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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

402 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:37:31 ID:???0
続き。

まだ幼いとはいえ、皇帝・孫亮は、聡明な人物でした。そんな彼からすれば、孫綝の如き者に制約される状況は、耐え難い
ものがあります。

年が明けるとともに、親政を行う旨を表明した孫亮。しかし、亡き孫峻もその聡明さを警戒していたわけですから、容易では
ありません。


孫権が後事を託した者達が、皆、世を去りました。呉は、この先、どうなるのやら。

403 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:29:30 ID:???0
三国志(2012年10月)


今回のタイトルは「朱異」。呉は、魏の内戦に介入しようとして、また一人、良将を失うことに…。

物語は、既に西暦257年。各国とも、何度か改元が行われています。魏・呉に比べて改元の少ない蜀漢は、小なりといえ
ども、国内は比較的安定している様子。国内情勢については、呉が最も荒れていて…。

もとをたどれば、孫権が呂壱を重用したあたりからその芽があったわけですが、太子・孫和派と魯王・孫覇派の対立の中で、
多くの良臣を失いました。孫権の死後もそれは収まらず、ついに、何の正当性もない孫綝が実権を握る始末。
若年とはいえ聡明な孫亮が、この状況をよしとするはずもありません。即位から五年。親政を行う決意を固めました。

意欲的に政務に取り組む孫亮は、孫綝にとって、うるさい存在となりました。また、皇帝直属の軍事力の形成にも取り組む
など、何が必要かを、正しく理解していると思われます。しかし、この頃の孫綝には、なぜか運がありました。それが呉に
とっての運とは言えないのが、呉の混乱の原因なのですが…。

そんな中、孫綝のもとに、軍吏が報告に来ました。魏の諸葛誕が協力を求めてきたというのです。初めは一笑に付した孫綝
でしたが、諸葛誕が実子を含む多数の人質を出すと聞き、兵を出すことを決めました。
魏の内紛は、呉にとっては好機。この出師は孫亮も承認し、諸葛誕が籠城する寿春に向け、大軍が出撃しました。呉として
は、割と素早く動いたのですが…。

続きます。

404 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:31:15 ID:???0
続き。

それにしても、諸葛誕といえば、魏の征東大将軍。相当な高位にあります。それが、何ゆえ叛旗を翻したのでしょうか。

…諸葛誕は、司馬氏を恐れていました。彼自身に咎が及んだことはないのですが、先に司馬氏によって消された曹爽達とは
親しく付き合っていたため、いつか自分にも…と危惧していたのです。
司馬氏は、司馬懿→司馬師→司馬昭と代替わりし、寛容さも見せていたとはいえ、先の、曹爽達を葬り去ったやり方を見る
と、疑心暗鬼になるのも無理はありません。
そのため、南方を任され、寿春に赴いた彼がまずしたことは、毌丘倹の轍を踏まぬよう、現地の民の心を得ることでした。
これによって、彼のためには死をも厭わぬ者達を得たわけですが、さらに…と大軍を要請したことで感付かれました。

中央への召還命令。一応、三公への昇進という飴はありましたが、群臣達の序列からして、異常な話ではあります。これに
司馬氏の好意を感じていれば、あるいは違った展開があったのでしょうが…諸葛誕には、これが、自分を抹殺するための罠
にしか感じられませんでした。
謀られた、という怒りの中、楽綝を殺し、その軍勢を合わせた諸葛誕は、寿春に籠城します。単独では勝てないことは十分
承知していた故、呉との連携も十分考慮していました。

続きます。

405 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:33:38 ID:???0
続き。

しかし、諸葛誕の本気をみた呉の動きは早かったのですが、魏の動きも相当に早いものでした。荊州には、何事にもそつの
ない王基がいます。彼が、寿春の異変に気付かないはずもありません。中央に出撃を乞うや否や、直ちに兵を率いて寿春の
近郊に至り、包囲網を敷いていきます。

いかに王基といえども手が回りきらなかったか、あるいは兵法に従いわざと空けておいたのか、包囲網には僅かな隙があり
ました。呉は、ここから援軍を寿春に入れることには成功したのですが…諸葛誕にとっては、二重の意味で有難迷惑でした。
一つは、城内に大軍が入ったことで兵糧の消耗が早まること。もう一つは、城内に入った将が、仲の悪い文欽であったこと
です。
このあたり、孫綝の采配のまずさが感じられます。彼の采配のまずさは、これだけではありませんでした。勇将・朱異の
使い方も、その一つです。

当初、朱異が向かっていたのは、寿春ではありませんでした。彼に与えられた命は、孫壱を討て、というものだったのです。
孫壱というのは、孫静の孫の一人で、当時、沙羨侯でした。父、兄、そして彼自身、呉の臣として、何ら問題はありません
でしたが、孫綝に敗れて亡くなった呂拠や滕胤と姻戚関係があったため、孫綝に睨まれていたのです。
孫壱は、朱異が自分を殺すために来たことを察知し、呉に見切りをつけて魏に亡命しました。魏で厚遇されたところをみる
と、呉の帝室の一門の人間の亡命は、魏からしても慮外のことだったようです。

続きます。

406 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:35:58 ID:???0
続き。

孫壱を取り逃がしたことでケチが付いたのか、これまで魏相手によく戦っていた朱異が連敗しました。十分な兵力を擁し、
兵の士気も決して低くなかったのに、です(朱異自身、なぜ負けるのか分からない、という感じです)。

これに取り乱さないところはさすが、といったところですが、魏軍が相当に手ごわいということが分かった以上、うかつ
には動けません。朱異の軍勢は、動かなくなりました。
従軍していた陸抗は、かつての廉頗に似ている、と感じました。強敵相手には、うかつに動くよりもいったん静止した方
が良いこともあるのです。しかし、これまで遮二無二突撃していた朱異の突然の静止は、孫綝に、あらぬ疑いを持たれる
恐れがあります。

陸抗は朱異に諫言しましたが、朱異は孫綝を警戒していなかったため、召還命令に応じて孫綝を訪ねた際に、申し開きを
することも出来ぬまま、殺されてしまいます。
孫綝は、そのまま兵を引き揚げてしまったため、寿春は孤立しました。犬猿の仲の諸葛誕と文欽が、同じ城内にいて、劣
勢の中、焦燥感を募らせていきます。

407 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:41:36 ID:???0
追記。

初動は素早かった孫綝でしたが、結局、事態を悪化させただけでした。諸葛誕も、まさか、呉(というか孫綝)がここまで
役立たずだとは思わなかったでしょう。独力で戦った方がましだったのでは?とさえ思えます。

しかし、孫峻といい孫綝といい、戦いにおいてはどうしようもないくらいに無能なのに、宮廷内の権力闘争においてはなか
なか鋭敏なのが、また…。

また、諸葛誕が反旗を翻した動機が、演義とは異なり、恐怖によるものとされていますが、政敵に対する司馬氏のやり方を
みると、無理からぬことと思います。
「敵に対してはどんなことをしてもよい」というのは、一見正しいようですが、後々のことを考えると…ということがあり
ますからね。

408 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 22:57:43 ID:???0
三国志(2012年11月)


今回のタイトルは「全氏」。呉の名門・全氏に、一体何が…。

寿春の城内では、諸葛誕の部将である蒋班・焦彝が、朱異の死と孫綝の撤退を知り、ある献策をしようとしました。
孫綝が撤退したとなると、寿春は孤立します。城内の兵がこのことを知って恐慌状態に陥る前に、城内の全兵力をもって
打って出よう、というのです。
しかし、タイミングが最悪でした。諸葛誕のそばに、文欽がいたのです。猛将とはいえ、魏の包囲網の堅さをいやという
ほど味あわされた文欽は、当然ながらこれに猛反発。普段は文欽とは犬猿の仲の諸葛誕も、ここでは文欽に同調したため、
献策は容れられませんでした。

蒋班・焦彝は、諸葛誕の決起の大義を信じて、ここまで付き従ってきました。もちろん、ある程度の勝算もあってのこと
です(魏の南部に属する寿春付近は長雨が降る時期があるため、長期にわたる包囲網の維持が困難。よって、長雨の時期
まで持ちこたえれば敵が撤退することが見込まれる)。
しかし、この年は、いつまで経っても雨が降りません。諸葛誕は、巫祝に降雨を祈願させましたが、それも効きません。
こうなると、この決起は、天に認められないものなのか、という疑問が生じてきます。
やがて、朱異の死と孫綝の撤退が城内の将兵に知れ渡ると、士気は目立って低下しました。他の将兵と同じく、意気消沈
していた蒋班・焦彝には、士気を高揚させる術もありません。
献策が容れられなかったこともあり、二人は、降ることを考えます。

降るとはいっても、ことは容易ではありません(ただ降っただけでは、不忠として斬られる恐れもある)。幸い、敵の軍
中につてを発見した二人は、内密に降る意向を伝えさせます。

続きます。

409 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 22:59:46 ID:???0
続き。

諸葛誕の部将、それも、副将ともいうべき二人が降る、という知らせを受けた司馬昭は、これを受諾。二人は機をうかがい、
降ることに成功しました。
司馬昭からすると、労せずして諸葛誕の戦力を削ぐことができたわけですが、さらに大きな知らせが舞い込んできました。
全輝・全儀の兄弟が、魏に亡命してきたというのです。

全氏は、全輝・全儀の祖父にあたる全jが父とともに孫氏に仕えて以来、呉の重臣として活躍してきました(全jは、孫権の
娘・孫魯班を娶っている)。
その全氏から、よもや敵国・魏に亡命する者が出ようとは。司馬昭ならずとも、驚くべき事態です。
訴訟がこじれたため、呉にいられなくなった、ということですが、ことは、全輝・全儀の二人に留まりません。なぜなら、寿
春の城内には、兄弟の叔父にあたる全懌が(他にも、全氏一門の者が多く)いたからです。

孫綝が撤退したことで、呉の援軍は縮小しています。しかし、呉帝室の連枝とも言える全氏がいる以上、呉は全軍撤退すると
いうわけにもいきません。ですが、その前提が覆るとしたら…。
司馬昭は、彼らにも寛容をもって接します。敵国の者であった我らに対し、なんという厚情…。感じ入った二人は、全面的な
協力を約束しました。
司馬昭は、彼らに、あることを依頼します。

続きます。

410 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:01:50 ID:???0
続き。

城内の全懌達に、魏に降るよう説得してもらいたい、というのです。
全jの死後、家督を継いだ全懌が魏に降るとなれば、その影響は計り知れないものがあります。将兵の犠牲を減らすのに、
これほどの策はそうそうないでしょう。

とはいえ、寿春の城内には、全氏以外の将兵も多くいますから、ことは慎重を要します。
幸い、全輝・全儀に付き従ってきた従者の中には、全懌達と面識がある(そして、信頼されている)者が多くいました。
彼らを使って、慎重に、連絡を取り合います。

全輝・全儀が魏に亡命した。このことは、全懌達にとっても、大きな衝撃でした。鍾会の策で、呉国内の全氏が皆殺しに
されるかも…という危機感を持たされたのも効きました。
そうでなくても、孫綝が撤退したことで、見殺しにされるのではないか、という疑念が生じているところです。これまで
呉において重きをなしてきた全氏の危機。全懌は、難しい判断に迫られます。
彼一人であれば、そんなに難しいことではないでしょうが、ここには、彼らが率いてきた数千の兵がいるのです。当然、
皆が皆、魏に降ることをよしとするとは限りません。

さて、どうするか。

続きます。

411 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:03:56 ID:???0
続き。

全懌は、ついに、魏に降ることを決意しました。息子達や、従兄弟の全端も、ともに亡命します。
しかし、自分たちだけが城外に出るのでは、置き去りにされた兵がどうなるかわかりません。全懌は、兵達と一緒に、
城外に出ました(もちろん、司馬昭に事前承認を得た上で、です)。

数千の兵が、堂々と城外に出て、包囲している魏軍からも、城内の諸葛誕・呉軍からも攻撃を受けることなく、戦場
から離脱したのです。
何とも不思議な光景ですが、これにより、全氏の兵は、無事に死地を脱しました。

城内から全氏の兵が消えた。ようやくことの重大さを理解した諸葛誕達は、これまでの防戦体制から一変、決死の総
攻撃を試みます。
その攻撃の凄まじさは、冷静な王基でさえあわや、というところでしたが、数か月の籠城を経た後で数倍の敵による
包囲網を突破するのは、やはり無理がありました。
再び城内に追いやられた諸葛誕は、疑心暗鬼が募り、ついに文欽を殺害。その子・文俶にも危険が迫ります。

412 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:05:00 ID:???0
追記。
全j以外の全氏は、ゲーム等では、目も当てられないような低数値にされがちですが、今回の全懌は、父の全jや
兄の全緒にも見劣りしない人物として描かれていたように思います。
数千の兵の命を守るため、あえて難しい方法を選んだ全懌の行動は、見事なものでした。
寛容をもって接した司馬昭の勝利と言えるでしょう(それだけに、諸葛誕の決起の遠因となった曹爽派の処断には
すっきりしないものを感じるのですが)。

また、孫綝の軍事的手腕のなさが、あらためて浮き彫りにされました。魏の内紛に介入したはいいが、ただ将兵を
失っただけでした。
それにしても、全氏が亡命せざるを得なくなるほどにこじれた訴訟とは、いったい…。

413 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/01/01(火) 00:22:54 ID:???0
今回は三国志は休載でした(文藝春秋の90周年特別号、ということです)。

414 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:51:20 ID:???0
三国志(2013年01月)


今回のタイトルは「孫亮」。諸葛誕の決起がついに決着します。とともに、呉に動きが…。
文俶達は、寿春城内の小城に起居していましたが、ここに諸葛誕の軍勢が迫ります。数百も手勢があれば、諸葛誕を
殺して父の仇を討てる、と思った文俶でしたが、兵達は恐慌を来たし、我先にと逃げ散る有様。
これをみた文俶は、何を思ったか、城壁を越えて脱出し、不倶戴天の敵であるはずの司馬昭の陣に駆け込みます。

司馬昭も驚いたでしょうが、彼は、何より政治家でありました。普通ならば即刻処刑しているところを、敢えて許した
のです(戦いの序盤で降ったなら処刑していたであろうが、窮した今であれば、許す方がよい、と判断した)。
自身のみならず、兵達にも気遣いをみせる司馬昭に感じ入った文俶は、城内に投降を呼びかけます。

そろそろか。司馬昭は陣を進め、ついに、城内に兵が突入しました。いよいよ、諸葛誕に最期の時が迫ります。
この時、彼にはなお千を越える兵がつき従っていました。もはやこれまで。我が首を差し出せば…。しかし、ここまで
ついてきた兵達は、たれ一人としてこの場を去ろうとはしませんでした。
決起は失敗し、謀叛人として死ぬ。甚だ不名誉なことではありますが、それでもなお、これほどの人々がついて来て
くれることに、諸葛誕は感激します。そして、ついに…。

 諸葛誕は、魏への忠義を唱えて決起しましたが、かつて浮華の徒として曹叡から遠ざけられたこと、(文欽と不仲
 だったとはいえ)毌丘倹の決起に同調しなかったことを考えると、それにはいくらかの修辞があったのではないか、
 とされています。
 ただ、司馬昭の意を受けた賈充と面会した際のやりとりをみると、決起せざるを得なかったのか、とも思えます。
 (司馬師には殺されないが司馬昭には殺されると思った、ということですが、これって、賈充のせいでは…)

続きます。

415 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:52:48 ID:???0
続き。

諸葛誕は戦死し、決起は鎮定されました。彼に最期まで付き従った兵達は、たれ一人として助命を願うことなく、
処刑されました。哀しい場面ですが、ある種の美学があります。
城内に残された呉の将兵達は、司馬昭の寛弘に感じ入り、多くはそのまま降りました。年を越えて続いたこの戦いは、
司馬昭の完全勝利に終わったのです。

司馬昭は、この余勢をかって呉に侵攻しようか、とも思いましたが、ここは王基の諫言に従い、兵を引きました。
大勝の後、調子に乗ってさらに戦いを続けて惨敗を喫する、という例は、遠くない過去にも何例もあるだけに、この
判断は賢明でした。

魏においては、結果として、司馬昭の力がますます強くなる(相対的に皇帝・曹髦の力は弱くなる)こととなりました。
では、呉は、どうなのでしょうか。
普通、これほどの敗戦ともなれば、総司令官たる孫綝の責任が問われます。そうでなくても、自責の念にかられ、降格を
申し出るなりするものですが、孫綝は、自分には全く責任はないと言わんばかりのふてぶてしさを見せます。
これには、皇帝・孫亮も怒りを隠せません。そうでなくても、孫綝がのさばるこの現状は、呉にとって望ましからぬもの
なのです。孫亮は、孫綝の勢力を削ることを考えます。

皇帝自らが兵を率いて孫綝を拘束する。臣下に任せず、自ら大事に当ろうというわけですが、それには、中軍を預かる全
尚(皇后の父)の協力が必要でした。ただ、彼の妻は孫綝の一族。それだけに、慎重に事を進める必要がありました。

続きます。

416 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:54:14 ID:???0
続き。

いよいよ計画が固まった頃合いを見て、孫亮は、全尚にことを打ち明け、協力を求めました。もちろん、妻には極秘で
あると念押しをして。
しかし、彼女に感付かれた全尚は、このことを話してしまいます。彼女は、直ちに急使を孫綝に派遣。孫綝は、間一髪の
ところで命拾いをしました。
そして、逆に孫亮を包囲。皇帝が昏乱であるとして、廃位を宣言します。


追記。
今回は、人の美しさと醜さとが、かなり強烈に描かれていました。
前者は、諸葛誕に殉じた兵達です。彼らは、諸葛誕から何かしらの恩徳を受けたのではあるのでしょうが、最後は、そう
いった利害を超えて、敬愛していました。
後者は、言うまでもなく、孫綝。あれほどの惨敗を喫しながら、恥じ入ることさえしないのは、厚顔無恥というほかあり
ません。しかも、かような小人が、まっとうな皇帝を廃するというのですから、他人事ながら、腹立たしいことです。
…ちと感情的になりましたが、かような小人が得てしてのさばるのですから、人の世はままならぬものです。

それはそうと、ここまで、司馬昭はかなり好意的に書かれているように思えますが、そろそろ、あの事件が描かれるはず。
どう描かれるのでしょうか。

417 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:01:31 ID:???0
三国志(2013年02月)


今回のタイトルは「孫綝」。孫権の晩年から続いた呉の混乱が、ようやく終息します。

孫亮が気付いた時には、宮殿は包囲されていました。打って出ることもままならず、玉璽を差し出すことしかできません。
全尚の不甲斐なさを詰りますが、空しいことは分かっています。
全紀(全尚の子)は恥じて自害し、全皇后(全尚の娘)は、廃位後も孫亮と辛苦を共にしました。子供たちは全うだった
のに、ひとえに、全尚が…。

聡明な皇帝を廃位するという、董卓以上の暴挙を為した孫綝ですが、さすがに、自分が皇帝に…とまではいかず、孫権の
他の皇子を擁立しようとします。とはいっても、孫権がもうけた男子七人のうち、上の四人は既に他界し、末子の孫亮は
廃位されたところ。残っているのは、五男の孫奮と六男の孫休の二人です。
結局、おとなしいとみられた孫休が選ばれました。

知らせを聞いた孫休は、当初、迷いました。弟が廃された後、兄の自分を立てようというのですから、正常な事態でない
ことは火を見るより明らか。孫綝の傀儡になることは分かりきっているのです。
一地方王としての静かな日々を捨てるに相応しいものではない。そうなのですが…しかし、ここで断ると、思いやりの心に
欠ける孫奮が即位する…。

それはならぬ。このとき、孫亮は、私事よりも国事をとる決断を下しました。ただ、龍に乗ったが尾がないという夢は、
何を意味するのか。このことは気になります。

続きます。

418 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:02:38 ID:???0
続き。

当初、ゆっくりと都に向かっていた孫休ですが、道中で出会った老人の言葉をうけ、急行します。そして、いよいよ即位。
あのおとなしかったお方が、かくも堂々と…。さすがは皇子であらせられる。側近たちを感心させる変貌を見せます。

かくして即位した孫休ですが、この時点では、孫綝の傀儡でしかありません。まずは、彼らに地位や恩賞をばらまいて、
敵意を抱かれないようにしなければならないのです。
そして、この一点については、孫休は孫亮に勝っていました。孫綝たちは、すっかり安心して、参内するようになったの
です。これは、好機でもありました。
とはいえ、皇后冊立等、孫綝のいうことを聞かないこともありますから、猶予はわずかしかありません。孫休の味方に
なる者がいればよいのですが…

いました。張布です。即位時から、いずれ孫綝と戦うことになるであろう、と覚悟していただけに、両者が結びつくのは
早いものでした。
ただし、主要な地位のほとんどを孫綝たちに占められているだけに、打つ手は限られます。というか、手段のみならず、
時期も限られます。
孫綝を除き、国政を正すのは、詰まるところ、運任せなのです。張布は、死を覚悟しました。

続きます。

419 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:04:20 ID:???0
続き。

臘日。この日こそが、孫綝を除くことができる、唯一のときでした。

この日、参内を前にした孫綝は妙な不安を抱きますが、すみやかに退出できるよう図った上で、参内することとしました。
参内をせかす急使が何度も来たことにもう少し不審を抱いてもおかしくないところですが、これは、ここまで孫休が孫綝
の警戒心を削ぐことに成功していた、ということでもあります。

参内し、手筈通り、退出するはずだったその時…! 張布の手勢が孫綝を縛り上げました。孫綝は、してやられた、と苦笑
しつつ、孫休に助命を乞いますが、かつての呂拠・滕胤のことを持ち出されては、ぐうの音も出ません。
孫綝は首を打たれました。享年二十八。その一族は族滅され、呂拠・滕胤(及び諸葛恪)の名誉は回復されました。
かくして、呉は、一応皇帝の尊厳が取り戻されたわけですが…魏はそうはいきませんでした。次回は、その顛末が語られる
のでしょうか。

追記。
孫綝は、軍事・政治共に無能でしたが、危機を察知することには長けていました。この時も、察知してはいたのです。それを
打ち破るあたり、孫休も無能ではありません。
行状芳しからぬ孫奮を除き、孫権の息子達は有能ですね。
ただ、(本人の意思の賜物でもあるとはいえ)運頼みになった感があります。このあたりは、どうなるのでしょうか。

420 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:20:32 ID:???0
三国志(2013年03月)


今回のタイトルは「好戦」。魏と蜀漢の好戦的な人々の話、といったところでしょうか。

まず最初に、孫休が孫綝を滅ぼした(西暦258年)時点での、各国の皇帝の年齢について触れられています。魏は、曹髦18歳。
呉は、孫休24歳。蜀漢は、劉禅52歳です。
魏と呉は、若年の皇帝が廃されて新たに若年の皇帝が擁立された、という点では共通していますが、その後の情勢は異なるものと
なりました。それは、ひとえに、皇帝を制する実力者の力量の違いによるものでしょう。呉の方は、前回までで語られた通りです
が、魏の方は、というと…。

その頃、魏の若き皇帝・曹髦は、現状に苛立っていました。先代(斉王・曹芳)が廃された経緯は承知しているとはいえ、自分も
また、司馬氏に実権を握られたまま、政務に関われないでいたからです。
曹髦は曹芳とは異なり、酒色に走ったりはしませんでしたが、「潜龍」の詩(龍が現れたが、天に昇らないため、瑞祥ではないと
皮肉った)などをみると、相当に不満が溜まっていたことは分かります。
「(曹髦は)理屈をよくこねる」などと書かれているところをみると、やや辛く評価されているのかな…と思えます。確かに、皇
帝という至尊の地位にいるとはいえ、ままならない現実に苛立つのは、人としての風格に欠けると言えるのではあるのですが…。

曹髦の側近に、三人の王氏がいました(といっても血縁関係にあるわけではない)。王沈、王業、そして王経です。王経は、前に、
姜維に大敗を喫した人物として登場していましたが、軍事的な能力には欠けたものの、他に才能があるとみられていたようです。
その三人に向かって、曹髦は、重大な決意を打ち明けます。今から兵を率いて、司馬昭を討つ、というのです。
既に魏の軍事力のかなりの部分は司馬氏に握られていますから、全くもって無謀なことではありました。三人は必死に止めました
が、曹髦は効く耳を持ちません。

続きます。

421 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:29:19 ID:???0
続き。

この時、曹髦はかなり昂奮していました。普段は、学問を好む理知的な人物という感じですが、実のところは、かなりの激情家で
あったのではないでしょうか(ただし、全く理性が吹っ飛ぶというわけではない)。
確かに、これは無謀なことです。しかし、これまで異常なほどに正当性にこだわってきた司馬氏が相手である以上、勝算がゼロと
いうわけでもないのです(皇帝の尊厳が保たれているのであれば、皇帝自ら陣頭に立てば臣下は手出しができないはず。となれば、
司馬氏を倒すとまではいかなくとも、何らかの形での実権回復も見込まれる)。
諫言が聞き入れられないのをみた王沈・王業は、司馬昭に報告。王経は、この場に残ってなおも説得を試みたようですが…ついに
曹髦自らが出撃するという事態に至ります。

まずは、皇太后のもとに向かいます。一応、皇太后の同意も得られればそれに越したことはない、というところでしたが、既に、
曹髦と皇太后の関係は著しく悪化していましたから、これは、事実上の決別でした。
(武装した(不仲の)皇帝がいきなり現れたのですから、皇太后が恐怖したのも無理はないのですが)
当初は、曹髦が見込んだ通りでした。まず現れた司馬伷(司馬昭の異母弟)は、陛下に手出しは出来ぬ、というふうで、ほとんど
無抵抗でした。これに気を良くした曹髦はなおも進撃しますが、ここで、賈充が立ちはだかります。

賈充には、皇帝への敬意はありません。彼が敬意を持つのは、あくまで司馬昭。賈充は、皇帝を眼前にして戸惑う兵達を叱咤し、
攻撃を命じます。
本気で戦えば、司馬氏配下の将兵の方が圧倒的に強いので、曹髦率いる軍勢は押されます。そしてついに、成済が、曹髦を突き
殺しました。

続きます。

422 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:32:49 ID:???0
続き。

最悪の事態も覚悟していた司馬昭でしたが、さすがにこの結末に対する衝撃は大きいものがありました。叔父の司馬孚が直ちに
哭泣して(皇帝と司馬氏の間に深刻な対立があったわけではないと)アピールしたこと、皇太后が曹髦を悪逆であったと罵った
ことで、ひとまず落ち着きを取り戻したのですが、何かすっきりしないものが残ったのも、また事実です。

実権がなかったということもありますが、曹髦は、決して悪しき皇帝ではありませんでした。傍目には生意気な若造と思えたと
しても、見ようによっては、意欲ある(そして、十分な学識もある)青年だったわけですし、何より、これといった乱行もあり
ません。
曹髦を止められなかったために、ほとんどとばっちりという感じで王経は処刑されましたが、母とともに従容と死についた彼は
多くの人々から敬われました。むしろ、彼を見殺しにした王沈・王業の方が、その薄情さを曝したとも言えます。
廃帝という扱いにされたとはいえ、曹髦は皇帝です。その葬列があまりに貧弱なのを見た人々は、魏の終わりが近いことを痛感
したことでしょう。

ともあれ、一応の事務処理は済んだと思われましたが…なおも問題がありました。陳泰が来ないのです。
父祖と同様、名臣として知られる彼に認めてもらえないことには、司馬昭としても不安なのです。陳泰にしても、表立って批判
的なことは言いませんでしたが、その発言をみれば、この件を是としているわけではないことは明らか。
陳泰は、皇帝弑逆を命じた賈充を処刑するよう求めますが、司馬昭はこれを拒否。結局、下手人の成済を、その一族もろともに
殺害することでごまかしました。

続きます。

423 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:38:50 ID:???0
続き。

さて、次の皇帝を擁立する必要が生じたわけですが…。もう、我の強い人物はこりごりです。結局、おとなしいとみられた曹奐
(燕王・曹宇の子)が選ばれました。

一方、蜀漢の方は、というと…。姜維は、さして成果の上がらない出兵を繰り返していました。姜維の相手はケ艾ですが、彼は
魏の一刺史に過ぎません。一国の大将軍の相手が刺史で勤まるのですから、もはや、国力の差は如何ともしがたいものとなって
いました。
そして、内政面においても、宦官やそれと癒着した者達が実権を握るようになっていました。魏や呉のような大規模な内紛こそ
なかったものの、じり貧状態であったのです。
これをみた司馬昭達は、蜀漢を一気に滅ぼすべく、入念な準備に取り掛かります。蜀の地に入る複数のルートから一斉に侵攻
するのです。


追記。
今年出る単行本で完結という話がありました。ということは、あと1、2回。いよいよ、本作のラストが見えてきました。

曹髦の非業の最期は、多くの人々に暗い影を落としました。魏の帝室たる曹氏からみれば、いよいよその衰運が明らかになった
ことを示すものでしたし、遠からず帝位に就くであろう司馬氏からみれば、その正当性を大きく傷つけるものであったからです。
また、臣下からみれば、高位にある人々の節義に疑いを抱いたことでしょう。
司馬昭が切り捨てられなかったことをみると、賈充が司馬氏にとって必要な人材であったのは確かでしょうが、なぜこのような
判断を下したのか、よく分かりません。
そこまで描かれることはなさそうですが、これこそが、司馬氏のたてた王朝があっけなく瓦解した一因であるように思えてなら
ないのですが…。

424 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:17:31 ID:???0
三国志(2013年04月)


今回のタイトルは「劉禅」。ついに、三国の一角が潰えるときがきました。

鍾会を総司令官とする蜀漢への侵攻作戦については、前線にいる姜維は薄々感付いていました。しかし、蜀漢の中央には厭戦
気分が横溢したこともあり、迎撃態勢の構築は不十分でした。
宦官の黄皓の影響はあったにせよ、皇帝たる劉禅に緩みがあったことは否めません(ただ、この時点で在位四十年。歴代皇帝
の中でも長い部類ですから、無理からぬところではある、という点も言及されています)。

そして、ついに侵攻作戦が開始されました。蜀漢領内への侵入自体は容易で、(粗漏のあった許儀を斬る等)軍紀にも厳しい
魏軍の進撃は、まずは順調に進みました。
面白いことに、鍾会には諸葛亮や蔣琬への敬意があり、侵攻作戦の一環とはいえ、蔣琬の子・蔣斌に丁重な書簡を送ったりも
しています(返信も受けています)。姜維にも同様の書簡を送ったのですが…これは無視されました。

姜維は、優れた人材として、名指しで諸葛亮に絶賛されたことを終生の誇りとしていました。それゆえ、諸葛亮に敬意を抱く
(という姿勢を見せる)とはいえ、彼が守り通した蜀漢を侵さんとする鍾会には、強烈な敵意を隠しません。
政治的な感覚はない(それゆえ成果に乏しい戦いを繰り返すことになった)とはいえ、優秀な武将です。領内への侵入を許し
はしましたが、険阻な蜀の地の利を生かし、鍾会の大軍を巧みに食い止めます。

続きます。

425 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:20:12 ID:???0
続き。

鍾会率いる主力軍が姜維に足止めを食らっているのをみたケ艾は、自身に割り当てられた侵攻ルートを変更し、一気に蜀漢の
要所に攻め入ることを思いつきました。
もちろん独断ではなく、洛陽にいる司馬昭の許しは得たのですが、たとえ自身に無断ではなかったとしても、鍾会には面白く
ないことです。成功すれば、ケ艾に大功を立てさせる(自身はその補助に過ぎなくなってしまう)のですから、無理もないの
ではありますが。

とはいえ、この進軍は困難を極めました。数千の軍勢が(補給に気を遣いつつ)険阻な蜀の山岳地帯を短期間に踏破せねば
ならないのです。滑落したら一巻の終わり。それは指揮官のケ艾とて例外ではありません。毛氈にくるまっての登攀という
場面も。

そして…ついに、進軍は成功しました。姜維の援軍として魏軍と戦うものとばかり思っていた後方の諸将は、不意を突かれた
格好になりました。
しかし、小国とはいえ、魏とは同等の正統性を有する蜀漢です。馬邈や蒋舒のように降伏する者もいましたが、劣勢を承知で
なお戦う者達はいました。傅僉や諸葛瞻、張遵といった面々です。

続きます。

426 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0
続き。

諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、
器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。
とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の
軍勢を退かせたのです。
しかし、時の勢いの差は如何ともしがたく、ついに戦死。ケ艾の軍勢は、成都近郊にまで至ります。

当然ながら、蜀漢の宮廷は大混乱に陥ります。魏に降るべきか、南方に逃れるべきか。籠城する、という選択肢が挙がら
なかったのは確かに不思議ではありますが、首都近郊にまで敵軍が来た以上は、籠城しても勝ち目がない、と判断しても
おかしくはないところです。
 通常、自軍の軍勢が健在であれば、敵軍がここまで来るはずはない、と考えるでしょうからね。あと、呉に降っては…
 という声もありましたが、すぐさま却下されました。同盟関係にあるとはいえ、先帝の仇ともいえる呉は、信頼できる
 相手ではないのです。

意見はいろいろありますが、猶予はありません。ここで議論の流れを決定づけたのは、譙周でした。

続きます。

427 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0
続き。

譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も
正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。

とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と
戦っても勝てる見通しはありません。ここで戦えば、皇帝の身も危うくなります。
一方で、先の曹髦のことがあります(皇帝弑逆との批判をかわすため、司馬昭は、敵を作らないことに腐心せざるを得ない)
から、ここで降れば皇帝の身の安全は保証される、という冷静な計算もありました。
もちろん、ここで戦って民にさらなる苦難を与えることは避けたい…という為政者としての責任、というのもあります。

劉禅としても、苦しい決断ではありましたが…ことここに至ってはやむなし。ついに、降伏を受諾しました。子の一人・劉
ェは、先帝に申し訳ないと父を批判したのち、自害して果てましたが、これは国民への弁解である、と書かれているように、
いろいろ難しい事情がある、ということを考えさせられます。

昨日まで至尊の存在であった皇帝が、今日は罪人として敵将の前に身を晒す。ケ艾は、国が滅びるとはこういうことか、と
感慨にふけります。


追記。

物語においては、劉禅の降伏は批判的に書かれることが多いと思いますが、本作では、割と肯定的に描かれていました。
状況を考えれば、賢明な判断であったのは確かですしね。
今回で、「三国時代は終わった」わけですが、まだ「完」ではありません。最低でももう一回はあるわけですが…どこまで
描かれるのでしょうか。

428 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0
三国志(2013年05月)


今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。

ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か
難しいところですが…ともあれ、成果はあがりました。ここからどうするか、が新たな問題です。
降伏を受け入れ、旧蜀漢の君臣に寛容の姿勢をみせると、続いて占領地行政を取り掛かりました。このあたりはそつ
なくこなします(大功をあげただけに、いささか舞い上がった言動もありますが)。
そして、呉への侵攻をも企図します。先の夢占いのこともありますし、軍略家としての血が騒いだ、というのもある
でしょう。これは司馬昭が早計であると却下しますが、ケ艾は諦めません。

しかし、ケ艾は、一つ忘れていました。この戦いの総司令官は、文才に恵まれ、策謀にも長けた(そして気位の高い)
鍾会なのです。ここまでのケ艾の働きぶりは大いに称賛されるべきものですが、それは一方で、人から妬まれる危険
をも孕んでいました。
そして、年明け早々、ケ艾の運命は暗転します。叛意ありとして都に送還させられるというのです。それは、鍾会の
讒言によるものでした。

続きます。

429 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:48:18 ID:???0
続き。

さすがのケ艾も、これには為すすべもありません。三公にまで登りつめた直後のこの仕打ちなのです。しかし、本当の
「滅亡」は、これからでした。

さて、鍾会と激戦を繰り広げていた姜維は、成都付近に敵が現れたとの知らせを受け、急行しましたが…途中で皇帝が
降ったと知らされます。
何のために戦ってきたのか。こちらも呆然としますが、何か思いついたのか、「蜀漢はまだ滅んでおらぬ」と立ち直り、
成都にいるケ艾にではなく、鍾会に降ることにしました。腐れ縁の張翼も一緒です。

蜀漢の柱石たる姜維が自分に降った。この意味の大きさを、鍾会はよく理解していました。これによって一応の面目は
立ったからですが、それだけではない含みがありました。
鍾会は、降った姜維を厚遇し、彼の名によって武装解除された蜀漢の将兵を集めようとします。これは、一体…。

続きます。

430 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:51:37 ID:???0
続き。

かつて傅嘏が危惧していたように、鍾会は、己の才智に驕っていました。姜維が降ったことで、自身が率いる大軍に
加えて蜀漢の精鋭も手に入れられる、となると…結構な兵力になるわけでして、要害の蜀の地に拠れば、あるいは…
と思ったようです。
ケ艾への讒言も、彼の暴走を危惧して、というようなことではなく、嫉妬と、邪魔者は…というものでした。
もっとも、司馬昭(及び王夫人)も、鍾会の野望の大きさには気付いていました。その上で蜀漢征討の総司令官に
任じたわけですから、やはりこちらの方が上手でしたが。

鍾会は、蜀漢の歴戦の将兵を使って野望の実現を目論み、姜維は、お膳立てが整ったところで鍾会達を消して蜀漢の
再興を目論む…。互いに互いを利用しているわけですが…

思わぬところで破綻が訪れました。鍾会が、旧蜀漢内の兵力の完全掌握のため、非協力的な将兵の殺害を図っている、
ということで、内紛が勃発したのです。
なにしろ、旧敵国内ですから、彼らは孤立しています。殺される、という恐怖は相当なものであったはずで、これに
よって、鍾会も、姜維も斃れます。

檻車に収容されて洛陽に送られているケ艾は、この時点ではまだ生きていますが…

431 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00
三国志(2013年06月) 最終回


今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ
書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。

鍾会・姜維が斃れたことで、蜀の混乱は、ひとまず収拾がつきました。監軍の衛瓘は、蜀の天地をみて、しばし感慨に
耽ります。
かつて公孫述は、この地で自立して天子と称しましたが、光武帝によって滅ぼされました。劉備もまた、この地に割拠
して皇帝を名乗りましたが、子の代で滅びました。そして鍾会も、あらぬ野心を抱きましたが、果たせず、斃れました。
この天地には、人の気宇を広げるものがあるようです。では、衛瓘は、どうなのでしょうか。

彼には、そのような野心はありません。ここでの彼は、あくまで監軍。司馬昭の名代に過ぎないのです。その程度の
冷静さは持っています。そんな中、驚くべき知らせが届きます。混乱の中を抜け出した兵達の一部が、ケ艾を奪還し、
こちらに向かってくるというのです。
ようやく事態の収拾がついたばかりのところに、(罪状未確定とはいえ)罪人のケ艾に来られては困る。衛瓘は、決して
ケ艾に同調しないであろう将の田続(蜀漢征討戦の途中、進軍を停止したとして処断されそうになった)に命じ、これを
迎撃させます。
…時に利あらず。さすがの名将・ケ艾も、衆寡敵せず、ついに落命しました。

衛瓘のとった措置を、杜預は批判しました。後に衛瓘は、杜預が予言したように無残な最期を遂げるわけですが、それは
ともかくとして、ケ艾の死によって、名実ともに三国時代が終わった、とされています。
(本心はともかくとして、実力的に、蜀漢に代わって第三勢力になる可能性を持ったケ艾が消えたことで、天下三分は
なくなった、ということ)

続きます。

432 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:26:50 ID:f69prmJ00
続き。

比類なき大功を挙げながら非業の最期を遂げたケ艾ですが、一族のその後は、さらに過酷なものとなりました。ようやく
許されたとき、晋の世(=司馬昭の死後)となっていたのです。
ケ艾は無実でした(少なくとも、死に値するような罪を犯したわけではありません)。しかし、比類なき大功それ自体が、
やがて司馬昭を脅かしかねないものとなっていたことが、彼の運命を暗転させることとなりました。
そして、司馬昭の降した非情の決断は、たやすく訂正するわけにはいかなかった(訂正すれば、司馬昭の判断が誤りで
あったとされるため、できなかった)のです。
一方、鍾会については、兄の鍾毓(鍾会が叛く前に死去)が、以前から弟について危惧していたことを知っていたことも
あり、(鍾会の子(養子?)以外は)おおむね寛容な措置がとられました。

ともあれ、蜀漢の征討という一大事業が成りました。多分に天命を意識するようになった司馬昭は、ここに至って王位を
受けることとしました。
司馬氏に利用されつつも、それでも一応の歯止めとなっていた郭太后が崩じたことも、それを後押ししました。

そんな中、先の蜀漢皇帝・劉禅の一行が到着しました。彼は、姜維の計画に乗ることはなく、兵乱が生じるとすみやかに
脱出して難を逃れました。ただし、(父譲り?の)逃げ足の速さに殆どの臣下は付いていけず、郤正等、わずかな卑官が
つくだけでしたが。
それでも司馬昭は、劉禅の徳がまだ尽きていなかったのだ、として、軽んずることなく迎え入れました。

続きます。

433 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:28:42 ID:f69prmJ00
続き。

劉禅は安楽公に封ぜられました。宴の席で「ここは楽しい。蜀の地を思い出すことはない」と発言したことに司馬昭は
驚きますが、その真意に気付いたかどうか。
愚昧と蔑まされることに耐えられれば、小国の皇帝という重圧から解放されたという気楽さがあるのは確かですが、幼
少期から過ごしてきた、故郷と言ってもよい蜀の地を思い出さない、ということはあるのでしょうか。そうであれば、
劉禅とは相当の非情の人ということになりますが…。

劉禅が洛陽にあったその頃、蜀の地は、いまだ戦いの中にありました。といっても、蜀漢の旧臣が魏に抗戦していると
いうわけではありません(劉禅の停戦命令は厳守されていました。没後三十年経っても、なお、諸葛亮の厳正な政治の
影響は残っていたのです)。呉の、火事場泥棒的な侵攻と戦っていたのです。

もちろん呉にしても、最初から火事場泥棒を狙ったわけではありません。同盟国の危機ということで援軍を向かわせた
のですが、間に合わなかったのです。
蜀漢からは魏に降伏した旨の連絡はありましたから、そのまま撤退してもよかったのですが、蜀の地が魏のものになる
ということが何を意味するか、と思えば、蜀の地を抑えたいと思うのも、無理からぬところでしょう。
しかし、この暴挙は、蜀漢の旧臣達を激怒させました。

特に、羅憲の堅守は相当なもので、最終的にはゆうに十倍を超える敵と戦うこととなりましたが、魏の支援が得られた
ことで、何とか守りきることができました。

続きます。

434 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00
続き。

同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が
いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。
孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問
に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ
誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。

蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ
収束することを確信していました。
しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。
かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬
昭も、それに倣うこととしたのです。

ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か
に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。
司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに…
なのです。
(まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と)

続きます。

435 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:33:21 ID:f69prmJ00
続き。

おのれが何を為したか。天、地、そして自分。この三者が知っていればよいのではないか。司馬昭はそうも思いますが…
やはり「子(なんじ)」は必要なのです。天地のような全くの第三者ではない、しかし自分でもない、他者が。

「その存在がなければ、歴史も、物語も、ありえない。」

司馬昭の死と、司馬炎によって晋王朝が成立したところで、本作は終わります。しかし、その直前に書かれたこのことが、
ひどく印象に残りました。

「四知」で始まった物語が「四知」で完結したのです。
(そして、「四知」を意識しなくなったとき、中華の没落は始まった…という、個人的な感想もあります)

436 名前:投稿 ★:2018/01/13(土) 19:32:31 ID:5Jm+vDrc0
人いるの?

437 名前:投稿 ★:2018/06/08(金) 13:37:14 ID:vj9h6Bpk0
俺がいるぞ 語ろう

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