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■ ★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★

1 名前::2002/10/27(日) 21:56

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時35分01秒 

ということで、どなたかご存じの方、教えてくださいませ!
今のところ松竹梅様の情報で、幽州の「盧家」が!
何でも南北朝時代の北朝で、相当な名家と賞されたとか…。
立地条件から言って、これはあの盧植の子孫・あるいは一門かもしれません!盧植の子・盧毓だって魏王朝の高官でしたし。

そういえば、誰かの子孫が西域記の玄奘になったいたような…。陳羣でしたっけ?

それとは逆に、薛(徐州)の田家の末裔が、三国時代に薛氏を名乗っていたという話もありますね〜。薛綜とかが、あの靖郭君や孟嘗君の子孫だったりする可能性も…

86 名前::2002/10/27(日) 23:28

左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 13:54:09)

ご先祖ネタで趙雲と陳到の差が開く一方なので、陳到のご先祖ネタ(相変わらず根拠は薄弱ですが)も一つ。陳到(字は叔至)、汝南の人。、、陳氏という事から、当然、春秋時代の陳国との縁が考えられます。汝南はかつての陳の地よりだいぶ南にあるのですが、、何と!張コウは(吉川三国志では)三度死ぬ、ではありませんが、陳は三度滅んでいるのです!その一回目は、覇王・(楚の)荘王の時の事(ちなみに、二回目も三回目も楚によって滅ぼされています)。この時、南方に抑留された陳の人々もいるでしょうから、その末裔の一人が陳到という事も。なお、この陳の公室の先祖は、虞の閼父といい、周王室の陶工の長でしたが、その子は周の武王の長女を娶り、陳国を開いています。さらに、そのご先祖は、何と太古の帝王・舜! 

以前の士会の一族ネタで出てきた、杜陵という所ですが、、伴野朗氏の『中国・反骨列伝』の中に、西安(かつての長安)の東南という記述がありました。杜伯と杜預とのつながりはどうなるのでしょうか?、、それはさておき、魏に蘇則という人がいたので、まさか、と思い「三国志全人名事典」(徳間書店)でチェックしましたら、扶風郡武功の人、とあります。扶風郡は長安近郊ですから、上述の杜陵で生まれ育ったらしい、典属国・蘇武(匈奴に十九年もの間抑留されながら、ついに節を曲げる事なく漢に帰還したという傑人。悲運の名将・李陵の友人ともいいます)の名が。蘇武は期間後も二十年あまり生きたといいますから、彼の子孫が一人くらいいても不思議ではありません。 

87 名前::2002/10/27(日) 23:28

竜[関東] > (2001/08/26(Sun) 20:18:34)

杜甫の詩のなかに自分の家系を誇るものがあって、それによると
陶唐氏堯帝の子孫で、杜預が十三代祖先であるとしているそうです。

ちなみに杜預の先祖である杜周(漢書に伝有り)はもともと南陽郡杜衍の人ですが、
子の杜延年が杜陵に移り住んだんだそうです。
杜周は陶唐氏の末裔を称していたそうですから一族発祥の地に戻ったようです…
総合すると、陶唐氏→杜伯→杜延年→杜預→杜甫
という感じでしょうか。

88 名前::2002/10/27(日) 23:28

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/26(Sun) 22:19:47)

おお、今度は陳到が! そうですよね〜、趙氏が黄帝まで遡った以上、陳氏も神話までいってもらいましょう(;^_^A
で、陳公の血筋ですが…なるほど、帝舜の末裔ですか! となると姚姓。すると虞翻あたりと同姓ですね〜。なんで中国人って姓と氏を分けるのでしょうか…。
さておき、杜預!こちらは帝堯!姓は伊祁!……いま私は姓氏一覧を参照していますが、当時の人々は当然、氏を聞くと即座に姓を答えることが出来たのでしょうね〜。同姓不婚とかもあったでしょうし…。で、杜預は帝堯の血を引く杜家に産れ、13世後に杜甫をうむ、と…。
なんだか呆然とする話ですよね〜。
他にも、魏の西方面の押さえである蘇則! これが蘇武の子孫!いま十八史略で確認しましたが、なんでも部下の不始末を償うために、いちど剣で我が胸を刺し通し、死んだとありますね〜。で、匈奴の秘術で蘇った、と。氏に忠実な人物ですね〜。

89 名前::2002/10/27(日) 23:29

左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 23:06:16)

秦氏関係で、もう一つ思い出しました。確か、桓武天皇の母は秦氏の女(むすめ)だったかと。日本史の百科事典でずっと昔に読んだ記憶があります(違ってたらごめんなさい)。ためしに古文の辞典で皇室の系譜を見ましたら、桓武天皇から今上天皇まで、ず〜っと辿る事ができるのです(南北朝などもありますが、それをも乗り越えて)。と、いうことは、、。書いてて、こんなに話が広がっていいものか、と思わず自問してしまいます。

90 名前::2002/10/27(日) 23:30

松竹梅[関東] > (2001/08/27(Mon) 00:52:30)

法正の曽祖父は法雄といって、どうも田斉の襄王の子孫らしいです。ということは、法正には陳無于の血が流れてるのか…と思えばなんとなく納得かも。ということで、法正も先祖は帝舜ということになりました…でいいのかな?

91 名前::2002/10/27(日) 23:30

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/27(Mon) 23:49:06)

こんどは天皇家〜!! 秦氏おそるべし〜! あ、いま趙雲様のご先祖のページを更新しました〜。それ以後に出てきた話題の人物を追加しております〜。

そして法正! こちらは斉の襄王!? …と、松竹梅様、その法雄という人物は三国志には記述されてないです〜。ソースは三国志集解ですか〜!? いいなあ…。

92 名前::2002/10/27(日) 23:30

松竹梅[関東] > (2001/08/28(Tue) 07:53:18)

ソースは『後漢書』38巻法雄伝と、83巻「逸民列伝」ちゅうの法真伝です。
法正の祖父、法真は門下生数百人を抱える「関西の大儒」であり、寡欲にして官に仕えなかったという、法正の祖父だとは到底思えない人物です。ちなみにこの人「玄徳先生」と呼ばれていました。法正と劉備の意外な接点? 

93 名前::2002/10/27(日) 23:31

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/29(Wed) 00:20:38)

うお!? またしても後漢書! あう〜、また県立図書館から借りなきゃ…ええと、38巻ですね〜。
それにしても、「三国志」になくて「後漢書」に伝のある有名人(関係者)、あるいは後漢書の方が詳細な人物って、どれくらいいるのでしょう…? 徐栄の末路なんか、三国志には載っててませんでしたよね〜。

94 名前::2002/10/27(日) 23:31

玉川雄一[関東] > (2001/08/29(Wed) 01:15:25)

えと、羊[示古]のオジーさんの羊続の伝がありますね。巻三十一に。
チョイと前に、羊[示古]の父の羊ドウ(行がまえに首)の同名異人問題を調べていて、参考にしようとしたのですがあまり解決にはなりませんでした。

95 名前::2002/10/27(日) 23:31

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/30(Thu) 22:26:34)

おお、羊[示古]のお祖父さんですと!? う〜む、後漢書は宝箱ですよね〜!
羊ドウですと…なるほど、他にも南陽出身の羊ドウさんがいらっしゃるのですね。しかしまた、羊[示古]の父親の名前って、どこに載って…って晋書ですよね〜。ああ、晋書も欲しい…。

96 名前::2002/10/27(日) 23:57

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月31日 (金) 21時06分27秒 

以前、陶侃の父、陶丹が呉の交州刺史だったと申し上げましたが、私の勘違いだったかもしれませぬ。
先程『解體晉書』さんのサイトで列伝の訳を拝見していましたら、「陶[王黄]伝」の初っぱなに、「陶[王黄]の父の陶基は呉の交州刺史となった」とあったのです。なんか、これと記憶がごっちゃになっているかもしれません。「陶侃伝」で確認できればいいのですが…

陶[王黄]の弟には陶濬がいます。また、陶基、陶[王黄]、その二人の子の陶威、陶淑、陶威の子の陶綏に至るまで、四代五人が交州刺史を歴任するという南方統治のエキスパート?な家系だったようで。

…やっぱ陶丹が交州刺史だったっての、勘違いかもなあ。

97 名前::2002/10/27(日) 23:57

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/31(Fri) 22:44:21)

ちょっと確認してみましょう〜!
まず陶丹というと陶淵明の遠い先祖で、

 >ちなみに晋書には、巻九四、列伝第六四の項に「陶潜伝」があります。
 >彼が陶淵明ですよね。そこによると
 >陶侃−陶茂−(不明)−陶潜(元亮、365-427)
 >確かに、陶侃の曾孫ですね。んが。
 >陶侃伝(巻六六、列伝第三六)を見てみますと…
 >この巻には、最初に劉弘なる人物の伝があり、
 >続いて陶侃、以下彼の子、甥の伝がズラリ。
 >陶侃(士行、257-332)
 >以下彼の子の陶洪、陶瞻(道真、?-328)、陶夏、陶キ(劉表の次男と同じ字)、
 >陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱。
 >そして陶侃の兄の子の陶臻(彦遐)、陶興。

 >……あら、陶茂は? そう、思いっきり怪しいのです。
 >私が立ち読みした本にもこの点がツッコまれていました。
 >やっぱり晋書がいけないんでしょうか。

 >はっ、そういえば陶侃の父の陶丹は呉の交州刺史だったとか。


という家系ですね〜!

で、陶[王黄]のほうはというと、呉の蒼梧太守として呉の最南端を守護し、交州の牧になった人物!なかなかの勇将だったようですね。
弟の陶濬は、呉の最後の荊州牧・鎮南将軍として晋軍を迎え撃ったはいいが、翌日兵士全員に逃亡されたという困ったさん。
彼らは丹陽の出身であったようですが、陶侃のほうはどうなんでしょう?

98 名前::2002/10/27(日) 23:57

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/31(Fri) 22:46:51)

どうも交州って、世襲というか独立勢力っぽいイメージがありますので、同族でないと牧や刺史職をまわしたりできないかも…。
加えて、また時間軸の問題が発生しそうですね〜 

99 名前::2002/10/27(日) 23:57

玉川雄一[関東] > (2001/09/04(Tue) 22:40:30)

えー、「解體晉書」さんで教えていただけました。
やはり私の記憶違いでして、陶丹は呉の交州刺史になったという記録は残っていないそうです。間違いなく、陶基と混同していました。
しかし、陶丹は呉の揚武将軍だったそうです。出身は[番β]陽とのことで、やはり呉に仕えていたそうで。

100 名前::2002/10/27(日) 23:58

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/09/06(Thu) 22:59:20)

なるほど、[番β]陽出身ですかー。じゃあ別口の陶氏ですね〜。
それより陶[王黄]、陶濬兄弟の方が気になる。丹陽の陶氏というからには、かの徐州の梟雄・陶謙と同族なんでしょうね〜。

101 名前::2002/10/29(火) 22:52

玉川雄一   

★ 丁奉の子発見!? ★

晋書の三国志関連人物を洗うべくパラパラとめくっておりますと、思わぬ発見が!?

これまではろくすっぽ目にも通さなかった「志」の部分を読んでいましたら、五行編に怪異現象じみたお話が。こりゃ面白そうと見ていますと、「豕禍」の項に呉の丁奉が登場!

三国志呉書丁奉伝では、彼の死後孫晧によって家族が強制移住されたと書かれていますが、実はそれは「豕禍」が原因だった?
なんでも、丁奉の営に野豕が入ってきたことがあったそうで、遺族の災難もそれが原因だろう、と。

そして、発見! 晋書の例の件には、孫晧によって丁奉の子の丁温が殺されたとあるようなのです!
呉書には載っていない丁奉の子…ただいま、「解體晉書」さんで鑑定を依頼中であります。

うーむ、列伝だけでなく、「志」もあなどれませんな…

102 名前::2002/10/29(火) 22:55


ぐっこ     2001年09月23日日曜日 23時38分

なんとっ! 三国志に名の無い人物! 丁奉の子の丁温! しかも孫晧に誅されてる…。これだから晋書ってやつは〜!
こりゃあ探せばウハウハですな〜!どんな人物がどんなところから飛び出して来るやら…。
正史で馴染の「索引探し」が出来れば随分楽でしょうが…。いいな〜!
あ、私は引き続いて後漢書と格闘中。…漢文、嫌いです。

103 名前::2002/10/29(火) 23:02

左平(仮名) 

「三国志全人名事典」から、姓または氏が同じというだけで「ひょっとしたら?」というご先祖候補の有名人をかたっぱしからピックアップしてみようかと、、。なお、出身地などは省略しておりますので、根拠は全くといっていいほど、ないです。また、韓・魏・趙、王・張・李・劉・曹・孫といったところは人数が多すぎるので省略。
【い】尹〜 尹佚(いんいつ:史佚とも)。周王朝初期の史官。成王がたわむれで弟の唐叔虞(晋国の祖)を「封じる」と言ったのを「そのとおりになさる様に」と諌める。「天子に戯言があってはならないのです」というのがその理由。→『重耳』(上)
・尹黙、尹賞など。
【え】衛〜 衛青(えいせい)。前漢・武帝の衛皇后の弟にして、大将軍。匈奴との戦いで戦功をあげる。彼の死後、巫蠱の乱(ふこのらん)で一族は滅んだはずですが、あるいは、、。→『霍去病』『中国傑物伝』
・衛カン(王に灌の右側)、衛茲など。
【え】閻〜 閻楽(えんらく)。秦の宦官・趙高の親戚。二世皇帝・胡亥を自殺に追い込む。それだけ。→『小説十八史略』
・閻圃など。
【か】華〜 華元(かげん)。春秋時代中期・宋の宰相。出目で太鼓腹という愛嬌あるキャラクタ−。晋・楚二大国の和平を斡旋。→『華栄の丘』
・華キン(音に欠)など。
【か】カイ(萠にリ)〜 カイ通(かいとう)。韓信に「天下三分」を説いた説客。→『史記の風景』
・カイ越・カイ良兄弟。
【か】霍〜 霍光(かくこう)。前漢の昭帝・宣帝を支えた実力者。「関白」の語源でもあります。彼の死後、霍氏は滅ぼされているはずですが、あるいは、、。→『霍光』
・霍峻、霍弋親子など。

104 名前::2002/10/29(火) 23:51

左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 20時00分

【こ】伍〜 伍子胥(ごししょ)。名は員。子胥は字。楚の名臣・伍挙の孫。父と兄を楚王によって殺された為、呉に亡命し、楚王の屍を鞭打って復讐したという。後、讒言を信じた呉王によって自殺させられ、屍は長江に流された。なお、彼の子は斉の鮑氏に託されたという。伍子胥=孫武という説もあるとか。→『小説十八史略』
・伍朝など。
【こ】高〜 高固(こうこ)。春秋時代・斉の名族。斉が晋の大臣・郤克(郤缺の子。容貌が醜悪だった)を辱めた直後に晋が主催する会同(国際会議)に出席せざるを得なくなったが、郤氏の報復を恐れて引き返す。なお、彼にかわって会同に出席した事で、晏弱は一躍有名になり、後に彼の子の晏嬰が宰相の位に登るきっかけとなった。→『晏子』
高柔・高幹など。
【こ】国〜 @子産(しさん)。春秋時代・鄭の名宰相。孔子に敬仰された、当代随一の知識人。一代改革を断行し、初めて成文法を作った人でもある。氏名はふつう公孫僑といわれるが、彼の父の字が子国であった事から、彼の家は国氏ともいわれる。→『子産』
      A国左(こくさ)。春秋時代・斉の名族。なかなかの辣腕家であったが、崔杵の策謀にかかり、粛清される。→『晏子』
・国淵、国泰親子。

105 名前::2002/10/29(火) 23:52
左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 21時00分

【さ】崔〜 崔杵(さいちょ)。春秋時代・斉の人。斉を強国とした名臣であったが、斉公が妻を奪おうとしたのに対して激怒し、ついに斉公を殺害する(この直後、「崔杵弑其君」という記述をめぐって史官と対立)。数年後、彼の一族は滅びるのですが、彼の子の一人は魯へ亡命し、生き残ったそうです。なお、『世説新語』には、晋代にその子孫の崔正熊という人物がいたという記述があるとか。→『晏子』
・崔烈、崔林、崔エン(王に炎)など。
【し】荀〜 荀林父(じゅんりんぽ)。春秋時代・晋の宰相。名将・士会と同時代の人であるが、割と温厚かつ平凡な人。彼の子孫が中行氏を、彼の弟の子孫が知氏を名のる。→『沙中の回廊』
・荀掾A荀攸など。
【し】淳于〜 淳于コン(上は髪の上部、下は几)(じゅんうこん)。奴隷出身。人の心理を読むのに長け、ユ−モアに富んだ人。確か、彼の子孫の一人に、かの鑑真和上が。→『小説十八史略』『反骨列伝』
・淳于瓊など。
【し】上官〜 上官桀(じょうかんけつ)。前漢の武帝の護衛。武帝が崩ずる際、霍光らとともに後事を託される。後、霍光と対立し、一族もろとも滅ぼされる。しかし、あるいは、、。→『霍光』
・上官崇など。
【と】東方〜 東方朔(とうほうさく)。前漢の武帝の時代の人。博学多才のユ−モリスト。塚本ヨ史氏の作品では、体を自由自在に折り曲げる事の出来る長身の美男という設定。→『霍去病』
・東方安世。
【と】董〜 董狐(とうこ)。春秋時代・晋の史官。趙氏が晋公を殺害したのを「趙盾弑其君」と記した(趙盾自身が晋公を殺したわけではないが、一族の者が起こした事件に対し、趙氏の総帥であり、かつ亡命直前とはいえ一国の宰相であった趙盾にはそれを止める責任があったとみなした)事で孔子に賞賛される。→『孟夏の太陽』
・董遇など。
【は】白〜 白起(はくき)。戦国時代・秦の常勝将軍。長平の戦いでは、趙軍45万のうち5万を戦死させ、残る40万をすべて穴埋めにして殺したという。後に自殺を命じられる。→『白起』
・白波など。
【は】樊〜 樊カイ(口に會)。漢の高祖・劉邦の護衛。劉邦の正妻・呂氏の妹の夫でもあります。彼と呂氏との間の子は呂氏が滅ぼされた際に殺されていますが、他はどうなのか、、。→『小説十八史略』
・樊稠など。
【ほ】鮑〜 鮑叔(ほうしゅく)。名は牙。叔は字。春秋時代・斉の人。「管鮑の交わり」で知られる。→『管仲』(現在連載中との事。著者は、もちろん、宮城谷氏です)
・鮑信など

すみません、一つ訂正が。【け】の「ケイ」ですが、「刑」ではなく、「刑の左側に郤の右側」です。
また、ご先祖?の追加を。
【ら】欒〜 欒氏。西周時代に晋の公室から分かれた名家。欒書(らんしょ):春秋時代、晋の宰相。讒言によって郤氏を滅亡させた後、晋公(q公)を殺害。彼自身は普通に亡くなっているが、孫の代に士氏と争い、滅ぼされています。→『子産』
・欒文博。
【よ】羊〜 羊斟(ようしん)。春秋時代、宋の人。戦いの前に、不吉さを感じた華元が羊の肉を与えなかった事を恨み、華元を敵中に放置する。後、華元が宋に帰還すると、魯に亡命する。→『華栄の丘』
・羊コ(示に古)など。、、ただ、死後、住民たちが石碑(祭りの時にはその死を悼んで泣いた為に堕涙の碑と呼ばれたという)を建てたという名将・羊コの先祖としては恥ずかしすぎますが、、。
【ほ】北宮〜 北宮佗(ほくきゅうた)。春秋時代、衛の人。北宮氏は、衛の名家です。楚の霊王の最期を預言。→『子産』
・北宮玉。

106 名前::2002/10/29(火) 23:52

玉川雄一     2001年09月30日日曜日 20時10分

遡りますか! 意外なのが判明すると楽しいですね。
で、ご協力できないのが恐縮ですが…
高柔と高幹どうしも縁続き(ちょっと遠いけど)らしいんですよね。
何となく意外でした。やっぱり高幹もただもんじゃありませんのね。

107 名前::2002/10/29(火) 23:53
ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時26分

うわあ、これはまた膨大なリストアップありがとうござます〜!左平(仮名)さま!
中国の思想として、同姓を遡れば元はひとりと換算するそうですから、上記の人物達はそれぞれ共通の先祖を持っていたと考えられてたでしょうね。
で、比較的近い血族を捜すのにまず見るのが本籍の所在地ですが…。まずピンと来るのが、衛青━衛カンのライン。出身地は隣同士です。襄陽のカイ兄弟については、カイ通の子孫であると明記されてますねー。
郤正も河南の出身ですから、郤氏の血脈であるっぽいです。国淵、国泰も旧斉領の辺境・楽安出身ですので、国左の血を引いてるかも。あと、荀子は潁川荀氏の直系の先祖の様子。

ひとつ気づきましたが、食い物の恨みであの名宰相・華元を敵に売り渡した羊斟と言う人物、これは後世につけられたあだ名のようです。「羊斟」とは、文字通り「羊のスープ」という意味で、これこそが華元が彼に与えなかったメニューです。中国人の命名法って…。
とにかく、羊[示古]は彼の血を引いてなさそうで、彼のファンは一安心。
あ、それと鮑信の本貫は泰山郡。鮑叔の子孫は代々斉の正卿だったようだから、血縁があるかもしれません…。」

……う〜む。ざっと先祖の氏を紐解いただけでも、けっこう春秋以前の歴史と三国志が繋がるものですね!

108 名前::2002/10/29(火) 23:53

ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時29分

あ、高柔は高幹の「従弟」あるいは「叔父」のようです。家系図を見る限り叔父のようですが…。






┃━┳━┓
靖 昌 賜
┃   ┃
柔   躬
    ┃
    幹

ふ、IEで見るとまたズレるんでしょうねえ…。LINUXなら大丈夫なのに…。」

109 名前::2002/10/29(火) 23:54

おばら   2001年10月01日月曜日 04時01分

左平(仮名)さん、はじめまして。おばらと申します。
樊カイの子孫についてですが、
呂シュ(呂后の妹)との間にできた嫡男の樊伉は、呂氏討滅のドサクサに紛れて母と共に殺されてしまいます。
しかし、樊カイには庶子があり、樊市人が家を継ぎました。29年して樊市人は死に、子の樊他広(もしくは樊佗広)が継ぎ、6年して平民におとされました。
その後も細々と家は続いたようで、王莽に毒殺された平帝の時(紀元2年)に、樊カイの玄孫の子の樊章が祖先の舞陽侯の爵位を継いだとか。

その後は、知りませぬ。(^^;;
お騒がせしました〜。

110 名前::2002/10/29(火) 23:55

おばら
 
楊喜



楊毋害



敞 司馬遷
|――+ │
忠 ヲ = ○
| │
譚 ■(酒泉郡に配流)




|―+―+
牧 秉 奉
| │ │
■ 賜 [専文]
| │ │
奇 彪 衆
| │
亮 脩




│――+―+
[山喬] 俊 髦

以前、話題になっていた楊氏を系図にまとめてみました。
きっと稚拙な頭脳で書いたので間違いだらけでしょう。
おおめに見てやってくださいましー。
なお、晋書は参考にしてません(知らないとも言う^^;)ので、
晋書を通読された方なら書き足すことができるでしょう。
玉川さまあたりなら・・・(他力本願)

111 名前::2002/10/29(火) 23:55

おばら   2001年09月28日金曜日 01時57分

んぎゃ〜〜〜〜
ずれちまった!!
楊ヲの妻は、司馬遷の娘です。楊ヲは楊忠の弟です。
あとずれた所は、楊囂以下全てですゥ(泣)。
楊囂は楊脩の子どもです。
ホントにすみませぬ〜。ごめんなさいデス。

112 名前::2002/10/29(火) 23:56
玉川雄一     2001年09月28日金曜日 10時11分

では引き続き。いや、別に苦しくなんてありませんから(^_^)

楊準の子に楊[山喬]、楊髦、楊俊の3人を挙げられていますが、
楊[イ全]期伝によれば彼の祖父は楊林というそうで、
楊林も楊準の子にあたるので4人兄弟ということになりましょうか。

で、楊林の子が楊亮。その子が楊[イ全]期(?-399)。
楊[イ全]期には兄の楊廣(?-399)、弟の楊思平(?-408)がいました。
また、彼らの従弟に楊尚保という人物もいたそうです。
「(兄弟)皆強C粗暴」ってあるので、ワイルドな兄弟だったのでしょうかね。

楊[イ全]期は武勲著しく、一旦官を退いてのち荊州刺史殷仲堪の麾下に属しましたが、
桓玄と戦って兄の楊廣と共に戦死しました。
その首は都(建康でしょうか)にさらされたそうです。

事情がうまくつかめないのですが、当初は殷・楊とも桓玄に従って叛乱を起こしたらしいのですが、
結局桓玄と戦うことになって戦死したようです。仲間割れ?

反乱軍の首魁、桓玄に討たれたとはいえ、楊[イ全]期も当初は桓玄に与したということで、梟首ということなのでしょうかね。
この時楊思平、楊尚保は逃れましたが、「思平、尚保後亦以罪誅、楊氏遂滅。」とあります。楊林の系統はここでジ・エンドの模様。

ちなみに、安帝紀(司馬徳宗)義熙4年11月の項に、「梁州刺史楊思平有罪、棄市。」とあるのはこのことでしょう。
また、同年12月には陳留王曹霊誕薨ずともあります。陳留王家、まだ続いていましたのね。

楊氏の他の系統はまだ続いたのでしょうかね。まさに大河一族!
さらにこの先をご存じの方へバトンタッチ!」

そうそう、義熙4年は西暦408年です。念のため。
5世紀に入っても三国志関連人物のネタがあるとは、
恐るべし中国…

113 名前::2002/10/30(水) 00:00

おばら   2001年09月28日金曜日 15時30分

玉川様、訂正&補足ありがとうございます!!
いやー、さらに続いているとは、恐るべし!

あと、少し訂正。司馬遷の娘は、楊敞の妻でした!
勘違いでした。すいませーん。

114 名前::2002/10/30(水) 00:01

ぐっこ     2001年09月28日金曜日 22時53分

で、手元の史料とおばら様と玉川様の情報を元に、組み直してみました〜!


    楊喜(項羽の死体の一部をゲット)
    ┣━━━━┓
    ■    敷
    :    ┃
    ■    母害
    :    ┃
司馬遷 ■    ■ 
 ┃  ┃    ┃  
 娘==廠    孟嘗 
  ┃ ┣━┓  ┃
  ■ 忠 渾  恢 (←渾のせいで一族流浪中)
    ┃    ┃  
    譚?   譚?  
    :    ┃  
    :    並
    宝
    ┃
    竇
    ┃
    震☆
  ┏━╋━━┳━━┓
  奉 秉  牧  ■
  ┃ ┃  ┣━━┓
  敷 賜  馥  統
  ┃ ┃  ┃
  衆 彪☆ 奇
    ┃  ┃
    脩☆ 亮
    ┃
    囂
    ┃
    準
 ┏━━╋━━┳━━━┓
 髦  林 [山喬]  俊
 :  ┃
 ■  亮
 :  ┣━━┳━━━━┓
尚保? 廣 [イ全]期  思平(A.D.408、全滅)
    :
    :
    :
    楊堅(581〜)
    ┃
    煬帝(;^_^A 



……うわ〜っ!

115 名前::2002/10/30(水) 00:01

おばら   2001年09月30日日曜日 03時23分

おおお!!
なるほど〜。ぐっこさまの系譜で楊敷の家と楊敞の家が別家だったと知りました。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』だけでは資料不足でした^^;;。

お恥ずかしいのですが、上に挙げた史書以外で何を参考になされたか、お教えねがえませんでしょうか。
お願いしますm(_ _)m

116 名前::2002/10/30(水) 00:02

ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時30分

う…、楊家の構成、実はファイリングしてあるコピー史料の一部から作成したものなのです…。
たぶん『後漢国家の支配と儒教(雄山閣出版)』だと思うのですが。ちなみに著者は最近おなじみな渡邊義浩先生だったりします(;^_^A

117 名前::2002/10/30(水) 00:06

bu-show  

ご無沙汰しておりました。
掲示板、変えられたのですね。

晋書やらご先祖ネタで盛り上がっているようですが、私も参加させてください。
何と、諸葛緒の孫娘が『晋書』巻第三十一列傅第一に掲載されているではないですか。やはり、当時は女性ということもあって、伝に記されている文章も短いですが…。

あと、何気なくYahoo! TAIWANで三国志関係のサイトを見ていると、
日本ではまずお目にかかれない情報が沢山ありますね(当たり前ですが…)。
私は中国語の読み書きがまともにできませんが、
只何となく読んで理解するだけなら、
Yahoo! TAIWANはお勧めです(但し、BIG5をDLする必要があります)。

118 名前::2002/10/30(水) 00:06

玉川雄一     2001年10月02日火曜日 00時09分

どうも、初めまして、玉川と申します。
貴方のサイトでは諸葛氏について調べていらっしゃいますよね。
諸葛恢伝にも挑戦されたようで、拝見させていただきました。

で。諸葛緒の系統について注目されたようですが、
晋書には他にも巻第八十五列伝第五十五に「諸葛長民」なる人物の伝がありますね。
彼は4世紀末〜5世紀初頭の人物で三国時代の諸葛氏との繋がりは不明ですが、
琅邪陽都の人だということは…
弟に諸葛黎民、諸葛幼民、従弟に諸葛秀之がいたそうです。
で、なにやらあって413年に劉裕によって全員殺されてしまいましたとさ。
「諸葛長民」伝、いかがですか?

119 名前::2002/10/30(水) 00:07

bu-show    2001年10月02日火曜日 21時01分

玉川さま、はじめまして。
この度は当サイトにお越しいただきありがとうございます。
これから、そちらへ伺わせていただきます。

ところで、諸葛長民伝についてですが、『瀚典 資料庫選單』で読んだことはございますが、更新となるとまだまだ先の話ですね。
諸葛恢伝も一部しか紹介しておりませんし、ちくまの『正史』から拾えるネタも隠し持っているので。

120 名前::2002/10/30(水) 00:07

ぐっこ     2001年10月03日水曜日 00時11分
わ、bu-show様、お久しぶりです〜。うひー! 晋書になると諸葛氏も後へ続くのですね…。諸葛緒というと、攪ァの下僚という程度の記憶しかないのですが、晋では卿にまで昇った様子。彼の本籍はどこでしょうか? やっぱり琅邪でしょうか〜?
そして台湾系サイト!そうか〜! 本場の方が研究も進んでるでしょう!くー、中国語の読解が出来れば〜!今からでも中国語を勉強したいです! いずれ中国に行って古書市周りとかするのが夢。
そして諸葛長民!? し、知らない人だ! 琅邪諸葛氏の一門のようですが、何をした人なんでしょう(;^_^A 一族皆殺しになってるなんて…。

121 名前::2002/10/30(水) 00:07

bu-show    2001年10月04日木曜日 21時56分

諸葛緒についてですが、ぐっこさまの仰る通り、徐州瑯邪郡陽都県出身です。祖先が諸葛豊かどうかは不明ですが…。

>台湾系サイト
幾つか見ましたが、Yahoo!に掲載されている諸葛亮サイトだけでも8つか9つあったと思います。日本では私のサイトを含めて何ヶ所でしか見られない『誡子書』が、当たり前のように紹介されておりました。

122 名前::2002/10/30(水) 00:16

玉川雄一     2001年10月04日木曜日 23時48分

田中芳樹の「中国武将列伝」だと、
諸葛長民は劉裕(南朝宋の創始者ですね)に向かって、
「俺は『諸葛』であんたは『劉』だから手を組めば天下を取れるぞ」
みたいなことを言ったらしいんですね。
劉裕は「なに言ってんだコイツわ?」みたいな対応だったとか。
晋書の諸葛長民伝には見あたらないんですが…
どっちかっつうと野心系の人だったみたい?

で、彼も死の直前に何やら怪異現象に巻き込まれているみたいです(^_^)

…よく考えてみたら、彼が言わんとしたところの諸葛さんと劉さんって、
別に天下取ったワケじゃないじゃん(^-^)」

123 名前::2002/10/30(水) 00:16

ぐっこ     2001年10月05日金曜日 22時22分

>諸葛緒
ああ、やはり琅邪でしたか〜。いずれにしても孔明たちの遠縁にあたるのですね…。晋でそれなりに高位に上がったのですから、晋の諸葛は「猫」でしょうか?

>諸葛長民
それにしても長民だの幼民だの、諱というよりは字っぽいネーミングの兄弟ですね〜。なるほど、それなりに野心家で、しかも歴史認識がちょっとズレてて、最後は怪奇現象で死亡…。う、なにやら余計に解らないキャラになってしまいました(;^_^A

 台湾系サイト、きちんと詣でないと…以前BIG5落としたのに、こないだフォーマットしたときに消えてる…。またやり直し

124 名前::2002/10/30(水) 00:23

MOS     2001年10月06日土曜日 01時02分

>>115何故か後漢紀を持っているもすがお答えしましょう♪
と言っても、あまり遡れないんですが、
項劉の時代に生き、劉邦に進言した事が史記にも載っている袁生という人物が祖のようです。(^^)
その上はちょっと存じないです。

125 名前::2002/10/30(水) 00:23

黒竜 2001年10月06日土曜日 09時25分

同じく、何故か後漢書を持っている黒竜です。
袁術伝の注に「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」
となってました。
さらに遡ると帝舜まで行き着くようです。

ちなみに袁安伝では袁良以前のことには触れられてません。

126 名前::2002/10/30(水) 00:23

左平(仮名) 2001年10月07日日曜日 15時14分

袁氏の先祖について、黒竜さんが「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」と『後漢書』袁術伝の注にある、とおっしゃっているので、もしや、と思い宮城谷氏の『史記の風景』をチェックすると、、ありました!「春秋時代の晩期に、陳という国に轅頗(えんぱ:エンはながえ、パは戦国時代の名将・廉頗のパと同じ字)という大夫がいた。かれは司徒の位にあった。」との事です。ちなみに、この人は、紀元前484年に亡命しており、その6年後に陳は楚によって滅ぼされています。轅氏は陳の公室を累代ささえてきた大柱石の名家という事ですから、公室に連なる→(陳の公室は帝舜に連なるといいますから)帝舜の血脈という事になりそうです。

127 名前::2002/10/30(水) 00:24

ぐっこ     2001年10月07日日曜日 23時47分

おおッ!袁家の血筋!
ええと、私も皆様とおなじソースしか用意できないのですが(後漢書・後漢紀(明徳のアレ)・三国志・後漢国家の支配と儒教)、いちおう推測しました〜。

まずMOS様の仰る袁生なる人物、たしか劉邦本人を囮にして味方を救うよう進言した人物。
この袁生は、どうも袁紹・袁術らの「汝南袁氏」ではなく、袁滂・袁渙らの「陳袁家(曹氏に仕え、晋代に栄達した)」のご先祖のようです。
ただ、この陳袁家の家系図を見ていますと、袁生の8代後に「梁の相」袁良の名が!
この袁良が、袁紹の祖父の祖父の祖父である「太子舎人」袁良と同一人物であるかどうかが不明ですが…(かなり年代がズレてます)。

ここで話は飛びますが、黒竜様、左平(仮名)様の情報のとおり、袁術の先祖は陳国の大夫である轅頗(濤塗)であると見て間違いありません!
つまり、汝南袁家も元々は陳袁家と同門であったとするべきでしょうか。

あくまでも仮定の話として、陳袁家の袁良と汝南袁家の袁良が同一人物であったとして、また系譜をつくってみました(;^_^A 

※どうせズレるでしょうから、メモ帳とかにコピペしてください。正確になります。


帝・舜


胡公満(初代陳主)


轅濤塗


袁生



┣━━━━┓?
璋    ■
┃    ┃
滂    安
┃    ┃
渙☆   京
:    ┃
:    湯
:    ┣━━┳━━┓
:    成  隗  逢
:    ┃     ┣━━┓
:    紹☆    術☆ 基


宏(後漢紀の著者)

うーん。やっぱり袁良=袁良は無理があるかも…。そもそも汝南の袁良は、前漢末の人物ですし…。

128 名前::2002/10/30(水) 00:24

黒竜 2001年10月11日木曜日 20時38分

三国志X事典の一節に
「陳郡陽夏県の袁氏が家系図を作るにあたって
汝南郡汝陽県の袁氏と自分の家系を結びつけた」
とあったんですが、これって袁宏の一族のことなんでしょうか?

だとすれば陳袁氏と汝南袁氏は無関係ってことになりますが…

129 名前::2002/10/30(水) 00:24

ぐっこ     2001年10月11日木曜日 23時00分

がーん! 三国志V辞典!? ううむ、なんで光栄辞典シリーズはたまにこうマニアックなことを記述するのだ…あ、玄奘陳氏情報もこれに書かれてたんでしたっけ?買おうかな〜。
うーむ、いちおう地図の上では、陽夏県と扶楽県(袁渙)に分かれてるけど…同族なんでしょうね〜。
しかし、何で陳の袁家が汝南袁家とつながりを持とうとするのでしょ?陳郡のほうが本家なのに…。

130 名前::2002/10/30(水) 00:45

おばら 

左平(仮名)さんに煽られてまたまた登場(笑
正史『三国志』蜀書をよんでいると、どマイナーな人物、來敏を見つけました。彼は後漢光武帝の姻戚來歙(字は君叔)の後裔とのこと。
そこで來家の調査開始!(←暇人

遡れる限界は、來漢。
前漢武帝の時、光禄大夫に任命され南越と衛氏朝鮮を討伐した楼船将軍楊僕を補佐したとのこと。

次に、來漢の孫の孫、來仲。
前漢末期の哀帝の時、諌大夫になったとのこと。

そして、來仲の子、來歙と來由。
來歙は劉秀(後の光武帝)の一族でもあり、後漢王朝成立に参加。羌を鎮撫し、蜀で最後まで抵抗を続けていた公孫述を攻めるが、公孫述の暗殺部隊に刺されて死去。光武帝は驚愕し落涙。
弟の來由は、光武帝が來歙の忠節を讃えて由をとりたて、宜西侯となる。

來歙の子は來褒。

來褒の子は來稜。
明帝の娘を娶るも、早世。

來稜の子は來歴と來[示止]と來超。
來歴の記述はたくさんあるのでカット。(訳せないだけ^^;)大鴻臚の官についたまま死去。
來[示止]は歩兵校尉に、
來超は黄門侍郎になる。

來歴の子は來定。
彼は安帝の妹を娶り、官は虎賁中郎将になる。

來定の子は來虎と來艷(←は略字。さらに略すと艶)。
來虎は桓帝のとき屯騎校尉になる。
弟の來艷は学者肌で、靈帝のときに司空になる。

ココまでが後漢書の内容です。
以下が三国志の記述です。

來艷の子は來敏。
後漢末の乱を避け、蜀に逃亡。学者として名高く、劉璋、劉備に優遇される。しかし行動・発言が異常だったため、免官・起用を何度も繰り返す。蜀では一番の困り者?? 97歳の高齢で死去。

來敏の子は來忠。
來忠には父の面影があり Σ ̄□ ̄;; 姜維を補佐して参軍になる。

以上が調査結果です。
その後の來家、どうなったのでしょうか?
『晋書』には來家はもう出てこないのでしょうか?
情報求む!!(ナニヲ偉そうに言ってんだか・・^^;;

131 名前::2002/10/30(水) 00:45

左平(仮名) 2001年11月04日日曜日 21時12分

來氏について(といってもたいした足しにはなりませんが)一つ。來歴(だと思うのですが)は、宮城谷三国志に名が出ています。記述が多いとの事ですが、どうやら出番がけっこうありそうな描かれ方でしたよ。

132 名前::2002/10/30(水) 00:46

ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時49分

来敏! …知らないひとだ(;^_^A 調べ調べ…。
ふんふん…父の来艷は霊帝の時に司空…。三公リスト見ると、171年、あの橋玄の後任になってますね〜。
で、都の争乱を逃れて、姉とともに荊州へ…。
え!?
姉の夫・黄[王宛]!? 彼って、王允や呂布と謀って董卓を暗殺したもと三公のひとり。魏書では董卓の命で曹操の潜伏箇所を襲撃したけど(←この話、嘘っぽいなあ。後漢書の黄[王宛]と矛盾するし…)、曹真の父が身代わりになったという…。
とにかく、そんな有名人の義弟なものだから、劉璋が招聘して、後に劉備が引き受ける、と。
でも孔明が呆然とする程の奇人であったため、クビ。ただし劉禅の傅人のひとりであったため、地位は保たれる…と。
……なんだかぱっとしない人ですが、費イ伝では格好いいエピソードが。出撃直前の大将軍・費イの元をふらりと訪れ、のんびりと碁を打ち、「こうしてあなたの心胆を図ったが、なるほど見事じゃ」と太鼓判を押したとか…。
どうもキャラが掴みづらい人ですが、彼の祖を辿ってゆくと來歙伝……うわ、光武帝の雲台二八将よりも伝が前!!そりゃあ名族ですなあ…! 前漢の代から武門で鳴らしてたんですね〜。
これほどの由緒ある名門だったら、司馬氏も放っておかないでしょう〜。いちおう本籍は新野ですが、四川に居着いたのかなあ。

133 名前::2002/10/30(水) 00:46

ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時52分

またオフライン(;^_^A
ええと、宮城谷三国志ですか! あ、また文春読み忘れてた…。
たしか來歙伝には曾孫来歴まで乗ってましたよねえ〜(私はこのへん目次だけ所有(;^_^A)。
あのあたりの政変の場にいたとなれば、かなりの活躍をしたのでしょうか?

134 名前::2002/10/30(水) 00:47

玉川雄一     2001年11月04日日曜日 22時32分

速報。
とりあえず、晋書に立伝はされていないようです。
文中に登場している可能性もなきにしもあらずですが…
「解體晉書」さんで伺ってみようかしら。

あと、来敏は三國志IIにだけ登場していたような記憶が…

135 名前::2002/10/30(水) 00:47

ぐっこ     2001年11月06日火曜日 01時35分

おお、さすがに早い!
玉川様、情報ありがとうございます〜! 立伝が無いということは、来氏もそれほどの権勢を、少なくとも晋代にはふるわなかったわけですね〜!
伝を見る限り、かれは姉とともに身一つで蜀に亡命してますから、かの地の一地方名士として終わったのかも…。
ただし光武帝の一門でもあった名族、中原にとどまった来氏のほうは、ひょっこりとどこかに出てきてたりして…。私も探してみます〜!

三国志U!? …意外な作品に。演義では名前のみの登場なのに…。

136 名前::2002/10/30(水) 00:47

松竹梅     2001年11月07日水曜日 07時22分

そういやこっちの掲示板は初めて…ご無沙汰してます。

宮城谷三国志での来歴は、楊震亡き後宮廷に残った数少ない諫臣として活躍していました。安帝にあっさり罷免されたけど。

三国志2に出てた?記憶にないなあ…三国志2って、何を色気づいたかマイナー人物が多数出ていた作品ですよね。呂覇(呂蒙の子)とか典満(典韋の子)とか。だとすると来敏が出ててもおかしくないですね。

137 名前::2002/10/30(水) 00:47

玉川雄一     2001年11月07日水曜日 19時19分

呂覇! 未だにIIでしか登場してないんですよねえ。ミョ〜に強いし。
典満はこの後もチョコチョコ出てますが、IIのは顔が結構怖かったでしゅ。
一番アレだったのは王双でしたけど(^-^)

っつーか、IIったら尚挙とか出ていたような気もするんですが(^_^)
あれ、来敏じゃなくてこっちでしたかしらん。

138 名前::2002/10/30(水) 00:48
黒竜 2001年11月07日水曜日 21時19分

來氏の子孫、北史と新唐書に登場するみたいです。
詳しいことはわからないんですけど…
來護皃(漢字少し違います)という人です。

139 名前::2002/10/30(水) 00:48

黒竜 2001年11月07日水曜日 22時30分

↑訂正
「來護兒」でした(この年になって漢字がわからないとは…)。
隋で大将軍までなってるみたいです。

140 名前::2002/10/30(水) 00:49

玉川雄一     2001年11月07日水曜日 23時46分

来護児(私の見たのはこういう字でした)、田中芳樹の小説
『風よ、万里を翔けよ』に登場しています。
何やら、煬帝が弑逆された際に一族もろとも殺されたそうですが…
実際の所、どうなのでしょう?

141 名前::2002/10/30(水) 00:49

黒竜 2001年11月08日木曜日 00時44分

來護兒=来護児ですね、意味はおなじですから。
私は兒をジと読めませんでした(ゲイかボウかな?と…)

来護児の一族は確かに宇文化及の反乱で殺されますが
息子が二人、難を逃れて唐に仕えています。
宰相まで出世したとか…(不確かな情報で申し訳ない)

142 名前::2002/10/30(水) 23:19

玉川雄一   

はいはい、しつもーん!

趙氏?スーパー系図拝見しましたが、疑問がありますです。
長宗我部元親の子として挙げられている「足立康豊」とはいかなる人物であらしゃいましょうか?
今まで長宗我部氏の系図を見てきましたが、かような人物は初めて目にします。
長男信親、次男香川親和、三男津野親忠、四男盛親というのが通説で、他に、側室の子に「右近大夫」、さらにもう一人男子がいたとも伝わるそうですが… 盛親の刑死で長宗我部の直系は絶えたものだと思っておりました。
また、女婿の内にも足立康豊なる人物はいないようで。
ぜひ、出典などお教え願えませんでしょうか?

あと、秦重高と信能の間、重宗は私の見た系図では重家となっておりました。
参考にしたのは、山本大著『長宗我部元親』吉川弘文館人物草書であります。

143 名前::2002/10/30(水) 23:19

おばら   2001年11月09日金曜日 01時31分

どひゃ〜
実は資料のコピーが出典だったりして(爆

たぶん、
『系図纂要』(名著出版)か、
『尊卑分脉』(国史大系編修会・吉川弘文館)
のコピーだと思われます。
東京大学の紹介文には(↓で検索可能)
http://contents.lib.u-tokyo.ac.jp/contents/top.html target=_blank>http://contents.lib.u-tokyo.ac.jp/contents/top.html
「尊卑分脉は洞院公定が集成した諸氏の系図で、体系図と称して世に行われ、姓氏家系を考える際に欠くべからざる文献である。書継ぎが多く、諸本に収録された系図に出入があるため、本大系では、前田家所蔵脇坂氏本を底本とし、欠落した箇所は宮内庁書陵部所蔵谷森健男氏旧蔵本を以て底本にあて、他本との校合・校勘を行なった。」
とあります。
確か、黒塗りのどでかい本で、十冊以上の大書だったような・・・。」

そして、足立康豊。
もともと長曾我部民部とかいう人で、「古老噺」とかいう本に出てきたような・・・。酒井備後守忠利に偽名を以て二百石で仕えたそうな。
真偽はまったくもって不明。自称かも。それとも単なる創作かも。
あと、『尊卑分脉』(多分^-^;)には長曾我部盛親の子、盛定については「討死」とか「賜死」とか「〜所殺」とか書かれていないので生死が不明。もちろん足立康豊なんて載ってもいません。^^;

ま、融通王の一族ですから、胡散臭いのもいいかなと思いまして戯れに入れてみた次第です。^-^

ではでは

144 名前::2002/10/30(水) 23:20

おばら   2001年11月09日金曜日 01時56分

ぐあ〜〜

「古老噺」、東京大学でも検索結果0件。Yahoo!でも0件。
ぬぬぬ・・・。
現代語訳が無いということですかね・・・。

145 名前::2002/10/30(水) 23:20

ぐっこ     2001年11月10日土曜日 01時01分

うが〜! なんだか頭の遙か上で高々度の情報がやり取りされてます(;^_^A
もっと勉強しろよ>俺!
おばらさま、お忙しいのに補足説明ありがとうございました〜!

146 名前::2002/10/30(水) 23:21

玉川雄一     2001年11月10日土曜日 08時51分

なるほど! かような資料があるのですか。ありがとうございます。
足立さんの存在は微妙な所ですか(^_^;)

ちなみに、私の読んだ本では、盛親の子について以下のようにありました。
長男盛恒:伏見で捕らえられて斬首
次男盛高:土佐の山野に隠れるが、山内氏に殺される
三男盛信:同上
四男盛定:八幡(ってどこの?)で捕らえられ斬首
五男某:同上

また、盛親の異母弟、右近大夫は伏見で死を命ぜられたそうです。
そういえば、盛親の子供ってみんな「盛○」という名前ですね。
ちょっとセオリー?と違うような。

147 名前::2002/10/30(水) 23:21

ぐっこ     2001年11月11日日曜日 00時37分

ちょっと話はそれますが、今日の「聖徳太子」に秦氏登場!なんか日本史を影で操ってましたな(;^_^A
あの家系図のおかげで、「あ、いまの秦氏って、東儀とか羽田元首相のご先祖やねんで!」と知ったかぶりが出来ました(;^_^A

148 名前::2002/10/30(水) 23:22

黒竜

來氏の続きですが…

先日、新唐書を読む機会があったんですが、表の宰相世系が凄すぎます。
唐の歴代宰相の家系図を並べているようなんですが…
袁氏の項目に袁煕、姜氏の項目に姜維、閻氏の項では閻甫の名前が…
探せばまだいるかもしれません。
凄いというか、凄いあやしいと言うべきか…

149 名前::2002/10/30(水) 23:22

ぐっこ     2001年11月10日土曜日 01時03分

唐代ですか〜!
もうやりたい放題のようですね(;^_^A 何処の国でも家系図偽造は当たり前だったんですね…。
でも絶対嘘とは言い切れない人もいるでしょうし…。そもそも同姓同族の原則で言えば、嘘を付いているわけでも無し。
しかしうさんくさいなあ…(;^_^A

150 名前::2002/10/30(水) 23:22

玉川雄一     2001年11月10日土曜日 08時57分

ある意味そうそうたる?ラインナップでありますね。
閻氏は何やら続いていたそうですが…

これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、
偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。

また、必ずしも直系でもないと考えていいのでしょうか?
いわゆる「○○をもって(祭祀を)継がせる」ってヤツ。
しかし何故袁熙(^_^;)

151 名前::2002/10/30(水) 23:23

ぐっこ     2001年11月11日日曜日 00時37分

うわはは〜!
なんだか大変なことになってますね〜唐代の家系図。
顧氏や鍾氏はまあいいとして、なぜに薛蘭…あえて子孫を名乗りたいとは思わない人物ですが…。
ところで! 崔州平と崔鈞って同一人物なんですか!? ちょっと年代がズレてるような…(いずれも崔烈の息子ではありますが…) 

152 名前::2002/10/30(水) 23:23

黒竜 2001年11月11日日曜日 01時52分

崔州平、原文が
「烈、後漢太尉、城門校尉、生鈞、字州平、西河太守」となってます。
兄貴の名前が崔均なんであっさり信じたんですが… 疑う余地はありそうですね。

それと薛蘭ですが意外にも名家のようです。
薛蘭の父や祖父も国相や太守を務ています。てっきり呂布配下の并州人かと思ってましたが…
薛永は蜀郡太守、その子の薛斉は蜀・巴の太守を務めたらしいのですが蜀書には出てこないですね………(??)

ちなみに一番あやしいのは関羽です。
関竜逢(商)…→関羽→関興(三国)…→関播(唐) アバウトすぎ

153 名前::2002/10/30(水) 23:24

左平(仮名) 2001年11月11日日曜日 10時57分

唐書についての知識は皆無なので入り様がないのですが、、関龍逢の名が出てきたので、ちょっと説明を。
関龍逢とは、商ではなく、夏王朝末期の人です。桀王の暴虐をたびたび諌めましたが、ついに殺されたという名臣です。ちなみに、彼は関氏ではなく、関龍氏だった様です。宮城谷昌光氏の『天空の舟』に、「、、夏の社の神体は、「交龍」である。、、そのおさめるところは河水(黄河)である。、、ここの最高責任者は関龍家であった。、、」という記述があります。
関羽以前で名の知れている関氏といいますと、、
・春秋時代初期の鄭の大夫、関其思(戦略的には正しい事を発言したのだが、武公の意図を読み切れなかった為に処刑される。「韓非子」(説難篇)に登場。鄭というと、河南省のあたりでしたから、河西の人・関羽とのつながりは?です)。 
・老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。確か、関喜とかいった様です。もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。

154 名前::2002/10/30(水) 23:24

中根東竜   2001年11月11日日曜日 17時58分

どうも、ご無沙汰の中根です。

>『新唐書』宰相世系表

なんか懐かしいなぁ。いや、4年ほど前「『三国志』の注釈を
全部読破してやろう」と思って注釈だけまとまった『二十四史補編』
なる中国書を読んでいたことがあったのですが、そこの賈クの
箇所の注に『新唐書』宰相世系表が引用されていたのですよ。
んで、賈クには賈疋なる孫がいた、そうで・・

>玉川さん
>これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、
偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。

価値はあったでしょうね。唐の時代はまだ貴族社会の色が濃い(庶民から科挙を通って朝廷に仕官した官僚と、貴族が派閥争いをやっていた)んで、庶民上がりや元来中国人ではない人でも名門の末を主張した人物は結構居るのではないでしょうか。貴族社会は能力より血筋を
重んじますからね。
それで『三国志』系マイナー武将を子孫と称した人物が多かったのでは?記録がない人物なら文句はいわれませんから。
もしつっこまれても「家に伝わる記録ではこーなのじゃっ!」
と言い返せるので。

まあ、怪しいといえば怪しいのですが。怪しい具体例を挙げると、隋の皇帝の楊家は「楊震の末裔」を称していたのですが、現在の学界では「騎馬民族・鮮卑族の末裔」とするのが定説化しているようです。

>関龍逢

左平(仮名)さんのおっしゃる通り、夏王朝末の人ですね。
結構諸子百家の世界では有名人で、「暴君を諫めて殺された賢臣」
として『韓非子』などに登場します。なお、『韓非子』の有力な
注『韓非子翼毳』(かんぴしよくぜい)に依れば、大本の
出典は『韓詩外伝』だそうです。

なお、宮城谷昌光氏が関龍家とする根拠はよくわかりません。
王雲五氏の『辞源』では「関・龍逢」として区切っています。
関姓という説もあるのでしょうか?まあ、『韓詩外伝』を
見ないとわかりませんが・・

>老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。

これは関尹喜(かんいんき)のことですね。ただ、この人の名は
「尹喜」で「関所役人の尹喜」が「関尹喜」となっているみたいですよ。関姓ではないようです。

>もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。

そういう説を中国の故・郭沫若氏は主張していたようですね。「関尹喜」は「関尹」(関所役人)という普通名詞であり、固有名詞ではないと。

まあどっちにせよこれも調べないとなんともいえませんが。

155 名前::2002/10/30(水) 23:24

黒竜 2001年11月11日日曜日 23時19分

左平さん、中根さん、私の雑な話題に注釈を入れてくださってありがとうございます。

何しろ新唐書のあまりの書きっぷりに興奮冷めやらぬもので…
賈クの親兄弟まで名を連ねてますから(父はキョウ、兄は綵)。

関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました…
殺されたということは湯が子孫を封じたりしたのかな??
姓氏は復姓が単姓に改まることもあるようなので「関姓」全体の始祖という位置づけみたいです。
他の項でも最初は伝説的人物からはじまってます(炎帝や黄帝が…)

156 名前::2002/10/30(水) 23:24

ぐっこ     2001年11月12日月曜日 00時38分

 >崔氏
いまのところ手元の資料は三国志と辞書だけの状態なので、詳しくは判らないんですが…。崔鈞は、「銅臭ェんだよオヤジは」って言った人ですよね(西河太守として反董卓連合にも参戦)。で、崔州平は孔明の友人。崔均はその州平の兄。
…やっぱり三(以上?)兄弟っぽい状況ではありますが…。
あと、薛氏!
ひょっとして本籍、徐州とか豫州のへんですか!? もしそうだったら、孟嘗君と関係あるひとかも…。う〜ん! こりゃあ意外な事実!? 私も李封とかといっしょで、呂布の子飼いかと思ってました(こうなると、李封も案外、エン州李家の一族だったり…じゃあ李乾とは同族?)。
三国志って、どこまで奥が深いんだ〜!!

 >関氏
関羽以前の伝説になりますと、そりゃあうさんくさい話がいっぱい(;^_^A 唐代の人もやりたい放題だったでしょうね〜(たしか馮氏説もあったような…)。
それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか〜(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。

三国志の小説を書かれてる作家(特に宮城谷先生)、どの程度まで「後世の」三国志史料を引用するか見物ではありますよね〜!(;^_^A
賈クの兄弟まで名前が「伝わって」るのか…。

157 名前::2002/10/30(水) 23:25

左平(仮名) 2001年11月12日月曜日 20時43分

宮城谷三国志でどの程度まで「後世の」資料を使うかですが、、一つ、蛇足までに。
第一回で楊震の「四知」という言葉が出てくるのですが、その内容は資料によって若干のずれがあります。元ネタの『後漢書(楊震伝)』では「天知る、神知る、我知る、子(汝)知る」、『資治通鑑』では「天知る、地知る、我知る、子知る」となっているのです。
そして、宮城谷三国志で採用されているのは、後者です。「天、神」よりも「天、地」の組み合わせを好んだというのもあるでしょうが、『資治通鑑』は北宋の司馬光の著作ですから、ひょっとしたらひょっとします。
場合によっては、清の歴史家・趙翼の『二十二史箚記(にじゅうにしさっき)』(二十二史=二十四史【『史記』から『明史』まで】−二史【『旧唐書(くとうじょ)』・『旧五代史』】。箚記=書物を読んで得た感想や考えなどを随時書き記したもの。 )まで出てくるかも、、もうここまで来たら、私にはちんぷんかんぷんなのですが。以上、角川書店の『新字源』から。

158 名前::2002/10/30(水) 23:26

黒竜 2001年11月12日月曜日 20時52分

残念ながら薛蘭は孟嘗君とは無関係なんです。
自分も薛氏と言えば薛綜の子孫とばかり思っていたので度肝を抜かれたんですが、
周初から春秋はじめまで薛侯であった家のようです(信憑性はともかく)桓公に逆らって国替えされ、
その後楚に滅ぼされると博徒などに身を落としていたようですが、漢初に黥布討伐の献策をした薛公がでて再興し、薛蘭へ…
…あやしい……博徒のあたりが限りなくあやしい…

李封は見つかりませんでしたが、今度は広武君李左車が趙郡李氏の系図のなかにいました。趙の名将李牧の孫らしいんですが…これって史記に書いてありましたっけ?

あと崔鈞と州平のことですが、仮に同一人物だとしたら

軽蔑していたとはいえ戦乱に死んだ父の人生に無常を感じ、
荊州に流れて以後仕官せず…

なんて、あまりにも小説的すぎますね…

159 名前::2002/10/30(水) 23:27

ぐっこ     2001年11月13日火曜日 01時23分

 >左平(仮名)様
ふえ…。宮城谷先生がそうである以前に、左平様の史料の幅広さに呆然としておりますが、いかがお過ごしでしょうか(;^_^A
四知…わたしも後者の天地バージョンしか知りませんでした〜(;^_^A そうか、原文は天と神だったわけですね…。当時の様式からいって、そのほうが正解なんでしょうけど…。
しかしまあ、田中芳樹先生が仰ってた「演義さえろくに読まずに三国志モノ書いて、中国小説を書いたと宣伝する勘違いしてる作家(女将軍伝あとがきより)」が雨後の竹の子のように生え揃ってる中、宮城谷先生は目立ちますよね〜。

 >黒竜様
薛蘭、孟嘗君の薛氏とは違いましたか〜。残念なようなホッとしたような…。でも孟嘗君以上に名門なんですね〜! ……本当だろうか(;^_^A 
それに李氏。李左車が李牧の孫…? う〜ん…? なんか、趙の名将の孫かひ孫が、これまた有名な人物だった…という話をどこかで読んでるんですけど…たぶん李ではなかったような…。
後世の家系図は、つなぎ換えも承ってるのか!?(;^_^A
それと崔修平。崔鈞と同一人物だとすると、なるほど……ドラマチック。後漢末の爛熟した空気にうんざりしてたうえに、董卓と真っ向から対立…。疎開先の襄陽アカデミーで、見込みのある若者に政治の要諦を伝える…。崔修平、案外格好いい人かも…

160 名前::2002/10/30(水) 23:27

中根東竜   2001年11月13日火曜日 14時36分

>ぐっこさん
>それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか〜(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。

前の投稿で挙げた史料は神保町に3年ほど足繁く通って(神保町は通勤・通学ルートの途中なので)、かき集めた物です。
ですから、神保町に通えばぐっこさんも入手できますよ。

>関羽

『新唐書』をみてみましたが、関氏系図は唐の徳宗の宰相を
やっていた関播という人物のでっち上げかも。

だって、始祖が伝説の人物・関龍逢で、その後全く記述無く
関羽ー関興と続くのは非常におかしいです。その関興の子孫を
称した人々が住んでいた地域も魏の領土内の信都ですからねぇ。
なんで蜀の武将の子孫が魏に移動しているのでしょう?
しかも、他の系図には最近の人物が複数書かれているのに、関氏
系図のみは関播一人のみ。・・これは妙ですな。

>黒竜さん

>関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました…

これは単純に『新唐書』の誤りと考えて良いと思います。歐陽脩(『新唐書』の筆者)も何でこういうケアレスミスをするかなあ?
もっとも、この系図自体先に述べたように関播の偽作の可能性が
否定できないので、関播が朝廷に提出した系図が既に誤っていた
のかもしれません。

>左平(仮名)さん

『資治通鑑』を使うのは中国史の記述をするときには良くありますので、他の後世の史料とは分けた方が良いかも。

『資治通鑑』は、正史以外の実録・野史の類を司馬光はふんだんに持っていて、それをかなり正確に配置しているので、正史の次に(正史が誤っている時には正史以上に)重んじられる史料ですからね。後世とはいってもこれは別格。宮城谷氏が使うのも良く分かります。

なお、『二十二史剳記』は新しい史料を引用するのではなく、
単に正史の事項を研究した本なのでちょっとこれは用いないでしょう。
四知の話しも載っていないはずです。

161 名前::2002/10/30(水) 23:28

左平(仮名) 2001年11月13日火曜日 22時39分

>ぐっこさん
史料の幅広さ、と言われると、少々気恥ずかしいです。中根東竜さんにくらべると、私の手元には、まったくと言っていいほど資料はないんですよ。
あるのは、宮城谷昌光氏の作品(それも、春秋まで。戦国以降はまだ一部)と陳舜臣氏の作品の一部(ほか、塚本ヨ史氏、伴野朗氏の作品が少し)、『韓非子』(現代語訳付きのもの)、白川静氏の『字統』(普及版)、先述の『新字源』(普通の漢字字典です)、それと『三国志全人名事典』くらいのものなんです。
ですから、先に書いた内容は、すべて手持ちの漢字字典から拾い出したものです。なお、「四知」の内容が「天、神〜」と「天、地、〜」の二種類あるというのは、宮城谷氏自身が『三国志』の第一回で書かれています。
>中根東竜さん
非常に詳しいご説明、ありがとうございました。『資治通鑑』、手頃なものがあれば入手したいものです(私程度の素人には、『十八史略』(現代語訳付き)くらいが現実かな?)。
ただ、神田神保町までは、私もぐっこさんも、なかなか行きにくいのですが、、」

162 名前::2002/10/30(水) 23:32

玉川雄一   

ちょっと発見、というか見落とし。
以前書きました晋書登場の三国志関連人物一覧の中で、李重なる人物。
あの時は忘れていましたが、彼は李通の曾孫です。

李重の父、李秉が晋書だと「李景」になっていたのです。
これは、唐の高祖・李淵の父、李キのヘイに通じるのを避けたそうで。
確認してみれば、李秉の父は李緒、李緒の父が李通と。

李通は周瑜ともども、再開後の蒼天航路での登場が危ぶまれていますが…
彼の子孫は頑張っているですよ!

163 名前::2002/10/30(水) 23:33

ぐっこ     2001年11月23日金曜日 00時55分

なんと! 李通の子孫は晋に残ってるですか!?
いやあ、それはよかった! 彼も名声と武勇のわりにサクッと亡くなってるので寂しいなあと思ってましたが、これで一安心。
やっぱりひい爺さんとは似ても似つかない青瓢箪なんでしょうか…?

164 名前::2002/10/31(木) 00:12

おばら 

補足!
周知ですが薛綜が孟嘗君の子孫だとか。まあ、これも怪しいといえばキリがありませんねぇ。^-^;;
ドマイナ〜薛公ですが、もともと楚の令尹(宰相)だったとのこと。しかし戦国熊氏の楚なのか、項羽の西楚なのか、はっきりしませんねぇ。
黥布を破る献策をして1000戸の大名になっています。でも史記高祖功臣侯者年表には1000戸の薛公の名は無いので、列侯にはなれなかったみたいです。っていうか、たぶん公って名じゃないような・・・。

そして、李牧と李左車。史記にはそういった関係は見当たりませんね。
実際のところ、どうなんでしょうか・・

165 名前::2002/10/31(木) 00:13

黒竜 2001年11月13日火曜日 20時42分

新唐書宰相世系表は読めば読むほどあやしさを増していきます。

試みに漢楚の人物を捜したところ、
鍾離眛…→(中略)→鍾ヨウ。。。などは序の口、
陳余が陳嬰の息子だったり、劉邦の父親の名前はおろか字までのってたり…

これだけあやしいと最早どれだけいかがわしい家系図かを楽しむ世界です…

166 名前::2002/10/31(木) 00:14

ぐっこ     2001年11月14日水曜日 00時37分

 >中根東竜様、左平(仮名)様
いや〜、私は神戸ですから、左平(仮名)様の仰るとおり、聖地巡礼もままなりません(;^_^A 古びた地下古書市で、ごくまれに掘り出し物にぶちあたるくらいで…。神保町いいなぁ…。
左平(仮名)様、それだけあれば充分です〜! 私も最近になって宮城谷作品(文庫のみ)かきあつめてますが、ハードカバーの子産や沙中の回廊は図書館で借りたきり…。あとは三国志文献のコピー少々のみ。こないだ三国志研究要覧を県立図書館から取り寄せたのですが、膨大な数の三国志論文に呆然…。みんなこんなに読んでるの!? プロは凄い、と思いました。
資治通鑑、私も欲しいです! 図書館にあるのは抄訳だから…。

 >関羽
ちょうどいま手元にあった新潮選書の「関羽伝」によると、現在関羽の故郷である常平村には、関羽六二世が存命中とのこと(;^_^A まえNHなんとかいうテレビ局がやってた諸葛村に近いノリですが、その関新剛氏は党委書記として村の世話役のような方だとか。
残念ながら家系図は一部のみしか記されてないんですが、どうも関羽――関興――関彝……関朗――関康之(←日本人みたい(;^_^A)――関播……と続くようです。
うさんくさいなあ…(;^_^A

167 名前::2002/10/31(木) 00:14

ぐっこ     2001年11月14日水曜日 00時37分

 >中根東竜様、左平(仮名)様
いや〜、私は神戸ですから、左平(仮名)様の仰るとおり、聖地巡礼もままなりません(;^_^A 古びた地下古書市で、ごくまれに掘り出し物にぶちあたるくらいで…。神保町いいなぁ…。
左平(仮名)様、それだけあれば充分です〜! 私も最近になって宮城谷作品(文庫のみ)かきあつめてますが、ハードカバーの子産や沙中の回廊は図書館で借りたきり…。あとは三国志文献のコピー少々のみ。こないだ三国志研究要覧を県立図書館から取り寄せたのですが、膨大な数の三国志論文に呆然…。みんなこんなに読んでるの!? プロは凄い、と思いました。
資治通鑑、私も欲しいです! 図書館にあるのは抄訳だから…。

 >関羽
ちょうどいま手元にあった新潮選書の「関羽伝」によると、現在関羽の故郷である常平村には、関羽六二世が存命中とのこと(;^_^A まえNHなんとかいうテレビ局がやってた諸葛村に近いノリですが、その関新剛氏は党委書記として村の世話役のような方だとか。
残念ながら家系図は一部のみしか記されてないんですが、どうも関羽――関興――関彝……関朗――関康之(←日本人みたい(;^_^A)――関播……と続くようです。
うさんくさいなあ…(;^_^A

 >おばら様
薛公…う〜ん、資料的なあやふやさをからいって、戦国時代に想定されてる可能性あり。項羽の下で令尹やってたら、タイミング的に黥布とかぶるような…。あ、そういう「伝説」なんですよね(;^_^A 
李家も史記のラインでは実証できませんか〜。どうも有名人は繋がってしまいがち…。個人的には、楽毅には楽進と繋がって欲しい(;^_^A どこかの宰相列伝で、楽毅…楽叔…楽進…楽○とかがあったら全面的に支持します。

 >黒竜様
鍾離眛…→(中略)→鍾ヨウ!? どこで単姓に!? 鍾離牧ならまだしも…。まあ、鍾の字が付く有名人を捜してたんでしょう(;^_^A 日本でも家系図屋が繁盛したと聞きますが、唐代では相当うさんくさい連中が手掛けてたんでしょうな〜。私のところも遡ったら清和源氏くらいいくかも。奥州の家老の家らしいですけど。一説では桜島の農民だったとも。
劉邦の家系図があると言うことは、やはり劉家の子孫もいるわけですね〜。日本では丹波哲朗。

168 名前::2002/10/31(木) 00:15

左平(仮名) 2001年11月14日水曜日 21時02分

李牧と李左車の関係はさっぱり分かりませんが、、また、煽って(?)みます。
『史記』に出てくるもう一つの李将軍(家)、忘れてはおられませんか?そう、李広・李陵の一族です。彼らの先祖は、始皇帝の頃に活躍した将軍・李信だとの事です。
家系をたどると、、李信…李広−李当戸−李陵−?
              −李椒−?
              −李敢−?
※李陵には、匈奴に降った後に生まれた子がいましたが、呼韓邪単于(王昭君の最初の夫)の時代に叛乱にかかわり、処罰された様です。その後の事は不明。
※李椒・李敢の子孫については、何も伝わっていません。あるいは、李陵が降った際に皆殺しになっているかも。
匈奴や鮮卑といった遊牧騎馬民族は、民族の記録を残していませんから、何とでもいい様があります。あるいは、「李将軍の末裔」と言っていたのが混同された、という事もありそうに思えるのですが、、

169 名前::2002/10/31(木) 00:16

左平(仮名) 2001年11月14日水曜日 23時45分

↑の家系ですが、ちょっとずれてしまいました。李椒・李敢は李広の子で、李当戸の弟です。この三兄弟は、いずれも飛将軍・李広の名に恥じぬ名将だった様です。もっとも、早死にとか、暗殺とかで、李広同様悲劇的な最期なのですが。
家系の偽造についてですが、、たとえば、徳川氏は吉良氏(忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央の吉良氏)から清和天皇の血筋という設定を拝借した(了解は得ている…はずです)という例がありますね。
私自身も、たどりようによっては、藤原氏あたりにたどり着くかも知れません。
蛇足ですが、ウグイスの物まねで知られる江戸家猫八(字、合ってますか?間違ってたらごめんなさい)師匠の先祖は、かの源八幡太郎義家の(実際はその家臣の)子孫という言い伝えがあるそうで、息子さんの小猫師匠(字、合ってますかねぇ。不安です)の本名は八郎です(ちなみに猫八師匠の本名は六郎です)。

170 名前::2002/10/31(木) 00:17

黒竜 2001年11月15日木曜日 01時05分

李陵の血筋もあるにはあるんですが…
李陵から一気に唐まで飛ぶのでアレです(もっとやる気を出せといいたい)。

漢楚の人物も結構見つかりました。
陸賈 張良 王翦 蕭何 韓王信 楊喜などは順当として

あやしいのは
春秋の宋国→宋義→宋昌 とか
信陵君→不詳→魏無知 となってるあたりでしょうか。 
楚漢から漢初にかけて資料が少ないのを良いことにかなり弄ってるような…

意外なのは曹氏、夏侯氏など、曹操達はおろか参や嬰も出てきません。
河南の劉氏や渾氏のように素直に匈奴の末裔を名乗ってるのもいますし(前者は去卑、後者は渾邪王)…

171 名前::2002/10/31(木) 00:18

松竹梅     2001年11月16日金曜日 20時21分

曹操の子孫、どこかのサイトで取り上げられていたはずと思ってちょっと探してみました。
唐代の画家で曹覇という人がいるそうです。
http://www2.nightmare.to/~nobmatsu/ target=_blank>http://www2.nightmare.to/~nobmatsu/
【逸聞三国志】さん(勝手リンク御免)の
「逍遥雑記」2/22・7/25・8/7・8/14日の項に
曹覇関係の記事があります。是非ご覧あれ。

田中芳樹も、彼について取り上げていたことがあったような…

172 名前::2002/10/31(木) 00:19

黒竜 2001年11月16日金曜日 22時23分

唐の皇族の李氏が一応李広の末裔ってことになるらしいですが…
やっぱりこれも「実は鮮卑」説が強いとのこと。

曹操には曹覇のような子孫ではないですが、明末の群盗、羅汝才が自らを「曹操」と號したそうです。
明末には他にも混世王とかいますが、講談や小説の影響らしいです。
タイガーマスクやサンダーライガー(プロレスラー)の世界ですな…

173 名前::2002/10/31(木) 00:19

おばら   2001年11月17日土曜日 04時46分

ぐあ〜〜
まだまだ続く、長大スレっど。

>李陵一族>ぐっこさま
飛将軍李広の子、李敢は霍去病に暗殺されますが、
李敢の娘は戻太子劉拠に寵愛されます。
息子の李禹は虎に向かって行く勇敢な漢でしたが、李陵が匈奴に降ったあと、李禹も匈奴へ逃げようとしていると讒訴され刑死・・・。後、戻太子も非業の死・・・。李敢の娘がもし子を産んでいたとしても、このときに殺されているはず。
李陵の子は、匈奴内乱のときに一勢力を保って自ら単于を立てますが、結局戦で負け死んだ?。詳細不明。

また、飛将軍李広の従弟李蔡は匈奴を討って二千戸の安楽侯になり、武帝期に丞相となりますが、罪を得て自殺・・・。しかし、こちらの一族はどうやら残った模様。(中華書局『漢書』景武昭宣元成功臣表より)
でも、表の最後の段(玄孫の欄)の見方がいまいち解らないので・・・。
皮氏とか武陽と記されているのですが、明らかに土地名ですよね。子孫たちがその土地に住み着いた、ということですかね?
ちなみに李蔡の下には「昌」と書かれています。昌は瑯邪郡に属すらしいです。高不識の下にも「昌」、、んん?
どう見ても侯の名前ではないし。う〜む。わからん。

174 名前::2002/10/31(木) 00:19

ぐっこ     2001年11月17日土曜日 21時32分

 >松竹梅様
拝見して参りました〜!
なんと馬の専門画家!? かの杜甫が大ファンで、賛の詩を贈ったという…。こりゃあ意外だ…。
でも「曹将軍」といわれ、「青門為る」…ということは、かなりの高位にいたということですよね〜。ただの画家というわけではなさそうで。私もこの人物調べてみます〜! 
でも、NOB様も仰ってるように、「曹覊」と「曹霸」のどちらが正しいんだろう…(;^_^A


 >黒竜様
まあ北朝の実力者はたいがいが非漢人だったようですから…。でも「嘘とは言い切れない」範疇でしょうか〜? その旧主たる楊家のほうは、無理があるんでしたっけ(;^_^A
群盗が「曹操」を号する!? 落ちたもんだな曹操! …まあ、「小覇王」とか「小馬超」みたいな、名誉称号だったのでしょうか…。

 >おばら様
当たり前ながら、先祖話は探せば探すほど出てくるようで(;^_^A やはり李家は漢のほうも匈奴のほうも全滅気味ですか…。
あ、従弟の家は残ったのですか!「昌」…はて? 表どころか漢書も史記もないので確認できませんが…封地の名なんでしょうか…?

175 名前::2002/10/31(木) 00:20

NOB    

#ここの掲示板は初めてなのでドキドキです(笑)

ぐっこさん、改めましてはじめまして、御来訪ありがとうございました(^-^)
相互リンクはこちらこそぜひお願いいたします。今晩中に作業しておきますね。

さて、来ていただけるきっかけになった曹霸についてですが、雑記にはうっかり書き忘れたのですが、彼は左武衛将軍まで昇っています。近衛軍の属で四品官、禁旅を司る役職らしいですね。
それから名前の漢字については、すでに【解體晉書】の中根さんから「大漢和の誤植ということでいいと思います」と教えていただきました。なので、多分「曹霸」が正しいと思われます。

初書き込みで長々とすみませんが、もう少し(^^;
これは調査済みかもしれませんが、曹霸は晩年免官になり庶人に落とされ四川に流されています。玄宗の末年に罪を得たとか。
彼の門生には馬の絵でもっと有名になったらしい韓幹という人物がいます。かなり有名らしく、Googleなどで検索するとたくさんヒットしました。

それでは、今後ともよろしくお願いします。掲示板の過去ログは読み応え抜群なので、ゆっくり楽しませていただきますね(^-^)

176 名前::2002/10/31(木) 00:21

ぐっこ     2001年11月18日日曜日 23時13分

ようこそおいでくださいました〜っ、NOB様!
こちらこそ、お願いいたします!いやあ、孫ぽこ様のところでお会いしてましたなあ…。
さて、「曹霸」です! どうも詳しい情報ありがとうございます!
たしか曹髦の末裔ですよね! 四品・武衛将軍…高いと判断すべきか低いと判断すべきか…。でも曹操の一族がこうやって残ってるというだけでも安心します〜。…あ、庶民に落とされたんですか(;^_^A
四川…よりによって蜀に! まあ、当地で画家として隠遁生活を送ったのなら、それはそれでよいのかも…。
四川の曹さんの中に、案外曹操の末裔がまだ残ってるのかも知れないですね…。

177 名前::2002/10/31(木) 00:21

NOB  2001年11月20日火曜日 14時47分

> 四川の曹さんの中に、案外曹操の末裔がまだ残ってるのかも知れないですね…。
これでふと思い出したことがあるのですが。四川ではないですが、韓国のツ(曹の縦棒が一本少ない字)さんは魏の曹氏の末裔を称しているとかいないとか、という話がありました。
魏の滅亡後、滅ぼされるのを避けて落人が朝鮮半島に至り、曹氏の一族だとばれないように姓をツと改めて生き延びたとか…。

証拠などはないのですが、韓国に留学していた知り合いの方から教えてもらった話です。韓国には他にも中国姓と思われる姓が結構あるらしく、かつて中国にいたと思われるものも少なくないのだそうですよ。私は朝鮮氏はさっぱりなのですが、調べてみると三国志の人物との関連もいろいろと見つかるかもしれませんね(^-^)

ではでは♪

178 名前::2002/10/31(木) 00:21

ぐっこ     2001年11月20日火曜日 22時29分

なるほど、韓国ですか……!
たしかに毋丘倹の遠征のあとはあの辺も通行楽だったでしょうから…。
結構な数の逃亡者が朝鮮半島に流れ込んでるかもしれませんね〜。で、当地で先祖の名を名乗ると…。「ツ」ですか…あまりカモフラージュには(;^_^A

ところで、私の知り合いの韓国人に、尹(ゆん)という姓のひとが。なんでも伊尹の末裔だとか言ってましたが、よく考えたらそれって名字じゃないんじゃ…。そもそも尹って官職名だし〜(あ、だからか)。
わたしは尹大目の方をお勧めしたいです(;^_^A

179 名前::2002/10/31(木) 00:23

左平(仮名) 2001年12月10日月曜日 20時18分

急に以前のスレッドを上げますが、ご容赦下さい。
↑で私がちらっと言った江戸家猫八(本名、岡田六郎)師匠が亡くなられたそうです。享年80歳。
まごう事なき清和源氏の棟梁である、名将・源八幡太郎義家の(実際はその家臣の、らしいです)子孫という猫八師匠のご冥福をお祈りします。

180 名前::2002/10/31(木) 00:24

ぐっこ     2001年12月10日月曜日 20時34分

ああ、私もこのスレ上げようと思って帰ってきたところです〜!
いまテレビでさかんに声帯模写とか映ってますよね…。謹んでご冥福をお祈りします。

181 名前::2002/11/01(金) 21:50
おばら   

あ゛〜クッキーが腐ってるぅー。
いつも変にアジテートして去って行くおばら再登場ですわ・・・。
今日は陸家のお話ということで。

陸[門+広]、字は子春。AD25〜AD55のどこかで尚書令になってます。美男子だったようで、越産の布単衣を着て、光武帝に気に入られたそうな。陸賈の子孫かなんかですかね?

その孫が陸續、字は智初。故郷の会稽郡郡守尹興の下で貧民救済してます。そのとき粥を振舞った600人以上の人の名前を覚えていたとか。楚王劉英の謀反に連座し拷問されるも、母の「真四角の肉・一寸の葱」の差し入れで孝行者として赦免される。一生仕官できずに老衰死。

続の長男が広陵郡太守陸稠、次男が楽安郡太守陸逢、末子が陸褒。

陸褒は学を好み孝行者。名誉を捨て、志を貫き一生仕官せず。

褒の子が陸康、字は季寧。義烈を称され臧旻に茂才に推挙され高成県令になる。武陵太守・桂陽太守・楽安太守と、後の孫呉の重要都市の太守に就任。銅人を造ろうとして百姓への増税を図る霊帝を上疏して諌め、大不敬罪を劉岱によって救われる。故郷呉へ強制送還させられ、後廬江が、賊の黄穰ら+江夏異民族連合=10余万人で騒がしくなったので、陸康は廬江太守に任命され悉く賊を降す。その功績で孫の陸尚は郎中に。
その後、袁術が寿春で飢え陸康に食料援助を頼んだときに断った為、袁術配下武将の孫策に攻められる。陸康は2年間篭城するも、70歳で病死。城は落ち、一族百人以上が餓死・病死。朝廷は彼の節義を憐れみ、子の陸儁を郎中に任命しています。末子の陸績は先に城から落ちていたために助かっています。

以上、後漢書の要約でした。誤訳あったらゴメンナサイm(_ _)m

あとは、正史三国志の陸遜陸績陸瑁の伝にある通りです。

誰か「陸家その後」続けてくれないかにゃ〜?晋代とか・・・。(←煽ってマース^-^;;

182 名前::2002/11/01(金) 21:50

ぐっこ     2001年12月23日日曜日 23時25分

うぐお! 陸家のご先祖様たち!情報ありがとうございます!
いま系譜つくろうと思ったんですが、何故かADSLがストップしてしまい、細々とアナログ接続してますので、また後日(;^_^A どなたか書いてくださらないかな…←オイ

たしか玉川様が晋代の陸家にお詳しかったような…(逃げ腰)。
実際、玉屋にある系図等(2ちゃんねるで大活躍中)にあったハズ…。
なるほど〜、呉の名族陸氏も、いろな歴史を経ているわけですね…。
意外に格好いい陸康! 蒼天航路では散々でしたが…。

183 名前::2002/11/01(金) 21:51

玉川雄一     2001年12月25日火曜日 01時00分

…うぐは!
陸機、陸雲は香香さんにお任せして(←責任転嫁)、
せめて陸曄でも調べてみるとしますかにゃ。

…ところで、誰が2ちゃんに紹介したんだろう?
私、松竹梅さんのBBSで見るまで知りませんでした(^_^;)

184 名前::2002/11/01(金) 21:51

おばら     2001年12月25日火曜日 02時03分

2ちゃんですが、初めて2chを恐る恐る覗いたとき、たまたま春秋戦国スレだったのですが、なんとぐっこさまにお贈りした拙系図が紹介されてましたよ・・・。なんだか、私の系図とぐっこさまの考察について色々言われてましたが。(笑
以後、一ヶ月に一回くらいでしか2chは覗きませんねぇ。
私、ああいうの苦手なんですよー。(^-^;;
っつーか、2ch用語もあんまり解らないので(T▽T)

>玉川さま
玉屋が引用されてるスレを今見てきましたよ〜。
うむむ、盛り上がってますな。ホントに一体誰が・・?(笑
それと、『晋書』からの救援、お待ちしておりますm(_ _)m←他力すぎ

あと、陸家をさらに遡れる方いらっしゃったら、是非是非教えてください。結構気になっているので・・・

185 名前::2002/11/01(金) 21:51

NOB      2001年12月25日火曜日 04時53分

こんな時間ですがこんばんは〜(^-^)

つい最近(読んでる暇はないのですが)読んだ論文に、「孫呉政権と陸氏の群像」(松本幸男、「学林」22号1〜30)というのがあり、黄帝(爆)から魏晋まで陸氏をたどっていました。出典として引かれているのは史記陸賈伝索隠に引く『陸氏譜』、『元和姓纂』、おなじみ『新唐書宰相世系表』などです。
長いですが、書いてみますね〜。

黄帝-昌意-センギョク-窮蝉-敬康-句望-橋牛-瞽叟-舜……【陳】胡公-申公-孝公-慎公-幽公-釐公-武公-平公-文公-陳他-田完-稺-ビン-須無-無宇-乞-常-盤-白-【斉】太公-桓公-威王-宣王-達(ここから陸氏らしい)-發-萬-烈(続く)

途中、本筋と関係のない兄弟などは省きました。ちなみに陸烈の従甥が、史記に伝の立てられている陸賈です。陸烈のときに呉に移ったそうです。(ちなみに陸賈は祖父が楚に移っているので、楚人になってますよね)

陸烈-[目于]-鴻-建-曄-恭-[王黄]-文-親-衆-賜-[門+広]

事跡などは一切書きませんでしたが一応[門+広]までたどり着いたので、後は玉川さんにお願いします!(爆)
それではおやすみなさい〜(汗)

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