ロボットによるスパムを排除するため、全板でキャップ必須にしました!

書き込みをされる方は、必ずメール欄に #chronica と入力してください。

お手数をお掛けしますが、ご理解ご協力の程、よろしくお願いいたしますm( _ _ )m


■掲示板に戻る■ 全部 1- 101- 201- 301- 401- 最新50 read.htmlに切り替える
■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

137 名前:★ぐっこ:2004/10/21(木) 00:40
読み始めた( ゚Д゚)!
うーん、通しで読むと流れが分かる!…でも、まだ半分くらい。
安帝崩御のあたり。マジにこれ三国鼎立まで何巻までかかるんだろう…。
アサハルさまのとこの後漢祭も近いことだし…あ、そういや党錮小説
止まったままだった(;´Д`) リメイクしてたら間に合わないか…

>>136
うらやますぃ…。近所の本屋にあるかしら…

138 名前:左平(仮名):2004/10/21(木) 01:19
>小冊子
これを見つけたのは、広島では最大規模のジュンク堂書店です。
なので、大きい書店でしたらあるかと思われます。

今後の発売日は…先の小冊子によると、第二巻が10月下旬(関龍白さん情報では28日)、
第三巻が11月上旬とのことです。ちなみに、小冊子には、第一巻の発売日は10月中旬
(実際の発売日は10月14日でした)と書かれてました。

139 名前:関龍白:2004/10/21(木) 19:19
小冊子ですが三宮や明石(共にダイエー内)ののジュンク堂で見かけましたよ。

140 名前:関龍白:2004/10/23(土) 00:05
第二巻発売日ですが今日文藝春秋ホームページを
確認すると28日になってました。

141 名前:左平(仮名) :2004/10/28(木) 23:16
関龍白さんの情報通り、今日、第二巻が発売されました!
もちろん、即購入。帰りの電車の中で読み始め、先ほど読了しました。

第二巻収録分の初出は、平成14年6月号〜平成15年5月号。
質帝即位〜黄巾の乱までです。
やはり、単行本になりますと、サクサクと話が進んでいきますから、筋が
よく分かります。
しかしこうしてみると、後漢王朝、桓霊の間はほんまにガタガタですね。
話が進むにつれ、政治がますますひどくなる一方なんです。

142 名前:関龍白:2004/10/29(金) 17:10
私も購入しました。
付録の「三国志」の美将たちというのもついていますね。
すでに11日発売の3巻が待ちどうしいです。

143 名前:左平(仮名) :2004/10/31(日) 23:06
文藝春秋のサイトで、関龍白さん情報を確認しました。
…ただ、先の小冊子などでは「第三巻は11月上旬」と書いてるのに11日では
違うだろ、というツッコミを入れたいところ。

144 名前:張白騎:2004/11/01(月) 18:04
2巻私も購入しました。
三国志の美将たちの裏にある3巻の主要人物を見てますます
買いたくなりました。私の名前の「張白騎」も登場してもら
いたいです。(文藝春秋読んでいないので出るか知りません)

145 名前:★ぐっこ:2004/11/04(木) 01:30
私もようやく先週末ゲト…
でも読むヒマが…。昨日あたりから電車で読み始めましたので、
一段落したら報告を!
それにしても、二巻にしてようやく黄巾か…

>小冊子
ありましたー! ダイエー三宮に!

146 名前:左平(仮名):2004/11/10(水) 23:41
おっと…またもタイトルを見逃してました…それはそうとして。

今回は、曹操の攻撃によって疲弊した陶謙のもとに、劉備が援軍に
赴いたところから始まります。
陶謙とそのパトロン・麋竺に、好感をもって迎えられたところから、
劉備の飛躍が始まる…と言いたいところですが、肝心の劉備の台詞は
ほとんどありません。また、次回以降のお楽しみですね。

一方、他勢力の動向はというと…
まず、公孫瓚が劉虞を捕え殺害します。この事は、先の界橋の戦いでの
敗北とともに、彼の滅亡の一因でしょう。
戦下手とはいえ、皇帝の信頼も篤く、民心を得ている劉虞を殺す事が、
どれほどのマイナスか…劉備が飛躍しつつあるこの頃、公孫瓚は破滅に
向かいつつあります。

そして、曹操は、再度陶謙との戦いに挑もうとします。しかし、鮑信亡きあと、
彼が最も信頼している親友・張邈の様子がどうもおかしいのです。
直接の理由は、ひそかに呂布をかくまっていたことが曹操の怒りを買いはしない
かというところなのですが…この時点においては、曹操と呂布の間に格別の遺恨
があったとも思えないし…。
曹操も気付かなかった張邈の煩悶の理由。それは、勇名を得た曹操に対するひけ
めと、屈託無く「天子のために」と言い切れる呂布に対するある種の憧憬でした。
彼もまた、反董卓連合の時に、曹操・鮑信のように行動できなかったことととも
に、この煩悶の末の決断によって身の破滅を招く事になります。
「自分は、人を信じるという点においても孟徳に劣るか」
そう、自嘲気味に呟く張邈。英雄にはなれなかった人の悲劇です。

それにしても…ここでの張楊は、なかなかの大物です。呂布をして
「ものがちがう」と言わしめてます。

147 名前:★ぐっこ:2004/11/11(木) 00:47
読んだ!( ゚Д゚) …て二巻のほうですけど。

党錮ッ! 二巻終盤にしてやっと党錮! 竇武さま。・゚・(ノД`)・゚・
うーん、やっぱり桓帝を帝に選んだ時点で、後漢もうダメポなうえに、
霊帝が輪をかけて駄目というのが。桓霊の間って、本当に良いこと無い
ですな…

そしてそういうドロドロした宮廷劇からふと目を離して文春の方を見れば、
既に英雄が百出して覇を競う大乱世! このへんの流れがスムーズに実感
できる宮城谷三国志(・∀・)人( ̄ー ̄)人(´_ゝ`)ノワショーイ!
…というわけで明日にでも文春読もう…

148 名前:左平(仮名):2004/11/11(木) 22:30
本日、第三巻を購入しました。これで第一期が出揃いました。
と同時に、プレゼントの応募の開始です。

第三巻は、平成15年6月号〜平成16年5月号…半年前まで収録
されてます。黄巾の乱から界橋の戦いのあたりまで。
前に書き込んだのは、一月ほど勘違いしてたようです。

第一巻が安帝〜沖帝、第二巻が質帝〜霊帝、第三巻が霊帝〜献帝
ということになるわけですが、いよいよ三国志の物語に突入した
ということもあってか、密度が濃くなってまいりました。

なお、第三巻の付録は、先の文藝春秋に掲載された宮城谷氏の随筆
です。

149 名前:左平(仮名):2004/12/10(金) 23:06
今回のタイトルは、「済民」。ちなみに、前回は確か「親友」でした。

今回の、各群雄の状況。
曹操…
再びの徐州攻め。虐殺についても触れていますが、あまりくどくどとは書いていません。ただし、
諸葛兄弟の名が出ているあたりで、この挙が曹操にとってマイナスであった事を示しているのかと。
袁術…
曹操に破れ、南陽を追われる形で揚州に入りました。ここでは、彼の虚名はまだ有効です。孫策は、
その虚名の故に袁術に近づき、まずはその美貌で周囲の心を捉えます。もちろん、彼は見てくれだけの
人物ではありません。既にその器の一端を垣間見せております。
それはそうと、袁術配下の将「喬蕤」…まぁ、橋蕤のことなのですが、あえてこちらの書き方をしたと
いうところに含みがあるというのは深読みでしょうか。
(「呉書見聞」において、孫ぽこさんがここらの考証をされてましたよね。ひょっとしたら、孫策と周
瑜が二喬を娶ったのって、この時に喬氏と何らかのつながりを持ったのと関わってたり、ってことは…)
劉備…
陶謙を助け、曹操と戦います。その人となりを真に理解できるものはおらず(側近の関羽でさえその理解は
不完全。彼は、儒教的な観点ではなく道教的な思考を以って見るべし、と)、その戦いぶりには曹操が首を
ひねります(兵法完全無視!)。

次回は、曹操大ピンチとなりそうです。
陶謙が亡くなり、麋竺・陳登(!)によって徐州を託されますが…受諾するまでに一波乱。

150 名前:関龍白:2005/01/09(日) 21:10
遅ればせながら
あけましておめでとうございます。
今月は8日発売でしたね。
曹操対呂布、前哨戦というところでした。
それにしてもプレゼント、いつ届くんでしょうね。
お茶会来週なのに・・・

151 名前:左平(仮名):2005/01/11(火) 23:15
さて…関龍白さんのおっしゃる通り、今回は曹操対呂布の前哨戦でした。
ただし、前半はこれでもかといわんばかりの曹操の危機でしたが。

タイトルは「三城」。
弟の教唆を受けてもなお曹操への一応の信頼はあった張邈ですが、気持ちは
揺らぎます。そんな彼の煮え切らない姿勢にけりをつけたのは、陳宮でした。
袁氏ではなく、呂布を引き入れるという発想と、曹操の謀士であった陳宮の
寝返りという事態をうけ、ついに、というわけです。

この事態を受けて動いたのは、荀掾E程G、それに夏侯惇でした。途中、夏
侯惇が人質にとられる(ここは韓浩の見せ場)という場面はありましたが、
兗州80城のうち実に77城(約96%!)までが呂布・陳宮の勢力下に落
ちるという絶体絶命の危機を巧みに凌いでいきます。
そして、無事に曹操が帰還。もちろん、このままでいるはずはありません。

今回、他勢力の動きについては特に語られませんでした。

152 名前:左平(仮名) :2005/01/18(火) 22:37
そういえば、もう15日過ぎましたが、何も音沙汰がありません。
文藝春秋のサイトを見てもよく分かりません…。

153 名前:関龍白:2005/02/04(金) 21:32
カラー絵地図、今日来ました。
単行本は三年おきに三巻ずつ刊行予定とか。
次は2007年10月ごろでしょうか。

154 名前:左平(仮名) :2005/02/08(火) 00:03
こちらにも届きました。昨日あたりに届いてたみたいで、今日気付きました。

「後漢末概念図」とあります。第二期以降も何かあるのでしょうか。

155 名前:左平(仮名) :2005/02/09(水) 23:34
休日とのからみでしょうか。今日、コンビニに文藝春秋の今月号がありました。

前回に続き、今回も、曹操の危機が続きます。呂布の篭もる濮陽を包囲するも、
青州兵も打ち破られるわ、内通者を頼りに突破を試みるも、あっさりと返り討ち
に遭うわ…。ここだけ見てると、いつ破滅に至ってもおかしくないくらいです。

そんな中、一大転換点となったのは…蝗でした。

糧秣が尽き、決着がつけられなくなったわけですが…一時は袁紹の下につく事さえ
考えた曹操は、程Gの諌言によって息を吹き返します。
一方で、呂布の方は、糧秣を巡って豪族達と衝突したりして、その勢力が漸減します。
その結果、定陶の戦いにおいて、曹操が勝利。

そして…もはや曹操の友には戻れない事に意気消沈した張邈は、呂布と離れ、袁術の
もとに援護を求めたところで、あえない最期を遂げました。
呂布は、今や徐州の主である劉備のもとへ。波乱はさらに続きます。

156 名前:★ぐっこ:2005/02/10(木) 01:03
_| ̄|○  実はソレ送るの忘れてたんよ…
切手貼ろうと思って引き出しに入れたまま…
三巻とも買ったのに…

157 名前:左平(仮名) :2005/03/10(木) 01:36
今回も、既にコンビニに文藝春秋がありました。はて。

それはそうと、今回のタイトルは「雍丘」。ようやく窮地を脱した曹操に、そろそろ光が見えてきました。
既に兗州の殆どを奪回し、残るは張超の立てこもる雍丘のみ、という時点で今回は進みます。

天子を迎立すべく、関西の情報を収集する曹操。そこに、天子からの使者がやってきます。
(以下、しばらくは関西の情勢について)
李カク【イ+鶴−鳥】、郭レによる主導権争いが激化する中で、天子はないがしろにされます。
そんな中、キ−パ−ソンとして浮上したのは劉焉父子でした。
まず、都にいた末子の劉璋が益州に派遣されました。表向きは、劉焉の奢僭を咎めるということ
でしたが、実際には、この状況を打開すべく工作するようにほのめかしたというわけです。
彼は、涼州の雄・馬騰を使おうとし、実際、そこまではうまくいきました。
馬騰は韓遂も誘って上京。その実力は確かでした。
しかし、李カク【イ+鶴−鳥】、郭レもそうやすやすとは倒されません。この目論見はあえなく
潰え、劉焉は二人の子を失う羽目になりました。

しかし、ここでの韓遂、なかなかの器量です。けっこう楽観的な馬騰に対しそれを戒めるような
ことも言ってますし、こんなふうな事も言ってます。
「腐敗した王朝は毒だ。董卓の死は、いわば毒にあたったのだ。李カク【イ+鶴−鳥】・郭レも
またその毒の中にいる」
「乱」に生きた蒼天での韓遂とはまた違った味の持ち主ですね。

そして、今回の最後に語られたのは、臧洪の最期でした。旧主・張超を助けんがために袁紹と戦い、
捕殺されるのですが、かくの如き壮士を殺すとは…ということで、また袁紹の株が下がった格好。
(ここで陳琳が出てくるのですが、臧洪に「このまま袁紹のところにいても…」と言われてるのが、
その後を暗示してた…のでしょうか)

158 名前:★ぐっこ:2005/03/28(月) 00:31
読んだのはちょっと前ですが…

張超カコイイ( ゚Д゚)!
雍丘に立て籠もる、反曹操連合最後の砦ってカンジで!
張邈様はともかくとして、張超の反骨が遺憾なく発揮されていて
いい話ですた。
宮城谷三国志で男を上げた人物の大なるは、むろん皇甫嵩でしたが、
蒼天以来の存在感を見せた鮑信、そしてこの張超。

あと、ナニゲに梟雄っぷりを発揮してる劉焉もいいなあ…

159 名前:左平(仮名) :2005/04/12(火) 01:00
ちょっと以外な人物にスポットが当たりました。今回のタイトルは、「楊奉」。

樊稠亡き後、李カク【イ+鶴−鳥】・郭レの争いが激化し、愛想を尽かした天子は、
ついに東帰の意思を示します。
張済の仲介などもありつつ、天子一行は徐々に東に向かうのですが…なかなか一筋縄
にはいきません。
董卓死後、ひっそりと暮らしていた段煨を頼ろうとすると、仲間割れみたくなるわ、
李カク【イ+鶴−鳥】・郭レの追撃に遭い、公卿達にも多数の戦死者が出るわ…。

ただ、時に失敗しながらも、ここでの楊奉、なかなか格好いい存在になってます。
この段階では、天子の存在はもはや災いの元みたくなっており、現に、楊奉が昔の
縁で助力を仰いだ白波の賊(とはいっても李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ達との戦い
では彼らが官軍みたくなるという逆転現象も発生)等は、「天子を奉じて東に向かう
のは賢い選択とはいえない」という様な忠告もしています。
しかし楊奉は、敢えて義によって、という立場をとり続けます。もし、彼に政治的な
知見を持ったブレイン(たとえば賈ク【言+羽】とか)がついてれば、また違った展開
もあったのでしょうか。
そんな気にさせられる回でした。

160 名前:左平(仮名):2005/05/11(水) 22:31
前回から場面は変わりまして…今回のタイトルは「孫策」。

前回、天子がなかなか動かなかった理由として、各地にいる実力者のうち、勤皇の志のある
者を頼ろうとした…というのがいわれていました。
今回は、その候補の一人であった袁術のところから始まります。
とはいえ、彼には既に勤皇の志などありません。むしろ、現状をみて覇を唱えようという
具合です。
群臣達にはその無謀さが分かってますから、主簿の閻象は諌言し、名士・張範(三弟の名は
張昭。といっても彼らは河内の人なので呉の張昭とは同名別人)も徳を積む事を勧めます。
でも、もはや聞く耳を持ちません。

そんな中、孫策はそのもとを去ります。袁術のために働きながら報われないのに
嫌気がさしたのです。
袁術は孫策の才略をみず、古参の者【…自分のために働いた者】を重用しました。
それは、自らの王朝をという野心とは裏腹に、新時代を作れる器ではないという
ことを示すものであった、ということですから、何とも皮肉な話です。

一応の了解は得たものの、ろくな手勢もないまま飛び出した孫策でしたが、ここから
奇跡とも言うべき快進撃が始まります。
劉繇との戦いにおける鮮やかな勝利(もちろん、対笮融戦もあり。ここでの笮融は、
いわば小型の李カク【イ+鶴−鳥】と評されています)、ともに美貌を持つ親友・周瑜
との再開(容貌は孫策>周瑜という評価)…。なるほど、いろいろな意味で絵になる回
です。

161 名前:左平(仮名):2005/06/11(土) 01:12
今回のタイトルは「素志」。

張超を滅ぼし、ようやく兗州平定に成功した曹操は、天子を迎えることを考えます。

ただ、当時の情勢は、まだまだ微妙でした。というか、既に公孫瓚を追い詰め、河北の
派遣を握りつつあった袁紹が選択を誤らなければどうなっていたのか、というところ。
(今回の時点では公孫瓚はまだ生きてますが、もう抜け殻みたくなってます)
当時の彼のもとには沮授という偉材がおり、曹操(とその幕僚達)と同じく、天子の
迎立を考えていました。
しかし、袁紹は聞く耳を持ちません。沮授の意見に反対した郭図を派遣し、天子の周囲
を探らせたのですが、その結果、郭図も天子の迎立に賛成の立場になると、それらの意
見を無視します。
軍事に冴えを見せた公孫瓚との戦いという逆境にあってはそれなりの輝きを見せた袁紹
ですが、ひとたび順境に立つと、緩んできた様です。
彼もまた、己の野望の為に乱世を望みながらも、その器は乱世には向かなかったという
悲喜劇を演じることに…。

そして、今回のラストあたりで、ついに曹操は天子を迎えることになります。この時の
キーパーソンは、またしても張楊。呂布とともに篤い勤皇の志を持つ彼ですが、天子の
行く先が見えると、静かに去りました。
…何というか。かなりの大物の雰囲気です。袁氏の二人よりもはるかに大きいのですが
…なぜ、これほどまでに野心を持たないのか。むしろ、ちょっとくらい持った方がいい
のに、といらぬ心配をしたくなるくらいです。

162 名前:★ぐっこ:2005/07/06(水) 01:54
ようやく私も読みましたよー。ちょっと前でしたけど…。
私的に失念してたのは郭図の立ち回りだったり(^_^;)
彼も一廉の男だったという再認識したり。
袁紹は結局、衆議にかけるくせに自分の意見を押し通す癖
があるタイプで、本当に読めば読むほどウチの社長に似てる
と思ったり(^_^;) さだめし私は郭図あたりか。
張楊は行動が爽やかなわりに存在感が地味なんですよねえ…(^_^;)

あと、董承の渋さに萌えた(*´ヮ`) そこまでするか!というくらい
せこくてダーティなところがイイなあ…。コイツ曹操暗殺してどうする
つもりだったんだろ…

163 名前:左平(仮名):2005/07/08(金) 23:44
今回のタイトルは「新都」。まだ8日ですが、10日が日曜日だからか、もう文藝春秋が出てました。
電車の時間があったのでいささか流し読みですが、↓こんな感じの回でした。

ついに曹操が天子を迎えます。この時仲介に入ったのが董昭。袁紹のもとを去ってからいろいろあった
わけですが、本作の董昭、なかなかの大物キャラですね。
董昭もれっきとした勤皇の士ではありますが、志は貴いけれど惜しいかな政治手腕に欠けた楊奉とは違い、
その現状認識は非常にしっかりしています。
現状は、ありていに言えば「周の襄王の御世に似ている(※作品中、そういう言葉があったわけではあり
ませんが、曹操を晋の文公【重耳】にたとえているのを考えると、そんなふうに思いました)」。
曹操もまた、それに近い認識を持っています。なので、曹操は、天子に甘い庇護者ではありません。

それにしても、政治的力量は董承>楊奉(曹操などからみると実に低いレベルですが)に対し、勤皇の
志は楊奉>(越えられない壁)>董承という図式は面白いですね。元白波賊の故、とかく低く扱われがち
だった楊奉ですが、1800年以上の後に、思わぬ栄誉に与った形です。
「三国志]T」の顔グラが格好よくなったり「義理」の数値が上がったりして。

ただ、ともに勤皇の志を抱く者であっても、その想いにはずれがあります。
すっかり荒廃した洛陽の有様をみて、曹操は許への移動を行うわけですが、たとえ廃墟ではあっても
天子は洛陽に想いを残しているというのを知る楊奉は、それを専横とみなして戦い、そして敗れると
いう事態に至ります。
張楊もそうですが、ちょっと切ないものがありますね。

後半は、荀攸、鍾繇、それに郭嘉も登場。曹操のもとに続々と人材が集まってきます。
そんな曹操のもとにやって来た、腕長耳デカの男。次回、この男が波乱を呼ぶ…?

164 名前:★ぐっこ:2005/07/14(木) 01:20
立ち読みしましたー(*´ヮ`)

相変わらず、宮城谷三国志読んでると、自分の不勉強つうか、この
献帝周辺の人物に対する無関心さが恥ずかしくなってきますね…
まさか楊奉や韓暹あたりが、質朴な勤皇主義者だったとは思っても
いなかったわけで。
( ゚д゚)ハッ! それで光栄三国志シリーズの楊奉はやたら格好いい訳か!?
張邈と顔交換してるけど…こっちの楊鋒だっけか。
腹黒くい董承も新たな魅力がプンプン。早く四巻でないかな〜(*´ヮ`)

165 名前:左平(仮名) :2005/08/10(水) 23:13
今回のタイトルは「張繍」。とはいえ、今回は、曹操のもとにやってきた異相の男−劉備から始まります。

「英雄、英雄を知る」と言いますが、曹操の前に立つ劉備の姿は、英雄には遠く見えました。程G・郭嘉がともに
「劉備は英雄である」と評し、曹操自身、現時点の劉備は斉の桓公のもとに身を寄せた晋の文公の立場に似ている
と感じつつも、いまひとつ実感が湧かない様子です。
これって、いわゆる「岡目八目」ということなのでしょうか。曹操が英雄であるが故に、同じく英雄である劉備の
持つ何かに気付かない。英雄でない程Gや郭嘉にはそれか見えた…。

一方、南に目を転ずると、張済が亡くなり甥の張繍がその軍団を引き継ぎました。彼は、曹操と比べるとやや器量
は劣るものの、自らに何が足りないかは自覚しており、それを補う者−賈ク【言+羽】を招きます。
そして、天子を擁した曹操は、周辺のうち、最も弱い部分である宛にいる張繍に狙いを定めるのですが…
ここで、賈ク【言+羽】の知略が発揮されます。まともに戦っては劣勢は明らか。となると、手段は一つ。
そう、奇襲です。
いったん降伏した後、一挙に本陣を衝く。事実、この策はあたり、曹操は嫡男・曹昂を失うという大敗を
喫することに。
…ただ、ここの流れについては、二つの理由により、えらくすっきりしたものになってます。

一つは、典韋が名前すら出てこないこと。
もう一つは、張済未亡人と曹操との××な関係に触れられていないこと。

なせ触れなかったのかはよく分かりませんが…ただ、それだけに、「何故曹操ともあろう人
がここでかくもあっさりと大敗したのか?」という感がよりいっそう強くなります。

そのショックも覚めやらぬ時に、袁紹からの無神経な書状。まさかそれだけのせいでもない
でしょうが、曹操、ついに打倒袁紹の思いを明らかにします。さて、次回の展開は…?

166 名前:左平(仮名):2005/09/18(日) 19:53
今回のタイトルは「僭号」。袁術が帝位を僭称しました。

人の感情を逆撫でするが如き書状を受け取った曹操ですが、客観情勢はかなり不利。曹操自身、打倒袁紹を考えた
ものの、見通しは立たない状態です。
なにしろ、相手は既に河北の四州を制しているのに対し、こちらは二州。天子を擁してはいても、相手はその威光
など屁ほどにも感じていないのですからどうにもなりません(互いに憎みあってはいても、このあたり、袁紹・袁
術は似たもの同士)。
それに加えて徐州には呂布、涼州には諸軍閥。南はまだしも、三方から囲まれはしないかという恐怖があったわけ
です。

それを救ったのは、荀掾E郭嘉、そして鍾繇でした。荀掾E郭嘉は曹操の美点と袁紹の失点とを挙げ勇気付け、鍾
繇は侍中兼司隷校尉として涼州の有力者である韓遂・馬騰を懐柔。さすがの曹操も、この時は、優れた配下達の威
徳に心底感心しております。

一方、徐州に目を転じると、呂布がその支配権を獲得する経緯が描かれます。ここでも、劉備は冴えません。迎え
入れた筈の呂布の気まぐれに翻弄されまくってます(まぁ、呂布に翻弄されまくったのは何も劉備ばかりではない
んですけどね)。
そんな、一見すると何を考えてるのか分からない呂布ですが、曹操はその行動原理を見抜きつつありました。端的
にいうと、「我こそは漢の忠臣。我に逆らう者は皆逆臣」ということです。
…ある意味、ジャイアニズムの側面がありますね。ともかく、その故に、僭称した袁術と戦うことになります。

しかし、袁術、うまくいけば、孫堅(+孫策)・呂布という二大勇将を抱えていただろうに、という指摘は、なか
なか面白いですね。彼の怠惰さが、自身のみならず呂布をも負のスパイラルに巻き込んだ…

167 名前:左平(仮名):2005/10/09(日) 00:03
うわ〜!せっかくの書き込みが消えてしまった〜!!…書き直し。

今回のタイトルは「高山」。今回描かれた具体的な事件のことという
より、建安二〜三年の情勢を概観したタイトルの様です。

まずは、袁術僭号をうけての江南の情勢。
孫策は、袁術と絶縁し、攻める準備を進めます。しかし、こうしてみる
と袁術の認識の甘さが分かりますね。この頃、孫策の勢力は既にかなり
のものになってます。かつては身近におきその器量は把握していたはず。
その彼を敵に回すことがどれだけの損失か。ちょっと考えれば分かろう
ものを。
もとの揚州刺史・陳瑀が孫策の隙を衝くべく厳白虎らとともに攻めようと
しますが、あっさりと返り討ちに。その勢力はさらに広がりました。
孫策の苛烈さをみた曹操は、ひとまず融和策をとることとします。今しばらく
は戦うべき相手ではないというわけです。

そんな中、袁術はまたもやらかしました。陳国に食糧があると聞くと高圧的な
態度でそれを求め、断られると王の劉寵と相の駱俊(駱統の父)とを暗殺した
のです。
劉寵はやや野心家肌ではありましたが、武芸に秀で、国内の治安維持に成功。
駱俊はすぐれた行政手腕を持ち、国内をしっかりと統治。乱世にあって陳国
の平穏を守っていました。二人ともひとかどの人材です。
この頃、曹操はというと許褚や趙儼といった偉材を得ていたというのに袁術
は人材を失い敵を増やす。
あげくに、曹操の攻撃を受けると四将軍を見殺しにして逃走。袁術という人
は、後漢という時代の醜い点を凝集した感があります。

ただ、そんな存在は袁術ばかりではありません。その姻戚である楊彪もまた、
曹操からみると醜類の一人です。今回、直接の理由はよく分かりませんでした
が、投獄されたのです。
宦官の孫の曹操に軽侮の目を向けるくせに董卓の力に屈した楊彪。曹操から
すると、そんな彼に良い感情を持てるはずもなく。
これがあの楊震の曾孫か。こいつは四知という言葉を理解しているのか。血は
受け継がれても志は受け継がれるとは限らない。
彼らの振る舞いは、いわゆる名士の限界を示しているわけでもあるんですよね。

後半は、群雄達の最期が続きます。楊奉と韓暹は呂布に見切りをつけ劉備を利用
しようとしますが、楊奉は劉備に殺され、その死を知って呆然自失した韓暹は白
波に帰ろうとしますが、賊として殺されます。
勤皇の人ではありましたが、単純でもあった二人は、一見茫洋と見えながらも、
実は底知れない複雑な人格を持った劉備には敵わなかったということみたいです。
李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、李楽、胡才。彼らもまたこの頃に姿を消しました。

ここらの情勢を、宮城谷氏は「攢峰(さんぽう)を均す」と表現しておられます。
あまたの群雄達が、曹操、両袁氏、孫策などいくつかの有力勢力に収斂されつつ
あります。

追記:「攢峰」という言葉を字書で引くと、唐初の詩人・駱賓王の名が。駱統と
同じく、今の浙江省の人といいますから、何らかのつながりがあるのかも。

168 名前:左平(仮名):2005/11/11(金) 00:46
今日(日付上はもう昨日ですが)は蒼天の最終回。こちらはおいおい書き込むとして…

今回のタイトルは「下邳」。まずは、曹操vs張繍の第二ラウンドから始まります。
曹操と賈ク【言+羽】。二人の知略がそれぞれ冴えを見せており、なかなか読み応えの
あるところです。
劉表はどう動くか。両者、その様子を見ながら戦いが始まります。このあたりは、中小
勢力たる張繍の側にとってより切実。賈ク【言+羽】は、あえて援軍を頼むことは
せず、自勢力の存在感を示しつつ戦力の損耗を避けます。
この時点では各地に敵のいる曹操は、長期戦は避けたいところ。そこに、田豊が袁紹に
許都攻めを勧めたという話がありましたから、戦況は決して不利ではないものの、撤退
する事になります。
ここからが両者の凄いところ。まず曹操は、前後に敵がいる形になりながらも、通常の
数分の一というスローペースで行軍しつつ、「軍を消す(隠す)」という奇策をとり、
追っ手を大破します。その後は急ぎ帰京。
一方賈ク【言+羽】は、最初の追撃は必ず敗れる事を、次の(敗走後の)追撃は必ず勝
利する事を張繍に告げ、結果はみごとその通りに。
ここで、何ゆえそうなったのかと聞く張繍に対する回答は至って誠実なもの(いくら何
でも、あなたは曹操には劣る、ってはっきり言い切りますか、普通)。
…そういえば、三国志「T」の時の賈ク【言+羽】って、顔グラがけっこう穏やかそう
な感じだったんですよね。

その戦いの後、曹操にとっての主敵は呂布になります。タイトルのとおり、後半は呂布
攻めです。
ここで、高順達が語られます。「陥陳(陣)営」の異名を持つ高順はまさしく名将。戦
えは必ず勝ち、欲は少なく、忠義に篤い。呂布にとってこれほど頼もしい配下はいない
といってもいいでしょう。しかし、呂布は彼をいまいち信用しません。高順自身は呂布
に叛くようなことは何もしていないというのに…。
一方、あの兗州の攻防の後、曹操と呂布・陳宮とでは、その力量にどんどん差がついて
いる様です。それは、前者が学び続けているのに対し、後者が学ぶのをやめてしまった
からに他なりません。
宮城谷三国志においては、最終的に勝者となるのは「学び続け(、その結果成長し続け
た)た者」という視点がある様です。

この戦いの中、呂布は愛する妻の言葉により陳宮の策の実行をためらい、動けなくなり
ます。そんな中、配下の将達は…

169 名前:左平(仮名):2005/12/11(日) 21:59
今回のタイトルは「逐勝(勝ちに乗じて進む)」。

前回ラストからの流れのとおり、ついに呂布の命運が尽きる時が来ました。
…しかし、それは、予想以上に呆気ないものでした。
姻戚でもあった魏続に陳宮を拉致され、高順ともども、もはや為す術もなく
捕えられたのです。
呂布の軍事的才能は曹操にとっても魅力的ではありましたが、劉備の一言に
よって引導を渡されます。そして陳宮は、この時点ではもう呂布に心服して
いないにも関わらず、ただ曹操に対する意地から、自ら死を選びます。
この場面、曹操の方が未練たっぷりです。
この時曹操が得た人材として、袁渙、陳羣、それと復帰組の畢獅フ名が挙がって
います(ここでは張遼には触れられていません)。

これで一つ厄介な敵を片付けた曹操。そんな矢先、河内に異変が。張楊が、
配下によって殺害されたのです。
勤皇の士にして温厚篤実な張楊は、呂布と親しく、陰ながら声援を送って
いたのですが、もはや呂布の命運は尽きており、将来に不安を抱いた楊醜に
よって…という経緯。
もっとも、楊醜もまたすぐに眭固に殺され、河内の情勢は流動的に。曹操、
この状況を逃さず、直ちに攻略にかかります。
ここは董昭の巧みな説得により、無血開城となります。そして、ここの太守
に任ぜられたのは…魏チュウ(禾+中)。
今回、曹操が才を重んじた例として語られる二人が揃い踏みという具合です。
もっとも、魏チュウ(禾+中)については、単に才能のみではない含みも。

一方河北では、ついに公孫瓚が最期を迎えます。…もうズタボロです。痴呆に
なり妻子を手にかけて…というあたり、白馬義従を従えた頃の面影はいずこに
ありや、ってな感じ。
彼に殉じた関靖、最期はきれいだったけど…こちらも酷評されてます。

いよいよ曹操vs袁紹というわけですが…何事につけても動きの鈍い袁紹、既に
後継者問題も絡んできて、課題は多し。
そんな中、突然の袁術からの使者。それは、袁術の破綻を示すものであったのです
が…

170 名前:左平(仮名) :2006/01/02(月) 01:35
日付は変わりましたが…新聞の広告欄に注目。
この9月に、宮城谷三国志の四・五巻が出るみたいです。
今のところ、一年分で一冊というぺースですから…今年の五月号あたりまでは
既に書きあがってるのかも知れませんね。

171 名前:左平(仮名) :2006/01/10(火) 23:29
今回のタイトルは「密詔」。董承による曹操暗殺計画が語られます。

その発端は、意外にも劉備の存在でした。といっても、劉備が反曹操の急先鋒…など
というわけでは全くなく、むしろ曹操が異様なくらいにそば近くにおいていることから
(刺客として使える)と値踏みされた、という次第。
曹操にとっては劉備は全く異質の存在でした。衰亡しつつある劉氏にあって、ひとりしぶ
とく生きながらえる様はひとつの奇跡。それゆえに近づけ、ついには彼を英雄と評するに
至ります。ただ、劉備はというと、曹操に対して別段恩義を感じるというわけでもなく、
その肚はさっぱり読めません。

劉備にとって、この暗殺計画(皇帝の密詔自体はちゃんと出てます)には二つの意味が
ありました。
一つは、中央政界の生臭さを思い知ったこと。袁術討伐を理由に都を離れたのは、単に
曹操に叛旗を翻すためだけではありません。
もう一つは、自分を相対化させる存在−曹操−を知ったことで、自らの位置づけがより
明確になったこと。今上も自分も、もとをたどれば景帝に至る。ゆえに、皇帝とて全く
届き得ない存在ではない。中央を離れ自立するのよし…。

劉備が去った後も、董承は曹操暗殺計画を進めますが、その計画は粗雑。徐他については
許褚の胸騒ぎという予測不能の要因による失敗でしたが、こちらは失敗するべくして失敗
したという書かれ方です(何より、悪政をしていない曹操を殺して、さてどうするのかと
いうビジョンがないのでは…)。
事件が片付いた後、曹操は、皇帝を半ば無視するようになります。
ただ、今回、皇帝の真意というのがどうも読めないんですよね…。

袁術は、今回で滅びました。何とも呆気なかったです(それはそうと、本作では「喀血」
したとあるのですが、三国志も後漢書も「嘔血」とあります。喀血・吐血・嘔血の意味は
それぞれ微妙に異なるはずなのですが…)。

徐州で自立を図った劉備を逐い、曹操は、ついに袁紹との決戦に臨むことになります。


蛇足:挿絵は村上豊氏が書かれてますが、今回は妙に個人的にはまりました。英雄同士の
対面というのに、何だか、いしい御大の「最底人(↓)」みたいで。

 あほ〜〜〜っ!

\    / \    /
 lV:)* lV:)* lV:)* lV:)*

いしいスレで見つけたAAです。

172 名前:左平(仮名) :2006/02/12(日) 19:55
今回のタイトルは「対決」。いよいよ、官渡の戦いに突入します。興味深い記述が多く、
金曜に一度読んだのですが、再度読み直しましたよ。


まずは袁紹側の動き。このような非常時にあっても、この陣営の宿痾とも言うべき派閥
抗争(と言っても郭図が一方的に沮授を嫌っているという感じ)が生じています。
しかし、双方の主張を聞いてみると、実は両方に理があるという不思議な状況でもあり
ます。
この時主戦論を唱えたのは郭図・審配、慎重論を唱えたのは沮授・田豊なのですが…実
のところ、曹操が脅威であるという意味では同じ認識に立っているのです(慎重論者は
公孫瓚との戦いで疲弊した河北の回復を待つべきであると主張。一方、主戦論者は、曹
操がその間に何も手を打たないはずはない【故に機先を制するべし】と主張します。兵
は拙速を聞くも〜ということを考えると、果たして、どちらが良かったのか迷うところ
です)。
結局は、どちらの論をとるにしろ、袁紹は明確な決断を下すべきであった。ぐずぐずと
決断を下すのが遅れたため勝機を逸した…というところです(内心では曹操との決戦を
望んでいたのに行動はちぐはぐになっています)。
これ、職場ではヒラの私にも痛い指摘ですね。ましてや組織の頂点に立つ者であれば、
なおさら堪えるかと。


逡巡の末に出師を決めた袁紹。しかし、それにあたって諌言を呈した田豊を投獄すると
いう愚を犯します。彼らの忠誠心は疑いようのないものなのですから、いざ決戦となれ
ば、慎重派といえども勝つ為に最善を尽くすべく尽力するというのに…。

ともかく、河水を挟んで両者は対峙します。そして、白馬の戦い。
関羽・張遼vs顔良。名だたる勇将同士の夢の競演…というところですが、実はそうは
なりませんでした。しかし、これまでの三国志とはまた違った描かれ方で、そこがまた
何ともたまらない名場面なんです。
呂布の描かれ方もそうですが、ここでの関羽、イメージががらっと変わりますよ。いつ
の間にこのような変貌を遂げてたの、ってな感じで。義に篤い勇将というだけでなく、
少なからぬ知性も感じられます。
あの項羽にも劣るまい、ってな賛辞はちょっとニュアンスが異なる様な感じはあります
(項羽というより…生還した専諸の方が近いかな)けど。

長くなったので、続きます。

173 名前:左平(仮名):2006/02/12(日) 19:56
先の書き込みの続き

もちろん、このために劉備は危うくなるわけですが…そこはそれ、逃げ足の速さが売り
なだけに、何とか切り抜け、いつの間にか曹操の後方に回ってます。
となると…曹仁の活躍も見逃せません。蒼天では、この時点ではまだまだ未熟ですが、
ここではもう堂々たる将帥です(でもビジュアルは蒼天バージョンのまま。ほんとあの
絵は強烈ですわ)。

なお、文醜の方は…何ともそっけない記述でした。ただ、この場面において、恐怖心を
利用して一気に士気を高める曹操の采配は見事の一言です。


一方、荊州の劉表は、と言うと…北の決戦をよそに傍観拱手を決め込みます。ただ、一
見妙手のように見えて、実はこれ、大失策。
『漁夫の利』というのはしょせん詭弁。ここは旗幟を鮮明にした方が良かったのです。
(ここまで書いてて、いしい御大の忍者ネタが思い浮かびました。藩内の醜い派閥抗争
に対し、どちらからも恨まれたくないと中立に立った結果、どちらからも恨まれた…)
韓嵩を使者として派遣しますが、韓嵩が危惧した通りの結末になるあたり、劉表もまた
袁紹と同類でした。でも、その破綻は、ここではまだ顕在化はしていません。


長い戦いはついに全面対決の様相を呈します。兵力に優る袁紹(兵力差については、曹操
の勝利をより鮮明にするための修辞という指摘がある一方、自らの意思をすみずみにまで
ゆきわたらせようとすれば過度の大軍は率いないだろうという指摘もありますので一概に
は言えませんが、それでも倍くらいはあったのではないか、とのこと)が押し気味に進め
ますが…ここで、思いがけない事態が発生します。
許攸の…

174 名前:左平(仮名):2006/03/12(日) 21:38
今回のタイトルは「官渡」。三国志における一大ターニングポイント・官渡の戦いに決着がつく時がきました。

あの白馬義従を打ち破った強烈な弩の一斉掃射が曹操陣営に襲い掛かります。反撃しようとしても、相手の方が
物量・精度において上回るため、劣勢を挽回するには至りません。
(射程距離が半里余りといいますから、200m以上ですね。何かのスレで見たのですが、戦国時代末期の火縄
銃の射程が約120mだったそうですから、その威力のほどがうかがえます)

さすがの曹操も弱気の虫が顔をのぞかせ、許で防御を固めようかとの書簡を荀揩ノ送りますが、荀揩フ叱咤激励
を受け、気を取り直します。
(俗に「岡目八目」と言いますが、ここでの曹操と荀揩みると、その言葉がよく当てはまっている様ですね)
ここで考え出されたのが「発石車」。弩よりも射程距離が長く、かつ、殺傷能力が高い新兵器です。何基くらい
作られたのかは分かりませんが…ともかく、天から岩が次々と降ってくると考えると、敵にとっては一大脅威。
岩の雨を避けようとすると弩の殺傷能力が激減しますから、互いに距離をおいてのにらみ合いとなり、戦いは膠
着状態と相成ります。
地下での攻防はありましたが、袁紹側の策を曹操がはね返すという感じで、決め手とはなりません。

こうなると、どちらかに隙が出来た方が負けとなります。この点、曹操にはツキがありました。背後を衝く恐れの
あった唯一の存在・孫策が急死したのです。
経緯については、このスレを御覧になる方々にはご存知の通りですが、その雄々しさ・苛烈さと一方での呆気なさ
には、どこか織田信長に似た雰囲気を感じました。
なお、劉備については、関羽の件がありますから袁紹の許を離れましたが、こちらは小勢力ですから背後を脅かす
というほどではありません。劉表は中立という名の傍観ですし、その他の勢力は言わずもがな。

一方で、大軍であるだけに兵糧の消耗も大きい袁紹は、その集積地を烏巣に置いていたのですが、ここが隙となり
ました。
ここを守るは淳干(う…「ウ【迂−しんにゅう】」が出ないっ!)瓊。要地を任されている訳ですから決して小さい
将器ではなかったのでしょうが、許攸の情報をもとに攻めてきた曹操の軍勢を見ても軽く蹴散らせると見くびって
いたのです。

こうして、袁紹は、顔良・文醜・淳ウ【迂−しんにゅう】瓊といった将器、大量の兵糧、それに、万を越える兵(烏
巣の救援を提案するも容れられなかった張コウ【合β】・高覧がそのまま降ったため)を一挙に失い、壊走しました。

それにしても、許攸の情報の真贋の見極め方といい、張コウ【合β】を受け入れる時の言葉(微子啓や韓信をたとえに出してます!)といい、大量の書簡を発見した時の対応といい、曹操、見事の一言です。
人並以上に策謀を弄しながらも、一方で、誠心を持って人にあたるという姿勢を取れているからでしょうね。

とはいえ、まだまだ袁紹は健在。荊州にも一瞬目移りしたものの、諌言を受けてこの誘惑を振り切り、次なる戦いに
臨むことになります。

今回のラストに、久しぶりの名前―趙雲が登場しました。正式に劉備配下になったのです。「それ(趙雲がひそかに
募兵した)ゆえ、劉備のもとには数百の冀州人がいる」。…何か含みがあるのでしょうか。

175 名前:左平(仮名) :2006/04/13(木) 22:41
今回のタイトルは「ギョウ【業β】県」。官渡の戦いから、はや数年が経っていますが、
今回は、ギョウ【業β】攻略がメインとなっています。

建安七年。曹操は、郷里であり、若い頃隠棲していたショウ【言焦】を訪れていました。
住民の歓待を受けにこやかな顔を見せつつも、心中にはふと一抹の寂しさがよぎります。
「あの頃描いていた未来とは違うかも知れないが…過去を振り返ることはできない」。
覇業に向けての歩みはおおむね順調ですが、苛烈な生の中にいる自分を、しかと認識して
います。
既に四十の半ばを過ぎました。知命(五十歳)ももうすぐ。おのずと自省に意識が向いた
のでしょう。

しかし、その時は呆気なく敗れます。袁紹が亡くなったのです。
その長子・袁譚は青州の、次子・袁熙は幽州の刺史として出されていましたから、父の許
にいた末子・袁尚がすんなりと跡を継ぐ格好にはなったのですが…とはいってもただでは
済みませんでした。
(袁譚・袁尚とも、器量は父にも劣っている様に描かれていますが、本作においては、袁
譚の方がまし、みたいな感じです。袁譚は自省に甘さがある【それ故、配下の質も低い】
のですが、父の跡を継いだ直後に袁尚がみせた冷酷さ【父の愛妾の家族を皆殺し】はない
ということ)
曹操という共通の敵がいながら、両者は相戦うことになります。まずは、勢力にまさる袁
尚の方から仕掛けました。ギョウ【業β】の堅い守りを頼りに、曹操に攻められるより先
に…というところなのでしょうが、決着はつきません。
袁譚は袁尚に近い逢紀を殺し、袁尚(というか審配)は袁譚に近い辛評を捕え…という具
合で、配下の人材をも消耗する有様。
当然、曹操がこのような好機を逃すはずもありません。ギョウ【業β】の攻略そのものは
けっこう時間がかかりましたが、その間に着々と周囲を攻略し、自身の勢力の涵養に努め
ています。
(程Gの胆の太さ、あの曹操がいったん思考停止して意見をそのまま受け入れる荀攸の頭
の回転の速さ。配下がその手腕を存分に振るえる環境づくりの能力の差は大きいですね)

袁譚が(本心ではないのは明らかながら)曹操に降ると、袁尚はいっそう苦境に立たされ
ます。ギョウ【業β】は孤立無援になり、蘇由、そして審栄が裏切ることで、ついに陥落
しました。
ここでの審配の最期は、どこかやるせないものがあります。前々回での彼は、「所与の条
件下で最善を尽くす」ってな感じでけっこう格好よく思ったのですが、今回は、どこか醜
悪な感じがしてなりませんでした。
審配自身は変わってはいないのでしょう。しかし…落城に際し、囚われている辛評(及び
一族)を殺したら、処刑されるにあたって自らの忠義を誇るついでに人を罵ったりすると
いうあたり、どこか哀しいものがあります。

なお、今回は劉備の動きについての言及はなし。ラストはあの美女の登場でした。

176 名前:左平(仮名):2006/05/14(日) 00:11
今回のタイトルは「袁譚」。全部とはいかないまでも、今回のかなりの部分が彼の最期に至る過程です。

鄴を陥とし、冀州をほぼ制した曹操は、冀州牧となります(兗州牧は返上)。自らかの地を治めることと
したのは、地の利に甘えず、人を治めることこそ肝要と考えたがゆえのこと。
(一方、袁紹は地の利に甘えた感あり。「(山河の天険や玉璧よりも)人こそが宝」というのは、古典を
 読めば分かることですが、実践はなかなか難しいようで…。「袁紹は学問をしたことがあるのかな」と
 いう曹操の呟き、よく考えるとかなり痛烈です)
(袁紹のもとには名士がたくさんいたわけですが、活用していたとは言い難いだけに、名士もただの飾り
 に過ぎぬ、というあたり、虚名に対しても辛いです)
そんな中、曹操に降ったことで一息ついた袁譚は、袁尚との戦いを優勢に進める一方、近隣の郡県を攻略
するのですが…曹操がこれをどう思うか、という認識がなかった(若しくはどうにも甘かった)ようです。
これは、名門に生まれた驕りのゆえなのか、彼に(影響を与えられる)諌臣がいなかったゆえなのか。
戦略においては策を弄するも、人と人との契約については偽りを許さない苛烈さを持つ曹操にとっては、
これは、袁譚を滅ぼす格好の名目でした。

この戦いは、曹純、曹休、曹真といった曹操一門の将器を試す絶好の機会でもありました。(今回名前の
挙がらなかった于禁以外の)いわゆる「魏の五将軍」や李典、それに張繍(猛将との評価!)も登場する
など、曹操配下武人のオールスターキャスト勢揃いといったところ。一方で、参謀達の出番は特にありま
せんでした。小細工無用、ということでしょうか。
袁譚も懸命に抗戦し、血路を開かんと奮闘しますが…最期は存外呆気ないものでした。

ただ、それでも、王修のように、影響は与えられないまでも諫言を呈することのできる配下を持ち、かつ
それを虐げたりしなかっただけ、袁譚は、人としてはまっとうだったと言えるかも知れません。
感情移入まではしませんが、ほんのちょっとのことで、生き残れたかもしれないのにな…というところも
あります。

177 名前:左平(仮名):2006/08/25(金) 20:49
ここ最近、別アドレスに書き込んでるみたいですので…こちらに
書き込みます。

177 : 左平(仮名) 投稿日:2006/06/12(月) 23:32
今回のタイトルは「高幹」。前回に続き、袁氏勢力の減衰過程が描かれる格好です。

壷関攻めに派遣された楽進と李典。自信たっぷりな言動をみせる楽進に疑問を抱く李典ですが、
楽進も、伊達に大口をたたくわけではありません。数多くの戦いに参加し、戦場という場を知悉
しているがゆえの強気です。
実際、いざ戦いになると、奇策等はありませんが、的確に相手の出方をみてとって然るべき対応
をとります。李典にとっては、何となくうまが合わない(理解できない)のですが、しかし、以
降も長くコンビ(あるいは張遼とのトリオ)を組むのですから、不思議なものです。

さて、壷関は関と城から成っている(そういえば、ゲームでもそんな感じだった様な…)のです
が、上記の戦いによって、高幹は城に押し込められる格好になりました。こうなると、身を守る
城が却って枷になります。
袁氏は地を重んじたが、それゆえ地によって死ぬ(思考が退嬰的になるという含みがあります)
ことになる。曹操の認識は確かです。
逆に、それゆえ、一切のものに―地のみならず妻子・部下にも―とらわれない劉備が不気味に感
じられる、と。
高幹も最後の抵抗を試みますが、既に孤立無援に陥っており(匈奴単于に協力を求めるのですが
高幹についたところで得るものはなし。それでは利に聡い彼らを動かせるはずもありません)、
結局、脱出を試みたところで殲滅されました。袁譚の最期とよく似ています。

荒廃した并州をどう治めるか。ここで梁習の名が挙がります。高幹の秕政による荒廃であるだけ
に、優れた行政官が何より必要だったのです。
既に、(同僚の王思の提出した建白書の件で)その気骨を認められていた梁習は、これまでの任
地と同様、目覚しい成果をあげてみせました。
こうして、并州の平定も完了。徐州・青州の海賊も退治し(ここも楽進・李典コンビが活躍)、
さて次は…?

178 名前:左平(仮名):2006/08/25(金) 20:50
1 : 左平(仮名) 投稿日:2006/07/12(水) 23:19

今回のタイトルは「田疇」。前回のラストをうけての烏丸攻めです。

袁氏の息の根を止めるべく烏丸を攻めようとする曹操。しかし、荊州にいる劉備が気にかかります。
夏侯惇・于禁(+李典)を派遣したものの撃退されていますから、劉表ともども本腰を入れて攻め
かかられてはやっかい、というのは確かにありました。
 夏侯惇・于禁がともに奇策を弄しない将というのは分かるのですが、彼らと戦う劉備が、「彼我の
 力量をはかり堅実な戦い方をする」というのが何とも不思議な感じです。
しかし、ここで郭嘉が進言。一応官職には就いてますが実務には関与しない、いわば遊軍的な立場に
いるだけに、幅広い視野でみることができたわけです。

かくして、烏丸攻めに出立。しかし、幽州で夏の長雨に遭います。
 後の司馬懿による遼東攻めの時も長雨に遭ってますね。当時の気候には余り詳しくありませんが、
 この長雨、程度の差はともかく、特定の年に限った話ではないみたいです。中原からするとこの
 あたりは多雨地帯みたいです。
ここで曹操の頭にある人物の名が浮かびます。それが田疇(字は子泰)。以前、劉虞が都に出した
使者として名が挙がっていましたが、その後のことが語られます。彼の進言により、一気に烏丸の
拠点を突き、時の実力者・蹋頓を倒しました。
何と、ここで張遼の名が挙がってません!正確な理由は分かりませんが、この時期に攻めかかった
時点で勝利が約束されていたということで田疇の功績を高く評価した、ということのようです。

頼みにしていた烏丸が破られたことで、公孫氏のもとに逃れた果てに、袁氏の命運はここで尽きる
こととなりました。
かくして、曹操は北の脅威を完全に片付けました。そうなると、次は…というところ。
劉備の進言を容れなかったことを劉表は悔やみますが、当の劉備本人は以外にあっさりとした態度。
 以前、劉備を指して、道教的…という評価がなされていましたが、今回は、まるで高僧のよう、
 というたとえ方がされていました。徹底的に物事を捨てていくという姿勢がみられると。そして、
 それから考えると、世に言う「髀肉之嘆」はどうなのかと、という疑念も。
ただ、さすがに何らかの心境の変化があったのか、劉備はついに名士と言われる人に会うようになり
ます。ここで出てくる伏龍・鳳雛。そろそろ、三顧の礼がみられそうです。

179 名前:左平(仮名):2006/08/25(金) 20:50
5 : 左平(仮名) 投稿日:2006/08/12(土) 21:41
回のタイトルは「三顧」。前回のラストで近いうちに、という感はありましたが、さっそくきました。

ただ、最初に語られるのは、孔明と並び称された士元の方。名士(隠士と言ってもいいんですかね)の司馬
徽に認められたことで世に名が現れます。
司馬徽の姿勢がまた興味深いものがあります。褒める人はことごとく激賞するのです。大いに褒めて世に名
を現すことで、事を成す助けになればいい。褒めて育てるという教育方法の実践者、というところでしょう
かね。

叔父・諸葛玄と共に荊州に来た孔明は、ここで、孟建(公威)・石韜(広元)・崔州平、そして徐庶と知り
合います。
石韜曰く、「あいつ(孔明)は斉人だから」。石韜・徐庶は潁川の人。潁川は、というと、戦国時代の韓。
韓と斉とでは、法に対する考え方が真逆というほど異なる(韓で法というと韓非子が浮かびますが、ここで
念頭にあるのは術の人・申不害。つまり、君主の立場からみている)そうで、これもあってか、元侠客とも
いうべき側面のある徐庶はともかく、孟建・石韜とはやや距離があったようです。
そういえば、孔明が自らをなぞらえたのは管仲・楽毅ですが、二人とも斉と縁のある人ですね。

徐庶の紹介により劉備は孔明のもとを訪ねますが、当初、孔明は劉備に対し、不快感さえ持っていたとさえ
いいます(妻子にも配下にも酷薄・信義も何もない・結局のところ何も為していない…なるほど美質という
べきものがありません)。
しかし、門前払いしたにも関わらず、劉備はまたやって来ます。孔子が陽虎に仕官を求められた時のエピソ
ードにならった断りの文句を徐庶を通じて伝えてもなお、劉備は怒りの色もみせず、再度来るのです。
ここで、孔明は大いに悩みます。郷里の徐州を荒らした曹操にはつきたくない、孫権はどうも癖がある(既
に兄が仕官しているのでその後塵を拝することになるのも…)、そして、劉表は老い、曹操の勢力は急激に
拡大しており、もはやのんびりと世代交代を待っている暇はない…。
そして、ついに決断を下すときがきました。

二人の出会いは互いに感動をもたらすものとなりました。ここでの劉備は、演義における大徳の人でもなけ
れば、蒼天航路における侠気の人でもありません。何というか、仏教でいう「空」の人です。
その空の人に実を植え付けたのが孔明でした。

一方、曹操はというと、玄武池を作り水軍の訓練に入っていました。南方の制圧に取り掛かろうとしていた
のです。曹操vs孔明という図式ができつつあるようです。

180 名前:左平(仮名):2006/09/12(火) 20:45
今回のタイトルは「甘寧」。最近、人名のタイトルが続いてますね。

南征を図る曹操。荊州をまず併呑し、そこから孫呉を…と考える彼としては孫呉の台頭が遅い方が望ましい。
そのため、江夏を守る黄祖の奮闘に期待するところだったのですが…その願望は、あっさりと砕かれました。
その鍵を握る存在だったのが、この甘寧。

巴郡の出である甘寧は、任侠を気取り、放恣な日々を過ごします。侠気に叶うとみれば罪人を匿い私刑を行う
こともしばしば。豪奢を好み…とくると、なるほど、劉備に似ているところがあります。
※年齢的には、劉備とはそんなに離れていないように思えます。彼がなぜ群雄の一人に名乗りをあげなかった
 のか…という考察もできそうですね。
そんな生活を二十年程も続けた後、突然書物を読むようになり、荊州に向かいます。さんざん好き勝手に生き
てきた末に、ふと倫理道徳に思いを馳せたか、何かしら老いを感じたのか。ともあれ、いったんは劉表に仕え
ようとしたものの、儒教道徳に則った君子である劉表は彼を使う術を持たず。となれば、まだ内部が固まって
いない孫権か、と見極めますが、黄祖に止められます(そりゃ、数百人ものド派手な一行が通れば目立ちます
わね)。
ここで暫くの間くすぶりますが、孫権の江夏攻めの際、なりゆき上、黄祖を守って後拒をつとめたことで孫呉
に名が知られます。蘇飛のはからいで孫呉にわたった甘寧は、直ちにその力量を認められ、黄祖攻めに加わり
みごと大功を挙げます。
※黄祖のキャラがなんとも微妙なところですね。「勇将」「荊州で最高(の武将)」「運だけは強い」。どれ
 が本当?まぁ、最後は、「事実上の総司令官は蘇飛」なんですけど。
 陳舜臣氏の諸葛孔明での黄祖が一番まっとうではあったように思います(孫堅を倒した部下の首を差し出せ
 ば孫呉もおとなしくなるのでは、という劉表に対し、自分が責を負う、ってなあたり)が…結構、書きよう
 がありそうです。
 前に、どこかで「黄祖は半独立勢力では?ってな」話も聞きましたが…

後半は、諸葛亮が登場。黄祖亡き後の江夏太守の任についたのは…劉表の嫡子・劉K。その経緯が語られます。
親異常に乱世には不向きな人として描かれてますね。

181 名前:左平(仮名):2006/09/18(月) 00:14
三国志の第四巻が発売されました。早速購入、読了。
しかし、ここらの密度は濃いですな。一巻で四年程度しか経過しておりません。

182 名前:左平(仮名):2006/10/04(水) 22:28
三国志の第五巻が出ましたので、先週、購入しました(第五巻の時に第四巻と
共に広告載せるのなら、一緒に出しても良さそうな気もしますが…)。

土曜に買ったので、即日読了したのですが…あれ?「張繍」の回、典韋の最期
が詳しく描かれてる…。

183 名前:關龍白:2006/10/10(火) 15:43
「張繍」の回は全部で33ページもありますね。
他は28,9なので追加したんじゃないでしょうか?

184 名前:左平(仮名) :2006/10/15(日) 21:15
>追加したんじゃないでしょうか?
恐らく、そうでしょうね。しかし、いしいひさいちキャラの藤原センセならともかく、宮城谷作品で増補改訂
があったというのは、なかなか面白いものです(とは言え、雑誌への連載時から読んでて、かつ、その記憶が
あるのは本作と風は山河よりくらいなんですけど)。

今回のタイトルは「長阪」。

前回のラストでちらりと司馬懿の名が現れましたが、今回、前半部分でそのあたりの経緯が描かれてました。
兄・司馬朗の友人である崔琰(直言が好きですな、この御仁)に高く評価された彼は、この頃に出仕。病と
佯っていたところ刺客に襲われ…といった『晋書』でのエピソード(妻の張春華のことは、今回は書かれて
ません)を書きつつも、周辺の人間関係等からこれを疑問視されています。
この時点では地味な一官僚たる彼ですが、先祖には名将(巴蜀を制した司馬錯等)もいるだけに、文武兼備
を自負しています。

曹操による荊州攻略に先立ち、まずは、涼州の鎮撫がなされます。馬騰・韓遂が相争うのを鍾繇が調停し、
続いて、張既の説得により、馬騰が入朝します。これにより、一応収まります。欲を言うと、曹操にとって
ベストだったのは、馬超をも入朝させて涼州の私兵軍団を解消することでしたが、さすがにこれは酷という
もの。こちらは、しばし後回しとなります。
 張既の若い頃のエピソードが紹介されています。彼の才を見出した功曹・游殷とその子・游楚です。游楚
 の方は、あまり曹操好みという感じではない鷹揚な人物という扱いですが、なかなかの器量を持った親子
 です(游殷を死に追いやった胡軫は、三国志全人名事典では董卓配下の胡軫とは別人という扱いですが…
 どうなんでしょう)。

曹操の圧力が迫る中、劉表は世を去ります。父の危篤を知った劉Kは直ちに駆けつけますが、蔡瑁・張允に
阻まれます。そして、劉Nが跡を継ぎ、曹操に降る決断を下します。
 劉Kを阻むのは演義等と共通しているのですが、ここでの蔡瑁・張允の描かれ方は、かなり異なります。
 蔡瑁は、荊州のため、「政治的判断として」劉Kを阻みます。そこには私心はなく、去り行く劉Kに対し
 「どうかお宥しを…」と詫びてさえいます。蒼天での蔡瑁も善人キャラでしたが、こちらはそれにプラス
 して忠臣キャラも入ってます。
 一方、蒯越は、器量は相当なものですが、さすがに老いたか、乱を好まぬ人物に。
 劉Nは、器量については父には少し劣ると言えますが、下手な妄想は抱かない分、まっとうな人物です。
しかし、この決断により、劉備達は見捨てられた格好になります。ここで荊州を乗っ取っては、という声も
あがりますが、劉備は、ここでも鮮やかなまでに捨ててみせます。
民が付き従うのは、徐州でのことがいまだに荊州では意識されている―劉表の政策の賜物でもある―ため、
ということからすると、必ずしも劉備の魅力によるものではないわけですが…しかし、それでも劉備に何か
魅力を感じるというのはなぜでしょうか。

ラストは、三国志ファンご存知の趙雲の大活躍。曹操をも感嘆させる奮闘振りですが、関羽以外にも「劉備
には過ぎたる臣」がいたことを、曹操は不思議に思います。

185 名前:左平(仮名):2006/11/19(日) 21:46
今回のタイトルは「魯粛」。

タイトル通り、今回の主役(?)は魯粛です。まずは、その来歴から。…「〜の人」というのは
史書にあるわけですから、調べれば分かるとはいえ、徐州の人、ということを強調していたのが
印象的です(反・曹操にして親・劉備というのにはそれなりに理由があったということ。徐州の
主としての劉備の政は、少なくとも悪いものではなかったみたいです)。

ゲームでは孫権配下の参謀の一人ってな感じの扱いですが、ことさら学問に励んだという様子は
なく、人を集めて教練を行う等していますから、家が裕福でなかったら甘寧みたくなってたかも
知れません。
しかし、数百の衆を集めて教練を施し、周瑜の訪問をうけて倉一つぽんと渡すってんですから、
傍目には単なる放蕩息子とみられるのも無理はありませんね。

周瑜とはたちまちにして意気投合。子産・季札にたとえられる程の仲となりますが、魯粛がその
才を存分に輝かすには、それからしばらくの歳月を要します(何だかんだ言っても袁術の虚名が
なお大きかったこと、周瑜に【いくばくかの】中央志向があったこと、孫策がとかく武人偏重に
なりがちであったこと等、理由はいくつかあります)。
魯粛が劉曄の誘いをうけて北へ向かおうとした時、周瑜が懸命に引き止め、孫権に立ち会わせた
ことで、埋もれかけた才が世に現れます。
孫権に語った内容は、現状を踏まえつつ、覇権を得るための策(献帝を義帝、曹操を項羽、孫権
を劉邦に喩えてます)。中央の高位に色気を持たず、思想にいらぬ装いをしていない自由人・魯
粛の面目躍如の場面です。


そんな魯粛にこのたび、荊州の偵察(等)という使命が下ります。劉備という奇才にピンときた
魯粛は、彼に、孫権との盟を勧めます。
諸葛亮のGOサインも出て、ここに、一つの流れが生じました。
最後は、諸葛亮と孫権との対面。若くして一勢力の長となった孫権からすると、親ほど年が違う
というのに未だに領地を保ち得ない劉備の器量に対し、どうしても疑いを持つのですが、そこを
どのように説得するか。


ここで、劉備陣営に一つの動きがあります。劉備に諸葛亮を勧めた徐庶が去ったのです。母が捕
らえられたとはいえ、少し時間が経ってから去ったというところに、彼の複雑な心境が見え隠れ
しています(龍【諸葛亮】を見上げつつ、母とともに地を行く徐庶。千載の後も名を残すことと
なる偉才と自らを比べ、悲観したのでしょうか。幅広く人材を活かすことができない点に劉備陣
営の難しさがありますが、曹操とて、最初は小勢力からのスタートでした。何が違っていたのか
…)

186 名前:左平(仮名):2006/12/10(日) 22:36
今回のタイトルは「水戦」。

もっとも、タイトルにある戦闘自体は、今回はありません。前回のラスト、諸葛亮が孫権と面会する
ところから始まります。
諸葛亮の弁舌そのものに対しては、孫権はやや冷ややかな感想を抱きます。しかし、ここで曹操と戦
わないことには、父・兄の偉業が霞む。
勝算は薄いが、戦わぬわけにもいくまい。しかし、衆議にかけ、群臣達の総意をまとめないことには、
如何ともしがたい。

張昭の説く和睦それ自体は、決して間違いではない。しかし、群臣達が賛同するのは…。孫権が真に
開戦を決意したのはこの時かも知れません。

孫権は、周瑜・魯粛、そして程普に指揮を委ねます。ここは妥当な判断でしょう。敵は大軍なれど…
周瑜には、勝算がありました。劉備勢の力を借りるまでもありません。
ただ、欲をいうと、周瑜はこの戦いに劉備を巻き込んでおいた方が良かったのかも知れません。彼を
完全に外したことで、劉備はこの戦いの後、自由に兵を動かせる状態になったわけですから。


ただ、曹操にとっては、既に戦いは始まっていました。それも、自軍にかなり不利な状態で。そう、
疫病の蔓延です。
郭奉孝があれば…。曹操の嘆きがここで聞かれるとは、正直意外でした。
軍の指揮をとるのは華歆。人格識見ともに優れた人物ですが、兵略には長じていません。ただただ、
数で押すしかない状態。
一体、どのような赤壁の戦いになるのか。

187 名前:左平(仮名) :2007/01/20(土) 22:28
ここのところ仕事の方がバタついてまして書き込みが遅くなりました。…それはともかく。
今回のタイトルは「赤壁」。言うまでもなく、あの戦いが描かれるわけです。

曹操と周瑜の艦隊が接触。いきなりの水上戦から始まります。蒼天では曹操が食中毒でダウンしてました
が、こちらでは健在につき、しっかりと采配を振るってます。
水上では孫呉有利とはいえ、決して一方的ではない、水戦らしい戦いが繰り広げられており、何とも絵に
なる場面でした。
本来の構想であれば、長江を埋めんばかりの大軍で殲滅するところでしたが、疫病により相当数の軍船を
焼いた(それでも数では孫呉を圧倒しているのですが)ため、なかなかに苦戦。下流から攻めてきている
というのに、巧みな操船技術で曹操軍を翻弄する周瑜の力量は確かです。
危うい場面もありましたが、確かな状況判断に基づき死地を回避した曹操。戦いは、水上から陸上に移り
ます。

水上では有利にことを進めた周瑜ですが、陸に上がられてはなかなか手が出せません。攻めあぐねた周瑜
は、やむを得ず、劉備を使うこととします。
といっても、先に劉備の助力を断っているわけですから、いかに感情を面に出さない劉備とはいっても不
快感はあります。さて、どうするか。
…劉備は動きました。諸葛亮の、高度な政治的判断に基づいて。実は、周瑜もまた、劉備が曹操と本気で
戦うなどとは思っていなかったのです(これにより曹操に動きを見せれば隙も生まれるだろう、という判
断。長期戦になれば孫呉不利は明らかでしたからね)。
さて、次の手は…。

ここで黄蓋登場。ビジュアル面の記述は全くないのですが、蒼天のもので想像してもいいような忠魂ある
武人です。風向きのことも書かれてましたが、本作でも、火計の主眼は、偽りの投降をした黄蓋が曹操軍
の奥深くに侵入することでした。
 とはいえ、この策のポイントとして、「曹操は猜疑心が『薄い』」という点が挙げられているのが、他
 の三国志とは違うところ。確かに、本作での曹操は、篤実さとか堅実さというところが強調されてます
 からね。
そして、ついに決行。火計が成功し、水上の軍船はもとより陸上の陣営までも焼き尽くすそのさまは壮絶
の一言ですが、ページの下の方だったからか、ビジュアル面の派手さの割に、以外に地味な印象を受けた
のは私だけでしょうか。
ただし、曹操は、これもまた直前に回避。周瑜は、戦勝に酔う間もなく次の戦いに臨みます。曹操を討た
ないことには、真の勝利とはいえないからです。

188 名前:左平(仮名):2007/02/18(日) 23:44
あー…精神面では幾分落ち着いたのですが、年度末近くでまだバタついてる…個人的な事情はともかく。

今回のタイトルは「江陵」。赤壁後の、荊州をめぐる曹操vs孫権の戦いがいよいよ本格化してきました。

黄蓋の捨て身の策により、陣営を焼失した曹操は、急ぎ華容道をひた走ります。とはいえ、かつての徐栄
との戦いの時もそうでしたが、あまりの負けっぷりに、さすがの曹操も茫然自失とする場面も。
ここで、虎豹騎を率いる曹純の冷静さが光ります。前途が悪路であること・劉備が追跡していることを把
握するや、的確な指示を下し、みごと曹操の退却を成功せしめたのです。
ここで曹操が討死すれば天下の趨勢はまた混沌とするところでしたから、その働きは極めて大きいものが
ありました。

いったん北帰する曹操は、要衝・江陵の守備を、曹仁に託します。彼で駄目なら諦める。曹操をしてそう
言わしめた曹仁、既にしてかなりの将器となっています(反董卓の挙兵の頃は単なる暴れ者だったのが、
見事な成長を遂げている、というように絶賛されてます)。
その彼を補佐するのが、賢臣・陳矯と、猛将・牛金(!)。

曹操を討ち漏らした周瑜は劉備の不実に怒りますが、いつまでも怒る余裕はありません。直ちに次の作戦
に移ります。
ここでは、甘寧、呂蒙らの活躍が光ります(一方で、甘寧と淩統の微妙な関係にも言及あり)。徐々に江
陵包囲網を整えた周瑜は、ついに、江陵の攻略に臨みます。

要衝ながら江陵の兵力は以外に少なく、いかに篭城戦とはいえ、曹仁は劣勢に立たされます。この時、陳
矯はかつての陳登を思い出すのですが、陳登と曹仁とは、その将器の質にやや違いがあります(ともに名
将なのは確かですけどね)。
少数精鋭を以って敵の気勢を削ぐべく、牛金に出撃を命ずる曹仁。臆することなく受諾する牛金。相当の
胆の持ち主である牛金ですが、多勢に無勢。包囲され、このままでは…その時!

189 名前:左平(仮名):2007/04/15(日) 22:52
(2007年03月分)
個人的な話をしますと、このほど、異動になりました。とはいっても、広島通勤が続くのですが。

今回のタイトルは「合肥」。もちろん、劉馥・劉靖父子のことも書かれてます。
まずは、前回からの続き。部下の危機をみた曹仁、何と!ただ一騎で出撃しようとします。陳矯の困惑、
いかばかりか。
何とか数騎をつけたとはいえ、敵勢と比べると余りに小数。しかも、ただの示威行為などではなく、本
気で戦うというのですから、無茶にもほどがあるというもの。
陳矯、あまりの衝撃に、聴覚が失われたかの如き状態に陥りますが…
しかし…突如沸き起こる歓声。続いて、意気揚々と帰還する曹仁達。曹仁は、見事、包囲された牛金達
の救出に成功したのでした。
いかに敵勢が怯んだとはいえ、あれだけの重厚な包囲を突き破るとは、大変なもの。(実は、今回の曹
仁については、ビジュアル的には蒼天バージョンで想像したのですが…)後年の合肥の張遼に優るとも
劣らぬこの場面が蒼天で描かれなかったのが惜しまれますね。

周瑜が江陵で曹仁と戦う中、孫権は合肥を、張昭は当塗を攻めます。しかし、合肥の守りは万端。劉馥
の遺産が実によく機能したのです。
類稀なる行政手腕を持ちつつも、己の徳量を過信せず、しかと合肥の基盤作りを成し遂げていた劉馥。
そして、その父の薫陶を受けていた劉靖(三国志の時代からは少し外れるからか、孫の劉熙までは言及
されてませんけど、三代にわたる活躍ですからね)。
結局、周瑜は江陵を落とすのに一年かかり、孫権・張昭は成果なし。赤壁での鮮やかな勝利があったと
はいえ、思うような結果は得られませんでした。

一方、劉備達も、地味に動き始めます。しっかりとした領土を確保しないことには、結局孫権あたりに
吸収されかねないですからね。
劉Nとともに曹操に降ったと思しき荊州南部の太守達を口説き落とす、ってな口実をつけて、周瑜から
離れることとします。
他の事に手が回らない周瑜、これを了承したのですが…孫呉にとっては、後々悩みの種になるんですよ
ね。孫権がもう少し攻めに長けていたら…というifもありなんでしょうか。

ラスト付近は、武陵の金旋攻めです。じっくりと内通を待ち、約一月の後、趙雲。糜芳という珍しい?
コンビで攻略に挑みます。
ただ兄に従ってきたというだけで、劉備も、関羽・張飛も、さらには諸葛亮をも嫌うという糜芳。そん
なに嫌ならついて来るなよと言わずにはいられない彼も、趙雲は真の将器と認めています。
さて、武陵攻め。いかなる描かれ方をするのか。

190 名前:左平(仮名):2007/04/16(月) 23:06
(2007年04月)
今回のタイトルは「巡靖(立+ヨ)」。諸葛亮の導きもあり、捨てることで名声を得てきた劉備が徐々
に変貌するさまが描かれます。このタイトル、二勢力にとっての、という含みがあるみたいです。

今回の話は、武陵攻めの続きから始まります。趙雲自ら城壁をよじ登り、ついに城内に到達。それと同
時並行で関羽・張飛が突入。かくして、武陵は陥落。太守の金旋は倒されます。
趙雲が徒歩で戦う姿はなかなか見られないだけに、面白い場面です。糜芳をして「趙雲はかすり傷一つ
負わないのではないか」と言わしめるあたり、宮城谷氏も趙雲のイメージを崩すことはなさそうです。
突入時にも「常山の子龍である。かかってくるか」と、台詞に!がつかないあたり、冷静沈着な武人と
して描かれています。
その後の場面においても、趙雲の識見の確かさをうかがわせます(一方、糜芳は、自らの力量の乏しさ
が分かるがゆえに苛立っているように見うけられます)。
さて、戦後処理。関羽が太守代行となったことに不満を示す糜芳を趙雲はたしなめ、一方で、内応者を
探します。その内応者は、城内突入時には死んでいた兵士達かと思われましたが…その首謀者と思しき
人物とは、実は廖立でした。劉備と諸葛亮が武陵を攻めるのに時間をかけたのには、このような側面も
あったというわけです(単なる力攻めでは人心は掴めないし、戦闘の結果、味方になりうる人材を喪う
惧れがあった)。劉備のもとにも、徐々に人材は集まってきつつあります。

そして、続いては長沙。親曹操ながら、その支援が期待できないことは分かっている太守・韓玄は、劉
備からの使者(何と!簡雍がここで登場です!)と対面します。
簡雍は、不思議な使者でした。降れと脅すわけでもなく、利をちらつかせるでもなく。何しに来たのだ
と思いつつも、そんな簡雍の主である劉備の力を認め、抗戦することを諦めた韓玄。「演義」とは全く
異なる結末となりました。その後、韓玄がどうなったかは全く言及されていませんが、以前の黄祖と同
様、なかなかの人物という印象が残ります。
このような結末となったため、ある重要人物の登場場面がありませんでした。約十年後にはかなり重要
な存在となる彼をここで出さないとなると…どういう形で登場させるのでしょうか。もっとも、案外、
次回あたり名前だけポッと出すのかも知れませんが。

続いて、桂陽・霊陵も降し、劉備は確かな足がかりを築きました。真の意味で劉備が一勢力としての道
を歩み始めたのです。
さて、孫権との戦いに気を取られていた曹操も、この頃になると荊州南部の情勢が気にかかる様になっ
てきました。とはいえ、江陵にも十分な兵を与えていないことからも分かるように、余裕はなし。そこ
で曹操が選んだ人材とは…劉巴!
かつて孫堅の遺骸を引き取り、後には張羨を動かして劉表と戦った桓階をして自分以上の人物と言わし
めたあたり、大物感があります。

名士・劉巴が荊州南部の説得に動いていることを知った諸葛亮は、彼の捕捉を考えます。使者として各
地を巡っている以上、大人数ではないはず。とはいえ、扱い方を誤ると…というところがあるだけに、
どのようにして捕らえ、迎え入れるのか。

191 名前:左平(仮名) :2007/05/21(月) 22:50
三国志(2007年05月)

今回のタイトルは「四郡」。名実ともに拠って立つ領土を確保した劉備は、そろそろ、これまでとは違う
自分を探し当てる時期にさしかかっています。

しかし「零陵」を打ち間違えるとは…。ここのところ、本作以外ではやや三国志から離れているとはいえ、
情けない限りです。

まずは、前回の続きから。
荊州南部で反劉備の狼煙をあげるべく動いていた劉巴。危ういところで捕捉の手が伸びていることを知り、
間一髪で諸葛亮の追跡をかわしますが、零陵郡から追われる格好になりました。当然、これでは使命は果
たせません。
半ば失望した劉巴が辿り着いたのは、交州。現在のヴェトナム北部ですから、漢の人々からすると、殆ど
化外の地です。
当然、ここで交州の主・士燮の名が出てきます。とはいえ、劉巴の言葉に耳を傾けないことから、ここで
は小物扱いです(確か、王莽の頃からの半独立勢力…と聞いた覚えが。当時、中央にあっても一級の知識
人でもあったのですから、もう少し良く書いても…とも思いますが、やり場のない鬱憤のあったであろう
劉巴にはそう見えたということでしょうか)。
結局、ここから益州に入った劉巴は、この地に落ち着き、後には…ということになります。人生の皮肉を
感じるところではありますが、この時代、このような人々は多かったのでしょうね。

さて、こちらはしばし措くとして…。今回のメインは、四郡を得た劉備の、今後に向けての動きについて
です。
先の徐州は借り物。しかも袁術やら呂布やらといった敵対勢力に苦しんでおりましたから、半ばどさくさ
紛れに、とはいえ、この四郡は、初めて自力で勝ち得た領土です。
これをいかに保つか。これまで捨てることによって生き延びてきた劉備にとっては、何もかもが初めての
経験です。
幸いなことに、かつての蕭何の如く内政に長じた諸葛亮に加え、関羽にも行政手腕がありました。あとは、
曹操の動きを睨みつつ、孫権と良好な外交関係を築くこと(もっとも諸葛亮は、孫権に気を許すべきでは
ないことを認識しています。孫権にあまりに近付くと四郡の領有権が曖昧になってしまう惧れがあるため
です。事実そうなってしまうわけですが、とはいえ、なかなかこのあたりの機微は難しいところです)。

劉備と孫権の妹との婚儀。こうなると、劉備自身が行かないわけにはいきません。劉備を見送るにあたり、
諸葛亮は、「若君(後の劉禅)とともにお待ちしております」と言いますが、それは一方では、劉備に万
一のことがあった場合には、幼君を立ててでもその勢力を守り支えるという覚悟の表明。単なる儒教的な
忠とはいささか形は異なりますが、後の「出師表」に繋がるところがある…?

192 名前:左平(仮名):2007/06/17(日) 09:57
三国志(2007年06月)

今回のタイトルは「養虎」。ここにきて、益州が注目の対象になってきました(今回、曹操は出番なし)。

劉備が呉に来訪。強運の英雄(好意を持たない者からみれば悪運の強い梟雄)・劉備の扱いを巡り、呉の
内部は喧々諤々の論争が起こります。
 抑留すべしと主張→呂範、周瑜
 活用すべしと主張→魯粛
ともに、劉備がひとかどの器量の持ち主とみているからこその真摯な主張なわけですが…ここでの孫権は、
後者を採ることとしました。兄の後を継いで以来、ここまでこれといった挫折もなくきているだけに、鷹
揚なところを見せたかった…というところもあるのかも知れません。

しかし、この邂逅、(少なくとも劉備にとっては)益あるものではありませんでした。
劉備は、孫権に対し、抜きがたい不快感を抱いたのです。曹操とは異なり、欺瞞が感じられる、と。後年
のことを考えればあり得ないではないのですが、ちょっといきなりのような気も。
孫権の妹が劉備との結婚を心底嫌がっている(確かに、いくら美人でもこれでは冷めますわな…)という
のも、その不快感をさらに強めることに。
結局、用事が済んだら、逃げるように帰っていきました。
劉備が陳登と許レとを評したエピソードからみると、表には出さないけど、結構激しい気性の持ち主でも
あるわけですし、人物鑑識眼もなかなかのもの。その劉備がかくも孫権を嫌ったという時点で、この同盟
なるものは危ういものだった…。

主君が劉備を帰したことを知った周瑜は、自らの大計を急ぎ実行するべく、行動を起こします(曹操・劉
備が大規模な軍事行動を起こせない今のうちに…ということ)。
孫権の承認も得て、意気揚々と帰途についた周瑜でしたが…突如として世を去ります。曹仁との戦いで重
傷を負ったとの記述はありましたが、何とも急な死でした。
歴史を大きく動かした赤壁の勝利。そのために世に現れた、一つの奇跡。孫権の言葉も含め、最大級の賛
辞が並びます。
志半ばにしての夭折。一方で、千載の後までも語られる偉業。無念さと充足感が交錯します。

ともあれ、大器・周瑜の死により、その大計―益州を併呑し馬超と結んで曹操を多方面から撃破―は挫折
します。
しかし、諦めきれない孫権は、益州を攻めるべく孫瑜を動かします。この際、劉備には何らの事前連絡を
していないあたりが、まだまだ甘いところです。
孫瑜を通さず、一戦交えることさえ辞さない劉備。はて、どのように収拾するのか。

193 名前:左平(仮名):2007/07/17(火) 22:26
三国志(2007年07月)
今回のタイトルは「龐統」。孔明とはかなりタイプの異なる偉材の登場です(ちなみに、容貌への言及は
なし)。

益州を獲るべく孫瑜を西に遣わした孫権。これに対し、劉備は関羽・張飛を遣わしたことで、あわや全面
対決の様相を呈します。
が、しかし…。劉備の書状(低姿勢に終始)を受けた孫権は、ここで兵を引くよう命じます。訝しく思う
孫瑜ですが、良将たる孫瑜は、主命に背くことなく引き返します。
かくして、劉備はやすやすと江陵を確保。益州への道は、劉備がおさえることとなりました。孫権も後で
地団駄を踏んだのでしょうが…ここは劉備の勝ちでしょう。
我欲を剥き出しにしたといえる劉備の姿に、魯粛も軽く失望します。しかし成長した呂蒙の言葉をうけ、
思い直します。
人は、変わり得るもの。親・劉備派とみられる魯粛も、そう単純な存在ではありません。

ちなみに、呂蒙と魯粛の話の中で、関羽の人となりが語られています。春秋左氏伝を愛読した関羽は、儒
教的な正義観とはいささか異なるものを持っているようです。その思いは強烈で、漢朝にも、(漢帝を奉
ずる)曹操にも屈しません。いや、王朝的なシステムの構築を図りつつある劉備にさえも、どこか一線を
引いているのでは…とも。
高島氏でしたか、三国志における関羽の存在は巨大であると語っておられましたが、宮城谷氏もその図式
を描いておられるようです。

ここで、龐統が登場します。自己顕示欲が強く、毒舌家でもある彼は、呉の偉材(雇邵、陸積、全N)に
対してもかなりな物言いをしますが、それがかえって好かれるという得なキャラです。
とはいえ、はじめ、劉備は彼のことを気に入らなかったわけですから、人の見方というのは複雑ですね。
潘濬(清廉のみならず情義も併せ持つ、劉備好みの名臣。とはいえ、陳登もそうですが、そんな彼らが劉
備のもとを離れなければならないというのもまた世の習いか)のことも語りつつ、今回はここまで。
次回は、久しぶりに曹操のことが語られるようです。

194 名前:左平(仮名):2007/08/13(月) 23:54
三国志(2007年08月)
今回のタイトルは「潼関」。久しぶりに曹操メインの話です。

建安十五(210)年。「求才令」を出し、銅雀殿を建てたとはいえ、孫権・劉備の動向が掴みきれない
だけに、曹操に目立った動きはありません。
内実は決して連携していない孫権・劉備ですが、二勢力がそれぞれに曹操に牙を剥く「常山の蛇」の状態
とみると、動けないのも無理はないところでしょう。
それにしても…。二年前はただ逃げ回るだけだった劉備がこれほどの存在になろうとは。曹操の目には、
いまだ諸葛亮の姿は見えません。それだけに、劉備軍団の変容の原因が未だに分からない状態です。

南方は、しばらく手を付けられない。と、なると…。そう、西方です。かの地自体が治まっていないのに
加え、益州(この時点では劉璋がいるとはいえ、孫権か劉備に侵食されることは明白)から手を回されて
は一大事。賊・商曜の蜂起の知らせを受け、直ちに護軍・夏侯淵に出陣を命じます。
速攻に長けた夏侯淵ですが、ここで求められるのは、来るべき曹操の出陣に備え将兵の損耗を抑えること。
いや、そればかりではありません。

軍議において、諸将は(大将の気性に合わせて)速戦を唱えますが、ひとり朱霊が異論を唱えます。ひと
たびは朱霊の進言を退けるかと思われた夏侯淵ですが…かつての雷緒征伐のことを思い起こし、その意見
を採用します。結局、それが大正解でした。
 ※征伐された雷緒がどうなったか、を考えると答えが出てきます。
 ※朱霊が曹操に嫌われていたことも触れられています。ただ、最初の頃はそれほどの将器でもなかった
  (晩成した)ように書かれています。何かそういう資料があるのか、曹操が嫌った理由付けをされた
  のか。

そして、ついに馬超達が出てきます。それなりに野心はある馬超達。しかし、なにゆえこの時点で動くの
か。何やら、中央にもきな臭い動きがある…?
しかし、ここでの馬超は実に冷静沈着です。潼関に入った曹仁の将器のほどが知られているということも
あるにしろ、親子ほども年の差がある韓遂と比べてもその落ち着きぶりはなかなかのもの。

ラスト付近、ちらりと曹植の名が。次回あたり、詩の一つも出てくるのでしょうか。

195 名前:左平(仮名) :2007/09/22(土) 23:24
三国志(2007年09月)

今回のタイトルは「雨矢」。対馬超戦の序盤・渡河作戦の顛末などが描かれます。

前回から既に対馬超戦に入ってはいるのですが、曹操自身が臨むのは今回から。まずは、その深謀遠慮が
語られます。
内に外にとにかく忙しい曹操にとって、頼りになるのは名臣のみにあらず。賢婦人・卞氏のことを忘れて
はならないでしょう。(途中までですが)こたびの遠征に連れて行ったのもそのため。彼女は、夫の期待
にみごとに応えます。
それだけではありません。愛子・曹植も同行します。彼が類稀なる文才の持ち主であるということは既に
分かっているだけに、夢想に陥らないよう、現実の戦場を見せておく必要があると判断したからです。

ただ、曹丕はこのことに不快感を示します。またしても留守を任されたことで己が武名をあげる機会を逸
したためです。
それ自体は、曹操から信頼されていることの証といえるのですが…ここではまだ語られないとはいえ、後
のことを思うと、少しばかり影が差しているような。
また、曹丕の正室・甄氏は、義母を気遣う孝婦なのですが、義母には少し劣る(ごく簡単にいうと、大家
族の中で育ったため寂しがり【義母を気遣うのもその故】なところがあり、胆力が弱い)ようです。
本作においては、養祖父・曹騰から書かれていますから、曹操が三代目。『重耳』や『風は山河より』と
比較すると…曹操以降は、さて?
 蛇足ながら、村上氏の挿絵、普段はやや三枚目的な感じのものが多いのですが、今回はまっとうな美女
 (おそらく甄氏)でした。こうしてみると、甄氏の描かれ方って作風が出るようですね。

鍾繇の治績を確認し、潼関に着陣した曹操。もちろん、既に作戦は考えています。徐晃・朱霊もその意図
をしっかりと読み取り、適切な動きを見せます。
ここで馬超側の意見は分かれます。渡河させまいとする馬超と渡河途中を叩くべしとする韓遂。ここでは
馬超の方が正しかったわけですが…韓遂の考えにも一理あるだけに難しいところです。

かくして、渡河作戦が開始されます。それを察知した馬超は手勢を率いて急行。西方の精鋭達がどっと襲
い掛かってきます。
曹操側も精鋭揃いですし、名将・張郃もいるだけにたやすくは崩れませんが、攻撃は激しさを増す一方。
タイトル通り、曹操に向かって雨の如く矢が降り注ぎます。
ついに、曹操の身を気遣った張郃・許褚によって、曹操は後方に引きます(というか、後方に連れて行か
れます)。

ただ、馬超にも抜かりはありました。韓遂達との連携がいまひとつとれていないのです。戦いを仕掛ける
のは馬超側ですが、気がつくとじりじりと押されている状態。和議を持ちかけるなど、焦りの色が見られ
ます。
と、なると…。ここで賈詡の登場。次回は…

196 名前:左平(仮名):2007/10/29(月) 21:23
三国志(2007年10月)

今回のタイトルは「馬超」。対馬超戦の決着がつきます。

兵糧の問題もあり、このまま戦い続けていても埒があかない。とはいえ、利無くして退くこともできない…。
ジレンマに陥った馬超は、ここで韓遂を使うことにしました。韓遂が曹操と面識があることから、曹操との
面会の場を設けることを求めたのです。
2対2。こちらは馬超と韓遂。向こうは曹操と誰か…。さすがに軍閥の長であるだけに、それ相応の思慮も
ある馬超ですが、ここは己が武勇で何とかけりをつけようとしたのです。
しかし、馬超と韓遂の間には、互いを軽んずる、いや〜な雰囲気が。これでは…。

そして、面会の場。向こうは一騎。よし、いける…そう思った馬超ですが、曹操撃殺は成りませんでした。
何故なら、曹操の傍には、徒歩ながら剛勇無双の許褚がついていたからです。韓遂との連携が成らぬ以上、
許褚に気を配りつつ曹操を襲うことは不可能でした。
そんな馬超などいないかの如く、曹操と韓遂の話は弾みました。才略にも機知にも富んだ両者のことです。
もしかしたら…両者は、敵ではなく盟友として、あるいは上官と部下として…と思わされる場面です。

しかし、一点、大きな違いがありました。韓遂にとっては、中原の天は狭いのです。「銅雀台に登れば天
は低くなる。あの男でもそれが分からぬか」…何とも意味深なところです。

結局、この面会を経て、馬超の、韓遂への不信感はさらに高まりました。何も得られなかったのです。続
いて、関中諸軍閥との面会にて、決戦の時が決まりました。

そして、いざ決戦。しかし、韓遂と、その目付的な軍勢は動き(動け)ません。そのため、いかに猛攻と
はいっても、曹操麾下の歴戦の勇者達の軍勢を突破することはできません。
そして…ついに、曹操の軍勢の両翼が、馬超の軍勢の分断にかかります。思うところあって、馬超とは歩
調を合わせなかった楊秋の軍勢が、結果としてこれを食い止め、馬超を助ける形になりました。この楊秋、
後に、説得を受けて帰順します。

一方、その頃、鄴で変事発生の報せが。直ちに出陣しようとする曹丕を(民生に優れた)国淵が諌めます
が、聞く耳を持ちません。ここで、常林が登場します。さて、どう説こうというのか。

197 名前:左平(仮名):2007/11/24(土) 22:02
三国志(2007年11月)

今回のタイトルは「法正」。劉備が益州に入ります。

最初は、前回の続き(曹丕が出陣しようというのを常林が諌めるところ)から。河北の情勢に明るい常林
が理をもって諄々と説き、曹丕の出陣を止めました。
もちろん、鎮定する必要はありますので、「曹丕が派遣した」という形をとり、賈信(袁氏討滅のあたり
で出てきたようです)が出陣します。
さして目立つ存在ではないとはいえ、賈信もひとかどの将軍。すみやかに賊に打撃を与えました(首謀者
は捕まらなかったのでこの時点ではまだ完全に鎮定したわけではありません)。
さて、捕らえた者どもをどうすべきか。

「旧法では〜」「孫子曰く〜」 多くの属僚達がそう言う中、一人沈黙を守る長身痩躯の老人の姿があり
ました。程Gです。
旧法を墨守するだけでは組織は柔軟性を失い硬直していく。戦乱の世を生き延びてきただけに、その弊害
はよく見えます。それに…あの丞相が、何の備えもしていないことがあるでしょうか。

その通りでした。前回、曹操は曹仁を馬超追撃から外し、潼関に残していたのですが…それがここで生き
たのです。直ちにとって返した曹仁は、たちまちにして河北の賊を討滅します。
帰還した曹操は、よく留守をつとめた曹丕をねぎらいました。それこそ、程Gの功績でした。


そんな頃、益州ではある動きがありました。ここで、法正の登場です。
中原の混乱を避け、益州に入った法正ですが、この地の主・劉璋の目には留まらなかったか、低い地位の
まま。不満はあったでしょうが、一人ではどうしようもなく、無為に日々は過ぎていきます。
そんな法正に目をつけ、劉備への使者とさせたのは――張松でした。
本作での張松は、風采も才知も、演義のように強調されることはありません。ただ、益州に生まれ育った
者として、その地と民を愛し守ろうとする男として描かれます。
 「もし、劉備がわたし(法正)の地位を知って軽んじたら〜」
 「その時は、あなたが劉備を蔑めばよい。このままでは、益州は曹操のものになる。わたし(張松)は
  それをみるのは忍びない」
その姿に、法正も心動かされるものがありました。張松自身はなかなかの地位にあり、その待遇自体には
不満はありません。しかし…。

法正の来訪が何を意味するかは、劉備側も十分承知していたようで、法正は手厚いもてなしを受けました
(もちろん、益州における地位など関係ありません)。古の晋文公の如き振る舞いに、法正もおのずと心
動かされていきます。

かくして、劉備は益州に入りました。当然、龐統、張松、法正は、すみやかに劉璋の抑留又は暗殺を薦め
ますが…劉備はここでも迂路を選びます。さて、この判断はどうであったのか。

ところで、最後に気になることが。張松は法正達と再び会うことは〜というように書かれたあと、「劉禅
はあわや劉備に会えなくなるところであった」と書かれているのです。ひょっとして、次回は…。

198 名前:左平(仮名):2008/01/04(金) 23:22
三国志(2007年12月)

今回のタイトルは「劉璋」。とはいえ、序盤に描かれているのは、孫夫人による劉禅拉致事件の顛末です。

最初から政略結婚とは承知していたものの、互いに全く心を許さない、冷え切った夫婦。一応、孫夫人の
方は美貌の持ち主とはなっているのですが…これではどうにもなりません。
この夫婦の仲については多くの作品でいろいろな描かれ方がなされていますが、本作では、互いにとって
不幸以外の何物でもないという感じです。

そんな彼女が、劉備にした最大の嫌がらせ。それが、嗣子・劉禅をさらうことでした。それ以前にもあれ
これと嫌がらせ(放恣な振る舞いなど)をしているのですが、劉備達はそれには反応しません。反応して
夫婦関係に何らかの進展があればツンデレということにもなったのでしょうが…。
ただ、彼女の監視役として趙雲を残したことで、益州攻略作戦に負の影響を与えたというのですから、孫
呉にとっては意味のある婚姻ではあったわけです。

そして、孫夫人が荊州を去ります。あの冷静沈着な趙雲が取り乱す(恐らく、本作で趙雲が取り乱すのは
この一回のみ)という中、諸葛亮は落ち着いています。
なぜなら、劉備は全てを―家族を含めて―ためらいなく捨てられる人物なので、このくらいのことでは堪
えないことを知っているから。三顧の礼から四、五年に過ぎないのですが、諸葛亮は劉備のことをよく理
解しています。
では、なぜ趙雲は取り乱しているか、ですが、それはちょっと違う意味があるようです。

(途中から張飛も加わりますが)趙雲の必死の捜索にも関わらず、劉禅はなかなか見つかりません。もう
だめかと思われたその時!

…ともあれ、何とか劉禅を取り戻すことができました。二度までも自分を救ってくれた趙雲の姿が、幼い
劉禅に強く焼き付けられたことは言うまでもありません。


さて、ところは変わって、益州。張松や法正の勧めにも関わらず、劉備はなかなか動きません。そうこう
しているうちに、曹操の方に動きがあった…ということで、荊州への引き揚げを示唆。
このことがきっかけとなり、張松たちの策謀が露見。張松は処刑されます。
この件については、単に劉備の優柔不断が招いた失策…と思っていたのですが、そうではないのでは、と
いう視点が。張松は、晋文公における里克の如き存在であったのではないか、というのです。
このような存在は、本人の忠心そのものは真であっても、(重んじれば主を裏切った者を厚遇するのかと
みられ、冷遇すると功労者を正しく遇することもできないのかとみられるので)何かと扱いにくいもので
あるのも事実。さすがに張松もそこまで思って…ということはないでしょうし劉備もこの故事を咀嚼した
上でかくの如き行動をした…とは思えませんが、そのような視点を提示されると、策略というものの非情
さを思い知らされるような思いがします。自分には到底できそうにない、と。

そして、ついに益州攻略作戦を実行に移す劉備。龐統からは上中下の策を提示されますが、ここは中の策
をとります。あまりに良い策を用いると、後々、その策にとらわれることに―赤壁で大勝をおさめながら
江陵で苦戦した周瑜の如く―なることを恐れたからです。
さて、次回は…?

199 名前:ぐっこ@管理人 ★:2008/01/16(水) 00:34:07 ID:Vd96Tbmi
記念ageヽ(´∀`)ノ!

左平(仮名)様ありがとうございます(´;ω;`)ブワッ

200 名前:左平(仮名):2008/01/18(金) 22:56:48 ID:PN7pBVAM
三国志(2008年01月)

今回のタイトルは「成都」。今回、成都にはまだ届いていないんですが…?

益州攻略戦は、まずは順調なスタートを切りました。劉備自身も、珍しく(?)羽目を外して龐統に諌め
られるという場面もあります。
しかし、その軍勢はさほど多いわけではないし、また関羽・張飛・趙雲・諸葛亮といった面々は随従して
いません。劉璋が劉備の後方を遮断すれば、袋の鼠になる危険性も大いにあったのです。

先手を打たれた劉璋ですが、まだ戦いは始まったばかり。ここで劉璋は、荊州の人ながら、文武にわたる
優れた実務能力を持ち、今や益州の重臣といえる存在になっていた李厳を派遣します。副将は、劉璋の婿
でもある費観(両者の年齢差は二十歳近く、とあります。費観は三十七で没したとのことですから、この
時点で李厳は四十は過ぎている、のでしょうか)。
人物を見る目が厳しく、また、自らに劣る者を友としないため、親友と言える存在の少ない李厳からみて
も、費観は優れた人物でした。劉璋からの待遇は良いし、副将も文句なし。ならば、あとは全力で敵たる
劉備にあたるだけ…となるところですが、李厳の心中は、そうではありませんでした。そこが読めなかっ
たのが劉璋の限界とは言えるのですが、なかなか難しいところです。

李厳の才を見出したこと一つとってみても、劉璋は決して暗愚な人物ではありません。しかし…。かつて
劉表のもとにあった李厳は、劉表に失望し、劉備に期待していました。その思いが、ここで頭をもたげて
きたのです。
(婿であるからには、費観は劉璋を裏切ることはあるまい。と、なると…惜しい人物ではあるが…)
李厳はそう思いつつ、ついに、一つの決断を下します。そう、劉備への寝返りです。
しかし、ここで思いがけない事態が発生します。何と、費観も劉備に寝返るというのです。
もちろん、互いに示し合わせたわけではありませんから偶然の一致ということになるのですが…しかし、
劉備を討伐すべくさし向けられた軍勢の大将と副将が揃って寝返るというのはまた、何とも珍妙な事態。
当然ながら、劉璋側は混乱。劉備達は、さらに進攻します。

長くなったので、ここで分けます。

201 名前:左平(仮名):2008/01/18(金) 22:57:55 ID:PN7pBVAM
続き。

綿竹を落とし、次は雒。守るは、劉璋の子・劉循。賢愚定かならざる人物ですが、彼の守る雒は容易には
落ちませんでした。それまでの進撃が順調だっただけに、ここでの停滞は想定外。龐統は焦り、それが、
彼の命取りになりました。

龐統の死の直接の誘因は、劉備が諸葛亮を呼ぼうとした(そして、その真意が読めなかった)こと。これ
からも分かるるように、本作における劉備は、ほんと、掴みどころのない人物です。
現時点で、それを最も良く知る人物は諸葛亮。前回の落ち着き払った姿といい、何かこう、独特な雰囲気
をまとっています。
三国志の物語において、しばしば主人公(格)として挙げられるのもうなづけるところです。

さて、ここで馬超の名が。曹操との決戦に敗れた後、なおも反攻を試みるも失敗に終わると、漢中の張魯
を頼ったのですが、ここにも長くはおられず、氐族の中に入り込んで命脈を保つという状態でした。
とはいえ、その武名はなおも健在。ここで劉備は、彼を取り込もうとします。一体、どうやって…?


それはそうと、今回の費観といい、龐統といい、その早逝が惜しまれるところです。病死であろう費観は
まだしも、龐統の討死は、後々のことを考えると、やはり痛かったと言えるでしょう(補給に遅滞を生じ
させなかったということからもその能力がうかがえます)。
いかに、劉備は全てを―家族をも含めて―捨てられるとはいっても、守るべきものを持ったこの頃に至っ
てなお才を失っているのでは、飽くことなく才を求め獲得し続ける曹操との差はなかなか縮まりません。
蜀漢と魏の国力差は、こんなところにも表れている、のでしょうか。

202 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:53:54 ID:LaQXGTav
三国志(2008年02月)

今回のタイトルは「天府」。劉備が、ついに益州を確保しました。

成都を包囲すべく、劉備勢の諸将が続々と集結してきます。中でも、最も活躍したのは張飛。何といって
も、厳顔を賓客として迎えたという事実が彼の成長を物語っています。
 遥か後の文天祥の「正気の歌」に「厳将軍の頭」って出てますから、結構有名な話になってますね。
 こういういい話もあって、まっとうに活躍もしているわけですから、普通に優秀な武将として描か
 れてもいいのに、「平話」や「演義」ではぶっとんだキャラになってるわけですから、面白いもの
 です(やっぱり最期があれだからなのか…)。
趙雲も、てがたい戦いぶりをみせました。もっとも、作戦上、やや遠回りしてますから、彼の到着は最後
だったみたいです。そして、ここから加わってきた馬超。
錚々たるメンツが揃ったわけですから力攻めもできるのですが…ここで劉備は、簡雍を使者に立てます。

先に、韓玄の説得の使者に立てられた時もそうでしたが、「何しに来たんだ?」と言いたくなるくらいに
のんびりとしております。
降伏を促す為の使者が、「まー玄徳とは同郷だから〜なーんも命令されてねぇよ」「このまま守ってた方
がいいんでねーの?」なんてなこと言いますか、普通。
とはいえ、そんな簡雍をもつき従えている劉備と己の器の違いを鑑みると…というわけか、ついに、劉璋
は降りました。
前回までの激戦は何だったのか。そんなことも思わされます。

さて、ここで話は急に変わりまして…

長くなったので、ここで分けます。

203 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:54:30 ID:LaQXGTav
続き。
いきなり荀ケの死が語られます。しかも、拍子抜けするくらい、あっさりと。曹操が公に就任するのに反
対していた、曹操から贈られた箱の中身が空だった、この二点の事実以外をあれこれと語るのは贅言では
ないか、そんな感じの書かれ方です。
董昭を切れ者と書き、曹操の公就任の理由に合理性を認める(朝廷が、皇帝のおわす許昌と曹操がいる鄴
に分かれていては権力が二元化してしまうので鄴に実権をシフトさせて…ってな感じの理由づけ。なので
公位就任については、生臭さはあまり感じません)あたり、なかなか興味深いです。
どうも、後漢という王朝にはあまり思い入れがないようですね。

さらに、今回、伏氏の族滅という事態も発生します。皇后の書状を他人に見せてしまう伏完といい、引き
ずり出される皇后を見殺しにする皇帝といい、何か、人としての器量に疑問符が。
どこか爽快さのある前半に対し、後半は何かすっきりしないものがある、そんな回です。

204 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:21:13 ID:licQjHdd
三国志(2008年03月)

今回のタイトルは「張遼」。この名が出てくるということは、そう、あの戦いですね。

まずは、劉備・孫権の睨み合いから語られます。劉備が益州を獲ったことに対して、孫権は相当な不快感
を抱き、諸葛瑾が遣わされます。
結局、話はまとまらず、ここに荊州を巡る紛争が勃発。益州に兵力の相当部分を割いているだけに、劉備
側の不利は否めません。
長沙・桂陽は早々と降り、零陵もまた、呂蒙の策により陥落します。このまま長期戦となれば孫権の有利
には違いないのですが、果たしてそれが最善なのか(荊州の帰属はかなり曖昧であるし、当然ながら曹操
が気がかり)。
ここで、呂蒙とは別に一軍を率いる魯粛は、単身関羽のもとに赴きました。魯粛の言葉には、劉備・関羽
への思いやりがあることを察した関羽は、反論をやめ、劉備の指図を仰ぎます。
ここらへんのやりとりには、ある種の緊迫感があります。斬るか斬られるかというようなものではなく、
それぞれの、人としての器量が試されているのです。
劉備もまた、一方の主となった以上、今までのようにはいきません。魯粛の意を察しつつ、粘り強く交渉
します。結局、荊州南方の郡の割譲で決着がついたわけですが、このあたりの状態を保っていた方が、劉
備・孫権の双方にとって良かったのでは、と思えてなりません。
決して長々と書かれているわけではありませんが、魯粛の早い死の影響は、後々、かなり響いてますね。

ともかく、この紛争に一区切りついたからか、孫権は、十万という大軍を率いて合肥攻撃に臨みます。赤
壁の時はめいっぱいかき集めても三万がやっとだったことを思うと感慨もひとしおというもの。
対する合肥の兵力は七千。しかも、曹操の司令は、張遼と李典とが出撃せよ(楽進は城に残れ)、という
もの。はて、その意味するものは何か。
魏にとっては伝説の戦い、呉にとっては屈辱の一戦。その戦いの顛末とは…。
長くなったので、ここで分けます。

205 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:22:26 ID:licQjHdd
続き。
かくして、張遼・李典とが八百の決死の士を率いて、夜明けとともに出撃しました。
「ゆくぞ」
宮城谷氏の描く勇将達には、無駄なりきみというものがありません(そういえば、文章中に「!」が使わ
れることが全くといっていいほどありませんね)。ここでの張遼も例外ではありません。
余りにも少数だが脱走兵のように無秩序ではない。「敵将の内通か」そう思う者がいてもおかしくはない
ところではありましょう。
しかし、張遼に「通るぞ」と言われて思わず敬礼する呉兵…。想像すると、何ともおかしいものです。

呉の陣内深く入り込んだところで…!いよいよ攻撃開始です。さすがは決死のつわもの達。油断しきって
いた呉軍は大混乱に陥り、孫権自身も、半ば以上冷静さを失っていました(いつの間にか戟を持っていま
すがそれを振り回すわけでもなく)。
なるほど、これほど劇的な戦いも稀でしょう。「寡をもって衆を制す」とはまさにこのこと。十万の大軍
がわずか八百の小部隊に翻弄され、しかも相手はほとんど無傷。彼我の戦意の差はいかんともしがたく。
しかも、撤退時にもまた張遼に翻弄されましたから、孫権にとっては踏んだり蹴ったりです(谷利はきっ
ちりと登場しました)。

最後は、ところ変わって西方の情勢の説明。曹操の圧倒的な力の前に、三十年ばかり続いた小王国は潰え、
梟雄・韓遂もこの世を去ります。
漢中の張魯に、曹操の手が迫るわけですが…。

206 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:26:58 ID:6n1ZaDHe
三国志(2008年04月)

今回のタイトルは「魏国」。今回は、けっこう時間が経過してます。

最初は、韓遂の死から語られます。韓遂の首に向かって曹操が「白髪も少なくなったではないか」とコメント
…ってことは、韓遂は禿頭?
はて、肉体面の描写ってそうはないはずですが…どのようにイメージされたのか興味深いところではあります。

そして、漢中の張魯攻めとなります。
約三十年にわたって独立王国を保っていた張魯。普通であれば、衆を恃んで一戦しそうなところですが、彼は
随分と現実的な思考をする人物で、曹操来るの知らせを聞くと、すみやかに投降するよう指示を出します(勿
論、弟の張衛のように、それを拒む者も中にはいます)。
張衛に同調する人々も結構多く、曹操も苦戦覚悟だったのですが…何とも意外な形で決着がつきました。

さて、張魯のこの決断には、孔子の玉版なるものが少なからぬ影響を与えたとのこと。王莽や光武帝のあたり
でよく出てくる讖緯の思想がこの頃にもなお相当な影響力を持っていたことが伺えます。
しかし…老荘思想を根底におく道教の原型・五斗米道の教主たる張魯が、(偽りとか裏切りを嫌うという教義
からすれば当然とはいえ)本作においては老荘的な感覚で行動する劉備を嫌っている、というのは面白いもの
です。
思わぬハプニングによるものとはいえ、大した損害もなく漢中を制したことに、曹操が上機嫌だったのは言う
までもないでしょう。
ここで、ここまで目立たぬ存在であった司馬懿が登場します。「隴を得て蜀を望」んではどうか、というわけ
です。
しかし、曹操はその進言を容れませんでした。純軍事的に考えれば利も理もある進言ですが、この時の曹操の
中では、欲望の自制、ということがあったようです。
ただ、それは一方で、冒険を嫌うという、老いの兆候であったのかも知れません。
長くなったので、ここで分けます。

207 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:27:57 ID:6n1ZaDHe
続き。
今回の後半の主題は、曹操の後継者の選定問題です。先にちらりと書き込みましたように、曹操は、嫡子・曹
丕の力量は認めながらも、彼の言動への感動がないことから、むしろ、何かしらの可能性を感じさせる―とは
いえこの時点ではまだ顕在化していないのでリスクが大きい―曹植を立てた方が良いのではないか、という思
いが芽生えているのです。
なかなかの才覚を持つ(歴史上は敗者であることを考えると一廉の人物であったことは確かな)丁兄弟の進言
もあり、ますます迷いは深まります。結局、当初の予定の通り、曹丕が太子に立てられたわけですが…。

おっと、今回、曹操は魏王に就任しております。今回の書き出しは建安二十(西暦215)年時点だったわけ
ですから、この一回で二年ばかり経過してます。

208 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:03:18 ID:pY4qHwSK
三国志(2008年05月)

今回のタイトルは「兄弟」。前回のラストから考えると、あの兄弟のことだな、とは見当がつくのですが…
どうもそれだけではないようです。

初めに語られるのは、邢顒。田疇のもとにいたこともある彼は、厳格かつ実直な人物であることから、曹植
につけられます(ともすれば緩みがちな彼を戒めるために…ということです)。
ただ、曹植にはその意味はいまいち理解できていないようで、そのために劉禎の諫言(さすがは建安七子の
一人。かなりの名文)を受けるのですが…これもいまいち効かず。

前回は丁兄弟が語られましたが、今回は、曹植を支えようとしたもう一人の人物・楊脩が登場します。「慎
ましい〜」と評される一方、救愛にも似た曹植の誘いに応じたように、かなりの情熱家でもあり、また、顕
揚欲もあるというあたり、なかなか複雑な人物です。
彼の父が、以前に、曹操によって失脚したということもありますから、魏国をかき乱すという意図もあった
のかも(彼にとっては、それは匡正の行為なのですが)…。

ともあれ、曹植が、王命を受けた門番を斬る、馳道の無断利用などといった失態をしでかしたこともあり、
魏国の太子―曹操の後継者―は曹丕に決まりました。

さて、曹操と卞氏との間には他にも子がいるわけで…曹丕と曹植の間、曹彰のことも忘れてはなりませんね。
学問が大嫌いで将軍たらんとした曹彰は、田豫たちの助けもあり、みごと烏丸討伐を成し遂げました。
遠征時の田豫の進言や凱旋時の曹丕の助言を素直に聞く、敵を完膚なきまでに叩きのめさないことには住民
の安寧は得られないと的確に判断する、というあたり、将軍としてはなかなかの力量を持つ人物です。
早くから、自分が何者であるか(将才はあるが政治には向かない→将軍向き)を見切っていたのでしょう。
学がない分、ちょっと足りないところもありますが、颯爽とした好漢です。
曹植も、自分が何者であるか(文才はあるが実務には向かない→詩人向き)を見切ることができれば、彼の
ためにも、魏国のためにも良かったのでしょうね。
ただこちらは、なまじ曹操も自分の後継者になり得るやも…と迷っていただけに、事態はよりいっそうこじ
れたわけですが。
長くなったので、ここで分けます。

209 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:06:16 ID:pY4qHwSK
続き。
後半は、漢中攻防戦です。さまざまな手を打つも、めぼしい戦果が挙げられない劉備は、後方の諸葛亮に増
援を求めます。
前線にはいないだけに状況把握が不完全な諸葛亮は、楊洪に意見を求めます。
李厳と激論を交わす(その後その李厳から推挙される)ということのあった楊洪、諸葛亮の諮問に対して出
した回答は…。
増援の派遣、でした。ただし、ただ派遣するというわけではありません。これこそ、蜀の存亡をかけた一戦
である。そういう気迫のこもった回答から、諸葛量は、彼の器を理解するのでした。

とはいえ、ただ人手がいるだけではどうにもなりません。ここで黄権が進言します。これこそ、この戦いの
帰趨を決めるものとなるわけですが…。
さて、この前に気になることが。劉備と関羽との連携がいまいちのようです。関羽からの報告がない(荊州
の情報は公安経由で細々とあるだけ)というのです。
これが、今後の展開にどう影響するのか。

210 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:27:27 ID:a7pA1sHW
三国志(2008年06月)

今回のタイトルは「霖雨」。激動の建安二十四(219)年です。

黄権の進言。それは、火を用いて張郃と夏侯淵とを分断し、各個撃破することでした。軍を分けた劉備は両
陣営を急襲。張郃は冷静に対応できましたが、ここで夏侯淵が、僅かな手勢のみで飛び出してしまいました。
多勢に無勢。と、なると…。
…曹操の旗揚げ以来の将・夏侯淵の最期は、意外なほど呆気ない書かれ方でした。戦いが済んで首実検して
みたら、その中に夏侯淵のものがあった、ってな具合です。

もっとも、魏軍もそうやすやすとは崩れません。張郃と郭淮とが冷静に対応し、さらなる攻撃を阻止したの
です。
とはいえ、魏の西方を司る元帥がいなくなったわけですから、ことは重大。ついに、曹操自身がゆくことに
なり、曹操vs劉備の直接対決と相成ります。
ただ、そうはいっても、双方決め手に欠け、にらみ合いになります。これ以上留まっても、得るものはなし。
ついに曹操は撤退を決めます。

当然(?)、鶏肋の話もあり、楊脩の機智と死とが語られます。ただ、曹植の太子擁立に失敗した時点で、
失望していたようですから…この話にも、少し違った含みがあるのかも知れません。
かの楊震の末裔であるだけに、天地に恥じることはしていなかったのでしょうが、権力に囚われ、人をみる
のが甘かったのか。結果論かも知れませんが、少し切ないものもあります。

そして、劉備は漢中王を名乗ります。これを、「ある意味、後漢王朝からの決別」であると指摘されている
わけですが…これは盲点でした。まさしく、私の「思考の死角を突かれ」ました。
そうです。中国史をみると、王国名をそのまま帝国名にしているという例が多いわけで、漢も、もとをたど
れば、高祖・劉邦が楚の懐王によって漢王に封ぜられて生まれた王国。本来は、漢の皇帝≒漢王なわけです。
 神聖ローマ皇帝≒ローマ王の如し…で合ってましたっけ?
と、なれば、漢帝国内に漢王はただ一人。ところが、劉備はその漢王を名乗ったわけです。
劉備自身は漢の帝室の血を引くと名乗っている(そして敵からも否定はされていない)点から、自らの政権
に正当性を持たせるため、漢の継承者を自認しているには違いないのでしょうが…。
長くなったので、ここで分けます。

211 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:28:00 ID:a7pA1sHW
続き。
劉備が王位に就くにあたり勧進がなされたわけですが、当然、関羽の名もあります(こういうものは現在の
署名等と同様、面と向かってせねばならないというわけではないので、おかしくも何ともないわけですが)。
ただ、本作においては、関羽の想いは劉備のそれとはやや異なっているように描かれているだけに、その時、
どのような心境でいたか…。
ともかく、関羽は、軍を北上させます。

「今年は長雨になる」。関羽はそれを予感していたわけですが、魏においても、温恢がそのことに気付いて
いました。ただ、それが荊州方面の魏軍の共通認識になっていなかったために…。

今回のラスト付近の龐悳の戦いぶりは、悲愴の一言でした。ビジュアル的にも、実に絵になる場面です。
 馬上にあっては決して後れを取らない勇将なれど、折からの豪雨に伴う堤防の決壊のため白兵戦を余儀なく
 される。
 関羽の軍勢は安全な船上から容赦なく矢玉の雨を降らせるのに対し、龐悳たちはわずかに水没を免れた堤上
 でそれをかわしながら戦わねばならない。
 そして、降り続く雨。雨は、将兵の気力も体力も奪い取っていきます。

援軍がいつ来るかは知る由もなく、彼我の圧倒的な差の前に、降ろうとする者が現れます。龐悳は、自らそれ
を討つという苛烈さを示しつつ、兵を鼓舞してなおも戦いを続けます。
関羽が説得を試みますが、龐悳も毅然として言い返します。
それぞれに義があり、理がある。しかし、溺死よりは…と降る者が増え、ついに、なお戦い続ける者が龐悳と
二、三名になり…。

今回でこの場面ということは、建安二十四(219)年も暮れ近く。気が付くと、曹操の命尽きる時も迫って
いるわけですよね…。

212 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:16:32 ID:EIpoYnVD
三国志(2008年07月)

今回のタイトルは「関羽」。荊州を巡る攻防は、新たな段階に突入します。

わずか四人となった龐悳の軍勢。堤上に孤立し、もはや生きることを捨てた彼らの前に、一艘の小舟が流れ
着きます。
あたりは闇夜。物音をたてずに包囲網をかいくぐり、これなら…とわずかに助かる希望が生じたその時…!
龐悳、そして名も記されぬ三名とも、さぞや無念であったことでしょう。
最期まで戦い続けた龐悳。関羽もその将器を評価しますが、両者は決して交わりません。惜しいところでは
ありますが、これが戦というものか。

その直後、関羽が放った偵察網に特大の獲物がかかりました。于禁率いる援軍が、雨中に孤立していたのです。
このままでは全滅は避けられない。于禁は、将としての、一つの決断を示します。
『降る』
この一事をもって、于禁の声望は地に堕ちます。しかし、降るに至った経緯とその後の彼の振る舞いをみると、
それはあまりに酷な話です。
作中では、于禁は、「兵を助けてくれるなら」という条件のもとで降っています。そして彼は、(後の話ですが)
劉備にも孫権にも仕えることなく、魏に復帰しているのです。
何かを救う為に敵に降ったが、節義を損なうことなく帰参した…。これは、関羽と同じです。何が二人を分けた
のか。それは、何とも分かりません。
曹操は于禁の投降を嘆きますが、曹操の心身の衰えが、その判断に影響したということはないのでしょうか…。

援軍が壊滅した、となれば、樊城の曹仁は孤立します。しかし、副将の満寵ともども、降ったり撤退するつもりは
毛頭ありません。その理由は、(曹仁には)二つあります。
 一つは、戦略上の意義。樊城に曹仁ある限り、関羽といえども軽々しく北上はできませんが、いなくなれば後顧
 の憂いなく存分に北上される恐れがあります。
 もう一つは、彼の矜持。いかにやむを得ない事情があったとはいえ、江陵から撤退したことは、彼の中ではトラ
 ウマとなっていました。ここでも撤退したら、二度と立ち直れない。そう、恐れていたのです。
食糧庫も水没し、状況は日々刻々と厳しくなっていきますが、これを乗り越えなければならないのです。

長くなったので、ここで分けます。

213 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:17:29 ID:EIpoYnVD
続き。
ここで、傍目には唐突にですが、孫権が登場します。
実のところ、孫権は、半ば手詰まりの状態になっていました。どうやっても、北上作戦がうまくいかないのです。
 無理もありません。「張遼」の回をみてのとおり、あんなぶさまな敗北があったのでは…。
しかも、魯粛も世を去り、国家戦略を語れる人材がいないのです。劉備が漢中王を名乗った際に諮問しても、たれも
答えられないという有様。

いや、一人いました。「男子三日会わざれば刮目して待つべし」の呂蒙です。北上作戦の不利と荊州奪取の有利とを
比較し、後者の作戦を実行するよう、孫権に勧めたのです。

確かに、北上して徐州を取っても、直ちに魏との一大決戦となれば、勝てる見込みも低い上に大軍を張り付けねば
なりませんから、やりくりがつきません。
一方、呉が長江を生命線とする以上、本拠地の楊州の上流にあたる荊州の確保は喫緊の課題。
魏が、直ちに呉に兵を向けることがないのを確認した上で、その作戦は開始されることとなります。

対関羽で、魏と呉とが手を組んだ。このことを極秘にすべきか公表すべきか。ここらへんの駆け引きは、なかなかに
面白いものがあります(というか、私などには、一回読んだくらいではよく分かりませんでした)。
知らぬは関羽ばかりなり…ということはありません。この知らせは、関羽の耳にもしっかりと入っています。ただ、
自身(とその作戦)に自信があるだけに、それを突かれることになるわけです。

ラストは、関羽vs徐晃。ただ、ここのくだりをみると、春秋時代の君子の如く振る舞おうとする関羽に対し、当代
の将軍として振る舞う徐晃、という感じで、少しおかしくも思えたのは私だけでしょうか。

…とここまで書いてみて、(個人的にですが)蒼天での陸遜が嫌いなわけが少しみえてきました。
関羽は左伝の愛読者として知られます。そして、(本作においては)左伝に描かれる君子の如くあろうとしています。
恐らく、于禁の投降を受け入れたのもそのためでしょう。戦場にも「礼」はあるのです。
蒼天での陸遜は、それを嘲笑していました(直接の理由は輜重の体制の不備なのですが、その原因は于禁とその軍勢
を捕虜として受け入れたためなので、捕虜を保護すること自体を嘲笑っているようにみえた)。
その、敵への敬意のなさが、気に入らなかったのかな、と。

214 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:23:38 ID:tI77SrF2
三国志(2008年08月)

今回のタイトルは「徐晃」。魏から見た、荊州での関羽との戦いに決着がつきます。

「関羽を捕らえた者には〜」のくだりに隠微な意図がある、との指摘には、考えさせられるものがあります。戦場で
関羽と会って話をし、何もしなければあらぬ疑念を招きかねないという危惧がそこにはあるからです(先の、馬超の
ところでの韓遂がまさにそうでした。もっとも、ここで例として挙げられたのは崔琰ですが)。
曹仁・徐晃の力量を信頼しているにもかかわらず、曹操が無理を押して出陣しようかと何度も考えたことを思うと、
そういうのを一笑に付すわけにもいかないんですよね。
もっとも、そんな徐晃の思いはともかく、ここでの関羽は、悠々と引き揚げていきます(豊かな、とかふくよかな声
で〜という書き方をされているのをみると、関羽の存在感の大きさが分かります)。
そう、まだ、関羽の優位が完全に覆されたわけではないのです。

ただ、徐晃の将器も相当なものです。巧みに陣を構築し、じりじりと接近していきます。そして、ついに関羽の陣の
目と鼻の先の所にまで到達するのです(なぜか、【そういう表現はないはずなのですが】双方塹壕を掘ってこもって
いるようなイメージを持ってしまいました)。
関羽は焦ってはいないものの、敵陣を崩す機を見いだせないままにここまでの接近を許したとなれば、不利なのは免
れません。
その後の激戦の末、負傷した関羽は陣を放棄し、再び船上の人となります。しかし、不思議なもので、徐晃の勝利で
あるにもかかわらず、なお関羽にはゆとりがありました(なので、劣勢という感じがちっともしないんですよね)。
ところが、後方の士仁・糜芳が呉に降ったため、それどころではなくなり、ついに撤退を余儀なくされます。
かくして、魏は、何とか樊城・襄陽を守り切りました。
当代一の勇将・関羽との戦いに勝利し、かつ、その軍紀の確かさを以て、徐晃が、前漢の名将・周亜父の如しと称賛
されたのも宜なるかなというところです。
長くなるので続きます。

215 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:24:11 ID:tI77SrF2
続き。
さて、呂蒙の方ですが…全く気取られることなく荊州への進入に成功し、虞翻の巧みな説得により、ほとんど無傷で
その確保に成功します。
他作品では、(私個人の偏見かもしれませんが)どこか奇人というイメージのある虞翻も、ここでは直言を憚らない
まっすぐな人物として描かれます。しかし、孫策はその直言を喜んで聞きいれたのに、孫権は疎ましく思っていたと
いうのも、何か変な感じが(兵を率いることで及ばないのはともかく、人を用いることで負けていては…)。
なすすべなく敵に迫られ、抵抗しても報われるかどうか分からない…と嘆いて士仁が降ったのに対し、糜芳の方は、
何か呆気なくみえました。そういえば、蒼天でもそうでしたね。

士仁の経歴等がいまいちよく分からない(仮にも太守だったわけですから、どこの馬の骨とも知れぬ…ということは
ないですし、ぽっと出の若手というわけでもないはずですが。ただ、彼を配していたことを、後方に対する警戒が薄
い、というように書かれていることからすると、軍事的手腕はもとから乏しい【裏を返せば、行政面での才能を期待
されていた】人物だった?)のに対し、糜芳は、徐州以来の古参。それが、いかに関羽との関係が悪かったとはいえ
…という感があるのは否めません。
その後、呂蒙は、民衆の慰撫に努めます。ささいな罪を犯した同郷の兵を、涙をのんで処刑するあたり、その軍紀の
厳しさがうかがえます(一方で、そこまでしないと民心が得られないというわけですから、関羽の行政手腕も一廉の
ものではあったようです)。

ちなみに、今回のラストは、前述の、徐晃が前漢の名将・周亜父の如しと称賛されたくだりですが、その前に、張遼
もちらりと登場。こちらにも、かなりの賛辞が。

216 名前:画伯:2008/09/08(月) 09:30:20 ID:GAm8i4fg
先日中国南部で地震がありましたが、
雲南省に近い方なので成都や九賽溝の方には全く影響無いようです。
四川省って日本の倍近い広さがありますから。
四川省の北部観光地は、地震の影響でクローズしていたホテルも次々に営業開始し
値段も例年比べれば格安なので
四川省応援のためにもぜひ旅行におすすめです。

217 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:33:30 ID:/lB/9KId
三国志(2008年09月)

今回のタイトルは「曹操」。建安二十五(220)年。ついに、その時がくるわけです。とはいえ、今回の内容は、
そのほとんどが関羽についてのものなのですが。

背後で呉が蠢いているのに気付いた関羽は、状況を把握すべく、偵察を行います。偵察に向かったこの兵士、肚も
据わっているようですし、見るべきところもしっかり見ているところからすると、なかなかの人物と思われます。
ひょっとして、廖化?とも思うのですが、そのあたりについては分からずじまい(彼だけでなく、その父もなかなか
の人物なんですよね、これがまた)。
呂蒙も、そのあたりは心得たもので、見事な対応を見せています。

呉に奪われた各郡は、呂蒙によって治まっている。この事実は、関羽にとっても衝撃でした。というのは、本作では
何度か述べられているように、関羽の行政手腕はかなりのものでしたから、この地の民衆は、新たな支配者に対して
強く反発すると思われていたからです。
それが、目立った混乱もなし。ということは、単に軍事上に留まらない敗北を喫したということでもありました(関
羽の徳が十分に及ばなかったということです)。
関羽が、策を弄し自分を欺いた陸遜に対しては怒りを露わにしたのに対し、呂蒙に対してはそれほどでもないように
見えるのは、そのあたりのこともあるように思われます。
あるいは、この時点で、関羽の中にある種の諦観があったのかも知れません。

麦城に籠った関羽ですが、兵の士気はもはや失われています。戦えないと判断するや、密かに城を脱出し、西に向か
おうとします。もちろん、それは孫権も承知しており、分厚い包囲網が敷かれます。
天命とは何であるのか。何が正しく、何が正しくないのか。その答えは…。
一度は軽々と呉軍の包囲を突破しましたが、二回目(ここの呉軍の将が馬忠)は成らず。ついに、その小集団は殄滅
しました。あたかも、流星が燃え尽き、一筋の光芒を残して闇に溶けるかのように。
長くなったので続きます。

218 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:34:19 ID:/lB/9KId
続き。
関羽は、捕らえられたが呉に降るを潔しとせず、斬られた。史書がそう記すのは、関羽の名誉を守ろうとしたからで
あろうが、それはかえって名誉を損なっているのではないか。言われてみると、頷けるところがあります
関羽は、諸葛亮と出会い(現実との妥協点を求めた結果)自尊を貫けなくなった劉備に代わって自尊を貫いた。で、
あるならば、なおさら、簡単な道は選べません。
それゆえ、魏と戦い呉とも戦った。春秋の義に憧れ、自尊を貫いた英雄はかくして斃れました。

関羽の首級は、曹操のもとに送られました。関羽を殺されたことに対する劉備の怒りを曹操に向かわせるためです。
しかし、曹操もそんなことは百も承知、孫権の慇懃無礼ぶりに不快感を示しながらも、関羽に礼を以て接し、(やや
意地悪く言うと)孫権との、人としての格の違いを見せつけます。

 以下、個人的な感想。
 こうしてみると、三国志では、呉はどうしても脇役にならざるを得ないんですよね。漢から禅譲を受けたという
 正統性を持つ魏、漢の血胤による正統性を持つ蜀漢に対し、呉にはそういったものが全くありませんから。
 孫権が切れ者であるのは間違いないのですが、正統性がないゆえ自由に動ける反面、その言動への彩がどうにも
 難しい…。
 
しかし、なお意気盛んな曹操も、年には勝てず。関羽の首級と対面してから程なく、薨去しました。享年六十六。

曹操に対する、あまたの賛辞が語られた(曹彰のことがちらりと語られた)後、「ここからほんとうの三国時代が
はじまるのである」と締められます。


…そう、そうなんですよね。三国時代というのは、地に三人の帝王が並立するという異常な時代。少なくとも、今
回までは、まだ漢の時代なわけですから、真の意味での三国時代ではないわけです。
しかし…どれだけ齢を重ねても、様々な三国志の物語を読んでも、三国時代に入る以前の方がいろいろな意味でそれ
らしいというのが、また何とも…。

219 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:03:24 ID:LpP4Hk8E
三国志(2008年10月)

今回のタイトルは「新制」。太子の曹丕が跡を継ぎましたから、前回のラストから続けて、今回、漢から魏への禅譲
を描く…と思っていましたが、半ば外れました(明らかに魏帝国成立後のエピソードもありましたが)。

さて、蒼天を読まれた諸氏はお気付きでしょうが、ここまで、描かれていない人物がいましたね。そう、魏諷です。
今回、後漢王朝が斃れる前のわずかな痙攣、という形で、その叛乱について、初めに少し触れられました。ただし、
主眼は、魏諷ではなく、そのために一時失脚した鍾繇です。

鍾繇が、魏諷の台頭に一役買っていた以上、何らかの処罰に服さねばならないわけですが、彼は、曹丕には好かれて
いました。かつて、名玦を献上し、かつその時の態度が良かった(この玦はしかるべきところにおさまった…と、曹
丕を持ち上げている)ためです。
ただ、財を持ちそれにとらわれると禍を招くと悟っていた鍾繇に対し、(いかに美辞麗句で飾っても)人の財を奪っ
た曹丕の、人としての器量に疑問符がついたのは否めません。

続いて、夏侯惇(不臣の礼…)、程c(公への叙任…)、曹洪(かつて借財を断られたのを根に持ち…)など、群臣
達について描かれます。
特に、曹洪については、彼の助命のために賢婦・卞太后が動いたことが触れられています。これまで、一切政治的な
言動をとらなかった彼女が動いたのは、ひとえに、曹洪の比類なき勲功(徐栄に敗れた曹操を生還せしめたこと)と、
功臣を微罪で処刑でもすれば、人心が曹丕から(のみならず魏から)離れる、と判断したためです。
さすがの曹丕も、(郭后を通じて)母の想いを察したか、処刑はしなかったのですが、だからといって無罪放免という
わけでもなかったので、人心はやや離れた、という具合。
父・曹操が薨じてから一年もしないうちに大規模な軍事行動。これを戒めた霍性の諫言を聞かず、彼を死に追いやると
いうこともありました。
長くなったので続きます。

220 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:07:21 ID:LpP4Hk8E
続き。
賊が魏に降った、と喜んだのも束の間、西方では麹演らが叛乱を起こします。これは、蘇則らによってすみやかに鎮圧
された(名将・赫昭が彼の胆力に感服って…!)のですが、今回については、曹丕、いいとこなしです。
この後も、あれこれあるわけですが、よく書かれることがあるのか…なんて、よけいな心配も。

曹丕、とくると(?)、忘れてはならない人物の一人として、陳羣が挙げられますね。そして、陳羣とくると九品官人
法(九品中正法)。
この法の概要はおくとして、その精神は、というと…。

本作の最初の方(もう数年前になるのですね)に、光武帝のことが書かれていましたのを覚えておられますか?その際、
前漢と後漢とでは、人材をみる基準が異なっていた、ということが書かれていました(秀才どもは王莽を止められなか
った…。故に後漢では、才能ではなく人格を重んじた、というようなこと)。
しかし、人格を重んじたはずの後漢では、実務能力に欠ける者が高官に…という具合で、結局腐敗は避けられなかった。
彼ら(曹丕、陳羣)は、それをどこまで分かっていたか…。
後々、いわゆる南北朝時代を語る上で、避けては通れない問題の萌芽があるわけです。

ラストは、孟達の魏への投降(曹丕の厚遇付き)と、劉封の非業の最期。彼の死を聞いた劉備は、一人になると泣いた
…。これは、一体?

221 名前:左平(仮名):2008/11/23(日) 21:56:57 ID:9ZYiSxeo
三国志(2008年11月)

今回のタイトルは「禅譲」。いよいよ、魏帝国が興ります。そして、対抗すべく…。なお前回のラストは、今回の流れ
とは特に関係ないようです。

父の(というか、曹氏の本貫の)譙に立ち寄った曹丕のもとに、皇帝からの使者が来訪します。曹丕に帝位を譲る、と
いうのです。
禅譲。それはかつて、堯が舜に対して、舜が禹に対して為した、とされてはいますが、孔子の言行を記した『論語』に
は触れられていない代物。あるいは、血統によらずして帝王の地位に就こうとした者達によって、戦国時代あたりに作
られた概念ではないか…と。と、なれば、こたびの禅譲は、史上初の…!
正直、目から鱗(が落ちる思い)でした。ここらあたり、自分はこれまで、陳舜臣氏に影響されていたな、という感も
あります(禅譲というものを軽く考えていました)。
※確かに、実権の所在を思うと壮麗な茶番ではあるのですが、伝説的な堯・舜・禹の例しかないものが、まさに『今』
 為されようとしている…となれば、以降のものとはいささか性格が異なってもおかしくありませんね。
 後世からみれば茶番でしかなくても、当時、その時代を生きた人からみれば真剣にやっているわけですから。
 人は、自らの属するもの(時代、国、など)からは、完全に自由では有り得ない。とでも申しましょうか。

ここぞとばかりに、と言っては何でしょうが、群臣は荘重な上奏を次々と行い、曹丕も丁重に固辞する姿勢をみせます。
面白いのは、群臣が熱に浮かされたかのように騒げば騒ぐほど、曹丕は醒めているかのように書かれているところ。
しばし、皇帝と曹丕の、意地の張り合いの様相を呈しましたが…ついに曹丕はこれを受諾。晴れて、禅譲の儀式が執り
行われることと相成りました。
皇帝から山陽公となった劉協は何を思ったか。それは分かりませんが、彼にとって、玉座は決して座り心地の良いもの
ではなかったのは、概ね間違いないでしょうね。
確かに、彼を擁立した董卓は、余りに敵を多く作り過ぎました。その、血塗られた手によって座らされた以上、その座
もまた血塗られたものであり、神聖な皇帝としての正当性に疑義を持たれてもやむを得なかったでしょう。その後の十
四年が、安らかなものであれば救われるのでしょうが…さてどうなのか。
長くなったので続きます。

222 名前:左平(仮名):2008/11/24(月) 19:44:34 ID:oWPH1hn9
続き。
さて、劉協に代わって帝位に就いた曹丕ですが、為さねばならないことは山積しています。気鬱になってもおかしくは
ありません。武芸にも秀でた彼にとって、狩猟は数少ない気晴らしでした。
もともと狩猟は軍事訓練の性質も持ってはいるのですが、遊興としての面もあるわけで…。となると、回数が増えると
これを諌める者が出るのも当然ですね。

やはり、出ました。鮑です。曹操の、おそらく唯一の盟友・鮑信の忘れ形見でもある彼は、その縁故・そして自身の
力量を以て、確固たる地位を築いているわけですが、なぜか(作中では、理由は書かれていないようですが)曹丕には
好かれていませんでした。はっきり言って嫌われてます。
曹丕からすれば、数少ない気晴らしに文句をつけられたように思ったのでしょうね。当然、聞き入れられません。
まあ、鮑も、曹丕に帝位に就くよう勧めた群臣の一人ですから、「汝らが帝位に就けと言っていたから帝位に就いた
というのに、朕のすることに口を挟むか!」てな思いもあったのでしょうが。
…人としては、分かるんですけどね。ただ、帝王たる者がそれではいけません。

酷な言い方ですが、「曹丕は父・曹操には及ばない(それは本人もおそらく承知していた)。ならば、それを自覚して
次代に範を垂れれば良かったものを…」というわけです。
「恐れという感覚をもたぬ者は、真の勇気をもたぬ者である」。重く響きます。


一方その頃、蜀では…。「皇帝が位を追われ、殺害された」という(誤)報がもたらされます。劉備は、これを受け、
自らが帝位に就こうとします。劉氏の血胤たる自分には、帝位に就く正統性がある、というわけです。
これに対し、ひとり醒めている人物がいました。費詩です。
関羽と面識があった彼は、なるほど関羽の志は清いものであった、と感じるのでした。
曹操と対極にあることでここまできた劉備。しかし、益州侵攻以来、それが変質してきている…。生き残ることを考え
るとやむを得なかったのでしょうが…。(後世の美化のゆえ、同一視はされませんが)袁術と同じ僭称者となった劉備。
何か、焦っている…?

223 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:30:20 ID:G2aSbWbi
三国志(2008年12月)

今回のタイトルは「報復」。蜀漢を中心に、動きがみられます。

晴れて?皇帝となった劉備が最初にしたこと。それは…呉を討つことでした(本作では、その動機はあくまで関羽を殺
されたことに対する報復として扱われています。地政学的な意図も考えられるところですが、劉備という人のありよう
を思うと、こういうふうになるということでしょうか)。
趙雲・秦宓の諫言も聞き容れず、着々と準備にとりかかります。

話は変わりますが、ここで許靖の名が再び出てきました。実務面ではこれといった事績は挙げられていませんが、それ
なりに気骨のある清廉な人物という感じで、割に好意的な書かれ方ですね。
所詮結果論…なのかも知れませんが、許劭に比べ、穏やかに天寿を全うできた分、勝っています。
あと、呉皇后(呉懿の妹)のことも。もともと、劉焉の子・劉瑁に嫁していたわけですが、夫が廃人となって早世した
後、寡婦となっていたところを劉備に…というわけで、波乱に富んだ生涯です(個人的には、劉備に嫁した時点で何歳
くらいだったのかが気になりますが。彼女と劉備の間に子は生まれたのか?等…)。

劉備とともに、呉との戦いに意欲的だった張飛(、そしてその死)をみるにつけ、関羽を喪ったことの衝撃は、相当に
大きかったようです。途中、劉備・関羽・張飛の関係が(他作品に比べ)やや希薄にみえたものですが、やはり、「義
は君臣といえども情は父子【兄弟?】の如し」ってなところでしょうか。

一方、呉の方は、というと…。こたびの戦いにおける最大の功労者・呂蒙が亡くなります。周瑜・魯粛に続き、軍事上
の偉材であった呂蒙を喪うわけですから、かなり堪えています(それはそうと、余計な気を使わせたくない、というの
は分かるのですが、病室の壁に小さな穴を開け、そこから呂蒙の病状を覗くというのはどうも…。村上豊氏の挿絵も、
普段のほのぼの【?】調とはやや異質な感じに見えます)。

長くなりますので、続きます。

224 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:32:15 ID:G2aSbWbi
続き。
さて、呂蒙が亡くなり、また、魏・蜀漢の双方を敵にするわけですから、呉にとっては一大事です。孫権は、ここでも
したたかに振る舞います。
蜀漢に対しては、言動に棘のない諸葛瑾を配置し、魏に対しては、(名目だけとはいえ)臣下の礼をとり攻撃される隙
を見せません。ただ、それらが十分な効果を挙げたか、というと…。
客観的に考えると、ここでは蜀漢は呉と戦うべきではないわけです。ですが、相手は劉備。良きにつけ悪しきにつけ、
人の常識に当てはまらない人物です(今回は、『皇帝としては』すべきでないことを敢えてしている…という含みを持
たせています。彼にとって、皇帝位というのは、何かの区切りではあってもそれ以上のものではない)。
また、魏としても、呉と蜀漢とが戦うというのであれば、この機に乗じて一気に呉を滅ぼし(蜀漢は後からゆっくりと
…)という策もあったわけです。
ここでは、劉曄(その智謀は、あの郭嘉に近い!と)がそれを考えています。しかし…帝位について間もない曹丕から
すると、それは受け入れ難いわけで…。

さて、呉が(名目だけとはいえ)臣下の礼をとったことで、于禁が魏に送還されたわけですが…曹操の陵墓に描かれた
己の無残な姿に打ちひしがれ、そのまま亡くなります。
生きて名誉回復を遂げた荀林父や孟明視には及ばなかったとされるわけですが…このあたりもまた、曹丕の器量に疑問
符が付けられるところなんですよね…。

ラスト。呉領内に進攻した蜀漢の軍勢は、補給に不安を感じ、補給路の確保にかかります。こ、これは…。

225 名前:左平(仮名):2009/01/24(土) 00:45:51 ID:ySonixWe
三国志(2009年01月)

今回のタイトルは「白帝」。西暦222年(ラスト付近は223年ですが)の情勢です。

関羽の仇を…という戦いなわけですから、呉の内憂たる異民族(ここでは五谿蛮)の協力は、ないよりあった方がいい
…ってなわけで、馬良がその使者となり、無事成功します。
そうして、軍を進めるわけですが…いま一つ、動きが鈍いようです。「勝つ」戦いではなく、「負けない」戦いをして
いる?ように見える、と。この戦いの、そもそもの始まりを思うと、あり得ないことではあるのですが…。
馮習、張南等の部将の名が見えます。一応、ひとかどの人物ではあるようですが、「他国に名の知られた将ではない」。
なるほど、演義では黄忠を入れたくなるわけです(【漢中攻防あたりの実績があるであろう】呉班、陳式の名もあります
から、それなりの陣容ではあるんですけどね)。

これに対する陸遜は、というと…こちらも、いま一つ目立ちません。劉備が存外手堅く軍を動かしたため、付け入る隙が
見つからなかったのです(陸遜の余裕の台詞も、「この時点では」単なる強がり)。
そのため、戦いはひとまず膠着状態に入ります。

そして数か月が経過。お互い(!)、士気は落ちていました。ただ、蛇の如く長い陣を敷きつつも、各陣営間の連携が
いま一つ機能していない蜀漢の方が、脆いところがあります。
これに気付いた陸遜は、火計を仕掛け、混乱したところを一気に衝きます。
これで、呉の軍事的勝利は確定。しかし、劉備の逃げ足は凄まじく(逃げることについては劉備にまさる天才はいない、
って…)、結局、取り逃がします。
しかし、ここで劉備を倒したとしても呉の危機はまだ終わらない、下手をすれば魏が蜀漢を併呑して事態はいっそう悪化
…ってなことも有り得るわけですから、呉としてはこれで良かったのでしょうけど。

長くなりますので続きます。

226 名前:左平(仮名):2009/01/24(土) 00:48:14 ID:ySonixWe
続き。
(個人的な感想ですけど)確かに鮮やかな勝利ではあるのですが、本作での陸遜は、余りぱっとしないように思えました。
火をもって大軍を壊滅させたわけですが、長社の戦いの時の皇甫嵩や赤壁の戦いの時の周瑜のような鮮やかさがどうも感
じられないのです。
魏が出てくるであろうことは予測しており、迎撃の算段も立ってはいるようですが、さらにその先は、となるとどうなの
でしょうか。
後には丞相にもなっているわけですから、政治的な感覚もあるはずですが…。

さて、劉備はこの戦いで、もう一つの失策を犯していました。臨機応変の才を持つ黄権を自身の側から離していたのです。
劉備が敗れた結果、黄権は孤立。将兵を生かす為には、魏か呉のいずれかに降らざるを得なくなります(漢中攻防を勝利に
導いた名将の認識は、甘くありません。そして、その判断が、彼らを生かしたのです)。
結局、魏に降りますが、その進退はみごとなものでした。
しかし、孟達と黄権。生きるため、心ならずも魏に降り厚遇されたというところまでは同じなのに、その後の運命は相当に
異なるものになりました。降る時の態度をみてもそこまでの差が出るのがどうも解せぬのですが…。

さて、この頃の魏ですが…皇后の甄氏が亡くなります。ただの死ではありません。これ一つとっても、曹丕の行いに不快な
ものがあります(結果、嫡子・曹叡の精神に「ひびが入り」ます。それがどれほどのものだったか。それは、まだたれにも
分かりません)。

そして、魏と呉の戦いが始まります。緒戦は、魏が優勢のようで、曹休・曹真といった将の活躍があります(曹仁・徐晃の
名も出ます)。さて、ここからどう動くか。

227 名前:左平(仮名):2009/02/22(日) 17:41:04 ID:qOqvofCv0
三国志(2009年02月)

今回のタイトルは「劉備」。とはいえ、前半は、魏vs呉の戦いの続きです。

戦いは、やや魏有利に進んでいます。とはいえ、長江をまたいでの戦いということもあってか、戦線が何方面かに分散して
いるためもあってか、そうそう目を見張るような派手な会戦があるというわけではありません。

○張遼あり、ということで、この方面では呉はほとんど動きません。張遼が病身であるにも関わらず、です。たった一人の
 将にここまで怯えるのも何ですが、あの戦いからまだ十年も経っていないんですよね。
○一方、曹仁は、敵兵力(この頃、敵将は周泰から朱桓に交替)が劣るとみるや、兵を四つ(曹仁、曹泰、常雕、王双、諸葛
 虔ら)に分散し、速攻を仕掛けます。
 やや傲慢なところがあるとはいえ、朱桓もなかなかの将。素早く反攻し、常雕らを討ち取り王双を捕らえる働きを見せます。
 名将・曹仁にしては、(戦術的には誤っているわけではないとはいえ)やや焦りがあった、とも。
○前線の将には、手柄ほしさに逸る危惧が。董昭、曹丕に適切な助言をし、十分に備えさせます。

結局、目立った成果はなく、魏は撤退します。防衛に成功したという点では呉の勝利ではあるのですが…。双方、特に得る
ものもなかったようです。

魏…呉への侵攻としては中途半端な感がありますが、とりあえずは、魏の威を知らしめたと言い繕える程度の成果ではあり
  ます。しかし、ともに病によるものとはいえ、曹仁・張遼という名将が亡くなったのは、結構な損失です(曹仁56歳、
  張遼の年齢は不詳ながら50代くらいか。あと十年は活躍してもおかしくないかと)。
  慣れない気候で病状が悪化したのだとしたらなおさら痛いです。張遼の死の知らせを聞いた曹丕はいたく嘆いたといい
  ますが、病身にもかかわらずこの遠征に連れ出したわけで…。
呉…張遼の幻影に怯えた、というのも何ですが、魏撤退後にもやらかしていました。既に武装解除していた文聘と遭遇した
  にもかかわらず、策を(というか文聘の肚の座り具合を)恐れ、さらに、撤退するところを、追撃してきた文聘にして
  やられるという有様です。ここまでくると、孫権の戦下手も筋金入りですね。
  そういえば、今回、陸遜の名を見なかったような…。

長くなるので続きます。

228 名前:左平(仮名):2009/02/22(日) 17:43:48 ID:qOqvofCv0
続き。

さて…場面変わって、永安。一応戦いは済んだのですから、皇帝たる劉備は首都・成都に帰るべきところですが、そう
しないまま、病に臥します。
復讐戦も成らず、もはや、すみやかに冥府に行くことのみを願うという有様。ですが、皇帝として、せねばならぬことが
あります。後事をいかにするか、ということです。
諸葛亮が呼ばれ、後事が託されます。「君の才は曹丕に十倍す…」。禅譲を匂わせる発言がありますが、諸葛亮は、後嗣・
劉禅を全力で支えることを誓うのでした。

…この場面をいかにみるか。本作では、「劉備は、かつて自分が陶謙からされたように、諸葛亮に国を譲るべきだったの
ではないか(それでこそ、捨て続けてきた劉備の生涯の最後にふさわしい)」という指摘があるわけですが、一方で、漢の
正統(※ただし、漢≠後漢であることに注意)が蜀漢にあり、とするためには、皇帝は劉氏でなければならないわけで…。

恐らく、劉備は病で気が弱くなり迷いがあったために、また、諸葛亮は、上記の正統性なくして国が保てないと考えたが故
に、かくの如き結果となったのか、と個人的には思うのですが…。

ともかく、高祖・劉邦を模倣してきたといえる劉備は、ここに世を去ります。

229 名前:左平(仮名):2009/03/22(日) 00:57:07 ID:+yelLx660
三国志(2009年03月)

今回のタイトルは「使者」。主に蜀漢と呉の修交の経緯が描かれます。

劉備が崩じ、嫡子の劉禅が跡を継ぎました。しかし、当年十七の、かつ、実績のない幼弱の新帝を戴く弱小国、となると、
その前途には厳しいものがあります。
さらに、丞相として全権を握ることとなった諸葛亮もまた、(その実績の割には)さほど知られておらず、威に欠けるの
では、と見られています(魏の重臣達から臣従勧告の書状が送られたのもこの頃。劉備の死に動揺している今なら、あわ
よくば…というつもりだったのでしょう)。
並の人物であれば浮足立つところでしょうが、諸葛亮はいっこうに動じません。魏からの書状を黙殺することで、蜀漢の
正統性(蜀漢こそ漢の正統を継ぐ王朝である【厳密には漢≠後漢ですが】)を主張したのです。
それが劉備の本意であったかは、今となっては分かりませんが…少なくとも、この時点で蜀漢が生き残るには、これしか
なかったと思われます。ニュアンスに多少の相違はあるでしょうが、『攻撃こそ最大の防御』ってなところですね(とは
いえ、呉との戦いによる国力の消耗は大きく、しばしの雌伏を余儀なくされるのですが)。

ただ、このままでは、蜀漢は魏・呉の双方を敵に回すことになりかねません。ただでさえ国力にハンデがあるのに二正面
作戦をとるのは愚の骨頂。
となると、呉との関係の修復が必要なわけです。その大役を仰せつかったのは…ケ芝でした。

荊州出身のケ芝は、乱世を避けて益州へ避難したわけですが、ここで「位は大将軍に至る」ってな占いを受けます。自分は
単に乱世を避けているだけなのに…ということで、この占いは特に信じなかったようですが、これが概ね当たったわけです
から、面白いものですね。

呉に至ったケ芝は、呉王となった孫権に同盟による両国の利害を説き、その信頼を勝ち取ることに成功します。演義では、
宮中に大釜を引っ張り出して(釜茹でにしかねない…と脅すことで)ケ芝の度胸を試す…ってな場面もありましたが、その
ような大仰な演出は不要でした。
何より、孫権自身、自国に迫る魏の脅威を痛切に感じているだけに、三国鼎立による力の均衡の重要性を深く認識していた
のです。
しかし、外交においてこれほどのバランス感覚を有する孫権が、戦場では凡庸な将と化すのも不思議なものです(『子産』
での子罕が似たような感じですね)。

長くなるので続きます。

230 名前:左平(仮名):2009/03/22(日) 00:59:15 ID:+yelLx660
続き。

さて、ケ芝には、もう一つの使命がありました。張裔なる人物を探し出し、帰国させることです。
ケ芝の知る限りでは、彼は「益州南部で叛乱を起こした雍闓に捕らえられ、呉に送られた」冴えない人物に過ぎません。
また、孫権の認識も、似たようなものでした(実際、軍事的手腕については実績らしいものはありませんしね)。
彼の帰国は特に支障なく行われると思われたのですが…帰国前の会見で、その才幹の一端が漏れました。そのために、
ケ芝達は危うい思いをすることになり、孫権は、人材を見抜くことの難しさを思い知らされることになります。
 ただ、いかに張裔の才幹を惜しんだとはいえ、君主たる者がひとたび交わした約束を反故にするというのはいかがなもの
 かと…。諌める人はいなかったのでしょうか。
ともあれ無事に帰国した張裔は、以降、諸葛亮の信奉者となります。諸葛亮自身は徒党を組む人ではなかったでしょうが、
協力者がいる方が何かとやりやすいのは確か。その意味では、この修交は、蜀漢にとっては実に有意義なものになりました。

さて、一方の魏では、呉の不誠実に対して曹丕が怒りを募らせ、ついにその討伐を命じます。群臣達の諫言も空しく、また
しても呉との戦いが始まろうとしています。

この頃、郭氏が皇后となっていました。父に深く愛された彼女は、先の皇后の甄氏とは異なり、夫のパートナーたりうる
明朗な女性でした(曹丕のもとに来た時点で三十。となると、美貌だけの女性ではないのは言うまでもないですね)。
曹丕の、二人との出会いがもしも逆であったなら、どうだったのでしょうか…。

231 名前:左平(仮名):2009/04/25(土) 02:53:37 ID:FJO82zTv0
三国志(2009年04月)

今回のタイトルは「南中」。諸葛亮が動き始めます。が…その前に、曹丕の、再度の親征です。

人からすれば思いつきのようでも、曹丕としては、それなりに考えての親征。しかし、君臣の心が一致しているとは
言えない現状では、どれだけの意味があるのか(表立って反対意見を述べたのは劉曄くらいですが…)。
こちらが、皇帝自ら大軍を率いて出てきたのだ。当然、呉も国を挙げて応戦するに違いない。曹丕は(群臣の殆ども)
そう考えたわけですが、劉曄が予見したとおり、そうはならず、肩透かしを食った格好です。
孫権にはまことの礼が無い。ひどい言われようですが、ここまでの外交姿勢をみると、一面の事実ではあります。
敵の総大将が出てこないし、皇帝自身も、前線からは離れている。となると、魏軍の戦意はいま一つ。徐盛の偽城壁
などもありつつ、戦いは膠着状態に入ります。

自身は出ない。とはいえ、魏の大軍(そしてその背後にある国力等の要素)を目の当たりにすると、厚顔な孫権も
さすがに不安になったのか、占術の達人・趙達を呼び、話を聞きます。
趙達は、曹丕が既に去ったことを伝えますが、一方で、庚子の年に呉は衰える、と気になる予言をします。それは、
この時点から五十八年後(実際には、この時から五十六年後なので、これより二年前の記録と混同された?)。
さすがに孫権自身は生きてはいないでしょうが、呉にとっては暗い予言です。趙達の予言の確かさをみると、これも
当たるでしょう。孫権は、あえて遠い未来は無視することにしました。「今のことで精いっぱい」というわけです。


さて、成果なく帰還した曹丕の耳に、悪い噂が入ります。親友でもあり、この当時、荊州を任せていた夏侯尚が、妾を
寵愛し正室(曹氏)を軽んじているというのです。
かつて杜襲に「(曹丕の)益友にあらず」と諌められたとはいえ、文武兼備の名将ということもあり狎れ親しんでいた
人物の醜聞。曹丕にとって衝撃ではあったでしょうが…いきなり部下を遣って妾を殺させるというのもあまりな話です。
最愛の女性を喪った夏侯尚の悲嘆は激しく、後を追うように亡くなりました。

長くなるので続きます。

232 名前:左平(仮名):2009/04/25(土) 02:55:25 ID:FJO82zTv0
続き。

瀕死の夏侯尚を見舞った後、曹丕は、「それだけの男であったのか」と呟きます。不思議と、ここの書かれ方は淡々と
していますが、それだけに、人情というものを解さない曹丕の寒々とした感覚が感じられます。
…どうして、曹丕には、こうも眉をひそめたくなるような話しかないのか。これでどうして『文』帝なのか。建国から
まだ数年。清々しいはずのこの時期において、早くも不快感があります。王朝は、しばしば、初代の帝王の性格に影響
されるものですが、魏の早い衰亡は、既に予定されているのか…。


一方、今回のタイトルの「南中」ですが…。魏vs呉の図式が確定したことで、ようやく、諸葛亮自身が動ける状況が
整いました。
蜀漢にとって、劉備が臥してからの南方での叛乱は、いわば内戦。いずれはけりをつけねばならない問題です。ただし
内戦ということは、叛乱者達を鏖殺するというわけにもいかないわけです。
(軍を動かさねば鎮圧はできませんが、今回は、政治的な対応が求められる性質のもの)
李恢の活躍もあり、朱褒らの叛乱は、無事、鎮圧されました。

え?何人か忘れてないか、って?

えっとですね…。孟獲は出てきました。「漢人にも人望がある」「さほど体躯は大きくないが精悍な顔つきをしている」
という感じで(彼こそが、こたびの事態の収拾の鍵を握る人物、といった感じの扱われ方です)。
ただ、張巍は出ず。李恢の活躍ぶりが目立っていました。

233 名前:左平(仮名):2009/05/24(日) 01:23:54 ID:85J6nSxv0
三国志(2009年05月)

今回のタイトルは「曹丕」。本作において個人名をタイトルにする場合、初登場か何らかの見せ場が、というところなの
ですが、「曹操」「劉備」と続くと、なんというか…。

今回は、まず、鮑について描かれます。前にもあったように、曹丕の不興を買い、しばし遠ざけられていた鮑ですが、
「(宮中の綱紀粛正ができるのは)かの者しかおりません」ってな具合に群臣から推挙されますと、曹丕としても、登用
しないわけにもいきません。
実際、これで宮中が締まったわけですが、裏を返せば、王朝の創業から数年(この時点では西暦225年)で早くも緩み
が生じていたともいえるわけです。
曹丕は再度呉と戦おうとします。鮑達は懸命に諫めますが、聞く耳を持たず、またしても出兵します。しかし、行軍の
鈍さをみると、彼自身、どこまで戦おうとしていたのかよく分かりません。戦略的意義のない戦いをすることに何の意味
があったのか。
そんな中、些細な事件がありました。これが、後で尾を引くことになります。

洛陽に戻った曹丕の耳に、一つの讒言が入りました。先の些細な事件がもとで鮑を憎むようになった者からのものです。
直ちに罪に問いますが、(当然ながら)廷尉達の答えは微罪(罰金等)。これに不満を持った曹丕は、おのが本意を示し
鮑を処刑させます。
しかし…。曹丕ならば「春秋」は知悉しているはず。その中の叔向の逸話を思い起こせば、社稷の柱石たる鮑(曹操の
覇業の影に鮑の父・鮑信の支援あり)は、たとえ死に値する罪ありとしても許すべき存在であるはずです。ましてや、
その罪状があやふやなものであるならばなおのこと。

おのが恣意を通した曹丕。しかし、群臣達を失望させたであろう、このような行いをしたとなれば、いわゆる春秋の筆法
では…。

長くなるので続きます。

234 名前:左平(仮名):2009/05/24(日) 01:25:16 ID:85J6nSxv0
続き。
その事態は、極めて急に起こりました。鮑の処刑からほどなく、曹丕が崩じたのです。
病に臥してから一月足らず。当年齢四十の壮年で、武芸にも長け、持病もない彼の急逝は、当然ながら、波紋を投げかけ
ました(春秋の筆法で言えば、鮑を殺した報い、ということでしょうか)。
幸い、まだ意識がはっきりしている間に立太子は為されましたので、この点は良かったのですが、太子に曹叡が選ばれた
ことには、群臣達に多少の驚きがありました。先の、とつくとはいえ、皇后との間に生まれた嫡長子。なんの問題もなさ
そうですが、実母の死に方(死を賜った)は、尾を引いていたようです。

まあ、太子の過去はともかくとしても、一度は地方王になり、中央からは離れたものと思われただけに、その賢愚は未だ
定かならず。
ひとり新皇帝に呼び出された劉曄は、まる一日語り合い、その力量を概ね把握しました(一方で、曹叡もまた、群臣の中
で最も優れていると判断した劉曄を通じて、群臣達の賢愚や時勢を把握したものと思われます)。
秦始皇・後漢光武に近いがわずかに及ばない。劉曄の見立ては、そのようなものでした。
呉との小競り合いに対しての対応をみると、少なくとも、皇帝としては曹丕より上と思わせるに足るスタートを切ります。

さて、魏・蜀漢とも代替わりをした一方、呉は、引き続き孫権です。
自分とは親子ほども年の離れた魏の新帝。しかも、その器量をみるに、魏に揺るぎはありません。また、(魏に備える為
ではありますが)蜀漢と同盟関係になっていますので、攻めるわけにもいきません。
直ちに呉に危難が及ぶわけではない。しかし国威発揚の機も期待できない。そんな中、呉艦隊期待の大型艦の進水という
イベントがありました。そう、谷利の見せ場です。

大型艦の進水にはしゃいだか、停滞する現状に苛立つあまりの気晴らしか。一国の主としては軽率な言動を見せた孫権に
対し、厳しく、しかし真摯に諌めた谷利。それをしかと受け止めた孫権。
もう一人の皇帝が現れるのは、そう遠い日のことではありません。

235 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:20:53 ID:VtX07A/g0
三国志(2009年06月)

今回のタイトルは「孟達」。この名がまた出てきたということは…。諸葛亮がついに動き始めます。

「これを読んで感涙せざる者は人にあらず」。千古の名文として知られる「出師表」。「危急存亡の秋」という言葉は、
この時点の蜀漢にはややそぐわないところがある(南征に成功したことで国力はまずまず充実している)ものの、その
未来図が決して明るくないことを思うと、あながち過剰な表現というわけでもありません。
かつて、蜀の地において皇帝を名乗り強盛を誇った公孫述は、時勢に乗り損ねて光武帝に敗れ、滅びました。覆車の轍
を踏まない為にも、漢の再興という政権の正統性を維持する為にも、ここで戦う必要があると考えたわけです。
ただ、ことがことだけに、失敗は許されません。そこで諸葛亮は、ある人物に目を付けました。孟達です。

曹丕にいたく気に入られ、要地・上庸を任された孟達ですが、彼にとって、魏は居心地がよい所とは言えませんでした。
裏切り者の常とはいえ、魏の人々からは冷たい目で見られていることを、痛いくらいに感じていたためです。
「武皇帝(曹操)は…」。
かつて曹操は、降った敵将を重く用いました。もとは呂布の配下であった張遼などは、天下に名を轟かせる名将にまで
なりました。魏の人々にとって、張遼は、「旧主を見限った元敵将」ではなく「魏の誇るべき名将」なのです。
しかし…。曹操の生きた非凡な時は既に去り、人々は平凡な道義を振りかざします。そんな中では、孟達のような人物
の居場所はないのです。

 ただ…。曹操の創業の時は終わったのですが、今、帝位にある曹叡もまた、凡庸な人物ではありません。司馬懿を宛
 に配置したのは、呉・蜀漢の双方に目を光らせるための措置。中央から遠ざけるというのとは違うのです。そのこと
 を孟達が気付いていたら、どうだったでしょうか。

孟達を寝返らせる。諸葛亮からその案を聞かされた費詩は、孟達を「小人に過ぎない」と断じました。彼が魏に奔った
経緯を考えるとやや酷な物言いのようですが…結局、それが…。

長くなるので続きます。

236 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:22:24 ID:VtX07A/g0
続き。

諸葛亮と孟達との書簡のやりとりは続きますが、孟達はなかなか動きません。互いに「相手が動いたら連動する」という
発想に陥っていたためです。それに異を唱えたのは、魏延でした。
ここでの魏延はただの武人ではありません。「もし孟達が先に動いたなら、魏との戦いを始めるという栄誉は孟達のもの
となり、我らの大義は損なわれる。丞相は失敗しないよう慎重になる余りに、この戦いの原点をお忘れではないか」。
このようなことをずばり指摘してみせたのです。
先帝・劉備に見出され、蜀漢の柱石たる張飛をおいて要地・漢中を任された名将・魏延。諸葛亮も、彼を軽くみることは
しませんでしたが、武将を用いる力は、劉備には及びませんでした(一方で、蒋琬のエピソードをみると、文官を用いる
力は諸葛亮の方がまさっているのですから不思議なものです)。

このままずるずると年を越しては、自身の威令が利かなくなり、来るべき戦いにおいて支障をきたす恐れがある。魏延の
指摘を聞いた諸葛亮は、ついに決断を下します。
信頼する配下・郭模をあえて魏に奔らせ、孟達が動かざるを得なくなるよう仕向けたのです。郭模(および家族の)身の
安全は保障されるでしょうが、蜀漢のために蜀漢を裏切るという辛い任務です。
この苦肉の策は効きました。もともと孟達を嫌っていた申儀が、これにより、孟達謀反の確かな証言を得たからです。孟
達に対し、朝廷から召喚命令が出ますが…もちろん行くはずもなく。

しかし、その割には孟達の動きは鈍いままです。それもそのはず。彼が戦うであろう司馬懿のいる宛は遠く、また、洛陽
との使者のやり取りを考えると、準備期間は十分あると考えられたからです。
司馬懿もそのことは承知しているので、孟達の動きを鈍らせるよう策を施します。

西暦227年冬。魏・蜀漢の戦いは、水面下では、既に始まっています。

464KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50 read.htmlに切り替える

名前: E-mail(省略可)

img0ch(CGI)/3.1