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■ ★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★

1 名前::2002/10/27(日) 21:56

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時35分01秒 

ということで、どなたかご存じの方、教えてくださいませ!
今のところ松竹梅様の情報で、幽州の「盧家」が!
何でも南北朝時代の北朝で、相当な名家と賞されたとか…。
立地条件から言って、これはあの盧植の子孫・あるいは一門かもしれません!盧植の子・盧毓だって魏王朝の高官でしたし。

そういえば、誰かの子孫が西域記の玄奘になったいたような…。陳羣でしたっけ?

それとは逆に、薛(徐州)の田家の末裔が、三国時代に薛氏を名乗っていたという話もありますね〜。薛綜とかが、あの靖郭君や孟嘗君の子孫だったりする可能性も…

36 名前::2002/10/27(日) 22:17

japan[関東] > (2001/08/01(Wed) 22:28:15)

潁陰の荀氏が荀子の子孫、というのは出典は何処なのでしょう?
やはり後漢書ですか?
以前そういう記述を読んでから、ずっと探しているのですが…

あ、あとこのスレの冒頭の盧植のご先祖様には、幽霊と結婚して子どもまでもうけた盧充なる人物がいます。(詳細は『捜神記』にて)
陸機が盧植の子孫を「幽霊の子」と罵っているところを見ると、当時から世間に流布していた話だったようです。
先祖が幽霊…ある意味、ご先祖様が孔子や荀子というより凄いかも。

37 名前::2002/10/27(日) 22:17

黒竜[関東] > (2001/08/01(Wed) 22:43:59)

後漢書「荀淑伝」に荀淑は荀卿の十一世の孫とありますよ。

38 名前::2002/10/27(日) 22:17

松竹梅[関東] > (2001/08/01(Wed) 23:53:49)

>黒竜さん
荀卿=荀況=荀子なのです(思い込みだったりして)。
あ、ということは私の記事間違ってる。荀イクは荀淑の孫なので十三世の孫ですね。何で数字間違ったんだろ、私。
>japanさん
なぜに陸機は盧植の子孫を罵ってますか?どんな過失が?

39 名前::2002/10/27(日) 22:17

japan[関東] > (2001/08/02(Thu) 23:56:02)

>黒龍様・松竹梅様
ありがとうございました! やっぱり後漢書ですか…欲しいけれど、全巻セットでないと買えないのがネックです。
(前に神保町の東方書店で後ろのほうだけ購入しようとして恥をかいた思い出が…)

>なぜに陸機は盧植の子孫を罵ってますか?どんな過失が?

出典は『世説新語』です。今手元にないので、細かいところは不正確かもしれませんが、大体以下のような話でした。

陸機・陸雲兄弟が呉の滅亡後、中原にやって来た時のこと。
盧テイなる人物が「あなた方と、陸遜・陸機とかいう人々はどのような間柄なのですか」と尋ねたところ、陸機はすぐさま「あなたと盧植・盧毓の関係と同じですよ」と答えました。

弟の陸雲が「先方も悪気があったわけではないだろうに、どうしてそんな無礼なことを」(※相手の父・祖父の諱を口にしている)と咎めると、「あの鬼子(=幽霊の子)め、わざとに決まっている。わが父祖は江南よりあまねく勇名が光り輝いているのだ。知らない筈がなかろう」と憤ったそうです。
この一件によって、世の論者は陸機・陸雲兄弟の優劣を決定しました。

やたらとレスが長くなってしまいました…すみません。

40 名前::2002/10/27(日) 22:17

japan[関東] > (2001/08/03(Fri) 17:53:19)

×陸遜・陸機とかいう人々
○陸遜・陸抗とかいう人々
   です。重ね重ねスミマセン。

41 名前::2002/10/27(日) 22:18

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年08月02日 (木) 01時28分32秒 

 >左平(仮名)様
あ、悪来ではなくその兄貴の子孫筋でしたか…。で、弟の筋が後の秦室に。
こう考えると凄い家系だったのですね、悪来の血筋は…。そういえば、中国の財神に趙公明というメジャーな神様がいらっしゃいますが、これはどうも殷の紂王の重臣がモデルだったとか。この筋でいくと悪来がそうかもしれませんね〜。

 >松竹梅様
まわりまわって考えると、趙雲ファンはすべて東儀秀樹ファンになるべきです(^_^) 東儀家おそるべし。楽家の家本さんも、秦室はともかく趙雲と先祖を共にする可能性が論じられてるなんて、想像もしてないでしょうね〜。

 >japan様  黒竜様
そうですね〜、後漢書のほうです。黒竜様、情報ありがとうございます〜!
それにしても、後漢書の完訳本、出版されないですかね〜。いや、どこかの大学が出版するというのは聞いた事あるんですが、なんせ高い!できれば図書館で借りたい…。
ところで、盧植のさらに先祖! こんどは幽霊ですか!? 盧植は人間と幽霊の間に産れたひとの子孫なんですか!?そ、捜神記探そうっと…。幽霊と結婚――なんかふた昔前のラブコメみたいな世界だったのでしょうか(;^_^A 

42 名前::2002/10/27(日) 22:19

japan[関東] > (2001/08/03(Fri) 00:14:59)

>それにしても、後漢書の完訳本、出版されないですかね〜。

贅沢を言えば、CD−ROMで出したりしてくれると最高なんですが(三国志も)。
特定の人物に関して調べるとき、巻末の索引をペラペラ捲らなくても一発サーチ! 凄く便利そうです。

>盧植のさらに先祖! こんどは幽霊ですか!? 

もひとつおまけに、盧植の八代後の子孫・盧循は妖術を使う賊の大将だったとか。(張角かい、あんたは…)
ご先祖は幽霊・子孫は妖術使い――ということは、盧植先生にも不思議パワーがあったりするかもしれません。

>中国の財神に趙公明というメジャーな神様がいらっしゃいますが、
>これはどうも殷の紂王の重臣がモデルだったとか。

この人も捜神記に出てきます。「赤い筆」という話に、
『天帝は趙公明・鍾士季など三人の将軍を遣わし、それぞれ幽鬼どもを督励して、下界の人の命を奪わせる』という一節があるのですが…
この「鍾士季」って、やはり鍾会のことなんでしょうか。
事敗れて死した後も、こんな来世が待っていたとは…ある意味彼らしいというか。 

43 名前::2002/10/27(日) 22:19

ふみ[四国] > (2001/08/03(Fri) 07:27:12)

昨日、東方書店のメールマガジンで、このようなお知らせが。

『後漢書』(全10冊・別冊1)
第1冊 本紀 一(巻一から巻五):2001年9月25日刊行予定 9,000円(税別)
第2冊 本紀 二(巻六から巻十):2002年1月25日刊行予定 8,600円(税別)
以後、半年に1冊刊行。
吉川忠夫 訓注 A5判 上製函入 平均500頁 岩波書店

「訓注本」で完訳本ではないようですが、現代語訳も一部つくそうです。別巻は、人名索引と地名索引だとか。ちょっとお値段、高めかな〜

44 名前::2002/10/27(日) 22:20


ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/03(Fri) 22:35:53)

 >japan様
三国志や後漢書のCD-ROM!!10万以下なら買います。たぶん(;^_^A 中央研究院サマの漢文全籍資料庫のCD-ROM版みたいなものでしょうね〜! あ、できれば書き下し文と現代語訳もつけて。
それにしても盧植一門、相当の鬼道一族だったのですね(¨;) 先祖は幽霊のカワイコちゃん(死語)と結婚し、子孫は妖術を使う…なるほど、盧植自身にも何らかのパワーがあっておかしくない! ち、学園三国志の盧植先生、女性にしとけばよかった(先生は魔女)…。あ、下のスレッドのレスになりますが、陸兄弟にそんな無礼を働いたのですか、盧テイなる男は。そりゃあ怒るでしょうねえ〜「鬼子」ですか…。
捜神記、いろいろと三国志キャラが出没してますね〜。災厄の神将鍾士季…なんかあの鍾会っぽいです(;^_^A イメージ的にもしっくり。

 >ふみ様
あ、情報ありがとうございます〜! ふみ様! 岩波書店からですか〜!
……って。ええと、全10冊…で…一冊8〜9千円…てことは……た、高い〜!とてもじゃないけど市の図書館が所蔵できるモノではございません〜!! ああ、どこかの大学図書館に頼み込んで入れて貰うしか…。でも欲しい〜! いま雲台二八将について知りたくて知りたくて。呉班のご先祖様とか…。

あ、そうそう、ご先祖スレらしくちょっとした豆知識ですが、蜀の[登β]芝や呉班は、光武帝を援けて後漢王朝をつくりあげた「雲台二八将」の子孫に当たります。呉班は大司馬・呉漢、[登β]芝にいたっては二八将筆頭の[登β]禹の流れを汲んでいます。
探せば他にも山のように出てくるでしょうね〜。

45 名前::2002/10/27(日) 22:20

松竹梅[北海道] > (2001/08/04(Sat) 07:45:31)

先祖子孫門生故吏スレには合わない話題ですが、

>japan様
鍾会は5世紀頃の道教経典で、疫災をもたらしいけにえを要求する
「大鬼王」とされ、祈祷で追い払うべき悪鬼として扱われていたそうです。
(詳しくはわかりませんが)
鍾会と同様「大鬼王」として扱われたのは、永遠のライバル[登β]艾や、夏侯嬰・蕭何・韓信らなどのほかに、蒋[王宛]がいたりします。

46 名前::2002/10/27(日) 22:20

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/05(Sun) 23:09:48)

な、なぜ!? [登β]艾はともかく、なぜ蒋[王宛]が!? 生け贄を要求する大鬼王の一人に!? それなら孔明や姜維のほうが……おっと。
――あ、そういえばいずれも漢中に影響力のある御仁ばかり。結局漢中の道教徒は魏も蜀も嫌っていた、ということでしょうか〜? それにしても意外ですね〜。

47 名前::2002/10/27(日) 22:20

孫ぽこ[北海道] > (2001/08/06(Mon) 01:46:13)

ちょっと最近噂の後漢書情報を。

ヤフーショッピングによると(無責任)
漢書・後漢書・三国志列伝選  平凡社2,427円  
後漢書1〜3 汲古書院16,000円  
後漢書  明徳出版社2,400円  
和刻本正史後漢書 1〜3 汲古書院6,796円

こんな所みたいですね。とにかく汲古書院のは高すぎて手がでません^^;。ということで私は明徳出版社の後漢書と平凡社の漢書・後漢書・三国志列伝選を買いました^^;。明日届く予定です。が・・・・どうも私が注文したもの完訳じゃなさげなんですわ^^;。うーん。それともう一つ。三国志とつながる時代としてもう一つ晋書がありますよね。これって完訳はないそうなのですが、

晋書  明徳出版社2,233円  
和刻本正史晋書 3  汲古書院6,500円  

というのが見つかりました。例によって明徳出版社の方は完訳ではなさげですが、汲古書院のは完訳じゃないのかな??しかも3があるということは12があると言うことですよね???どうなんでしょう??晋書の完訳があるとかなり呉の滅亡に関する新発見もありそうな感じがします。ということで明徳出版社の方の晋書も買いました^^;。内容はあとで報告しますね(⌒▽⌒)ノ 

48 名前::2002/10/27(日) 22:21

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/06(Mon) 22:38:41)

わ、後漢書情報ありがとうございます〜部長! なるほどお、現在確認できるのはその5シリーズですか〜。平凡社のぶんは、列伝選ですから烈女とか逸民とか清流のあたりですよね〜。明徳出版もぶんも列伝選で、ちょっと薄い本だった記憶が…。
今私が喉から手が出るほど欲しいのは、「和刻本正史後漢書 1〜3 汲古書院6,796円」です!! これが三冊まとめてのお値段でしたら、先祖の墓を売ってでも買うべきです! だって最初から返り点とかが付いていて解読簡単ですもの!
それと晋書! これも欲しいです! とくに和国本正史! これは3だけでこのお値段なんでしょうか〜? 二四史中最悪と言われながらも、貴重な司馬一族の伝や王濬伝・杜預伝などの晋初の名将たちを網羅した垂涎の書! これも欲しい!

49 名前::2002/10/27(日) 22:21

玉川雄一[関東] > (2001/08/06(Mon) 23:18:25)

私が大学の図書館で読んだ(つもりの)「晋書」(房玄齢撰)は、中華書局のバリバリ漢文版でしたが、テキストそのものは「和刻本」と同じなのでしょうか?
二四史とおっしゃられると同じかとも思われますが…

ところで、ぐっこさんは『解体晉書』というサイトをご存じでしょうか?
私は最近ご無沙汰しておりますが、晋書の日本語訳を目指しておられるサイトです。確かYAHOOで検索できたかと。

50 名前::2002/10/27(日) 22:22

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:03:01)

ああ、晋書本文の内容自体は同じだと思いますよ〜。ただ和刻本の方は、返り点や送り仮名が振ってあって読解がかなり楽です。大学図書館で借りたかったのですが、史学科の学徒連が延々と借りっぱなしで一巻しか読めず…。数ある正史のなかで、晋書は最も荒唐無稽で読めたものではないシロモノ、という史家の評価のようです。
あ、それと解体晉書! 三国輔臣賛提供のサイトですね〜!そういえばかなり長い間未チェックでした…。あそこも物凄く本格的なサイトですよねえ〜。全文訳となると、どれくらいの年月がかかるのか…。ふみ様の曹子建集なみに壮大なスケールです…。

51 名前::2002/10/27(日) 22:22

ふみ[四国] > (2001/08/09(Thu) 20:50:47)

岩波の『後漢書』追加情報です。「雲台二八将」は第3巻に収録されるそうです。半年に一冊だから、手に入るのは…一年後!?
それから、現代語訳はあくまで「注」の訳で、本文の訳はつかないようです。ちょっとがっくし…(-_-;)
「解体晉書」はぜひ完成させて欲しいですね〜。自分で訳したいほど『晋書』には思い入れがないので、気長に待っていようと思います。うちのサイトは…まあ…20年後くらいにはなんとか……(むにゃむにゃ)

和刻本、私は買ってませんが、原文がないと不便だから、中華書局の二十四史を持っています。5万400円(送料込)でした。置き場所に困ってます。^^; 

52 名前::2002/10/27(日) 22:22

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:54:04)

うわ〜二四史持ってらっしゃるんですか〜!!
いいなあ〜!通史でわかるわけですよね〜!ああ、私もそれくらいは揃えとかないと〜。
ところで後漢書情報ありがとうございます〜!少なくとも来年ですか…。自分で地道に訳す方が早いかも…。
ああ、曹子建、是非とものんびりと完成させてくださいませ! 

53 名前::2002/10/27(日) 22:43

黒竜[関東] 投稿日:2001年08月19日 (日) 01時04分06秒 

18000番踏みました。
最近は読み専門だったんですが(計算が苦手なモノで)…

それだけだとアレなので手土産代わりに先祖、子孫ネタを一つずつ。
三国時代の呉綱という人が漢初の長沙王呉ゼイの子孫だそうです。
あと、以前玉川さんの話にあった陶侃の曾孫が詩人の陶淵明だとか。

54 名前::2002/10/27(日) 22:43

玉川雄一[関東] > (2001/08/19(Sun) 21:41:36)

>陶侃の曾孫が詩人の陶淵明だとか。
そうらしいんです。ご指摘ありがとうございます。
以前本屋で陶淵明の本を見つけまして、冒頭の彼の系譜についての所だけ立ち読みしました(^_^)
あまりはっきりとはしていないようですが。

ちなみに晋書には、巻九四、列伝第六四の項に「陶潜伝」があります。彼が陶淵明ですよね。そこによると
陶侃−陶茂−(不明)−陶潜(元亮、365-427)
確かに、陶侃の曾孫ですね。んが。
陶侃伝(巻六六、列伝第三六)を見てみますと…
この巻には、最初に劉弘なる人物の伝があり、続いて陶侃、以下彼の子、甥の伝がズラリ。
陶侃(士行、257-332)
以下彼の子の陶洪、陶瞻(道真、?-328)、陶夏、陶キ(劉表の次男と同じ字)、陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱。
そして陶侃の兄の子の陶臻(彦遐)、陶興。

……………あら、陶茂は? そう、思いっきり怪しいのです。
私が立ち読みした本にもこの点がツッコまれていました。やっぱり晋書がいけないんでしょうか。

はっ、そういえば陶侃の父の陶丹は呉の交州刺史だったとか。まさか、ここにまで呉国超時空領域の魔の手が!?

55 名前::2002/10/27(日) 22:43

黒竜[関東] > (2001/08/20(Mon) 00:25:47)

そうなんですよね。
実は自分の手持ちの史料にもそう書かれているモノとそうでないモノがあります。
我が部屋から発見されたアジア歴史事典の一部の陶淵明の項目を見てみると…
 →陶潜 
(しかも陶潜の項は持ってない…) 

今週水曜日に神保町に行く予定なのでその手の本でも探しましょうか… 

56 名前::2002/10/27(日) 22:44
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/20(Mon) 00:27:44)

うお! 黒竜様!キリ番イチハチマルマルマルおめでとうございます〜っ!!キリ番一ポイント!偏将軍閣下です!
ところでまたもや子孫情報ありがとうございます! なんと、以前話題の交州刺史・陶侃のひ孫が、かの詩人・陶淵明! ううむ、案外武門の末裔に文化人がぽこっと出てくる場合があるのですね…。
それと、劉氏外姓の王・呉セイの子孫は、きちんと残っていたのですか〜!呉綱…というと諸葛誕の部下ですね〜。変れば変わるもの…。

>玉川雄一様
そして陶ファミリーにまたしても謎が!?
晋書がズバリ書き忘れているのか、帝の諱でも避けて改名したのか!?陶侃がうまれた年は、だいたい諸葛誕が叛逆した当時ですか〜。

57 名前::2002/10/27(日) 22:44

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/20(Mon) 00:29:05)

うわ、またオフラインの時間差が(;^_^A ↑
神保町いいなあ…。 

58 名前::2002/10/27(日) 22:44

おばら[関東] > (2001/08/20(Mon) 03:30:27)

むははは!またまた登場のおばらです。
呉鋼の祖先はあの謎多き呉ゼイですか・・・。
呉ゼイ(クサかんむりに内)は秦の役人出身です。ハ陽湖のほとりのハ陽県県令でした。彼は百越と呼ばれた異民族を徳を持って従え、大いに慕われました。
その後、各地で反乱が起きだすと、呉ゼイは黥布と協力して反乱を起こしました。呉ゼイは獰猛な百越兵を率いて項羽とともに秦を滅ぼし、項羽から衡山王に任命されました。
呉ゼイの将軍の梅エは、劉邦と意気投合し、劉邦に付き従ったそうです。項羽が敗死したあと、呉ゼイは長沙王に任命されました。越の地の抑えとして長沙王におかれたのでしょう。
このとき列侯の身分になった百越の人は、貰侯・傅胡害、海陽侯・揺母餘、終陵侯・華毋害、シャ棗侯・革朱がいます。呉ゼイと共に戦ったおかげなのでしょうか。それとも越兵は非常に戦争に強かったのでしょうか。
また、呉ゼイの身内で列侯になった人もいます。義陵侯・呉郢、便侯・呉浅(ゼイの庶子)、[シ元]陵侯・呉陽がそうです。
漢書には、「呉ゼイの子孫は王位を失ったものの、傍流にその血は受け継がれ長く栄えた。」とありますから、呉ゼイの子孫はいっぱいいたかもしれませんね。呉鋼もその一人だったのかもしれません。

59 名前::2002/10/27(日) 22:44

おばら[関東] > (2001/08/20(Mon) 03:31:05)

(↑の続きです)また、長沙国の相も列侯に封ぜられました。[車大]侯・利倉がそうです。
利倉の妻は近年、長沙馬王堆から発見されました。死体は今死んだ新鮮?なものと変わらず、皮膚には弾力があったそうです。

魏書で呉鋼が出てくるくだりに、「前漢長沙王呉ゼイの墓を暴いたところ、生けるがごとき死体が出てきた。その現場に立ち会った人が呉鋼に『あなたの顔は呉ゼイにそっくりだ』と言うと、呉鋼は『それは私のご先祖様ですよ。』」といったところがあります。
約2000年の深い眠りから醒めた利倉の夫人でさえ生けるがごとき死体だったのですから、利倉の主人の呉ゼイの死体もそれはそれは新鮮?だったでしょう。
しかし、呉ゼイの墓を暴いたら呉鋼そっくりの死体が出てきたなんて・・・この話、ホントなんでしょうかねぇ。
史記迷のおばらでした。

60 名前::2002/10/27(日) 22:44

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/20(Mon) 23:38:16)

おお、おばら様!呉セイの情報ありがとうございます!
呉綱は、呉セイの16世のようですね〜。それと、思い出しましたよ〜、その死体の話!
嘘なのか本当なのか…。まあ、始皇帝の兵馬俑だって、空気に触れるまでは極彩色に彩られていて、中には水銀の川が流れていたという話ですし…あんがい古代中国の建築技術も凄かったのかも。
呉セイ、なんとなく初期の経歴は趙陀と似ていますね〜。あ、先ほど趙雲の先祖スレをまとめてみました(;^_^A

61 名前::2002/10/27(日) 22:45

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 20:10:56)

はじめまして。三国志の武将の先祖ネタ面白いですね。
(趙雲の先祖の話など特に)
自分の知ってるのも幾つか紹介します。既出だったらすいません。

呂凱(呂不韋)
雍ガイ(雍歯)
管寧(管仲)
荀イク(荀子)
李膺(老子)
張遼(ジョウ壱)

62 名前::2002/10/27(日) 22:45

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 20:14:06)

荀子は思いきり既出でしたね。すまんです。

63 名前::2002/10/27(日) 22:45

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/21(Tue) 21:45:09)

ナナシサソ様(;^_^A 、はじめまして〜! いえ、情報大歓迎です〜!
なるほどお、最初は読み飛ばしていましたが、あらためて正史を読み直すと、先祖の記述がびっしり書いてある武将もいるんですね〜!
特に呂凱には驚きました!…いえ、いま「奇貨おくべし」を読んでいたところなので…。不韋県とは、そのまんま呂不韋からとった地名なんですね。
となると、呂凱は始皇帝の遠縁!? そして東儀家や長曾我部とも血縁!?

64 名前::2002/10/27(日) 22:46

玉川雄一[関東] > (2001/08/21(Tue) 22:10:25)

子孫ネタです。閻圃の子孫が、唐代の画家、閻立本っちゅー人で、『歴代帝王図巻』を描いたそうです。
以上、『三國志IV事典』より。 

65 名前::2002/10/27(日) 22:46

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 22:12:45)

はじめまして、ぐっこ様。関係ないですが自分、某所のあずまんが三国志にもよく投稿してます(^^;

あと陶淵明の母親の祖父は東晋の著名人孟嘉ですが、この孟嘉の祖父が実は呉の孟宗(筍の話の彼です)。以外な所で以外なところにつながってますよね、確かに。

66 名前::2002/10/27(日) 22:46

ナナシサソ[東海] > (2001/08/21(Tue) 22:18:04)

ありゃ、孫じゃなくて曾孫だった>孟嘉
すいません何度も(^^;

67 名前::2002/10/27(日) 22:46

左平(仮名)[中国] > (2001/08/22(Wed) 19:26:28)

だいぶ以前になりますが、松竹梅さんから、馬超のご先祖として、伏波将軍・馬援の名があがっていました。じつは、この馬援には、ちょっと名の知れた先祖(といっても直系のではなく、曽祖父の兄という事ですが)がいます。その人の名は馬何羅といい、なんと、漢の武帝の暗殺を企み、処刑された人物です。陳舜臣氏の『小説十八史略』に出ていました。なお、彼は『漢書』には莽何羅と書かれており、塚本ヨ史氏の『霍光』にもその名で登場しています。 
ひょっとしたら、、という程度の話ですが、こんな人はいかがでしょうか。、、孫堅が戦死した後、その遺体を請い受けた桓階という人がいます。この人は、長沙郡臨湘の出身との事ですが、桓氏というと、(桓階の子孫という証拠は何もないのですが)東晋王朝の実力者・桓温がいます。北伐を敢行し、王朝簒奪を目論んでいたといいますから、相当なものです。彼はよく、「男子たる者、百世に芳しきを流す事あたわざれば、まさに臭きを万年に遺すべきである!」と言っていたとか、、。結構、さまになる物語が出来そうです。 

68 名前::2002/10/27(日) 22:47

黒竜[関東] > (2001/08/22(Wed) 21:17:19)

馬何羅が漢書などで莽何羅となっているのは明帝の皇后である
馬氏(馬援の娘)が修史官にお願いして変えてもらったらしいです。
そして、馬何羅を投げ飛ばして暗殺を防いだのが金旋、金イの先祖の金日テイですよね。
馬援主役の物語が陳舜臣の「続・中国任侠伝」にありますよ。

11号のおかげで神保町へは行けませんでした…

69 名前::2002/10/27(日) 22:47

ナナシサソ[東海] > (2001/08/22(Wed) 21:53:07)

桓栄は光武帝の時代の人みたいですね。後漢書に伝がありました。
ちらっと見ただけなのですが、どうやら高名な学者さんみたいですね・・・

70 名前::2002/10/27(日) 22:47

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:09:21)

 >玉川雄一様
おお〜! まだ尽きることなくご先祖・子孫ネタが!閻圃、というとあの張魯の軍師の閻圃!おお、閻立本ならよく耳にしますが、そのご先祖様ですか〜!意外な才能を後世に残しましたね…。

 >ナナシサソ様
 …なんだか↑の言い回しが違和感アリアリ…(;^_^A 名無しさん様、という意味になるのでしょうか…。いや、しれはさておき追加情報ありがとうございます〜! 陶淵明の曾祖父の曾祖父が、孟宗になる、という計算ですね〜! 当時の文化人とは、名門どうし、やはりどこかでつながっていのですね〜。確かに意外!

 >左平(仮名)様
はい!今確認いたしました〜!小説十八史略。馬何羅! なんだか異国情緒ある名前ですが、確かに武帝を直接刺殺しようとしてますね〜!それを防いだのが、金旋のご先祖!妙な組み合わせです(;^_^A
それと桓温ですか!「竹馬の友」の語源! 「百世の名声を残せないようなら、万世の汚名を残すべし」とは相当の豪気!彼の友人達も迷惑だったでしょうね〜。
で、桓階のほうは…魏の尚書令にまで昇り、彼の孫は晋で栄達してる様子。かれが桓温と何らかの関係があるかどうか! 出身地でいうならば、文聘の後任である桓禺も怪しいかも。 

71 名前::2002/10/27(日) 22:47

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/22(Wed) 23:15:09)

↑うわあ、またオフラインの間に書き込みが〜!
黒竜様、追加情報ありがとうございます〜! なるほど、馬援の娘が、先祖の罪を隠そうと…いい話なのか悪い話なのか…。
ところで、11号ご愁傷様です〜。でも神保町いつかはいきたいです…。

 >ナナシサソ様
さらに追加ありがとうございます〜! 桓温のはるか先祖様ですか〜!これが著名な学者だとすると、桓階の伝にも書かれるでしょうし…。やはり桓禺のほうが怪しいかも。

72 名前::2002/10/27(日) 22:48
左平(仮名)[中国] > (2001/08/22(Wed) 23:25:38)

趙雲のご先祖についてですが、、いくつか追記します。@趙雲の遠い遠いご先祖様かも知れない飛廉のご先祖についても宮城谷昌光氏の『王家の風日』に書かれていました。商王朝の初期に中衍という人物がおり、車の改善を王より命ぜられ見事に成し遂げた、とか、さらに遡ると、費昌という人物は、商王朝の初代・湯王の御者となり、鳴條の戦いにおいて夏の桀王と戦ったとか。費昌という人は、伯(王の名代として地方の諸侯を統括する権能を持つ)の位にあったといいますから、夏王朝の時代からの血筋という事になります。、、、本当に神話の時代にまで突入しちゃいましたね、これは。A同じく宮城谷昌光氏の『重耳』から。飛廉→季勝……趙衰という流れになるのですが、この……の部分にも、有名人がいました。造父(ぞうほ)といい、周の穆王に仕え、名御者として知られる人です。その功績によって邑を与えられてから「趙」氏を名乗る様になった、との事です。  さらに。『三国志』には何人か士氏・范氏が出てきますが、ひょっとしたらひょっとして、春秋時代一の名将・士会(范武子)の子孫なんて事は、、?中でも、士燮(字は威彦。交州に半独立勢力を築く)などは、まさしく士会の子と同姓同名。  またさらに。公孫サンや公孫度など、幽州方面に何人か公孫氏という人々がいますが、彼等もひょっとしたらひょっとします。というのは、春秋時代の君主の子孫は多くが公孫氏を名乗っているからです(例えば、鄭の名宰相・子産は穆公の孫である事から公孫僑ともいいます。商鞅は衛国の公族であり、公孫鞅ともいいます)。このあたりで公を名乗る程の勢力というと、、戦国七雄の一つ、燕が思い浮かびます。そして、その燕国の創始者の一族には、太公望・周公旦と並ぶ周王朝建国の元勲・召公セキの名が、、。もっとも、漢の時代には、投降した異民族が権威付けの為に公孫氏を名乗る事が多かったそう(塚本青史氏の『霍去病』より)ですから、匈奴の子孫、という可能性も大きいです。公孫サンが騎兵戦に長けていたのも、匈奴の血の影響あり、でしょうか? 

73 名前::2002/10/27(日) 22:48

玉川雄一[関東] > (2001/08/23(Thu) 00:24:06)

桓階ルートは別かな?
桓階伝によれば、彼の祖父は桓超、父は桓勝。桓階の嗣子は桓祐、
恐らくその他にまだ子が三人、その一人が桓嘉。東興で呉と戦い、韓綜とともに戦死した彼です。
桓嘉の子が?桓翊。また、桓階の孫に桓陵(字・元徽)がおり、司馬炎の時代にケイ陽太守になったそうで。
また、桓階の弟に桓纂。以上、魏書桓階伝および裴註からでした。

74 名前::2002/10/27(日) 22:49

玉川雄一[関東] > (2001/08/23(Thu) 00:37:20)

さて、呉書に桓彝なる人物あり。なにィ!と思ってみれば残念ながら桓温のパパとは別人。
しかしこちらの桓彝は、なんとまあ桓階の弟。しかも、呉に使えて尚書になっておりました。しかし、孫亮廃位に反対して孫[糸林]に殺されました。兄と違い、地元に残って呉に仕官したのでしょう。
さて、この桓彝、没年は258年ということになりましょうか。

一方、桓温パパの桓彝さんは字を茂倫、生没年276−328。こりゃ明らかに別人ですな。おまけにこちらの桓彝の父は桓ルなるお方だそうで。

で、望みの綱?の桓禺さん。彼が江夏太守となったという嘉平年間とは249〜254年のこと。桓ルよりも世代は上のようですねえ。

75 名前::2002/10/27(日) 22:50

ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 04:34:56)

桓栄(字:春卿)の出身も[言焦]郡竜亢なので桓階は別系でしょう。
桓禺が桓温の直系の先祖かどうかは晋書に記述が何もないのでわかりませんが、一族であることはほぼ間違いないでしょう。

桓ルについては桓彝が幼少のうちに無くなったみたいで、何もそれらしい記述はありませんでした。

76 名前::2002/10/27(日) 22:50

MOS[外国] > (2001/08/23(Thu) 05:50:22)

ちょっと御堅いカキコが連続して申し訳ありませぬ〜〜(>_<)

まず、「公孫氏が異常に多い」という事ですが・・・単純な理由があるんです。
それは「漢民族全員の祖である黄帝の姓が公孫だから」です。

ちょっとツッコむと、たしか史記の五帝本紀だったと思いますが、
黄帝は姓が公孫で帝鴻氏とも呼ばれ、黄帝の孫に当たる帝センギョクは高陽氏とも。
鴻や高陽を名としている方もいるので断言は出来ませんが、
一節によると、古来では姓と氏は別で、時が経つにつれて同一視されていったそうです。
ちなみに、黄帝以外の五帝(帝センギョク・帝コク・唐帝尭・虞帝舜)は全員黄帝の子孫で、
夏の始祖である王ウもセンギョクの子孫なので、黄帝の子孫。
さらには夏に限らず、商・周・秦も黄帝の子孫を名乗っています。

というように、ある意味「『公孫』を姓に持つ」という事は
漢民族にとっては超自然的な事だったのではないでしょうか?(^^)

つまり、公孫サン・公孫淵・公孫述が皇帝を名乗るのは当然だったのです!!(嘘爆)

77 名前::2002/10/27(日) 22:50

MOS[外国] > (2001/08/23(Thu) 05:52:11)

訂正
「鴻や高陽を名としている方」→「鴻や高陽を名としている研究家」
わかりにくい表現で失礼しました。。(^^ゞ 

78 名前::2002/10/27(日) 22:50

ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 14:32:11)

自分の投稿した陶淵明の先祖の話で誤植が・・・

×陶淵明の母親の祖父
○陶淵明の母方の祖父

でした(汗 

79 名前::2002/10/27(日) 23:23

MOS[外国] 投稿日:2001年08月23日 (木) 06時32分19秒 

秦氏をちょっと調べてみたんですが・・・
http://www4.justnet.ne.jp/~takeuchi_toshinori/tai_1_26.htm target=_blank>http://www4.justnet.ne.jp/~takeuchi_toshinori/tai_1_26.htm
↑を見る限りだと、伊賀の服部家も秦氏の子孫のようですねぇ♪
そういえば、どっかで聞いた覚えが・・・あるような無いような(笑)

ちなみに、エイ氏・趙氏は黄帝の長男玄囂の子孫だそうですよ。
玄囂は位を継げずに、また、一節には継いだけれど後に剥奪されて、
甥(黄帝の次男の子)であるセンギョクが五帝の2番目に来ています。

80 名前::2002/10/27(日) 23:24

黒竜[関東] > (2001/08/23(Thu) 09:25:51)

公孫氏の話なんですが、「中国姓氏考」という本に引用されている
「通史」氏族略には
「春秋の時、諸侯の孫亦以て氏と為すは、公孫氏と曰い、皆貴者の称たり」
とあって別項には、「公孫は爵位を氏としたもの」となってますから
黄帝まで遡らなくてもいいようです。

ちなみに氏(姓は除く)は不変ではなく、宋の系図を例にすると、

桓公→公子目夷(字は子魚)→公孫友→魚石

と世代ごとに変化するなかで、公子、公孫、王子、王孫などの氏が
成立したらしいです。
公孫以外はあまり見かけませんけど…

81 名前::2002/10/27(日) 23:25

ナナシサソ[東海] > (2001/08/23(Thu) 13:48:56)

>服部家
服部家は自ら伊賀平氏を名乗っています(汗
平氏物語にも登場する伊賀左衛門尉家長を家祖としているようですね。「三国地誌」という書籍には「服部家が秦氏の末裔というのは誤りである」とあるそうです。

82 名前::2002/10/27(日) 23:25

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/23(Thu) 23:03:22)

■桓温のご先祖は…
ご先祖の諱を避けるハズですから、桓彝を挟む時点で桓階━桓温ルートは無いかもしれませんね〜。同郷で同姓、というだけではありますが、桓禺のほうはそれっぽいですね。…それにしても、これまであまり興味の無かった桓階について、急に詳しくなりました(^_^)

■ご先祖さま
商王朝! 夏王朝! さいごは黄帝!本当に神話ですね〜(;^_^A おお、費昌ですか〜! 伊尹のお話あたりに登場してるかも! さらに趙雲のご先祖を追加せねば!案外すごいぞ、子龍! また陳到に差を開けた!
いま手持ちの正史全人名辞典(ちくま)を確認したところ、「三国志」に登場する士氏は10名。そのうち9名がなんと士燮の一族!(^-^; ちなみにあとひとりは、いわゆる傅士仁です。「沙中の回廊」を読んでいて「あ、士燮がいる〜♪」と思ったものですが、やはり先項の避諱の風習からして、士会と交州の士燮は別ルートかもしれません〜。

83 名前::2002/10/27(日) 23:25

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/23(Thu) 23:03:38)

■公孫!
これですこれ!公孫無知とか公孫なんとかとかが色んな国でゾロゾロ出てくるため、春秋歴史新聞を読んでいても頭が混乱します(;^_^A なんか凄い氏ですよね〜、公孫とか王子とかって。名字の決め方がアバウトすぎ!せめて周公旦、みたいに国名を入れてくれれば…。
でも遼東公孫氏については、公家の後裔よりも異民族タイプの方がしっくりきますね〜。豪族の間でそれと言って人望のない(というより全くない)公孫度が、短期間で北辺を踏み固めたのには、個人の武略以外に理由があるような。
でも、公孫家には燕王…そして召の血がある可能性…。あ、黄帝の姓も公孫ですか!? 
そういえば遼東公孫家、「雷火」で邪馬台に仇なす悪役として登場。

■伊賀!
くわ〜っ!なんというか、忍法にしても医学にしても音楽にしても、大陸渡来を看板にする流派が多い!――いえ、実際そうなんですが、やはり当時としてはハヤリだったのでしょうか!? 
それにしても薬師本家の丹波氏には驚きました。坂上田村麻呂の後裔たる丹波哲朗氏、劉家の北斗神拳の継承者なんですって?

84 名前::2002/10/27(日) 23:26

左平(仮名)[中国] > (2001/08/24(Fri) 21:42:18)

ふっと気になったので、手持ちの宮城谷作品から、士会の血族をチェックしていましたら、、まぁ、子孫の幅の広いこと、広いこと。こんな具合です。 @西周の時代、岐山(長安の北西のあたり)の北方に杜という国があり、その君主を杜伯といいました。杜伯は無実の罪により宣王に殺されるのですが、その子の一人である隰叔(しゅうしゅく)は晋に亡命しました。彼こそが士氏の始祖です。また、杜伯の子は他にもいたでしょうから、杜氏を名乗り続けた者もいるはずです(詩聖・杜甫のご先祖、杜預の祖父・杜畿は京兆郡杜陵の人といいますから、杜伯の子孫という可能性あり)。 A士会は末子(字は季)ですから、当然兄がいます。士会の兄の系統(又は士会の子の一人、士魴)の系統はそのまま士氏を名乗り続けたと考えられます。 B士会はその食邑名から、随会とも范会とも呼ばれます。したがって、随氏・范氏も士会の子孫という可能性があります(なお、遠交近攻策を提唱した秦の宰相、応侯・范雎も士会の子孫を自負しています−『青雲はるかに』より)。士氏は、士会のあと、士燮−士カイ(勹の中に亡)−士鞅−士吉射と続き、趙氏との戦い(范氏・中行氏の乱)に敗れ、晋を追われます。彼等は斉の方へも行ったといいます。 C士会は、一時秦に亡命していました。趙盾・郤缺の策によって晋に呼び戻されたのですが、その時、秦に残留した族人がいます。彼等は劉氏を名乗った(!)そうです。  杜氏・士氏・随氏・范氏、そして劉氏はすべて、士会の遠い遠い一族と言えなくもありません、、。

秦氏の子孫についてですが、、たしか、羽田孜・元首相も確かその一人だったかと。首相になった当時、TVで聞いた覚えがあります。、、どうみても始皇帝とのつながりは見えないんですけどねぇ、この人の場合は。 

85 名前::2002/10/27(日) 23:26

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/25(Sat) 00:27:19)

うお!? かの士会の血縁が、こうも広範に散らばるとは!? 彼や重耳のように、流浪だの亡命だのを繰り返した結果、全土にその胤を残すパターンもあるのですね〜。そしてみんなが別々の氏を名乗るからよけいにわけがわからない! どうして中国人は姓と氏を分けるのですか〜!

羽田元総理も、秦氏ですか…。あ、ハタつながりということで…。でも、結構本当っぽいですね〜。なら羽田さんも趙雲の血縁グループに!

86 名前::2002/10/27(日) 23:28

左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 13:54:09)

ご先祖ネタで趙雲と陳到の差が開く一方なので、陳到のご先祖ネタ(相変わらず根拠は薄弱ですが)も一つ。陳到(字は叔至)、汝南の人。、、陳氏という事から、当然、春秋時代の陳国との縁が考えられます。汝南はかつての陳の地よりだいぶ南にあるのですが、、何と!張コウは(吉川三国志では)三度死ぬ、ではありませんが、陳は三度滅んでいるのです!その一回目は、覇王・(楚の)荘王の時の事(ちなみに、二回目も三回目も楚によって滅ぼされています)。この時、南方に抑留された陳の人々もいるでしょうから、その末裔の一人が陳到という事も。なお、この陳の公室の先祖は、虞の閼父といい、周王室の陶工の長でしたが、その子は周の武王の長女を娶り、陳国を開いています。さらに、そのご先祖は、何と太古の帝王・舜! 

以前の士会の一族ネタで出てきた、杜陵という所ですが、、伴野朗氏の『中国・反骨列伝』の中に、西安(かつての長安)の東南という記述がありました。杜伯と杜預とのつながりはどうなるのでしょうか?、、それはさておき、魏に蘇則という人がいたので、まさか、と思い「三国志全人名事典」(徳間書店)でチェックしましたら、扶風郡武功の人、とあります。扶風郡は長安近郊ですから、上述の杜陵で生まれ育ったらしい、典属国・蘇武(匈奴に十九年もの間抑留されながら、ついに節を曲げる事なく漢に帰還したという傑人。悲運の名将・李陵の友人ともいいます)の名が。蘇武は期間後も二十年あまり生きたといいますから、彼の子孫が一人くらいいても不思議ではありません。 

87 名前::2002/10/27(日) 23:28

竜[関東] > (2001/08/26(Sun) 20:18:34)

杜甫の詩のなかに自分の家系を誇るものがあって、それによると
陶唐氏堯帝の子孫で、杜預が十三代祖先であるとしているそうです。

ちなみに杜預の先祖である杜周(漢書に伝有り)はもともと南陽郡杜衍の人ですが、
子の杜延年が杜陵に移り住んだんだそうです。
杜周は陶唐氏の末裔を称していたそうですから一族発祥の地に戻ったようです…
総合すると、陶唐氏→杜伯→杜延年→杜預→杜甫
という感じでしょうか。

88 名前::2002/10/27(日) 23:28

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/26(Sun) 22:19:47)

おお、今度は陳到が! そうですよね〜、趙氏が黄帝まで遡った以上、陳氏も神話までいってもらいましょう(;^_^A
で、陳公の血筋ですが…なるほど、帝舜の末裔ですか! となると姚姓。すると虞翻あたりと同姓ですね〜。なんで中国人って姓と氏を分けるのでしょうか…。
さておき、杜預!こちらは帝堯!姓は伊祁!……いま私は姓氏一覧を参照していますが、当時の人々は当然、氏を聞くと即座に姓を答えることが出来たのでしょうね〜。同姓不婚とかもあったでしょうし…。で、杜預は帝堯の血を引く杜家に産れ、13世後に杜甫をうむ、と…。
なんだか呆然とする話ですよね〜。
他にも、魏の西方面の押さえである蘇則! これが蘇武の子孫!いま十八史略で確認しましたが、なんでも部下の不始末を償うために、いちど剣で我が胸を刺し通し、死んだとありますね〜。で、匈奴の秘術で蘇った、と。氏に忠実な人物ですね〜。

89 名前::2002/10/27(日) 23:29

左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 23:06:16)

秦氏関係で、もう一つ思い出しました。確か、桓武天皇の母は秦氏の女(むすめ)だったかと。日本史の百科事典でずっと昔に読んだ記憶があります(違ってたらごめんなさい)。ためしに古文の辞典で皇室の系譜を見ましたら、桓武天皇から今上天皇まで、ず〜っと辿る事ができるのです(南北朝などもありますが、それをも乗り越えて)。と、いうことは、、。書いてて、こんなに話が広がっていいものか、と思わず自問してしまいます。

90 名前::2002/10/27(日) 23:30

松竹梅[関東] > (2001/08/27(Mon) 00:52:30)

法正の曽祖父は法雄といって、どうも田斉の襄王の子孫らしいです。ということは、法正には陳無于の血が流れてるのか…と思えばなんとなく納得かも。ということで、法正も先祖は帝舜ということになりました…でいいのかな?

91 名前::2002/10/27(日) 23:30

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/27(Mon) 23:49:06)

こんどは天皇家〜!! 秦氏おそるべし〜! あ、いま趙雲様のご先祖のページを更新しました〜。それ以後に出てきた話題の人物を追加しております〜。

そして法正! こちらは斉の襄王!? …と、松竹梅様、その法雄という人物は三国志には記述されてないです〜。ソースは三国志集解ですか〜!? いいなあ…。

92 名前::2002/10/27(日) 23:30

松竹梅[関東] > (2001/08/28(Tue) 07:53:18)

ソースは『後漢書』38巻法雄伝と、83巻「逸民列伝」ちゅうの法真伝です。
法正の祖父、法真は門下生数百人を抱える「関西の大儒」であり、寡欲にして官に仕えなかったという、法正の祖父だとは到底思えない人物です。ちなみにこの人「玄徳先生」と呼ばれていました。法正と劉備の意外な接点? 

93 名前::2002/10/27(日) 23:31

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/29(Wed) 00:20:38)

うお!? またしても後漢書! あう〜、また県立図書館から借りなきゃ…ええと、38巻ですね〜。
それにしても、「三国志」になくて「後漢書」に伝のある有名人(関係者)、あるいは後漢書の方が詳細な人物って、どれくらいいるのでしょう…? 徐栄の末路なんか、三国志には載っててませんでしたよね〜。

94 名前::2002/10/27(日) 23:31

玉川雄一[関東] > (2001/08/29(Wed) 01:15:25)

えと、羊[示古]のオジーさんの羊続の伝がありますね。巻三十一に。
チョイと前に、羊[示古]の父の羊ドウ(行がまえに首)の同名異人問題を調べていて、参考にしようとしたのですがあまり解決にはなりませんでした。

95 名前::2002/10/27(日) 23:31

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/30(Thu) 22:26:34)

おお、羊[示古]のお祖父さんですと!? う〜む、後漢書は宝箱ですよね〜!
羊ドウですと…なるほど、他にも南陽出身の羊ドウさんがいらっしゃるのですね。しかしまた、羊[示古]の父親の名前って、どこに載って…って晋書ですよね〜。ああ、晋書も欲しい…。

96 名前::2002/10/27(日) 23:57

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月31日 (金) 21時06分27秒 

以前、陶侃の父、陶丹が呉の交州刺史だったと申し上げましたが、私の勘違いだったかもしれませぬ。
先程『解體晉書』さんのサイトで列伝の訳を拝見していましたら、「陶[王黄]伝」の初っぱなに、「陶[王黄]の父の陶基は呉の交州刺史となった」とあったのです。なんか、これと記憶がごっちゃになっているかもしれません。「陶侃伝」で確認できればいいのですが…

陶[王黄]の弟には陶濬がいます。また、陶基、陶[王黄]、その二人の子の陶威、陶淑、陶威の子の陶綏に至るまで、四代五人が交州刺史を歴任するという南方統治のエキスパート?な家系だったようで。

…やっぱ陶丹が交州刺史だったっての、勘違いかもなあ。

97 名前::2002/10/27(日) 23:57

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/31(Fri) 22:44:21)

ちょっと確認してみましょう〜!
まず陶丹というと陶淵明の遠い先祖で、

 >ちなみに晋書には、巻九四、列伝第六四の項に「陶潜伝」があります。
 >彼が陶淵明ですよね。そこによると
 >陶侃−陶茂−(不明)−陶潜(元亮、365-427)
 >確かに、陶侃の曾孫ですね。んが。
 >陶侃伝(巻六六、列伝第三六)を見てみますと…
 >この巻には、最初に劉弘なる人物の伝があり、
 >続いて陶侃、以下彼の子、甥の伝がズラリ。
 >陶侃(士行、257-332)
 >以下彼の子の陶洪、陶瞻(道真、?-328)、陶夏、陶キ(劉表の次男と同じ字)、
 >陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱。
 >そして陶侃の兄の子の陶臻(彦遐)、陶興。

 >……あら、陶茂は? そう、思いっきり怪しいのです。
 >私が立ち読みした本にもこの点がツッコまれていました。
 >やっぱり晋書がいけないんでしょうか。

 >はっ、そういえば陶侃の父の陶丹は呉の交州刺史だったとか。


という家系ですね〜!

で、陶[王黄]のほうはというと、呉の蒼梧太守として呉の最南端を守護し、交州の牧になった人物!なかなかの勇将だったようですね。
弟の陶濬は、呉の最後の荊州牧・鎮南将軍として晋軍を迎え撃ったはいいが、翌日兵士全員に逃亡されたという困ったさん。
彼らは丹陽の出身であったようですが、陶侃のほうはどうなんでしょう?

98 名前::2002/10/27(日) 23:57

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/31(Fri) 22:46:51)

どうも交州って、世襲というか独立勢力っぽいイメージがありますので、同族でないと牧や刺史職をまわしたりできないかも…。
加えて、また時間軸の問題が発生しそうですね〜 

99 名前::2002/10/27(日) 23:57

玉川雄一[関東] > (2001/09/04(Tue) 22:40:30)

えー、「解體晉書」さんで教えていただけました。
やはり私の記憶違いでして、陶丹は呉の交州刺史になったという記録は残っていないそうです。間違いなく、陶基と混同していました。
しかし、陶丹は呉の揚武将軍だったそうです。出身は[番β]陽とのことで、やはり呉に仕えていたそうで。

100 名前::2002/10/27(日) 23:58

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/09/06(Thu) 22:59:20)

なるほど、[番β]陽出身ですかー。じゃあ別口の陶氏ですね〜。
それより陶[王黄]、陶濬兄弟の方が気になる。丹陽の陶氏というからには、かの徐州の梟雄・陶謙と同族なんでしょうね〜。

101 名前::2002/10/29(火) 22:52

玉川雄一   

★ 丁奉の子発見!? ★

晋書の三国志関連人物を洗うべくパラパラとめくっておりますと、思わぬ発見が!?

これまではろくすっぽ目にも通さなかった「志」の部分を読んでいましたら、五行編に怪異現象じみたお話が。こりゃ面白そうと見ていますと、「豕禍」の項に呉の丁奉が登場!

三国志呉書丁奉伝では、彼の死後孫晧によって家族が強制移住されたと書かれていますが、実はそれは「豕禍」が原因だった?
なんでも、丁奉の営に野豕が入ってきたことがあったそうで、遺族の災難もそれが原因だろう、と。

そして、発見! 晋書の例の件には、孫晧によって丁奉の子の丁温が殺されたとあるようなのです!
呉書には載っていない丁奉の子…ただいま、「解體晉書」さんで鑑定を依頼中であります。

うーむ、列伝だけでなく、「志」もあなどれませんな…

102 名前::2002/10/29(火) 22:55


ぐっこ     2001年09月23日日曜日 23時38分

なんとっ! 三国志に名の無い人物! 丁奉の子の丁温! しかも孫晧に誅されてる…。これだから晋書ってやつは〜!
こりゃあ探せばウハウハですな〜!どんな人物がどんなところから飛び出して来るやら…。
正史で馴染の「索引探し」が出来れば随分楽でしょうが…。いいな〜!
あ、私は引き続いて後漢書と格闘中。…漢文、嫌いです。

103 名前::2002/10/29(火) 23:02

左平(仮名) 

「三国志全人名事典」から、姓または氏が同じというだけで「ひょっとしたら?」というご先祖候補の有名人をかたっぱしからピックアップしてみようかと、、。なお、出身地などは省略しておりますので、根拠は全くといっていいほど、ないです。また、韓・魏・趙、王・張・李・劉・曹・孫といったところは人数が多すぎるので省略。
【い】尹〜 尹佚(いんいつ:史佚とも)。周王朝初期の史官。成王がたわむれで弟の唐叔虞(晋国の祖)を「封じる」と言ったのを「そのとおりになさる様に」と諌める。「天子に戯言があってはならないのです」というのがその理由。→『重耳』(上)
・尹黙、尹賞など。
【え】衛〜 衛青(えいせい)。前漢・武帝の衛皇后の弟にして、大将軍。匈奴との戦いで戦功をあげる。彼の死後、巫蠱の乱(ふこのらん)で一族は滅んだはずですが、あるいは、、。→『霍去病』『中国傑物伝』
・衛カン(王に灌の右側)、衛茲など。
【え】閻〜 閻楽(えんらく)。秦の宦官・趙高の親戚。二世皇帝・胡亥を自殺に追い込む。それだけ。→『小説十八史略』
・閻圃など。
【か】華〜 華元(かげん)。春秋時代中期・宋の宰相。出目で太鼓腹という愛嬌あるキャラクタ−。晋・楚二大国の和平を斡旋。→『華栄の丘』
・華キン(音に欠)など。
【か】カイ(萠にリ)〜 カイ通(かいとう)。韓信に「天下三分」を説いた説客。→『史記の風景』
・カイ越・カイ良兄弟。
【か】霍〜 霍光(かくこう)。前漢の昭帝・宣帝を支えた実力者。「関白」の語源でもあります。彼の死後、霍氏は滅ぼされているはずですが、あるいは、、。→『霍光』
・霍峻、霍弋親子など。

104 名前::2002/10/29(火) 23:51

左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 20時00分

【こ】伍〜 伍子胥(ごししょ)。名は員。子胥は字。楚の名臣・伍挙の孫。父と兄を楚王によって殺された為、呉に亡命し、楚王の屍を鞭打って復讐したという。後、讒言を信じた呉王によって自殺させられ、屍は長江に流された。なお、彼の子は斉の鮑氏に託されたという。伍子胥=孫武という説もあるとか。→『小説十八史略』
・伍朝など。
【こ】高〜 高固(こうこ)。春秋時代・斉の名族。斉が晋の大臣・郤克(郤缺の子。容貌が醜悪だった)を辱めた直後に晋が主催する会同(国際会議)に出席せざるを得なくなったが、郤氏の報復を恐れて引き返す。なお、彼にかわって会同に出席した事で、晏弱は一躍有名になり、後に彼の子の晏嬰が宰相の位に登るきっかけとなった。→『晏子』
高柔・高幹など。
【こ】国〜 @子産(しさん)。春秋時代・鄭の名宰相。孔子に敬仰された、当代随一の知識人。一代改革を断行し、初めて成文法を作った人でもある。氏名はふつう公孫僑といわれるが、彼の父の字が子国であった事から、彼の家は国氏ともいわれる。→『子産』
      A国左(こくさ)。春秋時代・斉の名族。なかなかの辣腕家であったが、崔杵の策謀にかかり、粛清される。→『晏子』
・国淵、国泰親子。

105 名前::2002/10/29(火) 23:52
左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 21時00分

【さ】崔〜 崔杵(さいちょ)。春秋時代・斉の人。斉を強国とした名臣であったが、斉公が妻を奪おうとしたのに対して激怒し、ついに斉公を殺害する(この直後、「崔杵弑其君」という記述をめぐって史官と対立)。数年後、彼の一族は滅びるのですが、彼の子の一人は魯へ亡命し、生き残ったそうです。なお、『世説新語』には、晋代にその子孫の崔正熊という人物がいたという記述があるとか。→『晏子』
・崔烈、崔林、崔エン(王に炎)など。
【し】荀〜 荀林父(じゅんりんぽ)。春秋時代・晋の宰相。名将・士会と同時代の人であるが、割と温厚かつ平凡な人。彼の子孫が中行氏を、彼の弟の子孫が知氏を名のる。→『沙中の回廊』
・荀掾A荀攸など。
【し】淳于〜 淳于コン(上は髪の上部、下は几)(じゅんうこん)。奴隷出身。人の心理を読むのに長け、ユ−モアに富んだ人。確か、彼の子孫の一人に、かの鑑真和上が。→『小説十八史略』『反骨列伝』
・淳于瓊など。
【し】上官〜 上官桀(じょうかんけつ)。前漢の武帝の護衛。武帝が崩ずる際、霍光らとともに後事を託される。後、霍光と対立し、一族もろとも滅ぼされる。しかし、あるいは、、。→『霍光』
・上官崇など。
【と】東方〜 東方朔(とうほうさく)。前漢の武帝の時代の人。博学多才のユ−モリスト。塚本ヨ史氏の作品では、体を自由自在に折り曲げる事の出来る長身の美男という設定。→『霍去病』
・東方安世。
【と】董〜 董狐(とうこ)。春秋時代・晋の史官。趙氏が晋公を殺害したのを「趙盾弑其君」と記した(趙盾自身が晋公を殺したわけではないが、一族の者が起こした事件に対し、趙氏の総帥であり、かつ亡命直前とはいえ一国の宰相であった趙盾にはそれを止める責任があったとみなした)事で孔子に賞賛される。→『孟夏の太陽』
・董遇など。
【は】白〜 白起(はくき)。戦国時代・秦の常勝将軍。長平の戦いでは、趙軍45万のうち5万を戦死させ、残る40万をすべて穴埋めにして殺したという。後に自殺を命じられる。→『白起』
・白波など。
【は】樊〜 樊カイ(口に會)。漢の高祖・劉邦の護衛。劉邦の正妻・呂氏の妹の夫でもあります。彼と呂氏との間の子は呂氏が滅ぼされた際に殺されていますが、他はどうなのか、、。→『小説十八史略』
・樊稠など。
【ほ】鮑〜 鮑叔(ほうしゅく)。名は牙。叔は字。春秋時代・斉の人。「管鮑の交わり」で知られる。→『管仲』(現在連載中との事。著者は、もちろん、宮城谷氏です)
・鮑信など

すみません、一つ訂正が。【け】の「ケイ」ですが、「刑」ではなく、「刑の左側に郤の右側」です。
また、ご先祖?の追加を。
【ら】欒〜 欒氏。西周時代に晋の公室から分かれた名家。欒書(らんしょ):春秋時代、晋の宰相。讒言によって郤氏を滅亡させた後、晋公(q公)を殺害。彼自身は普通に亡くなっているが、孫の代に士氏と争い、滅ぼされています。→『子産』
・欒文博。
【よ】羊〜 羊斟(ようしん)。春秋時代、宋の人。戦いの前に、不吉さを感じた華元が羊の肉を与えなかった事を恨み、華元を敵中に放置する。後、華元が宋に帰還すると、魯に亡命する。→『華栄の丘』
・羊コ(示に古)など。、、ただ、死後、住民たちが石碑(祭りの時にはその死を悼んで泣いた為に堕涙の碑と呼ばれたという)を建てたという名将・羊コの先祖としては恥ずかしすぎますが、、。
【ほ】北宮〜 北宮佗(ほくきゅうた)。春秋時代、衛の人。北宮氏は、衛の名家です。楚の霊王の最期を預言。→『子産』
・北宮玉。

106 名前::2002/10/29(火) 23:52

玉川雄一     2001年09月30日日曜日 20時10分

遡りますか! 意外なのが判明すると楽しいですね。
で、ご協力できないのが恐縮ですが…
高柔と高幹どうしも縁続き(ちょっと遠いけど)らしいんですよね。
何となく意外でした。やっぱり高幹もただもんじゃありませんのね。

107 名前::2002/10/29(火) 23:53
ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時26分

うわあ、これはまた膨大なリストアップありがとうござます〜!左平(仮名)さま!
中国の思想として、同姓を遡れば元はひとりと換算するそうですから、上記の人物達はそれぞれ共通の先祖を持っていたと考えられてたでしょうね。
で、比較的近い血族を捜すのにまず見るのが本籍の所在地ですが…。まずピンと来るのが、衛青━衛カンのライン。出身地は隣同士です。襄陽のカイ兄弟については、カイ通の子孫であると明記されてますねー。
郤正も河南の出身ですから、郤氏の血脈であるっぽいです。国淵、国泰も旧斉領の辺境・楽安出身ですので、国左の血を引いてるかも。あと、荀子は潁川荀氏の直系の先祖の様子。

ひとつ気づきましたが、食い物の恨みであの名宰相・華元を敵に売り渡した羊斟と言う人物、これは後世につけられたあだ名のようです。「羊斟」とは、文字通り「羊のスープ」という意味で、これこそが華元が彼に与えなかったメニューです。中国人の命名法って…。
とにかく、羊[示古]は彼の血を引いてなさそうで、彼のファンは一安心。
あ、それと鮑信の本貫は泰山郡。鮑叔の子孫は代々斉の正卿だったようだから、血縁があるかもしれません…。」

……う〜む。ざっと先祖の氏を紐解いただけでも、けっこう春秋以前の歴史と三国志が繋がるものですね!

108 名前::2002/10/29(火) 23:53

ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時29分

あ、高柔は高幹の「従弟」あるいは「叔父」のようです。家系図を見る限り叔父のようですが…。






┃━┳━┓
靖 昌 賜
┃   ┃
柔   躬
    ┃
    幹

ふ、IEで見るとまたズレるんでしょうねえ…。LINUXなら大丈夫なのに…。」

109 名前::2002/10/29(火) 23:54

おばら   2001年10月01日月曜日 04時01分

左平(仮名)さん、はじめまして。おばらと申します。
樊カイの子孫についてですが、
呂シュ(呂后の妹)との間にできた嫡男の樊伉は、呂氏討滅のドサクサに紛れて母と共に殺されてしまいます。
しかし、樊カイには庶子があり、樊市人が家を継ぎました。29年して樊市人は死に、子の樊他広(もしくは樊佗広)が継ぎ、6年して平民におとされました。
その後も細々と家は続いたようで、王莽に毒殺された平帝の時(紀元2年)に、樊カイの玄孫の子の樊章が祖先の舞陽侯の爵位を継いだとか。

その後は、知りませぬ。(^^;;
お騒がせしました〜。

110 名前::2002/10/29(火) 23:55

おばら
 
楊喜



楊毋害



敞 司馬遷
|――+ │
忠 ヲ = ○
| │
譚 ■(酒泉郡に配流)




|―+―+
牧 秉 奉
| │ │
■ 賜 [専文]
| │ │
奇 彪 衆
| │
亮 脩




│――+―+
[山喬] 俊 髦

以前、話題になっていた楊氏を系図にまとめてみました。
きっと稚拙な頭脳で書いたので間違いだらけでしょう。
おおめに見てやってくださいましー。
なお、晋書は参考にしてません(知らないとも言う^^;)ので、
晋書を通読された方なら書き足すことができるでしょう。
玉川さまあたりなら・・・(他力本願)

111 名前::2002/10/29(火) 23:55

おばら   2001年09月28日金曜日 01時57分

んぎゃ〜〜〜〜
ずれちまった!!
楊ヲの妻は、司馬遷の娘です。楊ヲは楊忠の弟です。
あとずれた所は、楊囂以下全てですゥ(泣)。
楊囂は楊脩の子どもです。
ホントにすみませぬ〜。ごめんなさいデス。

112 名前::2002/10/29(火) 23:56
玉川雄一     2001年09月28日金曜日 10時11分

では引き続き。いや、別に苦しくなんてありませんから(^_^)

楊準の子に楊[山喬]、楊髦、楊俊の3人を挙げられていますが、
楊[イ全]期伝によれば彼の祖父は楊林というそうで、
楊林も楊準の子にあたるので4人兄弟ということになりましょうか。

で、楊林の子が楊亮。その子が楊[イ全]期(?-399)。
楊[イ全]期には兄の楊廣(?-399)、弟の楊思平(?-408)がいました。
また、彼らの従弟に楊尚保という人物もいたそうです。
「(兄弟)皆強C粗暴」ってあるので、ワイルドな兄弟だったのでしょうかね。

楊[イ全]期は武勲著しく、一旦官を退いてのち荊州刺史殷仲堪の麾下に属しましたが、
桓玄と戦って兄の楊廣と共に戦死しました。
その首は都(建康でしょうか)にさらされたそうです。

事情がうまくつかめないのですが、当初は殷・楊とも桓玄に従って叛乱を起こしたらしいのですが、
結局桓玄と戦うことになって戦死したようです。仲間割れ?

反乱軍の首魁、桓玄に討たれたとはいえ、楊[イ全]期も当初は桓玄に与したということで、梟首ということなのでしょうかね。
この時楊思平、楊尚保は逃れましたが、「思平、尚保後亦以罪誅、楊氏遂滅。」とあります。楊林の系統はここでジ・エンドの模様。

ちなみに、安帝紀(司馬徳宗)義熙4年11月の項に、「梁州刺史楊思平有罪、棄市。」とあるのはこのことでしょう。
また、同年12月には陳留王曹霊誕薨ずともあります。陳留王家、まだ続いていましたのね。

楊氏の他の系統はまだ続いたのでしょうかね。まさに大河一族!
さらにこの先をご存じの方へバトンタッチ!」

そうそう、義熙4年は西暦408年です。念のため。
5世紀に入っても三国志関連人物のネタがあるとは、
恐るべし中国…

113 名前::2002/10/30(水) 00:00

おばら   2001年09月28日金曜日 15時30分

玉川様、訂正&補足ありがとうございます!!
いやー、さらに続いているとは、恐るべし!

あと、少し訂正。司馬遷の娘は、楊敞の妻でした!
勘違いでした。すいませーん。

114 名前::2002/10/30(水) 00:01

ぐっこ     2001年09月28日金曜日 22時53分

で、手元の史料とおばら様と玉川様の情報を元に、組み直してみました〜!


    楊喜(項羽の死体の一部をゲット)
    ┣━━━━┓
    ■    敷
    :    ┃
    ■    母害
    :    ┃
司馬遷 ■    ■ 
 ┃  ┃    ┃  
 娘==廠    孟嘗 
  ┃ ┣━┓  ┃
  ■ 忠 渾  恢 (←渾のせいで一族流浪中)
    ┃    ┃  
    譚?   譚?  
    :    ┃  
    :    並
    宝
    ┃
    竇
    ┃
    震☆
  ┏━╋━━┳━━┓
  奉 秉  牧  ■
  ┃ ┃  ┣━━┓
  敷 賜  馥  統
  ┃ ┃  ┃
  衆 彪☆ 奇
    ┃  ┃
    脩☆ 亮
    ┃
    囂
    ┃
    準
 ┏━━╋━━┳━━━┓
 髦  林 [山喬]  俊
 :  ┃
 ■  亮
 :  ┣━━┳━━━━┓
尚保? 廣 [イ全]期  思平(A.D.408、全滅)
    :
    :
    :
    楊堅(581〜)
    ┃
    煬帝(;^_^A 



……うわ〜っ!

115 名前::2002/10/30(水) 00:01

おばら   2001年09月30日日曜日 03時23分

おおお!!
なるほど〜。ぐっこさまの系譜で楊敷の家と楊敞の家が別家だったと知りました。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』だけでは資料不足でした^^;;。

お恥ずかしいのですが、上に挙げた史書以外で何を参考になされたか、お教えねがえませんでしょうか。
お願いしますm(_ _)m

116 名前::2002/10/30(水) 00:02

ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時30分

う…、楊家の構成、実はファイリングしてあるコピー史料の一部から作成したものなのです…。
たぶん『後漢国家の支配と儒教(雄山閣出版)』だと思うのですが。ちなみに著者は最近おなじみな渡邊義浩先生だったりします(;^_^A

117 名前::2002/10/30(水) 00:06

bu-show  

ご無沙汰しておりました。
掲示板、変えられたのですね。

晋書やらご先祖ネタで盛り上がっているようですが、私も参加させてください。
何と、諸葛緒の孫娘が『晋書』巻第三十一列傅第一に掲載されているではないですか。やはり、当時は女性ということもあって、伝に記されている文章も短いですが…。

あと、何気なくYahoo! TAIWANで三国志関係のサイトを見ていると、
日本ではまずお目にかかれない情報が沢山ありますね(当たり前ですが…)。
私は中国語の読み書きがまともにできませんが、
只何となく読んで理解するだけなら、
Yahoo! TAIWANはお勧めです(但し、BIG5をDLする必要があります)。

118 名前::2002/10/30(水) 00:06

玉川雄一     2001年10月02日火曜日 00時09分

どうも、初めまして、玉川と申します。
貴方のサイトでは諸葛氏について調べていらっしゃいますよね。
諸葛恢伝にも挑戦されたようで、拝見させていただきました。

で。諸葛緒の系統について注目されたようですが、
晋書には他にも巻第八十五列伝第五十五に「諸葛長民」なる人物の伝がありますね。
彼は4世紀末〜5世紀初頭の人物で三国時代の諸葛氏との繋がりは不明ですが、
琅邪陽都の人だということは…
弟に諸葛黎民、諸葛幼民、従弟に諸葛秀之がいたそうです。
で、なにやらあって413年に劉裕によって全員殺されてしまいましたとさ。
「諸葛長民」伝、いかがですか?

119 名前::2002/10/30(水) 00:07

bu-show    2001年10月02日火曜日 21時01分

玉川さま、はじめまして。
この度は当サイトにお越しいただきありがとうございます。
これから、そちらへ伺わせていただきます。

ところで、諸葛長民伝についてですが、『瀚典 資料庫選單』で読んだことはございますが、更新となるとまだまだ先の話ですね。
諸葛恢伝も一部しか紹介しておりませんし、ちくまの『正史』から拾えるネタも隠し持っているので。

120 名前::2002/10/30(水) 00:07

ぐっこ     2001年10月03日水曜日 00時11分
わ、bu-show様、お久しぶりです〜。うひー! 晋書になると諸葛氏も後へ続くのですね…。諸葛緒というと、攪ァの下僚という程度の記憶しかないのですが、晋では卿にまで昇った様子。彼の本籍はどこでしょうか? やっぱり琅邪でしょうか〜?
そして台湾系サイト!そうか〜! 本場の方が研究も進んでるでしょう!くー、中国語の読解が出来れば〜!今からでも中国語を勉強したいです! いずれ中国に行って古書市周りとかするのが夢。
そして諸葛長民!? し、知らない人だ! 琅邪諸葛氏の一門のようですが、何をした人なんでしょう(;^_^A 一族皆殺しになってるなんて…。

121 名前::2002/10/30(水) 00:07

bu-show    2001年10月04日木曜日 21時56分

諸葛緒についてですが、ぐっこさまの仰る通り、徐州瑯邪郡陽都県出身です。祖先が諸葛豊かどうかは不明ですが…。

>台湾系サイト
幾つか見ましたが、Yahoo!に掲載されている諸葛亮サイトだけでも8つか9つあったと思います。日本では私のサイトを含めて何ヶ所でしか見られない『誡子書』が、当たり前のように紹介されておりました。

122 名前::2002/10/30(水) 00:16

玉川雄一     2001年10月04日木曜日 23時48分

田中芳樹の「中国武将列伝」だと、
諸葛長民は劉裕(南朝宋の創始者ですね)に向かって、
「俺は『諸葛』であんたは『劉』だから手を組めば天下を取れるぞ」
みたいなことを言ったらしいんですね。
劉裕は「なに言ってんだコイツわ?」みたいな対応だったとか。
晋書の諸葛長民伝には見あたらないんですが…
どっちかっつうと野心系の人だったみたい?

で、彼も死の直前に何やら怪異現象に巻き込まれているみたいです(^_^)

…よく考えてみたら、彼が言わんとしたところの諸葛さんと劉さんって、
別に天下取ったワケじゃないじゃん(^-^)」

123 名前::2002/10/30(水) 00:16

ぐっこ     2001年10月05日金曜日 22時22分

>諸葛緒
ああ、やはり琅邪でしたか〜。いずれにしても孔明たちの遠縁にあたるのですね…。晋でそれなりに高位に上がったのですから、晋の諸葛は「猫」でしょうか?

>諸葛長民
それにしても長民だの幼民だの、諱というよりは字っぽいネーミングの兄弟ですね〜。なるほど、それなりに野心家で、しかも歴史認識がちょっとズレてて、最後は怪奇現象で死亡…。う、なにやら余計に解らないキャラになってしまいました(;^_^A

 台湾系サイト、きちんと詣でないと…以前BIG5落としたのに、こないだフォーマットしたときに消えてる…。またやり直し

124 名前::2002/10/30(水) 00:23

MOS     2001年10月06日土曜日 01時02分

>>115何故か後漢紀を持っているもすがお答えしましょう♪
と言っても、あまり遡れないんですが、
項劉の時代に生き、劉邦に進言した事が史記にも載っている袁生という人物が祖のようです。(^^)
その上はちょっと存じないです。

125 名前::2002/10/30(水) 00:23

黒竜 2001年10月06日土曜日 09時25分

同じく、何故か後漢書を持っている黒竜です。
袁術伝の注に「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」
となってました。
さらに遡ると帝舜まで行き着くようです。

ちなみに袁安伝では袁良以前のことには触れられてません。

126 名前::2002/10/30(水) 00:23

左平(仮名) 2001年10月07日日曜日 15時14分

袁氏の先祖について、黒竜さんが「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」と『後漢書』袁術伝の注にある、とおっしゃっているので、もしや、と思い宮城谷氏の『史記の風景』をチェックすると、、ありました!「春秋時代の晩期に、陳という国に轅頗(えんぱ:エンはながえ、パは戦国時代の名将・廉頗のパと同じ字)という大夫がいた。かれは司徒の位にあった。」との事です。ちなみに、この人は、紀元前484年に亡命しており、その6年後に陳は楚によって滅ぼされています。轅氏は陳の公室を累代ささえてきた大柱石の名家という事ですから、公室に連なる→(陳の公室は帝舜に連なるといいますから)帝舜の血脈という事になりそうです。

127 名前::2002/10/30(水) 00:24

ぐっこ     2001年10月07日日曜日 23時47分

おおッ!袁家の血筋!
ええと、私も皆様とおなじソースしか用意できないのですが(後漢書・後漢紀(明徳のアレ)・三国志・後漢国家の支配と儒教)、いちおう推測しました〜。

まずMOS様の仰る袁生なる人物、たしか劉邦本人を囮にして味方を救うよう進言した人物。
この袁生は、どうも袁紹・袁術らの「汝南袁氏」ではなく、袁滂・袁渙らの「陳袁家(曹氏に仕え、晋代に栄達した)」のご先祖のようです。
ただ、この陳袁家の家系図を見ていますと、袁生の8代後に「梁の相」袁良の名が!
この袁良が、袁紹の祖父の祖父の祖父である「太子舎人」袁良と同一人物であるかどうかが不明ですが…(かなり年代がズレてます)。

ここで話は飛びますが、黒竜様、左平(仮名)様の情報のとおり、袁術の先祖は陳国の大夫である轅頗(濤塗)であると見て間違いありません!
つまり、汝南袁家も元々は陳袁家と同門であったとするべきでしょうか。

あくまでも仮定の話として、陳袁家の袁良と汝南袁家の袁良が同一人物であったとして、また系譜をつくってみました(;^_^A 

※どうせズレるでしょうから、メモ帳とかにコピペしてください。正確になります。


帝・舜


胡公満(初代陳主)


轅濤塗


袁生



┣━━━━┓?
璋    ■
┃    ┃
滂    安
┃    ┃
渙☆   京
:    ┃
:    湯
:    ┣━━┳━━┓
:    成  隗  逢
:    ┃     ┣━━┓
:    紹☆    術☆ 基


宏(後漢紀の著者)

うーん。やっぱり袁良=袁良は無理があるかも…。そもそも汝南の袁良は、前漢末の人物ですし…。

128 名前::2002/10/30(水) 00:24

黒竜 2001年10月11日木曜日 20時38分

三国志X事典の一節に
「陳郡陽夏県の袁氏が家系図を作るにあたって
汝南郡汝陽県の袁氏と自分の家系を結びつけた」
とあったんですが、これって袁宏の一族のことなんでしょうか?

だとすれば陳袁氏と汝南袁氏は無関係ってことになりますが…

129 名前::2002/10/30(水) 00:24

ぐっこ     2001年10月11日木曜日 23時00分

がーん! 三国志V辞典!? ううむ、なんで光栄辞典シリーズはたまにこうマニアックなことを記述するのだ…あ、玄奘陳氏情報もこれに書かれてたんでしたっけ?買おうかな〜。
うーむ、いちおう地図の上では、陽夏県と扶楽県(袁渙)に分かれてるけど…同族なんでしょうね〜。
しかし、何で陳の袁家が汝南袁家とつながりを持とうとするのでしょ?陳郡のほうが本家なのに…。

130 名前::2002/10/30(水) 00:45

おばら 

左平(仮名)さんに煽られてまたまた登場(笑
正史『三国志』蜀書をよんでいると、どマイナーな人物、來敏を見つけました。彼は後漢光武帝の姻戚來歙(字は君叔)の後裔とのこと。
そこで來家の調査開始!(←暇人

遡れる限界は、來漢。
前漢武帝の時、光禄大夫に任命され南越と衛氏朝鮮を討伐した楼船将軍楊僕を補佐したとのこと。

次に、來漢の孫の孫、來仲。
前漢末期の哀帝の時、諌大夫になったとのこと。

そして、來仲の子、來歙と來由。
來歙は劉秀(後の光武帝)の一族でもあり、後漢王朝成立に参加。羌を鎮撫し、蜀で最後まで抵抗を続けていた公孫述を攻めるが、公孫述の暗殺部隊に刺されて死去。光武帝は驚愕し落涙。
弟の來由は、光武帝が來歙の忠節を讃えて由をとりたて、宜西侯となる。

來歙の子は來褒。

來褒の子は來稜。
明帝の娘を娶るも、早世。

來稜の子は來歴と來[示止]と來超。
來歴の記述はたくさんあるのでカット。(訳せないだけ^^;)大鴻臚の官についたまま死去。
來[示止]は歩兵校尉に、
來超は黄門侍郎になる。

來歴の子は來定。
彼は安帝の妹を娶り、官は虎賁中郎将になる。

來定の子は來虎と來艷(←は略字。さらに略すと艶)。
來虎は桓帝のとき屯騎校尉になる。
弟の來艷は学者肌で、靈帝のときに司空になる。

ココまでが後漢書の内容です。
以下が三国志の記述です。

來艷の子は來敏。
後漢末の乱を避け、蜀に逃亡。学者として名高く、劉璋、劉備に優遇される。しかし行動・発言が異常だったため、免官・起用を何度も繰り返す。蜀では一番の困り者?? 97歳の高齢で死去。

來敏の子は來忠。
來忠には父の面影があり Σ ̄□ ̄;; 姜維を補佐して参軍になる。

以上が調査結果です。
その後の來家、どうなったのでしょうか?
『晋書』には來家はもう出てこないのでしょうか?
情報求む!!(ナニヲ偉そうに言ってんだか・・^^;;

131 名前::2002/10/30(水) 00:45

左平(仮名) 2001年11月04日日曜日 21時12分

來氏について(といってもたいした足しにはなりませんが)一つ。來歴(だと思うのですが)は、宮城谷三国志に名が出ています。記述が多いとの事ですが、どうやら出番がけっこうありそうな描かれ方でしたよ。

132 名前::2002/10/30(水) 00:46

ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時49分

来敏! …知らないひとだ(;^_^A 調べ調べ…。
ふんふん…父の来艷は霊帝の時に司空…。三公リスト見ると、171年、あの橋玄の後任になってますね〜。
で、都の争乱を逃れて、姉とともに荊州へ…。
え!?
姉の夫・黄[王宛]!? 彼って、王允や呂布と謀って董卓を暗殺したもと三公のひとり。魏書では董卓の命で曹操の潜伏箇所を襲撃したけど(←この話、嘘っぽいなあ。後漢書の黄[王宛]と矛盾するし…)、曹真の父が身代わりになったという…。
とにかく、そんな有名人の義弟なものだから、劉璋が招聘して、後に劉備が引き受ける、と。
でも孔明が呆然とする程の奇人であったため、クビ。ただし劉禅の傅人のひとりであったため、地位は保たれる…と。
……なんだかぱっとしない人ですが、費イ伝では格好いいエピソードが。出撃直前の大将軍・費イの元をふらりと訪れ、のんびりと碁を打ち、「こうしてあなたの心胆を図ったが、なるほど見事じゃ」と太鼓判を押したとか…。
どうもキャラが掴みづらい人ですが、彼の祖を辿ってゆくと來歙伝……うわ、光武帝の雲台二八将よりも伝が前!!そりゃあ名族ですなあ…! 前漢の代から武門で鳴らしてたんですね〜。
これほどの由緒ある名門だったら、司馬氏も放っておかないでしょう〜。いちおう本籍は新野ですが、四川に居着いたのかなあ。

133 名前::2002/10/30(水) 00:46

ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時52分

またオフライン(;^_^A
ええと、宮城谷三国志ですか! あ、また文春読み忘れてた…。
たしか來歙伝には曾孫来歴まで乗ってましたよねえ〜(私はこのへん目次だけ所有(;^_^A)。
あのあたりの政変の場にいたとなれば、かなりの活躍をしたのでしょうか?

134 名前::2002/10/30(水) 00:47

玉川雄一     2001年11月04日日曜日 22時32分

速報。
とりあえず、晋書に立伝はされていないようです。
文中に登場している可能性もなきにしもあらずですが…
「解體晉書」さんで伺ってみようかしら。

あと、来敏は三國志IIにだけ登場していたような記憶が…

135 名前::2002/10/30(水) 00:47

ぐっこ     2001年11月06日火曜日 01時35分

おお、さすがに早い!
玉川様、情報ありがとうございます〜! 立伝が無いということは、来氏もそれほどの権勢を、少なくとも晋代にはふるわなかったわけですね〜!
伝を見る限り、かれは姉とともに身一つで蜀に亡命してますから、かの地の一地方名士として終わったのかも…。
ただし光武帝の一門でもあった名族、中原にとどまった来氏のほうは、ひょっこりとどこかに出てきてたりして…。私も探してみます〜!

三国志U!? …意外な作品に。演義では名前のみの登場なのに…。

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