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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

287 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:08:33 ID:???0
続き。

毌丘倹は、この時点では幽州刺史。長く中央の官位を歴任した後でのこの人事は、一見左遷のように見えますが、実は
曹叡の信任は揺らいでいません。幽州刺史になったのは、いわば、公孫淵討伐の殊勲を挙げさせようとした配慮。
そのことが分かっているだけに、毌丘倹はがぜん張り切ります。

魏軍迫る。この知らせを聞いた公孫淵は煩悶します。この時点での遼東は、外交的にも孤立しており、勝ち目はまるで
ありません。しかし、ここで降ると、たとえ貴族として遇されるとしても、遼東の地から去らねばなりません。
父祖が守り抜いてきたこの地で斃れるか、この地を捨てて富貴を保つか…。
そして、ついに、戦うことを決断します。

魏の使者を取り逃がしたため、奇襲という手は使えません。魏軍と遼東軍は、真っ向から激突します。魏軍の弩の威力
は凄まじく、遼東の騎兵は次々に斃れますが、公孫淵は無心に戦い続け、戦況は膠着状態となりました。
ここは長期戦に持ち込むべし、とみた毌丘倹は、いったん退きます。しかし、ここから状況は好転することなく、つい
に撤退命令が出されます。
ここは、遼東が守り切りました。毌丘倹と公孫淵。今回の描かれ方をみると、ともにひとかどの将帥であると言えるの
ですが、どこか決め手に欠けるように見受けられます。

続きます。

288 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:09:10 ID:???0
続き。

何とか守り切った公孫淵。しかし、これで安心というわけにはいきません。遠からず、次の出兵があることは間違い
ないからです。兵力も増えるだろうし、将帥も、さらに上級の人物が充てられることは確実。勝てる要素は皆無なの
です。
ここで、公孫淵は、必死の外交攻勢に出ます。その使者は、呉にも派遣されました。

呉に派遣された使者の名は伝わっていませんが、その勇気は讃えられて然るべきでしょう。なにしろ遼東は、ほんの
数年前に、呉の使者(及びその軍勢)を殺害したという前科があります。行けば殺されることは必至(それもかなり
残虐に殺される可能性大)。かといって、行かなければ、そして、行っても成果がない場合は、やはり殺されます。
とんでもない無茶振りですが…この使者は、この困難な使命をやり遂げました。
ただ、呉も、遼東を許したわけではありません。遼東は、もはや呉を欺く余裕もない。そう、見極められたがゆえの
対応でした。
兵を出すと言ったものの、それは、あわよくば遼東を征する為の兵。いずれにしても、遼東の命運は、風前の灯なの
です。

そして、曹叡は、翌年の再出兵を決めます。


追記。

実は、今回、呉は動いています。朱然に兵を授け、荊州を攻めさせたのです。叔父の朱治の養子となり、孫権の学友
でもあった朱然は、呉の貴臣。ここまで多くの手柄を挙げてきた彼に、孫権は、大手柄を挙げさせたいと思ったので
しょうが…ここでは、大敗を喫します(※ただし、朱然伝では勝ったように書かれている)。
関羽や曹真、張郃といった大物相手に、寡兵でよく戦ってきた朱然が、胡質(荊州刺史だし伝もあるので決して無名
ではないのですが、先に名の挙がった諸将に比べると地味)に敗れるというのも、不思議なものです。

289 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:34:35 ID:???0
今回のタイトルは「長雨」。この長雨が止んだ時、それが…。

今回は、魏の皇后達の話から始まります。曹操の正室・卞氏は大皇太后として天寿を全うしましたが、以降の皇后に
ついては、というと、悲劇的な末路を辿るケースが相次いでいます。
曹丕の皇后であった甄氏は死を賜り、その後皇后となった郭氏は、曹叡(からの心理的な圧力)によって崩じます。
多くの面において父に勝る曹叡ですが、こと皇后達への扱いについては、さらに性質が悪いようです。

曹叡は、まだ王だった頃に、虞氏という女性を娶りました。本来であれば、彼女がそのまま皇后になるはずでしたが、
そうなりませんでした。曹叡の寵愛は毛氏に移り、彼女が皇后に立てられたためです。
激怒した虞氏は、卞氏に罵詈雑言を投げつけ、宮中を去ります。夫の祖母であり、国母ともいうべき女性にそのよう
な暴言を吐くあたり、曹叡が嫌ったのも分かるのですが、彼女の言葉がまんざら的外れでもなかった、という結末に
なろうとは…。

皇后となった毛氏は、男子を産むことはありませんでしたが、その日々は概ね穏やかなものでした。一族も立身し、
栄華を享受していたのですが…ある頃から、急激に状況が変わってきました。
その原因は、やはり、他の女性でした。曹叡の寵愛は、郭氏に移っていたのです。毛氏は、必死に情報を集めようと
します。後宮の管理者でもある皇后には相当の権限があります。ですが、その権限は皇帝のそれには及びません。
毛氏の動きに不快感を感じた曹叡は、ある事件をきっかけに、毛氏を賜死させます。

続きます。

290 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:35:22 ID:???0
続き。

内においてはそのようなことがあり、また、築山を築くために大臣達に土を運ばせる(このことは董尋という人物に
強諌された)ということもありました。徐々にですが、曹叡という人物のマイナス面が顕在化しつつあります。

そんな中、ついに、遼東攻略が開始されます。将帥は司馬懿。地位といい、過去の戦歴といい、魏としてはこれ以上
ない人選です。このあたり、曹叡が本気であることがうかがえます。
出発にあたっての曹叡と司馬懿のやりとり一つみても、遼東攻略は、既に確実なものといえます(往還、戦闘、休息
を併せて一年と明言)。
既に絶体絶命の公孫淵。取り得る最善の策は「城を捨てて逃げる(その後、野にあって遊撃戦を展開する)」こと。
しかし、先に呉の使者を騙し討ちにした手口をみると、「損して得を取る」ことはできないであろう、と看破されて
います。次善の策は「遼水を挟み総力を挙げて迎撃する」こと。恐らくこの策を取ってくるだろうから…それを封じ
れば、下策「籠城すること」しか選択肢がなくなる、と司馬懿はみます。
遠征軍の司令官たる者はこうでなくてはならぬ。曹叡は、司馬懿の説明を満足げに聞きます。

いざ出発。戦地に赴く司馬懿は、ふと己のことを思います。今や軍の最高位たる大尉の任に就き、皇帝からは絶対の
信任を得ている。敵は弱小だが、その討滅は皇帝の宿願であり、それを為した暁にはこの上ない栄誉を得るであろう
…。今こそ至福のときではないか、と。
とはいえ、禍福はあざなえる縄の如しともいいます。将帥たる者は、最悪の事態をも常に考える必要があるのです。

続きます。

291 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:36:17 ID:???0
続き。

そんな予感のせいばかりでもないでしょうが、司馬懿は、途中(郷里の温県)まで弟と息子を同道させます。温県に
おいては、ひとときの休息をとり、旧交を温めます。この時、彼の胸裏には何が去来したのか。
再び司令官の顔に戻ると、軍は北に進みます。幽州に入ると、もうすぐ戦地です。

遼水の対岸には、予想通り、遼東の防衛ラインが構築されていました。守るは、公孫淵配下の将、楊祚と卑衍。もち
ろん、この程度のことは想定内です。
司馬懿は、胡遵に兵を授け、南から渡河させます。これに敵が釣られたところで、自身は北から渡河。時間差を利用
した、見事な運用です。

まず、敵に一撃くれてやりました。遼東の兵力は、その殆どがここに集まっているはず。なれば…。司馬懿に迷いは
ありません。堅固な防衛ラインには目もくれず、一路襄平を目指します。
楊祚と卑衍は、司馬懿の用兵に翻弄されます。二人には、ここで敵を防ぐという意識が強すぎたため、守るべきもの
の優先順位を誤ったのです。
楊祚が追撃を試みますが、これこそが司馬懿の狙い。あっけなく打ち破られます。二人が襄平に帰還した時には、既
に魏軍が迫っていました。

公孫淵は、この迎撃を卑衍に命じます。

292 名前:左平(仮名):2010/12/06(月) 01:37:00 ID:???0
続き。

もはや打つ手なし。今はただ戦うのみ。卑衍の決死の覚悟が兵にも伝わったか、この戦いは激戦となります。互いに
策もなく、ただただ死力を尽くした攻防が繰り広げられます。

「これが、遼東国の存亡の分かれ目だな」
となれば己の名は歴史に残る…。これぞ武人の本懐ということか。卑衍は微笑を浮かべます。持てる力の全てを出し
尽くした卑衍は、激戦の果てに、ついに斃れました。

司馬懿は、襄平を包囲します。しかし、ここで長雨に見舞われます。撤兵すべしという論が多数を占めますが、曹叡
と司馬懿には、ここは耐え忍ぶべきということが分かります。
物事には、時宜というものがあります。今こそ、遼東攻略のとき。決して退いてはならないのです。
およそ一月後。ついに雨がやみました。このとき、襄平の内部においては既に食料が尽きています。襄平に籠る公孫
淵に残された選択肢は…。

追記:
本作においては、ちょっとしか出ない武将にも、ちょこちょこと見せ場があります。今回は、卑衍。結果だけみると、
司馬懿の用兵に翻弄され続けて終わったわけですが、決死の覚悟で臨み、ついに斃れたその戦いぶりは、将としては
平凡だったにせよ、実に格好いいものでした。
それと、将帥としての司馬懿の成長ぶり。勝つべくして勝っている、としか言いようがありません。なぜ、今、ここ
で、このように動くのか。それらがきちんと論理的に語られているのが、実に読み応えがあります。

293 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:10:42 ID:???0
三国志(2010年10月)

今回のタイトルは「曹叡」。魏にとって、祝賀すべき年が一転…

いよいよ遼東国の最期の時が来ようとしています。
この時、襄平には多数の民がいました(数十万と書かれています)。彼らの全てが兵であれば司馬懿の軍勢より遙かに
多いのではありますが、大軍が良いとは限らないのは、本作でしばしば書かれるところ。実際、包囲が長引けば、食糧
の問題は避けては通れません。
ここではさらりと書かれるに留まりますが、襄平の内部で飢餓地獄が発生したことは言うまでもありません。

もはや勝ち目無しとみた楊祚が降り、城郭内に魏兵が入ると、公孫淵は、降伏の可能性を模索します。しかし、時既に
遅し。使者として派遣した相国達はあっさり斬られ、司馬懿の恫喝が(矢文で)送られます。慌てた公孫淵は、再度使
者を派遣しますが、これにより、司馬懿は公孫淵という人物が小人であると見切りました(そしてそれは、ひとり公孫
淵に留まらず、襄平の人々にとっても不運でした)。
なぜなら、先の恫喝には、まだ微かな寛容があったからです。そこには、このようなことが書かれていました。
「春秋の昔、鄭伯は楚子に敗れると、肉袒して降った。爵位が上の鄭伯でさえかような恭順を示したのである。いま、
われは上公であり、なんじは一太守に過ぎない。この使者は老いて耄碌していたのでなんじの言葉を誤って伝えたので
あろう」。
もし、公孫淵がかような態度をとって恭順の意を示していたなら、多少の救いがあったでしょう。しかし、それができる
人間であれば、そもそもかような事態には至らないのです。

続きます。

294 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:12:24 ID:???0
おっと、コピペミス。293の書き込みは三国志(2010年12月)です。

続き。

そんな中、星が落ちます。
「あのときは…」。諸葛亮が亡くなった時にもこのようなことがありました。星が落ちるということは、恒久的と思われて
いたものの消滅を意味するのです。ここでは、公孫淵がそうですが…。

城内にまで魏兵が入ると、公孫淵は子とともに脱出を図りますが、ほどなく捕捉され斬られました。ここにおいて、およそ
半世紀にわたって続いた遼東国は消滅しました(叔父の公孫恭は幽閉されていたところを救出される一方、兄の公孫晃は、
連座という形で妻子ともども自殺に追い込まれます)。
遼東国の消滅により、東方から中原へ至ることが可能になりました。このことを見越していたかのように、倭国からの使者
が来訪。いったい、どのようにしてこの情報を得たのか。歴史の不思議が、ここにあります。
※ここでは、倭国とだけ書かれており、「邪馬台国」「卑弥呼」という単語は出てきませんでした。はて…。

さて、首魁たる公孫淵を斬ったわけですが…まだ戦後処理が残っています。ここで司馬懿がまずしたことは…。今であれば
間違いなく虐殺とされることでした。
城内の男子を十五歳を境に分け、年長の者を皆殺しにし、京観(凱旋門の類)を築いたのです。数千人の屍で築かれた凱旋
門…何とも凄惨な光景です。
絶望的な戦いであったにも関わらず、目立った内通者が出なかったことを考えると、遼東国の内政は割合うまくいっていた
ようです。住民がそれを追慕することが無いよう、仕分けたのでしょうか。

続きます。

295 名前:左平(仮名):2011/01/06(木) 01:12:51 ID:???0
続き。

これ以外にも、遼東国の高官達も殺されています。しかし、それ以外については、概ね寛容をもって対応。年内にかたが
つきました。
その知らせは、洛陽にもたらされ、曹叡は絶賛します。たとえ小国とはいえ一国の併呑に成功した(これにより、少なく
とも父・曹丕の業績を超えた)わけですから、感慨もひとしおだったことでしょう。
前線に立った経験もないのに、優れた戦略眼を持つ曹叡(具体例として、西方の叛乱における郭淮の対応のまずさを的確
に指摘したことが挙げられています)。前回語られたようなマイナス面もあるとはいえ、間違いなく英邁な帝王である彼
であれば、天下統一もあながち夢ではなかったでしょう。しかし…。

十二月。曹叡は病の床に臥しました。月初めに床に臥し、月末には危篤状態に。諸葛亮もそうですが、一月足らずでこれ
ほど病状が悪化するとは、どのような病なのか。
ともかく、自身の死期を悟った曹叡は、後継体制の整備を急ぎます。
帝位は、養子の曹芳に。諸葛亮の如き者がいれば、その者に全権を委ねることもできますが、魏にはいません。さてどう
したものか。…曹叡は、信頼できると判断した者達による集団指導体制(叔父である燕王・曹宇が筆頭)を考えます。
夏候献(不明)、秦朗(曹操の側室・杜氏の連れ子)、曹爽(曹真の子)、曹肇(曹休の子)。いずれも、帝室に近い者
達です。王朝に対する忠誠心はあるとしても、果たして能力的にはどうか(特に秦朗)。それより…

続きます。

296 名前:左平(仮名):2011/01/07(金) 01:00:05 ID:???0
続き。

この人事によって発生する、宮廷内の権力構造の大変動が問題です。事実、この人事に危機感を持った者がいました。
長く皇帝の秘書官的な役割を果たしてきた、劉放・孫資です。
秦朗、曹肇の放言から、自分達を排除しようとする意図をかぎつけた二人は、曹叡に直訴し、詔勅を変更させることに
成功します。それに気付いた曹肇が再度詔勅を変更させますが、ここが勝負どころ、と見極めた劉放・孫資がふたたび
曹叡に訴えかけたことで、決着がつきました。
一日のうちに何回も詔勅が変わるということは、病で判断力が衰弱していることの表れでもあるのでしょうが、曹叡の
本心は、果たしてどのようなものだったのでしょうか。

ともあれ、これにより、上記の五名のうち曹爽以外は失脚。曹爽と司馬懿に、後事が託されることになるわけです。

洛陽に凱旋する中、次々に来訪する使者。そして、そのたびに詔勅の内容が変わる。司馬懿ならずとも、都での変事の
においに気付くことでしょう。急遽、予定を切り上げて、ひとり洛陽に急行します。
曹叡のいる宮殿に駆け込んだ司馬懿。臨終に間に合いました。
司馬懿に涙が。かつての諸葛亮も、このような感じだったのでしょうが、後のことを知っているだけに、複雑な感じが
します。

追記:
病に倒れた時点での曹叡の年齢は三十四歳。翌年(西暦239年)で三十五歳ですから、建安十(205)年生まれと
されています。

297 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:54:30 ID:???0
三国志(2011年01月)

今回のタイトルは「浮華」。三国鼎立となってから十年余り。そろそろ、緩みが出てきたということでしょうか…。

曹叡は、司馬懿を待っていましたかのように崩じました。司馬懿が到着し、彼に後事を託したその日のことです。
「死さえ忍べは引きのばすことができる。朕は君を待っていた」。帝王からこのように言われて感動しない臣下は
いないでしょう。しかし、司馬懿の胸中は複雑です。何しろ、自分とは親子ほども年の離れた若い帝王を送らねば
ならないのですから。
明帝と謚された曹叡は、なかなかの名君でした。戦場を踏まなかったにも関わらず優れた戦略眼を持ち、人材の任
用にも過ちが無く、何より、諫言した臣下を殺さない、優れた自制心の持ち主です。
しかし、自制された鬱屈は、やはりどこかで発散させねばならないのでしょうか。鬱屈を晴らすかのように宮殿の
造営に狂奔したことは、かつての秦始皇帝や前漢武帝に例えられ、批判的に論じられています。

ともあれ、魏は新たな時代に入ることになります。幼弱の新帝を補佐するのは、曹爽と司馬懿の両名。国家の柱石
を担うだけにその封邑も多く、この時曹爽に授けられた封邑は、建国の功臣たる夏候惇や曹仁に授けられたものの
数倍にのぼります。
小心な曹爽は、当初、独断を避け、何事も司馬懿に相談する等、謙譲の姿勢をとりました。司馬懿も謙譲の姿勢を
もって応じたので、まずは穏やかな雰囲気の中のスタートです。
しかし、両雄並び立たず、と言います。当然ながら、二頭体制はよろしくない、と考える者もいるわけです。

続きます。

298 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:55:28 ID:???0
続き。

そう思った丁謐は、曹爽に、その意見を開陳します。彼は、かつての曹操の幸臣・丁斐の子。物怖じしない態度と
読書で培った知識の故、沈毅とみられていた彼の意見には、なるほど一理あります。責任の所在が曖昧なままだと、
大事の際に、迅速な対応ができないということはあります。
もちろん、単に道理だけでなく、帝室たる曹氏一門の利害ということも考慮されています。いずれ、権力は一元化
されるでしょうが、それが司馬懿であったとしたら、彼は曹氏一門をどう扱うか。それに、群臣からの信望のある
司馬懿に大志があれば…。

その意見を容れた曹爽は、司馬懿を実験から遠ざけるよう、手を打ちます。もちろん、何の落ち度もない司馬懿を
降格させることはできませんから、実権のない名誉職に祭り上げるのです。これは、うまくいきました。
司馬懿も、これには何か含むところがあるということは察知しています。しかし、ここでは、特に何もしません。
曹爽とその周りに群がってきた者達を虫に例える嫡子・司馬師に、「なるほど…害虫だな」と言うところをみると、
不快感は持っているわけですが…。
既に齢六十を過ぎた司馬懿。歴史を巨視的にみると、正しい者が最後には勝利するとしても、それは決して容易な
ことではない。そういう、ある種の諦念がみられます。害虫の駆除は、若い司馬師がすべきことである、と。

続きます。

299 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:56:28 ID:???0
続き。

一方、実権を握った曹爽は、自らの体制作りに取りかかります。弟達を諸候にし、発言力を強化するとともに、賢
人と見込んだ者達を集めたのです。
彼らは、なるほど、なかなかの才覚の持ち主です。しかし、文帝・明帝からは「浮華」であるとして遠ざけられて
いたということを、曹爽は、どう思ったのでしょうか。
当初は独断を避けていたのが小心の故であったのなら、明帝の人材任用を見習えば良かったと思うのですが…。

一方、呉の方は、といいますと…。
位にあることが長くなると、緩みが生じる。学問を好んだ孫権は、そのことを知っています。それ故、厳しい政治
をしようと思うのですが、重臣の張昭・顧雍のどちらも、刑罰を緩めるよう説きます。
重臣達の意見を無下に拒むこともできないので、緩めはしたのですが、孫権には、物足りなさがありました。

そんな孫権の目にとまったのが、呂壱でした。相手の地位に関わらずびしびしと取り締まる彼のやり方を、孫権は
気に入り、側近として重用するようになります。
しかし、呂壱は、人には厳しくても己には甘い人間でした。皇帝の寵臣となったのを良いことに、恣意的な処罰を
するようになっていったのです。

続きます。

300 名前:左平(仮名):2011/01/29(土) 09:57:28 ID:???0
続き。

膂力に富み、謙虚な人となりを評価されて貴臣となった朱拠にもその毒牙は及びました。無実の罪で、彼の部下を
獄死させたのみならず、その部下を憐れんで手厚く葬ったことを、悪意を持って讒言したのです。

このままではいけない。都を離れ、任地にあって軍を統率する陸遜・潘濬は、強い危機感を抱きます。特に潘濬の
憤りには凄まじいものがあり、刺し違える覚悟を持って、都に赴きます。
潘濬は、もとは劉備配下。荊州が孫権の手に落ちた後、劉備への恩義から隠遁していたのを、孫権が礼節を以て迎
えたといういきさつがあり、人一倍、不正を憎む激しさを持った人物です。
心中、やましいものがある呂壱は、潘濬を恐れ、接触を避けました。実際、二人が対面することがあれば、潘濬は
呂壱を斬ろうとしたことでしょう。しかし、これが呂壱の命取りとなりました。

呂壱は、所詮は虎の威を借る狐に過ぎません。彼が皇帝の側にいないとなれば、これまで罪に落される恐怖から口
をつぐんでいた者も、その口を開きます。
そうして、孫権は、初めて己の誤りに気付かされました。これでは、秦の二世皇帝(胡亥)と同じではないか、と。
ほどなく、呂壱は処刑されました。

追記:
今回のタイトルの「浮華」について。作中でこの言葉が使われているのは、曹爽一派に対してなのですが、何と
言うか…それだけでもないように思えます。
呂壱の栄華と破滅。この原因は、明らかに孫権にあります。「(政に)緩みが生じる」というのは、何も刑罰に
限ったことではありません。事の正否を見分け、適切な賞罰が行われることが肝心なわけです。
孫権は、呂壱の、見た目の厳しさにすっかり騙されていたわけですから、正否をみる眼に曇りがあったことは否
めないでしょう。華やか…かどうかはともかく、孫権もまた、浮ついていたのではないでしょうか。
しかし、どちらも、この後のことを想うと…。

301 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:30:30 ID:???0
三国志(2011年02月)

今回のタイトルは「赤烏」。今回は殆どが呉の話ですが、何かもどかしいというか、すっきりしないものがあります。

呂壱の跋扈と失脚。これは、単に呂壱一人の問題なのでしょうか。呉の人々は、そうは思いませんでした。彼が台頭
し得たのは、不完全とはいえ、皇帝・孫権の本音を代弁していたからです。人々は、そこに、孫権の本性を垣間見て、
そして、失望しました。
そんな中、失望することなく己が職務を果たしていた人物として、歩騭の名が挙げられています。ゲーム等では文官
扱いされている彼ですが、その経歴は、なかなかに武張ったものがあります。

戦乱を避けて江南に渡った彼は、常に冷静沈着。生活苦から逃れるため、豪族の食客になろうとした際、いかに粗略
に扱われても立腹することはありませんでした。
やがて呉に仕官した彼に与えられた任務は、蒼梧太守・呉巨の説得。しかし、呉巨に帰順の意思なしとみるや、隙を
ついて斬るという大胆さも持ち合わせています。これを聞いた交州の士燮が帰順し、呉の勢力圏は一気に拡大します。
その後、呉が劉備と戦うことになった際には、荊州南部の鎮定に奔走します。
辺境での務めが長く、中央で腕を振るう機会は余りありませんでしたが、これらの務めを黙々とこなしてきたことが
評価されてか、やがて、軍事面では陸遜に次ぐ地位にまで登ります。

続きます。

302 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:31:51 ID:???0
続き。

このような履歴を持つ彼のことですから、当然、呂壱の重用について、しばしば諫言を行いました。呂壱を信任して
いた孫権は、当初、「あの歩騭まで讒をなすか…」と思うのですが、徐々に、呂壱への過度の信任に疑問を抱くよう
になります(決め手となったのは、前回書かれたとおり潘濬の諫言ですが、歩騭の諫言もなかなかに堪えたと思われ
ます)。

さて、呂壱の件について、孫権には、思うところがありました。呂壱のような悪人を重用したのは、なるほど、己の
落ち度である。しかし、それを諌める者が少なかったのではないか、と。
そこで、重臣達に、国政の諸事について聞いてみたのですが…その返答は、少々期待外れのものとなりました。とは
いえ、それは、重臣達が保身に走ったとかそういう次元の問題ではありません。彼らは、僭越ということを何よりも
恐れていたのです。それは儒教思想の故、とされていますが、政治においては、まっとうな考え方です。

儒教思想の信奉者ではない孫権は、なおも意見を求めるのですが、臣下からすると、我らの意見を聞かなかった陛下
があったではありませんか、と言いたかったでしょう。
ともあれ、兄の後を継いでから約四十年。今や皇帝となった孫権と臣下の間には、徐々にズレが生じています。

そんな様子を知ってか知らずか、太子の孫登は、自分が太子であるが故、狭い世界しか見えなくなりがちであること
に危惧を抱き、歩騭に教えを請うなど、謙虚な姿勢を保ちます。彼が健在である限り、呉の未来は安泰である。呉の
人々はそう思ったことでしょう。

続きます。

303 名前:左平(仮名):2011/02/27(日) 01:33:17 ID:???0
続き。

さて、そんな中、麒麟が見つかったという知らせがもたらされました。先に、「嘉禾」の発見をもって「嘉禾」と改
元したわけですが、今回は「麒麟」とはせず、自らも目撃した「赤烏」を元号としました。
麒麟が出るような太平の世でもないのに…ということのようですが、臣下の言葉に不信感を持っているような…。

さらに年月は経ち、ついに孫権は六十歳となりました。六十歳を「耳順」ともいいますが、ここでの孫権は、人の、
ではなく、己の心の声に耳を傾けました。「魏に勝ちたい」と。
この頃、魏は幼弱の皇帝(曹芳)と経験の浅い補佐(曹爽)が国の中心となっています。つまり、曹叡の頃に比べ、
隙が生じているわけです。
殷礼という者が、今こそ決戦の時、とばかりに奏上してきたのをみて、孫権は、魏への攻撃を決意します。

しかし、連年の出兵で国力は疲弊していますし、何より、孫権自身が、自ら兵を率いることに疲れています。その
ため、やや中途半端な出兵という感が否めません。
呉軍は、二方面から北上。一方は、皇帝の姻戚でもある全j。もう一方は、学友でもあり信任厚い朱然が率います。

この、朱然の北上が、当時、政治的には逼塞状態にあった司馬懿を救うことになるというのですが、はて…。

304 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:21:21 ID:???0
三国志(2011年03月)

今回のタイトルは「蔣琬」。蜀漢の話が出てくるのは、久しぶりですね。

タイトルは「蔣琬」ですが、まずは、前回の続きから。朱然を迎え撃つは、胡質と、蒲忠という将。まず、蒲忠が
突出したことから、戦況が動きます。
良将・胡質に比べ、将器に劣る(胡質との連携ができていない)蒲忠ですが、まず、要地をおさえるという基本は
できています。で、その先鋒が、何と、朱然の本隊と接触。
両軍とも「まさか、敵がここまで…」という場面でしたが、ここは、朱然の判断が勝りました。
退けば、やられる。覚悟を決めた朱然率いる呉軍の猛攻に、蒲忠の軍勢はガタガタに崩され、潰走。さすがの胡質
も、これでは打つ手がなく、撤退。呉軍は、樊城にまで迫ります。

この知らせを聞いた司馬懿は、直ちに出師を請います。その軍勢を率いるは、もちろん、司馬懿自身です。曹爽は
これを冷ややかにみましたが、彼ほど軽忽ではない弟の曹羲は、このことを、より深刻に捉えました(といっても、
魏の危機、としてではなく、自分たちの危機、としてですが)。
この当時にあって、魏第一の名将・司馬懿が出師を請う以上、勝利は確実。となれば、その名声はますます高まる
こともまた確実。それが、何を意味するか。曹羲には、それが分かるのです。

曹羲は、たとえ兄が魏の実権を掌握しているとはいえ、自分達が司馬懿に勝っているとは思っていません。何しろ、
(主に軍事的な)実績が違います。しかも、それだけではないのです。

続きます。

305 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0
続き。

「あれは、しくじった」

それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能
性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何
を隠そう、司馬懿なのです。
明帝は名君でしたが、宮殿造営に熱狂したのは明らかな失策。それが分かっていた司馬懿は、人夫達を帰郷させて
農事に従事させるべきと説き、それが容れられたのです。魏の人々がこれを喜んだのは言うまでもないでしょう。
曹爽は、なるほど実権を握りはしましたが、人心を得る絶好の機会を逸したのです。
このことを悔やんでいた曹羲は、今回の危機を挽回の好機と見ました。それゆえ、兄が出師すべきと説いたのです
が…曹爽は、これには乗りませんでした。ここで都を離れれば、司馬懿に実権を奪回される、と恐れたからです。

結局、廟議で結論を出そう、ということになりました。

廟議において、司馬懿は、現在の危機について熱弁を振るいます。かつて樊城は、魏最強の将であった曹忠候(曹
仁)が関羽と激戦を繰り広げた地であることからも分かるように、荊州の要衝です。ここを突破されるようなこと
があれば、都・洛陽にまで影響が及ぶ恐れがあるのです。
最初は、何も大傅(司馬懿)おん自らが出られなくても…という雰囲気でしたが、当時の状況を知る者の言葉には
説得力があります。結局、司馬懿自らが出師することに決しました。

続きます。

306 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:24:31 ID:???0
続き。

司馬懿が出てきた。このことは、当然、樊城を攻める朱然にも伝わりました。こうなると、朱然としては、両方に
備えなければならない分、心理的重圧がかかるようになります。呉軍の動きから、速さが消えました。
一方、司馬懿率いる魏軍は悠然としています。こう書くと長期戦(突出している朱然をゆるゆると困窮させる)か
と思われるでしょうが、実は、短期決戦。
というのは、朱然の後方には堅実な諸葛瑾がおり補給には不足しない(ゆえに、長期戦にしても困窮しない)ため。
ここで、司馬懿は、「声で呉軍を退かせてみようか」と言います。一体、どうやって。

「声」。それは、司馬懿の(蜀漢の総力を以て攻めてきた諸葛亮と渡り合い、公孫淵を屠った不敗の将という)名声
…だけではありません。
実は、両軍とも間諜が入っているため、将帥の命令は、ある程度敵軍に伝わっています。司馬懿は、これを利用した
のです。
ただでさえ、魏第一の名将が精鋭を率いてきているのに、さらに決死の士を募って奇襲をかけてくるかも知れない。
しかも、包囲しているとはいえ、樊城にもほぼ無傷の敵軍がいる。朱然の精神は、徐々に乱れてきます。

いつ来るか分からない奇襲に怯えるうち、呉軍は、戦わずして崩壊しました。朱然も、命からがら逃走するという
有様。司馬懿は、またしても大いなる武勲を挙げました。
一方、東の方でも、魏軍が勝利。王淩の猛攻の前に、全jの軍勢が敗走しました。
一方では策多き司馬懿が勝ち、一方では策のない王淩が勝つ。戦いとは、何とも不思議なものです。

この武勲により、司馬懿の名声はますます高まりましたが、それに奢れば破滅を招く、ということを知る司馬懿は
ますます謙譲の姿勢を見せるようになります。

続きます。

307 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:26:12 ID:???0
続き。

さて、話は変わって、蜀漢の方は、と言いますと…。

文字通り、国政の全てを司っていた丞相・諸葛亮亡き後を託されたのは、それまで目立たない存在だった蔣琬でした。
目立たなかったのは、彼が後方支援的な役割を担っていた(そして、その務めを大過なくこなしていた)からですが、
当初は、この人で大丈夫なのか、と不安視もされました。
偉大なる先人の諸葛亮と常に比較される(そして、劣るとみなされる)のですから、割に合わない務めです。しかし、
蔣琬は、そういった無言の重圧にもめげず、淡々と職務に精励し、徐々に人々の信頼を勝ち取りました。

そうして数年が経ち、ようやく、魏との戦いのことを考えられるようになりました。彼は、諸葛亮の戦略をつぶさに
検証し、より効果的な戦略を練ります。雍州攻略(→魏の、西方との連絡を断つ)ばかりではなく、呉と連携して荊
州方面にも軍勢を差し向けられるよう、拠点を漢中から移すべきではないか、と考えたのです。
もっとも、諸葛亮もそうでしたが、蔣琬もまた、蜀漢の全権を司る立場。備えるべきは、魏との戦いばかりではあり
ません。皇帝・劉禅の意向もあり、路線変更は、あくまで漸進的に。費禕や姜維とも、そのあたりの話はしています。
(しかし、費禕との話の中で、魏の雍州刺史・郭淮を「名将ではない」とはまた…)

呉が魏を攻める(ので蜀漢も出師してもらいたい)、という話がきた時、折悪しく蔣琬は療養中。やむを得ず、姜維
が雍州方面に出撃しましたが、これは呉の要請をないがしろにしていないというメッセージ以上のものではないため
大した戦いにはなりませんでした。しかし、この時、呉は出師せず。蜀漢が呉に対して不信感を持ったのは言うまで
もなく、翌年、実際に呉が出師した時には、(蔣琬が療養中であったとはいえ)蜀漢は出師しませんでした。

続きます。

308 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:27:36 ID:???0
続き。

さて、またも話は変わって呉ですが…。

またしても戦果が挙がらなかったことに孫権は落胆したでしょうが、それどころではない事態が起こりました。
太子・孫登が亡くなったのです。
蒲柳の質であることを自覚していた孫登は、そのゆえか、謙虚でかつ人の言葉に耳を傾けるという美質を持って
いました。呉の人々は、この太子であれば、と、呉の未来に希望を抱いていました。それが、崩壊したのです。
新たに、三男の孫和が太子に立てられましたが、彼は、二人の兄(孫登、孫慮)に比べれば、才徳ともに劣って
いるのに加え、父に愛されなくなっていました。そんな中、弟達のうち、四男の孫覇が王に立てられました。
群臣達は、これを、孫覇が特別視されているからでは、と思うようになります。
孫和か、孫覇か。本人の意思とは関わりなく、呉に不穏な空気が…。

悲報は、こればかりではありません。先の敗戦の直後に、諸葛瑾が亡くなったのです。驢馬のエピソード(本作
では、「之驢」と書き足したのは、子の諸葛恪でなく諸葛瑾自身となっています)からも分かるように、彼は、
機知に富むばかりでなく、謙虚で、人を傷つけずに場をまとめるという、優れた調整能力の持ち主でした。
呉は、かけがえのない人物を、立て続けに喪ったのです。

さて、彼には、(弟の養子に出した一名の他に)二人の子がいました。諸葛恪と諸葛融です。才気煥発な諸葛恪
は、孫権に気に入られていましたが、軽忽なところがあり、叔父の諸葛亮にも心配される始末。
一方、諸葛融は遊び好き。もっとも、それゆえか人当たりは良く、任地が比較的平穏なこともあって、乱世らし
からぬのんびりとした生活を愉しんでいました。

続きます。

309 名前:左平(仮名):2011/03/21(月) 01:28:38 ID:???0
続き。

そんな中、覇気のある諸葛恪は、魏との戦いを申し出ました。その戦略は、まずまず妥当なものであったため、
孫権も承認。再び、戦いとあいなります。
そして、またも司馬懿が…。

追記。
司馬懿の戦いぶりの見事さが際立っています。いかに策が少ないと評価されたとはいえ、朱然は歴戦の将です。
それをあっさりと打ち破るとは…。ついつい、書き込みにも熱が入りました。

310 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:45:54 ID:???0
三国志(2011年04月)

今回のタイトルは「駱谷」。司馬懿と曹爽。二人の力量差がこれ以上ない形で出ました。

孫権の承認を得た諸葛恪は、魏との国境付近に軍を動かします。ここでの彼の動きは、父や叔父に軽忽さを心配
されたとは思えないほど堅実なもの。入念な偵察を行い、重要拠点たる寿春への侵攻に手応えを感じます。

当然、こうなると、魏としても何らかの対応を考えねばなりません。曹羲は、兄の曹爽に出師を勧めますが、曹
爽はというと、どうも気乗り薄。父・曹真の影響もあり、騎馬での戦いには多少の自信のある彼ですが、呉との
戦いとなると水上戦が予想されるため、不得手な戦いをする気がしなかったのです。
「ここで兄上が行かないと、また大傅(司馬懿)が行きますぞ」
司馬懿と諸葛恪とでは、将器の差は明らか。またも司馬懿に名を成さしめたらどうなるか…。曹羲にはかなりの
危機感がありました。が、曹爽には届きません。
悪政を行っているわけではありませんが、浮華の徒を近付け華美に浸っている曹爽には、(特に軍事的な)名声
が欠けています。今回は、それを払拭する絶好の機会だったのですが…。

曹羲の予想通り、廟議において、司馬懿は出師すべきと主張します。策を好む孫権が一軍(諸葛恪)のみで魏を
攻めるとは考えにくい、と慎重論が多かったのですが、司馬懿は、魏の優位を列挙し、出師が決まりました。
その筋道立った説明を聞いた曹羲は、なおのこと、兄が行くべきであった、と悔やみます。

続きます。

311 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:47:04 ID:???0
続き。

彼我の兵力(高位にない諸葛恪が率いる一軍と最高位の司馬懿が率いる大軍)、時期(冬季は水位が下がるため
呉が得意とする水上戦になる可能性は低い)、将の力量…。司馬懿からすると、負ける要素がまるでない、楽な
戦いです。とはいえ、都にある曹爽の動きが気になる今の彼には、ささいな失策も許されません。それだけに、
慎重に軍を動かします。

一方、諸葛恪はというと、またとない機会を得たことにがぜん意気込みます。司馬懿が出てきたことで、魏との
一大決戦が見込まれるからです。
もちろん、自身の率いる一軍のみでは勝ち目はありません。それとなく、孫権自身の出陣を乞うたのですが…
結果は、柴桑に撤退せよ、との命令でした。
一時は出る気になった孫権ですが、今回の戦いは不利という占いが出ると、あっさりやる気をなくしたのです。
意外なところから、孫権の老いが顕現した形となりました。
武功を挙げる機会を逸したことを、諸葛恪は嘆きますが、皇帝の命とあってはどうにもなりません。

かくして、またも司馬懿は、鮮やかな勝利を収めました。諸葛恪に荒らされた南方を慰撫し、農政に気を配る
等、民政にも意を尽くした司馬懿の帰還は、まさに凱旋。魏の第一人者がたれであるか、これ以上ない形で、
示されたわけです。

続きます。

312 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:48:33 ID:???0
続き。

こうなると、曹爽としては面白くありません。そんな中、側近から、耳寄りな情報がもたらされました。蜀漢の
大司馬・蔣琬の病が篤く、軍を動かせない、というのです。
蔣琬の器量は郭淮より上とされています。それなのに、軍を動かさないのは何故か。動きたくとも動けないから
ではないか。そう判断したのです。浮華の徒とはいえ才知はあります。その判断は、おおむね当たっていました。

父・曹真の無念を晴らすという意味でも、騎兵の使える西方で戦えるという意味でも、この情報は、曹爽には魅
力的なものでした。彼は、蜀漢への出師を考えます。
今回は、曹羲は反対しました。西方は、郭淮が大過なく治めており、急ぎ軍を動かさねばならない情勢ではない
こと、蜀漢は未だ乱れていないことが、その理由です。しかし、曹爽は、またしても弟の助言を無視しました。

司馬懿も、この出師には反対しました。が、夏候玄が賛成したことにより、出師が決定しました。夏候玄は、曹
爽に近いとはいえ、浮華の徒とは異なり、人格・見識とも高く評価された人物。その彼が賛成するのであれば…
というわけです。
不要不急の出師です。司馬孚、司馬師といった司馬懿に近い人々はこの出師を批判しますが、決まった以上は、
彼らにも止められません。

続きます。

313 名前:左平(仮名):2011/05/07(土) 03:50:04 ID:???0
続き。

曹爽達は、蜀漢への侵攻ルートを、これまで先人達(曹操、曹真、司馬懿)が通らなかったところに設定しました。
これまで使われなかったルートゆえ、備えも薄いであろうと判断したのです。
参謀の一人である楊偉はこれに反対します。そこは険しい道が続き、大軍の運用ができないからです。が、未知の
ルートを使うという魅力に抗しきれなかったか、曹爽達は、楊偉の指摘を無視しました。

蔣琬が動けないのであれば、それより劣る者しかいない蜀漢の攻略など…と、曹爽達は敵を侮っていましたが、曹
羲が危惧した通り、蜀漢は、まだ崩れてはいませんでした。人材は、まだ尽きていなかったのです。
最初に魏軍を迎撃したのは王平でした。魏の大軍が予想外のルートから来襲したことにも慌てることなく、地の利
を生かして兵を巧みに動かし、兵力に勝る魏軍を翻弄。
そして費禕。超人的な記憶力と事務処理能力を持った彼は、魏軍の置かれている状況を的確に把握し、敵に全力を
出させないよう、完全包囲を避けつつ、みごと撃退に成功します。

王平の迎撃にあって軍を進められないことに苛立つ魏の軍中にあっては、口論がたびたび起こり、曹爽はそちらに
手を焼く有様。司馬懿からの書状によって危機的状況であることを理解した夏候玄が独断で撤退する等、統率も取
れないまま、いいところなく敗れました。
しかも、徴収された牛馬が多く死んだことで、西方の羌や氐の恨みも買うことになりました。曹爽は、名声を得る
どころか、司馬懿に大きく後れを取ったわけです。さて、これからどうするのか…。

314 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:56:14 ID:???0
国志(2011年05月)

今回のタイトルは「悶死」。何と言うか…序盤の、腐敗した後漢王朝の醜態をみるような、救いのない回です。

二回前に、呉の太子・孫登が亡くなったこと(それをうけ、三男の孫和が新たに立太子されたこと)が書かれて
いましたが、弟達のうち、孫覇一人を王に立て、のみならず、待遇を太子と同じくしたとなると…。
臣下達の間に動揺が生じないわけがありません。当然ながら、心ある人々が、諫言を試みます。

この頃、呉においては、名臣達が相次いで亡くなりました。優れた調整者であった諸葛瑾については先に語られ
ましたが、優れた行政家であった顧雍も、この時期に亡くなっています(かつて呂壱の専横に激しく憤った潘濬
は、これよりやや先に逝去)。
そして、この時期の孫権に強烈な諫言をしたのは、その孫・顧譚でした。

謹厳実直を絵に書いたような、名臣中の名臣・顧雍。その孫として早くから嘱目されてきた顧譚は、優れた計算・
記憶力を持った、頭脳明晰な能臣でした。
孫権に信任されている。そう自負する彼は、諫言する際、「陛下ならば、きっと分かってくださる…」と、そう
思ったことでしょう。
しかし…孫権の反応は、彼には、甚だ意外なものでした。

かつての孫権であれば、衷心からの、筋道立った諫言には、必ず耳を傾けたことでしょう。しかし、この時の孫
権には、かつての柔軟性が失われていました。顧譚の諫言に激怒したのです。

続きます。

315 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:57:32 ID:???0
続き。

孫和の何がいけないのか。一方で、孫覇の何が良いのか。ここでは、そのことには触れられていません。少なく
とも、能力や言動など、具体的なものがあってのことではないようで、単に孫和への(あるいは、その母・王氏
への)愛情が薄れた。それゆえの…という書かれ方です。
しかし、それでは、臣下達はどうすれば良いのでしょうか。太子に具体的な問題点がない以上は、太子を尊ばね
ばならないわけですが、孫権の本心はそれとは異なるようです。しかし、孫権は、太子・孫和と魯王・孫覇の待
遇については沈黙したままです。

顧譚からすれば、何故激怒されたのか、分からなかったでしょう。この現状はおかしい、というのは、外部から
みれば明らかなわけですから。しかし、孫権には、それが見えません。
孫権は、顧譚のことを、疎ましく思い始めました。

さて、孫権には、息子の他に娘も数人いました。その一人・魯班が、ここで影響力を行使します。この時点での
彼女の夫は、全j(周瑜の子・周循に先立たれた後に再嫁したもの)。
詳しい理由は不明ですが、彼女が、孫和の母・王氏を嫌っていた(その流れで孫和をも嫌っていた)ことが、事
態をさらに悪化させていきます。

公主を娶っている以上、夫の全jも反太子派ということになります。全jの子も既に成人して出仕しており、全
氏の影響力はそこそこあります。それが太子を貶める方向に動いたら…

続きます。

316 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:58:51 ID:???0
続き。

事のおこりは、前々回の、王淩との戦いでした。敗走したとはいえ、こちらは朱然ほどの惨敗ではなかったようで、
かえって魏軍を退かせたりもしています。
勇戦して魏軍を退かせたのは全jの息子達でしたが、そのきっかけを作ったのは、張休(張昭の子)や顧承(顧譚
の弟)の奮戦でした。戦後の評価では、張休や顧承の方が高く評価されたのですが…全j達は、この評価に不満を
抱きます。

彼らは、孫権が病に臥して判断力が弱っているのをみて、張休や顧承への讒言を行います。それも数度にわたって
行われましたから、孫権は、すっかりその讒言を信じ込んでしまったのです。

そしてついに、張休や顧承が、罪なくして処罰されることになりました。先の諫言が容れられなかったことに憤って
いた顧譚がさらに強諌すると、孫権は、彼をも処罰。
顧譚・顧承兄弟は辺境に流罪となり、ある小人に恨みを買っていた張休は、その讒言により処刑されます。
これだけでも大問題なのですが…この、王朝をずたずたに引き裂く裂け目に、丞相の陸遜までもが墜ちたのです。

名行政官たる顧雍が亡くなった後、陸遜は丞相に任ぜられました。とはいえ、魏との戦いが続く以上、任地を離れる
わけにはいきません。かつての諸葛亮の如く、皇帝のおわす都から遠く離れた地で政務を行っていたわけですが…

そんな陸遜に、都の変事が聞こえてきます。何と、吾粲までもが処刑されたというのです。

続きます。

317 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:00:23 ID:???0
続き。

吾粲は、低い身分から累進して太子大傅にまでなった、呉の偉材の一人です。行政・軍事ともに優れた手腕を発揮する
一方、嵐に遭って乗船が沈み、溺れている兵士を、(巻き添えを恐れて他の船が見殺しにする中)自船の危険を顧みず
救出するなど、思いやりの心を持った名臣でした。
彼もまた、この情勢を憂い、孫権にしばしば諫言を呈していたのですが、かえって讒言に遭い、落命したのです。

このままではいけない。陸遜は、何度も上洛(して諫言すること)を請いますが、孫権は、理由を明示することなく、
それを却下します。あるいは、我が心(弟と待遇を同じくされるという屈辱に耐えかねて太子が自ら位を辞するよう
仕向けている)を忖度せよ、という暗黙の意思表示ではなかったか、と書かれていますが…

陸遜がさらに請うと、孫権はこれに激怒。ついに、陸遜は悶死するに至りました。
…以前の江夏諸郡での所業もあり、個人的には陸遜には好感は持っていませんが、国を支える重臣がこのような形で
亡くなるというのは、さすがに…。
ここまでみると、(本来はおかしい言い方ですが)太子派が一方的に弾圧されている格好ですが、この混乱は、まだ
続きます。全jや、(陸遜の死後に丞相となったがほどなく他界した)歩騭も、自身は穏やかに死ねたようですが…。

呉の不幸は、一方で魏の幸福。陸遜までもがただならぬ死を遂げたとなれば、呉国内の混乱は相当なものとみた王淩
は、馬茂という人物を埋伏として送り込み、孫権の暗殺をもくろみますが、これは失敗。
暗殺計画に怒った孫権が、朱然の意見を容れてまたしても魏との戦いが…。

318 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:01:43 ID:???0
追記。
「麒麟も老いては駑馬にも劣る」とは言いますが、今回の孫権の耄碌、老害ぶりの凄まじさには、ただただ呆れるほか
ありません。
ただ、(妻や子のことがあったとはいえ)陸遜にもその将器を評価されていた全j、行政・軍事ともに有能な歩騭が、
この件で諫言をしなかったのは…と思うと、ちょっとすっきりしないものが。次回以降、この顛末がどう書かれるか。

それにしても、朱然の書かれ方が結構ひどいです。前々回は司馬懿にいいところなく惨敗。今回は、「呉にはもはや
この程度の将しかいない」みたいな言われ方。
以前の卑衍の書かれ方と比較すると、一武将と司令官クラスに求められるものが違うからなのでしょうが…。

319 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:31:09 ID:???0
三国志(2011年06月)

今回のタイトルは「曹爽」。本作では、個人名のタイトルが来ると、その回あたりで亡くなるフラグ、という感がある
のですが…さて。

まずは、前回の続きから。朱然が、老将とは思えない溌剌さで暴れまわります。魏の将が後方へ回り込もうとするも、
それを一蹴。鮮やかな勝利を飾って、堂々の凱旋を果たします。しばらくぶりの捷報に呉の宮中は湧き返り、孫権も
はしゃぎます(もっとも、そんなにうまいこといくはずはないと思っていたが…なんて言われてますが)。
その三年後、朱然は、栄光のうちに没します(そういえば、二十世紀に入ってその墓が発掘されていますね)。

ただ、朱然の活躍は、魏の南方の民にとっては災厄そのもの。以前にも呉の侵攻を受けた人々は、それを避ける為に
北方に避難していたのですが、空白地の存在を嫌った曹爽は、これを無理に戻させました。その結果がこの有様です。
先の蜀漢侵攻の失敗で、軍事的手腕に疑問符がついている上に、内政面でも失敗したことで、曹爽は、人々の支持を
失いつつありました(その失政を揶揄する歌が歌われる、等)。
しかし、司馬懿が一歩退いたスタンスを取っているためか、成果が挙がっていないにもかかわらず、曹爽派の力は、
むしろ強化されつつありました。
そんな阿呆なことが…と言いたくもなりますが、無能な者が分不相応な権力を持つこと自体は、歴史上、例がない
わけではありません。

続きます。

320 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:33:05 ID:???0
続き。

曹爽派の有力者として名が挙がっているのが、丁謐、何晏、ケ颺の三名です。曹爽に重用され、高位に就いた彼らは、
かつての梁冀の如く、好き勝手に振る舞います(諸候の飛び地を我がものとする、詔書を偽る、等)。
その頭目たる曹爽もまた、それを制止するどころか、自身もそのように振る舞います(調度品を皇帝のものと等しく
する、宮女を我がものとする、等)。
わずかに、曹羲ひとりが諫言しますが、曹爽は、聞く耳を持ちません(ただし、無駄の削減と称して勝手に廃止して
解散させた将軍の兵力を曹羲に持たせるところをみると、曹氏一族の一人としてはある程度信頼しています)。

ただ、彼らも、決して一枚岩ではありません。というか、みな我が強く、互いに見下している、という感じです。
読書家の丁謐は、己以外は皆低能だと見下しています(派閥の頭目たる曹爽も例外ではありません)。ただ、政敵たる
司馬懿だけは賢いとみなしており、それ故に警戒しています。
ケ颺は、すっかり俗物と化し、公然と賄賂を要求する有様。何晏は…まあ、今回は語られていませんが、蒼天でも少し
触れられていた、あれ(五石散)がありますからね…。
曹爽は、彼らは有能である(有能過ぎる故に嫌われていた)と思って重用します。確かに、才覚自体はあるのでしょう
が、これでは嫌われるわけです。

続きます。

321 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:34:49 ID:???0
続き。

さて、彼ら以外で曹爽派の有力者として、桓範の名が挙がっています。こちらは、実際に有能なのですが、とにかく
性格的に問題あり、というところ。
ちょっと嫌味を言われたくらいで妊娠中の妻に暴力を振るい、母子共に死なせるあたり、それだけでも失脚に値する
くらいです(まあ、さすがにこれは悔やんだようですが)。他にも、蒋済に認められなかったことに恨み事を言う等、
むやみに敵を増やすような言動が目立ちます。

そんな中、曹爽派の一人・李勝が司馬懿のもとを訪れます。先の蜀漢侵攻では失敗した彼ですが、行政手腕はあった
ようで、荊州刺史に就任します。この訪問は、その挨拶に…というわけです。
もっとも、実際には、政治的に沈黙している司馬懿の偵察なのですが。ただ、司馬懿もこのことは分かっており、一
芝居うちます。まさに「しばいのしばい(司馬懿の芝居)」。
(妻に話したら駄洒落扱いされましたが…)

司馬懿の呆けた演技は見事なもので、李勝は、かつての英姿と比べ、思わず涙するほど。司馬懿に仕える侍女達は、
というと…笑いをこらえるのに必死でした。

322 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:36:27 ID:???0
追記
1、
曹爽達は享楽に耽っているわけですが、ここで出てきたのが「地下室」。名前自体は出ませんでしたが、「春秋時代に
地下室をつくった貴族が〜」というと、鄭の伯有が思い浮かびます。鄭と魏の国力を思うと、曹爽がつくらせたそれは、
相当な規模のものだったのでしょうね。
ただ、伯有の最期を思うと、曹爽の行く末も良いものではない、という予感を持った人々もいたことでしょう。
2、
曹爽の能力については、酷評としか言いようがありません。才能もない、努力もしない、感性も鈍い、鈍さを魅力に変
えることもできない…。
わずかに、優しいところがあるように書かれていますが…。
3、
司馬懿は病を装っているので、表には出られません。そこで、表のことは子に任せるわけですが、今のところ長子の
司馬師しか出てきていません。演義では、これより以前から、次子の司馬昭も(と言うか、司馬師・司馬昭の二人が
セットみたいな感じで)出ているので、ちょっと不思議な感じがしています。

323 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:55:06 ID:???0
三国志(2011年07月)

今回のタイトルは「非常」。いよいよ、魏を揺るがす大事件が勃発します…!

まずは、前回の続きから。李勝が「荊州(けいしゅう)」刺史になる、というのを、司馬懿は「并州(へいしゅう)」
刺史になる、と勘違いします。何度も間違うため、ついには、「わたしは、本州たる荊州の刺史になるのです」と言わ
れる有様。
これで、司馬懿はようやく聞き間違いに気付いた様子(もちろん、これも芝居なのですが)。
その後、李勝は、司馬師・司馬昭兄弟からもてなしを受けて、晴れやかな気分で司馬懿邸を後にしました。

※ざっと検索すると、現代中国語では、荊州→Jīngzhōu、并州→Bingzhouと発音するようです(細かいピンインまでは
 みていませんが…)。個人的には、現代中国語より、日本語での音読み(漢音・呉音)の方が、当時の発音に近いと
 思っていますので、「へいしゅう」と「けいしゅう」の聞き間違い、というのが結構リアルに感じられます。

その足で、彼が曹爽邸に立ち寄ったことは言うまでもありません。司馬懿の現況は、曹爽達にとっては、喉から手が出る
ほどに知りたいことなのですから。
李勝は、ただただ「おどろきました」と言い、司馬懿の様子を語りつつ、涙します。曹爽もまた、どこか浮かぬ様子。
曹爽派からみれば、もっとも厄介な相手である司馬懿の老衰は、喜ぶべきことであるはずですが…(実際、何晏、ケ颺は
浮かれています)。
李勝が涙したのは、人というもののはかなさを感じた、ということもあるでしょう。では、曹爽は?

続きます。

324 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:56:10 ID:???0
続き。

曹爽は、(この時点での)魏の最高実力者。当然ながら、現実の軍事・行政に関わります。その目でみると、司馬懿の
老衰は、蜀漢や呉に対抗できる人材が一人減ることをも意味するのです(李勝が哀しんでいるのも、実際に地方行政に
携わっているが故のもの、と考えると、また違った意味合いが見て取れます。ずっと中央にいたであろう何晏、ケ颺に
は、恐らく理解の外にあることでしょうが)。
もちろん、単なる勝者の余裕、かも知れませんが。

しかしその頃、司馬懿邸では、司馬懿を中心にある謀議が行われます。司馬懿の眼には、炯々たる光が宿っています。
先ほどの痴態をみた者からすれば、これが同一人物かと思うほどに。
「これが失敗すれば、族滅される」
何しろ、曹爽派は皇帝を擁しているのです。それに叛旗を翻すとなれば、並々ならぬ覚悟が必要。この謀議に、司馬
一族以外の者が一人もいないのも、そのためでした。

謀議の内容。それは、曹爽派打倒のクーデターについてのものでした。明年早々、皇帝と曹爽達は、高平陵(先帝・
曹叡の陵墓)に詣でるため、洛陽城を出ます。その隙を突いて…というわけです。
しかし、クーデターを起こすとなれば、その正当性を証明する必要があります。どうしようというのでしょうか。

続きます。

325 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:57:21 ID:???0
続き。

一つ、手段がありました。永寧宮(→皇太后の郭氏)です。皇太后であれば、皇帝不在の折に、非常大権を発動する
ことも可能なのです。ただし、これはあくまで非常手段。
このクーデターは、司馬懿といえども、十分な勝算があって行うものではないのです(もし、曹羲が城内に留まって
いれば…その時は運が無かったと思うしかない、とも言っていますから、まともに対応されたら負けるのです)。

そして、正始十(249)年となりました。

皇帝と曹爽達は、予定通り、高平陵に詣でるべく、出発しました。この一行の中に曹羲がいたという時点で、趨勢は
おおよそ定まったと言えるでしょう。
皇帝と曹爽達が出発したのを見届けると、司馬懿達は、直ちに行動を開始しました。司馬一族の持てる兵を率いて、
永寧宮に参内したのです。

半ば引退した老臣の、それも兵を率いての急な参内。たれもが不審に思うところです。しかし、司馬懿に謁見し、
その英姿をみた皇太后は、その勝利を確信し、できるだけの措置をとることを約しました。

司馬懿が武器庫をおさえようとする際、曹爽邸内で、司馬懿を狙撃するか否か、という押し問答がありましたが、結局
狙撃は行われず。第一段階における、曹爽側の反撃は不発に終わりました。
かくして、司馬懿は、兵権を掌握し洛陽城内をおさえることに成功しました。

続きます。

326 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:58:32 ID:???0
続き。

とはいえ、いまだ皇帝は曹爽派の中にいます(皇帝が、皇太后の詔を無効とすれば、一気に情勢はひっくり返る恐れが
あります)。司馬懿は、有力者の支持を取り付けるべく、動きます。

ここで名の挙がった有力者とは、高柔、王観、そして蒋済の三人です。高柔は、かつて曹操と敵対して倒された高幹の
一族ですが、職務に精励し、かつ、法の遵守者と認められて、着実に昇進した名臣。王観は、任地の幽州が難治の地で
あることを正直に申告させた誠実な人物(宮廷の公物を厳格に管理していた為、曹爽に嫌われ転任させられたほど)。
蒋済については、ここまで読まれてきた方々には、言うまでもないでしょう。
彼らを味方につけることで、人々に、自身の正当性を知らしめようとしたわけです。裏を返せば、有力者の支持を取り
付けたなら、皇帝とてその意向を完全に無視することはできない(曹爽派の反撃を封じる、封じるまでいかなくとも、
弱められる)だろう、と…。

ただし、一人例外がいました。桓範です。迷いはあった(最初は司馬懿につこうとした)ようですが、皇帝を擁して
いる、ということで、彼は曹爽のもとに向かいます。このことを知った蒋済は危惧しますが、司馬懿は捨て置きます。

司馬懿による、曹爽達への劾奏。そして、桓範からの情報。曹爽達は、ここに至って、ただならぬ事態にあることを
認識しますが…


追記。
司馬懿によるクーデターの知らせを受けた際、曹爽達は、ただただ呆然としていました(曹羲も、ことの詳細が分から
ないことには…いう具合)。司馬懿の芝居は、かなり効いたようです。

327 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:33:56 ID:???0
三国志(2011年08月)


今回のタイトルは「霹靂」。曹爽達にとっては、まさにそんな感じだったのでしょうね。しかし、それだけではおさまら
ないわけで…。

司馬懿によるクーデターは、ここまではうまくいっていますが、桓範からみれば、まだ逆転の目は残されていました。何
しろ、曹爽側には天子がおわすのです。
天子を擁して副都・許昌に移り、そこで募兵を行えば、十分な兵力が得られます。それに、大司農の印綬もありますから、
兵糧の心配もありません。さらに、天子直々に詔を出せば、皇太后のそれを無効化できる(→司馬懿を逆臣とすることも
できる)のです。

しかし、これだけの好条件を示されながら、曹爽達は動こうとしません。これまで、たびたび兄を諌めてきた曹羲でさえ、
押し黙ったまま。自分達の置かれた状況を理解はしたものの、その状況に耐えられなかったのです。
危機にあっては、人の本性が出てくるものですが、曹爽達は、揃いも揃って肚が座っていなかったようです。

ただし、いつまでも動かないわけにもいきません。いったん事が起こった以上は、何らかの形で決着をつけねばならない
のです。それがいかなる形であろうとも。
天子の側近の中に、その決着とは天子の廃替ではないか、と危惧する者がいました。陳泰と許允です。

続きます。

328 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:02 ID:???0
続き。

ありえない話ではありません。歴史をひも解けば、前例はあるのです。曹爽達の傀儡の如き天子への同情がある二人は、
天子を救うべく、動き始めました。
ともかく、曹爽達がどうなるか。それが分からないことにはどうにもなりません。二人は、司馬懿のもとに赴き、その
真意を確かめようとします。

司馬懿にとっても、ここが勝負の分かれ目でした。曹爽派を完全に潰さないと、逆に自分達がやられる恐れがあるわけ
ですから、許すことなどできません。しかし、それをあからさまに出すと、徹底抗戦される危険性もあります。
曹爽達には、免官だけで済むと希望を持たせる一方で、その後の処断の正当性を損なわないようにしなければならない
のです。
ここは、何とか成功しました。ただし、曹爽派ではない二人の言葉だけでは曹爽を動かせないと思った司馬懿は、曹爽
に信用されている尹大目も遣わし、免官だけで済むという含みを持った返答をしてみせました。

これを聞いた曹爽は、ついに、降ることを決めました。それがいかなる結果をもたらすかも知らないままに。

続きます。

329 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:30 ID:???0
続き。

桓範からみれば、余りにも愚かな決断でした。曹爽達は、自らを守るものを、自ら捨て去るというのです。必死に止め
ようとしますが、極度の緊張から解放されることにただただ安堵する曹爽達には届きませんでした。
「元候(曹真)はまことに立派なかたであった。…あなたがたは、犢(こうし)のようなものだ」

父祖の功業によって授けられた富貴に浸り、研鑽することのなかった彼らは、百戦錬磨の司馬懿からみれば、まさに犢
のようなものでした。しかし、このたとえは、単に精神の幼さのみを示したものではありません。
洛陽に戻った彼らを待っていたのは…

まず、桓範。蒋済が「知嚢」と評したとおり、才智に富んだ彼は、いったんは大司農に復職する予定だったのですが、
城門を出る際の言動(詔であると偽って出た、司馬懿を逆臣とした…等)が咎められ、一転して、罪人として捕縛され
ます。もともと、曹爽が降った時点で、ある程度の覚悟はしていたようですが、いったん許されてからのどんでん返し
ですから、これはきついですね。
ただ、同じように城門から出た魯芝や、降ろうとする曹爽を諌めた楊綜等はお咎めなしでしたから、司馬懿が、桓範に
ある種の危険性を感じたのが主因のようです。

続きます。

330 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:36:11 ID:???0
続き。

曹爽達は、というと、まずは自邸に戻ることを許されますが、謹慎を余儀なくされます。ただ謹慎するだけではなく、
近隣から動員された八百人の兵から監視されるのです。
庭に出るだけでも囃し立てられるのですからたまりません。おまけに、一切の人の出入りが禁じられているので、食材
さえ入手できないという有様。
さすがに、食材については司馬懿からの差し入れがありましたが、こうしている間にも、曹爽達の過去の行状の調査が
進められていきます。
厳しい監視と飢餓への不安に苛まれた曹爽達は、そのことには気づきませんでした。

そして、彼らの破滅のときがやってきました。公物や宮女の横領等、言い逃れようもない明白な罪状が曝されたのです。
しかし、捕縛され、刑場に送られる彼らは、意外におとなしいものでした。あの時、桓範の言うとおりにしたとしても、
勝てなかったろう。ならば、犠牲が少ない方がよい。そんなことを考える彼らは、まさに生贄の犢でした。

さて、これほどの事件となれば、当然ながら、大々的な裁判が行われることになるわけですが、ここで、今でいう検事
役に充てられたのは、何晏でした。何晏は、ここで曹爽達を強く断罪することで己の延命を図りますが、裁判が終わっ
たところで、捕縛されました。


追記。

司馬懿の狡猾さと、曹爽の甘さ。今回は、これに尽きるように思います。
ただ、司馬懿の狡猾さについては、曹爽を降すための駆け引きはともかくとして、どこかすっきりしないものがあります。
何晏が曹爽派であることは明らかだったのに、なぜ検事役にして曹爽達を弾劾させたのか。このようなことをする意味が
果たしてあったのか。
何晏の人格の卑しさを白日の下に曝すためであったにしても、彼がここまでされなければならない理由は何か…。

331 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:53:48 ID:???0
三国志(2011年09月)

今回のタイトルは「王淩」。先のクーデターは司馬懿の完全な勝利に終わったわけですが、魏の内部に、新たな異変の眼が
生じつつあります。

祖父は後漢の大将軍・何進。母は魏武帝・曹操の夫人。そして、自身の妻は公主(曹操の娘)。何晏は、魏王朝においては、
まさに貴種というべき存在でした。その彼が処刑されたことは、世の人々に大きな驚きを与えたわけですが、かような末路を
予見した人もいました。
その一人が、管輅(字は公明)です。易経等に通じた彼は、その容貌や振る舞いから、威厳がないとみなされ、あまり出世は
しませんでしたが、俗世を超えた眼を持ち、様々な逸話を残しました。
その一つが、何晏についてのものです。彼が何晏に招かれたことは、歴史上、大した事件ではないはずですが、なぜか記録が
残っているというのです。

それは、司馬懿によるクーデターの直前、前年の十二月二十八日のこと。管輅のことを知った何晏が、自邸に招き、己の将来
を占ってほしいと依頼しました。「わたしは三公になれるであろうか」、と。
その際、この頃よくみるという夢の内容を伝えています(鼻の上を青蝿が飛び周り、払っても離れない、というもの)。
それに対する管輅の返答は、ごく大まかに言うと、(高位にあることによる)威はあるが、徳に欠けるため、危うい、という
ものでした。
これを聞いた何晏がどう思ったかは、よく分かりません(管輅の伝には、忠告に感謝したという話もあるようですが、夫人に
心配されるほど行いが荒んでいた何晏が、本心からそう思ったとは考えにくいのです)。

ともあれ、それから間もなく何晏は誅されたわけですから、それを予見した管輅の異才ぶりが、あらためて世に知られたわけ
です。

続きます。

332 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:34 ID:???0
続き。

さて、ここで興味深いことが。何晏が誅されたことを聞いた裴徽(管輅にとっては恩人にあたる人物)は、管輅に、何晏の
印象を問い、その答えから何晏の本質を理解するという話があるのですが、そこで挙げられているのが、恵施(恵子)なの
です。
恵施というと、「荘子」に出てくる、荘子の論敵。彼は、名家(今でいうところの論理学者の類)として知られる人物です
が、何晏もその類であった…ということでしょうか。
wikipediaソースで何ですが、何晏は玄学(老荘思想に基づく学問)の創始者とされているようです。しかし、何晏はそう
単純な人物ではなさそうです。一見、ただの俗物であった晩年も、あるいは違う見方ができるのでしょうか。

さて、司馬懿のクーデターにより、曹爽の一族は滅ぼされたわけですが、帝室に連なる家が消滅させられた、となると、帝
室に連なる他の一族にもその影響は及んできます。
曹操の父の実家とされ、準皇族ともいうべき夏侯氏もその一つです。ここでは、その夏侯氏から三人が紹介されています。

一人は、夏侯令女。曹爽の一族に嫁いだ彼女は、若くして夫に先立たれて寡婦になりましたが、再婚を拒み、曹爽の庇護を
受けていました。その曹爽家が滅んだため、頼るすべを失い、実家に引き取られると、あくまでも再婚を拒み、自らの鼻を
削ぐに至ります。
先に髪を切り、次いで耳を削いでいますから、これ以上再婚を強いると自害しかねないという凄まじさです。
夫への、そして婚家への貞節ぶりに心動かされた司馬懿は、彼女が養子をとり、曹氏の家を継がせることを許します。それ
は、自らの正当性を世に知らしめるには、有効なことでした。
しかし、権力とは無関係の夏侯令女はともかく、実権を持つ夏侯氏に対しては、そう甘くはありません。

続きます。

333 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:58 ID:???0
続き。

残る二人は、夏侯玄と夏侯覇です。二人は、ともに西方にあって蜀漢との戦いの最前線に立っていたわけですが、夏侯玄が
都に召還されることになりました。夏侯玄は、先に曹爽が蜀漢を攻めた際、その計画に賛同し、同行もしていますから、曹
爽派とみなされて…というわけです(なお、この戦いにおいては、夏侯覇は先鋒を務めている)。
結局、夏侯玄への措置は単なる異動だったわけですが、残された夏侯覇は、気が気ではありません。何しろ、夏侯玄の後任
は、仲の悪い郭淮なのです。
 郭淮というと、かつては夏侯覇の父・夏侯淵とともに蜀漢と戦っている人物。その彼と仲が悪いというのはちょっと変な
 気がしますが、以前に、曹休が賈逵を(一方的に)嫌ったということもありましたから、父の元部下の指図を受けること
 に不快感を持っていた(それを察した郭淮も夏侯覇を嫌った)のかも知れません。
これは、準皇族たる夏侯氏である自分を陥れる罠か。夏侯玄への沙汰が下るのを待っていては危うい。ここまで思いつめた
夏侯覇は、ついに亡命することを決めます。

しかし、魏の西方にあって亡命先となる国はただ一つ。そう、父の仇たる蜀漢です。父の仇を取りたいという気持ちを強く
持っていた(それ故に、先の戦いでは先鋒となった)夏侯覇にとっては難しい決断でしたが、彼の一族の女性が張飛の妻に
なり、二人の間に生まれた娘が蜀漢の皇后になっているという縁が決め手になりました。
夏侯覇は、苦難の旅の末に蜀の地に入り、皇后の縁戚として厚遇されます。没年は不明とのこと。姜維とともに戦うのは、
演義での創作のようです。

続きます。

334 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 12:44:26 ID:???0
続き。

夏侯覇が亡命した当時、蜀漢の宰相格となっていたのは、費禕でした。この数年前から病床にあった蔣琬は、そのまま回復
することなく亡くなり、費禕がその後任となっていたのです。
費禕は、司馬懿のクーデターの委細をつぶさに検証し、その是非を論じました。これは、いわゆる史論の先駆けというべき
ものです。蜀漢には文化的な要素は少ないのですが、諸葛亮の『出師表』や費禕の史論があるあたり、文化不毛の国という
わけでもありません。
その論は二つあります。一つは、是とするもの(司馬懿は、先帝・曹叡の遺命に基づき、国政を正した)。もう一つは、非
とするもの(先帝・曹叡は、司馬懿と曹爽に後事を託したにもかかわらず、司馬懿は、曹爽の恣行を正すことなく誅した)
です。

是非はともかく、司馬懿のクーデターの影響は大きいものがありました。なるほど、クーデター後、魏の国政は正されては
いる(人材登用等が適正化された)のですが、帝室たる曹氏の一部が滅ぼされる一方で、司馬氏の権力が著しく伸長したの
は、魏の国体の護持という観点からは望ましくないことです。
これを危惧した令狐愚は、おじの王淩に、司馬懿を討つべきではないか、と持ちかけます。

王淩は、王允の甥です。彼は、おじが董卓を討った(それによって国体を正そうとした)ことを誇っていましたから、この
話には興味を示しました。単に栄達だけを考えるなら、司馬懿との良好な関係を保つに越したことはないのですが、王允の
甥であるという自覚が、それを許さなかったのです。

ただ、皇帝を奉ずる司馬懿と戦うには正当性の根拠となる存在が必要です。令狐愚は、楚王・曹彪(曹操の子)の名を挙げ、
彼を奉ずるべきであると主張し、配下を遣わして曹彪に説きます。
一方、王淩も、優秀な息子達のうち、頼りにしている長子・王広にことのあらましを伝え、是非を問います。四十近い壮年
の王広は、司馬懿の善政を挙げ、慎重に振る舞うべきである、と回答します。

事実上、魏の南方を任されている王淩は、かなりの兵力を持っています。その彼が、楚王・曹彪を奉じて司馬懿と戦えば、
どうなるか。なるほど、うかつな動きはできません。
王淩達は、水面下で静かに動いていましたが、その最中に、この計画の中心人物・令狐愚が亡くなります。ここから、一体
どうなるのでしょうか。

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344 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:01:13 ID:sAtiQhzY0
三国志(2011年10月)


今回のタイトルは「老衰」。そういえば、今回登場する主要人物は、みな高齢者…。

令狐愚が亡くなったことで、王淩達の楚王擁立計画は一からやり直しとなりました。落ち着いてみれば、計画の実行はさらに
難しくなったわけですが、王淩は、令狐愚の遺志を引き継ぐかのように、この計画にのめりこみます。
ただし、司馬懿との全面対決はできません。十分な兵力を持っているとはいえ、彼の計画は、魏の国政を正さんがためのもの
なのですから、たとえ勝てたとしても、魏の国力を疲弊させるような行為をするわけにはいかないのです。
それを避けるためには、何とかして、司馬懿をおのが勢力圏内に引き込み、捕斬する必要があるわけですが…。

肚は括っているとはいえ、困難極まりないことです。さすがの王淩にも迷いがあったのか、浩詳という人物に、占わせます。
王淩の言葉に不吉なものを感じた浩詳は、やや曖昧さの残る表現で、王者が興るというようなことを話しました。
王淩は、その言葉を、おのが計画が成功することを示したものだと確信したのですが、実は、(呉における孫権のような)
至尊とまではいかないが高位の人が亡くなる、ということを示したものでした。その、高位の人とは…

さて、ここで話は呉に移ります。王淩が、司馬懿を引き込むのが困難と思ったのは、呉の内部事情が、それをさせないとみた
からに他なりません。孫権は年老いて、もはや、司馬懿自らが行かねばならないような大戦(孫権の親征)を仕掛けることは
ないからです。呉にとっては、戦下手な孫権が出ない方が良いのではありますが、ことはそう単純ではありません。

 しかし、王淩が孫権を「老いた」というのも不思議なもの。なにしろ、王淩の方が年上なのですから。

続きます。

345 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:03:15 ID:sAtiQhzY0
続きます。

孫権は衰えました。衰えて政務への意欲が萎えただけならまだしも、変なところで頑固になり、臣下の諫言を受け入れる度量が
すっかり失われてしまったのです。その讒言によって多くの名臣達を陥れた孫魯班は、ここでも暗躍しました。老いた孫権が、
新たに潘氏(及び彼女との間にもうけた孫亮)を寵愛するようになったのを知ると、彼女達を賛美したのです。
孫亮は、実際、なかなかの資質があったようですが、潘氏は、というと…。

ともあれ、孫権は、娘の言葉に心動かされました。
太子・孫和派と魯王・孫覇派との争いが国を二分するに至り、いよいよ収拾がつかなくなったことに嫌気がさしていたこともあり、
ついに、ある決定を下します。それは、
「太子・孫和を廃し、魯王・孫覇に死を賜う。新たに孫亮を太子とする」
というものでした。

孫権としては喧嘩両成敗というところなのでしょうが、これに納得する者はいたのでしょうか。孫覇は毒を仰いで果てましたが、
何故に自分が死なねばならなかったのか、納得できたとは思えません。
また、孫和も、罪なくして太子を廃されました(後に王として僻地に遠ざけられる)。このような非道が許されてよいのか。そう、
憤る者もいたことでしょう。
魯王派の小人達は処刑され、太子派は、太子の廃替を諌めるも、これまた処刑される者が出ました。

孫権の子は、おおむね才能はあったようですが…孫登、孫慮の早世が惜しまれるところです。

続きます。

346 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:05:58 ID:sAtiQhzY0
続き。

敵国のこのような異常事態を、魏が見逃すはずはありません。将軍として前線に近い新野にあった王昶はこれに気付き、呉を攻める
べきであると上奏し、許しを得ました。
王昶は、これまで様々な官職を歴任し、いずれにおいても成果を挙げてきたそつのない人物です。当然、呉の政情も抜かりなく調べ
上げた上での上奏ですから、司馬懿もすみやかに了承し、王昶と王基・州泰に出撃命令を下しました。

 王昶と王基は、王淩ゆかりの人物です(王昶は、王淩とともに地元で名が知られた人物。王基は、王淩の元部下。中央での王基の
 扱いに王淩が憤り、手元においた、というような話も)。ただし、ともに私より公を重視する人物ですから、王淩の計画を知った
 としたら、どうしたでしょうか。
 州泰は、司馬懿が孟達を攻める際に、先導役を務めた人物。身内に不幸が相次ぎ九年も服喪しましたが、司馬懿は彼を忘れず、喪
 が明けるのを待って起用しました。

まず、王昶は江陵を攻撃します。江陵は要地で城も大きく、容易に落とせる城ではありませんが、ここを攻めることで、敵の耳目を
他から逸らす(王基・州泰への間接支援になる)という意義があります。
守る施績は迎撃しますが、王昶はこれを撃破。施績が籠城すると、挑発した上で引き揚げると装い、追撃してきたところをまた撃破。
鮮やかな勝利を飾ります。
王基は、敵将・歩協が固守して動かないとみると、食糧庫を攻めこれを奪取。数千の人々が降ったといいます。州泰も結果を残した
ので、王昶の計画はみごと成功したわけです。

続きます。

347 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:08:33 ID:sAtiQhzY0
続き。

さて、魏に攻められたとなれば、呉は当然に反撃してくるはず。王淩は、これを好機とみて、呉が川をせき止めたことを上奏して、
呉を攻めたい(あわよくば、これで司馬懿を誘い出したい)と申し出ます。
が、これに、司馬懿は不審を抱きます。
この頃、司馬懿は病が悪化しており、自邸から出るのも辛い状態になっていました。しかし、それを抜きにしても、この上奏には
不自然な点がありました(剛毅な王淩がこの程度のことで…というわけです)。

司馬懿は動かない。それを知った王淩は、やむを得ず、実力行使に出ようとします。しかし、それには、令狐愚の後任である黄華
を取り込む必要がありました。
使者が、黄華のもとに向かいます。しかし…
令狐愚が亡くなったことで、計画には(王淩からみて)赤の他人が多く関わるようになっていました。それは、計画が漏れる危険
性が高まることでもありました。

黄華は、かつて魏に背いたことのある人物でした。それ故、利をちらつかせれば味方に引き込める、と王淩はみたのですが…彼は
根っからの反逆者ではなく、このことを中央に知らせます(使者も寝返った)。
司馬懿も、王淩の計画を(噂でですが)耳にしてはいました。それ故、この知らせにも驚きはしなかったのですが、人というもの
の不思議さを実感せずにはいられませんでした。
ともあれ、王淩を止めねばなりません。司馬懿は、最後のご奉公だ、と言い、自ら王淩のもとに(兵を率いて)赴きます。

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356 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:45:08 ID:bT4gIyLs0
三国志(2011年11月)


今回のタイトルは「交代」。いつの間にか世代交代の時期になっています。

司馬懿自らが兵を率いて南下中。それは、王淩を討伐する軍である。この知らせは、王淩を驚愕させました。挙兵しようにも、
完全に機を逸したのです。
そのせいでしょうか。司馬懿と、長子・王広からの書簡を読んだ王淩は、自ら出頭しました。自首すれば罪に問わない。その
ようなことが書かれていたようです。しかし、司馬懿は、そんなに甘い人物ではありません。
かつて、孟達を討った時がそうでした。そして、曹爽を倒した時も。司馬懿にとっては、ことばもまた計略の一環。敵に対する
信義などというものは、端から存在しないのです。

小舟に乗った王淩は、司馬懿のいる旗艦に近付くことを拒まれました。ここに至って、初めて騙されたことに気付いた王淩は、
わたしを騙したのか、と叫びますが、「君を騙しはしても国家を騙しはしない」と言い返され、絶句します。
引き続き太尉の印綬を持たされましたが、都に着けば、楚王擁立計画の全容を暴かれ罪に問われることは確実。王淩は、毒を
仰ぎ自決しました。享年八十。

王淩自身は太尉として死にましたが、その息子達は、皇帝廃立を目論んだ者に連なるとして処刑されました。かつて令狐愚に
仕えていた単固という人物も、連座して処刑されました。
擁立されるはずだった楚王・曹彪は自決に追い込まれ、その属官達も処刑されました。
「謀叛」というものは、たとえ未遂に終わっても族滅に至る重罪。過酷とはいえ、ここまでは、仕方のないことではあったの
でしょうが…

続きます。

357 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:49:44 ID:bT4gIyLs0
続き。

これほどの大量処刑があったにも関わらず、百官からは、なお処罰が甘いという声があがりました。司馬氏が魏の実権を掌握
しつつあることを認識し、それに媚を売ろうとしたのです。
太尉として死んだ王淩や刺史として死んだ令狐愚の墓が暴かれ、遺骸は晒し者とされました(その後、直に埋められている)。
そんな中、馬隆は、かつて令狐愚の客であったことから、晒されていた遺骸を引き取って埋葬し、さらに喪に服しました。
馬隆の行動は称賛されたことからみても、令狐愚達は、(先に司馬懿に欺かれて滅んだ)曹爽達とは異なり、為政者としては
優秀だった(民に慕われた)ことが分かります。

この直後、司馬懿の病は急速に悪化しました。老齢で無理をしたことが堪えたのでしょうが、王淩の祟りだという声があった
のも無理からぬところ。結局、その年のうちに亡くなりました。

しかし、司馬氏の権力は弱まりません。伊尹の故事(伊尹が亡くなるとその子の伊陟が継いだ)に従い、長子の司馬師が引き
続き実権を掌握し続けたからです。
時に司馬師は四十四歳。しかし、その真意を知る者はいません。仕官して日が浅いというわけでもないのに、どこか謎めいた
存在感を放っています。ただし、この年は服喪期間につき、その実像が明らかになるのは翌年以降になります。

魏の方がひと段落ついたところで、話は呉に移ります。


続きます。

358 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:55:43 ID:bT4gIyLs0
続き。

この年、呉では災害が相次ぎました。当然、人々は不安に駆られるのですが、孫権がしたことといえば、大赦くらい。政務に
対する関心がすっかり失われていました。

そんな中、外出した孫権は発熱して寝込みます。孫権は高齢。万一のことがあれば…。ここでも、皇后となった潘氏や孫魯班
らが暗躍します。
寝込んでいる孫権ですが、ときどき意識を取り戻し、太子の廃立は誤りではなかったか、と問いかけます。もちろん、潘氏達
がこれを是とするわけはありませんから、何とか言いくるめるのですが。

いくらかは回復したものの、もはや孫権の余命は僅か。遠からず死ぬことを自覚した孫権は、孫和の復位が成らないとみると、
幼い孫亮を補佐する者を推挙するよう命じます。
群臣達は、こぞって諸葛恪を推挙しますが、孫権は難色を示します。彼が後事を託するに値しないとみたからです。ここまで
目立った失策はなかったはずですが、諸葛恪という人物に、どこか危ういものを感じたようです。すっかり衰えた孫権ですが、
時に、往年の冴えを取り戻すことがあります。もっとも、諸葛恪にまさる人物がいないこともまた事実。

 秀長亡き後の豊臣家、とまではいかないまでも、陸遜がいれば…と思う呉人も多かったでしょうね。

諸葛恪に後事が託されることは、潘氏達としても望ましくありません。かつての呂氏の如く垂簾政治を行いたい、という野心を
抱く潘氏にとっては、諸葛恪が全権を担うなどというのは悪夢でしかないのです。
孫権との面会をさせない、ということには成功しましたが、さて…。


追記。
印象に残った人物が二人。
まず曹彪。皇帝の使者から「何の面目あって武帝にまみえるのか」と言われ、怒りの目を向けるあたりは、帝室の一員としての
矜持を感じさせます。
司馬懿は、皇帝の留守をついてクーデターを起こしたわけですが、これこそ、皇帝をないがしろにする叛逆ではないか。司馬懿
に言われるがままに帝室の一員たる曹爽達を滅ぼしたのは、おのが手足をもぎ取るが如き愚行。その心の声を形にしようとした
のが、王淩ではなかったか。彼こそ、武帝の恩に報いようとした忠臣。ゆえに、われは王淩と共謀した…。
確かに、即位時は幼弱ではあったでしょうが、それから既に十年以上が経っています。それにもかかわらず、おのが意志を見せ
ない曹芳は、愚かと言われてもしょうがないのかも知れません。一方で、王淩達が曹彪の擁立を考えたというのも分かります。
次に、孫峻。物事をはっきり言う性格を孫権に気に入られたということですが、潘氏や孫魯班、それに、潘氏に取り入る孫弘ら
と比べると、善良な人物に見えてきます(非凡という風でもありませんが)。

司馬懿存命中の時点で、魏の群臣が司馬氏に媚び始めた、というのが気になります。司馬氏の王朝たる晋は中国史上最も脆弱な
統一王朝だったように思うのですが、このあたり、何か関係があるのでしょうか。

359 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:19:39 ID:???0
三国志(2011年12月)


今回のタイトルは「晩光」。孫権がいよいよ最期のときを迎えるわけですが、曹操・劉備とは異なり、本人の知らぬところでの
政争が繰り広げられます。そのせいか、今回は、いささか違った雰囲気が。

孫権から後事を託された諸葛恪は、ある人物に声をかけられます。上大将軍の呂岱です。呂岱は、諸葛恪に「あなたは、(事を
行う前に)十度お考えになるべきです」と助言しますが、諸葛恪は嫌な顔をします。
この言葉は、季文子(季孫行父)が三度考えた(後に事を行った)、ということを踏まえてのものと思われますが、諸葛恪には、
考える回数が多い分、自分が季文子に劣る、と言われたように感じたからです。
呂岱は、諸葛恪が、人の助言に耳を傾けないその性格ゆえに失敗することを危惧しますが、もはや為すすべはありません。
 しかし、七十歳の老皇帝(孫権)が後事を託する者達の中に、九十一歳の老将(呂岱)がいるというのも、不思議なもの。
 また、季文子が三度考えたことに対し、孔子は「二度考えれば足る」、としたことについての考察も、なかなか興味深い
 ものがあります。

才覚はあるとはいえ、危うさを抱えた諸葛恪に、いかに掣肘を加えるか。孫権も、このことはよく承知していました。皇子達の
封地にも、その意図が見えるといいます(長江に沿う形で、孫奮、孫休、そして孫亮を配置。廃太子・孫和は、孫氏にとっては
興隆の地だが地味の悪い長沙に配置することで復位はないことを示す)。
細かいところはこれからとしても、孫権亡き後の、おおよその形ができてきたというところでしょう。しかし、いかに制約を加
えたところで、諸葛恪が巨大な権力を持つことは明らかです。潘皇后の垂簾政治、という形をとって自らが実権を握りたい孫弘
としては、何とかしたいところです。

そんな中、ある事件が起こります。

続きます。

360 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:21:12 ID:???0
続き。

潘皇后が急逝したのです。看病疲れはあったにせよ、子の孫亮が幼いことからも分かるように、まだ若く特に持病もない皇后の
急逝に不審なものを感じた(首筋に痕跡があるのに気付いた)諸葛恪は、みずから調査にあたります。
不審者が侵入したのではないか。皇后の侍女に、ついで衛士に問うものの、そのような者はいませんでした。どこか衛士の死角
をついて侵入したのか、と周囲を調べますが、死角は見当たりません。
事件は迷宮入りか、と思われましたが、再度衛士に問うたところ、侍女達に不自然な行動がみられたことから、真相が明らかに
なりました。

やはり、皇后は殺害されたのです。はじめ、侍女の証言に怪しいところがなかったのは、彼女達の間で口裏合わせがあったため
でした。それほどまでに、皇后は憎悪されていたのです。
この事件の少し前に改元が行われましたが、それをもってしても、呉の不運は祓えなかったのです。

孫権の病状は、いっこうに回復しません。不安に駆られた呉の人々は、この頃、神と尊崇されていた王表のもとに集まるように
なります。
王表には、論戦を仕掛けてくる相手を言い負かすだけの弁才と学識があったことは確かなようですが、いくら彼でも、死にゆく
孫権を救うことはできません。このまま孫権が死ねば処罰されることを悟った彼は、姿を消しました。
王表が神であったかどうかはともかく、彼の逐電は、呉から神が去ったことを暗示していたのでしょうか。孫権の容態は、この
後、悪化の一途をたどります。

続きます。

361 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:22:50 ID:???0
続き。

皇后の急逝にも、どこかうつろな孫権。しかし、おのが死を自覚した孫権は、あらためて、後事を託すべき者達を招集します。
呼ばれたのは、諸葛恪、孫弘、滕胤、それに呂拠の四名(孫峻は、孫権の命をうけて招集する側)です。
孫権は、諸葛恪が独断に走らないよう、入念に指示をします。そこまで指示しないといけないのか、とも思いますが、そんな
諸葛恪にまさる臣下がいないがゆえのこと。

これが、皇帝・孫権の最期の詔。と言いたいところですが…いつ亡くなるか分からないとはいえ、まだ生きている以上、これ
とは異なる詔が出る可能性も否定できません。
この日は、孫弘が孫権の看護にあたることになったのですが、孫峻は、これに嫌な予感を抱きます。翌日、他の者と交替する
までの間、孫権の容態を知る者が、孫弘ただ一人になる。これが何を意味するか。

はたして、孫弘にはある予感がありました。「陛下は、今夜、亡くなる」という予感が。孫弘が、諸葛恪を失脚させて自らが
実権を握るためには、何としてでもこの機会を逃すわけにはいかないのです。この間に、孫権が何を話したか、話さなかった
か。それを知る者が孫弘のみということになれば、彼の勝ちなのです。
この夜は、孫弘・孫峻の二人にとっては、とても長く感じられたことでしょう。孫権が生きて朝を迎えるか否かで、すべてが
決まるのです。

孫権の容態を確認しながら、孫弘は、孫権の生涯に思いを馳せます。孫弘にとっての孫権とは、正直言って、よく分からない
存在でした。学問好きということだが、酒癖が悪いと印象が強く、何が偉大なのかよく分からない…が、それゆえに偉大なの
であろう、と。
そして…孫権は、殂きました。

続きます。

362 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:25:12 ID:???0
続き。

孫権の死を確認した孫弘は、室外の衛士に指示を出すと、直ちに動き出しました。諸葛恪や孫峻に気付かれる前に、孫弘に
都合のよい遺詔をつくらねばならないのです。
しかし、ほどなく、孫峻がやってきました。衛士に阻まれた孫峻が諸葛恪を呼び、兵を引き連れた諸葛恪が衛士を制して中
に入ると…。

孫権の死を知った二人は、孫弘が何をしようとしているかを察しました。ことは、一刻を争います。

孫峻が、諸葛恪が呼んでいる、と孫弘を誘い出し、諸葛恪がこれを斬殺。これにより、一応の決着はついたわけですが、孫
弘もまた、孫権が後事を託した者達の一人であったことを思うと、呉の前途は、決して明るいものとは言えません。


追記。
今回は、諸葛恪・孫峻・孫弘の三人の心理描写が目立ちました。孫権の死を扱った回なのですが、孫権その人については、
あまり触れられていません。これが、彼の偉大さの一端なのでしょうか。
印象的なのは、職務に忠実な衛士達の姿です。孫権の気まぐれのために国政が乱れても、私欲から来る重臣達の権力闘争が
あっても、彼らは、ただ自らの職務を果たしています。
諸葛恪が、自らを阻んだ衛士を指して「忠の者だ」と言って殺さなかったことに、わずかな救いが感じられました。

363 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:26:02 ID:???0
三国志(2012年01月)


今回のタイトルは「太傅」。久しぶりに三国の情勢が語られます。大物達が相次いで亡くなったことで、時代が再び大きく
動こうとしています。

まずは、孫権が崩じた呉から。新帝・孫亮が幼少であることもあり、諸葛恪が巨大な権限を握ったわけですが、冗官を廃し
たり税の減免をする等の施策もあって、上々の滑り出しをみせます。
さて、国外に目を転ずると…。魏との戦いは膠着状態とはいえ、やや劣勢。ただ、呉にとって脅威であり続けた王淩は既に
亡く、司馬懿も亡くなりました。この頃、魏の脅威は、やや弱まっていると言えます。
性急なところのある諸葛恪は、魏への牽制とするべく、新たな城を築かせました。

これにいち早く反応したのが、王淩に代わって対呉戦線を所掌することとなった諸葛誕でした。呉に動きありとみた彼は、
すぐさま呉を攻めるべきであると上奏します。
司馬懿亡き後、服喪中ということもあり沈黙を保っていた司馬師は、このことをさほど重視してはいませんでしたが、呉も
また服喪中であろうはずのこの時期に動いたことを訝しく思い、彼の意見を採用することとしました。
諸葛誕の他にも、先の戦いで戦果を挙げた王昶達も呉を攻めるべきであると上奏していたこともあり、呉を攻めることに
ついては、すんなりと決定しました。わずかに傅嘏が異見を述べましたが、余りにも少数意見。

魏は、この戦いに、十分すぎるほどの大軍を動員しました(諸葛誕・胡遵、毌丘倹、これに王昶)。胡遵は、かつて司馬懿
のもとで堅実な戦いぶりを見せた良将。毌丘倹は、公孫淵を攻めきれなかったとはいえ、その後の高句麗との戦いにおいて
目覚ましい戦果を挙げています。王昶は、数回前に触れられたように諸事にそつのない人物です。万全の体制と言ってよい
でしょう。諸葛恪は、いきなり大きすぎるほどの試練に見舞われます。

続きます。

364 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:30:09 ID:???0
続き。

ただし、あまりの大軍ゆえか魏軍に油断がありました。そこを、呉の歴戦の勇将・丁奉が突きます。僅かな兵で敢然と攻撃を
加えると、魏軍は存外あっけなく敗走。諸葛誕・胡遵の軍勢が敗走したと見るや、毌丘倹、王昶はすぐさま撤退。
諸葛恪は、労せずして大勝利を収めました。これにより、彼の呉国内での声望は絶頂に達します。

しかし、この大勝利は丁奉の勇戦によるものであり、諸葛恪には、自分が為したという実感が余りありませんでした。実感の
伴わない大勝利のゆえ、もっと戦果が挙げられたのではないか、という思いが日々強くなっていきます。
そして、ついに、再度の魏との戦いを決します。先の戦いから日も浅く、国内には厭戦気分が濃厚にあったのですが、これを
無視しての強行です。孫峻は、そんな諸葛恪に嫌悪感を抱きますが、ここではどうすることもできません。

もちろん、諸葛恪にしても、単独で魏とあたるのは危険すぎるということくらいは承知していますから、蜀漢との連携を考え
ました。使者が、蜀漢に赴きます。
これまで呉と蜀漢とが連携して魏にあたろうと試みたことは何度かあったのですが、いずれもうまくいっていません。蜀漢は
その成立の経緯からして、魏とは不倶戴天の仇敵ではあるのですが、諸葛亮の死後の軍事行動はやや控え気味です。呉の要請
があっても、動くかどうかは未知数でした。
諸葛恪に、それをどうするかといった見通しがあったのかは分かりませんが…この時は、うまくいきました。ちょうどこの頃、
蜀漢では一大事が発生していましたのですが、これが大きく影響していたのです。

続きます。

365 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:34:00 ID:???0
続き。

その一大事とは…費禕の急死でした。ただの死ではありません。宮中で殺害されたのです。

超人的な記憶力と事務処理能力を持ちながらも、自らが諸葛亮に及ばないとみていた費禕は、無理な軍事行動は控えました。
その分は内政の重視に向けられ、蜀漢はしばしの休息の時を享受します。
費禕は、蜀漢にとってかけがえのない人物でした。それゆえ、身辺にはご注意いただきたい。名将・張嶷はそう忠告したの
ですが…魏の降将に高位を与え宮中に出仕させたことが、仇となりました。

費禕の死により、積極路線の姜維の発言力が強くなりました。費禕と姜維は、ともに諸葛亮を篤く尊敬していたのですが、
その見るところは異なっていました。費禕は、その並外れた政治手腕と公正さに、姜維は、大敵・魏に敢然と立ち向かった
雄姿に、憧れていたのです。

諸葛恪からの使者が蜀漢に至ったのは、ちょうどそんな折のことでした。姜維はこれを承諾し、皇帝・劉禅もこれを是認。
ひとりこれを危惧した張嶷は、諸葛恪のいとこにあたる諸葛瞻に書状を出しました。(父に及ばないことを自覚しているが
故に)誠実なことで知られたいとこの言葉なら、むげには扱わないだろうと見越してのことです。
しかし、皇帝が是認した以上、出師は止められません。

ついに、両国の軍勢が出陣しました。魏の宮中は騒然。司馬師は、またしても大きな決断を迫られることになります。

366 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:39:18 ID:???0
追記。

今回の時点では結末は描かれていませんが、司馬師と諸葛恪の明暗が交錯しているような印象があります。

前半に描かれた戦いでは、司馬師は、十分な兵力をもってすればまあ良かろうとやや軽く考えており、魏軍も、大軍故に
寡兵の丁奉を侮りました。一方、諸葛恪は、彼には珍しく人の意見に耳を傾け、慎重に対応。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」などと言いますが、一見すると負けるはずのなかった魏があっけ
なく敗れたのも、ちゃんと理由があってのことでした。
後半は、逆に、諸葛恪に油断があります。先の戦いでは、なるほど諸葛誕・胡遵を打ち破りはしたものの、毌丘倹、王昶
の軍勢は無傷で撤退しています。ともに実績のある将であることは、これまでの経歴をみれば明らかなわけですから、次
に彼らとあたった時はどうか…と考えておくべきでしょう。

この戦いの結果、両者とも、より強い権力を掌握しています。これの運用次第で、情勢が大きく変動することは自覚して
いたでしょうが…さてどうなるか。

367 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:52:22 ID:???0
三国志(2012年02月)


今回のタイトルは「敗残」。才子が才に溺れて失敗し、一方で…。

諸葛恪は、二十万と号する大軍をもって合肥を攻めます。蜀漢との連携、十分な軍勢、綿密な偵察。そのあたりの準備は
きちんとしていたのですが、一つ、忘れていました。合肥の守将の名を知らなかったのです。
将の名は、張特(字は子産)。名前(字)負けしている感のある彼は、諸葛恪からは愚将であるとばかにされましたが、
味方(もとの上官の諸葛誕)からも愚将呼ばわりされており、危うく罷免されるところでした。
諸葛誕の異動に伴い留任しましたが、合肥という要地を任せるには不安あり。おまけに、合肥の兵はわずか三千。諸葛恪
ならずとも、たやすく落とせそうだ、と思われたことでしょう。
張特自身も、自分一人でこの難局を乗り切れるとは思いませんでした。ただ、満寵によって築かれた合肥新城の堅固さと
味方の援軍を信じ、何とか六十日は持ちこたえようとしたのです。

戦いが始まりました。呉軍は猛攻を仕掛けますが、合肥新城の守りは堅く、いたずらに死傷者が増えるばかり。諸葛恪は
いらだちを隠せません。一月経って、ようやく方針転換(土を盛って城壁を無効化する)しますが、将兵の士気は下がる
一方。さらに、軍中に病が発生し、死者はますます増えます。
こうしている間に六十日が経ちましたが、魏の援軍はいまだ来ません。張特は訝しく思います。合肥の重要性を考えると
見殺しにすることはあり得ないし、司馬師が無能だというなら、むしろ慌てて軍勢を動かすと思われるからです。
ともあれ、張特は、なおも防戦を続けねばなりません。呉軍の損失も大きいとはいえ、なお大軍なのです。

ところで、司馬師はどうしていたのか。彼は、側近の虞松の献策を容れ、大胆な、しかし理に叶った用兵を行いました。

続きます。

368 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:55:44 ID:???0
続き。

兵法においては、敵の虚を撃つことを重視します。江南を攻める呉と西域を攻める蜀漢とでは、明らかに、前者の方が
魏にとって重要です。いかに大国とはいえ、両面作戦をとることは難しい以上、どちらかを優先させねばなりません。
となれば、より重要な方である前者を優先するのが道理なわけですが、しかしそれ故に、後者には(こちらは後回しに
されるに違いない)という予断があります。それこそが、虚。
司馬師は、合肥の救援はしばらく見合わせるよう指示する一方で、西域を任せている郭淮と陳泰に迎撃を命じます。

既に老将というべき年齢になった郭淮ですが、動きは迅速でした。司馬氏には、大きな恩があったからです。彼の妻は
王淩の妹。王淩が謀叛人とされたことから、当然に連座の対象となったわけですが、郭淮は、処罰を承知でこれを奪還
しました(奪還したのは息子達でしたが、郭淮は自らが罪を受ける覚悟であえて送り出したのです)。
司馬懿は、西域における郭淮の存在の大きさに鑑み、あえて法を枉げてこれを許しました。司馬懿からみれば、郭淮を
失うことによる損失と比較した結果の判断でしたが、郭淮にとっては、篤情と映ったのです。

ここでは「非凡には遠い」とされる郭淮ですが、曹操の時代から、長年にわたって西域を無難に統治してきたのは伊達
ではありません。その郭淮が、良将の陳泰とともに迎撃に当たったわけですから、相当の大軍が動いたはずです。
魏の中央は当然に合肥の救援を優先する(ゆえに西域の救援は遅れる。その間に戦果を挙げる)という姜維の目論見は
外れました。出兵したことで呉との約定は果たしたわけですから、戦果が見込めなくなった今、兵を動かす意義はあり
ません。姜維は、呉の不甲斐なさを詰りながら、撤退しました。

続きます。

369 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:59:36 ID:???0
続き。

姜維が撤退したことで、魏への脅威は、合肥を攻める呉軍に絞られました。しかし、司馬師は、まだ動きません。そう
して、開戦から九十日が経過しました。

魏・呉両軍とも、そろそろ限界に近づいていました。そんな中、守将の張特が、諸葛恪に面会を求めてきました。これ
は、降伏に違いない。そう思った諸葛恪は、しばらくぶりに上機嫌になります。
張特が刺客になることを怖れた諸葛恪は、それについての用心は怠りませんでしたが…。

魏の法令においては、開戦から百日が経過しても援軍が来なかった場合は、将が降伏しても連座は適用されない。自分
(張特)はもう戦うのをやめようと思うが、納得しない兵もいるので説得したい。そんなことを聞かされた諸葛恪は、
ますます勝利を確信します。
しかし、帰還した張特は自らの勝利を(少なくとも、まだ戦えることを)確信していました。諸葛恪は、自軍の損害の
大きさを隠すのを忘れていたのです。しかも、張特が降伏するものと思い込んだため攻撃が中止されました。この機会
を逃す手はありません。張特は、この間に防備を固めました。

張特にしてやられたことに気付いた諸葛恪は激怒し、攻撃を再開しますが、既に戦意を失っている呉軍には合肥を攻め
落とす力などありません。しかも、ここでついに司馬師が大軍を動かしましたから、もはや手詰まり。
諸葛恪は、撤退を余儀なくされます。

続きます。

370 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 22:02:04 ID:???0
続き。

諦めきれない諸葛恪は、帰還するのをためらい、屯田をしようか、などと言い出します。しかし、その軍は、あくまで
皇帝から授かった国軍であって、諸葛恪が好き勝手に扱ってよいものではありません。

このことを知らされた孫峻は、繰り返し詔勅を出させることで、何とか諸葛恪を帰還させました。しかし、いたずらに
兵を消耗した(大きな会戦はなかったが大敗に等しい)にもかかわらず、諸葛恪は凱旋したかの如く振る舞い、批判的
な人々を遠ざけました。
かつて諸葛恪は、蜀漢に仕えた叔父・諸葛亮は父・諸葛瑾に劣ると言いました。しかし、たとえ形式上のこととはいえ、
諸葛亮は自らの失敗の責を負い降格するということがありましたし、厳格だが公平な政治を行い、蜀漢の人々から畏敬
されました。それができない諸葛恪は、父に劣る、と貶めた叔父にまさると言えるでしょうか。

このような有様を、孫峻は苦々しくみていました。諸葛恪が君臣からの支持を失っていることは明らか。このままでは、
自分も巻き添えを食らう。そうならないためには…。

371 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 22:04:55 ID:???0
追記。

司馬懿、孫権が世を去り、曹操や劉備の時代を知る者は殆どいなくなりました、歴史上は、まだ三国時代の真っただ中
なのですが、一般的な、物語としての三国志の時代は既に去っていると言えます。

それと関係あるのかどうかは分かりませんが、先の卑衍といい、今回の張特といい、普通は目立たない存在の人々に、
見せ場があるように思います。
今回の張特は、三千の兵で二十万の大軍の攻撃を耐え凌いだわけですが、名将、という感じはありませんでした(まあ、
郭淮でさえ「非凡には遠い」という扱いですから、無理もないのですが)。しかし、絶望的な状況にあってなお冷静な
判断を行い、おのが職責を全うしたわけですから、ひとかどの人物ではあるのだろうな…と。
堅実な凡将・張特に敗れた、才子・諸葛恪。そう思うと、何とも劇的な話です。

おっと、今回、ケ艾が登場しました。一言でいうと、寡黙な努力家です(能力面はともかく、彼もまた諸葛恪とは対照
的な存在と言えます)。三国志の後半を彩る名将の一人ですが、その出発点は、下級官吏でした。農政の分野における
優れた見識が司馬懿に認められたことが、後の業績につながっていくわけです。ただ、下級官吏の頃に世話になった人
に謝意を示さなかった(立身する前に謝意を示すのは己を縮めるのでは、と恐れたため。後に、その家族にはきちんと
報いている)ことで、その人格を誤解されたかも知れません。
ケ艾は、司馬師に、諸葛恪の終わりがよろしくないであろうと予見しました。これを、単なる予言としてではなく、自
分への諫言(位人臣を極めた者は慎重に振る舞うべき)である、ととるところに、司馬師の器量が見て取れます。
ただ、司馬懿といい、司馬師といい、どこか、人としても温度が低い、という印象があります。道理においても、人情
においても正しい判断をしてはいるのですが…。いずれ詳しく語られるであろう司馬昭、司馬炎はどうなのでしょうか。

372 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:51:29 ID:???0
回のタイトルは「大政」。「大政」とくると「大政奉還」が思い浮かびますが、このような大事がそうそう平穏無事に
行われるわけもなく…。

諸葛恪の専横を苦々しく思っているのは、孫峻のみではありません。幼くして皇帝となった孫亮も、そうでした。先帝が
崩じてからまだ間もないというのに、大々的に戦を行い、しかも大敗。さらに、それへの反省もなく…となれば、不快に
思うのも当然でしょう。
聡明で心優しい孫亮としては、心静かに先帝の喪に服していたかったのです。諸葛恪がそのことに配慮していれば、先の
大敗はなく、その名望が失墜することもなかったのでしょうが…。
そんな孫亮に、孫峻が、ある内奏をします。「諸葛恪を慰労する宴を開いていただきたい」と。何か含むところがあると
いうことは、分かります。が、孫亮は、詮索はしませんでした。

孫峻が何をしようとしているのか。多少の見当はつきますが、その全容を知るのは、孫峻のみといってもよいでしょう。
ともに後事を託されたはずの滕胤らも、知る由はありませんでした。
その頃、諸葛恪の周囲では、変事が相次いで発生していました。「捜神記」等で博学ぶりを示すエピソードのある諸葛恪
です。用心はしていたのですが…

続きます。

373 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:54:45 ID:???0
続き。

その日が来ました。やはり、諸葛恪の周囲に変事が発生します。どうにも血腥いのです。諸葛恪に親しい人々からも、何
か不穏なものを感じるので警戒すべきとの忠告がなされました。最大限の用心をして宴に臨むことにした諸葛恪ですが、
なぜか、宴に行かないという選択はしませんでした。不穏なものを恐れるあまり宴に行かなかったと思われるのを恐れた
のでしょうか。

孫峻が、諸葛恪を出迎えました。立ち居振る舞いは、あくまで丁重そのもの。一見すると何ら怪しいところはないのです
が…それでも、何か違和感が拭えません。
こうして、宴が始まりました。
しばらくして、皇帝・孫亮が退席。さらに孫峻が席を外します。厠に入った孫峻は、ここで衣を着替えます。当時の習慣
としては普通のことですが…ここで彼は、長衣から短衣に着替えました。その、意味するところは何か。

席に戻った孫峻は、突然、諸葛恪に襲い掛かります。召し捕ると言ってはいますが、はなから斬るつもりでした。斬った
後、変わらぬ様子で酒を飲みますが、その後の指示は、なかなかどうして、抜かりありません。

続きます。

374 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:56:45 ID:???0
続き。

ここでの孫峻は、手際が良く、かつ容赦ありません。諸葛恪の死に動揺する一族を、あっさりと殲滅したのです。都を
遠く離れており、のんびりと過ごしていた諸葛融達も、例外ではありませんでした。
孫堅の弟・孫静の曾孫という微妙な存在であった孫峻は、こうして大権を掌握しました。
このクーデターにおいてはみごとな采配をみせた孫峻でしたが、その後は驕慢になります。聡明とはいえ、幼弱な孫亮
は、引き続いて、実力者に翻弄されることになります。

一方、魏では…。司馬師が大権を掌握しているわけですが、諸葛恪とは異なり、これといった失策はありません。です
が、皇帝が軽んじられているのでは、と思い、密かに反発している人々がいました。
若くして呉にも名を知られる名士となっていた李豊も、その一人でした。かつて司馬懿と曹爽とが対立していた時には
両者から距離を置いていた彼は、その後もまあまあ順調な官僚生活を送っていたわけですが、呉でのクーデターの話を
知り、魏でも同様の(専横の振る舞いのある実力者を排除し皇帝に大政を奉還する)ことはできないか、ということを
考え始めました。仕事ぶりは不まじめ(欠勤が多い。ただし業務はきちんとしているので無能ではない)ですが、勤皇
の志はあるのです。

このままでは魏は危うい。そういう危機感を持った、皇后の父・張緝や夏侯玄といった人々が、司馬氏を排除すべく、
水面下で動き始めました。

375 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:59:11 ID:???0
追記。

今回、諸葛恪が破滅したわけですが…これだけの変異があり、本人も危機感を持って臨んだのに、最期は呆気ないもの
でした。度重なる失策に加え、諫言する人々を遠ざけた末のことですから、本人については自業自得ですが、一族ごと
殲滅されたのは、どうにも後味が悪いものがあります。
遊び好きで、人と仲良くやってきたはずの諸葛融も、助けてくれる者が現れなかった(本人は自害ですが脱出を図った
息子達はあっさり殺されている)のは、少し物悲しいものがあります。

それにしても、魏の皇帝・曹芳は影が薄いです。この頃にはとっくに成人しているはずですがいまだに幼弱扱いされて
いるのが、何とも。

376 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:15:13 ID:???0
三国志(2012年04月)


今回のタイトルは「掃除」。しかし、その内実は…。

李豊は、張緝のもとに子の李韜を遣わしました。「このままでは、皇帝に近い我らは、司馬師によって排斥される」。そう
いった危機感を持つ者同士での連携を模索していたのです。
李豊・李韜父子も、張緝も、才覚のある人物です。その危機感は、まんざら妄想ではありません。李韜の言葉に迷いがない
のをみてとった張緝はこれを了承します。
李豊は、さらに宦官達とも話をつけました。後漢の頃ほどではないとはいえ、宦官達の中には不正を働く者もおり、彼らは
司馬師による処断を恐れていましたから、この話に乗ります。

こうして、李豊は、外戚と宦官とを抱き込むことに成功しました。あとは、帝室に近く、名士でもある夏侯玄ですが…なぜ
か、やや消極的です。ここでは触れられていませんが、かつて司馬師とは義兄弟(司馬師の最初の妻が夏侯玄の妹)だった
ことが影響していたのでしょうか。それとも、単に危機感が薄かったのでしょうか。
優れた学識と文才の持ち主ではありますが、権力闘争を勝ち抜こうとする胆力が欠けているのでは…。ともあれ、そのこと
に、李豊は不安を抱きます。かといって、この計画が成った後、事態を収拾するには、夏侯玄の存在が不可欠だとも思って
いるのです。

さて、この計画ですが…先の王淩もそうですが、一つ問題があります。協力を求める相手が多いのです。「事は密をもって
成り、泄をもって敗る」と言いますが、手広く声をかけると、当然ながら異心を抱く者もいるわけで…。

続きます。

377 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:18:00 ID:???0
続き。

案の定、このことが司馬師に知られました。何ゆえ、李豊が…と思うものの、複数のルートから情報があがってきたとなれ
ば、無視することもできません。
司馬師は、やや強引に李豊を呼び出し、自邸に連れてこさせました。

無理やり連れてこられて不機嫌な李豊でしたが、そんな彼を、司馬師は高圧的に迎えました。そして、中書令である李豊に
皇帝の行状を語ります。
先帝が崩じてから十数年。とっくに成人した曹芳ですが、淫楽に耽り、まともに政務をとれないというのです。
そんな皇帝にかわって政務をみている。その自負のためか、司馬師の言葉には、皇帝への敬意はみじんも感じられません。
「なんじは、かような皇帝に親政をさせるため、われを除こうとした」
そこにあるのは、個人的な憎悪などとは次元の違う怒り。まっとうな為政者を除いて国政を乱そうとする者への怒りです。

李豊の計画は、完全に失敗しました。協力者の名も、全て把握されています。もはや言い逃れることも不可能。目の前が
真っ暗になった李豊ですが、司馬師に「叛逆」と言われると、落ち着きを取り戻し、司馬師を非難しました。
「わたしは叛逆などしておりませんよ。皇帝を助けんがためにしたことを叛逆といわれる覚えはない。皇帝をないがしろに
しているあなたはどうなのか」
こちらにも、正義があります。至尊の存在であるはずの皇帝をないがしろにする者を除くのは臣下の務めなのです。

異なる正義のぶつかり合いといったところですが、ここは司馬師邸。司馬師の側に控える力士が、たちまちにして李豊を
突き殺しました。

続きます。

378 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:21:36 ID:???0
続き。

李豊の屍体は、廷尉の鍾毓のところに運ばれました。あの鍾繇の子にして、父の名に恥じぬ篤実な人物である鍾毓は、李
豊の死にただならぬものを感じます。
司馬師が殺させたことは明らか。常人であればその威勢を恐れて意のままになるところですが、大将軍としての公式な文
書がない以上、これは私刑によるものであるゆえ、受け取れない、ときっぱり拒否したのです。
これを聞いた司馬師は、怒るどころか、むしろ喜びました。鍾毓が、きちんと法度に基づいて職務にあたっていることが
分かったからです。
なお、文書が整い、李豊の死が公的なものとなると、その死体は受け取られました。

これをうけて、すみやかに、法度にのっとった処断が下されました。
李豊、張緝の一族は滅ぼされました(李豊の甥は幼年のため処刑は免れたようです。なお、公主をめとっていた李韜は、
形式上は自害)。宦官達も処刑され、鍾毓による、夏侯玄への尋問が行われます。
名士・夏侯玄をも処断せねばならぬことを分かっている鍾毓は、哀しみました。彼ならば、あるいは司馬師以上の政治を
行う可能性もあるのです。ですが、法度は枉げられません。

李豊の死に、曹芳は怒りを露わにしました。李豊の計画は知らなかったようですが、側近がいきなり殺されたのですから
穏やかならぬことは分かるのですが、この反応に対する周囲の目は冷ややかなものでした。
曹芳の徳のなさをみた司馬師は、ついに皇帝廃立を考えるようになります。しかし現状ではまだ時期尚早。いかに大将軍
とはいえ、容易なことではないのです。

続きます。

379 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:23:24 ID:???0
続き。

「まずは、掃除、掃除」
司馬師はそう言って、李豊に続きそうな者達の排除に取り掛かります。それを「掃除」という言い方で表すあたり、司馬師と
いう人物の恐ろしさが垣間見えるようです。

この中で排除されたうちの一人が、許允でした。名門意識が旺盛な彼は、司馬懿が亡くなった際、それを喜ぶかのような発言を
したこともあり、状況によっては反司馬氏に成り得る存在として、徹底的にマークされます。
そんな彼に大役が与えられましたが、何と、任地に赴くまさにその時に、横領の罪で逮捕されたのです。流刑で済みましたが、
面目は丸つぶれ。気落ちした彼は、間もなく亡くなりました。
許允は罪人として亡くなりましたが、妻の阮氏は、その聡明さをもって子を守り抜きました。

しかし、これほどまでに入念に掃除してもなお、反司馬氏の企ては続きます。そして、ついに弟・司馬昭の暗殺未遂事件が発生。
司馬師は、最後の大掃除を決意することに…。


追記。

以前から、司馬氏の権力掌握の過程には、何かすっきりしないものを感じています。やっていること自体は、おおむね妥当では
あるのですが…。

380 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:12:34 ID:???0
三国志(2012年05月)


今回のタイトルは「廃位」。司馬師のいう、最後の大掃除が行われます。しかし、司馬師の悩みの種がなくなったかといえば…。

司馬昭の暗殺計画はかなり緻密なものであったようで、ついに立案者の名は出てきませんでした。この計画は、西方への遠征を
行うにあたって参内する司馬昭を宮中で捕え、勅命によって誅する、というものですから、皇帝・曹芳が直接的に関与するもの
です。
そして、その時がきたわけですが…なぜか曹芳は動きませんでした。俳優の雲午が「青頭鶏」(鴨=オウ=押さえるに通じる)
というサインを出したにもかかわらず、です。何ゆえに、かは分かりません。しかし、曹芳の振る舞いに何か異常を感じた司馬
昭は、退出すると直ちに司馬師に報告。
商(殷)の伊尹(王の太甲が暴虐であったので幽閉し改心させた)に憧れる司馬師ですが、現実には、漢の霍光(擁立した昌邑
王が皇帝にふさわしくないとみるやこれを廃した)の道を取らざるを得ないことを嘆きつつも、それを実行せざるを得ないこと
を悟ります。
ただ、霍光は皇帝の廃位(及び宣帝の擁立)には成功しましたが、その死後、一族は滅びました。皇帝を廃するという荒々しい
手段は、かなり危険なことでもあるのです。

しばし思案した司馬師は、「箒を持つ手を変えれば大掃除しても埃をかぶらなくて済む」と、謎めいたことを言います。皇帝を
廃するという大事を掃除に例えるのはいかがなものかとは思いますが、一体、どうしようというのでしょうか。

続きます。

381 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:14:41 ID:???0
続き。

それから程なく、多くの高官達が集められました。ここで司馬師が、皇太后・郭氏からの、ある文書を読み上げます。それは、
皇帝・曹芳が皇帝にふさわしくないため、もとの斉王に落とすべきである、と命ずるものでした。

…司馬師は、自分ではなく、皇太后が皇帝の廃位を言い出したという体裁をとったのです。その影に司馬師がいることはみな
察していましたが、それを非難する声はあがりませんでした(曹芳を擁護する声もありませんでした)。
実力者たる司馬師に媚びるという含みもありましたが、手続上は十分な正当性を有すること、司馬師の政治がおおむね妥当で
ある(彼に従っても損をする者はない)ことが、この挙を肯定させたのです。
かくして、司馬師をはじめとする高官達によって起草された―皇太后の命をうけ曹芳を弾劾する―文書が、皇太后の一族の郭
芝によって届けられます。

この時、皇太后は曹芳と同席していました。ことここに至ってはやむを得ないとは思いつつも、血のつながりはないとはいえ
子として接してきた曹芳と別れることに、感傷的になっていたのでしょうか。
場の雰囲気を壊す形になりましたが、郭芝は文書を差し出し、皇帝の印綬を取り上げさせます。

廃位ともなれば相当な抵抗が予想されるところでしたが、拍子抜けするくらい、淡々とことは進みました。あるいは、曹芳は、
皇帝の位に嫌気がさしていたのでしょうか。さすがに皇太后と別れる際には号泣していましたが、それ以外は何の問題も生じ
ませんでした。

続きます。

382 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:16:18 ID:???0
続き。

さて、皇帝を廃したとなれば、当然に、新たな皇帝の擁立が必要になります。では、たれにするか?

司馬師は、彭城王の曹據(曹操と環氏の子。曹沖、曹宇の兄弟)がよいと考えました。曹操の子ですから、既にかなりの高齢
でしたが、王として大過なく過ごしてきた思慮のある人物です。しかし、これは皇太后に反対されます。彼女は、曹操の孫・
曹叡の妃なのです。ここで曹操の子が即位すると、皇統に歪みが生じる恐れがありました。
 ※曹操の孫から子に戻る形になるので、そのまま曹據の系統で帝位が継承されると曹叡の祭祀が絶える。曹叡も正当な皇帝
  なので、祭祀が絶えることは望ましくない。
  また、皇太后より皇帝の方が世代が上になると、皇太后の尊厳が失われる。
司馬師の思い通りにはさせぬ…という意地もあったかも知れませんが、一理あります。ここは司馬師が折れる形となりました。

そして、皇太后が挙げたのは、高貴郷公の曹髦でした。曹叡の弟の子にあたる彼ならば皇統も保てますし、何より、皇太后と
面識があり、好印象を持っていたのです。
ただし、このとき曹髦は十四歳。幼弱とはいわぬまでも若年です。またしても若年の皇帝をいただくことに、司馬師は多少の
危惧を覚えます。
ともあれ、曹髦を迎えることが決まりました。曹髦とは、どのような人物なのでしょうか。

曹髦は学問を好み、夏の小康(中興の祖とされる)を尊敬するという、独特の感性を持った少年でした。それゆえに、自分が
帝位に就くことにも驚くことはありませんでした。父の王位を継いだわけでもないのに、帝位に就くことがあり得ると思って
いたというのですから、どこか神秘的なものが感じられます。


続きます。

383 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:18:22 ID:???0
続き。

かくして、曹髦は洛陽に着いたわけですが、即位するまでは人臣であるという姿勢を崩しませんでした。先例を持ち出されても
己が信念を通したのです。
その姿勢に、皇太后は、あらためて好感を抱きます。そして、多くの群臣達もその挙止の清々しさを歓迎しました。曹髦の治世
は、魏の中興を予感させる、上々の滑り出しとなりました。

しかし司馬師は、曹髦の聡明さに、いささか危惧の念を抱いていました。若年にして聡明と言われる者は、得てしてさわがしい
ものですが、それが自分に向かうようなことになれば…。
鍾会が、曹髦を陳思王(曹植)・太祖(曹操)にたとえたことも気がかりです。

危惧のもとは、他にもありました。王粛が気になる予言をしていたのです。「東南に兵乱の気あり」。恐らく文欽が叛くという
ことは推測されるのですが…。

追記。
司馬師の苦悩が伺えます。帝位をも左右できるほどの実力者とはいえ、その正当性を保つためには、かくも細心の注意を払わねば
ならないのです。
もっとも、皇帝の側からみれば、何を勝手なことを…というところではあるのですが。

ところで、廃位された曹芳は、たれの子だったのか。司馬師は、うわさだと前置きした上で、曹楷(曹彰の子)の子らしいとして
います。曹叡が曹楷と親しかったからその子を養子に迎えた…というわけですが、なぜそれを明らかにしなかったのか。謎が残り
ます。
曹彰・曹楷父子の評判が悪かったから…ということですが、曹楷の子であれば、確かに帝室の一員ですし、曹叡の子の世代になる
ので、何も問題はなさそうなのですが…。

384 名前:おばら@投稿 ★:2012/06/25(月) 17:07:57 ID:???0
おお!超久しぶりに来てみれば、左平さんがいらした!!
秦漢三国晋談義で盛り上がったのが懐かしいですねぇ・・・
もう10年経ったかw

385 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 03:56:22 ID:???0
おばらさん、お久しぶりです。
>もう10年経ったかw
そういえばもうそんなになるのですね。早いものです。では、今回のレポ?を。

386 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 03:58:45 ID:???0
三国志(2012年06月)


今回のタイトルは「寿春」。王粛の予言通り、東南に兵乱が発生します。王淩の件からはまだ数年。この頃の司馬氏にとっては、
東南は不祥の地ですね。

かつて公孫淵と戦い、高句麗討伐を成功させて勇名を馳せた毌丘倹は、この頃、鎮東将軍にして都督揚州諸軍事という重責を担う、
魏を代表する将帥となっていました。
ともに戦場に立ったこともある司馬懿には多少の親近感がありましたが、司馬師とはいささか距離があります。そんな彼にとって、
司馬師がなした皇帝廃立の挙は、許せない出来事でした。
辺境で戦う将の器量と労苦をよく知る帝王であった曹叡を尊崇する彼にとっては、その遺詔を踏みにじる行為と映ったのです。

そんな彼の配下の一人が、文欽でした。父の代からの根っからの武人である彼は、一言でいえば問題児でした。なのですが、腫れ
物に触るような扱いを受け、この当時は揚州刺史。結構、出世しています。
扱いにくい文欽ですが、彼以上の武人である毌丘倹には、よく従っていました(同じ武人であることもあり、毌丘倹は、その扱い
方を心得ていたのです。一方、諸葛誕とは犬猿の仲)。
文欽は曹爽とは同郷で、その縁で出世したとも言えるのですが、曹爽が滅んだ後も、割と待遇は良かったようです。しかし、司馬
氏が力を持っている現状には、不安と不満を持っていました。

多少の相違はあるとはいえ、二人は皇帝廃立の挙に憤ります。また、毌丘倹のもとには、洛陽で仕官している子の甸から、父上は
決起すべき、との含みを持った文を受け取っていました。
王淩の轍は踏まぬよう、二人は計画を練ります。そして、年が明けると、すみやかに行動に移りました。

続きます。

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