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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

201 名前:左平(仮名):2008/01/18(金) 22:57:55 ID:PN7pBVAM
続き。

綿竹を落とし、次は雒。守るは、劉璋の子・劉循。賢愚定かならざる人物ですが、彼の守る雒は容易には
落ちませんでした。それまでの進撃が順調だっただけに、ここでの停滞は想定外。龐統は焦り、それが、
彼の命取りになりました。

龐統の死の直接の誘因は、劉備が諸葛亮を呼ぼうとした(そして、その真意が読めなかった)こと。これ
からも分かるるように、本作における劉備は、ほんと、掴みどころのない人物です。
現時点で、それを最も良く知る人物は諸葛亮。前回の落ち着き払った姿といい、何かこう、独特な雰囲気
をまとっています。
三国志の物語において、しばしば主人公(格)として挙げられるのもうなづけるところです。

さて、ここで馬超の名が。曹操との決戦に敗れた後、なおも反攻を試みるも失敗に終わると、漢中の張魯
を頼ったのですが、ここにも長くはおられず、氐族の中に入り込んで命脈を保つという状態でした。
とはいえ、その武名はなおも健在。ここで劉備は、彼を取り込もうとします。一体、どうやって…?


それはそうと、今回の費観といい、龐統といい、その早逝が惜しまれるところです。病死であろう費観は
まだしも、龐統の討死は、後々のことを考えると、やはり痛かったと言えるでしょう(補給に遅滞を生じ
させなかったということからもその能力がうかがえます)。
いかに、劉備は全てを―家族をも含めて―捨てられるとはいっても、守るべきものを持ったこの頃に至っ
てなお才を失っているのでは、飽くことなく才を求め獲得し続ける曹操との差はなかなか縮まりません。
蜀漢と魏の国力差は、こんなところにも表れている、のでしょうか。

202 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:53:54 ID:LaQXGTav
三国志(2008年02月)

今回のタイトルは「天府」。劉備が、ついに益州を確保しました。

成都を包囲すべく、劉備勢の諸将が続々と集結してきます。中でも、最も活躍したのは張飛。何といって
も、厳顔を賓客として迎えたという事実が彼の成長を物語っています。
 遥か後の文天祥の「正気の歌」に「厳将軍の頭」って出てますから、結構有名な話になってますね。
 こういういい話もあって、まっとうに活躍もしているわけですから、普通に優秀な武将として描か
 れてもいいのに、「平話」や「演義」ではぶっとんだキャラになってるわけですから、面白いもの
 です(やっぱり最期があれだからなのか…)。
趙雲も、てがたい戦いぶりをみせました。もっとも、作戦上、やや遠回りしてますから、彼の到着は最後
だったみたいです。そして、ここから加わってきた馬超。
錚々たるメンツが揃ったわけですから力攻めもできるのですが…ここで劉備は、簡雍を使者に立てます。

先に、韓玄の説得の使者に立てられた時もそうでしたが、「何しに来たんだ?」と言いたくなるくらいに
のんびりとしております。
降伏を促す為の使者が、「まー玄徳とは同郷だから〜なーんも命令されてねぇよ」「このまま守ってた方
がいいんでねーの?」なんてなこと言いますか、普通。
とはいえ、そんな簡雍をもつき従えている劉備と己の器の違いを鑑みると…というわけか、ついに、劉璋
は降りました。
前回までの激戦は何だったのか。そんなことも思わされます。

さて、ここで話は急に変わりまして…

長くなったので、ここで分けます。

203 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:54:30 ID:LaQXGTav
続き。
いきなり荀ケの死が語られます。しかも、拍子抜けするくらい、あっさりと。曹操が公に就任するのに反
対していた、曹操から贈られた箱の中身が空だった、この二点の事実以外をあれこれと語るのは贅言では
ないか、そんな感じの書かれ方です。
董昭を切れ者と書き、曹操の公就任の理由に合理性を認める(朝廷が、皇帝のおわす許昌と曹操がいる鄴
に分かれていては権力が二元化してしまうので鄴に実権をシフトさせて…ってな感じの理由づけ。なので
公位就任については、生臭さはあまり感じません)あたり、なかなか興味深いです。
どうも、後漢という王朝にはあまり思い入れがないようですね。

さらに、今回、伏氏の族滅という事態も発生します。皇后の書状を他人に見せてしまう伏完といい、引き
ずり出される皇后を見殺しにする皇帝といい、何か、人としての器量に疑問符が。
どこか爽快さのある前半に対し、後半は何かすっきりしないものがある、そんな回です。

204 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:21:13 ID:licQjHdd
三国志(2008年03月)

今回のタイトルは「張遼」。この名が出てくるということは、そう、あの戦いですね。

まずは、劉備・孫権の睨み合いから語られます。劉備が益州を獲ったことに対して、孫権は相当な不快感
を抱き、諸葛瑾が遣わされます。
結局、話はまとまらず、ここに荊州を巡る紛争が勃発。益州に兵力の相当部分を割いているだけに、劉備
側の不利は否めません。
長沙・桂陽は早々と降り、零陵もまた、呂蒙の策により陥落します。このまま長期戦となれば孫権の有利
には違いないのですが、果たしてそれが最善なのか(荊州の帰属はかなり曖昧であるし、当然ながら曹操
が気がかり)。
ここで、呂蒙とは別に一軍を率いる魯粛は、単身関羽のもとに赴きました。魯粛の言葉には、劉備・関羽
への思いやりがあることを察した関羽は、反論をやめ、劉備の指図を仰ぎます。
ここらへんのやりとりには、ある種の緊迫感があります。斬るか斬られるかというようなものではなく、
それぞれの、人としての器量が試されているのです。
劉備もまた、一方の主となった以上、今までのようにはいきません。魯粛の意を察しつつ、粘り強く交渉
します。結局、荊州南方の郡の割譲で決着がついたわけですが、このあたりの状態を保っていた方が、劉
備・孫権の双方にとって良かったのでは、と思えてなりません。
決して長々と書かれているわけではありませんが、魯粛の早い死の影響は、後々、かなり響いてますね。

ともかく、この紛争に一区切りついたからか、孫権は、十万という大軍を率いて合肥攻撃に臨みます。赤
壁の時はめいっぱいかき集めても三万がやっとだったことを思うと感慨もひとしおというもの。
対する合肥の兵力は七千。しかも、曹操の司令は、張遼と李典とが出撃せよ(楽進は城に残れ)、という
もの。はて、その意味するものは何か。
魏にとっては伝説の戦い、呉にとっては屈辱の一戦。その戦いの顛末とは…。
長くなったので、ここで分けます。

205 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:22:26 ID:licQjHdd
続き。
かくして、張遼・李典とが八百の決死の士を率いて、夜明けとともに出撃しました。
「ゆくぞ」
宮城谷氏の描く勇将達には、無駄なりきみというものがありません(そういえば、文章中に「!」が使わ
れることが全くといっていいほどありませんね)。ここでの張遼も例外ではありません。
余りにも少数だが脱走兵のように無秩序ではない。「敵将の内通か」そう思う者がいてもおかしくはない
ところではありましょう。
しかし、張遼に「通るぞ」と言われて思わず敬礼する呉兵…。想像すると、何ともおかしいものです。

呉の陣内深く入り込んだところで…!いよいよ攻撃開始です。さすがは決死のつわもの達。油断しきって
いた呉軍は大混乱に陥り、孫権自身も、半ば以上冷静さを失っていました(いつの間にか戟を持っていま
すがそれを振り回すわけでもなく)。
なるほど、これほど劇的な戦いも稀でしょう。「寡をもって衆を制す」とはまさにこのこと。十万の大軍
がわずか八百の小部隊に翻弄され、しかも相手はほとんど無傷。彼我の戦意の差はいかんともしがたく。
しかも、撤退時にもまた張遼に翻弄されましたから、孫権にとっては踏んだり蹴ったりです(谷利はきっ
ちりと登場しました)。

最後は、ところ変わって西方の情勢の説明。曹操の圧倒的な力の前に、三十年ばかり続いた小王国は潰え、
梟雄・韓遂もこの世を去ります。
漢中の張魯に、曹操の手が迫るわけですが…。

206 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:26:58 ID:6n1ZaDHe
三国志(2008年04月)

今回のタイトルは「魏国」。今回は、けっこう時間が経過してます。

最初は、韓遂の死から語られます。韓遂の首に向かって曹操が「白髪も少なくなったではないか」とコメント
…ってことは、韓遂は禿頭?
はて、肉体面の描写ってそうはないはずですが…どのようにイメージされたのか興味深いところではあります。

そして、漢中の張魯攻めとなります。
約三十年にわたって独立王国を保っていた張魯。普通であれば、衆を恃んで一戦しそうなところですが、彼は
随分と現実的な思考をする人物で、曹操来るの知らせを聞くと、すみやかに投降するよう指示を出します(勿
論、弟の張衛のように、それを拒む者も中にはいます)。
張衛に同調する人々も結構多く、曹操も苦戦覚悟だったのですが…何とも意外な形で決着がつきました。

さて、張魯のこの決断には、孔子の玉版なるものが少なからぬ影響を与えたとのこと。王莽や光武帝のあたり
でよく出てくる讖緯の思想がこの頃にもなお相当な影響力を持っていたことが伺えます。
しかし…老荘思想を根底におく道教の原型・五斗米道の教主たる張魯が、(偽りとか裏切りを嫌うという教義
からすれば当然とはいえ)本作においては老荘的な感覚で行動する劉備を嫌っている、というのは面白いもの
です。
思わぬハプニングによるものとはいえ、大した損害もなく漢中を制したことに、曹操が上機嫌だったのは言う
までもないでしょう。
ここで、ここまで目立たぬ存在であった司馬懿が登場します。「隴を得て蜀を望」んではどうか、というわけ
です。
しかし、曹操はその進言を容れませんでした。純軍事的に考えれば利も理もある進言ですが、この時の曹操の
中では、欲望の自制、ということがあったようです。
ただ、それは一方で、冒険を嫌うという、老いの兆候であったのかも知れません。
長くなったので、ここで分けます。

207 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:27:57 ID:6n1ZaDHe
続き。
今回の後半の主題は、曹操の後継者の選定問題です。先にちらりと書き込みましたように、曹操は、嫡子・曹
丕の力量は認めながらも、彼の言動への感動がないことから、むしろ、何かしらの可能性を感じさせる―とは
いえこの時点ではまだ顕在化していないのでリスクが大きい―曹植を立てた方が良いのではないか、という思
いが芽生えているのです。
なかなかの才覚を持つ(歴史上は敗者であることを考えると一廉の人物であったことは確かな)丁兄弟の進言
もあり、ますます迷いは深まります。結局、当初の予定の通り、曹丕が太子に立てられたわけですが…。

おっと、今回、曹操は魏王に就任しております。今回の書き出しは建安二十(西暦215)年時点だったわけ
ですから、この一回で二年ばかり経過してます。

208 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:03:18 ID:pY4qHwSK
三国志(2008年05月)

今回のタイトルは「兄弟」。前回のラストから考えると、あの兄弟のことだな、とは見当がつくのですが…
どうもそれだけではないようです。

初めに語られるのは、邢顒。田疇のもとにいたこともある彼は、厳格かつ実直な人物であることから、曹植
につけられます(ともすれば緩みがちな彼を戒めるために…ということです)。
ただ、曹植にはその意味はいまいち理解できていないようで、そのために劉禎の諫言(さすがは建安七子の
一人。かなりの名文)を受けるのですが…これもいまいち効かず。

前回は丁兄弟が語られましたが、今回は、曹植を支えようとしたもう一人の人物・楊脩が登場します。「慎
ましい〜」と評される一方、救愛にも似た曹植の誘いに応じたように、かなりの情熱家でもあり、また、顕
揚欲もあるというあたり、なかなか複雑な人物です。
彼の父が、以前に、曹操によって失脚したということもありますから、魏国をかき乱すという意図もあった
のかも(彼にとっては、それは匡正の行為なのですが)…。

ともあれ、曹植が、王命を受けた門番を斬る、馳道の無断利用などといった失態をしでかしたこともあり、
魏国の太子―曹操の後継者―は曹丕に決まりました。

さて、曹操と卞氏との間には他にも子がいるわけで…曹丕と曹植の間、曹彰のことも忘れてはなりませんね。
学問が大嫌いで将軍たらんとした曹彰は、田豫たちの助けもあり、みごと烏丸討伐を成し遂げました。
遠征時の田豫の進言や凱旋時の曹丕の助言を素直に聞く、敵を完膚なきまでに叩きのめさないことには住民
の安寧は得られないと的確に判断する、というあたり、将軍としてはなかなかの力量を持つ人物です。
早くから、自分が何者であるか(将才はあるが政治には向かない→将軍向き)を見切っていたのでしょう。
学がない分、ちょっと足りないところもありますが、颯爽とした好漢です。
曹植も、自分が何者であるか(文才はあるが実務には向かない→詩人向き)を見切ることができれば、彼の
ためにも、魏国のためにも良かったのでしょうね。
ただこちらは、なまじ曹操も自分の後継者になり得るやも…と迷っていただけに、事態はよりいっそうこじ
れたわけですが。
長くなったので、ここで分けます。

209 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:06:16 ID:pY4qHwSK
続き。
後半は、漢中攻防戦です。さまざまな手を打つも、めぼしい戦果が挙げられない劉備は、後方の諸葛亮に増
援を求めます。
前線にはいないだけに状況把握が不完全な諸葛亮は、楊洪に意見を求めます。
李厳と激論を交わす(その後その李厳から推挙される)ということのあった楊洪、諸葛亮の諮問に対して出
した回答は…。
増援の派遣、でした。ただし、ただ派遣するというわけではありません。これこそ、蜀の存亡をかけた一戦
である。そういう気迫のこもった回答から、諸葛量は、彼の器を理解するのでした。

とはいえ、ただ人手がいるだけではどうにもなりません。ここで黄権が進言します。これこそ、この戦いの
帰趨を決めるものとなるわけですが…。
さて、この前に気になることが。劉備と関羽との連携がいまいちのようです。関羽からの報告がない(荊州
の情報は公安経由で細々とあるだけ)というのです。
これが、今後の展開にどう影響するのか。

210 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:27:27 ID:a7pA1sHW
三国志(2008年06月)

今回のタイトルは「霖雨」。激動の建安二十四(219)年です。

黄権の進言。それは、火を用いて張郃と夏侯淵とを分断し、各個撃破することでした。軍を分けた劉備は両
陣営を急襲。張郃は冷静に対応できましたが、ここで夏侯淵が、僅かな手勢のみで飛び出してしまいました。
多勢に無勢。と、なると…。
…曹操の旗揚げ以来の将・夏侯淵の最期は、意外なほど呆気ない書かれ方でした。戦いが済んで首実検して
みたら、その中に夏侯淵のものがあった、ってな具合です。

もっとも、魏軍もそうやすやすとは崩れません。張郃と郭淮とが冷静に対応し、さらなる攻撃を阻止したの
です。
とはいえ、魏の西方を司る元帥がいなくなったわけですから、ことは重大。ついに、曹操自身がゆくことに
なり、曹操vs劉備の直接対決と相成ります。
ただ、そうはいっても、双方決め手に欠け、にらみ合いになります。これ以上留まっても、得るものはなし。
ついに曹操は撤退を決めます。

当然(?)、鶏肋の話もあり、楊脩の機智と死とが語られます。ただ、曹植の太子擁立に失敗した時点で、
失望していたようですから…この話にも、少し違った含みがあるのかも知れません。
かの楊震の末裔であるだけに、天地に恥じることはしていなかったのでしょうが、権力に囚われ、人をみる
のが甘かったのか。結果論かも知れませんが、少し切ないものもあります。

そして、劉備は漢中王を名乗ります。これを、「ある意味、後漢王朝からの決別」であると指摘されている
わけですが…これは盲点でした。まさしく、私の「思考の死角を突かれ」ました。
そうです。中国史をみると、王国名をそのまま帝国名にしているという例が多いわけで、漢も、もとをたど
れば、高祖・劉邦が楚の懐王によって漢王に封ぜられて生まれた王国。本来は、漢の皇帝≒漢王なわけです。
 神聖ローマ皇帝≒ローマ王の如し…で合ってましたっけ?
と、なれば、漢帝国内に漢王はただ一人。ところが、劉備はその漢王を名乗ったわけです。
劉備自身は漢の帝室の血を引くと名乗っている(そして敵からも否定はされていない)点から、自らの政権
に正当性を持たせるため、漢の継承者を自認しているには違いないのでしょうが…。
長くなったので、ここで分けます。

211 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:28:00 ID:a7pA1sHW
続き。
劉備が王位に就くにあたり勧進がなされたわけですが、当然、関羽の名もあります(こういうものは現在の
署名等と同様、面と向かってせねばならないというわけではないので、おかしくも何ともないわけですが)。
ただ、本作においては、関羽の想いは劉備のそれとはやや異なっているように描かれているだけに、その時、
どのような心境でいたか…。
ともかく、関羽は、軍を北上させます。

「今年は長雨になる」。関羽はそれを予感していたわけですが、魏においても、温恢がそのことに気付いて
いました。ただ、それが荊州方面の魏軍の共通認識になっていなかったために…。

今回のラスト付近の龐悳の戦いぶりは、悲愴の一言でした。ビジュアル的にも、実に絵になる場面です。
 馬上にあっては決して後れを取らない勇将なれど、折からの豪雨に伴う堤防の決壊のため白兵戦を余儀なく
 される。
 関羽の軍勢は安全な船上から容赦なく矢玉の雨を降らせるのに対し、龐悳たちはわずかに水没を免れた堤上
 でそれをかわしながら戦わねばならない。
 そして、降り続く雨。雨は、将兵の気力も体力も奪い取っていきます。

援軍がいつ来るかは知る由もなく、彼我の圧倒的な差の前に、降ろうとする者が現れます。龐悳は、自らそれ
を討つという苛烈さを示しつつ、兵を鼓舞してなおも戦いを続けます。
関羽が説得を試みますが、龐悳も毅然として言い返します。
それぞれに義があり、理がある。しかし、溺死よりは…と降る者が増え、ついに、なお戦い続ける者が龐悳と
二、三名になり…。

今回でこの場面ということは、建安二十四(219)年も暮れ近く。気が付くと、曹操の命尽きる時も迫って
いるわけですよね…。

212 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:16:32 ID:EIpoYnVD
三国志(2008年07月)

今回のタイトルは「関羽」。荊州を巡る攻防は、新たな段階に突入します。

わずか四人となった龐悳の軍勢。堤上に孤立し、もはや生きることを捨てた彼らの前に、一艘の小舟が流れ
着きます。
あたりは闇夜。物音をたてずに包囲網をかいくぐり、これなら…とわずかに助かる希望が生じたその時…!
龐悳、そして名も記されぬ三名とも、さぞや無念であったことでしょう。
最期まで戦い続けた龐悳。関羽もその将器を評価しますが、両者は決して交わりません。惜しいところでは
ありますが、これが戦というものか。

その直後、関羽が放った偵察網に特大の獲物がかかりました。于禁率いる援軍が、雨中に孤立していたのです。
このままでは全滅は避けられない。于禁は、将としての、一つの決断を示します。
『降る』
この一事をもって、于禁の声望は地に堕ちます。しかし、降るに至った経緯とその後の彼の振る舞いをみると、
それはあまりに酷な話です。
作中では、于禁は、「兵を助けてくれるなら」という条件のもとで降っています。そして彼は、(後の話ですが)
劉備にも孫権にも仕えることなく、魏に復帰しているのです。
何かを救う為に敵に降ったが、節義を損なうことなく帰参した…。これは、関羽と同じです。何が二人を分けた
のか。それは、何とも分かりません。
曹操は于禁の投降を嘆きますが、曹操の心身の衰えが、その判断に影響したということはないのでしょうか…。

援軍が壊滅した、となれば、樊城の曹仁は孤立します。しかし、副将の満寵ともども、降ったり撤退するつもりは
毛頭ありません。その理由は、(曹仁には)二つあります。
 一つは、戦略上の意義。樊城に曹仁ある限り、関羽といえども軽々しく北上はできませんが、いなくなれば後顧
 の憂いなく存分に北上される恐れがあります。
 もう一つは、彼の矜持。いかにやむを得ない事情があったとはいえ、江陵から撤退したことは、彼の中ではトラ
 ウマとなっていました。ここでも撤退したら、二度と立ち直れない。そう、恐れていたのです。
食糧庫も水没し、状況は日々刻々と厳しくなっていきますが、これを乗り越えなければならないのです。

長くなったので、ここで分けます。

213 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:17:29 ID:EIpoYnVD
続き。
ここで、傍目には唐突にですが、孫権が登場します。
実のところ、孫権は、半ば手詰まりの状態になっていました。どうやっても、北上作戦がうまくいかないのです。
 無理もありません。「張遼」の回をみてのとおり、あんなぶさまな敗北があったのでは…。
しかも、魯粛も世を去り、国家戦略を語れる人材がいないのです。劉備が漢中王を名乗った際に諮問しても、たれも
答えられないという有様。

いや、一人いました。「男子三日会わざれば刮目して待つべし」の呂蒙です。北上作戦の不利と荊州奪取の有利とを
比較し、後者の作戦を実行するよう、孫権に勧めたのです。

確かに、北上して徐州を取っても、直ちに魏との一大決戦となれば、勝てる見込みも低い上に大軍を張り付けねば
なりませんから、やりくりがつきません。
一方、呉が長江を生命線とする以上、本拠地の楊州の上流にあたる荊州の確保は喫緊の課題。
魏が、直ちに呉に兵を向けることがないのを確認した上で、その作戦は開始されることとなります。

対関羽で、魏と呉とが手を組んだ。このことを極秘にすべきか公表すべきか。ここらへんの駆け引きは、なかなかに
面白いものがあります(というか、私などには、一回読んだくらいではよく分かりませんでした)。
知らぬは関羽ばかりなり…ということはありません。この知らせは、関羽の耳にもしっかりと入っています。ただ、
自身(とその作戦)に自信があるだけに、それを突かれることになるわけです。

ラストは、関羽vs徐晃。ただ、ここのくだりをみると、春秋時代の君子の如く振る舞おうとする関羽に対し、当代
の将軍として振る舞う徐晃、という感じで、少しおかしくも思えたのは私だけでしょうか。

…とここまで書いてみて、(個人的にですが)蒼天での陸遜が嫌いなわけが少しみえてきました。
関羽は左伝の愛読者として知られます。そして、(本作においては)左伝に描かれる君子の如くあろうとしています。
恐らく、于禁の投降を受け入れたのもそのためでしょう。戦場にも「礼」はあるのです。
蒼天での陸遜は、それを嘲笑していました(直接の理由は輜重の体制の不備なのですが、その原因は于禁とその軍勢
を捕虜として受け入れたためなので、捕虜を保護すること自体を嘲笑っているようにみえた)。
その、敵への敬意のなさが、気に入らなかったのかな、と。

214 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:23:38 ID:tI77SrF2
三国志(2008年08月)

今回のタイトルは「徐晃」。魏から見た、荊州での関羽との戦いに決着がつきます。

「関羽を捕らえた者には〜」のくだりに隠微な意図がある、との指摘には、考えさせられるものがあります。戦場で
関羽と会って話をし、何もしなければあらぬ疑念を招きかねないという危惧がそこにはあるからです(先の、馬超の
ところでの韓遂がまさにそうでした。もっとも、ここで例として挙げられたのは崔琰ですが)。
曹仁・徐晃の力量を信頼しているにもかかわらず、曹操が無理を押して出陣しようかと何度も考えたことを思うと、
そういうのを一笑に付すわけにもいかないんですよね。
もっとも、そんな徐晃の思いはともかく、ここでの関羽は、悠々と引き揚げていきます(豊かな、とかふくよかな声
で〜という書き方をされているのをみると、関羽の存在感の大きさが分かります)。
そう、まだ、関羽の優位が完全に覆されたわけではないのです。

ただ、徐晃の将器も相当なものです。巧みに陣を構築し、じりじりと接近していきます。そして、ついに関羽の陣の
目と鼻の先の所にまで到達するのです(なぜか、【そういう表現はないはずなのですが】双方塹壕を掘ってこもって
いるようなイメージを持ってしまいました)。
関羽は焦ってはいないものの、敵陣を崩す機を見いだせないままにここまでの接近を許したとなれば、不利なのは免
れません。
その後の激戦の末、負傷した関羽は陣を放棄し、再び船上の人となります。しかし、不思議なもので、徐晃の勝利で
あるにもかかわらず、なお関羽にはゆとりがありました(なので、劣勢という感じがちっともしないんですよね)。
ところが、後方の士仁・糜芳が呉に降ったため、それどころではなくなり、ついに撤退を余儀なくされます。
かくして、魏は、何とか樊城・襄陽を守り切りました。
当代一の勇将・関羽との戦いに勝利し、かつ、その軍紀の確かさを以て、徐晃が、前漢の名将・周亜父の如しと称賛
されたのも宜なるかなというところです。
長くなるので続きます。

215 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:24:11 ID:tI77SrF2
続き。
さて、呂蒙の方ですが…全く気取られることなく荊州への進入に成功し、虞翻の巧みな説得により、ほとんど無傷で
その確保に成功します。
他作品では、(私個人の偏見かもしれませんが)どこか奇人というイメージのある虞翻も、ここでは直言を憚らない
まっすぐな人物として描かれます。しかし、孫策はその直言を喜んで聞きいれたのに、孫権は疎ましく思っていたと
いうのも、何か変な感じが(兵を率いることで及ばないのはともかく、人を用いることで負けていては…)。
なすすべなく敵に迫られ、抵抗しても報われるかどうか分からない…と嘆いて士仁が降ったのに対し、糜芳の方は、
何か呆気なくみえました。そういえば、蒼天でもそうでしたね。

士仁の経歴等がいまいちよく分からない(仮にも太守だったわけですから、どこの馬の骨とも知れぬ…ということは
ないですし、ぽっと出の若手というわけでもないはずですが。ただ、彼を配していたことを、後方に対する警戒が薄
い、というように書かれていることからすると、軍事的手腕はもとから乏しい【裏を返せば、行政面での才能を期待
されていた】人物だった?)のに対し、糜芳は、徐州以来の古参。それが、いかに関羽との関係が悪かったとはいえ
…という感があるのは否めません。
その後、呂蒙は、民衆の慰撫に努めます。ささいな罪を犯した同郷の兵を、涙をのんで処刑するあたり、その軍紀の
厳しさがうかがえます(一方で、そこまでしないと民心が得られないというわけですから、関羽の行政手腕も一廉の
ものではあったようです)。

ちなみに、今回のラストは、前述の、徐晃が前漢の名将・周亜父の如しと称賛されたくだりですが、その前に、張遼
もちらりと登場。こちらにも、かなりの賛辞が。

216 名前:画伯:2008/09/08(月) 09:30:20 ID:GAm8i4fg
先日中国南部で地震がありましたが、
雲南省に近い方なので成都や九賽溝の方には全く影響無いようです。
四川省って日本の倍近い広さがありますから。
四川省の北部観光地は、地震の影響でクローズしていたホテルも次々に営業開始し
値段も例年比べれば格安なので
四川省応援のためにもぜひ旅行におすすめです。

217 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:33:30 ID:/lB/9KId
三国志(2008年09月)

今回のタイトルは「曹操」。建安二十五(220)年。ついに、その時がくるわけです。とはいえ、今回の内容は、
そのほとんどが関羽についてのものなのですが。

背後で呉が蠢いているのに気付いた関羽は、状況を把握すべく、偵察を行います。偵察に向かったこの兵士、肚も
据わっているようですし、見るべきところもしっかり見ているところからすると、なかなかの人物と思われます。
ひょっとして、廖化?とも思うのですが、そのあたりについては分からずじまい(彼だけでなく、その父もなかなか
の人物なんですよね、これがまた)。
呂蒙も、そのあたりは心得たもので、見事な対応を見せています。

呉に奪われた各郡は、呂蒙によって治まっている。この事実は、関羽にとっても衝撃でした。というのは、本作では
何度か述べられているように、関羽の行政手腕はかなりのものでしたから、この地の民衆は、新たな支配者に対して
強く反発すると思われていたからです。
それが、目立った混乱もなし。ということは、単に軍事上に留まらない敗北を喫したということでもありました(関
羽の徳が十分に及ばなかったということです)。
関羽が、策を弄し自分を欺いた陸遜に対しては怒りを露わにしたのに対し、呂蒙に対してはそれほどでもないように
見えるのは、そのあたりのこともあるように思われます。
あるいは、この時点で、関羽の中にある種の諦観があったのかも知れません。

麦城に籠った関羽ですが、兵の士気はもはや失われています。戦えないと判断するや、密かに城を脱出し、西に向か
おうとします。もちろん、それは孫権も承知しており、分厚い包囲網が敷かれます。
天命とは何であるのか。何が正しく、何が正しくないのか。その答えは…。
一度は軽々と呉軍の包囲を突破しましたが、二回目(ここの呉軍の将が馬忠)は成らず。ついに、その小集団は殄滅
しました。あたかも、流星が燃え尽き、一筋の光芒を残して闇に溶けるかのように。
長くなったので続きます。

218 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:34:19 ID:/lB/9KId
続き。
関羽は、捕らえられたが呉に降るを潔しとせず、斬られた。史書がそう記すのは、関羽の名誉を守ろうとしたからで
あろうが、それはかえって名誉を損なっているのではないか。言われてみると、頷けるところがあります
関羽は、諸葛亮と出会い(現実との妥協点を求めた結果)自尊を貫けなくなった劉備に代わって自尊を貫いた。で、
あるならば、なおさら、簡単な道は選べません。
それゆえ、魏と戦い呉とも戦った。春秋の義に憧れ、自尊を貫いた英雄はかくして斃れました。

関羽の首級は、曹操のもとに送られました。関羽を殺されたことに対する劉備の怒りを曹操に向かわせるためです。
しかし、曹操もそんなことは百も承知、孫権の慇懃無礼ぶりに不快感を示しながらも、関羽に礼を以て接し、(やや
意地悪く言うと)孫権との、人としての格の違いを見せつけます。

 以下、個人的な感想。
 こうしてみると、三国志では、呉はどうしても脇役にならざるを得ないんですよね。漢から禅譲を受けたという
 正統性を持つ魏、漢の血胤による正統性を持つ蜀漢に対し、呉にはそういったものが全くありませんから。
 孫権が切れ者であるのは間違いないのですが、正統性がないゆえ自由に動ける反面、その言動への彩がどうにも
 難しい…。
 
しかし、なお意気盛んな曹操も、年には勝てず。関羽の首級と対面してから程なく、薨去しました。享年六十六。

曹操に対する、あまたの賛辞が語られた(曹彰のことがちらりと語られた)後、「ここからほんとうの三国時代が
はじまるのである」と締められます。


…そう、そうなんですよね。三国時代というのは、地に三人の帝王が並立するという異常な時代。少なくとも、今
回までは、まだ漢の時代なわけですから、真の意味での三国時代ではないわけです。
しかし…どれだけ齢を重ねても、様々な三国志の物語を読んでも、三国時代に入る以前の方がいろいろな意味でそれ
らしいというのが、また何とも…。

219 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:03:24 ID:LpP4Hk8E
三国志(2008年10月)

今回のタイトルは「新制」。太子の曹丕が跡を継ぎましたから、前回のラストから続けて、今回、漢から魏への禅譲
を描く…と思っていましたが、半ば外れました(明らかに魏帝国成立後のエピソードもありましたが)。

さて、蒼天を読まれた諸氏はお気付きでしょうが、ここまで、描かれていない人物がいましたね。そう、魏諷です。
今回、後漢王朝が斃れる前のわずかな痙攣、という形で、その叛乱について、初めに少し触れられました。ただし、
主眼は、魏諷ではなく、そのために一時失脚した鍾繇です。

鍾繇が、魏諷の台頭に一役買っていた以上、何らかの処罰に服さねばならないわけですが、彼は、曹丕には好かれて
いました。かつて、名玦を献上し、かつその時の態度が良かった(この玦はしかるべきところにおさまった…と、曹
丕を持ち上げている)ためです。
ただ、財を持ちそれにとらわれると禍を招くと悟っていた鍾繇に対し、(いかに美辞麗句で飾っても)人の財を奪っ
た曹丕の、人としての器量に疑問符がついたのは否めません。

続いて、夏侯惇(不臣の礼…)、程c(公への叙任…)、曹洪(かつて借財を断られたのを根に持ち…)など、群臣
達について描かれます。
特に、曹洪については、彼の助命のために賢婦・卞太后が動いたことが触れられています。これまで、一切政治的な
言動をとらなかった彼女が動いたのは、ひとえに、曹洪の比類なき勲功(徐栄に敗れた曹操を生還せしめたこと)と、
功臣を微罪で処刑でもすれば、人心が曹丕から(のみならず魏から)離れる、と判断したためです。
さすがの曹丕も、(郭后を通じて)母の想いを察したか、処刑はしなかったのですが、だからといって無罪放免という
わけでもなかったので、人心はやや離れた、という具合。
父・曹操が薨じてから一年もしないうちに大規模な軍事行動。これを戒めた霍性の諫言を聞かず、彼を死に追いやると
いうこともありました。
長くなったので続きます。

220 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:07:21 ID:LpP4Hk8E
続き。
賊が魏に降った、と喜んだのも束の間、西方では麹演らが叛乱を起こします。これは、蘇則らによってすみやかに鎮圧
された(名将・赫昭が彼の胆力に感服って…!)のですが、今回については、曹丕、いいとこなしです。
この後も、あれこれあるわけですが、よく書かれることがあるのか…なんて、よけいな心配も。

曹丕、とくると(?)、忘れてはならない人物の一人として、陳羣が挙げられますね。そして、陳羣とくると九品官人
法(九品中正法)。
この法の概要はおくとして、その精神は、というと…。

本作の最初の方(もう数年前になるのですね)に、光武帝のことが書かれていましたのを覚えておられますか?その際、
前漢と後漢とでは、人材をみる基準が異なっていた、ということが書かれていました(秀才どもは王莽を止められなか
った…。故に後漢では、才能ではなく人格を重んじた、というようなこと)。
しかし、人格を重んじたはずの後漢では、実務能力に欠ける者が高官に…という具合で、結局腐敗は避けられなかった。
彼ら(曹丕、陳羣)は、それをどこまで分かっていたか…。
後々、いわゆる南北朝時代を語る上で、避けては通れない問題の萌芽があるわけです。

ラストは、孟達の魏への投降(曹丕の厚遇付き)と、劉封の非業の最期。彼の死を聞いた劉備は、一人になると泣いた
…。これは、一体?

221 名前:左平(仮名):2008/11/23(日) 21:56:57 ID:9ZYiSxeo
三国志(2008年11月)

今回のタイトルは「禅譲」。いよいよ、魏帝国が興ります。そして、対抗すべく…。なお前回のラストは、今回の流れ
とは特に関係ないようです。

父の(というか、曹氏の本貫の)譙に立ち寄った曹丕のもとに、皇帝からの使者が来訪します。曹丕に帝位を譲る、と
いうのです。
禅譲。それはかつて、堯が舜に対して、舜が禹に対して為した、とされてはいますが、孔子の言行を記した『論語』に
は触れられていない代物。あるいは、血統によらずして帝王の地位に就こうとした者達によって、戦国時代あたりに作
られた概念ではないか…と。と、なれば、こたびの禅譲は、史上初の…!
正直、目から鱗(が落ちる思い)でした。ここらあたり、自分はこれまで、陳舜臣氏に影響されていたな、という感も
あります(禅譲というものを軽く考えていました)。
※確かに、実権の所在を思うと壮麗な茶番ではあるのですが、伝説的な堯・舜・禹の例しかないものが、まさに『今』
 為されようとしている…となれば、以降のものとはいささか性格が異なってもおかしくありませんね。
 後世からみれば茶番でしかなくても、当時、その時代を生きた人からみれば真剣にやっているわけですから。
 人は、自らの属するもの(時代、国、など)からは、完全に自由では有り得ない。とでも申しましょうか。

ここぞとばかりに、と言っては何でしょうが、群臣は荘重な上奏を次々と行い、曹丕も丁重に固辞する姿勢をみせます。
面白いのは、群臣が熱に浮かされたかのように騒げば騒ぐほど、曹丕は醒めているかのように書かれているところ。
しばし、皇帝と曹丕の、意地の張り合いの様相を呈しましたが…ついに曹丕はこれを受諾。晴れて、禅譲の儀式が執り
行われることと相成りました。
皇帝から山陽公となった劉協は何を思ったか。それは分かりませんが、彼にとって、玉座は決して座り心地の良いもの
ではなかったのは、概ね間違いないでしょうね。
確かに、彼を擁立した董卓は、余りに敵を多く作り過ぎました。その、血塗られた手によって座らされた以上、その座
もまた血塗られたものであり、神聖な皇帝としての正当性に疑義を持たれてもやむを得なかったでしょう。その後の十
四年が、安らかなものであれば救われるのでしょうが…さてどうなのか。
長くなったので続きます。

222 名前:左平(仮名):2008/11/24(月) 19:44:34 ID:oWPH1hn9
続き。
さて、劉協に代わって帝位に就いた曹丕ですが、為さねばならないことは山積しています。気鬱になってもおかしくは
ありません。武芸にも秀でた彼にとって、狩猟は数少ない気晴らしでした。
もともと狩猟は軍事訓練の性質も持ってはいるのですが、遊興としての面もあるわけで…。となると、回数が増えると
これを諌める者が出るのも当然ですね。

やはり、出ました。鮑です。曹操の、おそらく唯一の盟友・鮑信の忘れ形見でもある彼は、その縁故・そして自身の
力量を以て、確固たる地位を築いているわけですが、なぜか(作中では、理由は書かれていないようですが)曹丕には
好かれていませんでした。はっきり言って嫌われてます。
曹丕からすれば、数少ない気晴らしに文句をつけられたように思ったのでしょうね。当然、聞き入れられません。
まあ、鮑も、曹丕に帝位に就くよう勧めた群臣の一人ですから、「汝らが帝位に就けと言っていたから帝位に就いた
というのに、朕のすることに口を挟むか!」てな思いもあったのでしょうが。
…人としては、分かるんですけどね。ただ、帝王たる者がそれではいけません。

酷な言い方ですが、「曹丕は父・曹操には及ばない(それは本人もおそらく承知していた)。ならば、それを自覚して
次代に範を垂れれば良かったものを…」というわけです。
「恐れという感覚をもたぬ者は、真の勇気をもたぬ者である」。重く響きます。


一方その頃、蜀では…。「皇帝が位を追われ、殺害された」という(誤)報がもたらされます。劉備は、これを受け、
自らが帝位に就こうとします。劉氏の血胤たる自分には、帝位に就く正統性がある、というわけです。
これに対し、ひとり醒めている人物がいました。費詩です。
関羽と面識があった彼は、なるほど関羽の志は清いものであった、と感じるのでした。
曹操と対極にあることでここまできた劉備。しかし、益州侵攻以来、それが変質してきている…。生き残ることを考え
るとやむを得なかったのでしょうが…。(後世の美化のゆえ、同一視はされませんが)袁術と同じ僭称者となった劉備。
何か、焦っている…?

223 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:30:20 ID:G2aSbWbi
三国志(2008年12月)

今回のタイトルは「報復」。蜀漢を中心に、動きがみられます。

晴れて?皇帝となった劉備が最初にしたこと。それは…呉を討つことでした(本作では、その動機はあくまで関羽を殺
されたことに対する報復として扱われています。地政学的な意図も考えられるところですが、劉備という人のありよう
を思うと、こういうふうになるということでしょうか)。
趙雲・秦宓の諫言も聞き容れず、着々と準備にとりかかります。

話は変わりますが、ここで許靖の名が再び出てきました。実務面ではこれといった事績は挙げられていませんが、それ
なりに気骨のある清廉な人物という感じで、割に好意的な書かれ方ですね。
所詮結果論…なのかも知れませんが、許劭に比べ、穏やかに天寿を全うできた分、勝っています。
あと、呉皇后(呉懿の妹)のことも。もともと、劉焉の子・劉瑁に嫁していたわけですが、夫が廃人となって早世した
後、寡婦となっていたところを劉備に…というわけで、波乱に富んだ生涯です(個人的には、劉備に嫁した時点で何歳
くらいだったのかが気になりますが。彼女と劉備の間に子は生まれたのか?等…)。

劉備とともに、呉との戦いに意欲的だった張飛(、そしてその死)をみるにつけ、関羽を喪ったことの衝撃は、相当に
大きかったようです。途中、劉備・関羽・張飛の関係が(他作品に比べ)やや希薄にみえたものですが、やはり、「義
は君臣といえども情は父子【兄弟?】の如し」ってなところでしょうか。

一方、呉の方は、というと…。こたびの戦いにおける最大の功労者・呂蒙が亡くなります。周瑜・魯粛に続き、軍事上
の偉材であった呂蒙を喪うわけですから、かなり堪えています(それはそうと、余計な気を使わせたくない、というの
は分かるのですが、病室の壁に小さな穴を開け、そこから呂蒙の病状を覗くというのはどうも…。村上豊氏の挿絵も、
普段のほのぼの【?】調とはやや異質な感じに見えます)。

長くなりますので、続きます。

224 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:32:15 ID:G2aSbWbi
続き。
さて、呂蒙が亡くなり、また、魏・蜀漢の双方を敵にするわけですから、呉にとっては一大事です。孫権は、ここでも
したたかに振る舞います。
蜀漢に対しては、言動に棘のない諸葛瑾を配置し、魏に対しては、(名目だけとはいえ)臣下の礼をとり攻撃される隙
を見せません。ただ、それらが十分な効果を挙げたか、というと…。
客観的に考えると、ここでは蜀漢は呉と戦うべきではないわけです。ですが、相手は劉備。良きにつけ悪しきにつけ、
人の常識に当てはまらない人物です(今回は、『皇帝としては』すべきでないことを敢えてしている…という含みを持
たせています。彼にとって、皇帝位というのは、何かの区切りではあってもそれ以上のものではない)。
また、魏としても、呉と蜀漢とが戦うというのであれば、この機に乗じて一気に呉を滅ぼし(蜀漢は後からゆっくりと
…)という策もあったわけです。
ここでは、劉曄(その智謀は、あの郭嘉に近い!と)がそれを考えています。しかし…帝位について間もない曹丕から
すると、それは受け入れ難いわけで…。

さて、呉が(名目だけとはいえ)臣下の礼をとったことで、于禁が魏に送還されたわけですが…曹操の陵墓に描かれた
己の無残な姿に打ちひしがれ、そのまま亡くなります。
生きて名誉回復を遂げた荀林父や孟明視には及ばなかったとされるわけですが…このあたりもまた、曹丕の器量に疑問
符が付けられるところなんですよね…。

ラスト。呉領内に進攻した蜀漢の軍勢は、補給に不安を感じ、補給路の確保にかかります。こ、これは…。

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