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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

187 名前:左平(仮名) :2007/01/20(土) 22:28
ここのところ仕事の方がバタついてまして書き込みが遅くなりました。…それはともかく。
今回のタイトルは「赤壁」。言うまでもなく、あの戦いが描かれるわけです。

曹操と周瑜の艦隊が接触。いきなりの水上戦から始まります。蒼天では曹操が食中毒でダウンしてました
が、こちらでは健在につき、しっかりと采配を振るってます。
水上では孫呉有利とはいえ、決して一方的ではない、水戦らしい戦いが繰り広げられており、何とも絵に
なる場面でした。
本来の構想であれば、長江を埋めんばかりの大軍で殲滅するところでしたが、疫病により相当数の軍船を
焼いた(それでも数では孫呉を圧倒しているのですが)ため、なかなかに苦戦。下流から攻めてきている
というのに、巧みな操船技術で曹操軍を翻弄する周瑜の力量は確かです。
危うい場面もありましたが、確かな状況判断に基づき死地を回避した曹操。戦いは、水上から陸上に移り
ます。

水上では有利にことを進めた周瑜ですが、陸に上がられてはなかなか手が出せません。攻めあぐねた周瑜
は、やむを得ず、劉備を使うこととします。
といっても、先に劉備の助力を断っているわけですから、いかに感情を面に出さない劉備とはいっても不
快感はあります。さて、どうするか。
…劉備は動きました。諸葛亮の、高度な政治的判断に基づいて。実は、周瑜もまた、劉備が曹操と本気で
戦うなどとは思っていなかったのです(これにより曹操に動きを見せれば隙も生まれるだろう、という判
断。長期戦になれば孫呉不利は明らかでしたからね)。
さて、次の手は…。

ここで黄蓋登場。ビジュアル面の記述は全くないのですが、蒼天のもので想像してもいいような忠魂ある
武人です。風向きのことも書かれてましたが、本作でも、火計の主眼は、偽りの投降をした黄蓋が曹操軍
の奥深くに侵入することでした。
 とはいえ、この策のポイントとして、「曹操は猜疑心が『薄い』」という点が挙げられているのが、他
 の三国志とは違うところ。確かに、本作での曹操は、篤実さとか堅実さというところが強調されてます
 からね。
そして、ついに決行。火計が成功し、水上の軍船はもとより陸上の陣営までも焼き尽くすそのさまは壮絶
の一言ですが、ページの下の方だったからか、ビジュアル面の派手さの割に、以外に地味な印象を受けた
のは私だけでしょうか。
ただし、曹操は、これもまた直前に回避。周瑜は、戦勝に酔う間もなく次の戦いに臨みます。曹操を討た
ないことには、真の勝利とはいえないからです。

188 名前:左平(仮名):2007/02/18(日) 23:44
あー…精神面では幾分落ち着いたのですが、年度末近くでまだバタついてる…個人的な事情はともかく。

今回のタイトルは「江陵」。赤壁後の、荊州をめぐる曹操vs孫権の戦いがいよいよ本格化してきました。

黄蓋の捨て身の策により、陣営を焼失した曹操は、急ぎ華容道をひた走ります。とはいえ、かつての徐栄
との戦いの時もそうでしたが、あまりの負けっぷりに、さすがの曹操も茫然自失とする場面も。
ここで、虎豹騎を率いる曹純の冷静さが光ります。前途が悪路であること・劉備が追跡していることを把
握するや、的確な指示を下し、みごと曹操の退却を成功せしめたのです。
ここで曹操が討死すれば天下の趨勢はまた混沌とするところでしたから、その働きは極めて大きいものが
ありました。

いったん北帰する曹操は、要衝・江陵の守備を、曹仁に託します。彼で駄目なら諦める。曹操をしてそう
言わしめた曹仁、既にしてかなりの将器となっています(反董卓の挙兵の頃は単なる暴れ者だったのが、
見事な成長を遂げている、というように絶賛されてます)。
その彼を補佐するのが、賢臣・陳矯と、猛将・牛金(!)。

曹操を討ち漏らした周瑜は劉備の不実に怒りますが、いつまでも怒る余裕はありません。直ちに次の作戦
に移ります。
ここでは、甘寧、呂蒙らの活躍が光ります(一方で、甘寧と淩統の微妙な関係にも言及あり)。徐々に江
陵包囲網を整えた周瑜は、ついに、江陵の攻略に臨みます。

要衝ながら江陵の兵力は以外に少なく、いかに篭城戦とはいえ、曹仁は劣勢に立たされます。この時、陳
矯はかつての陳登を思い出すのですが、陳登と曹仁とは、その将器の質にやや違いがあります(ともに名
将なのは確かですけどね)。
少数精鋭を以って敵の気勢を削ぐべく、牛金に出撃を命ずる曹仁。臆することなく受諾する牛金。相当の
胆の持ち主である牛金ですが、多勢に無勢。包囲され、このままでは…その時!

189 名前:左平(仮名):2007/04/15(日) 22:52
(2007年03月分)
個人的な話をしますと、このほど、異動になりました。とはいっても、広島通勤が続くのですが。

今回のタイトルは「合肥」。もちろん、劉馥・劉靖父子のことも書かれてます。
まずは、前回からの続き。部下の危機をみた曹仁、何と!ただ一騎で出撃しようとします。陳矯の困惑、
いかばかりか。
何とか数騎をつけたとはいえ、敵勢と比べると余りに小数。しかも、ただの示威行為などではなく、本
気で戦うというのですから、無茶にもほどがあるというもの。
陳矯、あまりの衝撃に、聴覚が失われたかの如き状態に陥りますが…
しかし…突如沸き起こる歓声。続いて、意気揚々と帰還する曹仁達。曹仁は、見事、包囲された牛金達
の救出に成功したのでした。
いかに敵勢が怯んだとはいえ、あれだけの重厚な包囲を突き破るとは、大変なもの。(実は、今回の曹
仁については、ビジュアル的には蒼天バージョンで想像したのですが…)後年の合肥の張遼に優るとも
劣らぬこの場面が蒼天で描かれなかったのが惜しまれますね。

周瑜が江陵で曹仁と戦う中、孫権は合肥を、張昭は当塗を攻めます。しかし、合肥の守りは万端。劉馥
の遺産が実によく機能したのです。
類稀なる行政手腕を持ちつつも、己の徳量を過信せず、しかと合肥の基盤作りを成し遂げていた劉馥。
そして、その父の薫陶を受けていた劉靖(三国志の時代からは少し外れるからか、孫の劉熙までは言及
されてませんけど、三代にわたる活躍ですからね)。
結局、周瑜は江陵を落とすのに一年かかり、孫権・張昭は成果なし。赤壁での鮮やかな勝利があったと
はいえ、思うような結果は得られませんでした。

一方、劉備達も、地味に動き始めます。しっかりとした領土を確保しないことには、結局孫権あたりに
吸収されかねないですからね。
劉Nとともに曹操に降ったと思しき荊州南部の太守達を口説き落とす、ってな口実をつけて、周瑜から
離れることとします。
他の事に手が回らない周瑜、これを了承したのですが…孫呉にとっては、後々悩みの種になるんですよ
ね。孫権がもう少し攻めに長けていたら…というifもありなんでしょうか。

ラスト付近は、武陵の金旋攻めです。じっくりと内通を待ち、約一月の後、趙雲。糜芳という珍しい?
コンビで攻略に挑みます。
ただ兄に従ってきたというだけで、劉備も、関羽・張飛も、さらには諸葛亮をも嫌うという糜芳。そん
なに嫌ならついて来るなよと言わずにはいられない彼も、趙雲は真の将器と認めています。
さて、武陵攻め。いかなる描かれ方をするのか。

190 名前:左平(仮名):2007/04/16(月) 23:06
(2007年04月)
今回のタイトルは「巡靖(立+ヨ)」。諸葛亮の導きもあり、捨てることで名声を得てきた劉備が徐々
に変貌するさまが描かれます。このタイトル、二勢力にとっての、という含みがあるみたいです。

今回の話は、武陵攻めの続きから始まります。趙雲自ら城壁をよじ登り、ついに城内に到達。それと同
時並行で関羽・張飛が突入。かくして、武陵は陥落。太守の金旋は倒されます。
趙雲が徒歩で戦う姿はなかなか見られないだけに、面白い場面です。糜芳をして「趙雲はかすり傷一つ
負わないのではないか」と言わしめるあたり、宮城谷氏も趙雲のイメージを崩すことはなさそうです。
突入時にも「常山の子龍である。かかってくるか」と、台詞に!がつかないあたり、冷静沈着な武人と
して描かれています。
その後の場面においても、趙雲の識見の確かさをうかがわせます(一方、糜芳は、自らの力量の乏しさ
が分かるがゆえに苛立っているように見うけられます)。
さて、戦後処理。関羽が太守代行となったことに不満を示す糜芳を趙雲はたしなめ、一方で、内応者を
探します。その内応者は、城内突入時には死んでいた兵士達かと思われましたが…その首謀者と思しき
人物とは、実は廖立でした。劉備と諸葛亮が武陵を攻めるのに時間をかけたのには、このような側面も
あったというわけです(単なる力攻めでは人心は掴めないし、戦闘の結果、味方になりうる人材を喪う
惧れがあった)。劉備のもとにも、徐々に人材は集まってきつつあります。

そして、続いては長沙。親曹操ながら、その支援が期待できないことは分かっている太守・韓玄は、劉
備からの使者(何と!簡雍がここで登場です!)と対面します。
簡雍は、不思議な使者でした。降れと脅すわけでもなく、利をちらつかせるでもなく。何しに来たのだ
と思いつつも、そんな簡雍の主である劉備の力を認め、抗戦することを諦めた韓玄。「演義」とは全く
異なる結末となりました。その後、韓玄がどうなったかは全く言及されていませんが、以前の黄祖と同
様、なかなかの人物という印象が残ります。
このような結末となったため、ある重要人物の登場場面がありませんでした。約十年後にはかなり重要
な存在となる彼をここで出さないとなると…どういう形で登場させるのでしょうか。もっとも、案外、
次回あたり名前だけポッと出すのかも知れませんが。

続いて、桂陽・霊陵も降し、劉備は確かな足がかりを築きました。真の意味で劉備が一勢力としての道
を歩み始めたのです。
さて、孫権との戦いに気を取られていた曹操も、この頃になると荊州南部の情勢が気にかかる様になっ
てきました。とはいえ、江陵にも十分な兵を与えていないことからも分かるように、余裕はなし。そこ
で曹操が選んだ人材とは…劉巴!
かつて孫堅の遺骸を引き取り、後には張羨を動かして劉表と戦った桓階をして自分以上の人物と言わし
めたあたり、大物感があります。

名士・劉巴が荊州南部の説得に動いていることを知った諸葛亮は、彼の捕捉を考えます。使者として各
地を巡っている以上、大人数ではないはず。とはいえ、扱い方を誤ると…というところがあるだけに、
どのようにして捕らえ、迎え入れるのか。

191 名前:左平(仮名) :2007/05/21(月) 22:50
三国志(2007年05月)

今回のタイトルは「四郡」。名実ともに拠って立つ領土を確保した劉備は、そろそろ、これまでとは違う
自分を探し当てる時期にさしかかっています。

しかし「零陵」を打ち間違えるとは…。ここのところ、本作以外ではやや三国志から離れているとはいえ、
情けない限りです。

まずは、前回の続きから。
荊州南部で反劉備の狼煙をあげるべく動いていた劉巴。危ういところで捕捉の手が伸びていることを知り、
間一髪で諸葛亮の追跡をかわしますが、零陵郡から追われる格好になりました。当然、これでは使命は果
たせません。
半ば失望した劉巴が辿り着いたのは、交州。現在のヴェトナム北部ですから、漢の人々からすると、殆ど
化外の地です。
当然、ここで交州の主・士燮の名が出てきます。とはいえ、劉巴の言葉に耳を傾けないことから、ここで
は小物扱いです(確か、王莽の頃からの半独立勢力…と聞いた覚えが。当時、中央にあっても一級の知識
人でもあったのですから、もう少し良く書いても…とも思いますが、やり場のない鬱憤のあったであろう
劉巴にはそう見えたということでしょうか)。
結局、ここから益州に入った劉巴は、この地に落ち着き、後には…ということになります。人生の皮肉を
感じるところではありますが、この時代、このような人々は多かったのでしょうね。

さて、こちらはしばし措くとして…。今回のメインは、四郡を得た劉備の、今後に向けての動きについて
です。
先の徐州は借り物。しかも袁術やら呂布やらといった敵対勢力に苦しんでおりましたから、半ばどさくさ
紛れに、とはいえ、この四郡は、初めて自力で勝ち得た領土です。
これをいかに保つか。これまで捨てることによって生き延びてきた劉備にとっては、何もかもが初めての
経験です。
幸いなことに、かつての蕭何の如く内政に長じた諸葛亮に加え、関羽にも行政手腕がありました。あとは、
曹操の動きを睨みつつ、孫権と良好な外交関係を築くこと(もっとも諸葛亮は、孫権に気を許すべきでは
ないことを認識しています。孫権にあまりに近付くと四郡の領有権が曖昧になってしまう惧れがあるため
です。事実そうなってしまうわけですが、とはいえ、なかなかこのあたりの機微は難しいところです)。

劉備と孫権の妹との婚儀。こうなると、劉備自身が行かないわけにはいきません。劉備を見送るにあたり、
諸葛亮は、「若君(後の劉禅)とともにお待ちしております」と言いますが、それは一方では、劉備に万
一のことがあった場合には、幼君を立ててでもその勢力を守り支えるという覚悟の表明。単なる儒教的な
忠とはいささか形は異なりますが、後の「出師表」に繋がるところがある…?

192 名前:左平(仮名):2007/06/17(日) 09:57
三国志(2007年06月)

今回のタイトルは「養虎」。ここにきて、益州が注目の対象になってきました(今回、曹操は出番なし)。

劉備が呉に来訪。強運の英雄(好意を持たない者からみれば悪運の強い梟雄)・劉備の扱いを巡り、呉の
内部は喧々諤々の論争が起こります。
 抑留すべしと主張→呂範、周瑜
 活用すべしと主張→魯粛
ともに、劉備がひとかどの器量の持ち主とみているからこその真摯な主張なわけですが…ここでの孫権は、
後者を採ることとしました。兄の後を継いで以来、ここまでこれといった挫折もなくきているだけに、鷹
揚なところを見せたかった…というところもあるのかも知れません。

しかし、この邂逅、(少なくとも劉備にとっては)益あるものではありませんでした。
劉備は、孫権に対し、抜きがたい不快感を抱いたのです。曹操とは異なり、欺瞞が感じられる、と。後年
のことを考えればあり得ないではないのですが、ちょっといきなりのような気も。
孫権の妹が劉備との結婚を心底嫌がっている(確かに、いくら美人でもこれでは冷めますわな…)という
のも、その不快感をさらに強めることに。
結局、用事が済んだら、逃げるように帰っていきました。
劉備が陳登と許レとを評したエピソードからみると、表には出さないけど、結構激しい気性の持ち主でも
あるわけですし、人物鑑識眼もなかなかのもの。その劉備がかくも孫権を嫌ったという時点で、この同盟
なるものは危ういものだった…。

主君が劉備を帰したことを知った周瑜は、自らの大計を急ぎ実行するべく、行動を起こします(曹操・劉
備が大規模な軍事行動を起こせない今のうちに…ということ)。
孫権の承認も得て、意気揚々と帰途についた周瑜でしたが…突如として世を去ります。曹仁との戦いで重
傷を負ったとの記述はありましたが、何とも急な死でした。
歴史を大きく動かした赤壁の勝利。そのために世に現れた、一つの奇跡。孫権の言葉も含め、最大級の賛
辞が並びます。
志半ばにしての夭折。一方で、千載の後までも語られる偉業。無念さと充足感が交錯します。

ともあれ、大器・周瑜の死により、その大計―益州を併呑し馬超と結んで曹操を多方面から撃破―は挫折
します。
しかし、諦めきれない孫権は、益州を攻めるべく孫瑜を動かします。この際、劉備には何らの事前連絡を
していないあたりが、まだまだ甘いところです。
孫瑜を通さず、一戦交えることさえ辞さない劉備。はて、どのように収拾するのか。

193 名前:左平(仮名):2007/07/17(火) 22:26
三国志(2007年07月)
今回のタイトルは「龐統」。孔明とはかなりタイプの異なる偉材の登場です(ちなみに、容貌への言及は
なし)。

益州を獲るべく孫瑜を西に遣わした孫権。これに対し、劉備は関羽・張飛を遣わしたことで、あわや全面
対決の様相を呈します。
が、しかし…。劉備の書状(低姿勢に終始)を受けた孫権は、ここで兵を引くよう命じます。訝しく思う
孫瑜ですが、良将たる孫瑜は、主命に背くことなく引き返します。
かくして、劉備はやすやすと江陵を確保。益州への道は、劉備がおさえることとなりました。孫権も後で
地団駄を踏んだのでしょうが…ここは劉備の勝ちでしょう。
我欲を剥き出しにしたといえる劉備の姿に、魯粛も軽く失望します。しかし成長した呂蒙の言葉をうけ、
思い直します。
人は、変わり得るもの。親・劉備派とみられる魯粛も、そう単純な存在ではありません。

ちなみに、呂蒙と魯粛の話の中で、関羽の人となりが語られています。春秋左氏伝を愛読した関羽は、儒
教的な正義観とはいささか異なるものを持っているようです。その思いは強烈で、漢朝にも、(漢帝を奉
ずる)曹操にも屈しません。いや、王朝的なシステムの構築を図りつつある劉備にさえも、どこか一線を
引いているのでは…とも。
高島氏でしたか、三国志における関羽の存在は巨大であると語っておられましたが、宮城谷氏もその図式
を描いておられるようです。

ここで、龐統が登場します。自己顕示欲が強く、毒舌家でもある彼は、呉の偉材(雇邵、陸積、全N)に
対してもかなりな物言いをしますが、それがかえって好かれるという得なキャラです。
とはいえ、はじめ、劉備は彼のことを気に入らなかったわけですから、人の見方というのは複雑ですね。
潘濬(清廉のみならず情義も併せ持つ、劉備好みの名臣。とはいえ、陳登もそうですが、そんな彼らが劉
備のもとを離れなければならないというのもまた世の習いか)のことも語りつつ、今回はここまで。
次回は、久しぶりに曹操のことが語られるようです。

194 名前:左平(仮名):2007/08/13(月) 23:54
三国志(2007年08月)
今回のタイトルは「潼関」。久しぶりに曹操メインの話です。

建安十五(210)年。「求才令」を出し、銅雀殿を建てたとはいえ、孫権・劉備の動向が掴みきれない
だけに、曹操に目立った動きはありません。
内実は決して連携していない孫権・劉備ですが、二勢力がそれぞれに曹操に牙を剥く「常山の蛇」の状態
とみると、動けないのも無理はないところでしょう。
それにしても…。二年前はただ逃げ回るだけだった劉備がこれほどの存在になろうとは。曹操の目には、
いまだ諸葛亮の姿は見えません。それだけに、劉備軍団の変容の原因が未だに分からない状態です。

南方は、しばらく手を付けられない。と、なると…。そう、西方です。かの地自体が治まっていないのに
加え、益州(この時点では劉璋がいるとはいえ、孫権か劉備に侵食されることは明白)から手を回されて
は一大事。賊・商曜の蜂起の知らせを受け、直ちに護軍・夏侯淵に出陣を命じます。
速攻に長けた夏侯淵ですが、ここで求められるのは、来るべき曹操の出陣に備え将兵の損耗を抑えること。
いや、そればかりではありません。

軍議において、諸将は(大将の気性に合わせて)速戦を唱えますが、ひとり朱霊が異論を唱えます。ひと
たびは朱霊の進言を退けるかと思われた夏侯淵ですが…かつての雷緒征伐のことを思い起こし、その意見
を採用します。結局、それが大正解でした。
 ※征伐された雷緒がどうなったか、を考えると答えが出てきます。
 ※朱霊が曹操に嫌われていたことも触れられています。ただ、最初の頃はそれほどの将器でもなかった
  (晩成した)ように書かれています。何かそういう資料があるのか、曹操が嫌った理由付けをされた
  のか。

そして、ついに馬超達が出てきます。それなりに野心はある馬超達。しかし、なにゆえこの時点で動くの
か。何やら、中央にもきな臭い動きがある…?
しかし、ここでの馬超は実に冷静沈着です。潼関に入った曹仁の将器のほどが知られているということも
あるにしろ、親子ほども年の差がある韓遂と比べてもその落ち着きぶりはなかなかのもの。

ラスト付近、ちらりと曹植の名が。次回あたり、詩の一つも出てくるのでしょうか。

195 名前:左平(仮名) :2007/09/22(土) 23:24
三国志(2007年09月)

今回のタイトルは「雨矢」。対馬超戦の序盤・渡河作戦の顛末などが描かれます。

前回から既に対馬超戦に入ってはいるのですが、曹操自身が臨むのは今回から。まずは、その深謀遠慮が
語られます。
内に外にとにかく忙しい曹操にとって、頼りになるのは名臣のみにあらず。賢婦人・卞氏のことを忘れて
はならないでしょう。(途中までですが)こたびの遠征に連れて行ったのもそのため。彼女は、夫の期待
にみごとに応えます。
それだけではありません。愛子・曹植も同行します。彼が類稀なる文才の持ち主であるということは既に
分かっているだけに、夢想に陥らないよう、現実の戦場を見せておく必要があると判断したからです。

ただ、曹丕はこのことに不快感を示します。またしても留守を任されたことで己が武名をあげる機会を逸
したためです。
それ自体は、曹操から信頼されていることの証といえるのですが…ここではまだ語られないとはいえ、後
のことを思うと、少しばかり影が差しているような。
また、曹丕の正室・甄氏は、義母を気遣う孝婦なのですが、義母には少し劣る(ごく簡単にいうと、大家
族の中で育ったため寂しがり【義母を気遣うのもその故】なところがあり、胆力が弱い)ようです。
本作においては、養祖父・曹騰から書かれていますから、曹操が三代目。『重耳』や『風は山河より』と
比較すると…曹操以降は、さて?
 蛇足ながら、村上氏の挿絵、普段はやや三枚目的な感じのものが多いのですが、今回はまっとうな美女
 (おそらく甄氏)でした。こうしてみると、甄氏の描かれ方って作風が出るようですね。

鍾繇の治績を確認し、潼関に着陣した曹操。もちろん、既に作戦は考えています。徐晃・朱霊もその意図
をしっかりと読み取り、適切な動きを見せます。
ここで馬超側の意見は分かれます。渡河させまいとする馬超と渡河途中を叩くべしとする韓遂。ここでは
馬超の方が正しかったわけですが…韓遂の考えにも一理あるだけに難しいところです。

かくして、渡河作戦が開始されます。それを察知した馬超は手勢を率いて急行。西方の精鋭達がどっと襲
い掛かってきます。
曹操側も精鋭揃いですし、名将・張郃もいるだけにたやすくは崩れませんが、攻撃は激しさを増す一方。
タイトル通り、曹操に向かって雨の如く矢が降り注ぎます。
ついに、曹操の身を気遣った張郃・許褚によって、曹操は後方に引きます(というか、後方に連れて行か
れます)。

ただ、馬超にも抜かりはありました。韓遂達との連携がいまひとつとれていないのです。戦いを仕掛ける
のは馬超側ですが、気がつくとじりじりと押されている状態。和議を持ちかけるなど、焦りの色が見られ
ます。
と、なると…。ここで賈詡の登場。次回は…

196 名前:左平(仮名):2007/10/29(月) 21:23
三国志(2007年10月)

今回のタイトルは「馬超」。対馬超戦の決着がつきます。

兵糧の問題もあり、このまま戦い続けていても埒があかない。とはいえ、利無くして退くこともできない…。
ジレンマに陥った馬超は、ここで韓遂を使うことにしました。韓遂が曹操と面識があることから、曹操との
面会の場を設けることを求めたのです。
2対2。こちらは馬超と韓遂。向こうは曹操と誰か…。さすがに軍閥の長であるだけに、それ相応の思慮も
ある馬超ですが、ここは己が武勇で何とかけりをつけようとしたのです。
しかし、馬超と韓遂の間には、互いを軽んずる、いや〜な雰囲気が。これでは…。

そして、面会の場。向こうは一騎。よし、いける…そう思った馬超ですが、曹操撃殺は成りませんでした。
何故なら、曹操の傍には、徒歩ながら剛勇無双の許褚がついていたからです。韓遂との連携が成らぬ以上、
許褚に気を配りつつ曹操を襲うことは不可能でした。
そんな馬超などいないかの如く、曹操と韓遂の話は弾みました。才略にも機知にも富んだ両者のことです。
もしかしたら…両者は、敵ではなく盟友として、あるいは上官と部下として…と思わされる場面です。

しかし、一点、大きな違いがありました。韓遂にとっては、中原の天は狭いのです。「銅雀台に登れば天
は低くなる。あの男でもそれが分からぬか」…何とも意味深なところです。

結局、この面会を経て、馬超の、韓遂への不信感はさらに高まりました。何も得られなかったのです。続
いて、関中諸軍閥との面会にて、決戦の時が決まりました。

そして、いざ決戦。しかし、韓遂と、その目付的な軍勢は動き(動け)ません。そのため、いかに猛攻と
はいっても、曹操麾下の歴戦の勇者達の軍勢を突破することはできません。
そして…ついに、曹操の軍勢の両翼が、馬超の軍勢の分断にかかります。思うところあって、馬超とは歩
調を合わせなかった楊秋の軍勢が、結果としてこれを食い止め、馬超を助ける形になりました。この楊秋、
後に、説得を受けて帰順します。

一方、その頃、鄴で変事発生の報せが。直ちに出陣しようとする曹丕を(民生に優れた)国淵が諌めます
が、聞く耳を持ちません。ここで、常林が登場します。さて、どう説こうというのか。

197 名前:左平(仮名):2007/11/24(土) 22:02
三国志(2007年11月)

今回のタイトルは「法正」。劉備が益州に入ります。

最初は、前回の続き(曹丕が出陣しようというのを常林が諌めるところ)から。河北の情勢に明るい常林
が理をもって諄々と説き、曹丕の出陣を止めました。
もちろん、鎮定する必要はありますので、「曹丕が派遣した」という形をとり、賈信(袁氏討滅のあたり
で出てきたようです)が出陣します。
さして目立つ存在ではないとはいえ、賈信もひとかどの将軍。すみやかに賊に打撃を与えました(首謀者
は捕まらなかったのでこの時点ではまだ完全に鎮定したわけではありません)。
さて、捕らえた者どもをどうすべきか。

「旧法では〜」「孫子曰く〜」 多くの属僚達がそう言う中、一人沈黙を守る長身痩躯の老人の姿があり
ました。程Gです。
旧法を墨守するだけでは組織は柔軟性を失い硬直していく。戦乱の世を生き延びてきただけに、その弊害
はよく見えます。それに…あの丞相が、何の備えもしていないことがあるでしょうか。

その通りでした。前回、曹操は曹仁を馬超追撃から外し、潼関に残していたのですが…それがここで生き
たのです。直ちにとって返した曹仁は、たちまちにして河北の賊を討滅します。
帰還した曹操は、よく留守をつとめた曹丕をねぎらいました。それこそ、程Gの功績でした。


そんな頃、益州ではある動きがありました。ここで、法正の登場です。
中原の混乱を避け、益州に入った法正ですが、この地の主・劉璋の目には留まらなかったか、低い地位の
まま。不満はあったでしょうが、一人ではどうしようもなく、無為に日々は過ぎていきます。
そんな法正に目をつけ、劉備への使者とさせたのは――張松でした。
本作での張松は、風采も才知も、演義のように強調されることはありません。ただ、益州に生まれ育った
者として、その地と民を愛し守ろうとする男として描かれます。
 「もし、劉備がわたし(法正)の地位を知って軽んじたら〜」
 「その時は、あなたが劉備を蔑めばよい。このままでは、益州は曹操のものになる。わたし(張松)は
  それをみるのは忍びない」
その姿に、法正も心動かされるものがありました。張松自身はなかなかの地位にあり、その待遇自体には
不満はありません。しかし…。

法正の来訪が何を意味するかは、劉備側も十分承知していたようで、法正は手厚いもてなしを受けました
(もちろん、益州における地位など関係ありません)。古の晋文公の如き振る舞いに、法正もおのずと心
動かされていきます。

かくして、劉備は益州に入りました。当然、龐統、張松、法正は、すみやかに劉璋の抑留又は暗殺を薦め
ますが…劉備はここでも迂路を選びます。さて、この判断はどうであったのか。

ところで、最後に気になることが。張松は法正達と再び会うことは〜というように書かれたあと、「劉禅
はあわや劉備に会えなくなるところであった」と書かれているのです。ひょっとして、次回は…。

198 名前:左平(仮名):2008/01/04(金) 23:22
三国志(2007年12月)

今回のタイトルは「劉璋」。とはいえ、序盤に描かれているのは、孫夫人による劉禅拉致事件の顛末です。

最初から政略結婚とは承知していたものの、互いに全く心を許さない、冷え切った夫婦。一応、孫夫人の
方は美貌の持ち主とはなっているのですが…これではどうにもなりません。
この夫婦の仲については多くの作品でいろいろな描かれ方がなされていますが、本作では、互いにとって
不幸以外の何物でもないという感じです。

そんな彼女が、劉備にした最大の嫌がらせ。それが、嗣子・劉禅をさらうことでした。それ以前にもあれ
これと嫌がらせ(放恣な振る舞いなど)をしているのですが、劉備達はそれには反応しません。反応して
夫婦関係に何らかの進展があればツンデレということにもなったのでしょうが…。
ただ、彼女の監視役として趙雲を残したことで、益州攻略作戦に負の影響を与えたというのですから、孫
呉にとっては意味のある婚姻ではあったわけです。

そして、孫夫人が荊州を去ります。あの冷静沈着な趙雲が取り乱す(恐らく、本作で趙雲が取り乱すのは
この一回のみ)という中、諸葛亮は落ち着いています。
なぜなら、劉備は全てを―家族を含めて―ためらいなく捨てられる人物なので、このくらいのことでは堪
えないことを知っているから。三顧の礼から四、五年に過ぎないのですが、諸葛亮は劉備のことをよく理
解しています。
では、なぜ趙雲は取り乱しているか、ですが、それはちょっと違う意味があるようです。

(途中から張飛も加わりますが)趙雲の必死の捜索にも関わらず、劉禅はなかなか見つかりません。もう
だめかと思われたその時!

…ともあれ、何とか劉禅を取り戻すことができました。二度までも自分を救ってくれた趙雲の姿が、幼い
劉禅に強く焼き付けられたことは言うまでもありません。


さて、ところは変わって、益州。張松や法正の勧めにも関わらず、劉備はなかなか動きません。そうこう
しているうちに、曹操の方に動きがあった…ということで、荊州への引き揚げを示唆。
このことがきっかけとなり、張松たちの策謀が露見。張松は処刑されます。
この件については、単に劉備の優柔不断が招いた失策…と思っていたのですが、そうではないのでは、と
いう視点が。張松は、晋文公における里克の如き存在であったのではないか、というのです。
このような存在は、本人の忠心そのものは真であっても、(重んじれば主を裏切った者を厚遇するのかと
みられ、冷遇すると功労者を正しく遇することもできないのかとみられるので)何かと扱いにくいもので
あるのも事実。さすがに張松もそこまで思って…ということはないでしょうし劉備もこの故事を咀嚼した
上でかくの如き行動をした…とは思えませんが、そのような視点を提示されると、策略というものの非情
さを思い知らされるような思いがします。自分には到底できそうにない、と。

そして、ついに益州攻略作戦を実行に移す劉備。龐統からは上中下の策を提示されますが、ここは中の策
をとります。あまりに良い策を用いると、後々、その策にとらわれることに―赤壁で大勝をおさめながら
江陵で苦戦した周瑜の如く―なることを恐れたからです。
さて、次回は…?

199 名前:ぐっこ@管理人 ★:2008/01/16(水) 00:34:07 ID:Vd96Tbmi
記念ageヽ(´∀`)ノ!

左平(仮名)様ありがとうございます(´;ω;`)ブワッ

200 名前:左平(仮名):2008/01/18(金) 22:56:48 ID:PN7pBVAM
三国志(2008年01月)

今回のタイトルは「成都」。今回、成都にはまだ届いていないんですが…?

益州攻略戦は、まずは順調なスタートを切りました。劉備自身も、珍しく(?)羽目を外して龐統に諌め
られるという場面もあります。
しかし、その軍勢はさほど多いわけではないし、また関羽・張飛・趙雲・諸葛亮といった面々は随従して
いません。劉璋が劉備の後方を遮断すれば、袋の鼠になる危険性も大いにあったのです。

先手を打たれた劉璋ですが、まだ戦いは始まったばかり。ここで劉璋は、荊州の人ながら、文武にわたる
優れた実務能力を持ち、今や益州の重臣といえる存在になっていた李厳を派遣します。副将は、劉璋の婿
でもある費観(両者の年齢差は二十歳近く、とあります。費観は三十七で没したとのことですから、この
時点で李厳は四十は過ぎている、のでしょうか)。
人物を見る目が厳しく、また、自らに劣る者を友としないため、親友と言える存在の少ない李厳からみて
も、費観は優れた人物でした。劉璋からの待遇は良いし、副将も文句なし。ならば、あとは全力で敵たる
劉備にあたるだけ…となるところですが、李厳の心中は、そうではありませんでした。そこが読めなかっ
たのが劉璋の限界とは言えるのですが、なかなか難しいところです。

李厳の才を見出したこと一つとってみても、劉璋は決して暗愚な人物ではありません。しかし…。かつて
劉表のもとにあった李厳は、劉表に失望し、劉備に期待していました。その思いが、ここで頭をもたげて
きたのです。
(婿であるからには、費観は劉璋を裏切ることはあるまい。と、なると…惜しい人物ではあるが…)
李厳はそう思いつつ、ついに、一つの決断を下します。そう、劉備への寝返りです。
しかし、ここで思いがけない事態が発生します。何と、費観も劉備に寝返るというのです。
もちろん、互いに示し合わせたわけではありませんから偶然の一致ということになるのですが…しかし、
劉備を討伐すべくさし向けられた軍勢の大将と副将が揃って寝返るというのはまた、何とも珍妙な事態。
当然ながら、劉璋側は混乱。劉備達は、さらに進攻します。

長くなったので、ここで分けます。

201 名前:左平(仮名):2008/01/18(金) 22:57:55 ID:PN7pBVAM
続き。

綿竹を落とし、次は雒。守るは、劉璋の子・劉循。賢愚定かならざる人物ですが、彼の守る雒は容易には
落ちませんでした。それまでの進撃が順調だっただけに、ここでの停滞は想定外。龐統は焦り、それが、
彼の命取りになりました。

龐統の死の直接の誘因は、劉備が諸葛亮を呼ぼうとした(そして、その真意が読めなかった)こと。これ
からも分かるるように、本作における劉備は、ほんと、掴みどころのない人物です。
現時点で、それを最も良く知る人物は諸葛亮。前回の落ち着き払った姿といい、何かこう、独特な雰囲気
をまとっています。
三国志の物語において、しばしば主人公(格)として挙げられるのもうなづけるところです。

さて、ここで馬超の名が。曹操との決戦に敗れた後、なおも反攻を試みるも失敗に終わると、漢中の張魯
を頼ったのですが、ここにも長くはおられず、氐族の中に入り込んで命脈を保つという状態でした。
とはいえ、その武名はなおも健在。ここで劉備は、彼を取り込もうとします。一体、どうやって…?


それはそうと、今回の費観といい、龐統といい、その早逝が惜しまれるところです。病死であろう費観は
まだしも、龐統の討死は、後々のことを考えると、やはり痛かったと言えるでしょう(補給に遅滞を生じ
させなかったということからもその能力がうかがえます)。
いかに、劉備は全てを―家族をも含めて―捨てられるとはいっても、守るべきものを持ったこの頃に至っ
てなお才を失っているのでは、飽くことなく才を求め獲得し続ける曹操との差はなかなか縮まりません。
蜀漢と魏の国力差は、こんなところにも表れている、のでしょうか。

202 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:53:54 ID:LaQXGTav
三国志(2008年02月)

今回のタイトルは「天府」。劉備が、ついに益州を確保しました。

成都を包囲すべく、劉備勢の諸将が続々と集結してきます。中でも、最も活躍したのは張飛。何といって
も、厳顔を賓客として迎えたという事実が彼の成長を物語っています。
 遥か後の文天祥の「正気の歌」に「厳将軍の頭」って出てますから、結構有名な話になってますね。
 こういういい話もあって、まっとうに活躍もしているわけですから、普通に優秀な武将として描か
 れてもいいのに、「平話」や「演義」ではぶっとんだキャラになってるわけですから、面白いもの
 です(やっぱり最期があれだからなのか…)。
趙雲も、てがたい戦いぶりをみせました。もっとも、作戦上、やや遠回りしてますから、彼の到着は最後
だったみたいです。そして、ここから加わってきた馬超。
錚々たるメンツが揃ったわけですから力攻めもできるのですが…ここで劉備は、簡雍を使者に立てます。

先に、韓玄の説得の使者に立てられた時もそうでしたが、「何しに来たんだ?」と言いたくなるくらいに
のんびりとしております。
降伏を促す為の使者が、「まー玄徳とは同郷だから〜なーんも命令されてねぇよ」「このまま守ってた方
がいいんでねーの?」なんてなこと言いますか、普通。
とはいえ、そんな簡雍をもつき従えている劉備と己の器の違いを鑑みると…というわけか、ついに、劉璋
は降りました。
前回までの激戦は何だったのか。そんなことも思わされます。

さて、ここで話は急に変わりまして…

長くなったので、ここで分けます。

203 名前:左平(仮名):2008/02/09(土) 22:54:30 ID:LaQXGTav
続き。
いきなり荀ケの死が語られます。しかも、拍子抜けするくらい、あっさりと。曹操が公に就任するのに反
対していた、曹操から贈られた箱の中身が空だった、この二点の事実以外をあれこれと語るのは贅言では
ないか、そんな感じの書かれ方です。
董昭を切れ者と書き、曹操の公就任の理由に合理性を認める(朝廷が、皇帝のおわす許昌と曹操がいる鄴
に分かれていては権力が二元化してしまうので鄴に実権をシフトさせて…ってな感じの理由づけ。なので
公位就任については、生臭さはあまり感じません)あたり、なかなか興味深いです。
どうも、後漢という王朝にはあまり思い入れがないようですね。

さらに、今回、伏氏の族滅という事態も発生します。皇后の書状を他人に見せてしまう伏完といい、引き
ずり出される皇后を見殺しにする皇帝といい、何か、人としての器量に疑問符が。
どこか爽快さのある前半に対し、後半は何かすっきりしないものがある、そんな回です。

204 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:21:13 ID:licQjHdd
三国志(2008年03月)

今回のタイトルは「張遼」。この名が出てくるということは、そう、あの戦いですね。

まずは、劉備・孫権の睨み合いから語られます。劉備が益州を獲ったことに対して、孫権は相当な不快感
を抱き、諸葛瑾が遣わされます。
結局、話はまとまらず、ここに荊州を巡る紛争が勃発。益州に兵力の相当部分を割いているだけに、劉備
側の不利は否めません。
長沙・桂陽は早々と降り、零陵もまた、呂蒙の策により陥落します。このまま長期戦となれば孫権の有利
には違いないのですが、果たしてそれが最善なのか(荊州の帰属はかなり曖昧であるし、当然ながら曹操
が気がかり)。
ここで、呂蒙とは別に一軍を率いる魯粛は、単身関羽のもとに赴きました。魯粛の言葉には、劉備・関羽
への思いやりがあることを察した関羽は、反論をやめ、劉備の指図を仰ぎます。
ここらへんのやりとりには、ある種の緊迫感があります。斬るか斬られるかというようなものではなく、
それぞれの、人としての器量が試されているのです。
劉備もまた、一方の主となった以上、今までのようにはいきません。魯粛の意を察しつつ、粘り強く交渉
します。結局、荊州南方の郡の割譲で決着がついたわけですが、このあたりの状態を保っていた方が、劉
備・孫権の双方にとって良かったのでは、と思えてなりません。
決して長々と書かれているわけではありませんが、魯粛の早い死の影響は、後々、かなり響いてますね。

ともかく、この紛争に一区切りついたからか、孫権は、十万という大軍を率いて合肥攻撃に臨みます。赤
壁の時はめいっぱいかき集めても三万がやっとだったことを思うと感慨もひとしおというもの。
対する合肥の兵力は七千。しかも、曹操の司令は、張遼と李典とが出撃せよ(楽進は城に残れ)、という
もの。はて、その意味するものは何か。
魏にとっては伝説の戦い、呉にとっては屈辱の一戦。その戦いの顛末とは…。
長くなったので、ここで分けます。

205 名前:左平(仮名):2008/03/14(金) 23:22:26 ID:licQjHdd
続き。
かくして、張遼・李典とが八百の決死の士を率いて、夜明けとともに出撃しました。
「ゆくぞ」
宮城谷氏の描く勇将達には、無駄なりきみというものがありません(そういえば、文章中に「!」が使わ
れることが全くといっていいほどありませんね)。ここでの張遼も例外ではありません。
余りにも少数だが脱走兵のように無秩序ではない。「敵将の内通か」そう思う者がいてもおかしくはない
ところではありましょう。
しかし、張遼に「通るぞ」と言われて思わず敬礼する呉兵…。想像すると、何ともおかしいものです。

呉の陣内深く入り込んだところで…!いよいよ攻撃開始です。さすがは決死のつわもの達。油断しきって
いた呉軍は大混乱に陥り、孫権自身も、半ば以上冷静さを失っていました(いつの間にか戟を持っていま
すがそれを振り回すわけでもなく)。
なるほど、これほど劇的な戦いも稀でしょう。「寡をもって衆を制す」とはまさにこのこと。十万の大軍
がわずか八百の小部隊に翻弄され、しかも相手はほとんど無傷。彼我の戦意の差はいかんともしがたく。
しかも、撤退時にもまた張遼に翻弄されましたから、孫権にとっては踏んだり蹴ったりです(谷利はきっ
ちりと登場しました)。

最後は、ところ変わって西方の情勢の説明。曹操の圧倒的な力の前に、三十年ばかり続いた小王国は潰え、
梟雄・韓遂もこの世を去ります。
漢中の張魯に、曹操の手が迫るわけですが…。

206 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:26:58 ID:6n1ZaDHe
三国志(2008年04月)

今回のタイトルは「魏国」。今回は、けっこう時間が経過してます。

最初は、韓遂の死から語られます。韓遂の首に向かって曹操が「白髪も少なくなったではないか」とコメント
…ってことは、韓遂は禿頭?
はて、肉体面の描写ってそうはないはずですが…どのようにイメージされたのか興味深いところではあります。

そして、漢中の張魯攻めとなります。
約三十年にわたって独立王国を保っていた張魯。普通であれば、衆を恃んで一戦しそうなところですが、彼は
随分と現実的な思考をする人物で、曹操来るの知らせを聞くと、すみやかに投降するよう指示を出します(勿
論、弟の張衛のように、それを拒む者も中にはいます)。
張衛に同調する人々も結構多く、曹操も苦戦覚悟だったのですが…何とも意外な形で決着がつきました。

さて、張魯のこの決断には、孔子の玉版なるものが少なからぬ影響を与えたとのこと。王莽や光武帝のあたり
でよく出てくる讖緯の思想がこの頃にもなお相当な影響力を持っていたことが伺えます。
しかし…老荘思想を根底におく道教の原型・五斗米道の教主たる張魯が、(偽りとか裏切りを嫌うという教義
からすれば当然とはいえ)本作においては老荘的な感覚で行動する劉備を嫌っている、というのは面白いもの
です。
思わぬハプニングによるものとはいえ、大した損害もなく漢中を制したことに、曹操が上機嫌だったのは言う
までもないでしょう。
ここで、ここまで目立たぬ存在であった司馬懿が登場します。「隴を得て蜀を望」んではどうか、というわけ
です。
しかし、曹操はその進言を容れませんでした。純軍事的に考えれば利も理もある進言ですが、この時の曹操の
中では、欲望の自制、ということがあったようです。
ただ、それは一方で、冒険を嫌うという、老いの兆候であったのかも知れません。
長くなったので、ここで分けます。

207 名前:左平(仮名):2008/04/14(月) 23:27:57 ID:6n1ZaDHe
続き。
今回の後半の主題は、曹操の後継者の選定問題です。先にちらりと書き込みましたように、曹操は、嫡子・曹
丕の力量は認めながらも、彼の言動への感動がないことから、むしろ、何かしらの可能性を感じさせる―とは
いえこの時点ではまだ顕在化していないのでリスクが大きい―曹植を立てた方が良いのではないか、という思
いが芽生えているのです。
なかなかの才覚を持つ(歴史上は敗者であることを考えると一廉の人物であったことは確かな)丁兄弟の進言
もあり、ますます迷いは深まります。結局、当初の予定の通り、曹丕が太子に立てられたわけですが…。

おっと、今回、曹操は魏王に就任しております。今回の書き出しは建安二十(西暦215)年時点だったわけ
ですから、この一回で二年ばかり経過してます。

208 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:03:18 ID:pY4qHwSK
三国志(2008年05月)

今回のタイトルは「兄弟」。前回のラストから考えると、あの兄弟のことだな、とは見当がつくのですが…
どうもそれだけではないようです。

初めに語られるのは、邢顒。田疇のもとにいたこともある彼は、厳格かつ実直な人物であることから、曹植
につけられます(ともすれば緩みがちな彼を戒めるために…ということです)。
ただ、曹植にはその意味はいまいち理解できていないようで、そのために劉禎の諫言(さすがは建安七子の
一人。かなりの名文)を受けるのですが…これもいまいち効かず。

前回は丁兄弟が語られましたが、今回は、曹植を支えようとしたもう一人の人物・楊脩が登場します。「慎
ましい〜」と評される一方、救愛にも似た曹植の誘いに応じたように、かなりの情熱家でもあり、また、顕
揚欲もあるというあたり、なかなか複雑な人物です。
彼の父が、以前に、曹操によって失脚したということもありますから、魏国をかき乱すという意図もあった
のかも(彼にとっては、それは匡正の行為なのですが)…。

ともあれ、曹植が、王命を受けた門番を斬る、馳道の無断利用などといった失態をしでかしたこともあり、
魏国の太子―曹操の後継者―は曹丕に決まりました。

さて、曹操と卞氏との間には他にも子がいるわけで…曹丕と曹植の間、曹彰のことも忘れてはなりませんね。
学問が大嫌いで将軍たらんとした曹彰は、田豫たちの助けもあり、みごと烏丸討伐を成し遂げました。
遠征時の田豫の進言や凱旋時の曹丕の助言を素直に聞く、敵を完膚なきまでに叩きのめさないことには住民
の安寧は得られないと的確に判断する、というあたり、将軍としてはなかなかの力量を持つ人物です。
早くから、自分が何者であるか(将才はあるが政治には向かない→将軍向き)を見切っていたのでしょう。
学がない分、ちょっと足りないところもありますが、颯爽とした好漢です。
曹植も、自分が何者であるか(文才はあるが実務には向かない→詩人向き)を見切ることができれば、彼の
ためにも、魏国のためにも良かったのでしょうね。
ただこちらは、なまじ曹操も自分の後継者になり得るやも…と迷っていただけに、事態はよりいっそうこじ
れたわけですが。
長くなったので、ここで分けます。

209 名前:左平(仮名):2008/05/16(金) 18:06:16 ID:pY4qHwSK
続き。
後半は、漢中攻防戦です。さまざまな手を打つも、めぼしい戦果が挙げられない劉備は、後方の諸葛亮に増
援を求めます。
前線にはいないだけに状況把握が不完全な諸葛亮は、楊洪に意見を求めます。
李厳と激論を交わす(その後その李厳から推挙される)ということのあった楊洪、諸葛亮の諮問に対して出
した回答は…。
増援の派遣、でした。ただし、ただ派遣するというわけではありません。これこそ、蜀の存亡をかけた一戦
である。そういう気迫のこもった回答から、諸葛量は、彼の器を理解するのでした。

とはいえ、ただ人手がいるだけではどうにもなりません。ここで黄権が進言します。これこそ、この戦いの
帰趨を決めるものとなるわけですが…。
さて、この前に気になることが。劉備と関羽との連携がいまいちのようです。関羽からの報告がない(荊州
の情報は公安経由で細々とあるだけ)というのです。
これが、今後の展開にどう影響するのか。

210 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:27:27 ID:a7pA1sHW
三国志(2008年06月)

今回のタイトルは「霖雨」。激動の建安二十四(219)年です。

黄権の進言。それは、火を用いて張郃と夏侯淵とを分断し、各個撃破することでした。軍を分けた劉備は両
陣営を急襲。張郃は冷静に対応できましたが、ここで夏侯淵が、僅かな手勢のみで飛び出してしまいました。
多勢に無勢。と、なると…。
…曹操の旗揚げ以来の将・夏侯淵の最期は、意外なほど呆気ない書かれ方でした。戦いが済んで首実検して
みたら、その中に夏侯淵のものがあった、ってな具合です。

もっとも、魏軍もそうやすやすとは崩れません。張郃と郭淮とが冷静に対応し、さらなる攻撃を阻止したの
です。
とはいえ、魏の西方を司る元帥がいなくなったわけですから、ことは重大。ついに、曹操自身がゆくことに
なり、曹操vs劉備の直接対決と相成ります。
ただ、そうはいっても、双方決め手に欠け、にらみ合いになります。これ以上留まっても、得るものはなし。
ついに曹操は撤退を決めます。

当然(?)、鶏肋の話もあり、楊脩の機智と死とが語られます。ただ、曹植の太子擁立に失敗した時点で、
失望していたようですから…この話にも、少し違った含みがあるのかも知れません。
かの楊震の末裔であるだけに、天地に恥じることはしていなかったのでしょうが、権力に囚われ、人をみる
のが甘かったのか。結果論かも知れませんが、少し切ないものもあります。

そして、劉備は漢中王を名乗ります。これを、「ある意味、後漢王朝からの決別」であると指摘されている
わけですが…これは盲点でした。まさしく、私の「思考の死角を突かれ」ました。
そうです。中国史をみると、王国名をそのまま帝国名にしているという例が多いわけで、漢も、もとをたど
れば、高祖・劉邦が楚の懐王によって漢王に封ぜられて生まれた王国。本来は、漢の皇帝≒漢王なわけです。
 神聖ローマ皇帝≒ローマ王の如し…で合ってましたっけ?
と、なれば、漢帝国内に漢王はただ一人。ところが、劉備はその漢王を名乗ったわけです。
劉備自身は漢の帝室の血を引くと名乗っている(そして敵からも否定はされていない)点から、自らの政権
に正当性を持たせるため、漢の継承者を自認しているには違いないのでしょうが…。
長くなったので、ここで分けます。

211 名前:左平(仮名):2008/06/20(金) 22:28:00 ID:a7pA1sHW
続き。
劉備が王位に就くにあたり勧進がなされたわけですが、当然、関羽の名もあります(こういうものは現在の
署名等と同様、面と向かってせねばならないというわけではないので、おかしくも何ともないわけですが)。
ただ、本作においては、関羽の想いは劉備のそれとはやや異なっているように描かれているだけに、その時、
どのような心境でいたか…。
ともかく、関羽は、軍を北上させます。

「今年は長雨になる」。関羽はそれを予感していたわけですが、魏においても、温恢がそのことに気付いて
いました。ただ、それが荊州方面の魏軍の共通認識になっていなかったために…。

今回のラスト付近の龐悳の戦いぶりは、悲愴の一言でした。ビジュアル的にも、実に絵になる場面です。
 馬上にあっては決して後れを取らない勇将なれど、折からの豪雨に伴う堤防の決壊のため白兵戦を余儀なく
 される。
 関羽の軍勢は安全な船上から容赦なく矢玉の雨を降らせるのに対し、龐悳たちはわずかに水没を免れた堤上
 でそれをかわしながら戦わねばならない。
 そして、降り続く雨。雨は、将兵の気力も体力も奪い取っていきます。

援軍がいつ来るかは知る由もなく、彼我の圧倒的な差の前に、降ろうとする者が現れます。龐悳は、自らそれ
を討つという苛烈さを示しつつ、兵を鼓舞してなおも戦いを続けます。
関羽が説得を試みますが、龐悳も毅然として言い返します。
それぞれに義があり、理がある。しかし、溺死よりは…と降る者が増え、ついに、なお戦い続ける者が龐悳と
二、三名になり…。

今回でこの場面ということは、建安二十四(219)年も暮れ近く。気が付くと、曹操の命尽きる時も迫って
いるわけですよね…。

212 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:16:32 ID:EIpoYnVD
三国志(2008年07月)

今回のタイトルは「関羽」。荊州を巡る攻防は、新たな段階に突入します。

わずか四人となった龐悳の軍勢。堤上に孤立し、もはや生きることを捨てた彼らの前に、一艘の小舟が流れ
着きます。
あたりは闇夜。物音をたてずに包囲網をかいくぐり、これなら…とわずかに助かる希望が生じたその時…!
龐悳、そして名も記されぬ三名とも、さぞや無念であったことでしょう。
最期まで戦い続けた龐悳。関羽もその将器を評価しますが、両者は決して交わりません。惜しいところでは
ありますが、これが戦というものか。

その直後、関羽が放った偵察網に特大の獲物がかかりました。于禁率いる援軍が、雨中に孤立していたのです。
このままでは全滅は避けられない。于禁は、将としての、一つの決断を示します。
『降る』
この一事をもって、于禁の声望は地に堕ちます。しかし、降るに至った経緯とその後の彼の振る舞いをみると、
それはあまりに酷な話です。
作中では、于禁は、「兵を助けてくれるなら」という条件のもとで降っています。そして彼は、(後の話ですが)
劉備にも孫権にも仕えることなく、魏に復帰しているのです。
何かを救う為に敵に降ったが、節義を損なうことなく帰参した…。これは、関羽と同じです。何が二人を分けた
のか。それは、何とも分かりません。
曹操は于禁の投降を嘆きますが、曹操の心身の衰えが、その判断に影響したということはないのでしょうか…。

援軍が壊滅した、となれば、樊城の曹仁は孤立します。しかし、副将の満寵ともども、降ったり撤退するつもりは
毛頭ありません。その理由は、(曹仁には)二つあります。
 一つは、戦略上の意義。樊城に曹仁ある限り、関羽といえども軽々しく北上はできませんが、いなくなれば後顧
 の憂いなく存分に北上される恐れがあります。
 もう一つは、彼の矜持。いかにやむを得ない事情があったとはいえ、江陵から撤退したことは、彼の中ではトラ
 ウマとなっていました。ここでも撤退したら、二度と立ち直れない。そう、恐れていたのです。
食糧庫も水没し、状況は日々刻々と厳しくなっていきますが、これを乗り越えなければならないのです。

長くなったので、ここで分けます。

213 名前:左平(仮名):2008/07/19(土) 21:17:29 ID:EIpoYnVD
続き。
ここで、傍目には唐突にですが、孫権が登場します。
実のところ、孫権は、半ば手詰まりの状態になっていました。どうやっても、北上作戦がうまくいかないのです。
 無理もありません。「張遼」の回をみてのとおり、あんなぶさまな敗北があったのでは…。
しかも、魯粛も世を去り、国家戦略を語れる人材がいないのです。劉備が漢中王を名乗った際に諮問しても、たれも
答えられないという有様。

いや、一人いました。「男子三日会わざれば刮目して待つべし」の呂蒙です。北上作戦の不利と荊州奪取の有利とを
比較し、後者の作戦を実行するよう、孫権に勧めたのです。

確かに、北上して徐州を取っても、直ちに魏との一大決戦となれば、勝てる見込みも低い上に大軍を張り付けねば
なりませんから、やりくりがつきません。
一方、呉が長江を生命線とする以上、本拠地の楊州の上流にあたる荊州の確保は喫緊の課題。
魏が、直ちに呉に兵を向けることがないのを確認した上で、その作戦は開始されることとなります。

対関羽で、魏と呉とが手を組んだ。このことを極秘にすべきか公表すべきか。ここらへんの駆け引きは、なかなかに
面白いものがあります(というか、私などには、一回読んだくらいではよく分かりませんでした)。
知らぬは関羽ばかりなり…ということはありません。この知らせは、関羽の耳にもしっかりと入っています。ただ、
自身(とその作戦)に自信があるだけに、それを突かれることになるわけです。

ラストは、関羽vs徐晃。ただ、ここのくだりをみると、春秋時代の君子の如く振る舞おうとする関羽に対し、当代
の将軍として振る舞う徐晃、という感じで、少しおかしくも思えたのは私だけでしょうか。

…とここまで書いてみて、(個人的にですが)蒼天での陸遜が嫌いなわけが少しみえてきました。
関羽は左伝の愛読者として知られます。そして、(本作においては)左伝に描かれる君子の如くあろうとしています。
恐らく、于禁の投降を受け入れたのもそのためでしょう。戦場にも「礼」はあるのです。
蒼天での陸遜は、それを嘲笑していました(直接の理由は輜重の体制の不備なのですが、その原因は于禁とその軍勢
を捕虜として受け入れたためなので、捕虜を保護すること自体を嘲笑っているようにみえた)。
その、敵への敬意のなさが、気に入らなかったのかな、と。

214 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:23:38 ID:tI77SrF2
三国志(2008年08月)

今回のタイトルは「徐晃」。魏から見た、荊州での関羽との戦いに決着がつきます。

「関羽を捕らえた者には〜」のくだりに隠微な意図がある、との指摘には、考えさせられるものがあります。戦場で
関羽と会って話をし、何もしなければあらぬ疑念を招きかねないという危惧がそこにはあるからです(先の、馬超の
ところでの韓遂がまさにそうでした。もっとも、ここで例として挙げられたのは崔琰ですが)。
曹仁・徐晃の力量を信頼しているにもかかわらず、曹操が無理を押して出陣しようかと何度も考えたことを思うと、
そういうのを一笑に付すわけにもいかないんですよね。
もっとも、そんな徐晃の思いはともかく、ここでの関羽は、悠々と引き揚げていきます(豊かな、とかふくよかな声
で〜という書き方をされているのをみると、関羽の存在感の大きさが分かります)。
そう、まだ、関羽の優位が完全に覆されたわけではないのです。

ただ、徐晃の将器も相当なものです。巧みに陣を構築し、じりじりと接近していきます。そして、ついに関羽の陣の
目と鼻の先の所にまで到達するのです(なぜか、【そういう表現はないはずなのですが】双方塹壕を掘ってこもって
いるようなイメージを持ってしまいました)。
関羽は焦ってはいないものの、敵陣を崩す機を見いだせないままにここまでの接近を許したとなれば、不利なのは免
れません。
その後の激戦の末、負傷した関羽は陣を放棄し、再び船上の人となります。しかし、不思議なもので、徐晃の勝利で
あるにもかかわらず、なお関羽にはゆとりがありました(なので、劣勢という感じがちっともしないんですよね)。
ところが、後方の士仁・糜芳が呉に降ったため、それどころではなくなり、ついに撤退を余儀なくされます。
かくして、魏は、何とか樊城・襄陽を守り切りました。
当代一の勇将・関羽との戦いに勝利し、かつ、その軍紀の確かさを以て、徐晃が、前漢の名将・周亜父の如しと称賛
されたのも宜なるかなというところです。
長くなるので続きます。

215 名前:左平(仮名):2008/08/23(土) 21:24:11 ID:tI77SrF2
続き。
さて、呂蒙の方ですが…全く気取られることなく荊州への進入に成功し、虞翻の巧みな説得により、ほとんど無傷で
その確保に成功します。
他作品では、(私個人の偏見かもしれませんが)どこか奇人というイメージのある虞翻も、ここでは直言を憚らない
まっすぐな人物として描かれます。しかし、孫策はその直言を喜んで聞きいれたのに、孫権は疎ましく思っていたと
いうのも、何か変な感じが(兵を率いることで及ばないのはともかく、人を用いることで負けていては…)。
なすすべなく敵に迫られ、抵抗しても報われるかどうか分からない…と嘆いて士仁が降ったのに対し、糜芳の方は、
何か呆気なくみえました。そういえば、蒼天でもそうでしたね。

士仁の経歴等がいまいちよく分からない(仮にも太守だったわけですから、どこの馬の骨とも知れぬ…ということは
ないですし、ぽっと出の若手というわけでもないはずですが。ただ、彼を配していたことを、後方に対する警戒が薄
い、というように書かれていることからすると、軍事的手腕はもとから乏しい【裏を返せば、行政面での才能を期待
されていた】人物だった?)のに対し、糜芳は、徐州以来の古参。それが、いかに関羽との関係が悪かったとはいえ
…という感があるのは否めません。
その後、呂蒙は、民衆の慰撫に努めます。ささいな罪を犯した同郷の兵を、涙をのんで処刑するあたり、その軍紀の
厳しさがうかがえます(一方で、そこまでしないと民心が得られないというわけですから、関羽の行政手腕も一廉の
ものではあったようです)。

ちなみに、今回のラストは、前述の、徐晃が前漢の名将・周亜父の如しと称賛されたくだりですが、その前に、張遼
もちらりと登場。こちらにも、かなりの賛辞が。

216 名前:画伯:2008/09/08(月) 09:30:20 ID:GAm8i4fg
先日中国南部で地震がありましたが、
雲南省に近い方なので成都や九賽溝の方には全く影響無いようです。
四川省って日本の倍近い広さがありますから。
四川省の北部観光地は、地震の影響でクローズしていたホテルも次々に営業開始し
値段も例年比べれば格安なので
四川省応援のためにもぜひ旅行におすすめです。

217 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:33:30 ID:/lB/9KId
三国志(2008年09月)

今回のタイトルは「曹操」。建安二十五(220)年。ついに、その時がくるわけです。とはいえ、今回の内容は、
そのほとんどが関羽についてのものなのですが。

背後で呉が蠢いているのに気付いた関羽は、状況を把握すべく、偵察を行います。偵察に向かったこの兵士、肚も
据わっているようですし、見るべきところもしっかり見ているところからすると、なかなかの人物と思われます。
ひょっとして、廖化?とも思うのですが、そのあたりについては分からずじまい(彼だけでなく、その父もなかなか
の人物なんですよね、これがまた)。
呂蒙も、そのあたりは心得たもので、見事な対応を見せています。

呉に奪われた各郡は、呂蒙によって治まっている。この事実は、関羽にとっても衝撃でした。というのは、本作では
何度か述べられているように、関羽の行政手腕はかなりのものでしたから、この地の民衆は、新たな支配者に対して
強く反発すると思われていたからです。
それが、目立った混乱もなし。ということは、単に軍事上に留まらない敗北を喫したということでもありました(関
羽の徳が十分に及ばなかったということです)。
関羽が、策を弄し自分を欺いた陸遜に対しては怒りを露わにしたのに対し、呂蒙に対してはそれほどでもないように
見えるのは、そのあたりのこともあるように思われます。
あるいは、この時点で、関羽の中にある種の諦観があったのかも知れません。

麦城に籠った関羽ですが、兵の士気はもはや失われています。戦えないと判断するや、密かに城を脱出し、西に向か
おうとします。もちろん、それは孫権も承知しており、分厚い包囲網が敷かれます。
天命とは何であるのか。何が正しく、何が正しくないのか。その答えは…。
一度は軽々と呉軍の包囲を突破しましたが、二回目(ここの呉軍の将が馬忠)は成らず。ついに、その小集団は殄滅
しました。あたかも、流星が燃え尽き、一筋の光芒を残して闇に溶けるかのように。
長くなったので続きます。

218 名前:左平(仮名):2008/09/21(日) 22:34:19 ID:/lB/9KId
続き。
関羽は、捕らえられたが呉に降るを潔しとせず、斬られた。史書がそう記すのは、関羽の名誉を守ろうとしたからで
あろうが、それはかえって名誉を損なっているのではないか。言われてみると、頷けるところがあります
関羽は、諸葛亮と出会い(現実との妥協点を求めた結果)自尊を貫けなくなった劉備に代わって自尊を貫いた。で、
あるならば、なおさら、簡単な道は選べません。
それゆえ、魏と戦い呉とも戦った。春秋の義に憧れ、自尊を貫いた英雄はかくして斃れました。

関羽の首級は、曹操のもとに送られました。関羽を殺されたことに対する劉備の怒りを曹操に向かわせるためです。
しかし、曹操もそんなことは百も承知、孫権の慇懃無礼ぶりに不快感を示しながらも、関羽に礼を以て接し、(やや
意地悪く言うと)孫権との、人としての格の違いを見せつけます。

 以下、個人的な感想。
 こうしてみると、三国志では、呉はどうしても脇役にならざるを得ないんですよね。漢から禅譲を受けたという
 正統性を持つ魏、漢の血胤による正統性を持つ蜀漢に対し、呉にはそういったものが全くありませんから。
 孫権が切れ者であるのは間違いないのですが、正統性がないゆえ自由に動ける反面、その言動への彩がどうにも
 難しい…。
 
しかし、なお意気盛んな曹操も、年には勝てず。関羽の首級と対面してから程なく、薨去しました。享年六十六。

曹操に対する、あまたの賛辞が語られた(曹彰のことがちらりと語られた)後、「ここからほんとうの三国時代が
はじまるのである」と締められます。


…そう、そうなんですよね。三国時代というのは、地に三人の帝王が並立するという異常な時代。少なくとも、今
回までは、まだ漢の時代なわけですから、真の意味での三国時代ではないわけです。
しかし…どれだけ齢を重ねても、様々な三国志の物語を読んでも、三国時代に入る以前の方がいろいろな意味でそれ
らしいというのが、また何とも…。

219 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:03:24 ID:LpP4Hk8E
三国志(2008年10月)

今回のタイトルは「新制」。太子の曹丕が跡を継ぎましたから、前回のラストから続けて、今回、漢から魏への禅譲
を描く…と思っていましたが、半ば外れました(明らかに魏帝国成立後のエピソードもありましたが)。

さて、蒼天を読まれた諸氏はお気付きでしょうが、ここまで、描かれていない人物がいましたね。そう、魏諷です。
今回、後漢王朝が斃れる前のわずかな痙攣、という形で、その叛乱について、初めに少し触れられました。ただし、
主眼は、魏諷ではなく、そのために一時失脚した鍾繇です。

鍾繇が、魏諷の台頭に一役買っていた以上、何らかの処罰に服さねばならないわけですが、彼は、曹丕には好かれて
いました。かつて、名玦を献上し、かつその時の態度が良かった(この玦はしかるべきところにおさまった…と、曹
丕を持ち上げている)ためです。
ただ、財を持ちそれにとらわれると禍を招くと悟っていた鍾繇に対し、(いかに美辞麗句で飾っても)人の財を奪っ
た曹丕の、人としての器量に疑問符がついたのは否めません。

続いて、夏侯惇(不臣の礼…)、程c(公への叙任…)、曹洪(かつて借財を断られたのを根に持ち…)など、群臣
達について描かれます。
特に、曹洪については、彼の助命のために賢婦・卞太后が動いたことが触れられています。これまで、一切政治的な
言動をとらなかった彼女が動いたのは、ひとえに、曹洪の比類なき勲功(徐栄に敗れた曹操を生還せしめたこと)と、
功臣を微罪で処刑でもすれば、人心が曹丕から(のみならず魏から)離れる、と判断したためです。
さすがの曹丕も、(郭后を通じて)母の想いを察したか、処刑はしなかったのですが、だからといって無罪放免という
わけでもなかったので、人心はやや離れた、という具合。
父・曹操が薨じてから一年もしないうちに大規模な軍事行動。これを戒めた霍性の諫言を聞かず、彼を死に追いやると
いうこともありました。
長くなったので続きます。

220 名前:左平(仮名):2008/10/12(日) 23:07:21 ID:LpP4Hk8E
続き。
賊が魏に降った、と喜んだのも束の間、西方では麹演らが叛乱を起こします。これは、蘇則らによってすみやかに鎮圧
された(名将・赫昭が彼の胆力に感服って…!)のですが、今回については、曹丕、いいとこなしです。
この後も、あれこれあるわけですが、よく書かれることがあるのか…なんて、よけいな心配も。

曹丕、とくると(?)、忘れてはならない人物の一人として、陳羣が挙げられますね。そして、陳羣とくると九品官人
法(九品中正法)。
この法の概要はおくとして、その精神は、というと…。

本作の最初の方(もう数年前になるのですね)に、光武帝のことが書かれていましたのを覚えておられますか?その際、
前漢と後漢とでは、人材をみる基準が異なっていた、ということが書かれていました(秀才どもは王莽を止められなか
った…。故に後漢では、才能ではなく人格を重んじた、というようなこと)。
しかし、人格を重んじたはずの後漢では、実務能力に欠ける者が高官に…という具合で、結局腐敗は避けられなかった。
彼ら(曹丕、陳羣)は、それをどこまで分かっていたか…。
後々、いわゆる南北朝時代を語る上で、避けては通れない問題の萌芽があるわけです。

ラストは、孟達の魏への投降(曹丕の厚遇付き)と、劉封の非業の最期。彼の死を聞いた劉備は、一人になると泣いた
…。これは、一体?

221 名前:左平(仮名):2008/11/23(日) 21:56:57 ID:9ZYiSxeo
三国志(2008年11月)

今回のタイトルは「禅譲」。いよいよ、魏帝国が興ります。そして、対抗すべく…。なお前回のラストは、今回の流れ
とは特に関係ないようです。

父の(というか、曹氏の本貫の)譙に立ち寄った曹丕のもとに、皇帝からの使者が来訪します。曹丕に帝位を譲る、と
いうのです。
禅譲。それはかつて、堯が舜に対して、舜が禹に対して為した、とされてはいますが、孔子の言行を記した『論語』に
は触れられていない代物。あるいは、血統によらずして帝王の地位に就こうとした者達によって、戦国時代あたりに作
られた概念ではないか…と。と、なれば、こたびの禅譲は、史上初の…!
正直、目から鱗(が落ちる思い)でした。ここらあたり、自分はこれまで、陳舜臣氏に影響されていたな、という感も
あります(禅譲というものを軽く考えていました)。
※確かに、実権の所在を思うと壮麗な茶番ではあるのですが、伝説的な堯・舜・禹の例しかないものが、まさに『今』
 為されようとしている…となれば、以降のものとはいささか性格が異なってもおかしくありませんね。
 後世からみれば茶番でしかなくても、当時、その時代を生きた人からみれば真剣にやっているわけですから。
 人は、自らの属するもの(時代、国、など)からは、完全に自由では有り得ない。とでも申しましょうか。

ここぞとばかりに、と言っては何でしょうが、群臣は荘重な上奏を次々と行い、曹丕も丁重に固辞する姿勢をみせます。
面白いのは、群臣が熱に浮かされたかのように騒げば騒ぐほど、曹丕は醒めているかのように書かれているところ。
しばし、皇帝と曹丕の、意地の張り合いの様相を呈しましたが…ついに曹丕はこれを受諾。晴れて、禅譲の儀式が執り
行われることと相成りました。
皇帝から山陽公となった劉協は何を思ったか。それは分かりませんが、彼にとって、玉座は決して座り心地の良いもの
ではなかったのは、概ね間違いないでしょうね。
確かに、彼を擁立した董卓は、余りに敵を多く作り過ぎました。その、血塗られた手によって座らされた以上、その座
もまた血塗られたものであり、神聖な皇帝としての正当性に疑義を持たれてもやむを得なかったでしょう。その後の十
四年が、安らかなものであれば救われるのでしょうが…さてどうなのか。
長くなったので続きます。

222 名前:左平(仮名):2008/11/24(月) 19:44:34 ID:oWPH1hn9
続き。
さて、劉協に代わって帝位に就いた曹丕ですが、為さねばならないことは山積しています。気鬱になってもおかしくは
ありません。武芸にも秀でた彼にとって、狩猟は数少ない気晴らしでした。
もともと狩猟は軍事訓練の性質も持ってはいるのですが、遊興としての面もあるわけで…。となると、回数が増えると
これを諌める者が出るのも当然ですね。

やはり、出ました。鮑です。曹操の、おそらく唯一の盟友・鮑信の忘れ形見でもある彼は、その縁故・そして自身の
力量を以て、確固たる地位を築いているわけですが、なぜか(作中では、理由は書かれていないようですが)曹丕には
好かれていませんでした。はっきり言って嫌われてます。
曹丕からすれば、数少ない気晴らしに文句をつけられたように思ったのでしょうね。当然、聞き入れられません。
まあ、鮑も、曹丕に帝位に就くよう勧めた群臣の一人ですから、「汝らが帝位に就けと言っていたから帝位に就いた
というのに、朕のすることに口を挟むか!」てな思いもあったのでしょうが。
…人としては、分かるんですけどね。ただ、帝王たる者がそれではいけません。

酷な言い方ですが、「曹丕は父・曹操には及ばない(それは本人もおそらく承知していた)。ならば、それを自覚して
次代に範を垂れれば良かったものを…」というわけです。
「恐れという感覚をもたぬ者は、真の勇気をもたぬ者である」。重く響きます。


一方その頃、蜀では…。「皇帝が位を追われ、殺害された」という(誤)報がもたらされます。劉備は、これを受け、
自らが帝位に就こうとします。劉氏の血胤たる自分には、帝位に就く正統性がある、というわけです。
これに対し、ひとり醒めている人物がいました。費詩です。
関羽と面識があった彼は、なるほど関羽の志は清いものであった、と感じるのでした。
曹操と対極にあることでここまできた劉備。しかし、益州侵攻以来、それが変質してきている…。生き残ることを考え
るとやむを得なかったのでしょうが…。(後世の美化のゆえ、同一視はされませんが)袁術と同じ僭称者となった劉備。
何か、焦っている…?

223 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:30:20 ID:G2aSbWbi
三国志(2008年12月)

今回のタイトルは「報復」。蜀漢を中心に、動きがみられます。

晴れて?皇帝となった劉備が最初にしたこと。それは…呉を討つことでした(本作では、その動機はあくまで関羽を殺
されたことに対する報復として扱われています。地政学的な意図も考えられるところですが、劉備という人のありよう
を思うと、こういうふうになるということでしょうか)。
趙雲・秦宓の諫言も聞き容れず、着々と準備にとりかかります。

話は変わりますが、ここで許靖の名が再び出てきました。実務面ではこれといった事績は挙げられていませんが、それ
なりに気骨のある清廉な人物という感じで、割に好意的な書かれ方ですね。
所詮結果論…なのかも知れませんが、許劭に比べ、穏やかに天寿を全うできた分、勝っています。
あと、呉皇后(呉懿の妹)のことも。もともと、劉焉の子・劉瑁に嫁していたわけですが、夫が廃人となって早世した
後、寡婦となっていたところを劉備に…というわけで、波乱に富んだ生涯です(個人的には、劉備に嫁した時点で何歳
くらいだったのかが気になりますが。彼女と劉備の間に子は生まれたのか?等…)。

劉備とともに、呉との戦いに意欲的だった張飛(、そしてその死)をみるにつけ、関羽を喪ったことの衝撃は、相当に
大きかったようです。途中、劉備・関羽・張飛の関係が(他作品に比べ)やや希薄にみえたものですが、やはり、「義
は君臣といえども情は父子【兄弟?】の如し」ってなところでしょうか。

一方、呉の方は、というと…。こたびの戦いにおける最大の功労者・呂蒙が亡くなります。周瑜・魯粛に続き、軍事上
の偉材であった呂蒙を喪うわけですから、かなり堪えています(それはそうと、余計な気を使わせたくない、というの
は分かるのですが、病室の壁に小さな穴を開け、そこから呂蒙の病状を覗くというのはどうも…。村上豊氏の挿絵も、
普段のほのぼの【?】調とはやや異質な感じに見えます)。

長くなりますので、続きます。

224 名前:左平(仮名):2008/12/20(土) 15:32:15 ID:G2aSbWbi
続き。
さて、呂蒙が亡くなり、また、魏・蜀漢の双方を敵にするわけですから、呉にとっては一大事です。孫権は、ここでも
したたかに振る舞います。
蜀漢に対しては、言動に棘のない諸葛瑾を配置し、魏に対しては、(名目だけとはいえ)臣下の礼をとり攻撃される隙
を見せません。ただ、それらが十分な効果を挙げたか、というと…。
客観的に考えると、ここでは蜀漢は呉と戦うべきではないわけです。ですが、相手は劉備。良きにつけ悪しきにつけ、
人の常識に当てはまらない人物です(今回は、『皇帝としては』すべきでないことを敢えてしている…という含みを持
たせています。彼にとって、皇帝位というのは、何かの区切りではあってもそれ以上のものではない)。
また、魏としても、呉と蜀漢とが戦うというのであれば、この機に乗じて一気に呉を滅ぼし(蜀漢は後からゆっくりと
…)という策もあったわけです。
ここでは、劉曄(その智謀は、あの郭嘉に近い!と)がそれを考えています。しかし…帝位について間もない曹丕から
すると、それは受け入れ難いわけで…。

さて、呉が(名目だけとはいえ)臣下の礼をとったことで、于禁が魏に送還されたわけですが…曹操の陵墓に描かれた
己の無残な姿に打ちひしがれ、そのまま亡くなります。
生きて名誉回復を遂げた荀林父や孟明視には及ばなかったとされるわけですが…このあたりもまた、曹丕の器量に疑問
符が付けられるところなんですよね…。

ラスト。呉領内に進攻した蜀漢の軍勢は、補給に不安を感じ、補給路の確保にかかります。こ、これは…。

225 名前:左平(仮名):2009/01/24(土) 00:45:51 ID:ySonixWe
三国志(2009年01月)

今回のタイトルは「白帝」。西暦222年(ラスト付近は223年ですが)の情勢です。

関羽の仇を…という戦いなわけですから、呉の内憂たる異民族(ここでは五谿蛮)の協力は、ないよりあった方がいい
…ってなわけで、馬良がその使者となり、無事成功します。
そうして、軍を進めるわけですが…いま一つ、動きが鈍いようです。「勝つ」戦いではなく、「負けない」戦いをして
いる?ように見える、と。この戦いの、そもそもの始まりを思うと、あり得ないことではあるのですが…。
馮習、張南等の部将の名が見えます。一応、ひとかどの人物ではあるようですが、「他国に名の知られた将ではない」。
なるほど、演義では黄忠を入れたくなるわけです(【漢中攻防あたりの実績があるであろう】呉班、陳式の名もあります
から、それなりの陣容ではあるんですけどね)。

これに対する陸遜は、というと…こちらも、いま一つ目立ちません。劉備が存外手堅く軍を動かしたため、付け入る隙が
見つからなかったのです(陸遜の余裕の台詞も、「この時点では」単なる強がり)。
そのため、戦いはひとまず膠着状態に入ります。

そして数か月が経過。お互い(!)、士気は落ちていました。ただ、蛇の如く長い陣を敷きつつも、各陣営間の連携が
いま一つ機能していない蜀漢の方が、脆いところがあります。
これに気付いた陸遜は、火計を仕掛け、混乱したところを一気に衝きます。
これで、呉の軍事的勝利は確定。しかし、劉備の逃げ足は凄まじく(逃げることについては劉備にまさる天才はいない、
って…)、結局、取り逃がします。
しかし、ここで劉備を倒したとしても呉の危機はまだ終わらない、下手をすれば魏が蜀漢を併呑して事態はいっそう悪化
…ってなことも有り得るわけですから、呉としてはこれで良かったのでしょうけど。

長くなりますので続きます。

226 名前:左平(仮名):2009/01/24(土) 00:48:14 ID:ySonixWe
続き。
(個人的な感想ですけど)確かに鮮やかな勝利ではあるのですが、本作での陸遜は、余りぱっとしないように思えました。
火をもって大軍を壊滅させたわけですが、長社の戦いの時の皇甫嵩や赤壁の戦いの時の周瑜のような鮮やかさがどうも感
じられないのです。
魏が出てくるであろうことは予測しており、迎撃の算段も立ってはいるようですが、さらにその先は、となるとどうなの
でしょうか。
後には丞相にもなっているわけですから、政治的な感覚もあるはずですが…。

さて、劉備はこの戦いで、もう一つの失策を犯していました。臨機応変の才を持つ黄権を自身の側から離していたのです。
劉備が敗れた結果、黄権は孤立。将兵を生かす為には、魏か呉のいずれかに降らざるを得なくなります(漢中攻防を勝利に
導いた名将の認識は、甘くありません。そして、その判断が、彼らを生かしたのです)。
結局、魏に降りますが、その進退はみごとなものでした。
しかし、孟達と黄権。生きるため、心ならずも魏に降り厚遇されたというところまでは同じなのに、その後の運命は相当に
異なるものになりました。降る時の態度をみてもそこまでの差が出るのがどうも解せぬのですが…。

さて、この頃の魏ですが…皇后の甄氏が亡くなります。ただの死ではありません。これ一つとっても、曹丕の行いに不快な
ものがあります(結果、嫡子・曹叡の精神に「ひびが入り」ます。それがどれほどのものだったか。それは、まだたれにも
分かりません)。

そして、魏と呉の戦いが始まります。緒戦は、魏が優勢のようで、曹休・曹真といった将の活躍があります(曹仁・徐晃の
名も出ます)。さて、ここからどう動くか。

227 名前:左平(仮名):2009/02/22(日) 17:41:04 ID:qOqvofCv0
三国志(2009年02月)

今回のタイトルは「劉備」。とはいえ、前半は、魏vs呉の戦いの続きです。

戦いは、やや魏有利に進んでいます。とはいえ、長江をまたいでの戦いということもあってか、戦線が何方面かに分散して
いるためもあってか、そうそう目を見張るような派手な会戦があるというわけではありません。

○張遼あり、ということで、この方面では呉はほとんど動きません。張遼が病身であるにも関わらず、です。たった一人の
 将にここまで怯えるのも何ですが、あの戦いからまだ十年も経っていないんですよね。
○一方、曹仁は、敵兵力(この頃、敵将は周泰から朱桓に交替)が劣るとみるや、兵を四つ(曹仁、曹泰、常雕、王双、諸葛
 虔ら)に分散し、速攻を仕掛けます。
 やや傲慢なところがあるとはいえ、朱桓もなかなかの将。素早く反攻し、常雕らを討ち取り王双を捕らえる働きを見せます。
 名将・曹仁にしては、(戦術的には誤っているわけではないとはいえ)やや焦りがあった、とも。
○前線の将には、手柄ほしさに逸る危惧が。董昭、曹丕に適切な助言をし、十分に備えさせます。

結局、目立った成果はなく、魏は撤退します。防衛に成功したという点では呉の勝利ではあるのですが…。双方、特に得る
ものもなかったようです。

魏…呉への侵攻としては中途半端な感がありますが、とりあえずは、魏の威を知らしめたと言い繕える程度の成果ではあり
  ます。しかし、ともに病によるものとはいえ、曹仁・張遼という名将が亡くなったのは、結構な損失です(曹仁56歳、
  張遼の年齢は不詳ながら50代くらいか。あと十年は活躍してもおかしくないかと)。
  慣れない気候で病状が悪化したのだとしたらなおさら痛いです。張遼の死の知らせを聞いた曹丕はいたく嘆いたといい
  ますが、病身にもかかわらずこの遠征に連れ出したわけで…。
呉…張遼の幻影に怯えた、というのも何ですが、魏撤退後にもやらかしていました。既に武装解除していた文聘と遭遇した
  にもかかわらず、策を(というか文聘の肚の座り具合を)恐れ、さらに、撤退するところを、追撃してきた文聘にして
  やられるという有様です。ここまでくると、孫権の戦下手も筋金入りですね。
  そういえば、今回、陸遜の名を見なかったような…。

長くなるので続きます。

228 名前:左平(仮名):2009/02/22(日) 17:43:48 ID:qOqvofCv0
続き。

さて…場面変わって、永安。一応戦いは済んだのですから、皇帝たる劉備は首都・成都に帰るべきところですが、そう
しないまま、病に臥します。
復讐戦も成らず、もはや、すみやかに冥府に行くことのみを願うという有様。ですが、皇帝として、せねばならぬことが
あります。後事をいかにするか、ということです。
諸葛亮が呼ばれ、後事が託されます。「君の才は曹丕に十倍す…」。禅譲を匂わせる発言がありますが、諸葛亮は、後嗣・
劉禅を全力で支えることを誓うのでした。

…この場面をいかにみるか。本作では、「劉備は、かつて自分が陶謙からされたように、諸葛亮に国を譲るべきだったの
ではないか(それでこそ、捨て続けてきた劉備の生涯の最後にふさわしい)」という指摘があるわけですが、一方で、漢の
正統(※ただし、漢≠後漢であることに注意)が蜀漢にあり、とするためには、皇帝は劉氏でなければならないわけで…。

恐らく、劉備は病で気が弱くなり迷いがあったために、また、諸葛亮は、上記の正統性なくして国が保てないと考えたが故
に、かくの如き結果となったのか、と個人的には思うのですが…。

ともかく、高祖・劉邦を模倣してきたといえる劉備は、ここに世を去ります。

229 名前:左平(仮名):2009/03/22(日) 00:57:07 ID:+yelLx660
三国志(2009年03月)

今回のタイトルは「使者」。主に蜀漢と呉の修交の経緯が描かれます。

劉備が崩じ、嫡子の劉禅が跡を継ぎました。しかし、当年十七の、かつ、実績のない幼弱の新帝を戴く弱小国、となると、
その前途には厳しいものがあります。
さらに、丞相として全権を握ることとなった諸葛亮もまた、(その実績の割には)さほど知られておらず、威に欠けるの
では、と見られています(魏の重臣達から臣従勧告の書状が送られたのもこの頃。劉備の死に動揺している今なら、あわ
よくば…というつもりだったのでしょう)。
並の人物であれば浮足立つところでしょうが、諸葛亮はいっこうに動じません。魏からの書状を黙殺することで、蜀漢の
正統性(蜀漢こそ漢の正統を継ぐ王朝である【厳密には漢≠後漢ですが】)を主張したのです。
それが劉備の本意であったかは、今となっては分かりませんが…少なくとも、この時点で蜀漢が生き残るには、これしか
なかったと思われます。ニュアンスに多少の相違はあるでしょうが、『攻撃こそ最大の防御』ってなところですね(とは
いえ、呉との戦いによる国力の消耗は大きく、しばしの雌伏を余儀なくされるのですが)。

ただ、このままでは、蜀漢は魏・呉の双方を敵に回すことになりかねません。ただでさえ国力にハンデがあるのに二正面
作戦をとるのは愚の骨頂。
となると、呉との関係の修復が必要なわけです。その大役を仰せつかったのは…ケ芝でした。

荊州出身のケ芝は、乱世を避けて益州へ避難したわけですが、ここで「位は大将軍に至る」ってな占いを受けます。自分は
単に乱世を避けているだけなのに…ということで、この占いは特に信じなかったようですが、これが概ね当たったわけです
から、面白いものですね。

呉に至ったケ芝は、呉王となった孫権に同盟による両国の利害を説き、その信頼を勝ち取ることに成功します。演義では、
宮中に大釜を引っ張り出して(釜茹でにしかねない…と脅すことで)ケ芝の度胸を試す…ってな場面もありましたが、その
ような大仰な演出は不要でした。
何より、孫権自身、自国に迫る魏の脅威を痛切に感じているだけに、三国鼎立による力の均衡の重要性を深く認識していた
のです。
しかし、外交においてこれほどのバランス感覚を有する孫権が、戦場では凡庸な将と化すのも不思議なものです(『子産』
での子罕が似たような感じですね)。

長くなるので続きます。

230 名前:左平(仮名):2009/03/22(日) 00:59:15 ID:+yelLx660
続き。

さて、ケ芝には、もう一つの使命がありました。張裔なる人物を探し出し、帰国させることです。
ケ芝の知る限りでは、彼は「益州南部で叛乱を起こした雍闓に捕らえられ、呉に送られた」冴えない人物に過ぎません。
また、孫権の認識も、似たようなものでした(実際、軍事的手腕については実績らしいものはありませんしね)。
彼の帰国は特に支障なく行われると思われたのですが…帰国前の会見で、その才幹の一端が漏れました。そのために、
ケ芝達は危うい思いをすることになり、孫権は、人材を見抜くことの難しさを思い知らされることになります。
 ただ、いかに張裔の才幹を惜しんだとはいえ、君主たる者がひとたび交わした約束を反故にするというのはいかがなもの
 かと…。諌める人はいなかったのでしょうか。
ともあれ無事に帰国した張裔は、以降、諸葛亮の信奉者となります。諸葛亮自身は徒党を組む人ではなかったでしょうが、
協力者がいる方が何かとやりやすいのは確か。その意味では、この修交は、蜀漢にとっては実に有意義なものになりました。

さて、一方の魏では、呉の不誠実に対して曹丕が怒りを募らせ、ついにその討伐を命じます。群臣達の諫言も空しく、また
しても呉との戦いが始まろうとしています。

この頃、郭氏が皇后となっていました。父に深く愛された彼女は、先の皇后の甄氏とは異なり、夫のパートナーたりうる
明朗な女性でした(曹丕のもとに来た時点で三十。となると、美貌だけの女性ではないのは言うまでもないですね)。
曹丕の、二人との出会いがもしも逆であったなら、どうだったのでしょうか…。

231 名前:左平(仮名):2009/04/25(土) 02:53:37 ID:FJO82zTv0
三国志(2009年04月)

今回のタイトルは「南中」。諸葛亮が動き始めます。が…その前に、曹丕の、再度の親征です。

人からすれば思いつきのようでも、曹丕としては、それなりに考えての親征。しかし、君臣の心が一致しているとは
言えない現状では、どれだけの意味があるのか(表立って反対意見を述べたのは劉曄くらいですが…)。
こちらが、皇帝自ら大軍を率いて出てきたのだ。当然、呉も国を挙げて応戦するに違いない。曹丕は(群臣の殆ども)
そう考えたわけですが、劉曄が予見したとおり、そうはならず、肩透かしを食った格好です。
孫権にはまことの礼が無い。ひどい言われようですが、ここまでの外交姿勢をみると、一面の事実ではあります。
敵の総大将が出てこないし、皇帝自身も、前線からは離れている。となると、魏軍の戦意はいま一つ。徐盛の偽城壁
などもありつつ、戦いは膠着状態に入ります。

自身は出ない。とはいえ、魏の大軍(そしてその背後にある国力等の要素)を目の当たりにすると、厚顔な孫権も
さすがに不安になったのか、占術の達人・趙達を呼び、話を聞きます。
趙達は、曹丕が既に去ったことを伝えますが、一方で、庚子の年に呉は衰える、と気になる予言をします。それは、
この時点から五十八年後(実際には、この時から五十六年後なので、これより二年前の記録と混同された?)。
さすがに孫権自身は生きてはいないでしょうが、呉にとっては暗い予言です。趙達の予言の確かさをみると、これも
当たるでしょう。孫権は、あえて遠い未来は無視することにしました。「今のことで精いっぱい」というわけです。


さて、成果なく帰還した曹丕の耳に、悪い噂が入ります。親友でもあり、この当時、荊州を任せていた夏侯尚が、妾を
寵愛し正室(曹氏)を軽んじているというのです。
かつて杜襲に「(曹丕の)益友にあらず」と諌められたとはいえ、文武兼備の名将ということもあり狎れ親しんでいた
人物の醜聞。曹丕にとって衝撃ではあったでしょうが…いきなり部下を遣って妾を殺させるというのもあまりな話です。
最愛の女性を喪った夏侯尚の悲嘆は激しく、後を追うように亡くなりました。

長くなるので続きます。

232 名前:左平(仮名):2009/04/25(土) 02:55:25 ID:FJO82zTv0
続き。

瀕死の夏侯尚を見舞った後、曹丕は、「それだけの男であったのか」と呟きます。不思議と、ここの書かれ方は淡々と
していますが、それだけに、人情というものを解さない曹丕の寒々とした感覚が感じられます。
…どうして、曹丕には、こうも眉をひそめたくなるような話しかないのか。これでどうして『文』帝なのか。建国から
まだ数年。清々しいはずのこの時期において、早くも不快感があります。王朝は、しばしば、初代の帝王の性格に影響
されるものですが、魏の早い衰亡は、既に予定されているのか…。


一方、今回のタイトルの「南中」ですが…。魏vs呉の図式が確定したことで、ようやく、諸葛亮自身が動ける状況が
整いました。
蜀漢にとって、劉備が臥してからの南方での叛乱は、いわば内戦。いずれはけりをつけねばならない問題です。ただし
内戦ということは、叛乱者達を鏖殺するというわけにもいかないわけです。
(軍を動かさねば鎮圧はできませんが、今回は、政治的な対応が求められる性質のもの)
李恢の活躍もあり、朱褒らの叛乱は、無事、鎮圧されました。

え?何人か忘れてないか、って?

えっとですね…。孟獲は出てきました。「漢人にも人望がある」「さほど体躯は大きくないが精悍な顔つきをしている」
という感じで(彼こそが、こたびの事態の収拾の鍵を握る人物、といった感じの扱われ方です)。
ただ、張巍は出ず。李恢の活躍ぶりが目立っていました。

233 名前:左平(仮名):2009/05/24(日) 01:23:54 ID:85J6nSxv0
三国志(2009年05月)

今回のタイトルは「曹丕」。本作において個人名をタイトルにする場合、初登場か何らかの見せ場が、というところなの
ですが、「曹操」「劉備」と続くと、なんというか…。

今回は、まず、鮑について描かれます。前にもあったように、曹丕の不興を買い、しばし遠ざけられていた鮑ですが、
「(宮中の綱紀粛正ができるのは)かの者しかおりません」ってな具合に群臣から推挙されますと、曹丕としても、登用
しないわけにもいきません。
実際、これで宮中が締まったわけですが、裏を返せば、王朝の創業から数年(この時点では西暦225年)で早くも緩み
が生じていたともいえるわけです。
曹丕は再度呉と戦おうとします。鮑達は懸命に諫めますが、聞く耳を持たず、またしても出兵します。しかし、行軍の
鈍さをみると、彼自身、どこまで戦おうとしていたのかよく分かりません。戦略的意義のない戦いをすることに何の意味
があったのか。
そんな中、些細な事件がありました。これが、後で尾を引くことになります。

洛陽に戻った曹丕の耳に、一つの讒言が入りました。先の些細な事件がもとで鮑を憎むようになった者からのものです。
直ちに罪に問いますが、(当然ながら)廷尉達の答えは微罪(罰金等)。これに不満を持った曹丕は、おのが本意を示し
鮑を処刑させます。
しかし…。曹丕ならば「春秋」は知悉しているはず。その中の叔向の逸話を思い起こせば、社稷の柱石たる鮑(曹操の
覇業の影に鮑の父・鮑信の支援あり)は、たとえ死に値する罪ありとしても許すべき存在であるはずです。ましてや、
その罪状があやふやなものであるならばなおのこと。

おのが恣意を通した曹丕。しかし、群臣達を失望させたであろう、このような行いをしたとなれば、いわゆる春秋の筆法
では…。

長くなるので続きます。

234 名前:左平(仮名):2009/05/24(日) 01:25:16 ID:85J6nSxv0
続き。
その事態は、極めて急に起こりました。鮑の処刑からほどなく、曹丕が崩じたのです。
病に臥してから一月足らず。当年齢四十の壮年で、武芸にも長け、持病もない彼の急逝は、当然ながら、波紋を投げかけ
ました(春秋の筆法で言えば、鮑を殺した報い、ということでしょうか)。
幸い、まだ意識がはっきりしている間に立太子は為されましたので、この点は良かったのですが、太子に曹叡が選ばれた
ことには、群臣達に多少の驚きがありました。先の、とつくとはいえ、皇后との間に生まれた嫡長子。なんの問題もなさ
そうですが、実母の死に方(死を賜った)は、尾を引いていたようです。

まあ、太子の過去はともかくとしても、一度は地方王になり、中央からは離れたものと思われただけに、その賢愚は未だ
定かならず。
ひとり新皇帝に呼び出された劉曄は、まる一日語り合い、その力量を概ね把握しました(一方で、曹叡もまた、群臣の中
で最も優れていると判断した劉曄を通じて、群臣達の賢愚や時勢を把握したものと思われます)。
秦始皇・後漢光武に近いがわずかに及ばない。劉曄の見立ては、そのようなものでした。
呉との小競り合いに対しての対応をみると、少なくとも、皇帝としては曹丕より上と思わせるに足るスタートを切ります。

さて、魏・蜀漢とも代替わりをした一方、呉は、引き続き孫権です。
自分とは親子ほども年の離れた魏の新帝。しかも、その器量をみるに、魏に揺るぎはありません。また、(魏に備える為
ではありますが)蜀漢と同盟関係になっていますので、攻めるわけにもいきません。
直ちに呉に危難が及ぶわけではない。しかし国威発揚の機も期待できない。そんな中、呉艦隊期待の大型艦の進水という
イベントがありました。そう、谷利の見せ場です。

大型艦の進水にはしゃいだか、停滞する現状に苛立つあまりの気晴らしか。一国の主としては軽率な言動を見せた孫権に
対し、厳しく、しかし真摯に諌めた谷利。それをしかと受け止めた孫権。
もう一人の皇帝が現れるのは、そう遠い日のことではありません。

235 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:20:53 ID:VtX07A/g0
三国志(2009年06月)

今回のタイトルは「孟達」。この名がまた出てきたということは…。諸葛亮がついに動き始めます。

「これを読んで感涙せざる者は人にあらず」。千古の名文として知られる「出師表」。「危急存亡の秋」という言葉は、
この時点の蜀漢にはややそぐわないところがある(南征に成功したことで国力はまずまず充実している)ものの、その
未来図が決して明るくないことを思うと、あながち過剰な表現というわけでもありません。
かつて、蜀の地において皇帝を名乗り強盛を誇った公孫述は、時勢に乗り損ねて光武帝に敗れ、滅びました。覆車の轍
を踏まない為にも、漢の再興という政権の正統性を維持する為にも、ここで戦う必要があると考えたわけです。
ただ、ことがことだけに、失敗は許されません。そこで諸葛亮は、ある人物に目を付けました。孟達です。

曹丕にいたく気に入られ、要地・上庸を任された孟達ですが、彼にとって、魏は居心地がよい所とは言えませんでした。
裏切り者の常とはいえ、魏の人々からは冷たい目で見られていることを、痛いくらいに感じていたためです。
「武皇帝(曹操)は…」。
かつて曹操は、降った敵将を重く用いました。もとは呂布の配下であった張遼などは、天下に名を轟かせる名将にまで
なりました。魏の人々にとって、張遼は、「旧主を見限った元敵将」ではなく「魏の誇るべき名将」なのです。
しかし…。曹操の生きた非凡な時は既に去り、人々は平凡な道義を振りかざします。そんな中では、孟達のような人物
の居場所はないのです。

 ただ…。曹操の創業の時は終わったのですが、今、帝位にある曹叡もまた、凡庸な人物ではありません。司馬懿を宛
 に配置したのは、呉・蜀漢の双方に目を光らせるための措置。中央から遠ざけるというのとは違うのです。そのこと
 を孟達が気付いていたら、どうだったでしょうか。

孟達を寝返らせる。諸葛亮からその案を聞かされた費詩は、孟達を「小人に過ぎない」と断じました。彼が魏に奔った
経緯を考えるとやや酷な物言いのようですが…結局、それが…。

長くなるので続きます。

236 名前:左平(仮名):2009/06/21(日) 01:22:24 ID:VtX07A/g0
続き。

諸葛亮と孟達との書簡のやりとりは続きますが、孟達はなかなか動きません。互いに「相手が動いたら連動する」という
発想に陥っていたためです。それに異を唱えたのは、魏延でした。
ここでの魏延はただの武人ではありません。「もし孟達が先に動いたなら、魏との戦いを始めるという栄誉は孟達のもの
となり、我らの大義は損なわれる。丞相は失敗しないよう慎重になる余りに、この戦いの原点をお忘れではないか」。
このようなことをずばり指摘してみせたのです。
先帝・劉備に見出され、蜀漢の柱石たる張飛をおいて要地・漢中を任された名将・魏延。諸葛亮も、彼を軽くみることは
しませんでしたが、武将を用いる力は、劉備には及びませんでした(一方で、蒋琬のエピソードをみると、文官を用いる
力は諸葛亮の方がまさっているのですから不思議なものです)。

このままずるずると年を越しては、自身の威令が利かなくなり、来るべき戦いにおいて支障をきたす恐れがある。魏延の
指摘を聞いた諸葛亮は、ついに決断を下します。
信頼する配下・郭模をあえて魏に奔らせ、孟達が動かざるを得なくなるよう仕向けたのです。郭模(および家族の)身の
安全は保障されるでしょうが、蜀漢のために蜀漢を裏切るという辛い任務です。
この苦肉の策は効きました。もともと孟達を嫌っていた申儀が、これにより、孟達謀反の確かな証言を得たからです。孟
達に対し、朝廷から召喚命令が出ますが…もちろん行くはずもなく。

しかし、その割には孟達の動きは鈍いままです。それもそのはず。彼が戦うであろう司馬懿のいる宛は遠く、また、洛陽
との使者のやり取りを考えると、準備期間は十分あると考えられたからです。
司馬懿もそのことは承知しているので、孟達の動きを鈍らせるよう策を施します。

西暦227年冬。魏・蜀漢の戦いは、水面下では、既に始まっています。

237 名前:左平(仮名):2009/07/25(土) 02:14:54 ID:wQjkGeU20
三国志(2009年07月)

今回のタイトルは「箕谷」。いよいよ、魏vs蜀漢の戦いが始まるわけですが…。

孟達がぐずぐずしているところへ、司馬懿が急襲を仕掛けます。まさに「神速」。完全に虚を突かれた形になったため、
兵の士気の差も歴然たるものがありました。
それでも十日余り持ちこたえたあたり、孟達の将器もそこそこはあったとは言えるのでしょうが…諸葛亮からの援軍も
しっかり防がれると、最早、打つ手はありません。
併せて、(魏から見て最前線で監視の目も緩くなりがちなことから)勝手気ままに振る舞っていた申儀も逮捕。魏の西南
方面がしっかりと平定された格好に。

諸葛亮からすると、思いっきり出ばなをくじかれた形になります。とはいえ、「攻撃は最大の防御」ともいうように、蜀
漢が生き延びるには、魏と戦うしかありません。
しかし、国力差はいかんともし難いものがありますし、何より、曹叡と司馬懿(ら群臣)との連携がしっかりとしている
以上、うかつなことはできません。

 こうしてみると、蜀漢・呉にとっては、もう少し曹丕に生きていてもらった方が良かったのか?ってな感じですね。
 何度も戦場に立ったことがあり、武芸にも秀でていた曹丕より、実戦経験の殆ど無い曹叡の方が軍事的手腕に優れる
 というのも、不思議なものです。

必然的に、諸葛亮達が考える進攻ルートは、慎重なものになります。諸将も概ね賛同しますが、ひとり異見を持つ人物が
いました。そう、魏延です。
漢中太守、ということは、魏との戦いの最前線にいるということ。前線の事情に明るい彼には、この戦いを有利に進める
成算がありました。長安急襲です。
長安は魏でも有数の要地でありますが、守る夏候楙には軍略の才乏しく、ひとたび攻めかかれば脆いもの。兵糧の備蓄も
ありますから、補給の心配もありません。
しかし、敵中に孤立し、殲滅される危険性がある以上、諸葛亮としては、受け入れられない提案でした。

長くなるので続きます。

238 名前:左平(仮名):2009/07/25(土) 02:18:52 ID:wQjkGeU20
続き。
自らの提案が却下されたことに不満を持つ魏延。しかし、諸葛亮の次の言葉に、さらなる衝撃を受けます。
「先鋒は馬稷」
この選択についての宮城谷氏のコメントはかなり辛口です。こと軍事面に関しては、諸葛亮は袁紹と同程度である、と。
行政面についてはまさしく名宰相である彼も、万能ではありませんでした。
もし、この時、黄権のような人物がいれば…。この頃から、蜀漢は人材不足に悩まされていました(魏延の提案を却下
したのも、前哨戦ともいえる段階で蜀漢随一の勇将・魏延を失うようなことがあったら…という危惧があったのかも知
れません)。

ともあれ、こうして、蜀漢の軍勢が動き始めました。

しかし、慎重な行動というのは、一方で、意外性に乏しく驚きをもたらさないものでもあります。蜀漢が仕掛けてきた、
といっても、策に乏しい正攻法での攻撃では、将兵の質量にまさる魏に勝つことは至難の業。
曹叡の反応は、迅速かつ適切。直ちに、曹真や張郃といった大物どころを派遣してきました。こうなると、蜀漢は苦戦
を免れません。

蜀漢の進攻ルートから外れていたことを逆手にとり、逆に漢中目がけて進攻する曹真は、ここで趙雲率いる部隊と接触。
激戦となります。
「常山の子龍はまだ生きていたか」と強敵の出現に喜ぶ曹真。
「(若い頃のようにひとりで百の敵にあたるとまではいかないが)戦場はふしぎな力を与える」と感じる趙雲。
数と兵の練度にまさる魏軍がじりじりと押していく中、自ら後拒を担う趙雲。劣勢は覆せませんが、この危機をどう
切り抜けるか。

…今回の魏延の書かれ方をみると、名将とはいかなる人か、ということを少しばかり考えさせられたような。

239 名前:左平(仮名):2009/08/23(日) 01:37:07 ID:bq1phsVL0
三国志(2009年08月)


またしても迂闊なことを。馬謖の名をを書き間違えてしまうとは。気を取り直して。

今回のタイトルは「街亭」。まあ、第一次北伐とくると、この名前は当然出てくるところですね。
まずは、前回の続きから。兵の数の差は大きく、蜀漢軍は撤退を余儀なくされ、ついに趙雲自らが後拒を担います。
その生涯を決定づけた存在である劉備を、戦場に斃れた関羽を思い、一人佇む趙雲。戦場に、一瞬ですが、静寂が
訪れます。
既に老齢に達してはいますが、長坂の英雄は未だ健在。ただ一騎とはいえ、敵に凄まじい威圧を与えます。
そして、魏兵の目に、ひときわ趙雲の姿が大きく映ったその時―

あっという間に数十の敵兵を屠り、部隊長を叩き落としました。部隊長自身は無事でしたから、趙雲に気圧された、
としか考えられません。地味な撤退戦とはいえ、個の武人の強さがかくも鮮やかに描かれたのは合肥の張遼以来か。

「趙雲には近づくな」。曹真の命をうけて追撃する第二陣の部隊長に、先の部隊長はこう言います。既に日も落ち、
ここは敵地。追撃するには危険なところです。たとえ怯、と罵られても、兵士の命には代えられません。そして、
この危惧は現実のものとなります。

翌朝、再度追撃を開始した魏軍が見たもの。それは、蜀漢―そのうちのかなりの部分は趙雲一人―に屠られた魏兵
で作られた牆でした。その凄惨さをみた魏軍の士気は落ち、曹真は兵を引きます。
準皇族である彼には、派手な武勲を求める必要性はありません。敵将の趙雲・ケ芝の首級は挙げられずとも、一定
の勝利を収めた以上、深追いする必要はないのです。それに何より、兵を労わる曹真には、牆にされた兵士の骸を
放置することはできませんでした。
「蜀の地では寝心地が悪かろう。みな連れ帰って葬ってやりたい」。
将にこういうことを言ってもらえる分、この魏兵にはまだ救いがある、というところでしょうか。

みごとに兵を引いた趙雲は諸葛亮に激賞されますが、報償を出そうとするのに対しては、きっぱりと拒否します。
最も成功した法家、と言われることのある諸葛亮でさえ甘いと思わせるほどに厳しい道を歩み続けてきた趙雲。
彼は、この翌年に逝去します。

長くなるので続きます。

240 名前:左平(仮名):2009/08/23(日) 01:39:56 ID:bq1phsVL0
続き。
同じ敗戦でも、趙雲のそれがそう思わせないほどにみごとなものであったのに対し、馬謖のそれは、甚だ無様な
ものとなりました。
副将の王平がまっとうな行動をとっているだけに、「策士、策に溺れる」を地でいく馬謖の判断ミスが余計に
目立つのです。

相手は「半世紀の武人」張郃。敵将を侮り、のみならず、策の危険性を軽視し、副官の指摘にも耳を貸さない。
兵書に通じているはずの彼が、最も基本的なところを見落としていたのです。
「彼を知らず己を知らざれば、戦うたび即ち殆し」。彼の敗戦は、必然でした。

王平に助けられ、辛うじて撤退した馬謖。しかし、これは単なる敗戦ではありません。その咎は、死をもって
償う他ありませんでした。
馬謖の将来を最も期待していたのは諸葛亮です。ゆくゆくは丞相にも。そんな未来図を描いていたでしょう。
しかし、法を枉げることはできません。辛い決断を下すことになります。

ここで馬謖を斬るべきだったのかどうかは、議論の余地があるところです。しかし、馬謖の失敗は、彼に嘱目
していた諸葛亮にも向けられます。「諸葛亮は万能ではない」。先にも言われてはいましたが、かなり辛口な
評価がされています。
為政者に問われるのは、ただただ結果のみ。事情を知る者には酷に思えるところですが、そういった、不条理
にも思えることをも引き受けなければならないのが為政者の宿命。

全く得るところなく終わった、第一次北伐。しかし、それでも、何もなかったわけではありません。
諸葛亮は、ひとりの偉才を拾いました。姜維です。

241 名前:左平(仮名):2009/09/26(土) 03:04:24 ID:sq1CW+Zq0
三国志(2009年09月)

今回のタイトルは「曹休」。姜維についての記述はないのですが、第一次北伐の余談、とでもいうべき話から
始まります。

かつて張既に託された、游殷の遺児・游楚。立派に成長し、太守となった彼のもとに、蜀漢軍の侵攻の知らせ
が届きます。
天水・南安の太守が早々と逃亡する中、ここが死に場所、とばかりに肚を括ると、きっちりと迎撃態勢を整え、
蜀漢軍に一撃を加えます。
游楚は学問を好まず、遊び好きだったそうですが、郡の官民の心を得たことといい、敵軍の状況を冷静に把握
したことといい、なかなか優秀な人物ですね。
戦力を分散していた蜀漢軍は、長居は無用とばかりに撤退。みごと、援軍の到来まで持ちこたえました。

近隣の太守が醜態を晒す中での、この活躍。宮中に上がった時の天然ぶり(?)もあって曹叡に気に入られた
彼の人生は、比較的穏やかなものだったようです。

さて、タイトルの曹休ですが…。この時、彼は、南の呉に備える立場にありました。
蜀漢と呉は同盟関係となっています。と、いうことは、両者が連携して魏と戦うということが予想されるわけ
です。そして、蜀漢が攻撃を仕掛けてきたということは…。曹休は、呉との戦いの準備に取りかかります。

孫権も、蜀漢が動いたことを知ると、魏との戦いの準備に取りかかります。しかし、過去数年の戦いの結果は、
というと、一進一退。それも、軍事のまずかった曹丕の時で、です。
天性ともいうべき戦略眼を持った曹叡が相手となると、これでは心もとない。孫権は、何らかの策略を用いる
必要に迫られます。

長くなるので続きます。

242 名前:左平(仮名):2009/09/26(土) 03:05:46 ID:sq1CW+Zq0
続き。

ここで白羽の矢が立ったのは、前線にいない鄱陽太守・周魴です(前線の太守が策をめぐらしても警戒されて
いるため難しい、との判断)。山越等の賊との戦いの経験もあり、なかなか優秀な人物ではありますが、これ
はいかに言っても困難な使命です。
何度も策を練っては却下され、ついには問責の使者が来て、剃髪して詫びるということも(演義では、曹休を
欺くための策の一環でしたが、ここでは、本当に策が思いつかないが故の剃髪)。上司の無茶な命令にこたえ
られずに謝罪を強いられる部下…。何か、身につまされます。
ようやく策ができ、孫権の了承が得られました。ここからが、大戦の始まりです。

周魴の内通という機密情報。曹休は、この情報を己の内にしまい込みます。曹叡に報告すると…と思ったので
しょうか。

数に劣る呉軍としては、賈逵の援軍が来る前に曹休の軍を殲滅したいところ。ここは、陸遜や朱桓といった、
呉の最精鋭が当たります。

周魴の内通が偽りであったと悟った曹休は激怒しますが、十万という大軍を率いていることもあり、総攻撃を
掛けます。
軍勢を分断されて苦戦を強いられますが、戦意は高く、劣勢とはいえ軍としての形は崩さないあたり、慎重さ
に欠けるなどと言われはしても、ひとかどの将帥であることは確かです。
とはいえ、敵の術中にはまり敗れたのには違いありません。曹休は、撤退を余儀なくされます。

援軍に向かう途中でこのことを知った賈逵。さて、どうするか。

243 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:42:15 ID:5TLCoJWz0
三国志(2009年10月)

今回のタイトルは「陳倉」。曹操等には及ばぬまでも、諸葛亮の軍事手腕に一定の成長が見られます。

まずは前回の続きから。曹休の敗退を知った賈逵は、彼が向かうであろう夾石に軍を進めることにします。そこ
には、撤退する曹休を待ち構える呉軍がいましたが、賈逵はこれを難なく蹴散らし、無事、曹休と合流すること
ができました。
全体的には魏の敗戦とはいえ、主だった将帥の戦死もなく済んだのは、ひとえに賈逵の功です。しかし…

なぜか、賈逵は曹休には嫌われていました。ともに戦場においては勇将でしたが、二人の勇気の質が違っていた
ため、とのことですが…自分の窮地を救ってくれた賈逵に当たり散らすあたり、第三者からみると、どちらの勇
気が優っているか、は言うまでもないような…。
その後、ともに経過報告を奏上しますが、曹休のそれには、敗戦の責を賈逵に押しつけようとするところがあり
ました。
どちらが正しいかは分かっている曹叡でしたが、皇帝である彼も、帝室の一員たる曹休には強く出られないため、
この件はうやむやのうちに終わります。
曹休はかくも大事にされていたわけですが、彼のプライドは深く傷つき、憤りの余り、間もなく没します。
初めての敗北が、結果として彼を死に追いやったわけです。敗北から学べなかった武将の悲劇、でしょうか。

…曹操が薨じてから十年足らず。しかし、彼とともに戦ってきた曹氏の多くが既に没し、世代交代しています
(曹洪はまだ生きているはずですが、曹丕の時代に一度失脚したためか触れられていません)。
そのため、曹真が一族をとりまとめる立場に立ちます。…ん?この流れは…?

長くなるので続きます。

244 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:45:04 ID:5TLCoJWz0
続き。

一方、勝利した呉ですが、こたびの戦の功労者である陸遜・周魴は篤く賞されます。それはよいのですが…ここに
呉の限界があります(後世の、人気がない原因でもあるような)。
詐術を弄して勝つということは、「敵には何をしてもよい」と考えているわけです。それは、一見正しいようですが、
そこには、人を引き付けるものがありません。人々を引き付けないことには最後の勝利は得られません。
「信なくば立たず」と言います。呉は、君主たる孫権からして、その信が欠けている。それがもたらすものは…。
…ともあれ、赤壁の鮮烈な勝利が、周瑜のみならず、呉という国そのものをも束縛してしまった、という皮肉な見
方もできるわけです。

さて、(遠い東方のこととはいえ)魏が敗れたということは、蜀漢にとっては好機であるわけですから、これ幸い
とばかりに、諸葛亮は兵を進めます。
しかし、彼の進攻ルートは、既に曹真らによって予測されており、戦場は、郝昭が守る陳倉になります。この時点
で蜀漢の苦戦は決まっていました。

小さい城とはいえ、先の游楚の勇戦を考えると、条件は格段に良い(籠城の準備も整っており、何より、早い段階
での援軍が期待できる)わけですから、郝昭達の士気は高く、諸葛亮が大軍を持って攻めかかったにもかかわらず
戦果を挙げられぬままに撤退を余儀なくされます(ここでの王双の追撃が魏には蛇足になります。というのは、王
双を討ち取ることで、蜀漢は劣勢を糊塗できたわけですから)。

まだ続きます。

245 名前:左平(仮名):2009/10/25(日) 22:47:11 ID:5TLCoJWz0
続き。

文章量からすると、やや少なく感じるくらいの陳倉の戦いですが、その中身はなかなか濃いものがあります。攻城
兵器(雲梯、衝車等)の投入、二重城壁、地下道での攻防…。
ただ、郝昭の勇戦は確かですが、ここでは、戦場における諸葛亮の鈍さが強調されているように見えます。

一度ならず二度までも戦果なく撤退した諸葛亮。しかし、「応変の才に欠ける」と評されたとはいえ、彼は愚物では
ありません。ついに、あることに思い至ったのです。そう、范雎の遠交近攻の応用―領土の面的確保―です。
魏の予想を裏切る速さで再び兵を起こすと、武将・陳式をして陰平・武都を攻めさせ、これの確保(及び保持)に
成功したのです。
…しかし、「水軍を預かったことがある」「山岳戦もまずくない」くらいにしか書かれていませんが、これだけの戦果
を挙げた陳式、なかなかの将ですね。蒼天で、徐晃相手に堂々としていたあの雄姿も伊達ではないといったところ
でしょうか。
しかし、本作での諸葛亮はなかなか扱いづらい存在ですね。私心ない忠臣であり、かつ卓越した行政手腕の持ち主
である一方で、将帥としては意外性に欠け鈍重、皇帝でさえ止められない独裁者でもあるわけですから。

さて、ラスト、ついに孫権が皇帝を称したわけですが…魏・蜀漢両国の反応やいかに。

246 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:52:23 ID:A/4303W/0
三国志(2009年11月)

今回のタイトルは「三帝」。名実ともに、三国の時代となります。

まずは、孫権の皇帝即位を知った蜀漢の反応及び対応が語られます。漢の正統を自任する蜀漢としては、孫権の
皇帝即位は到底是認できないものではあるのですが…ここは、丞相・諸葛亮の現実的判断に従うこととなります。
 まずは、中原をおさえている魏との戦いを優先する、ということです。帝位を僭称した孫権の非を糾弾するの
 は、その後で、と。
 しかし、もし、蜀漢が孫権の皇帝即位を非難し同盟を破棄したなら、孫権はすばやく帝位を降りて魏に詫びを
 入れ、共同して蜀漢を攻めることもありうる、と(諸葛亮が憂慮した、と)いうのは、これまでの孫権の言動
 をみるとありそうなのが何とも。孫権、信用されてませんね。
祝賀の使者として衛尉の陳震が派遣されます。このことは蜀漢の反応を気にしていた孫権を大いに喜ばせました。
諸葛亮の外交には裏がない。それは、一見すると非常に稚拙なようではありますが、実は、最も強固なものでも
あります(ある意味で、敵にも味方にも信用されているわけですからね。信用は大事です)。
名の通り、権謀術数の限りを尽くしてしたたかに生き抜いてきた孫権には、この逆説が分かります。彼が諸葛亮
を絶賛したのも、こういうところを認めたからですね。
 それにしても、諸葛亮の軍事的手腕については総じて辛口に書かれていますが、内政及び外交手腕については
 絶賛といっていい書かれ方です。
 「諸葛亮は信と誠の人である。それがすべてといっていい」。
 政治には巧みだが軍事には疎い。『子産』の子罕などがそうですが、完全な人はなかなかいないものです。

長くなるので続きます。

247 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0
続き。

この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を
受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。
諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。

 孫権の皇帝即位の前年に、呂範が他界します。孫権は、彼を雲台二十八将の一人・呉漢(序列第二位)に例
 えます。この際、既に亡くなっている魯粛をケ禹(同一位)に例えていることから、死してなお、魯粛への
 評価が高いことが分かります。天下平定の計略を示したのは彼一人。その死をもって、孫権の、天下平定の
 計略は潰えたということでしょうか。それ以降の、孫権の魏への対応を考えると、そんなふうに思えます。

さて、魏は無反応だったわけですが…宮城谷氏曰く、この時代は四国時代と言えなくもない、ということで、第
四の勢力―遼東の公孫氏―のことが語られます。
(実は、単行本第八巻の付録にもこのあたりのことが書かれています)
西暦229年時点での公孫氏の主は、公孫淵(字は文懿、というのが知られるようになったのは、ここ数年の皆
様の丹念な文献チェックの賜物ですね)。
初代の公孫度の孫で、四代目にあたります(公孫度―康―恭(康の弟)―淵(康の子))。
魏に服属している形なので名目上は侯に過ぎませんが、領内では王、いえ、内心では帝の如く振る舞っています。

そんな彼に、孫権は使者は派遣したわけですが…帝気取りの公孫淵に向かって「なんじを燕王とする」と言った
ところで何のありがたみもないわけで…。さすがの孫権も、遠い遼東のことまでは、十分に把握していなかった
ということでしょうか。あるいは、衰えの兆候…?
(衰えうんぬんは、あくまで個人的な思いであって、作中でそのような書かれ方をしているわけではありません
ので、念のため)

まだ続きます。

248 名前:左平(仮名):2009/11/28(土) 15:55:30 ID:A/4303W/0
続き。

そうこうしているうちに、西暦230年。この年、魏は本格的な軍事行動を起こそうとします。蜀漢が対魏戦の
準備を着々と進めていると知った曹真が、機先を制してこれを討つことを考えたのです。

彼我の国力差を考えると、孫資の言うとおり、魏から無理に戦いを仕掛けずともよいのですが、今や魏軍の重鎮
たる曹真の意見をむげに取り下げることもできません(それに、敵に謀られて〜というわけでもありませんし、
蜀漢の攻勢を挫くという意義もある以上、無意味な戦いでもありませんからね)。
結局、秋になって、出撃が決定します。曹真と司馬懿がともに蜀漢に攻め込もうというのですから、大戦になる
ことは必定でした…が、折からの長雨のため、軍は進めず。
呉に備えるため、洛陽を発ち許昌に滞在する曹叡に、華歆・楊阜達が諫言を呈します。

最後は、この楊阜のこれまでの生き様が描かれます。
時を遡ること、約二十年。手痛い敗北を喫したものの、曹操が去った後、勢力を盛り返して涼州を荒らす馬超を
倒すべく、姜叙の母達とともに蜂起する、というところまでです。
文官・武官というくくりでは文官なのでしょうが、なかなかどうして、苛烈な半生です。

249 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:32:42 ID:hGkpiVxC0
三国志(2009年12月)

今回のタイトルは「曹真」。曹真についての記述自体はさほど多くないと思うのですが、この後のことがあります
からね…。

今回は、前回の続き、楊阜vs馬超です。辛うじて馬超のもとを脱出した楊阜は、姜叙達とともに馬超を打倒すべく
動き始めます。この計画が漏れなかったところに彼らの強運が、そして馬超の不運がありました。
蜂起するのは、馬超が拠点とする冀城にほど近い鹵城。ここを修築し、攻撃に備えるのですが、なぜここなのか?
それには、理由がありました。
楊阜達が蜂起!これを知った馬超は激怒し、自ら出撃します。鹵城は小さく攻略にはそう時間はかかるまい。そう
思った馬超は軽装で城を出ました。

…実は、これが狙いでした。冀城から遠く大きな城であれば、馬超も用心していたでしょうが、鹵城が近く、かつ
小さい城であることから、物資等はおおかた冀城に残していたのです。
そして、楊阜の仲間は、冀城内部にもいました。
彼らは、馬超が出撃したのを見届けると、直ちに蜂起。物資を確保するとともに馬超の家族を殺し、迎撃態勢を整
えます。
このことを知った馬超は直ちに取って返し、冀城を落としますが、姜叙の母を殺したことで憎悪の連鎖を生み、楊
阜達の戦意をさらに高めることになりました。
結局、馬超は鹵城を落とすことはできず、南に落ちてゆくことになります。
※後に曹操から賞賛された際、先見の明があったことをたとえるのに楊敞の名が出ましたが、霍光の妻〜となって
 います。「楊敞の妻」が正しいので、誤記だと思うのですが…。単行本待ちですね。

長くなりますので、続きます。

250 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:34:13 ID:hGkpiVxC0
続き。
ともあれ、その後の地方勤務も含めて高く評価された楊阜は、曹叡の代になって、中央に呼ばれます(彼の登用自
体は、曹丕の時代から検討されていたようになっています)。

このような経緯で中央に召された楊阜は、曹叡に対し、時として厳しい諫言を行います。土木建設事業を好む、と
いうのが微妙なところではありますが、為政者としての資質において父・曹丕を上回る曹叡は、楊阜の諫言をよく
聞き入れ、施政に生かしていきます。
制度上は、皇帝の賢愚に関わりなく国政の運営が行われるようになっているとはいえ、やはり皇帝の資質は重要で
あります。名君が現れれば国は活気づき暗君が現れれば国は沈滞する。今も昔も変わらない真理がここにあります。

前述のとおり、軍事的な視点も持ち合わせているであろう楊阜の目には、悪天候が原因とはいえ、こたびの戦いの
戦況が思わしくないことが見て取れました。
曹真の、時勢のみる目に衰えがあるのか?今の蜀漢は、弱くもなく、乱れてもいない。そんな相手を倒すのは容易
ではない。なぜ、今なのか…、と。

結局、長雨が止まぬ中、ついに撤収命令が下され、曹真達は傷心のうちに撤収することになります。この時、曹真
は、重い病の床に臥していました。出師を願い出た自分が、病であるからといって引くことはできない。その意地
が、かえって病状を悪化させたのでしょうか。
皮肉なことに、曹真達が撤収してからは、雨は降りませんでした。天には、まだ蜀漢を滅ぼす意思はない。国力面
では圧倒的な差をつけているとはいえ、相手に天の加護があるのか、という意識は、今後の魏にとっては、厄介な
ものとなりそうです。

まだ続きます。

251 名前:左平(仮名):2010/01/01(金) 01:42:33 ID:hGkpiVxC0
続き。
撤収から数ヵ月後、曹真は息を引き取ります。不調に終わったとはいえ、先の蜀漢攻めは、呉が大規模な軍事行動
を起こせないうちに…と判断してのもの。彼もまた、楊阜と同様、国を思って行動する忠臣でありました。
とはいえ、ここで曹真をも失ったことは、魏にとっては、不吉な影を投げかけることになります。

さて、呉の方は、といいますと…。
念願の帝位に就いたとはいえ、彼我の国力差に変化があったわけではありません。帝位をより盤石なものにするため
にも、孫権としては、軍事的な成果を挙げる必要があります。
呉にとって、目の上の瘤となっているのは、合肥。この頃、満寵の指揮のもと合肥新城が築かれたことで、ますます
攻め辛くなっています。
が、この頃、満寵も酒に溺れいささか衰えがみられる…という話があったことや、魏の主力が対蜀漢戦に向けられて
いることから、孫権は、合肥攻略を実行に移します。
おおっぴらに合肥攻略を知らしめて魏軍を集めさせ、やがて兵を引いたその時に攻撃を仕掛けるというものです。策
そのものはなかなかのものだったのですが…

…結果は、みごと失敗でした。満寵、酒は飲んでも飲まれてはおらず、孫権の策を看破していたのです。というか、
孫権が自らの策に溺れた感がありますが。
(孫権はきっと策を弄しているに違いない、と思われ警戒されていた)

それでも懲りない孫権。満寵が駄目なら今度は、とばかりに、彼と仲が良くない王淩に策を向けます。こちらはいく
ばくかの成果あり。
王淩、まっすぐな人なだけに、策には弱いみたいです。

252 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:32:51 ID:94F5vzQz0
三国志(2010年01月)

宮城谷氏が、2月1日から読売新聞で連載されるとのニュースが入りました。タイトルは「草原の風」。主人公は、
光武帝・劉秀(挿絵は、宮城谷作品ではお馴染みの原田維夫氏)。本作は楊震の「四知」から始まってますので、
時代的に繋がってくるかも知れません。

さて、今回のタイトルは「天水」。いよいよ、諸葛亮と司馬懿の直接対決です。ただ、両軍内部に対立の芽が…。

曹真が病に倒れ、蜀漢への備えが薄くなることを危惧した曹叡は、後任に司馬懿をあてます。「司馬」の氏を名乗る
からにば文武兼備でなければ、と意気込む彼にとっては、来るべくしてきた任務と言えるでしょう。
それに、彼にとっては、蜀漢は因縁もあります(そのあたりの経緯は「魏国」の回で触れられています)。あの時、
何故、武帝(曹操)は軍を蜀に進めなかったのか。あるいは、「足ることなきを楽しむ」という心境だったのか。
…今となっては、分かりません。ともあれ、その結果として蜀漢が興り、彼は、それを討伐すべく任地に赴くことに
なりました。
 儒学は軍事を軽侮する(孔子が「信なくば立たず」と言った際、真っ先に軍備を諦めている)。兵法を極める者は
 老荘思想的である…。司馬懿は、(それだけではないとはいえ)本質的には儒学の徒のはず。この点は、諸葛亮も
 同様でしょう。と、なると…。

入念な偵察によって諸葛亮の進軍ルートをつかんだ司馬懿は、上邽に武将を派遣し、守らせようとします。しかし、
ここで暦年の勇将・張郃が「雍と郿にも派遣すべき」と主張します。ともに交通の要衝とはいえ、進軍ルートからは
外れているし、軍を分けることは、かつての楚vs黥布の例からも、よろしくない。そう判断した司馬懿は、この進言
を退けました。諸葛亮の進軍ルートは予想通り。ここまでは順調ですが…。

長くなるので、続きます。

253 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:34:13 ID:94F5vzQz0
続き。
しかし、戦場は生き物とでも言うべきか。司馬懿の目算はあっさりと狂います。こともあろうに、上邽に派遣した武
将達が野戦に及び敗れたのです。こうなると、蜀漢軍への抑えが利かなくなり、後手に回ってしまいます。
蜀漢軍が上邽に留まっている(周囲の麦を刈り、挑発及び兵糧確保を行った)との知らせを受けると、相手が待ち構
えていることを承知で、向かわざるを得ません。
司馬懿は昼夜兼行で向かい、諸葛亮の予想よりも早く戦地に着きました。かつての諸葛亮であれば、これで動揺した
でしょうが…。彼は、将帥として、かなりの成長を見せていました。
 かつては(決断の遅さから)袁紹に例えられていたのが、今は(奇策を好まないという点で)関羽に似ている、と
 評されています。この数年での急成長がうかがえます。

戦いは、蜀漢軍優勢で進みます。ただ、慎重になる余り本陣を後方に置きすぎていたため、魏軍の動きの把握が遅れ、
決定的勝利を逸しました(この際、司馬懿は、劣勢をみるとあえて本陣を前に出して崩れを防いでいます)。
司馬懿は、渭水を渡ると壊滅すると分かっているため、高地を利用した陣を築き、蜀漢軍の猛攻をしのぎます。
ただ、こうしているのは、勝算あってのことではありません。司馬懿は窮地に陥ります。

やがて、蜀漢軍が退きます。これは誘い出すための陽動。それが分かっているため、追撃は極めて緩慢なものになり
ますが、ここでまた、張郃が進言します。
しかし司馬懿はまたしてもこれを却下。前回はそれなりに却下する理由がありましたが、今回はさしたる理由もない
ように思われます。張郃は曹操と同じく実戦派。司馬懿は理論派。そのあたりの違いを嫌ったのでしょうか。

まだ続きます。

254 名前:左平(仮名):2010/01/24(日) 01:36:41 ID:94F5vzQz0
続き。
追撃している、という体裁を整えるためだけの進軍。雍と郿に軍を派遣しておれば、このような事にはならなかった
のでは…。それがまた、司馬懿には癪に障ります。
このような状況に諸将は不満を抱きます。勝算のない司馬懿は、その戦意に賭け、攻勢に出ます。…らしくない戦い
方です。

魏軍が攻勢に出た。これを見つめる将、魏延。
彼は、この戦いに先立ち、諸葛亮とは別行動をとって潼関を目指したいと申し出ますが、却下されました。自尊心の
強い魏延に自由行動を許すと、半独立勢力になりかねない、と危惧したためです(ここで董卓の名が出てくるあたり、
諸葛亮の警戒ぶりがうかがえます)。
魏延には言い分があります。天水郡を取ったところで魏は揺るぎもしない。しかし、長安を取ればどうか。中原に蜀
漢の軍が至れば、漢の御代を懐かしむ人々の心を動かすことができるのではないか、と。
かつて劉備は、どれだけ曹操に敗れても、決して屈しなかったではないか。いま、その志をたれが継いでいるという
のか。皇帝(劉禅)は成都から動かず、諸葛亮は領土拡張に動くのみ。
諸葛亮を「怯(臆病)」と罵りつつも、その心中には哀しみがあります。「われを知ってくれたのは、ただ昭烈皇帝
(劉備)のみか」。

ともあれ、彼にとっては、眼前の魏軍は壊滅させるべき敵。曹仁、張遼、そして関羽なき今、魏延は恐らく中華最強
の将。その兵の強さも半端なものではなく、魏軍はたちまちにして圧倒されます。
劣勢を見た司馬懿はあっさりと退却し、陣にこもります。巻き添えを食って危い目にあった張郃は激怒しますが、司
馬懿はこれを無視。諸葛亮と魏延の対立は路線対立とでも言うべきもの(双方に理がある)ですが、司馬懿と張郃の
それは、どこかすっきりしないものがあります。ここで、長雨。これが、どう影響するか。

255 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:09:07 ID:???0
三国志(2010年02月)

今回のタイトルは「悪風」。この、意味するところは果たして…。

前回のラストで触れられた長雨が、間接的にですが、今回の諸葛亮と司馬懿の対決に決着をつけることになりました。
例年にない長雨。それとあわせてもたらされた、李厳(改名して李平)からの知らせは、諸葛亮に撤退の決断をさせる
には十分すぎました。
長雨で補給路が断たれてしまっては、いかに戦況が有利とはいえ、戦えません。諸将に異存が出なかったのも、無理も
ないところでしょう。
もちろん、将帥として成長した諸葛亮のこと、後拒にも抜かりはありません。

蜀漢軍、撤退開始。
この知らせを受けた司馬懿は直ちに追撃を命じますが、ひとり張郃は異を唱えます。魏にとっては、今回の戦いは防衛
戦。撤退する軍勢をことさら追撃する必要はないのです。しかし、司馬懿はこれを却下。不満を抱きつつも、方針が追
撃と決まった以上、それに従うのが武人の務め。張郃は、猛烈に追撃を開始します。
老練な張郃ですが、罠や伏兵を警戒しつつも、猪突猛進。時に忘我の境地に立ってこそ、無類の強さを発揮することが
ある。この時の張郃がまさにそれで、結果として、蜀漢軍に少なからぬ損害を与えます。
しかし、国境付近の木門まで追撃した、その時…
…蜀漢軍の伏兵の放った矢が、張郃に命中。即死ではなかったようですが、この傷がもとで、張郃は落命します。

将兵は名将の死を大いに嘆き悲しみましたが、司馬懿は、どこか心が軽くなったことを感じます。曹操の戦い方を継承
する唯一の存在であった張郃がいなくなったことで、自分の戦い方への批判者がいなくなった。そういうことでしょう
か。
ともあれ、蜀漢軍が撤退したことで、司馬懿は、勝利したという形を作ることができました。曹操以来の名将・張郃と
引き換えにするにはどうかという気がしますが。

続きます。

256 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:10:57 ID:???0
続き。
凱旋した司馬懿及び諸将には褒詞が授けられ、褒美や昇格といった栄誉が授けられました。このあたりの要領の良さが、
司馬懿が「政治的な人物」であるということでしょうか。
張郃についても、「壮候」と諡され、爵位は子に受け継がれましたし、何より、皇帝がその死を大いに嘆き、それ故に諌
められるくらいですから、それなりに栄誉は与えられてはいます。
しかし、(個人的には、ですが)どこかすっきりとしません。名将・張郃を使いこなせなかった司馬懿。曹操と比べると
スケールダウンしている感は否めません。
…こうなると(「三国志」である以上、無理な話とは思いますが、為政者の堕落した最悪の事例として)王衍の末路まで
描いていただけないものか、と思ったりします。

一方、無事に撤退した諸葛亮ですが、長雨による補給路の遮断が予想ほどではなかったことに疑念を抱き、李平を詰問し
ます。この際の李平の応答が諸葛亮を激怒させ、彼を失脚させるに至らせました。
普通、このあたりの経緯は、李平の怠慢(もしくはサボタージュ)とされていますが、真相はどうであったか。李平が諸
葛亮を敬仰していたことから、違う見方が必要では…という指摘がされています。
「無私の人」「法の人」である諸葛亮も人間。結果として、自身の過ちをなすりつけた形になることもある、と。

一方、呉に目を転じると…。孫権、欲求不満の様子。蜀漢と魏とが死闘を演じる中、漁夫の利を狙えそうなものですが、
目立った成果が挙げられません。
夷州(台湾とされています)・亶州(九州南部の島とされています)の探索も、原住民を連れ帰っただけに留まります。
そんな中、再び、遼東の公孫氏に目を付けるのですが…。

続きます。

257 名前:左平(仮名):2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0
続き。
夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応
できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の
失態につながっているようです。
そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい
ます。
さて、これをどうしたものか。皇帝の意向は殲滅ですが、魏にしても海上での戦いは未知の領域。と、なると…。

ここで田豫の名が浮上します。かつて劉備や公孫瓚に仕えたこともある歴戦の名将は、山東半島の突端、成山でひたすら
呉の船団を待ち続けます。
利を得るよりも害を除くことを重視する田豫は、諸将の不満の声を聞き流し、暴風雨にさらされ、成山で難破した呉の船
団をやすやすと捕獲・撃破しました。
正使を捕斬したわけですから、一定の成果を挙げたわけです。
しかし…田豫は、青州刺史・程喜の讒言を受けます。詰めが甘かったため船団が積んでいた財宝類の確保ができなかった、
というのです。
(この時点では程喜は清廉な人物とみられていたとはいえ)曹叡がこの讒言を聞き、田豫の功を軽く見たというのは、何
かいやな感じがします。
この「悪風」、単に呉の船団を襲った暴風雨を示すのではないような。そんな感じがあります。

258 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。
と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。

さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、
劉備と縁があった人でもあります。
謹厳実直な人となりで知られる彼は、優れたバランス感覚の持ち主であるとともに、帝王の言動の重さというものをよく
理解している人でもあり、まさに国家の重鎮というべき存在。
(なぜ史書に伝わっているのか、と言ってしまうと野暮ではあるのですが)彼の諫言は、密かに行われていたといいます。
なぜ密かに、という疑問があるわけですが…個人的には、「王に戯言無し」ということを意識していたのではないか、と
思います。
 個人的な話かつ時事ネタで恐縮ですが、現内閣・与党の面々の言動のひどさを見るにつけ、この言葉がしばしば私の脳
 裏をよぎります。彼らは、これまで一体何を学んだのでしょうか。作中では散々な書かれようだった袁紹・袁術でも、
 この連中よりももっとましではなかったか、と。
帝王の言葉は極めて重く、また、誤りがあっては取り返しがきかないものです。誤りがあれば当然に正されるべきですが、
誤りがあったこと自体、帝王の尊厳を傷つけるもの。表立って諫言することは、帝王の誤りを明らかにしてしまいます。
それゆえ、諫言は密かに行うものである…。これは、臣下としての、彼の美学とでも言うべきものでしょう。

続きます。

259 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0
続き。

陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が
経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。
ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。
宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯
な諫言に打たれ、規模縮小という折衷的な結論に至りました。一方、曹叡の愛娘の葬礼については、結局諫言を聞き入れ
ませんでした。

続いて、もう一人、劉曄です。この人は、皇帝には有用でも国家にとってはどうか、と、一筋縄ではいかない人物として
描かれています。
状況によって正反対の意見を言う(例:群臣の前では蜀漢を討つべきではないと言い、曹叡の前では討つべきと言う)と
なれば、確かにそのようにみえます。
彼はその故に、曹叡に翻弄され、ついには精神を病んで失意のうちに没するという哀しい最期を遂げるわけですが、では
なぜ、時に正反対の意見を言ったのか、となると、そこには深謀遠慮がありました。
「事は密を以って成り語は泄を以って敗る」というわけです。帝王たる者が秘密を軽々しく外に漏らすべきではない、と。
分かる人には分かったのですが、どうも劉曄、社交的な人ではなかったようで、その真意が理解されなかったようです。
曹操の時代であれば、切れ者の軍師として働けたのでしょうが…。

このあたりに、曹叡という人物の思考のあり方がうかがえるようです。聡明な曹叡ではありますが、このような癖のある
人材を生かせなかったという点はややマイナスですね。

続きます。

260 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:16:55 ID:???0
続き。

とはいえ、曹叡は決して凡君・暗君の類ではありません。前述の、愛娘への過剰な哀惜も、国政の運営が大きな過失なく
行われているがゆえの余裕ともいえるわけです。

一方、魏人の目の届かない海上では…密かに、南に向かう船団の姿が。それは、呉に向かう、遼東の使節。彼らは、主・
公孫淵が呉へ臣従する旨を伝えに来たのです。
これを聞いた孫権の喜びようは相当なもので、直ちに大規模な使節団の派遣を決めます(先の夷州・亶州探索の時と同様、
「兵一万」。しかも今回は閣僚級の執金吾まで付きます)。
しかし、群臣達は公孫淵の真意を疑い、こぞって諫言を呈します。公孫淵が信用に値するかも分からないのに…と思えば
当然のことでしょう。それに、先の探索には「人狩り」説もあるように、呉は人口不足気味。そんな中で貴重な兵を一万
も付けるのは…。
しかし、孫権はこれを強行します。何故か。それは、呉・蜀漢・遼東の三方から魏を攻め、疲弊を誘うくらいしか、近い
うちに魏に勝つ方策がないではないか、という孫権独自の考えに基づくものでした。
十九歳で兄の跡を継いだ孫権も、既に五十を過ぎました。曹操・劉備はともに六十代で世を去ったことを思えば、残され
た時間は少なく、しかも彼我の力の差は縮まるどころか開く一方。何か起死回生の一手がないか、と模索する中、突如と
して訪れた好機、と捉えるのも無理からぬところでしょう。
しかし、「自分の発想は(周瑜・魯粛の如き)非凡な臣下にしか分からぬし、実行し得ない」と思っているのだとしたら、
それは奢り。非凡な臣下がいないと思うのであれば、そのままの形で(自分の発想を)実現させるのは不可能だという単
純な真理が見えていないのです。

続きます。

261 名前:左平(仮名):2010/04/03(土) 11:18:12 ID:???0
続き。

ともあれ、呉の使節団は出港しました。時は春。孫権は上機嫌で送り出しました。その末路がいかなるものになるかも
知らずに。
往路は、まずは無難に進み、無事、遼東に到着しました。しかし、どこか様子が変です。呉に臣従するという割には、
遼東側に謙譲の姿勢が見られないのです。
(呉に臣従する以上、呉の使者の下に立つべき、と言われた公孫淵が)「困ったな。われは人をみあげたことがない」。
と言うあたり、使者を派遣した意図が何なのかさえ分からなくなります。
これには、呉側も疑心を抱き、兵の数を恃んで…と思っていると…「これが、彼らのさいごの夜となった」のです。

…呉も、遼東も、互いに相手を利用することしか考えていなかったということでしょうか。
劉曄の最期のところで、「巧詐は拙誠に如かず」という言葉が出てきました。劉曄については、そう言うのはいささか
酷ではないか、と書かれていましたが、彼らはどうなのでしょうか。
以前の回で、孫権は、諸葛亮の誠実さを賞賛していますが、自身はそのようにはできません。難しいものです。

262 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:44:15 ID:???0
三国志(2010年03月)

今回のタイトルは「張昭」。呉の重鎮・張昭の最後の見せ場(?)があります。

まずは、前回の続きから。正使・張弥の命をうけ、津に残る軍勢への連絡を託された健脚の二人。普通なら、何とか目的を
果たすところですが…ここでは、あっけなく討たれました。
張弥達が気付いた時には、時既に遅し。自らを縛って投降した一部の兵士を除き、ことごとく倒され、首をとられます。

…公孫淵は、はなから、呉に臣従する気はありませんでした。呉が送ってきた使節団と軍勢の人数の規模はいささか想定外
だったとはいえ、その殲滅計画には抜かりはありません。
津に残る軍勢も、警戒はしていましたが、馬の買い付けという役目もある以上、馬市が立つと無視することもできません。
同行してきた商人達を下ろすと…やはり、罠でした。
商人達も飛矢に倒され、将の賀達をはじめ、その殆どが戦死します。生き残れたのは、辛くも津を脱出できたごく一部の者
のみ。

孫権のもくろみは、完全に潰えたのです。先の探索でも、一万の兵の多くは病に倒れ亡くなったといいますから、短期間に
約二万もの兵を失ってしまったのです。
孫権の怒りは凄まじく、復讐戦を行うことは確実と思われました。季節は冬。群臣の気も沈みがちです。
ここで、諫言を呈する者が現れます。薛綜です。

続きます。

263 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:46:21 ID:???0
おっと…今回は4月です。コピペの修正を忘れてました。

続き。

宮城谷作品のファンであれば、「薛」という字に覚えがあるはずです。そう、孟嘗君・田文の領地です。田文の死後、後継者
争いがあり国は滅ぼされましたが、その一族まで消滅したわけではありません。
時が下り、高祖・劉邦が天下を取ったとき、その子孫という兄弟に領地を授けるということになったのですが、二人は互いに
譲り合い、やがて逃げ落ちます。二人は、劉邦への批判者となり、田氏あらため薛氏を名乗るようになります。
薛綜はその子孫の一人です。
 「草原の風」では、陰麗華が管仲の子孫と描かれていましたが、こうしてみると、「○○の末裔」というのは、辿ればある
 ものです。
さて、この薛綜、実はこの少し前まで、孫権の二男・孫慮に付けらていました。若年ながらできのよい孫慮は、幕府を開き、
ある程度の独立した権限を与えられるほどになっていましたが、若くして亡くなったため、中央に戻されていたのです。
 即位後の孫権、どうも運に見放されていますね。夷州・亶州の探索、遼東への使節団は自らの失策ですが、できのよい息子
 に先立たれるというのは、掛け値なしに悲運です。
 孫氏一族のうち、ただ彼のみが長寿に恵まれたのは、果たして幸せなのかどうか。
ともあれ、薛綜の理路整然とした諫言を受け、孫権は、無謀な復讐戦を思いとどまります。

続きます。

264 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:47:14 ID:???0
続き。

諫言自体は、薛綜以外にも、陸遜等、数え切れないほど為されましたが、ひとり、肝心な人物の名がありません、張昭です。
自己嫌悪に陥っている孫権、これにかっときたのか、張昭の屋敷の門外に土を盛ります。「出てくるな」というわけです。
これをみた張昭も負けてはいません。「あの愚かな天子は、このように正言を吐く臣下の口を閉じさせたのだ」と、こちら
は門内に土を盛ります。絶対に自らは出ないという意思表示です。
孫権の方が謝り、土を除けますが、内側からの土に阻まれます。意地の張り合いは張昭の方に軍配が上がりました。という
か、ここにきて、孫権は、張昭の存在の大きさを思い知らされたのです。
既に、呉という国の基礎は固まっています。以前であれば常識を超えた臣下が必要でしたが、今や、常識を踏み外さない臣
下こそが必要なのです。張昭は、そのために欠かせない人物でした。
ここは、後難を恐れた息子達が張昭を連れ出したことで和解が成立。内心はともあれ、二人の関係は修復されました。
それを示すのは、彼への諡。「文」という、最高の諡号が授けられたのです。

続きます。

265 名前:左平(仮名):2010/04/25(日) 21:47:45 ID:???0
続き。

ここで、曹丕の名が。父・曹操に「武」という諡号を付けたわけですが、事績を、そして、生前の曹操の言動を鑑みれば、
「文」と付けるべきではなかったか。この点からも、徳が薄いと言われています。

さて、呉の使節団を殲滅し、正使・副使らの首を魏に差し出した公孫淵ですが、使者の復命に疑心暗鬼を生じ、魏の使者に
対し、過剰な警戒を示しました。
このことが、魏への心証を大いに悪くしたわけですが…さて、どうなることやら。

266 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:52:17 ID:???0
三国志(2010年05月)

今回のタイトルは「流馬」。いよいよ西暦234年。魏と蜀漢との一大決戦の時が近づきつつあります。

…とその前に。この年、山陽公、すなわち後漢最後の皇帝であった献帝・劉協が逝去しました。既に、曹丕の時に、どの
ような礼をもってするか決められていたようで、粛々と葬礼が執り行われました。後嗣は嫡孫。劉協の享年が五十四です
から、成人していたかどうかは分かりませんが…ともあれ、山陽公の家は、この後も続きます。

この何回かは、主に遼東情勢が書かれていましたが、この間、蜀漢はどうしていたかというと…ひたすら力を蓄えること
に専念していたようです。過去の出師は、その多くが兵糧不足のために撤退に追い込まれたことから、三年がかりで充分
な備蓄が為されました。
その一方で、諸葛亮自ら兵の訓練に当たります。第一回の出師の時からすると、将兵とも、見違えるほどの成長を遂げた
のです。
第一回の出師の時点では凡将だった諸葛亮が、今回は、将兵を手足の如く動かせる名将と呼ばれるほどになっています。
そして、その成長は、単に自身の能力だけではありません。人材を使うことにも目が向くようになっているのです。

この頃、劉冑なる人物が叛乱を起こします。これまでなら諸葛亮自ら赴くことも考えられたところですが、このことを
知った諸葛亮は、馬忠を遣わすこととしました。
馬忠、字は徳信。もとの姓名は狐篤(狐は母方の姓)。姓名とも変わったという珍しい経歴を持つ人物です。

267 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:53:32 ID:???0
続き。
馬忠が中央に知られたのは、上司の閻芝の命を受け、兵五千を率いて劉備の救援に赴いた時のこと。この時劉備は、黄
権を失ってしまったが狐篤を得たと喜んだといいます(ところで、閻芝はどうだったんでしょう)。
行政官としては叛乱が鎮定されてほどない郡をみごとに治め、将としてもそつのない馬忠は、まさに文武兼備。諸葛亮
にも気に入られ、文武の職を歴任します。

人材の重要性を感じる諸葛亮。それは、馬忠にも当てはまります。この時、馬忠の配下にいたのが、張嶷。若かりし時
の話から、胆力があり武勇に秀でたことがうかがえますが、その軍事的才能には目を見張るものがあります。
別の叛乱の際には、馬忠をして「われがゆくまでもない」と丸投げされてみごと鎮定に成功します。
こうしてみると、蜀漢にも、それなりに人材が出てきていることがうかがえます。戦う体制が整い、魏に勝てるという
確信がある。物語的には、盛り上がる展開です。

いわば満を持した状態で蜀漢が動き始めたことを知った曹叡は、珍しく不安を覚えます。明らかに、これまでと異なる
動きを見せている蜀漢。こたびの戦いの重要性は、双方とも理解しています。
曹叡は、司馬懿に迎撃を命じますが、「急がずともよい」と付け加えます。

268 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:54:26 ID:???0
続き。
当然、司馬懿もそのあたりのことは承知しています。次は充分な兵糧を準備してから動くだろうから…三年ほど後だな、
という見立てはおおむね的中しました。ただ、この間に魏がしたことは、迎撃体制の構築でした。
蜀漢が動くのに応じて…ですから、どうしても受身の形になります。

戦いに赴く司馬懿の目に、鳥の群れが映ります。「往時、鳥は天帝の使いであったな」。この鳥達は何を意味している
のでしょうか。それは、まだ分かりません。

互いに経験を積んできた諸葛亮と司馬懿は、戦い方もものの考え方もよく似ていますが、一つ異なる点があります。
「同じ将のもとで兵が成長するか」ということです。
諸葛亮の率いる兵は、街停の頃が幼児なら今は成人というほどに成長しています(例として挙げられているのが呉起や
白起。史上有数の名将の名がここで挙げられています)。一方、司馬懿にはそのような意識はありません。
ただ、そのような例があることは理解しています。
呉の兵は、周瑜が生きていた頃より弱い(策に頼りすぎているため策を破られると弱い)のではないか。蜀漢の兵は、
そのようなことはあるまい。司馬懿にとっても、こたびの戦いの持つ意味は重いのです。

269 名前:左平(仮名):2010/05/31(月) 00:55:06 ID:???0
続き。
蜀漢の軍勢が停止します。これは、野戦で魏との決戦をしようということか。何のひねりもないだけに、かえってその
意図が読めません。
魏の諸将は、打って出ない蜀漢を嘲笑しますが、この沈黙の故、様々な思索が巡らされます。

ついに、魏軍が動きました。郭淮を北に派遣し万一の事態(西方との交通の遮断)に備えたのです。
この時―蜀漢も動きました。北の郭淮に攻撃を仕掛けたかと思うと、返す刀で東に陣取る司馬懿にも攻めかかってきた
のです。
みごとな速攻でしたが、戦況は一進一退となります。ここにきて、魏延がサボタージュをしたためです。
かねがね諸葛亮の指揮に不満を抱いていたとはいえ、なぜ、このような大一番で…。

諸葛亮も一度は激怒しますが、そうはいっても魏延の力なくして勝利はない。というわけかどうかは分かりませんが、
この時、先の天子―献帝―の崩御を諸将に告げます。今や、我らのみが正義の軍である、と。
もちろん、魏延もがぜん張り切ります。
しかし、そんな魏延に露骨な嫌悪感を向ける人物がいました。楊儀です。
諸葛亮の信奉者である彼は、勝手な言動がみられる魏延を罵倒します。一方、諸葛亮は、周公旦の故事から、忠臣の
哀しさを語ります。
大勝負のこの時にこのような話が出るあたり、蜀漢の不安材料なわけですが…。

270 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:35:03 ID:???0
三国志(2010年06月)

今回のタイトルは「満寵」。西で諸葛亮と司馬懿との一大決戦が続く一方、東でも動きがあります。

万全の態勢をもって決戦に臨んだ諸葛亮。魏延のやる気がいまいちなのが気になりますが、将兵の練度、士気、兵糧…
どれをとっても負ける要素は見当たらないと確信を持っています。
司馬懿が防戦態勢に入りましたが、最善ではないとはいえ長期戦も望むところ。必ず、魏の方に破綻が生じると余裕を
みせます。

そんな中、呉が動き出したとの報告が。一応、呉にも魏への攻撃を要請していたのですが、さしたる驚きもありません。
はなから呉の戦果など期待していないのです。人をあてにすると(公孫淵をあてにした呉のように)失敗する。そう思う
諸葛亮は、今は亡き劉備との出会いを振り返ります。
布衣に過ぎなかったおのれを丞相にまでしてくれた劉備。その劉備もまた一平民から興った。無から有を為した奇蹟。
「われは奇蹟の立会人であったのか」
現実主義者である諸葛亮にも、感傷的になることがあるのです。

一方、魏との戦いに臨むことになった孫権ですが、どうも気乗りがしない様子。蜀漢が兵糧の備蓄に努めた三年間、呉は
というと、いたずらに兵力と兵糧を空費(夷州・亶州の探索、公孫淵への使者の派遣は、いずれも一万の軍勢を数ヶ月に
わたって運用し、その大半を喪失)していたため、軍を動かすゆとりがなかったのです。
まさに秕政。孫権もその失敗は自覚しているため、蜀漢からの要請に対しても、すぐに兵を出すと言えませんでした。

続きます。

271 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:35:33 ID:???0
続き。
情けない。そう思う孫権ですが、問題はそれだけではありません。どうしても合肥を落とす策が見当たらないのです。
満寵がいまだに南に睨みをきかせている以上、彼に勝たねばならないわけですが、その満寵、いまだ衰えをみせません。

満寵さえいなければ…。孫権以外にもそう思う者はおり、一度は都に召還されます。佳酒を振る舞われますが、大量に
飲んでもその挙止に乱れはなく、衰え無しと判断され、引き続き任にあたることになります(疲れを覚えた満寵が何度
も転任願を出しても、余人をもって代え難しということで、皇帝直々に慰留されます)。
そのため孫権は、十万と号する大軍をもって、かつ、三方から魏領内に侵攻するという、大がかりな作戦を決行します
(孫権自身が合肥を攻める軍勢を率います)。
この軍の運用自体はなかなかのものでしたが、何せ相手は百戦錬磨の満寵です。読まれている…どころか、これを逆手
にとって孫権を殺せないか、と奇策(兵力の少ない合肥新城をあえて放棄してさらに侵攻させ挟撃する)を考える余裕
さえあります。
さすがにこれは危険すぎるとして却下されましたが、単に孫権を撃退するだけならそんな策を使うまでもない、という
わけですから、戦う前から、呉は劣勢におかれていると言えます。
この時、少なからぬ魏の将兵が休暇中だったので、兵力的な差はかなりのものがあったのですが…。
続きます。

272 名前:左平(仮名):2010/07/03(土) 02:36:48 ID:???0
続き。
合肥新城、と書きましたが、この城は、満寵自身の献策によって移転したもの。当然、容易には落とせません(だから
こそ、あえてそれを放棄するという奇策に対して、曹叡は危険すぎるという判断をしたわけです)。
それゆえ、孫権は大型の攻城兵器を用意させますが、完成までには時間がかかります。そこを、満寵に付け込まれます。
われは張遼将軍には及ばぬが…などと謙遜しつつも、少数の手勢を用いての夜襲はみごと成功。攻城兵器は焼け落ち、
さらに孫権の甥・孫泰をも倒します。
…正直、皇帝の甥がこんな形で戦死というのは、予想外でした。

孫権の怒りは凄まじく、苛烈な攻撃が続きますが、満寵、そして合肥新城の守将・張頴は冷静にこれに対処。そうこう
しているうちに曹叡自らが親征を行うとの知らせが入り、さらにそれを裏付ける魏兵(実は先遣隊)の登場に、孫権の
戦意はすっかり喪失。結局、戦果を挙げることなく軍を退くこととなりました。
仏教の庇護者でもある孫権には、独特の諦観とでもいうべきものがあるようです。

西部戦線は司馬懿に任せておけば問題ない。孫権の遠征も、曹叡にしばしの休息を与えただけに終わったと言えるよう
です。孫権の軍事的センスのなさも、ここまで来ると相当なもの。満寵は、孫権を殺す機会を失ったのではないか、と
残念がっていますが、案外、これで良かったのかも(ここで孫権が亡くなった場合、孫登がすみやかに帝位を継承した
はずですから、後のごたごたもなかったのかも)知れません。
ただ、陸遜・諸葛瑾の軍は、この時点では孫権の撤退を知りません。さて、どうなる…?

273 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:45:51 ID:???0
三国志(2010年07月)

今回のタイトルは「秋風」。ついに、その時が来ました。

まずは、孫権による合肥攻略が失敗したところの続きから。中軍を率いる孫権がさっさと撤退してしまったため、東軍・
西軍もまた、撤退を余儀なくされます(最も大きい中軍が真っ先に撤退してしまっては戦略も何もありません)。
東軍を率いる孫韶は、齢十七でおじの後を継ぎ、長年にわたって国境地帯を守り抜いてきた名将。彼我の力を正しく把握
し、そつのない戦いのできる人物ですが、ここでは特に見せ場はありません。
一方、西軍は、当代屈指の名将・陸遜が率いているだけあって敵中深く侵入することに成功していましたが、これがあだ
となり、孤立状態に陥ります。
とはいえ、主将の陸遜も、副将の諸葛瑾も、取り乱すことはありません。おのが知略への自信と、学問によって培われた
胆力が、冷静な判断力を保たせているのです。ここで慌てて撤退すれば、それこそ敵の思うつぼになるということは承知
しています。ここは、策をもって粛々と撤退すべし。
陸遜が攻めかかるとみせて魏軍に迎撃態勢をとらせると、諸葛瑾が動かしていた軍船に素早く上船。攻撃がなかったこと
にほっとした魏軍は追撃態勢に入るのが遅れたため、難なく撤退に成功します。
見せ場はなかったとはいえ、大きな損害もなく撤退に成功したわけですが、陸遜には満たされないものが残ります。軍功
が挙げられなかったことに物足りなさを感じること自体は分かるのですが…。

続きます。

274 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:46:52 ID:???0
続き。
長江を下る陸遜は、突如、狩りをしようと言いだします。しかし、まだ呉領内には入っていません。何を狩るというの
でしょうか。
…狩りというのは、魏領である江夏の諸県を襲撃することでした。特に石陽のそれは、城外に市が立って賑わっていた
ため、多くの庶民を巻き込む惨いものとなりました。
結果、少なからぬ数の捕虜を得ましたし、襲撃後の慰撫もあって投降する者も出たことから、一定の戦果を挙げたとは
いえるのですが…後世の史家たる裴松之は、これを悪行であると批判します。
 個人的には、裴松之の批判に同意。天下統一を掲げる勢力が同じ天下に属する非戦闘員を虐殺するのは、非道の行い
 としか言いようがありません。戦略的にもこれといった意義がないだけに、擁護の余地もありません。
 とはいえ、このことと後の悲劇との関連性は、いわゆる春秋の筆法以上のものではないでしょうね。孫権自身、こう
 いう行いに倫理的嫌悪感を覚えるということもなさそうですし。
一方、諸葛亮は、そのようなことはしなかったようです。将帥としての力量は陸遜に劣りますが、為政者としての格は
明らかに諸葛亮が勝ります。

続きます。

275 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:48:02 ID:???0
続き。
諸葛亮と司馬懿の決戦は、完全に膠着状態。互いに負けない自信はありますが、うかつには動けません。蜀漢の全権を
握る諸葛亮はいくらでも待てますが、司馬懿はどうなのでしょうか。
…こちらも、いくらでも待てる状態でした。皇帝・曹叡自身が、決戦を急ぐ必要はないと判断していたからです。また、
使者として派遣された辛毗も、的確な戦略眼を持った人物ですから、ここは動くべきではない、ということを認識して
います。
諸葛亮が司馬懿に巾幗を贈り、司馬懿がこれに激昂したというのも、将兵の士気を保つため以上のものではありません。
そんなこんなで数ヶ月が経過したのですが、秋、八月。諸葛亮が体調を崩します。

食欲不振から始まって粥くらいしか食べられなくなり、やがて病臥。余りにも早い症状の悪化は、スキルス胃癌あたり
を思わせますが、詳細は分かりません。
丞相病む。この急報が成都にもたらされると、宮中は震撼します。特に皇帝・劉禅の取り乱しようは相当なものがあり、
直ちに李福が見舞の使者として遣わされます。
全権を握る丞相・諸葛亮を失ったら、蜀漢はどうなるのか。即位以来、ずっと政務を任せきりにしていた劉禅には為す
すべがありません。曹叡と劉禅。年齢的には近い二人ですが、その力量は天地ほども異なります。

続きます。

276 名前:左平(仮名):2010/08/02(月) 00:49:11 ID:???0
続き。
丞相が重体に陥るまで、側近どもは何をしていたのか。丞相はまだ五十四歳。まだ二十年は働いていただかねばならぬ
というに…。軽い不快の念を抱く李福と面会した諸葛亮は、つとめて気丈に振る舞います。
体調は悪そうだが…と思いつついったん帰路についた李福ですが、側近たちの暗い表情を思いだし、直ちに取って返し
ました。丞相が再起できない、となると…
「どなたに後を継がせますか」
眼前にいる諸葛亮の死後のことを問わねばなりません。さまざまな職務をそつなくこなしてきた李福ですが、この勤め
は、その生涯で最も重要で、かつ辛いものとなったでしょう。
「公琰(蒋琬)がよい」
「その後は…」
「文偉(費禕)」
後事を託せる偉材が二人もいると喜ぶべきか、二人しかいないと悲しむべきか。ともあれ、諸葛亮に勝る者はいないの
です。

そして…

277 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:44:51 ID:???0
三国志(2010年08月)


今回のタイトルは「孔明」。そのものずばり、の回です。

蜀漢の建興十二(西暦234)年八月。陣中に星が落ち…諸葛亮が薨じました。享年五十四。前回、体調を崩したのが
八月とありましたから、諸葛亮を襲った病魔は、顕在化してから一月足らずで彼を死に至らしめたことになります。
ただ、諸葛亮が何日に亡くなったかは、分からないようです。記録が不十分なこともありますし、全権を掌握する丞相
の死は蜀漢の最高機密でもありますので、それを知る者は、この時蜀漢の陣中にあった数名のみ。

その一人・費禕は、あらためて丞相・諸葛亮の仕事ぶりを振り返ります。常に細やかな目配りを怠らなかったその姿は、
まさに為政者の見本と言うべきもの(ただし、必然的に命を削るような激務が伴います)。
軍事においてもそれは当てはまり、蜀漢の軍紀は厳格そのもの。敵地の住民とも信頼関係を築くなど、王者の軍と言う
べきものにまで鍛え上げました。
ただ、それゆえ、奇策はなく、決定的な勝利も得られなかったというジレンマが。緒戦での失敗がここまで響いたこと
は否めません。
 「細やかな〜」とくると、蒼天での劉馥が想い起こされます。諸葛亮は、どこで、このような政治姿勢を培ったので
 しょうか。何かで「最も成功した法家」と言われていましたが…。

続きます。

278 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:45:51 ID:???0
続き。

遺命により、撤退することは決定しています。楊儀が指揮を執り、費禕・姜維が補佐します。後拒は魏延。能力的には
何の問題もない面々ですが、それ以外のことで問題があります。
「楊儀と仲の悪く、かつ、戦意旺盛な魏延が、楊儀の指揮下で撤退することに同意するか」ということです。
ここは、楊儀・魏延の両者とまずまずの関係を築いている費禕が、魏延に、諸葛亮の遺命を説明することになります。

費禕はかなり有能な人物ですが、寛容な(脇が甘いとも言える)ところがあるため、魏延に対しても、悪感情は持って
いません(緒戦が〜と言っていることから、魏延の策に理があったことを認めていることが伺えます)。
ですが、この使命は、色々な意味で気の重いものとなりました。
丞相・諸葛亮を喪ったとはいえ、ここまでの戦況は、決して悪いものではありません。このような状況下では、楊儀と
の仲が〜という以前に、一戦を望む魏延を説得することは、かなり難しいのです。
 実際、純軍事的な視点からみると、ここで慌てて撤退すると壊滅的な被害を受ける恐れもあります。むしろ、異変を
 悟られないうちに一撃くれてやった方が効果があったかも知れません。
魏延は歴戦の武人。緒戦において長安急襲を提案したように戦術的・戦略的視野もそれなりに持っています。一戦する
ことの意義を説かれると、その威厳とあいまって、説き伏せられる恐れがあるのです。

続きます。

279 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:46:47 ID:???0
続き。

はたして、恐れていた通りの展開に。たとえ魏延の威厳に気圧されたためとはいえ、費禕は、魏延が魏軍と一戦する
ことに同意してしまったのです。
直ちに本陣に戻り、証拠となる文書は破棄したものの、署名したという事実は厳然としてあります。
こうなると、事は急を要します。本来であれば、異変を悟られないよう、粛々と撤退を開始するところですが、諸葛
亮の死を伏せたまま、直ちに撤退を開始せねばならないのです。
本陣の異変に魏延も気付き、楊儀の退路を塞ごうとします。楊儀が指揮する本隊は、前後に敵がいる形になりました。

一方、蜀漢の軍勢が撤退したことに気付いた魏軍は、その本陣跡を検分し、(楊儀が慌てて撤退したために処分でき
なかった)兵糧や文書を発見します。
司馬懿は、それらの文書から垣間見える諸葛亮の行政能力をみて、「天下の奇才」と感嘆するとともに、その死を確
信します。
今、追撃すれば勝てる。司馬懿ならずとも、そう判断することでしょう。

続きます。

280 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:48:00 ID:???0
続き。

魏軍は追撃を開始します(ただし、辛毗は、まだ諸葛亮の死に半信半疑ということもあってか追撃には慎重)。途中、
はまびしを踏んだ将兵が痛がるので簡易な下駄を履いた兵を先頭に立てるという奇観もありますが、このまま蜀の地に
入りそうな勢いを示します。

魏延と魏軍に挟まれた格好になる楊儀は半狂乱。しかし、まずは丞相の棺を守らねばなりません。姜維に叱咤されて我
にかえった楊儀は、魏軍を迎撃。みごと撃退します。
もっとも、狭隘な場所での衝突でしたから、魏軍の損害自体は大したことはありません。最終的に魏軍が撤退したのは、
辛毗の指摘によるものでした。
 陛下が長安まで来ておられるのであれば蜀の地に踏み入ってもよかろうが、いま陛下は南方におられる。陛下に良い
 ことも悪いことも言上できる者は、ここから遠くにいるということよ。
曹叡自身は優秀な部類の帝王ですが、無謬の存在ではあり得ません。その近くに、司馬懿に悪意を持つ者がいれば…。
こういうことも考えながら身を処する必要がある、ということです。
このような指摘をしてみせるあたり、辛毗は、司馬懿に悪意は持っていないようです。

これで、後ろの敵は心配しなくてもよくなりました。後は、魏延をどうするか、です。

続きます。

281 名前:左平(仮名):2010/08/29(日) 22:48:51 ID:???0
続き。

無論、魏延とて蜀漢への忠誠は持ち合わせています。我が討たんとするは楊儀のみ。これは謀反にあらず。そのような
文言の文書を都へ送り、自身の正当性を訴えます。
しかし…軍事的観点からはともかく、政治的観点においては、丞相の後継人事という問題もある以上、戦闘続行はあり
えないことから、都にいる蒋琬達は、楊儀側が正しい(諸葛亮の遺命に従っている)と判断します。
よって、楊儀側に、王平率いる援軍が送られることとなります。
王平の一喝により、魏延の軍勢は崩壊。楊儀はともかく、蜀漢において諸葛亮に背くということはできないのです。
再起を図った魏延ですが、追撃してきた馬岱に斬られ、あえない最期を遂げます。

諸葛亮は魏延を持てあました。そこに諸葛亮の限界があったといえるのですが、前述の姜維や王平達の奮闘にみられる
ように、諸葛亮に見出され評価された恩義に報いようとする者達がいたこともまた事実。
その芳名は、時代を超え、国を超え、はては海を越え…。

さて、無事撤退に成功した楊儀ですが、どうやら重大な勘違いをしている模様。はて…。

蛇足:「三国志」の方はまだまだ続くとはいえ、一つの山場が過ぎた感がありますが、「湖底の城」は、そろそろ新展開
   がありそうな終わり方でした。

282 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:18:31 ID:???0
三国志(2010年09月)


今回のタイトルは「増築」。星落秋風五丈原の次の回にしては…と思うタイトルですが、ちゃんと意味があります。

まずは、諸葛亮の死後の蜀漢の情勢が語られます。
職務怠慢を咎められて失脚した李平(李厳)は、これで自らの復権が無くなったと悟り、悲嘆の余り昏倒し、ほどなく
世を去ります。
暴言が咎められて失脚した廖立は、蜀漢の衰亡が遠くないことを思いつつ、配所で亡くなります。
彼らは、非常に癖が強いとはいえ、優秀な人材です。その彼らが、一度は対立した人物の死に対して、これほどまでに
嘆き悲しんだところに、諸葛亮という人物の器量が垣間見えます。

また、宮中においては、悲嘆とともに言い知れぬ不安が漂います。諸葛亮の存命中は、蜀漢の全権が彼の下に集中して
いたため、政務全般が一元的に、かつ円滑に動いていたわけですが、その根幹が崩れたわけですから、不安を抱くのも
当然でしょう。
何より、皇帝・劉禅自身がその不安の中に居ました。彼は、政務全般を諸葛亮に丸投げしていたわけですから、即位後
十年以上経過しているのも関わらず、政治は全くの素人。一歩間違えば、たちまち亡国の危機です。
ただ、救いは、諸葛亮の遺命が明確であったこと。蒋琬が尚書令となり、事実上の後継者として、以降の蜀漢の政務を
総攬することとなりました。遺命通りの人事なので、本来であれば全く問題ないはずなのですが…

続きます。

283 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:19:56 ID:???0
続き。
この人事に不満を抱く者がいました。楊儀です。

先の撤退戦の指揮をとり、我こそは…と自負していたのですが、ポスト諸葛亮体制における彼の地位は、いわば閑職。
占いの卦は、「今はしばし雌伏の時」といった感じなのですが、この現実を受け入れられず、不満の塊となります。
(一応軍師という肩書なので、平時にあっては〜ということだと思うのですが…)
その憤懣が、費禕が慰問に訪れた際、爆発します。

あの時…

これを聞いた費禕に戦慄が走ります。それは、謀反を疑われても仕方がない、というくらいの暴言。直ちに経緯が上表
されます(しかし、費禕はよくトラブルに巻き込まれますね)。
上表を読んだ劉禅は困惑します。喜怒哀楽の感情のうち怒が欠落しているとまで言われている劉禅ですから、怒声こそ
出しませんが、快いものではありませんし、何より、かような暴言を放置しては国家が成り立ちません。
結局、楊儀は解任され、配流されます。
ますます怒り狂った楊儀は、火を吐くような暴言を撒き散らし、ついに罪に問われることとなり、自害して果てます。

続きます。

284 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:21:49 ID:???0
続き。

楊儀の自滅は、実は、彼が嫌った魏延と同種のものでした。有能ではあれど、己の狭量のため、他者と協調できなかった
ことが、破滅につながったのです。
ともあれ、彼らのような人材を生かしきれなかった蜀漢には、衰退の兆しが…という具合です。

一方、魏の方ですが…諸葛亮の死に対して安堵感が漂います。
魏からみた蜀漢は、存亡にかかわるほどではないとはいえ、うっとうしい存在でした。ひとたび戦いとなると、数万の
大軍を数ヶ月にわたって貼り付けなければならず、しかも、目立った成果が上がらないのです。
諸葛亮の死によって、ひとまずそれがなくなったわけですから、安堵するのも無理からぬところ。
…そのせいかどうか分かりませんが、この頃、魏では重臣の他界が相次ぎます。結果として、司馬懿の存在感が増して
いくことになります。

蜀漢・呉とも、じり貧状態。聡明な曹叡にはそのことが手に取るように分かります。それに安心したか、宮殿の増築が
相次いで行われるようになります。楊阜などの諫言がありますが、こればかりは止まりません。
魏の国力を見せつける等の意味はあるとはいえ、ここまで増築に熱を挙げたのはなぜか。そこには、ある喪失からきた
所有欲があるのではないか、と。

続きます。

285 名前:左平(仮名):2010/10/03(日) 22:25:49 ID:???0
続き。

曹叡が喪失したもの。それは、母でした。そんな中、実母・甄氏の死について上奏する者が現れます(これが事実で
あれば、何者かの策謀があったということになります)。
「この皇帝は、男には優しいが女には厳しい」。甄氏の死によって皇后となり、あわせて曹叡の義母となった郭氏は、
曹叡をそう見ました。
その聡明さをもって曹丕に深く信頼された郭氏の見立ては正しかったのですが、それは、自身にも向けられることに
なろうとは…。

郭氏と曹叡の関係は、おおむね良好でした。しかし、この上奏があってから、曹叡が郭氏を見る目が変わってきます。
「我が母を殺したのはあなただ」
たとえ最終的な判断は曹丕が行ったとはいえ、郭氏がそう仕向けたのではないか。曹叡の、郭氏に対する言動から、
そんな黒い情念が漂ってくるようになりました。曹叡の憎悪に慄いた郭氏は倒れ、ほどなく亡くなります。

ただ、いざ郭氏が亡くなると、その憎悪もきれいさっぱりと無くなりました(追悼もきちんとしているし、郭氏の
一族は引き続き厚遇されている)。それが帝王の資質と言えばそうなのかも知れませんが…。

ともあれ、聡明な曹叡がみせた影の部分。これが魏にいかなる影響をもたらすのか。文章表現以上に含みが感じられる
ように思えます。

286 名前:左平(仮名):2010/11/04(木) 00:07:40 ID:???0
三国志(2010年10月)

今回のタイトルは「燕王」。遼東情勢が一気に緊迫してきました。

魏の元号は、青龍から景初に変わりました。この間、蜀漢・呉とも大きな動きはなく、曹叡は、宮殿の造営に専念…と
いう具合です。
まだ統一も為されていない(民の軍役等の負担は続いている)のに宮殿を壮麗にするのはいかがなものか、という諫言
はいくつも出ているのですが、曹叡はこれに対し、処罰はしないものの聞き入れもしません。
諫言に対し処罰することもあった曹丕に比べると、処罰がないだけましではあるのですが、やや独善の傾向が。

とりあえず、国境を脅かす勢力がないと見極めた曹叡は、ここで、遼東に目を向けます。先に、呉の使者を斬って首を
送ることで魏への忠誠を見せたとはいえ、その後の対応には問題があったし、何より、領内の半独立政権の存在は、魏
としては好ましいものではありません。いずれは滅ぼすべき存在である、とみます。

しかし、遼東は、魏にとって脅威というほどの存在ではありません。今は動きがないとはいえ、魏にとっては、蜀漢・
呉こそが脅威と考える諸臣にとっては、曹叡の判断は、いわば本末転倒。
またしても、多くの諫言があがってきます。

ここで、衛臻の名が。かつて曹操にいち早く協力の手を差し伸べた衛茲の子である彼は、曹氏三代に渡って貴臣として
遇された特別な人物です。その彼の諫言も、結局は受け入れられず、ついに、毌丘倹に(事実上の)公孫淵討伐の命が
下ります。

続きます。

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