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■ ★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★

1 名前::2002/10/27(日) 21:56

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時35分01秒 

ということで、どなたかご存じの方、教えてくださいませ!
今のところ松竹梅様の情報で、幽州の「盧家」が!
何でも南北朝時代の北朝で、相当な名家と賞されたとか…。
立地条件から言って、これはあの盧植の子孫・あるいは一門かもしれません!盧植の子・盧毓だって魏王朝の高官でしたし。

そういえば、誰かの子孫が西域記の玄奘になったいたような…。陳羣でしたっけ?

それとは逆に、薛(徐州)の田家の末裔が、三国時代に薛氏を名乗っていたという話もありますね〜。薛綜とかが、あの靖郭君や孟嘗君の子孫だったりする可能性も…

283 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:24
ところで、皇甫姓って安定以外に本籍を持つ系統ってあるのでしょうかね。
本籍不詳の皇甫氏は他にもちらほらと登場しますが…

284 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:55
>>282
失敬、晋書皇甫謐伝の末尾にも皇甫方回の記事はあったのですね。
そちらでも、彼が王[广異]に殺害されたとありました。

ただ、こちら(皇甫方回伝と呼びます)では、
陶侃に替わる王[广異]の着任を阻もうとした勢力は杜弢(トトウ)と結託したとありますが、
杜弢の乱は315年に鎮圧されており、その時点ではまだ陶侃が荊州刺史でした。
陶侃が王敦により廣州刺史へと左遷された時期は特定できないのですが、
315年の時点ではまだ荊州刺史であり、318年には既に廣州刺史となっています。
少なくとも杜弢が反乱している間は陶侃が荊州刺史だったことは確かであり、
皇甫方回伝の記述は矛盾してしまいます。

一方で元帝紀などの記述にもあるように317年に荊州で「杜曾」と第五猗が連合して反乱しており、
これは王[广異]伝にある彼の荊州刺史着任阻止の記述とも一致するので、
皇甫方回伝の「杜弢を迎えて[广異]に叛する」は「杜曾」の誤記ではないかと推測されます。
ちなみに同伝の上記の直前の個所でも、皇甫方回が陶侃を諫めた言葉の中に
「足下は新たに杜弢を破り」とあるのでやはり杜弢の乱が鎮圧された後だと考えられます。

色々と書きましたが、どちらにせよ皇甫方回の没年は310年代後半だろうということで。

285 名前:MM2:2004/11/23(火) 00:37
引き続き皇甫氏についての情報ありがとうございます。

>ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。
>そして羊氏は泰山の羊氏?

紛らわしい書き方してました。すみません。前漢後期の西域都護段会宗を祖先に持つ武威郡の段氏です。
『後漢書』見てると北・西方の異民族討伐に活躍した段氏というのが何人か出てきているんです。
しかしその殆どが本籍不明なので手がかり0な状態です。
その中でも一番気になるのが段[火頃]と段[火畏]の関係で、両者とも武威郡出身という事だけ分かっています。

羊氏は泰山の羊氏です。羊続・[示古]の家系は結構出ているのですが、こちらも陳留蔡氏と姻族であったという、党錮伝に本伝のある羊陟の家系が気になります。
こういった何代にも渡って同じ姓から嫁がせているといった変わった家系には目がいきますね。

286 名前:★玉川雄一:2004/11/23(火) 01:39
>段氏
これは早とちりをばいたしました。
武威の段氏といえば「涼州三明」のひとり、段[火頃]などを出した氏族でしたか。
この辺りはぐっこさんなどが詳しいかと。

泰山羊氏は、世説新語の註を見ていると羊秘の系統が延びてゆきそうなので、
こちらを調べてみたいと思います。
また陳留蔡氏も晋代に何人か登場しており、
史料によって系譜に微妙な食い違いがあったりして調査の必要がありそうです。

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