が繰り広げられます。

「これが、遼東国の存亡の分かれ目だな」
となれば己の名は歴史に残る…。これぞ武人の本懐ということか。卑衍は微笑を浮かべます。持てる力の全てを出し
尽くした卑衍は、激戦の果てに、ついに斃れました。

司馬懿は、襄平を包囲します。しかし、ここで長雨に見舞われます。撤兵すべしという論が多数を占めますが、曹叡
と司馬懿には、ここは耐え忍ぶべきということが分かります。
物事には、時宜というものがあります。今こそ、遼東攻略のとき。決して退いてはならないのです。
およそ一月後。ついに雨がやみました。このとき、襄平の内部においては既に食料が尽きています。襄平に籠る公孫
淵に残された選択肢は…。

追記:
本作においては、ちょっとしか出ない武将にも、ちょこちょこと見せ場があります。今回は、卑衍。結果だけみると、
司馬懿の用兵に翻弄され続けて終わったわけですが、決死の覚悟で臨み、ついに斃れたその戦いぶりは、将としては
平凡だったにせよ、実に格好いいものでした。
それと、将帥としての司馬懿の成長ぶり。勝つべくして勝っている、としか言いようがありません。なぜ、今、ここ
で、このように動くのか。それらがきちんと論理的に語られているのが、実に読み応えがあります。

293 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:10:42 ID:???0
三国志(2010年10月)

今回のタイトルは「曹叡」。魏にとって、祝賀すべき年が一転…

いよいよ遼東国の最期の時が来ようとしています。
この時、襄平には多数の民がいました(数十万と書かれています)。彼らの全てが兵であれば司馬懿の軍勢より遙かに
多いのではありますが、大軍が良いとは限らないのは、本作でしばしば書かれるところ。実際、包囲が長引けば、食糧
の問題は避けては通れません。
ここではさらりと書かれるに留まりますが、襄平の内部で飢餓地獄が発生したことは言うまでもありません。

もはや勝ち目無しとみた楊祚が降り、城郭内に魏兵が入ると、公孫淵は、降伏の可能性を模索します。しかし、時既に
遅し。使者として派遣した相国達はあっさり斬られ、司馬懿の恫喝が(矢文で)送られます。慌てた公孫淵は、再度使
者を派遣しますが、これにより、司馬懿は公孫淵という人物が小人であると見切りました(そしてそれは、ひとり公孫
淵に留まらず、襄平の人々にとっても不運でした)。
なぜなら、先の恫喝には、まだ微かな寛容があったからです。そこには、このようなことが書かれていました。
「春秋の昔、鄭伯は楚子に敗れると、肉袒して降った。爵位が上の鄭伯でさえかような恭順を示したのである。いま、
われは上公であり、なんじは一太守に過ぎない。この使者は老いて耄碌していたのでなんじの言葉を誤って伝えたので
あろう」。
もし、公孫淵がかような態度をとって恭順の意を示していたなら、多少の救いがあったでしょう。しかし、それができる
人間であれば、そもそもかような事態には至らないのです。

続きます。

294 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:12:24 ID:???0
おっと、コピペミス。293の書き込みは三国志(2010年12月)です。

続き。

そんな中、星が落ちます。
「あのときは…」。諸葛亮が亡くなった時にもこのようなことがありました。星が落ちるということは、恒久的と思われて
いたものの消滅を意味するのです。ここでは、公孫淵がそうですが…。

城内にまで魏兵が入ると、公孫淵は子とともに脱出を図りますが、ほどなく捕捉され斬られました。ここにおいて、およそ
半世紀にわたって続いた遼東国は消滅しました(叔父の公孫恭は幽閉されていたところを救出される一方、兄の公孫晃は、
連座という形で妻子ともども自殺に追い込まれます)。
遼東国の消滅により、東方から中原へ至ることが可能になりました。このことを見越していたかのように、倭国からの使者
が来訪。いったい、どのようにしてこの情報を得たのか。歴史の不思議が、ここにあります。
※ここでは、倭国とだけ書かれており、「邪馬台国」「卑弥呼」という単語は出てきませんでした。はて…。

さて、首魁たる公孫淵を斬ったわけですが…まだ戦後処理が残っています。ここで司馬懿がまずしたことは…。今であれば
間違いなく虐殺とされることでした。
城内の男子を十五歳を境に分け、年長の者を皆殺しにし、京観(凱旋門の類)を築いたのです。数千人の屍で築かれた凱旋
門…何とも凄惨な光景です。
絶望的な戦いであったにも関わらず、目立った内通者が出なかったことを考えると、遼東国の内政は割合うまくいっていた
ようです。住民がそれを追慕することが無いよう、仕分けたのでしょうか。

続きます。

295 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:12:51 ID:???0
続き。

これ以外にも、遼東国の高官達も殺されています。しかし、それ以外については、概ね寛容をもって対応。年内にかたが
つきました。
その知らせは、洛陽にもたらされ、曹叡は絶賛します。たとえ小国とはいえ一国の併呑に成功した(これにより、少なく
とも父・曹丕の業績を超えた)わけですから、感慨もひとしおだったことでしょう。
前線に立った経験もないのに、優れた戦略眼を持つ曹叡(具体例として、西方の叛乱における郭淮の対応のまずさを的確
に指摘したことが挙げられています)。前回語られたようなマイナス面もあるとはいえ、間違いなく英邁な帝王である彼
であれば、天下統一もあながち夢ではなかったでしょう。しかし…。

十二月。曹叡は病の床に臥しました。月初めに床に臥し、月末には危篤状態に。諸葛亮もそうですが、一月足らずでこれ
ほど病状が悪化するとは、どのような病なのか。
ともかく、自身の死期を悟った曹叡は、後継体制の整備を急ぎます。
帝位は、養子の曹芳に。諸葛亮の如き者がいれば、その者に全権を委ねることもできますが、魏にはいません。さてどう
したものか。…曹叡は、信頼できると判断した者達による集団指導体制(叔父である燕王・曹宇が筆頭)を考えます。
夏候献(不明)、秦朗(曹操の側室・杜氏の連れ子)、曹爽(曹真の子)、曹肇(曹休の子)。いずれも、帝室に近い者
達です。王朝に対する忠誠心はあるとしても、果たして能力的にはどうか(特に秦朗)。それより…

続きます。

296 名前:左平(仮名):2011/01/07(金) 01:00:05 ID:???0
続き。

この人事によって発生する、宮廷内の権力構造の大変動が問題です。事実、この人事に危機感を持った者がいました。
長く皇帝の秘書官的な役割を果たしてきた、劉放・孫資です。
秦朗、曹肇の放言から、自分達を排除しようとする意図をかぎつけた二人は、曹叡に直訴し、詔勅を変更させることに
成功します。それに気付いた曹肇が再度詔勅を変更させますが、ここが勝負どころ、と見極めた劉放・孫資がふたたび
曹叡に訴えかけたことで、決着がつきました。
一日のうちに何回も詔勅が変わるということは、病で判断力が衰弱していることの表れでもあるのでしょうが、曹叡の
本心は、果たしてどのようなものだったのでしょうか。

ともあれ、これにより、上記の五名のうち曹爽以外は失脚。曹爽と司馬懿に、後事が託されることになるわけです。

洛陽に凱旋する中、次々に来訪する使者。そして、そのたびに詔勅の内容が変わる。司馬懿ならずとも、都での変事の
においに気付くことでしょう。急遽、予定を切り上げて、ひとり洛陽に急行します。
曹叡のいる宮殿に駆け込んだ司馬懿。臨終に間に合いました。
司馬懿に涙が。かつての諸葛亮も、このような感じだったのでしょうが、後のことを知っているだけに、複雑な感じが
します。

追記:
病に倒れた時点での曹叡の年齢は三十四歳。翌年(西暦239年)で三十五歳ですから、建安十(205)年生まれと
されています。

297 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:54:30 ID:???0
三国志(2011年01月)

今回のタイトルは「浮華」。三国鼎立となってから十年余り。そろそろ、緩みが出てきたということでしょうか…。

曹叡は、司馬懿を待っていましたかのように崩じました。司馬懿が到着し、彼に後事を託したその日のことです。
「死さえ忍べは引きのばすことができる。朕は君を待っていた」。帝王からこのように言われて感動しない臣下は
いないでしょう。しかし、司馬懿の胸中は複雑です。何しろ、自分とは親子ほども年の離れた若い帝王を送らねば
ならないのですから。
明帝と謚された曹叡は、なかなかの名君でした。戦場を踏まなかったにも関わらず優れた戦略眼を持ち、人材の任
用にも過ちが無く、何より、諫言した臣下を殺さない、優れた自制心の持ち主です。
しかし、自制された鬱屈は、やはりどこかで発散させねばならないのでしょうか。鬱屈を晴らすかのように宮殿の
造営に狂奔したことは、かつての秦始皇帝や前漢武帝に例えられ、批判的に論じられています。

ともあれ、魏は新たな時代に入ることになります。幼弱の新帝を補佐するのは、曹爽と司馬懿の両名。国家の柱石
を担うだけにその封邑も多く、この時曹爽に授けられた封邑は、建国の功臣たる夏候惇や曹仁に授けられたものの
数倍にのぼります。
小心な曹爽は、当初、独断を避け、何事も司馬懿に相談する等、謙譲の姿勢をとりました。司馬懿も謙譲の姿勢を
もって応じたので、まずは穏やかな雰囲気の中のスタートです。
しかし、両雄並び立たず、と言います。当然ながら、二頭体制はよろしくない、と考える者もいるわけです。

続きます。

298 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:55:28 ID:???0
続き。

そう思った丁謐は、曹爽に、その意見を開陳します。彼は、かつての曹操の幸臣・丁斐の子。物怖じしない態度と
読書で培った知識の故、沈毅とみられていた彼の意見には、なるほど一理あります。責任の所在が曖昧なままだと、
大事の際に、迅速な対応ができないということはあります。
もちろん、単に道理だけでなく、帝室たる曹氏一門の利害ということも考慮されています。いずれ、権力は一元化
されるでしょうが、それが司馬懿であったとしたら、彼は曹氏一門をどう扱うか。それに、群臣からの信望のある
司馬懿に大志があれば…。

その意見を容れた曹爽は、司馬懿を実験から遠ざけるよう、手を打ちます。もちろん、何の落ち度もない司馬懿を
降格させることはできませんから、実権のない名誉職に祭り上げるのです。これは、うまくいきました。
司馬懿も、これには何か含むところがあるということは察知しています。しかし、ここでは、特に何もしません。
曹爽とその周りに群がってきた者達を虫に例える嫡子・司馬師に、「なるほど…害虫だな」と言うところをみると、
不快感は持っているわけですが…。
既に齢六十を過ぎた司馬懿。歴史を巨視的にみると、正しい者が最後には勝利するとしても、それは決して容易な
ことではない。そういう、ある種の諦念がみられます。害虫の駆除は、若い司馬師がすべきことである、と。

続きます。

299 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:56:28 ID:???0
続き。

一方、実権を握った曹爽は、自らの体制作りに取りかかります。弟達を諸候にし、発言力を強化するとともに、賢
人と見込んだ者達を集めたのです。
彼らは、なるほど、なかなかの才覚の持ち主です。しかし、文帝・明帝からは「浮華」であるとして遠ざけられて
いたということを、曹爽は、どう思ったのでしょうか。
当初は独断を避けていたのが小心の故であったのなら、明帝の人材任用を見習えば良かったと思うのですが…。

一方、呉の方は、といいますと…。
位にあることが長くなると、緩みが生じる。学問を好んだ孫権は、そのことを知っています。それ故、厳しい政治
をしようと思うのですが、重臣の張昭・顧雍のどちらも、刑罰を緩めるよう説きます。
重臣達の意見を無下に拒むこともできないので、緩めはしたのですが、孫権には、物足りなさがありました。

そんな孫権の目にとまったのが、呂壱でした。相手の地位に関わらずびしびしと取り締まる彼のやり方を、孫権は
気に入り、側近として重用するようになります。
しかし、呂壱は、人には厳しくても己には甘い人間でした。皇帝の寵臣となったのを良いことに、恣意的な処罰を
するようになっていったのです。

続きます。

300 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:57:28 ID:???0
続き。

膂力に富み、謙虚な人となりを評価されて貴臣となった朱拠にもその毒牙は及びました。無実の罪で、彼の部下を
獄死させたのみならず、その部下を憐れんで手厚く葬ったことを、悪意を持って讒言したのです。

このままではいけない。都を離れ、任地にあって軍を統率する陸遜・潘濬は、強い危機感を抱きます。特に潘濬の
憤りには凄まじいものがあり、刺し違える覚悟を持って、都に赴きます。
潘濬は、もとは劉備配下。荊州が孫権の手に落ちた後、劉備への恩義から隠遁していたのを、孫権が礼節を以て迎
えたといういきさつがあり、人一倍、不正を憎む激しさを持った人物です。
心中、やましいものがある呂壱は、潘濬を恐れ、接触を避けました。実際、二人が対面することがあれば、潘濬は
呂壱を斬ろうとしたことでしょう。しかし、これが呂壱の命取りとなりました。

呂壱は、所詮は虎の威を借る狐に過ぎません。彼が皇帝の側にいないとなれば、これまで罪に落される恐怖から口
をつぐんでいた者も、その口を開きます。
そうして、孫権は、初めて己の誤りに気付かされました。これでは、秦の二世皇帝(胡亥)と同じではないか、と。
ほどなく、呂壱は処刑されました。

追記:
今回のタイトルの「浮華」について。作中でこの言葉が使われているのは、曹爽一派に対してなのですが、何と
言うか…それだけでもないように思えます。
呂壱の栄華と破滅。この原因は、明らかに孫権にあります。「(政に)緩みが生じる」というのは、何も刑罰に
限ったことではありません。事の正否を見分け、適切な賞罰が行われることが肝心なわけです。
孫権は、呂壱の、見た目の厳しさにすっかり騙されていたわけですから、正否をみる眼に曇りがあったことは否
めないでしょう。華やか…かどうかはともかく、孫権もまた、浮ついていたのではないでしょうか。
しかし、どちらも、この後のことを想うと…。

301 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:30:30 ID:???0
三国志(2011年02月)

今回のタイトルは「赤烏」。今回は殆どが呉の話ですが、何かもどかしいというか、すっきりしないものがあります。

呂壱の跋扈と失脚。これは、単に呂壱一人の問題なのでしょうか。呉の人々は、そうは思いませんでした。彼が台頭
し得たのは、不完全とはいえ、皇帝・孫権の本音を代弁していたからです。人々は、そこに、孫権の本性を垣間見て、
そして、失望しました。
そんな中、失望することなく己が職務を果たしていた人物として、歩騭の名が挙げられています。ゲーム等では文官
扱いされている彼ですが、その経歴は、なかなかに武張ったものがあります。

戦乱を避けて江南に渡った彼は、常に冷静沈着。生活苦から逃れるため、豪族の食客になろうとした際、いかに粗略
に扱われても立腹することはありませんでした。
やがて呉に仕官した彼に与えられた任務は、蒼梧太守・呉巨の説得。しかし、呉巨に帰順の意思なしとみるや、隙を
ついて斬るという大胆さも持ち合わせています。これを聞いた交州の士燮が帰順し、呉の勢力圏は一気に拡大します。
その後、呉が劉備と戦うことになった際には、荊州南部の鎮定に奔走します。
辺境での務めが長く、中央で腕を振るう機会は余りありませんでしたが、これらの務めを黙々とこなしてきたことが
評価されてか、やがて、軍事面では陸遜に次ぐ地位にまで登ります。

続きます。

302 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:31:51 ID:???0
続き。

このような履歴を持つ彼のことですから、当然、呂壱の重用について、しばしば諫言を行いました。呂壱を信任して
いた孫権は、当初、「あの歩騭まで讒をなすか…」と思うのですが、徐々に、呂壱への過度の信任に疑問を抱くよう
になります(決め手となったのは、前回書かれたとおり潘濬の諫言ですが、歩騭の諫言もなかなかに堪えたと思われ
ます)。

さて、呂壱の件について、孫権には、思うところがありました。呂壱のような悪人を重用したのは、なるほど、己の
落ち度である。しかし、それを諌める者が少なかったのではないか、と。
そこで、重臣達に、国政の諸事について聞いてみたのですが…その返答は、少々期待外れのものとなりました。とは
いえ、それは、重臣達が保身に走ったとかそういう次元の問題ではありません。彼らは、僭越ということを何よりも
恐れていたのです。それは儒教思想の故、とされていますが、政治においては、まっとうな考え方です。

儒教思想の信奉者ではない孫権は、なおも意見を求めるのですが、臣下からすると、我らの意見を聞かなかった陛下
があったではありませんか、と言いたかったでしょう。
ともあれ、兄の後を継いでから約四十年。今や皇帝となった孫権と臣下の間には、徐々にズレが生じています。

そんな様子を知ってか知らずか、太子の孫登は、自分が太子であるが故、狭い世界しか見えなくなりがちであること
に危惧を抱き、歩騭に教えを請うなど、謙虚な姿勢を保ちます。彼が健在である限り、呉の未来は安泰である。呉の
人々はそう思ったことでしょう。

続きます。

303 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:33:17 ID:???0
続き。

さて、そんな中、麒麟が見つかったという知らせがもたらされました。先に、「嘉禾」の発見をもって「嘉禾」と改
元したわけですが、今回は「麒麟」とはせず、自らも目撃した「赤烏」を元号としました。
麒麟が出るような太平の世でもないのに…ということのようですが、臣下の言葉に不信感を持っているような…。

さらに年月は経ち、ついに孫権は六十歳となりました。六十歳を「耳順」ともいいますが、ここでの孫権は、人の、
ではなく、己の心の声に耳を傾けました。「魏に勝ちたい」と。
この頃、魏は幼弱の皇帝(曹芳)と経験の浅い補佐(曹爽)が国の中心となっています。つまり、曹叡の頃に比べ、
隙が生じているわけです。
殷礼という者が、今こそ決戦の時、とばかりに奏上してきたのをみて、孫権は、魏への攻撃を決意します。

しかし、連年の出兵で国力は疲弊していますし、何より、孫権自身が、自ら兵を率いることに疲れています。その
ため、やや中途半端な出兵という感が否めません。
呉軍は、二方面から北上。一方は、皇帝の姻戚でもある全j。もう一方は、学友でもあり信任厚い朱然が率います。

この、朱然の北上が、当時、政治的には逼塞状態にあった司馬懿を救うことになるというのですが、はて…。

304 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:21:21 ID:???0
三国志(2011年03月)

今回のタイトルは「蔣琬」。蜀漢の話が出てくるのは、久しぶりですね。

タイトルは「蔣琬」ですが、まずは、前回の続きから。朱然を迎え撃つは、胡質と、蒲忠という将。まず、蒲忠が
突出したことから、戦況が動きます。
良将・胡質に比べ、将器に劣る(胡質との連携ができていない)蒲忠ですが、まず、要地をおさえるという基本は
できています。で、その先鋒が、何と、朱然の本隊と接触。
両軍とも「まさか、敵がここまで…」という場面でしたが、ここは、朱然の判断が勝りました。
退けば、やられる。覚悟を決めた朱然率いる呉軍の猛攻に、蒲忠の軍勢はガタガタに崩され、潰走。さすがの胡質
も、これでは打つ手がなく、撤退。呉軍は、樊城にまで迫ります。

この知らせを聞いた司馬懿は、直ちに出師を請います。その軍勢を率いるは、もちろん、司馬懿自身です。曹爽は
これを冷ややかにみましたが、彼ほど軽忽ではない弟の曹羲は、このことを、より深刻に捉えました(といっても、
魏の危機、としてではなく、自分たちの危機、としてですが)。
この当時にあって、魏第一の名将・司馬懿が出師を請う以上、勝利は確実。となれば、その名声はますます高まる
こともまた確実。それが、何を意味するか。曹羲には、それが分かるのです。

曹羲は、たとえ兄が魏の実権を掌握しているとはいえ、自分達が司馬懿に勝っているとは思っていません。何しろ、
(主に軍事的な)実績が違います。しかも、それだけではないのです。

続きます。

305 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0
続き。

「あれは、しくじった」

それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能
性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何
を隠そう、司馬懿なのです。
明帝は名君でしたが、宮殿造営に熱狂したのは明らかな失策。それが分かっていた司馬懿は、人夫達を帰郷させて
農事に従事させるべきと説き、それが容れられたのです。魏の人々がこれを喜んだのは言うまでもないでしょう。
曹爽は、なるほど実権を握りはしましたが、人心を得る絶好の機会を逸したのです。
このことを悔やんでいた曹羲は、今回の危機を挽回の好機と見ました。それゆえ、兄が出師すべきと説いたのです
が…曹爽は、これには乗りませんでした。ここで都を離れれば、司馬懿に実権を奪回される、と恐れたからです。

結局、廟議で結論を出そう、ということになりました。

廟議において、司馬懿は、現在の危機について熱弁を振るいます。かつて樊城は、魏最強の将であった曹忠候(曹
仁)が関羽と激戦を繰り広げた地であることからも分かるように、荊州の要衝です。ここを突破されるようなこと
があれば、都・洛陽にまで影響が及ぶ恐れがあるのです。
最初は、何も大傅(司馬懿)おん自らが出られなくても…という雰囲気でしたが、当時の状況を知る者の言葉には
説得力があります。結局、司馬懿自らが出師することに決しました。

続きます。

306 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:24:31 ID:???0
続き。

司馬懿が出てきた。このことは、当然、樊城を攻める朱然にも伝わりました。こうなると、朱然としては、両方に
備えなければならない分、心理的重圧がかかるようになります。呉軍の動きから、速さが消えました。
一方、司馬懿率いる魏軍は悠然としています。こう書くと長期戦(突出している朱然をゆるゆると困窮させる)か
と思われるでしょうが、実は、短期決戦。
というのは、朱然の後方には堅実な諸葛瑾がおり補給には不足しない(ゆえに、長期戦にしても困窮しない)ため。
ここで、司馬懿は、「声で呉軍を退かせてみようか」と言います。一体、どうやって。

「声」。それは、司馬懿の(蜀漢の総力を以て攻めてきた諸葛亮と渡り合い、公孫淵を屠った不敗の将という)名声
…だけではありません。
実は、両軍とも間諜が入っているため、将帥の命令は、ある程度敵軍に伝わっています。司馬懿は、これを利用した
のです。
ただでさえ、魏第一の名将が精鋭を率いてきているのに、さらに決死の士を募って奇襲をかけてくるかも知れない。
しかも、包囲しているとはいえ、樊城にもほぼ無傷の敵軍がいる。朱然の精神は、徐々に乱れてきます。

いつ来るか分からない奇襲に怯えるうち、呉軍は、戦わずして崩壊しました。朱然も、命からがら逃走するという
有様。司馬懿は、またしても大いなる武勲を挙げました。
一方、東の方でも、魏軍が勝利。王淩の猛攻の前に、全jの軍勢が敗走しました。
一方では策多き司馬懿が勝ち、一方では策のない王淩が勝つ。戦いとは、何とも不思議なものです。

この武勲により、司馬懿の名声はますます高まりましたが、それに奢れば破滅を招く、ということを知る司馬懿は
ますます謙譲の姿勢を見せるようになります。

続きます。

307 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:26:12 ID:???0
続き。

さて、話は変わって、蜀漢の方は、と言いますと…。

文字通り、国政の全てを司っていた丞相・諸葛亮亡き後を託されたのは、それまで目立たない存在だった蔣琬でした。
目立たなかったのは、彼が後方支援的な役割を担っていた(そして、その務めを大過なくこなしていた)からですが、
当初は、この人で大丈夫なのか、と不安視もされました。
偉大なる先人の諸葛亮と常に比較される(そして、劣るとみなされる)のですから、割に合わない務めです。しかし、
蔣琬は、そういった無言の重圧にもめげず、淡々と職務に精励し、徐々に人々の信頼を勝ち取りました。

そうして数年が経ち、ようやく、魏との戦いのことを考えられるようになりました。彼は、諸葛亮の戦略をつぶさに
検証し、より効果的な戦略を練ります。雍州攻略(→魏の、西方との連絡を断つ)ばかりではなく、呉と連携して荊
州方面にも軍勢を差し向けられるよう、拠点を漢中から移すべきではないか、と考えたのです。
もっとも、諸葛亮もそうでしたが、蔣琬もまた、蜀漢の全権を司る立場。備えるべきは、魏との戦いばかりではあり
ません。皇帝・劉禅の意向もあり、路線変更は、あくまで漸進的に。費禕や姜維とも、そのあたりの話はしています。
(しかし、費禕との話の中で、魏の雍州刺史・郭淮を「名将ではない」とはまた…)

呉が魏を攻める(ので蜀漢も出師してもらいたい)、という話がきた時、折悪しく蔣琬は療養中。やむを得ず、姜維
が雍州方面に出撃しましたが、これは呉の要請をないがしろにしていないというメッセージ以上のものではないため
大した戦いにはなりませんでした。しかし、この時、呉は出師せず。蜀漢が呉に対して不信感を持ったのは言うまで
もなく、翌年、実際に呉が出師した時には、(蔣琬が療養中であったとはいえ)蜀漢は出師しませんでした。

続きます。

308 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:27:36 ID:???0
続き。

さて、またも話は変わって呉ですが…。

またしても戦果が挙がらなかったことに孫権は落胆したでしょうが、それどころではない事態が起こりました。
太子・孫登が亡くなったのです。
蒲柳の質であることを自覚していた孫登は、そのゆえか、謙虚でかつ人の言葉に耳を傾けるという美質を持って
いました。呉の人々は、この太子であれば、と、呉の未来に希望を抱いていました。それが、崩壊したのです。
新たに、三男の孫和が太子に立てられましたが、彼は、二人の兄(孫登、孫慮)に比べれば、才徳ともに劣って
いるのに加え、父に愛されなくなっていました。そんな中、弟達のうち、四男の孫覇が王に立てられました。
群臣達は、これを、孫覇が特別視されているからでは、と思うようになります。
孫和か、孫覇か。本人の意思とは関わりなく、呉に不穏な空気が…。

悲報は、こればかりではありません。先の敗戦の直後に、諸葛瑾が亡くなったのです。驢馬のエピソード(本作
では、「之驢」と書き足したのは、子の諸葛恪でなく諸葛瑾自身となっています)からも分かるように、彼は、
機知に富むばかりでなく、謙虚で、人を傷つけずに場をまとめるという、優れた調整能力の持ち主でした。
呉は、かけがえのない人物を、立て続けに喪ったのです。

さて、彼には、(弟の養子に出した一名の他に)二人の子がいました。諸葛恪と諸葛融です。才気煥発な諸葛恪
は、孫権に気に入られていましたが、軽忽なところがあり、叔父の諸葛亮にも心配される始末。
一方、諸葛融は遊び好き。もっとも、それゆえか人当たりは良く、任地が比較的平穏なこともあって、乱世らし
からぬのんびりとした生活を愉しんでいました。

続きます。

309 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:28:38 ID:???0
続き。

そんな中、覇気のある諸葛恪は、魏との戦いを申し出ました。その戦略は、まずまず妥当なものであったため、
孫権も承認。再び、戦いとあいなります。
そして、またも司馬懿が…。

追記。
司馬懿の戦いぶりの見事さが際立っています。いかに策が少ないと評価されたとはいえ、朱然は歴戦の将です。
それをあっさりと打ち破るとは…。ついつい、書き込みにも熱が入りました。

310 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:45:54 ID:???0
三国志(2011年04月)

今回のタイトルは「駱谷」。司馬懿と曹爽。二人の力量差がこれ以上ない形で出ました。

孫権の承認を得た諸葛恪は、魏との国境付近に軍を動かします。ここでの彼の動きは、父や叔父に軽忽さを心配
されたとは思えないほど堅実なもの。入念な偵察を行い、重要拠点たる寿春への侵攻に手応えを感じます。

当然、こうなると、魏としても何らかの対応を考えねばなりません。曹羲は、兄の曹爽に出師を勧めますが、曹
爽はというと、どうも気乗り薄。父・曹真の影響もあり、騎馬での戦いには多少の自信のある彼ですが、呉との
戦いとなると水上戦が予想されるため、不得手な戦いをする気がしなかったのです。
「ここで兄上が行かないと、また大傅(司馬懿)が行きますぞ」
司馬懿と諸葛恪とでは、将器の差は明らか。またも司馬懿に名を成さしめたらどうなるか…。曹羲にはかなりの
危機感がありました。が、曹爽には届きません。
悪政を行っているわけではありませんが、浮華の徒を近付け華美に浸っている曹爽には、(特に軍事的な)名声
が欠けています。今回は、それを払拭する絶好の機会だったのですが…。

曹羲の予想通り、廟議において、司馬懿は出師すべきと主張します。策を好む孫権が一軍(諸葛恪)のみで魏を
攻めるとは考えにくい、と慎重論が多かったのですが、司馬懿は、魏の優位を列挙し、出師が決まりました。
その筋道立った説明を聞いた曹羲は、なおのこと、兄が行くべきであった、と悔やみます。

続きます。

311 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:47:04 ID:???0
続き。

彼我の兵力(高位にない諸葛恪が率いる一軍と最高位の司馬懿が率いる大軍)、時期(冬季は水位が下がるため
呉が得意とする水上戦になる可能性は低い)、将の力量…。司馬懿からすると、負ける要素がまるでない、楽な
戦いです。とはいえ、都にある曹爽の動きが気になる今の彼には、ささいな失策も許されません。それだけに、
慎重に軍を動かします。

一方、諸葛恪はというと、またとない機会を得たことにがぜん意気込みます。司馬懿が出てきたことで、魏との
一大決戦が見込まれるからです。
もちろん、自身の率いる一軍のみでは勝ち目はありません。それとなく、孫権自身の出陣を乞うたのですが…
結果は、柴桑に撤退せよ、との命令でした。
一時は出る気になった孫権ですが、今回の戦いは不利という占いが出ると、あっさりやる気をなくしたのです。
意外なところから、孫権の老いが顕現した形となりました。
武功を挙げる機会を逸したことを、諸葛恪は嘆きますが、皇帝の命とあってはどうにもなりません。

かくして、またも司馬懿は、鮮やかな勝利を収めました。諸葛恪に荒らされた南方を慰撫し、農政に気を配る
等、民政にも意を尽くした司馬懿の帰還は、まさに凱旋。魏の第一人者がたれであるか、これ以上ない形で、
示されたわけです。

続きます。

312 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:48:33 ID:???0
続き。

こうなると、曹爽としては面白くありません。そんな中、側近から、耳寄りな情報がもたらされました。蜀漢の
大司馬・蔣琬の病が篤く、軍を動かせない、というのです。
蔣琬の器量は郭淮より上とされています。それなのに、軍を動かさないのは何故か。動きたくとも動けないから
ではないか。そう判断したのです。浮華の徒とはいえ才知はあります。その判断は、おおむね当たっていました。

父・曹真の無念を晴らすという意味でも、騎兵の使える西方で戦えるという意味でも、この情報は、曹爽には魅
力的なものでした。彼は、蜀漢への出師を考えます。
今回は、曹羲は反対しました。西方は、郭淮が大過なく治めており、急ぎ軍を動かさねばならない情勢ではない
こと、蜀漢は未だ乱れていないことが、その理由です。しかし、曹爽は、またしても弟の助言を無視しました。

司馬懿も、この出師には反対しました。が、夏候玄が賛成したことにより、出師が決定しました。夏候玄は、曹
爽に近いとはいえ、浮華の徒とは異なり、人格・見識とも高く評価された人物。その彼が賛成するのであれば…
というわけです。
不要不急の出師です。司馬孚、司馬師といった司馬懿に近い人々はこの出師を批判しますが、決まった以上は、
彼らにも止められません。

続きます。

313 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:50:04 ID:???0
続き。

曹爽達は、蜀漢への侵攻ルートを、これまで先人達(曹操、曹真、司馬懿)が通らなかったところに設定しました。
これまで使われなかったルートゆえ、備えも薄いであろうと判断したのです。
参謀の一人である楊偉はこれに反対します。そこは険しい道が続き、大軍の運用ができないからです。が、未知の
ルートを使うという魅力に抗しきれなかったか、曹爽達は、楊偉の指摘を無視しました。

蔣琬が動けないのであれば、それより劣る者しかいない蜀漢の攻略など…と、曹爽達は敵を侮っていましたが、曹
羲が危惧した通り、蜀漢は、まだ崩れてはいませんでした。人材は、まだ尽きていなかったのです。
最初に魏軍を迎撃したのは王平でした。魏の大軍が予想外のルートから来襲したことにも慌てることなく、地の利
を生かして兵を巧みに動かし、兵力に勝る魏軍を翻弄。
そして費禕。超人的な記憶力と事務処理能力を持った彼は、魏軍の置かれている状況を的確に把握し、敵に全力を
出させないよう、完全包囲を避けつつ、みごと撃退に成功します。

王平の迎撃にあって軍を進められないことに苛立つ魏の軍中にあっては、口論がたびたび起こり、曹爽はそちらに
手を焼く有様。司馬懿からの書状によって危機的状況であることを理解した夏候玄が独断で撤退する等、統率も取
れないまま、いいところなく敗れました。
しかも、徴収された牛馬が多く死んだことで、西方の羌や氐の恨みも買うことになりました。曹爽は、名声を得る
どころか、司馬懿に大きく後れを取ったわけです。さて、これからどうするのか…。

314 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:56:14 ID:???0
国志(2011年05月)

今回のタイトルは「悶死」。何と言うか…序盤の、腐敗した後漢王朝の醜態をみるような、救いのない回です。

二回前に、呉の太子・孫登が亡くなったこと(それをうけ、三男の孫和が新たに立太子されたこと)が書かれて
いましたが、弟達のうち、孫覇一人を王に立て、のみならず、待遇を太子と同じくしたとなると…。
臣下達の間に動揺が生じないわけがありません。当然ながら、心ある人々が、諫言を試みます。

この頃、呉においては、名臣達が相次いで亡くなりました。優れた調整者であった諸葛瑾については先に語られ
ましたが、優れた行政家であった顧雍も、この時期に亡くなっています(かつて呂壱の専横に激しく憤った潘濬
は、これよりやや先に逝去)。
そして、この時期の孫権に強烈な諫言をしたのは、その孫・顧譚でした。

謹厳実直を絵に書いたような、名臣中の名臣・顧雍。その孫として早くから嘱目されてきた顧譚は、優れた計算・
記憶力を持った、頭脳明晰な能臣でした。
孫権に信任されている。そう自負する彼は、諫言する際、「陛下ならば、きっと分かってくださる…」と、そう
思ったことでしょう。
しかし…孫権の反応は、彼には、甚だ意外なものでした。

かつての孫権であれば、衷心からの、筋道立った諫言には、必ず耳を傾けたことでしょう。しかし、この時の孫
権には、かつての柔軟性が失われていました。顧譚の諫言に激怒したのです。

続きます。

315 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:57:32 ID:???0
続き。

孫和の何がいけないのか。一方で、孫覇の何が良いのか。ここでは、そのことには触れられていません。少なく
とも、能力や言動など、具体的なものがあってのことではないようで、単に孫和への(あるいは、その母・王氏
への)愛情が薄れた。それゆえの…という書かれ方です。
しかし、それでは、臣下達はどうすれば良いのでしょうか。太子に具体的な問題点がない以上は、太子を尊ばね
ばならないわけですが、孫権の本心はそれとは異なるようです。しかし、孫権は、太子・孫和と魯王・孫覇の待
遇については沈黙したままです。

顧譚からすれば、何故激怒されたのか、分からなかったでしょう。この現状はおかしい、というのは、外部から
みれば明らかなわけですから。しかし、孫権には、それが見えません。
孫権は、顧譚のことを、疎ましく思い始めました。

さて、孫権には、息子の他に娘も数人いました。その一人・魯班が、ここで影響力を行使します。この時点での
彼女の夫は、全j(周瑜の子・周循に先立たれた後に再嫁したもの)。
詳しい理由は不明ですが、彼女が、孫和の母・王氏を嫌っていた(その流れで孫和をも嫌っていた)ことが、事
態をさらに悪化させていきます。

公主を娶っている以上、夫の全jも反太子派ということになります。全jの子も既に成人して出仕しており、全
氏の影響力はそこそこあります。それが太子を貶める方向に動いたら…

続きます。

316 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:58:51 ID:???0
続き。

事のおこりは、前々回の、王淩との戦いでした。敗走したとはいえ、こちらは朱然ほどの惨敗ではなかったようで、
かえって魏軍を退かせたりもしています。
勇戦して魏軍を退かせたのは全jの息子達でしたが、そのきっかけを作ったのは、張休(張昭の子)や顧承(顧譚
の弟)の奮戦でした。戦後の評価では、張休や顧承の方が高く評価されたのですが…全j達は、この評価に不満を
抱きます。

彼らは、孫権が病に臥して判断力が弱っているのをみて、張休や顧承への讒言を行います。それも数度にわたって
行われましたから、孫権は、すっかりその讒言を信じ込んでしまったのです。

そしてついに、張休や顧承が、罪なくして処罰されることになりました。先の諫言が容れられなかったことに憤って
いた顧譚がさらに強諌すると、孫権は、彼をも処罰。
顧譚・顧承兄弟は辺境に流罪となり、ある小人に恨みを買っていた張休は、その讒言により処刑されます。
これだけでも大問題なのですが…この、王朝をずたずたに引き裂く裂け目に、丞相の陸遜までもが墜ちたのです。

名行政官たる顧雍が亡くなった後、陸遜は丞相に任ぜられました。とはいえ、魏との戦いが続く以上、任地を離れる
わけにはいきません。かつての諸葛亮の如く、皇帝のおわす都から遠く離れた地で政務を行っていたわけですが…

そんな陸遜に、都の変事が聞こえてきます。何と、吾粲までもが処刑されたというのです。

続きます。

317 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:00:23 ID:???0
続き。

吾粲は、低い身分から累進して太子大傅にまでなった、呉の偉材の一人です。行政・軍事ともに優れた手腕を発揮する
一方、嵐に遭って乗船が沈み、溺れている兵士を、(巻き添えを恐れて他の船が見殺しにする中)自船の危険を顧みず
救出するなど、思いやりの心を持った名臣でした。
彼もまた、この情勢を憂い、孫権にしばしば諫言を呈していたのですが、かえって讒言に遭い、落命したのです。

このままではいけない。陸遜は、何度も上洛(して諫言すること)を請いますが、孫権は、理由を明示することなく、
それを却下します。あるいは、我が心(弟と待遇を同じくされるという屈辱に耐えかねて太子が自ら位を辞するよう
仕向けている)を忖度せよ、という暗黙の意思表示ではなかったか、と書かれていますが…

陸遜がさらに請うと、孫権はこれに激怒。ついに、陸遜は悶死するに至りました。
…以前の江夏諸郡での所業もあり、個人的には陸遜には好感は持っていませんが、国を支える重臣がこのような形で
亡くなるというのは、さすがに…。
ここまでみると、(本来はおかしい言い方ですが)太子派が一方的に弾圧されている格好ですが、この混乱は、まだ
続きます。全jや、(陸遜の死後に丞相となったがほどなく他界した)歩騭も、自身は穏やかに死ねたようですが…。

呉の不幸は、一方で魏の幸福。陸遜までもがただならぬ死を遂げたとなれば、呉国内の混乱は相当なものとみた王淩
は、馬茂という人物を埋伏として送り込み、孫権の暗殺をもくろみますが、これは失敗。
暗殺計画に怒った孫権が、朱然の意見を容れてまたしても魏との戦いが…。

318 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:01:43 ID:???0
追記。
「麒麟も老いては駑馬にも劣る」とは言いますが、今回の孫権の耄碌、老害ぶりの凄まじさには、ただただ呆れるほか
ありません。
ただ、(妻や子のことがあったとはいえ)陸遜にもその将器を評価されていた全j、行政・軍事ともに有能な歩騭が、
この件で諫言をしなかったのは…と思うと、ちょっとすっきりしないものが。次回以降、この顛末がどう書かれるか。

それにしても、朱然の書かれ方が結構ひどいです。前々回は司馬懿にいいところなく惨敗。今回は、「呉にはもはや
この程度の将しかいない」みたいな言われ方。
以前の卑衍の書かれ方と比較すると、一武将と司令官クラスに求められるものが違うからなのでしょうが…。

319 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:31:09 ID:???0
三国志(2011年06月)

今回のタイトルは「曹爽」。本作では、個人名のタイトルが来ると、その回あたりで亡くなるフラグ、という感がある
のですが…さて。

まずは、前回の続きから。朱然が、老将とは思えない溌剌さで暴れまわります。魏の将が後方へ回り込もうとするも、
それを一蹴。鮮やかな勝利を飾って、堂々の凱旋を果たします。しばらくぶりの捷報に呉の宮中は湧き返り、孫権も
はしゃぎます(もっとも、そんなにうまいこといくはずはないと思っていたが…なんて言われてますが)。
その三年後、朱然は、栄光のうちに没します(そういえば、二十世紀に入ってその墓が発掘されていますね)。

ただ、朱然の活躍は、魏の南方の民にとっては災厄そのもの。以前にも呉の侵攻を受けた人々は、それを避ける為に
北方に避難していたのですが、空白地の存在を嫌った曹爽は、これを無理に戻させました。その結果がこの有様です。
先の蜀漢侵攻の失敗で、軍事的手腕に疑問符がついている上に、内政面でも失敗したことで、曹爽は、人々の支持を
失いつつありました(その失政を揶揄する歌が歌われる、等)。
しかし、司馬懿が一歩退いたスタンスを取っているためか、成果が挙がっていないにもかかわらず、曹爽派の力は、
むしろ強化されつつありました。
そんな阿呆なことが…と言いたくもなりますが、無能な者が分不相応な権力を持つこと自体は、歴史上、例がない
わけではありません。

続きます。

320 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:33:05 ID:???0
続き。

曹爽派の有力者として名が挙がっているのが、丁謐、何晏、ケ颺の三名です。曹爽に重用され、高位に就いた彼らは、
かつての梁冀の如く、好き勝手に振る舞います(諸候の飛び地を我がものとする、詔書を偽る、等)。
その頭目たる曹爽もまた、それを制止するどころか、自身もそのように振る舞います(調度品を皇帝のものと等しく
する、宮女を我がものとする、等)。
わずかに、曹羲ひとりが諫言しますが、曹爽は、聞く耳を持ちません(ただし、無駄の削減と称して勝手に廃止して
解散させた将軍の兵力を曹羲に持たせるところをみると、曹氏一族の一人としてはある程度信頼しています)。

ただ、彼らも、決して一枚岩ではありません。というか、みな我が強く、互いに見下している、という感じです。
読書家の丁謐は、己以外は皆低能だと見下しています(派閥の頭目たる曹爽も例外ではありません)。ただ、政敵たる
司馬懿だけは賢いとみなしており、それ故に警戒しています。
ケ颺は、すっかり俗物と化し、公然と賄賂を要求する有様。何晏は…まあ、今回は語られていませんが、蒼天でも少し
触れられていた、あれ(五石散)がありますからね…。
曹爽は、彼らは有能である(有能過ぎる故に嫌われていた)と思って重用します。確かに、才覚自体はあるのでしょう
が、これでは嫌われるわけです。

続きます。

321 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:34:49 ID:???0
続き。

さて、彼ら以外で曹爽派の有力者として、桓範の名が挙がっています。こちらは、実際に有能なのですが、とにかく
性格的に問題あり、というところ。
ちょっと嫌味を言われたくらいで妊娠中の妻に暴力を振るい、母子共に死なせるあたり、それだけでも失脚に値する
くらいです(まあ、さすがにこれは悔やんだようですが)。他にも、蒋済に認められなかったことに恨み事を言う等、
むやみに敵を増やすような言動が目立ちます。

そんな中、曹爽派の一人・李勝が司馬懿のもとを訪れます。先の蜀漢侵攻では失敗した彼ですが、行政手腕はあった
ようで、荊州刺史に就任します。この訪問は、その挨拶に…というわけです。
もっとも、実際には、政治的に沈黙している司馬懿の偵察なのですが。ただ、司馬懿もこのことは分かっており、一
芝居うちます。まさに「しばいのしばい(司馬懿の芝居)」。
(妻に話したら駄洒落扱いされましたが…)

司馬懿の呆けた演技は見事なもので、李勝は、かつての英姿と比べ、思わず涙するほど。司馬懿に仕える侍女達は、
というと…笑いをこらえるのに必死でした。

322 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:36:27 ID:???0
追記
1、
曹爽達は享楽に耽っているわけですが、ここで出てきたのが「地下室」。名前自体は出ませんでしたが、「春秋時代に
地下室をつくった貴族が〜」というと、鄭の伯有が思い浮かびます。鄭と魏の国力を思うと、曹爽がつくらせたそれは、
相当な規模のものだったのでしょうね。
ただ、伯有の最期を思うと、曹爽の行く末も良いものではない、という予感を持った人々もいたことでしょう。
2、
曹爽の能力については、酷評としか言いようがありません。才能もない、努力もしない、感性も鈍い、鈍さを魅力に変
えることもできない…。
わずかに、優しいところがあるように書かれていますが…。
3、
司馬懿は病を装っているので、表には出られません。そこで、表のことは子に任せるわけですが、今のところ長子の
司馬師しか出てきていません。演義では、これより以前から、次子の司馬昭も(と言うか、司馬師・司馬昭の二人が
セットみたいな感じで)出ているので、ちょっと不思議な感じがしています。

323 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:55:06 ID:???0
三国志(2011年07月)

今回のタイトルは「非常」。いよいよ、魏を揺るがす大事件が勃発します…!

まずは、前回の続きから。李勝が「荊州(けいしゅう)」刺史になる、というのを、司馬懿は「并州(へいしゅう)」
刺史になる、と勘違いします。何度も間違うため、ついには、「わたしは、本州たる荊州の刺史になるのです」と言わ
れる有様。
これで、司馬懿はようやく聞き間違いに気付いた様子(もちろん、これも芝居なのですが)。
その後、李勝は、司馬師・司馬昭兄弟からもてなしを受けて、晴れやかな気分で司馬懿邸を後にしました。

※ざっと検索すると、現代中国語では、荊州→Jīngzhōu、并州→Bingzhouと発音するようです(細かいピンインまでは
 みていませんが…)。個人的には、現代中国語より、日本語での音読み(漢音・呉音)の方が、当時の発音に近いと
 思っていますので、「へいしゅう」と「けいしゅう」の聞き間違い、というのが結構リアルに感じられます。

その足で、彼が曹爽邸に立ち寄ったことは言うまでもありません。司馬懿の現況は、曹爽達にとっては、喉から手が出る
ほどに知りたいことなのですから。
李勝は、ただただ「おどろきました」と言い、司馬懿の様子を語りつつ、涙します。曹爽もまた、どこか浮かぬ様子。
曹爽派からみれば、もっとも厄介な相手である司馬懿の老衰は、喜ぶべきことであるはずですが…(実際、何晏、ケ颺は
浮かれています)。
李勝が涙したのは、人というもののはかなさを感じた、ということもあるでしょう。では、曹爽は?

続きます。

324 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:56:10 ID:???0
続き。

曹爽は、(この時点での)魏の最高実力者。当然ながら、現実の軍事・行政に関わります。その目でみると、司馬懿の
老衰は、蜀漢や呉に対抗できる人材が一人減ることをも意味するのです(李勝が哀しんでいるのも、実際に地方行政に
携わっているが故のもの、と考えると、また違った意味合いが見て取れます。ずっと中央にいたであろう何晏、ケ颺に
は、恐らく理解の外にあることでしょうが)。
もちろん、単なる勝者の余裕、かも知れませんが。

しかしその頃、司馬懿邸では、司馬懿を中心にある謀議が行われます。司馬懿の眼には、炯々たる光が宿っています。
先ほどの痴態をみた者からすれば、これが同一人物かと思うほどに。
「これが失敗すれば、族滅される」
何しろ、曹爽派は皇帝を擁しているのです。それに叛旗を翻すとなれば、並々ならぬ覚悟が必要。この謀議に、司馬
一族以外の者が一人もいないのも、そのためでした。

謀議の内容。それは、曹爽派打倒のクーデターについてのものでした。明年早々、皇帝と曹爽達は、高平陵(先帝・
曹叡の陵墓)に詣でるため、洛陽城を出ます。その隙を突いて…というわけです。
しかし、クーデターを起こすとなれば、その正当性を証明する必要があります。どうしようというのでしょうか。

続きます。

325 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:57:21 ID:???0
続き。

一つ、手段がありました。永寧宮(→皇太后の郭氏)です。皇太后であれば、皇帝不在の折に、非常大権を発動する
ことも可能なのです。ただし、これはあくまで非常手段。
このクーデターは、司馬懿といえども、十分な勝算があって行うものではないのです(もし、曹羲が城内に留まって
いれば…その時は運が無かったと思うしかない、とも言っていますから、まともに対応されたら負けるのです)。

そして、正始十(249)年となりました。

皇帝と曹爽達は、予定通り、高平陵に詣でるべく、出発しました。この一行の中に曹羲がいたという時点で、趨勢は
おおよそ定まったと言えるでしょう。
皇帝と曹爽達が出発したのを見届けると、司馬懿達は、直ちに行動を開始しました。司馬一族の持てる兵を率いて、
永寧宮に参内したのです。

半ば引退した老臣の、それも兵を率いての急な参内。たれもが不審に思うところです。しかし、司馬懿に謁見し、
その英姿をみた皇太后は、その勝利を確信し、できるだけの措置をとることを約しました。

司馬懿が武器庫をおさえようとする際、曹爽邸内で、司馬懿を狙撃するか否か、という押し問答がありましたが、結局
狙撃は行われず。第一段階における、曹爽側の反撃は不発に終わりました。
かくして、司馬懿は、兵権を掌握し洛陽城内をおさえることに成功しました。

続きます。

326 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:58:32 ID:???0
続き。

とはいえ、いまだ皇帝は曹爽派の中にいます(皇帝が、皇太后の詔を無効とすれば、一気に情勢はひっくり返る恐れが
あります)。司馬懿は、有力者の支持を取り付けるべく、動きます。

ここで名の挙がった有力者とは、高柔、王観、そして蒋済の三人です。高柔は、かつて曹操と敵対して倒された高幹の
一族ですが、職務に精励し、かつ、法の遵守者と認められて、着実に昇進した名臣。王観は、任地の幽州が難治の地で
あることを正直に申告させた誠実な人物(宮廷の公物を厳格に管理していた為、曹爽に嫌われ転任させられたほど)。
蒋済については、ここまで読まれてきた方々には、言うまでもないでしょう。
彼らを味方につけることで、人々に、自身の正当性を知らしめようとしたわけです。裏を返せば、有力者の支持を取り
付けたなら、皇帝とてその意向を完全に無視することはできない(曹爽派の反撃を封じる、封じるまでいかなくとも、
弱められる)だろう、と…。

ただし、一人例外がいました。桓範です。迷いはあった(最初は司馬懿につこうとした)ようですが、皇帝を擁して
いる、ということで、彼は曹爽のもとに向かいます。このことを知った蒋済は危惧しますが、司馬懿は捨て置きます。

司馬懿による、曹爽達への劾奏。そして、桓範からの情報。曹爽達は、ここに至って、ただならぬ事態にあることを
認識しますが…


追記。
司馬懿によるクーデターの知らせを受けた際、曹爽達は、ただただ呆然としていました(曹羲も、ことの詳細が分から
ないことには…いう具合)。司馬懿の芝居は、かなり効いたようです。

327 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:33:56 ID:???0
三国志(2011年08月)


今回のタイトルは「霹靂」。曹爽達にとっては、まさにそんな感じだったのでしょうね。しかし、それだけではおさまら
ないわけで…。

司馬懿によるクーデターは、ここまではうまくいっていますが、桓範からみれば、まだ逆転の目は残されていました。何
しろ、曹爽側には天子がおわすのです。
天子を擁して副都・許昌に移り、そこで募兵を行えば、十分な兵力が得られます。それに、大司農の印綬もありますから、
兵糧の心配もありません。さらに、天子直々に詔を出せば、皇太后のそれを無効化できる(→司馬懿を逆臣とすることも
できる)のです。

しかし、これだけの好条件を示されながら、曹爽達は動こうとしません。これまで、たびたび兄を諌めてきた曹羲でさえ、
押し黙ったまま。自分達の置かれた状況を理解はしたものの、その状況に耐えられなかったのです。
危機にあっては、人の本性が出てくるものですが、曹爽達は、揃いも揃って肚が座っていなかったようです。

ただし、いつまでも動かないわけにもいきません。いったん事が起こった以上は、何らかの形で決着をつけねばならない
のです。それがいかなる形であろうとも。
天子の側近の中に、その決着とは天子の廃替ではないか、と危惧する者がいました。陳泰と許允です。

続きます。

328 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:02 ID:???0
続き。

ありえない話ではありません。歴史をひも解けば、前例はあるのです。曹爽達の傀儡の如き天子への同情がある二人は、
天子を救うべく、動き始めました。
ともかく、曹爽達がどうなるか。それが分からないことにはどうにもなりません。二人は、司馬懿のもとに赴き、その
真意を確かめようとします。

司馬懿にとっても、ここが勝負の分かれ目でした。曹爽派を完全に潰さないと、逆に自分達がやられる恐れがあるわけ
ですから、許すことなどできません。しかし、それをあからさまに出すと、徹底抗戦される危険性もあります。
曹爽達には、免官だけで済むと希望を持たせる一方で、その後の処断の正当性を損なわないようにしなければならない
のです。
ここは、何とか成功しました。ただし、曹爽派ではない二人の言葉だけでは曹爽を動かせないと思った司馬懿は、曹爽
に信用されている尹大目も遣わし、免官だけで済むという含みを持った返答をしてみせました。

これを聞いた曹爽は、ついに、降ることを決めました。それがいかなる結果をもたらすかも知らないままに。

続きます。

329 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:30 ID:???0
続き。

桓範からみれば、余りにも愚かな決断でした。曹爽達は、自らを守るものを、自ら捨て去るというのです。必死に止め
ようとしますが、極度の緊張から解放されることにただただ安堵する曹爽達には届きませんでした。
「元候(曹真)はまことに立派なかたであった。…あなたがたは、犢(こうし)のようなものだ」

父祖の功業によって授けられた富貴に浸り、研鑽することのなかった彼らは、百戦錬磨の司馬懿からみれば、まさに犢
のようなものでした。しかし、このたとえは、単に精神の幼さのみを示したものではありません。
洛陽に戻った彼らを待っていたのは…

まず、桓範。蒋済が「知嚢」と評したとおり、才智に富んだ彼は、いったんは大司農に復職する予定だったのですが、
城門を出る際の言動(詔であると偽って出た、司馬懿を逆臣とした…等)が咎められ、一転して、罪人として捕縛され
ます。もともと、曹爽が降った時点で、ある程度の覚悟はしていたようですが、いったん許されてからのどんでん返し
ですから、これはきついですね。
ただ、同じように城門から出た魯芝や、降ろうとする曹爽を諌めた楊綜等はお咎めなしでしたから、司馬懿が、桓範に
ある種の危険性を感じたのが主因のようです。

続きます。

330 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:36:11 ID:???0
続き。

曹爽達は、というと、まずは自邸に戻ることを許されますが、謹慎を余儀なくされます。ただ謹慎するだけではなく、
近隣から動員された八百人の兵から監視されるのです。
庭に出るだけでも囃し立てられるのですからたまりません。おまけに、一切の人の出入りが禁じられているので、食材
さえ入手できないという有様。
さすがに、食材については司馬懿からの差し入れがありましたが、こうしている間にも、曹爽達の過去の行状の調査が
進められていきます。
厳しい監視と飢餓への不安に苛まれた曹爽達は、そのことには気づきませんでした。

そして、彼らの破滅のときがやってきました。公物や宮女の横領等、言い逃れようもない明白な罪状が曝されたのです。
しかし、捕縛され、刑場に送られる彼らは、意外におとなしいものでした。あの時、桓範の言うとおりにしたとしても、
勝てなかったろう。ならば、犠牲が少ない方がよい。そんなことを考える彼らは、まさに生贄の犢でした。

さて、これほどの事件となれば、当然ながら、大々的な裁判が行われることになるわけですが、ここで、今でいう検事
役に充てられたのは、何晏でした。何晏は、ここで曹爽達を強く断罪することで己の延命を図りますが、裁判が終わっ
たところで、捕縛されました。


追記。

司馬懿の狡猾さと、曹爽の甘さ。今回は、これに尽きるように思います。
ただ、司馬懿の狡猾さについては、曹爽を降すための駆け引きはともかくとして、どこかすっきりしないものがあります。
何晏が曹爽派であることは明らかだったのに、なぜ検事役にして曹爽達を弾劾させたのか。このようなことをする意味が
果たしてあったのか。
何晏の人格の卑しさを白日の下に曝すためであったにしても、彼がここまでされなければならない理由は何か…。

331 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:53:48 ID:???0
三国志(2011年09月)

今回のタイトルは「王淩」。先のクーデターは司馬懿の完全な勝利に終わったわけですが、魏の内部に、新たな異変の眼が
生じつつあります。

祖父は後漢の大将軍・何進。母は魏武帝・曹操の夫人。そして、自身の妻は公主(曹操の娘)。何晏は、魏王朝においては、
まさに貴種というべき存在でした。その彼が処刑されたことは、世の人々に大きな驚きを与えたわけですが、かような末路を
予見した人もいました。
その一人が、管輅(字は公明)です。易経等に通じた彼は、その容貌や振る舞いから、威厳がないとみなされ、あまり出世は
しませんでしたが、俗世を超えた眼を持ち、様々な逸話を残しました。
その一つが、何晏についてのものです。彼が何晏に招かれたことは、歴史上、大した事件ではないはずですが、なぜか記録が
残っているというのです。

それは、司馬懿によるクーデターの直前、前年の十二月二十八日のこと。管輅のことを知った何晏が、自邸に招き、己の将来
を占ってほしいと依頼しました。「わたしは三公になれるであろうか」、と。
その際、この頃よくみるという夢の内容を伝えています(鼻の上を青蝿が飛び周り、払っても離れない、というもの)。
それに対する管輅の返答は、ごく大まかに言うと、(高位にあることによる)威はあるが、徳に欠けるため、危うい、という
ものでした。
これを聞いた何晏がどう思ったかは、よく分かりません(管輅の伝には、忠告に感謝したという話もあるようですが、夫人に
心配されるほど行いが荒んでいた何晏が、本心からそう思ったとは考えにくいのです)。

ともあれ、それから間もなく何晏は誅されたわけですから、それを予見した管輅の異才ぶりが、あらためて世に知られたわけ
です。

続きます。

332 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:34 ID:???0
続き。

さて、ここで興味深いことが。何晏が誅されたことを聞いた裴徽(管輅にとっては恩人にあたる人物)は、管輅に、何晏の
印象を問い、その答えから何晏の本質を理解するという話があるのですが、そこで挙げられているのが、恵施(恵子)なの
です。
恵施というと、「荘子」に出てくる、荘子の論敵。彼は、名家(今でいうところの論理学者の類)として知られる人物です
が、何晏もその類であった…ということでしょうか。
wikipediaソースで何ですが、何晏は玄学(老荘思想に基づく学問)の創始者とされているようです。しかし、何晏はそう
単純な人物ではなさそうです。一見、ただの俗物であった晩年も、あるいは違う見方ができるのでしょうか。

さて、司馬懿のクーデターにより、曹爽の一族は滅ぼされたわけですが、帝室に連なる家が消滅させられた、となると、帝
室に連なる他の一族にもその影響は及んできます。
曹操の父の実家とされ、準皇族ともいうべき夏侯氏もその一つです。ここでは、その夏侯氏から三人が紹介されています。

一人は、夏侯令女。曹爽の一族に嫁いだ彼女は、若くして夫に先立たれて寡婦になりましたが、再婚を拒み、曹爽の庇護を
受けていました。その曹爽家が滅んだため、頼るすべを失い、実家に引き取られると、あくまでも再婚を拒み、自らの鼻を
削ぐに至ります。
先に髪を切り、次いで耳を削いでいますから、これ以上再婚を強いると自害しかねないという凄まじさです。
夫への、そして婚家への貞節ぶりに心動かされた司馬懿は、彼女が養子をとり、曹氏の家を継がせることを許します。それ
は、自らの正当性を世に知らしめるには、有効なことでした。
しかし、権力とは無関係の夏侯令女はともかく、実権を持つ夏侯氏に対しては、そう甘くはありません。

続きます。

333 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:58 ID:???0
続き。

残る二人は、夏侯玄と夏侯覇です。二人は、ともに西方にあって蜀漢との戦いの最前線に立っていたわけですが、夏侯玄が
都に召還されることになりました。夏侯玄は、先に曹爽が蜀漢を攻めた際、その計画に賛同し、同行もしていますから、曹
爽派とみなされて…というわけです(なお、この戦いにおいては、夏侯覇は先鋒を務めている)。
結局、夏侯玄への措置は単なる異動だったわけですが、残された夏侯覇は、気が気ではありません。何しろ、夏侯玄の後任
は、仲の悪い郭淮なのです。
 郭淮というと、かつては夏侯覇の父・夏侯淵とともに蜀漢と戦っている人物。その彼と仲が悪いというのはちょっと変な
 気がしますが、以前に、曹休が賈逵を(一方的に)嫌ったということもありましたから、父の元部下の指図を受けること
 に不快感を持っていた(それを察した郭淮も夏侯覇を嫌った)のかも知れません。
これは、準皇族たる夏侯氏である自分を陥れる罠か。夏侯玄への沙汰が下るのを待っていては危うい。ここまで思いつめた
夏侯覇は、ついに亡命することを決めます。

しかし、魏の西方にあって亡命先となる国はただ一つ。そう、父の仇たる蜀漢です。父の仇を取りたいという気持ちを強く
持っていた(それ故に、先の戦いでは先鋒となった)夏侯覇にとっては難しい決断でしたが、彼の一族の女性が張飛の妻に
なり、二人の間に生まれた娘が蜀漢の皇后になっているという縁が決め手になりました。
夏侯覇は、苦難の旅の末に蜀の地に入り、皇后の縁戚として厚遇されます。没年は不明とのこと。姜維とともに戦うのは、
演義での創作のようです。

続きます。

334 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 12:44:26 ID:???0
続き。

夏侯覇が亡命した当時、蜀漢の宰相格となっていたのは、費禕でした。この数年前から病床にあった蔣琬は、そのまま回復
することなく亡くなり、費禕がその後任となっていたのです。
費禕は、司馬懿のクーデターの委細をつぶさに検証し、その是非を論じました。これは、いわゆる史論の先駆けというべき
ものです。蜀漢には文化的な要素は少ないのですが、諸葛亮の『出師表』や費禕の史論があるあたり、文化不毛の国という
わけでもありません。
その論は二つあります。一つは、是とするもの(司馬懿は、先帝・曹叡の遺命に基づき、国政を正した)。もう一つは、非
とするもの(先帝・曹叡は、司馬懿と曹爽に後事を託したにもかかわらず、司馬懿は、曹爽の恣行を正すことなく誅した)
です。

是非はともかく、司馬懿のクーデターの影響は大きいものがありました。なるほど、クーデター後、魏の国政は正されては
いる(人材登用等が適正化された)のですが、帝室たる曹氏の一部が滅ぼされる一方で、司馬氏の権力が著しく伸長したの
は、魏の国体の護持という観点からは望ましくないことです。
これを危惧した令狐愚は、おじの王淩に、司馬懿を討つべきではないか、と持ちかけます。

王淩は、王允の甥です。彼は、おじが董卓を討った(それによって国体を正そうとした)ことを誇っていましたから、この
話には興味を示しました。単に栄達だけを考えるなら、司馬懿との良好な関係を保つに越したことはないのですが、王允の
甥であるという自覚が、それを許さなかったのです。

ただ、皇帝を奉ずる司馬懿と戦うには正当性の根拠となる存在が必要です。令狐愚は、楚王・曹彪(曹操の子)の名を挙げ、
彼を奉ずるべきであると主張し、配下を遣わして曹彪に説きます。
一方、王淩も、優秀な息子達のうち、頼りにしている長子・王広にことのあらましを伝え、是非を問います。四十近い壮年
の王広は、司馬懿の善政を挙げ、慎重に振る舞うべきである、と回答します。

事実上、魏の南方を任されている王淩は、かなりの兵力を持っています。その彼が、楚王・曹彪を奉じて司馬懿と戦えば、
どうなるか。なるほど、うかつな動きはできません。
王淩達は、水面下で静かに動いていましたが、その最中に、この計画の中心人物・令狐愚が亡くなります。ここから、一体
どうなるのでしょうか。

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344 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:01:13 ID:sAtiQhzY0
三国志(2011年10月)


今回のタイトルは「老衰」。そういえば、今回登場する主要人物は、みな高齢者…。

令狐愚が亡くなったことで、王淩達の楚王擁立計画は一からやり直しとなりました。落ち着いてみれば、計画の実行はさらに
難しくなったわけですが、王淩は、令狐愚の遺志を引き継ぐかのように、この計画にのめりこみます。
ただし、司馬懿との全面対決はできません。十分な兵力を持っているとはいえ、彼の計画は、魏の国政を正さんがためのもの
なのですから、たとえ勝てたとしても、魏の国力を疲弊させるような行為をするわけにはいかないのです。
それを避けるためには、何とかして、司馬懿をおのが勢力圏内に引き込み、捕斬する必要があるわけですが…。

肚は括っているとはいえ、困難極まりないことです。さすがの王淩にも迷いがあったのか、浩詳という人物に、占わせます。
王淩の言葉に不吉なものを感じた浩詳は、やや曖昧さの残る表現で、王者が興るというようなことを話しました。
王淩は、その言葉を、おのが計画が成功することを示したものだと確信したのですが、実は、(呉における孫権のような)
至尊とまではいかないが高位の人が亡くなる、ということを示したものでした。その、高位の人とは…

さて、ここで話は呉に移ります。王淩が、司馬懿を引き込むのが困難と思ったのは、呉の内部事情が、それをさせないとみた
からに他なりません。孫権は年老いて、もはや、司馬懿自らが行かねばならないような大戦(孫権の親征)を仕掛けることは
ないからです。呉にとっては、戦下手な孫権が出ない方が良いのではありますが、ことはそう単純ではありません。

 しかし、王淩が孫権を「老いた」というのも不思議なもの。なにしろ、王淩の方が年上なのですから。

続きます。

345 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:03:15 ID:sAtiQhzY0
続きます。

孫権は衰えました。衰えて政務への意欲が萎えただけならまだしも、変なところで頑固になり、臣下の諫言を受け入れる度量が
すっかり失われてしまったのです。その讒言によって多くの名臣達を陥れた孫魯班は、ここでも暗躍しました。老いた孫権が、
新たに潘氏(及び彼女との間にもうけた孫亮)を寵愛するようになったのを知ると、彼女達を賛美したのです。
孫亮は、実際、なかなかの資質があったようですが、潘氏は、というと…。

ともあれ、孫権は、娘の言葉に心動かされました。
太子・孫和派と魯王・孫覇派との争いが国を二分するに至り、いよいよ収拾がつかなくなったことに嫌気がさしていたこともあり、
ついに、ある決定を下します。それは、
「太子・孫和を廃し、魯王・孫覇に死を賜う。新たに孫亮を太子とする」
というものでした。

孫権としては喧嘩両成敗というところなのでしょうが、これに納得する者はいたのでしょうか。孫覇は毒を仰いで果てましたが、
何故に自分が死なねばならなかったのか、納得できたとは思えません。
また、孫和も、罪なくして太子を廃されました(後に王として僻地に遠ざけられる)。このような非道が許されてよいのか。そう、
憤る者もいたことでしょう。
魯王派の小人達は処刑され、太子派は、太子の廃替を諌めるも、これまた処刑される者が出ました。

孫権の子は、おおむね才能はあったようですが…孫登、孫慮の早世が惜しまれるところです。

続きます。

346 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:05:58 ID:sAtiQhzY0
続き。

敵国のこのような異常事態を、魏が見逃すはずはありません。将軍として前線に近い新野にあった王昶はこれに気付き、呉を攻める
べきであると上奏し、許しを得ました。
王昶は、これまで様々な官職を歴任し、いずれにおいても成果を挙げてきたそつのない人物です。当然、呉の政情も抜かりなく調べ
上げた上での上奏ですから、司馬懿もすみやかに了承し、王昶と王基・州泰に出撃命令を下しました。

 王昶と王基は、王淩ゆかりの人物です(王昶は、王淩とともに地元で名が知られた人物。王基は、王淩の元部下。中央での王基の
 扱いに王淩が憤り、手元においた、というような話も)。ただし、ともに私より公を重視する人物ですから、王淩の計画を知った
 としたら、どうしたでしょうか。
 州泰は、司馬懿が孟達を攻める際に、先導役を務めた人物。身内に不幸が相次ぎ九年も服喪しましたが、司馬懿は彼を忘れず、喪
 が明けるのを待って起用しました。

まず、王昶は江陵を攻撃します。江陵は要地で城も大きく、容易に落とせる城ではありませんが、ここを攻めることで、敵の耳目を
他から逸らす(王基・州泰への間接支援になる)という意義があります。
守る施績は迎撃しますが、王昶はこれを撃破。施績が籠城すると、挑発した上で引き揚げると装い、追撃してきたところをまた撃破。
鮮やかな勝利を飾ります。
王基は、敵将・歩協が固守して動かないとみると、食糧庫を攻めこれを奪取。数千の人々が降ったといいます。州泰も結果を残した
ので、王昶の計画はみごと成功したわけです。

続きます。

347 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:08:33 ID:sAtiQhzY0
続き。

さて、魏に攻められたとなれば、呉は当然に反撃してくるはず。王淩は、これを好機とみて、呉が川をせき止めたことを上奏して、
呉を攻めたい(あわよくば、これで司馬懿を誘い出したい)と申し出ます。
が、これに、司馬懿は不審を抱きます。
この頃、司馬懿は病が悪化しており、自邸から出るのも辛い状態になっていました。しかし、それを抜きにしても、この上奏には
不自然な点がありました(剛毅な王淩がこの程度のことで…というわけです)。

司馬懿は動かない。それを知った王淩は、やむを得ず、実力行使に出ようとします。しかし、それには、令狐愚の後任である黄華
を取り込む必要がありました。
使者が、黄華のもとに向かいます。しかし…
令狐愚が亡くなったことで、計画には(王淩からみて)赤の他人が多く関わるようになっていました。それは、計画が漏れる危険
性が高まることでもありました。

黄華は、かつて魏に背いたことのある人物でした。それ故、利をちらつかせれば味方に引き込める、と王淩はみたのですが…彼は
根っからの反逆者ではなく、このことを中央に知らせます(使者も寝返った)。
司馬懿も、王淩の計画を(噂でですが)耳にしてはいました。それ故、この知らせにも驚きはしなかったのですが、人というもの
の不思議さを実感せずにはいられませんでした。
ともあれ、王淩を止めねばなりません。司馬懿は、最後のご奉公だ、と言い、自ら王淩のもとに(兵を率いて)赴きます。

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356 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:45:08 ID:bT4gIyLs0
三国志(2011年11月)


今回のタイトルは「交代」。いつの間にか世代交代の時期になっています。

司馬懿自らが兵を率いて南下中。それは、王淩を討伐する軍である。この知らせは、王淩を驚愕させました。挙兵しようにも、
完全に機を逸したのです。
そのせいでしょうか。司馬懿と、長子・王広からの書簡を読んだ王淩は、自ら出頭しました。自首すれば罪に問わない。その
ようなことが書かれていたようです。しかし、司馬懿は、そんなに甘い人物ではありません。
かつて、孟達を討った時がそうでした。そして、曹爽を倒した時も。司馬懿にとっては、ことばもまた計略の一環。敵に対する
信義などというものは、端から存在しないのです。

小舟に乗った王淩は、司馬懿のいる旗艦に近付くことを拒まれました。ここに至って、初めて騙されたことに気付いた王淩は、
わたしを騙したのか、と叫びますが、「君を騙しはしても国家を騙しはしない」と言い返され、絶句します。
引き続き太尉の印綬を持たされましたが、都に着けば、楚王擁立計画の全容を暴かれ罪に問われることは確実。王淩は、毒を
仰ぎ自決しました。享年八十。

王淩自身は太尉として死にましたが、その息子達は、皇帝廃立を目論んだ者に連なるとして処刑されました。かつて令狐愚に
仕えていた単固という人物も、連座して処刑されました。
擁立されるはずだった楚王・曹彪は自決に追い込まれ、その属官達も処刑されました。
「謀叛」というものは、たとえ未遂に終わっても族滅に至る重罪。過酷とはいえ、ここまでは、仕方のないことではあったの
でしょうが…

続きます。

357 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:49:44 ID:bT4gIyLs0
続き。

これほどの大量処刑があったにも関わらず、百官からは、なお処罰が甘いという声があがりました。司馬氏が魏の実権を掌握
しつつあることを認識し、それに媚を売ろうとしたのです。
太尉として死んだ王淩や刺史として死んだ令狐愚の墓が暴かれ、遺骸は晒し者とされました(その後、直に埋められている)。
そんな中、馬隆は、かつて令狐愚の客であったことから、晒されていた遺骸を引き取って埋葬し、さらに喪に服しました。
馬隆の行動は称賛されたことからみても、令狐愚達は、(先に司馬懿に欺かれて滅んだ)曹爽達とは異なり、為政者としては
優秀だった(民に慕われた)ことが分かります。

この直後、司馬懿の病は急速に悪化しました。老齢で無理をしたことが堪えたのでしょうが、王淩の祟りだという声があった
のも無理からぬところ。結局、その年のうちに亡くなりました。

しかし、司馬氏の権力は弱まりません。伊尹の故事(伊尹が亡くなるとその子の伊陟が継いだ)に従い、長子の司馬師が引き
続き実権を掌握し続けたからです。
時に司馬師は四十四歳。しかし、その真意を知る者はいません。仕官して日が浅いというわけでもないのに、どこか謎めいた
存在感を放っています。ただし、この年は服喪期間につき、その実像が明らかになるのは翌年以降になります。

魏の方がひと段落ついたところで、話は呉に移ります。


続きます。

358 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:55:43 ID:bT4gIyLs0
続き。

この年、呉では災害が相次ぎました。当然、人々は不安に駆られるのですが、孫権がしたことといえば、大赦くらい。政務に
対する関心がすっかり失われていました。

そんな中、外出した孫権は発熱して寝込みます。孫権は高齢。万一のことがあれば…。ここでも、皇后となった潘氏や孫魯班
らが暗躍します。
寝込んでいる孫権ですが、ときどき意識を取り戻し、太子の廃立は誤りではなかったか、と問いかけます。もちろん、潘氏達
がこれを是とするわけはありませんから、何とか言いくるめるのですが。

いくらかは回復したものの、もはや孫権の余命は僅か。遠からず死ぬことを自覚した孫権は、孫和の復位が成らないとみると、
幼い孫亮を補佐する者を推挙するよう命じます。
群臣達は、こぞって諸葛恪を推挙しますが、孫権は難色を示します。彼が後事を託するに値しないとみたからです。ここまで
目立った失策はなかったはずですが、諸葛恪という人物に、どこか危ういものを感じたようです。すっかり衰えた孫権ですが、
時に、往年の冴えを取り戻すことがあります。もっとも、諸葛恪にまさる人物がいないこともまた事実。

 秀長亡き後の豊臣家、とまではいかないまでも、陸遜がいれば…と思う呉人も多かったでしょうね。

諸葛恪に後事が託されることは、潘氏達としても望ましくありません。かつての呂氏の如く垂簾政治を行いたい、という野心を
抱く潘氏にとっては、諸葛恪が全権を担うなどというのは悪夢でしかないのです。
孫権との面会をさせない、ということには成功しましたが、さて…。


追記。
印象に残った人物が二人。
まず曹彪。皇帝の使者から「何の面目あって武帝にまみえるのか」と言われ、怒りの目を向けるあたりは、帝室の一員としての
矜持を感じさせます。
司馬懿は、皇帝の留守をついてクーデターを起こしたわけですが、これこそ、皇帝をないがしろにする叛逆ではないか。司馬懿
に言われるがままに帝室の一員たる曹爽達を滅ぼしたのは、おのが手足をもぎ取るが如き愚行。その心の声を形にしようとした
のが、王淩ではなかったか。彼こそ、武帝の恩に報いようとした忠臣。ゆえに、われは王淩と共謀した…。
確かに、即位時は幼弱ではあったでしょうが、それから既に十年以上が経っています。それにもかかわらず、おのが意志を見せ
ない曹芳は、愚かと言われてもしょうがないのかも知れません。一方で、王淩達が曹彪の擁立を考えたというのも分かります。
次に、孫峻。物事をはっきり言う性格を孫権に気に入られたということですが、潘氏や孫魯班、それに、潘氏に取り入る孫弘ら
と比べると、善良な人物に見えてきます(非凡という風でもありませんが)。

司馬懿存命中の時点で、魏の群臣が司馬氏に媚び始めた、というのが気になります。司馬氏の王朝たる晋は中国史上最も脆弱な
統一王朝だったように思うのですが、このあたり、何か関係があるのでしょうか。

359 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:19:39 ID:???0
三国志(2011年12月)


今回のタイトルは「晩光」。孫権がいよいよ最期のときを迎えるわけですが、曹操・劉備とは異なり、本人の知らぬところでの
政争が繰り広げられます。そのせいか、今回は、いささか違った雰囲気が。

孫権から後事を託された諸葛恪は、ある人物に声をかけられます。上大将軍の呂岱です。呂岱は、諸葛恪に「あなたは、(事を
行う前に)十度お考えになるべきです」と助言しますが、諸葛恪は嫌な顔をします。
この言葉は、季文子(季孫行父)が三度考えた(後に事を行った)、ということを踏まえてのものと思われますが、諸葛恪には、
考える回数が多い分、自分が季文子に劣る、と言われたように感じたからです。
呂岱は、諸葛恪が、人の助言に耳を傾けないその性格ゆえに失敗することを危惧しますが、もはや為すすべはありません。
 しかし、七十歳の老皇帝(孫権)が後事を託する者達の中に、九十一歳の老将(呂岱)がいるというのも、不思議なもの。
 また、季文子が三度考えたことに対し、孔子は「二度考えれば足る」、としたことについての考察も、なかなか興味深い
 ものがあります。

才覚はあるとはいえ、危うさを抱えた諸葛恪に、いかに掣肘を加えるか。孫権も、このことはよく承知していました。皇子達の
封地にも、その意図が見えるといいます(長江に沿う形で、孫奮、孫休、そして孫亮を配置。廃太子・孫和は、孫氏にとっては
興隆の地だが地味の悪い長沙に配置することで復位はないことを示す)。
細かいところはこれからとしても、孫権亡き後の、おおよその形ができてきたというところでしょう。しかし、いかに制約を加
えたところで、諸葛恪が巨大な権力を持つことは明らかです。潘皇后の垂簾政治、という形をとって自らが実権を握りたい孫弘
としては、何とかしたいところです。

そんな中、ある事件が起こります。

続きます。

360 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:21:12 ID:???0
続き。

潘皇后が急逝したのです。看病疲れはあったにせよ、子の孫亮が幼いことからも分かるように、まだ若く特に持病もない皇后の
急逝に不審なものを感じた(首筋に痕跡があるのに気付いた)諸葛恪は、みずから調査にあたります。
不審者が侵入したのではないか。皇后の侍女に、ついで衛士に問うものの、そのような者はいませんでした。どこか衛士の死角
をついて侵入したのか、と周囲を調べますが、死角は見当たりません。
事件は迷宮入りか、と思われましたが、再度衛士に問うたところ、侍女達に不自然な行動がみられたことから、真相が明らかに
なりました。

やはり、皇后は殺害されたのです。はじめ、侍女の証言に怪しいところがなかったのは、彼女達の間で口裏合わせがあったため
でした。それほどまでに、皇后は憎悪されていたのです。
この事件の少し前に改元が行われましたが、それをもってしても、呉の不運は祓えなかったのです。

孫権の病状は、いっこうに回復しません。不安に駆られた呉の人々は、この頃、神と尊崇されていた王表のもとに集まるように
なります。
王表には、論戦を仕掛けてくる相手を言い負かすだけの弁才と学識があったことは確かなようですが、いくら彼でも、死にゆく
孫権を救うことはできません。このまま孫権が死ねば処罰されることを悟った彼は、姿を消しました。
王表が神であったかどうかはともかく、彼の逐電は、呉から神が去ったことを暗示していたのでしょうか。孫権の容態は、この
後、悪化の一途をたどります。

続きます。

361 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:22:50 ID:???0
続き。

皇后の急逝にも、どこかうつろな孫権。しかし、おのが死を自覚した孫権は、あらためて、後事を託すべき者達を招集します。
呼ばれたのは、諸葛恪、孫弘、滕胤、それに呂拠の四名(孫峻は、孫権の命をうけて招集する側)です。
孫権は、諸葛恪が独断に走らないよう、入念に指示をします。そこまで指示しないといけないのか、とも思いますが、そんな
諸葛恪にまさる臣下がいないがゆえのこと。

これが、皇帝・孫権の最期の詔。と言いたいところですが…いつ亡くなるか分からないとはいえ、まだ生きている以上、これ
とは異なる詔が出る可能性も否定できません。
この日は、孫弘が孫権の看護にあたることになったのですが、孫峻は、これに嫌な予感を抱きます。翌日、他の者と交替する
までの間、孫権の容態を知る者が、孫弘ただ一人になる。これが何を意味するか。

はたして、孫弘にはある予感がありました。「陛下は、今夜、亡くなる」という予感が。孫弘が、諸葛恪を失脚させて自らが
実権を握るためには、何としてでもこの機会を逃すわけにはいかないのです。この間に、孫権が何を話したか、話さなかった
か。それを知る者が孫弘のみということになれば、彼の勝ちなのです。
この夜は、孫弘・孫峻の二人にとっては、とても長く感じられたことでしょう。孫権が生きて朝を迎えるか否かで、すべてが
決まるのです。

孫権の容態を確認しながら、孫弘は、孫権の生涯に思いを馳せます。孫弘にとっての孫権とは、正直言って、よく分からない
存在でした。学問好きということだが、酒癖が悪いと印象が強く、何が偉大なのかよく分からない…が、それゆえに偉大なの
であろう、と。
そして…孫権は、殂きました。

続きます。

362 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:25:12 ID:???0
続き。

孫権の死を確認した孫弘は、室外の衛士に指示を出すと、直ちに動き出しました。諸葛恪や孫峻に気付かれる前に、孫弘に
都合のよい遺詔をつくらねばならないのです。
しかし、ほどなく、孫峻がやってきました。衛士に阻まれた孫峻が諸葛恪を呼び、兵を引き連れた諸葛恪が衛士を制して中
に入ると…。

孫権の死を知った二人は、孫弘が何をしようとしているかを察しました。ことは、一刻を争います。

孫峻が、諸葛恪が呼んでいる、と孫弘を誘い出し、諸葛恪がこれを斬殺。これにより、一応の決着はついたわけですが、孫
弘もまた、孫権が後事を託した者達の一人であったことを思うと、呉の前途は、決して明るいものとは言えません。


追記。
今回は、諸葛恪・孫峻・孫弘の三人の心理描写が目立ちました。孫権の死を扱った回なのですが、孫権その人については、
あまり触れられていません。これが、彼の偉大さの一端なのでしょうか。
印象的なのは、職務に忠実な衛士達の姿です。孫権の気まぐれのために国政が乱れても、私欲から来る重臣達の権力闘争が
あっても、彼らは、ただ自らの職務を果たしています。
諸葛恪が、自らを阻んだ衛士を指して「忠の者だ」と言って殺さなかったことに、わずかな救いが感じられました。

363 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:26:02 ID:???0
三国志(2012年01月)


今回のタイトルは「太傅」。久しぶりに三国の情勢が語られます。大物達が相次いで亡くなったことで、時代が再び大きく
動こうとしています。

まずは、孫権が崩じた呉から。新帝・孫亮が幼少であることもあり、諸葛恪が巨大な権限を握ったわけですが、冗官を廃し
たり税の減免をする等の施策もあって、上々の滑り出しをみせます。
さて、国外に目を転ずると…。魏との戦いは膠着状態とはいえ、やや劣勢。ただ、呉にとって脅威であり続けた王淩は既に
亡く、司馬懿も亡くなりました。この頃、魏の脅威は、やや弱まっていると言えます。
性急なところのある諸葛恪は、魏への牽制とするべく、新たな城を築かせました。

これにいち早く反応したのが、王淩に代わって対呉戦線を所掌することとなった諸葛誕でした。呉に動きありとみた彼は、
すぐさま呉を攻めるべきであると上奏します。
司馬懿亡き後、服喪中ということもあり沈黙を保っていた司馬師は、このことをさほど重視してはいませんでしたが、呉も
また服喪中であろうはずのこの時期に動いたことを訝しく思い、彼の意見を採用することとしました。
諸葛誕の他にも、先の戦いで戦果を挙げた王昶達も呉を攻めるべきであると上奏していたこともあり、呉を攻めることに
ついては、すんなりと決定しました。わずかに傅嘏が異見を述べましたが、余りにも少数意見。

魏は、この戦いに、十分すぎるほどの大軍を動員しました(諸葛誕・胡遵、毌丘倹、これに王昶)。胡遵は、かつて司馬懿
のもとで堅実な戦いぶりを見せた良将。毌丘倹は、公孫淵を攻めきれなかったとはいえ、その後の高句麗との戦いにおいて
目覚ましい戦果を挙げています。王昶は、数回前に触れられたように諸事にそつのない人物です。万全の体制と言ってよい
でしょう。諸葛恪は、いきなり大きすぎるほどの試練に見舞われます。

続きます。

364 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:30:09 ID:???0
続き。

ただし、あまりの大軍ゆえか魏軍に油断がありました。そこを、呉の歴戦の勇将・丁奉が突きます。僅かな兵で敢然と攻撃を
加えると、魏軍は存外あっけなく敗走。諸葛誕・胡遵の軍勢が敗走したと見るや、毌丘倹、王昶はすぐさま撤退。
諸葛恪は、労せずして大勝利を収めました。これにより、彼の呉国内での声望は絶頂に達します。

しかし、この大勝利は丁奉の勇戦によるものであり、諸葛恪には、自分が為したという実感が余りありませんでした。実感の
伴わない大勝利のゆえ、もっと戦果が挙げられたのではないか、という思いが日々強くなっていきます。
そして、ついに、再度の魏との戦いを決します。先の戦いから日も浅く、国内には厭戦気分が濃厚にあったのですが、これを
無視しての強行です。孫峻は、そんな諸葛恪に嫌悪感を抱きますが、ここではどうすることもできません。

もちろん、諸葛恪にしても、単独で魏とあたるのは危険すぎるということくらいは承知していますから、蜀漢との連携を考え
ました。使者が、蜀漢に赴きます。
これまで呉と蜀漢とが連携して魏にあたろうと試みたことは何度かあったのですが、いずれもうまくいっていません。蜀漢は
その成立の経緯からして、魏とは不倶戴天の仇敵ではあるのですが、諸葛亮の死後の軍事行動はやや控え気味です。呉の要請
があっても、動くかどうかは未知数でした。
諸葛恪に、それをどうするかといった見通しがあったのかは分かりませんが…この時は、うまくいきました。ちょうどこの頃、
蜀漢では一大事が発生していましたのですが、これが大きく影響していたのです。

続きます。

365 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:34:00 ID:???0
続き。

その一大事とは…費禕の急死でした。ただの死ではありません。宮中で殺害されたのです。

超人的な記憶力と事務処理能力を持ちながらも、自らが諸葛亮に及ばないとみていた費禕は、無理な軍事行動は控えました。
その分は内政の重視に向けられ、蜀漢はしばしの休息の時を享受します。
費禕は、蜀漢にとってかけがえのない人物でした。それゆえ、身辺にはご注意いただきたい。名将・張嶷はそう忠告したの
ですが…魏の降将に高位を与え宮中に出仕させたことが、仇となりました。

費禕の死により、積極路線の姜維の発言力が強くなりました。費禕と姜維は、ともに諸葛亮を篤く尊敬していたのですが、
その見るところは異なっていました。費禕は、その並外れた政治手腕と公正さに、姜維は、大敵・魏に敢然と立ち向かった
雄姿に、憧れていたのです。

諸葛恪からの使者が蜀漢に至ったのは、ちょうどそんな折のことでした。姜維はこれを承諾し、皇帝・劉禅もこれを是認。
ひとりこれを危惧した張嶷は、諸葛恪のいとこにあたる諸葛瞻に書状を出しました。(父に及ばないことを自覚しているが
故に)誠実なことで知られたいとこの言葉なら、むげには扱わないだろうと見越してのことです。
しかし、皇帝が是認した以上、出師は止められません。

ついに、両国の軍勢が出陣しました。魏の宮中は騒然。司馬師は、またしても大きな決断を迫られることになります。

366 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:39:18 ID:???0
追記。

今回の時点では結末は描かれていませんが、司馬師と諸葛恪の明暗が交錯しているような印象があります。

前半に描かれた戦いでは、司馬師は、十分な兵力をもってすればまあ良かろうとやや軽く考えており、魏軍も、大軍故に
寡兵の丁奉を侮りました。一方、諸葛恪は、彼には珍しく人の意見に耳を傾け、慎重に対応。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」などと言いますが、一見すると負けるはずのなかった魏があっけ
なく敗れたのも、ちゃんと理由があってのことでした。
後半は、逆に、諸葛恪に油断があります。先の戦いでは、なるほど諸葛誕・胡遵を打ち破りはしたものの、毌丘倹、王昶
の軍勢は無傷で撤退しています。ともに実績のある将であることは、これまでの経歴をみれば明らかなわけですから、次
に彼らとあたった時はどうか…と考えておくべきでしょう。

この戦いの結果、両者とも、より強い権力を掌握しています。これの運用次第で、情勢が大きく変動することは自覚して
いたでしょうが…さてどうなるか。

367 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:52:22 ID:???0
三国志(2012年02月)


今回のタイトルは「敗残」。才子が才に溺れて失敗し、一方で…。

諸葛恪は、二十万と号する大軍をもって合肥を攻めます。蜀漢との連携、十分な軍勢、綿密な偵察。そのあたりの準備は
きちんとしていたのですが、一つ、忘れていました。合肥の守将の名を知らなかったのです。
将の名は、張特(字は子産)。名前(字)負けしている感のある彼は、諸葛恪からは愚将であるとばかにされましたが、
味方(もとの上官の諸葛誕)からも愚将呼ばわりされており、危うく罷免されるところでした。
諸葛誕の異動に伴い留任しましたが、合肥という要地を任せるには不安あり。おまけに、合肥の兵はわずか三千。諸葛恪
ならずとも、たやすく落とせそうだ、と思われたことでしょう。
張特自身も、自分一人でこの難局を乗り切れるとは思いませんでした。ただ、満寵によって築かれた合肥新城の堅固さと
味方の援軍を信じ、何とか六十日は持ちこたえようとしたのです。

戦いが始まりました。呉軍は猛攻を仕掛けますが、合肥新城の守りは堅く、いたずらに死傷者が増えるばかり。諸葛恪は
いらだちを隠せません。一月経って、ようやく方針転換(土を盛って城壁を無効化する)しますが、将兵の士気は下がる
一方。さらに、軍中に病が発生し、死者はますます増えます。
こうしている間に六十日が経ちましたが、魏の援軍はいまだ来ません。張特は訝しく思います。合肥の重要性を考えると
見殺しにすることはあり得ないし、司馬師が無能だというなら、むしろ慌てて軍勢を動かすと思われるからです。
ともあれ、張特は、なおも防戦を続けねばなりません。呉軍の損失も大きいとはいえ、なお大軍なのです。

ところで、司馬師はどうしていたのか。彼は、側近の虞松の献策を容れ、大胆な、しかし理に叶った用兵を行いました。

続きます。

368 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:55:44 ID:???0
続き。

兵法においては、敵の虚を撃つことを重視します。江南を攻める呉と西域を攻める蜀漢とでは、明らかに、前者の方が
魏にとって重要です。いかに大国とはいえ、両面作戦をとることは難しい以上、どちらかを優先させねばなりません。
となれば、より重要な方である前者を優先するのが道理なわけですが、しかしそれ故に、後者には(こちらは後回しに
されるに違いない)という予断があります。それこそが、虚。
司馬師は、合肥の救援はしばらく見合わせるよう指示する一方で、西域を任せている郭淮と陳泰に迎撃を命じます。

既に老将というべき年齢になった郭淮ですが、動きは迅速でした。司馬氏には、大きな恩があったからです。彼の妻は
王淩の妹。王淩が謀叛人とされたことから、当然に連座の対象となったわけですが、郭淮は、処罰を承知でこれを奪還
しました(奪還したのは息子達でしたが、郭淮は自らが罪を受ける覚悟であえて送り出したのです)。
司馬懿は、西域における郭淮の存在の大きさに鑑み、あえて法を枉げてこれを許しました。司馬懿からみれば、郭淮を
失うことによる損失と比較した結果の判断でしたが、郭淮にとっては、篤情と映ったのです。

ここでは「非凡には遠い」とされる郭淮ですが、曹操の時代から、長年にわたって西域を無難に統治してきたのは伊達
ではありません。その郭淮が、良将の陳泰とともに迎撃に当たったわけですから、相当の大軍が動いたはずです。
魏の中央は当然に合肥の救援を優先する(ゆえに西域の救援は遅れる。その間に戦果を挙げる)という姜維の目論見は
外れました。出兵したことで呉との約定は果たしたわけですから、戦果が見込めなくなった今、兵を動かす意義はあり
ません。姜維は、呉の不甲斐なさを詰りながら、撤退しました。

続きます。

369 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:59:36 ID:???0
続き。

姜維が撤退したことで、魏への脅威は、合肥を攻める呉軍に絞られました。しかし、司馬師は、まだ動きません。そう
して、開戦から九十日が経過しました。

魏・呉両軍とも、そろそろ限界に近づいていました。そんな中、守将の張特が、諸葛恪に面会を求めてきました。これ
は、降伏に違いない。そう思った諸葛恪は、しばらくぶりに上機嫌になります。
張特が刺客になることを怖れた諸葛恪は、それについての用心は怠りませんでしたが…。

魏の法令においては、開戦から百日が経過しても援軍が来なかった場合は、将が降伏しても連座は適用されない。自分
(張特)はもう戦うのをやめようと思うが、納得しない兵もいるので説得したい。そんなことを聞かされた諸葛恪は、
ますます勝利を確信します。
しかし、帰還した張特は自らの勝利を(少なくとも、まだ戦えることを)確信していました。諸葛恪は、自軍の損害の
大きさを隠すのを忘れていたのです。しかも、張特が降伏するものと思い込んだため攻撃が中止されました。この機会
を逃す手はありません。張特は、この間に防備を固めました。

張特にしてやられたことに気付いた諸葛恪は激怒し、攻撃を再開しますが、既に戦意を失っている呉軍には合肥を攻め
落とす力などありません。しかも、ここでついに司馬師が大軍を動かしましたから、もはや手詰まり。
諸葛恪は、撤退を余儀なくされます。

続きます。

370 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 22:02:04 ID:???0
続き。

諦めきれない諸葛恪は、帰還するのをためらい、屯田をしようか、などと言い出します。しかし、その軍は、あくまで
皇帝から授かった国軍であって、諸葛恪が好き勝手に扱ってよいものではありません。

このことを知らされた孫峻は、繰り返し詔勅を出させることで、何とか諸葛恪を帰還させました。しかし、いたずらに
兵を消耗した(大きな会戦はなかったが大敗に等しい)にもかかわらず、諸葛恪は凱旋したかの如く振る舞い、批判的
な人々を遠ざけました。
かつて諸葛恪は、蜀漢に仕えた叔父・諸葛亮は父・諸葛瑾に劣ると言いました。しかし、たとえ形式上のこととはいえ、
諸葛亮は自らの失敗の責を負い降格するということがありましたし、厳格だが公平な政治を行い、蜀漢の人々から畏敬
されました。それができない諸葛恪は、父に劣る、と貶めた叔父にまさると言えるでしょうか。

このような有様を、孫峻は苦々しくみていました。諸葛恪が君臣からの支持を失っていることは明らか。このままでは、
自分も巻き添えを食らう。そうならないためには…。

371 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 22:04:55 ID:???0
追記。

司馬懿、孫権が世を去り、曹操や劉備の時代を知る者は殆どいなくなりました、歴史上は、まだ三国時代の真っただ中
なのですが、一般的な、物語としての三国志の時代は既に去っていると言えます。

それと関係あるのかどうかは分かりませんが、先の卑衍といい、今回の張特といい、普通は目立たない存在の人々に、
見せ場があるように思います。
今回の張特は、三千の兵で二十万の大軍の攻撃を耐え凌いだわけですが、名将、という感じはありませんでした(まあ、
郭淮でさえ「非凡には遠い」という扱いですから、無理もないのですが)。しかし、絶望的な状況にあってなお冷静な
判断を行い、おのが職責を全うしたわけですから、ひとかどの人物ではあるのだろうな…と。
堅実な凡将・張特に敗れた、才子・諸葛恪。そう思うと、何とも劇的な話です。

おっと、今回、ケ艾が登場しました。一言でいうと、寡黙な努力家です(能力面はともかく、彼もまた諸葛恪とは対照
的な存在と言えます)。三国志の後半を彩る名将の一人ですが、その出発点は、下級官吏でした。農政の分野における
優れた見識が司馬懿に認められたことが、後の業績につながっていくわけです。ただ、下級官吏の頃に世話になった人
に謝意を示さなかった(立身する前に謝意を示すのは己を縮めるのでは、と恐れたため。後に、その家族にはきちんと
報いている)ことで、その人格を誤解されたかも知れません。
ケ艾は、司馬師に、諸葛恪の終わりがよろしくないであろうと予見しました。これを、単なる予言としてではなく、自
分への諫言(位人臣を極めた者は慎重に振る舞うべき)である、ととるところに、司馬師の器量が見て取れます。
ただ、司馬懿といい、司馬師といい、どこか、人としても温度が低い、という印象があります。道理においても、人情
においても正しい判断をしてはいるのですが…。いずれ詳しく語られるであろう司馬昭、司馬炎はどうなのでしょうか。

372 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:51:29 ID:???0
回のタイトルは「大政」。「大政」とくると「大政奉還」が思い浮かびますが、このような大事がそうそう平穏無事に
行われるわけもなく…。

諸葛恪の専横を苦々しく思っているのは、孫峻のみではありません。幼くして皇帝となった孫亮も、そうでした。先帝が
崩じてからまだ間もないというのに、大々的に戦を行い、しかも大敗。さらに、それへの反省もなく…となれば、不快に
思うのも当然でしょう。
聡明で心優しい孫亮としては、心静かに先帝の喪に服していたかったのです。諸葛恪がそのことに配慮していれば、先の
大敗はなく、その名望が失墜することもなかったのでしょうが…。
そんな孫亮に、孫峻が、ある内奏をします。「諸葛恪を慰労する宴を開いていただきたい」と。何か含むところがあると
いうことは、分かります。が、孫亮は、詮索はしませんでした。

孫峻が何をしようとしているのか。多少の見当はつきますが、その全容を知るのは、孫峻のみといってもよいでしょう。
ともに後事を託されたはずの滕胤らも、知る由はありませんでした。
その頃、諸葛恪の周囲では、変事が相次いで発生していました。「捜神記」等で博学ぶりを示すエピソードのある諸葛恪
です。用心はしていたのですが…

続きます。

373 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:54:45 ID:???0
続き。

その日が来ました。やはり、諸葛恪の周囲に変事が発生します。どうにも血腥いのです。諸葛恪に親しい人々からも、何
か不穏なものを感じるので警戒すべきとの忠告がなされました。最大限の用心をして宴に臨むことにした諸葛恪ですが、
なぜか、宴に行かないという選択はしませんでした。不穏なものを恐れるあまり宴に行かなかったと思われるのを恐れた
のでしょうか。

孫峻が、諸葛恪を出迎えました。立ち居振る舞いは、あくまで丁重そのもの。一見すると何ら怪しいところはないのです
が…それでも、何か違和感が拭えません。
こうして、宴が始まりました。
しばらくして、皇帝・孫亮が退席。さらに孫峻が席を外します。厠に入った孫峻は、ここで衣を着替えます。当時の習慣
としては普通のことですが…ここで彼は、長衣から短衣に着替えました。その、意味するところは何か。

席に戻った孫峻は、突然、諸葛恪に襲い掛かります。召し捕ると言ってはいますが、はなから斬るつもりでした。斬った
後、変わらぬ様子で酒を飲みますが、その後の指示は、なかなかどうして、抜かりありません。

続きます。

374 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:56:45 ID:???0
続き。

ここでの孫峻は、手際が良く、かつ容赦ありません。諸葛恪の死に動揺する一族を、あっさりと殲滅したのです。都を
遠く離れており、のんびりと過ごしていた諸葛融達も、例外ではありませんでした。
孫堅の弟・孫静の曾孫という微妙な存在であった孫峻は、こうして大権を掌握しました。
このクーデターにおいてはみごとな采配をみせた孫峻でしたが、その後は驕慢になります。聡明とはいえ、幼弱な孫亮
は、引き続いて、実力者に翻弄されることになります。

一方、魏では…。司馬師が大権を掌握しているわけですが、諸葛恪とは異なり、これといった失策はありません。です
が、皇帝が軽んじられているのでは、と思い、密かに反発している人々がいました。
若くして呉にも名を知られる名士となっていた李豊も、その一人でした。かつて司馬懿と曹爽とが対立していた時には
両者から距離を置いていた彼は、その後もまあまあ順調な官僚生活を送っていたわけですが、呉でのクーデターの話を
知り、魏でも同様の(専横の振る舞いのある実力者を排除し皇帝に大政を奉還する)ことはできないか、ということを
考え始めました。仕事ぶりは不まじめ(欠勤が多い。ただし業務はきちんとしているので無能ではない)ですが、勤皇
の志はあるのです。

このままでは魏は危うい。そういう危機感を持った、皇后の父・張緝や夏侯玄といった人々が、司馬氏を排除すべく、
水面下で動き始めました。

375 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:59:11 ID:???0
追記。

今回、諸葛恪が破滅したわけですが…これだけの変異があり、本人も危機感を持って臨んだのに、最期は呆気ないもの
でした。度重なる失策に加え、諫言する人々を遠ざけた末のことですから、本人については自業自得ですが、一族ごと
殲滅されたのは、どうにも後味が悪いものがあります。
遊び好きで、人と仲良くやってきたはずの諸葛融も、助けてくれる者が現れなかった(本人は自害ですが脱出を図った
息子達はあっさり殺されている)のは、少し物悲しいものがあります。

それにしても、魏の皇帝・曹芳は影が薄いです。この頃にはとっくに成人しているはずですがいまだに幼弱扱いされて
いるのが、何とも。

376 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:15:13 ID:???0
三国志(2012年04月)


今回のタイトルは「掃除」。しかし、その内実は…。

李豊は、張緝のもとに子の李韜を遣わしました。「このままでは、皇帝に近い我らは、司馬師によって排斥される」。そう
いった危機感を持つ者同士での連携を模索していたのです。
李豊・李韜父子も、張緝も、才覚のある人物です。その危機感は、まんざら妄想ではありません。李韜の言葉に迷いがない
のをみてとった張緝はこれを了承します。
李豊は、さらに宦官達とも話をつけました。後漢の頃ほどではないとはいえ、宦官達の中には不正を働く者もおり、彼らは
司馬師による処断を恐れていましたから、この話に乗ります。

こうして、李豊は、外戚と宦官とを抱き込むことに成功しました。あとは、帝室に近く、名士でもある夏侯玄ですが…なぜ
か、やや消極的です。ここでは触れられていませんが、かつて司馬師とは義兄弟(司馬師の最初の妻が夏侯玄の妹)だった
ことが影響していたのでしょうか。それとも、単に危機感が薄かったのでしょうか。
優れた学識と文才の持ち主ではありますが、権力闘争を勝ち抜こうとする胆力が欠けているのでは…。ともあれ、そのこと
に、李豊は不安を抱きます。かといって、この計画が成った後、事態を収拾するには、夏侯玄の存在が不可欠だとも思って
いるのです。

さて、この計画ですが…先の王淩もそうですが、一つ問題があります。協力を求める相手が多いのです。「事は密をもって
成り、泄をもって敗る」と言いますが、手広く声をかけると、当然ながら異心を抱く者もいるわけで…。

続きます。

377 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:18:00 ID:???0
続き。

案の定、このことが司馬師に知られました。何ゆえ、李豊が…と思うものの、複数のルートから情報があがってきたとなれ
ば、無視することもできません。
司馬師は、やや強引に李豊を呼び出し、自邸に連れてこさせました。

無理やり連れてこられて不機嫌な李豊でしたが、そんな彼を、司馬師は高圧的に迎えました。そして、中書令である李豊に
皇帝の行状を語ります。
先帝が崩じてから十数年。とっくに成人した曹芳ですが、淫楽に耽り、まともに政務をとれないというのです。
そんな皇帝にかわって政務をみている。その自負のためか、司馬師の言葉には、皇帝への敬意はみじんも感じられません。
「なんじは、かような皇帝に親政をさせるため、われを除こうとした」
そこにあるのは、個人的な憎悪などとは次元の違う怒り。まっとうな為政者を除いて国政を乱そうとする者への怒りです。

李豊の計画は、完全に失敗しました。協力者の名も、全て把握されています。もはや言い逃れることも不可能。目の前が
真っ暗になった李豊ですが、司馬師に「叛逆」と言われると、落ち着きを取り戻し、司馬師を非難しました。
「わたしは叛逆などしておりませんよ。皇帝を助けんがためにしたことを叛逆といわれる覚えはない。皇帝をないがしろに
しているあなたはどうなのか」
こちらにも、正義があります。至尊の存在であるはずの皇帝をないがしろにする者を除くのは臣下の務めなのです。

異なる正義のぶつかり合いといったところですが、ここは司馬師邸。司馬師の側に控える力士が、たちまちにして李豊を
突き殺しました。

続きます。

378 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:21:36 ID:???0
続き。

李豊の屍体は、廷尉の鍾毓のところに運ばれました。あの鍾繇の子にして、父の名に恥じぬ篤実な人物である鍾毓は、李
豊の死にただならぬものを感じます。
司馬師が殺させたことは明らか。常人であればその威勢を恐れて意のままになるところですが、大将軍としての公式な文
書がない以上、これは私刑によるものであるゆえ、受け取れない、ときっぱり拒否したのです。
これを聞いた司馬師は、怒るどころか、むしろ喜びました。鍾毓が、きちんと法度に基づいて職務にあたっていることが
分かったからです。
なお、文書が整い、李豊の死が公的なものとなると、その死体は受け取られました。

これをうけて、すみやかに、法度にのっとった処断が下されました。
李豊、張緝の一族は滅ぼされました(李豊の甥は幼年のため処刑は免れたようです。なお、公主をめとっていた李韜は、
形式上は自害)。宦官達も処刑され、鍾毓による、夏侯玄への尋問が行われます。
名士・夏侯玄をも処断せねばならぬことを分かっている鍾毓は、哀しみました。彼ならば、あるいは司馬師以上の政治を
行う可能性もあるのです。ですが、法度は枉げられません。

李豊の死に、曹芳は怒りを露わにしました。李豊の計画は知らなかったようですが、側近がいきなり殺されたのですから
穏やかならぬことは分かるのですが、この反応に対する周囲の目は冷ややかなものでした。
曹芳の徳のなさをみた司馬師は、ついに皇帝廃立を考えるようになります。しかし現状ではまだ時期尚早。いかに大将軍
とはいえ、容易なことではないのです。

続きます。

379 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:23:24 ID:???0
続き。

「まずは、掃除、掃除」
司馬師はそう言って、李豊に続きそうな者達の排除に取り掛かります。それを「掃除」という言い方で表すあたり、司馬師と
いう人物の恐ろしさが垣間見えるようです。

この中で排除されたうちの一人が、許允でした。名門意識が旺盛な彼は、司馬懿が亡くなった際、それを喜ぶかのような発言を
したこともあり、状況によっては反司馬氏に成り得る存在として、徹底的にマークされます。
そんな彼に大役が与えられましたが、何と、任地に赴くまさにその時に、横領の罪で逮捕されたのです。流刑で済みましたが、
面目は丸つぶれ。気落ちした彼は、間もなく亡くなりました。
許允は罪人として亡くなりましたが、妻の阮氏は、その聡明さをもって子を守り抜きました。

しかし、これほどまでに入念に掃除してもなお、反司馬氏の企ては続きます。そして、ついに弟・司馬昭の暗殺未遂事件が発生。
司馬師は、最後の大掃除を決意することに…。


追記。

以前から、司馬氏の権力掌握の過程には、何かすっきりしないものを感じています。やっていること自体は、おおむね妥当では
あるのですが…。

380 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:12:34 ID:???0
三国志(2012年05月)


今回のタイトルは「廃位」。司馬師のいう、最後の大掃除が行われます。しかし、司馬師の悩みの種がなくなったかといえば…。

司馬昭の暗殺計画はかなり緻密なものであったようで、ついに立案者の名は出てきませんでした。この計画は、西方への遠征を
行うにあたって参内する司馬昭を宮中で捕え、勅命によって誅する、というものですから、皇帝・曹芳が直接的に関与するもの
です。
そして、その時がきたわけですが…なぜか曹芳は動きませんでした。俳優の雲午が「青頭鶏」(鴨=オウ=押さえるに通じる)
というサインを出したにもかかわらず、です。何ゆえに、かは分かりません。しかし、曹芳の振る舞いに何か異常を感じた司馬
昭は、退出すると直ちに司馬師に報告。
商(殷)の伊尹(王の太甲が暴虐であったので幽閉し改心させた)に憧れる司馬師ですが、現実には、漢の霍光(擁立した昌邑
王が皇帝にふさわしくないとみるやこれを廃した)の道を取らざるを得ないことを嘆きつつも、それを実行せざるを得ないこと
を悟ります。
ただ、霍光は皇帝の廃位(及び宣帝の擁立)には成功しましたが、その死後、一族は滅びました。皇帝を廃するという荒々しい
手段は、かなり危険なことでもあるのです。

しばし思案した司馬師は、「箒を持つ手を変えれば大掃除しても埃をかぶらなくて済む」と、謎めいたことを言います。皇帝を
廃するという大事を掃除に例えるのはいかがなものかとは思いますが、一体、どうしようというのでしょうか。

続きます。

381 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:14:41 ID:???0
続き。

それから程なく、多くの高官達が集められました。ここで司馬師が、皇太后・郭氏からの、ある文書を読み上げます。それは、
皇帝・曹芳が皇帝にふさわしくないため、もとの斉王に落とすべきである、と命ずるものでした。

…司馬師は、自分ではなく、皇太后が皇帝の廃位を言い出したという体裁をとったのです。その影に司馬師がいることはみな
察していましたが、それを非難する声はあがりませんでした(曹芳を擁護する声もありませんでした)。
実力者たる司馬師に媚びるという含みもありましたが、手続上は十分な正当性を有すること、司馬師の政治がおおむね妥当で
ある(彼に従っても損をする者はない)ことが、この挙を肯定させたのです。
かくして、司馬師をはじめとする高官達によって起草された―皇太后の命をうけ曹芳を弾劾する―文書が、皇太后の一族の郭
芝によって届けられます。

この時、皇太后は曹芳と同席していました。ことここに至ってはやむを得ないとは思いつつも、血のつながりはないとはいえ
子として接してきた曹芳と別れることに、感傷的になっていたのでしょうか。
場の雰囲気を壊す形になりましたが、郭芝は文書を差し出し、皇帝の印綬を取り上げさせます。

廃位ともなれば相当な抵抗が予想されるところでしたが、拍子抜けするくらい、淡々とことは進みました。あるいは、曹芳は、
皇帝の位に嫌気がさしていたのでしょうか。さすがに皇太后と別れる際には号泣していましたが、それ以外は何の問題も生じ
ませんでした。

続きます。

382 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:16:18 ID:???0
続き。

さて、皇帝を廃したとなれば、当然に、新たな皇帝の擁立が必要になります。では、たれにするか?

司馬師は、彭城王の曹據(曹操と環氏の子。曹沖、曹宇の兄弟)がよいと考えました。曹操の子ですから、既にかなりの高齢
でしたが、王として大過なく過ごしてきた思慮のある人物です。しかし、これは皇太后に反対されます。彼女は、曹操の孫・
曹叡の妃なのです。ここで曹操の子が即位すると、皇統に歪みが生じる恐れがありました。
 ※曹操の孫から子に戻る形になるので、そのまま曹據の系統で帝位が継承されると曹叡の祭祀が絶える。曹叡も正当な皇帝
  なので、祭祀が絶えることは望ましくない。
  また、皇太后より皇帝の方が世代が上になると、皇太后の尊厳が失われる。
司馬師の思い通りにはさせぬ…という意地もあったかも知れませんが、一理あります。ここは司馬師が折れる形となりました。

そして、皇太后が挙げたのは、高貴郷公の曹髦でした。曹叡の弟の子にあたる彼ならば皇統も保てますし、何より、皇太后と
面識があり、好印象を持っていたのです。
ただし、このとき曹髦は十四歳。幼弱とはいわぬまでも若年です。またしても若年の皇帝をいただくことに、司馬師は多少の
危惧を覚えます。
ともあれ、曹髦を迎えることが決まりました。曹髦とは、どのような人物なのでしょうか。

曹髦は学問を好み、夏の小康(中興の祖とされる)を尊敬するという、独特の感性を持った少年でした。それゆえに、自分が
帝位に就くことにも驚くことはありませんでした。父の王位を継いだわけでもないのに、帝位に就くことがあり得ると思って
いたというのですから、どこか神秘的なものが感じられます。


続きます。

383 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:18:22 ID:???0
続き。

かくして、曹髦は洛陽に着いたわけですが、即位するまでは人臣であるという姿勢を崩しませんでした。先例を持ち出されても
己が信念を通したのです。
その姿勢に、皇太后は、あらためて好感を抱きます。そして、多くの群臣達もその挙止の清々しさを歓迎しました。曹髦の治世
は、魏の中興を予感させる、上々の滑り出しとなりました。

しかし司馬師は、曹髦の聡明さに、いささか危惧の念を抱いていました。若年にして聡明と言われる者は、得てしてさわがしい
ものですが、それが自分に向かうようなことになれば…。
鍾会が、曹髦を陳思王(曹植)・太祖(曹操)にたとえたことも気がかりです。

危惧のもとは、他にもありました。王粛が気になる予言をしていたのです。「東南に兵乱の気あり」。恐らく文欽が叛くという
ことは推測されるのですが…。

追記。
司馬師の苦悩が伺えます。帝位をも左右できるほどの実力者とはいえ、その正当性を保つためには、かくも細心の注意を払わねば
ならないのです。
もっとも、皇帝の側からみれば、何を勝手なことを…というところではあるのですが。

ところで、廃位された曹芳は、たれの子だったのか。司馬師は、うわさだと前置きした上で、曹楷(曹彰の子)の子らしいとして
います。曹叡が曹楷と親しかったからその子を養子に迎えた…というわけですが、なぜそれを明らかにしなかったのか。謎が残り
ます。
曹彰・曹楷父子の評判が悪かったから…ということですが、曹楷の子であれば、確かに帝室の一員ですし、曹叡の子の世代になる
ので、何も問題はなさそうなのですが…。

384 名前:おばら@投稿 ★:2012/06/25(月) 17:07:57 ID:???0
おお!超久しぶりに来てみれば、左平さんがいらした!!
秦漢三国晋談義で盛り上がったのが懐かしいですねぇ・・・
もう10年経ったかw

385 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 03:56:22 ID:???0
おばらさん、お久しぶりです。
>もう10年経ったかw
そういえばもうそんなになるのですね。早いものです。では、今回のレポ?を。

386 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 03:58:45 ID:???0
三国志(2012年06月)


今回のタイトルは「寿春」。王粛の予言通り、東南に兵乱が発生します。王淩の件からはまだ数年。この頃の司馬氏にとっては、
東南は不祥の地ですね。

かつて公孫淵と戦い、高句麗討伐を成功させて勇名を馳せた毌丘倹は、この頃、鎮東将軍にして都督揚州諸軍事という重責を担う、
魏を代表する将帥となっていました。
ともに戦場に立ったこともある司馬懿には多少の親近感がありましたが、司馬師とはいささか距離があります。そんな彼にとって、
司馬師がなした皇帝廃立の挙は、許せない出来事でした。
辺境で戦う将の器量と労苦をよく知る帝王であった曹叡を尊崇する彼にとっては、その遺詔を踏みにじる行為と映ったのです。

そんな彼の配下の一人が、文欽でした。父の代からの根っからの武人である彼は、一言でいえば問題児でした。なのですが、腫れ
物に触るような扱いを受け、この当時は揚州刺史。結構、出世しています。
扱いにくい文欽ですが、彼以上の武人である毌丘倹には、よく従っていました(同じ武人であることもあり、毌丘倹は、その扱い
方を心得ていたのです。一方、諸葛誕とは犬猿の仲)。
文欽は曹爽とは同郷で、その縁で出世したとも言えるのですが、曹爽が滅んだ後も、割と待遇は良かったようです。しかし、司馬
氏が力を持っている現状には、不安と不満を持っていました。

多少の相違はあるとはいえ、二人は皇帝廃立の挙に憤ります。また、毌丘倹のもとには、洛陽で仕官している子の甸から、父上は
決起すべき、との含みを持った文を受け取っていました。
王淩の轍は踏まぬよう、二人は計画を練ります。そして、年が明けると、すみやかに行動に移りました。

続きます。

387 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:01:47 ID:???0
続き。
二人の決起には、皇帝をないがしろにする司馬師を除く、という大義名分がありました。また、そのために、偽造とはいえ皇太后の
詔を持ち出しました。それでも、決起する際に、人々を軟禁状態に置いたうえで誓いを立てさせる等の強行手段を取らざるを得ない
あたり、この決起の危うさを物語っています。
とはいえ、数万の兵を擁した、大規模な内乱の発生です。この頃、司馬師は、目の上の瘤を切除したばかりで療養中だったのですが、
早速、対応に悩むこととなります。

叛乱の規模からすると、大将軍たる自分が行くべき案件ですが、病み上がりの身には堪えます。地位等でいえば、叔父の司馬孚でも
良いのですが、堅実とはいえ応変の才には欠ける司馬孚を遣わすことには、いささかの不安があります。
これについて、司馬師は二人の意見を聞くこととなります。

まず一人目は、王粛です。魏建国の元勲・王朗の子にして優れた学者でもある彼には、あえて直截的な聞き方はしませんでしたが、
その回答は、戦の本質を突いたものでした。
王粛は、かつての関羽の例を挙げ、こちらが敵方の家族を抑えている以上、彼らはやがて自壊する、と看破しました。それならば、
司馬孚がそつなくこなすであろう、と、療養に専念しようとします。
しかし、その後、二人目の傅嘏が来ます。彼は、司馬師自らが行かなければ敵に勢いを与えてしまうことになる、と強諫します。

大局的にみれば王粛の言う通りですが、確かに、「騎虎の勢い」ということもありますから、用心するに越したことはありません。
司馬師は、戦場に赴くことにしました。
となると、都・洛陽が空きます。曹髦がこのことをどうみるか。傅嘏の懸念は、そこにもありました。

続きます。

388 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:03:40 ID:???0
続き。
傅嘏は、曹髦を「こざかしい」とみていました。司馬師に近い彼からすると、親政に意欲をみせる(必然的に、遠からず司馬師と
対立することになる)曹髦は、好ましい存在ではないのです。うかつなことをすると、司馬師不在の間にクーデターを仕掛けるの
ではないか。そうなると…。
それゆえ、留守の役割は重大です。司馬師は、これに弟の司馬昭をあてることにしました。この頃、司馬昭は、蜀漢に備えるべく
西方に駐屯していたのですが、陳泰に任せてよいと見極めがついたので、呼び戻すことが可能になったのです。
司馬昭が洛陽に戻り、司馬師は戦地に向かいます。このとき、司馬昭はかすかな不安を感じますが…。

司馬師みずから行くことを強硬に主張した傅嘏ですが、その後は慎重な姿勢を示します。それは、王基がいうように、司馬師自ら
が行く(敵に勢いを与えない)ことで、勝敗自体はすでに明らかになったからです。
短期決戦を望むのは、兵力面で劣勢の毌丘倹の方。司馬師は、諸方面に命を発し、じわじわと毌丘倹に対する包囲網を敷きます。
傅嘏と鍾会のコンビが、いかにも参謀、といった感じで、作戦計画を練っていきます。

ただし、戦場の情勢は刻一刻と変化するもの。戦局全体をみれば傅嘏の慎重姿勢は正しいのですが、それが全てではありません。
王基は、食糧庫のある南頓まで兵を進めるよう求めます。王基が突出すれば包囲網に乱れが生じる恐れがあるので、傅嘏達はそれ
を却下するのですが、王基は、ついにそれを振り切って南頓まで兵を進めます。
そして、これによって情勢が動きます。毌丘倹も南頓の重要性に気付き、その確保を試みたのですが、王基に機先を制されたため、
そうもいかなくなりました。既に脱走する将兵も出始めており、早急に戦果を挙げる必要が生じたのです。

続きます。

389 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:11:39 ID:???0
続き。
既に劣勢なのは明らかな毌丘倹。そんな彼に、悲報が舞い込みます。子の甸が、亡くなったのです。
父の決起に呼応し、洛陽から父のもとに向かおうとしたのですが、途中で捕捉され、戦った末に討死したのです。魏の行く末を
案じ、魏に殉じた彼の最期を知った毌丘倹は、その死を哀しむとともに、誇りに思いました。
不幸中の幸いというべきか、毌丘倹の子は甸一人ではありません。他の子は呉に逃しました。自分が死んでも、毌丘氏の血胤は
残ります。毌丘倹は、決意を新たに、戦いに臨みます。

一方、文欽は、包囲網の一角を担う兗州刺史・ケ艾の迎撃を命ぜられます。意気込む文欽と、それに何か意見のあるような、中
子の文鴦。さて、何をしようというのか。

また、呉も動いていました。孫峻も、魏の内乱という好機を逃すほど愚かではありません。寿春(を拠点とする毌丘倹)を救援
すると言いつつ、あわよくば…というのは、呉としては当然の判断でしょう。
ただし、この少し前に、陳泰らによって姜維は撤退しているわけですから、今回も、蜀漢との連携はとれていないのですが。

 何というか…立場によって物の見方は変わるものですが、今回は、特に強く意識させられました。前回、群臣達にはおおむね
 好意的に迎えられた、神秘性さえ感じさせる曹髦が、こざかしい、なんて言われているわけですからね。
 ただ、そう言っている傅嘏も、賢者とはいえ万能ではありません。王基の、突出とも思われる行動も、十分に理に叶ったもの
 だったわけですが、それを理解していないように見えました。
 また、毌丘倹父子の、魏(主に曹叡)への忠誠ぶりには、清々しさを感じます。一方で、人々の支持を得ているのは、司馬師
 の方。このあたり、正義とは、政治とは、等と考えさせられます。

390 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:13:38 ID:???0
追記。
今回の「オール讀物」に、宮城谷氏のインタビュー記事が載っていました。それによると、来年九月に出る十二巻をもって、
「三国志」は完結するとのことです。
ファンの人からは「呉の滅亡まで書いてほしい」との要望があったようですが、いつかの記事のように蜀漢の滅亡あたりで
終わりそうです。
(個人的には、さらにその後の、王衍の最期≒西晋の滅亡まで見たかったのですが…)

劉備は、全てを捨てることで蜀を得た、この時代の最大の非常識人である、という見方をされていました。本作では、曹操
を主人公とした(彼を描くために、養祖父・曹騰から書き始めた)わけですが、不思議なもので、劉備の方が独特の存在感
を持ったことになります。

本作の完結が見えてきたことにはいささかの寂しさを感じますが、この時期だからこそ、というべきか、新たに、「三国志
外伝」の連載が始まりました。
第一回の主人公は、許靖です。(上)となっているので、二回か、三回か。

391 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:06:01 ID:???0
三国志(2012年07月)


今回のタイトルは「傅嘏」。毌丘倹の決起の結末はいかに。

前回の時点では、文欽達から最も近いところにいた敵は、南頓にいる王基でした。しかし、戦うよう命ぜられた相手はケ艾。
毌丘倹からすれば、王基ほどには実績がなく容易な敵だと思ったからですが、文鴦は少し違った視点を持っていました。

文俶(鴦は幼名)。未だ幼名が抜けきらない若年ながら、ケ艾が、まだ前線に着いて間もない(→戦う支度が不十分である)
ことを看破し、直ちに攻撃すべきであると説きます。
文欽もこれに同意し、二人は直ちに支度を始めます。父であり、将としての格が高い文欽の方が多くの兵を率いるとはいえ、
文俶の支度は父よりも速やかで、かつ抜かりのないものでした。
二手に分かれて兵を進めたのですが、文俶は、(父の軍勢とケ艾を挟撃するべく)大きく北に回り込もうとします。そして、
これが(両軍にとって)思いもかけない事態を招くことになります。

この時、ケ艾が率いていたであろう軍勢は、一万程度といったところ。文俶が率いていたのは二、三千程度でした(文欽が
率いていた軍勢はこれより多いので、夜襲であれば十分挟撃が可能)。
しかし、文俶のもとにとんでもない報告がもたらされます。数万の大軍が近くにいるというのです。この確認に手間取った
ため、夜襲というのはいささか微妙な時間となりましたが、夜が明けては元も子もありません。文俶は、攻撃を開始します。

この大軍の正体は大将軍・司馬師の本隊でした。王基が突出した形になっていたため、包囲網の形を整えるべく、前進して
いたのです。
そんなところに、文俶は攻撃を仕掛けたのです。通常であれば、無謀そのものの行為ですが…

続きます。

392 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:07:17 ID:???0
続き。
文俶の戦いぶりは凄まじいものでした。圧倒的な大軍が相手とはいえ、夜が明けきらぬうちの急襲だったことが功を奏し、
司馬師の陣営は大混乱に陥ります。
それだけではありません。この混乱のため、司馬師の体調が一気に悪化したのです。

とはいえ、文俶の手勢は僅かです。夜が明けてケ艾達も合流すれば包囲殲滅される恐れがあります。文俶は、未練を残し
つつも、撤退します。
撤退の途中、文欽の軍勢と合流しますが、(司馬師の叱咤で)混乱から立ち直った大軍が迫ります。報告を聞いた文欽は、
迷うことなく撤退しました。
文俶は、自らが殿を引き受け父を逃がします。この戦いぶりがまた凄まじく、その武威に恐れをなしたか、以降、追撃は
ありませんでした。

 物語では、文俶は趙雲に比せられていましたが、そう言われるのも無理からぬ戦いぶりです。人並外れた武勇に加えて
 冷静な判断力。この二つを兼備した勇者は、なかなか得難い人材です。
 また、文欽の逃げ足の速さもなかなかのものです。猛将とはいえ退くべき時が分かっているあたり、ただの猪武者では
 ありません。

文欽達は無事に撤退しました(そのまま呉に亡命)。しかし、その一部始終を聞いた毌丘倹は愕然とします。ただでさえ
兵力が漸減しているというのに、大将軍自らが率いる大軍が迫っているとなると、こちらの劣勢は明らかなのです。
毌丘倹は、体勢を立て直すべく、いったん本拠地の寿春まで退くこととしました。

続きます。

393 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:13:48 ID:???0
続き。
一刻も早く寿春に…と思ったのでしょうが、毌丘倹は、なぜか側近のみを従えて項城を後にしました。いかに漸減していた
とはいえ、まだ相応の軍勢がいたはずなのに、です。
側近のみ、とはいっても、城を出た時点では多数いたのですが、櫛の歯が抜けるように欠けていき、ついには、弟と孫のみ
になりました。いくら勇将とはいえ、これでは、追っ手に捕捉されたらひとたまりもありません。

項城の異変に気付いたのかどうかは分かりませんが、寿春への途上には、既に(近隣住民も駆り出した)捜索網が敷かれて
いました。
捜索を避けるべく、毌丘倹は草むらに身を潜めます。そこに、捜索に当たっていた張属が矢を放ちます。矢は毌丘倹の首を
貫きました。…数万の大軍を率い、少なからぬ功業を挙げた勇将としては、あまりに呆気ない最期でした。首をみた司馬師
が慨嘆したのも無理からぬところです。

かくして、毌丘倹の決起は失敗に終わりました。しかし、ここで新たな問題が発生しました。司馬師の容態が悪化し、ついに
亡くなったのです。享年四十八。
死期を察した傅嘏・鍾会が、司馬昭を呼び、軍の引き継ぎを行ったため、ひとまず混乱は回避できました。とはいえ、これは
あくまでも私的な引き継ぎ。皇帝・曹髦の承認を得たものではありません。
当然、洛陽からは、「司馬昭は引き続き本務にあたれ(毌丘倹討伐のために動員された軍は傅嘏が率いて洛陽に帰参せよ)」
という命令が届きます。兄の後を継いだばかりの司馬昭、いきなりの重大局面です。

続きます。

394 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:18:02 ID:???0
続き。
このとき、傅嘏は、自分が司馬師に出師を強いたばかりに…と自責の念に駆られていました。また、前回も書かれていたよう
に、曹髦の器量に不信感を抱いていました。
それゆえ、彼自身は司馬氏の家臣ではありませんでしたが、司馬昭のために何をすべきか…と思っていました。そんな彼の判
断は、皇帝の命令を無視し、司馬昭が軍を率いたまま洛陽に向かう(洛陽近郊で停止し威圧する)、というものでした。

いかに少年とはいえ、相手は皇帝。正面から命令を無視するのですから、大変な判断です。が、司馬昭も、ここが勝負どころ
と分かっていましたから、この判断を善しとし、実行に移します。
既に皇帝を凌駕する実力の持ち主が、大軍を率いたまま、洛陽近郊で停止し沈黙したのですから、大変な威圧です。ついに、
この件は皇帝側が折れる(司馬昭を大将軍に任命し、公私ともに司馬師の後を継がせた)という形で決着しました。

この重い判断が心身に堪えたのか、ほどなく傅嘏は世を去ります。彼の最後の心配は、ともに司馬師を補佐した鍾会に驕りの
色が見えてきたことでした。もちろん、鍾会を戒めてはいますが、彼がそれをどう聞いたかは…。


追記。
毌丘倹も、傅嘏も、国を想う人物であったことは間違いないでしょう。しかし、毌丘倹にとっては国=曹氏(特に曹叡)なの
に対し、傅嘏にとっては国≠曹氏であった点が異なります。
外伝でもあったように、いわゆる名士にとっては、曹操の出自(宦官の養孫)はどこまでいっても汚点扱いなのでしょうか。

395 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:19:50 ID:???0
三国志(2012年08月)


今回のタイトルは「蛇足」。前回、呉・蜀漢に動きあり、というように書かれていました。このタイトルとの関連は…?

まずは、呉から。孫権には七人の男子がいたわけですが、特にできのよかった上の二人(誠実な努力の人であった孫登、
才徳共に秀でた孫慮)が若くして薨去したのが呉にとって大きな不幸となったことは、既に書かれているとおりです。
二十歳で薨去した孫慮には子はいませんでしたが、三十三歳で薨去した孫登には三人の男子がおり、孫英がぶじに成人
していました。
本来であれば孫権の嫡孫であるわけですが、この時点で帝位にあるのは、孫権の末子・孫亮でした。孫英自身には野心は
なかったようですし、太子となるまでの経緯はともかく、孫亮は正当に即位したわけですから、本来なら何の問題もない
はずなのですが…孫亮が(結果的に)信任している孫峻が、問題でした。

信望を失った諸葛恪を倒した孫峻には、少なからぬ期待が寄せられていました。才智では及ばぬまでも、誠実かつ慎重に
振る舞えば、無難に国政を運営することができたでしょう。しかし、孫峻がしたことは、その逆でした。人々の期待は、
瞬く間に失望に変わりました。

孫峻を打倒せねば。そう思う人々は、自分達の行為を正当なものとするため、旗印となる人物の擁立を考えます。孫権の
嫡孫たる孫英は、うってつけの存在でした。
しかし計画は露見。孫英は、関与を疑われ自害しました。享年は不明ですが、恐らく二十歳程度とのこと。

続きます。

396 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:21:38 ID:???0
続き。

孫峻打倒計画は、これだけではありませんでした。蜀漢の使者が来訪する折を狙って…というものでしたが、これも失敗。
才智においては諸葛恪に劣る孫峻ですが、身の危険を察知することには長けていたようです。
これらの計画は、特に関連はなかったようですが、孫峻は、皇帝・孫亮を疑うようになっていきます(賢さを顕示しない
という賢さがある、とみて警戒したのです)。
そんな中、敵地に城を築くと宣言。わずかに滕胤が諫言したものの、孫峻は聞く耳を持ちません。今回の時点においては
大きな動きはないようですが、孫峻に、いわゆる死亡フラグが…?

一方、蜀漢の方は、というと…。費禕の死後、毎年のように兵を動かしていた姜維が、またしても動こうとしていました。
毌丘倹の決起をみて、魏の西方の備えが手薄になっているのではないか、と判断したのです。さすがに国力の疲弊を危惧
した張翼が諫めたのですが、姜維はこれを無視。強引に出兵を決めます。
 ただし、この出師には張翼も同行しています。劉備の時代から仕えてきた老将の存在は、なかなか大きいのです。
 また、夏侯覇の名もあります。
これを迎え撃つのは、雍州刺史であった王経。教養も気骨もある好人物ですが、軍事的手腕については、ちょっと…という
ところ。西方の軍事を統括する陳泰に急報を送ったのはいいとして、情報が整理されていませんでした。
陳泰は、情報が錯綜していることを見抜き、速やかに指示を下します。その指示は的確なものだったのですが、通信手段が
限られている時代です。王経は、その指示に従わず(指示が届く前に)動いていました。

続きます。

397 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:23:35 ID:???0
続き。

魏にとっては最悪の展開です。王経は、迎え撃つ側であるにもかかわらず、不利な地に布陣してしまったのです。速戦を
好む姜維にとっては、願ってもない状況。あっさりと打ち破りました。魏軍は川に追い落とされ、甚大な損害を蒙ります。
辛うじて狄道に逃げ込んだ王経。なお一万の兵を擁するとはいえ、城は包囲され、兵糧は僅か。絶体絶命と思われました。
姜維がさらに攻勢に出ようとするのも無理からぬところ。張翼が「蛇足である」と諌めますが、聞くはずもありません。

しかし、陳泰は慌てません。援軍は、いずれもケ艾等の良将の率いる精鋭。都の司馬昭からも十分な後援が期待できます。
陳泰が行軍の速度を落とすまでもなく、援軍が追い付いてきました。ここで、軍議です。
軍議において、ケ艾は、要地に拠って敵の鋭鋒を避けては…と進言しますが、陳泰はこれを退けました。姜維の動きは、
魏にとっては最悪のものではない(狄道の攻略に固執したことで、西方諸郡を抑えられる危険がなくなった)。それゆえ、
速やかに狄道に向かい、王経を救うべきである、というのです。
ここは、陳泰の言うことに理がありました。ケ艾は良将ですが、ここは慎重に過ぎたようです。
ともあれ、魏軍は狄道に向けて進軍します。狄道に向かうルートは二つありますが、陳泰はあえて迂路とみえるルートを
進みました。それでも十分な速さで進み、蜀漢軍に気付かれることなく、狄道の近くまで進出することに成功しました。

そのまま奇襲することも可能でしたが、援軍の到着を知らせるべく、狼煙をあげました。陳泰にしてみれば、この戦いの
目的はあくまで王経の救援であって、蜀漢軍の撃滅ではないからです(城内が援軍の到着に気付かないと、動揺した将兵
によって王経が殺害される恐れがあった)。

続きます。

398 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:26:23 ID:???0
続き。

奇襲ではなくなりましたが、蜀漢軍からすれば、いつの間に、という状況には違いありません。城を包囲する兵を残しつつ、
新たな敵軍を迎え撃つというのは、相当な余裕がなければ不可能です。陳泰は、負けるはずがない、と余裕綽々で臨みます。
蜀漢軍は精強ですが、状況が状況ですし、魏軍も十分に精強です。しばらく一進一退の状態が続きましたが、やがて、蜀漢
軍の方が引いていきました。

こうして、魏軍は、狄道の救援に成功したのですが…ここでも、王経は陳泰の指示に従っていませんでした。必要ない、と
言われていたにもかかわらず、涼州に援軍を要請していたのです。戦後、王経が罷免されたのも、無理からぬところです。
一方、陳泰は昇進し、中央に戻ることになりました。
陳泰のあと、西方を任されたのは、ケ艾でした。先の戦いでは慎重に過ぎたケ艾ですが、西方の疲弊と、姜維の過剰なまでの
戦意に気付いていました(陳泰をはじめ、魏の誰もが、補給が続かないから姜維はしばらく動かないと思っていたが、ひとり
ケ艾は、遠からず、姜維が攻めてくると予期していた)。

そしてその予想は当たりました。陳泰に敗れたとはいえ、その前の大勝の功績をもって大将軍に昇進していた姜維は、また
しても兵を出してきたのです。
初めはケ艾を軽く見ていた姜維ですが、なかなかの難敵と分かると、胡済の軍と合流し、膠着状態の打開を図ります。さて、
これがどう出るか。


追記。

陳泰の活躍が目立ちましたが、一方で、魏と蜀漢の国力の差というものを見せつけた戦い、という感じがします。
先の曹真のときもそうでしたが、蜀漢は「勝たねばならない」のに対し、魏は「負けなければよい」わけですから。

また、呉の迷走ぶりもひどくなっています。政治的正統性(魏→漢から禅譲を受けた 蜀漢→漢の血胤)を持たない
だけに、これを何とかしないといけないわけですが…。

399 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:31:34 ID:???0
三国志(2012年09月)


今回のタイトルは「緩急」。ちょっとした差が運命を分かつ…といったところでしょうか。

胡済の軍を待った姜維でしたが、なかなか来ません。この時、姜維が率いていたのは「軽兵」。普通は軽装の兵、という
ことなのですが、先に狄道を包囲した際に攻城兵器がなかったと思われるため、「大型兵器を持たない兵」という含みも
あったのではないか、とのこと(となれば、それを補うことを期待された胡済の軍には大型兵器があった→当然ながら行
軍は遅くなる)。
結局、胡済の軍との合流がならないままにケ艾と正面から戦うはめになり、大敗を喫しました。段谷の戦いです。
相手方に地の利があり、かつ、名将のケ艾が相手となれば、仮に合流が成ったとしても難しかったかも知れませんが…。

この敗戦は、単なる負け戦に留まりませんでした。せっかく服属させた西方諸族が、蜀漢から離反してしまったのです。
精兵も多く失ったため、蜀漢の軍事力は、大幅に低下することに。さすがに堪えたのか、姜維は、かつての諸葛亮に倣い
自ら降格を申し出ました(といっても実務上の権限はほぼそのままですが)。
もっとも、そういうことがあっても、姜維の戦好きは収まりません。これには、張翼も苦言を呈しますが、相変わらず、
聞く耳を持ちません(それでもなお、不思議と張翼を遠ざけなかったのですが)。

蜀漢は、こんな具合。直ちに滅亡には至らないにしてもジリ貧といった感じがあります。相変わらず劉禅の影が薄いです。
では、幼帝・孫亮を戴く呉は、どうなのでしょうか。

この頃、孫峻は、魏から亡命した文欽の言うことに耳を傾けていました。魏に付け入る隙あらば、というわけですが…。

続きます。

400 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:33:14 ID:???0
続き。

魏は、既に司馬昭が実権を掌握しており(特に軍事面においては、独断で兵を動かすことさえ可能)、高官達も、その
ことを概ねよしとしていました。孟子の教えによれば、曹氏<司馬氏なのであれば司馬氏の世になってもよい、という
わけですから、高官達が司馬昭に媚びへつらっているわけではないのです。
事実、当時の高官の多くは、人格識見とも世に優れた人達が任じられていました。しかし、それが全てではありません。
司馬氏の方が良い政治を行うとしても、いまだ帝王ではないのです。臣下が帝王を脅かすのはどうか。そう思う人達も
います。文欽も、その一人でした。

傲慢な文欽は、呉では嫌われていました。しかし孫峻は、彼の意気をみて、魏に隙ありと判断しました。蜀漢が段谷で
大敗したことを知ってか知らずか、魏への出師を決めたのです。
当然、呉内部では猛烈な反対にあいます。その一人が(孫権に後事を託されたうちの一人である)滕胤なのですが、孫
峻は、彼も連れて軍勢を見送ろうとしました。
その時、各将の陣を見て回ったのですが、その一人、呂拠の陣をみた際に、ただならぬものを感じます。…といっても、
異変があったわけではありません。将の威令がよく行きわたった、粛然とした陣があっただけです。
しかし、呂拠は、孫峻とともに孫権から後事を託された者の一人。もし、呂拠と滕胤が手を組んで自分に敵対したら…。
不意に胸騒ぎを覚えた孫峻は、送別の宴に出ることもなく、引き返しました。

続きます。

401 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:35:33 ID:???0
続き。

時宜に適ったとはいえない出師です。滕胤の助言もあり、呂拠は行軍を急ぎません。そんな中、急を告げる使者が訪れます。
孫峻が、亡くなったとの知らせでした。
やがて続報が入り、急な胸の病による死であったことが判明します。さて、そうなると、たれが後任になるのか。

さらなる続報は、驚くべきものでした。孫峻のいとこ、とはいえ、これまで何ら目立った実績のない孫綝が実権を掌握した
というのです。
このことに対し、呂拠は激しく憤ります。孫権に後事を託された滕胤と自分がいるのに、何ゆえ孫綝が、と。呂拠は、滕胤を
孫峻の後任とするよう上奏し、兵を引き返そうとします。

これに対する孫綝の動きは、存外素早いものでした。自身に正当性がないことが分かっているからか、政敵と妥協するという
選択肢は、端からなかったのです。
まず、滕胤を遠ざける命令を出させると、一族の孫憲(孫慮)を遣わし、滕胤を討とうとします。
呂拠に対しては、兵を引き返したことをもって謀叛の疑いありとし、呂拠の属将達に、呂拠を討つよう命じます。これにより、
呂拠の軍勢の動きは遅くなりました。

滕胤は、呂拠の軍勢と合流できれば、十分に勝機はありました。しかし、わずかに、間に合いませんでした。滕胤は討たれ、
呂拠は、呂範の子としての矜持をもって、自害して果てました。
相前後して清廉の人・呂岱も世を去り、呉において、孫綝を制する者がいなくなったのです。孫綝としては、これはもっけの
幸いでした。しかし、彼に国政を牛耳られた呉にとっては、どうなのでしょうか。

402 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:37:31 ID:???0
続き。

まだ幼いとはいえ、皇帝・孫亮は、聡明な人物でした。そんな彼からすれば、孫綝の如き者に制約される状況は、耐え難い
ものがあります。

年が明けるとともに、親政を行う旨を表明した孫亮。しかし、亡き孫峻もその聡明さを警戒していたわけですから、容易では
ありません。


孫権が後事を託した者達が、皆、世を去りました。呉は、この先、どうなるのやら。

403 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:29:30 ID:???0
三国志(2012年10月)


今回のタイトルは「朱異」。呉は、魏の内戦に介入しようとして、また一人、良将を失うことに…。

物語は、既に西暦257年。各国とも、何度か改元が行われています。魏・呉に比べて改元の少ない蜀漢は、小なりといえ
ども、国内は比較的安定している様子。国内情勢については、呉が最も荒れていて…。

もとをたどれば、孫権が呂壱を重用したあたりからその芽があったわけですが、太子・孫和派と魯王・孫覇派の対立の中で、
多くの良臣を失いました。孫権の死後もそれは収まらず、ついに、何の正当性もない孫綝が実権を握る始末。
若年とはいえ聡明な孫亮が、この状況をよしとするはずもありません。即位から五年。親政を行う決意を固めました。

意欲的に政務に取り組む孫亮は、孫綝にとって、うるさい存在となりました。また、皇帝直属の軍事力の形成にも取り組む
など、何が必要かを、正しく理解していると思われます。しかし、この頃の孫綝には、なぜか運がありました。それが呉に
とっての運とは言えないのが、呉の混乱の原因なのですが…。

そんな中、孫綝のもとに、軍吏が報告に来ました。魏の諸葛誕が協力を求めてきたというのです。初めは一笑に付した孫綝
でしたが、諸葛誕が実子を含む多数の人質を出すと聞き、兵を出すことを決めました。
魏の内紛は、呉にとっては好機。この出師は孫亮も承認し、諸葛誕が籠城する寿春に向け、大軍が出撃しました。呉として
は、割と素早く動いたのですが…。

続きます。

404 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:31:15 ID:???0
続き。

それにしても、諸葛誕といえば、魏の征東大将軍。相当な高位にあります。それが、何ゆえ叛旗を翻したのでしょうか。

…諸葛誕は、司馬氏を恐れていました。彼自身に咎が及んだことはないのですが、先に司馬氏によって消された曹爽達とは
親しく付き合っていたため、いつか自分にも…と危惧していたのです。
司馬氏は、司馬懿→司馬師→司馬昭と代替わりし、寛容さも見せていたとはいえ、先の、曹爽達を葬り去ったやり方を見る
と、疑心暗鬼になるのも無理はありません。
そのため、南方を任され、寿春に赴いた彼がまずしたことは、毌丘倹の轍を踏まぬよう、現地の民の心を得ることでした。
これによって、彼のためには死をも厭わぬ者達を得たわけですが、さらに…と大軍を要請したことで感付かれました。

中央への召還命令。一応、三公への昇進という飴はありましたが、群臣達の序列からして、異常な話ではあります。これに
司馬氏の好意を感じていれば、あるいは違った展開があったのでしょうが…諸葛誕には、これが、自分を抹殺するための罠
にしか感じられませんでした。
謀られた、という怒りの中、楽綝を殺し、その軍勢を合わせた諸葛誕は、寿春に籠城します。単独では勝てないことは十分
承知していた故、呉との連携も十分考慮していました。

続きます。

405 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:33:38 ID:???0
続き。

しかし、諸葛誕の本気をみた呉の動きは早かったのですが、魏の動きも相当に早いものでした。荊州には、何事にもそつの
ない王基がいます。彼が、寿春の異変に気付かないはずもありません。中央に出撃を乞うや否や、直ちに兵を率いて寿春の
近郊に至り、包囲網を敷いていきます。

いかに王基といえども手が回りきらなかったか、あるいは兵法に従いわざと空けておいたのか、包囲網には僅かな隙があり
ました。呉は、ここから援軍を寿春に入れることには成功したのですが…諸葛誕にとっては、二重の意味で有難迷惑でした。
一つは、城内に大軍が入ったことで兵糧の消耗が早まること。もう一つは、城内に入った将が、仲の悪い文欽であったこと
です。
このあたり、孫綝の采配のまずさが感じられます。彼の采配のまずさは、これだけではありませんでした。勇将・朱異の
使い方も、その一つです。

当初、朱異が向かっていたのは、寿春ではありませんでした。彼に与えられた命は、孫壱を討て、というものだったのです。
孫壱というのは、孫静の孫の一人で、当時、沙羨侯でした。父、兄、そして彼自身、呉の臣として、何ら問題はありません
でしたが、孫綝に敗れて亡くなった呂拠や滕胤と姻戚関係があったため、孫綝に睨まれていたのです。
孫壱は、朱異が自分を殺すために来たことを察知し、呉に見切りをつけて魏に亡命しました。魏で厚遇されたところをみる
と、呉の帝室の一門の人間の亡命は、魏からしても慮外のことだったようです。

続きます。

406 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:35:58 ID:???0
続き。

孫壱を取り逃がしたことでケチが付いたのか、これまで魏相手によく戦っていた朱異が連敗しました。十分な兵力を擁し、
兵の士気も決して低くなかったのに、です(朱異自身、なぜ負けるのか分からない、という感じです)。

これに取り乱さないところはさすが、といったところですが、魏軍が相当に手ごわいということが分かった以上、うかつ
には動けません。朱異の軍勢は、動かなくなりました。
従軍していた陸抗は、かつての廉頗に似ている、と感じました。強敵相手には、うかつに動くよりもいったん静止した方
が良いこともあるのです。しかし、これまで遮二無二突撃していた朱異の突然の静止は、孫綝に、あらぬ疑いを持たれる
恐れがあります。

陸抗は朱異に諫言しましたが、朱異は孫綝を警戒していなかったため、召還命令に応じて孫綝を訪ねた際に、申し開きを
することも出来ぬまま、殺されてしまいます。
孫綝は、そのまま兵を引き揚げてしまったため、寿春は孤立しました。犬猿の仲の諸葛誕と文欽が、同じ城内にいて、劣
勢の中、焦燥感を募らせていきます。

407 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:41:36 ID:???0
追記。

初動は素早かった孫綝でしたが、結局、事態を悪化させただけでした。諸葛誕も、まさか、呉(というか孫綝)がここまで
役立たずだとは思わなかったでしょう。独力で戦った方がましだったのでは?とさえ思えます。

しかし、孫峻といい孫綝といい、戦いにおいてはどうしようもないくらいに無能なのに、宮廷内の権力闘争においてはなか
なか鋭敏なのが、また…。

また、諸葛誕が反旗を翻した動機が、演義とは異なり、恐怖によるものとされていますが、政敵に対する司馬氏のやり方を
みると、無理からぬことと思います。
「敵に対してはどんなことをしてもよい」というのは、一見正しいようですが、後々のことを考えると…ということがあり
ますからね。

408 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 22:57:43 ID:???0
三国志(2012年11月)


今回のタイトルは「全氏」。呉の名門・全氏に、一体何が…。

寿春の城内では、諸葛誕の部将である蒋班・焦彝が、朱異の死と孫綝の撤退を知り、ある献策をしようとしました。
孫綝が撤退したとなると、寿春は孤立します。城内の兵がこのことを知って恐慌状態に陥る前に、城内の全兵力をもって
打って出よう、というのです。
しかし、タイミングが最悪でした。諸葛誕のそばに、文欽がいたのです。猛将とはいえ、魏の包囲網の堅さをいやという
ほど味あわされた文欽は、当然ながらこれに猛反発。普段は文欽とは犬猿の仲の諸葛誕も、ここでは文欽に同調したため、
献策は容れられませんでした。

蒋班・焦彝は、諸葛誕の決起の大義を信じて、ここまで付き従ってきました。もちろん、ある程度の勝算もあってのこと
です(魏の南部に属する寿春付近は長雨が降る時期があるため、長期にわたる包囲網の維持が困難。よって、長雨の時期
まで持ちこたえれば敵が撤退することが見込まれる)。
しかし、この年は、いつまで経っても雨が降りません。諸葛誕は、巫祝に降雨を祈願させましたが、それも効きません。
こうなると、この決起は、天に認められないものなのか、という疑問が生じてきます。
やがて、朱異の死と孫綝の撤退が城内の将兵に知れ渡ると、士気は目立って低下しました。他の将兵と同じく、意気消沈
していた蒋班・焦彝には、士気を高揚させる術もありません。
献策が容れられなかったこともあり、二人は、降ることを考えます。

降るとはいっても、ことは容易ではありません(ただ降っただけでは、不忠として斬られる恐れもある)。幸い、敵の軍
中につてを発見した二人は、内密に降る意向を伝えさせます。

続きます。

409 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 22:59:46 ID:???0
続き。

諸葛誕の部将、それも、副将ともいうべき二人が降る、という知らせを受けた司馬昭は、これを受諾。二人は機をうかがい、
降ることに成功しました。
司馬昭からすると、労せずして諸葛誕の戦力を削ぐことができたわけですが、さらに大きな知らせが舞い込んできました。
全輝・全儀の兄弟が、魏に亡命してきたというのです。

全氏は、全輝・全儀の祖父にあたる全jが父とともに孫氏に仕えて以来、呉の重臣として活躍してきました(全jは、孫権の
娘・孫魯班を娶っている)。
その全氏から、よもや敵国・魏に亡命する者が出ようとは。司馬昭ならずとも、驚くべき事態です。
訴訟がこじれたため、呉にいられなくなった、ということですが、ことは、全輝・全儀の二人に留まりません。なぜなら、寿
春の城内には、兄弟の叔父にあたる全懌が(他にも、全氏一門の者が多く)いたからです。

孫綝が撤退したことで、呉の援軍は縮小しています。しかし、呉帝室の連枝とも言える全氏がいる以上、呉は全軍撤退すると
いうわけにもいきません。ですが、その前提が覆るとしたら…。
司馬昭は、彼らにも寛容をもって接します。敵国の者であった我らに対し、なんという厚情…。感じ入った二人は、全面的な
協力を約束しました。
司馬昭は、彼らに、あることを依頼します。

続きます。

410 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:01:50 ID:???0
続き。

城内の全懌達に、魏に降るよう説得してもらいたい、というのです。
全jの死後、家督を継いだ全懌が魏に降るとなれば、その影響は計り知れないものがあります。将兵の犠牲を減らすのに、
これほどの策はそうそうないでしょう。

とはいえ、寿春の城内には、全氏以外の将兵も多くいますから、ことは慎重を要します。
幸い、全輝・全儀に付き従ってきた従者の中には、全懌達と面識がある(そして、信頼されている)者が多くいました。
彼らを使って、慎重に、連絡を取り合います。

全輝・全儀が魏に亡命した。このことは、全懌達にとっても、大きな衝撃でした。鍾会の策で、呉国内の全氏が皆殺しに
されるかも…という危機感を持たされたのも効きました。
そうでなくても、孫綝が撤退したことで、見殺しにされるのではないか、という疑念が生じているところです。これまで
呉において重きをなしてきた全氏の危機。全懌は、難しい判断に迫られます。
彼一人であれば、そんなに難しいことではないでしょうが、ここには、彼らが率いてきた数千の兵がいるのです。当然、
皆が皆、魏に降ることをよしとするとは限りません。

さて、どうするか。

続きます。

411 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:03:56 ID:???0
続き。

全懌は、ついに、魏に降ることを決意しました。息子達や、従兄弟の全端も、ともに亡命します。
しかし、自分たちだけが城外に出るのでは、置き去りにされた兵がどうなるかわかりません。全懌は、兵達と一緒に、
城外に出ました(もちろん、司馬昭に事前承認を得た上で、です)。

数千の兵が、堂々と城外に出て、包囲している魏軍からも、城内の諸葛誕・呉軍からも攻撃を受けることなく、戦場
から離脱したのです。
何とも不思議な光景ですが、これにより、全氏の兵は、無事に死地を脱しました。

城内から全氏の兵が消えた。ようやくことの重大さを理解した諸葛誕達は、これまでの防戦体制から一変、決死の総
攻撃を試みます。
その攻撃の凄まじさは、冷静な王基でさえあわや、というところでしたが、数か月の籠城を経た後で数倍の敵による
包囲網を突破するのは、やはり無理がありました。
再び城内に追いやられた諸葛誕は、疑心暗鬼が募り、ついに文欽を殺害。その子・文俶にも危険が迫ります。

412 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:05:00 ID:???0
追記。
全j以外の全氏は、ゲーム等では、目も当てられないような低数値にされがちですが、今回の全懌は、父の全jや
兄の全緒にも見劣りしない人物として描かれていたように思います。
数千の兵の命を守るため、あえて難しい方法を選んだ全懌の行動は、見事なものでした。
寛容をもって接した司馬昭の勝利と言えるでしょう(それだけに、諸葛誕の決起の遠因となった曹爽派の処断には
すっきりしないものを感じるのですが)。

また、孫綝の軍事的手腕のなさが、あらためて浮き彫りにされました。魏の内紛に介入したはいいが、ただ将兵を
失っただけでした。
それにしても、全氏が亡命せざるを得なくなるほどにこじれた訴訟とは、いったい…。

413 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/01/01(火) 00:22:54 ID:???0
今回は三国志は休載でした(文藝春秋の90周年特別号、ということです)。

414 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:51:20 ID:???0
三国志(2013年01月)


今回のタイトルは「孫亮」。諸葛誕の決起がついに決着します。とともに、呉に動きが…。
文俶達は、寿春城内の小城に起居していましたが、ここに諸葛誕の軍勢が迫ります。数百も手勢があれば、諸葛誕を
殺して父の仇を討てる、と思った文俶でしたが、兵達は恐慌を来たし、我先にと逃げ散る有様。
これをみた文俶は、何を思ったか、城壁を越えて脱出し、不倶戴天の敵であるはずの司馬昭の陣に駆け込みます。

司馬昭も驚いたでしょうが、彼は、何より政治家でありました。普通ならば即刻処刑しているところを、敢えて許した
のです(戦いの序盤で降ったなら処刑していたであろうが、窮した今であれば、許す方がよい、と判断した)。
自身のみならず、兵達にも気遣いをみせる司馬昭に感じ入った文俶は、城内に投降を呼びかけます。

そろそろか。司馬昭は陣を進め、ついに、城内に兵が突入しました。いよいよ、諸葛誕に最期の時が迫ります。
この時、彼にはなお千を越える兵がつき従っていました。もはやこれまで。我が首を差し出せば…。しかし、ここまで
ついてきた兵達は、たれ一人としてこの場を去ろうとはしませんでした。
決起は失敗し、謀叛人として死ぬ。甚だ不名誉なことではありますが、それでもなお、これほどの人々がついて来て
くれることに、諸葛誕は感激します。そして、ついに…。

 諸葛誕は、魏への忠義を唱えて決起しましたが、かつて浮華の徒として曹叡から遠ざけられたこと、(文欽と不仲
 だったとはいえ)毌丘倹の決起に同調しなかったことを考えると、それにはいくらかの修辞があったのではないか、
 とされています。
 ただ、司馬昭の意を受けた賈充と面会した際のやりとりをみると、決起せざるを得なかったのか、とも思えます。
 (司馬師には殺されないが司馬昭には殺されると思った、ということですが、これって、賈充のせいでは…)

続きます。

415 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:52:48 ID:???0
続き。

諸葛誕は戦死し、決起は鎮定されました。彼に最期まで付き従った兵達は、たれ一人として助命を願うことなく、
処刑されました。哀しい場面ですが、ある種の美学があります。
城内に残された呉の将兵達は、司馬昭の寛弘に感じ入り、多くはそのまま降りました。年を越えて続いたこの戦いは、
司馬昭の完全勝利に終わったのです。

司馬昭は、この余勢をかって呉に侵攻しようか、とも思いましたが、ここは王基の諫言に従い、兵を引きました。
大勝の後、調子に乗ってさらに戦いを続けて惨敗を喫する、という例は、遠くない過去にも何例もあるだけに、この
判断は賢明でした。

魏においては、結果として、司馬昭の力がますます強くなる(相対的に皇帝・曹髦の力は弱くなる)こととなりました。
では、呉は、どうなのでしょうか。
普通、これほどの敗戦ともなれば、総司令官たる孫綝の責任が問われます。そうでなくても、自責の念にかられ、降格を
申し出るなりするものですが、孫綝は、自分には全く責任はないと言わんばかりのふてぶてしさを見せます。
これには、皇帝・孫亮も怒りを隠せません。そうでなくても、孫綝がのさばるこの現状は、呉にとって望ましからぬもの
なのです。孫亮は、孫綝の勢力を削ることを考えます。

皇帝自らが兵を率いて孫綝を拘束する。臣下に任せず、自ら大事に当ろうというわけですが、それには、中軍を預かる全
尚(皇后の父)の協力が必要でした。ただ、彼の妻は孫綝の一族。それだけに、慎重に事を進める必要がありました。

続きます。

416 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:54:14 ID:???0
続き。

いよいよ計画が固まった頃合いを見て、孫亮は、全尚にことを打ち明け、協力を求めました。もちろん、妻には極秘で
あると念押しをして。
しかし、彼女に感付かれた全尚は、このことを話してしまいます。彼女は、直ちに急使を孫綝に派遣。孫綝は、間一髪の
ところで命拾いをしました。
そして、逆に孫亮を包囲。皇帝が昏乱であるとして、廃位を宣言します。


追記。
今回は、人の美しさと醜さとが、かなり強烈に描かれていました。
前者は、諸葛誕に殉じた兵達です。彼らは、諸葛誕から何かしらの恩徳を受けたのではあるのでしょうが、最後は、そう
いった利害を超えて、敬愛していました。
後者は、言うまでもなく、孫綝。あれほどの惨敗を喫しながら、恥じ入ることさえしないのは、厚顔無恥というほかあり
ません。しかも、かような小人が、まっとうな皇帝を廃するというのですから、他人事ながら、腹立たしいことです。
…ちと感情的になりましたが、かような小人が得てしてのさばるのですから、人の世はままならぬものです。

それはそうと、ここまで、司馬昭はかなり好意的に書かれているように思えますが、そろそろ、あの事件が描かれるはず。
どう描かれるのでしょうか。

417 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:01:31 ID:???0
三国志(2013年02月)


今回のタイトルは「孫綝」。孫権の晩年から続いた呉の混乱が、ようやく終息します。

孫亮が気付いた時には、宮殿は包囲されていました。打って出ることもままならず、玉璽を差し出すことしかできません。
全尚の不甲斐なさを詰りますが、空しいことは分かっています。
全紀(全尚の子)は恥じて自害し、全皇后(全尚の娘)は、廃位後も孫亮と辛苦を共にしました。子供たちは全うだった
のに、ひとえに、全尚が…。

聡明な皇帝を廃位するという、董卓以上の暴挙を為した孫綝ですが、さすがに、自分が皇帝に…とまではいかず、孫権の
他の皇子を擁立しようとします。とはいっても、孫権がもうけた男子七人のうち、上の四人は既に他界し、末子の孫亮は
廃位されたところ。残っているのは、五男の孫奮と六男の孫休の二人です。
結局、おとなしいとみられた孫休が選ばれました。

知らせを聞いた孫休は、当初、迷いました。弟が廃された後、兄の自分を立てようというのですから、正常な事態でない
ことは火を見るより明らか。孫綝の傀儡になることは分かりきっているのです。
一地方王としての静かな日々を捨てるに相応しいものではない。そうなのですが…しかし、ここで断ると、思いやりの心に
欠ける孫奮が即位する…。

それはならぬ。このとき、孫亮は、私事よりも国事をとる決断を下しました。ただ、龍に乗ったが尾がないという夢は、
何を意味するのか。このことは気になります。

続きます。

418 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:02:38 ID:???0
続き。

当初、ゆっくりと都に向かっていた孫休ですが、道中で出会った老人の言葉をうけ、急行します。そして、いよいよ即位。
あのおとなしかったお方が、かくも堂々と…。さすがは皇子であらせられる。側近たちを感心させる変貌を見せます。

かくして即位した孫休ですが、この時点では、孫綝の傀儡でしかありません。まずは、彼らに地位や恩賞をばらまいて、
敵意を抱かれないようにしなければならないのです。
そして、この一点については、孫休は孫亮に勝っていました。孫綝たちは、すっかり安心して、参内するようになったの
です。これは、好機でもありました。
とはいえ、皇后冊立等、孫綝のいうことを聞かないこともありますから、猶予はわずかしかありません。孫休の味方に
なる者がいればよいのですが…

いました。張布です。即位時から、いずれ孫綝と戦うことになるであろう、と覚悟していただけに、両者が結びつくのは
早いものでした。
ただし、主要な地位のほとんどを孫綝たちに占められているだけに、打つ手は限られます。というか、手段のみならず、
時期も限られます。
孫綝を除き、国政を正すのは、詰まるところ、運任せなのです。張布は、死を覚悟しました。

続きます。

419 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:04:20 ID:???0
続き。

臘日。この日こそが、孫綝を除くことができる、唯一のときでした。

この日、参内を前にした孫綝は妙な不安を抱きますが、すみやかに退出できるよう図った上で、参内することとしました。
参内をせかす急使が何度も来たことにもう少し不審を抱いてもおかしくないところですが、これは、ここまで孫休が孫綝
の警戒心を削ぐことに成功していた、ということでもあります。

参内し、手筈通り、退出するはずだったその時…! 張布の手勢が孫綝を縛り上げました。孫綝は、してやられた、と苦笑
しつつ、孫休に助命を乞いますが、かつての呂拠・滕胤のことを持ち出されては、ぐうの音も出ません。
孫綝は首を打たれました。享年二十八。その一族は族滅され、呂拠・滕胤(及び諸葛恪)の名誉は回復されました。
かくして、呉は、一応皇帝の尊厳が取り戻されたわけですが…魏はそうはいきませんでした。次回は、その顛末が語られる
のでしょうか。

追記。
孫綝は、軍事・政治共に無能でしたが、危機を察知することには長けていました。この時も、察知してはいたのです。それを
打ち破るあたり、孫休も無能ではありません。
行状芳しからぬ孫奮を除き、孫権の息子達は有能ですね。
ただ、(本人の意思の賜物でもあるとはいえ)運頼みになった感があります。このあたりは、どうなるのでしょうか。

420 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:20:32 ID:???0
三国志(2013年03月)


今回のタイトルは「好戦」。魏と蜀漢の好戦的な人々の話、といったところでしょうか。

まず最初に、孫休が孫綝を滅ぼした(西暦258年)時点での、各国の皇帝の年齢について触れられています。魏は、曹髦18歳。
呉は、孫休24歳。蜀漢は、劉禅52歳です。
魏と呉は、若年の皇帝が廃されて新たに若年の皇帝が擁立された、という点では共通していますが、その後の情勢は異なるものと
なりました。それは、ひとえに、皇帝を制する実力者の力量の違いによるものでしょう。呉の方は、前回までで語られた通りです
が、魏の方は、というと…。

その頃、魏の若き皇帝・曹髦は、現状に苛立っていました。先代(斉王・曹芳)が廃された経緯は承知しているとはいえ、自分も
また、司馬氏に実権を握られたまま、政務に関われないでいたからです。
曹髦は曹芳とは異なり、酒色に走ったりはしませんでしたが、「潜龍」の詩(龍が現れたが、天に昇らないため、瑞祥ではないと
皮肉った)などをみると、相当に不満が溜まっていたことは分かります。
「(曹髦は)理屈をよくこねる」などと書かれているところをみると、やや辛く評価されているのかな…と思えます。確かに、皇
帝という至尊の地位にいるとはいえ、ままならない現実に苛立つのは、人としての風格に欠けると言えるのではあるのですが…。

曹髦の側近に、三人の王氏がいました(といっても血縁関係にあるわけではない)。王沈、王業、そして王経です。王経は、前に、
姜維に大敗を喫した人物として登場していましたが、軍事的な能力には欠けたものの、他に才能があるとみられていたようです。
その三人に向かって、曹髦は、重大な決意を打ち明けます。今から兵を率いて、司馬昭を討つ、というのです。
既に魏の軍事力のかなりの部分は司馬氏に握られていますから、全くもって無謀なことではありました。三人は必死に止めました
が、曹髦は効く耳を持ちません。

続きます。

421 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:29:19 ID:???0
続き。

この時、曹髦はかなり昂奮していました。普段は、学問を好む理知的な人物という感じですが、実のところは、かなりの激情家で
あったのではないでしょうか(ただし、全く理性が吹っ飛ぶというわけではない)。
確かに、これは無謀なことです。しかし、これまで異常なほどに正当性にこだわってきた司馬氏が相手である以上、勝算がゼロと
いうわけでもないのです(皇帝の尊厳が保たれているのであれば、皇帝自ら陣頭に立てば臣下は手出しができないはず。となれば、
司馬氏を倒すとまではいかなくとも、何らかの形での実権回復も見込まれる)。
諫言が聞き入れられないのをみた王沈・王業は、司馬昭に報告。王経は、この場に残ってなおも説得を試みたようですが…ついに
曹髦自らが出撃するという事態に至ります。

まずは、皇太后のもとに向かいます。一応、皇太后の同意も得られればそれに越したことはない、というところでしたが、既に、
曹髦と皇太后の関係は著しく悪化していましたから、これは、事実上の決別でした。
(武装した(不仲の)皇帝がいきなり現れたのですから、皇太后が恐怖したのも無理はないのですが)
当初は、曹髦が見込んだ通りでした。まず現れた司馬伷(司馬昭の異母弟)は、陛下に手出しは出来ぬ、というふうで、ほとんど
無抵抗でした。これに気を良くした曹髦はなおも進撃しますが、ここで、賈充が立ちはだかります。

賈充には、皇帝への敬意はありません。彼が敬意を持つのは、あくまで司馬昭。賈充は、皇帝を眼前にして戸惑う兵達を叱咤し、
攻撃を命じます。
本気で戦えば、司馬氏配下の将兵の方が圧倒的に強いので、曹髦率いる軍勢は押されます。そしてついに、成済が、曹髦を突き
殺しました。

続きます。

422 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:32:49 ID:???0
続き。

最悪の事態も覚悟していた司馬昭でしたが、さすがにこの結末に対する衝撃は大きいものがありました。叔父の司馬孚が直ちに
哭泣して(皇帝と司馬氏の間に深刻な対立があったわけではないと)アピールしたこと、皇太后が曹髦を悪逆であったと罵った
ことで、ひとまず落ち着きを取り戻したのですが、何かすっきりしないものが残ったのも、また事実です。

実権がなかったということもありますが、曹髦は、決して悪しき皇帝ではありませんでした。傍目には生意気な若造と思えたと
しても、見ようによっては、意欲ある(そして、十分な学識もある)青年だったわけですし、何より、これといった乱行もあり
ません。
曹髦を止められなかったために、ほとんどとばっちりという感じで王経は処刑されましたが、母とともに従容と死についた彼は
多くの人々から敬われました。むしろ、彼を見殺しにした王沈・王業の方が、その薄情さを曝したとも言えます。
廃帝という扱いにされたとはいえ、曹髦は皇帝です。その葬列があまりに貧弱なのを見た人々は、魏の終わりが近いことを痛感
したことでしょう。

ともあれ、一応の事務処理は済んだと思われましたが…なおも問題がありました。陳泰が来ないのです。
父祖と同様、名臣として知られる彼に認めてもらえないことには、司馬昭としても不安なのです。陳泰にしても、表立って批判
的なことは言いませんでしたが、その発言をみれば、この件を是としているわけではないことは明らか。
陳泰は、皇帝弑逆を命じた賈充を処刑するよう求めますが、司馬昭はこれを拒否。結局、下手人の成済を、その一族もろともに
殺害することでごまかしました。

続きます。

423 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:38:50 ID:???0
続き。

さて、次の皇帝を擁立する必要が生じたわけですが…。もう、我の強い人物はこりごりです。結局、おとなしいとみられた曹奐
(燕王・曹宇の子)が選ばれました。

一方、蜀漢の方は、というと…。姜維は、さして成果の上がらない出兵を繰り返していました。姜維の相手はケ艾ですが、彼は
魏の一刺史に過ぎません。一国の大将軍の相手が刺史で勤まるのですから、もはや、国力の差は如何ともしがたいものとなって
いました。
そして、内政面においても、宦官やそれと癒着した者達が実権を握るようになっていました。魏や呉のような大規模な内紛こそ
なかったものの、じり貧状態であったのです。
これをみた司馬昭達は、蜀漢を一気に滅ぼすべく、入念な準備に取り掛かります。蜀の地に入る複数のルートから一斉に侵攻
するのです。


追記。
今年出る単行本で完結という話がありました。ということは、あと1、2回。いよいよ、本作のラストが見えてきました。

曹髦の非業の最期は、多くの人々に暗い影を落としました。魏の帝室たる曹氏からみれば、いよいよその衰運が明らかになった
ことを示すものでしたし、遠からず帝位に就くであろう司馬氏からみれば、その正当性を大きく傷つけるものであったからです。
また、臣下からみれば、高位にある人々の節義に疑いを抱いたことでしょう。
司馬昭が切り捨てられなかったことをみると、賈充が司馬氏にとって必要な人材であったのは確かでしょうが、なぜこのような
判断を下したのか、よく分かりません。
そこまで描かれることはなさそうですが、これこそが、司馬氏のたてた王朝があっけなく瓦解した一因であるように思えてなら
ないのですが…。

424 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:17:31 ID:???0
三国志(2013年04月)


今回のタイトルは「劉禅」。ついに、三国の一角が潰えるときがきました。

鍾会を総司令官とする蜀漢への侵攻作戦については、前線にいる姜維は薄々感付いていました。しかし、蜀漢の中央には厭戦
気分が横溢したこともあり、迎撃態勢の構築は不十分でした。
宦官の黄皓の影響はあったにせよ、皇帝たる劉禅に緩みがあったことは否めません(ただ、この時点で在位四十年。歴代皇帝
の中でも長い部類ですから、無理からぬところではある、という点も言及されています)。

そして、ついに侵攻作戦が開始されました。蜀漢領内への侵入自体は容易で、(粗漏のあった許儀を斬る等)軍紀にも厳しい
魏軍の進撃は、まずは順調に進みました。
面白いことに、鍾会には諸葛亮や蔣琬への敬意があり、侵攻作戦の一環とはいえ、蔣琬の子・蔣斌に丁重な書簡を送ったりも
しています(返信も受けています)。姜維にも同様の書簡を送ったのですが…これは無視されました。

姜維は、優れた人材として、名指しで諸葛亮に絶賛されたことを終生の誇りとしていました。それゆえ、諸葛亮に敬意を抱く
(という姿勢を見せる)とはいえ、彼が守り通した蜀漢を侵さんとする鍾会には、強烈な敵意を隠しません。
政治的な感覚はない(それゆえ成果に乏しい戦いを繰り返すことになった)とはいえ、優秀な武将です。領内への侵入を許し
はしましたが、険阻な蜀の地の利を生かし、鍾会の大軍を巧みに食い止めます。

続きます。

425 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:20:12 ID:???0
続き。

鍾会率いる主力軍が姜維に足止めを食らっているのをみたケ艾は、自身に割り当てられた侵攻ルートを変更し、一気に蜀漢の
要所に攻め入ることを思いつきました。
もちろん独断ではなく、洛陽にいる司馬昭の許しは得たのですが、たとえ自身に無断ではなかったとしても、鍾会には面白く
ないことです。成功すれば、ケ艾に大功を立てさせる(自身はその補助に過ぎなくなってしまう)のですから、無理もないの
ではありますが。

とはいえ、この進軍は困難を極めました。数千の軍勢が(補給に気を遣いつつ)険阻な蜀の山岳地帯を短期間に踏破せねば
ならないのです。滑落したら一巻の終わり。それは指揮官のケ艾とて例外ではありません。毛氈にくるまっての登攀という
場面も。

そして…ついに、進軍は成功しました。姜維の援軍として魏軍と戦うものとばかり思っていた後方の諸将は、不意を突かれた
格好になりました。
しかし、小国とはいえ、魏とは同等の正統性を有する蜀漢です。馬邈や蒋舒のように降伏する者もいましたが、劣勢を承知で
なお戦う者達はいました。傅僉や諸葛瞻、張遵といった面々です。

続きます。

426 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0
続き。

諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、
器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。
とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の
軍勢を退かせたのです。
しかし、時の勢いの差は如何ともしがたく、ついに戦死。ケ艾の軍勢は、成都近郊にまで至ります。

当然ながら、蜀漢の宮廷は大混乱に陥ります。魏に降るべきか、南方に逃れるべきか。籠城する、という選択肢が挙がら
なかったのは確かに不思議ではありますが、首都近郊にまで敵軍が来た以上は、籠城しても勝ち目がない、と判断しても
おかしくはないところです。
 通常、自軍の軍勢が健在であれば、敵軍がここまで来るはずはない、と考えるでしょうからね。あと、呉に降っては…
 という声もありましたが、すぐさま却下されました。同盟関係にあるとはいえ、先帝の仇ともいえる呉は、信頼できる
 相手ではないのです。

意見はいろいろありますが、猶予はありません。ここで議論の流れを決定づけたのは、譙周でした。

続きます。

427 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0
続き。

譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も
正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。

とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と
戦っても勝てる見通しはありません。ここで戦えば、皇帝の身も危うくなります。
一方で、先の曹髦のことがあります(皇帝弑逆との批判をかわすため、司馬昭は、敵を作らないことに腐心せざるを得ない)
から、ここで降れば皇帝の身の安全は保証される、という冷静な計算もありました。
もちろん、ここで戦って民にさらなる苦難を与えることは避けたい…という為政者としての責任、というのもあります。

劉禅としても、苦しい決断ではありましたが…ことここに至ってはやむなし。ついに、降伏を受諾しました。子の一人・劉
ェは、先帝に申し訳ないと父を批判したのち、自害して果てましたが、これは国民への弁解である、と書かれているように、
いろいろ難しい事情がある、ということを考えさせられます。

昨日まで至尊の存在であった皇帝が、今日は罪人として敵将の前に身を晒す。ケ艾は、国が滅びるとはこういうことか、と
感慨にふけります。


追記。

物語においては、劉禅の降伏は批判的に書かれることが多いと思いますが、本作では、割と肯定的に描かれていました。
状況を考えれば、賢明な判断であったのは確かですしね。
今回で、「三国時代は終わった」わけですが、まだ「完」ではありません。最低でももう一回はあるわけですが…どこまで
描かれるのでしょうか。

428 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0
三国志(2013年05月)


今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。

ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か
難しいところですが…ともあれ、成果はあがりました。ここからどうするか、が新たな問題です。
降伏を受け入れ、旧蜀漢の君臣に寛容の姿勢をみせると、続いて占領地行政を取り掛かりました。このあたりはそつ
なくこなします(大功をあげただけに、いささか舞い上がった言動もありますが)。
そして、呉への侵攻をも企図します。先の夢占いのこともありますし、軍略家としての血が騒いだ、というのもある
でしょう。これは司馬昭が早計であると却下しますが、ケ艾は諦めません。

しかし、ケ艾は、一つ忘れていました。この戦いの総司令官は、文才に恵まれ、策謀にも長けた(そして気位の高い)
鍾会なのです。ここまでのケ艾の働きぶりは大いに称賛されるべきものですが、それは一方で、人から妬まれる危険
をも孕んでいました。
そして、年明け早々、ケ艾の運命は暗転します。叛意ありとして都に送還させられるというのです。それは、鍾会の
讒言によるものでした。

続きます。

429 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:48:18 ID:???0
続き。

さすがのケ艾も、これには為すすべもありません。三公にまで登りつめた直後のこの仕打ちなのです。しかし、本当の
「滅亡」は、これからでした。

さて、鍾会と激戦を繰り広げていた姜維は、成都付近に敵が現れたとの知らせを受け、急行しましたが…途中で皇帝が
降ったと知らされます。
何のために戦ってきたのか。こちらも呆然としますが、何か思いついたのか、「蜀漢はまだ滅んでおらぬ」と立ち直り、
成都にいるケ艾にではなく、鍾会に降ることにしました。腐れ縁の張翼も一緒です。

蜀漢の柱石たる姜維が自分に降った。この意味の大きさを、鍾会はよく理解していました。これによって一応の面目は
立ったからですが、それだけではない含みがありました。
鍾会は、降った姜維を厚遇し、彼の名によって武装解除された蜀漢の将兵を集めようとします。これは、一体…。

続きます。

430 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:51:37 ID:???0
続き。

かつて傅嘏が危惧していたように、鍾会は、己の才智に驕っていました。姜維が降ったことで、自身が率いる大軍に
加えて蜀漢の精鋭も手に入れられる、となると…結構な兵力になるわけでして、要害の蜀の地に拠れば、あるいは…
と思ったようです。
ケ艾への讒言も、彼の暴走を危惧して、というようなことではなく、嫉妬と、邪魔者は…というものでした。
もっとも、司馬昭(及び王夫人)も、鍾会の野望の大きさには気付いていました。その上で蜀漢征討の総司令官に
任じたわけですから、やはりこちらの方が上手でしたが。

鍾会は、蜀漢の歴戦の将兵を使って野望の実現を目論み、姜維は、お膳立てが整ったところで鍾会達を消して蜀漢の
再興を目論む…。互いに互いを利用しているわけですが…

思わぬところで破綻が訪れました。鍾会が、旧蜀漢内の兵力の完全掌握のため、非協力的な将兵の殺害を図っている、
ということで、内紛が勃発したのです。
なにしろ、旧敵国内ですから、彼らは孤立しています。殺される、という恐怖は相当なものであったはずで、これに
よって、鍾会も、姜維も斃れます。

檻車に収容されて洛陽に送られているケ艾は、この時点ではまだ生きていますが…

431 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00
三国志(2013年06月) 最終回


今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ
書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。

鍾会・姜維が斃れたことで、蜀の混乱は、ひとまず収拾がつきました。監軍の衛瓘は、蜀の天地をみて、しばし感慨に
耽ります。
かつて公孫述は、この地で自立して天子と称しましたが、光武帝によって滅ぼされました。劉備もまた、この地に割拠
して皇帝を名乗りましたが、子の代で滅びました。そして鍾会も、あらぬ野心を抱きましたが、果たせず、斃れました。
この天地には、人の気宇を広げるものがあるようです。では、衛瓘は、どうなのでしょうか。

彼には、そのような野心はありません。ここでの彼は、あくまで監軍。司馬昭の名代に過ぎないのです。その程度の
冷静さは持っています。そんな中、驚くべき知らせが届きます。混乱の中を抜け出した兵達の一部が、ケ艾を奪還し、
こちらに向かってくるというのです。
ようやく事態の収拾がついたばかりのところに、(罪状未確定とはいえ)罪人のケ艾に来られては困る。衛瓘は、決して
ケ艾に同調しないであろう将の田続(蜀漢征討戦の途中、進軍を停止したとして処断されそうになった)に命じ、これを
迎撃させます。
…時に利あらず。さすがの名将・ケ艾も、衆寡敵せず、ついに落命しました。

衛瓘のとった措置を、杜預は批判しました。後に衛瓘は、杜預が予言したように無残な最期を遂げるわけですが、それは
ともかくとして、ケ艾の死によって、名実ともに三国時代が終わった、とされています。
(本心はともかくとして、実力的に、蜀漢に代わって第三勢力になる可能性を持ったケ艾が消えたことで、天下三分は
なくなった、ということ)

続きます。

432 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:26:50 ID:f69prmJ00
続き。

比類なき大功を挙げながら非業の最期を遂げたケ艾ですが、一族のその後は、さらに過酷なものとなりました。ようやく
許されたとき、晋の世(=司馬昭の死後)となっていたのです。
ケ艾は無実でした(少なくとも、死に値するような罪を犯したわけではありません)。しかし、比類なき大功それ自体が、
やがて司馬昭を脅かしかねないものとなっていたことが、彼の運命を暗転させることとなりました。
そして、司馬昭の降した非情の決断は、たやすく訂正するわけにはいかなかった(訂正すれば、司馬昭の判断が誤りで
あったとされるため、できなかった)のです。
一方、鍾会については、兄の鍾毓(鍾会が叛く前に死去)が、以前から弟について危惧していたことを知っていたことも
あり、(鍾会の子(養子?)以外は)おおむね寛容な措置がとられました。

ともあれ、蜀漢の征討という一大事業が成りました。多分に天命を意識するようになった司馬昭は、ここに至って王位を
受けることとしました。
司馬氏に利用されつつも、それでも一応の歯止めとなっていた郭太后が崩じたことも、それを後押ししました。

そんな中、先の蜀漢皇帝・劉禅の一行が到着しました。彼は、姜維の計画に乗ることはなく、兵乱が生じるとすみやかに
脱出して難を逃れました。ただし、(父譲り?の)逃げ足の速さに殆どの臣下は付いていけず、郤正等、わずかな卑官が
つくだけでしたが。
それでも司馬昭は、劉禅の徳がまだ尽きていなかったのだ、として、軽んずることなく迎え入れました。

続きます。

433 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:28:42 ID:f69prmJ00
続き。

劉禅は安楽公に封ぜられました。宴の席で「ここは楽しい。蜀の地を思い出すことはない」と発言したことに司馬昭は
驚きますが、その真意に気付いたかどうか。
愚昧と蔑まされることに耐えられれば、小国の皇帝という重圧から解放されたという気楽さがあるのは確かですが、幼
少期から過ごしてきた、故郷と言ってもよい蜀の地を思い出さない、ということはあるのでしょうか。そうであれば、
劉禅とは相当の非情の人ということになりますが…。

劉禅が洛陽にあったその頃、蜀の地は、いまだ戦いの中にありました。といっても、蜀漢の旧臣が魏に抗戦していると
いうわけではありません(劉禅の停戦命令は厳守されていました。没後三十年経っても、なお、諸葛亮の厳正な政治の
影響は残っていたのです)。呉の、火事場泥棒的な侵攻と戦っていたのです。

もちろん呉にしても、最初から火事場泥棒を狙ったわけではありません。同盟国の危機ということで援軍を向かわせた
のですが、間に合わなかったのです。
蜀漢からは魏に降伏した旨の連絡はありましたから、そのまま撤退してもよかったのですが、蜀の地が魏のものになる
ということが何を意味するか、と思えば、蜀の地を抑えたいと思うのも、無理からぬところでしょう。
しかし、この暴挙は、蜀漢の旧臣達を激怒させました。

特に、羅憲の堅守は相当なもので、最終的にはゆうに十倍を超える敵と戦うこととなりましたが、魏の支援が得られた
ことで、何とか守りきることができました。

続きます。

434 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00
続き。

同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が
いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。
孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問
に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ
誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。

蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ
収束することを確信していました。
しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。
かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬
昭も、それに倣うこととしたのです。

ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か
に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。
司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに…
なのです。
(まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と)

続きます。

435 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:33:21 ID:f69prmJ00
続き。

おのれが何を為したか。天、地、そして自分。この三者が知っていればよいのではないか。司馬昭はそうも思いますが…
やはり「子(なんじ)」は必要なのです。天地のような全くの第三者ではない、しかし自分でもない、他者が。

「その存在がなければ、歴史も、物語も、ありえない。」

司馬昭の死と、司馬炎によって晋王朝が成立したところで、本作は終わります。しかし、その直前に書かれたこのことが、
ひどく印象に残りました。

「四知」で始まった物語が「四知」で完結したのです。
(そして、「四知」を意識しなくなったとき、中華の没落は始まった…という、個人的な感想もあります)

436 名前:投稿 ★:2018/01/13(土) 19:32:31 ID:5Jm+vDrc0
人いるの?

437 名前:投稿 ★:2018/06/08(金) 13:37:14 ID:vj9h6Bpk0
俺がいるぞ 語ろう

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