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2009.09.07

魏延の北伐【第九章】 五丈原へ

 

          一
 
 李平にしても、策もなく思い付きで行動しているわけではなかった。
(そろそろ丞相に知らせが届いていよう)
 彼がどれほど激怒しているか、李平は容易に想像できる。
(丞相は、きっと成都へ戻り、廟議の席で自己弁護に努めるにちがいない)
 そのときこそ、李平の地道な朝廷工作が役立つのである。廷臣たちの間では、孔明への権力集中に対する不満は意外につよく、いくらでも乗じる隙があった。
 いま国内で、孔明とまともに対抗できる人物といえば、皇帝の劉禅を除けば李平一人があるのみであった。身は驃騎将軍、前尚書令であり、息子は対呉方面の総帥である。孔明に反感をもつ者たちは、当然ながら李平の元に集まっていた。
(今回の撤退の一件が大騒ぎになればなるほど、丞相無謬の印象は薄れ、やがて儂と彼との格差が殆どなくなる。あとは涼州ら武断派を焚きつけ、軍部から丞相の色を払拭する) 
 そうすれば、李平父子と孔明の立場は逆転し、李平こそが蜀漢王朝の真の支配者となることができる。
 ――そこまで思考を巡らせたとき、李平に急の知らせがあった。
 使者は声まで蒼白になって、驚愕すべき情報を李平に伝えた。
「帰還してきた北伐軍が、速度をおとさず南鄭城を攻撃する構えを見せております!」
「なんだと!?」
 この瞬間、李平は己の敗北を思い知らされたに違いない。
(謀叛の疑いを避けるために武装解除するのではないのか…!)
 孔明は、彼の掌の上で躍るほど大人しくなく、また甘くなかったのだ。 野戦で自分が孔明や文長に後れをとるとは思わないが
、戦場が漢中ともなれば話は変わる。魏延文長は、つい最近まで漢中要塞の構築を指揮していたのだ。
「勝てぬ」
 李平は呆然と呟いた。 まさか孔明がこのように素早く、しかも強硬な手段に訴えるような男であったとは考えもしなかった。
 当時の常識として、孔明は非武装で成都へ昇り、査問にかかるべき身である。李平は当然ながらその事態を想定し、その準備だけを万全に整えていた。
 ところが孔明は、真っ先に漢中総督文長と彼の軍をうごかして漢中を無力化し、有無を云わさず李平の身柄を確保するという挙に出た。世が世ならば、これは逆賊の所行というべきであろう。
(――だが陛下は)
 どう考えても孔明を支持するに違いない。
 
 李平は、病であると称して漢中を秘かに脱し、西へ逃れた。
 ところが武都郡の沮県という地点まで落ち延びたところで孔明の哨戒網に探知され、直ちに沮へも一軍が送られた。
(かくなるうえは南へ向かい、息子のいる江陽まで落ち、かの地で再起を図ろう)
 李平は、かつての地盤である江州方面へ逃れて対呉方面軍団を掌握し、あらためて孔明と対決するか、いっそ蜀王朝から自立するかという道をえらぶつもりであった。
 あわててこれを諌めたのは、参軍の弧忠(馬忠)である。彼は先に孔明の元へ使いしたとき、すでに孔明の意を受けている。
 ……李平は結局、その説得に応じて漢中へ戻り、孔明の元に出頭した。
 詮議の席で、なおもとぼける李平に対し、孔明は保存してあった事件前後の私信や反故の類を証拠としてつきつけ、とうとう李平の自白を得た。
 李平は、その場で直ちに拘禁された。
 
 孔明の権勢は結局小揺るぎもせず、彼を躍らそうとした李平が逆に躍り、失脚する羽目になった。
 息子の李豊については、不問に処して任を続行させたが、もはや李家の往年の盛栄はない。やがて李平に判決がくだり、彼の派閥は完全に解体される事になった。
「漢家の御ため赦し難き男なれど、李平は武略もあり、先帝より後事を託された一人である。彼を殺すに忍びず、今上の御慈悲により死を一等減じ、官籍を剥ぎ遠流とする」
 卓抜した武略と実務能力を先帝より愛され、一度は国家の頂点にまで登りかけたこの男が、いまは一流人として空しく梓潼郡に自耕する身となり果てた。
 ……かれについては、後日談がある。
 李平は細々と流刑生活を送りながらも、国家が彼を必要とする日が必ず来ることを確信し、自棄にも陥らず精進し続けた。ところが、これからわずか三年後の建興十二年八月に政敵孔明が没し、その知らせが届くや否や、
「天命はなぜ丞相をこうも早く奪い給うか。――陽、将に没すべし」
 と激しく哭き出し、それからわずか数日で死んだという。
 ――孔明の才を知るもの我に若くは無し、我の才を知るもの孔明に若くは無し、といった感情を、李平は恨むべき政敵に持ち続けていたようである。
 党派や利害関係、好悪の感情をも超越して、諸人の胸中に楚々と底流するこの種の信頼こそが、孔明の底知れぬ魅力でもあった。
 
 人事くずれが、始まった。
 蜀漢王朝軍ナンバー2の驃騎将軍李平につづいて、今度はナンバー3の車騎将軍劉琰が、官爵こそ失わなかったものの、事実上失脚して第一線から退くこととなった。
 劉琰とは、例の御伽衆あがりの幇間将軍である。
 武辺も実務もできぬくせに位階だけがずば抜けて高く、しかも奢侈を好み議論を好んで、現場にやたらと口を出してくる彼は、かねてより軍中の嫌われ者であった。
……その劉琰が、よりによって文長の仕事ぶりに口を出したらしい。
「涼州はあれだな、武略に長けてはいるが、諸事に要領がわるいな」
などと云わでの事を云い、あれこれと仕事について注文をつけた。文長は相手が上位者であるからしばらく我慢していたが、
「まぁ、綏軍(楊儀)の云う事も聞けぬようじゃあ、単なる葉武者じゃな」
というくだりのところで、とうとう何かが音を立てて切れた。
「汝ァ――」と叫んだかとおもうと、その逞しい腕で劉琰の襟首を掴み、力一杯投げ飛ばしてしまったのだ。
「ぶ、ぶれいな」
 劉琰は受け身をとって意外に素早く抜剣した。かれも豫州では聞こえた侠客あがりではあった。文長も佩剣を鞘ぐるみ掴んで、あわや決闘におよぶかというとき、注進をうけて駆けつけた盪寇将軍王平が、慌てて両者の間に割って入った。
(面倒な……)
 執務室で報告をうけた孔明は、舌打ちをして立ち上がった。
(いま魏延を激発させてはならぬ)
 孔明は瞬時に判断した。劉琰如きの男は国内に何万もいるだろうが、文長の代わりは今のところ存在しない。
 となると孔明の裁きは迅速であった。まさか車騎将軍と征西大将軍が喧嘩をしたなどとは公にはできず、とにかく文長には(陣中に乱暴は致すべからず)とやんわり譴責し、劉琰のほうは諭旨免職という形で成都へ送り戻してしまった。
 ……この劉琰についても後日談があるが、こちらは李平とは違い醜聞に類する。
 第一線から退けられた劉琰は、成都でぼんやりと過ごす毎日であったが、三年後の建興十二年の正月、妻の胡氏が新年の挨拶のため参内し、数日戻ってこないという事があった。
(どうしたのだろう。宮中で不始末でもしたのか。いや……)
 劉琰には心当たりがある。胡氏は、麗色類無しと噂されるほどの佳人で、その評判は皇帝劉禅の耳にも届いていたらしく、参内したおりに皇帝から色々訊ねられた事があった。
「まさか」
 劉琰は年甲斐もなく激高した。ちょうど胡氏が帰ってきたため、彼女を厳しく問いただし、問責しているうちに変に興奮し、ついには吏卒を呼び、履で彼女の顔を打たせた。
 実は、夫が邪推したような事実はなく、彼女はただ太后の命で宮廷に留まり、数日にわたり談笑を楽しんだだけだったのだが、妬心にくるった劉琰は、云い訳を信じず胡氏を離縁してしまった。
 散々な目に遭った胡氏は怨みに思って劉琰を告訴した。
 何者かの意が介在したのかもしれない。丞相孔明、前驃騎将軍李平、征西大将軍文長が相次いで世を去る事になるこの年の正月に、車騎将軍劉琰もまた、一罪人として市へ曳き出されて首を刎ねられてしまうのである。
 
 驃騎将軍李平、そして車騎将軍劉琰が漢中を去った。
 もはや、征西大将軍魏延文長の上に立つ者は、丞相諸葛亮孔明ただひとりとなった。
 ……藁を編んだ粗衣で厳寒に耐え草の根を喰って飢餓を凌び、手足ばかりひょろ長い躰に革鎧をまきつけ、手製の槍一本を握りしめ、空臑に泥をはね上げ夢中で闘ってきた荊州の一農奴が、とうとう蜀漢王朝におけるナンバー2にまで成り上がってしまった。
 彼はわが人生を振り返り、さすがに呆然とする心境であった。
 
 
――ごめんなさ~い(T.T) ここまでです~!
 
 
 
■作者の言葉■

というわけで、ここまでです(^_^;)
この作品は前10章構成でしたが、八章くらいで受験が本格化して投げ出してしまい、以後、加筆されていないという未完の大作だったりします(^_^;) 前述の通り、一章はPC98の一太郎と共に行方不明。

どうせなら、一から書き直したいですね…。今度は費イあたりを主役にして、派閥争いをもうちょっと掘り下げてみた感じのドラマとか面白そうかも。
(2009追記)
こう読み返すと、文章云々以前の問題として、何より数字の適当さや時系列の混乱など、歴史に取材する小説としては論外な出来と、あらためて赤面する一方、とにかく筆に勢いだけはある文章だなーと。今これを書こうにも、多分これほど跳ねるような小説は書けない気がします。

魏延の北伐【第八章】 李平

 
               一
 
 第三次北伐後の蜀漢王朝軍の首脳席次は、以下の通りに定まった。
 
   丞相(大将軍) 諸葛亮
   驃騎将軍    李厳   
   車騎将軍    劉琰
   衛将軍     (空席)
   征西大将軍   魏延
   前将軍     袁綝
   左将軍     呉懿
   右将軍     高翔
   後将軍     呉班
  
 ――このあとに綏軍将軍楊儀、揚武将軍鄧芝などという高級軍官僚が続く。
 涼州刺史の魏延文長は、征西大将軍などという漢制にはない将軍位をわざわざ創って貰い、その席に座ることとなった。
 加えて、使持節(官位の低い者を任意に処刑できる皇帝権代行の証)を与えられている。丞相府における役職は前軍師であり、涼州刺史はそのまま。さらに、加封があって、膝元の南鄭県をそのまま知行地として与えられる事になった。南鄭侯である。
 これほどの厚遇、破格などという次元を通り越している。
(丞相は、ひょっとして征西殿を位ぜめにしておいでではないのか)
 当然ながら、そういう噂が立った。
 確かに、ちょっとこの状況は危険である。文長は、孔明が期待したように、
「陽谿で撃ち破った郭淮、費瑶などは、取るに足らぬ小もの。これほどの加増は、過分に存じまする」
 として辞退するべきであった。
 だが文長は、相変わらずの武辺であったから、そういう噂は気にも止めず、わが武勲が大いに評価されたものとして機嫌よく生きている。
 
 第三次北伐の遠征軍が帰還して間もなく、年が明けて建興九年(二三一年)。
 蜀軍ナンバー2の驃騎将軍李厳は、改名して我が名を李平とした。
(どういう思い付きだろう)
 諸将が訝しむのを無視して、李平は悠々と日々の政務を取り仕切っている。
 この年明け早々、孔明は四度目の出兵案を成都宮へ提出した。
 帝は、即座に諒解を与えた。
「今回は、丞相は面白き企みがあると申しておってな」
 劉禅は愉しそうに左右へそれを語った。
「いったい、何をするつもりなのかの」
 成都の皇帝陛下にとっては、孔明、文長らが命を削って書き綴る北伐の報も、退屈紛れの娯楽でしかないようであった。
 ――ところで、孔明がこのたび「面白き」と書き送った企みとは、これが実に画期的な兵站維持方法のことであった。
 〝木牛〟という。
 牛を象った自走式の木製機械であるとか、道術で動くゴレムであるとか、実は屯田を指す言葉だとか、色々な説が今日でも語られているが、いちおう「桟道の幅にあわせて設計された手押し(曳き)の四輪車」というのが定説になってはいる。
 確かにこれならば、人足ひとりひとりが背に担ぐのとは比較にならないほどの効率で、膨大な物資を前線へ送ることができる。
 機械好きの孔明の発案とされるが、夫以上の発明家である黄夫人の製作という説もあり、これまた民間では数え切れない伝説が残されている。
 
 勅許のおりた春二月、孔明は四度目の北伐を敢行した。
 進路は、第一次、第三次で用いた関山道(長安から最も遠いルート)。先鋒は無当監王平と彼の「飛軍」が務め、中軍は丞相諸葛孔明、それに従う主な将帥は征西大将軍魏文長、右将軍高翔、後将軍呉班。全軍で七万余という大陣容である。
 これを向かえ撃つべき対蜀方面軍の総司令曹真は、先の大雨に祟られたのか、癒えぬ病を抱えて洛陽に臥しており、とても軍務に復帰できる状態ではなかった。
「やむをえぬ。大将軍を呼べ」
 若い魏の皇帝曹叡は、荊州戦線の総帥である司馬懿を引き抜き、これを蜀軍と当たらせるという突貫人事を発表した。
 近頃になって放埒な土木事業に凝り、そろそろ生来の英明さに翳が見え始めてきている曹叡だが、その果断さはいまだ衰えを見ない。
 
 司馬懿が洛陽へ呼ばれるより早く、蜀軍の第一波が、魏軍の防衛線を直撃した。
 第一次北伐では蜀軍の本営が置かれた祁山が、孔明の最初の一撃を受ける事になった。「――至急、来援を乞う」
 守将の賈嗣と魏平は早々に悲鳴をあげて、各方面へ救援を要請した。
 孔明はその使者を捕捉せず、敢えて陣を通過させた。
「なるべく多くの敵をこの祁山へひきつけるのだ」
 孔明の発言は、多くの者に意外の感を与えた。
 これまで彼は冷徹な用兵家という印象を持ち続けられてきた。ところが、今回はほとんど好戦的ともいえる猛将の姿勢をとっている。
 とにかく魏軍を決戦に引きずり込まねばならぬ――彼と彼の北伐軍団が最後まで背負う事になるこの重い十字架は、「第四次北伐」の作戦運用にものしかかっていた。
(兵力に遥か劣る我々だ。本来ならば極力戦闘を避けるべきだ)
 これこそ孔明の紛れもない本音であったが、背の十字架がそれを許さない。
(兵站線の維持のためにも、なるべく早く敵と決着をつけねばならぬ。となると、やはり敵主力を野外で捕捉し、これを撃滅する以外に策はない)
 つまり孔明が敵へ野戦を挑むのは、やむをえざる事情があったからである。ところが、
「おれに云わせれば、丞相の策はまだまだ遠い。どうせ野外で闘うならば、正面対峙などと実直な事をせず、正法に奇手を混ぜ、乾坤一擲の勝負を挑むべき」
 と、大声で放言する輩があり、軍中ではむしろそちらを指示する声がたかい。
(……人の苦労もしらずに)
 孔明としては、その放言者――魏延文長――に云いたい事は山ほどある。
 二、三度くらい負けてもよいなら、誰も苦労はしない。云われなくとも魏軍に対し戦略の粋を尽くして闘うだろう。ところが、北伐軍は決して野戦で敗れてはならない。一度の敗北が、即国家の衰亡につながるからであった。
 だからこそ、大いに勝ちは出来ないが決して敗れない戦さを続けているのである。
(その辺を解っておらぬ。やはり魏延は政治を知らぬ)
 一介の足軽頭の放言ならばまだよい。文長はすでに国家の重鎮であり、軍部の最高責任者なのだ。いまや彼の言動の悉くは、それが発せられた瞬間に政治となり、多くの軍吏がそれに振り回される事になる。ところが当の文長は全く気付く様子もなく、
「某はどこそこが悪い、某は心根が爽やかである、某は怯懦である」
 などと足軽時代のように大声で評する。
(――結局は、かれも部将止まりの器であったのだ)
 孔明は沈痛に思わざるをえない。しかし今の蜀漢王朝には、前線に出て大軍を手足の如く動かせる勇将が他に存在しない。
(今は、魏延に頼るしかないのだ)
 孔明はこれら貧相な持ち駒だけで、魏の大陣容に立ち向かわねばならないのだ。
 
 三月。洛陽でながく病身を養っていた大司馬の曹真が、無念のうちに世を去る事になった。諡して、元侯。彼の早すぎる死が、後々に魏王朝の致命傷になるとは、まだ誰も想像していない。
 そして、魏帝曹叡の勅任を蒙った大将軍の司馬仲達が、曹真の訃報とほぼ同時に長安へ入った。十八年後、曹真の縁者をみなごろしにして魏王朝の実権を握る事になるこの男は、無表情に大司馬逝去の報をうけとり、型どおりの哭礼を済ませてさっさと馬上の人となった。
 蜀軍による祁山の包囲は、まだ続いている。
 これは魏平と賈嗣による獅子奮迅の善戦――ではなく単に蜀軍が本気で攻撃していないだけであろう。
(諸葛亮め、魏軍を野戦に誘い出すつもりだな)
 司馬懿はあっさりと孔明の意図を察知した。
 とりあえず冀城の郭淮に対して祁山へ直行するべからずと指令を出し、加えて麾下の後将軍費瑶、征蜀護軍戴陵らに四千の兵を与え、祁山に程近い上?という地点へ向かわせた。
 そこまで手配してようやく、司馬懿は重い腰をあげた。
「長安を守護する軍兵のみ残し、余の軍は悉くわが下知に従うべし」
 と云い放ち、残りの対蜀軍団のほぼ全軍、約十万という大部隊をまるごとひきつれて祁山へ向かうと発表した。
(大げさ過ぎるのではないか)
 と、さすがに剛腹な魏の諸将も思ったらしく、一同を代表して魏王朝の実戦総責任者ともいうべき征西車騎将軍の張郃から、
「蜀の別動隊に備え、さらに雍、?の各地へも兵を手当するべきではないか」
 という案が提出された。
 が、司馬懿は各個撃破の的になる可能性を危惧し、それを退けた。
「だいたい戦争というものは、圧倒的物量を敵へぶつけておれば負けるはずがない。下手に兵力を小分けするから、敵に付け入る隙を与える」
 なんとも面白味のない用兵思想の持ち主であった。
 ――ところが、司馬懿が鉄壁の布陣をもって蜀軍と対峙すべく行動を開始した途端、狙いすましたように、次々と魏軍を足止めする速報が本営へ飛び込み始めた。
 そして、この行軍の遅れが、司馬懿の緻密な用兵を破綻させる事となる。
 
          二
 
 かつて蜀の孔明が、西南夷の渠帥孟獲をみて「南にも俊傑あり」と評したように、遥か東北の果て幽州の塞外にも、一人の英雄がいた。
 鮮卑族の大人(王)で、魏から附義王の称号を与えられている軻比能という男である。
 もともと弱小部族の一戦士に過ぎなかった彼だが、並外れた智勇と威厳に恵まれ、また為人が公明正大であったため、とうとう一方の旗頭に押し立てられ、ついには歩度根や扶羅漢などという大人を放伐して鮮卑の覇者となった。
 孔明は先の「第三次北伐」の際、文長へ勅状を託して西方異民族たちとの交友を求めたが、この北方の鮮卑王軻比能にも、その知らせが届いていたらしい。軻比能は自ら数万里という途方もない遠路を駆けつけ、会盟に応じた。
「面白き話だ。中原のやつばらに一泡吹かせようぞ」
 彼と彼の軍兵は、偶然ながら「第四次北伐」と呼応するような形で万里の長城を越え、そのまま?州を縦断して雍州になだれ込み、北地郡の要害をたちまち蹂躙した。
 長安の、わずか八十里北である。
 
「鮮卑の叛乱だと!?」
 司馬懿は、彼にしては珍しく怒色を露にした。まだ長安を出て二日であった。
 まさか放置しておくわけにはいかず、司馬懿軍十万はここで少なからぬ日数を費やす事になった。司馬懿自身、いちど長安へ戻り防戦を指導する必要が生じたからである。
 対して、孔明の反応は尋常ではなかった。
 北伐軍を圧し潰すべき大軍団が、長安付近で足踏みしているあいだにも、孔明は秘かに本軍を包囲陣から切り離し、静かに、だが素早く祁山を出立した。
(間もなく、司馬懿が先行させた先鋒隊が上?へ到着するころだ)
 孔明は計算をたて、自身、彼らを迎え撃つつもりであった。留守の間、祁山の包囲は王平とかれの飛軍が引き受けることになった。
 ――一方、何も知らずにのこのこやってきた後将軍費瑶と征蜀護軍戴陵の四千の先鋒隊は、目的地である上?に到着し、この地の穀倉地帯を警護するよう命じられている雍州刺史郭淮と合流した。これで、兵力は二万余となった。
 あとは大将軍の到着を待つばかり、と久しぶりに三将は一同に会したことを喜び、陣中に酒を引き出して瓶をひらいた。そして酔談に華を咲かせたはじめた途端、彼らは数にして三倍というおそるべき数の蜀軍に四方から攻撃され、わずか二日で敗走してしまった。
 敗将の郭淮、それに費瑶と戴陵は、混戦のさなか馬を捨て、重い鎧も脱ぎ捨て、どうにか自分たちの命だけは戦場の外へ持ち出す事に成功した。
(どうも最近、逃げに馴れている)
 と、妙に連敗つづきの彼らは互いに肩を擁し合い、七日後にようやく司馬懿の本隊と合流する事ができた。
 司馬懿は、三人から直に報告をうけて、あらためて孔明の意図を確認した。
(やはり野戦の機を狙っている)
 司馬懿は沈思し、やがてなにか妙案を思い付いたようであったが、口には出さず、ただ行軍速度を早めるように命じた。
 
 建興九年(二三一年)四月、西進する司馬懿軍十万は、?のやや東で蜀軍五万余と遭遇した。
 このとき蜀の丞相諸葛孔明は数えで五一歳。
 対する魏の大将軍司馬仲達は五三歳。
 ふたつの巨星が戦場で相見えるのは、この上?での遭遇戦が最初であった。
(……双方とも、どれほどの用兵を繰り出すのか)
 と、魏蜀の将兵は固唾を呑んで上?の戦野を見守った。
 ところがこの歴史的な二将の邂逅は、甚だおもしろくない展開となった。
 司馬懿は、全軍を停止させると、その場で塹壕を掘って閉じ込もってしまったのである。
 
(やられた。――)
 孔明は、両腿を掌底で力一杯に打った。
(おそるべし、司馬懿)
 敵を目の前に見、その敵に三倍する兵力を擁し、しかも勅任を蒙った身でありながら、全軍を穴篭もりさせるという。この不気味さが、司馬懿という男の将器であろう。
 孔明は、すぐに文長、楊儀の両名をよびよせた。
「この陣をひきはらって祁山へ戻る。すぐさま用意せよ」
 唐突な命令に、さすがに文長は驚いた。
「敵が目前にいる。丞相は、彼らを動かぬ人形とお思いか」
「動かぬ人形だ」
 孔明は即座に断言した。
「司馬懿は、間違いなく我々の意図を看破している。つまり敵からは野戦を仕掛けてこない。それを逆用して、こちらは無傷で祁山の盪寇(王平)と合流できる」
「司馬懿が我々の撤退を見逃すと」
「そうだ」
 孔明はそれだけ伝えると、今度は楊儀を顧みた。
「?の麦はどれほど刈れたか」
「六万四千斛です。七万の兵が喰ったとして、まず半月分はございましょう。これだけ刈り散らせば、もはや魏に殆ど残りますまい」
 文長は鼻を鳴らした。ふたりのしみったれた会話を嗤ったのである。
 孔明と楊儀は、素早く視線を交わしたようであった。それがまた、文長の気に入らない。
(嫌な奴らだ)
 とふと思ったが、形は恭しく頭をさげて本営を出た。
 
 蜀軍は、あざやかに撤収した。
 司馬懿が山間に設けた塞から顔を出して確認したところ、確かに蜀軍の先鋒が野営していた場所が、その痕跡すらとどめぬ平野に戻っていた。
 諸将は一斉に哄笑した。
「蜀賊め、わが大軍に恐れをなして逃げたのだ。大将軍、急進して奴らを撃ちましょうぞ」
 という声が沸き起こった。だが司馬懿はそれを無視し、せわしなく斥候を放ち、蜀軍の撤退速度を計算しつつ、ゆっくりと後を追いはじめた。
(大将軍は慎重すぎる)
 鹵城に到達する頃には、さすがに軍中うんざりするような空気が流れ、またしても老将の張郃が馬を寄せ、
「これ以上は追う必要は無いのではありませんかな」
 と進言したが、司馬懿は頭をふり、まあもう少しついてゆきましょう、と至極中途半端に応え、さらに軍を進めた。
 そして蜀軍の祁山包囲陣の直前まで到達するや、またまた塹壕を掘って全軍で篭もってしまった。
 
「なんという嫌な敵なのだ」
 報告をうけ、文長は思わず怒鳴った。戦場に疾駆して三十年。これまで曹操や周瑜などという歴史的な名将の陣立てを間近で見聞してきた彼だが、いまでかつて、これほど奇妙な兵の用い方をする将など見たことがない。
 後世、老獪な狸親父という印象しか残さない司馬懿だが、元々かれは孔明と直接対峙するこの「第四次北伐」までは、むしろ速戦速攻を得意とする猛将として知られていた。その一撃離脱は壮年期の太祖曹操をも彷彿とさせる程あざやかなもので、例えば先の叛将孟達などは悲鳴を上げる暇もなく血祭にあげられている。
 それほどの勇者が、いまはひたすら穴に篭もって、どのような挑発にも乗らない。
 文長には到底、理解できそうになかった。
 
 ところが当の司馬懿もまた、その新し過ぎる用兵によって窮地にあった。
 敵ばかりか味方が、彼を理解できないのである。つい最近に赴任してきた彼は、先の曹真ほどの絶対的な支持を得ていなかった。
 魏平や賈栩という部将は、新任の司馬懿を臆病ときめつけた。
 ある軍議の席などでは、司馬懿が気色を面に出さぬのを見くびり、
「公が蜀を畏れること虎の如し。天下の嗤いをば、如何にせむ」
 とまで暴言を吐いた。
 さすがに、これには司馬懿といえど蒼白になり、心中、
(勝手にせよ)
 と吐きすてた。これが五月の旦の出来事である。
 なおも諸将の突き上げは続き、司馬懿は彼らを抑え続ける事により諸将の心が離反する事を畏れた。もはや、一戦は避けられそうもない。
(要するに負けねばよい。おれに野戦の後れがあろうものか)
 消極策を捨てた瞬間、司馬懿の心は幾分か楽になった。もともと、かれは野戦指揮官として一流の域にあり、しかも兵数は敵を圧倒するに足る。
 司馬懿は張郃、郭淮、費瑶、戴陵ら幕将を呼び、
 きたる五月の辛巳(十日)をもって蜀軍への攻勢をあきらかにする――と伝えた。
 
 いよいよ、孔明と仲達がそれぞれの能力の限りを尽くし、正面から激突する事になった。
 ――この五月十日におこなわれた決戦の模様は、なかなか克明に記録されている。
 先攻したのは司馬懿であった。
 孔明の本陣を迂回させる形で、王平が包囲する南方の祁山へ、いきなり最強の手駒である張郃軍をさしむけた。兵力は三万余。
 孔明は早速、決断を迫られた。――王平を救うべきか否か?
 意外にも、かれは祁山の王平を援けなかった。
(飛軍の精強と無当監の武勇があれば)
 という孔明の決断は、このとき吉と出た。王平は敵将張郃と聞き、むしろ勇躍して防戦に努め、内に祁山を攻め、外に張郃を防ぐという見事な采配を揮ってのけた。
 張郃が、やたら奇声をあげて跳ねまわる蛮兵を攻めあぐねている間にも、司馬懿は七万という北伐軍団全軍に匹敵する大兵力を前進させ、戦線を圧迫しはじめた。
「迎撃せよ」
 孔明が羽扇を揮い、地を這うように迫り来る魏軍へ攻撃を加えたのは、開戦後、四刻あまりのことである。
 
               三
 
 このとき孔明の本軍を直衛するのは、文長と呉班の指揮する精兵五万余であった。うち、二万は負け知らずの漢中軍団で、これは文長が軍団長時代から十年がかりで鍛え上げてきた猛者ぞろいである。
(司馬懿、なにもの) 
 文長は野戦攻城で成り上がった生粋の職業武人である。司馬懿や孔明のような、士大夫あがりの儒将とちがい、血飛沫く戦場を疾駆し、肉薄する敵兵の胸板に槍を突きとおす瞬間を、生涯で最も尊貴なときであると心の底から思っていた。
 彼は詩を詠まず、詩を解すほどの典雅な教養を持たないが、心根はやさしい。槍を一度ふるうたび、敵と己の人生の航路が一瞬で交錯する刹那をくぐるたび、叫びだしたいような感傷をおぼえる。
(この気持ちを、貴様らに理解できるか)
 孔明、楊儀の徒の顔を思い浮かべるたびに、文長はこう怒鳴りたくなる。
 政治の延長線上に戦争をおくインテリとちがい、文長は戦闘という殺人行為の堆積を戦争と呼んだ。そこには透き通るほどきれいな生命が無数に息づき、一瞬ごとにそれらの幾つかが散ってゆく。それが文長が生涯過ごしてきた戦場の姿であった。
「鼓手は鼓を勇壮に鳴らせや。兵ども、おれの背をみて戦い、死ね」
 文長は物騒がしく叫びながら、わずかな旗本とともに敵の戦列へ突っ込み、一方へ没したかと思うと、すぐさまそこを蹂躙し尽くして他方へ現れた。
「敵将魏延の武勇の凄まじさよ」
 魏の将兵は、彼いっぴきの勇猛に圧倒される形で足踏みし、後続の部隊に背を圧されて混乱をはじめた。司馬懿麾下の部将たちが退勢を覆すべく必死で怒鳴っている。
 文長と呉班はその隙を見逃さず、次々と騎兵を繰り出して戦線を痛撃する……。
 
 予備戦力の高翔隊が動きだしたのは、戦闘の終了も近い黄昏時であった。攻め拗れると夜戦になると踏み、司馬懿が本営をわずかに前線へ移した瞬間に、高翔は動いた。
 数はわずかに五千余であったが、この軽騎集団の投入が戦闘の行方を決定づけた。
 北伐軍の勇猛さに辟易していた司馬懿軍の将兵は、新戦力の出現に驚いて勝手に後退をはじめ、これが手のつけられない大潰走のきっかけとなった。
「今こそ」
 と、孔明は総攻撃の鼓を打ち鳴らし、壊乱を始めた司馬懿軍の背を滅多斬りに斬りつけ、この追撃戦だけでも、これまでの丸一日分の戦闘を上回る戦果を得た。
 司馬懿本軍の後退をうけ、祁山の王平を逆包囲していた張郃は、今一歩というところで兵を退かねばならなくなった。このまま祁山に留まれば、孔明軍に後背を衝かれてしまう。
 
 北伐軍は、勝った。
 記録によると、この日の戦闘で蜀軍は三〇〇〇の兜首と、五〇〇〇領の黒金の鎧を得、戦場に遺棄された三一〇〇張の弩を分捕ったという。
 逃げ戻った司馬懿軍は今度こそ本気で塹壕にもぐり込み、蜀軍の退散を神霊へ祈る事になった。数の上ではまだ遥かに魏軍が優勢なのだが、司馬懿は金輪際、野戦をするつもりはなかった。
 ……やがて塹壕戦を再開してから十日が過ぎるころ、祁山の神霊がその霊験を顕したのか、蜀軍は突如として撤収を開始する。
 さすがに今度ばかりは、背後を衝きましょうという声はなく、皆、呆然としていた。
(また罠だろうか)
 と諸将は顔を見合わせたが、今回は意外な人物から、追撃するべしと声があがった。
 他ならぬ大将軍司馬仲達である。これにはみな驚き、こんどは張郃のほうが、
「諸葛亮の事だ、必ず罠をしかけている。兵法にも、帰帥ハ逐ワズ――とありますが」
 と念をおしてみた。司馬懿は難しい顔で首をふり、
「追うべきである」
 と命じた。
 
 この混乱の中の一連の流れから、やはり数日後におこる珍事件は、司馬懿の巧妙なトリックではないかという説がいまだ強い。
 ……天水郡西県の一街道に、巨星が墜ちたのだ。
 司馬懿の強引で不可解な命令に首をかしげつつ、蜀軍の後を急追した征西車騎将軍、?侯の張郃儁郃は、五千の鉄騎を率いて木門という隘路を通過した瞬間、蜀軍の伏兵による一斉射撃を真上から浴びた。
 張郃は瞬時に、己の死命を察した。素早く円陣を組む旗本たちを、張郃は散らせた。
「落ちよ、一人でも多く落ち延びよ」
 飛箭を切り払いながら、張郃は声を限りに叫ぶ。瞬間、この老将軍の右大腿に、ふたつの貫通創が穿たれた。鋭い鏃は、動脈の集束部を瞬時に突き破った。
 鮮血を吹き上げ、張郃は落馬した。矢はなお天を覆おうばかりの激しさで降り注ぐ。
「張将軍!」
 旗本たちは、全身に矢を立てながらも、敬愛する主将の身体をかばおうとし、相前後して彼の身辺へ斃れた。
(……儂に構うな、逃げよ)
 張郃の声はついに声にならず、彼が再び立ち上がる事はなかった。
  
 張郃の戦死が確認されたのは、蜀の伏兵部隊が引きあげてから半日以上後の事であった。
 遺体を最初に発見したのは魏軍の後続部隊である。木門に伏兵していた当の蜀軍連弩部隊は、まさか自分たちが射殺した大将が他ならぬ張郃であったなどとは、想像もしなかったであろう。
 第一次北伐のときに馬謖を破り、以後、諸葛孔明の最大の宿敵であった名将張郃は、あまりにもあっけなく、誰の物ともわからぬ矢によって戦死を遂げた。
 「第四次北伐」の最大の戦果は、この張郃射殺であったかもしれない。
 
 ……ところで、なぜ緒戦から勝ち続けていた蜀軍が急に撤収してしまったのか。
 理由は漢中から届けられた一通の書簡である。使者は、留府の次官をつとめる参軍の弧忠(馬忠?)と督軍の成藩であった。
「長雨により補給路に損傷あり。これ以上の兵站維持は不可能と判断する」
 驃騎将軍李平の簡潔な文書が、孔明に決断を促した。
(是非もなし……!)
 孔明は唇を噛み、その手紙を凝と睨んだ。
「遠路、ご苦労だった」
 孔明は両特使を労うと、ただちに「第四次北伐」作戦の中止を決定した。
 孔明は主だった将帥に、緊急撤退の必要を説明する。
「勝ち続けて、またしても退くのか」
 と、足刷りして無念を叫ぶ者がほとんどであった。文長もその一人で、
「輜重方の責任者を馘って全軍へ侘びをいれるべきだ」
 とまで怒鳴り、それを聞いた軍官僚たちと、またもや抜剣騒ぎにまでなりかけた。
 動揺は兵にも伝わり、
「勝っているじゃありませんか」
 と、連名して撤退に反対する兵卒たちまでいた。
 それほどまでに高騰している士気を敢えてねじ伏せ、孔明は撤収せねばならない。
「必ず此処へ戻ってくる」
 と、孔明は全将兵に誓いをたてて、自ら範を示して踵をかえし、最初の一歩目を踏む。
 その翻る視界の端に、最後の瞬間に映った光景が、孔明が見る生涯最後の祁山であった。
 
 蜀軍は、撤退した。
 そのとき、帰途で万が一にも魏軍の追撃にあわぬよう伏兵が残された。彼らは孔明考案であるという連弩(多射式の弩)を持たされている。まさか彼らが、魏王朝軍のナンバー2である張郃を射殺して帰ってくるとは、孔明もこのとき予想していなかった。
 王平と飛軍を前衛に、文長と漢中軍団を殿軍にして、北伐軍は延々と関山道を逆進し、蜀領に到着したのは秋もちかい七月の初旬である。
 ――ところが漢中は、孔明も想像できないような事態に陥っていた。
 国軍最高責任者である李平によって、孔明の撤退は不審扱いされているようなのである。
「そんな莫迦な話があるかッ!」
 孔明は、激怒して佩剣を抜き、凄まじい刃風を起こして虚空を斬った。
 内へ篭もりに篭もったストレスがついに爆発したのだろう。彼がこれほど怒色を面に出したのは、このときが始めてであるかもしれない。
 あわてて駆けつけた王平や楊儀ら参軍は、孔明を必死に宥めた。
「廟堂はどういう状況になっている」
 楊儀は、成都から呼び戻した手の者に子細を訊ねた。
 ……それによると、李平は「連勝中の北伐軍が戻ってくるのは訝しい」と、左右に伝えているという。さらに朝廷へは「孔明の帰還は、魏軍を引き付けて撃ち破るための罠でございます」と上奏しているという。
 楊儀はあきれて呟いた。
「補給の失敗の件がひとこともないではないか」
「驃騎将軍は、自らの殖産事業と兵站維持の失敗を、全て丞相の咎に転じようとお考えのようでございます」
 そこまで聞いて孔明は、ようやく精神的な余裕を取り戻した。
「小物だ、李平は」
 李平の目的は、むろん孔明の権威失墜にあるのだろう。孔明が掌握している実権を少しずつ朝廷に返上させ、それらを自分が貰いうける。その手筈を整えるには、まず国内における孔明の絶対的な信用を、ほんのわずかでも揺るがす必要があった。
(余を躍らせるつもりであろうが、そうはゆかぬ)
 とにかく漢中へ戻り、さらに成都宮の皇帝の御前で、改めて李平と対決せねばならない。

魏延の北伐【第七章】 陽谿の会戦


               一
 
「魏が、大兵を催して攻めてくる」
 どうやらそれが確報らしいとわかったのは、同年の九月に入っての事であった。
 この四月、これまで形式上は魏王朝の藩国王という立場であった呉王の孫権が、あらたに呉王朝を宣言し、全土を震撼させたばかりである。この呉王朝の成立により、中国大陸には皇帝を名乗る三人の男が並び立つ、三王朝(三国)時代が到来したことになる。
(……ややこしいこの時期に、侵攻してくるとは)
 三帝国のうち最も弱小な蜀漢王朝の最高実力者である孔明は、魏の軍事計画の詳報をうけて、舌打ちをもらした。
 しかし、すぐにその眉をひらいた。
(いや、こういう時期だからこそ、かえって有り難い)
 いま蜀の宮中には、先日皇帝を名乗った孫権を「僭称者」と断罪し、彼を懲するべしという論議がやかましい。
 彼らの理論で云えば、蜀漢王朝こそ劉氏による漢(後漢)王朝の直系であり、曹氏の魏や孫氏の呉など「自称王朝」に過ぎない。魏や呉の官民はあくまで蜀漢王朝の臣下であるはずが、いま不逞にもは天子に逆らって叛逆している、というわけである。
「だから、孫権の登極を認めず、彼の増上慢を懲らしめてやらねば筋がとおらない」
 魏の七分の一、呉の三分の一程度の国力しか保有しない地方の武装勢力が、本気で云っているのである。
 孔明は、宮中で俄に沸き起こった、いささかファナティックな国粋主義運動に閉口していただけに、魏の来寇をむしろ扶けに思った。
(ただでさえ北伐で手一杯なのに、加えて呉まで敵に回してたまるか)
 という本音をかくし、血ばしった眼で東呉への出兵を迫ってくる廷臣どもを態よくあしらっていたところ、思いもかけず巨大な国難が降り懸かってきてくれたわけである。孔明は、その国難さえも最大限に利用した。
「よろしいか、諸卿。いま将に危急存亡の秋である。来年には北賊(魏)が百万と号する大兵を挙げ、不逞にもこの宮を目指して来寇するという。その重要な時期に」
 ――呉までも敵にまわして、国防を完遂できるのか。自国の正義をいじくりまわしているだけでは外交が成り立たぬ。ここは耐え難きを耐え、敢えて孫権の登極を認める事が、漢家の御ためではないか。
「そこまで考えた上で意見しておるのか、卿らは!」
 大挙しておしかけてきた国粋主義者どもは、孔明の意外な怒声に正面から一喝され、思わず立ちすくんだ。この場合、孔明の並外れた長身は、人々を威圧するに足る迫力をうむ。
「わかったら部署にもどり、来るべき魏の侵攻に少しでも備えおけ!」
 孔明は、議論するだけで役にも立たぬ連中を、執務室から叩き出した。とにかく蜀の国是を呉王朝容認の方向へもってゆく、それが第一声になるはずであった。
 
 孔明の思惑などとは関わりなく、大魏帝国は着々と出征の準備を整えている。
 その間にも年が改まり、建興八年(魏では太和四年)。
 魏の最高実力者曹真は、亡き曹休に代わって大将軍から大司馬にすすみ、加えて賛拝不名、入朝不趨、剣履上殿という諸王公に匹敵する破格の待遇を得ている。いわば、副皇帝にちかい。
 このとき曹真は、五十前後。孔明や文長とほぼ同年代である。 
「余は一戦で蜀を滅ぼすつもりである」
 と部下に漏らしたように、曹真は本気で蜀漢王朝を覆滅させるだけの準備をした。
 動員兵力は、戦闘員だけで十五万から二十万。
 そしてその二十万将兵が数年にわたって転戦するに足る装備、糧食も続々と雍州長安城、荊州上庸城の両拠点へ集結しつつある。
 その陣容は、凄まじい。幾度かの廟議で修正された結果とは云え、内容はほぼ曹真の希望に沿うようになっている。
 即ち――八月旦を期して征蜀軍は進発し、子午道(最短ルート)より征西車騎将軍張郃が、斜谷道(三番目のルート)からは大司馬曹真が、それぞれ長安駐留の陸軍を南下させる。同時に荊州方面からは大将軍司馬懿が、艦隊を率いて漢水を遡上する。
 この三路二十万から成る征蜀大軍団は、同日に三方向から漢中へ殺到するように行軍計画を組まれている。
「これほどの大陣容、たとえ鬼神と雖も阻むあたわず」
 曹真は、自信満々に云い放った。
 
 蜀にも、詳報がつぎつぎ舞い込んでくる。
 もはや孔明も、来寇をありがたがるどころの騒ぎではなくなっていた。文字どおり、蜀漢王朝にとって危急存亡の事態であった。
(……まさか、ここまでの布陣とは)
 国防の最前線に長く居た文長でさえ蒼白になるほどの、魏の雄図である。これが弱敵ならば、大風呂敷を広げたるに似たこの遠征計画、途中で破綻するのは目に見えている。
(しかし、曹真、張郃、司馬懿は弱敵ではない)
 おそらく、彼らは完璧に連動して漢中に突入し、この南鄭めがけて殺到してくるだろう。
(そうなったとき、おれとおれの要塞は能く大敵を防げるか)
 文長は自問し、さすがに剛胆な彼でさえ全面的な自信をもって、
(――防げる)
 と断言する心境にはなれないでいた。
 連日、協議が続いている。
「漢中を出て、迎え撃つか。漢中の険を用いて彼らを阻むか。いっそ漢中を灼き棄て、剣閣に拠り蜀土をまもるか」
 おおまかに三通りの軍略がある。
 群議はむろん、漢中の要害を占めて魏を防ぐ、という中庸な案を支持した。
 文長は漢中要塞の責任者であるから、それへ首肯した。
 ところが孔明は、反対であった。
 ちなみに諸葛孔明は、先の戦捷によって右将軍から丞相へと返り咲いている。
「余の意思は、卿らの如きものとは違う。敵の攻めるに任せるは、大勇ではない。むしろ進んで敵を撃ち、その連携を崩し、各個に彼らを撃破する」
 と、孔明は意外なほどの積極戦略を主張した。
 
 在任中、かれが常に心配したのは国家全体の士気である。
 ただでさえ辺境に逼塞している蜀漢王朝は、それが国家として機能するため、どうしても時代の能動的主役であるというテンションの持続を必要とする。一度でも消極的防禦に徹すれば、国風は想像以上の加速度で退嬰論にかたむき、自然消滅にちかい形で自潰することになるであろう。
 孔明は、常にその風景を恐怖した。連年、立て続けに〝北伐〟なる軍事的冒険を繰り返すのも、ひとつに国民のボルテージを一定数値まで引き上げ続けるという目的があった。
 かれの真意は知らぬ諸将は、困惑した表情を互いの顔に見出すことになった。
 とりあえず一同を代表し、文長が質問した。
「はたして、漢中の険に拠らずして、魏の大兵力と互角に戦えるのでしょうか」
 孔明は即座に、
「これは使君(文長)ほどの英雄のお言葉とは思えぬ。わが漢の兵はひとりで能く魏兵の百人と当たるでしょう」
 と、もっとも日頃の彼とは似気無い空壮語を返した。文長は、孔明が故意に議論を躱そうとしているのを、何となく感じて黙りこんだ。
 軍議は、端から気勢を殺がれる形となった。
 だいたい、人間が評議などという行為を行ったところで、結局のところその趨勢を定めるのは、百万言の巧舌などではなく、ただ議場の空気の方向あるのみである。――議を制する者とは、その空気の熱量を調整し、その方位を操る者を云う。このとき孔明は、最初から反対にまわる意見を気で殺した。
「――心丈夫に。わが胸中に方策あり」
 孔明は、ただ一言で国軍の方針を決定してのけ、さらに議題を具体的な内容へと進める。当然、みな目の色をかえて議論に熱中しだした。
 
 前将軍・中都護・仮節・江州都督の肩書きをもつ李厳のもとに、出馬を促す勅令が届いたのは、五月もなかばであった。
 二万の軍を率いて漢中へ向かえ、というのである。江州都督、すなわち対呉国境軍総司令の職は、彼の長子李豊におそわせるべしともある。
 加えて彼を一躍、驃騎将軍(次席元帥)に任ずる旨まで記されていた。
 これまで北伐にも参加させず、辺境に棄て置いていた事を詫びるにしては、いささか気味が悪いほどの厚遇である。
(――丞相は、おれを恐れている)
 李厳は、一瞬で理解した。孔明が成都を留守にしている間、李厳もいろいろと触手を伸ばして宮廷工作を行っていたが、孔明もどうやらそれを探知し、不安になったらしい。
「それにしても、漢中へ来いとはな」
 李厳は声に出して呟いた。漢中へ行くという事は、とりもなおさず、孔明とほぼ同格の自分が彼の指揮下に隷属する事を意味する。
(ごねてやろうか)
 と、ふと思ったが、漢中軍団を擁する孔明とことを構えるのは面白くない。
「まあ、行くか」
  
 李厳の漢中入城によって、蜀の絶対国防線に結集した兵力は七万をわずかに越すほどになった。
 孔明は、そのうち四万を率いて漢水沿いに東進し、赤坂という処に本営を置いた。
 張郃軍の予定進路である子午道と、司馬懿艦隊が遡上してくる漢水とが交錯する地点であり、ここの争奪戦こそが、この戦さ全体の帰趨を占うであろうと目されていた。
(もしもここを魏に占拠さるる事あらば、たとえ漢中に籠もって防戦したところで,
長く保つはずがない)
 孔明は常々そう思い、すでに昨年の冬までに、この一帯を要塞化することに成功している。ああも軍議を積極的に掻き回したのも、そういう存念があったからである。
 一方、後方の南鄭城の指揮は驃騎将軍の李厳が執る。この蜀漢王朝ナンバー2の実力者は、悠々と着任し、顔色一つかえずに漢中要塞の全機能を掌握した。
 赤坂に孔明、南鄭に李厳――これ以上は物理的にも望めない必死の布陣で、蜀漢王朝は魏の大攻勢を待ち受けようとしている。
 
               二
 
 ところが、さすがの孔明も呆気にとられるような事になってしまった。
 予定どおり八月に長安と西城をそれぞれ進発した魏の大軍団が、九月になっても蜀領へ姿をあらわさず、それどころか何もせずに本国へ引き揚げてしまったのである。
 ――雨、であった。
 それも並の雨ではなく記録的な集中豪雨であった。
 まず、進軍路である桟道が真っ先に崩され、立ち往生をしているところを今度は二次、三次の土砂災害が襲いかかり、何もしないうちから魏の征蜀軍団は半身不随に陥った。
 これは、司馬懿の遡上艦隊も同じであった。俄に嵩を増した漢水は、牙を剥いて水上部隊に襲いかかり、これも進軍どころの話ではなくなった。
(このままでも戦さは出来るが、三路同時に南鄭へ征くのは不可能だ)
 作戦総司令官の大司馬曹真は、血が吹き出るほどに唇を噛みしめて無念と闘い、
 ――全路、撤収せよ
 と、ようやく声を絞り出した。
   
 魏軍は、退いた。
 せいぜい夏侯覇指揮下の威力偵察部隊が、蜀の興勢城の守備隊と小競り合いをしたくらいなもので、他の二十万という大軍団は、その剣を鞘から抜く暇もなく本国へ引っ返した。
 おまけに総司令官曹真は、無念のあまりか帰還途中に病を発し、世にもばかばかしいこの大遠征を最後の戦歴に加え、洛陽で身罷ったという。
「これは、天の扶けだ」
 孔明はしばらく呆然としたあと、感情を整理するために本気でそう考え始めた。
 全くその通りで、これは天が蜀漢王朝の孤烈を憐れんで百万の天兵を遣わしたに等しい結果となった。
 文長でさえ、今回ばかりは天に感謝した。
 すると天は、文長の珍しい信心を嘉してか、もっと晴れがましい奇跡を彼の前に運んで来てくれたのである。
 魏軍団の撤収が確認されてからわずか十日後、文長は南鄭へ戻ってきた孔明の元に呼び出された。
「涼州殿、卿にひと働きして貰いたい」
 前置きをはさみ、孔明が口にした内容はちょっと信じられないものだった。
 つぎの北伐軍団の総指揮を執れ、というのである。
「北伐の指揮を執れ、と」
 あほうのように孔明の台詞を繰り返し、文長はその語彙を口中で転がすように確認した。
「もっとも、この雨で長安への進撃路は殆ど崩れ落ちている。だから使君には、先に陳式が伐り取った武都、陰平を経由して、一挙に涼州の奥深くまで進んで頂きたい」
 孔明が企図した「第三次北伐」、すなわち西進戦略の最後の仕上げを、この蜀漢王朝最強の豪将は委ねられたのである。
「動員兵力は二万から三万。輜重が整い次第、すぐさま進発して欲しい」
 孔明はきびきびした口調で命令を下した。
 ……この瞬間、魏延文長は念願だった北伐軍総司令官の任に着いたのである。
 
 この「第三次北伐」の「後段」は、全く文長の独壇場であった。兵力は二万余、副将に討逆将軍の呉懿を用い、孔明や李厳の指示も届かぬ遥か西北の果てまで軍団を進めるのだ。
「この出征の目的は三つあるものと、おれは見た」
 文長は、幕僚たちに説明した。
「ひとつ、涼州奥深くまで侵攻して、わが漢家の御威光を四海のうちに知らしめること。ふたつ、塞外の羌民族や氐>民族の渠帥どもとわたりを付け、以後の北伐で彼らを大い用いる事が出来るよう工作すること。みっつ、孤立した雍州刺史郭淮と彼の軍団を誘い出し、これを殲滅すること。以上である」
 呉懿を始め、武将たちは神妙に頷いた。
「幸い、西涼に詳しい馬将軍が陣中にいる。道中の案内は彼に任せようと思う」
 馬将軍とは、後の平北将軍馬岱の事で、これからわずか四年後に文長を斬る男である。故驃騎将軍馬超の従弟で、彼の姪(馬超の娘)が皇弟のひとりに嫁している事から、いちおう外戚の一人として数えられている。
 曹操を散々に苦しめた野戦の怪物馬超には及ばぬものの、彼に似て並外れた武辺者であり、人柄は爽やかで嫌みがなく、要するに文長が最も好む型の好男子であった。
「進路はただひたすら西へ」
 文長は、その一言を全軍へたたき込んだ。
 
 迅キコト風ノ如ク。……侵略スルコト火ノ如ク。
 とは「孫氏」の軍争の段でもっとも有名な文句であろう。
 蜀の魏延文長は、このとき孫子の最も忠実な実践者であるといえた。彼の指揮する北伐軍は、出撃してからわずか一一日で武都、陰平の両郡を、疾風が吹き抜けるように通過し、その勢いを止めずに涼州へ入った。
 「第一次北伐」で用いた関山道(長安から最も遠回りなルート)を用いて西方へ出、なつかしの天水郡の祁山を横目に、さらに北西へ。雍州西端の隴西郡をぬけると、そこはもはや漢人の天地の最果て、涼州である。
 羌族や氐族などの西戎――チベット系西方騎馬民族の居住区と隣接し、果てなく国境紛争が繰り広げられてきた地帯だけに、その地名も、「破羌」だの「安夷」だの「臨羌」だのと、あきらかに血文字で記された解り易いものであった。
 文長麾下の北伐軍は西平郡の北端、臨羌にその本営を設ける事にした。漢中から片道で二千里(約八〇〇キロ)という、途方もない長征であった。
 ここからずっと北上すれば酒泉、さらに北上すれば敦煌にもいたる。
「ちかいうちに涼州刺史としてこの地に君臨し、なろう事ならば西域まで自身、馬を進めてみたいものだ」
 文長は、吹き荒ぶ毘崙下ろしに嘯いてみせた。
 この臨羌のあたりは、文字どおり漢人領域と羌族の勢力圏が入り組んでおり、混血、雑居も進んでいる。土地は乾燥し、一陣の風が吹き荒れるたび、轟っと砂塵が舞い上がる。
「ここらは地味が乏しい。農業より、遊牧が主な生産です」
 馬岱が、説明した。かれは、先年蜀軍が苦汁を飲まされた陳倉城のある扶風郡に本籍をおく。長じては叔父の馬騰に引き連れられ、その子馬超とともにこの涼州一帯に割拠し、長らく中原の王朝と抗争していた。
 当然、羌の血も濃く受け継ぎ、幾人かの有力者と親睦もある。今後の北伐戦略のためにも、ぜひともその人脈を活かす必要があった。
「わるいが、将軍には周旋の労をとって貰いたい」
 文長の要請に、馬岱は嬉しげに頷いてみせた。
 
 馬岱の紹介で、文長は羌や氐の渠帥たちとの馬上会談の機会を得た。
 彼らは口を揃えて、
「中国(中原)に報復ができるのか」
 と訊ねてきた。
 数百年むかし、彼らは益州や雍州などの、まだしも豊かな土地に居住していたのである。それが、中原文明の爆発的な発展により漢民族絶対の時代となり、彼ら非漢民族は次々と土地から駆逐されるだけでなく、蛮人と呼び慣わされるようになってしまった。
「我らが豊かな土地に住める事を約束して貰えるならば、蜀帝に協力してもよい」
 彼らの結論は、実に単純である。文長は、諾、と応えると、自らの小指の先を噛みきって血の証とした。彼ら西戎が約束を取り交わすとき、そのようにする事を馬岱から聞いていたからである。
「使君の血は信じてよい。この良き日をともに祝おう」
 渠帥たちは、少なからず文長の行為に感動したらしく、次々と指を噛みきり、鮮血を彼らの大地に滴らせた。
 ……結局のところ蜀漢王朝の北伐は成功せず、これから三三年後、皇帝劉禅は魏帝国の軍門に降ることになるのだが、彼らはこの日の約束を忘れなかった。
 三国がいちどは司馬氏の晋王朝に統一され、そしてまた分裂の兆しが現れたとき、塞外の異民族は大挙して中原へなだれ込み、漢人の文明を蹂躙した。
 いわゆる五胡十六国時代という非漢人主導の歴史を、かれらは百数十年もの間にわたって創り出すのである。
 
 多民族会談に良好な感触を得られたとはいえ、文長の手による「第三次北伐」はまだ目的の全てを果たしていない。
「郭淮は、まだ動かぬか」
 北伐軍の機能の全ては、いまその探査に集中していた。
 魏の雍州刺史郭淮は、清廉で優秀な民政官であるだけでなく、草創の将星なき魏王朝を支える次代の名将で、たとえば蜀漢の魏延文長にあたる。いま郭淮は対蜀軍団の首魁として十万ちかい軍兵を掌握しており、蜀漢首脳にとっては憎んでも憎みきれぬ男であった。
 今回の北伐の最終目的は、その名将郭淮の軍団を地上から消し去る事である。
「先月の大雨によって、魏の雍西および涼州は中央との連絡を寸断されている。郭淮軍を討つ機会があるとすれば、彼らが孤立している今しかない」
 文長は出発の前にも諸将に説明し、その用意を整えている。
 何も考えずに行軍していたように見えて、文長は一定距離ごとに斥候をのこし、もし郭淮軍に動きがあればすぐさま本営へ情報が伝わるようにしている。
「もし郭淮が小智ある勇者ならば、必ずわが軍の突出を奇貨と見、急進して我々を後背より直撃するだろう。もし彼が大智ある名将ならば、我々の退路を断ち、帰還途上を待ちかまえて包囲殲滅を図るに違いない」
 文長は幕将たちに存念をのべた。席上、ふと彼は魏の降将の一人に訊ねた。
「貴様は郭淮と親しく会い、その人物をよく存じておろう。彼はどう動くと思うか」
 そう問われたのは、まだ三十にもならぬかという若武者であった。一見して処女のように線ほそい外貌だが、双眸だけは猛禽の如く研ぎ澄まされている。
 孔明が、地理案内として幕僚に寄越した青年将校で、姓名を姜維。第一次北伐の際、蜀に投降した天水郡の下僚の一人だが、北伐軍の撤収のとき運悪く逃げそびれ、家族と離れ離れになってしまった気の毒な青年である。
 ところが意外なことに、これがいささか桁の外れた戦さ上手で、すぐさま孔明の気に入り、馬謖の代わりとして寵愛を受けることになった。いま、わずか二八歳。
「雍州は必ずや我が軍の後背へ出、邀撃の備えをするに違いありません」
 姜維の返答は簡潔だが、自信と覇気の、双方にみちている。
 文長は軽くうなずいた。
 
               三
 
 ――冀城および南安城より魏軍進発の模様。
 待ちに待った報らせが、帰還途上の文長の元へ届いたのは、十月もおわりの頃であった。
「郭淮が、うごいたか」
 たった今目覚めたばかりで、扈従に髪を結わせていところであったが、すぐさまこれを追っ払い、幕僚をあつめた。
「ようやくである。諸将、かねて申した通りにせよ」
 今朝一番の飛報を披露するや、副将呉懿をはじめ、錚々たる北伐軍団の将星たちは一斉に響動めいた。
「郭淮は、我々の南下にあわせて四万の兵を動員し、隴西まで陣を進めてきている。主力決戦は、隴西の首陽あたりになるだろう」
 まえからの予測通りであった。ただ、ひとつだけ不確定の要素もある。
「少なくとも一月前、長安から一軍が進発しているらしい」
 どうやら例の征蜀軍の一支隊が、先の大雨で帰還の路を閉ざされ、この近辺をうろついているというだが、そちら方面の詳報はまだ届いていないのである。
 
 首陽県の主峰のひとつに、烏鼠(同穴)という山がある。ちかくに、烏と鶏を混ぜたような鳥が棲み、また地に穴をあけて生活する鼠のような小動物が繁殖しているという。その烏鼠山をのぞむ地点に、陽谿という場所があった。広い平野部を、渭水の源流が細々と流れている。
 「第三次北伐」の終幕を飾るべき大会戦は、この陽谿で繰り広げられる。
 文長の指揮する北伐軍団二万余と、郭淮の指揮する対蜀方面軍団主力四万は、二日にわたる前哨戦を経て、やや魏軍優勢のまま文字どおり正面衝突をした。
「蜀の迷い児を、一人たりと生かして還すべからず」 
 先攻したのは魏軍であった。郭淮は、その勇姿を陣頭にさらして猛烈に闘った。
「郭淮の果敢さよ」
 総司令の文長は、孔明に倣って後方で全軍を督しているが、開戦からの敵の勇戦を遠望し、さすがに堪らなくなった。
「前に出る」
 短く云いすてると、あとは副将の呉懿に任せ、自らは漆黒の悍馬を鞭うち最前線へ躍り出た。蜀兵たちは、見慣れた総大将の後姿をみて響動めき、歓声をあげた。
「者ども、死ねや。一歩でも前へ出て死ね」
 文長の怒号は戦場全体に響く。各所で破れかけていた蜀の陣が、この凄まじい叱咤に背中から蹴飛ばさる形となり、彼らは慌てて魏軍を圧しまくった。
「魏延が出た」
 魏軍の方でも、この鬼門に等しい敵将の名が伝播するだけで、動揺し、腰を浮かす者が出始めた。主将の郭淮がいくら、腰をば落とし顎をひけ、と怒鳴っても、なかなか収まりそうになかった。
 ――尤も、一部で動揺がおこっても、魏軍は蜀軍の倍の人数である。
 郭淮は懸命に戦線を建て直しつつ、副将の征蜀護軍戴陵という男に命令した。 
「繞回せよ。我が軍の半ばを敵の後ろへ回し、掌を撃つように前後から挟み撃てば、蜀賊どもは虫螻の如く叩き潰されようぞ」
 この指令は、的確だがわずかに遅かった。文長は、これあるを予測して高所高所を占め、弩兵をあらかじめ配している。郭淮軍から敵の半数ちかくがごっそりと移動を開始したとき、号令一下、空が隠れるほどの箭が放たれ、戴陵隊の腹部へ次々と吸い込まれた。
 戴陵隊は、あわてて郭淮本軍へ逃げ戻った。
 
 文長が、右に左に飛び跳ねつつ連戦し、とうとう敵の戦線の切れ目を発見したのが、激闘二刻余のことである。
 これは退こうとする集団と進もうとする集団の境目のことで、戦陣の中で最も脆弱な部分であった。余程の歴戦の勇者でなくては、まず見切る事は不可能であろう。
「馬将軍、かの丘陵こそが戦さの趨勢を制する。攻め奪り候え」
 短く、鋭い命令が、文長から放たれ騎将馬岱へ届く。陽は、沖天にある。
「――駆けよ」
 令箭を受けるや馬岱は戦斧を引ッ提げ、後続を待たずに先駆けをした。従兄に似て彼は驃悍であり、文長の短い命令の意味を最もよく把握していた。
 馬岱隊がきりもみ状に魏軍中枢へ突入し、これを存分に突き崩したため、中軍は大混乱に陥る。郭淮にすれば、麾下の軍団が思いもよらぬ部分から陣崩れを起こしはじめたので、
(裏切りでもあったのか)
 と狼狽した。
 野戦指揮において、郭淮と文長とでは格が違った。精兵揃いである郭淮軍が、半数にもみたぬ北伐軍に攻めまくられて後退を重ね、潰走に歯止めが利かなくなっている。
 ……このまま戦況が移行していれば、蜀軍の完勝であったろうが、まだ「第三次北伐」には残りの一幕があった。
 
「北東に夥しき旌旗」
 という報は、魏と蜀の、双方へほぼ同時に届けられた。
 何と書かれているか、という同時の問に、これも同時の答が返された。
「魏後将軍費瑶、であります」
 これには、さすがに沈毅な郭淮も蘇生の貌をしたし、蜀の文長は愕然として思わず左右を顧みた。費瑶は、魏の中央軍を指揮する四大将のひとりで、まず凡将ではない。
 この、一月もまえに長安を進発していた費瑶が、二万という北伐軍全軍に匹敵する大部隊を引き連れ、半日遅れで戦場へ到着したのである。
(郭淮め。開戦をやたらと遅らせていたのは、この軍が在ったからか)
 文長は歯軋りすると、全面攻勢の合図を待ち構えている味方へ、
 ――戦線を縮小しつつ後退
 という指令を下した。今は郭淮軍よりも、新手の費瑶軍へ手当せねばならないのである。
 そうなると、勢いづくのは郭淮であった。まだ数の上では、彼らは蜀軍より遥かに多い。「後将軍と呼応し、蜀賊を撃滅する」
 郭淮は叫び、前線へ躍り出た。彼の目前には、逃げ去るように戦場を移動する蜀軍のうしろ姿があった。
 このとき、郭淮が突撃の下知をしていれば、第三次北伐軍は三倍という魏軍に圧し潰されて消滅し、魏延文長という勇将もこの世から消えて無くなっていたにちがいない。
 だが、間もなく郭淮もまた、文長と全く同じ立場に立たされる。
「南方より敵!……旗印は漢丞相諸葛亮とあり、数は約四万」
 孔明が、自身で指揮する軍団であった。
 郭淮はさすがに呆然として振り返り、このとき初めて蜀の壮大な戦略を察知した。
(すべては、この私と私の軍団を封殺する罠であったのか)
 郭淮は、暑いはずの鎧の内側が、急速に冷えるのを感じた。これを恐怖だと云われても、かれは否定しようとは思わないに違いない。
「全軍、反転せよ」 
 郭淮は、孔明と対峙する事を決断した。文長の北伐軍を攻めていては、自らが後背よりえぐり刺されてしまう。
 つまりこの瞬間、費瑶(二万)――文長(二万)、郭淮(三万)――孔明(四万)、という二つの戦線が出来上がってしまったことになる。
  
 結局のところ、この陽谿(首陽)の会戦は、蜀軍のほとんど一方的な勝利で終わった。
 急進してきて疲労の残る費瑶軍に対し、文長は常に先手を取る用兵を心がけ、費瑶は反撃の糸口さえ掴む間もなくその戦列に破綻を見、とうとう老齢の費瑶自身が槍をふるって本営を離脱する程までに破れた。
 もう一方の戦線では、郭淮の執拗な突撃を闘牛士の要領で受け流していた孔明が、無造作に騎兵を繰り出し、郭淮軍の各所を次々と痛撃しているところへ、費瑶を撃破した文長軍が旋回してきたため、郭淮はこれ以上の抗戦を断念した。
「退けよ、退けよ」
 大将の郭淮は、自ら殿となって最後まで戦場に踏みとどまり、百人単位で離脱する魏軍を援護した。蜀軍がこれに喰いつこうとして、かえって撃退されてゆく。
「ああ、郭淮は名将かな」
 滅多に人を誉めぬ文長が、この光景を遠望して慨嘆した。
 ――陽谿の会戦に参加した戦力は、蜀軍六万、魏軍七万余。
 魏にも蜀にも、主だった将帥の損失はないが、魏はその軍兵の二割近くを失い、涼州および雍州における支配力を激減させることになった。蜀軍の損害は、三千に満たない。
 総じて、「第三次北伐」は大成功に終わったといえる。
 
「しかし、長安への路は遠い」
 漢中へ戻り、執務室へ閉じ込もった孔明は、いつもながら深刻に呟いた。
 今回のような、ただ辺境を掠め取る伐り奪り稼ぎはまだ容易だが、成功したところで〝北伐〟の最終目的である「中原克復」には、何ほどの寄与もない。第三次北伐は、ある意味、無駄な努力であるかもしれないのだ。
 軍人――たとえば文長などは、そういう難しい事を考えず、ただ戦場で大捷したことのみ喜び、ひどく上機嫌であった。孔明の肩を叩き、楊儀の肩も叩き、呉懿、馬岱以下の部将たちにも極上の笑顔をふるまいつつ帰還していた。
(やはり魏延は、その程度の男なのだ)
 孔明としては、いささか深刻な苦笑を浮かべざるを得ない。実戦の総責任者たる男がこうでは、後々の事が思いやられるのである。 

魏延の北伐【第六章】 北伐みたび

               一

 
 ただ一人の若い独走が、取り返しようの無い結果を蜀漢王朝へもたらした。
 まず、街亭から長駆して祁山本営を衝いた張郃軍が、さらに折り返して隴西と漢中との連絡路を遮断しようとしたため、孔明ら本軍は、為す術もなく全軍撤収した。
 それにやや先立ち、魏の大部隊を斜谷道で引きずり回していた趙雲・鏃芝軍もまた、戦線を支えきれず突き崩された。彼らはもともと陽動部隊であったから、曹真軍を引き付けておくだけで一定の戦果をはたしていたのだが、それも全てが徒労に終わったわけである。
 さらに、せっかく蜀の威を畏れて投降していた安定郡・天水郡・南郡の三郡も、蜀軍去るの報を受けて、再び魏に舞い戻ってしまった。
 北伐など夢の中の出来事であったかのように、なにもかも元通りに戻ってしまった。
 
 ――馬謖の身柄を、如何に処すべきか。
 漢中への撤収を無事完了した孔明は、彼にとって重すぎる裁断をつきつけられていた。
 街亭へ出撃する後姿を見送って以後、孔明は、漢中へ無事戻った今でも馬謖と顔を合わせるのを避けている。
(どのような表情をして彼に向かえばよいのか、また、何を語ればよいのか)
 抗命の咎を詰り、怒鳴りつけ、打擲し、それで事が収まるならばどれ程に楽か。
 馬謖は、断罪を待つ意味で自らの髻を落とし、黒絹で目隠しを施して、南鄭城外の一楼に閉じ込もっている。
 孔明は南鄭城の私室で、幾度目かの眠れぬ夜を迎えた。
 すでに、心は決まっている。
「斬ろう」
 そればかりは孔明の立場上、どうしようもない決定事項であった。敵を逃ぐる者、無辜を害す者、軍規に反す者――は悉く斬すべしと軍規に明記してある。そうと定めた孔明自身が、率先してそれを破り、悪しき先例をつくるわけにはいかない。
 即座に、そう突き放した判断を下したものの、平素親しく近づけていた青年馬謖の顔を思い浮かべるにつれ、それへ殺を与えるべき惨を思い、歯軋りした。
 彼の手元に、つい先刻馬謖の元から送られてきた書状がある。
(……平素、明公が謖を慈しみ下さること子に対する如く、謖が明公をお慕いすること父に対する如く、情、細やかであったと信じております。しかし今は、古の尭王が鯀を戮し、その遺児禹を用いた義話をお惟いください。さらば、謖は死すとも黄壌に恨みをのこしませぬ。……)
 このとき、既に馬謖は十二分の覚悟を決めているようであった。王平が直感した通り、馬謖は、明らかに以前の馬謖ではなくなっている。
 狼狽し、膝が震えるほどに動揺しているのは、孔明のほうであった。
(最後に一度、一度でよい。幼常の側で、杯を交わし、四方山の夜話などしたい)
 師父としてのせめての願いであった。
 堪らず、筆を投げ出し紙燭を手にとり、馬謖が謹慎している一楼へ向かいかけ、また思い直して座に戻る。漢中へ戻って以来、孔明はこの動作を幾度くりかえしたことであろう。
(身は、天朝の大宰相なるに、これほどの自由が許されぬのか)
 孔明は、泣くまいという誓いに反し、胸を焦がす悔しさに嗚咽をもらした。
 
 このとき、馬謖をもしも救える存在があったとすれば、それはただひとり、成都に居ます皇帝劉禅であろう。
 劉禅の耳には、すでに馬謖の過失と北伐の失敗が届いている。
 当然、孔明が馬謖を誅して全軍へ謝する意向であることも聞き及んでいるはずである。
 もしも劉禅が英明と呼ばれるほどの君主であれば、孔明の立場と理屈を是としつつも、それを小乗的な法家主義と喝破し、自らは大乗的な立場で勅を発し、馬謖の一命を救おうと尽力したかもしれない。
「千軍は求め易く、一将は求め難い。勝敗は兵家の常であり、敗北の度にいちいち将を斬っておっては国家の衰亡を早める事になろう」
 たとえば曹操や劉備、孫権などは、それがたとえ職務怠慢や軍令違反であろうと、眉をしかめながらも上の如く云い、一命を救って再起の機会を一度は与えた事であろう。
 まして蜀漢王朝は、その国力の弱小さもさることながら、絶望的に薄っぺらい人材層に悩まされている。孔明以下、用いるべき人が数えるほどしか無い中、馬謖は例外的に異彩を放っていた。
 劉禅が勅使を急派し、
 ――丞相、馬謖は確かに失敗した。しかし、大用する毋かれとの先帝陛下の御諚があったも関わらず、謖は大用されたのだから、彼も気の毒である。朕に免じ、謖の罪を減ぜよ。
 と云ってやれば、孔明はまさしく蘇生の思いをし、馬謖を公然と赦してやる事ができたかもしれない。
 孔明は、あるいはそれを待っていた。
 だが、結局勅使は訪れなかった。
 馬謖は赦されず、孔明は彼と口をきく機会を永久に喪った。  
 
 馬謖の死については、今日も各説が語られている。
 最も有名で、また最も事実に近いと思われるのが、「泣いて馬謖を斬る」にある刑死説。
 「謖を戮し、以て衆に謝す」という記述が、正史には二箇所のこされている。
 他に、獄死説。
 これは馬謖伝の記述で、斬られたというのではなく、「獄中で物故」という表現が用いられており、あるいは謖が自らを裁いたようにも思える。
 さらには、逃亡説。
 時の丞相長史向朗は、馬謖と平素親しかったため、馬謖の逃亡を知りつつこれを黙許し、孔明の不興を買って更迭された、という。(にも関わらず向朗は間もなく栄進し、一部ではその事が馬謖逃走説を裏付ける証左といわれ続けている)
 ……最後の逃亡説は別として、馬謖はともかく漢中で刑死した。
 孔明は彼の死を哀しむ一方、それを最大限に利用した。彼の政治家としてのつめたい本能が、最も効果的で劇的な演出を孔明の所作にほどこしている。
 目を真っ赤に腫らし、馬謖の誅死を全軍に知らしめる孔明をみて、漢中の十万将兵、これに哭かざる者はなかったという。
(嗚呼、丞相の御悲愴)
(我が弟、我が子と愛した参軍を自らの手で戮せねばならぬのだ)
(見よ、あの痛ましい丞相のお姿を)
 苦い敗戦の記憶は、心地よい涙とともに彼方へ流し去られる。
 享年三九。馬謖はその若い一身を以て、北伐の失敗を象徴するモニュメントとなった。
 
 もっとも、馬謖に全責任を負わせ犠牲の仔羊とするだけでは、無論、足りない。
 丞相孔明もまた、自らの位階を三つ下げ、右将軍となった。我々は孔明の事を、諸葛右将軍と呼ばねばならないであろう。
 馬謖に従い街亭へ出陣した諸将のうち、張休と李盛の両名は棄陣の咎で斬され、奮戦してやぶれた黄襲、陳戒は軍兵を剥奪されて?刑(頭髪を剃られる刑。当時は死罪に次ぐ屈辱とされた)に処された。
 他にも、校尉や都尉のような下級将校も次々と分にあった処分を下されてゆく中、ただひとり、馬謖の麾下でありながら処分保留のままの将帥が居た。
 漢中軍団長の魏延文長が、馬謖に貸し与えた王平である。
 王平は、常に潰走する馬謖軍の最後尾にあって、自ら長槍をふるい敵を退け、敗兵を収容し、擬兵の計で張郃軍を惑わし、自軍の損害を最小限に食い止めた。かれの見事な撤退戦がなければ、馬謖軍一万などひとり残らず討ち滅ぼされていても不思議はない。
「王平を如何する御心算か」
 孔明の裁断が存外秋霜にすぎるので、南鄭城主の文長も不安になり、孔明の執務室を訪れた。子飼いの部将を、馬謖の失策に巻き込まれて失ってはかなわぬと思ったのだ。
「ああ、鎮北将軍」
 孔明は執務の手を止め、ちょっと疲労した顔に無理に微笑をうかべた。
「王平の処遇については考えてある。安んじておられよ」
 とだけ云い、また手元に目を落とした。
 
 翌日発表された牙門将・卑将軍王平に対する人事は、さすがに文長を愕然とさせた。
 亡き馬謖の持つ官爵が、そのまま王平へ付与されたのである。丞相府の参軍というポストと、馬謖の食邑であった一亭を封邑として受け継ぐ事になる。
 そればかりではなく、あらたに討寇将軍の将号を加えられ、独立して一軍を与えられる事になった。それも普通の軍ではなく、先年の南征で得た異民族傭兵部隊「無当(飛軍)」である。
 つまり王平は、丞相府参軍・討寇将軍、亭侯という官爵を授けられ、加えて「無当監」の称号を許されるのである。字も読めず、生涯隊将止まりであるはずの彼が、信じられないほどの栄達であった。
 文長は、我が事のように喜び、さっそく馬をとばして王平の陣舎を訪れた。
「子均、子均はおるか」
 大声で陣営を尋ね歩いているうち、王平の副将の句扶に出会い、大将はお留守です、と知らされた。
「何処へ行ったかな」
「爾後の打ち合わせがあるとかで、楊長史殿に伴われ、丞相の元へ」
「……そうか」
 文長はふいに興醒めしたように声を落とした。
 思えば、もはや王平は漢中軍団の牙門旗を守る連隊長などではなく、一軍の、それも蜀中最強の飛軍五部隊を総監する将軍なのである。文長の部将ではなく、孔明の直属のに引き抜かれてしまったのである。
 王平を連れて行ったという丞相長史の楊儀とは、まだそれほどの面識があるわけではない。ただ、小うるさい輜重方の官僚である、としかこの時は認識していない。
 
               二
 
 再び、北伐軍を起こすという。
 「第一次北伐」が失敗に終わった年の内で、まだ半年ほどしか経ていない。
 孔明は成都の宮廷へ参内し、皇帝へ深く失敗を謝した後、丞相府に山積みされた政務を瞬く間に片づけて、ふたたび漢中へ舞い戻ってきた。
(いっそ、成都で政令だけを見ておられればよいのだ)
 文長は本気でそう思ったが、孔明は軍権を他に委ねるつもりは全く無いらしい。
 
 孔明が「第二次北伐」を決意したのは、時期的な理由がある。
 蜀に遅れる事三ヶ月余、この夏から秋にかけ、長江下流域方面で呉王の孫権も魏に対し軍事行動を起こし、こちらは大いに戦捷を得ていたのである。
 呉軍の総帥陸遜は、六年前に先帝劉備を苦もなく攻め滅ぼした鬼才を存分に発揮し、対呉方面軍総帥の曹休を完全に手玉にとった。大司馬曹休は戦線を維持する事が出来ず、淮南地方における魏の拠点を次々に失い、自らは憤死にちかい最期を遂げている。
(急は、まさに淮南にあり)
 と急使が広大な魏帝国全域に発信され、魏軍の耳目はたちまち対蜀戦線から対呉戦線へ向けられる事になった。
 やがて、長安に駐留していた近衛の中央軍が、続々と対呉戦線へ振り向けられるに及び、
「――時は今である」
 と、孔明の決断が下されたわけであった。
 
 第二次北伐
 に参加する兵力は、前回をも上回る九万余。蜀漢王朝の動員能力の、ほぼ限界値である。これほどの大部隊が早急に展開できるのも、さきの「第一次北伐」の損害が馬謖隊と趙雲隊の二隊だけにとどまり、本隊と軍需物資にさほどの損耗を見なかった為であった。
 その大軍を統率するのは、「右将軍」諸葛亮孔明。
 今度は遊軍や陽動の部隊を用いず、また内応調略などの事前工作を行わず、文字どおり槍一本を最前線へ立てての全軍突進となった。前回の北伐作戦が、その準備に一年半をかけているのと較べて、いかにも急造りな感は否めない。
「だがこの度の北伐は、拙速こそ要である」
 魏の注意と主力が呉方面へ向けられているいま、どれほどの早さで魏領へ侵攻できるか、最初の第一撃の鋭さが作戦の正否を分ける事になるであろう。
 孔明は軍議の席で上の主旨を述べ、
「如何」
 と諸将の存念を訊ねた。
「右将軍が戦えと仰れば、我らに何の存念がありましょう。ただ御下知を頂き、戦うのみ」
 蜀の誇る将星たちは声を揃えて賛同した。その中には、最近になって反孔明派と目されはじめた文長もいる。
 これは意外な、という目で見られる文長だが、
(戦うことに異議のある筈もない)
 その点、ことさらに反対してみるなどの底意地の悪い妨害を行おうなどとは、夢にも思わなかった。
 思わないが、やはりひとこと云わずにはおれなかった。
「右将軍。北して魏を伐つ、これは大いによろしい。ですが全軍あげてただ一本の道を征くというのは、以後の作戦展開の硬直につながります」
 少なくともあと一路、別動軍を編成して本隊と並行させるべきであろう。
「願わくば、延をしてその別将にあてて頂きたい」
 文長は孔明の顔をじっと見つめた。孔明は、清涼水が楚々と流れるような表情を崩さず、同じくして文長を見つめかえした。
 ふいに、鋭い反駁の声があがった。
「鎮北将軍。丞相の御決断はすでに下された。将軍も部将であるならば、最高決定に異議するなどもってのほか、ただただ丞相の御意思の完遂に尽力されよ」
 一座がぎょっとするような、どぎつい意見であった。
 空気まで蒼白になる中、文長のえたいの知れない視線をうけて傲然と胸を反らしたのは、最近、急に頭角を顕しだした参軍の楊儀であった。
 楊儀は孔明や文長と較べても遜色のない長身で、額ひろく反り上がり、双眸するどく、一見して常人ではない。このとき既に蜀中随一の能吏として知られ、文長と同じく、孔明の幕府に欠けてはならない人物であった。
「丞相ではない、楊参軍。右将軍であろう」
 文長はとりあえずそれだけを訂正し、あとは黙殺した。
(――丞相の威光を振りかざす奴とは聞いていたが、ここまで増長しているのか)
 正直、呆れかえる気持ちのほうが怒りに勝った。
(所詮は小物の遠吠えだ)
 と、彼をひととおり蔑視する事により、文長は大物である我に満足した。
 ところが当の楊儀は、小物であるどころか、既に大物も大物。身代は一介の丞相府参軍に過ぎないが、北伐軍の機能のほぼ全てを一人で掌握し、軍中における権勢は、もはや孔明や文長と肩を並べるほどになっている。
 文長は、まだそこまでは知らない。
 
 晩冬一一月、「第二次北伐」作戦が発動した。
 例の五本のルートのうち、孔明が今回使用したのは「故道」である。長安から四番目の回廊にあたり、秦嶺山脈の切れ目を縫うように進む、比較的平坦なルートであった。
「この故道は、桟道を通過せねばならない子午道、斜谷道にくらべて大軍の運用が容易であり、迅速な行軍に適している」
 孔明が今回この故道を選んだのは上の理由によってだが、他にもまだ、
「故道の出口にちかい散関は脆弱で突破し易く、さらに道の出口を扼している陳倉城は、山塞に毛が生えた程度の出城に過ぎない。これも抜き易い」
 という、進路を阻む敵要害についての判断も加えられている。
 ――この孔明の予見の通り、蜀軍の進撃は実に快速であった。
 八万の大軍はおそろしい速度で北上し、十一月半ば頃には散関を突破し、いよいよ最後の障害物である陳倉城を包囲しようという程である。
 ところが、ここに意外な事態が出来した。
 
「これは何事か」
 孔明が目を剥いたのは、見慣れない城塞群に行く手を阻まれたからであった。
「地図には無い。この要塞は、いつ出現したものか」
 さすがに、沈毅な彼も狼狽を顔に示した。本来、守備隊がこっそりと進駐する程度であるはずの陳倉城が、小振りであるとはいえ各処要害を占め、小憎らしいほどに堅固な防衛線を形成して、故道の真上に居座っている。
「すぐさま駆けよ」
 孔明は目の利くものどもを放ち、陳倉について調べさせて答を得た。
 ……先の「第一次北伐」の終了後、敵総大将曹真は孔明の再侵攻を予見し、五道全てに防衛線を張り巡らせる決断を下したという。特に、次に孔明が用いるのは故道に違いないと判断し、荊州総督司馬懿の賛同を得て、この陳倉城を増強する裁可を皇帝に仰いだ。
「大将軍の思うままにされよ」
 皇帝曹叡は一言で快諾し、陳倉の貧弱な城郭は取り壊され、代わって強固な要塞群が突貫工事でつくりあげられた。曹真はここに常時一千人の山岳兵を置き、加えて忠勇無双の誉れ高い郝昭という大将を、特に選抜して城将に据えた。……
「敵はわずか一千。わが精兵八万をもって蹴破れぬはずがない」
 孔明は断を下し、まず郝昭に投降を勧めてみたが、これは一笑に付されただけあった。
「――ならば攻め陥とすまでだ」
 小さな陳倉城塞と千名ほどの守備兵に対し、八十倍の北伐軍団が一斉に牙を剥いて襲いかかった。
 
 攻防、二十余日。
 ……陳倉は小揺るぎもしない。
 激烈な蜀軍の攻城に対し、陳倉の各支城は守将郝昭の采配により呆れるほど巧妙な連携をみせ、その城壁のまえに積み上げられる蜀兵の死屍はしだいに嵩を増している。
 前線の惨状は形容し難い。
 文字どおり針鼠状になった蜀兵の躰が城壁下の地面をびっしり覆い、ところどころで微かに動いている。その上を容赦無く駆けぬけた一隊が、果敢に城壁に取り付き、梯子を半ば昇ったあたりで全身に箭を受け次々と転落し、また新たに肉の層を積み重ねてゆく……。
 指揮官の文長は歯軋りして次の隊の突撃を指令した。
(こんな莫迦な戦さが世にあるか)
 だいたい、この狭い故道にはせいぜい一千ほどしか軍兵を展開させ得ず、それだけの数で城壁に取り付いたところで、たちまち矢玉落石の的になり全滅するだけであった。兵力を小出しにするのは、鶏卵を次々と石壁に叩きつける行為に似て、とても郝昭ほどの勇将の見逃すところとは思えない。
 長安攻略用に用意された大型の攻城兵器も前面に押し立てられたが、これらも要塞群の防禦力に致命傷を与えるまでには至らず、逆に火箭の的になって焼き払われ、いたずらに敵方の嘲笑をあびるのみであった。
(だから一路のみで突進するなど愚の極みであるのだ。故道も兵書で云う隘路。入口と出口を塞がれたら、それだけで身動き一つとれなくなる)
 もしも自分に十分な兵権があれば、本隊とは別に遊軍を率いて、例えば別ルートから急進して陳倉城を背後からかき回すくらいはやっているだろう。
(それを、あの腐れ儒将が)
 文長が、はっきりと孔明を敵視し出したのは、この陳倉の地獄絵図を体験した時からである。 
 
               三
 
 攻防はさらに続き、十二月も半ばを過ぎたとき、各方面に飛ばしていた物見から一斉に報告が入り始めた。
 曰く――敵大将軍曹真、自ら十一万の軍を率いて陳倉へ来援しつつあり。先鋒大将王双、すでに二万余の軽騎を引き具して入城せり。
(……ここまでである)
 孔明は本営で天を仰いだ。
 ふたたび、北伐は成らなかった。前回よりも強大な戦力を動員し、しかもそれを一箇所に集めて運用したというのに、その成果は前回を大きく下回り、損害は遥かに上回った。
 この度は、戦略面で魏の曹真に完敗した。
 
「このまま逃げ帰ったのでは、死んでいった兵たちに申し訳がたたん」
 軍議の席で、文長は声を大に孔明へねじ込んだ。まるで、その無策を詰るような口調で、あきらかな敵意があった。孔明はきっと唇を噛みしめ、反論はしない。
「涼州殿、控えられよ! 逃げ帰るのではない、兵糧が足りず、惜しくも撤収するのだ」
 楊儀がまたしても孔明の弁明にまわったが、こんどは文長も容赦なかった。
「黙れ、俗吏!」
 一喝で両断すると、鉾先をこの辣腕軍官僚に転じた。
「兵糧が足りぬと申すならば、この度の敗因は貴様ら輜重方にあるのだろう。偉そうに口抗えする程の長い舌があるなら、さっさと噛み切って全軍に詫びておれ」
 叫ぶほどにむかッ肚が立った。諸将があっと云う間もなく文長は剣を抜き、楊儀の蒼い頸すじに白刃を擬した。
「舌を噛み切る程の度胸がないなら、余がこの場で馘ってやろうか、参軍」
「鎮北、よい加減にせよ」
 苦々しげな叱咤は、皇叔の呉懿が発したものだった。彼もすでに剣巴に手をやっている。文長はようやく、自分が事もあろうに営中で抜剣したことに気付き、素早く剣を納めた。
 諸将には黙礼したが、顔面蒼白な楊儀は棄ておいて、文長は孔明に向き直った。
「右将軍、撤収は是非もないが、敗け逃げは国家の恥でござる。せめて野戦で一勝し、勝ち逃げに転ずるべきでありましょうぞ」
 孔明は、沈思し、立ち上がって断を下した。
「涼州の言、善し。敵の先鋒を誘き出し、これと一戦して、然る後に撤収する」
 その一言で、列将はおおいに蘇生の表情をうかべた。
 ふと、幕中に異様な音が響いた。――楊儀が、肩を震わせ、嗚咽を漏らし始めたのだ。文長は鼻を鳴らして冷笑をその横面に吹きかけると、満足げに陣営を退出した。
  
 蜀軍は、この撤退戦では大いに勝利を得た。
 郝昭の制止も聴かずに、魏の先鋒大将王双は逃げ去る蜀軍を追撃し、四十里ほどの地点でその最後尾と接触した。
「蜀の孤児どもを鏖殺しにせよ」 
 王双は陣頭で躍り上がるように叫んだが、鏖殺されたのは当の王双の人数であった。
 孔明が、遁走しながらも造り上げた巧緻な邀撃陣に、頭から突っ込んだ形である。王双軍は、たちまち各所で寸断され、押し包まれ、文字どおり一人のこらず討ち取られた。
 なかでも文長隊の殺戮ぶりは、味方にとっても悪夢を見るような凄まじさで、陳倉での鬱憤をすべて王双に叩きつけるかのように、痛烈に闘った。主将の王双もまた、この復讐鬼の突撃によって討ち取られた。
 戦闘はわずか二刻。蜀軍が旌旗をまとめて故道を駆け去った後には、討ち棄てられた魏兵の死骸が点々と十里余にわたって転がっている。
  …撤収のあいだに年が開け、建興七年(二二九年)。
 
 このたびの“第二次北伐”の失敗によって、蜀軍の首脳はあらためて深刻な癌の存在を自覚させられる事になった。
 絶望的なまでの行軍、補給の困難さである。
 蜀から漢中へ、そして漢中から隴西方面へ。平均標高が一千メートルを越すほどの山岳地帯を、北伐軍の将兵数万は移動し、転戦している。
 なにしろ、道が無い。
 無いから造るしかなく、切り立った断崖絶壁に杭をずらりと打ち込み、その上に人ひとりがようやく通れるくらいの桟を載せ、そこを怖々と渡るのである。
 兵士たちはまだよいとしても、問題は膨大な補給物資である。平野部での戦争のように、広い街道を牛車数列で押し渡るというわけにはゆかず、人足ひとりひとりが荷を背負い、先の桟橋をのろのろ輸送するしかない。これではどうしても消耗が補給を上回る事になり、戦線の維持どころではなくなってしまう。
 つまり、魏としては野戦で蜀軍主力を撃ち破る必要など無く、ただ街道を閉鎖して一定の期間を防禦に注ぐだけで、蜀軍は勝手に引き上げてゆくのである。
 北伐とは、常に時間との闘いでもあった。
 
(右将軍のままでは諸事、不都合である)
 漢中へ引き上げた孔明は、その事を痛感した。
「……軍中が不穏だ。涼州あたりが煽っているな」
 孔明は側に参軍楊儀を置き、酒杯を嘗めている。嗜む程度で多飲しないが、かれはすぐに酔い、酔うとやや愚痴っぽくなる。
「涼州めは、丞相に対し狼心を構えているのではありませんか」
 楊儀は、はっきりと反文長派で、愚痴る相手としては申し分無い。とはいえ、さすがに孔明は、楊儀の一方的な誹謗に乗るようなことはない。
「そういうのとはちょっと違う」
 右将軍孔明は、据わった目で楊儀を一瞥し、杯の端をちびと嘗めた。
「彼はな、威公。根からの豪傑なのだよ」
 先帝劉備が、その生涯で最も信任した武将はふたりいる。
 ひとりは、荊州総督であった関羽雲長。そしてひとりは漢中総督の魏延文長。
 やくざ者あがりと奴隷階層あがりのふたりは、文字どおり劉備の分身として国境拠点の宰領を委ねられ、劉備以上に強大な兵力を預かった。武勇と、忠義の二点を絶対的に信用されていたのである。
 ふたり以外に、同じく劉備の親任を得た将領級の人材としては、同郷の侠客張飛、流浪の将軍馬超など、異常にアクの強い人物がたちがいた。血統という点において、劉備軍団は史上まれに見るほど雑多な人種の寄せ集めであった。
「彼ら豪傑どもは、既に世にない。しかし、昭烈皇帝が御自ら使い育てになられた最後の豪傑が、いま我が軍の一方の旗頭となりつつある」
 蜀漢王朝軍全体が、英雄豪傑どもの怒鳴り合う男くさい劉備軍団から、諸葛孔明を中心とする官僚組織に移行するなかで、長く国境要塞にいた魏延だけが変わる事なく存在し続け、しかも軽視できぬ実力を備えて中央と対峙している。
「……おまけに見よ、この漢中要塞の素晴らしさ」
 南鄭城を中心に、漢中盆地は幾つもの支城が連動する要塞群と化し、ほとんど難攻不落の観がある。三国どこを探しても、これほど完成された戦略要塞は存在するまい。
(あの農奴上がりの脳のどの辺りに、こんな才覚が眠っていたのやら)
 孔明は正直に感心した。
 感心は、そのまま恐怖につながる。覇気と才幹を備えた武将は、叛逆するものと決まっている。たとえば魏の創始者曹操のように。
(魏延は危険だ……)
 孔明は、彼も知らぬうちに眉間に深い皺を刻んでいる。
 だが口に出しては、
「近いうちに目に見える功を挙げ、丞相位に戻らねばならんな」
 と、呟いただけであった。
 
 その宣言通り、孔明は三度目の北伐作戦を、この年明け間もない初春から展開させた。
 いわゆる「第三次北伐」は、前後の二段にわかれて発動しており、当然この春に行われた北伐は「前段」にあたる。
(敵中枢の長安をいきなり衝くのは、どうも難しい)
 孔明は二度の失敗をうけ、その方針の転換を考えた。これまでのように、北上して中原のある東へ転ずるのではなく、今度からは逆方向の西へ長駆し、魏の影響化にある涼州や西域をまず手中におさめようというのである。
 つまり外郭の辺境地帯を踏み固め、諸異民族の協力を得、彼らと手を結んで、じわじわと中原を目指すという方針に転じた。
 そのためには、西上の足掛かりとなる拠点、今日の軍事用語で云う橋頭堡が必要となる。
「武都、陰平の両郡がそれである」
 孔明が指名した両郡は、ともに漢中の真西に位置し、きたるべき西域侵攻作戦の玄関口となる地点であった。
「陳式、卿が征け」
 この度は孔明も動かず、それどころか文長他の漢中軍団も動員されず、ただ大将の陳式とその麾下だけが出動した。
 陳式は、先帝が呉の陸遜に大敗北を喫したとき、益州水軍を率いて皇帝の一身を全うした功がある。一説には、先の馬謖の幕僚で?刑に処された陳戒と同一人物とされ、もしそうであるならば、この陳式は、ただしく「正史三国志」の著者陳寿の実父ということになる。
 それはともかく、陳式は孔明に指名されるほどの武勇を揮って、数十度にわたる小戦闘にことごとく勝利し、わずかの間で武都、陰平の両郡を制圧した。
「ちと、小うるさき敵」
 と、この方面の魏の責任者である雍州刺史の郭淮が、ようやく重い腰を上げたのが三月半ばである。さすがに郭淮と陳式とでは、戦歴も武勇も最初から比較にならない。
「陳式が危うい」
 として、孔明は自ら四万の後詰めを宰領し武都郡へ入った。
 これが、そのまま同郡を横断して下弁、建威を突破、郭淮の本拠地である天水郡を衝くほどの猛進撃であったため、
(――しまった。退路を断たれる)
 と、郭淮はさすがに狼狽して、陰平まで南下していた軍団を反転させた。
 いずれ牽制であったに違いない。孔明は、傍らをあわてて通過する郭淮軍などまるで無視し、悠々と武都の宣撫を行っている。
 やがて冀城の守りをかためた郭淮が、さて一戦に及ぶべしと振り返った頃には、孔明も陳式も、あざやかに身をひるがえして撤収を終えている。
「……手玉にとられた」
 郭淮は嗟嘆して天を仰いだが、このとき傷つけられた矜持は癒しようがない。
 
 郭淮の屈辱は、そのまま大魏帝国の屈辱でもあった。
「かかる乱子を放置しておく法やある」
 魏の朝廷は急沸し、とうとう大魏皇帝のわかい曹叡をして、
 ――征蜀すべし
 の勅諚を大将軍曹真へ宣下せしめる事となる。しかも――動員兵力は雍涼併せて少なくとも二十万――という追加の勅令つきであった。
 三たびにわたる蜀の一方的な侵略が、とうとう虎の尾を踏みつける結果となったのである。

魏延の北伐【第五章】 馬謖

 
               一
 
 魏の右将軍、張郃は字を儁鑛といい、冀州河間の産である。
 もはや四十年以上もの昔話となった黄巾一揆のおりから軍籍に身をおき、以後つねに最前線で働きつづけた宿将中の宿将であった。彼ほどの軍歴を誇る将領は、冗談ぬきで三国の何処を探しても存在しない。
 それほどの老雄が、一軍を率いて来るという。
 祁山の本営を四十里ほど進んだ北伐軍本営は、その対応のため行軍を一時中断した。
「いたずらに敵を評価するのではないが、魏の張郃は、畏れながら先帝陛下と同年代の歴戦の勇者。かの曹操が古の韓信に擬したほどの名将である。その将才は尋常ではあるまい」
 筆頭格の討逆将軍呉懿がまず発言し、一同の注意を喚起した。
「もはや六十を越した程と云うのに、達者なるものかな」
 感心したような呟きが各所でおこる。先帝の当時、張郃、張遼、于禁、楽進、徐晃といえば、魏の五大将として蜀呉の将兵からは、ほとんどばけもののように知覚されていた存在であった。そのばけものの生き残りが、敵手として陣頭へ姿を見せているという。
 もっとも、
「なに、麒麟も老いれば、と申す。所詮は片足を墓桶に突っ込んだ老朽の翁」
「同感。老翁相手にこうして軍を止めるのは如何なものか」
 などと、曹操や先帝劉備の戦さぶりを知らぬ若い将校たちは、それほどの危機感を覚えぬ容子で古参組の深刻さを嗤った。
(――張郃か)
 文長は先帝の漢中攻略戦のおり、決戦場となった定軍山で張郃と対峙した事がある。
(あれほど危うい戦さは、後にも先にもないないだろう)
 文長の隊は張郃に手もなく突き崩されており、もしあのとき主将の黄忠老人が敵総大将の夏侯淵を討ち取ってくれていなければ、文長は定軍山を墓標としていたに違いない。
 ……腕組を崩さず重々しい沈黙を保ち続ける文長をよそに、評議はすすんだ。
「誰が、彼をふせぐのか」
 議題はその点に集中せざるをえない。
 現在北伐軍は、斜谷に入り込んでしまった曹真軍の背後を迂回しつつ素通りして、長安を直線で衝くというコースを辿っているが、長安から突出した張郃軍は、その北伐軍の進路をさらに迂回し、背後の鑒山本陣を一挙に陥れるつもりであるらしかった。
「もし祁山が陥ちれば、本国との連絡を断たれ、我々はこの異郷の地で立ち枯れになる」
 そうなるまえに、誰か一将を本隊から急発させ、北伐軍の背後へ回り込もうとする張郃軍を阻止せねばならない。
「必ずしも張郃軍を撃ち破る必要はない。長安を陥とし、主力同士の決戦が終わるまで、張郃を釘付けにしてくれればそれでよい」
 孔明は事も無げに説明したが、それは容易な話ではなかった。
 張郃軍は騎兵のみ二万という大部隊で、しかもこの近辺の地理を熟知している。それほどの雄敵を相手に、戦線を最低一月は膠着させねばならないのだから、並の将帥の能くなし得るものではなかった。
「……丞相、私が参りましょうか」
 皇太后の兄にあたる呉懿が、怯むいろなく申し出た。彼も老練と云えば老練な男で、この益州を最初に独立王国とした英雄、劉焉(劉璋の父)の部将として幾多の戦場を疾駆した経歴がある。文長や孔明より一まわり年輩で、重厚そのものの風格をもつ。
 孔明は、返事を控えた。諾とも否ともとれない微笑を返すと、改めて諸将を見直した。
「討逆将軍がこう仰せある。卿らの意見は如何」
 やや小才の利く将校どもは、孔明の意図に気付き、あわてて呉懿を押しとどめた。
「あいや、敵の張郃は雄敵とはいえ氏素性の卑しき外様ものにござる。皇叔が御自ら出向かれるとあっては、漢家の御名にかかわりましょう」
「もっともと存じる。皇叔は、長安を踏み固めるというお役目があるはず」
 孔明は彼らの言をよしとし、では誰がよいか、と訊ねた。
 文長は、あいかわらず巌のように傲然と構え、一連の茶番劇に顔を突っ込まない。
「せめて鎮東将軍(趙雲)か征西将軍(陳到)の何れかが陣中におわさば」
「なんの。軍中一の豪は鎮北将軍(文長)にござる」
 蜀の誇る将星の名がつぎつぎ飛び出すが、では誰がよいか、となるとまるで意見がまとまらない。むろん文長を推す声が大多数であったが、当の文長がおそろしく不機嫌な容子で推薦者を一瞥するので、その声は尻すぼみになってしまう。
 ……ところで、文長はすでに知っていたのだ。
 先日のうちからこの評議の結果を、孔明に知らされていた。
 文長ははじめ孔明の口からその名を聞いたとき、瞬間的に嚇っとなった。文長は、我ながら不思議なほど、孔明の頚を刎ねとばしたい衝動に駆られ、一礼すると無言で幕舎を飛び出し、馬に鞭をくれた。
 一歩でも孔明から離れなければ、危険であった。文長は激しく馬を責めながら鞘走り、剥き出しの岩肌に群生する潅木を、長剣をふるって次々と叩き切った。そうでもせねば、ただでさえ過多気味の感情量が、文長の自我を破壊しかねなかった。
 文長は一部の職業軍人にみられる躁の傾向がある。このときも、一颯ごとに鋭く叫び、やがてその姿は鬼気を帯びはじめ、ついには岩肌を切りつけて音高く剣を折った。……
 
 おおよそ名のある将帥が出尽くし、興奮をはらんだ沈黙が陣幕の空気を支配したその時、孔明はようやく我が意中の人物を指名してみせた。
「――余は、参軍馬謖こそ用いるべきとおもうが」
 さすがに、列将は愕然となった。
 
 孔明が馬謖を選ぶにあたり、前もって賛同をとりつけておくべき人物が一人いた。
 云うまでもなく、実戦責任者の魏延文長である。
 前夜、孔明に呼び出された文長は、先述の如く人知れず狂態を示して我をねじ伏せ、とにかく今日の軍議に口を出さなかった。
(彼の反対さえなくば)
 と、孔明は敵を恐れるよりもむしろ味方の大将を恐れた。
 孔明の北伐中の苦心は、用兵よりも日常の事務や諸将の統率である。右を立て、左を立て、歴戦の勇将どもをすかし、あやす中でも、彼はどうしても実現したい一存があった。
 ――季常のおとうとを、世に出す。
 ということである。
 季常とは、すなわち馬謖の兄馬良のことで、孔明とは互いに兄たり弟たる仲であった。
 現代の日本にも、馬良は「白眉」ということばで残っている。馬良は、奇妙な事に若いくせに眉が雪を措いたように白く、また五人兄弟の仲で最も才器優れていたことから、ある集団の中で傑出した存在を「白眉」と云い慣わす。
 この白眉は、狂した先帝が呉に対して行った大親征に従軍し、奮戦の末戦死した。孔明は以後、彼の末弟馬謖を偏愛し、馬謖も孔明の期待によく応えつづけた。
「幼常は、ひょっとすると季常を越える英雄になるかもしれない」
 孔明は、愛弟子の驚くべき進歩を目の当たりにして、ついつい頬を緩めた。
(だが惜しい事に、馬謖は実戦の経験がない)
 陣中には、馬謖をさして
 ――長袖が鎧を着ただけの乳臭児
 とあざ笑う風があるという。丞相の懐刀と畏れられる一方、机上でしか兵事を語れぬ馬謖は、恰好の嘲笑の的であった。
(幼常も戦地で目に立つほどの功績を挙げれば)
 孔明は、おそらくは文長あたりが放言しているであろう馬謖評を、何としても改めさせたかった。公たる丞相ではなく、私たる諸葛孔明の意思が深く介在している。
(それに、こういう肝要なところで、生粋の武人はどう逸脱するかわからぬ)
 孔明の胸奥に息づく軍人への不信感が、馬謖を撰ぶという自らの行為を正当化していた。
 
 ……ともかく、馬謖という意外な名が挙がり、諸将はむしろ困惑した表情を浮かべた。こればかりは未知数なのである。
(――到底かなうはずはない)
 と不安に思う一方で、
(――かの麒麟児ならば或いは)
 と納得できる一面があるのも確かであった。
 一座は複雑な表情で黙りつづけ、孔明のふたことめを待った。ここで下手に反対を表明しようものなら、事実上の蜀漢王朝の支配者である諸葛丞相と、その第一の側近を敵にまわす事になりかねない。
(まずは予想通り)
 孔明は、帯電したような座の空気をみてそう思い、充分に沈黙を溜めると、言を継いだ。
「卿らの中には、むろん参軍の未熟を憂う者もいよう。かくいう余もその一人である。しかし参軍はすでに弱冠といわれる齢を幾つか過ぎ、ものの分別は弁える程になっている」
 少々云い訳じみている、と孔明は自分でも思わぬでないが、なんとしても馬謖を行かせたいという意思が彼に言を続けさせた。
「云うまでもないが、余はたびたび参軍の鬼謀に援けられ、彼から兵法の玄機を学ぶところもあった。彼は余の弟子であり、また師でもある。余は敵に張郃ありと聞いたとき、参軍馬謖の名をふと思い付いた次第である。――参軍、参軍。これへ出よ」
 孔明は馬謖を顧みた。
「余は自らの思惟を急ぐあまり、卿の存念を問うのを失念しておった。卿の意思を包む事なくつまびらかにせよ」
 若輩馬謖は、歩みでて諸将へ一礼すると、孔明へ向き直った。
「この不肖の身に丞相の過分なる御期待と存じます。張郃は私が生まれる以前から戦場を往来した驍勇、尋常に立ち合ってまずかなう相手ではありませぬ」
 と、謙遜してことばを切った。
「しかし丞相の御命令とあらば、何処へでも征き何時にでも死ぬ覚悟はあります。身に存念などなく、ただ丞相ならびにお歴々に御裁可を頂きたく存じます」
 孔明は手をうち、高い声で評した。
「事を前に、敢えて大言もせず面白からぬ輩かな。だが若さに似気無く恭謙なところは白眉の弟である。頼母し、頼母し」
 ――諸将や、如何。孔明は振り返って問うたが、もはや反対できる空気ではない。
 
               二
 
 文長は自分の幕舎へ戻ると、すぐさま従者を立て、牙門督・卑将軍の王平を呼んだ。
「王平、王平、貴様はかの馬参軍のもとへゆき、彼の副将として戦隊を督するのだ」
 早々に命じられ、王平はさすがに驚いたものの、すぐさま頷いてみせた。
「丞相の諒解は得ている。すぐさま駆けよ」
「はっ」
 王平は、いかにも軍人らしい律動的な歩調で駆け去った。
(王平ほどの勇者がつけば、まさか馬謖に事の誤りがおこるとはおもえぬ)
 文長が、馬謖を撰びたいという孔明の説得に応じたのには、ひとつに自分の麾下から副将を出すという条件を呑ませたからであった。馬謖の勢力拡大に対する牽制の意味もあるが、そういう政治向きなはなしを抜きにしても、若い馬謖に誰か心の利く勇将を一人付けたいという心配があった。この点では、孔明も全く同じ考えであるらしかった。
「では、王卑将軍をお借りしましょう」
 と、孔明が瞬時に応じたところを見ると、その人選も最初から一致していたらしい。
 
 丞相参軍馬謖の麾下にはいる部将は、王平のはか、張休、李盛、黄襲、陳戎(一説に陳戒とつくる)らである。数は一万をやや越えるほどで、特に軽俊な精兵が選抜された。
 馬謖は早速幕僚たちを集め、辺りの地図を広げた。
「張郃は長安を出、北へおおきく弧を描きながら我々の後背の祁山へなだれ込むつもりだ。我が隊は、この本営から真っ直ぐ北上し、天水郡を抜け広魏郡にはいる」
 二五〇里ほどの道程である。
「張郃軍は、おそらくこの略陽県を通過するにちがいない。この略陽路の咽喉とも云えるのが、南山の麓にある街泉亭だ。我が隊は、この街泉を先に扼し、張郃軍を食い止める」
 街泉あるいは街城と呼ばれるこの地名は、街亭ともいう。路の脇に、傾斜は緩やかだが魁偉な山肌がせまり、どんな大部隊でも、この地点を通過する時はほそく長蛇の列を押し並べてゆかねばならない。兵法が深く忌むところの隘路というものであった。
 ――この街亭を先取すれば、いやでも戦闘は長引く。
 これは蜀軍首脳の均しく思うところであって、孔明も文長も、地形図を一瞥しただけでそれと看破した。
 文長はその事を王平へ伝えるような事はしなかったが、丞相の孔明は、事が事だけに丁寧であった。自ら足を運んで馬謖の本陣へ赴くと、孔明はせっかく先に馬謖が説明した軍略を、改めて丁寧に述べ、しつこく念を押した。
(……いい加減にして欲しい)
 馬謖は、さすがに幕僚の手前、気恥ずかしく思った。まるで小児あつかいされているようで、いい気分ではない。部下どもは、いちいち神妙そうに孔明の説明を聞いているが、内心では孔明の馬謖に対する過保護ぶりを嗤っているに違いなかった。
 舌打ちしたいのを抑え、馬謖はとにかく孔明を宥めて退席ねがった。敬慕する師父に対しこういう悪感情に駆られたのは、初めてである。
 孔明はそれでも不安を拭いきれないようで、馬謖の袖をとり、参軍よろしいか、街亭を先取したとして、決して山上へ登ってはならぬぞ、あくまで街道を封鎖して張郃を阻むにとどめられよ、と同じようなことを二度三度もくりかえして去っていった。
(云われなくともわかっておるわい)
 と、さすがにむかっ腹もたつ反面、馬謖は、ふとした誘惑にかられた。
(逆らってみようか……)
 それは、秀才馬謖にとって、これまで踏み込んではならない禁断の領域であった。
 ところが常ならば想像さえもする事のない選択肢が、おどろくほど甘美な芳香を放ち、馬謖のすぐ目の前に確実に存在していた。
 
 兄を超え、父を超え、師表とする男を超える。
 ……父性を実力で凌駕する。男子が一個の男になる為のプロセスが、このときの馬謖の背中を押していた。きわめて意地の悪い表現をすれば、三九歳という遅すぎる反抗期の発現が、この秀才肌の男をはげしく駆り立てていたといえる。
 馬謖評に、いう。
 ――謖、才器人に過ぐ。好みて軍計を論ず
 人並はずれた才略度量の持ち主で、特に軍略を好んだ、という。しかしながら、
「然れども、彼の言、実を過ぐ。大用するべからず」
 と、酷評にちかい断を下した人物がいた。他ならぬ先帝劉備である。
(あれは、まだこどもだ)
 さすがに、鋼の野心が熱くぶつかりあう世界を生きただけに、才略がずばぬけて先行する馬謖の脆さ、危うさを、劉備は一目で見抜いた。逆に孔明は、若いころから隠者生活を送ってきたぶん、純粋に人生経験の差でそれを見落とした。
 劉備の人物眼には明確な基準があり、何よりも純朴を愛し、武辺者を可愛がった。だから馬謖に対する酷評は、その裏返しの「インテリ嫌い」による偏見だと、孔明はかたく信じ、その遺命だけはただ一つの例外として従わなかった。
 
 北へ北へと強行軍をかさねた馬謖隊は、宣言どおりに街亭へ先着した。
「前方に敵影なし」
 の報をうけ、馬謖の周囲がどっと沸いた。
「参軍、これで張郃を長いこと防ぐ事ができますな」
 幕将たちは口々に祝いを述べた。まだ戦さは始まっていないのだが、とにかくこれで目的の半分は果たした事になる。
「参軍。夜までまだ間がござる。今のうちに柵を拵え、逆茂木などを設営して、街亭を封鎖してしまいましょう」
 副将の王平が駒を並べて進言した。馬謖は、うなずきかけた。
 ――その目に、息苦しいほど視界を圧迫する山嶺が映った。
「あの山は?」
「南山でござろう。街亭の咽もとを締め付ける山の一つにござる」
 馬謖はみなまで聞かず、馬首をめぐらせた。
「各々、よろしいか。これより兵団をかの南山に上げ、張郃を迎えうつ準備をする」
 突然の命令変更である。
「丞相は、山に登らず平路を扼せよと仰ったが」
 諸将は眉をしかめて反論した。馬謖は頭をふり、
「戦地に在っては君命を受けずという。現場の事は現場の人間でなくてはわからぬ。見よ、あの南山の雄偉さを」
 と、鯨鞭をもって南山を指し示し、
「あの山頂から逆落としに駆け下れば、その奔騰の勢、たとえ張郃といえど防ぎ得るはずがない。孫子に云う――軍ハ高キヲ好ミテ低キヲ悪ム、と。丞相はこの地勢をまだご覧ないから、山頂へ陣取れとはお命じになれなかったのだ」
 副の王平は、それでも首をかしげて抵抗した。
「なれど御命は御命。これに違うのは軍規を乱す事になります」
「卑将軍、それはちがう。三略にも、主戦ウ毋カレト云エドモ戦ッテ可ナリ、主必ズ戦エト云エドモ戦ワズシテ可ナリ――とある。まさに今のためにある金言ではないか」 
 王平は、自分より幾らか若い主将を呆れたように眺めた。あきらかに今の馬謖はふつうではない。しかしながら、云っている事は完全に正しい。
 正論では馬謖にかなわぬと見て、王平はやや理屈を述べた。
「ですが丞相は、あくまで張郃を防げ、勝ちを望むな、と念をおされた。今の参軍の策は、張郃を防ぐのではなく、彼の勢に勝つためのものに思えますが」
 馬謖は、さすがに返答に困った容子で、
「でも、ただ防ぐよりはこれを撃ち破るほうがよいに決まっておる」
 と、こどものような反論を口中で呟き、すぐさま自分が上位者であることを思い出した。
「王将軍、議はそこまでにされよ。身は、卿らの主将である。将軍が身に従わぬとあれば、身は丞相より授かった裁断権によって将軍を拘禁することになる」
 だいぶ気分を害しているようであった。王平は、
(つきあいきれぬ)
 と、匙をなげた。しかし一分の我は立てた。
「参軍がそう仰せあるならば御随意に。さはいえ、街道を防ぐ隊が必要になるでしょう。参軍は南山の山頂へ布陣候え。吾が隊は街道へのこり、張郃を斬り防ぎますゆえ、折を見て参軍は山上より攻め落として彼の腹背を衝き崩されよ」
 勝手にせよ――と、馬謖はおれた。
 しかし幕僚集団にかしずかれて山上へ軍団を移動させる最中にも、馬謖はしばしば眼下に米粒のように布陣している王平隊へ向かって唾をはきすてた。
(奴め、この僭上の沙汰は、きっと懲らしめねばならぬ)
 馬謖は、生まれて初めての大将経験に、いわば舞い上がり、気が大きくなっていた。悪いことに彼の幕僚たちもそれに付和し、王平の無学や素性の貧しさを嗤った。
 馬謖は大いに頷いた。とてもよい気分であった。
 
 馬謖の支隊が山上へ布陣してから、わずかに二日後、北方より魏の大部隊が略陽へ姿を現す。主将張郃を陣頭に、騎兵のみ二万という快速部隊である。
 老張郃は、道中の隘所街亭の地形を案じ、全軍をいったん停止させ、斥候を先行させた。
 ――ややあって、折り返しに報告がはいってくる。
(進路のわずか東、列柳城に蜀の部将高詳がはいり、前哨拠点としている模様)
(目指す街亭はすでに蜀賊の旌旗が翩翻とひるがえり、完全に封鎖されている容子)
 張郃は太い白眉をはね上げ、手の鞭を地に擲った。
「ああ、蜀にも慧眼の士がおる――この街亭の要害を疾く押さえるとは」
 慨嘆し、従者に鞭を拾ってもらうと、再びそれを手元で弄しながら訊ねた。
「して、封鎖の人数はいかほどなのか」
「それが、わずか二千あまり」
「二千?」
 張郃はわが耳を疑うような素振りをしてみせ、遥か薄靄の彼方にある街亭を眺望した。
「詳しく申せ。まさか敵の総数は二千だけではあるまい」
「はっ。街亭の咽喉を扼する南山の頂きに、ただならぬ兵気が感じられます。おそらく、万余の兵団が伏兵しているものと思われます。察しますところ、街道の隊は、囮かと」
 よう見た、と斥候将校を誉めて下がらせると、張郃は白髯をしごき、考え込んだ。
 
               三
 
「敵は、素人だ」
 翌朝になって、張郃はあっさり看破した。
「詳しい索敵の結果、山上におる敵の主将は馬謖といい、街道の隊将は裏切り者の王平であるとわかった」
 張郃は髭を寒風になぶられつつ、とても六十翁と思えぬ頑健な腕をかざし、二十里さきにある南山を指した。
「奴らの本来の意図は、我が隊をここで足止めし、本軍の行動の自由を確保するというものである筈。それが、ほとんどの兵を山頂へあげたという事は、我が隊をここで撃滅するつもりでいるらしい。……おかげで、見よ、最も肝要なはずの街道の守りが、わずか二千あまりというていたらくになっておる」
 張郃は近在の山民から南山周辺の地理を聞きだし、一見難攻不落なこの要害の重大な欠陥を見切った。
 水脈の有無、である。
「――囲め」
 張郃の短い命令が、孔明の、蜀人全員の北伐の夢を、残酷なほど完全に打ち砕いた。
 
 孔明の「第一次北伐」の失敗の起因を、ただ馬謖一人に押しつけるのは酷に過ぎる。
 くどいようだがこの北伐戦略の最大の要は、新城郡の奪取であった。その点、上庸の孟達に対する孔明の調略工作の精度は完璧の域に達していた。この時点で、孔明は北伐が半ば成った事を確信したはずである。
 ところが、ここに一人の男が彗星の如く出現し、蜀漢王朝の雄図に挫折をあたえた。
 司馬懿、字は仲達。孔明よりわずか二ツ年長というこの鬼才が、孔明の智略を丸裸にし、完膚無きまでに痛撃した。
 蜀に孔明、呉に陸遜ありといえど、時代はこの時すでに、司馬氏主導のあらたなる秩序の足音を聞く程になっている。
 巻き込まれた馬謖こそ、災難というべきであった。
 
 ……張郃の包囲は、その日のうちに成果を顕しはじめる。
 南山の嶺に布陣する馬謖軍は、たちまち全軍涸渇の恐怖にとらわれてしまった。この山は、渓流水はおろか井戸水さえ満足に確保できない地質だったのである。
(しまった。水の手か)
 兵らの訴えを聞いて、馬謖はようやく張郃の意図に気付いた。その時はすでに、南山の後背に面する街水を押さえられ、馬謖軍は、完全に水分の補給路を断たれていた。
「参軍がやぶれる事あらば、我らの隊もこの街亭で死なねばなるまいぞ」
 王平は果敢にも水源の奪取を謀って、街道の封鎖をといて出撃した。むろんそれは、張郃の指揮する重囲陣の捕捉するところとなる。
「推参なり」
 大声で叱咤した張郃は、南回りに旋回してきた王平隊を正面から叩きつぶし、逆に王平隊をも南山の麓のほうへ追い上げてしまった。
 
 馬謖は最初の頃の興奮も醒め、眼下に蜷局をまく張郃軍団を冷ややかに見下していた。
 知覚が、無くなったのではないか。そう幕僚たちが懸念する程に、馬謖は生気も覇気もなく、あれほど才気煥発であった秀才青年の見るかげもない。虚ろに突っ立っている。
 ただ、不仲であった副将の王平が山上へ敗れ戻ってきたときだけ、目礼をしてみせた。
(参軍は、ようやく敗北という経験をされた)
 王平は、人の世の皮肉の痛烈さを感じずにはいられなかった。
 この敗北は、馬謖という人間をひとまわりもふたまわりも成長させる事だろう。馬謖が英雄と呼ばれるのに唯一欠けている因子は、完膚無きまでの失敗という得難い経験であり、今、その完璧な失敗を現在進行形で経験しつつある。
 馬謖は、大きくなる。
(だが問題は、この作戦は絶対に失敗が許されぬという事だ……!)
 王平は、臓腑をえぐられるような心境でおもった。
(機が悪かった。馬参軍が世に出るのは)
 本人にとっても、蜀漢王朝にとっても、これはおよそ考えうる限り最悪のタイミングのデビューであった。
 
 張郃は、山上の馬謖隊が完全に干涸らびるのを待つため、さらに五日間包囲を続け、そのあいだ、水源を奪回するために突撃してきた馬謖隊を七度にわたり撃退した。
 やや東北に位置する蜀の前哨基地列柳城は、このとき魏の雍州刺史郭淮の重囲を受けており、蜀将高詳は歯噛みしながら街亭の窮状を見守るしかなかった。
 八度目の突撃が、ほとんど蜀兵たちが投降するための芝居であった事がわかると、
「いよいよじゃな」
 張郃は幕将たちと頷きをかわした。
 ――翌黎明を期して開始された総攻撃は苛烈そのもので、街亭の乾いた山肌を焦がし尽くすように魏兵が這い登り、蜀軍はほとんど抵抗さえできずに次々と討たれた。山の乏しい潅木には火が放たれ、馬謖軍の兵たちは刃と炎と、その双方がら逃げまどわねばならなかった。もはや戦闘などと呼べるものではなく、一方的な虐殺、あるいは人間を標的とした狩猟と云ってよかった。
「卿らは落ちよ。私は此処で死ぬ」
 馬謖は感情のうすい声で幕僚に伝えると、最後の指揮を執るべく徒歩で前線へ向かった。諸将は蒼白な顔をならべるだけで、誰も馬謖を止めようとはしない。
 
 足場のわるい山地で巧みに駒を制御しつつ、自ら槍をふるって奮戦していた王平は、幽鬼の如くよろばい出てきた主将の姿を見て息を呑んだ。
「参軍、斯様な処で何をばし給うぞ」
 王平は馬をとばすと、目ぼしい大将首と見て馬謖へ駆け寄ってきた魏兵二人を造作無く突き殺し、そのまま馬謖の躰を馬上へ掻きあげた。
(幕僚どもは何をやっている)
 王平は放心状態の馬謖を連れてひとまず本陣へ戻り、彼らの怠慢を怒鳴りつけてやろうとした。
 ところが呆れた事に、既にそこは無人となっていた。さすがに王平も途方に暮れかかったが、ともかく心の利く同郷の副将句扶という男を最前線から呼び戻し、
(貴様は血路を斬り開き、参軍の身を落とし参らせよ)
 と馬謖の身を託し、自身は、ふたたび槍を手に混迷きわめる前線へ向かう。
 この時すでに馬謖軍の兵力は六千をきっており、張郃軍二万に対し組織的な抵抗は為し得ず、ただ将兵ひとりひとりが、個人の絶望的な武勇を発揮しているに過ぎなかった。
 それでも、張郃軍に対し戦線らしいものを保ちつつ、激闘二刻余、正午をやや過ぎようとしたとき、ふいに張郃は、
「攻めるを止めよ」
 と、攻撃の手を緩めさせた。そればかりか、南山の頂まで駆け登っていた突撃兵を、撤収させはじめた。
 これは、王平が乱戦のなか掻き集めた一千あまりの部隊が、崩れゆく馬謖軍の中にあって、盛んに鼓を打ち鳴らしつつ逆撃の姿勢を示したためであった。
(虚喝だな)
 張郃は、王平の苦心の陽動をただ一目で見抜いたが、とにかく一定の戦果をはたした事もあり、無理に統制のとれた王平隊を捕捉撃滅する必要を認めなかった。街亭という隘路を塞ぐ夾雑物を取り除いた事で、この戦闘の目的を十分に達成したのである。
「これで仕事は終わったわ。ゆるゆると道中をすすみ、祁山へむかうとする」
 張郃は兜を小脇に抱え、厚い鎧を外し、ひと汗かいた巨躯を小気味良げに拭うと、こどものように破顔した。
 
 敗残者は、勝者のような余裕にひたる暇などない。
 なかでも王平は最も多忙であった。続々と逃げ戻ってくる馬謖本軍の将兵を収容し、負傷者を後送しつつ、まだ逆撃態勢の芝居を続けねばならなかった。
 やがて、列柳城の高詳軍が郭淮の猛撃に耐えかね、敗走してくるのと合流すると、「頃はよし」と、王平隊も撤収をはじめた。
 幸運なことに張郃は敗残者の群れには目もくれず、しずしずと戦列を保ったまま、すでに祁山を目指してこの地から遥かに去ってしまっている。
 王平は、事の次第を孔明と文長へ報せるべく、早馬を発した。
 
 ……街亭の敗北から遡ること六日。
 参軍、南山に陣替えす、という王平の急使を受けとったとき、孔明はあっと筆を擲ち、
「ば、莫迦っ! あ、あれ程云うたのに、莫迦っ!」
 と、孔明は信じられないことに、女人の悲鳴の様な金切り声で空を怒鳴りつけた。
 その場にいた数人の近侍は、この世ならざる――実際にこの世ならざる孔明の姿を見て、ぼうぜんとした。孔明は熱病に罹ったように小刻みに震え、血走った眼で独り言を呟きつづけていた。
 ――が、狂躁は数瞬で過ぎ去った。
 孔明はすぐさま衣服を正すと、諸将を参集させた。
 諸将が訝しむなか、孔明は主計監の楊儀を見遣り、
「威公、卿はただちに祁山へ戻り、かの地に貯えていた武具、糧食の類を一つ残さず蜀へ護送せよ。その後、兵を率い漢中へむかえ。漢中へ」
 と口早に命じた。
 ついで小者に「涼州殿をここへ呼べ」と云いかけたとき、その文長がいっそ荘重な程の足取りで本営へやってきた。
 文長は無言であった。ただその眸、その全身に、ものを云わせている。
「……将軍、漢中へ」
 孔明はかろうじてそれだけを伝えた。
 
 やがて王平の発した祁山失陥の報が届く頃には、早い隊は既に漢中へむけて撤退を開始しており、祁山からも膨大な物資が長蛇の列を為して後送されている。
(これで北伐も終わりだ)
 黄昏せまる中、文長は続々と撤収する諸部隊を見送りながら、ぼんやりと思った。残照に染まる秦嶺山脈を背景に、敗者の行列は、細々と稜線の彼方までつづいている。
 心無しか、蜀の旌旗が力無くうなだれているように見えた。

魏延の北伐【第四章】 第一次北伐開始

 
               一
 
 孔明には、実戦経験がない。あるいは足りない。
 少なくとも文長はそう考えていた。実際、孔明の軍将としての初陣は劉備の益州詐取作戦のときで、その後は軍師将軍として内国の軍政全般を統括し、いわば今の李厳の位置にいた。その後、南中の蛮人相手に多少戦争らしい采配を揮ったくらいで、要するに二度しか指揮官として戦場に立った事がない。
 較べて、文長はどうか。先の荊州牧劉表の「私有物」として家畜同然の雑兵から人生を振り出し、次の主劉備の下で当陽、赤壁・烏林の会戦に参加し、荊南奪取作戦では小部隊長を務め、荊州詐取作戦では一気に部将にまで引き上げられた。さらに漢中争奪戦では大将黄忠の副として目にたつ程の大功を挙げ、ついには漢中全域の総帥にまで任じられた。つまり文長は最前線で叩き上げられた修羅の闘将であった。
(しかも、おれは長らくこの方面軍を統監し、敵情や地勢用兵の要諦も心得ている)
 かつ、官は涼州刺史、督前部、丞相司馬、鎮北将軍であり、都亭侯の爵を有する。皇帝の代理として全軍に下知するのに不足はない。
(そのおれが)
 実戦経験が少なく、また、これまでろくな面識も持たない首席文官の采配に、一部将として絶対服従を要求されるのだ。いわばプロのエキスパートが、アマチュアの命令に振り回されなければならない状況であった。
「莫迦莫迦しい」
 文長はおもわず声に出して毒づいていた。これまでは、さほど悪印象もなく、むしろ好感を抱いていた諸葛丞相が、今やこれ以上ない程いやな奴に思えてきた。こうなると不思議な作用で、彼の言動のことごとくが変に鼻につき、今まで気にも止めなかった事が、思い出すたびに腹立たしくなってくる。
 それでも、態度はあくまでも下位者を保っていた。文長にしてみれば、これは最大限の忍耐力を動員しての成果であった。
 一方の孔明も、文長の露骨に空々しい慇懃さを見て、彼の内面の変化にすぐに気付いた。
(厄介な)
 溜息をつきたくもなる。これより三国有数の頭脳を駆使し、きわめて高水準の情報戦略を手繰ろうというとき、一将軍のはるかに低級な反抗に気を割かねばならないのだ。
 ――自分は鶴の翼で空を羽ばたいても、鈍速の亀が足を引っ張る。
(これだから武人という連中は使いづらい)
 孔明がこのときふと感じた、文長以下武官全般に対する秘かな軽蔑は、彼が操っている膨大な情報量に較べれば実に些細なものであった。
 
 しかし孔明がぼやきたくなるのも無理ない話で、孔明はこのとき、全世界で最も多忙な宰相であった。
 事務全般の機能はおおかた楊儀の主宰する部署へ移しているが、内外の情報網や彼らを運用する機能は、依然として孔明が直接掌握している。
 矢継ぎ早にもたらされる、あまり精度の良くない最新情報を、孔明は自ら検討し、いちいちそれらについて追調査の是非を指示し、軍団の想定進路を考えなおし、それに応じて輜重計算も算出しなおす。――馬謖以外まともな情報参謀が居ないという事も、蜀漢軍の致命的な欠陥であるかもしれなかった。
 孔明は文字どおり身を削る精神作業の末、新城太守孟達に対する調略に好感触を得た。
「やはり孟達はだいぶ進退窮まっている」
 孔明は、白帛にびっしり記された報告書に目を通し、馬謖に云った。
「孟新城は抜け目のない男です。呉に対し、すでに内応の約束を付けているのでは」
「幼常、よく見た」
 孔明は嬉しそうにうなずいた。
「そう見て間違いはない。さらば悪どいが調略の手を極めねばなるまいぞ」
 孔明は、このとき実に辛辣な手法を実行に移すべく決意している。
 ――余人には、参戦どころか、見ることも想像することも出来ぬ。
 第一次北伐の尖兵は、すでに敵地に斬り込み、激烈な火花を散らしているのである。 
 
 散騎常侍、新城郡太守の孟達は、居城の上庸にあって、落ち着かない日々を送っていた。
 孟達、字は子度。最初益州牧の劉璋の下で栄達したが、これを裏切って劉備を主と仰ぎ、荊州失陥の責任問題が拗れるとみると素早く曹操に降った。
 つまり寝返りの常習者であったが、それだけ時勢眼が鋭いという事だろう。事実、彼は主を裏切るたびに栄達し強大な力を得ている、摩訶不思議な男である。
 容姿壮麗で、施政官としても将帥としても第一級の手腕を有し、その卓越した才略を先帝曹丕に愛された事は、以前触れた。
 ――王佐の才
 ――国将の器
 と、孟達を評する者は最大級の賛辞をもって讃えている。事実、讃えられるだけの能力はあったが、彼の場合、百才あって一誠足らずというべきで、やや人望を欠いた。だから曹丕もなく、庇護者と恃んでいた桓階、夏侯尚という友人もない今となっては、これまでの嫉視反感に曝され、孤立せざるをえなかった。
 ただでさえ居心地が悪いところに、この九月にはいって、蜀漢の丞相諸葛亮からしつこい程に送られていた書状が、ぴたりと止んでいる。
(どうしたのだろう)
 と孟達は不審に思った。その矢先、僚将である魏興太守申儀という男が、何やら秘密めかした文書を中央へ送っているようであった。
(まさか、おれが諸葛亮の誘いを受けている事が知られたのではないか)
 孟達は一瞬不安を感じたが、彼の対内諜報能力は、当時にあっては最高水準である。敵へ味方へと反復横飛びのように裏切りを繰り返す彼のような型の男は、敵よりもむしろ味方に対して鋭い情報網を有している。
(有り得ぬことだ)
 孟達はその点、確信している。確かに、彼はそういう隙を微塵たりと見せていなかった。
 しかし、彼が見せなくとも、他に見せてしまう者がいたのだ。
 
 隣接する魏興郡の太守申儀は、元々この一帯に勢力を張る大豪族で、最初曹操に帰参し、次に劉備に降り、今度は孟達とともに曹操に降った男である。
 そんな彼のもとに、先日、一隊を率いて秘かに蜀から投降してきた部将がいた。
 男は郭模と名乗り、驚くべき蜀の軍事機密を申儀に打ち明けた。
(――諸葛丞相は、新城太守孟達に対し工作をすすめ、彼の内応の約束を得ている)
 申儀は、愕然とした。
「ほんとうか」
 この降将の云うとおりだとすると、隣接する自分の立場は再び怪しくなる。孟達にまた振り回された挙げ句、謀叛人として伐たれてしまっては滑稽この上ない。
 もともと申儀と孟達は、不仲であった。
「よろしい、卿の云う事を信じよう」
 申儀は勿体ぶって頷くと、内心雀躍りしながら僚将の見せたしっぽを大げさに書きたて、魏王朝の中央へ送りつけた。
 ――この事は、やがて孟達の元にも伝わってくる。
(申儀め)
 孟達は、裏切り仲間の意外な裏切りに切歯扼腕したが、彼が殺意を向けるべきは、申儀などでなく、この郭模を申儀へ送り付けた人間に対してであろう。
 全ては、諸葛孔明のどぎつい策謀だったのである。
 
 十一月にはいった頃、孟達はとうとうたまりかねて孔明へ内応を約束した。
 疑惑が正式に告発され、荊州総督府から調査官が派遣されたというのである。
 孟達は見事にこれをやりこめ、荊州総督の司馬懿という男を欺く事に成功したが、事態がこうも大げさになってしまった以上、もはや魏に居場所はなくなったといって良い。
「――翌月には、麾下の兵二万をもって郡の主要機関を占拠し、魏興郡の申儀を攻め滅ぼして後顧を無からしめ、以て荊州方面、進んでは中原への遊軍たる事を約束する」
 孔明と馬謖は会心の笑みを交わした。いわゆる敵中作敵ノ計が、見事に中ったのである。
 いよいよ北伐の最終段階である、軍事力の発動が迫っていた。
 
               二
 
 一日、文長は孔明の本営を訪れた。
 孔明は地図を広げて思案の態であったが、珍しい文長の来訪を得、急ぎ席を準備させた。 
「どうなさった、涼州殿」
 文長は先に涼州刺史に任ぜられ、通称は「涼州」で通っている。むろん現在のところ北のかた涼州は魏領であり、これを攻め取りでもしない限り単なる名誉職であったが、同時に対北の総責任者たることを約束する地位でもあった。
「丞相、まずは御覧あれ」
 文長は席につくと、ところどころ朱書きの入った持参の地図を広げた。
「このとおり、漢中より長安へ到る回廊は五本ござる。最も遠回りな関山道、順に故道、斜谷道、駱谷道、子午道」
「それで」
 現在、敵味方とも孔明がこの五つのルートのうちどれを用いるか、最大の関心を払っている。孔明は防諜の都合上、味方にも予定進路を示していなかった。
「この」
 文長は、漢中からほぼ直線で長安へ到る最短ルートを指した。
「子午道を、私に征かせて頂きたい。無論、我が漢中軍団のうち一万のみで結構」
 孔明が無言でいるので、文長は彼にしてはやや長口上をふるった。
「長安の守将夏侯楙は、ただ主婿というだけの孺子。性、怯にして武略なき男にござる。重ねて申すが、丞相。いま延(文長)をして子午道を北せしめよ。十日を出ずして長安へ到り、二十日を出ずしてこれを攻め陥とす事必定でありましょう」
「攻囲中の糧食は」
「敵地に求めます」
「もし無くば」
「長安城内にございましょう」
「――危険ですな」
 のひとことで、孔明は片付けた。が、危険なのは孔明に云われ無くともわかっている。
「何も全滅覚悟の挺身というわけではない。丞相には、本隊を率いて他道を進んで頂きたい。拙者は、丞相が長安へ到るまでかの地を守り通してみせましょう」
 孔明は、唸った。彼には別の計画があったが、これも魅力的な提案であった。
 タテへタテへ鋭く進み、拠点を確保しながら後続を待つという作戦は、運用が難しいぶん成功したときの成果は凄まじい。
 そしてこの作戦の最大の旨味というべき点は、関中随一の防禦能力を誇る潼関を、比較的早い段階で制圧できると云うことだろう。潼関さえ封鎖してしまえば、洛陽方面の魏軍をほぼ無力化することさえ叶うのである。
(……だがやはり、危険だ)
 孔明はこの文長の作戦具申を聞き、成果よりも損害の計算を優先してしまった。
 諸葛孔明の用兵家としての限界であろう。これが例えば曹操のような英雄型の用兵家であったら、敗北なぞ度外視して作戦を押し進め、徹底的な勝利を収めるか全滅して自分も死ぬかしているに違いない。
(所詮丞相は、文吏である)
 文長はしみじみと思った。あるいは軍事技術者としても、孔明は文長を凌駕しているかもしれない。しかしその作戦行動は、元金を失わないというただ一点に縛られ、決してその範囲を踏み越す事はできない。能力ではなく、適性と立場の問題である。
 ――孔明の答は、不許可であった。
 文長は、さすがに不満を隠しきれず、視線を地図へ落とす事で別の感情を抑えようとしていた。そこへ、不意に差し出口をたたいた者がいる。
「涼州殿。丞相には秘策がござる。県危を避け、安んじて坦道を征くにしくは無く、隴右を取ること十のうち十でありましょう」
 孔明に近侍していた参謀将校馬謖であった。だがこういう時、彼の朗々たる声と颯々とした態度は逆に起爆剤となりうる。
(なにを、孺子が)
 文長の感情があわや激発しようとしたとき、孔明は例の水の如き所作で立ち上がった。
「参軍っ、僭越であろう。元帥同士の議に汝如きが口を挟むな!」
 鋭く彼を叱りつけて黙らせると、文長へ向き直った。
「申し訳ない、涼州殿。しかし馬参軍の申したとおり、余の計は平路を堂々征くものと定めている。ただ長安奪取のみを目的とするならば、将軍以上の策は世にあるまいが、この北伐はもう少し範囲が広い。上庸の孟達がこちらへ帰参を申し出ている事は御存知か」
 文長はむっつりと頷いた。
「この北伐の正否を決めるのは、つまり上庸である。かの地は、漢水を遡ればこの漢中に、下れば荊州都の襄陽へ易々と進める交通の要地。しかも北すればすぐに南陽があり、これを突破するともはや洛陽は指呼の距離」
 孔明の細い指が、忙しく地図の上を滑っている。
「孟達蜂起という報があれば、北伐軍の一部は転じて東伐軍と化り、漢水を下って一気に荊州へなだれ込む。この荊州戦線を維持しつつ、北伐軍は悠々と涼雍の二州を踏み堅め、いずれはこの中原で主力同士の決戦となりましょう」
 孔明の指が洛陽のまわりを指し、また長安へ戻った。
「先制して長安を抑えるのも一計ですが、そうすると長安軍は最低一月は敵中で孤立する事になり、それを救援するための遊軍を編成せねばならない。すると必定、我が軍の荊州戦線へ対する反応は鈍重にならざるを得ず、機に臨み変に応ずる事が難しくなりましょう」 孔明の説明はまるで淀みがなく、またいちいち具体的で、文長も眼下の地図でくるくると描かれる広壮な戦略を、半ば陶然と見守っていた。
「魏は、巨きい。一戦して勝つというわけにはゆかぬ」
 魏の軍制は、典型的な外郭配置型である。
 つまり中央軍とは全く別に、東西南北それぞれに強力な常駐軍団を擁している。その外軍の一つだけでも、蜀や呉の総戦力に匹敵するのである。
「故に、調略に調略を重ねてこの外郭を一枚ずつ剥ぎ取ってゆき、この七対一という彼我の戦力格差をせめて五対二くらいまでもってゆき、一戦で状況が入れ替わるという状況になって初めて、主力決戦という手段を用いるべきでしょう」 
 それでも、勝率は三割強といったところであろう。しかし最初から七本首の巨竜に槍一本で肉弾戦を挑むよりはましである。
「以上の理由から、余は速戦案を退けざるを得ない。おわかり頂けたか」
「御意……」
 文長は、さすがに虚勢をはる元気もなく、うなだれるように首肯してみせた。しかし肚の底で、抑えようのない屈辱感がゆっくりと頭を擡げている。
 惨めであった。
 孔明、馬謖が大局全体を見渡す戦略を示したのに対し、文長はただ目先の戦術を大声で喋々しただけの結果に終わった。
 この事は、翌日になればすぐに全軍へ伝わるに違いない。
(――さすが丞相、参軍は一千年の逸材よ。かくも壮大な戦略を自在に手繰るとは)
(――較べて、嗤うべきは涼州の短慮である。所詮は一介の武辺か)
 あざやかな対称をもつ噂が囁かれる事になるであろう。
 孔明は、ふと語気をゆるめ、まるで慰めるかのように文長を誉めはじめた。
「しかし将軍の武勇武略には感服いたした。我が軍はすでに四大将(関羽・張飛・黄忠・馬超)なく、いささか寂寥を感じていたところ、今日将軍の覇気に触れ、正しく蘇生した心地がします。どうか将軍、これからも漢家の御為、ますます御精勤下されよ」
 文長は、つまるところ態よく追い払われたわけである。
 
 一二月。
 漢中へ到着して九ヶ月目に、ようやく蜀漢王朝の北伐軍団は行動を開始する。
 軍団の大先鋒は、孔明が生涯で最も信用したという老練な鎮東将軍趙雲と、先に東呉へ使いして大成功をおさめた揚武将軍の鏃芝ふたりが率いた。
 彼らはすでに漢中を発して斜谷道(三番目に長安へ近いルート)を北上しつつあり――と魏方面でさかんに喧伝されている。
 魏の実質上の支配者の一人である大将軍・都督外中諸軍事の曹真は、洛陽を出てその本営を長安へ移していたが、蜀の「北伐」の報告をうけて眉をしかめた。
「蜀賊は、劉備の死とともに滅んだものと思っていたが、まだ謀叛する元気があったか」
 当時、魏の蜀漢に対する関心はその程度のものであった。劉備の興した蜀漢王朝など、辺境に割拠する地方叛乱勢力くらいにしか思われておらず、実際に国力差からみると、そちらの方がより事実に近かった。
 当然ながら孔明に対する認識も、あいまいであった。
「劉備から遺児を託された重臣二人のうちのひとり」
 というのが一般で知られているせいぜいな情報で、その為人、能力の程などほんの風聞の域を出ない。
 曹真は多少それより孔明像に詳しいが、まさか今回の孔明の出撃が魏帝国最大の危機であるなどという突飛な発想はせず、しごく常識的な範囲で事態を処理しようとした。
「まあ蜀賊がどう足掻いたところで、せいぜい辺境の数郡を踏み荒らすくらいしかできまい。それよりも彼らの主力を捕捉し、二度と悪戯が出来ぬ程に痛めつけるべし」
 直ちに全軍長安を出撃し、斜谷道の出口である鐡城を抑え、蜀軍のあたまを正面から叩き潰すよう、司令を下した。
 大将軍曹真は、名将ぞろいの魏軍にあっても、その重厚さと智勇において傑出する存在であったが、このとき戦略レベルでものの見事に孔明にしてやられている。
 曹真は自ら七万という対蜀軍団主力を率いて鐡に入り、斜谷の険を突破してきた趙雲・鏃芝軍一万と戦闘状態に突入したのだが、じつはこの方面の蜀軍はおとりであった。
 名人趙雲の小気味よい戦闘指揮によって、魏の大部隊がずるずると狭隘な斜谷道に引きずり込まれて進退を窮めているとき、孔明の率いる北伐軍主力は、全く別の関山道(長安から最も遠いルート)を猛烈な勢いで驀進している。
 しかもこの月の半ば、荊州新城郡の太守孟達が中央との連絡を遮断し、魏にたいし、事実上叛旗を翻したのである。
「しまった……!」
 曹真は、報告をうけて愕然とした。
 
 荊州の中枢に、いきなり新城郡という楔が打ち込まれた。絶妙のタイミングである。
 孟達は充分な余裕をもってこの叛乱を実行した。
 彼は謀才あり、弁才あり、もちろん軍才もある男だから、彼なりに緻密な計算をたてて機会を見計らっていた。
(荊州総督の司馬懿が駐留している南陽の宛城は、ここから千二百里はなれているし、洛陽までも八百里ある。おれの挙兵をきいても、まず洛陽へ上奏して軍を動かす裁可を仰がねばならぬだろうから)
 ――まず、一月かかる。
 孟達はそう計算した。一月もあれば、新城郡全域に防衛線を張る事もできるし、蜀や呉からの援軍も到着しているはずであった。
(しかも、おれは疑われてもいない)
 今まで何度とは無く、荊州総督の司馬懿から彼を信用する旨の書簡が送られてきた。
 つい先日にも、随分とのんきな書状が届いている。
(――郭模とやらいう蜀の投降者が何やら騒いでおりますが、魏家は将軍をみじんも疑っておりません。どうせ蜀の者どもは将軍を心底憎んでおりましょうから、将軍が魏を裏切り蜀へ奔る事など有り得ません。そんなことは考えたらわかる事です……)
 この書状が届いたのはほんの八日前で、孟達が謀叛を決行したのはその翌日であった。
 謀叛を興して今日で七日目。司馬懿が宛城を進発し、荊州軍団を率いて駆けつけてくるまで、最低でもあと二十日はかかる。
 はずであった。
 
               三
 
 智者は、智におぼれる。
 ――司馬懿、何ゾ其レ神速ナル
 これが、孟達の断末魔のさけびとなった。
 陣中で新年を迎える事になった孔明のもとへ、漢中を経由して報せが届いたとき、すでに孟達の首は道中梟されつつ洛陽へ向け輸送されている。
(あッ)
 報を受けた直後、孔明は天を仰ぎ、しばらく身じろぎもできなかった。
(大事去った――)
 その姿のまま、かたく目をつむり、神罰をまつ罪人のような、一個の彫像と化していた。
 傍らの馬謖も、ぼうぜんと孟達の最期の書状をみつめ、この多弁な青年が二の句もつげずにいる。
 
 司馬懿は、字を仲達といった。
 司州河内のひとで、代々高級官僚を輩出した名門司馬氏の次男である。彼の八人の兄弟は闌司馬の八達闕とよばれ全員神童の誉れ高かったが、なかでも
「仲達こそ聡亮明允、剛断英特。非常の器にして余達の及ぶところにあらざるなり」
 と、他の闌七達闕とは懸け離れた存在としてしられていた。
 当時少壮だった曹操も、膝下の司州でこれほどの男を眠らせておく手はないと考え、いわゆる「三顧の礼」をもって彼を迎えた。
 ――ただ、少々その「礼」が普通ではない。
 一度目は、尋常な礼を尽くして説得にむかい、病を理由に断られた。
 二度目は、なんと刺客をもって彼を刺さしめ、この偉材が他陣営へ流れる事を防ごうとした(仲達は、牀のうえで身じろぎもせず刺客を静かに見据え、襲った刺客の方が恐怖に駆られて逃げ出している)。
 三度目は、登用の使者に司法警察権まで付随させ、
「もしまた理屈をこねて断るようだったら、逮捕してでも引きずってこい」
 とまで云い含めた。仲達はさすがに曹操流「三顧の礼」におぞけを感じ、いやいや出頭して、曹操に忠誠を尽くす事になった。
 曹氏に仕えてからは、仲達はその能力、門地にもかかわらず、まず二級の行政職に甘んじて、それほどの名声を受けずにいた。これは曹操の猜疑と仲達の韜晦が巧く釣り合っていた結果なのだが、息子の曹丕の代になってそれが崩れた。
「仲達は、余が無二の者ぞ」
 ふたりは青年時代を共に過ごした親友同士でもあり、曹丕は仲達を次々と栄転させ、ついには曹氏や夏侯氏という一族衆以外では、最高位の武官職にまで任じた。
 代がかわり、仲達は驃騎将軍に昇り、豫州および荊州の督諸軍事として、対呉方面軍の総帥となった。
 
 仲達は着任後、すぐに孟達の挙動を不審とみなし、それとなく監視していたようである。
 やがて、傍証が揃った。
「孟達の謀叛はもはや防げぬ。ならば彼を叛起させ、間隙おかずこれを伐つべし」
 仲達は、さっそく情報戦を開始した。孟達に対して繰り返し繰り返し書簡を送りつけ、
(中央は将軍を微塵も疑っていません。ご案じあるな)
 と吹き込み、彼の激発を巧みに遅らせる一方で、荊州軍団の最も高速な一隊をひそかに切り離して、孟達の居城上庸ちかくに配備させた。しかもこれを孟達に察知されぬよう、近付く者はすべて捕らえ、不審と見たらこれを斬り棄てた。
 孟達ほどの男が、こと仲達周辺の軍移動に関しては全くの盲目となったわけである。
 やがて孟達が予定通り兵を挙げたときは、すでに仲達は宛城を進発しており、各地に伏せておいた諸隊を糾合しつつ、疾風のいきおいで新城郡へなだれ込んだ。
「……何ゾ其レ神速ナル」
 孟達が悲鳴混じりの書状を孔明に送りつけたのが、仲達の攻城が始まる直前のことで、挙兵からわずか八日後である。
 普段の沈毅な仲達からは想像もできない激烈きわまる攻囲は、わずか一六日で終わった。
 かねてより内応の約を取り交わしてあった連中が、城門を開け、仲達軍を迎え入れたのである。孟達は脱出を試みて失敗し、散々に斬り暴れたあげく、ずたずたの肉隗となった。
 その間、蜀も呉も大規模な援軍を次々と新城へ送り込んだのだが、ことごとく仲達の支隊に阻まれ、上庸へ接近する事さえ出来なかった。
 鎬鎬歴史を変えるはずであった孟達の乱は、わずか二四日で終結した。
 
「孟達の事、余の過ちであったわ」
 孔明はつぎつぎ飛来する続報に、耳を塞ぎたくなった。
「おそるべきは司馬懿の智よ」
 すべては、司馬仲達というひとりの男の脳漿が決したようであった。
 孔明が、いや、蜀漢王朝という政体が、ただ一人の知的活動によって無惨に敗れ去った。
 「北伐」作戦の要諦は、まさに新城郡奪取の如何である。魏領荊州へ突き出るこの郡は、そのまま魏の咽喉へ突きつけられる刃となるはずであった。
(それが――)
 またしてもぼきりと折り取られた。もう二度と蜀へ付随する事はなくなるであろう。もはや、以後の北伐は、ただ北へ北へと一次元に活動するピストン運動にならざるを得ない。
(やはり危険は承知で、魏延の策に乗ってみるべきであったか)
 しかし、すでに凡将の誉れひくい夏侯楙に代わって、大将軍曹真が長安へ入り雍州一帯の軍権を直接掌握してしまっている。無防備の長安を電撃するという策は二度と使えぬ。残る選択肢は、ただひたすら北上するというものだけであった。 
(ただ北上するだけ……!)
 これは、孔明ほどの智者にとって拷問にも近い軍事行動であった。
 ……しかし、孔明はこの単調きわまる北伐行にも、なるべく戦略的な幅を持たせようと試みている。
 
 孟達の失敗は、無論、軍最高幹部のひとりである文長も聞き及んでいた。
(それみたことか)
 と思わぬでもないが、蒼白な貌で軍議を取り仕切る孔明を口汚く罵る気にもならず、床几に座したまま無音を保っていた。
 文長が文句を云いたいとすれば、孟達の失敗などよりも、この北伐本隊の進路そのものについてであった。
(何が悲しくて、こんな方向へ兵を動かすのか)
 北伐軍団本隊五万は、漢中を出た後、進路を関山道に定め、長安とは全く反対方向の西へむけて移動中なのである。道中、征けども征けども山また山で、進めば進むほど長安からどんどん遠ざかってゆく。
「丞相は、要するに戦さがお怖いだけではあるまいか」
「左様。なにしろ魏の軍勢は西南夷の蛮兵どもとは違うからな」
 文長だけでなく、彼の幕将や速戦派の部将たちは、みな不穏とも云える表現で孔明の軍略を批判し、中には露骨に彼を軽視する発言もあった。孔明はそれらの風評を知らぬわけはないのだが、一向に進路を改めようとせず、ひたすら北西への進撃を続けている。
 ところが、北伐軍団が道中半ばの祁山へ到着したあたりで、諸将が例外なく驚愕し、孔明の評価が文字どおり一八〇度転換するような、一連の珍事件が起こった。
 
 ――魏王朝の西方面の防壁であるはずの天水、安定、南安ら雍州の主要三郡が、六万近い大軍団を目の当たりにして恐慌状態に陥り、慌てて降伏を申し込んできたのである。
 だいたい半州を攻略するなど、本来ならば数万単位の兵力が衝突し、戦場を覆い尽くすほどの屍山を築いてようやく成る程の一大事業である。
 それが。戦さらしい戦さもず、ころりと転がり込んできた。
 鮮やかなるかな。丞相の御慧眼――。
 孔明はただ長安という戦略都市を衝くのではなく、戦力が希薄になった長安以西の涼州一帯を威圧攻略し、以て後顧をなからしめるという策をとっていたのである。
(なるほど……!)
 文長でさえ、唸った。机上の空論が、空論ではなくなってゆく。
(丞相がおれの献策を蹴ったのも無理からぬことかな)
 と思うほどに、この時の孔明の下知は無謬であった。祁山に本陣を据えた孔明は、次々と軍令を発して諸郡を鎮撫し、降人を容れ、後続の輜重を納め、着々と長安侵攻作戦の準備をすすめている。
 現在、魏の対蜀軍団主力は斜谷の険道に引きずり込まれて膠着しており、長安までの道中、まったくの無防備であった。
「進路は東へ。目的地は長安」
 間もなく命令が下されると、北伐軍団の脊髄を異様な興奮が走り抜けた。
 いよいよ、悲願の長安攻略作戦が発動するのである。
 
 超大国の魏王朝が、はじめて震撼した。
「大将軍は何をやっているのか」
 魏帝曹叡は、決して無能でないはずの曹一族筆頭大将を、名指しで攻撃した。
「聞けば、驃騎(仲達)の機転がなければ荊州どころか、この洛陽までも危うかったというではないか」
 数え二三才の青年皇帝は、ひとしきり憤懣をもらすと玉座を立ち、皇帝親征の意思を群臣へ伝えた。彼みずから陣頭へ立ち、長安へ後詰めにむかうというのである。
「朕が甲胄をもて。わが虎賁(近衛)のつわものどもに出動を命じよ」
 云うが早いか、本当に曹叡は軍団を率いてその日のうちに洛陽を出立してしまった。
 器量も才幹も父帝より一まわり小振りであるとはいえ、この剛毅果断は、さすが曹操の末裔であるといえた。成都で退屈を持て余している劉備の息子とはえらい違いである。
 とにかく、緊急の出撃であったため、中央軍の半数ほどしか扈従できず、その数は五万余であった。残りは補給部隊の到着を待ちつつ、先鋒を追い慕う事になっている。
「――ご無礼を承知で上奏致したきことあり」
 征旅半ばを過ぎた頃、皇帝の輦へ巨躯を寄せた老人があった。
「おお、右将軍か。軍礼に則り直奏をゆるす。いったい何事か」
 白の直垂に白銀の鎧を身に纏い、白髯が陽に映えるさまは、まるで軍神の彫像のようであった。すでに六旬を越える老将軍は、壮者も狼狽ぐ程の大声で上奏した。
「有り難き幸せに御座います、陛下。お許しを得て申し上げます。願わくば、不肖この老骨めに最も迅き一軍をお与え頂き、以て先の防ぎに充てて頂きたく存じまする」

魏延の北伐【第三章】 北伐前夜

 
               一
 
 年が明け、建興四年(二二六年)。
 蜀漢王朝の帝都、成都宮にもようやく新春年賀がおとずれたようであった。
 建国帝の喪明けの年であるとともに、ここ二年のあいだ諸人の神経を圧迫していた南方叛乱も終結して、今年からやっと平穏で日常的な正月を過ごせそうである。
「各々、おめでとうござる」
「おめでとうござる」
 成都宮のなかにも巨大な宴席が張られ、文武の顕官数百名が一堂に参集した。
 席中、談笑の華が賑やかに咲き誇り、管弦の妙音がその合間を縫うように流れ続けている。皇帝臨席とはいえ、この日ばかりは無礼講にちかく、諸人とも襟をくつろげて心行くままに宴を愉しむ風情であった。
 酒客のなかには、漢中都督の魏延文長の姿もあった。
 彼にとっては、実に七年ぶりの成都である。先帝劉備の即位式典の時も、その葬儀の時も、また今上劉禅の即位式典の時にも、彼は国境を離れる事を許されず、漢中の南鄭城で勅使相手に挨拶を述べただけであった。
(それが、急に都へ上れとはどういうことだろう)
 文長は正直首をひねる心情であったが、表情には出さず、杯を貰いに来る諸将を片っ端から酔いつぶす事に専念していた。
 それにしても――
 と文長は思う。ずいぶんと宮殿の容子が変わった。
(高官に益州組が増えた)
 劉備存命中は諸葛亮を中心に、いわゆる荊州閥の面々が次官級以上の役職を独占していたのだが、この建興四年現在、ずいぶんと現地採用がすすんでいる。劉備の圧倒的カリスマが失われ、やんわりと抑圧されていた益州人士の不満が噴き出した結果であろう。
(やりきれぬ)
 と、文長は思う。
 この蜀漢王朝は、劉備がほとんど中国全土からかき集めた幕僚団によって創り上げられた国家である。放浪に放浪を重ね、連勝連敗を交互に重ね、乱箭乱刃に親を亡くし友を喪い、主劉備と共に辛酸艱苦、ようやくの思いで切り取った国土である。
(それを、先に此処に住んでいただけという奴らが、九卿だの三公だのの席に座るとは)
 死んだ者が浮かばれぬ、と文長は思った。
 無論これは余所者の論理である。土着の益州人にしてみれは、突然土足で上がってきた連中に政戦の頂上を独占され、建国の功なしと卑職に押し込まれてきた自分たちこそ、被害者であると云いたいであろう。
「劉備一党は、侵略者である」
 という意識は、潜在的であるとはいえ根強く残っている。孔明は、彼らを宥め、荊州閥中心の政体に取り込み、完全な融和を図らねばならなかった。
 ところが文長などは長らく漢中要塞に篭もりっきりで、そういう微妙な空気を知らないから、自然、中央の苦労も知らぬ無神経な不平屋にならざるをえない。
 
「――鎮北将軍」
 ふと、文長の席の横へ立つ者がいた。
「どうぞ一献」
 みると、丞相の諸葛孔明であった。無礼講が過ぎて席が崩れ、みな酒瓶を手に勝手に立ち歩いている。
「やあ、忝なし」
 文長は、受けた。この穏やかな少壮首相とは、実はほとんど面識がない。
 文長が部将に抜擢されたのは、劉備の益州詐取作戦の最中からだが、そのとき劉備の帷幄にあって全軍を指揮していたのは、孔明ではなく軍師中郎将の?統であった。その?統の死後、軍師職を継いだのは揚武将軍の法正という男で、文長が知っているのはその法正までである。
「魏将軍には北の事を任せ放しで、心苦しい。さぞかしご苦労が多いでしょう」
「なんの。寧日だらけで暇でござる」
 本当ではない。漢中都督職は、おそらく武官の中では最も激務であろう。いつ魏の大軍が寄せてくるか油断なく目を配り、将兵を鍛え上げ、漢中盆地全体を要塞化する土木工事も指揮せねばならない。
「ご謙遜あるな。ご精勤のこと、色々耳に入っている」
 孔明は、文長の男走った顔を見つめた。もともと荊州新野の農奴あがりというが、そのわりに眉目は貴公子然としており、眸には理知が隙なく光っている。
(案外、ゆだんできぬ)
 孔明は思った。単なる武辺というなら、いくらでも飼いこなしようがあるが、この虎は、どうも野生種であるらしい。
「丞相も、それがしの杯をお受け下さるか」
 文長は表情をかえずに酒瓶を掴み、片膝をたてた。
「有り難く」
 と孔明も爵杯を手にしたが、文長は不意に舌打ちをした。
「やや、粗相でござる。瓶に酒が入っておらぬ」
 云いかけると、隣席の後将軍劉?の卓から酒瓶をひったくり、孔明の杯に注いだ。
「おい、鎮北」
 面食らった劉?が苦情を云いかけたが、孔明は素早く杯を示してみせ、
「これは後将軍と鎮北将軍両所のご好意と存じる」
 と笑い、一気に飲み干したため、劉?もそれ以上は文句を云わなかった。
(困った御仁じゃな)
 孔明は内心、眉をしかめぬでもない。この衛尉卿(皇宮警備大臣)・中軍師・後将軍劉?は、先帝劉備が豫州牧であった頃からの寵臣だが、武功も実務能力もなく、ただ噺がうまいだけという茶坊主のような存在であった。そのくせ、位階だけはやたらと高く、軍部においては前将軍の李厳に次ぐナンバー2の地位にあった。
(なんの、先帝陛下の寵のみで成り上がった幇間が)
 という感情は諸人、それこそ孔明などにもあったのだが、文長はそれを露骨に示してみせたのである。そこまで計算したものか否かはともかく。
 ……その文長はと観ると、まるで気にした容子もなく、自分の杯に手ずから酒を充たし、
「遅れましたが丞相、この度の南征の儀、誠にご苦労に存じます」
 と、錆のある声で祝儀めかしたことを云っている。
「いえ。お互い漢家の御ために大賀」 
 孔明は乾杯に応じたが、頭ではべつのことを考えていた。
(まず、無神経。人事に疎い。それに叛骨あり。深慮欠けるところあり。為人、矜高)
 孔明がわざわざ国境総司令官を本国へ召還したのは、実はその性情と心術を見定めるためであった。この場合、彼の美点を挙げる必要はなく、ただその欠点のみを把握すればよかった。
(まず、雲長か)
 孔明が連想した人物像は、ちょうど六年前、呉によって斬首された関羽であった。
(武勇群を抜き、用兵に優れ、部下に優しい。しかし性、倨傲である。心術に劣り、僚将あるいは上官に必要以上対抗したがる)
 何から何まで関羽と瓜二つである。 
「……鎮北将軍は」
 ふと、孔明は問うてみた。
「日ごろ、何か書を嗜まれる事はおざらぬか」
「書ですか」
 文長は、少し首をかしげ、
「左様、一書を挙げるとすれば、春秋に尽きますな。幾度となく読み返しておりますが」
「左伝の?」
 孔明の反問に、文長は嬉しそうに頷いた。
 春秋左氏伝は、関羽が全文そらんじる程に愛読していた歴史書である。
 
 孔明が、わざわざ彼を呼び寄せてまでその人物を観たのは、もちろん理由がある。
 北伐
 を意図していたからであった。
 このピストン運動にも似た軍事行動は、蜀漢王朝滅亡のときまで数年おきに繰り返され、なんと合計して十四回も行われる。動員兵力は、延べで五十万を超すであろう。 
「魏を攻め滅ぼすまで止めぬ」
 というくらいの徹底した戦略的主題があるわけではなく、第二次作戦以降は半ば惰性、孔明没後の第六次からは、明らかに局地戦闘のみにとどまる示威行動になってしまう。
 ――しかし、この翌年に発動するいわゆる「第一次北伐」は、丞相諸葛孔明がその持てる能力の限りを尽くし、蜀漢王朝全軍の七割以上を動員し、望み得る最高のスタッフを揃えた大真面目な中原奪回作戦であった。微々たる地方軍事政権が、本気で超大国へ振りかざしてみせた蟷螂の斧であった。
 孔明はこの第一次北伐を敢行するにあたり、帷幕の列将全員を直接把握し、完全に操作するつもりである。
 まず、文長を知った。
(不世出の勇将である)
 これほどの驍将は魏呉にも数えるほどしか居まい。
 いま一人、軍を旋回させる為の車輪が要る。
(威公ならば用いるに足る)
 威公とは、荊州襄陽のひとで、姓名を楊儀といった。おそるべき実務処理の達人で、並の官吏十名が十日かける仕事を、彼は一日でさばいてしまう。
(あの辣腕があれば、北伐の事務方面はずいぶんと楽になる)
 だいたい、戦争をやっていて最も気を使うのは、補給の計算や手配、行軍計画の立案、各方面のへ伝達などの、絶望的に膨大な事務処理である。それに比べると、戦場での指揮などまだ楽なほうであった。
 楊儀ならば、全軍の事務を一手に引き受けても、それらを水の流るる如く処理してくれるはずである。実際、先の南征軍の事務を統括していたのは、他ならぬ楊儀であった。
「武の魏延と文の楊儀」
 という人事は、二人の能力だけを見れば、孔明と蜀漢王朝にとってこれ以上は望むべくもない会心の布陣となるはずであった。
    
               二
 
 夏、五月。
 文長が日頃から飼っている細作が、魏の情報封鎖を突破して漢中へ報をもたらした。
(これは……)
 文長は、すぐさま早馬を立てて、孔明のもとに驚くべき訃報を届けた。
 大吉報と呼んだほうがよいかもしれない。魏王朝の初代皇帝曹丕が、齢四十という若さで、俄に崩じたのである。
 曹丕は父曹操に似て多芸多能な男で、軍事、政治、武芸、詩文、遊戯に超一流の素質を示した。特に詩文に関しては父をも凌ぐと噂され、彼に勝ちうる詩人がいるとすれば、それは彼の実弟で後に「詩聖」と敬慕される曹植のみであろうと云われた。
 諡して、文皇帝。性やや酷薄であったが、よく民を安んじ二代目の分を越さなかった。
「では後を嗣ぐのは」
 孔明は、身を乗り出して訊ねた。
「色々と取り沙汰されたようですが、結局、先妃甄氏の腹の曹叡に定まりました」
「その人物は」
「容姿つとに優れ、長身威躯、髻を解くと髪が地に着くとか。為人は沈毅果断、五歳の頃から神童と噂され、曹操が常に手元で育てていたそうです。今の齢は二一」
 孔明は舌打ちをこらえた。敵国の皇帝は暗愚であるべきものを、どうも曹操は三世までその才幹を遺伝させている。先帝劉備と、どうしてこうも違うのだろう。
「魏国内に動揺はないか」
「曹丕に後事を委嘱された曹真、司馬懿、陳羣らが、素早く軍主力を掌握して曹叡を擁立したため、跡目騒動の起こる暇もなかったそうです」
 これも、意に添わぬ返答である。みるみる気分を損じる孔明の貌を、使者はおそるおそる見守っている。
 ともかく使者を労って退出させると、孔明は机上の絵地図を凝とにらんだ。
(中央に動揺が起こらずとも、地方では必ず浮き足立つ輩がいそうなものだが……)
 やがて、その眸が地図上の一点を捉えた。
 新城郡上庸――
 もともと漢中郡に属し、地図でみると、益州から荊州へ突き出した半島のような形である。いまは魏にぽっきりと折り取られ、荊州に区分されていた。
 この新城太守の孟達という男は、最近まで蜀漢王朝の禄を喰んでいたのである。それが、先の荊州失陥と関羽斬死に際して過失あり、罪を恐れて城ごと魏へ奔った。容貌端正で智略に優れ、どういうわけか魏帝曹丕に絶大なる寵愛を与えられたという。
(そうだ)
 孔明は躍り上がるように起立すると、大声で、
「参軍をよべ」
 と怒鳴っていた。
 
 丞相府参軍の馬謖は、このとき弱冠三六ながら、余人には眩しい程きらびやかな閲歴を重ね、もはや蜀中で知らぬ者はない名士中の名士であった。二十代のうちに先帝劉備に直属し、以後緜竹県、成都県の令を歴任し、次いで越?郡太守に抜擢された。
 行政能力に卓越し、四書五経の悉くを諳んじ、孫呉兵書に通ぜざるものなしという、まさに蜀中期待の超新星のような男である。
「参軍馬謖、御前に罷りました」
 声のすみずみまで自信が盈ち盈ちている男であった。天性の煌めきであろう、その姿、いかにも涼やかである。
「おお、幼常きたか」
 孔明は、愛弟を迎える如く破顔して、この若武者を迎えた。彼の実兄馬良と孔明とは、義兄弟の間柄であったから、弟の馬謖もまた、孔明からみれば義弟にあたる。それどころか孔明は、この馬謖を実弟以上に愛していた。
「御相談の儀と承りましたが」
「好い、好い」
 孔明は他愛ない。にこにこと微笑み崩れながら、手ずから茶の用意をしている。この利発な青年士官と同室するのが、嬉しくて仕方がない風情であった。
「まず、これを見よ」
 孔明は、先ほど文長がもたらした第一報を馬謖へ見せた。
「……曹丕が」
「斃れた。内国に動揺は生じておらぬようだが、幼常はどう時勢を見定める」
 馬謖は、形のよい眉をしかめると、虚空を相手に無言問答を始めた。孔明がじっと待っているのにも構わず、だいぶ考え込んだ。考えたすえ、一言、
「中都護の筆がよろしいでしょう」
 とだけ答えた。
 孔明は嬉しそうに幾度も頷き、自分もそう考えていた、と云った。
 順を追うと、こうである。
 曹丕が死に、曹叡が登極した。すると、先帝の寵愛を受けていた者は身分が危うくなる。特に、余所者でありながら先帝の個人的親愛のみで栄達した孟達などは、一瞬で失脚するに違いない。彼は驕り者だったから、その生命さえ保証の限りではない。もはや他国へ身を寄せるしかない。しかし蜀漢を裏切った手前、どうにも帰参しづらい。
 だから、
(もう怒ってないよ。帰っておいで)
 という文を出してやればよいのである。それも、孟達の親友であった中都護李厳の文章であれば、余計に安心するだろう……
 今の禅問答のような会話のなかで、二人はかくも高度な政略を語ったわけである。
 
 八月にはいって、蜀漢王朝軍の動きは目立って活溌になっている。
 成都近郊に五万という大部隊が集結し、丞相諸葛孔明の采配のもと、十日間にわたり大規模な軍事演習が行われた。
 また、成都から北の漢中までを結ぶ路という路が突貫工事で補修され、要所要所に軍需物資の備蓄基地が設けられた。それとほぼ同時に官庫が次々開け放たれ、各郡から臨時に徴収された作物が、長蛇の列をつくって、続々、北へ向け輸送されている。
(丞相は北の魏国へ攻め入るおつもりではあるまいか)
(まさか。勝てる相手じゃねえ)
 蜀の農民たちは、正直なところ北伐という軍事行動に何の価値も見出せない。
(せっかく世が三分されて平和になったんだ。もう戦乱はこりごりじゃ)
 彼らは顔を見合わせ、深刻な表情で云い合った。
 ……前将軍の李厳が成都へ呼ばれた時、世間はそういう空気で満ちている。
 李厳は皇帝に謁した後、丞相府へ足をはこび、孔明に会った。
「ご足労です」
 孔明は立ち上がって李厳を誘い、席へつかせた。
 席上には、例の馬謖と楊儀が居並んでいる。
(ははあ、この連中が今回の北伐騒ぎの枢密か)
 李厳は腰を据えた。
「丞相、どうやら漢朝の頭脳が一堂に会しているようですな。世上では色々と憶測が飛び交っておりますが、いったい身に何の御用です」
 孔明は皮肉に付き合わず、単刀直入に云った。
「この度お呼びだてしたのは他でもない、前将軍。卿に、あの孟新城(孟達)に翻意を促す書状を書いて頂きたい」
(あっ……!)
 李厳は、さすがに一瞬で孔明の策を覚った。
「勿論、私からも書状を送るつもりですが、まず将軍から私信という形で、我々が孟新城の帰参を嘱望している事をお伝えお願いしたいのです」
 なるほど、前もって旧知から「情報」を得ていた方が、孟達としても次の公文書に返事をしやすくなるであろう。
(芸が細かい)
 李厳は感心したが、やや小細工が過ぎる気もした。とはいえ断る理由もない。
「それと将軍、いま一つお願いがあります。我々は早ければ来春には漢中へ大本営を移すことになります。その時のため、将軍にはより成都に近い江州へ幕府を移し、そこから本国の軍政全般を統括して頂きたい」
 つまり、北伐のあいだ後方総司令部を主宰せよ、という辞令であった。
 遠征軍への補給線維持はもちろん、内国の治安維持、防諜活動の悉くを掌管し、さらに万一魏なり呉なりが攻め寄せてきた場合は、残留軍を率いてこれを斬り防がねばならない。
(これは、凄まじい)
 李厳と云えども、これほどの重責はさすがに胃が凭れそうであった。
「それでは、身に代わり永安国境を防禦するに足る勇将をば一人、お遣わし願いたい」
「ああ、それでしたら征西こそ然るべきでしょう」
 征西将軍陳到のことである。先帝劉備が、戦場で自分の手足以上に追い使ってきた二騎の旗本頭の一人で、いま一人の征南将軍趙雲は、北伐軍に組み込まれる事が内定していた。
 
 この月、これまで防戦一方だった呉王孫権が、珍しく長江を遡って魏の荊州領に対し先制の一撃を加えているが、守将文聘の武略と魏帝曹叡の采配により、敢えなく敗退した。
(頼りない同盟国だ)
 孔明はぼやきたい気分であったが、一応、魏の注意を蜀から外らすという役目は果たしてくれている。しばらくは魏も夏口以西の制江権を確保する作業に追われるであろう。
 一進一退の荊州情勢を横目で睨む一方、孔明は漢中城塞の文長に対し、ほぼ毎日のように命令書を送りつけている。
 孔明の主眼は、まさに北にあった。
 漢中以北に茫漠と広がる涼州一帯は、蜀人にとっても辺境のまた辺境、寒風吹き荒ぶ人外魔境であるという印象が強い。したがって人々の興味も薄く、精細な資料を欠く。
「なるべく細に入った記録が欲しい」
 孔明は文長に、涼州一帯の地理、人物の調査を求めた。一郡一郡の面積や戸数、兵数はもちろんのこと、諸豪の大姓、銭糧の貯え、点在する都市の規模、地形の高低、山河の険要、間道の有無など、とにかく涼州を一望できるような資料を揃えたかった。
(そんなものを揃えてどうするのか。中原の情報を仕入れよというならともかく)
 文長は首をかしげながらも、とにかく手飼いの細作どもを北へバラ撒いた。
 
               三
 
 ――再び年が明け、建興五年(二二七年)。
 蜀漢王朝の丞相諸葛亮は、三月の旦を期して北上の途についた。
 征旅に付きしたがう将兵数は、北伐軍団と荊州侵攻軍団を合わせて、七万余。
 これほどの大部隊が編成されるのは、先主劉備が魏王の曹操と直接漢中盆地を争ったとき以来であろう。
「次は長安」
 ということばが、いまの蜀国内を席巻していた。
 魏の太祖武帝曹操が、四十万という文字どおり桁の違う大軍団を統率して漢中の防衛にあたったのは、わずか八年前の出来事である。
 このときは、
「漢中を奪らざれば、蜀すなわち危うし」
 ということばが流行した。
 もしも魏の対蜀前線基地である漢中盆地を放置しておけば、魏は何時でも好きなように蜀へ攻め入ってくるであろう。――そういう危機意識をくどいほど蜀中の民に植え付け、劉備は八万という漢中攻略軍団を組織し、自らその作戦指揮にあたった。
「目指すは漢中」
 という合い言葉を、まるで呪文のように繰り返し繰り返し唱えさせ、まとまりの悪い益州住民をその気にさせ、とうとう漢中から曹操軍を追い払ってしまった。
 それから八年。
 今度はその漢中を前進基地にして、魏の支配下にある中原の西玄関、旧都長安を攻め陥とそうというのである。
(次は長安。――次は長安)
 蜀の民も将兵も、一種形容しがたい集団的な高揚感につつまれ、漢中を目指していた。
 
 その意識操作を演出した張本人である丞相の諸葛孔明は、この時に限ったことではないが、己の背負い込んだ責務の重圧を必死に耐えている。
(万が一にも失敗は許されぬ)
 政務の最高責任者が自ら指揮鞭を執って、国力を傾ける程の軍事行動を起こすのだ。失敗でもしようものなら、国中に怨嗟と非難が囂々こだまし、丞相たる諸葛孔明は失脚、せっかく成立した蜀漢王朝は空中分解せざるをえまい。
 尋常の人間なら想像するだけでも膝が震えるような立場である。失敗したとき代わって責任をとってくれる者もいない。
(思えば、先帝陛下も生涯この重責を一身に背負い続け給うたのだ。それでいて、常に笑顔を絶やさず磊落であそばした)
 いまさらながら劉備の人柄の雄偉さが身にしみた孔明である。ちょっと、真似できない。
 真似できないが、逆に孔明の方でも、劉備では真似できない手段で内国の人心を鷲掴みに掌握し、むしろその手段が万世あとにも孔明の名を遺さしめる事になった。
 ――出師の表
 と題される孔明直筆の上表文章は、孔明が成都を発つ二十日前に完成し、即日のうちに公開されている。
「臣亮言――」
 という三文字からはじまる長文である。
 出撃に際しての決意表明というよりは、成都へ残してゆく青年皇帝にたいする訓戒めいた内容で、日常の規範から政務の心得、さらに用いるべき将帥や重臣までいちいち指名するという懇切さであった。文調は、全体をとおして身を裂くような悲嘆に満ちているが、その奥にシンとした一すじの勁い何かが横たわっている。
(……これは、まぎれもなく丞相の御遺言だ)
 みな瞬時にそれを理解した。成都宮の文武百官はみな一礼して襟を正し、黙読した。読み進むうち、みな知らず知らず呟くように文面を声に上せはじめ、その声はやがて泪気まじりの大声になった。
(知らずや、丞相の御苦衷――)
 諸官諸将とも、魂の震えるような感動に突き上げられ、日頃沈毅な者ほど不覚にも嗚咽を抑えきれなかった。各省の官吏たちは仕事の手を止め、めいめい「出師表」を書写し、これを繰り返し繰り返し、諳んじるほどに読み返した。
 本来は多分に冒険的軍事行動であるはずの北伐作戦が、妙に悲壮で厳粛な趣をもつ聖戦となったのは、この孔明の上表文書に拠るところがきわめて大きい。
 
 三月中旬、先行した孔明以下五百騎の部隊は、剣門閣をくぐり、桟道を渡り、漢中盆地に到着した。ただこれだけの行程で早くも四騎の精兵が脱落しているのだから、この隴蜀の地で大部隊を運用する難しさは言語に絶する。
 国境軍総司令と漢中郡太守を兼任する魏延文長は、南鄭城外五十里まで孔明を迎え出た。
「遠路、遥々ご苦労にござる」
 文長は馬を降り、皮肉ぬきで挨拶した。宮廷の奥深くに納まっているべき大丞相が、わざわざ北端の国境要塞まで出向いているのだ。去年は自ら南の果てまで行き、今年は自ら北の果てまで来る――どうもこの諸葛孔明という男は、文長が想像する丞相という職種とは懸け離れた存在らしい。
「いえ、将軍こそ出迎えご苦労」
 孔明は鷹揚に答礼し、駒を文長と並べるかたちで南鄭に入城した。
 劉備の漢中王即位式典以来、孔明はこの地に足を踏み入れた事がない。
(これがあの道教王国なのか)
 景観が、一変している。
 かつては五斗米道教の総本山であったこの城も、いまや蜀漢王朝軍主力の駐留基地として無骨きわまりない様相を呈していた。城下の市街にまであふれる武装兵は、時刻天候にかかわらず歩哨あるいは立哨し、鋼鉄の規範に貼り付けられているかの如く機能している。
「治安は完全に守られております」
 文長は大街(都大路)を通過するとき、特に誇る容子もなく云った。
「お見事」
 孔明が呟いたのは、その治安のよさではなく、むしろ市街の活気に対してである。この臨戦下にあっても、南鄭市街には商人が続々おとずれ、物流も盛んな容子であった。
(経済統制を布いていないのか)
 更に驚いた事に、道服を着た一団が、彼らの教会らしい建物に出入りしている。
「将軍、あれらは米賊の残党か」
「抑えて鎮まる連中ではありませんからな。武器の携帯、他国者との連絡などを禁じる以外には、特に制肘を加えておりませぬ」
 意外にもこの野戦攻城の達人は、行政官としても柔剛自在な施政ができるらしい。
「もちろん防諜の都合上、商人どもにしても米賊どもにしても、不審とみればすぐさま逮捕拘束できるよう、監視はつけてあります。もっとも、噂の類を封じる事はできませんが」
 そのかわりこの市にゆけば、三国はおろか西域の噂まで仕入れる事が可能だという。
 ――これほどの情報媒体を掌握している文長が、内国の事情には致命的なまでに疎く、その事が後々彼の孤立を招く事になるのだから皮肉なものである。
 
 孔明の入城から二十日遅れで、今度は蜀漢王朝の本隊が続々、漢中へ到着しだした。
 この移動軍団の編成は、前軍二万は外様筆頭格の袁?、高翔の二将が率い、中軍四万は帝門の外戚である呉懿、呉班の両将軍が統率、後軍二万は例の茶坊主将軍劉?が指揮し、さらに後続の輜重部隊は楊儀が奉行している。
 これほどの軍勢、将星が一堂に会するなど蜀漢王朝の設立以来はじめてであった。
 全部隊の士気は極めて高い。将兵はそろって丞相諸葛亮の「出師の表」を高吟しつつ進軍し、ある意味、宗教団体の行進ような雰囲気さえある。
 この八万の大軍団は当然南鄭城に収容しきれず、城外に延々数百里にわたって陣営を連ね、夜にはその篝火が暗天をあかあかと照らしつけた。
「これは、必ず勝てる」
 南鄭城の望楼に立ち、文長は必勝の確信を得た。
 これほどの大軍を自由に操る事が出来れば、たとえ敵将が魏祖の曹操であったとしても、自分は一歩たりと譲らぬであろう。
(問題は、おれにどの程度の専断が許されるかだが)
 文長は、実にその点が気になっている。彼はこのとき、生粋の文官である孔明が自ら前線で指揮を執るつもりでいるとは、夢にも思っていなかった。しごく常識的な思考の結果、孔明とその幕僚たちは漢中で諸軍を督戦し、形式的な実戦責任者は国叔の呉懿が当てられ、実質上の指揮官は、十年ものあいだ国境を預かり、いまや軍神・関羽と並び称される自分が任じられるものと考えていた。
 だから、孔明が自ら前線へ出ると云い出したとき、文長は最初、督戦のため大本営を前線へ移すのだと思った。ところが、
「兵の指図(采配)は、余が行うつもりである」
 と孔明が信じられないような事を断言したので、思わず目を剥きそうになった。
「御正気か」
 と、文長は無礼きわまりない文句を思わず滑らせ、すぐに云い直した。
「丞相は漢家の至宝でござる。前線となればいつ矢の的になるかは知れず、危険が大きすぎます。まず、御自愛を」
 孔明は、悠然と微笑んでかぶりを振った。
「いや、余が采を揮う。将軍には、よろしく余を補佐して欲しい」

魏延の北伐【第二章】 南征始末

              

               一
 
「――この度の不祥事、臣らの不明によるもの。誠に慚愧に堪えませぬ」
 丞相諸葛亮と中都護李厳はそろって参内し、皇帝へ謝罪した。
 登極したばかりの皇帝劉禅は、字を公嗣という。数えで十七という青年だが、まるまると肥え、いかにも温和で従順そうな面相をしている。
(お父君とは、だいぶ違う)
 孔明も李厳も、主君の為人や能力について、知らず先帝と比較している。
(……昭烈帝陛下と較べ奉るのは、いかにもお気の毒であるが)
 だいぶ、人品がひくい。
 当たり前の話で、建国帝より人品の高い人物など、少なくとも蜀漢に居るはずがない。
 だが臣下が二代目に求める映像は、やはり先代と同等かあるいはそれ以上の颯爽たる姿である。その点では、今上皇帝禅は完全無欠の落第生であった。激動の風雲に生を受けた身にしては、その幸福そうな風貌は、戦乱の辛苦を知ら無すぎるようにみえた。
「丞相よ」
 劉禅は、甲高い声で諮問した。別に気分を害しているわけではなく、これが地声である。
「南中とは、遠い所なのかの」
 との的外れな質問を、孔明は無言で、恭しく頭をさげることで黙殺した。近侍の廷臣が何やら皇帝に耳打ちしている。
 
 当時南中と称された地帯は、益州郡(後の建寧雲南)や永昌郡、越閾郡などという途方もない僻地である。今日では鬱蒼たる密林に覆われた亜熱帯という印象が強いが、実際のところ南中のほとんどは平均標高が一〇〇〇メートルを越す高原地帯であった。
 高山民ともいうべき南中人たちは概して精強猛悍であり、まず漢人の感覚で御することは出来ない。新興勢力である蜀漢王朝も、南中には形だけ行政官を送り込み、その実は土豪や蛮人の渠帥(酋長)の支配に任せるという方針をとっていた。南中から出土する資源は、物資不足に悩まされる蜀漢にとって貴重であり、彼らとの交易を途絶えさせるわけにはいかなかったのである。
 今回謀叛をおこしたのは、南中でも最深部にちかい益州郡の豪族である。蜀漢王朝が派遣していた行政官らは、どうやら捕殺されたようで、首は呉へ送られたという。
 
「このたび益州の蛮徒が朕に叛したという。丞相は彼らを誅するのに、如何なる術を以てあたるつもしか」
 孔明は李厳を顧みた。
「こと兵事については、昭烈皇帝陛下より、この中都護に一任するよう仰せつかっております。陛下、なにとぞ中都護に御下問くださいますよう」
「そ、そうか。李厳、直答をゆるすぞ」 
「恐れ多き事にございます、陛下」
 李厳は一礼すると、自らの腹中を述べはじめた。
 ――ただでさえ将兵、物資が不足しているおりに、気候の厳しい蛮地へ鎮圧の軍を送り込むなど不可能にちかい。ましてこの乱が東呉の示唆によるものであるならば、南中へ戦力を振り向けたところを東から急襲されかねない。
「つまり軍を動かすには時期尚早ということであります。また昭烈皇帝陛下の喪中である間は、なるべく兵事を避けるべきでありましょう」
 これは孔明と前もって打ち合わせしていた内容である。
「ならば、南中は彼らの為すがままにせよという事か」
「わずか二、三年の事でございます、陛下」
「そうか。なっとくした」
 皇帝禅は、人の好さそうな微笑をうかべて頷いた。賢愚の程はともかく、真っ直ぐに育てられた事は確かなようであった。
「ではその間、南中への関所はすべて封鎖し、後は放っておくのじゃな」
「御意。なれどその間に兵馬を鍛え、補給を整え、なにより国力を高めておかねばなりませぬ。また呉国に対し、彼らが南中へ直接兵を入れるような事がないよう牽制するため、国境線上に軍団を集結させておく必要もあります」
「あいや、中都護。その点は待たれよ」
 孔明はあわてて李厳を遮った。彼には彼の方策があった。
「呉軍を牽制するのはよいとしても、彼らを徒に刺激するのは得策ではない」
「丞相の意外な仰せではある。呉は先帝陛下へ弓引いた不倶戴天の仇敵におざる。彼らに対し何の遠慮が要りましょうか」
 李厳の云い分はもっともで、皇帝も頷きを与え、孔明に向き直った。
「中都護の申す通りである。朕は、国力さえ許さば呉へ軍を送りたいほどなのだ」
「その儀は」
 ――なりませぬ。孔明は、李厳が驚くほどの強い調子で断言した。
「天下は三分されたとはいえ、魏の国力は我々の七倍。呉は三倍」
 つまり蜀漢と呉王国をあわせて、どうにか魏帝国の過半にあたるわけである。弱者同士が手を結ぶことで、辛うじて拮抗することが能う状況であった。
「呉王との修好なくして、如何に魏の鋭鋒を防ぎえましょう。それは呉王とて同じであるはず」
「しかしこの度の策謀、呉王の奸智によることは明白だというではないか。市井の者とて、一方的に喧嘩を仕掛けられては、黙ってはおれまい」
 皇帝は、案外さかしい。孔明は心苦しかった。
(……状況さえ許せば、私とて呉王に仕返したいのです)
 皇帝は、孔明の意中を斟酌し(丞相とて辛かろう。わかった、国事に私情は挟まぬ)と一英断をくだすべきであった。亡き劉備ならば、間違いなくそうするはずであった。
 孔明は敢えて面を冒し、その旨をいちいち云わねばならなかった。
「――左様か」
 皇帝は、少し気分を害したらしい。遠回しに阿呆扱いされたのだから無理もないが、この皇帝は、意外にも自分に対する負の感情には人並に敏感であった。
 李厳は、間に踏み込む事の危険を覚り、一歩うしろへ退がっている。
「あいわかった。丞相がそう決めたのならば、朕は異を差し挟まぬ」
 ふてくされたように、皇帝は断をくだした。が、すぐに人の円い表情に戻ると、
「して、呉王のもとへ修好の使者を出すというなら、その人選はどうするのか」
 と尋ねてきた。眉間から、一瞬前までの険が消えている。怒りや不満を持続できる性質ではないのだ。専制君主としてのあらゆる欠点を持ち合わせているこの皇帝にも、ただ一つの美点があった。根が、どうしようもなく善良なのである。
 孔明はほっとした。
「使者はすでに内定しております」
「ゆゆしき国使をつとめねばならぬ身じゃ。丞相に人の誤りはなかろうが、いったい何者であろうか」
「陛下のお許しを得て申し上げます。新野の人で、尚書の鄧芝でございます」
 皇帝は、無論その名を知らなかった。李厳は、尚書令であった頃、そういう部下がいたことは覚えている。
 尚書の鄧芝は字を伯苗といい、後漢王朝建国の元勲「雲台二八将」の筆頭、鄧禹の末裔であるという。そのくせ劉璋の頃はうだつも上がらず小禄を食んでいたのだが、劉備は彼をいきなり大抜擢し、地方行政官を歴任させ、さらには中央に招いて尚書の大任を授けた。この種の人材登用は劉備の常法で、たとえば漢中都督の魏延文長も、一介の足軽であったのを劉備が掘り起こして自ら使い育てた男である。
 ちなみに、この鄧芝は若い頃いわくつきの予言をうけている。
「齢七十にして官は大将軍、爵は封侯たるべし」
 というものだが、彼は予言通り文武両面にのびのび才幹を顕し、晩年には車騎将軍という四元帥の一人にまで昇り詰め、陽武亭侯に封じられている。
「――鄧芝ならば、四方に使いして君名を辱めませぬ」
 孔明の太鼓判があれば、皇帝に異があるはずもない。
「よろしい。丞相のよろしきようにせよ」
 
 蜀使鄧芝と呉王孫権の会見は、その年の十一月に行われ、大成功におわった。
 半敵国の宮殿へ単身のりこんだ鄧芝は、魏の目を気にして会おうとしない呉王を、奇舌を用いて会見の席へ引きずり出し、鉄槌でもって杭を打ち込むように舌をふるい、ほとんど脅迫まがいの文句を呉王の胸へ刺しとおした。孫権は、半ば閉口して我が不明を謝し、即座に魏との断交を表明した。
 そればかりではなく孫権は、輔義中郎将の張温という人物を正式に答礼使として蜀へ派遣する事まで約束したのである。
 
 ――一方で、南中の混乱は手のつけようがない程に発展している。
 益州郡の雍闔に呼応して、  郡太守の朱褒が自ら挙兵を宣言し、これと合流した。さらに叛火は飛び火し、越閾郡の夷蛮王高定(一説に高定元とつくる)も西南夷(南蛮)兵を集い、郡城を占拠してしまった。
「早く何とかしてくれ」
 という南方からの悲鳴を、孔明は無視した。
(あと二年は、好きに暴れさせてやる)
 いまは南への関所をすべて閉鎖し、彼らが跋扈するにまかせる。その間にも、呉王孫権は、実益のすくない南中工作を切り上げるであろう。つまり南中の豪族連中は、孫権に見捨てられるのである。 
 かくして四川盆地に夏が訪れ、冬が過ぎ、再び夏が過ぎ、冬が去った。
 孔明が南征軍の編成を終えたのは、予定通り二年後の建興三年(二二五年)春のことであった。その間、塩鉄の官専売を実施して財源を確保するとともに、領内の交通網を整備して流通の向上をはかり、徹底して殖産興業を押し進めた。孔明は政治家としては重農主義者であったが、商工業の重要性も知悉していた。
 
               二
 
「期、熟したり」
 孔明の号令に応じた南征軍は、叛乱鎮圧軍とは思えぬ三万余という大部隊であった。
 ――進軍は三路。
 先行した闡降都督(南中総督)の李恢を中軍とし、門下督馬忠は左翼軍、右翼軍は物好きなことに丞相諸葛亮が自ら指揮を執る。すなわち李恢軍は直進して一路昆明を衝き、孔明軍は西へ迂回して越閾の高定を討ち、馬忠軍は東へ繞回し闖關の朱褒を攻めつぶし、然る後に三軍は南中最深部の益州郡にて合流する。
 かつて劉璋より蜀を詐取した時と同じく、三方向からの分進合撃作戦であった。孔明にとって必勝のカタチであるといってよい。
「万が一にも負けは有り得ぬ」
 孔明は自信がある。
 出兵が事務化すると、あとは作戦通りに兵団が運動を開始する。もっとも今回は孔明も現場指令官のひとりであるから、旗本どもに護られつつ戦地へ赴かねばならない。
 赴かねばならないが、彼が征旅のあいだ熟考している事は、もはや区々たる用兵などではなく、戦捷後の宣撫工作の手法についてであった。
 実は、骨子は既に固まっている。
(――その心を攻める) 
 大方針である。つまり城攻めを下策とし、敵の心を攻めるを上策とする。当然、敵の捕虜を斬り棄てるなど論外であり、できれば敵首領を生け捕りにして、蜀漢王朝の威徳に服せしめるべきであろう。
(幼常も、好い事を云う)
 孔明は嬉しそうにつぶやいた。
 幼常とは、孔明にとって間接的な義弟ともいうべき人物の字で、姓を馬、諱を謖という。このとき三五歳。後世、とにかく泣いて斬られたという事のみが有名になった男であるが、この時点では、孔明にとり何者にも替え難い軍師であった。
 孔明は今回の出陣の直前、後を追い慕ってきた馬謖に、自分の腹案をかくして意見を求めた事がある。
 馬謖は、水の流るる如く、まるで淀みのない答案を孔明に返した。おそらく、孔明に訊ねられる課題を前もって推測し、答を用意してきたのであろう。
 ――南中、其の険遠を恃み、王化に服せざること久し。今日武威を以て之を破ると雖も、明日また叛すのみ。……願わくば公、其の心を服されよ。
「ああ、汝は英明だ」
 孔明は手を打って、馬謖の並外れた明敏をよろこんだ。
 
 南征軍の進撃はおそろしく素早く、わずか二月あまりで道程の半ばを突破していた。
 中軍の李恢隊は、先行し過ぎたぶん敵の重囲に陥ったが、知略能く敵を欺き、ついにはこれを打ち破り益州郡へなだれ込んだ。
 左軍の馬忠隊は、故城且蘭の北東十里あまりの抗水河畔において、朱褒率いる叛乱軍の大部隊と交戦し、これを苦もなく蹴散らして、闖關郡城へ入った。
 右軍の諸葛亮隊もまた、地滑りのような勢いで越閾郡を急襲し、蛮王高定の野戦陣を跡形もなく踏みつぶした。後からわかった事だが、このとき高定は私兵を引き連れて越閾を離れ、さらに南方の昆明にいた。なんと、今回の叛乱の盟主である雍闓を攻め殺していたのである。
「さっそく内紛か」
 報を受けて孔明は冷笑した。高定の妻子は捕らえてある。彼に帰参を呼び掛けて、目通りを許し、南中の支配権を与えるつもりであった。
「南中の支配は、彼らの自治に委ねる」
 というのが作戦の骨子である。高定は雍闔の首を土産に投降しておれば、なんの苦労もなく南蛮王を名乗る身になっていたであろう。
 ところが高定は、用心した。余計な入れ知恵をした者もいたのであろうが、南方で再び兵を挙げ、孔明軍へ襲いかかってきた。
「さて蛮人とは御し難いもの。一日の短慮が一生の不覚を招くか」
 孔明は仮借をしなかった。ただ一度の野戦でこれを破り、高定を斬った。
 
 ここに孟獲という蛮将が登場する。
 人物、といってよい。武勇あり知略に優れ、南中諸部族のあいだに絶大な人望があった。
 雲南周辺に伝わる伝説によると、孟獲はウ族のゾトアオと呼ばれ、諸部族の渠帥と、南中を管理する漢人役人との連絡役を務めていたらしい。
 このゾトアオもとい孟獲が、叛乱郡盟主の雍闔に合力を要請され、呼応したのである。彼は、南中の諸部族の渠帥たちを説得し、雍闔の味方につけるという外交任務を任された。
「蜀漢王朝は強大すぎる。事は破れるに決まっておる」
 渠帥たちは、口を揃えて反対した。
「雍大人も、じきに諸葛丞相やらいう漢将に討たれてしまうぞ」
 怖じ気づいた渠帥たちを、孟獲は根気よく説得した。
 ついには、詐略を用いた。
「漢人たちは、烏狗(黒犬)三百頭、黒蛇の脳(一説には瑪瑙)三斗、高さ三丈を越す断木(ふつう二丈以上に成長しない)を三千枚、それぞれ貢ぐよう云ってきている」
 そして諸渠帥の貌をじろりと睨みつけ、
「各々がたは、これらを綺麗に揃える事が出来るか」
「できるはずがない。諸葛丞相とやらは、そのような無理を我々に押しつけるのか」
 数百ある諸部族の王は、みな憤慨して立ち上がった。
「わかった。勇猛なるウ族のゾトアオ、貴様に任せよう。我らに下知せよ」
 声を揃えて、彼らは雍闔への合力を約束した。
 ところが、孟獲がせっかく超一流の縦横家ぶりを発揮して南中諸部族連合をまとめあげたというのに、わずか二年足らずで、盟主たる雍闓が、同志の高定の手の者によって殺害されたのである。
 
 闖關の朱褒は破れ、盟主の雍闓は高定に殺され、その高定も諸葛孔明に斬られた。
 南中の大将は、孟獲だけになってしまった。
(降伏すべきだろうか)
 と、迷いもしたが、不幸にも彼は孔明の穏健統治策をしらない。孟獲は、過去に例を求めた。これまで中原の王朝に背き、降って後、生命を全うした者など存在しない。
(やはり最後まで戦い、もし身がひとつになったところで、南の山を越え、交趾の密林に逃げ込めばいくらでも再起のしようがある)
 したたかな計算をたて、孟獲はまず主無き本拠の益州郡を掌握しようとした。
 ところが、道中の険路はすべて李恢麾下の部隊に扼されている。孟獲は動くに動けず、やむなくその場で南蛮諸部族に号令をかけ、先ず一兵団を編成しようとした。
 
 南征軍団内部に、焦燥の気配が拡がっている。
 慣れぬ南中の風土に加え、この季節である。遠く巴蜀の地より征旅一千余里、そろそろ将兵たちのあいだで事態の早期解決を求める風が強まってきている。
「いましばらく待て」
 孔明は静かに彼らを抑えた。
「今回の南征は、ただ蛮人どもを馘にして快哉をあげるというものではない。我々の務は北にこそあるのだ。南征は、その下準備である」
 孔明が馬謖以外の者に「北伐」の可能性を示したのは、この時が初めてである。 
「而るに南中は叛乱を好む。余は、彼らをして其の愚を知らしめ、其の詐を窮めるつもりできたのだ」
 単なる武力制圧を目的とした軍事行動ならば、李恢や馬忠のみで充分務まるであろう。しかし南征の真なる目的は、むしろ戦後処理にある。でなければ、事実上の国家元首である孔明が、わざわざ一千数百里という征旅を指揮する必要はない。
「南人どもをわが漢朝の威徳に服せしめ、二度と背く事なからしめる」
 という政治的解決を、今回の武力叛乱の終末には求めるつもりであった。
 孔明はその目的達成のため、しばらく南人を泳がせているのである。彼の情報では、孟獲なる男が諸部族で人気第一であるという。
「その孟獲とやらを使おう」
 孔明は宣言した。諸将は、首をひねった。
「孟獲は南人ながらなかなかの大器者といいます。彼を自由にしておっては、益州郡一帯を統合しかねませんぞ」
「ぜひとも統合して欲しいものだ」
 孔明はすましている。いまひとつ孔明の戦略指針が呑み込めない諸将は、顔を見合わせて困惑の表情を交換し合った。
「益州郡とはいわず、南中一帯に号令するだけの器量を期待しているのだが……」
 手に持つ羽扇で、丁、と手をうった。
「一度顔を見てみたいものだ。誰でもよろしい、彼を生虜にして余の前に連れて参れ」
 
               三 
 
 孟獲は、むろん自分の身柄を敵総帥に熱望されている事など知らず、続々参集する諸部族の戦士たちを編成する作業に逐われていた。
 数だけならば、どうにか蜀軍を悩まし得る程の数字が揃っている。闥池の本営に参集した戦士たちが一万二千。孟獲の本軍に呼応し、蜀軍の背後で蠢動する事を約束した部族の戦士が一万余。
 彼ら戦士ひとりの戦闘力は、蜀軍の兵士ひとりのそれを遥かに凌駕するであろう。
(しかし、烏合の衆だ)
 孟獲が早くも後悔したように、この勇猛果敢な非漢人兵たちは、万単位の軍組織として、到底機能し得ない人種のようであった。困った事に、日頃縄張について争っている部族どうしが顔を突き合わせたりすると、たちまち喧嘩が始まるのである。孟獲が駆けつけると、彼らはバツが悪そうに鎮静するのだが、放っておくと、またどこかで火種がくすぶり、発火した。
(諸葛亮とやらが羨ましい)
 孟獲は素直に思った。蜀漢の軍は将兵一同、総帥の采配に一部の狂いもなく従い、総帥が死ねと云えば喜んで死ぬであろう。
 ……孟獲の統率者としての力量に不足はない。ただ、西南夷将兵どもの被統率者としての力量に不足が有りすぎた。
 翌月から開始された闥池近辺の小競り合いが、やがて本隊同士の大規模衝突に発展し、二度の野戦で孟獲軍は木っ端みじんに砕け散った。
「退くなや、死ね」
 総帥たる孟獲は人間離れした武勇で、ただひとり戦線を支えていたが、やがて殺到した漢兵らに寄って集って押さえつけられ、とうとう生け捕られてしまった。
 
 孔明は興味深そうに、曳き出されてきた蛮人の大渠帥の姿を眺めた。
 衣服も所々破れ、髻が解けて髪を振り乱しているが、よくよく眺めると、骨柄雄偉であり、面だましいもまた尋常ではない。
 孟獲はふてくされたように横を向き、目を閉じている。孔明がしげしげと鑑賞しているのを、気にも止めない。
「孟渠帥、如何に」
「何がだ」
 孟獲ははじめて口をきいた。
「いや、いまの心情を訊いている」
「心情か」
 孟獲は、唇をめくりあげるようにして嗤った。
 ……敗軍の将をこうして曝しものにした挙げ句、いまの心情や如何にと屈辱を与え、自らは優越感に浸ろうとしているものと見た。諸葛丞相は仁者であると聞いたが、勇者を遇する術を知る、聞きしに勝る仁らしい。いま我の心情は、卿ら漢人に対する尊敬の念でいっぱいである。……
 蛮王の吐いて棄てるような口調は、一言一言が、つぶてのように孔明を打った。
(なるほど。南蛮にも人はいる)
 孔明は思ったが、表情は微塵も動かさず、ただ羽扇で空気を二、三度撫でた。
 本営に列する他の諸将は、孟獲の明かな侮辱に腹を立てたらしく、斬って掛かりそうな表情をしている。
 孔明は、つい――と立ち上がった。後世、水ノ流ルル如クと称される、あの所作である。
「孟渠帥、話そう」
 一言だけいうと、陣幕を払って外へ出た。
 唖然とする諸将を後目に、孟獲は兵に縄をひかれて、それへついていった。
 
 孔明は、孟獲を連れまわして、陣営を案内してやっていた。
 ここは騎都尉某の陣、ここは校尉某の備え、といちいち羽扇で指し示して、布陣まで明らかにしている。その口調は、旅人に名勝を自慢する現地人と変わりがなかった。
 孟獲は、さすがにぼうぜんとして、無言でついてまわっている。
 途中、物語などもした。蜀漢とはどんな国か、劉備とはどんな人だったか、いま蜀で一人を挙げるなら誰か、などと、孔明は世間話のように語り続けた。
 たっぷり一刻半かけて案内を終えると、孔明はふたたび孟獲を連れて本陣へ戻ってきた。 見ると、諸将はまだ立ち尽くしたまま孔明たちを待っていたらしい。
(諸葛孔明とは、さまで諸将を督しているのか)
 さすがに孟獲も舌をまいた。
「さて」
 孔明は、兵に目配せした。すると匕首をもった兵が、いきなり孟獲の躰を引き寄せた。さすがに一瞬ひやりとしたが、流血は起こらず、かわりに彼の両腕を束縛していた荒縄が床へおちた。
「改めて訊こうか」
 孔明は孟獲を見据えると、穏やかにたずねた。
「我が軍、如何」
 これを訊くために、孔明はわざわざ自分を案内したのであろうか。孟獲は目を剥いたが、やがて本調子を取り戻し、ふてぶてしく応えた。
「恨むらくは、貴陣の虚実を相知らず、故に破れたのみ」
「それで」
「いま賜を蒙りて貴陣を観看するに、もし次戦もかくの如き備えならば、即ち我勝ち易し」
 失笑が沸き起こった。孟獲の云っている事は無茶であった。何処の世に、
(次に戦うときにこの備えのままであれば、おれが必ず勝つ)
 と堂々宣言する捕虜がいようか。
 だが孔明は、ちょっと苦笑を浮かべると、
「孟渠帥、次は定めて勝つというのか」
 と問い返した。
 孟獲は力強く頷いた。負け惜しみというには、あまりに底のぬけた態度である。
「よろしい」
 孔明は明朗に笑って、白羽扇を打った。
「渠帥、貴公を縦して差し上げる。再び兵をそろえ、余の備えに挑戦し給え」
 一同、度肝を抜かれて、この四五歳の若き丞相をみつめた。孟獲も例外ではない。
「誰ぞ、孟渠帥に馬を用意せんか。道中の水、糧食もまいらすべし」
 謹直であるはずの孔明が、さも面白そうに云っている。これが余人であれば、おそらく誰もが冗談ととるであろう。だが孔明に限ってそれはないと、皆しっている。
 慌ただしく云われた品々が用意され、孟獲は、他の捕虜たちと一緒に縦たれた。
(どういうことだ?)
 孟獲には、孔明の意図が、この時わからない。
 
 いわゆる七禽七縦――七たび禽え、七たび縦つ――の、これが第一度目であった。
 孟獲は、南中諸部族の精鋭をまとめては蜀軍へ挑みかかり、その度に生け捕られ、また陣を案内されて放たれ、それが実に七度にも及んだという。
 事が八度めになろうとしたとき、さすがにこの蛮王も心底思い知ったらしく、うなだれて孔明の元を去ろうともしない。
「孟渠帥、八度目の復讐戦は如何に」
 と孔明が笑って訊ねると、とうとう堰を切ったように泣き出してしまった。
「公は天威なり。我ら辺民、二度と悪を為さず」
 孟獲は涙ながら宣言し、雍闓が孫権の意を受けて乱を起こして以来、まる二年ものあいだ南中を席巻した武力叛乱は、ここに終結した。……
 と、いうのだが。さすがにこの話はあまりに物語的すぎるため、本当に史実に基づいているのかどうか疑問も多い。が、七禽七縦の挿話は正史に大真面目に記載されているし、雲南のあたりでは、
「英雄ゾトアオは、北から来寇した漢将諸葛孔明と智恵くらべし、七度捕らえて、七度これを放し、ついには義兄弟の契りを結び、二度と南蛮の地を犯さぬよう誓約させた」
 という、反伝説まで残されている。もしもこちらが史実だとしたら、想像するだけでも面白い光景である。
 
 七禽七縦の正否はともかくとして、孔明麾下の蜀漢軍は秋七月に南中のほぼ全域を制圧した。軍事行動はこれで終了し、あとは戦後処理を残すのみである。
「軍団は、一兵たりとて留めず」
 と、諸葛亮は宣言してしまっている。撤退後の南中は、定期的に鉄、錫、金銀、丹漆、牛馬などの貢物を献上するという条件をのませた他は、基本的に今までと同じく間接支配にとどめ、各渠帥の地位を奪わないという方針であった。
「手緩すぎる」
 無論、諸将の中から反対がおこったが、乱後の土地に軍兵を残す危険性を、孔明は充分に承知している。第一、軍団を僻地に駐留させておくだけの余裕もない。
「民治に関しては、まあ彼らの自治機能を信用してよかろう」
 とはいうものの、孔明も無原則に南中人を信用したわけではなかった。南中四郡を六郡に編成しなおし、それぞれに李恢や馬忠といった南中系の勇将を太守にとどめ、事あれば、それぞれの部署で対処できるよう巧妙に組織している。むろん東呉に対する牽制という意味も含まれているであろう。
 同時に孔明は、大量の兵員も南中に求めている。西南夷人及び彼らと雑居している青羌人は、概して強力、驃悍で、鍛え上げればどれほどの精鋭になるか知れない。
「彼らのうち最も強い者どもを蜀へ住まわせ、弱き者どもを南中諸豪の部曲(家兵)に編成させよ。また、事々に異を挟む者どもには金帛をくらわせ、利で従わせよ」
 強制移住令である。青羌や南蛮諸族の猛者たち数万戸が、それぞれ蜀中に土地を与えられ、正規軍とは別に独自の軍団として造り上げられた。
 彼らを号して「飛軍」といい、無当を称されるほどに精強であった。故に、彼らの指揮官は「無当監」と呼ばれ、蜀中最強の武人が代々これに選ばれた。
 さらに、孔明は南中に人材も求めた。
「汝も来よ」 
 と孟獲を引っ張り出したのを始め、朱提の孟琰、建寧の爨習など、並外れて才徳に優れる俊傑どもを、孔明は成都へ連れ帰るつもりであった。――ちなみにこの後、孟琰は官は輔漢将軍にのぼり、爨習は偏将軍・領軍(近衛指令)、孟獲は御史中丞(最高監察官)にまでのぼった。
 
 ……かくして、南中の仕置きは一段落し、蜀軍は凱旋を開始する。
 乱が起こって二年。孔明が出兵して四ヶ月目のことであった。
 単なる武力制圧に終わらず、蜀漢王朝の半永久的な統治を彼らに認めさせたあたり、やはり諸葛孔明の才幹と威徳は尋常ではなかろう。
 物語ならばこれでめでたしめでたしという事になるのだろうが、残念ながら孔明のこれほどの腐心にも関わらず、南中は以後もしばしば部族単位で謀叛騒動を起こし、その度に李恢、張翼、馬忠、閻宇、霍弋という代々の南中総督のひげを焦がしている。
 いずれにせよ、それは後の話。
 孔明は、建寧郡太守李恢に残務処理を委ね、年内の十二月に成都へ帰還した。