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■ ★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★

1 名前::2002/10/27(日) 21:56

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時35分01秒 

ということで、どなたかご存じの方、教えてくださいませ!
今のところ松竹梅様の情報で、幽州の「盧家」が!
何でも南北朝時代の北朝で、相当な名家と賞されたとか…。
立地条件から言って、これはあの盧植の子孫・あるいは一門かもしれません!盧植の子・盧毓だって魏王朝の高官でしたし。

そういえば、誰かの子孫が西域記の玄奘になったいたような…。陳羣でしたっけ?

それとは逆に、薛(徐州)の田家の末裔が、三国時代に薛氏を名乗っていたという話もありますね〜。薛綜とかが、あの靖郭君や孟嘗君の子孫だったりする可能性も…

215 名前::2002/11/01(金) 22:07

左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 00時10分

↑約一週間が「ちょっと(の)間」って、、。
それはそうと、『三国志 きらめく群像』を読んでいて、諸葛氏の血縁関係をどう考えるか、という問題があったので、こういう風に考えてみたのですが、聞いて頂けますか?
上記の書き込みも、これを考える中での副産物なんです。
1,諸葛珪(しょかつけい)、諸葛玄(しょかつげん)
2,諸葛瑾(しょかつきん)、諸葛亮(しょかつりょう)、諸葛均(しょかつきん)、諸葛璋(しょかつしょう)
3,諸葛誕(しょかつたん)
1,2,3,のグル−プが、それぞれ同じ世代(起点となる人物からみて同じ世代という意味)と考える。名の発音が−e−が1,−i−が2,−a−が3,と考えてみました。
渡辺氏がおっしゃる様に、王ヘンがつく人・つかない人という分け方には十分な説得力があるのですが、一つひっかかるのです。諸葛瑾と諸葛亮が実の兄弟ではないのではないか、というのはいいのですが、では、諸葛亮と諸葛均はどうなるのか、なんです。同じ勢力に仕えていて、史書にも弟と書かれているのに実の兄弟ではないとは考えにくいし、かといって、名の字づらには共通性がないし。
私の仮説が合っていれば、諸葛瑾・諸葛亮・諸葛均は実の兄弟として考えても問題ない、となるのですが、、ただ、名へのこだわりをどう見るべきか(この仮説だと、諸葛珪と諸葛瑾は親子で王ヘンを使用している事になるが、親子の名に共通性があって良いのかどうか)というのがまだ完全にはクリアできていない様で。

216 名前::2002/11/01(金) 22:08

玉川雄一     2002年01月05日土曜日 00時38分

日本だと祖先の名を継ぐことありますよね。
伊達政宗しかり。
朝倉孝景しかり。
長宗我部元親しかり。
相良長毎しかり。(マイナーやな)
この辺り、考え方が違うということでしょうか。
といいますか、親子で同名もいますし。
小山田信有(甲斐の豪族、郡内小山田氏)とか。
小場義実(常陸の武将)とか。

ところで、『三国志 きらめく群像』って以前も何度か出ていますが、
イケてる本なのでしょうか。
昨日、書店で偶然見つけたんですが購入は見送ってしまいました。

217 名前::2002/11/01(金) 22:08

黒竜 2002年01月05日土曜日 02時20分

この話題には初参加の黒竜です。
>左平(仮名)さん
親子で名前に共通性がある例ならありますよ。
応[王旬]━応[王易] 応純━応紹 孫綽━孫[糸林] 王渾━王済
ざっと調べてこんなところです。
確かに少ないですが皆無ではないようです。

218 名前::2002/11/01(金) 22:08

左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 02時42分

黒竜さん、わざわざ調べていただいて、どうもありがとうございます。
親子の名に共通性のあるケ−スが三国時代にありましたか!と、なれば、、

219 名前::2002/11/01(金) 22:08

ぐっこ 2002年01月05日土曜日 22時04分

歴代長スレの中でも屈指のロングランとなりました(;^_^A
さておき名前についてですか〜。封地にしても同名の土地は避けると言いますが、基本的にチョクの諱をさける、という以外は、結構ニアミスとかありそうですね…。
>諸葛ニセ兄弟
たまに見かけますよね〜、この説。私は従来の設定を心情的に支持してますが、実際はどうなんでしょ。ニセ三顧の礼と同じく、単なる異説で
あってほしいと思ってます…。
>漢字
たしかに一族で同じ部首の漢字を使う例はあるようですが、確かに親子となると…。

220 名前::2002/11/01(金) 22:08

おばら     2002年01月06日日曜日 01時19分

妄想レスですまんのですが、
「珪」とは「ガラスの原料」であり、
「瑾」とは「純粋で硬い玉」を意味し、
「亮」とは「あきらか。さえる。まこと。高らかによく通る声。」を意味し、
「均」は「ひとしくする。すべて。」と漢和辞典あるんで、
諸葛珪は、自分の名と合わせて、さらに三人の子の名を合わせて理想的な人間像とした?!

「透き通った玉のように、あくまでも純粋で硬骨を保ち、その明徳は高らかに響きわたり、すべての人に余徳が行きわたる。」な〜んてね。(^-^;;
メッチャ妄想ですわ。

かんけーないスレ付けてスマンデスm(_ _)m

221 名前::2002/11/01(金) 22:09

左平(仮名) 2002年01月06日日曜日 02時27分

単なる妄想なのですが、ifものの小説でもつくる際に、諸葛均の“均”を“鈞”にしたらどうかな、とも考えています(彼を産んですぐに母親が亡くなっている、という事実も絡めて)。そうなると、、
・瑾−美しい玉。→玉の持つ輝き→高潔な人格
・亮−あきらか。→あかるさ→智の輝き
(注:「亮」という字は、「京」と共通の字源を持つらしいです。ちなみに、「京」には、「京観(:けいかん。戦いの後、敵兵の屍を塗り込めてつくった凱旋門のこと)」という意味合いがあるとか)
・鈞−ひとしい、の他に、造物主や天の意味もあるとか。→金ヘンもあるから、金属の輝きもある、かな?→人々への恩徳・高貴さ
(注:夏の啓王が、即位後、「鈞台」という所で諸侯をもてなしたという故事もあります)
三人の名には、それぞれ「明るさ」を示す意味合いが加わる事になり、共通性が出ます(ただ、これだと長兄・瑾の名が相対的に地味に…)。

それともう一つ、妄想ですが、、何故、諸葛瑾の字は「子瑜」なのに諸葛亮は「孔明」なのか?ひょっとしたら、元の字は「子明」だったのでは?てな事も考えています。

以上、ちょっとした妄想レスでした。

222 名前:.:2002/11/02(土) 12:11

おばら
   
☆突っ込みどころ曼才!『捜神記』盧氏☆

えーと、三國志ゲーで盛り上がってるところすまんのですが、
『捜神記』を読んでいたらですね、盧植の祖先が載っていたですよ。

盧充さんというらしいのですが、なんと二十歳のときに幽界に迷い込み、幽霊の娘(もちろん娘も幽霊)崔温休と結婚し、初夜で妊娠させております。
で、三日で嫁と別れ(むちゃくちゃですな)この世へ戻ってくるわけなんですが、四年後の三月三日、盧充が川で禊をしていると、突然幽霊嫁タンとの幽霊義父さんが乗っていた二台の牛車が現れて、金椀と三歳になる崔温休と盧充の子を渡して去って行きます。
盧家では皆気味悪がって、この子に唾を吐きかけます(幽霊は唾が苦手だと信じられていたらしぃ)。
しかし、崔温休タンの棺の中に入っていた金椀がもとで、崔家盧家ともにこの子どもを崔温休と盧充の子と認めます。
そしてこの子は成長すると太守を歴任し、子孫は代々高官となり、その子孫のなかの一人が盧植さんだということです。

盧充・・・・盧植−盧毓−● −盧藩
           倔ク欽−盧浮
           倔ク挺−盧皓
              倔ク志−盧氏|●−●−盧循

幽界と現世を結んだ盧家。その子孫に妖術で南方を騒がせた人物がでるとは・・・。

まぁ、史料的には×な『捜神記』なので…どうなんでしょ?(^-^;;
あ、そういえば盧氏ネタ、かなり前のレスであったような…

223 名前:.:2002/11/02(土) 12:11

おばら     2002年02月10日日曜日 07時13分

系図少しずれちゃったよ…。(泣
ワードパッドなんかに貼り付ければちゃんと見える筈。でも系図自体が間違ってるかも。(爆

このスレは「盧綰と盧植って関係あるのかな?」というぐっこさまの書き込み(相当昔のことです^-^;;)に応じて、盧氏を調べているうちに見つけたものです。
中央研究院さんで晋書も漁ったんですが、イマイチ理解できず。
こりゃ買うしかないか?

224 名前:a:2002/11/02(土) 12:13

玉川雄一     2002年02月10日日曜日 19時01分

>盧氏ネタ、かなり前のレスであったような…
発端は多分私です(^_^;)

味好漢の方で、盧遜(演義に出てきた蜀末期の武将)を間違えて「盧氏vと書いてしまい、そのついでで盧獅ノついてネタを振ったのが一連のご先祖ネタの始まりだったかと思います。


ちなみに、ちくま三国志の盧毓伝の裴註の盧獅ノついての部分ですけど。
『妖術を操る賊の大将盧循は盧獅フ曾孫である』とありますよね。
これが原文のニュアンス通りに訳してあるのかは判りませんが、この表現だとミョ〜にリアルに感じられません?
それもそのはず、裴松之(372−451)にとって盧氏i?−411)はまさに同時代人、彼はリアルタイムでこの大叛乱を知っているはずなのです。何とも面白いものですね。

225 名前:a:2002/11/02(土) 12:13

ぐっこ 2002年02月11日月曜日 02時02分

なんと、一族ネタの最初は盧氏でありましたか!? 意外な回帰…。
それはさておき、盧植のご先祖様に意外な人物が!
おばらさま、あの節はどうもです…(;^_^A
幽霊の娘とワンナイトラブ…いいですな…じゃなくて! きちんと子供が産めるのですか!幽霊!幽霊のメリット無いじゃん!
…じゃなくて! そういうエピソード持つ人間を先祖に頂き、後の晋代
でも人材を輩出する…と。ただ、盧植も劉備との絡みがなければ、これほど後生に名を残すことも無かったでしょう〜。歴史は、運だ!

ところでこの妖将(苦笑)・盧循、どんな術を使ったんでしょうか…。

226 名前::2002/11/02(土) 15:44

もす

 えっと、がいしゅつだったらスイマセン…(^^ゞ
牛に続いて『顔』です。

 すっげぇ胡散臭いんですが、顔良って顔回の族孫なんでしょうか?
ちなみに、元ネタは『顔氏家訓』です。
がいしゅつでなかったら、原文を引っ張ってきたいと思いまっす。(^^)

P.S.この掲示板って、ログ検索出来ませんでしたっけ?
  なんか委員会の方は確認してみたんですが…

227 名前::2002/11/02(土) 15:44

ぐっこ 2002年07月22日月曜日 23時08分

顔回っていうと、孔子の弟子の彼ですよねえ…。本貫は曲阜のあたりでしょうか?(よく知らないんですが…)
で、ええと「顔氏家訓」!? んなメジャー気味な書物に、そんなうさんくさい話が載ってるですか!? いや、私は知らないです〜。…うーん、過去ログ検索できないので、こちらの定期バックアップで検索したんですが、少なくとも顔良ネタは無かったです…。
詳細きぼん!

228 名前::2002/11/02(土) 15:45

もす 2002年07月22日月曜日 23時45分

 私もある方に聞かれて調べてみたのですが、
あまり信頼性のある記事には思えない……か?(笑)

-----------------------------------------
顔氏之先,本乎鄒、魯,或分入齊,…(中略)…
春秋世,顔高、顔鳴、顔息、顔羽之徒,
齊 有 顔[シ豕]聚,
趙 有 顔最,
漢末 有 顔良,
宋 有 顔延之,
-----------------------------------------

 既にお分かりかとは思いますが、念の為。
『顔氏家訓』を著した顔之推は、北斉〜隋の時代の人(531?〜604)。
文林館待詔・黄門侍郎などという官職についたこともあるようです。

 んで、おおまかに言うと、上で挙げられた人物には、
魯国の顔氏と認められたり、瑯邪郡臨沂県と記されたり、と
確証らしき情報がある人物もいます。
 いますが… 顔良は、どこにそのようなことが?!(笑)
彼は范書や後漢紀にも登場しますが、そんな記述は。。。。(^-^;

229 名前::2002/11/02(土) 15:45

惟新 2002年07月23日火曜日 21時35分

そんな話があるんですか! 面白いですね〜
顔之推が族孫なら、五代後の子孫の顔真卿も族孫ということに。
…顔良、実はものすごい人だった!?

230 名前::2002/11/02(土) 15:45

ぐっこ 2002年07月25日木曜日 21時41分

うーむ! もす様感謝! ……うー、言われてみれば確かに、どこかでその話を聞いたような来もする…どこだったか…(;^_^A
顔氏家訓は、たしか世説新語と同綴で一通り読んだと思うんですが、綺麗にとばしてました…

漢末の顔氏…ざっと正史人名辞典見ただけですが、顔俊(西平)、顔斐(斉北)、顔連(無錫)だけ…。
本当に顔回の子孫ならそう名乗るでしょうから、彼らに該当は内のかなあ…。
また後世の強引なこじつけなのかしら(;^_^A でもよりによって顔良を選ぶというのも…。文人で誰かいたのかなあ…

231 名前:中根東竜:2002/11/28(木) 01:27
お久しぶりです。

>顔回の子孫が顔良

顔之推の子孫、顔真卿が自分の家の家系を書いた、
『顔勤礼碑』という石碑資料がありますが、
そこにはあっけなく「後漢末三国の顔氏の系図は、
よくわからない」と書かれていた記憶が・・顔良はつゆほども
出てこないんですよ。
というわけで、怪しい説だと個人的には思っています。
・・まぁ、この『顔氏家訓』の説が後に流布したのか、
中国最大級(だと思う)の姓氏事典になる
『古今図書集成』姓氏部では、あっけなく顔回の子孫の分家は
顔良の臨沂顔氏であり、顔之推・顔真卿はその子孫である・・
と書かれてしまうのですが。

232 名前:★ぐっこ:2002/11/30(土) 17:42
お久しぶりでっす。

あ、顔真卿が自分でそう言ってるわけですか…(^_^;)
となると、『顔氏家訓』の「漢末 有 顔良」
って一文は、なぜ紛れ込んだんだろうか…
顔之推の代もだいぶ後なので、状況も資料の保存状況も
だいぶ違うでしょうけど、本人がことさらにそう言うほど、
胡散臭い系図が手元に残されてたということか…

もし、本当に顔良が顔回の子孫だったら、また袁紹軍団の
別の一面が見えてきそうで面白そうだったんですが…残念…

ところで顔良って本当に臨沂の顔氏なんでしょうか…?

233 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 17:09
安定皇甫氏スレ立てようかと思ったんですけど自重して。
何かと紛糾する謎の「皇甫堅壽」について一考。

私は、少なくとも「堅壽」という一人であって、「堅」と「壽」の二人ではないと思います。
そして、この時代からしてやはり「堅壽」は字ではなかろうかと。
避諱処理がかかってるんではないかしら。(このレベルの扱いだと避諱があっても註が付かない場合がある)

原文によれば「堅壽亦顯名,後為侍中,辭不拜,病卒.」(漢籍電子文献の後漢書皇甫嵩伝)とのこと。
もし堅と壽の二人ならば、通例では「堅,壽亦顯名〜」というふうになるはずです。
標点本では、諱にしろ字にしろ別個の人物の名は「,」で区切るのが通例かと思われます。

また、劉表伝では「二子:[王宗],[王奇]〜」あるいは劉焉伝では
「焉四子,範為左中郎將,誕治書御史,璋奉車都尉,並從獻帝在長安,唯別部司馬瑁隨焉在益州〜」
とあるように複数人の子がいる場合には「○人」と最初に挙げている場合もあります。

やはり、「堅壽」は一人と見る方が妥当だったりしませんかね。
ちなみに私の「堅壽&叔献兄弟説」はもう一度世説新語(の註)を確認してみます。

なお、ある書物に載っていなくても別の書物から係累がたどれる場合もありまして、
例えば温恢は魏書温恢伝において子は温生一人しか記されていませんが、
晋書温羨伝によると、温恢の子としてもう一人温恭という人物が存在したことになります。
また同甘卓伝によれば、甘寧の子は呉書甘寧伝に載る甘カイの他に甘述がいたことがわかります。

その世説新語註のソースが信頼に足るものかどうかは、追って調査する必要がありますね。

234 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 17:16
しもた、肝心な所が読みにくくなってる!? カンマが半角じゃ分かりにくいですね。

「堅壽亦顯名」の部分、もし堅と壽が別人なら「堅,壽亦顯名」と表記されるはずだろう、ということです。

235 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 18:36
「『〜とは書いてない』は『〜ではなかった』の証明にはならない」のを承知で敢えて付け足しますと、
人名を並記する場合は「,」で区切る(標点本)の他に「並」などを挟む場合もあります。
「堅並壽亦顯名」のような。

もう一つの方向性としては、こういった表記方法(連続して書く)が
別の個所にも存在するかという検証もありますね。(気の遠くなるような話…)

…ここまで来て思いだしたのですが、中華書局の二十五史シリーズって、
固有名詞(人名、地名、書名など)に傍線を引っ張ってあるんですよ。
で、この部分がどうなっているのかしら。
「堅壽」ひと繋がりで傍線を引いてあるか、「堅」と「壽」と区切って引いてあるか。
どなたか中華書局版をお持ちの方いらっしゃらないかな。

236 名前:名無し:2003/10/18(土) 21:36
繋がってますよ>中華書局版

237 名前:★玉川雄一:2003/10/18(土) 23:27
む、やはりそうでありましたか。
一つ繋がりとして解釈するのが妥当なのでしょうね。
名無しの救世主様、情報提供ありがとうございました。

今度は、皇甫叔献の存在のウラを取らねばなりませぬな。
まずはまた世説新語ひっくり返さないといかんのか… 楽しいけどしんどいですな。
やはり図書館借りじゃなくて自前で持たねばならん時が来るのだなあ。

238 名前:japan:2003/11/02(日) 23:34
>玉川様
遅レスですが、文学第四の68の注に引用されている王隠の『晋書』ですね。
>皇甫叔献の存在のウラ

「祖父皇甫叔献はハ(さんずいに覇)陵令、父皇甫叔侯は孝廉に挙げられた」とありますが、
(1)父と子の諱に同じ文字が使われていることは99%ありえない
(2)後漢〜晋代にかけての士大夫は<名が一文字+字が二文字>のパターンが大多数。
という二点から考えると、この「叔献」「叔侯」は字と見てほぼ間違いないでしょう。

「『叔』献」という字は上に兄がいたことを予想させます。
「堅壽&叔献兄弟説」とも矛盾しない考え方ですね。
(弟が『叔』なのに兄が『伯』『仲』でないというのは
荀揩フ息子達にも見られるパターンですし)

残念ながら正史の方の『晋書』皇甫謐伝には、
彼の父&祖父についての記述はありませんでした。
(曽祖父が皇甫嵩である旨は記してありましたが)
後は、張奐を自分の後任に推薦したという皇甫規や、
下辨の丞を務めた皇甫彦、安定太守の皇甫隆あたりも
この一族の出身のようですね。
ヒソーリと活躍してるなぁ、安定の皇甫一族…

239 名前:★玉川雄一:2003/11/03(月) 01:39
japanさんフォロー感謝です。やはり、字なのでしょうね。

しかし、安定皇甫氏は「叔」の字がよほど好きなのでしょうか(^_^;)
晋書に立伝された皇甫重の字も「倫叔」だし…
皇甫重は西晋時代に、また皇甫真なる人物が前燕〜前秦に仕えて活躍したそうですね。
学三のトウ艾スレに書いてあります。
http://gaksan2.s28.xrea.com/x/cgi-bin/12ch/read.cgi?bbs=gakuenn&key=1012041484
やっぱ地道に頑張ってるんですねえ。

240 名前:japan:2003/11/08(土) 12:46
先祖・子孫というほど遠く離れてはいませんが、
西晋の名将・羊コの血統はなかなか凄いものがあります。

母方の祖父が後漢の大儒である蔡ヨウ、
おばは流転の女流詩人・蔡文姫。
義理の兄が司馬師で、義理の父は夏侯覇。
おまけに父の先妻は孔融の娘。
おじである羊耽の妻は賢婦として名高い辛憲英(辛ピの娘)で、
彼女の曾孫が西晋・前趙の二朝で皇后に冊立されるという
数奇な運命を辿った美女・羊獻容。

ちなみに、羊コが夏侯覇の娘を娶ったきっかけは、
夏侯覇の弟である夏侯威が泰山郡に赴任した際に
羊コの人となりを高く評価し、姪と縁付けたというもの。
この夏侯威の後妻は蔡氏(蔡ヨウの一族であるかは未確認)。
夏侯威の次男・夏侯荘は羊耽と辛憲英の間に生まれた娘を妻とし、
その息子が美貌の詩人として名高い夏侯湛である。

……文字だけで書くと何がなにやらという感じですが、とりあえず
・[言焦]の夏侯氏:魏の帝室と累代縁戚関係にある名門。
・泰山の羊氏:晋帝室と縁が深く、軍事・政治双方から司馬氏を支えた名家。
・陳留の蔡氏:漢末の争乱で痛手を負った学者一族。
この三つの家は幾度も婚姻を重ね、優秀な人材を輩出していたようです。
西晋辺りになるとかなり貴族制が進んできたようですが、
羊コの血統表を眺めているだけでもその一端が感じ取れるような…

241 名前:japan:2003/11/08(土) 13:09
※おまけ:夏侯淵伝の疑問について

夏侯淵伝の裴注に引く『世後』に以下のような記述があります。

「夏侯荘は、晋の景陽皇后の姉の夫に当り、そのおかげで、
彼の一門は当時にあって、はぶりをきかせた」

晋の景陽皇后=羊徽瑜は羊コの姉。
しかし、辛ピ伝に引く同じく『世語』では
夏侯湛は辛憲英の外孫とされています。

考えられる可能性としては、
(1)夏侯荘は羊氏から二回妻を迎えている。
・一人目:羊コや羊徽瑜の姉
・二人目:羊耽と辛憲英の娘。彼女が夏侯湛を産んだ。

(2)ちくまの誤訳、もしくは原典から間違っている。
二人の羊皇后(羊徽瑜と羊獻容)を取り違えた、或いは世代を数え間違えたなど、
引っ掛かりそうなポイントがいくつかあるのが気になります。

付け焼刃で調べた知識なので、勘違いや見落としも多いと思います。
詳しい方からフォローをいただければ幸いです。

242 名前:★ぐっこ:2003/11/09(日) 01:49
しっかり清流ネットワークのコアな位置にいる超エリート、羊コさん。
っていうか、改めてその血統を見ると、本当に凄い…(゚Д゚;)
権門にあまり関わって無さそうな蔡氏と縁続きというのがアクセントに
なってますが(^_^;) そういえば、党錮で捕まった名士の中に、泰山の羊氏
が一人いたと思いますが、羊コと同じ一族だったかも。

などと役に立たない事を書き散らして、もうひとつの話題の夏侯氏問題から
逃げてますが(^_^;)、 どなたかフォローをばプリーズ。

243 名前:japan:2003/11/12(水) 23:57
>そういえば、党錮で捕まった名士の中に、泰山の羊氏
>が一人いたと思いますが、羊コと同じ一族だったかも。

『党錮伝』を確認してきました。八顧の一人である羊陟ですね。
羊陟は泰(太)山梁父の出身、羊コは泰山南城の出身なので
直接的な血のつながりは無いかもしれません。
でも『羊コ伝』によれば、彼の家は九世にわたる名族であったそうですから、
泰山郡の全域に同族が住んでいたとしても不思議はないですよね。

豫州・青洲の名士ネットワークに繋がる「泰山の羊氏」という一族の存在を
想定すると、漢末から晋へと続く清流の系譜がまた一つ明らかになった気がします。
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m

244 名前:★ぐっこ:2003/11/30(日) 01:36
激しく遅レスですが…
三国志事典15X-31Xさま→http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/
の事典・羊陟の項で、蔡一族と数代にわたる交友があったことから、
南城羊氏との関連が触れられてます。
ざっと蔡邕傳を見てみると、確かに司徒・劉郃がらみの弾劾騒ぎがあった
おり、隅っこのほうに小さく
「太山黨魁羊陟與邕季父衛尉、質對門九族」とありました。
「泰山の党人の首魁?羊陟と、蔡邕の叔父・衛尉卿の蔡質は〜」という前半に続き、
後半部分の「封門九族」が、なんかソレっぽいのではないかと(^_^;) 亡命中も
羊氏と連絡をとっていたようすし…

245 名前:MM2:2003/12/03(水) 10:50
どうもお久しぶりです。

羊陟の一族と羊コの一族についてですが、誤訳しててわかりにくくなってました。
後漢書集解の蔡ヨウ伝に「欧陽尚書九族妻族二対門九族乃妻族也…」とありまして、
「『欧陽尚書』によると「九族妻族二」とあり、「対門九族」とはすなわち妻族のことである」
という意味ではないかと。

蔡ヨウの一族と羊陟の一族は妻の一族を介して縁続きで、更に蔡ヨウの外孫に羊コがいます。
言及はされていませんが一族の可能性は高いと思います。

246 名前:MM2:2003/12/03(水) 11:00
連続ですみません。

>蔡ヨウの一族と羊陟の一族は妻の一族を介して縁続きで、
妻の一族を介して…ということではなく、蔡氏と羊氏は互いに娘をやって姻戚同士だったという意味かもしれません。

247 名前:japan:2003/12/04(木) 23:55
ぐっこ様、MM2様、羊陟に関する情報をありがとうございました。
三国志事典15X-31X様も拝見してまいりました。
「泰山の党人の首魁」にして蔡ヨウの一族とも姻戚関係がある。
ますます羊コと親戚筋にある可能性が強くなったように思います。
『晋書』羊コ伝の冒頭に「至コ九世、並以清徳聞」とあるのも
累代清流派士大夫の家系であったことを示唆していますし。

248 名前:★ぐっこ:2003/12/04(木) 23:58
あ、ご無沙汰しておりますー!
そしてアドバイスありがとうございます!
あー、集解で注釈されるくらいマイナーな表現でしたか…。
太山黨魁羊陟與邕季父衛尉質對門九族
に限って言えば、羊陟か蔡質のどちらかの妻の一族が、先方と
繋がっている、と限定できるかなあ。…と思えば>>246の考え方
もあるわけで…
ともかく、蔡邕と羊コは縁続きなわけですし、ヤハリ泰山諸県に、
それなりの数の分家が散らばっていた、というところでしょうか?
MM2さま、貴重な情報ありがとうございました!<(_ _)>

249 名前:japan:2003/12/05(金) 00:14
あと>>241の訂正ですが、

>晋の景陽皇后=羊徽瑜は羊コの姉。

すいません、この記述は私の勘違いでした。
というか「晋の景陽皇后」などという人物は存在しませんでした。
……ハイショーシ君、ドウイウコト?

晋景帝=司馬師の皇后として『晋書』に立伝されているのは
 ・景懐夏侯皇后:夏侯徽(夏侯玄の妹)
 ・景獻羊皇后 :羊徽瑜(羊コの姉)
の二人。どちらの諡号も「陽」ではありませんでした。
司馬師はこの二人の他に呉質の娘も妻にしていますが、彼女は子も無いまま離縁されて
皇后が追贈されている様子も見受けられません。

でもって、もう一人の羊皇后――羊獻容の晋書における記述は「惠羊皇后」なんですよ。
「惠羊皇后」と「景陽皇后」。「羊獻容」と「景獻羊皇后」。
……ますます二人の羊皇后の記述が交じり合ってしまったような匂いがします。

250 名前:★玉川雄一:2003/12/05(金) 00:30
>景陽皇后って誰やねん?
私もコレ、不思議でしょうがないのデスが。

ごっちゃになってるのか別人として存在したのか?
皇后クラスの記録が一人分抜け落ちるというのもアレですど。
やはり混同説が怪しい気がしますが…

真実はひとつですし、それがもし仮に実はとんでもなくアホらしい理由だったとしても、
今となっては真相は歴史の闇の中…?
何か別の角度からスパッと解決するような史料はないものでしょうかね。

251 名前:むじん:2003/12/07(日) 02:19
集解に…(^^;

252 名前:★玉川雄一:2003/12/07(日) 09:50
Σ(゚Д゚;)

ま た 集 解 か _| ̄|●

これはもうむじんさんをラチカンキンした上で一日18時間集解漬けにして、
一刻も早く全訳を世に広めて頂くしかないんじゃなかろうか?

自分でも努力しろ

253 名前:★ぐっこ:2003/12/07(日) 13:41
>>251
Σ(゚Д゚;) 詳細を!
集解欲しいよ。


って前の蒼天スレと同じやん…
義兄上、やっちゃおうよ。むじんさま拉致っちゃおうよ。

254 名前:むじん:2003/12/08(月) 04:26
うわぁぁぁ拉致るれろろろ(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
拉致られる前にげろっちゃう。

『夏侯淵伝』荘,晋景陽皇后姉夫也.
(集解)何シャク曰:「陽当作羊.此晋景献皇后也.」
陳景雲曰:「陽・羊古通用.欧陽集古録後漢熊喬跋碑云,碑中言:治欧羊尚書,以陽為羊.」
弼按晋書后妃伝,作景献羊皇后,后父ドウ,后母陳留蔡氏,漢左中郎将ヨウ之女也.
又案晋書羊コ伝,コ父ドウ,コ蔡ヨウ外孫,景献皇后同産弟.
拠此則ドウ有二婿,一為夏侯荘,一為司馬師也.

『夏侯淵伝』夏侯荘は晋の景陽皇后の姉婿である。
(集解)何シャクは言う。「陽は羊と作るべき。これは晋の景献皇后である。」
陳景雲は言う。「陽と羊は古代では通用していた。『欧陽修集』の古い記録では後漢の熊喬の碑文の奥書にいわく、碑文中に(熊喬は)『欧羊尚書』を修めたと言う。陽を羊としているのだ。」
盧弼が『晋書』后妃伝を調べてみると、景献羊皇后と作り、皇后の父は羊ドウといい、皇后の母は陳留の蔡氏で漢の左中郎将蔡ヨウの娘とある。
また『晋書』羊コ伝を調べると、羊コの父は羊ドウといい、羊コは蔡ヨウの外孫で、景献皇后の同腹の弟であるという。
これによれば、羊ドウには二人の娘婿がおり、一人は夏侯荘、一人は司馬師である。

つなみに陽と羊は現代語でも同じ発音(Yang2)ですね。
ああ、それと陽の字は少しあとの東晋時代の諱字になってます。本件とは関係なかったですが。
こんな感じです〜。

255 名前:japan:2003/12/08(月) 20:29
>むじん様
詳しいご解説をありがとうございました。
景陽皇后=羊徽瑜でFAだったんですね。喉の小骨が取れた思いです(^^)

>陽と羊は古代では通用していた。
そう言えば「三陽開泰」を「三羊開泰」と書いたりしますしね。
陽=羊と置き換えられる場合があるんだ…すっかり忘れてますた_| ̄|○

ただ、そうするとやっぱり『辛ピ伝』裴注の「夏侯湛は辛憲英の外孫」という記述が
おかしくなってくるんですよね。
羊コの姉妹が母親なら、祖父は羊ドウではなく羊耽になるはずなのに…
>>241で書いたとおり、夏侯荘が再婚したと解釈するしかないのでしょうか。

>ぐっこ様
>集解欲しいよ。

禿同です。大分前に某書店で在庫が無いか聞いてみたら、
「台湾からのお取り寄せになりますが…」とのことでした。
当時SARSが大流行していたので二の足を踏んでしまったのですが、
ウイルスが怖くて三国迷がやってられるか! と特攻すれば良かったです(´・ω・`)

256 名前:japan:2003/12/08(月) 20:49
すいません、またしても書き間違いです。

×羊コの姉妹が母親なら、祖父は羊ドウではなく羊耽になるはずなのに…
○羊コの姉妹が母親なら、祖父は羊耽ではなく羊ドウになるはずなのに…

ああ、もう紛らわしい…これでは誤記(?)が生じるのも仕方が無いかもしれません。

257 名前:むじん:2003/12/09(火) 15:40
それも集解に触れられてますが、あまり深入りせず、
「夏侯湛は羊ドウの外孫じゃろが」の一言で済ませてる模様です。
夏侯淵伝でも辛毘伝でも『世語』を引いてのことですから、
やはり誤字で片付けるのが正解かも知れないです。

258 名前:★ぐっこ:2003/12/10(水) 23:31
むじん様ありがとうございます! …拉致漏らしたか…
うーん、やはり文中の疑問をサクッと解決する人々がいるのですねえ…
景陽皇后=羊徽瑜…さきほど図で書いてみて、ようやく合点がいきました(^_^;)
一字の違いが、ここまで事態をややこしくさせるとは…
それに、世語関連は誤字多し? うーむ…

>集解欲しい…
欲スィ…
以前お値段的には購買可能と決断したのですが、分量ってば、どのくらい
なもんなんでしょうか? ハードカバー正史1巻分(日本語だけど)=1セイシ
と単位付けると、「三国志集解」は何セイシくらいなんでしょう…

259 名前:むじん:2003/12/11(木) 01:55
中華書局版ですと精装B5判で1150ページほどになります。
厚みは1.8倍、紙面は1.5倍くらいかな。大きさでいえば2.7セイシ。
新聞紙のような紙材を使っているのであまり重くはないです。
26文字で1行、それが20行づつ上下に2段。裴注や集解はもっと小さいポ

文字数でいうと2*3セイシくらい。陳寿本文+裴松之注≒盧弼集解な感じ。
しかーし、これだけ分量あるのに1冊にまとめてしまってるんで、
開きにくいし、背も傷みやすいです。
後漢書集解みたいに上下2冊組みにしてくれたらよかったのにぃ……。

260 名前:★ぐっこ:2003/12/11(木) 23:44
むじんさま、引き続きありがとうございます!

げ、3セイシくらいは覚悟しないとダメなのか!和刻モノ後漢書で1600頁、三国志
でも1000頁くらい…まあ分量はそんなものか…。
うーん、後漢書全コピでキングファイル3冊使ったからなあ…
同じ規模を考えねばならんのか…って、買った方が遙かに安いのか、
この場合。

本は…会社のミニ製本機で無理矢理上下巻にしてしまうとするか(^_^;)
やっぱりナニゲに良いこと書いてあるし、買うべきだろうなあ…

261 名前:MM2:2003/12/12(金) 02:08
またしてもどうも。

>集解
芸文書印館版も中華書局版と殆ど変わりませんね。こっちだと1218ページになってますが、内容は同じだと思います。
ハードカバー正史を知らないのですが、中華書局の三国志と比べると中華書局版1〜4(呉書除く)≒集解くらいの分厚さです。
内容はむじんさんのおっしゃられるとおりで付箋がないと辛いです。

それと三国志集解は後漢書集解に比べて印刷が格段にいいですね。

262 名前:★ぐっこ:2003/12/14(日) 10:49
MM2さまも、情報ありがとうございますー。
ああ、2バージョン出てましたか。内容はそれほど変わらず。
ということは、ページ絞っている中華書局版の方が扱いやすいかな…。
それと、インデックス必須と…φ(..)
2-3セイシで、しかも白文。なかなか読み応えはありそうです。

あ、そうだ、後漢書集解のお話が出ましたが、こちらも似たようなボリュームか、
もうちょっと多いのでしょうね…。まあ、私は三国志関連の調べ物しかしないので、
読むところと言えば限られてますが。

263 名前:むじん:2003/12/14(日) 15:32
おばらさまのサイトで後漢書/三国志集解の写真が掲載されました。
見たところ芸文印書館のも中華書局と同じ底本の影印ですね。
三国志集解では古籍出版社本、後漢書集解では虚受堂刊本を使用しています。
とすると、ページ数の違いはやはり校勘記の差か…?
写真で見た感じでは芸文印書館本のほうが装幀がしっかりしてるような…?中華書局はもろい。
紙質も芸文が上かな。中華書局はもっとひねた感じ。
しかも値段も安いときたもんだから芸文印書館がおすすめですぜー。

後漢書集解も本の大きさは同じくらい。
表紙の分だけ少し厚みがあるだけです。上下2冊組みです。
紀伝:集解の比率は5:5程度ですが、志では集解の比重が高くなっています。
ただでさえ活字が汚いのに、割り注の割り注になっているところもあり死ぬほど見づらいです。

264 名前:★ぐっこ:2003/12/15(月) 01:41
やや、むじんさま、ありがとうございます!
早速確認!
http://www3.to/kanso
の、「本?」のコーナー。
なるほど、芸文印書舘版は「二五史」シリーズの分冊か…。たしかに装丁も
しっかりしてるし、紙も綺麗。それに安い…!?
むう、ゲトするなら間違いなくこちらで揃えた方が良さそうですね…

後漢書集解も…読み応えは相当にあるんでしょうねえ…(;´Д`)

265 名前:むじん:2003/12/19(金) 18:26
王先謙の後漢書集解は、ほとんど盧弼の三国志集解に引用されてますからね。
三国関連の情報を得るためなら三国志集解だけで充分かと。
ただ(続漢書)郡国志の集解は三国迷にとっても貴重な情報ですよ。
馬與龍という人が歴代の太守やら県令やらを拾い上げてくれてます。

266 名前:★ぐっこ:2003/12/20(土) 01:17
なるほど! 三国志集解の方に、かなり後漢書集解中の記述が
引用されてるですか! じゃあ、だいぶ重複するわけで、三国志
集解だけで私の場合事足りるか…

>郡国志の集解
Σ( ̄□ ̄;)!!
こ、これ欲しい! これだけのために後漢書集解買ってもイイくらい!
これまさか全部の郡の歴代太守を網羅してるワケじゃありませんよ…ね…?
もししてたら神!してなくても十分神! ぐわ、欲しくなってきた…

267 名前:むじん:2003/12/20(土) 05:26
どうなんでしょうね〜!(^^;
見た感じでは完全網羅しようとしていることだけは分かりますが、
果たして漏れがないかどうかまではちょっと確認できず。
数え間違いがなければ、光武帝から献帝までの時期の河南尹が66人ほど。
あと河南郡人が16人くらい。県レベルまで分かっている人は各県人に編入。
『後漢書』『三国志』のほか『水経注』からもピックアップしているようです。
馬與龍が数え上げているのは、刺史、牧、別駕以下の州吏、太守、相、郡丞以下の郡吏、
県令、県長、王、侯、郷侯、亭侯、郡人、県人などといったところ。
よかったら河南尹・洛陽県だけでもコピペしますけど目安にどうです?

後漢書集解の下巻は左周黄列伝第五十一から始まっていて、
三国関連の人物はほとんどこちら側に含まれていることはご存じの通りです。
下巻だけでも「買い」かも知れないですねー。

268 名前:MM2:2003/12/20(土) 21:54
後漢書集解の上巻ですが、芸文書印館版だと虞傅蓋臧列伝四十八までですね。
つまり下巻は張衡伝第四十九上(四十九下が蔡ヨウ)から始まりますので本当に下巻だけでも殆ど用が足ります。
上巻で三国志とモロかぶるのは帝紀+皇后紀ですかね。後は各地の皇族諸王侯の列伝くらいですか。

269 名前:★ぐっこ:2003/12/21(日) 01:58
>>267むじん様
(゚∀゚)! 試みとしては完全網羅しようとしてるわけですか!?
えらいヤシだ馬與龍! でも県吏レベルまで掘り下げるとなると、
相当な人数になるでしょうに…。
やはり昔からこういうのに骨惜しみしないマニアがいたということか。
>よかったら河南尹・洛陽県だけでもコピペしますけど目安にどうです?
Σ( ゚Д゚)きぼん…!

>>268 MM2さま
あ、芸文書印館版だと微妙に収録数が違うようで…って、蔡邕でんまでカバーして
くれてるならばより有難い!それでお値段設定も高くないということで、買うならば
間違いなくこちらの下巻ですな(;´Д`)ハァハァ…
皇族諸王…目立たないけど以外にビッグだった皇族にも惹かれてるので、こちらも惜しいなあ…
桓霊のあたりで、それなりに名前の知れてる皇族って何人くらいいたものなんでしょう?

270 名前:むじん:2003/12/21(日) 05:21
それでは改行抜きで一気に参ります。誤字脱字はご容赦。

【河南尹】馬與龍曰:河南太守馬況見馬援傳注,武勃見馮異傳,丁綝見丁鴻傳.河南尹歐陽歙・王梁見本傳,(割注略)張伋見光武紀,宋嵩見宋弘傳,范遷・薛昭見明帝紀,郭賀・袁安・召馴・張酺・郭鎭見本傳,郭唐見任光傳,曹祉見歐陽歙傳,王調見宋意傳,應順見應奉傳,蔡嵩見袁安傳注,龐奮見南匈奴傳,周暢見周嘉傳,鄧豹見鄧后傳,田歆見种暠傳,趙戒見李固傳注,梁冀・梁不疑・梁胤見梁冀傳,霍諝・羊陟・杜密・橋玄見本傳,房植見黨錮傳,鄧萬世見鄧后紀,何豹見寇榮傳,李膺・楊秉・劉祐・馮緄傳見本傳,朱野見朱穆傳,朱瑀・徐灌見靈帝紀,何進・何苗・許相見何進傳,朱儁・袁術・王允見本傳,楊懿見儁傳,駱業見何后紀,陳導見水經河水注,崇隗見穀水注,趙越見清水注,董昭・夏侯惇・司馬芝・裴潛見魏志本傳,龐迪見邴原傳,王肅・王恂見肅傳注,劉靖見劉馥傳,夏侯和見夏侯淵傳,呂粹・阮炳見杜畿傳注,李勝見曹爽傳,傅嘏・王觀見本傳.丞雙福見穀水注.河南都尉公孫仁見公孫述傳.仕郡孫堪見周澤傳.又郡人召夔見周勰傳,呉雄・子訢・孫恭見郭躬傳,尹存見李固傳,趙建章見臧洪傳注,孟彧・張延見靈帝紀,任棠見龐參傳,單超・單安・單匡見宦者單超傳,麹聖卿見方術解奴辜傳,潘勗見魏志衛覬傳,趙達見呉志達傳,徴崇見程秉傳.
【雒陽】馬與龍曰:雒陽令董宣・索盧放・虞延・周紆見本傳,李阜見樂恢傳,楊光見鄭弘傳,王渙・任峻見渙傳,陳歆見張奮傳,种兢見班固傳,祝良見龐參傳,呂放・呂禹見梁冀傳,袁騰見寇榮傳,虞祁見竇武傳,孔昱見本傳,周暉見周景傳,周異見呉志周瑜傳,司馬防見魏志司馬朗傳,江雙見穀水注,徐循見河水注,荀融見荀彧傳注,鄧颺・李勝見曹爽傳注,劉焉見蜀志焉傳.雒陽市令淳于翼見五行志.市丞石脩見耿恭傳.門候郅惲見本傳,何湯見穀水注.又縣人孟彧見靈帝紀,(割注略)慶鴻見廉范傳,韓鴻見呉漢傳,种暠・子岱・拂・拂子邵見本傳,郭賀・祖父堅・伯父游君見本傳,孟光見蜀志光傳.

ここでは河南尹・雒陽に付された馬與龍の集解だけを取り出しています。
さすがに首都だけあって多数の名が挙がっていますが、周辺ともなると十分の一くらいでしょうか。

271 名前:★ぐっこ:2003/12/21(日) 23:59
Σ(;´Д`) うお!? むじん様グッジョブ!
なるほどお、全伝・紀・水経河注から名前を抜き出して、順番に並べるという地道な手順で…!
うーむ、河南尹のポストなんか今まであまり注目してなかったのですが、確かに三国時代の
見知った顔がずらずらと。首都圏長官職なわけで桓〜霊のあたりなんか、政変に関わってる
連中の顔ぶれもよくわかる(^_^;)

うーん、洛陽令職も充実してますねえ…。曹操がなりたかったというだけあって、これまた
有名な顔ぶればかり。あ、周瑜パパに司馬望ハケーン。

272 名前:MM2:2003/12/23(火) 01:38
更新ミスっててブルーなMM2です。


皇族といえば最近読んだ石井仁「曹操」に後漢末の曹操領内に現存していた皇族について(メモ程度ですが)書かれてました。

帝紀を読むと嫡流に近い皇族なんかは薨じた時期が載ってるので列伝と併せると、どのくらいの時期の人か絞るのは簡単ですね。
ビッグな皇族といえば皇帝の兄弟とかになるんでしょうけど、桓帝の場合は名前の残ってる兄弟が結構いる(安平王豹、河間王建、勃海王カイ、長社公主、益陽公主 ※長社公主の夫は雲台二十八将の耿ショウの弟の子孫耿授、益陽公主の夫は同じく雲台二十八将の寇恂の子孫)のでその辺の力が強かったのでしょう。
霊帝は不思議なことに名前の残っている兄弟が見えず、董后(霊帝の生母)紀を見ると董后の兄弟とか縁者の名前が結構挙がってますね。桓帝の梁氏ほどではないにしろ、外戚が強かったんでしょう。

最近雲台二十八将の子孫についても着目してます。二十八将の子孫て後漢末まで結構残ってますよね。本当に前漢と違って子孫の残りやすい環境なんですね、後漢王朝というのは。

273 名前:★ぐっこ:2003/12/24(水) 01:54
激しく同意!
私も彼らの後の世代が気になります…。はっきりと分かってる呉漢や
昶Zらの子孫の他に、どういう人がいたのでしょう?
仰るとおり後漢王朝の性質上、宿将連中がけっこう子孫繁栄していて、
外戚系だとかなり後まで羽振りを利かしてるみたいですし。
後漢書の彼らの伝だと、末期までサーチできる人物ってそんなにいないのが
残念。せいぜい孫の代くらいまで封地引き継いだ人間の名前列挙して終わり。
彼らの子孫が、三国志前後でどういう評価を受けていたのか知りたいですねえ…

>皇族
霊帝は、特に絶対皇帝になれっこなさそうな地方の亭侯クラスの皇族をひっぱって
きたんでしたっけ…? それで親族縁者が乏しかったとか。

274 名前:むじん:2003/12/24(水) 03:15
劉備の養子劉封が羅侯寇氏の出自ってのがどうもなぁ。
むしろ鄧氏じゃないかと…。どう思われます?
三国志集解でもスルーなんですが…もし二十八将の子孫だったら…おいしいね。

275 名前:★ぐっこ:2003/12/25(木) 01:01
>>274
なんだって――――っ!?

どれどれ…って調べようと思ったら、なんで昶Zの子孫ってこんなに
詳しくゾロゾロ列挙されてるんだ(^_^;) ちとじっくり調べられないので
先に質問してしまいますが、誰か子孫が羅侯に封じられてるんでしょうか?
羅っていったら、長沙のあたりですよねえ…

そういえば昶Zも新野の人。搦ナは新野にほど近い義陽だからわかりやすいが…
もし劉封=摯浮セとすれば、かなりハァハァなんですが。

276 名前:むじん:2003/12/25(木) 03:04
いやー、それがよくわかんないんですよね。

鄧禹の孫娘が和熹皇后なんですが、彼女はかなりのお兄ちゃん子だったようで、
鄧隲は史上初の儀同三司になってたりします。兄妹で安帝を擁立しました。
鄧隲は謙虚な人柄で、何度も宮中を去って屋敷に帰りたいと訴えましたが、
太后は一年余りも渋ったのち、ようやく許可します。
鄧隲は弟三人とともに万戸侯に封ぜられますが、兄弟そろって堅く辞退、
とうとう勅使に見つからないよう逃げまどいながら宮中に参内して直訴します。
太后は許可せず、その遣り取りが5〜6回繰り返されてやっと認められたのでした。
鄧隲は倹約を心がけ、苦役を免除してやり、数多くの名士を推挙しました。
母の喪が明けると、また詔勅によって前職に戻れと命じられましたが、これも叩頭して辞退。
太后が逝去し、安帝は長じるとともに暗愚な君主へ…。
鄧氏に怨みを持つ者がいて、鄧隲の弟が平原王擁立を企てたと讒訴、
安帝の怒りを買った鄧氏はみな罷免され、ある者は自殺し、
鄧隲は羅侯へと転封され、そこで絶食して死にました。

その後の羅侯がどうなったのか、後漢書には記されていないようです。
劉封の祖先が鄧隲であるという確かな証拠はないんですが、
それ以上に、寇氏と羅国のあいだに接点を見出せないんです。見落としなのかな。

277 名前:★ぐっこ:2003/12/26(金) 01:04
うい、ありがとうございます、むじんさま!
中央研究院の方で“羅侯”検索かけると、なるほど、寇恂の方は
かすりもせず、晁ォや竇憲のほうでヒットしました…
うーん、劉封自身の伝には長沙劉氏との繋がりも記されていたので、
あのあたりには外戚から派生した一族が勢力を張っていたのかな…?
確かに調べれば調べるほど面白い! 雲台二十八将の誰の子孫にあたる
のか…。(←とも限らないのか)

つうか、晁ォってひとも、よい外戚の鑑みたいな伝ですねえ…。初の儀同三司!?
搗セ后もかなりのやり手だったみたいだし…

278 名前:左平(仮名):2004/05/23(日) 23:27
僭越ながら、サルべ−ジ致します。「オ−ル讀物」の「戦国名臣列伝」に、一つネタがありましたので。
内容は、四方山の「宮城谷センセ総合スレッド(三国志以外)」に書き込みました。

279 名前:MM2:2004/11/15(月) 23:57
図書館行って先日の論文が載ってる本(雑誌)借りて、
ついでに渡邉義浩先生の「後漢国家の支配と儒教」を借りたら腰を抜かすくらいの資料があってびびりまくってしまいました。
こりゃじっくり読むためにも一冊買わねばなと思ったのですが値段が物凄いですね。文庫化は望めないのでしょうか。

ところで今回はご教授願いに参りました。
上のほうで安定皇甫氏について書いているので、知ってる方がいましたらお願いします。

皇甫氏の血縁者を調べてたら晋書の方で出るわ出るわ。
ざっと系図を書き出したのですが、この周辺の人達の横の繋がりなどの情報がありましたらお願い致します。

棱─旗┬節┬嵩┬堅寿
   │ │ └○─○─謐┬童霊
   │ │       └方回
   │ └○─酈
   └規
=================
○┬重─昌(養子)
 └商
=================
○┬○┬典
 │ └真
 ├○─○─奮(真従子)
 └○─○─覆(真従子)


↓上の人たちとの血縁かと疑わしい人たち

安定 皇甫隆
安定功曹 皇甫澹
安定 皇甫
安定長史 皇甫序
安定 皇甫岌

280 名前:★玉川雄一:2004/11/16(火) 01:26
横の繋がりは分からんのですが、
晋書のどこかで皇甫方回の子だか子孫というのを見かけた記憶があります。
どこだったかなあ、確か東晋の咸和年間(330年前後)辺りの誰かの伝の文中だったと思うのですが。

281 名前:MM2:2004/11/19(金) 23:58
情報ありがとうございます。調べてみます。

こういう、(例え遠くても)血族かなーと思ってもそれを事実とできるだけの根拠がない場合って歯がゆいですよね。
段氏や羊氏など、挙げれば数え切れないほどそういう豪族がありますが、家系図作ってるときは特にそういう歯がゆさを感じることがあります。

282 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:13
 ■皇甫方回
あー、ごめんなさい、私の勘違いだったみたいです。
晋書列伝第四十六の王[广異](オウヨク)伝の記事で、

「王[广異]が荊州刺史となった際に、前任者だった陶侃の故将や
徴士の皇甫方回などを大いに誅戮したので人望を失った(意訳)」

という個所のことだったと思います。子孫でなくて当人でしたね。
時期としては、王[广異]は荊州刺史となった際に前任者である陶侃の旧部下が
彼の就任を拒んで叛徒・杜曾と結託したため着任が遅れたようで、
着任が“杜曾の乱”の完全鎮圧後とするならば319年ということになり、
皇甫方回の殺害もその頃ということになるでしょうか。

 ■系図のミッシングリンク
私も自分のサイトで系図を作っているのでよく分かります。
とりあえず本籍の県レベルまで同じならば血族であることは堅いんですけど、
系図を作ろうとするとやはり“繋げて”みたくなるんですよね。
そして文献を読んでいて困るのが、「そこに記載されていない人物の存在の可能性」ですね。

“Aの子にB、(Aの)孫にC”とあった場合でも、BとCが親子とは限らないわけで、
実はAにはBの他にDという子があり、Cはその子だったという可能性もある。

従弟などの関係でも微妙なところで、
“AとBは兄弟、Aの子にC、Cの従弟にD”とあっても、
BとDが親子とは言い切れない。

ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。
そして羊氏は泰山の羊氏?
鮮卑段部においても、段匹テイの従弟とされる段末杯(末波)は、
匹テイの父・務勿塵の弟である渉復辰の子と断定できるのか?

この辺は史書をしらみつぶしにあたるしかないですね。
思わぬところでサラリと触れられていたりする場合もありますし。
系図作成に関して他にも情報を補完し合えたらいいですね。
その際はまたよろしくお願いします。
とりあえず拙作を参考までに。三国〜晋(の途中まで)です。

http://triglav.ld.infoseek.co.jp/keizu000.html

283 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:24
ところで、皇甫姓って安定以外に本籍を持つ系統ってあるのでしょうかね。
本籍不詳の皇甫氏は他にもちらほらと登場しますが…

284 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:55
>>282
失敬、晋書皇甫謐伝の末尾にも皇甫方回の記事はあったのですね。
そちらでも、彼が王[广異]に殺害されたとありました。

ただ、こちら(皇甫方回伝と呼びます)では、
陶侃に替わる王[广異]の着任を阻もうとした勢力は杜弢(トトウ)と結託したとありますが、
杜弢の乱は315年に鎮圧されており、その時点ではまだ陶侃が荊州刺史でした。
陶侃が王敦により廣州刺史へと左遷された時期は特定できないのですが、
315年の時点ではまだ荊州刺史であり、318年には既に廣州刺史となっています。
少なくとも杜弢が反乱している間は陶侃が荊州刺史だったことは確かであり、
皇甫方回伝の記述は矛盾してしまいます。

一方で元帝紀などの記述にもあるように317年に荊州で「杜曾」と第五猗が連合して反乱しており、
これは王[广異]伝にある彼の荊州刺史着任阻止の記述とも一致するので、
皇甫方回伝の「杜弢を迎えて[广異]に叛する」は「杜曾」の誤記ではないかと推測されます。
ちなみに同伝の上記の直前の個所でも、皇甫方回が陶侃を諫めた言葉の中に
「足下は新たに杜弢を破り」とあるのでやはり杜弢の乱が鎮圧された後だと考えられます。

色々と書きましたが、どちらにせよ皇甫方回の没年は310年代後半だろうということで。

285 名前:MM2:2004/11/23(火) 00:37
引き続き皇甫氏についての情報ありがとうございます。

>ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。
>そして羊氏は泰山の羊氏?

紛らわしい書き方してました。すみません。前漢後期の西域都護段会宗を祖先に持つ武威郡の段氏です。
『後漢書』見てると北・西方の異民族討伐に活躍した段氏というのが何人か出てきているんです。
しかしその殆どが本籍不明なので手がかり0な状態です。
その中でも一番気になるのが段[火頃]と段[火畏]の関係で、両者とも武威郡出身という事だけ分かっています。

羊氏は泰山の羊氏です。羊続・[示古]の家系は結構出ているのですが、こちらも陳留蔡氏と姻族であったという、党錮伝に本伝のある羊陟の家系が気になります。
こういった何代にも渡って同じ姓から嫁がせているといった変わった家系には目がいきますね。

286 名前:★玉川雄一:2004/11/23(火) 01:39
>段氏
これは早とちりをばいたしました。
武威の段氏といえば「涼州三明」のひとり、段[火頃]などを出した氏族でしたか。
この辺りはぐっこさんなどが詳しいかと。

泰山羊氏は、世説新語の註を見ていると羊秘の系統が延びてゆきそうなので、
こちらを調べてみたいと思います。
また陳留蔡氏も晋代に何人か登場しており、
史料によって系譜に微妙な食い違いがあったりして調査の必要がありそうです。

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