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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

234 名前:左平(仮名):2009/05/24(日) 01:25:16 ID:85J6nSxv0
続き。
その事態は、極めて急に起こりました。鮑の処刑からほどなく、曹丕が崩じたのです。
病に臥してから一月足らず。当年齢四十の壮年で、武芸にも長け、持病もない彼の急逝は、当然ながら、波紋を投げかけ
ました(春秋の筆法で言えば、鮑を殺した報い、ということでしょうか)。
幸い、まだ意識がはっきりしている間に立太子は為されましたので、この点は良かったのですが、太子に曹叡が選ばれた
ことには、群臣達に多少の驚きがありました。先の、とつくとはいえ、皇后との間に生まれた嫡長子。なんの問題もなさ
そうですが、実母の死に方(死を賜った)は、尾を引いていたようです。

まあ、太子の過去はともかくとしても、一度は地方王になり、中央からは離れたものと思われただけに、その賢愚は未だ
定かならず。
ひとり新皇帝に呼び出された劉曄は、まる一日語り合い、その力量を概ね把握しました(一方で、曹叡もまた、群臣の中
で最も優れていると判断した劉曄を通じて、群臣達の賢愚や時勢を把握したものと思われます)。
秦始皇・後漢光武に近いがわずかに及ばない。劉曄の見立ては、そのようなものでした。
呉との小競り合いに対しての対応をみると、少なくとも、皇帝としては曹丕より上と思わせるに足るスタートを切ります。

さて、魏・蜀漢とも代替わりをした一方、呉は、引き続き孫権です。
自分とは親子ほども年の離れた魏の新帝。しかも、その器量をみるに、魏に揺るぎはありません。また、(魏に備える為
ではありますが)蜀漢と同盟関係になっていますので、攻めるわけにもいきません。
直ちに呉に危難が及ぶわけではない。しかし国威発揚の機も期待できない。そんな中、呉艦隊期待の大型艦の進水という
イベントがありました。そう、谷利の見せ場です。

大型艦の進水にはしゃいだか、停滞する現状に苛立つあまりの気晴らしか。一国の主としては軽率な言動を見せた孫権に
対し、厳しく、しかし真摯に諌めた谷利。それをしかと受け止めた孫権。
もう一人の皇帝が現れるのは、そう遠い日のことではありません。

235 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:20:53 ID:VtX07A/g0
三国志(2009年06月)

今回のタイトルは「孟達」。この名がまた出てきたということは…。諸葛亮がついに動き始めます。

「これを読んで感涙せざる者は人にあらず」。千古の名文として知られる「出師表」。「危急存亡の秋」という言葉は、
この時点の蜀漢にはややそぐわないところがある(南征に成功したことで国力はまずまず充実している)ものの、その
未来図が決して明るくないことを思うと、あながち過剰な表現というわけでもありません。
かつて、蜀の地において皇帝を名乗り強盛を誇った公孫述は、時勢に乗り損ねて光武帝に敗れ、滅びました。覆車の轍
を踏まない為にも、漢の再興という政権の正統性を維持する為にも、ここで戦う必要があると考えたわけです。
ただ、ことがことだけに、失敗は許されません。そこで諸葛亮は、ある人物に目を付けました。孟達です。

曹丕にいたく気に入られ、要地・上庸を任された孟達ですが、彼にとって、魏は居心地がよい所とは言えませんでした。
裏切り者の常とはいえ、魏の人々からは冷たい目で見られていることを、痛いくらいに感じていたためです。
「武皇帝(曹操)は…」。
かつて曹操は、降った敵将を重く用いました。もとは呂布の配下であった張遼などは、天下に名を轟かせる名将にまで
なりました。魏の人々にとって、張遼は、「旧主を見限った元敵将」ではなく「魏の誇るべき名将」なのです。
しかし…。曹操の生きた非凡な時は既に去り、人々は平凡な道義を振りかざします。そんな中では、孟達のような人物
の居場所はないのです。

 ただ…。曹操の創業の時は終わったのですが、今、帝位にある曹叡もまた、凡庸な人物ではありません。司馬懿を宛
 に配置したのは、呉・蜀漢の双方に目を光らせるための措置。中央から遠ざけるというのとは違うのです。そのこと
 を孟達が気付いていたら、どうだったでしょうか。

孟達を寝返らせる。諸葛亮からその案を聞かされた費詩は、孟達を「小人に過ぎない」と断じました。彼が魏に奔った
経緯を考えるとやや酷な物言いのようですが…結局、それが…。

長くなるので続きます。

236 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:22:24 ID:VtX07A/g0
続き。

諸葛亮と孟達との書簡のやりとりは続きますが、孟達はなかなか動きません。互いに「相手が動いたら連動する」という
発想に陥っていたためです。それに異を唱えたのは、魏延でした。
ここでの魏延はただの武人ではありません。「もし孟達が先に動いたなら、魏との戦いを始めるという栄誉は孟達のもの
となり、我らの大義は損なわれる。丞相は失敗しないよう慎重になる余りに、この戦いの原点をお忘れではないか」。
このようなことをずばり指摘してみせたのです。
先帝・劉備に見出され、蜀漢の柱石たる張飛をおいて要地・漢中を任された名将・魏延。諸葛亮も、彼を軽くみることは
しませんでしたが、武将を用いる力は、劉備には及びませんでした(一方で、蒋琬のエピソードをみると、文官を用いる
力は諸葛亮の方がまさっているのですから不思議なものです)。

このままずるずると年を越しては、自身の威令が利かなくなり、来るべき戦いにおいて支障をきたす恐れがある。魏延の
指摘を聞いた諸葛亮は、ついに決断を下します。
信頼する配下・郭模をあえて魏に奔らせ、孟達が動かざるを得なくなるよう仕向けたのです。郭模(および家族の)身の
安全は保障されるでしょうが、蜀漢のために蜀漢を裏切るという辛い任務です。
この苦肉の策は効きました。もともと孟達を嫌っていた申儀が、これにより、孟達謀反の確かな証言を得たからです。孟
達に対し、朝廷から召喚命令が出ますが…もちろん行くはずもなく。

しかし、その割には孟達の動きは鈍いままです。それもそのはず。彼が戦うであろう司馬懿のいる宛は遠く、また、洛陽
との使者のやり取りを考えると、準備期間は十分あると考えられたからです。
司馬懿もそのことは承知しているので、孟達の動きを鈍らせるよう策を施します。

西暦227年冬。魏・蜀漢の戦いは、水面下では、既に始まっています。

237 名前:左平(仮名):2009/07/25(土) 02:14:54 ID:wQjkGeU20
三国志(2009年07月)

今回のタイトルは「箕谷」。いよいよ、魏vs蜀漢の戦いが始まるわけですが…。

孟達がぐずぐずしているところへ、司馬懿が急襲を仕掛けます。まさに「神速」。完全に虚を突かれた形になったため、
兵の士気の差も歴然たるものがありました。
それでも十日余り持ちこたえたあたり、孟達の将器もそこそこはあったとは言えるのでしょうが…諸葛亮からの援軍も
しっかり防がれると、最早、打つ手はありません。
併せて、(魏から見て最前線で監視の目も緩くなりがちなことから)勝手気ままに振る舞っていた申儀も逮捕。魏の西南
方面がしっかりと平定された格好に。

諸葛亮からすると、思いっきり出ばなをくじかれた形になります。とはいえ、「攻撃は最大の防御」ともいうように、蜀
漢が生き延びるには、魏と戦うしかありません。
しかし、国力差はいかんともし難いものがありますし、何より、曹叡と司馬懿(ら群臣)との連携がしっかりとしている
以上、うかつなことはできません。

 こうしてみると、蜀漢・呉にとっては、もう少し曹丕に生きていてもらった方が良かったのか?ってな感じですね。
 何度も戦場に立ったことがあり、武芸にも秀でていた曹丕より、実戦経験の殆ど無い曹叡の方が軍事的手腕に優れる
 というのも、不思議なものです。

必然的に、諸葛亮達が考える進攻ルートは、慎重なものになります。諸将も概ね賛同しますが、ひとり異見を持つ人物が
いました。そう、魏延です。
漢中太守、ということは、魏との戦いの最前線にいるということ。前線の事情に明るい彼には、この戦いを有利に進める
成算がありました。長安急襲です。
長安は魏でも有数の要地でありますが、守る夏候楙には軍略の才乏しく、ひとたび攻めかかれば脆いもの。兵糧の備蓄も
ありますから、補給の心配もありません。
しかし、敵中に孤立し、殲滅される危険性がある以上、諸葛亮としては、受け入れられない提案でした。

長くなるので続きます。

238 名前:左平(仮名):2009/07/25(土) 02:18:52 ID:wQjkGeU20
続き。
自らの提案が却下されたことに不満を持つ魏延。しかし、諸葛亮の次の言葉に、さらなる衝撃を受けます。
「先鋒は馬稷」
この選択についての宮城谷氏のコメントはかなり辛口です。こと軍事面に関しては、諸葛亮は袁紹と同程度である、と。
行政面についてはまさしく名宰相である彼も、万能ではありませんでした。
もし、この時、黄権のような人物がいれば…。この頃から、蜀漢は人材不足に悩まされていました(魏延の提案を却下
したのも、前哨戦ともいえる段階で蜀漢随一の勇将・魏延を失うようなことがあったら…という危惧があったのかも知
れません)。

ともあれ、こうして、蜀漢の軍勢が動き始めました。

しかし、慎重な行動というのは、一方で、意外性に乏しく驚きをもたらさないものでもあります。蜀漢が仕掛けてきた、
といっても、策に乏しい正攻法での攻撃では、将兵の質量にまさる魏に勝つことは至難の業。
曹叡の反応は、迅速かつ適切。直ちに、曹真や張郃といった大物どころを派遣してきました。こうなると、蜀漢は苦戦
を免れません。

蜀漢の進攻ルートから外れていたことを逆手にとり、逆に漢中目がけて進攻する曹真は、ここで趙雲率いる部隊と接触。
激戦となります。
「常山の子龍はまだ生きていたか」と強敵の出現に喜ぶ曹真。
「(若い頃のようにひとりで百の敵にあたるとまではいかないが)戦場はふしぎな力を与える」と感じる趙雲。
数と兵の練度にまさる魏軍がじりじりと押していく中、自ら後拒を担う趙雲。劣勢は覆せませんが、この危機をどう
切り抜けるか。

…今回の魏延の書かれ方をみると、名将とはいかなる人か、ということを少しばかり考えさせられたような。

239 名前:左平(仮名):2009/08/23(日) 01:37:07 ID:bq1phsVL0
三国志(2009年08月)


またしても迂闊なことを。馬謖の名をを書き間違えてしまうとは。気を取り直して。

今回のタイトルは「街亭」。まあ、第一次北伐とくると、この名前は当然出てくるところですね。
まずは、前回の続きから。兵の数の差は大きく、蜀漢軍は撤退を余儀なくされ、ついに趙雲自らが後拒を担います。
その生涯を決定づけた存在である劉備を、戦場に斃れた関羽を思い、一人佇む趙雲。戦場に、一瞬ですが、静寂が
訪れます。
既に老齢に達してはいますが、長坂の英雄は未だ健在。ただ一騎とはいえ、敵に凄まじい威圧を与えます。
そして、魏兵の目に、ひときわ趙雲の姿が大きく映ったその時―

あっという間に数十の敵兵を屠り、部隊長を叩き落としました。部隊長自身は無事でしたから、趙雲に気圧された、
としか考えられません。地味な撤退戦とはいえ、個の武人の強さがかくも鮮やかに描かれたのは合肥の張遼以来か。

「趙雲には近づくな」。曹真の命をうけて追撃する第二陣の部隊長に、先の部隊長はこう言います。既に日も落ち、
ここは敵地。追撃するには危険なところです。たとえ怯、と罵られても、兵士の命には代えられません。そして、
この危惧は現実のものとなります。

翌朝、再度追撃を開始した魏軍が見たもの。それは、蜀漢―そのうちのかなりの部分は趙雲一人―に屠られた魏兵
で作られた牆でした。その凄惨さをみた魏軍の士気は落ち、曹真は兵を引きます。
準皇族である彼には、派手な武勲を求める必要性はありません。敵将の趙雲・ケ芝の首級は挙げられずとも、一定
の勝利を収めた以上、深追いする必要はないのです。それに何より、兵を労わる曹真には、牆にされた兵士の骸を
放置することはできませんでした。
「蜀の地では寝心地が悪かろう。みな連れ帰って葬ってやりたい」。
将にこういうことを言ってもらえる分、この魏兵にはまだ救いがある、というところでしょうか。

みごとに兵を引いた趙雲は諸葛亮に激賞されますが、報償を出そうとするのに対しては、きっぱりと拒否します。
最も成功した法家、と言われることのある諸葛亮でさえ甘いと思わせるほどに厳しい道を歩み続けてきた趙雲。
彼は、この翌年に逝去します。

長くなるので続きます。

240 名前:左平(仮名):2009/08/23(日) 01:39:56 ID:bq1phsVL0
続き。
同じ敗戦でも、趙雲のそれがそう思わせないほどにみごとなものであったのに対し、馬謖のそれは、甚だ無様な
ものとなりました。
副将の王平がまっとうな行動をとっているだけに、「策士、策に溺れる」を地でいく馬謖の判断ミスが余計に
目立つのです。

相手は「半世紀の武人」張郃。敵将を侮り、のみならず、策の危険性を軽視し、副官の指摘にも耳を貸さない。
兵書に通じているはずの彼が、最も基本的なところを見落としていたのです。
「彼を知らず己を知らざれば、戦うたび即ち殆し」。彼の敗戦は、必然でした。

王平に助けられ、辛うじて撤退した馬謖。しかし、これは単なる敗戦ではありません。その咎は、死をもって
償う他ありませんでした。
馬謖の将来を最も期待していたのは諸葛亮です。ゆくゆくは丞相にも。そんな未来図を描いていたでしょう。
しかし、法を枉げることはできません。辛い決断を下すことになります。

ここで馬謖を斬るべきだったのかどうかは、議論の余地があるところです。しかし、馬謖の失敗は、彼に嘱目
していた諸葛亮にも向けられます。「諸葛亮は万能ではない」。先にも言われてはいましたが、かなり辛口な
評価がされています。
為政者に問われるのは、ただただ結果のみ。事情を知る者には酷に思えるところですが、そういった、不条理
にも思えることをも引き受けなければならないのが為政者の宿命。

全く得るところなく終わった、第一次北伐。しかし、それでも、何もなかったわけではありません。
諸葛亮は、ひとりの偉才を拾いました。姜維です。

241 名前:左平(仮名):2009/09/26(土) 03:04:24 ID:sq1CW+Zq0
三国志(2009年09月)

今回のタイトルは「曹休」。姜維についての記述はないのですが、第一次北伐の余談、とでもいうべき話から
始まります。

かつて張既に託された、游殷の遺児・游楚。立派に成長し、太守となった彼のもとに、蜀漢軍の侵攻の知らせ
が届きます。
天水・南安の太守が早々と逃亡する中、ここが死に場所、とばかりに肚を括ると、きっちりと迎撃態勢を整え、
蜀漢軍に一撃を加えます。
游楚は学問を好まず、遊び好きだったそうですが、郡の官民の心を得たことといい、敵軍の状況を冷静に把握
したことといい、なかなか優秀な人物ですね。
戦力を分散していた蜀漢軍は、長居は無用とばかりに撤退。みごと、援軍の到来まで持ちこたえました。

近隣の太守が醜態を晒す中での、この活躍。宮中に上がった時の天然ぶり(?)もあって曹叡に気に入られた
彼の人生は、比較的穏やかなものだったようです。

さて、タイトルの曹休ですが…。この時、彼は、南の呉に備える立場にありました。
蜀漢と呉は同盟関係となっています。と、いうことは、両者が連携して魏と戦うということが予想されるわけ
です。そして、蜀漢が攻撃を仕掛けてきたということは…。曹休は、呉との戦いの準備に取りかかります。

孫権も、蜀漢が動いたことを知ると、魏との戦いの準備に取りかかります。しかし、過去数年の戦いの結果は、
というと、一進一退。それも、軍事のまずかった曹丕の時で、です。
天性ともいうべき戦略眼を持った曹叡が相手となると、これでは心もとない。孫権は、何らかの策略を用いる
必要に迫られます。

長くなるので続きます。

242 名前:左平(仮名):2009/09/26(土) 03:05:46 ID:sq1CW+Zq0
続き。

ここで白羽の矢が立ったのは、前線にいない鄱陽太守・周魴です(前線の太守が策をめぐらしても警戒されて
いるため難しい、との判断)。山越等の賊との戦いの経験もあり、なかなか優秀な人物ではありますが、これ
はいかに言っても困難な使命です。
何度も策を練っては却下され、ついには問責の使者が来て、剃髪して詫びるということも(演義では、曹休を
欺くための策の一環でしたが、ここでは、本当に策が思いつかないが故の剃髪)。上司の無茶な命令にこたえ
られずに謝罪を強いられる部下…。何か、身につまされます。
ようやく策ができ、孫権の了承が得られました。ここからが、大戦の始まりです。

周魴の内通という機密情報。曹休は、この情報を己の内にしまい込みます。曹叡に報告すると…と思ったので
しょうか。

数に劣る呉軍としては、賈逵の援軍が来る前に曹休の軍を殲滅したいところ。ここは、陸遜や朱桓といった、
呉の最精鋭が当たります。

周魴の内通が偽りであったと悟った曹休は激怒しますが、十万という大軍を率いていることもあり、総攻撃を
掛けます。
軍勢を分断されて苦戦を強いられますが、戦意は高く、劣勢とはいえ軍としての形は崩さないあたり、慎重さ
に欠けるなどと言われはしても、ひとかどの将帥であることは確かです。
とはいえ、敵の術中にはまり敗れたのには違いありません。曹休は、撤退を余儀なくされます。

援軍に向かう途中でこのことを知った賈逵。さて、どうするか。

243 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:42:15 ID:5TLCoJWz0
三国志(2009年10月)

今回のタイトルは「陳倉」。曹操等には及ばぬまでも、諸葛亮の軍事手腕に一定の成長が見られます。

まずは前回の続きから。曹休の敗退を知った賈逵は、彼が向かうであろう夾石に軍を進めることにします。そこ
には、撤退する曹休を待ち構える呉軍がいましたが、賈逵はこれを難なく蹴散らし、無事、曹休と合流すること
ができました。
全体的には魏の敗戦とはいえ、主だった将帥の戦死もなく済んだのは、ひとえに賈逵の功です。しかし…

なぜか、賈逵は曹休には嫌われていました。ともに戦場においては勇将でしたが、二人の勇気の質が違っていた
ため、とのことですが…自分の窮地を救ってくれた賈逵に当たり散らすあたり、第三者からみると、どちらの勇
気が優っているか、は言うまでもないような…。
その後、ともに経過報告を奏上しますが、曹休のそれには、敗戦の責を賈逵に押しつけようとするところがあり
ました。
どちらが正しいかは分かっている曹叡でしたが、皇帝である彼も、帝室の一員たる曹休には強く出られないため、
この件はうやむやのうちに終わります。
曹休はかくも大事にされていたわけですが、彼のプライドは深く傷つき、憤りの余り、間もなく没します。
初めての敗北が、結果として彼を死に追いやったわけです。敗北から学べなかった武将の悲劇、でしょうか。

…曹操が薨じてから十年足らず。しかし、彼とともに戦ってきた曹氏の多くが既に没し、世代交代しています
(曹洪はまだ生きているはずですが、曹丕の時代に一度失脚したためか触れられていません)。
そのため、曹真が一族をとりまとめる立場に立ちます。…ん?この流れは…?

長くなるので続きます。

244 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:45:04 ID:5TLCoJWz0
続き。

一方、勝利した呉ですが、こたびの戦の功労者である陸遜・周魴は篤く賞されます。それはよいのですが…ここに
呉の限界があります(後世の、人気がない原因でもあるような)。
詐術を弄して勝つということは、「敵には何をしてもよい」と考えているわけです。それは、一見正しいようですが、
そこには、人を引き付けるものがありません。人々を引き付けないことには最後の勝利は得られません。
「信なくば立たず」と言います。呉は、君主たる孫権からして、その信が欠けている。それがもたらすものは…。
…ともあれ、赤壁の鮮烈な勝利が、周瑜のみならず、呉という国そのものをも束縛してしまった、という皮肉な見
方もできるわけです。

さて、(遠い東方のこととはいえ)魏が敗れたということは、蜀漢にとっては好機であるわけですから、これ幸い
とばかりに、諸葛亮は兵を進めます。
しかし、彼の進攻ルートは、既に曹真らによって予測されており、戦場は、郝昭が守る陳倉になります。この時点
で蜀漢の苦戦は決まっていました。

小さい城とはいえ、先の游楚の勇戦を考えると、条件は格段に良い(籠城の準備も整っており、何より、早い段階
での援軍が期待できる)わけですから、郝昭達の士気は高く、諸葛亮が大軍を持って攻めかかったにもかかわらず
戦果を挙げられぬままに撤退を余儀なくされます(ここでの王双の追撃が魏には蛇足になります。というのは、王
双を討ち取ることで、蜀漢は劣勢を糊塗できたわけですから)。

まだ続きます。

245 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:47:11 ID:5TLCoJWz0
続き。

文章量からすると、やや少なく感じるくらいの陳倉の戦いですが、その中身はなかなか濃いものがあります。攻城
兵器(雲梯、衝車等)の投入、二重城壁、地下道での攻防…。
ただ、郝昭の勇戦は確かですが、ここでは、戦場における諸葛亮の鈍さが強調されているように見えます。

一度ならず二度までも戦果なく撤退した諸葛亮。しかし、「応変の才に欠ける」と評されたとはいえ、彼は愚物では
ありません。ついに、あることに思い至ったのです。そう、范雎の遠交近攻の応用―領土の面的確保―です。
魏の予想を裏切る速さで再び兵を起こすと、武将・陳式をして陰平・武都を攻めさせ、これの確保(及び保持)に
成功したのです。
…しかし、「水軍を預かったことがある」「山岳戦もまずくない」くらいにしか書かれていませんが、これだけの戦果
を挙げた陳式、なかなかの将ですね。蒼天で、徐晃相手に堂々としていたあの雄姿も伊達ではないといったところ
でしょうか。
しかし、本作での諸葛亮はなかなか扱いづらい存在ですね。私心ない忠臣であり、かつ卓越した行政手腕の持ち主
である一方で、将帥としては意外性に欠け鈍重、皇帝でさえ止められない独裁者でもあるわけですから。

さて、ラスト、ついに孫権が皇帝を称したわけですが…魏・蜀漢両国の反応やいかに。

246 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:52:23 ID:A/4303W/0
三国志(2009年11月)

今回のタイトルは「三帝」。名実ともに、三国の時代となります。

まずは、孫権の皇帝即位を知った蜀漢の反応及び対応が語られます。漢の正統を自任する蜀漢としては、孫権の
皇帝即位は到底是認できないものではあるのですが…ここは、丞相・諸葛亮の現実的判断に従うこととなります。
 まずは、中原をおさえている魏との戦いを優先する、ということです。帝位を僭称した孫権の非を糾弾するの
 は、その後で、と。
 しかし、もし、蜀漢が孫権の皇帝即位を非難し同盟を破棄したなら、孫権はすばやく帝位を降りて魏に詫びを
 入れ、共同して蜀漢を攻めることもありうる、と(諸葛亮が憂慮した、と)いうのは、これまでの孫権の言動
 をみるとありそうなのが何とも。孫権、信用されてませんね。
祝賀の使者として衛尉の陳震が派遣されます。このことは蜀漢の反応を気にしていた孫権を大いに喜ばせました。
諸葛亮の外交には裏がない。それは、一見すると非常に稚拙なようではありますが、実は、最も強固なものでも
あります(ある意味で、敵にも味方にも信用されているわけですからね。信用は大事です)。
名の通り、権謀術数の限りを尽くしてしたたかに生き抜いてきた孫権には、この逆説が分かります。彼が諸葛亮
を絶賛したのも、こういうところを認めたからですね。
 それにしても、諸葛亮の軍事的手腕については総じて辛口に書かれていますが、内政及び外交手腕については
 絶賛といっていい書かれ方です。
 「諸葛亮は信と誠の人である。それがすべてといっていい」。
 政治には巧みだが軍事には疎い。『子産』の子罕などがそうですが、完全な人はなかなかいないものです。

長くなるので続きます。

247 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0
続き。

この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を
受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。
諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。

 孫権の皇帝即位の前年に、呂範が他界します。孫権は、彼を雲台二十八将の一人・呉漢(序列第二位)に例
 えます。この際、既に亡くなっている魯粛をケ禹(同一位)に例えていることから、死してなお、魯粛への
 評価が高いことが分かります。天下平定の計略を示したのは彼一人。その死をもって、孫権の、天下平定の
 計略は潰えたということでしょうか。それ以降の、孫権の魏への対応を考えると、そんなふうに思えます。

さて、魏は無反応だったわけですが…宮城谷氏曰く、この時代は四国時代と言えなくもない、ということで、第
四の勢力―遼東の公孫氏―のことが語られます。
(実は、単行本第八巻の付録にもこのあたりのことが書かれています)
西暦229年時点での公孫氏の主は、公孫淵(字は文懿、というのが知られるようになったのは、ここ数年の皆
様の丹念な文献チェックの賜物ですね)。
初代の公孫度の孫で、四代目にあたります(公孫度―康―恭(康の弟)―淵(康の子))。
魏に服属している形なので名目上は侯に過ぎませんが、領内では王、いえ、内心では帝の如く振る舞っています。

そんな彼に、孫権は使者は派遣したわけですが…帝気取りの公孫淵に向かって「なんじを燕王とする」と言った
ところで何のありがたみもないわけで…。さすがの孫権も、遠い遼東のことまでは、十分に把握していなかった
ということでしょうか。あるいは、衰えの兆候…?
(衰えうんぬんは、あくまで個人的な思いであって、作中でそのような書かれ方をしているわけではありません
ので、念のため)

まだ続きます。

248 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:55:30 ID:A/4303W/0
続き。

そうこうしているうちに、西暦230年。この年、魏は本格的な軍事行動を起こそうとします。蜀漢が対魏戦の
準備を着々と進めていると知った曹真が、機先を制してこれを討つことを考えたのです。

彼我の国力差を考えると、孫資の言うとおり、魏から無理に戦いを仕掛けずともよいのですが、今や魏軍の重鎮
たる曹真の意見をむげに取り下げることもできません(それに、敵に謀られて〜というわけでもありませんし、
蜀漢の攻勢を挫くという意義もある以上、無意味な戦いでもありませんからね)。
結局、秋になって、出撃が決定します。曹真と司馬懿がともに蜀漢に攻め込もうというのですから、大戦になる
ことは必定でした…が、折からの長雨のため、軍は進めず。
呉に備えるため、洛陽を発ち許昌に滞在する曹叡に、華歆・楊阜達が諫言を呈します。

最後は、この楊阜のこれまでの生き様が描かれます。
時を遡ること、約二十年。手痛い敗北を喫したものの、曹操が去った後、勢力を盛り返して涼州を荒らす馬超を
倒すべく、姜叙の母達とともに蜂起する、というところまでです。
文官・武官というくくりでは文官なのでしょうが、なかなかどうして、苛烈な半生です。

249 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:32:42 ID:hGkpiVxC0
三国志(2009年12月)

今回のタイトルは「曹真」。曹真についての記述自体はさほど多くないと思うのですが、この後のことがあります
からね…。

今回は、前回の続き、楊阜vs馬超です。辛うじて馬超のもとを脱出した楊阜は、姜叙達とともに馬超を打倒すべく
動き始めます。この計画が漏れなかったところに彼らの強運が、そして馬超の不運がありました。
蜂起するのは、馬超が拠点とする冀城にほど近い鹵城。ここを修築し、攻撃に備えるのですが、なぜここなのか?
それには、理由がありました。
楊阜達が蜂起!これを知った馬超は激怒し、自ら出撃します。鹵城は小さく攻略にはそう時間はかかるまい。そう
思った馬超は軽装で城を出ました。

…実は、これが狙いでした。冀城から遠く大きな城であれば、馬超も用心していたでしょうが、鹵城が近く、かつ
小さい城であることから、物資等はおおかた冀城に残していたのです。
そして、楊阜の仲間は、冀城内部にもいました。
彼らは、馬超が出撃したのを見届けると、直ちに蜂起。物資を確保するとともに馬超の家族を殺し、迎撃態勢を整
えます。
このことを知った馬超は直ちに取って返し、冀城を落としますが、姜叙の母を殺したことで憎悪の連鎖を生み、楊
阜達の戦意をさらに高めることになりました。
結局、馬超は鹵城を落とすことはできず、南に落ちてゆくことになります。
※後に曹操から賞賛された際、先見の明があったことをたとえるのに楊敞の名が出ましたが、霍光の妻〜となって
 います。「楊敞の妻」が正しいので、誤記だと思うのですが…。単行本待ちですね。

長くなりますので、続きます。

250 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:34:13 ID:hGkpiVxC0
続き。
ともあれ、その後の地方勤務も含めて高く評価された楊阜は、曹叡の代になって、中央に呼ばれます(彼の登用自
体は、曹丕の時代から検討されていたようになっています)。

このような経緯で中央に召された楊阜は、曹叡に対し、時として厳しい諫言を行います。土木建設事業を好む、と
いうのが微妙なところではありますが、為政者としての資質において父・曹丕を上回る曹叡は、楊阜の諫言をよく
聞き入れ、施政に生かしていきます。
制度上は、皇帝の賢愚に関わりなく国政の運営が行われるようになっているとはいえ、やはり皇帝の資質は重要で
あります。名君が現れれば国は活気づき暗君が現れれば国は沈滞する。今も昔も変わらない真理がここにあります。

前述のとおり、軍事的な視点も持ち合わせているであろう楊阜の目には、悪天候が原因とはいえ、こたびの戦いの
戦況が思わしくないことが見て取れました。
曹真の、時勢のみる目に衰えがあるのか?今の蜀漢は、弱くもなく、乱れてもいない。そんな相手を倒すのは容易
ではない。なぜ、今なのか…、と。

結局、長雨が止まぬ中、ついに撤収命令が下され、曹真達は傷心のうちに撤収することになります。この時、曹真
は、重い病の床に臥していました。出師を願い出た自分が、病であるからといって引くことはできない。その意地
が、かえって病状を悪化させたのでしょうか。
皮肉なことに、曹真達が撤収してからは、雨は降りませんでした。天には、まだ蜀漢を滅ぼす意思はない。国力面
では圧倒的な差をつけているとはいえ、相手に天の加護があるのか、という意識は、今後の魏にとっては、厄介な
ものとなりそうです。

まだ続きます。

251 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:42:33 ID:hGkpiVxC0
続き。
撤収から数ヵ月後、曹真は息を引き取ります。不調に終わったとはいえ、先の蜀漢攻めは、呉が大規模な軍事行動
を起こせないうちに…と判断してのもの。彼もまた、楊阜と同様、国を思って行動する忠臣でありました。
とはいえ、ここで曹真をも失ったことは、魏にとっては、不吉な影を投げかけることになります。

さて、呉の方は、といいますと…。
念願の帝位に就いたとはいえ、彼我の国力差に変化があったわけではありません。帝位をより盤石なものにするため
にも、孫権としては、軍事的な成果を挙げる必要があります。
呉にとって、目の上の瘤となっているのは、合肥。この頃、満寵の指揮のもと合肥新城が築かれたことで、ますます
攻め辛くなっています。
が、この頃、満寵も酒に溺れいささか衰えがみられる…という話があったことや、魏の主力が対蜀漢戦に向けられて
いることから、孫権は、合肥攻略を実行に移します。
おおっぴらに合肥攻略を知らしめて魏軍を集めさせ、やがて兵を引いたその時に攻撃を仕掛けるというものです。策
そのものはなかなかのものだったのですが…

…結果は、みごと失敗でした。満寵、酒は飲んでも飲まれてはおらず、孫権の策を看破していたのです。というか、
孫権が自らの策に溺れた感がありますが。
(孫権はきっと策を弄しているに違いない、と思われ警戒されていた)

それでも懲りない孫権。満寵が駄目なら今度は、とばかりに、彼と仲が良くない王淩に策を向けます。こちらはいく
ばくかの成果あり。
王淩、まっすぐな人なだけに、策には弱いみたいです。

252 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:32:51 ID:94F5vzQz0
三国志(2010年01月)

宮城谷氏が、2月1日から読売新聞で連載されるとのニュースが入りました。タイトルは「草原の風」。主人公は、
光武帝・劉秀(挿絵は、宮城谷作品ではお馴染みの原田維夫氏)。本作は楊震の「四知」から始まってますので、
時代的に繋がってくるかも知れません。

さて、今回のタイトルは「天水」。いよいよ、諸葛亮と司馬懿の直接対決です。ただ、両軍内部に対立の芽が…。

曹真が病に倒れ、蜀漢への備えが薄くなることを危惧した曹叡は、後任に司馬懿をあてます。「司馬」の氏を名乗る
からにば文武兼備でなければ、と意気込む彼にとっては、来るべくしてきた任務と言えるでしょう。
それに、彼にとっては、蜀漢は因縁もあります(そのあたりの経緯は「魏国」の回で触れられています)。あの時、
何故、武帝(曹操)は軍を蜀に進めなかったのか。あるいは、「足ることなきを楽しむ」という心境だったのか。
…今となっては、分かりません。ともあれ、その結果として蜀漢が興り、彼は、それを討伐すべく任地に赴くことに
なりました。
 儒学は軍事を軽侮する(孔子が「信なくば立たず」と言った際、真っ先に軍備を諦めている)。兵法を極める者は
 老荘思想的である…。司馬懿は、(それだけではないとはいえ)本質的には儒学の徒のはず。この点は、諸葛亮も
 同様でしょう。と、なると…。

入念な偵察によって諸葛亮の進軍ルートをつかんだ司馬懿は、上邽に武将を派遣し、守らせようとします。しかし、
ここで暦年の勇将・張郃が「雍と郿にも派遣すべき」と主張します。ともに交通の要衝とはいえ、進軍ルートからは
外れているし、軍を分けることは、かつての楚vs黥布の例からも、よろしくない。そう判断した司馬懿は、この進言
を退けました。諸葛亮の進軍ルートは予想通り。ここまでは順調ですが…。

長くなるので、続きます。

253 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:34:13 ID:94F5vzQz0
続き。
しかし、戦場は生き物とでも言うべきか。司馬懿の目算はあっさりと狂います。こともあろうに、上邽に派遣した武
将達が野戦に及び敗れたのです。こうなると、蜀漢軍への抑えが利かなくなり、後手に回ってしまいます。
蜀漢軍が上邽に留まっている(周囲の麦を刈り、挑発及び兵糧確保を行った)との知らせを受けると、相手が待ち構
えていることを承知で、向かわざるを得ません。
司馬懿は昼夜兼行で向かい、諸葛亮の予想よりも早く戦地に着きました。かつての諸葛亮であれば、これで動揺した
でしょうが…。彼は、将帥として、かなりの成長を見せていました。
 かつては(決断の遅さから)袁紹に例えられていたのが、今は(奇策を好まないという点で)関羽に似ている、と
 評されています。この数年での急成長がうかがえます。

戦いは、蜀漢軍優勢で進みます。ただ、慎重になる余り本陣を後方に置きすぎていたため、魏軍の動きの把握が遅れ、
決定的勝利を逸しました(この際、司馬懿は、劣勢をみるとあえて本陣を前に出して崩れを防いでいます)。
司馬懿は、渭水を渡ると壊滅すると分かっているため、高地を利用した陣を築き、蜀漢軍の猛攻をしのぎます。
ただ、こうしているのは、勝算あってのことではありません。司馬懿は窮地に陥ります。

やがて、蜀漢軍が退きます。これは誘い出すための陽動。それが分かっているため、追撃は極めて緩慢なものになり
ますが、ここでまた、張郃が進言します。
しかし司馬懿はまたしてもこれを却下。前回はそれなりに却下する理由がありましたが、今回はさしたる理由もない
ように思われます。張郃は曹操と同じく実戦派。司馬懿は理論派。そのあたりの違いを嫌ったのでしょうか。

まだ続きます。

254 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:36:41 ID:94F5vzQz0
続き。
追撃している、という体裁を整えるためだけの進軍。雍と郿に軍を派遣しておれば、このような事にはならなかった
のでは…。それがまた、司馬懿には癪に障ります。
このような状況に諸将は不満を抱きます。勝算のない司馬懿は、その戦意に賭け、攻勢に出ます。…らしくない戦い
方です。

魏軍が攻勢に出た。これを見つめる将、魏延。
彼は、この戦いに先立ち、諸葛亮とは別行動をとって潼関を目指したいと申し出ますが、却下されました。自尊心の
強い魏延に自由行動を許すと、半独立勢力になりかねない、と危惧したためです(ここで董卓の名が出てくるあたり、
諸葛亮の警戒ぶりがうかがえます)。
魏延には言い分があります。天水郡を取ったところで魏は揺るぎもしない。しかし、長安を取ればどうか。中原に蜀
漢の軍が至れば、漢の御代を懐かしむ人々の心を動かすことができるのではないか、と。
かつて劉備は、どれだけ曹操に敗れても、決して屈しなかったではないか。いま、その志をたれが継いでいるという
のか。皇帝(劉禅)は成都から動かず、諸葛亮は領土拡張に動くのみ。
諸葛亮を「怯(臆病)」と罵りつつも、その心中には哀しみがあります。「われを知ってくれたのは、ただ昭烈皇帝
(劉備)のみか」。

ともあれ、彼にとっては、眼前の魏軍は壊滅させるべき敵。曹仁、張遼、そして関羽なき今、魏延は恐らく中華最強
の将。その兵の強さも半端なものではなく、魏軍はたちまちにして圧倒されます。
劣勢を見た司馬懿はあっさりと退却し、陣にこもります。巻き添えを食って危い目にあった張郃は激怒しますが、司
馬懿はこれを無視。諸葛亮と魏延の対立は路線対立とでも言うべきもの(双方に理がある)ですが、司馬懿と張郃の
それは、どこかすっきりしないものがあります。ここで、長雨。これが、どう影響するか。

255 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:09:07 ID:???0
三国志(2010年02月)

今回のタイトルは「悪風」。この、意味するところは果たして…。

前回のラストで触れられた長雨が、間接的にですが、今回の諸葛亮と司馬懿の対決に決着をつけることになりました。
例年にない長雨。それとあわせてもたらされた、李厳(改名して李平)からの知らせは、諸葛亮に撤退の決断をさせる
には十分すぎました。
長雨で補給路が断たれてしまっては、いかに戦況が有利とはいえ、戦えません。諸将に異存が出なかったのも、無理も
ないところでしょう。
もちろん、将帥として成長した諸葛亮のこと、後拒にも抜かりはありません。

蜀漢軍、撤退開始。
この知らせを受けた司馬懿は直ちに追撃を命じますが、ひとり張郃は異を唱えます。魏にとっては、今回の戦いは防衛
戦。撤退する軍勢をことさら追撃する必要はないのです。しかし、司馬懿はこれを却下。不満を抱きつつも、方針が追
撃と決まった以上、それに従うのが武人の務め。張郃は、猛烈に追撃を開始します。
老練な張郃ですが、罠や伏兵を警戒しつつも、猪突猛進。時に忘我の境地に立ってこそ、無類の強さを発揮することが
ある。この時の張郃がまさにそれで、結果として、蜀漢軍に少なからぬ損害を与えます。
しかし、国境付近の木門まで追撃した、その時…
…蜀漢軍の伏兵の放った矢が、張郃に命中。即死ではなかったようですが、この傷がもとで、張郃は落命します。

将兵は名将の死を大いに嘆き悲しみましたが、司馬懿は、どこか心が軽くなったことを感じます。曹操の戦い方を継承
する唯一の存在であった張郃がいなくなったことで、自分の戦い方への批判者がいなくなった。そういうことでしょう
か。
ともあれ、蜀漢軍が撤退したことで、司馬懿は、勝利したという形を作ることができました。曹操以来の名将・張郃と
引き換えにするにはどうかという気がしますが。

続きます。

256 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:10:57 ID:???0
続き。
凱旋した司馬懿及び諸将には褒詞が授けられ、褒美や昇格といった栄誉が授けられました。このあたりの要領の良さが、
司馬懿が「政治的な人物」であるということでしょうか。
張郃についても、「壮候」と諡され、爵位は子に受け継がれましたし、何より、皇帝がその死を大いに嘆き、それ故に諌
められるくらいですから、それなりに栄誉は与えられてはいます。
しかし、(個人的には、ですが)どこかすっきりとしません。名将・張郃を使いこなせなかった司馬懿。曹操と比べると
スケールダウンしている感は否めません。
…こうなると(「三国志」である以上、無理な話とは思いますが、為政者の堕落した最悪の事例として)王衍の末路まで
描いていただけないものか、と思ったりします。

一方、無事に撤退した諸葛亮ですが、長雨による補給路の遮断が予想ほどではなかったことに疑念を抱き、李平を詰問し
ます。この際の李平の応答が諸葛亮を激怒させ、彼を失脚させるに至らせました。
普通、このあたりの経緯は、李平の怠慢(もしくはサボタージュ)とされていますが、真相はどうであったか。李平が諸
葛亮を敬仰していたことから、違う見方が必要では…という指摘がされています。
「無私の人」「法の人」である諸葛亮も人間。結果として、自身の過ちをなすりつけた形になることもある、と。

一方、呉に目を転じると…。孫権、欲求不満の様子。蜀漢と魏とが死闘を演じる中、漁夫の利を狙えそうなものですが、
目立った成果が挙げられません。
夷州(台湾とされています)・亶州(九州南部の島とされています)の探索も、原住民を連れ帰っただけに留まります。
そんな中、再び、遼東の公孫氏に目を付けるのですが…。

続きます。

257 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0
続き。
夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応
できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の
失態につながっているようです。
そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい
ます。
さて、これをどうしたものか。皇帝の意向は殲滅ですが、魏にしても海上での戦いは未知の領域。と、なると…。

ここで田豫の名が浮上します。かつて劉備や公孫瓚に仕えたこともある歴戦の名将は、山東半島の突端、成山でひたすら
呉の船団を待ち続けます。
利を得るよりも害を除くことを重視する田豫は、諸将の不満の声を聞き流し、暴風雨にさらされ、成山で難破した呉の船
団をやすやすと捕獲・撃破しました。
正使を捕斬したわけですから、一定の成果を挙げたわけです。
しかし…田豫は、青州刺史・程喜の讒言を受けます。詰めが甘かったため船団が積んでいた財宝類の確保ができなかった、
というのです。
(この時点では程喜は清廉な人物とみられていたとはいえ)曹叡がこの讒言を聞き、田豫の功を軽く見たというのは、何
かいやな感じがします。
この「悪風」、単に呉の船団を襲った暴風雨を示すのではないような。そんな感じがあります。

258 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。
と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。

さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、
劉備と縁があった人でもあります。
謹厳実直な人となりで知られる彼は、優れたバランス感覚の持ち主であるとともに、帝王の言動の重さというものをよく
理解している人でもあり、まさに国家の重鎮というべき存在。
(なぜ史書に伝わっているのか、と言ってしまうと野暮ではあるのですが)彼の諫言は、密かに行われていたといいます。
なぜ密かに、という疑問があるわけですが…個人的には、「王に戯言無し」ということを意識していたのではないか、と
思います。
 個人的な話かつ時事ネタで恐縮ですが、現内閣・与党の面々の言動のひどさを見るにつけ、この言葉がしばしば私の脳
 裏をよぎります。彼らは、これまで一体何を学んだのでしょうか。作中では散々な書かれようだった袁紹・袁術でも、
 この連中よりももっとましではなかったか、と。
帝王の言葉は極めて重く、また、誤りがあっては取り返しがきかないものです。誤りがあれば当然に正されるべきですが、
誤りがあったこと自体、帝王の尊厳を傷つけるもの。表立って諫言することは、帝王の誤りを明らかにしてしまいます。
それゆえ、諫言は密かに行うものである…。これは、臣下としての、彼の美学とでも言うべきものでしょう。

続きます。

259 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0
続き。

陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が
経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。
ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。
宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯
な諫言に打たれ、規模縮小という折衷的な結論に至りました。一方、曹叡の愛娘の葬礼については、結局諫言を聞き入れ
ませんでした。

続いて、もう一人、劉曄です。この人は、皇帝には有用でも国家にとってはどうか、と、一筋縄ではいかない人物として
描かれています。
状況によって正反対の意見を言う(例:群臣の前では蜀漢を討つべきではないと言い、曹叡の前では討つべきと言う)と
なれば、確かにそのようにみえます。
彼はその故に、曹叡に翻弄され、ついには精神を病んで失意のうちに没するという哀しい最期を遂げるわけですが、では
なぜ、時に正反対の意見を言ったのか、となると、そこには深謀遠慮がありました。
「事は密を以って成り語は泄を以って敗る」というわけです。帝王たる者が秘密を軽々しく外に漏らすべきではない、と。
分かる人には分かったのですが、どうも劉曄、社交的な人ではなかったようで、その真意が理解されなかったようです。
曹操の時代であれば、切れ者の軍師として働けたのでしょうが…。

このあたりに、曹叡という人物の思考のあり方がうかがえるようです。聡明な曹叡ではありますが、このような癖のある
人材を生かせなかったという点はややマイナスですね。

続きます。

260 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:16:55 ID:???0
続き。

とはいえ、曹叡は決して凡君・暗君の類ではありません。前述の、愛娘への過剰な哀惜も、国政の運営が大きな過失なく
行われているがゆえの余裕ともいえるわけです。

一方、魏人の目の届かない海上では…密かに、南に向かう船団の姿が。それは、呉に向かう、遼東の使節。彼らは、主・
公孫淵が呉へ臣従する旨を伝えに来たのです。
これを聞いた孫権の喜びようは相当なもので、直ちに大規模な使節団の派遣を決めます(先の夷州・亶州探索の時と同様、
「兵一万」。しかも今回は閣僚級の執金吾まで付きます)。
しかし、群臣達は公孫淵の真意を疑い、こぞって諫言を呈します。公孫淵が信用に値するかも分からないのに…と思えば
当然のことでしょう。それに、先の探索には「人狩り」説もあるように、呉は人口不足気味。そんな中で貴重な兵を一万
も付けるのは…。
しかし、孫権はこれを強行します。何故か。それは、呉・蜀漢・遼東の三方から魏を攻め、疲弊を誘うくらいしか、近い
うちに魏に勝つ方策がないではないか、という孫権独自の考えに基づくものでした。
十九歳で兄の跡を継いだ孫権も、既に五十を過ぎました。曹操・劉備はともに六十代で世を去ったことを思えば、残され
た時間は少なく、しかも彼我の力の差は縮まるどころか開く一方。何か起死回生の一手がないか、と模索する中、突如と
して訪れた好機、と捉えるのも無理からぬところでしょう。
しかし、「自分の発想は(周瑜・魯粛の如き)非凡な臣下にしか分からぬし、実行し得ない」と思っているのだとしたら、
それは奢り。非凡な臣下がいないと思うのであれば、そのままの形で(自分の発想を)実現させるのは不可能だという単
純な真理が見えていないのです。

続きます。

261 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:18:12 ID:???0
続き。

ともあれ、呉の使節団は出港しました。時は春。孫権は上機嫌で送り出しました。その末路がいかなるものになるかも
知らずに。
往路は、まずは無難に進み、無事、遼東に到着しました。しかし、どこか様子が変です。呉に臣従するという割には、
遼東側に謙譲の姿勢が見られないのです。
(呉に臣従する以上、呉の使者の下に立つべき、と言われた公孫淵が)「困ったな。われは人をみあげたことがない」。
と言うあたり、使者を派遣した意図が何なのかさえ分からなくなります。
これには、呉側も疑心を抱き、兵の数を恃んで…と思っていると…「これが、彼らのさいごの夜となった」のです。

…呉も、遼東も、互いに相手を利用することしか考えていなかったということでしょうか。
劉曄の最期のところで、「巧詐は拙誠に如かず」という言葉が出てきました。劉曄については、そう言うのはいささか
酷ではないか、と書かれていましたが、彼らはどうなのでしょうか。
以前の回で、孫権は、諸葛亮の誠実さを賞賛していますが、自身はそのようにはできません。難しいものです。

262 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:44:15 ID:???0
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「張昭」。呉の重鎮・張昭の最後の見せ場(?)があります。

まずは、前回の続きから。正使・張弥の命をうけ、津に残る軍勢への連絡を託された健脚の二人。普通なら、何とか目的を
果たすところですが…ここでは、あっけなく討たれました。
張弥達が気付いた時には、時既に遅し。自らを縛って投降した一部の兵士を除き、ことごとく倒され、首をとられます。

…公孫淵は、はなから、呉に臣従する気はありませんでした。呉が送ってきた使節団と軍勢の人数の規模はいささか想定外
だったとはいえ、その殲滅計画には抜かりはありません。
津に残る軍勢も、警戒はしていましたが、馬の買い付けという役目もある以上、馬市が立つと無視することもできません。
同行してきた商人達を下ろすと…やはり、罠でした。
商人達も飛矢に倒され、将の賀達をはじめ、その殆どが戦死します。生き残れたのは、辛くも津を脱出できたごく一部の者
のみ。

孫権のもくろみは、完全に潰えたのです。先の探索でも、一万の兵の多くは病に倒れ亡くなったといいますから、短期間に
約二万もの兵を失ってしまったのです。
孫権の怒りは凄まじく、復讐戦を行うことは確実と思われました。季節は冬。群臣の気も沈みがちです。
ここで、諫言を呈する者が現れます。薛綜です。

続きます。

263 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:46:21 ID:???0
おっと…今回は4月です。コピペの修正を忘れてました。

続き。

宮城谷作品のファンであれば、「薛」という字に覚えがあるはずです。そう、孟嘗君・田文の領地です。田文の死後、後継者
争いがあり国は滅ぼされましたが、その一族まで消滅したわけではありません。
時が下り、高祖・劉邦が天下を取ったとき、その子孫という兄弟に領地を授けるということになったのですが、二人は互いに
譲り合い、やがて逃げ落ちます。二人は、劉邦への批判者となり、田氏あらため薛氏を名乗るようになります。
薛綜はその子孫の一人です。
 「草原の風」では、陰麗華が管仲の子孫と描かれていましたが、こうしてみると、「○○の末裔」というのは、辿ればある
 ものです。
さて、この薛綜、実はこの少し前まで、孫権の二男・孫慮に付けらていました。若年ながらできのよい孫慮は、幕府を開き、
ある程度の独立した権限を与えられるほどになっていましたが、若くして亡くなったため、中央に戻されていたのです。
 即位後の孫権、どうも運に見放されていますね。夷州・亶州の探索、遼東への使節団は自らの失策ですが、できのよい息子
 に先立たれるというのは、掛け値なしに悲運です。
 孫氏一族のうち、ただ彼のみが長寿に恵まれたのは、果たして幸せなのかどうか。
ともあれ、薛綜の理路整然とした諫言を受け、孫権は、無謀な復讐戦を思いとどまります。

続きます。

264 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:47:14 ID:???0
続き。

諫言自体は、薛綜以外にも、陸遜等、数え切れないほど為されましたが、ひとり、肝心な人物の名がありません、張昭です。
自己嫌悪に陥っている孫権、これにかっときたのか、張昭の屋敷の門外に土を盛ります。「出てくるな」というわけです。
これをみた張昭も負けてはいません。「あの愚かな天子は、このように正言を吐く臣下の口を閉じさせたのだ」と、こちら
は門内に土を盛ります。絶対に自らは出ないという意思表示です。
孫権の方が謝り、土を除けますが、内側からの土に阻まれます。意地の張り合いは張昭の方に軍配が上がりました。という
か、ここにきて、孫権は、張昭の存在の大きさを思い知らされたのです。
既に、呉という国の基礎は固まっています。以前であれば常識を超えた臣下が必要でしたが、今や、常識を踏み外さない臣
下こそが必要なのです。張昭は、そのために欠かせない人物でした。
ここは、後難を恐れた息子達が張昭を連れ出したことで和解が成立。内心はともあれ、二人の関係は修復されました。
それを示すのは、彼への諡。「文」という、最高の諡号が授けられたのです。

続きます。

265 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:47:45 ID:???0
続き。

ここで、曹丕の名が。父・曹操に「武」という諡号を付けたわけですが、事績を、そして、生前の曹操の言動を鑑みれば、
「文」と付けるべきではなかったか。この点からも、徳が薄いと言われています。

さて、呉の使節団を殲滅し、正使・副使らの首を魏に差し出した公孫淵ですが、使者の復命に疑心暗鬼を生じ、魏の使者に
対し、過剰な警戒を示しました。
このことが、魏への心証を大いに悪くしたわけですが…さて、どうなることやら。

266 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:52:17 ID:???0
三国志(2010年05月)

今回のタイトルは「流馬」。いよいよ西暦234年。魏と蜀漢との一大決戦の時が近づきつつあります。

…とその前に。この年、山陽公、すなわち後漢最後の皇帝であった献帝・劉協が逝去しました。既に、曹丕の時に、どの
ような礼をもってするか決められていたようで、粛々と葬礼が執り行われました。後嗣は嫡孫。劉協の享年が五十四です
から、成人していたかどうかは分かりませんが…ともあれ、山陽公の家は、この後も続きます。

この何回かは、主に遼東情勢が書かれていましたが、この間、蜀漢はどうしていたかというと…ひたすら力を蓄えること
に専念していたようです。過去の出師は、その多くが兵糧不足のために撤退に追い込まれたことから、三年がかりで充分
な備蓄が為されました。
その一方で、諸葛亮自ら兵の訓練に当たります。第一回の出師の時からすると、将兵とも、見違えるほどの成長を遂げた
のです。
第一回の出師の時点では凡将だった諸葛亮が、今回は、将兵を手足の如く動かせる名将と呼ばれるほどになっています。
そして、その成長は、単に自身の能力だけではありません。人材を使うことにも目が向くようになっているのです。

この頃、劉冑なる人物が叛乱を起こします。これまでなら諸葛亮自ら赴くことも考えられたところですが、このことを
知った諸葛亮は、馬忠を遣わすこととしました。
馬忠、字は徳信。もとの姓名は狐篤(狐は母方の姓)。姓名とも変わったという珍しい経歴を持つ人物です。

267 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:53:32 ID:???0
続き。
馬忠が中央に知られたのは、上司の閻芝の命を受け、兵五千を率いて劉備の救援に赴いた時のこと。この時劉備は、黄
権を失ってしまったが狐篤を得たと喜んだといいます(ところで、閻芝はどうだったんでしょう)。
行政官としては叛乱が鎮定されてほどない郡をみごとに治め、将としてもそつのない馬忠は、まさに文武兼備。諸葛亮
にも気に入られ、文武の職を歴任します。

人材の重要性を感じる諸葛亮。それは、馬忠にも当てはまります。この時、馬忠の配下にいたのが、張嶷。若かりし時
の話から、胆力があり武勇に秀でたことがうかがえますが、その軍事的才能には目を見張るものがあります。
別の叛乱の際には、馬忠をして「われがゆくまでもない」と丸投げされてみごと鎮定に成功します。
こうしてみると、蜀漢にも、それなりに人材が出てきていることがうかがえます。戦う体制が整い、魏に勝てるという
確信がある。物語的には、盛り上がる展開です。

いわば満を持した状態で蜀漢が動き始めたことを知った曹叡は、珍しく不安を覚えます。明らかに、これまでと異なる
動きを見せている蜀漢。こたびの戦いの重要性は、双方とも理解しています。
曹叡は、司馬懿に迎撃を命じますが、「急がずともよい」と付け加えます。

268 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:54:26 ID:???0
続き。
当然、司馬懿もそのあたりのことは承知しています。次は充分な兵糧を準備してから動くだろうから…三年ほど後だな、
という見立てはおおむね的中しました。ただ、この間に魏がしたことは、迎撃体制の構築でした。
蜀漢が動くのに応じて…ですから、どうしても受身の形になります。

戦いに赴く司馬懿の目に、鳥の群れが映ります。「往時、鳥は天帝の使いであったな」。この鳥達は何を意味している
のでしょうか。それは、まだ分かりません。

互いに経験を積んできた諸葛亮と司馬懿は、戦い方もものの考え方もよく似ていますが、一つ異なる点があります。
「同じ将のもとで兵が成長するか」ということです。
諸葛亮の率いる兵は、街停の頃が幼児なら今は成人というほどに成長しています(例として挙げられているのが呉起や
白起。史上有数の名将の名がここで挙げられています)。一方、司馬懿にはそのような意識はありません。
ただ、そのような例があることは理解しています。
呉の兵は、周瑜が生きていた頃より弱い(策に頼りすぎているため策を破られると弱い)のではないか。蜀漢の兵は、
そのようなことはあるまい。司馬懿にとっても、こたびの戦いの持つ意味は重いのです。

269 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:55:06 ID:???0
続き。
蜀漢の軍勢が停止します。これは、野戦で魏との決戦をしようということか。何のひねりもないだけに、かえってその
意図が読めません。
魏の諸将は、打って出ない蜀漢を嘲笑しますが、この沈黙の故、様々な思索が巡らされます。

ついに、魏軍が動きました。郭淮を北に派遣し万一の事態(西方との交通の遮断)に備えたのです。
この時―蜀漢も動きました。北の郭淮に攻撃を仕掛けたかと思うと、返す刀で東に陣取る司馬懿にも攻めかかってきた
のです。
みごとな速攻でしたが、戦況は一進一退となります。ここにきて、魏延がサボタージュをしたためです。
かねがね諸葛亮の指揮に不満を抱いていたとはいえ、なぜ、このような大一番で…。

諸葛亮も一度は激怒しますが、そうはいっても魏延の力なくして勝利はない。というわけかどうかは分かりませんが、
この時、先の天子―献帝―の崩御を諸将に告げます。今や、我らのみが正義の軍である、と。
もちろん、魏延もがぜん張り切ります。
しかし、そんな魏延に露骨な嫌悪感を向ける人物がいました。楊儀です。
諸葛亮の信奉者である彼は、勝手な言動がみられる魏延を罵倒します。一方、諸葛亮は、周公旦の故事から、忠臣の
哀しさを語ります。
大勝負のこの時にこのような話が出るあたり、蜀漢の不安材料なわけですが…。

270 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:35:03 ID:???0
三国志(2010年06月)

今回のタイトルは「満寵」。西で諸葛亮と司馬懿との一大決戦が続く一方、東でも動きがあります。

万全の態勢をもって決戦に臨んだ諸葛亮。魏延のやる気がいまいちなのが気になりますが、将兵の練度、士気、兵糧…
どれをとっても負ける要素は見当たらないと確信を持っています。
司馬懿が防戦態勢に入りましたが、最善ではないとはいえ長期戦も望むところ。必ず、魏の方に破綻が生じると余裕を
みせます。

そんな中、呉が動き出したとの報告が。一応、呉にも魏への攻撃を要請していたのですが、さしたる驚きもありません。
はなから呉の戦果など期待していないのです。人をあてにすると(公孫淵をあてにした呉のように)失敗する。そう思う
諸葛亮は、今は亡き劉備との出会いを振り返ります。
布衣に過ぎなかったおのれを丞相にまでしてくれた劉備。その劉備もまた一平民から興った。無から有を為した奇蹟。
「われは奇蹟の立会人であったのか」
現実主義者である諸葛亮にも、感傷的になることがあるのです。

一方、魏との戦いに臨むことになった孫権ですが、どうも気乗りがしない様子。蜀漢が兵糧の備蓄に努めた三年間、呉は
というと、いたずらに兵力と兵糧を空費(夷州・亶州の探索、公孫淵への使者の派遣は、いずれも一万の軍勢を数ヶ月に
わたって運用し、その大半を喪失)していたため、軍を動かすゆとりがなかったのです。
まさに秕政。孫権もその失敗は自覚しているため、蜀漢からの要請に対しても、すぐに兵を出すと言えませんでした。

続きます。

271 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:35:33 ID:???0
続き。
情けない。そう思う孫権ですが、問題はそれだけではありません。どうしても合肥を落とす策が見当たらないのです。
満寵がいまだに南に睨みをきかせている以上、彼に勝たねばならないわけですが、その満寵、いまだ衰えをみせません。

満寵さえいなければ…。孫権以外にもそう思う者はおり、一度は都に召還されます。佳酒を振る舞われますが、大量に
飲んでもその挙止に乱れはなく、衰え無しと判断され、引き続き任にあたることになります(疲れを覚えた満寵が何度
も転任願を出しても、余人をもって代え難しということで、皇帝直々に慰留されます)。
そのため孫権は、十万と号する大軍をもって、かつ、三方から魏領内に侵攻するという、大がかりな作戦を決行します
(孫権自身が合肥を攻める軍勢を率います)。
この軍の運用自体はなかなかのものでしたが、何せ相手は百戦錬磨の満寵です。読まれている…どころか、これを逆手
にとって孫権を殺せないか、と奇策(兵力の少ない合肥新城をあえて放棄してさらに侵攻させ挟撃する)を考える余裕
さえあります。
さすがにこれは危険すぎるとして却下されましたが、単に孫権を撃退するだけならそんな策を使うまでもない、という
わけですから、戦う前から、呉は劣勢におかれていると言えます。
この時、少なからぬ魏の将兵が休暇中だったので、兵力的な差はかなりのものがあったのですが…。
続きます。

272 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:36:48 ID:???0
続き。
合肥新城、と書きましたが、この城は、満寵自身の献策によって移転したもの。当然、容易には落とせません(だから
こそ、あえてそれを放棄するという奇策に対して、曹叡は危険すぎるという判断をしたわけです)。
それゆえ、孫権は大型の攻城兵器を用意させますが、完成までには時間がかかります。そこを、満寵に付け込まれます。
われは張遼将軍には及ばぬが…などと謙遜しつつも、少数の手勢を用いての夜襲はみごと成功。攻城兵器は焼け落ち、
さらに孫権の甥・孫泰をも倒します。
…正直、皇帝の甥がこんな形で戦死というのは、予想外でした。

孫権の怒りは凄まじく、苛烈な攻撃が続きますが、満寵、そして合肥新城の守将・張頴は冷静にこれに対処。そうこう
しているうちに曹叡自らが親征を行うとの知らせが入り、さらにそれを裏付ける魏兵(実は先遣隊)の登場に、孫権の
戦意はすっかり喪失。結局、戦果を挙げることなく軍を退くこととなりました。
仏教の庇護者でもある孫権には、独特の諦観とでもいうべきものがあるようです。

西部戦線は司馬懿に任せておけば問題ない。孫権の遠征も、曹叡にしばしの休息を与えただけに終わったと言えるよう
です。孫権の軍事的センスのなさも、ここまで来ると相当なもの。満寵は、孫権を殺す機会を失ったのではないか、と
残念がっていますが、案外、これで良かったのかも(ここで孫権が亡くなった場合、孫登がすみやかに帝位を継承した
はずですから、後のごたごたもなかったのかも)知れません。
ただ、陸遜・諸葛瑾の軍は、この時点では孫権の撤退を知りません。さて、どうなる…?

273 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:45:51 ID:???0
三国志(2010年07月)

今回のタイトルは「秋風」。ついに、その時が来ました。

まずは、孫権による合肥攻略が失敗したところの続きから。中軍を率いる孫権がさっさと撤退してしまったため、東軍・
西軍もまた、撤退を余儀なくされます(最も大きい中軍が真っ先に撤退してしまっては戦略も何もありません)。
東軍を率いる孫韶は、齢十七でおじの後を継ぎ、長年にわたって国境地帯を守り抜いてきた名将。彼我の力を正しく把握
し、そつのない戦いのできる人物ですが、ここでは特に見せ場はありません。
一方、西軍は、当代屈指の名将・陸遜が率いているだけあって敵中深く侵入することに成功していましたが、これがあだ
となり、孤立状態に陥ります。
とはいえ、主将の陸遜も、副将の諸葛瑾も、取り乱すことはありません。おのが知略への自信と、学問によって培われた
胆力が、冷静な判断力を保たせているのです。ここで慌てて撤退すれば、それこそ敵の思うつぼになるということは承知
しています。ここは、策をもって粛々と撤退すべし。
陸遜が攻めかかるとみせて魏軍に迎撃態勢をとらせると、諸葛瑾が動かしていた軍船に素早く上船。攻撃がなかったこと
にほっとした魏軍は追撃態勢に入るのが遅れたため、難なく撤退に成功します。
見せ場はなかったとはいえ、大きな損害もなく撤退に成功したわけですが、陸遜には満たされないものが残ります。軍功
が挙げられなかったことに物足りなさを感じること自体は分かるのですが…。

続きます。

274 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:46:52 ID:???0
続き。
長江を下る陸遜は、突如、狩りをしようと言いだします。しかし、まだ呉領内には入っていません。何を狩るというの
でしょうか。
…狩りというのは、魏領である江夏の諸県を襲撃することでした。特に石陽のそれは、城外に市が立って賑わっていた
ため、多くの庶民を巻き込む惨いものとなりました。
結果、少なからぬ数の捕虜を得ましたし、襲撃後の慰撫もあって投降する者も出たことから、一定の戦果を挙げたとは
いえるのですが…後世の史家たる裴松之は、これを悪行であると批判します。
 個人的には、裴松之の批判に同意。天下統一を掲げる勢力が同じ天下に属する非戦闘員を虐殺するのは、非道の行い
 としか言いようがありません。戦略的にもこれといった意義がないだけに、擁護の余地もありません。
 とはいえ、このことと後の悲劇との関連性は、いわゆる春秋の筆法以上のものではないでしょうね。孫権自身、こう
 いう行いに倫理的嫌悪感を覚えるということもなさそうですし。
一方、諸葛亮は、そのようなことはしなかったようです。将帥としての力量は陸遜に劣りますが、為政者としての格は
明らかに諸葛亮が勝ります。

続きます。

275 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:48:02 ID:???0
続き。
諸葛亮と司馬懿の決戦は、完全に膠着状態。互いに負けない自信はありますが、うかつには動けません。蜀漢の全権を
握る諸葛亮はいくらでも待てますが、司馬懿はどうなのでしょうか。
…こちらも、いくらでも待てる状態でした。皇帝・曹叡自身が、決戦を急ぐ必要はないと判断していたからです。また、
使者として派遣された辛毗も、的確な戦略眼を持った人物ですから、ここは動くべきではない、ということを認識して
います。
諸葛亮が司馬懿に巾幗を贈り、司馬懿がこれに激昂したというのも、将兵の士気を保つため以上のものではありません。
そんなこんなで数ヶ月が経過したのですが、秋、八月。諸葛亮が体調を崩します。

食欲不振から始まって粥くらいしか食べられなくなり、やがて病臥。余りにも早い症状の悪化は、スキルス胃癌あたり
を思わせますが、詳細は分かりません。
丞相病む。この急報が成都にもたらされると、宮中は震撼します。特に皇帝・劉禅の取り乱しようは相当なものがあり、
直ちに李福が見舞の使者として遣わされます。
全権を握る丞相・諸葛亮を失ったら、蜀漢はどうなるのか。即位以来、ずっと政務を任せきりにしていた劉禅には為す
すべがありません。曹叡と劉禅。年齢的には近い二人ですが、その力量は天地ほども異なります。

続きます。

276 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:49:11 ID:???0
続き。
丞相が重体に陥るまで、側近どもは何をしていたのか。丞相はまだ五十四歳。まだ二十年は働いていただかねばならぬ
というに…。軽い不快の念を抱く李福と面会した諸葛亮は、つとめて気丈に振る舞います。
体調は悪そうだが…と思いつついったん帰路についた李福ですが、側近たちの暗い表情を思いだし、直ちに取って返し
ました。丞相が再起できない、となると…
「どなたに後を継がせますか」
眼前にいる諸葛亮の死後のことを問わねばなりません。さまざまな職務をそつなくこなしてきた李福ですが、この勤め
は、その生涯で最も重要で、かつ辛いものとなったでしょう。
「公琰(蒋琬)がよい」
「その後は…」
「文偉(費禕)」
後事を託せる偉材が二人もいると喜ぶべきか、二人しかいないと悲しむべきか。ともあれ、諸葛亮に勝る者はいないの
です。

そして…

277 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:44:51 ID:???0
三国志(2010年08月)


今回のタイトルは「孔明」。そのものずばり、の回です。

蜀漢の建興十二(西暦234)年八月。陣中に星が落ち…諸葛亮が薨じました。享年五十四。前回、体調を崩したのが
八月とありましたから、諸葛亮を襲った病魔は、顕在化してから一月足らずで彼を死に至らしめたことになります。
ただ、諸葛亮が何日に亡くなったかは、分からないようです。記録が不十分なこともありますし、全権を掌握する丞相
の死は蜀漢の最高機密でもありますので、それを知る者は、この時蜀漢の陣中にあった数名のみ。

その一人・費禕は、あらためて丞相・諸葛亮の仕事ぶりを振り返ります。常に細やかな目配りを怠らなかったその姿は、
まさに為政者の見本と言うべきもの(ただし、必然的に命を削るような激務が伴います)。
軍事においてもそれは当てはまり、蜀漢の軍紀は厳格そのもの。敵地の住民とも信頼関係を築くなど、王者の軍と言う
べきものにまで鍛え上げました。
ただ、それゆえ、奇策はなく、決定的な勝利も得られなかったというジレンマが。緒戦での失敗がここまで響いたこと
は否めません。
 「細やかな〜」とくると、蒼天での劉馥が想い起こされます。諸葛亮は、どこで、このような政治姿勢を培ったので
 しょうか。何かで「最も成功した法家」と言われていましたが…。

続きます。

278 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:45:51 ID:???0
続き。

遺命により、撤退することは決定しています。楊儀が指揮を執り、費禕・姜維が補佐します。後拒は魏延。能力的には
何の問題もない面々ですが、それ以外のことで問題があります。
「楊儀と仲の悪く、かつ、戦意旺盛な魏延が、楊儀の指揮下で撤退することに同意するか」ということです。
ここは、楊儀・魏延の両者とまずまずの関係を築いている費禕が、魏延に、諸葛亮の遺命を説明することになります。

費禕はかなり有能な人物ですが、寛容な(脇が甘いとも言える)ところがあるため、魏延に対しても、悪感情は持って
いません(緒戦が〜と言っていることから、魏延の策に理があったことを認めていることが伺えます)。
ですが、この使命は、色々な意味で気の重いものとなりました。
丞相・諸葛亮を喪ったとはいえ、ここまでの戦況は、決して悪いものではありません。このような状況下では、楊儀と
の仲が〜という以前に、一戦を望む魏延を説得することは、かなり難しいのです。
 実際、純軍事的な視点からみると、ここで慌てて撤退すると壊滅的な被害を受ける恐れもあります。むしろ、異変を
 悟られないうちに一撃くれてやった方が効果があったかも知れません。
魏延は歴戦の武人。緒戦において長安急襲を提案したように戦術的・戦略的視野もそれなりに持っています。一戦する
ことの意義を説かれると、その威厳とあいまって、説き伏せられる恐れがあるのです。

続きます。

279 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:46:47 ID:???0
続き。

はたして、恐れていた通りの展開に。たとえ魏延の威厳に気圧されたためとはいえ、費禕は、魏延が魏軍と一戦する
ことに同意してしまったのです。
直ちに本陣に戻り、証拠となる文書は破棄したものの、署名したという事実は厳然としてあります。
こうなると、事は急を要します。本来であれば、異変を悟られないよう、粛々と撤退を開始するところですが、諸葛
亮の死を伏せたまま、直ちに撤退を開始せねばならないのです。
本陣の異変に魏延も気付き、楊儀の退路を塞ごうとします。楊儀が指揮する本隊は、前後に敵がいる形になりました。

一方、蜀漢の軍勢が撤退したことに気付いた魏軍は、その本陣跡を検分し、(楊儀が慌てて撤退したために処分でき
なかった)兵糧や文書を発見します。
司馬懿は、それらの文書から垣間見える諸葛亮の行政能力をみて、「天下の奇才」と感嘆するとともに、その死を確
信します。
今、追撃すれば勝てる。司馬懿ならずとも、そう判断することでしょう。

続きます。

280 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:48:00 ID:???0
続き。

魏軍は追撃を開始します(ただし、辛毗は、まだ諸葛亮の死に半信半疑ということもあってか追撃には慎重)。途中、
はまびしを踏んだ将兵が痛がるので簡易な下駄を履いた兵を先頭に立てるという奇観もありますが、このまま蜀の地に
入りそうな勢いを示します。

魏延と魏軍に挟まれた格好になる楊儀は半狂乱。しかし、まずは丞相の棺を守らねばなりません。姜維に叱咤されて我
にかえった楊儀は、魏軍を迎撃。みごと撃退します。
もっとも、狭隘な場所での衝突でしたから、魏軍の損害自体は大したことはありません。最終的に魏軍が撤退したのは、
辛毗の指摘によるものでした。
 陛下が長安まで来ておられるのであれば蜀の地に踏み入ってもよかろうが、いま陛下は南方におられる。陛下に良い
 ことも悪いことも言上できる者は、ここから遠くにいるということよ。
曹叡自身は優秀な部類の帝王ですが、無謬の存在ではあり得ません。その近くに、司馬懿に悪意を持つ者がいれば…。
こういうことも考えながら身を処する必要がある、ということです。
このような指摘をしてみせるあたり、辛毗は、司馬懿に悪意は持っていないようです。

これで、後ろの敵は心配しなくてもよくなりました。後は、魏延をどうするか、です。

続きます。

281 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:48:51 ID:???0
続き。

無論、魏延とて蜀漢への忠誠は持ち合わせています。我が討たんとするは楊儀のみ。これは謀反にあらず。そのような
文言の文書を都へ送り、自身の正当性を訴えます。
しかし…軍事的観点からはともかく、政治的観点においては、丞相の後継人事という問題もある以上、戦闘続行はあり
えないことから、都にいる蒋琬達は、楊儀側が正しい(諸葛亮の遺命に従っている)と判断します。
よって、楊儀側に、王平率いる援軍が送られることとなります。
王平の一喝により、魏延の軍勢は崩壊。楊儀はともかく、蜀漢において諸葛亮に背くということはできないのです。
再起を図った魏延ですが、追撃してきた馬岱に斬られ、あえない最期を遂げます。

諸葛亮は魏延を持てあました。そこに諸葛亮の限界があったといえるのですが、前述の姜維や王平達の奮闘にみられる
ように、諸葛亮に見出され評価された恩義に報いようとする者達がいたこともまた事実。
その芳名は、時代を超え、国を超え、はては海を越え…。

さて、無事撤退に成功した楊儀ですが、どうやら重大な勘違いをしている模様。はて…。

蛇足:「三国志」の方はまだまだ続くとはいえ、一つの山場が過ぎた感がありますが、「湖底の城」は、そろそろ新展開
   がありそうな終わり方でした。

282 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:18:31 ID:???0
三国志(2010年09月)


今回のタイトルは「増築」。星落秋風五丈原の次の回にしては…と思うタイトルですが、ちゃんと意味があります。

まずは、諸葛亮の死後の蜀漢の情勢が語られます。
職務怠慢を咎められて失脚した李平(李厳)は、これで自らの復権が無くなったと悟り、悲嘆の余り昏倒し、ほどなく
世を去ります。
暴言が咎められて失脚した廖立は、蜀漢の衰亡が遠くないことを思いつつ、配所で亡くなります。
彼らは、非常に癖が強いとはいえ、優秀な人材です。その彼らが、一度は対立した人物の死に対して、これほどまでに
嘆き悲しんだところに、諸葛亮という人物の器量が垣間見えます。

また、宮中においては、悲嘆とともに言い知れぬ不安が漂います。諸葛亮の存命中は、蜀漢の全権が彼の下に集中して
いたため、政務全般が一元的に、かつ円滑に動いていたわけですが、その根幹が崩れたわけですから、不安を抱くのも
当然でしょう。
何より、皇帝・劉禅自身がその不安の中に居ました。彼は、政務全般を諸葛亮に丸投げしていたわけですから、即位後
十年以上経過しているのも関わらず、政治は全くの素人。一歩間違えば、たちまち亡国の危機です。
ただ、救いは、諸葛亮の遺命が明確であったこと。蒋琬が尚書令となり、事実上の後継者として、以降の蜀漢の政務を
総攬することとなりました。遺命通りの人事なので、本来であれば全く問題ないはずなのですが…

続きます。

283 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:19:56 ID:???0
続き。
この人事に不満を抱く者がいました。楊儀です。

先の撤退戦の指揮をとり、我こそは…と自負していたのですが、ポスト諸葛亮体制における彼の地位は、いわば閑職。
占いの卦は、「今はしばし雌伏の時」といった感じなのですが、この現実を受け入れられず、不満の塊となります。
(一応軍師という肩書なので、平時にあっては〜ということだと思うのですが…)
その憤懣が、費禕が慰問に訪れた際、爆発します。

あの時…

これを聞いた費禕に戦慄が走ります。それは、謀反を疑われても仕方がない、というくらいの暴言。直ちに経緯が上表
されます(しかし、費禕はよくトラブルに巻き込まれますね)。
上表を読んだ劉禅は困惑します。喜怒哀楽の感情のうち怒が欠落しているとまで言われている劉禅ですから、怒声こそ
出しませんが、快いものではありませんし、何より、かような暴言を放置しては国家が成り立ちません。
結局、楊儀は解任され、配流されます。
ますます怒り狂った楊儀は、火を吐くような暴言を撒き散らし、ついに罪に問われることとなり、自害して果てます。

続きます。

284 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:21:49 ID:???0
続き。

楊儀の自滅は、実は、彼が嫌った魏延と同種のものでした。有能ではあれど、己の狭量のため、他者と協調できなかった
ことが、破滅につながったのです。
ともあれ、彼らのような人材を生かしきれなかった蜀漢には、衰退の兆しが…という具合です。

一方、魏の方ですが…諸葛亮の死に対して安堵感が漂います。
魏からみた蜀漢は、存亡にかかわるほどではないとはいえ、うっとうしい存在でした。ひとたび戦いとなると、数万の
大軍を数ヶ月にわたって貼り付けなければならず、しかも、目立った成果が上がらないのです。
諸葛亮の死によって、ひとまずそれがなくなったわけですから、安堵するのも無理からぬところ。
…そのせいかどうか分かりませんが、この頃、魏では重臣の他界が相次ぎます。結果として、司馬懿の存在感が増して
いくことになります。

蜀漢・呉とも、じり貧状態。聡明な曹叡にはそのことが手に取るように分かります。それに安心したか、宮殿の増築が
相次いで行われるようになります。楊阜などの諫言がありますが、こればかりは止まりません。
魏の国力を見せつける等の意味はあるとはいえ、ここまで増築に熱を挙げたのはなぜか。そこには、ある喪失からきた
所有欲があるのではないか、と。

続きます。

285 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:25:49 ID:???0
続き。

曹叡が喪失したもの。それは、母でした。そんな中、実母・甄氏の死について上奏する者が現れます(これが事実で
あれば、何者かの策謀があったということになります)。
「この皇帝は、男には優しいが女には厳しい」。甄氏の死によって皇后となり、あわせて曹叡の義母となった郭氏は、
曹叡をそう見ました。
その聡明さをもって曹丕に深く信頼された郭氏の見立ては正しかったのですが、それは、自身にも向けられることに
なろうとは…。

郭氏と曹叡の関係は、おおむね良好でした。しかし、この上奏があってから、曹叡が郭氏を見る目が変わってきます。
「我が母を殺したのはあなただ」
たとえ最終的な判断は曹丕が行ったとはいえ、郭氏がそう仕向けたのではないか。曹叡の、郭氏に対する言動から、
そんな黒い情念が漂ってくるようになりました。曹叡の憎悪に慄いた郭氏は倒れ、ほどなく亡くなります。

ただ、いざ郭氏が亡くなると、その憎悪もきれいさっぱりと無くなりました(追悼もきちんとしているし、郭氏の
一族は引き続き厚遇されている)。それが帝王の資質と言えばそうなのかも知れませんが…。

ともあれ、聡明な曹叡がみせた影の部分。これが魏にいかなる影響をもたらすのか。文章表現以上に含みが感じられる
ように思えます。

286 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:07:40 ID:???0
三国志(2010年10月)

今回のタイトルは「燕王」。遼東情勢が一気に緊迫してきました。

魏の元号は、青龍から景初に変わりました。この間、蜀漢・呉とも大きな動きはなく、曹叡は、宮殿の造営に専念…と
いう具合です。
まだ統一も為されていない(民の軍役等の負担は続いている)のに宮殿を壮麗にするのはいかがなものか、という諫言
はいくつも出ているのですが、曹叡はこれに対し、処罰はしないものの聞き入れもしません。
諫言に対し処罰することもあった曹丕に比べると、処罰がないだけましではあるのですが、やや独善の傾向が。

とりあえず、国境を脅かす勢力がないと見極めた曹叡は、ここで、遼東に目を向けます。先に、呉の使者を斬って首を
送ることで魏への忠誠を見せたとはいえ、その後の対応には問題があったし、何より、領内の半独立政権の存在は、魏
としては好ましいものではありません。いずれは滅ぼすべき存在である、とみます。

しかし、遼東は、魏にとって脅威というほどの存在ではありません。今は動きがないとはいえ、魏にとっては、蜀漢・
呉こそが脅威と考える諸臣にとっては、曹叡の判断は、いわば本末転倒。
またしても、多くの諫言があがってきます。

ここで、衛臻の名が。かつて曹操にいち早く協力の手を差し伸べた衛茲の子である彼は、曹氏三代に渡って貴臣として
遇された特別な人物です。その彼の諫言も、結局は受け入れられず、ついに、毌丘倹に(事実上の)公孫淵討伐の命が
下ります。

続きます。

287 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:08:33 ID:???0
続き。

毌丘倹は、この時点では幽州刺史。長く中央の官位を歴任した後でのこの人事は、一見左遷のように見えますが、実は
曹叡の信任は揺らいでいません。幽州刺史になったのは、いわば、公孫淵討伐の殊勲を挙げさせようとした配慮。
そのことが分かっているだけに、毌丘倹はがぜん張り切ります。

魏軍迫る。この知らせを聞いた公孫淵は煩悶します。この時点での遼東は、外交的にも孤立しており、勝ち目はまるで
ありません。しかし、ここで降ると、たとえ貴族として遇されるとしても、遼東の地から去らねばなりません。
父祖が守り抜いてきたこの地で斃れるか、この地を捨てて富貴を保つか…。
そして、ついに、戦うことを決断します。

魏の使者を取り逃がしたため、奇襲という手は使えません。魏軍と遼東軍は、真っ向から激突します。魏軍の弩の威力
は凄まじく、遼東の騎兵は次々に斃れますが、公孫淵は無心に戦い続け、戦況は膠着状態となりました。
ここは長期戦に持ち込むべし、とみた毌丘倹は、いったん退きます。しかし、ここから状況は好転することなく、つい
に撤退命令が出されます。
ここは、遼東が守り切りました。毌丘倹と公孫淵。今回の描かれ方をみると、ともにひとかどの将帥であると言えるの
ですが、どこか決め手に欠けるように見受けられます。

続きます。

288 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:09:10 ID:???0
続き。

何とか守り切った公孫淵。しかし、これで安心というわけにはいきません。遠からず、次の出兵があることは間違い
ないからです。兵力も増えるだろうし、将帥も、さらに上級の人物が充てられることは確実。勝てる要素は皆無なの
です。
ここで、公孫淵は、必死の外交攻勢に出ます。その使者は、呉にも派遣されました。

呉に派遣された使者の名は伝わっていませんが、その勇気は讃えられて然るべきでしょう。なにしろ遼東は、ほんの
数年前に、呉の使者(及びその軍勢)を殺害したという前科があります。行けば殺されることは必至(それもかなり
残虐に殺される可能性大)。かといって、行かなければ、そして、行っても成果がない場合は、やはり殺されます。
とんでもない無茶振りですが…この使者は、この困難な使命をやり遂げました。
ただ、呉も、遼東を許したわけではありません。遼東は、もはや呉を欺く余裕もない。そう、見極められたがゆえの
対応でした。
兵を出すと言ったものの、それは、あわよくば遼東を征する為の兵。いずれにしても、遼東の命運は、風前の灯なの
です。

そして、曹叡は、翌年の再出兵を決めます。


追記。

実は、今回、呉は動いています。朱然に兵を授け、荊州を攻めさせたのです。叔父の朱治の養子となり、孫権の学友
でもあった朱然は、呉の貴臣。ここまで多くの手柄を挙げてきた彼に、孫権は、大手柄を挙げさせたいと思ったので
しょうが…ここでは、大敗を喫します(※ただし、朱然伝では勝ったように書かれている)。
関羽や曹真、張郃といった大物相手に、寡兵でよく戦ってきた朱然が、胡質(荊州刺史だし伝もあるので決して無名
ではないのですが、先に名の挙がった諸将に比べると地味)に敗れるというのも、不思議なものです。

289 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:34:35 ID:???0
今回のタイトルは「長雨」。この長雨が止んだ時、それが…。

今回は、魏の皇后達の話から始まります。曹操の正室・卞氏は大皇太后として天寿を全うしましたが、以降の皇后に
ついては、というと、悲劇的な末路を辿るケースが相次いでいます。
曹丕の皇后であった甄氏は死を賜り、その後皇后となった郭氏は、曹叡(からの心理的な圧力)によって崩じます。
多くの面において父に勝る曹叡ですが、こと皇后達への扱いについては、さらに性質が悪いようです。

曹叡は、まだ王だった頃に、虞氏という女性を娶りました。本来であれば、彼女がそのまま皇后になるはずでしたが、
そうなりませんでした。曹叡の寵愛は毛氏に移り、彼女が皇后に立てられたためです。
激怒した虞氏は、卞氏に罵詈雑言を投げつけ、宮中を去ります。夫の祖母であり、国母ともいうべき女性にそのよう
な暴言を吐くあたり、曹叡が嫌ったのも分かるのですが、彼女の言葉がまんざら的外れでもなかった、という結末に
なろうとは…。

皇后となった毛氏は、男子を産むことはありませんでしたが、その日々は概ね穏やかなものでした。一族も立身し、
栄華を享受していたのですが…ある頃から、急激に状況が変わってきました。
その原因は、やはり、他の女性でした。曹叡の寵愛は、郭氏に移っていたのです。毛氏は、必死に情報を集めようと
します。後宮の管理者でもある皇后には相当の権限があります。ですが、その権限は皇帝のそれには及びません。
毛氏の動きに不快感を感じた曹叡は、ある事件をきっかけに、毛氏を賜死させます。

続きます。

290 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:35:22 ID:???0
続き。

内においてはそのようなことがあり、また、築山を築くために大臣達に土を運ばせる(このことは董尋という人物に
強諌された)ということもありました。徐々にですが、曹叡という人物のマイナス面が顕在化しつつあります。

そんな中、ついに、遼東攻略が開始されます。将帥は司馬懿。地位といい、過去の戦歴といい、魏としてはこれ以上
ない人選です。このあたり、曹叡が本気であることがうかがえます。
出発にあたっての曹叡と司馬懿のやりとり一つみても、遼東攻略は、既に確実なものといえます(往還、戦闘、休息
を併せて一年と明言)。
既に絶体絶命の公孫淵。取り得る最善の策は「城を捨てて逃げる(その後、野にあって遊撃戦を展開する)」こと。
しかし、先に呉の使者を騙し討ちにした手口をみると、「損して得を取る」ことはできないであろう、と看破されて
います。次善の策は「遼水を挟み総力を挙げて迎撃する」こと。恐らくこの策を取ってくるだろうから…それを封じ
れば、下策「籠城すること」しか選択肢がなくなる、と司馬懿はみます。
遠征軍の司令官たる者はこうでなくてはならぬ。曹叡は、司馬懿の説明を満足げに聞きます。

いざ出発。戦地に赴く司馬懿は、ふと己のことを思います。今や軍の最高位たる大尉の任に就き、皇帝からは絶対の
信任を得ている。敵は弱小だが、その討滅は皇帝の宿願であり、それを為した暁にはこの上ない栄誉を得るであろう
…。今こそ至福のときではないか、と。
とはいえ、禍福はあざなえる縄の如しともいいます。将帥たる者は、最悪の事態をも常に考える必要があるのです。

続きます。

291 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:36:17 ID:???0
続き。

そんな予感のせいばかりでもないでしょうが、司馬懿は、途中(郷里の温県)まで弟と息子を同道させます。温県に
おいては、ひとときの休息をとり、旧交を温めます。この時、彼の胸裏には何が去来したのか。
再び司令官の顔に戻ると、軍は北に進みます。幽州に入ると、もうすぐ戦地です。

遼水の対岸には、予想通り、遼東の防衛ラインが構築されていました。守るは、公孫淵配下の将、楊祚と卑衍。もち
ろん、この程度のことは想定内です。
司馬懿は、胡遵に兵を授け、南から渡河させます。これに敵が釣られたところで、自身は北から渡河。時間差を利用
した、見事な運用です。

まず、敵に一撃くれてやりました。遼東の兵力は、その殆どがここに集まっているはず。なれば…。司馬懿に迷いは
ありません。堅固な防衛ラインには目もくれず、一路襄平を目指します。
楊祚と卑衍は、司馬懿の用兵に翻弄されます。二人には、ここで敵を防ぐという意識が強すぎたため、守るべきもの
の優先順位を誤ったのです。
楊祚が追撃を試みますが、これこそが司馬懿の狙い。あっけなく打ち破られます。二人が襄平に帰還した時には、既
に魏軍が迫っていました。

公孫淵は、この迎撃を卑衍に命じます。

292 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:37:00 ID:???0
続き。

もはや打つ手なし。今はただ戦うのみ。卑衍の決死の覚悟が兵にも伝わったか、この戦いは激戦となります。互いに
策もなく、ただただ死力を尽くした攻防が繰り広げられます。

「これが、遼東国の存亡の分かれ目だな」
となれば己の名は歴史に残る…。これぞ武人の本懐ということか。卑衍は微笑を浮かべます。持てる力の全てを出し
尽くした卑衍は、激戦の果てに、ついに斃れました。

司馬懿は、襄平を包囲します。しかし、ここで長雨に見舞われます。撤兵すべしという論が多数を占めますが、曹叡
と司馬懿には、ここは耐え忍ぶべきということが分かります。
物事には、時宜というものがあります。今こそ、遼東攻略のとき。決して退いてはならないのです。
およそ一月後。ついに雨がやみました。このとき、襄平の内部においては既に食料が尽きています。襄平に籠る公孫
淵に残された選択肢は…。

追記:
本作においては、ちょっとしか出ない武将にも、ちょこちょこと見せ場があります。今回は、卑衍。結果だけみると、
司馬懿の用兵に翻弄され続けて終わったわけですが、決死の覚悟で臨み、ついに斃れたその戦いぶりは、将としては
平凡だったにせよ、実に格好いいものでした。
それと、将帥としての司馬懿の成長ぶり。勝つべくして勝っている、としか言いようがありません。なぜ、今、ここ
で、このように動くのか。それらがきちんと論理的に語られているのが、実に読み応えがあります。

293 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:10:42 ID:???0
三国志(2010年10月)

今回のタイトルは「曹叡」。魏にとって、祝賀すべき年が一転…

いよいよ遼東国の最期の時が来ようとしています。
この時、襄平には多数の民がいました(数十万と書かれています)。彼らの全てが兵であれば司馬懿の軍勢より遙かに
多いのではありますが、大軍が良いとは限らないのは、本作でしばしば書かれるところ。実際、包囲が長引けば、食糧
の問題は避けては通れません。
ここではさらりと書かれるに留まりますが、襄平の内部で飢餓地獄が発生したことは言うまでもありません。

もはや勝ち目無しとみた楊祚が降り、城郭内に魏兵が入ると、公孫淵は、降伏の可能性を模索します。しかし、時既に
遅し。使者として派遣した相国達はあっさり斬られ、司馬懿の恫喝が(矢文で)送られます。慌てた公孫淵は、再度使
者を派遣しますが、これにより、司馬懿は公孫淵という人物が小人であると見切りました(そしてそれは、ひとり公孫
淵に留まらず、襄平の人々にとっても不運でした)。
なぜなら、先の恫喝には、まだ微かな寛容があったからです。そこには、このようなことが書かれていました。
「春秋の昔、鄭伯は楚子に敗れると、肉袒して降った。爵位が上の鄭伯でさえかような恭順を示したのである。いま、
われは上公であり、なんじは一太守に過ぎない。この使者は老いて耄碌していたのでなんじの言葉を誤って伝えたので
あろう」。
もし、公孫淵がかような態度をとって恭順の意を示していたなら、多少の救いがあったでしょう。しかし、それができる
人間であれば、そもそもかような事態には至らないのです。

続きます。

294 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:12:24 ID:???0
おっと、コピペミス。293の書き込みは三国志(2010年12月)です。

続き。

そんな中、星が落ちます。
「あのときは…」。諸葛亮が亡くなった時にもこのようなことがありました。星が落ちるということは、恒久的と思われて
いたものの消滅を意味するのです。ここでは、公孫淵がそうですが…。

城内にまで魏兵が入ると、公孫淵は子とともに脱出を図りますが、ほどなく捕捉され斬られました。ここにおいて、およそ
半世紀にわたって続いた遼東国は消滅しました(叔父の公孫恭は幽閉されていたところを救出される一方、兄の公孫晃は、
連座という形で妻子ともども自殺に追い込まれます)。
遼東国の消滅により、東方から中原へ至ることが可能になりました。このことを見越していたかのように、倭国からの使者
が来訪。いったい、どのようにしてこの情報を得たのか。歴史の不思議が、ここにあります。
※ここでは、倭国とだけ書かれており、「邪馬台国」「卑弥呼」という単語は出てきませんでした。はて…。

さて、首魁たる公孫淵を斬ったわけですが…まだ戦後処理が残っています。ここで司馬懿がまずしたことは…。今であれば
間違いなく虐殺とされることでした。
城内の男子を十五歳を境に分け、年長の者を皆殺しにし、京観(凱旋門の類)を築いたのです。数千人の屍で築かれた凱旋
門…何とも凄惨な光景です。
絶望的な戦いであったにも関わらず、目立った内通者が出なかったことを考えると、遼東国の内政は割合うまくいっていた
ようです。住民がそれを追慕することが無いよう、仕分けたのでしょうか。

続きます。

295 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:12:51 ID:???0
続き。

これ以外にも、遼東国の高官達も殺されています。しかし、それ以外については、概ね寛容をもって対応。年内にかたが
つきました。
その知らせは、洛陽にもたらされ、曹叡は絶賛します。たとえ小国とはいえ一国の併呑に成功した(これにより、少なく
とも父・曹丕の業績を超えた)わけですから、感慨もひとしおだったことでしょう。
前線に立った経験もないのに、優れた戦略眼を持つ曹叡(具体例として、西方の叛乱における郭淮の対応のまずさを的確
に指摘したことが挙げられています)。前回語られたようなマイナス面もあるとはいえ、間違いなく英邁な帝王である彼
であれば、天下統一もあながち夢ではなかったでしょう。しかし…。

十二月。曹叡は病の床に臥しました。月初めに床に臥し、月末には危篤状態に。諸葛亮もそうですが、一月足らずでこれ
ほど病状が悪化するとは、どのような病なのか。
ともかく、自身の死期を悟った曹叡は、後継体制の整備を急ぎます。
帝位は、養子の曹芳に。諸葛亮の如き者がいれば、その者に全権を委ねることもできますが、魏にはいません。さてどう
したものか。…曹叡は、信頼できると判断した者達による集団指導体制(叔父である燕王・曹宇が筆頭)を考えます。
夏候献(不明)、秦朗(曹操の側室・杜氏の連れ子)、曹爽(曹真の子)、曹肇(曹休の子)。いずれも、帝室に近い者
達です。王朝に対する忠誠心はあるとしても、果たして能力的にはどうか(特に秦朗)。それより…

続きます。

296 名前:左平(仮名):2011/01/07(金) 01:00:05 ID:???0
続き。

この人事によって発生する、宮廷内の権力構造の大変動が問題です。事実、この人事に危機感を持った者がいました。
長く皇帝の秘書官的な役割を果たしてきた、劉放・孫資です。
秦朗、曹肇の放言から、自分達を排除しようとする意図をかぎつけた二人は、曹叡に直訴し、詔勅を変更させることに
成功します。それに気付いた曹肇が再度詔勅を変更させますが、ここが勝負どころ、と見極めた劉放・孫資がふたたび
曹叡に訴えかけたことで、決着がつきました。
一日のうちに何回も詔勅が変わるということは、病で判断力が衰弱していることの表れでもあるのでしょうが、曹叡の
本心は、果たしてどのようなものだったのでしょうか。

ともあれ、これにより、上記の五名のうち曹爽以外は失脚。曹爽と司馬懿に、後事が託されることになるわけです。

洛陽に凱旋する中、次々に来訪する使者。そして、そのたびに詔勅の内容が変わる。司馬懿ならずとも、都での変事の
においに気付くことでしょう。急遽、予定を切り上げて、ひとり洛陽に急行します。
曹叡のいる宮殿に駆け込んだ司馬懿。臨終に間に合いました。
司馬懿に涙が。かつての諸葛亮も、このような感じだったのでしょうが、後のことを知っているだけに、複雑な感じが
します。

追記:
病に倒れた時点での曹叡の年齢は三十四歳。翌年(西暦239年)で三十五歳ですから、建安十(205)年生まれと
されています。

297 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:54:30 ID:???0
三国志(2011年01月)

今回のタイトルは「浮華」。三国鼎立となってから十年余り。そろそろ、緩みが出てきたということでしょうか…。

曹叡は、司馬懿を待っていましたかのように崩じました。司馬懿が到着し、彼に後事を託したその日のことです。
「死さえ忍べは引きのばすことができる。朕は君を待っていた」。帝王からこのように言われて感動しない臣下は
いないでしょう。しかし、司馬懿の胸中は複雑です。何しろ、自分とは親子ほども年の離れた若い帝王を送らねば
ならないのですから。
明帝と謚された曹叡は、なかなかの名君でした。戦場を踏まなかったにも関わらず優れた戦略眼を持ち、人材の任
用にも過ちが無く、何より、諫言した臣下を殺さない、優れた自制心の持ち主です。
しかし、自制された鬱屈は、やはりどこかで発散させねばならないのでしょうか。鬱屈を晴らすかのように宮殿の
造営に狂奔したことは、かつての秦始皇帝や前漢武帝に例えられ、批判的に論じられています。

ともあれ、魏は新たな時代に入ることになります。幼弱の新帝を補佐するのは、曹爽と司馬懿の両名。国家の柱石
を担うだけにその封邑も多く、この時曹爽に授けられた封邑は、建国の功臣たる夏候惇や曹仁に授けられたものの
数倍にのぼります。
小心な曹爽は、当初、独断を避け、何事も司馬懿に相談する等、謙譲の姿勢をとりました。司馬懿も謙譲の姿勢を
もって応じたので、まずは穏やかな雰囲気の中のスタートです。
しかし、両雄並び立たず、と言います。当然ながら、二頭体制はよろしくない、と考える者もいるわけです。

続きます。

298 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:55:28 ID:???0
続き。

そう思った丁謐は、曹爽に、その意見を開陳します。彼は、かつての曹操の幸臣・丁斐の子。物怖じしない態度と
読書で培った知識の故、沈毅とみられていた彼の意見には、なるほど一理あります。責任の所在が曖昧なままだと、
大事の際に、迅速な対応ができないということはあります。
もちろん、単に道理だけでなく、帝室たる曹氏一門の利害ということも考慮されています。いずれ、権力は一元化
されるでしょうが、それが司馬懿であったとしたら、彼は曹氏一門をどう扱うか。それに、群臣からの信望のある
司馬懿に大志があれば…。

その意見を容れた曹爽は、司馬懿を実験から遠ざけるよう、手を打ちます。もちろん、何の落ち度もない司馬懿を
降格させることはできませんから、実権のない名誉職に祭り上げるのです。これは、うまくいきました。
司馬懿も、これには何か含むところがあるということは察知しています。しかし、ここでは、特に何もしません。
曹爽とその周りに群がってきた者達を虫に例える嫡子・司馬師に、「なるほど…害虫だな」と言うところをみると、
不快感は持っているわけですが…。
既に齢六十を過ぎた司馬懿。歴史を巨視的にみると、正しい者が最後には勝利するとしても、それは決して容易な
ことではない。そういう、ある種の諦念がみられます。害虫の駆除は、若い司馬師がすべきことである、と。

続きます。

299 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:56:28 ID:???0
続き。

一方、実権を握った曹爽は、自らの体制作りに取りかかります。弟達を諸候にし、発言力を強化するとともに、賢
人と見込んだ者達を集めたのです。
彼らは、なるほど、なかなかの才覚の持ち主です。しかし、文帝・明帝からは「浮華」であるとして遠ざけられて
いたということを、曹爽は、どう思ったのでしょうか。
当初は独断を避けていたのが小心の故であったのなら、明帝の人材任用を見習えば良かったと思うのですが…。

一方、呉の方は、といいますと…。
位にあることが長くなると、緩みが生じる。学問を好んだ孫権は、そのことを知っています。それ故、厳しい政治
をしようと思うのですが、重臣の張昭・顧雍のどちらも、刑罰を緩めるよう説きます。
重臣達の意見を無下に拒むこともできないので、緩めはしたのですが、孫権には、物足りなさがありました。

そんな孫権の目にとまったのが、呂壱でした。相手の地位に関わらずびしびしと取り締まる彼のやり方を、孫権は
気に入り、側近として重用するようになります。
しかし、呂壱は、人には厳しくても己には甘い人間でした。皇帝の寵臣となったのを良いことに、恣意的な処罰を
するようになっていったのです。

続きます。

300 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:57:28 ID:???0
続き。

膂力に富み、謙虚な人となりを評価されて貴臣となった朱拠にもその毒牙は及びました。無実の罪で、彼の部下を
獄死させたのみならず、その部下を憐れんで手厚く葬ったことを、悪意を持って讒言したのです。

このままではいけない。都を離れ、任地にあって軍を統率する陸遜・潘濬は、強い危機感を抱きます。特に潘濬の
憤りには凄まじいものがあり、刺し違える覚悟を持って、都に赴きます。
潘濬は、もとは劉備配下。荊州が孫権の手に落ちた後、劉備への恩義から隠遁していたのを、孫権が礼節を以て迎
えたといういきさつがあり、人一倍、不正を憎む激しさを持った人物です。
心中、やましいものがある呂壱は、潘濬を恐れ、接触を避けました。実際、二人が対面することがあれば、潘濬は
呂壱を斬ろうとしたことでしょう。しかし、これが呂壱の命取りとなりました。

呂壱は、所詮は虎の威を借る狐に過ぎません。彼が皇帝の側にいないとなれば、これまで罪に落される恐怖から口
をつぐんでいた者も、その口を開きます。
そうして、孫権は、初めて己の誤りに気付かされました。これでは、秦の二世皇帝(胡亥)と同じではないか、と。
ほどなく、呂壱は処刑されました。

追記:
今回のタイトルの「浮華」について。作中でこの言葉が使われているのは、曹爽一派に対してなのですが、何と
言うか…それだけでもないように思えます。
呂壱の栄華と破滅。この原因は、明らかに孫権にあります。「(政に)緩みが生じる」というのは、何も刑罰に
限ったことではありません。事の正否を見分け、適切な賞罰が行われることが肝心なわけです。
孫権は、呂壱の、見た目の厳しさにすっかり騙されていたわけですから、正否をみる眼に曇りがあったことは否
めないでしょう。華やか…かどうかはともかく、孫権もまた、浮ついていたのではないでしょうか。
しかし、どちらも、この後のことを想うと…。

301 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:30:30 ID:???0
三国志(2011年02月)

今回のタイトルは「赤烏」。今回は殆どが呉の話ですが、何かもどかしいというか、すっきりしないものがあります。

呂壱の跋扈と失脚。これは、単に呂壱一人の問題なのでしょうか。呉の人々は、そうは思いませんでした。彼が台頭
し得たのは、不完全とはいえ、皇帝・孫権の本音を代弁していたからです。人々は、そこに、孫権の本性を垣間見て、
そして、失望しました。
そんな中、失望することなく己が職務を果たしていた人物として、歩騭の名が挙げられています。ゲーム等では文官
扱いされている彼ですが、その経歴は、なかなかに武張ったものがあります。

戦乱を避けて江南に渡った彼は、常に冷静沈着。生活苦から逃れるため、豪族の食客になろうとした際、いかに粗略
に扱われても立腹することはありませんでした。
やがて呉に仕官した彼に与えられた任務は、蒼梧太守・呉巨の説得。しかし、呉巨に帰順の意思なしとみるや、隙を
ついて斬るという大胆さも持ち合わせています。これを聞いた交州の士燮が帰順し、呉の勢力圏は一気に拡大します。
その後、呉が劉備と戦うことになった際には、荊州南部の鎮定に奔走します。
辺境での務めが長く、中央で腕を振るう機会は余りありませんでしたが、これらの務めを黙々とこなしてきたことが
評価されてか、やがて、軍事面では陸遜に次ぐ地位にまで登ります。

続きます。

302 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:31:51 ID:???0
続き。

このような履歴を持つ彼のことですから、当然、呂壱の重用について、しばしば諫言を行いました。呂壱を信任して
いた孫権は、当初、「あの歩騭まで讒をなすか…」と思うのですが、徐々に、呂壱への過度の信任に疑問を抱くよう
になります(決め手となったのは、前回書かれたとおり潘濬の諫言ですが、歩騭の諫言もなかなかに堪えたと思われ
ます)。

さて、呂壱の件について、孫権には、思うところがありました。呂壱のような悪人を重用したのは、なるほど、己の
落ち度である。しかし、それを諌める者が少なかったのではないか、と。
そこで、重臣達に、国政の諸事について聞いてみたのですが…その返答は、少々期待外れのものとなりました。とは
いえ、それは、重臣達が保身に走ったとかそういう次元の問題ではありません。彼らは、僭越ということを何よりも
恐れていたのです。それは儒教思想の故、とされていますが、政治においては、まっとうな考え方です。

儒教思想の信奉者ではない孫権は、なおも意見を求めるのですが、臣下からすると、我らの意見を聞かなかった陛下
があったではありませんか、と言いたかったでしょう。
ともあれ、兄の後を継いでから約四十年。今や皇帝となった孫権と臣下の間には、徐々にズレが生じています。

そんな様子を知ってか知らずか、太子の孫登は、自分が太子であるが故、狭い世界しか見えなくなりがちであること
に危惧を抱き、歩騭に教えを請うなど、謙虚な姿勢を保ちます。彼が健在である限り、呉の未来は安泰である。呉の
人々はそう思ったことでしょう。

続きます。

303 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:33:17 ID:???0
続き。

さて、そんな中、麒麟が見つかったという知らせがもたらされました。先に、「嘉禾」の発見をもって「嘉禾」と改
元したわけですが、今回は「麒麟」とはせず、自らも目撃した「赤烏」を元号としました。
麒麟が出るような太平の世でもないのに…ということのようですが、臣下の言葉に不信感を持っているような…。

さらに年月は経ち、ついに孫権は六十歳となりました。六十歳を「耳順」ともいいますが、ここでの孫権は、人の、
ではなく、己の心の声に耳を傾けました。「魏に勝ちたい」と。
この頃、魏は幼弱の皇帝(曹芳)と経験の浅い補佐(曹爽)が国の中心となっています。つまり、曹叡の頃に比べ、
隙が生じているわけです。
殷礼という者が、今こそ決戦の時、とばかりに奏上してきたのをみて、孫権は、魏への攻撃を決意します。

しかし、連年の出兵で国力は疲弊していますし、何より、孫権自身が、自ら兵を率いることに疲れています。その
ため、やや中途半端な出兵という感が否めません。
呉軍は、二方面から北上。一方は、皇帝の姻戚でもある全j。もう一方は、学友でもあり信任厚い朱然が率います。

この、朱然の北上が、当時、政治的には逼塞状態にあった司馬懿を救うことになるというのですが、はて…。

304 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:21:21 ID:???0
三国志(2011年03月)

今回のタイトルは「蔣琬」。蜀漢の話が出てくるのは、久しぶりですね。

タイトルは「蔣琬」ですが、まずは、前回の続きから。朱然を迎え撃つは、胡質と、蒲忠という将。まず、蒲忠が
突出したことから、戦況が動きます。
良将・胡質に比べ、将器に劣る(胡質との連携ができていない)蒲忠ですが、まず、要地をおさえるという基本は
できています。で、その先鋒が、何と、朱然の本隊と接触。
両軍とも「まさか、敵がここまで…」という場面でしたが、ここは、朱然の判断が勝りました。
退けば、やられる。覚悟を決めた朱然率いる呉軍の猛攻に、蒲忠の軍勢はガタガタに崩され、潰走。さすがの胡質
も、これでは打つ手がなく、撤退。呉軍は、樊城にまで迫ります。

この知らせを聞いた司馬懿は、直ちに出師を請います。その軍勢を率いるは、もちろん、司馬懿自身です。曹爽は
これを冷ややかにみましたが、彼ほど軽忽ではない弟の曹羲は、このことを、より深刻に捉えました(といっても、
魏の危機、としてではなく、自分たちの危機、としてですが)。
この当時にあって、魏第一の名将・司馬懿が出師を請う以上、勝利は確実。となれば、その名声はますます高まる
こともまた確実。それが、何を意味するか。曹羲には、それが分かるのです。

曹羲は、たとえ兄が魏の実権を掌握しているとはいえ、自分達が司馬懿に勝っているとは思っていません。何しろ、
(主に軍事的な)実績が違います。しかも、それだけではないのです。

続きます。

305 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0
続き。

「あれは、しくじった」

それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能
性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何
を隠そう、司馬懿なのです。
明帝は名君でしたが、宮殿造営に熱狂したのは明らかな失策。それが分かっていた司馬懿は、人夫達を帰郷させて
農事に従事させるべきと説き、それが容れられたのです。魏の人々がこれを喜んだのは言うまでもないでしょう。
曹爽は、なるほど実権を握りはしましたが、人心を得る絶好の機会を逸したのです。
このことを悔やんでいた曹羲は、今回の危機を挽回の好機と見ました。それゆえ、兄が出師すべきと説いたのです
が…曹爽は、これには乗りませんでした。ここで都を離れれば、司馬懿に実権を奪回される、と恐れたからです。

結局、廟議で結論を出そう、ということになりました。

廟議において、司馬懿は、現在の危機について熱弁を振るいます。かつて樊城は、魏最強の将であった曹忠候(曹
仁)が関羽と激戦を繰り広げた地であることからも分かるように、荊州の要衝です。ここを突破されるようなこと
があれば、都・洛陽にまで影響が及ぶ恐れがあるのです。
最初は、何も大傅(司馬懿)おん自らが出られなくても…という雰囲気でしたが、当時の状況を知る者の言葉には
説得力があります。結局、司馬懿自らが出師することに決しました。

続きます。

306 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:24:31 ID:???0
続き。

司馬懿が出てきた。このことは、当然、樊城を攻める朱然にも伝わりました。こうなると、朱然としては、両方に
備えなければならない分、心理的重圧がかかるようになります。呉軍の動きから、速さが消えました。
一方、司馬懿率いる魏軍は悠然としています。こう書くと長期戦(突出している朱然をゆるゆると困窮させる)か
と思われるでしょうが、実は、短期決戦。
というのは、朱然の後方には堅実な諸葛瑾がおり補給には不足しない(ゆえに、長期戦にしても困窮しない)ため。
ここで、司馬懿は、「声で呉軍を退かせてみようか」と言います。一体、どうやって。

「声」。それは、司馬懿の(蜀漢の総力を以て攻めてきた諸葛亮と渡り合い、公孫淵を屠った不敗の将という)名声
…だけではありません。
実は、両軍とも間諜が入っているため、将帥の命令は、ある程度敵軍に伝わっています。司馬懿は、これを利用した
のです。
ただでさえ、魏第一の名将が精鋭を率いてきているのに、さらに決死の士を募って奇襲をかけてくるかも知れない。
しかも、包囲しているとはいえ、樊城にもほぼ無傷の敵軍がいる。朱然の精神は、徐々に乱れてきます。

いつ来るか分からない奇襲に怯えるうち、呉軍は、戦わずして崩壊しました。朱然も、命からがら逃走するという
有様。司馬懿は、またしても大いなる武勲を挙げました。
一方、東の方でも、魏軍が勝利。王淩の猛攻の前に、全jの軍勢が敗走しました。
一方では策多き司馬懿が勝ち、一方では策のない王淩が勝つ。戦いとは、何とも不思議なものです。

この武勲により、司馬懿の名声はますます高まりましたが、それに奢れば破滅を招く、ということを知る司馬懿は
ますます謙譲の姿勢を見せるようになります。

続きます。

307 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:26:12 ID:???0
続き。

さて、話は変わって、蜀漢の方は、と言いますと…。

文字通り、国政の全てを司っていた丞相・諸葛亮亡き後を託されたのは、それまで目立たない存在だった蔣琬でした。
目立たなかったのは、彼が後方支援的な役割を担っていた(そして、その務めを大過なくこなしていた)からですが、
当初は、この人で大丈夫なのか、と不安視もされました。
偉大なる先人の諸葛亮と常に比較される(そして、劣るとみなされる)のですから、割に合わない務めです。しかし、
蔣琬は、そういった無言の重圧にもめげず、淡々と職務に精励し、徐々に人々の信頼を勝ち取りました。

そうして数年が経ち、ようやく、魏との戦いのことを考えられるようになりました。彼は、諸葛亮の戦略をつぶさに
検証し、より効果的な戦略を練ります。雍州攻略(→魏の、西方との連絡を断つ)ばかりではなく、呉と連携して荊
州方面にも軍勢を差し向けられるよう、拠点を漢中から移すべきではないか、と考えたのです。
もっとも、諸葛亮もそうでしたが、蔣琬もまた、蜀漢の全権を司る立場。備えるべきは、魏との戦いばかりではあり
ません。皇帝・劉禅の意向もあり、路線変更は、あくまで漸進的に。費禕や姜維とも、そのあたりの話はしています。
(しかし、費禕との話の中で、魏の雍州刺史・郭淮を「名将ではない」とはまた…)

呉が魏を攻める(ので蜀漢も出師してもらいたい)、という話がきた時、折悪しく蔣琬は療養中。やむを得ず、姜維
が雍州方面に出撃しましたが、これは呉の要請をないがしろにしていないというメッセージ以上のものではないため
大した戦いにはなりませんでした。しかし、この時、呉は出師せず。蜀漢が呉に対して不信感を持ったのは言うまで
もなく、翌年、実際に呉が出師した時には、(蔣琬が療養中であったとはいえ)蜀漢は出師しませんでした。

続きます。

308 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:27:36 ID:???0
続き。

さて、またも話は変わって呉ですが…。

またしても戦果が挙がらなかったことに孫権は落胆したでしょうが、それどころではない事態が起こりました。
太子・孫登が亡くなったのです。
蒲柳の質であることを自覚していた孫登は、そのゆえか、謙虚でかつ人の言葉に耳を傾けるという美質を持って
いました。呉の人々は、この太子であれば、と、呉の未来に希望を抱いていました。それが、崩壊したのです。
新たに、三男の孫和が太子に立てられましたが、彼は、二人の兄(孫登、孫慮)に比べれば、才徳ともに劣って
いるのに加え、父に愛されなくなっていました。そんな中、弟達のうち、四男の孫覇が王に立てられました。
群臣達は、これを、孫覇が特別視されているからでは、と思うようになります。
孫和か、孫覇か。本人の意思とは関わりなく、呉に不穏な空気が…。

悲報は、こればかりではありません。先の敗戦の直後に、諸葛瑾が亡くなったのです。驢馬のエピソード(本作
では、「之驢」と書き足したのは、子の諸葛恪でなく諸葛瑾自身となっています)からも分かるように、彼は、
機知に富むばかりでなく、謙虚で、人を傷つけずに場をまとめるという、優れた調整能力の持ち主でした。
呉は、かけがえのない人物を、立て続けに喪ったのです。

さて、彼には、(弟の養子に出した一名の他に)二人の子がいました。諸葛恪と諸葛融です。才気煥発な諸葛恪
は、孫権に気に入られていましたが、軽忽なところがあり、叔父の諸葛亮にも心配される始末。
一方、諸葛融は遊び好き。もっとも、それゆえか人当たりは良く、任地が比較的平穏なこともあって、乱世らし
からぬのんびりとした生活を愉しんでいました。

続きます。

309 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:28:38 ID:???0
続き。

そんな中、覇気のある諸葛恪は、魏との戦いを申し出ました。その戦略は、まずまず妥当なものであったため、
孫権も承認。再び、戦いとあいなります。
そして、またも司馬懿が…。

追記。
司馬懿の戦いぶりの見事さが際立っています。いかに策が少ないと評価されたとはいえ、朱然は歴戦の将です。
それをあっさりと打ち破るとは…。ついつい、書き込みにも熱が入りました。

310 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:45:54 ID:???0
三国志(2011年04月)

今回のタイトルは「駱谷」。司馬懿と曹爽。二人の力量差がこれ以上ない形で出ました。

孫権の承認を得た諸葛恪は、魏との国境付近に軍を動かします。ここでの彼の動きは、父や叔父に軽忽さを心配
されたとは思えないほど堅実なもの。入念な偵察を行い、重要拠点たる寿春への侵攻に手応えを感じます。

当然、こうなると、魏としても何らかの対応を考えねばなりません。曹羲は、兄の曹爽に出師を勧めますが、曹
爽はというと、どうも気乗り薄。父・曹真の影響もあり、騎馬での戦いには多少の自信のある彼ですが、呉との
戦いとなると水上戦が予想されるため、不得手な戦いをする気がしなかったのです。
「ここで兄上が行かないと、また大傅(司馬懿)が行きますぞ」
司馬懿と諸葛恪とでは、将器の差は明らか。またも司馬懿に名を成さしめたらどうなるか…。曹羲にはかなりの
危機感がありました。が、曹爽には届きません。
悪政を行っているわけではありませんが、浮華の徒を近付け華美に浸っている曹爽には、(特に軍事的な)名声
が欠けています。今回は、それを払拭する絶好の機会だったのですが…。

曹羲の予想通り、廟議において、司馬懿は出師すべきと主張します。策を好む孫権が一軍(諸葛恪)のみで魏を
攻めるとは考えにくい、と慎重論が多かったのですが、司馬懿は、魏の優位を列挙し、出師が決まりました。
その筋道立った説明を聞いた曹羲は、なおのこと、兄が行くべきであった、と悔やみます。

続きます。

311 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:47:04 ID:???0
続き。

彼我の兵力(高位にない諸葛恪が率いる一軍と最高位の司馬懿が率いる大軍)、時期(冬季は水位が下がるため
呉が得意とする水上戦になる可能性は低い)、将の力量…。司馬懿からすると、負ける要素がまるでない、楽な
戦いです。とはいえ、都にある曹爽の動きが気になる今の彼には、ささいな失策も許されません。それだけに、
慎重に軍を動かします。

一方、諸葛恪はというと、またとない機会を得たことにがぜん意気込みます。司馬懿が出てきたことで、魏との
一大決戦が見込まれるからです。
もちろん、自身の率いる一軍のみでは勝ち目はありません。それとなく、孫権自身の出陣を乞うたのですが…
結果は、柴桑に撤退せよ、との命令でした。
一時は出る気になった孫権ですが、今回の戦いは不利という占いが出ると、あっさりやる気をなくしたのです。
意外なところから、孫権の老いが顕現した形となりました。
武功を挙げる機会を逸したことを、諸葛恪は嘆きますが、皇帝の命とあってはどうにもなりません。

かくして、またも司馬懿は、鮮やかな勝利を収めました。諸葛恪に荒らされた南方を慰撫し、農政に気を配る
等、民政にも意を尽くした司馬懿の帰還は、まさに凱旋。魏の第一人者がたれであるか、これ以上ない形で、
示されたわけです。

続きます。

312 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:48:33 ID:???0
続き。

こうなると、曹爽としては面白くありません。そんな中、側近から、耳寄りな情報がもたらされました。蜀漢の
大司馬・蔣琬の病が篤く、軍を動かせない、というのです。
蔣琬の器量は郭淮より上とされています。それなのに、軍を動かさないのは何故か。動きたくとも動けないから
ではないか。そう判断したのです。浮華の徒とはいえ才知はあります。その判断は、おおむね当たっていました。

父・曹真の無念を晴らすという意味でも、騎兵の使える西方で戦えるという意味でも、この情報は、曹爽には魅
力的なものでした。彼は、蜀漢への出師を考えます。
今回は、曹羲は反対しました。西方は、郭淮が大過なく治めており、急ぎ軍を動かさねばならない情勢ではない
こと、蜀漢は未だ乱れていないことが、その理由です。しかし、曹爽は、またしても弟の助言を無視しました。

司馬懿も、この出師には反対しました。が、夏候玄が賛成したことにより、出師が決定しました。夏候玄は、曹
爽に近いとはいえ、浮華の徒とは異なり、人格・見識とも高く評価された人物。その彼が賛成するのであれば…
というわけです。
不要不急の出師です。司馬孚、司馬師といった司馬懿に近い人々はこの出師を批判しますが、決まった以上は、
彼らにも止められません。

続きます。

313 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:50:04 ID:???0
続き。

曹爽達は、蜀漢への侵攻ルートを、これまで先人達(曹操、曹真、司馬懿)が通らなかったところに設定しました。
これまで使われなかったルートゆえ、備えも薄いであろうと判断したのです。
参謀の一人である楊偉はこれに反対します。そこは険しい道が続き、大軍の運用ができないからです。が、未知の
ルートを使うという魅力に抗しきれなかったか、曹爽達は、楊偉の指摘を無視しました。

蔣琬が動けないのであれば、それより劣る者しかいない蜀漢の攻略など…と、曹爽達は敵を侮っていましたが、曹
羲が危惧した通り、蜀漢は、まだ崩れてはいませんでした。人材は、まだ尽きていなかったのです。
最初に魏軍を迎撃したのは王平でした。魏の大軍が予想外のルートから来襲したことにも慌てることなく、地の利
を生かして兵を巧みに動かし、兵力に勝る魏軍を翻弄。
そして費禕。超人的な記憶力と事務処理能力を持った彼は、魏軍の置かれている状況を的確に把握し、敵に全力を
出させないよう、完全包囲を避けつつ、みごと撃退に成功します。

王平の迎撃にあって軍を進められないことに苛立つ魏の軍中にあっては、口論がたびたび起こり、曹爽はそちらに
手を焼く有様。司馬懿からの書状によって危機的状況であることを理解した夏候玄が独断で撤退する等、統率も取
れないまま、いいところなく敗れました。
しかも、徴収された牛馬が多く死んだことで、西方の羌や氐の恨みも買うことになりました。曹爽は、名声を得る
どころか、司馬懿に大きく後れを取ったわけです。さて、これからどうするのか…。

314 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:56:14 ID:???0
国志(2011年05月)

今回のタイトルは「悶死」。何と言うか…序盤の、腐敗した後漢王朝の醜態をみるような、救いのない回です。

二回前に、呉の太子・孫登が亡くなったこと(それをうけ、三男の孫和が新たに立太子されたこと)が書かれて
いましたが、弟達のうち、孫覇一人を王に立て、のみならず、待遇を太子と同じくしたとなると…。
臣下達の間に動揺が生じないわけがありません。当然ながら、心ある人々が、諫言を試みます。

この頃、呉においては、名臣達が相次いで亡くなりました。優れた調整者であった諸葛瑾については先に語られ
ましたが、優れた行政家であった顧雍も、この時期に亡くなっています(かつて呂壱の専横に激しく憤った潘濬
は、これよりやや先に逝去)。
そして、この時期の孫権に強烈な諫言をしたのは、その孫・顧譚でした。

謹厳実直を絵に書いたような、名臣中の名臣・顧雍。その孫として早くから嘱目されてきた顧譚は、優れた計算・
記憶力を持った、頭脳明晰な能臣でした。
孫権に信任されている。そう自負する彼は、諫言する際、「陛下ならば、きっと分かってくださる…」と、そう
思ったことでしょう。
しかし…孫権の反応は、彼には、甚だ意外なものでした。

かつての孫権であれば、衷心からの、筋道立った諫言には、必ず耳を傾けたことでしょう。しかし、この時の孫
権には、かつての柔軟性が失われていました。顧譚の諫言に激怒したのです。

続きます。

315 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:57:32 ID:???0
続き。

孫和の何がいけないのか。一方で、孫覇の何が良いのか。ここでは、そのことには触れられていません。少なく
とも、能力や言動など、具体的なものがあってのことではないようで、単に孫和への(あるいは、その母・王氏
への)愛情が薄れた。それゆえの…という書かれ方です。
しかし、それでは、臣下達はどうすれば良いのでしょうか。太子に具体的な問題点がない以上は、太子を尊ばね
ばならないわけですが、孫権の本心はそれとは異なるようです。しかし、孫権は、太子・孫和と魯王・孫覇の待
遇については沈黙したままです。

顧譚からすれば、何故激怒されたのか、分からなかったでしょう。この現状はおかしい、というのは、外部から
みれば明らかなわけですから。しかし、孫権には、それが見えません。
孫権は、顧譚のことを、疎ましく思い始めました。

さて、孫権には、息子の他に娘も数人いました。その一人・魯班が、ここで影響力を行使します。この時点での
彼女の夫は、全j(周瑜の子・周循に先立たれた後に再嫁したもの)。
詳しい理由は不明ですが、彼女が、孫和の母・王氏を嫌っていた(その流れで孫和をも嫌っていた)ことが、事
態をさらに悪化させていきます。

公主を娶っている以上、夫の全jも反太子派ということになります。全jの子も既に成人して出仕しており、全
氏の影響力はそこそこあります。それが太子を貶める方向に動いたら…

続きます。

316 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:58:51 ID:???0
続き。

事のおこりは、前々回の、王淩との戦いでした。敗走したとはいえ、こちらは朱然ほどの惨敗ではなかったようで、
かえって魏軍を退かせたりもしています。
勇戦して魏軍を退かせたのは全jの息子達でしたが、そのきっかけを作ったのは、張休(張昭の子)や顧承(顧譚
の弟)の奮戦でした。戦後の評価では、張休や顧承の方が高く評価されたのですが…全j達は、この評価に不満を
抱きます。

彼らは、孫権が病に臥して判断力が弱っているのをみて、張休や顧承への讒言を行います。それも数度にわたって
行われましたから、孫権は、すっかりその讒言を信じ込んでしまったのです。

そしてついに、張休や顧承が、罪なくして処罰されることになりました。先の諫言が容れられなかったことに憤って
いた顧譚がさらに強諌すると、孫権は、彼をも処罰。
顧譚・顧承兄弟は辺境に流罪となり、ある小人に恨みを買っていた張休は、その讒言により処刑されます。
これだけでも大問題なのですが…この、王朝をずたずたに引き裂く裂け目に、丞相の陸遜までもが墜ちたのです。

名行政官たる顧雍が亡くなった後、陸遜は丞相に任ぜられました。とはいえ、魏との戦いが続く以上、任地を離れる
わけにはいきません。かつての諸葛亮の如く、皇帝のおわす都から遠く離れた地で政務を行っていたわけですが…

そんな陸遜に、都の変事が聞こえてきます。何と、吾粲までもが処刑されたというのです。

続きます。

317 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:00:23 ID:???0
続き。

吾粲は、低い身分から累進して太子大傅にまでなった、呉の偉材の一人です。行政・軍事ともに優れた手腕を発揮する
一方、嵐に遭って乗船が沈み、溺れている兵士を、(巻き添えを恐れて他の船が見殺しにする中)自船の危険を顧みず
救出するなど、思いやりの心を持った名臣でした。
彼もまた、この情勢を憂い、孫権にしばしば諫言を呈していたのですが、かえって讒言に遭い、落命したのです。

このままではいけない。陸遜は、何度も上洛(して諫言すること)を請いますが、孫権は、理由を明示することなく、
それを却下します。あるいは、我が心(弟と待遇を同じくされるという屈辱に耐えかねて太子が自ら位を辞するよう
仕向けている)を忖度せよ、という暗黙の意思表示ではなかったか、と書かれていますが…

陸遜がさらに請うと、孫権はこれに激怒。ついに、陸遜は悶死するに至りました。
…以前の江夏諸郡での所業もあり、個人的には陸遜には好感は持っていませんが、国を支える重臣がこのような形で
亡くなるというのは、さすがに…。
ここまでみると、(本来はおかしい言い方ですが)太子派が一方的に弾圧されている格好ですが、この混乱は、まだ
続きます。全jや、(陸遜の死後に丞相となったがほどなく他界した)歩騭も、自身は穏やかに死ねたようですが…。

呉の不幸は、一方で魏の幸福。陸遜までもがただならぬ死を遂げたとなれば、呉国内の混乱は相当なものとみた王淩
は、馬茂という人物を埋伏として送り込み、孫権の暗殺をもくろみますが、これは失敗。
暗殺計画に怒った孫権が、朱然の意見を容れてまたしても魏との戦いが…。

318 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:01:43 ID:???0
追記。
「麒麟も老いては駑馬にも劣る」とは言いますが、今回の孫権の耄碌、老害ぶりの凄まじさには、ただただ呆れるほか
ありません。
ただ、(妻や子のことがあったとはいえ)陸遜にもその将器を評価されていた全j、行政・軍事ともに有能な歩騭が、
この件で諫言をしなかったのは…と思うと、ちょっとすっきりしないものが。次回以降、この顛末がどう書かれるか。

それにしても、朱然の書かれ方が結構ひどいです。前々回は司馬懿にいいところなく惨敗。今回は、「呉にはもはや
この程度の将しかいない」みたいな言われ方。
以前の卑衍の書かれ方と比較すると、一武将と司令官クラスに求められるものが違うからなのでしょうが…。

319 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:31:09 ID:???0
三国志(2011年06月)

今回のタイトルは「曹爽」。本作では、個人名のタイトルが来ると、その回あたりで亡くなるフラグ、という感がある
のですが…さて。

まずは、前回の続きから。朱然が、老将とは思えない溌剌さで暴れまわります。魏の将が後方へ回り込もうとするも、
それを一蹴。鮮やかな勝利を飾って、堂々の凱旋を果たします。しばらくぶりの捷報に呉の宮中は湧き返り、孫権も
はしゃぎます(もっとも、そんなにうまいこといくはずはないと思っていたが…なんて言われてますが)。
その三年後、朱然は、栄光のうちに没します(そういえば、二十世紀に入ってその墓が発掘されていますね)。

ただ、朱然の活躍は、魏の南方の民にとっては災厄そのもの。以前にも呉の侵攻を受けた人々は、それを避ける為に
北方に避難していたのですが、空白地の存在を嫌った曹爽は、これを無理に戻させました。その結果がこの有様です。
先の蜀漢侵攻の失敗で、軍事的手腕に疑問符がついている上に、内政面でも失敗したことで、曹爽は、人々の支持を
失いつつありました(その失政を揶揄する歌が歌われる、等)。
しかし、司馬懿が一歩退いたスタンスを取っているためか、成果が挙がっていないにもかかわらず、曹爽派の力は、
むしろ強化されつつありました。
そんな阿呆なことが…と言いたくもなりますが、無能な者が分不相応な権力を持つこと自体は、歴史上、例がない
わけではありません。

続きます。

320 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:33:05 ID:???0
続き。

曹爽派の有力者として名が挙がっているのが、丁謐、何晏、ケ颺の三名です。曹爽に重用され、高位に就いた彼らは、
かつての梁冀の如く、好き勝手に振る舞います(諸候の飛び地を我がものとする、詔書を偽る、等)。
その頭目たる曹爽もまた、それを制止するどころか、自身もそのように振る舞います(調度品を皇帝のものと等しく
する、宮女を我がものとする、等)。
わずかに、曹羲ひとりが諫言しますが、曹爽は、聞く耳を持ちません(ただし、無駄の削減と称して勝手に廃止して
解散させた将軍の兵力を曹羲に持たせるところをみると、曹氏一族の一人としてはある程度信頼しています)。

ただ、彼らも、決して一枚岩ではありません。というか、みな我が強く、互いに見下している、という感じです。
読書家の丁謐は、己以外は皆低能だと見下しています(派閥の頭目たる曹爽も例外ではありません)。ただ、政敵たる
司馬懿だけは賢いとみなしており、それ故に警戒しています。
ケ颺は、すっかり俗物と化し、公然と賄賂を要求する有様。何晏は…まあ、今回は語られていませんが、蒼天でも少し
触れられていた、あれ(五石散)がありますからね…。
曹爽は、彼らは有能である(有能過ぎる故に嫌われていた)と思って重用します。確かに、才覚自体はあるのでしょう
が、これでは嫌われるわけです。

続きます。

321 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:34:49 ID:???0
続き。

さて、彼ら以外で曹爽派の有力者として、桓範の名が挙がっています。こちらは、実際に有能なのですが、とにかく
性格的に問題あり、というところ。
ちょっと嫌味を言われたくらいで妊娠中の妻に暴力を振るい、母子共に死なせるあたり、それだけでも失脚に値する
くらいです(まあ、さすがにこれは悔やんだようですが)。他にも、蒋済に認められなかったことに恨み事を言う等、
むやみに敵を増やすような言動が目立ちます。

そんな中、曹爽派の一人・李勝が司馬懿のもとを訪れます。先の蜀漢侵攻では失敗した彼ですが、行政手腕はあった
ようで、荊州刺史に就任します。この訪問は、その挨拶に…というわけです。
もっとも、実際には、政治的に沈黙している司馬懿の偵察なのですが。ただ、司馬懿もこのことは分かっており、一
芝居うちます。まさに「しばいのしばい(司馬懿の芝居)」。
(妻に話したら駄洒落扱いされましたが…)

司馬懿の呆けた演技は見事なもので、李勝は、かつての英姿と比べ、思わず涙するほど。司馬懿に仕える侍女達は、
というと…笑いをこらえるのに必死でした。

322 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:36:27 ID:???0
追記
1、
曹爽達は享楽に耽っているわけですが、ここで出てきたのが「地下室」。名前自体は出ませんでしたが、「春秋時代に
地下室をつくった貴族が〜」というと、鄭の伯有が思い浮かびます。鄭と魏の国力を思うと、曹爽がつくらせたそれは、
相当な規模のものだったのでしょうね。
ただ、伯有の最期を思うと、曹爽の行く末も良いものではない、という予感を持った人々もいたことでしょう。
2、
曹爽の能力については、酷評としか言いようがありません。才能もない、努力もしない、感性も鈍い、鈍さを魅力に変
えることもできない…。
わずかに、優しいところがあるように書かれていますが…。
3、
司馬懿は病を装っているので、表には出られません。そこで、表のことは子に任せるわけですが、今のところ長子の
司馬師しか出てきていません。演義では、これより以前から、次子の司馬昭も(と言うか、司馬師・司馬昭の二人が
セットみたいな感じで)出ているので、ちょっと不思議な感じがしています。

323 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:55:06 ID:???0
三国志(2011年07月)

今回のタイトルは「非常」。いよいよ、魏を揺るがす大事件が勃発します…!

まずは、前回の続きから。李勝が「荊州(けいしゅう)」刺史になる、というのを、司馬懿は「并州(へいしゅう)」
刺史になる、と勘違いします。何度も間違うため、ついには、「わたしは、本州たる荊州の刺史になるのです」と言わ
れる有様。
これで、司馬懿はようやく聞き間違いに気付いた様子(もちろん、これも芝居なのですが)。
その後、李勝は、司馬師・司馬昭兄弟からもてなしを受けて、晴れやかな気分で司馬懿邸を後にしました。

※ざっと検索すると、現代中国語では、荊州→Jīngzhōu、并州→Bingzhouと発音するようです(細かいピンインまでは
 みていませんが…)。個人的には、現代中国語より、日本語での音読み(漢音・呉音)の方が、当時の発音に近いと
 思っていますので、「へいしゅう」と「けいしゅう」の聞き間違い、というのが結構リアルに感じられます。

その足で、彼が曹爽邸に立ち寄ったことは言うまでもありません。司馬懿の現況は、曹爽達にとっては、喉から手が出る
ほどに知りたいことなのですから。
李勝は、ただただ「おどろきました」と言い、司馬懿の様子を語りつつ、涙します。曹爽もまた、どこか浮かぬ様子。
曹爽派からみれば、もっとも厄介な相手である司馬懿の老衰は、喜ぶべきことであるはずですが…(実際、何晏、ケ颺は
浮かれています)。
李勝が涙したのは、人というもののはかなさを感じた、ということもあるでしょう。では、曹爽は?

続きます。

324 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:56:10 ID:???0
続き。

曹爽は、(この時点での)魏の最高実力者。当然ながら、現実の軍事・行政に関わります。その目でみると、司馬懿の
老衰は、蜀漢や呉に対抗できる人材が一人減ることをも意味するのです(李勝が哀しんでいるのも、実際に地方行政に
携わっているが故のもの、と考えると、また違った意味合いが見て取れます。ずっと中央にいたであろう何晏、ケ颺に
は、恐らく理解の外にあることでしょうが)。
もちろん、単なる勝者の余裕、かも知れませんが。

しかしその頃、司馬懿邸では、司馬懿を中心にある謀議が行われます。司馬懿の眼には、炯々たる光が宿っています。
先ほどの痴態をみた者からすれば、これが同一人物かと思うほどに。
「これが失敗すれば、族滅される」
何しろ、曹爽派は皇帝を擁しているのです。それに叛旗を翻すとなれば、並々ならぬ覚悟が必要。この謀議に、司馬
一族以外の者が一人もいないのも、そのためでした。

謀議の内容。それは、曹爽派打倒のクーデターについてのものでした。明年早々、皇帝と曹爽達は、高平陵(先帝・
曹叡の陵墓)に詣でるため、洛陽城を出ます。その隙を突いて…というわけです。
しかし、クーデターを起こすとなれば、その正当性を証明する必要があります。どうしようというのでしょうか。

続きます。

325 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:57:21 ID:???0
続き。

一つ、手段がありました。永寧宮(→皇太后の郭氏)です。皇太后であれば、皇帝不在の折に、非常大権を発動する
ことも可能なのです。ただし、これはあくまで非常手段。
このクーデターは、司馬懿といえども、十分な勝算があって行うものではないのです(もし、曹羲が城内に留まって
いれば…その時は運が無かったと思うしかない、とも言っていますから、まともに対応されたら負けるのです)。

そして、正始十(249)年となりました。

皇帝と曹爽達は、予定通り、高平陵に詣でるべく、出発しました。この一行の中に曹羲がいたという時点で、趨勢は
おおよそ定まったと言えるでしょう。
皇帝と曹爽達が出発したのを見届けると、司馬懿達は、直ちに行動を開始しました。司馬一族の持てる兵を率いて、
永寧宮に参内したのです。

半ば引退した老臣の、それも兵を率いての急な参内。たれもが不審に思うところです。しかし、司馬懿に謁見し、
その英姿をみた皇太后は、その勝利を確信し、できるだけの措置をとることを約しました。

司馬懿が武器庫をおさえようとする際、曹爽邸内で、司馬懿を狙撃するか否か、という押し問答がありましたが、結局
狙撃は行われず。第一段階における、曹爽側の反撃は不発に終わりました。
かくして、司馬懿は、兵権を掌握し洛陽城内をおさえることに成功しました。

続きます。

326 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:58:32 ID:???0
続き。

とはいえ、いまだ皇帝は曹爽派の中にいます(皇帝が、皇太后の詔を無効とすれば、一気に情勢はひっくり返る恐れが
あります)。司馬懿は、有力者の支持を取り付けるべく、動きます。

ここで名の挙がった有力者とは、高柔、王観、そして蒋済の三人です。高柔は、かつて曹操と敵対して倒された高幹の
一族ですが、職務に精励し、かつ、法の遵守者と認められて、着実に昇進した名臣。王観は、任地の幽州が難治の地で
あることを正直に申告させた誠実な人物(宮廷の公物を厳格に管理していた為、曹爽に嫌われ転任させられたほど)。
蒋済については、ここまで読まれてきた方々には、言うまでもないでしょう。
彼らを味方につけることで、人々に、自身の正当性を知らしめようとしたわけです。裏を返せば、有力者の支持を取り
付けたなら、皇帝とてその意向を完全に無視することはできない(曹爽派の反撃を封じる、封じるまでいかなくとも、
弱められる)だろう、と…。

ただし、一人例外がいました。桓範です。迷いはあった(最初は司馬懿につこうとした)ようですが、皇帝を擁して
いる、ということで、彼は曹爽のもとに向かいます。このことを知った蒋済は危惧しますが、司馬懿は捨て置きます。

司馬懿による、曹爽達への劾奏。そして、桓範からの情報。曹爽達は、ここに至って、ただならぬ事態にあることを
認識しますが…


追記。
司馬懿によるクーデターの知らせを受けた際、曹爽達は、ただただ呆然としていました(曹羲も、ことの詳細が分から
ないことには…いう具合)。司馬懿の芝居は、かなり効いたようです。

327 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:33:56 ID:???0
三国志(2011年08月)


今回のタイトルは「霹靂」。曹爽達にとっては、まさにそんな感じだったのでしょうね。しかし、それだけではおさまら
ないわけで…。

司馬懿によるクーデターは、ここまではうまくいっていますが、桓範からみれば、まだ逆転の目は残されていました。何
しろ、曹爽側には天子がおわすのです。
天子を擁して副都・許昌に移り、そこで募兵を行えば、十分な兵力が得られます。それに、大司農の印綬もありますから、
兵糧の心配もありません。さらに、天子直々に詔を出せば、皇太后のそれを無効化できる(→司馬懿を逆臣とすることも
できる)のです。

しかし、これだけの好条件を示されながら、曹爽達は動こうとしません。これまで、たびたび兄を諌めてきた曹羲でさえ、
押し黙ったまま。自分達の置かれた状況を理解はしたものの、その状況に耐えられなかったのです。
危機にあっては、人の本性が出てくるものですが、曹爽達は、揃いも揃って肚が座っていなかったようです。

ただし、いつまでも動かないわけにもいきません。いったん事が起こった以上は、何らかの形で決着をつけねばならない
のです。それがいかなる形であろうとも。
天子の側近の中に、その決着とは天子の廃替ではないか、と危惧する者がいました。陳泰と許允です。

続きます。

328 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:02 ID:???0
続き。

ありえない話ではありません。歴史をひも解けば、前例はあるのです。曹爽達の傀儡の如き天子への同情がある二人は、
天子を救うべく、動き始めました。
ともかく、曹爽達がどうなるか。それが分からないことにはどうにもなりません。二人は、司馬懿のもとに赴き、その
真意を確かめようとします。

司馬懿にとっても、ここが勝負の分かれ目でした。曹爽派を完全に潰さないと、逆に自分達がやられる恐れがあるわけ
ですから、許すことなどできません。しかし、それをあからさまに出すと、徹底抗戦される危険性もあります。
曹爽達には、免官だけで済むと希望を持たせる一方で、その後の処断の正当性を損なわないようにしなければならない
のです。
ここは、何とか成功しました。ただし、曹爽派ではない二人の言葉だけでは曹爽を動かせないと思った司馬懿は、曹爽
に信用されている尹大目も遣わし、免官だけで済むという含みを持った返答をしてみせました。

これを聞いた曹爽は、ついに、降ることを決めました。それがいかなる結果をもたらすかも知らないままに。

続きます。

329 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:30 ID:???0
続き。

桓範からみれば、余りにも愚かな決断でした。曹爽達は、自らを守るものを、自ら捨て去るというのです。必死に止め
ようとしますが、極度の緊張から解放されることにただただ安堵する曹爽達には届きませんでした。
「元候(曹真)はまことに立派なかたであった。…あなたがたは、犢(こうし)のようなものだ」

父祖の功業によって授けられた富貴に浸り、研鑽することのなかった彼らは、百戦錬磨の司馬懿からみれば、まさに犢
のようなものでした。しかし、このたとえは、単に精神の幼さのみを示したものではありません。
洛陽に戻った彼らを待っていたのは…

まず、桓範。蒋済が「知嚢」と評したとおり、才智に富んだ彼は、いったんは大司農に復職する予定だったのですが、
城門を出る際の言動(詔であると偽って出た、司馬懿を逆臣とした…等)が咎められ、一転して、罪人として捕縛され
ます。もともと、曹爽が降った時点で、ある程度の覚悟はしていたようですが、いったん許されてからのどんでん返し
ですから、これはきついですね。
ただ、同じように城門から出た魯芝や、降ろうとする曹爽を諌めた楊綜等はお咎めなしでしたから、司馬懿が、桓範に
ある種の危険性を感じたのが主因のようです。

続きます。

330 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:36:11 ID:???0
続き。

曹爽達は、というと、まずは自邸に戻ることを許されますが、謹慎を余儀なくされます。ただ謹慎するだけではなく、
近隣から動員された八百人の兵から監視されるのです。
庭に出るだけでも囃し立てられるのですからたまりません。おまけに、一切の人の出入りが禁じられているので、食材
さえ入手できないという有様。
さすがに、食材については司馬懿からの差し入れがありましたが、こうしている間にも、曹爽達の過去の行状の調査が
進められていきます。
厳しい監視と飢餓への不安に苛まれた曹爽達は、そのことには気づきませんでした。

そして、彼らの破滅のときがやってきました。公物や宮女の横領等、言い逃れようもない明白な罪状が曝されたのです。
しかし、捕縛され、刑場に送られる彼らは、意外におとなしいものでした。あの時、桓範の言うとおりにしたとしても、
勝てなかったろう。ならば、犠牲が少ない方がよい。そんなことを考える彼らは、まさに生贄の犢でした。

さて、これほどの事件となれば、当然ながら、大々的な裁判が行われることになるわけですが、ここで、今でいう検事
役に充てられたのは、何晏でした。何晏は、ここで曹爽達を強く断罪することで己の延命を図りますが、裁判が終わっ
たところで、捕縛されました。


追記。

司馬懿の狡猾さと、曹爽の甘さ。今回は、これに尽きるように思います。
ただ、司馬懿の狡猾さについては、曹爽を降すための駆け引きはともかくとして、どこかすっきりしないものがあります。
何晏が曹爽派であることは明らかだったのに、なぜ検事役にして曹爽達を弾劾させたのか。このようなことをする意味が
果たしてあったのか。
何晏の人格の卑しさを白日の下に曝すためであったにしても、彼がここまでされなければならない理由は何か…。

331 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:53:48 ID:???0
三国志(2011年09月)

今回のタイトルは「王淩」。先のクーデターは司馬懿の完全な勝利に終わったわけですが、魏の内部に、新たな異変の眼が
生じつつあります。

祖父は後漢の大将軍・何進。母は魏武帝・曹操の夫人。そして、自身の妻は公主(曹操の娘)。何晏は、魏王朝においては、
まさに貴種というべき存在でした。その彼が処刑されたことは、世の人々に大きな驚きを与えたわけですが、かような末路を
予見した人もいました。
その一人が、管輅(字は公明)です。易経等に通じた彼は、その容貌や振る舞いから、威厳がないとみなされ、あまり出世は
しませんでしたが、俗世を超えた眼を持ち、様々な逸話を残しました。
その一つが、何晏についてのものです。彼が何晏に招かれたことは、歴史上、大した事件ではないはずですが、なぜか記録が
残っているというのです。

それは、司馬懿によるクーデターの直前、前年の十二月二十八日のこと。管輅のことを知った何晏が、自邸に招き、己の将来
を占ってほしいと依頼しました。「わたしは三公になれるであろうか」、と。
その際、この頃よくみるという夢の内容を伝えています(鼻の上を青蝿が飛び周り、払っても離れない、というもの)。
それに対する管輅の返答は、ごく大まかに言うと、(高位にあることによる)威はあるが、徳に欠けるため、危うい、という
ものでした。
これを聞いた何晏がどう思ったかは、よく分かりません(管輅の伝には、忠告に感謝したという話もあるようですが、夫人に
心配されるほど行いが荒んでいた何晏が、本心からそう思ったとは考えにくいのです)。

ともあれ、それから間もなく何晏は誅されたわけですから、それを予見した管輅の異才ぶりが、あらためて世に知られたわけ
です。

続きます。

332 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:34 ID:???0
続き。

さて、ここで興味深いことが。何晏が誅されたことを聞いた裴徽(管輅にとっては恩人にあたる人物)は、管輅に、何晏の
印象を問い、その答えから何晏の本質を理解するという話があるのですが、そこで挙げられているのが、恵施(恵子)なの
です。
恵施というと、「荘子」に出てくる、荘子の論敵。彼は、名家(今でいうところの論理学者の類)として知られる人物です
が、何晏もその類であった…ということでしょうか。
wikipediaソースで何ですが、何晏は玄学(老荘思想に基づく学問)の創始者とされているようです。しかし、何晏はそう
単純な人物ではなさそうです。一見、ただの俗物であった晩年も、あるいは違う見方ができるのでしょうか。

さて、司馬懿のクーデターにより、曹爽の一族は滅ぼされたわけですが、帝室に連なる家が消滅させられた、となると、帝
室に連なる他の一族にもその影響は及んできます。
曹操の父の実家とされ、準皇族ともいうべき夏侯氏もその一つです。ここでは、その夏侯氏から三人が紹介されています。

一人は、夏侯令女。曹爽の一族に嫁いだ彼女は、若くして夫に先立たれて寡婦になりましたが、再婚を拒み、曹爽の庇護を
受けていました。その曹爽家が滅んだため、頼るすべを失い、実家に引き取られると、あくまでも再婚を拒み、自らの鼻を
削ぐに至ります。
先に髪を切り、次いで耳を削いでいますから、これ以上再婚を強いると自害しかねないという凄まじさです。
夫への、そして婚家への貞節ぶりに心動かされた司馬懿は、彼女が養子をとり、曹氏の家を継がせることを許します。それ
は、自らの正当性を世に知らしめるには、有効なことでした。
しかし、権力とは無関係の夏侯令女はともかく、実権を持つ夏侯氏に対しては、そう甘くはありません。

続きます。

333 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:58 ID:???0
続き。

残る二人は、夏侯玄と夏侯覇です。二人は、ともに西方にあって蜀漢との戦いの最前線に立っていたわけですが、夏侯玄が
都に召還されることになりました。夏侯玄は、先に曹爽が蜀漢を攻めた際、その計画に賛同し、同行もしていますから、曹
爽派とみなされて…というわけです(なお、この戦いにおいては、夏侯覇は先鋒を務めている)。
結局、夏侯玄への措置は単なる異動だったわけですが、残された夏侯覇は、気が気ではありません。何しろ、夏侯玄の後任
は、仲の悪い郭淮なのです。
 郭淮というと、かつては夏侯覇の父・夏侯淵とともに蜀漢と戦っている人物。その彼と仲が悪いというのはちょっと変な
 気がしますが、以前に、曹休が賈逵を(一方的に)嫌ったということもありましたから、父の元部下の指図を受けること
 に不快感を持っていた(それを察した郭淮も夏侯覇を嫌った)のかも知れません。
これは、準皇族たる夏侯氏である自分を陥れる罠か。夏侯玄への沙汰が下るのを待っていては危うい。ここまで思いつめた
夏侯覇は、ついに亡命することを決めます。

しかし、魏の西方にあって亡命先となる国はただ一つ。そう、父の仇たる蜀漢です。父の仇を取りたいという気持ちを強く
持っていた(それ故に、先の戦いでは先鋒となった)夏侯覇にとっては難しい決断でしたが、彼の一族の女性が張飛の妻に
なり、二人の間に生まれた娘が蜀漢の皇后になっているという縁が決め手になりました。
夏侯覇は、苦難の旅の末に蜀の地に入り、皇后の縁戚として厚遇されます。没年は不明とのこと。姜維とともに戦うのは、
演義での創作のようです。

続きます。

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